昔々、深い森の中にある大きなお屋敷に、一人の美しい青年が住んでいました。
青年は沢山の金銀財宝を持ち、各地に別荘を持つほどの大金持ちでした。
ですが彼はいつも無表情で、人形のようになにを考えているか分からなかったので、人々は青年を不気味がり、近付こうとする者はいませんでした。
しかも青年には、なんとも奇妙で恐ろしい噂話まであったのです。
それは今まで何人もの奥さんをもらったのに、みんな行方不明になってしまったらしい、というものでした。
あるとき青年は近くの町に住む可愛らしい少年を、新しい妻に迎えたいと思いました。
そこで少年を屋敷に呼び、美味しい料理でもてなしました。別荘へも連れていき、そこで何日も楽しい時間を過ごしました。
青年は柔らかな笑顔で優しく少年に接しました。少年はいつしか青年に惹かれ、結婚してもいいと思うようになりました。
噂のことは気になりましたが、少年は生まれたときから家族もなく、一人で寂しく暮らしていたので、こんなに優しい人とならきっと毎日幸せだろう思ったのです。
青年はとても喜んで、すぐに少年と結婚式をあげました。
*
結婚式から少し経ったころ、青年は少年に言いました。
「明日から少し用事があって、しばらく旅に出ることになったんだ。だからお前に、この屋敷の鍵を預けておくよ」
少年はこんな広いお屋敷で、一人ぼっちで留守番をすることに不安を覚えました。
ここへ来てから、少年は青年と片時も離れることがなかったので、一緒にいられないのは嫌だなと思ったのです。彼がどのくらいで戻ってくるのかも分かりません。
そんな気持ちを察した青年は、少年のふわふわとした髪を撫でながら微笑みました。
「大丈夫。何日かしたらすぐに戻るよ。だからいい子で待っていて」
「うん……わかった」
少年は頷くと、青年からジャラジャラと沢山の鍵がついた束を受け取りました。
「俺がいない間、この鍵でどの部屋に入って遊んでも構わないよ。寂しかったら、誰か友達を呼んでもいい。ただし──」
青年はふっと無表情になると、暗く沈んだ瞳をしながら言いました。
「この小さな鍵だけは、絶対に使わないで」
「これは、どこの部屋の鍵?」
「廊下のいちばん奥にある部屋だよ」
少年は小首を傾げます。
「そこにはなにがあるの?」
「楽園」
「らくえん……?」
「いい? その部屋にだけは、なにがあっても入らないこと。約束できる?」
少年が戸惑いながらもこくりと頷くと、青年は優しく微笑みました。
*
翌日の朝、青年は出かけていきました。
少年は友達の美羽とエメリーを呼んで、絵を描いたりしながら楽しく過ごしましたが、二人が帰ってしまうとすぐにまた退屈になってしまいました。
やはり一人ぼっちでいるには、このお屋敷は広すぎます。少年は青年がいない寂しさを紛らわすため、預かった鍵を使ってひとつひとつ部屋の中を探検してみることにしました。
美しい宝石が並ぶ部屋、有名な画家の絵が飾ってある部屋、きらびやかな衣装部屋など、見たこともない豪華な品がそれぞれの部屋には沢山ありました。
それらの品々は少年を楽しませましたが、やがて全ての部屋を巡ってしまうと、また退屈になってしまいました。
すると、だんだんあの入ってはいけないと言われている部屋のことが気になって、仕方がなくなってきます。
(楽園ってなんだろう。きっとすごいものがあるんだろうな)
ですが、青年はあの部屋に決して入るなと言いました。約束を破ることはできません。
だけどダメだと思えば思うほど、気になって夜も眠れませんでした。
青年はいつまで経っても帰ってきません。少年は、いよいよ我慢ができなくなりました。
(少しくらいなら……いいかな……?)
ほんの少しだけ中を覗いたら、すぐに元通り鍵をかければ大丈夫。自分にそう言い聞かせ、少年は廊下の奥の禁じられた部屋の前に立ち、小さな鍵を使いました。
カチリという音がして、鍵が開きました。少年は胸をワクワクとさせながら扉を開けて、そっと足を踏み入れます。
「うっ、なにここ……変な臭いがする……」
部屋の中は真っ暗で、なにも見えません。辺りを漂う生臭さに、少年は思わず鼻を押さえながらもまた一步踏みだしました。
そのとき、ボチャンという水たまりを踏んだような濡れた音がしました。
「!」
少年がハッと息をのむと、窓の外で雷が鳴り響きました。酷い雨が降り出して、窓ガラスを激しく叩きはじめます。
少年は目を見開き、思わず鍵を床に落としてしまいました。
絶え間なく鳴り響く雷に、部屋の中が明るく照らされます。少年は目の前に広がる光景のあまりのおぞましさに、ガタガタと身体を震わせました。
そこに楽園なんてものは存在していませんでした。
あるのは床や壁一面に飛び散った赤黒い血と、かつて『ヒト』だったものの残骸です。
無残に転がる幾つものそれは、黒く焼け焦げたものや、いっそ原型すらとどめていないものまでありました。
そして、それらはみな一様に──。
「──ただいま」
そのとき、玄関の方から青年の声がしました。
少年は悲鳴を飲み込んで、大急ぎで鍵を拾い上げると元通り扉を閉めて、玄関ホールへ向かいました。
ホールには雨に濡れて青白い顔をした青年の姿があります。
「お、おかえり!」
数日ぶりに少年を見た青年は、嬉しそうにふわりと笑顔を浮かべました。
「ただいま。遅くなってごめん──どうかした? そんなに震えて、なにかあったの?」
「な、なにも、なにもないよ」
いつも通りにしなければと思うのに、青ざめた少年はうまく笑うことができません。声さえもひどく震えて、今にも崩折れてしまいそうでした。
青年の顔から、すぅっと笑顔が消えました。ガラス玉のような虚ろな瞳で、少年に手を差し出してきます。
「預けていた鍵を返して」
少年は肩をビクリと跳ねさせました。心臓がバクバクと激しく音を立てています。
けれど言われた通り、震える指で鍵の束を取り出し、青年に返しました。
「……入ったんだね。あの部屋に」
受け取った鍵を見下ろしながら、青年は悲しそうに言いました。
鍵にはべったりと血がこびりついていたのです。床に落としたときに、付着してしまったものでした。
少年はあまりの恐ろしさに酷く震えながら、もつれそうになる足で後退りをします。
一步、また一步と後ろへ下がるたび、青年もまた足を前に踏み出しました。
「こ、来ないで!」
「信じていたのに。どうして約束を破ったの?」
「嘘つき……! あんなの楽園なんかじゃない! あれは……地獄だよ!」
「あの部屋は楽園だよ」
「ッ!」
少年の背が、壁にぶつかりました。逃げ場を失った少年の頬に、青年の冷たい手がそっと這わされます。
「俺の大事な宝物が詰まった、楽園だ」
あんなに優しかった青年の笑顔が、今は死人のように冷たく見えます。
少年は混乱しながら、目にいっぱいの涙を浮かべて言いました。
「ねぇどうして……? あれはなに? どうしてみんな」
──おれと同じ顔をしているの……?
青年が楽園と呼ぶ、血まみれの部屋。あそこに転がっていた無数の残骸は、どれも全て少年と同じ姿形をしていました。
自分自身が無残に死に絶えている光景。それはあまりにも奇妙で、異常で、信じがたいものでした。
「これは夢? だってあんなのおかしいよ。おれはここに、ちゃんといるのに……!」
青年は少年の頬を優しく擦りながら、目を細めて言いました。
「一人目のお前は、今日みたいな雷の夜に焼け死んだ。落雷に燃える森の中で」
「なに……? なにを言っているの?」
「二人目のお前は、野犬に食われて息絶えた。俺が少し目を離した隙に」
「ねぇ、なんの話をしているの!?」
「三人目のお前は崖から落ちた。青い空に溶けるみたいに、吸い込まれていった」
「やめて……もうやめて……!」
「四人目も五人目も、六人目も七人目も、みんなみんな……お前はいつだって、俺を置いていなくなる」
青年は目を見開いたまま、瞬きひとつしませんでした。その薄い唇が、三日月のように歪んだ笑みを浮かべています。
「何度でも生まれて、何度でも死んで、お前はまた俺の目の前に現れる。なにも知らない顔をして、俺からお前を奪いに来るんだ」
頬にかかっていた手が、少年の細い首にかかりました。
「どうせお前もいなくなる……だったらいっそ、俺がこの手で奪おうか」
「ぁぐッ、ぅ……ァ! や、め……ッ」
青年の両手が、少年の首を絞めました。少年はあまりの苦しさに、ズルズルと壁を伝って床に崩れ落ちていきます。
青年は少年の首を絞めたまま、冷たい汗が滲む額にキスをしました。
「愛してる。今度は俺も一緒にいくよ──楽園に」
薄れていく意識の中で少年が最期に見たのは、壊れた青年の幸せそうな微笑みでした。
***
「……ふぁ!?」
昼下がりの喫茶楽園にて、テーブルに突っ伏して眠りこけていた操は、ビクンと身体を跳ねさせながら目を覚ました。
勢いよく起き上がり、咄嗟に辺りを見回す。誰もいない。強張っていた肩から力を抜くと、大きく息を吐き出した。
「はぁー、夢かぁ……やな夢だったな……」
初めのうちは甲洋と結婚して幸せに暮らしていたはずなのに、最後にはあんな恐ろしい結末を迎えるなんて。
「どうしてあんな夢なんか見たんだろう?」
操は無意識に首筋に触れながら首を傾げた。そこには冷えた感触が残っているような気がしたけれど、まぁいいやと思いなして「うーん」と大きく伸びをした。
「──来主」
そのとき、すぐ真横で声がした。
「うわぁ!?」
そこには甲洋が立っていた。誰もいないところに突然ワープで現れるものだから、操は驚いて椅子から落ちかけてしまう。
「ビックリした! 急に出てこないでよぉ!」
甲洋は暗く沈んだ表情で操を見下ろしている。どこか虚ろでうら悲しいその瞳に既視感を覚えて、背筋にひやりとしたものが駆け抜けた。
「ね、ねぇ? どうかしたの?」
少しビクビクしながら問えば、彼は暗い表情のまま言った。
「……引き出し、開けた?」
「えぇ?」
操がコトリと首を傾げる。
「なんのこと?」
「この鍵」
甲洋はテーブルの中央に小さな鍵をそっと置く。血がついていたらどうしようかと思ったが、それはなんの変哲もない古ぼけた鍵でしかなかった。
ホッと息をつきながら、操は甲洋を見上げる。
「甲洋の机の引き出しの鍵でしょ。うん、開けたよ」
「……前から言ってあったよね。あの引き出しは触るなって」
「なんでバレたの? おれが開けたこと」
「これ見よがしに鍵が出しっぱなしになってれば、嫌でも気づくよ」
甲洋の部屋の机には、ひとつだけ鍵がかかった場所がある。彼は普段から操が部屋のどこを触ろうがこれといって咎めはしないが、そこだけは決して触るなと常々言っていた。
が、たまたま彼が不在のときにこの鍵を見つけて、どうしても好奇心に勝てずに開けてしまったのだ。
「だぁって気になったんだもん」
唇を尖らせる操に、甲洋は目を閉じて片手で額を押さえながら溜息を漏らす。それからチラリと操を見ると、どこかバツが悪そうに小声で言った。
「……見た?」
「えー?」
「中身」
開けたのだから、そりゃあ見た。操はケロリとした表情で「うん」と頷いた。
「肌色がいっぱいの本。君たちがエロ本と呼んでいるものが、沢山あったよ」
「ああぁ……」
甲洋が呻きとも溜息ともつかない声をあげる。
「あれは違う。違わないけど、俺のじゃない」
「剣司? どうしていま剣司のことを思い浮かべたの?」
勝手に心を覗かれた甲洋は、なぜか黙り込んでしまった。
いつにも増して多くを語ろうとしない様子に焦れて、操は彼の心をさらに覗いてみることにした。彼自身もその方が手っ取り早いと思ったのか、黙って好きにさせる構えだ。そして見えてきたものと皆城総士の知識を重ねて、なるほどなぁと納得した。
「古きよき日本の文化……あれは河原や裏山に捨て置かれていたものなんだね」
「……あるんだよ。年頃の男子中学生には、色々と黒歴史が」
あのエロ本は、剣司を筆頭にした少年たちが河原や空き地に捨てられているものを拾ってきたものなのだ。それをごく一部の友人間で回し読みしたあと処分に困り、最終的にはいつも甲洋に押し付けていた。
甲洋少年は口では拒みながらも、なんだかんだでちゃっかり受け取っていたのである。
「甲洋も見たかったんだね。エロ本」
「……否定はしない。俺も年頃だったから」
「ふぅん」
のほほんと返事をしながら、ふと操は思った。
(ひょっとして、だからあんな夢を見たのかな?)
操はこの鍵を使ったことをすっかり忘れていたけれど、心のどこかでは勝手に引き出しを開けたことを後ろめたく感じていたのかもしれない。
そしてこの鍵は、確かに『楽園』の鍵だった。少年だった彼らの、夢と希望と青春が沢山つまった、桃色の楽園とでも呼べばいいのか。死体とエロ本では、だいぶ規模が異なるけれど。
「ごめんね甲洋」
「なに?」
「勝手に楽園の扉を開けちゃったこと。ちゃんとごめんなさいするから、もう怒らないで」
「ら、楽園……? 引き出しのことを言ってるの?」
「うん、そう」
「まぁある意味では楽園か……いいよもう。怒ってない」
「よかったぁ」
心底ホッとして笑う操だったが、どこか物言いたげな甲洋はいまいち落ち着かない様子だった。コホンと咳払いをして、操の向かいの椅子に腰をおろす。
「言っておくけど」
「なぁに」
「俺にはもう必要ないから」
「なにが?」
「……エロ本」
「知ってるよ。甲洋はおれの裸のほうが興奮するんでしょ?」
「薄っぺらくて、エロさなんて欠片もないのにね」
最後の台詞からは甲洋の開き直りが感じられる。
操は彼がエロ本を見て興奮したからといって、別にどうとも思わない。特定の相手に対する愛欲と、娯楽としての欲求はまた別物だ。操に後者は理解できないが、理屈としては分かっているつもりだった。
けれどわざわざ言葉にしてまで伝えてくるということは、甲洋にとってそれだけ重要な意味があるということだろう。操はそれを嬉しいと感じた。
「おれも同じ。性的に興奮するのは、裸の甲洋とくっついてるときだけだよ」
「……そう」
嬉しいくせにそっぽを向いた甲洋に、操はふにゃりと笑ってみせる。そしてテーブルの上にある『楽園』の鍵を、指の先で軽く弾いた。
←戻る ・ Wavebox👏
青年は沢山の金銀財宝を持ち、各地に別荘を持つほどの大金持ちでした。
ですが彼はいつも無表情で、人形のようになにを考えているか分からなかったので、人々は青年を不気味がり、近付こうとする者はいませんでした。
しかも青年には、なんとも奇妙で恐ろしい噂話まであったのです。
それは今まで何人もの奥さんをもらったのに、みんな行方不明になってしまったらしい、というものでした。
あるとき青年は近くの町に住む可愛らしい少年を、新しい妻に迎えたいと思いました。
そこで少年を屋敷に呼び、美味しい料理でもてなしました。別荘へも連れていき、そこで何日も楽しい時間を過ごしました。
青年は柔らかな笑顔で優しく少年に接しました。少年はいつしか青年に惹かれ、結婚してもいいと思うようになりました。
噂のことは気になりましたが、少年は生まれたときから家族もなく、一人で寂しく暮らしていたので、こんなに優しい人とならきっと毎日幸せだろう思ったのです。
青年はとても喜んで、すぐに少年と結婚式をあげました。
*
結婚式から少し経ったころ、青年は少年に言いました。
「明日から少し用事があって、しばらく旅に出ることになったんだ。だからお前に、この屋敷の鍵を預けておくよ」
少年はこんな広いお屋敷で、一人ぼっちで留守番をすることに不安を覚えました。
ここへ来てから、少年は青年と片時も離れることがなかったので、一緒にいられないのは嫌だなと思ったのです。彼がどのくらいで戻ってくるのかも分かりません。
そんな気持ちを察した青年は、少年のふわふわとした髪を撫でながら微笑みました。
「大丈夫。何日かしたらすぐに戻るよ。だからいい子で待っていて」
「うん……わかった」
少年は頷くと、青年からジャラジャラと沢山の鍵がついた束を受け取りました。
「俺がいない間、この鍵でどの部屋に入って遊んでも構わないよ。寂しかったら、誰か友達を呼んでもいい。ただし──」
青年はふっと無表情になると、暗く沈んだ瞳をしながら言いました。
「この小さな鍵だけは、絶対に使わないで」
「これは、どこの部屋の鍵?」
「廊下のいちばん奥にある部屋だよ」
少年は小首を傾げます。
「そこにはなにがあるの?」
「楽園」
「らくえん……?」
「いい? その部屋にだけは、なにがあっても入らないこと。約束できる?」
少年が戸惑いながらもこくりと頷くと、青年は優しく微笑みました。
*
翌日の朝、青年は出かけていきました。
少年は友達の美羽とエメリーを呼んで、絵を描いたりしながら楽しく過ごしましたが、二人が帰ってしまうとすぐにまた退屈になってしまいました。
やはり一人ぼっちでいるには、このお屋敷は広すぎます。少年は青年がいない寂しさを紛らわすため、預かった鍵を使ってひとつひとつ部屋の中を探検してみることにしました。
美しい宝石が並ぶ部屋、有名な画家の絵が飾ってある部屋、きらびやかな衣装部屋など、見たこともない豪華な品がそれぞれの部屋には沢山ありました。
それらの品々は少年を楽しませましたが、やがて全ての部屋を巡ってしまうと、また退屈になってしまいました。
すると、だんだんあの入ってはいけないと言われている部屋のことが気になって、仕方がなくなってきます。
(楽園ってなんだろう。きっとすごいものがあるんだろうな)
ですが、青年はあの部屋に決して入るなと言いました。約束を破ることはできません。
だけどダメだと思えば思うほど、気になって夜も眠れませんでした。
青年はいつまで経っても帰ってきません。少年は、いよいよ我慢ができなくなりました。
(少しくらいなら……いいかな……?)
ほんの少しだけ中を覗いたら、すぐに元通り鍵をかければ大丈夫。自分にそう言い聞かせ、少年は廊下の奥の禁じられた部屋の前に立ち、小さな鍵を使いました。
カチリという音がして、鍵が開きました。少年は胸をワクワクとさせながら扉を開けて、そっと足を踏み入れます。
「うっ、なにここ……変な臭いがする……」
部屋の中は真っ暗で、なにも見えません。辺りを漂う生臭さに、少年は思わず鼻を押さえながらもまた一步踏みだしました。
そのとき、ボチャンという水たまりを踏んだような濡れた音がしました。
「!」
少年がハッと息をのむと、窓の外で雷が鳴り響きました。酷い雨が降り出して、窓ガラスを激しく叩きはじめます。
少年は目を見開き、思わず鍵を床に落としてしまいました。
絶え間なく鳴り響く雷に、部屋の中が明るく照らされます。少年は目の前に広がる光景のあまりのおぞましさに、ガタガタと身体を震わせました。
そこに楽園なんてものは存在していませんでした。
あるのは床や壁一面に飛び散った赤黒い血と、かつて『ヒト』だったものの残骸です。
無残に転がる幾つものそれは、黒く焼け焦げたものや、いっそ原型すらとどめていないものまでありました。
そして、それらはみな一様に──。
「──ただいま」
そのとき、玄関の方から青年の声がしました。
少年は悲鳴を飲み込んで、大急ぎで鍵を拾い上げると元通り扉を閉めて、玄関ホールへ向かいました。
ホールには雨に濡れて青白い顔をした青年の姿があります。
「お、おかえり!」
数日ぶりに少年を見た青年は、嬉しそうにふわりと笑顔を浮かべました。
「ただいま。遅くなってごめん──どうかした? そんなに震えて、なにかあったの?」
「な、なにも、なにもないよ」
いつも通りにしなければと思うのに、青ざめた少年はうまく笑うことができません。声さえもひどく震えて、今にも崩折れてしまいそうでした。
青年の顔から、すぅっと笑顔が消えました。ガラス玉のような虚ろな瞳で、少年に手を差し出してきます。
「預けていた鍵を返して」
少年は肩をビクリと跳ねさせました。心臓がバクバクと激しく音を立てています。
けれど言われた通り、震える指で鍵の束を取り出し、青年に返しました。
「……入ったんだね。あの部屋に」
受け取った鍵を見下ろしながら、青年は悲しそうに言いました。
鍵にはべったりと血がこびりついていたのです。床に落としたときに、付着してしまったものでした。
少年はあまりの恐ろしさに酷く震えながら、もつれそうになる足で後退りをします。
一步、また一步と後ろへ下がるたび、青年もまた足を前に踏み出しました。
「こ、来ないで!」
「信じていたのに。どうして約束を破ったの?」
「嘘つき……! あんなの楽園なんかじゃない! あれは……地獄だよ!」
「あの部屋は楽園だよ」
「ッ!」
少年の背が、壁にぶつかりました。逃げ場を失った少年の頬に、青年の冷たい手がそっと這わされます。
「俺の大事な宝物が詰まった、楽園だ」
あんなに優しかった青年の笑顔が、今は死人のように冷たく見えます。
少年は混乱しながら、目にいっぱいの涙を浮かべて言いました。
「ねぇどうして……? あれはなに? どうしてみんな」
──おれと同じ顔をしているの……?
青年が楽園と呼ぶ、血まみれの部屋。あそこに転がっていた無数の残骸は、どれも全て少年と同じ姿形をしていました。
自分自身が無残に死に絶えている光景。それはあまりにも奇妙で、異常で、信じがたいものでした。
「これは夢? だってあんなのおかしいよ。おれはここに、ちゃんといるのに……!」
青年は少年の頬を優しく擦りながら、目を細めて言いました。
「一人目のお前は、今日みたいな雷の夜に焼け死んだ。落雷に燃える森の中で」
「なに……? なにを言っているの?」
「二人目のお前は、野犬に食われて息絶えた。俺が少し目を離した隙に」
「ねぇ、なんの話をしているの!?」
「三人目のお前は崖から落ちた。青い空に溶けるみたいに、吸い込まれていった」
「やめて……もうやめて……!」
「四人目も五人目も、六人目も七人目も、みんなみんな……お前はいつだって、俺を置いていなくなる」
青年は目を見開いたまま、瞬きひとつしませんでした。その薄い唇が、三日月のように歪んだ笑みを浮かべています。
「何度でも生まれて、何度でも死んで、お前はまた俺の目の前に現れる。なにも知らない顔をして、俺からお前を奪いに来るんだ」
頬にかかっていた手が、少年の細い首にかかりました。
「どうせお前もいなくなる……だったらいっそ、俺がこの手で奪おうか」
「ぁぐッ、ぅ……ァ! や、め……ッ」
青年の両手が、少年の首を絞めました。少年はあまりの苦しさに、ズルズルと壁を伝って床に崩れ落ちていきます。
青年は少年の首を絞めたまま、冷たい汗が滲む額にキスをしました。
「愛してる。今度は俺も一緒にいくよ──楽園に」
薄れていく意識の中で少年が最期に見たのは、壊れた青年の幸せそうな微笑みでした。
***
「……ふぁ!?」
昼下がりの喫茶楽園にて、テーブルに突っ伏して眠りこけていた操は、ビクンと身体を跳ねさせながら目を覚ました。
勢いよく起き上がり、咄嗟に辺りを見回す。誰もいない。強張っていた肩から力を抜くと、大きく息を吐き出した。
「はぁー、夢かぁ……やな夢だったな……」
初めのうちは甲洋と結婚して幸せに暮らしていたはずなのに、最後にはあんな恐ろしい結末を迎えるなんて。
「どうしてあんな夢なんか見たんだろう?」
操は無意識に首筋に触れながら首を傾げた。そこには冷えた感触が残っているような気がしたけれど、まぁいいやと思いなして「うーん」と大きく伸びをした。
「──来主」
そのとき、すぐ真横で声がした。
「うわぁ!?」
そこには甲洋が立っていた。誰もいないところに突然ワープで現れるものだから、操は驚いて椅子から落ちかけてしまう。
「ビックリした! 急に出てこないでよぉ!」
甲洋は暗く沈んだ表情で操を見下ろしている。どこか虚ろでうら悲しいその瞳に既視感を覚えて、背筋にひやりとしたものが駆け抜けた。
「ね、ねぇ? どうかしたの?」
少しビクビクしながら問えば、彼は暗い表情のまま言った。
「……引き出し、開けた?」
「えぇ?」
操がコトリと首を傾げる。
「なんのこと?」
「この鍵」
甲洋はテーブルの中央に小さな鍵をそっと置く。血がついていたらどうしようかと思ったが、それはなんの変哲もない古ぼけた鍵でしかなかった。
ホッと息をつきながら、操は甲洋を見上げる。
「甲洋の机の引き出しの鍵でしょ。うん、開けたよ」
「……前から言ってあったよね。あの引き出しは触るなって」
「なんでバレたの? おれが開けたこと」
「これ見よがしに鍵が出しっぱなしになってれば、嫌でも気づくよ」
甲洋の部屋の机には、ひとつだけ鍵がかかった場所がある。彼は普段から操が部屋のどこを触ろうがこれといって咎めはしないが、そこだけは決して触るなと常々言っていた。
が、たまたま彼が不在のときにこの鍵を見つけて、どうしても好奇心に勝てずに開けてしまったのだ。
「だぁって気になったんだもん」
唇を尖らせる操に、甲洋は目を閉じて片手で額を押さえながら溜息を漏らす。それからチラリと操を見ると、どこかバツが悪そうに小声で言った。
「……見た?」
「えー?」
「中身」
開けたのだから、そりゃあ見た。操はケロリとした表情で「うん」と頷いた。
「肌色がいっぱいの本。君たちがエロ本と呼んでいるものが、沢山あったよ」
「ああぁ……」
甲洋が呻きとも溜息ともつかない声をあげる。
「あれは違う。違わないけど、俺のじゃない」
「剣司? どうしていま剣司のことを思い浮かべたの?」
勝手に心を覗かれた甲洋は、なぜか黙り込んでしまった。
いつにも増して多くを語ろうとしない様子に焦れて、操は彼の心をさらに覗いてみることにした。彼自身もその方が手っ取り早いと思ったのか、黙って好きにさせる構えだ。そして見えてきたものと皆城総士の知識を重ねて、なるほどなぁと納得した。
「古きよき日本の文化……あれは河原や裏山に捨て置かれていたものなんだね」
「……あるんだよ。年頃の男子中学生には、色々と黒歴史が」
あのエロ本は、剣司を筆頭にした少年たちが河原や空き地に捨てられているものを拾ってきたものなのだ。それをごく一部の友人間で回し読みしたあと処分に困り、最終的にはいつも甲洋に押し付けていた。
甲洋少年は口では拒みながらも、なんだかんだでちゃっかり受け取っていたのである。
「甲洋も見たかったんだね。エロ本」
「……否定はしない。俺も年頃だったから」
「ふぅん」
のほほんと返事をしながら、ふと操は思った。
(ひょっとして、だからあんな夢を見たのかな?)
操はこの鍵を使ったことをすっかり忘れていたけれど、心のどこかでは勝手に引き出しを開けたことを後ろめたく感じていたのかもしれない。
そしてこの鍵は、確かに『楽園』の鍵だった。少年だった彼らの、夢と希望と青春が沢山つまった、桃色の楽園とでも呼べばいいのか。死体とエロ本では、だいぶ規模が異なるけれど。
「ごめんね甲洋」
「なに?」
「勝手に楽園の扉を開けちゃったこと。ちゃんとごめんなさいするから、もう怒らないで」
「ら、楽園……? 引き出しのことを言ってるの?」
「うん、そう」
「まぁある意味では楽園か……いいよもう。怒ってない」
「よかったぁ」
心底ホッとして笑う操だったが、どこか物言いたげな甲洋はいまいち落ち着かない様子だった。コホンと咳払いをして、操の向かいの椅子に腰をおろす。
「言っておくけど」
「なぁに」
「俺にはもう必要ないから」
「なにが?」
「……エロ本」
「知ってるよ。甲洋はおれの裸のほうが興奮するんでしょ?」
「薄っぺらくて、エロさなんて欠片もないのにね」
最後の台詞からは甲洋の開き直りが感じられる。
操は彼がエロ本を見て興奮したからといって、別にどうとも思わない。特定の相手に対する愛欲と、娯楽としての欲求はまた別物だ。操に後者は理解できないが、理屈としては分かっているつもりだった。
けれどわざわざ言葉にしてまで伝えてくるということは、甲洋にとってそれだけ重要な意味があるということだろう。操はそれを嬉しいと感じた。
「おれも同じ。性的に興奮するのは、裸の甲洋とくっついてるときだけだよ」
「……そう」
嬉しいくせにそっぽを向いた甲洋に、操はふにゃりと笑ってみせる。そしてテーブルの上にある『楽園』の鍵を、指の先で軽く弾いた。
←戻る ・ Wavebox👏
昔々、しんしんと雪が降りしきる大晦日の夜の出来事です。
カゴいっぱいに入ったマッチを持つ少年が、道行く人々に呼びかけていました。
「マッチいりませんかー? マッチ買ってくださーい! マッチでーす!」
マッチ売りの少年、操は一生懸命大きな声で言いますが、誰一人として足を止めようとする人はいませんでした。
せめて彼が原作通り悲壮感溢れるみすぼらしい格好をしていれば、誰かしら気にかけてくれる人もいたかもしれません。ですが操はふわもこの白いコートを来て、ふわもこの耳あてをし、ふわもこのミトンまではめて、赤いマフラーをぐるぐる巻きにしています。
コートの中に着ているヒートテックにも、ブーツの中にも、これでもかというほどのホッカイロが仕込まれている有様でした。
育ての親の一騎と総士が、外で遊ぶなら風邪をひかないようにと、いつもこうして着込ませてくれるのです。
「マッチ売れないな……一騎と総士に肉まん買って帰ろうと思ったのに」
操ははぁっと白く染まる息を吐き出しました。
世の中の世知辛さを感じつつ、もう少し人通りが多い場所へ移動しようとしたそのとき。誰かが操の肩をポン、と叩きました。
振り向くと、そこには子豚のように肥えていて、頭がバーコードのようにハゲ散らかった、いかにもなモブおじさんが立っていました。
「き、君、可愛いね。2万でどうかな?」
おじさんが指を二本立て、ピースサインを向けてきます。操はびっくりして目を丸く見開きました。
「え? そんなに高く買ってくれるの?」
それだけの大金があったら、肉まんが幾つ買えるのでしょうか。ファ●チキだって買えてしまいます。
操が大喜びで「いいよ!」と言うと、おじさんは嬉しそうにブヒヒと笑って操の手を引き、歩きだそうとしました。が、そこで誰かが空いている方の手首をガッシリと掴んできました。
「ちょっと待って!」
「わっ! なに!?」
ぐいっと引っ張られ、操が驚いて声の主を見ると、そこには背の高い焦茶の髪をしたイケメンなお兄さんが、険しい表情を浮かべていました。
お兄さんは白いワイシャツに黒いパンツを穿いて、黒いエプロンをしています。どこかのお店の人でしょうか。
一度に二人も知らない人に声をかけられて、操は口をポカンと丸く開けました。
「そういう余計なフラグは立たせなくていい。エロ同人みたいな展開は勘弁して」
フラグ……エロ同人……なんのことでしょうか。操にはよく分かりませんが、お兄さんはそう言ってハゲたモブおじさんをきつく睨みつけました。するとおじさんは目を泳がせ、操の手を離すとそそくさとどこかへ行ってしまいました。
あ、おれの2万円が……と、操は悲しい気持ちになりながらしょぼんと俯きました。
「酷いことされたくなかったら、ああいうのについて行くのはやめな」
お兄さんはそんな操を見て、少し怒った顔をしながら言いました。
「酷いことってなに? どんなこと?」
「……もう遅いから、帰ったほうがいい。子供が出歩いていい時間じゃないよ」
お兄さんは怒った顔のまま吐き捨てて、背中を向けると帰っていきます。
操はなんだかちょっぴりカチンときました。
(あの人は好きじゃないな。おれはもう子供じゃないのに)
ハゲさんは破格の値段でマッチを買ってくれようとしただけなのに、あのお兄さんが邪魔をしたせいで台無しです。これでは肉まんもファミ●キも買えません。
そうこうしているうちに、通りには全く人がいなくなっていました。年越しを控え、他所の家やお店の明かりだけが雪の町をほんのりと明るく照らしています。
操はちょっぴり寂しい気持ちになりました。
「帰ろっかな……」
一騎と総士に会いたくなりました。あのお兄さんに言われたことには腹が立ちましたが、確かに早く帰らないと二人が心配します。それに、年越しそばを食べそびれるのも嫌でした。
そのとき、強い風がびゅうと吹き抜けました。完全防備の操でしたが、剥き出しの頬や鼻は冷気にさらされて真っ赤になっています。
操は寒さをしのぐため、咄嗟に建物と建物の間の細い通路に入りこみました。
「寒いな……そうだ、マッチをすったらあったかくなるかも!」
ふと思いつき、操はその場にしゃがむと籠の中にあるマッチを一箱、取り出しました。
そして小箱の中からマッチを一本引き抜くと、箱の側面に擦り付けようとしました。が、そのとき。
「ちょっと待った!!」
どこからか、またあのお兄さんが血相を変えてやって来ました。
操は驚き、手からマッチを落としてしまいました。
「な、なぁに? また邪魔しに来たのぉ?」
しゃがんだままキッと睨みあげると、お兄さんはまたあの怒った顔で溜息をつきました。
「こんな真冬の狭い路地で、しかもゴミが置いてあるすぐ側でマッチを擦るなんて。しかも手にミトンをはめたままじゃ、なおさら危ないだろ。火だるまにでもなりたいのか?」
「え? ゴミ?」
操は自分のすぐ斜め後ろに目を向けました。確かにそこには幾つかのゴミ袋が山になって置かれています。操の目には、暗くてよく見えていませんでした。
このお兄さんが来てくれなかったら、操はうっかり放火魔になっていたかもしれません。それどころか、ミトンに引火してこんがり丸焼けになっていた可能性もあります。
操は急に怖くなり、目にじわりと涙を浮かべました。
「焼かれるのは……嫌だな……」
「俺だって嫌だ。この年の瀬に店を燃やされたんじゃ、たまったもんじゃないしね」
「店?」
「ここは俺の店のすぐ横だよ」
操が身を寄せた場所は、ちょうどお兄さんが経営している喫茶店脇の通路でした。
実はお兄さん、店の中からずっと操のことを見ていたのです。なにやら白くてもこもことした可愛い生き物が、夜道でマッチを売ろうとしている姿が気がかりで、仕事の合間に様子を窺っていたのでした。
お兄さんは操の正面にしゃがみ込むと、困った顔をして言いました。
「平気で変な奴について行こうとするし、自分ごと店に火をつけようとするし、お前は一体なにがしたくてここにいるんだ? しかもこんな時間にさ」
「別に火事を起こそうなんて思ったわけじゃない。寒いから、マッチであたたまろうと思っただけ」
「寒いなら家に帰るなり、店に入ればいいだろ」
「それはそうなんだけど……」
操はしょんぼりと俯き、足元にあるマッチが入った籠を見つめました。
操はマッチを売ったお金で、大好きな一騎と総士にお土産を買って帰りたかったのです。それにお金がなければ、お店にだって入れません。
「……お金に困ってるの?」
「うん……」
お兄さんが、また溜息をつきました。
「幾ら?」
「え?」
「俺が買うから。そのマッチ幾ら?」
操はぱぁっと顔色を明るくして、元気よく答えました。
「一箱五千円だよ!」
「高い!!」
お兄さんが驚きの声をあげました。
「そんな法外な値段で誰が買うのさ!?」
「さっきのおじさんは2万円で買ってくれるって言ったよ!」
「あれはマッチじゃなくて、お前を買おうとしてたんだ!」
「え? おれって2万円で売れるの?」
「ああもう……なんなんだこいつは……」
お兄さんは頭を抱え、ほとほと困り果てた様子を見せました。
「あのね、お前がどこの温室で育ったのかは知らないけど、世の中にはお前が思う以上に怖いことが沢山あるんだよ。お金を稼ぐのだって、そう簡単なことじゃない」
「怖いこと……?」
そういえば、お兄さんはさっきも「酷いことをされたくなければ」なんてことを言っていました。それは火で焼かれるよりも、もっと恐ろしいことなのでしょうか。
例えば犬と同じ檻に閉じ込められるとか、死ぬまで一騎カレーが食べられなくなるとか……思いつく限りの怖いことを想像して、操は震えながら目にいっぱいの涙を浮かべました。
「わかった……もうハゲたおじさんにはついて行かない……」
「毛量は関係ない。男はみんなオオカミだよ」
「総士も前に同じこと言ってた気がする」
「それって家の人? なんだ、ちゃんと教育されてるんじゃないか」
お兄さんはそこで初めて笑顔を見せました。
その柔らかくて優しい笑顔に、操は胸がドキリと高鳴るのを感じました。そのままドキドキと大きな音を立てて、一向に静まる様子がありません。なんだかおかしな気持ちです。
「分かったなら早く帰りな。もうすぐ年が明けてしまうよ」
そう言って立ち上がったお兄さんが、操にそっと手を差し出します。操はその大きな手の平に、ミトンで丸まった指先をちょこんと乗せました。きゅっと握られ、軽く引っ張られるのに合わせて立ち上がると、お兄さんを見上げて問いかけました。
「ねぇ、君は?」
「なに?」
「君もやっぱりオオカミなの?」
お兄さんは目をぱちくりとさせてから、少し困ったように眉を下げて笑いました。
「オオカミだよ、俺も」
「じゃあ、ついて行ったら酷いことする?」
「ついて来たいの?」
「そ、れは……よく分かんない、けど」
どうしてでしょうか。操は頬を赤らめながらまごついてしまいました。お兄さんの顔を見ることができず、俯けた目が泳いでしまいます。
お兄さんが「そうだな」と言って、ふっと笑いました。
「少しくらいは、酷いこともするかもね」
「……どんなこと?」
「それは言えない」
お兄さんは答えてくれませんでしたが、操には彼が酷いことをするような人間にはどうしても思えません。不思議なことに、操の中にはこのお兄さんについて行ってしまいたいという気持ちが芽生えはじめていました。
一度は好きじゃないとまで思ったのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。
操はお兄さんの手をきゅっと握って、もじもじと肩を揺らしました。
そのとき、街中に染み入るような鐘の音が響き渡りました。
「年が明けた。そろそろ店じまいをしようかな」
お兄さんが空を見上げながら言いました。吐く息が真っ白に染まっています。
操と違って、お兄さんは上になにも羽織ってはいません。髪や肩に雪が積もりはじめていて、とても寒そうに見えました。
操がずっと手を握って離さないため、お兄さんはお店に戻ることができないでいるのです。
だからもうお別れをしなくてはいけません。寂しいなと、操は思いました。
「そういえば、こないだバイトの子が一人やめちゃったんだっけ」
「え?」
操がその手を離そうとしたとき、お兄さんがこちらを見て言いました。
「よければおいで。手伝ってくれたら、少しはお駄賃をあげられる」
「いいの?」
お兄さんが笑うので、操は嬉しくなりました。
「おれ、店じまい手伝う! だから君についてくよ!」
操の中に迷いはありませんでした。もう少しこのお兄さんと一緒にいられるのなら、少しくらい酷いことをされたって構いません。
どんなことをされたって、きっとこの人なら大丈夫だと思えるからです。
優しいオオカミに手を引かれ、マッチ売りの少年は暖かなお店の中へと姿を消しました。
そのあとふたりがどうなったかは分かりませんが、街の片隅にある小さな喫茶店は、それから毎日のようにお客さんが途絶えることなく、大繁盛したそうです。
←戻る ・ Wavebox👏
カゴいっぱいに入ったマッチを持つ少年が、道行く人々に呼びかけていました。
「マッチいりませんかー? マッチ買ってくださーい! マッチでーす!」
マッチ売りの少年、操は一生懸命大きな声で言いますが、誰一人として足を止めようとする人はいませんでした。
せめて彼が原作通り悲壮感溢れるみすぼらしい格好をしていれば、誰かしら気にかけてくれる人もいたかもしれません。ですが操はふわもこの白いコートを来て、ふわもこの耳あてをし、ふわもこのミトンまではめて、赤いマフラーをぐるぐる巻きにしています。
コートの中に着ているヒートテックにも、ブーツの中にも、これでもかというほどのホッカイロが仕込まれている有様でした。
育ての親の一騎と総士が、外で遊ぶなら風邪をひかないようにと、いつもこうして着込ませてくれるのです。
「マッチ売れないな……一騎と総士に肉まん買って帰ろうと思ったのに」
操ははぁっと白く染まる息を吐き出しました。
世の中の世知辛さを感じつつ、もう少し人通りが多い場所へ移動しようとしたそのとき。誰かが操の肩をポン、と叩きました。
振り向くと、そこには子豚のように肥えていて、頭がバーコードのようにハゲ散らかった、いかにもなモブおじさんが立っていました。
「き、君、可愛いね。2万でどうかな?」
おじさんが指を二本立て、ピースサインを向けてきます。操はびっくりして目を丸く見開きました。
「え? そんなに高く買ってくれるの?」
それだけの大金があったら、肉まんが幾つ買えるのでしょうか。ファ●チキだって買えてしまいます。
操が大喜びで「いいよ!」と言うと、おじさんは嬉しそうにブヒヒと笑って操の手を引き、歩きだそうとしました。が、そこで誰かが空いている方の手首をガッシリと掴んできました。
「ちょっと待って!」
「わっ! なに!?」
ぐいっと引っ張られ、操が驚いて声の主を見ると、そこには背の高い焦茶の髪をしたイケメンなお兄さんが、険しい表情を浮かべていました。
お兄さんは白いワイシャツに黒いパンツを穿いて、黒いエプロンをしています。どこかのお店の人でしょうか。
一度に二人も知らない人に声をかけられて、操は口をポカンと丸く開けました。
「そういう余計なフラグは立たせなくていい。エロ同人みたいな展開は勘弁して」
フラグ……エロ同人……なんのことでしょうか。操にはよく分かりませんが、お兄さんはそう言ってハゲたモブおじさんをきつく睨みつけました。するとおじさんは目を泳がせ、操の手を離すとそそくさとどこかへ行ってしまいました。
あ、おれの2万円が……と、操は悲しい気持ちになりながらしょぼんと俯きました。
「酷いことされたくなかったら、ああいうのについて行くのはやめな」
お兄さんはそんな操を見て、少し怒った顔をしながら言いました。
「酷いことってなに? どんなこと?」
「……もう遅いから、帰ったほうがいい。子供が出歩いていい時間じゃないよ」
お兄さんは怒った顔のまま吐き捨てて、背中を向けると帰っていきます。
操はなんだかちょっぴりカチンときました。
(あの人は好きじゃないな。おれはもう子供じゃないのに)
ハゲさんは破格の値段でマッチを買ってくれようとしただけなのに、あのお兄さんが邪魔をしたせいで台無しです。これでは肉まんもファミ●キも買えません。
そうこうしているうちに、通りには全く人がいなくなっていました。年越しを控え、他所の家やお店の明かりだけが雪の町をほんのりと明るく照らしています。
操はちょっぴり寂しい気持ちになりました。
「帰ろっかな……」
一騎と総士に会いたくなりました。あのお兄さんに言われたことには腹が立ちましたが、確かに早く帰らないと二人が心配します。それに、年越しそばを食べそびれるのも嫌でした。
そのとき、強い風がびゅうと吹き抜けました。完全防備の操でしたが、剥き出しの頬や鼻は冷気にさらされて真っ赤になっています。
操は寒さをしのぐため、咄嗟に建物と建物の間の細い通路に入りこみました。
「寒いな……そうだ、マッチをすったらあったかくなるかも!」
ふと思いつき、操はその場にしゃがむと籠の中にあるマッチを一箱、取り出しました。
そして小箱の中からマッチを一本引き抜くと、箱の側面に擦り付けようとしました。が、そのとき。
「ちょっと待った!!」
どこからか、またあのお兄さんが血相を変えてやって来ました。
操は驚き、手からマッチを落としてしまいました。
「な、なぁに? また邪魔しに来たのぉ?」
しゃがんだままキッと睨みあげると、お兄さんはまたあの怒った顔で溜息をつきました。
「こんな真冬の狭い路地で、しかもゴミが置いてあるすぐ側でマッチを擦るなんて。しかも手にミトンをはめたままじゃ、なおさら危ないだろ。火だるまにでもなりたいのか?」
「え? ゴミ?」
操は自分のすぐ斜め後ろに目を向けました。確かにそこには幾つかのゴミ袋が山になって置かれています。操の目には、暗くてよく見えていませんでした。
このお兄さんが来てくれなかったら、操はうっかり放火魔になっていたかもしれません。それどころか、ミトンに引火してこんがり丸焼けになっていた可能性もあります。
操は急に怖くなり、目にじわりと涙を浮かべました。
「焼かれるのは……嫌だな……」
「俺だって嫌だ。この年の瀬に店を燃やされたんじゃ、たまったもんじゃないしね」
「店?」
「ここは俺の店のすぐ横だよ」
操が身を寄せた場所は、ちょうどお兄さんが経営している喫茶店脇の通路でした。
実はお兄さん、店の中からずっと操のことを見ていたのです。なにやら白くてもこもことした可愛い生き物が、夜道でマッチを売ろうとしている姿が気がかりで、仕事の合間に様子を窺っていたのでした。
お兄さんは操の正面にしゃがみ込むと、困った顔をして言いました。
「平気で変な奴について行こうとするし、自分ごと店に火をつけようとするし、お前は一体なにがしたくてここにいるんだ? しかもこんな時間にさ」
「別に火事を起こそうなんて思ったわけじゃない。寒いから、マッチであたたまろうと思っただけ」
「寒いなら家に帰るなり、店に入ればいいだろ」
「それはそうなんだけど……」
操はしょんぼりと俯き、足元にあるマッチが入った籠を見つめました。
操はマッチを売ったお金で、大好きな一騎と総士にお土産を買って帰りたかったのです。それにお金がなければ、お店にだって入れません。
「……お金に困ってるの?」
「うん……」
お兄さんが、また溜息をつきました。
「幾ら?」
「え?」
「俺が買うから。そのマッチ幾ら?」
操はぱぁっと顔色を明るくして、元気よく答えました。
「一箱五千円だよ!」
「高い!!」
お兄さんが驚きの声をあげました。
「そんな法外な値段で誰が買うのさ!?」
「さっきのおじさんは2万円で買ってくれるって言ったよ!」
「あれはマッチじゃなくて、お前を買おうとしてたんだ!」
「え? おれって2万円で売れるの?」
「ああもう……なんなんだこいつは……」
お兄さんは頭を抱え、ほとほと困り果てた様子を見せました。
「あのね、お前がどこの温室で育ったのかは知らないけど、世の中にはお前が思う以上に怖いことが沢山あるんだよ。お金を稼ぐのだって、そう簡単なことじゃない」
「怖いこと……?」
そういえば、お兄さんはさっきも「酷いことをされたくなければ」なんてことを言っていました。それは火で焼かれるよりも、もっと恐ろしいことなのでしょうか。
例えば犬と同じ檻に閉じ込められるとか、死ぬまで一騎カレーが食べられなくなるとか……思いつく限りの怖いことを想像して、操は震えながら目にいっぱいの涙を浮かべました。
「わかった……もうハゲたおじさんにはついて行かない……」
「毛量は関係ない。男はみんなオオカミだよ」
「総士も前に同じこと言ってた気がする」
「それって家の人? なんだ、ちゃんと教育されてるんじゃないか」
お兄さんはそこで初めて笑顔を見せました。
その柔らかくて優しい笑顔に、操は胸がドキリと高鳴るのを感じました。そのままドキドキと大きな音を立てて、一向に静まる様子がありません。なんだかおかしな気持ちです。
「分かったなら早く帰りな。もうすぐ年が明けてしまうよ」
そう言って立ち上がったお兄さんが、操にそっと手を差し出します。操はその大きな手の平に、ミトンで丸まった指先をちょこんと乗せました。きゅっと握られ、軽く引っ張られるのに合わせて立ち上がると、お兄さんを見上げて問いかけました。
「ねぇ、君は?」
「なに?」
「君もやっぱりオオカミなの?」
お兄さんは目をぱちくりとさせてから、少し困ったように眉を下げて笑いました。
「オオカミだよ、俺も」
「じゃあ、ついて行ったら酷いことする?」
「ついて来たいの?」
「そ、れは……よく分かんない、けど」
どうしてでしょうか。操は頬を赤らめながらまごついてしまいました。お兄さんの顔を見ることができず、俯けた目が泳いでしまいます。
お兄さんが「そうだな」と言って、ふっと笑いました。
「少しくらいは、酷いこともするかもね」
「……どんなこと?」
「それは言えない」
お兄さんは答えてくれませんでしたが、操には彼が酷いことをするような人間にはどうしても思えません。不思議なことに、操の中にはこのお兄さんについて行ってしまいたいという気持ちが芽生えはじめていました。
一度は好きじゃないとまで思ったのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。
操はお兄さんの手をきゅっと握って、もじもじと肩を揺らしました。
そのとき、街中に染み入るような鐘の音が響き渡りました。
「年が明けた。そろそろ店じまいをしようかな」
お兄さんが空を見上げながら言いました。吐く息が真っ白に染まっています。
操と違って、お兄さんは上になにも羽織ってはいません。髪や肩に雪が積もりはじめていて、とても寒そうに見えました。
操がずっと手を握って離さないため、お兄さんはお店に戻ることができないでいるのです。
だからもうお別れをしなくてはいけません。寂しいなと、操は思いました。
「そういえば、こないだバイトの子が一人やめちゃったんだっけ」
「え?」
操がその手を離そうとしたとき、お兄さんがこちらを見て言いました。
「よければおいで。手伝ってくれたら、少しはお駄賃をあげられる」
「いいの?」
お兄さんが笑うので、操は嬉しくなりました。
「おれ、店じまい手伝う! だから君についてくよ!」
操の中に迷いはありませんでした。もう少しこのお兄さんと一緒にいられるのなら、少しくらい酷いことをされたって構いません。
どんなことをされたって、きっとこの人なら大丈夫だと思えるからです。
優しいオオカミに手を引かれ、マッチ売りの少年は暖かなお店の中へと姿を消しました。
そのあとふたりがどうなったかは分かりませんが、街の片隅にある小さな喫茶店は、それから毎日のようにお客さんが途絶えることなく、大繁盛したそうです。
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昔々、あるところに春日井甲洋という顔よし、頭よし、性格よしの若者がおりました。
甲洋は拾われた子供で、お父さんとお母さんは実の親ではありません。
二人はとても意地悪な怠け者で、掃除や洗濯などの家事や畑仕事を全て甲洋一人におしつけ、自分たちは楽な暮らしを送っていました。
そんなある日のこと。この国の王子様が結婚相手を選ぶため、お城で舞踏会が開かれることになりました。
お父さんとお母さんは呼ばれてもいないのに行く気満々です。
甲洋は二人の靴を磨き、着替えを手伝い、綺麗に髪型や髪飾りをセットしてあげました。
「二人とも……本当に行くの?」
姿見の前で身なりをチェックしているお母さんの足元に膝をつき、赤いドレスの裾を整えながら、甲洋はおずおずと視線を上げて問いかけました。
「ええ行くわ。お城の舞踏会なんて、一生に一度行けるかどうかのチャンスですもの」
「それはそうだろうけど……」
果たしてお嫁さん候補を探すための舞踏会に、招待状もなしにシレッと紛れ込むことなんてできるのでしょうか。熟年夫婦が無理に押しかけたところで、追い返されるのが関の山ではないかと甲洋は心配でなりません。
そんな甲洋に、お父さんが能天気な声で言いました。
「なにをグダグダ言ってるんだ。これで王子の目にでもとまってみろ。玉の輿じゃないか」
「いやだわどうしましょう! おほほ」
「わはは」
一見すると冗談を言い合って笑う夫婦の光景に見えますが、甲洋は少しも笑うことができません。
お母さんに代わって姿見の前に立つお父さんを見て、甲洋はずっと言うべきかどうか迷っていたことを、堪えきれずついに言いました。
「父さん……その格好はなにかの間違いだよね?」
目の前には菜の花のように可憐な色をした、フリフリドレスのおじさんがいます。信じがたいことですが、それは女装したお父さんの姿でした。
けばけばしい化粧に、真っ赤なルージュが痛いほど目に突き刺さります。
「なんだ、文句でもあるのか? いいか? 遊びじゃないぞ、甲洋。俺はこの美しさで、必ず王子のハートを射止めてみせる!」
てっきりツッコミ待ちかと思いきや、お父さんは本気の目をして言いました。とても正気の沙汰とは思えません。玉の輿に乗ることを疑いもしないその自信は、一体どこから来るのでしょうか。
甲洋には兵士にひっ捕らえられて牢屋にブチ込まれるお父さんの未来しか見えません。
「甲洋、あなたもさぞかし舞踏会へ行きたいでしょうねぇ」
「いや俺は別に」
「しょうがないさ。ドレスはこの二着しかないしなぁ。こんなみすぼらしい格好の人間が一緒じゃあ、俺たちが恥をかくだけさ」
え、それマジで言ってんの……と、恥を絵に描いたようなお父さんのドレス姿を見つめながら思いましたが、甲洋は賢いので余計なことは言いません。
それにお父さんが言っていることは事実です。甲洋には日頃から、ツギハギだらけのイモいあずきジャージしか与えられていませんでした。胸には『こうよう』とマジックで名前が書かれたワッペンまでついています。
正直これで買い出しに行くのですらちょっとした拷問でしかないのに、お城だなんてとんでもない話です。
「俺はいいから、ふたりとも気をつけて行っておいでよ」
甲洋は死んだ魚のような目で儚く笑い、浮かれきった様子の両親を見送りました。
*
「ショコラ、おいで」
二人が行ってしまうと、甲洋は家の裏の倉庫を開けて、愛犬を家の中に入れました。ショコラは甲洋がお父さんとお母さんに内緒で飼っている可愛い犬です。
「今日は二人とも遅くまで帰らないから、家の中でご飯にしよう」
「わんわん!」
ショコラは黒い尻尾を大きく振って、足にまとわりついてきます。
嬉しそうにはしゃぐ姿に笑いかけ、甲洋はミルクにドッグフードを浸したものをショコラに与えました。よほどお腹が空いていたのか、ショコラは夢中で食べはじめます。
しばらくそれを見守っていると、ふと台所の方からガサリと物音が聞こえました。
「なんだ?」
泥棒でも入ったのでしょうか。ショコラも顔を上げ、音がしたほうをじっと見ています。
甲洋は足音を立てないよう、慎重に台所へと向かいました。
するとそこには、なにやら黒い人影がしゃがみ込んでこちらに背を向け、ゴソゴソと蠢いています。
「誰?」
声をかけると、全身真っ黒の影がビクンと跳ねました。
甲洋の声に、影が恐る恐るといった様子で振り向きました。顔はフードに隠れてよく見えませんが、口にパンを咥えていることは分かります。
影だと思っていたのは、その人物が頭から爪先をフードつきの大きな黒いローブで覆っていたからでした。
「もご、むぐぐッ!?」
謎の人物は甲洋と目が合った瞬間、パンを喉に詰まらせてもがき苦しみました。激しく身を震わせ、胸をドンドンと叩いています。
甲洋はなんて間抜けな泥棒だと呆れながら、カップにミルク(犬用)を注ぐと、そっと差し出しました。
「ほら、とりあえずこれ飲んで」
「んぐぐッ、うぅ~~……んっ、ぷは! 死ぬかと思った!」
ミルク(犬用)を飲み干した人物が息をつきながら天を仰ぐと、フードが脱げて亜麻色の綺麗な髪が姿を現しました。まだあどけない顔をした少年です。
甲洋は腕を組み、床にペタリと座ったままの少年を見下ろして言いました。
「どこの子? 人のうちに勝手に入って、勝手にパンを食べるなんて」
「助けてくれてありがとう! おれは魔法使い。空から来たよ!」
「……通報するから動かないでいて。ショコラ」
「わう!」
甲洋が呼ぶと、見張りは任せろとばかりにショコラが背後から飛び出し、少年の目の前で姿勢を低くしながら唸りを上げました。
「わああぁ!? 犬だ! やだやだ助けて! 動かないからあっちに行ってぇ!」
少年はひどく怯えて、再びフードをすっぽりとかぶりながら丸くなってしまいました。よほどショコラが怖いのか、可哀想なくらい震えています。
流石に少し気の毒になってきた甲洋は、少年の傍にしゃがみこむと手で軽くショコラを制しました。
「で? どこの子? 名前は?」
おずおずと顔をあげた少年は、目にいっぱい涙を溜めています。その情けない表情にSっ気をそそられた甲洋は、一瞬だけ胸が疼くのを感じました。
「おれは魔法使いだよ。空から来たんだってば」
「……そう。でも泥棒はよくないね」
「君ぜんぜん信じてないでしょ! さっきからずっと目が死んでるし!」
魔法使いと名乗った少年は、ご立腹した様子で勢いよく立ち上がりました。それからローブの中に手を入れて、ゴソゴソと何かを探ると一本の棒切れを取り出します。
「じゃーん! 証拠に、魔法のステッキも持ってるよ!」
「ひのきのぼう?」
「そんな初期の最弱武器と一緒にしないで!」
よく見れば、細長い棒切れの先端には星がついています。クリスマスツリーの天辺につけるようなアレが、ガムテープでぐるぐる巻きに固定されていました。驚きの低クオリティに、甲洋はいよいよ困ったなぁと頭を掻きました。
いわゆる不思議ちゃんというやつでしょうか。それともただのヤベェ奴でしょうか。いずれにしろ、あまり積極的に関わりたいタイプではありません。
「おれはね、いつもがんばってる君に、ご褒美をあげるために来たんだよ!」
「ご褒美どころか、さっきのパンは俺の夕食だったんだけど」
「もう泣くのはおよし、シンデレラ!」
「泣いてないし、俺はシンデレラなんて名前じゃない」
「え? 違うの? じゃあなんていうの?」
「春日井甲洋」
「そっか、じゃあカスデレr」
「やめて」
食い気味にピシャリと切り捨てた甲洋に、魔法使いは唇を尖らせました。けれどすぐに気を取り直し、にっこり笑顔を浮かべて見せます。
「さあ! そうと決まれば準備をしようよ! 君だって舞踏会に行きたいでしょ?」
「はぁ?」
「まずはカボチャとハツカネズミを用意して! それからトカゲと」
「待って。勝手に話を進められても」
「大丈夫! おれに任せて!」
魔法使いは全く話を聞きません。
嫌な予感しかしない甲洋は、その端正な顔を苦く曇らせるばかりでした。
*
畑にカボチャはありましたが、ネズミとトカゲは見つけることができませんでした。
代わりにどこからかよく遊びにやって来る白猫のクーが、ショコラと庭を駆け回って遊んでいます。
「一体なにをする気?」
「まぁ見てて」
そう言うと、魔法使いは例のステッキをカボチャに向かって振りかざしました。
するとカボチャがどんどん大きくなり、なんということでしょう。金色の馬車へと姿を変えたではありませんか!
「えぇ……」
非現実的すぎる事態に甲洋が引き気味でいると、魔法使いが今度は遊んでいるショコラとクーに向かってステッキを振りかざします。すると二匹はみるみるうちに、美しい白馬へと姿を変えました。
「ショコラ!? クー!?」
これには流石の甲洋も顔色を変えました。
「だいじょうぶ、時間になれば元に戻るから心配しないで。さ、次はいよいよ君の番だね」
「え、ちょっとやめ」
「そーれへんしーん!」
悪魔のステッキが甲洋に向かって振りかざされました。すると次の瞬間、甲洋はみすぼらしいイモジャージから、淡い水色のきらびやかなドレス姿へと変身を遂げていたのです。
ダイヤのティアラが頭の上でピカピカと光り輝き、靴は美しいガラスでできていました。
甲洋はあまりのことに目眩を覚えながら、青ざめるより他にありません。
「なんでドレス……? なんで俺までこんな惨い格好を……!?」
「うわぁー、キレイ! よく似合ってるよ!」
「似合ってたまるか……!」
目を輝かせる魔法使いを尻目に、甲洋の脳裏には今ごろ牢屋にブチ込まれているかもしれないお父さんの背中がよぎりました。義理とはいえ、このままでは親子揃って社会的に死ぬことになってしまいます。そんなのはご免です。
「お前が本物の魔法使いだってことは分かった。分かったから、早くこの呪いを解いて」
「信じてくれて嬉しいよ! 馬車はおれが引くね!」
「あ、ダメだこの子ぜんぜん話聞かないな」
「早くしないと、舞踏会が終わっちゃう!」
「ちょ、ちょっと待って、この靴痛い。凄く痛い」
魔法使いに手を引かれ、甲洋は慣れないヒール靴でよろめきました。しかもこの靴、サイズが合っていません。無理やり足を押し込めているような状態で、このままでは確実に砕け飛び散ってバラバラバラになります。
靴がガラス製であることを考えると、後に起こる惨劇は火を見るよりも明らかでした。
「女装のオプションつきで流血騒ぎはちょっと……」
「12時には魔法が解けるから、それまで我慢して!」
「そんな無茶な……」
これではご褒美どころかただの罰ゲームです。
けれど甲洋は魔法使いによって、強引に馬車に押し込まれてしまうのでした。
*
やって来ました舞踏会。
どうせ門前払いを食らうだろうと思っていた甲洋でしたが、なぜかあっさり大広間まで通されました。ガバガバ警備もいいところです。
広間には大勢の美しく着飾った女性たちがいました。しかしみんな元気がありません。
(どうしたんだろう? もっと活気があるものだと思っていたけど)
中にはメソメソと泣いている女性や、お供や御者の男性と合コンパーティーをはじめる女性たちもいます。みんな王子様のハートを射止めるために来ているはずなのに、一体どうしたというのでしょうか。
「全く冗談じゃない! せっかく来たっていうのに、とんだ無駄足だ!」
不思議そうに辺りを見回していると、そこによく知る声が聞こえてきました。ギクリとしながらその方向を見ると──いました。お父さんとお母さんです。
ふたりはご馳走が並ぶテーブルで、ほとんどやけ酒に溺れている状態でした。
「やっぱり男ってのは、王子様だろうが若い子がいいってことかしらね!」
そういう問題ではないのですが、お母さんもキレながらお酒を飲んでいます。
「ちくしょー! 俺の玉の輿がー!」
そんなことよりよくぞご無事で……と、この城の来る者を拒まない姿勢に感服しながら、甲洋はそそくさとその場を離れて柱の影に身を隠しました。
そのとき、大広間に美しい音楽が鳴り響きました。中央へ目を向けると、年若い黒髪の王子様が、純白のドレスを着た髪の長い女性とダンスを踊っています。
どうやら彼女が誰よりも早く王子様のハートを射止めたようでした。美しい面立ちをした彼女は王子様より幾分か背が高く、女性というにはそこはかとない肩幅勝負感が漂っています。
甲洋は彼女から自分と同じ匂いを感じとりましたが、あえて生温かく微笑むだけに留めると、ささやかな拍手を送りました。どうか末永くお幸せに……。
さて、お父さんとお母さんの無事も確認できましたし、これといって用もないので甲洋はさっさとこの場を後にすることに決めました。
しかし御者を買って出たはずの魔法使いの姿が、どこにもありません。
「ああもう、フラフラと……一体どこに行ったんだあいつは」
この靴で歩き回るのは嫌でしたが、ここで脱ぐわけにもいきません。仕方なく痛む足で慎重に人並みを掻き分けて、魔法使いを探しました。
すると天井まである立派な格子窓の向こうに、月明かりに浮かぶ淡い髪色が見えました。
広々としたテラスには、何席かのテーブルセットが設置されています。他に人影はありません。甲洋はテラスに出ると、魔法使いに声をかけました。
「こんなところにいた」
「あ、甲洋―。これ美味しいよぉ! マカロンっていうんだってー!」
魔法使いはテーブルの上にこれでもかというほど菓子類を取り分けた皿を並べ、呑気にムシャムシャと頬張っています。お前さっき人のパン食べたのにまだ食べるのか……と呆れつつ、甲洋も隣の椅子に腰掛けました。
「王子様には会えた?」
ほっぺたに生クリームをつけた魔法使いに問いかけられ、甲洋は曖昧に笑って見せました。
「うん。幸せそうだったよ」
「そっかー、よかったね」
魔法使いは食べかけのマカロンを口の中に放り込むと、頬をモゴモゴとさせながら夜空を見上げました。つられて見上げた先には、丸くて大きな月がぽっかりと浮かんでいます。
マカロンを飲み込んだ魔法使いが、ぽつりと言いました。
「でもおれは、甲洋に幸せを見つけてほしかったんだけどな」
「俺の幸せ?」
「そう。君の幸せ」
そんなこと、今まで考えたこともありませんでした。
甲洋は幼い頃からずっと不遇な扱いを受けてきました。ボロボロの服を着て、家の仕事を全てこなし、自分のことはないがしろにしながら生きてきたのです。
けれど甲洋はもう大人です。そろそろ自分の幸せというものを、ちゃんと考えてみてもいいのかもしれません。
あの家を出れば、もう隠れてショコラを飼う必要だってなくなるのですから。
甲洋は焼菓子にかぶりつく魔法使いへ目を向けました。食べかすをボロボロと零し、頬にクリームをつけたままの彼は、まるで小さな子供のようです。
ふとそのまま視線を足元へやると、ローブの裾から白い爪先が見えました。魔法使いは足先まですっぽり隠れるほど大きなローブを纏っていたので、甲洋は彼が裸足でいることに気がつかなかったのです。
「お前、靴は?」
「靴? ないよ?」
魔法使いがきょとんとしながら首を傾げ、両手で裾をベロンと捲りました。真っ白の太腿までが露わになって、甲洋はちょっぴり赤くなりながらぎょっとしました。
「ちょ、え? その下、裸?」
「そうだよ。服はこれしか持ってない。ヒトの形をもらったのも、ついさっきのことだもん」
空から舞い降りたという魔法使いは全裸だったのです。そこをたまたま通りがかった知らないおじさんに拾われて、交番という場所へ連れて行かれ、そこで色々な質問を受けたあと、可哀想な目で見られてこのローブをもらったのだと、魔法使いは言いました。
そのおじさん(お巡りさん)もこの不思議ちゃんにはお手上げ状態だったんだろうなと思いながら、甲洋は黒い裾をそっと戻してあげました。
それから甲洋は少し考えたあと、ガラスの靴を脱ぎました。そして椅子から腰をあげ、魔法使いの足元に膝をつくと、右足首に触れて軽く持ち上げました。
不思議そうな顔をしている魔法使いの右足に、靴をそっと履かせます。思った通り、ほっそりとした足にはガラスの靴がピッタリと合いました。
「なんでおれに履かせるの? それは君のためのガラスの靴だよ」
「俺には小さいよ。ほら、お前の方がよく似合う」
魔法使いはむぅっと唇を尖らせます。
「でもこれじゃあ、君へのご褒美にならないよ」
「どうしてそんなにこだわるのさ」
「だっておれはずっと見ていたんだよ。君はどんなにつらくても、いつもがんばるいい子だったでしょ。だからご褒美をあげなくちゃと思ったんだ」
「見てたって、空から?」
「そうだよ」
なんだかよく分かりませんが、どこまでも不思議なことばかりを言うやつだなぁと思いました。けれど彼の言葉はとても嬉しく感じます。
「ねぇ、なにかないの? なんでも言ってよ」
魔法使いが身を乗り出して言います。甲洋は困ってしまいました。
(ご褒美、か)
もうすぐ12時の鐘が鳴る頃です。そうしたら目の前にいる魔法使いもまた、魔法のように姿を消してしまうのでしょうか。
どうしてか、甲洋はそれをとても嫌だと感じました。
「本当になんでもいいの?」
「もちろん!」
甲洋はシルクのロンググローブを片方外し、魔法使いに手を伸ばすと、そっと頬についたクリームを指先で拭います。
魔法使いは少し驚いた顔をして、小麦畑のような色をした瞳をパチパチと瞬かせました。
「名前は?」
甲洋がふっと微笑みながら尋ねると、魔法使いはぽわんと赤く頬を染めました。それからやや間を置いて、おずおずと小さな唇が開かれます。
「おれの名前は……来主操」
「じゃあ来主。お前が俺のご褒美になって」
「はえぇ?」
魔法使いが目を丸くしながら素っ頓狂な声をあげました。
「な、なんでぇ? なんでおれがご褒美になるのぉ?」
「さぁ、俺にもよく分からないけど」
甲洋はこの魔法使いの少年と、もう少し一緒にいてみたいと思ったのです。
なんの因果か、空からずっと甲洋を見ていてくれたという、この不思議な少年と。
彼とこうしていると、なぜだか心がポカポカとあたたかくなるのを感じます。これが幸せというものなのかもしれないと、甲洋は思いました。
「うーん、君がそれでいいなら構わないけど……本当に?」
「うん、それで十分」
甲洋が笑って頷くと、魔法使いは「わかった!」と言って頷き返しました。
「それじゃあ今から、おれは君だけの魔法使いになるね!」
12時になり鐘が鳴り響くと甲洋にかかった魔法は解けましたが、ガラスの靴だけは消えずに残り、輝きを放ち続けました。
ようやく自分の幸せを見つけることができた青年は、空からやって来た可愛い魔法使いの少年と、いつまでも末永く一緒に暮らしたのだそうです。
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甲洋は拾われた子供で、お父さんとお母さんは実の親ではありません。
二人はとても意地悪な怠け者で、掃除や洗濯などの家事や畑仕事を全て甲洋一人におしつけ、自分たちは楽な暮らしを送っていました。
そんなある日のこと。この国の王子様が結婚相手を選ぶため、お城で舞踏会が開かれることになりました。
お父さんとお母さんは呼ばれてもいないのに行く気満々です。
甲洋は二人の靴を磨き、着替えを手伝い、綺麗に髪型や髪飾りをセットしてあげました。
「二人とも……本当に行くの?」
姿見の前で身なりをチェックしているお母さんの足元に膝をつき、赤いドレスの裾を整えながら、甲洋はおずおずと視線を上げて問いかけました。
「ええ行くわ。お城の舞踏会なんて、一生に一度行けるかどうかのチャンスですもの」
「それはそうだろうけど……」
果たしてお嫁さん候補を探すための舞踏会に、招待状もなしにシレッと紛れ込むことなんてできるのでしょうか。熟年夫婦が無理に押しかけたところで、追い返されるのが関の山ではないかと甲洋は心配でなりません。
そんな甲洋に、お父さんが能天気な声で言いました。
「なにをグダグダ言ってるんだ。これで王子の目にでもとまってみろ。玉の輿じゃないか」
「いやだわどうしましょう! おほほ」
「わはは」
一見すると冗談を言い合って笑う夫婦の光景に見えますが、甲洋は少しも笑うことができません。
お母さんに代わって姿見の前に立つお父さんを見て、甲洋はずっと言うべきかどうか迷っていたことを、堪えきれずついに言いました。
「父さん……その格好はなにかの間違いだよね?」
目の前には菜の花のように可憐な色をした、フリフリドレスのおじさんがいます。信じがたいことですが、それは女装したお父さんの姿でした。
けばけばしい化粧に、真っ赤なルージュが痛いほど目に突き刺さります。
「なんだ、文句でもあるのか? いいか? 遊びじゃないぞ、甲洋。俺はこの美しさで、必ず王子のハートを射止めてみせる!」
てっきりツッコミ待ちかと思いきや、お父さんは本気の目をして言いました。とても正気の沙汰とは思えません。玉の輿に乗ることを疑いもしないその自信は、一体どこから来るのでしょうか。
甲洋には兵士にひっ捕らえられて牢屋にブチ込まれるお父さんの未来しか見えません。
「甲洋、あなたもさぞかし舞踏会へ行きたいでしょうねぇ」
「いや俺は別に」
「しょうがないさ。ドレスはこの二着しかないしなぁ。こんなみすぼらしい格好の人間が一緒じゃあ、俺たちが恥をかくだけさ」
え、それマジで言ってんの……と、恥を絵に描いたようなお父さんのドレス姿を見つめながら思いましたが、甲洋は賢いので余計なことは言いません。
それにお父さんが言っていることは事実です。甲洋には日頃から、ツギハギだらけのイモいあずきジャージしか与えられていませんでした。胸には『こうよう』とマジックで名前が書かれたワッペンまでついています。
正直これで買い出しに行くのですらちょっとした拷問でしかないのに、お城だなんてとんでもない話です。
「俺はいいから、ふたりとも気をつけて行っておいでよ」
甲洋は死んだ魚のような目で儚く笑い、浮かれきった様子の両親を見送りました。
*
「ショコラ、おいで」
二人が行ってしまうと、甲洋は家の裏の倉庫を開けて、愛犬を家の中に入れました。ショコラは甲洋がお父さんとお母さんに内緒で飼っている可愛い犬です。
「今日は二人とも遅くまで帰らないから、家の中でご飯にしよう」
「わんわん!」
ショコラは黒い尻尾を大きく振って、足にまとわりついてきます。
嬉しそうにはしゃぐ姿に笑いかけ、甲洋はミルクにドッグフードを浸したものをショコラに与えました。よほどお腹が空いていたのか、ショコラは夢中で食べはじめます。
しばらくそれを見守っていると、ふと台所の方からガサリと物音が聞こえました。
「なんだ?」
泥棒でも入ったのでしょうか。ショコラも顔を上げ、音がしたほうをじっと見ています。
甲洋は足音を立てないよう、慎重に台所へと向かいました。
するとそこには、なにやら黒い人影がしゃがみ込んでこちらに背を向け、ゴソゴソと蠢いています。
「誰?」
声をかけると、全身真っ黒の影がビクンと跳ねました。
甲洋の声に、影が恐る恐るといった様子で振り向きました。顔はフードに隠れてよく見えませんが、口にパンを咥えていることは分かります。
影だと思っていたのは、その人物が頭から爪先をフードつきの大きな黒いローブで覆っていたからでした。
「もご、むぐぐッ!?」
謎の人物は甲洋と目が合った瞬間、パンを喉に詰まらせてもがき苦しみました。激しく身を震わせ、胸をドンドンと叩いています。
甲洋はなんて間抜けな泥棒だと呆れながら、カップにミルク(犬用)を注ぐと、そっと差し出しました。
「ほら、とりあえずこれ飲んで」
「んぐぐッ、うぅ~~……んっ、ぷは! 死ぬかと思った!」
ミルク(犬用)を飲み干した人物が息をつきながら天を仰ぐと、フードが脱げて亜麻色の綺麗な髪が姿を現しました。まだあどけない顔をした少年です。
甲洋は腕を組み、床にペタリと座ったままの少年を見下ろして言いました。
「どこの子? 人のうちに勝手に入って、勝手にパンを食べるなんて」
「助けてくれてありがとう! おれは魔法使い。空から来たよ!」
「……通報するから動かないでいて。ショコラ」
「わう!」
甲洋が呼ぶと、見張りは任せろとばかりにショコラが背後から飛び出し、少年の目の前で姿勢を低くしながら唸りを上げました。
「わああぁ!? 犬だ! やだやだ助けて! 動かないからあっちに行ってぇ!」
少年はひどく怯えて、再びフードをすっぽりとかぶりながら丸くなってしまいました。よほどショコラが怖いのか、可哀想なくらい震えています。
流石に少し気の毒になってきた甲洋は、少年の傍にしゃがみこむと手で軽くショコラを制しました。
「で? どこの子? 名前は?」
おずおずと顔をあげた少年は、目にいっぱい涙を溜めています。その情けない表情にSっ気をそそられた甲洋は、一瞬だけ胸が疼くのを感じました。
「おれは魔法使いだよ。空から来たんだってば」
「……そう。でも泥棒はよくないね」
「君ぜんぜん信じてないでしょ! さっきからずっと目が死んでるし!」
魔法使いと名乗った少年は、ご立腹した様子で勢いよく立ち上がりました。それからローブの中に手を入れて、ゴソゴソと何かを探ると一本の棒切れを取り出します。
「じゃーん! 証拠に、魔法のステッキも持ってるよ!」
「ひのきのぼう?」
「そんな初期の最弱武器と一緒にしないで!」
よく見れば、細長い棒切れの先端には星がついています。クリスマスツリーの天辺につけるようなアレが、ガムテープでぐるぐる巻きに固定されていました。驚きの低クオリティに、甲洋はいよいよ困ったなぁと頭を掻きました。
いわゆる不思議ちゃんというやつでしょうか。それともただのヤベェ奴でしょうか。いずれにしろ、あまり積極的に関わりたいタイプではありません。
「おれはね、いつもがんばってる君に、ご褒美をあげるために来たんだよ!」
「ご褒美どころか、さっきのパンは俺の夕食だったんだけど」
「もう泣くのはおよし、シンデレラ!」
「泣いてないし、俺はシンデレラなんて名前じゃない」
「え? 違うの? じゃあなんていうの?」
「春日井甲洋」
「そっか、じゃあカスデレr」
「やめて」
食い気味にピシャリと切り捨てた甲洋に、魔法使いは唇を尖らせました。けれどすぐに気を取り直し、にっこり笑顔を浮かべて見せます。
「さあ! そうと決まれば準備をしようよ! 君だって舞踏会に行きたいでしょ?」
「はぁ?」
「まずはカボチャとハツカネズミを用意して! それからトカゲと」
「待って。勝手に話を進められても」
「大丈夫! おれに任せて!」
魔法使いは全く話を聞きません。
嫌な予感しかしない甲洋は、その端正な顔を苦く曇らせるばかりでした。
*
畑にカボチャはありましたが、ネズミとトカゲは見つけることができませんでした。
代わりにどこからかよく遊びにやって来る白猫のクーが、ショコラと庭を駆け回って遊んでいます。
「一体なにをする気?」
「まぁ見てて」
そう言うと、魔法使いは例のステッキをカボチャに向かって振りかざしました。
するとカボチャがどんどん大きくなり、なんということでしょう。金色の馬車へと姿を変えたではありませんか!
「えぇ……」
非現実的すぎる事態に甲洋が引き気味でいると、魔法使いが今度は遊んでいるショコラとクーに向かってステッキを振りかざします。すると二匹はみるみるうちに、美しい白馬へと姿を変えました。
「ショコラ!? クー!?」
これには流石の甲洋も顔色を変えました。
「だいじょうぶ、時間になれば元に戻るから心配しないで。さ、次はいよいよ君の番だね」
「え、ちょっとやめ」
「そーれへんしーん!」
悪魔のステッキが甲洋に向かって振りかざされました。すると次の瞬間、甲洋はみすぼらしいイモジャージから、淡い水色のきらびやかなドレス姿へと変身を遂げていたのです。
ダイヤのティアラが頭の上でピカピカと光り輝き、靴は美しいガラスでできていました。
甲洋はあまりのことに目眩を覚えながら、青ざめるより他にありません。
「なんでドレス……? なんで俺までこんな惨い格好を……!?」
「うわぁー、キレイ! よく似合ってるよ!」
「似合ってたまるか……!」
目を輝かせる魔法使いを尻目に、甲洋の脳裏には今ごろ牢屋にブチ込まれているかもしれないお父さんの背中がよぎりました。義理とはいえ、このままでは親子揃って社会的に死ぬことになってしまいます。そんなのはご免です。
「お前が本物の魔法使いだってことは分かった。分かったから、早くこの呪いを解いて」
「信じてくれて嬉しいよ! 馬車はおれが引くね!」
「あ、ダメだこの子ぜんぜん話聞かないな」
「早くしないと、舞踏会が終わっちゃう!」
「ちょ、ちょっと待って、この靴痛い。凄く痛い」
魔法使いに手を引かれ、甲洋は慣れないヒール靴でよろめきました。しかもこの靴、サイズが合っていません。無理やり足を押し込めているような状態で、このままでは確実に砕け飛び散ってバラバラバラになります。
靴がガラス製であることを考えると、後に起こる惨劇は火を見るよりも明らかでした。
「女装のオプションつきで流血騒ぎはちょっと……」
「12時には魔法が解けるから、それまで我慢して!」
「そんな無茶な……」
これではご褒美どころかただの罰ゲームです。
けれど甲洋は魔法使いによって、強引に馬車に押し込まれてしまうのでした。
*
やって来ました舞踏会。
どうせ門前払いを食らうだろうと思っていた甲洋でしたが、なぜかあっさり大広間まで通されました。ガバガバ警備もいいところです。
広間には大勢の美しく着飾った女性たちがいました。しかしみんな元気がありません。
(どうしたんだろう? もっと活気があるものだと思っていたけど)
中にはメソメソと泣いている女性や、お供や御者の男性と合コンパーティーをはじめる女性たちもいます。みんな王子様のハートを射止めるために来ているはずなのに、一体どうしたというのでしょうか。
「全く冗談じゃない! せっかく来たっていうのに、とんだ無駄足だ!」
不思議そうに辺りを見回していると、そこによく知る声が聞こえてきました。ギクリとしながらその方向を見ると──いました。お父さんとお母さんです。
ふたりはご馳走が並ぶテーブルで、ほとんどやけ酒に溺れている状態でした。
「やっぱり男ってのは、王子様だろうが若い子がいいってことかしらね!」
そういう問題ではないのですが、お母さんもキレながらお酒を飲んでいます。
「ちくしょー! 俺の玉の輿がー!」
そんなことよりよくぞご無事で……と、この城の来る者を拒まない姿勢に感服しながら、甲洋はそそくさとその場を離れて柱の影に身を隠しました。
そのとき、大広間に美しい音楽が鳴り響きました。中央へ目を向けると、年若い黒髪の王子様が、純白のドレスを着た髪の長い女性とダンスを踊っています。
どうやら彼女が誰よりも早く王子様のハートを射止めたようでした。美しい面立ちをした彼女は王子様より幾分か背が高く、女性というにはそこはかとない肩幅勝負感が漂っています。
甲洋は彼女から自分と同じ匂いを感じとりましたが、あえて生温かく微笑むだけに留めると、ささやかな拍手を送りました。どうか末永くお幸せに……。
さて、お父さんとお母さんの無事も確認できましたし、これといって用もないので甲洋はさっさとこの場を後にすることに決めました。
しかし御者を買って出たはずの魔法使いの姿が、どこにもありません。
「ああもう、フラフラと……一体どこに行ったんだあいつは」
この靴で歩き回るのは嫌でしたが、ここで脱ぐわけにもいきません。仕方なく痛む足で慎重に人並みを掻き分けて、魔法使いを探しました。
すると天井まである立派な格子窓の向こうに、月明かりに浮かぶ淡い髪色が見えました。
広々としたテラスには、何席かのテーブルセットが設置されています。他に人影はありません。甲洋はテラスに出ると、魔法使いに声をかけました。
「こんなところにいた」
「あ、甲洋―。これ美味しいよぉ! マカロンっていうんだってー!」
魔法使いはテーブルの上にこれでもかというほど菓子類を取り分けた皿を並べ、呑気にムシャムシャと頬張っています。お前さっき人のパン食べたのにまだ食べるのか……と呆れつつ、甲洋も隣の椅子に腰掛けました。
「王子様には会えた?」
ほっぺたに生クリームをつけた魔法使いに問いかけられ、甲洋は曖昧に笑って見せました。
「うん。幸せそうだったよ」
「そっかー、よかったね」
魔法使いは食べかけのマカロンを口の中に放り込むと、頬をモゴモゴとさせながら夜空を見上げました。つられて見上げた先には、丸くて大きな月がぽっかりと浮かんでいます。
マカロンを飲み込んだ魔法使いが、ぽつりと言いました。
「でもおれは、甲洋に幸せを見つけてほしかったんだけどな」
「俺の幸せ?」
「そう。君の幸せ」
そんなこと、今まで考えたこともありませんでした。
甲洋は幼い頃からずっと不遇な扱いを受けてきました。ボロボロの服を着て、家の仕事を全てこなし、自分のことはないがしろにしながら生きてきたのです。
けれど甲洋はもう大人です。そろそろ自分の幸せというものを、ちゃんと考えてみてもいいのかもしれません。
あの家を出れば、もう隠れてショコラを飼う必要だってなくなるのですから。
甲洋は焼菓子にかぶりつく魔法使いへ目を向けました。食べかすをボロボロと零し、頬にクリームをつけたままの彼は、まるで小さな子供のようです。
ふとそのまま視線を足元へやると、ローブの裾から白い爪先が見えました。魔法使いは足先まですっぽり隠れるほど大きなローブを纏っていたので、甲洋は彼が裸足でいることに気がつかなかったのです。
「お前、靴は?」
「靴? ないよ?」
魔法使いがきょとんとしながら首を傾げ、両手で裾をベロンと捲りました。真っ白の太腿までが露わになって、甲洋はちょっぴり赤くなりながらぎょっとしました。
「ちょ、え? その下、裸?」
「そうだよ。服はこれしか持ってない。ヒトの形をもらったのも、ついさっきのことだもん」
空から舞い降りたという魔法使いは全裸だったのです。そこをたまたま通りがかった知らないおじさんに拾われて、交番という場所へ連れて行かれ、そこで色々な質問を受けたあと、可哀想な目で見られてこのローブをもらったのだと、魔法使いは言いました。
そのおじさん(お巡りさん)もこの不思議ちゃんにはお手上げ状態だったんだろうなと思いながら、甲洋は黒い裾をそっと戻してあげました。
それから甲洋は少し考えたあと、ガラスの靴を脱ぎました。そして椅子から腰をあげ、魔法使いの足元に膝をつくと、右足首に触れて軽く持ち上げました。
不思議そうな顔をしている魔法使いの右足に、靴をそっと履かせます。思った通り、ほっそりとした足にはガラスの靴がピッタリと合いました。
「なんでおれに履かせるの? それは君のためのガラスの靴だよ」
「俺には小さいよ。ほら、お前の方がよく似合う」
魔法使いはむぅっと唇を尖らせます。
「でもこれじゃあ、君へのご褒美にならないよ」
「どうしてそんなにこだわるのさ」
「だっておれはずっと見ていたんだよ。君はどんなにつらくても、いつもがんばるいい子だったでしょ。だからご褒美をあげなくちゃと思ったんだ」
「見てたって、空から?」
「そうだよ」
なんだかよく分かりませんが、どこまでも不思議なことばかりを言うやつだなぁと思いました。けれど彼の言葉はとても嬉しく感じます。
「ねぇ、なにかないの? なんでも言ってよ」
魔法使いが身を乗り出して言います。甲洋は困ってしまいました。
(ご褒美、か)
もうすぐ12時の鐘が鳴る頃です。そうしたら目の前にいる魔法使いもまた、魔法のように姿を消してしまうのでしょうか。
どうしてか、甲洋はそれをとても嫌だと感じました。
「本当になんでもいいの?」
「もちろん!」
甲洋はシルクのロンググローブを片方外し、魔法使いに手を伸ばすと、そっと頬についたクリームを指先で拭います。
魔法使いは少し驚いた顔をして、小麦畑のような色をした瞳をパチパチと瞬かせました。
「名前は?」
甲洋がふっと微笑みながら尋ねると、魔法使いはぽわんと赤く頬を染めました。それからやや間を置いて、おずおずと小さな唇が開かれます。
「おれの名前は……来主操」
「じゃあ来主。お前が俺のご褒美になって」
「はえぇ?」
魔法使いが目を丸くしながら素っ頓狂な声をあげました。
「な、なんでぇ? なんでおれがご褒美になるのぉ?」
「さぁ、俺にもよく分からないけど」
甲洋はこの魔法使いの少年と、もう少し一緒にいてみたいと思ったのです。
なんの因果か、空からずっと甲洋を見ていてくれたという、この不思議な少年と。
彼とこうしていると、なぜだか心がポカポカとあたたかくなるのを感じます。これが幸せというものなのかもしれないと、甲洋は思いました。
「うーん、君がそれでいいなら構わないけど……本当に?」
「うん、それで十分」
甲洋が笑って頷くと、魔法使いは「わかった!」と言って頷き返しました。
「それじゃあ今から、おれは君だけの魔法使いになるね!」
12時になり鐘が鳴り響くと甲洋にかかった魔法は解けましたが、ガラスの靴だけは消えずに残り、輝きを放ち続けました。
ようやく自分の幸せを見つけることができた青年は、空からやって来た可愛い魔法使いの少年と、いつまでも末永く一緒に暮らしたのだそうです。
←戻る ・ Wavebox👏
その日、喫茶楽園には制服姿の珪素系男子が四人勢揃いしていた。
「これが去年も出した夏野菜の冷製パスタ、こっちは冷しゃぶサラダうどん」
「この素麺のつゆは?」
「トマトのだしつゆと、鶏だしつゆだよ。お客さんには注文のとき、好きな方を選んでもらう形がいいかと思うんだけど」
「なるほど。いいんじゃないかな」
四人が囲むひとつのテーブルには、夏に向けたメニューがズラリと並んでいた。
作った本人である一騎がひとつひとつ説明し、店のオーナーである甲洋とあれこれ話をしている。
直接この店に関わっているわけではない総士と操は、黙って二人の会話に耳を傾けながら試食にあやかっていた。
総士は昼食をと思って足を運んだのだが、残念なことに今日が定休日であることを失念していた。しかしちょうどいいから食べてってくれという一騎の申し出に甘えて、ここにいる。
操は総士が来たときにはすでにここにいた。基本的にいつも暇をもてあましている彼は、なんやかんやで常に楽園に入り浸っているのだ。
新メニューはどれも言うまでもなく絶品だった。そもそも一騎が作る料理に間違いはない。
どれも夏向けというだけあってさっぱりしていて、食欲がなくてもツルツルといけそうなものばかりだ。
しかし操は腹が満ちると飽きてきたのか、コースターを指で弾いて遊んだり、空になったグラスの氷をガリガリと噛み砕いたりして明らかに暇そうにしていた。
「ねぇー、この話いつまで続くのぉー? そろそろ遊ぼうよぉ」
「遊びじゃないよ、来主」
「おれは遊びに来てるんだよぉ」
口答えされた甲洋が、無表情でイラッとしている。
操はケロリとした様子で、正面にいる総士の空のグラスに手を伸ばし、「これちょうだい」と言うと氷を口の中に全て流し込んだ。(自分の分は全て食べつくしたので)
ガーリガーリという氷を噛み砕く音に、知覚過敏にればいいのに、という甲洋の心の声が聞こえた気がした。
「ねぇねぇ! 暇だし、おままごとして遊ぼうよ!」
「お、おままごと……だと?」
なにを言いだすんだこいつは。そのあまりにも無邪気で唐突すぎる提案に、総士が顔を顰める。甲洋と一騎も困惑の表情を浮かべていた。
「こないだ美羽のところでやった遊び。楽しかったから、みんなでやりたい!」
操は先日、日野美羽のもとへ遊びに行った際に初めてのままごと体験をしたらしい。その場に居合わせた真矢と千鶴もそれに巻き込まれた。
美羽が母親役、真矢が父親役で、千鶴は子供役、そして操はペットのイグアナ役を演じたのだという。ペットの種類は好みの問題なのでなんとも言えないが、彼がいかにしてイグアナを演じたのかに関しては、極めて興味深いところである。というか、楽しいのかそれは……。
「おままごとか。子供の頃を思いだすな」
一騎が懐かしそうに目を細めながら言った。
男子的にはあまり気乗りしない遊びではあったが、女子の強い要望により何度か付き合わされたことがある。
幼い頃を思いだし、甲洋が死にかけの魚のような翳りを帯びた瞳で儚く笑った。
「母親が翔子、父親は一騎で、俺はその子供だったっけ……毎日おねしょをする設定で……」
「僕は嫁をイビリ倒すことだけが生き甲斐の意地悪な姑役だ……」
「いつも遠見が配役を決めてたんだよな」
朗らかに笑う一騎とは対照的に、総士と甲洋の面持ちは暗い。
少しでも拒む素振りを見せれば翔子が涙ぐみ、冷ややかな目をした真矢に謝罪を要求されるため、逆らえる男子はいなかった。
「へぇ、総士と甲洋って子供社会におけるヒエラルキーの最底辺だったんだ!」
イグアナは黙ってろ……。
「だけどな来主、俺たちはもう流石におままごとなんて年齢じゃないぞ」
困り顔の一騎が、微妙に凍りついていた空気を溶かしにかかる。
「えー! なんでぇ? おままごとは楽しいよ! 年齢なんか関係ないよ!」
「一騎の言う通りだ。僕も遠慮させてもらう」
「どうして!? おれと甲洋だけじゃ寂しいよ!」
「あ、俺には拒否権が与えられてないんだな……」
なぜか甲洋だけは強制参加になっている。
悪いが甲洋にはこのまま生贄になってもらうしかあるまい……などと考えていると、操はテーブルを両手でバンバンと叩いてダダをこねはじめた。
「やだやだ! みんなでやろうよおままごと! ねぇ一騎! 総士ぃー!」
「だから僕は嫌だと」
「しょうがないな……そんなに言うなら少しだけだぞ?」
「アッサリほだされるな一騎! 来主を甘やかすんじゃない!」
「やったー! 一騎は優しいから大好き!」
操の言葉に甲洋が無言でまたしてもイラッとしている。妬く暇があるならこのワガママ坊主を止めたらどうだ……と、総士は痛むこめかみを指先で強く押さえて溜息を漏らした。
*
というわけで、なんだかんだで操に甘い男たち(成人済み)が、ままごと遊びに巻き込まれることになった。
配役は話し合いの結果、
父親……総士
母親……一騎
長男……甲洋
末っ子……操
に決まった。
この歳になってまでおねしょ癖のある子供や、嫁いびりが趣味の姑を演じる羽目になっては敵わないと、操以外の三人で無難に決めた。
やるからにはとことんリアリティを追求すべく、店内のテーブルセットを隅にどかしてちゃぶ台と人数分の座布団を設置した。できれば籠に山盛りのミカンも置きたかったが、オレンジしかなかったのでそれで代用することにした。
これでそこはかとなく一般家庭のお茶の間らしくなったような気がする。
そしていよいよおままごとが始まった。
シーンは総士(父親)が仕事から帰宅するところから始めることになり、総士は律儀にいったん店の外に出た。
くだらないと思いつつ、やると決めたからには妥協はできない。総士は扉を前にふっと息をつき、役作りに集中する。
(5秒後に扉を開け、帰宅の挨拶をしながら店──家に入る。駆け寄ってくる末っ子を高い高いしてやりながら長男に今日の学校での様子を聞いた後、先に風呂にするか食事にするか、妻にするかという究極のルート分岐が──いや、子供たちに寝室を覗かせるのは極めて不健全だ。となると無難に食事からか……)
「総士ぃー! まだぁー?」
バカ正直に脳内シミュレーションという名の妄想をしていた総士だったが、扉の向こうから焦れた様子の操の声がして我に返る。ひとつ咳払いをしてから深呼吸をすると、カウントダウンを開始した。
5秒前、4,3,2,1──
「ただい──……」
小気味良いドアベルの音と共に扉を開けた総士は、目の前に広がる光景に我が目を疑った。
「!?」
「い、痛いぃー! やだやだー! 頭が割れちゃうー!!」
そこにはなぜか操(末っ子)の顔を片手で掴んで持ち上げ、アイアンクロー(別名:脳天締め)をかましている甲洋(長男)の姿があった……。
(な、なんだこれは……一体なにが起こっているというんだ!?)
思い描いていた家族の光景とはまるで違っていた。
この短い間になにが起こったのか。長男に顔面を掴まれている末っ子の爪先が、ちょっぴり地面から浮き上がっている。
仮にも掛け算をしている者同士が、なぜこのようなドメスティックでバイオレンスな状態になっているのだろうか。
長男は無表情だが、心なしか青筋が浮きまくっているような気がした。怒っている。なんだか分からないが、めちゃくちゃ怒っていらっしゃる。
「うわぁーん! やめてよぉ! 助けて総士ぃー!」
ジタバタしながら泣き叫ぶ末っ子にハッと我に返り、総士は一騎(妻)を見た。
妻はのほほんと笑いながら座布団の上に正座して、ナイフでオレンジの皮をリンゴを剥く要領でクルクルと剥いている。
「か、一騎! これはどういうことだ!?」
「はは。やっぱり男の子が二人だと大変だなぁ」
「和んでる場合か!? 一体いつの間におままごとがプロレスごっこになったんだ!?」
「ただの兄弟喧嘩だよ。甲洋、そろそろやめな。割と本気で来主の頭が割れるぞ」
「とめるなかず……母さん。いま出来の悪い弟を可愛がってるところだから」
「痛いよぉー! ギリギリされるのは嫌いだよー!!」
痛めつけているの間違いではないのか……。
「と、とりあえずその辺りにしておけ甲洋。というか、なにがなんだか分かるように説明してくれ……」
「あうぅ~」
長男が仕方なしに手を離すと、末っ子は情けない声をあげながら床にへにゃりと崩れ落ちた。その顔には思いっきり赤い手形が残っている。
ドンとあぐらをかいて顔を背けてしまった長男の代わりに、妻が状況を説明しはじめた。
「来主がイタズラしたんだ。ほら、これを見てみろよ総士」
一騎の隣に腰を下ろした総士の前に、古びた紙が広げられた。
「これは……」
「通信簿だよ、甲洋の」
確かにそれは中学時代の甲洋の通信簿だった。
各教科ごとに五段階で評価されており、そのほとんどが『5』とされている、はずなのだが──。
「オール0になっている……?」
評価すべてに横棒が引かれ、雑な字で『0』と書き直されている。しかも赤いマジックで。
さらにコメント欄には、元々ある担任からのコメント(基本的に褒め言葉ばかり)の上から
『むすこさんは むっつりスケベ です♥』
と、拙い字でデカデカと上書きされていた。
どうすればこんなアホなイタズラが思いつくのだろう。どこから引っ張り出してきたのか知らないが、流石の長男も怒って当然である。
「これは……来主が悪いな……」
「なんでぇ? だってホントのことだよ! 甲洋はむっつりスケベなんだから!」
「どこで覚えてくるんだそんな言葉……僕か? 僕なのか?」
「男は所詮スケベな生き物なんだぞ来主。父さんと母さんだってそうだ。な? あなた」
同意を求められても困るし、妻の口からそんなこと聞きたくない……と、幻想の殻に閉じこもりかけている総士を他所に、妻が母親らしく末っ子を窘めている。
「ほら、ちゃんとお兄ちゃんにごめんなさいしな」
「わかったよぅ……」
渋々といった様子で末っ子が長男にペコリと頭を下げた。
「ごめんね甲洋。次からはオール100にするから許して」
両手をモジモジとさせながら上目遣いで謝罪した末っ子に、いやそういう問題じゃないだろう……と思いながら長男に視線を走らせると、彼はなぜか胸をキュンとさせていた。
「……しょうがないな、俺の弟は」
「ふぁっ、や、ほっぺたふにふにしないでよぅ~。甲洋のバカぁ」
「呼び捨てはダメだよ」
「んぅー、甲洋お兄ちゃんやめてぇ」
「…………いい」(ガッツポーズ)
「何を見せられているんだ僕らは……」
夫婦役の自分たちを差し置いてイチャコラしている兄弟に、今度は総士がイラッとする番だった。父さんはそんな爛れた兄弟愛は認めんぞ……。
*
というわけで、長男が静かに(?)ブチ切れたことで台無しになってしまったおままごとだが、シーンを変えてテイク2することになった。
設定的には先程とたいして変わらない。場面は父親が風呂から上がってきたところから始まることになったため、総士は律儀に脱衣所に待機した。
(一般的に男性の入浴時間は20分以上、30分未満。間をとって、25分か)
ここでも一切妥協する気がない総士は、腕時計を確認しながら再び役作りに専念し、やがてきっちり25分後に脱衣所を出た。
するとその瞬間、バギィッという凄まじい音がした。
「な、なんだ?」
「ウワァァァン!!」
「ッ!? この悲鳴は……来主か!?」
ただ事ではない様子に血相を変えながら茶の間(仮)へ向かうと、そこには修羅場と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
「ギブギブギブー! 折れる! 背骨が折れるよぉー!!」
そこには仰向けにした末っ子の身体を、肩の上に担ぎ上げた豪快すぎる長男の姿があった。
自身の後ろ首を支柱としながら末っ子の顎と脛を掴み、背骨をメリメリと不吉な音がするほど弓なりに反らしている。
「あ、アルゼンチンバックブリーカー(別名:アルゼンチン式背骨折り)だと!? だからどうしておままごとがプロレスごっこになるんだ!?」
最早ごっこ遊びを超越している気がするが、総士が慌てて妻に目を走らせると、彼は笑顔を浮かべながら素手でオレンジを握りつぶし、果汁100%ジュースを作りだしていた。
長男が再びブチ切れ金剛化しているのは見ての通りだが、行き過ぎた兄弟喧嘩に穏やかな妻までもがいよいよキレている。
しかもなぜかちゃぶ台が真っ二つに割れて、Vの字のようになっていた。さっきのバギィはこれか……。
「や、やめろ二人とも! 見ろ! 分かりにくいが、母さん結構な勢いでキレてるぞ!! 甲洋! 何があったか知らないが、ショコラがいないからって自ら手を下すのはやめろ!!」
どうせまた末っ子がなにかやらかしたのは明白だが、ショコラ警察が出動不可能だから(羽佐間さんちに遊びに行ってる)といって、あの優しい長男に高難易度のプロレス技をかけさせるとは。
長男は堪忍袋と言う名の宝石箱が、怒りのジュエルではち切れた状態になっている。これではもう蟲笛もきかない……。
「うえぇ、いだいよぉぉだずげでぇ~~~ぞぉじ~~~!」
「やめろと言っている!!」
総士が捨て身で飛びかかり、ギリギリのところで技を解除させることに成功した。
ズシャア! という効果音と共に床に車田落ちする末っ子。普段は涼しい顔の長男も、うっすらと汗をかきながら肩で息をしている。というか、だいぶ顔色が悪い。
「全く一体なにがあっ……ん? このノートはなんだ?」
ひとまず末っ子の背骨が折れずに済んだことに安堵の息を漏らした総士は、足元に色褪せた青いノートが落ちていることに気がついた。
「ッ!」
咄嗟に拾い上げると、息を呑んだ長男に素早くノートを奪われてしまう。
「甲洋、それは?」
「…………」
「日記だよ」
総士の問いに答えたのは妻だった。
「日記? 甲洋のか? なぜそんなものがここに」
首を傾げる総士に、妻はほとほと困り果てた様子で力なく笑う。その視線は床で伸びている末っ子に向けられていた。
一体なにがあったのか、未だに状況を理解できないでいる総士に、妻がこの25分の間に起こった出来事の全てを語りだした──。
~以下、回想シーン~
几帳面すぎる総士が、おそらくきっちり入浴時間を守って出てくるだろうと踏んだ一騎は、ひたすらオレンジの皮を剥きつつ操のお喋りに付き合っていた。
「ねぇ一騎、おままごとって楽しいね」
「そうだな。まだおままごとらしいことは何もできてないけど」
「これが終わったら、今度はおれが一騎のお母さんになるね」
「俺がお前の子供になるか? 別にいいけど、じゃあ総士と甲洋は?」
「えーっとね」
迷っている操の横で、なぜか甲洋がソワソワしている。その様子はさながらバレンタインデーに「べ、別にチョコなんかいらねーし!」と強がりながらも、一日中ふわふわしている男子中学生を彷彿とさせるものだった。
「よし決めた! 甲洋は赤ちゃんの役!」
「!?」
甲洋が絶句した。その眉間にはみるみるうちに不機嫌そうなシワが寄せられていく。
「なんで俺が赤ちゃん? そこはお前……そこは……違うだろ……」
甲洋はどこか煮え切らない物言いをしながら、なにかを訴えかけるような目をしている。
流石に赤ちゃん役は嫌だよなと気の毒に思った一騎は、助け舟を出すことにした。
「そうすると、今度もまた総士が父親役になっちゃうだろ? なるべくカブらない方がいいんじゃないか? なぁ甲洋」
「うん」
甲洋が大きく頷きながら、無表情で一騎に『GJ』と親指を立ててきた。
操は素直に「あ、そっか」と納得の声をあげる。
「じゃあ総士が赤ちゃん役だね。えへへ、おれ一度でいいから赤ちゃんにおっぱいあげてみたかったんだ!」
「「……え?」」
一騎と甲洋が揃って声をあげる。一瞬で変な空気になってしまったことにも気づかず、操はワクワクした様子で浮かれていた。
「楽しみだな。総士、おれのおっぱいちゃんと吸ってくれるかな?」
「そ、総士に吸わせるのか!? お前のおっぱいを!?」
総士が他人のおっぱいを吸う姿なんて想像したくないし、吸われている姿も当然見たくない。というか、吸うのも吸わせるのも母さん絶対に許さないからな! と焦りながら、一騎は甲洋に縋るような目を向けた。
「甲洋、なんとか言ってくれ! このままじゃ総士が! 総士が!!」
「俺がやる」
「えっ」
「俺がやる」
甲洋の目つきが変わっていた。
「吸うよ……来主のおっぱい」
そこには赤子役への並々ならぬ執着と熱意が垣間見える。それにしても今のトーン……名言を汚されたような気持ちになるからやめてほしい。
「えー、でもそれじゃ総士が」
「俺が父親と赤ちゃんの二役をやる。そうすれば誰も傷つかない」
「二役……? それってありなのか……?」
「俺が母なる来主から生まれて、母なる来主と結ばれる。そういうシナリオで行こう」
「なんか気持ち悪いぞお前……」
とりあえず親友の性癖が歪んでいることだけはよく分かった……。
その後、三人は話し合って総士の役をペットのカブトムシに決めた。
ゼリーを用意しないとなと考えていると、テーブルに頬杖をついた操が「総士まだかなぁ」とぼやきはじめる。
「そろそろだと思うけど」
一騎がオレンジの皮を剥きながら(あとでタルトを作る予定)言うと、暇を持て余した操は「あ、そうだ!」と掌に拳をぽんと叩きつけた。
「暇つぶしにちょうどいいものがあるよ!」
そう言うと、操は制服のジャケットの内側をなにやらゴソゴソと探りはじめる。さっきもこの調子で通信簿を取りだしたっけなぁと思いつつ見守っていると、そこから古びたノートが姿を現した。
一体なにが始まるのだろうかと戸惑いながら甲洋に目配せすると、彼は腕を組んで俯きながら目を閉じて瞑想していた。いや、妄想だろうか。おそらく例のシナリオを脳内でシミュレートしているに違いない。今はそっとしておこう……。
操は卓袱台の上にノートを広げる。そしてすぅっと息を吸い込み、朗読しはじめた。
「血に濡れたペルソナ(仮面)を纏いし殺人鬼が徘徊する夜……。
こんな日は、冥界の番犬ケルベロスを従えて挑んだジハード(聖戦)で負った古傷が、疼いてしかたない。
しかし俺はそのペイン(痛み)に耐えながらも、人の汚れし業(カルマ)を浄化する白き聖杯に光を取り戻すまで、眠りにつくことは許されない。
それがセラフィム(熾天使)である俺に課せられし、抗えぬレゾンデートル(存在理由)。
早くしなければ。ジャッジメント(審判)の日は近い。ガイア(地上)が俺に囁いている。」
「ブフォォッ」
瞑想にふけっていた甲洋が突如として吹き出した。
「なんなんだ? ジハードとかカルマとかガイアとか……SF小説かなにかか?」
一騎が文面の意味を理解できずに首を傾げていると、甲洋が赤くなったり青くなったりしながら操が手にしているノートを指差す。
「くる、く、来主……今のは……そそ、そのノートは、一体どこから……!?」
「これ? 甲洋の部屋の押入れを漁ってたら出てきた本だよ」
ケロッと言い放った操から、甲洋がこの世の終わりを見たような表情でノートを奪おうとした。が、彼はシュンッとワープして一騎の背に隠れる。
「さっきのは甲洋が書いたものなのか」
「来主! それは禁書だ! お前が触れていいものじゃない!」
「なんでぇ? これ読んでるとすごく面白いよ! よくわかんないけど背中がゾワゾワしてきて、その感じが癖になるっていうか──えっとね、まだまだいっぱい続きがあるから、読んであげるね!」
「やめ、やめて!!」
甲洋が帰還後の彼からは想像もつかないほど激しく取り乱している。
銃口を突きつけられてもケロリとしていた彼をここまで追い詰めるなんて、その禁書とやらはそれほどまでに禍々しい書物なのか。
しかし甲洋がいよいよキャラを保っていられなくなる前にと、一騎はうまく話を逸らすことにした。
「甲洋、このノートはなんなんだ? お前って作家志望だったっけ? なんだか分からないけど、凄い内容だな。ちっとも意味は分からないけど」
「~~~ッ!!」
褒めたつもりなのだが、甲洋は卓袱台に突っ伏して小刻みに震えている。そして耳まで赤くしながら蚊の鳴くような声で「……中学時代の……日記だ」と言った。
「これ日記なのか? てっきり小説でも書いてたのかとばかり……」
ちなみにあの文章をシンプルに訳すと
『今日は13日の金曜日。
夕まずめを狙って、学校が終わってからショコラと一緒に釣りに出かけた。
そうしたらうっかり釣り針に指を引っ掛けてしまい、かなり血が出た。結構痛い。
でもトイレ掃除をするように母さんに言われたので、寝る前にちゃんと終わらせよう。
明日は大事なテストの日だから、遅刻しないように早く寝なくちゃ。』
になるらしい。全くもって意味が分からない。なぜそのまま素直に書かなかったのか。
まさか『汚れし業(カルマ)を浄化する白き聖杯』が、『便器』のことだなんて思いもしなかった……。
「ち、違う、それは夜の妖精さん的なアレがイタズラをしたというか、若気の至りというか……とにかく、それを書いていたのは俺であって俺じゃなくて、俺の中のもう一人の俺が」
「言えば言うほど墓穴を掘ってる気がするな……」
そうこうしているうちに、一騎の背中にくっついたままの操が再び日記を音読しはじめる。
「ちょ、ちょっと! 本気でやめッ……!」
「彼女はこの傷つき疲れ果てた心の暗闇を照らし出す、瓦礫のルイン(廃墟)に咲いた花……そう、永遠(とこしえ)に咲き乱れるステラ(星)のスノーフレーク。俺の聖なる救世主(メシア)、清廉なる湖の乙女。ファルシのルシがコクーンでパージ……」
「ああぁ~~~!!」
頭を抱えて悶絶する甲洋。そのキャラが完全に崩壊している様子があまりにも憐れで、一騎は操からノートを取り上げようとした。が、その前に操はノートをパタリと閉じてしまう。
「なにこれ……? なんか、ぜんぜん意味わかんないのにここがチクチクして、モヤモヤして……やな感じがする」
操が顔を顰めて胸に手をやり、むっと口をへの字に曲げる。おそらく誰かへの熱い想いを綴った内容と思しき文章に、彼がジェラシーを理解しかけた瞬間であった。
「なんかもう飽きちゃった! おれ総士を呼んでく──」
操がノートをポイッと放り出した瞬間
バギィッ
という音がした。ぎょっとした一騎と操の眼の前には、手刀で卓袱台を割った甲洋が、真っ赤な顔をしながら涙目でプルプルしていた……。
~回想シーンここまで~
「で、あの背骨折りか……」
あのノートは、多感な年頃によくある(?)†黒歴史ノート†だったのだ。
回想中、いよいよ耐えきれなくなった甲洋が総士の足元に蹲って身を震わせていた。おそらくしばらくは立ち直れまい。メンタルリセット不可能な状態である。
総士は膝をつき、痛々しく震える肩にそっと手を添えた。
「しっかりしろ甲洋。誰にだってこういう時期はある……」
「そうだぞ甲洋。父さんなんか現役のデスポエマーなんだから。な? あなた」
「……」
妻が天然でディスってくる。総士もまた心に深い傷を負ってしまった……。
ところで厨ニノートのインパクトのせいで薄れかけていたが、前半部分の回想は必要だったのだろうか。
まさか脱衣所に待機している間、危うく操の乳を吸うフラグが立ちかけたり、受けた覚えのないカブトムシオーディションに合格していたとは。一体なにを基準に決めたのか、三人を正座させて小一時間ほど問い詰めたい気持ちになる総士だった。
*
結局まともにままごと遊びができないまま、日が暮れようとしていた。
卓袱台と座布団を片付け、四人は元通りになった店内でひとつのテーブルを囲んでいる。
「疲れたな……」
総士がげっそりしながら言うと、甲洋が「俺も」と同意する。
一騎は小さく笑うだけだったが、流石にその笑顔にも疲労が滲んでいるようだった。
あのあと目を覚ました操の頭部を掴み、床にめり込むほどの土下座をさせたことで甲洋のメンタルはリセットされ、崩壊していたキャラもどうにか無事に修復された。
額に大きな痣を作った操はわんわん泣いたが、一騎が素手で絞った果汁100%ジュースを飲ませると笑顔になった。
「楽しかったね! また今度みんなでやろう!」
あれだけ痛い目にあっておいて何が楽しかったのか、操は一騎が作ったオレンジタルトを頬張りながら言った。
「僕はもう嫌だ。カブトムシを演じるつもりもない」
「えぇー!? なんで!? 総士は楽しくなかったの!?」
「逆にあれのどこが楽しかったのか、理解不能だ」
唯一の救いは一騎と夫婦設定という一点のみだったというのに、それが全く生かされることなくただ疲労困憊しただけだった。
ピシャリと言い捨てると、操は「ちぇー」と唇を尖らせながらフォークでタルトをツンツンとつつく。
「赤ちゃんにおっぱいあげたかったのに……」
操が残念そうに漏らすと、疲れ切って項垂れていたはずの甲洋が急にしゃっきりと背筋を伸ばした。
「それは別にこのあとすぐにでもできる」
「えぇー? でも総士はもうやらないって言ってるよ」
「来主、その遊びは二人だけでした方が絶対に楽しい」
「ほんと? うーん……わかった! じゃあおれと甲洋だけでいいよ!」
もう少し渋るかと思いきや、操はコロッと了承してしまう。彼は一体どこまで理解しているのだろうか。いや、この様子ではおそらく何も分かっていないだろう。が、よくよく考えれば真っ先に甲洋を赤ん坊役に指名したあたり、操の中にもまた特殊な性癖が眠っているのかもしれない。(自覚していないだけで)
その間、甲洋はテーブルの下で密かにガッツポーズをしていた。どこに出しても恥ずかしいむっつりスケベである。
「では、僕らはそろそろ退散しよう」
総士が溜息を漏らしながら席を立つ。遠回しと見せかけて、こうも堂々と「このあとヤりまくります★」と宣言されては、居心地が悪いったらありゃしない。
生むなり吸うなり好きにしろという思いで、総士は一騎と共に楽園を後にしたのだった。
その後、甲洋は操と欲望のままにプレイを堪能し、なんやかんやで触発されてしまった英雄二人も、ノリノリで夜の夫婦ごっこに励んだのだが、それはまた別のお話……。
←戻る ・ Wavebox👏
「これが去年も出した夏野菜の冷製パスタ、こっちは冷しゃぶサラダうどん」
「この素麺のつゆは?」
「トマトのだしつゆと、鶏だしつゆだよ。お客さんには注文のとき、好きな方を選んでもらう形がいいかと思うんだけど」
「なるほど。いいんじゃないかな」
四人が囲むひとつのテーブルには、夏に向けたメニューがズラリと並んでいた。
作った本人である一騎がひとつひとつ説明し、店のオーナーである甲洋とあれこれ話をしている。
直接この店に関わっているわけではない総士と操は、黙って二人の会話に耳を傾けながら試食にあやかっていた。
総士は昼食をと思って足を運んだのだが、残念なことに今日が定休日であることを失念していた。しかしちょうどいいから食べてってくれという一騎の申し出に甘えて、ここにいる。
操は総士が来たときにはすでにここにいた。基本的にいつも暇をもてあましている彼は、なんやかんやで常に楽園に入り浸っているのだ。
新メニューはどれも言うまでもなく絶品だった。そもそも一騎が作る料理に間違いはない。
どれも夏向けというだけあってさっぱりしていて、食欲がなくてもツルツルといけそうなものばかりだ。
しかし操は腹が満ちると飽きてきたのか、コースターを指で弾いて遊んだり、空になったグラスの氷をガリガリと噛み砕いたりして明らかに暇そうにしていた。
「ねぇー、この話いつまで続くのぉー? そろそろ遊ぼうよぉ」
「遊びじゃないよ、来主」
「おれは遊びに来てるんだよぉ」
口答えされた甲洋が、無表情でイラッとしている。
操はケロリとした様子で、正面にいる総士の空のグラスに手を伸ばし、「これちょうだい」と言うと氷を口の中に全て流し込んだ。(自分の分は全て食べつくしたので)
ガーリガーリという氷を噛み砕く音に、知覚過敏にればいいのに、という甲洋の心の声が聞こえた気がした。
「ねぇねぇ! 暇だし、おままごとして遊ぼうよ!」
「お、おままごと……だと?」
なにを言いだすんだこいつは。そのあまりにも無邪気で唐突すぎる提案に、総士が顔を顰める。甲洋と一騎も困惑の表情を浮かべていた。
「こないだ美羽のところでやった遊び。楽しかったから、みんなでやりたい!」
操は先日、日野美羽のもとへ遊びに行った際に初めてのままごと体験をしたらしい。その場に居合わせた真矢と千鶴もそれに巻き込まれた。
美羽が母親役、真矢が父親役で、千鶴は子供役、そして操はペットのイグアナ役を演じたのだという。ペットの種類は好みの問題なのでなんとも言えないが、彼がいかにしてイグアナを演じたのかに関しては、極めて興味深いところである。というか、楽しいのかそれは……。
「おままごとか。子供の頃を思いだすな」
一騎が懐かしそうに目を細めながら言った。
男子的にはあまり気乗りしない遊びではあったが、女子の強い要望により何度か付き合わされたことがある。
幼い頃を思いだし、甲洋が死にかけの魚のような翳りを帯びた瞳で儚く笑った。
「母親が翔子、父親は一騎で、俺はその子供だったっけ……毎日おねしょをする設定で……」
「僕は嫁をイビリ倒すことだけが生き甲斐の意地悪な姑役だ……」
「いつも遠見が配役を決めてたんだよな」
朗らかに笑う一騎とは対照的に、総士と甲洋の面持ちは暗い。
少しでも拒む素振りを見せれば翔子が涙ぐみ、冷ややかな目をした真矢に謝罪を要求されるため、逆らえる男子はいなかった。
「へぇ、総士と甲洋って子供社会におけるヒエラルキーの最底辺だったんだ!」
イグアナは黙ってろ……。
「だけどな来主、俺たちはもう流石におままごとなんて年齢じゃないぞ」
困り顔の一騎が、微妙に凍りついていた空気を溶かしにかかる。
「えー! なんでぇ? おままごとは楽しいよ! 年齢なんか関係ないよ!」
「一騎の言う通りだ。僕も遠慮させてもらう」
「どうして!? おれと甲洋だけじゃ寂しいよ!」
「あ、俺には拒否権が与えられてないんだな……」
なぜか甲洋だけは強制参加になっている。
悪いが甲洋にはこのまま生贄になってもらうしかあるまい……などと考えていると、操はテーブルを両手でバンバンと叩いてダダをこねはじめた。
「やだやだ! みんなでやろうよおままごと! ねぇ一騎! 総士ぃー!」
「だから僕は嫌だと」
「しょうがないな……そんなに言うなら少しだけだぞ?」
「アッサリほだされるな一騎! 来主を甘やかすんじゃない!」
「やったー! 一騎は優しいから大好き!」
操の言葉に甲洋が無言でまたしてもイラッとしている。妬く暇があるならこのワガママ坊主を止めたらどうだ……と、総士は痛むこめかみを指先で強く押さえて溜息を漏らした。
*
というわけで、なんだかんだで操に甘い男たち(成人済み)が、ままごと遊びに巻き込まれることになった。
配役は話し合いの結果、
父親……総士
母親……一騎
長男……甲洋
末っ子……操
に決まった。
この歳になってまでおねしょ癖のある子供や、嫁いびりが趣味の姑を演じる羽目になっては敵わないと、操以外の三人で無難に決めた。
やるからにはとことんリアリティを追求すべく、店内のテーブルセットを隅にどかしてちゃぶ台と人数分の座布団を設置した。できれば籠に山盛りのミカンも置きたかったが、オレンジしかなかったのでそれで代用することにした。
これでそこはかとなく一般家庭のお茶の間らしくなったような気がする。
そしていよいよおままごとが始まった。
シーンは総士(父親)が仕事から帰宅するところから始めることになり、総士は律儀にいったん店の外に出た。
くだらないと思いつつ、やると決めたからには妥協はできない。総士は扉を前にふっと息をつき、役作りに集中する。
(5秒後に扉を開け、帰宅の挨拶をしながら店──家に入る。駆け寄ってくる末っ子を高い高いしてやりながら長男に今日の学校での様子を聞いた後、先に風呂にするか食事にするか、妻にするかという究極のルート分岐が──いや、子供たちに寝室を覗かせるのは極めて不健全だ。となると無難に食事からか……)
「総士ぃー! まだぁー?」
バカ正直に脳内シミュレーションという名の妄想をしていた総士だったが、扉の向こうから焦れた様子の操の声がして我に返る。ひとつ咳払いをしてから深呼吸をすると、カウントダウンを開始した。
5秒前、4,3,2,1──
「ただい──……」
小気味良いドアベルの音と共に扉を開けた総士は、目の前に広がる光景に我が目を疑った。
「!?」
「い、痛いぃー! やだやだー! 頭が割れちゃうー!!」
そこにはなぜか操(末っ子)の顔を片手で掴んで持ち上げ、アイアンクロー(別名:脳天締め)をかましている甲洋(長男)の姿があった……。
(な、なんだこれは……一体なにが起こっているというんだ!?)
思い描いていた家族の光景とはまるで違っていた。
この短い間になにが起こったのか。長男に顔面を掴まれている末っ子の爪先が、ちょっぴり地面から浮き上がっている。
仮にも掛け算をしている者同士が、なぜこのようなドメスティックでバイオレンスな状態になっているのだろうか。
長男は無表情だが、心なしか青筋が浮きまくっているような気がした。怒っている。なんだか分からないが、めちゃくちゃ怒っていらっしゃる。
「うわぁーん! やめてよぉ! 助けて総士ぃー!」
ジタバタしながら泣き叫ぶ末っ子にハッと我に返り、総士は一騎(妻)を見た。
妻はのほほんと笑いながら座布団の上に正座して、ナイフでオレンジの皮をリンゴを剥く要領でクルクルと剥いている。
「か、一騎! これはどういうことだ!?」
「はは。やっぱり男の子が二人だと大変だなぁ」
「和んでる場合か!? 一体いつの間におままごとがプロレスごっこになったんだ!?」
「ただの兄弟喧嘩だよ。甲洋、そろそろやめな。割と本気で来主の頭が割れるぞ」
「とめるなかず……母さん。いま出来の悪い弟を可愛がってるところだから」
「痛いよぉー! ギリギリされるのは嫌いだよー!!」
痛めつけているの間違いではないのか……。
「と、とりあえずその辺りにしておけ甲洋。というか、なにがなんだか分かるように説明してくれ……」
「あうぅ~」
長男が仕方なしに手を離すと、末っ子は情けない声をあげながら床にへにゃりと崩れ落ちた。その顔には思いっきり赤い手形が残っている。
ドンとあぐらをかいて顔を背けてしまった長男の代わりに、妻が状況を説明しはじめた。
「来主がイタズラしたんだ。ほら、これを見てみろよ総士」
一騎の隣に腰を下ろした総士の前に、古びた紙が広げられた。
「これは……」
「通信簿だよ、甲洋の」
確かにそれは中学時代の甲洋の通信簿だった。
各教科ごとに五段階で評価されており、そのほとんどが『5』とされている、はずなのだが──。
「オール0になっている……?」
評価すべてに横棒が引かれ、雑な字で『0』と書き直されている。しかも赤いマジックで。
さらにコメント欄には、元々ある担任からのコメント(基本的に褒め言葉ばかり)の上から
『むすこさんは むっつりスケベ です♥』
と、拙い字でデカデカと上書きされていた。
どうすればこんなアホなイタズラが思いつくのだろう。どこから引っ張り出してきたのか知らないが、流石の長男も怒って当然である。
「これは……来主が悪いな……」
「なんでぇ? だってホントのことだよ! 甲洋はむっつりスケベなんだから!」
「どこで覚えてくるんだそんな言葉……僕か? 僕なのか?」
「男は所詮スケベな生き物なんだぞ来主。父さんと母さんだってそうだ。な? あなた」
同意を求められても困るし、妻の口からそんなこと聞きたくない……と、幻想の殻に閉じこもりかけている総士を他所に、妻が母親らしく末っ子を窘めている。
「ほら、ちゃんとお兄ちゃんにごめんなさいしな」
「わかったよぅ……」
渋々といった様子で末っ子が長男にペコリと頭を下げた。
「ごめんね甲洋。次からはオール100にするから許して」
両手をモジモジとさせながら上目遣いで謝罪した末っ子に、いやそういう問題じゃないだろう……と思いながら長男に視線を走らせると、彼はなぜか胸をキュンとさせていた。
「……しょうがないな、俺の弟は」
「ふぁっ、や、ほっぺたふにふにしないでよぅ~。甲洋のバカぁ」
「呼び捨てはダメだよ」
「んぅー、甲洋お兄ちゃんやめてぇ」
「…………いい」(ガッツポーズ)
「何を見せられているんだ僕らは……」
夫婦役の自分たちを差し置いてイチャコラしている兄弟に、今度は総士がイラッとする番だった。父さんはそんな爛れた兄弟愛は認めんぞ……。
*
というわけで、長男が静かに(?)ブチ切れたことで台無しになってしまったおままごとだが、シーンを変えてテイク2することになった。
設定的には先程とたいして変わらない。場面は父親が風呂から上がってきたところから始まることになったため、総士は律儀に脱衣所に待機した。
(一般的に男性の入浴時間は20分以上、30分未満。間をとって、25分か)
ここでも一切妥協する気がない総士は、腕時計を確認しながら再び役作りに専念し、やがてきっちり25分後に脱衣所を出た。
するとその瞬間、バギィッという凄まじい音がした。
「な、なんだ?」
「ウワァァァン!!」
「ッ!? この悲鳴は……来主か!?」
ただ事ではない様子に血相を変えながら茶の間(仮)へ向かうと、そこには修羅場と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
「ギブギブギブー! 折れる! 背骨が折れるよぉー!!」
そこには仰向けにした末っ子の身体を、肩の上に担ぎ上げた豪快すぎる長男の姿があった。
自身の後ろ首を支柱としながら末っ子の顎と脛を掴み、背骨をメリメリと不吉な音がするほど弓なりに反らしている。
「あ、アルゼンチンバックブリーカー(別名:アルゼンチン式背骨折り)だと!? だからどうしておままごとがプロレスごっこになるんだ!?」
最早ごっこ遊びを超越している気がするが、総士が慌てて妻に目を走らせると、彼は笑顔を浮かべながら素手でオレンジを握りつぶし、果汁100%ジュースを作りだしていた。
長男が再びブチ切れ金剛化しているのは見ての通りだが、行き過ぎた兄弟喧嘩に穏やかな妻までもがいよいよキレている。
しかもなぜかちゃぶ台が真っ二つに割れて、Vの字のようになっていた。さっきのバギィはこれか……。
「や、やめろ二人とも! 見ろ! 分かりにくいが、母さん結構な勢いでキレてるぞ!! 甲洋! 何があったか知らないが、ショコラがいないからって自ら手を下すのはやめろ!!」
どうせまた末っ子がなにかやらかしたのは明白だが、ショコラ警察が出動不可能だから(羽佐間さんちに遊びに行ってる)といって、あの優しい長男に高難易度のプロレス技をかけさせるとは。
長男は堪忍袋と言う名の宝石箱が、怒りのジュエルではち切れた状態になっている。これではもう蟲笛もきかない……。
「うえぇ、いだいよぉぉだずげでぇ~~~ぞぉじ~~~!」
「やめろと言っている!!」
総士が捨て身で飛びかかり、ギリギリのところで技を解除させることに成功した。
ズシャア! という効果音と共に床に車田落ちする末っ子。普段は涼しい顔の長男も、うっすらと汗をかきながら肩で息をしている。というか、だいぶ顔色が悪い。
「全く一体なにがあっ……ん? このノートはなんだ?」
ひとまず末っ子の背骨が折れずに済んだことに安堵の息を漏らした総士は、足元に色褪せた青いノートが落ちていることに気がついた。
「ッ!」
咄嗟に拾い上げると、息を呑んだ長男に素早くノートを奪われてしまう。
「甲洋、それは?」
「…………」
「日記だよ」
総士の問いに答えたのは妻だった。
「日記? 甲洋のか? なぜそんなものがここに」
首を傾げる総士に、妻はほとほと困り果てた様子で力なく笑う。その視線は床で伸びている末っ子に向けられていた。
一体なにがあったのか、未だに状況を理解できないでいる総士に、妻がこの25分の間に起こった出来事の全てを語りだした──。
~以下、回想シーン~
几帳面すぎる総士が、おそらくきっちり入浴時間を守って出てくるだろうと踏んだ一騎は、ひたすらオレンジの皮を剥きつつ操のお喋りに付き合っていた。
「ねぇ一騎、おままごとって楽しいね」
「そうだな。まだおままごとらしいことは何もできてないけど」
「これが終わったら、今度はおれが一騎のお母さんになるね」
「俺がお前の子供になるか? 別にいいけど、じゃあ総士と甲洋は?」
「えーっとね」
迷っている操の横で、なぜか甲洋がソワソワしている。その様子はさながらバレンタインデーに「べ、別にチョコなんかいらねーし!」と強がりながらも、一日中ふわふわしている男子中学生を彷彿とさせるものだった。
「よし決めた! 甲洋は赤ちゃんの役!」
「!?」
甲洋が絶句した。その眉間にはみるみるうちに不機嫌そうなシワが寄せられていく。
「なんで俺が赤ちゃん? そこはお前……そこは……違うだろ……」
甲洋はどこか煮え切らない物言いをしながら、なにかを訴えかけるような目をしている。
流石に赤ちゃん役は嫌だよなと気の毒に思った一騎は、助け舟を出すことにした。
「そうすると、今度もまた総士が父親役になっちゃうだろ? なるべくカブらない方がいいんじゃないか? なぁ甲洋」
「うん」
甲洋が大きく頷きながら、無表情で一騎に『GJ』と親指を立ててきた。
操は素直に「あ、そっか」と納得の声をあげる。
「じゃあ総士が赤ちゃん役だね。えへへ、おれ一度でいいから赤ちゃんにおっぱいあげてみたかったんだ!」
「「……え?」」
一騎と甲洋が揃って声をあげる。一瞬で変な空気になってしまったことにも気づかず、操はワクワクした様子で浮かれていた。
「楽しみだな。総士、おれのおっぱいちゃんと吸ってくれるかな?」
「そ、総士に吸わせるのか!? お前のおっぱいを!?」
総士が他人のおっぱいを吸う姿なんて想像したくないし、吸われている姿も当然見たくない。というか、吸うのも吸わせるのも母さん絶対に許さないからな! と焦りながら、一騎は甲洋に縋るような目を向けた。
「甲洋、なんとか言ってくれ! このままじゃ総士が! 総士が!!」
「俺がやる」
「えっ」
「俺がやる」
甲洋の目つきが変わっていた。
「吸うよ……来主のおっぱい」
そこには赤子役への並々ならぬ執着と熱意が垣間見える。それにしても今のトーン……名言を汚されたような気持ちになるからやめてほしい。
「えー、でもそれじゃ総士が」
「俺が父親と赤ちゃんの二役をやる。そうすれば誰も傷つかない」
「二役……? それってありなのか……?」
「俺が母なる来主から生まれて、母なる来主と結ばれる。そういうシナリオで行こう」
「なんか気持ち悪いぞお前……」
とりあえず親友の性癖が歪んでいることだけはよく分かった……。
その後、三人は話し合って総士の役をペットのカブトムシに決めた。
ゼリーを用意しないとなと考えていると、テーブルに頬杖をついた操が「総士まだかなぁ」とぼやきはじめる。
「そろそろだと思うけど」
一騎がオレンジの皮を剥きながら(あとでタルトを作る予定)言うと、暇を持て余した操は「あ、そうだ!」と掌に拳をぽんと叩きつけた。
「暇つぶしにちょうどいいものがあるよ!」
そう言うと、操は制服のジャケットの内側をなにやらゴソゴソと探りはじめる。さっきもこの調子で通信簿を取りだしたっけなぁと思いつつ見守っていると、そこから古びたノートが姿を現した。
一体なにが始まるのだろうかと戸惑いながら甲洋に目配せすると、彼は腕を組んで俯きながら目を閉じて瞑想していた。いや、妄想だろうか。おそらく例のシナリオを脳内でシミュレートしているに違いない。今はそっとしておこう……。
操は卓袱台の上にノートを広げる。そしてすぅっと息を吸い込み、朗読しはじめた。
「血に濡れたペルソナ(仮面)を纏いし殺人鬼が徘徊する夜……。
こんな日は、冥界の番犬ケルベロスを従えて挑んだジハード(聖戦)で負った古傷が、疼いてしかたない。
しかし俺はそのペイン(痛み)に耐えながらも、人の汚れし業(カルマ)を浄化する白き聖杯に光を取り戻すまで、眠りにつくことは許されない。
それがセラフィム(熾天使)である俺に課せられし、抗えぬレゾンデートル(存在理由)。
早くしなければ。ジャッジメント(審判)の日は近い。ガイア(地上)が俺に囁いている。」
「ブフォォッ」
瞑想にふけっていた甲洋が突如として吹き出した。
「なんなんだ? ジハードとかカルマとかガイアとか……SF小説かなにかか?」
一騎が文面の意味を理解できずに首を傾げていると、甲洋が赤くなったり青くなったりしながら操が手にしているノートを指差す。
「くる、く、来主……今のは……そそ、そのノートは、一体どこから……!?」
「これ? 甲洋の部屋の押入れを漁ってたら出てきた本だよ」
ケロッと言い放った操から、甲洋がこの世の終わりを見たような表情でノートを奪おうとした。が、彼はシュンッとワープして一騎の背に隠れる。
「さっきのは甲洋が書いたものなのか」
「来主! それは禁書だ! お前が触れていいものじゃない!」
「なんでぇ? これ読んでるとすごく面白いよ! よくわかんないけど背中がゾワゾワしてきて、その感じが癖になるっていうか──えっとね、まだまだいっぱい続きがあるから、読んであげるね!」
「やめ、やめて!!」
甲洋が帰還後の彼からは想像もつかないほど激しく取り乱している。
銃口を突きつけられてもケロリとしていた彼をここまで追い詰めるなんて、その禁書とやらはそれほどまでに禍々しい書物なのか。
しかし甲洋がいよいよキャラを保っていられなくなる前にと、一騎はうまく話を逸らすことにした。
「甲洋、このノートはなんなんだ? お前って作家志望だったっけ? なんだか分からないけど、凄い内容だな。ちっとも意味は分からないけど」
「~~~ッ!!」
褒めたつもりなのだが、甲洋は卓袱台に突っ伏して小刻みに震えている。そして耳まで赤くしながら蚊の鳴くような声で「……中学時代の……日記だ」と言った。
「これ日記なのか? てっきり小説でも書いてたのかとばかり……」
ちなみにあの文章をシンプルに訳すと
『今日は13日の金曜日。
夕まずめを狙って、学校が終わってからショコラと一緒に釣りに出かけた。
そうしたらうっかり釣り針に指を引っ掛けてしまい、かなり血が出た。結構痛い。
でもトイレ掃除をするように母さんに言われたので、寝る前にちゃんと終わらせよう。
明日は大事なテストの日だから、遅刻しないように早く寝なくちゃ。』
になるらしい。全くもって意味が分からない。なぜそのまま素直に書かなかったのか。
まさか『汚れし業(カルマ)を浄化する白き聖杯』が、『便器』のことだなんて思いもしなかった……。
「ち、違う、それは夜の妖精さん的なアレがイタズラをしたというか、若気の至りというか……とにかく、それを書いていたのは俺であって俺じゃなくて、俺の中のもう一人の俺が」
「言えば言うほど墓穴を掘ってる気がするな……」
そうこうしているうちに、一騎の背中にくっついたままの操が再び日記を音読しはじめる。
「ちょ、ちょっと! 本気でやめッ……!」
「彼女はこの傷つき疲れ果てた心の暗闇を照らし出す、瓦礫のルイン(廃墟)に咲いた花……そう、永遠(とこしえ)に咲き乱れるステラ(星)のスノーフレーク。俺の聖なる救世主(メシア)、清廉なる湖の乙女。ファルシのルシがコクーンでパージ……」
「ああぁ~~~!!」
頭を抱えて悶絶する甲洋。そのキャラが完全に崩壊している様子があまりにも憐れで、一騎は操からノートを取り上げようとした。が、その前に操はノートをパタリと閉じてしまう。
「なにこれ……? なんか、ぜんぜん意味わかんないのにここがチクチクして、モヤモヤして……やな感じがする」
操が顔を顰めて胸に手をやり、むっと口をへの字に曲げる。おそらく誰かへの熱い想いを綴った内容と思しき文章に、彼がジェラシーを理解しかけた瞬間であった。
「なんかもう飽きちゃった! おれ総士を呼んでく──」
操がノートをポイッと放り出した瞬間
バギィッ
という音がした。ぎょっとした一騎と操の眼の前には、手刀で卓袱台を割った甲洋が、真っ赤な顔をしながら涙目でプルプルしていた……。
~回想シーンここまで~
「で、あの背骨折りか……」
あのノートは、多感な年頃によくある(?)†黒歴史ノート†だったのだ。
回想中、いよいよ耐えきれなくなった甲洋が総士の足元に蹲って身を震わせていた。おそらくしばらくは立ち直れまい。メンタルリセット不可能な状態である。
総士は膝をつき、痛々しく震える肩にそっと手を添えた。
「しっかりしろ甲洋。誰にだってこういう時期はある……」
「そうだぞ甲洋。父さんなんか現役のデスポエマーなんだから。な? あなた」
「……」
妻が天然でディスってくる。総士もまた心に深い傷を負ってしまった……。
ところで厨ニノートのインパクトのせいで薄れかけていたが、前半部分の回想は必要だったのだろうか。
まさか脱衣所に待機している間、危うく操の乳を吸うフラグが立ちかけたり、受けた覚えのないカブトムシオーディションに合格していたとは。一体なにを基準に決めたのか、三人を正座させて小一時間ほど問い詰めたい気持ちになる総士だった。
*
結局まともにままごと遊びができないまま、日が暮れようとしていた。
卓袱台と座布団を片付け、四人は元通りになった店内でひとつのテーブルを囲んでいる。
「疲れたな……」
総士がげっそりしながら言うと、甲洋が「俺も」と同意する。
一騎は小さく笑うだけだったが、流石にその笑顔にも疲労が滲んでいるようだった。
あのあと目を覚ました操の頭部を掴み、床にめり込むほどの土下座をさせたことで甲洋のメンタルはリセットされ、崩壊していたキャラもどうにか無事に修復された。
額に大きな痣を作った操はわんわん泣いたが、一騎が素手で絞った果汁100%ジュースを飲ませると笑顔になった。
「楽しかったね! また今度みんなでやろう!」
あれだけ痛い目にあっておいて何が楽しかったのか、操は一騎が作ったオレンジタルトを頬張りながら言った。
「僕はもう嫌だ。カブトムシを演じるつもりもない」
「えぇー!? なんで!? 総士は楽しくなかったの!?」
「逆にあれのどこが楽しかったのか、理解不能だ」
唯一の救いは一騎と夫婦設定という一点のみだったというのに、それが全く生かされることなくただ疲労困憊しただけだった。
ピシャリと言い捨てると、操は「ちぇー」と唇を尖らせながらフォークでタルトをツンツンとつつく。
「赤ちゃんにおっぱいあげたかったのに……」
操が残念そうに漏らすと、疲れ切って項垂れていたはずの甲洋が急にしゃっきりと背筋を伸ばした。
「それは別にこのあとすぐにでもできる」
「えぇー? でも総士はもうやらないって言ってるよ」
「来主、その遊びは二人だけでした方が絶対に楽しい」
「ほんと? うーん……わかった! じゃあおれと甲洋だけでいいよ!」
もう少し渋るかと思いきや、操はコロッと了承してしまう。彼は一体どこまで理解しているのだろうか。いや、この様子ではおそらく何も分かっていないだろう。が、よくよく考えれば真っ先に甲洋を赤ん坊役に指名したあたり、操の中にもまた特殊な性癖が眠っているのかもしれない。(自覚していないだけで)
その間、甲洋はテーブルの下で密かにガッツポーズをしていた。どこに出しても恥ずかしいむっつりスケベである。
「では、僕らはそろそろ退散しよう」
総士が溜息を漏らしながら席を立つ。遠回しと見せかけて、こうも堂々と「このあとヤりまくります★」と宣言されては、居心地が悪いったらありゃしない。
生むなり吸うなり好きにしろという思いで、総士は一騎と共に楽園を後にしたのだった。
その後、甲洋は操と欲望のままにプレイを堪能し、なんやかんやで触発されてしまった英雄二人も、ノリノリで夜の夫婦ごっこに励んだのだが、それはまた別のお話……。
←戻る ・ Wavebox👏
とある夏の日、甲洋は操とショコラを連れて釣りに訪れていた。
はじめのうちは防波堤からのんびり投げ釣りを行っていたのだが、なかなか釣れないことに操が飽きはじめたので、場所を堤防に移すことにした。
「今度はここから投げるの?」
「投げるのは終わり。この堤防の向こう側で、今度は穴釣りをするよ」
「穴釣り?」
「初心者でも釣果を得やすいから、うまく行けばすぐに釣れると思う。絶対ではないけど」
「ふぅん?」
腰の高さ程度の堤防の向こう側は、テトラ地帯になっている。
穴釣りとは、折り重なるテトラや石畳の隙間を狙って、穴に住み着く根魚を狙う方法だ。
もとより操が飽きてしまうのは予想していたし、たまには普段しない手法で釣りをするのもいいだろうと、あらかじめ穴釣り用の道具も持ってきていた。
甲洋は堤防の天端をテーブル代わりに道具一式を並べると、ひとまず準備に取り掛かる。
「これが穴釣り用の竿。そして、この針と一体型になってるおもりがブラクリだよ」
「へぇ。こんな小さくて細い竿で、ほんとに釣れるの?」
「まぁ、お前の運と腕次第かな」
小型のベイトリールが取り付けられた竿は、せいぜい1メートル程度の短いものだ。
不思議そうに竿を見つめている操に笑いかけ、甲洋はブラクリの針に虫エサを模したワームを取り付ける。
ワームが放つ匂いが気になるのか、ショコラがヒョイッと堤防の上に乗り上げ、興味深そうに甲洋の手元に鼻を寄せて匂いを嗅いでいた。
「ほら、できた」
仕掛けを終えた竿を手に、甲洋は堤防へと足をかけてひょいと飛び越え、テトラ地帯に足を踏み入れる。
「おいで」
振り向いて手を差し出すと、操は素直にその手をとって堤防を乗り越えた。
「危ないから、足元に気をつけて」
「う、うん、平気」
四脚ブロックが不規則に連なるテトラ地帯は、非常に足場が悪い。
自分たちはいざとなれば空も飛べるし、ワープだってできるのだからそう心配することはないが、それでも甲洋はグラついている操の手を離すことなく、その足元に注意を払う。
「転ばないように注意して。ほら、そこの角に腰を下ろしな」
「はぁい」
甲洋はいい具合に突き出たブロックの角に操を座らせ、自分も適当なところで片膝をつく。
操に竿を渡すと、足元に幾つもある隙間のひとつを指さした。
「こういう隙間がそこらじゅうにあるだろ? 覗き込んでみて、底が見えないくらい深い穴を狙うんだ。ほら、ここにそっと落としてみな」
「わかった。そーっとだね」
「根がかりしないように気をつけて」
操は真剣な眼差しで、リールのクラッチを切りながらブラクリを静かに落としていく。
「仕掛けを上下に動かして、探りながら底の方に落としていって。根魚は穴の深い場所にいて、落下してくるものに反応する習性があるんだ。完全に底についたのが分かったら、巻き上げながら上下させたりして魚を誘う。反応がなければ諦めて他の穴に移ろう」
「んん、難しいな……あっ? あっ、なんか分かった! つんつんしてる感じがしたよ!」
「アタリを感じたら一気に引き上げる」
「よぉし今だ! ……あ、あれぇ?」
操がぐんっと立ち上がりながら勢いよく竿を引き上げるが、そこに魚の姿はない。糸の先端でワームだけが虚しく揺れている。
「まぁ、最初はこんなものかな」
「えぇー……難しいよこれ……」
「でも魚がいるのは分かっただろ? コツとタイミングさえ上手く掴めば、きっと釣れるようになるよ」
「むー……もっかいやる」
不満そうに顔を顰めながらもやる気を見せた操は、テトラに乗り上げたりしながら水深がありそうな穴を探しはじめた。
さっきの穴で粘るのも手だが、飽きさせないためには好きにさせるのが一番だ。
「今度はここ! ここに決めた!」
「いいよ。やってごらん」
具合いのいいブロックの角にしゃがみこんだ操が、さっきと同じ要領で隙間に仕掛けを落としていく。
「ん、さっきより深い、かも」
「いそうだな、ここも」
「うん……んー……ぁ、深い……んっ、そんなに奥……? あ、ァ……深いよぉ」
「……ああ、うん」
「あぁ、あ! おれの穴! 穴がぁ……深くまでぇ……ん、奥……ダメ、すごい……」
「お前それわざとじゃないよな……?」
操の表情は真剣だが、その声は完全にいたしている際の喘ぎである。
青い空、白い雲、そして真昼の海。爽やかな要素しかないところで、微妙におかしな気分になるのでやめてほしい。
ちょっぴり頬を赤らめながら咳払いをした甲洋を他所に、操はこれだというアタリを感じたのか、勢いよく立ち上がりながら合わせを入れる。
「うわっ! 引っ張られる! なかなか上がらないよ!」
「いいぞ。リールを巻きながら、落ち着いて上げてみて」
「んんんー!」
小さな竿が、ぐんと大きくしなりを見せる。甲洋は操の背後に回り込むと、背中をすっぽり覆うようにして一緒に竿を掴んだ。魚が激しく抵抗しているのが、感覚として伝わってくる。
これはなかなかの大物かもしれない。
「いい? 次で上げるよ」
「んんっ、よいしょ!」
掛け声と同時に、針にかかった魚が勢いよく穴から飛び出してくる。水しぶきが太陽を弾いてキラキラと輝き、まんまるに見開かれた操の瞳もまた、眩しいほどに光り輝く。
「わあぁ! やったぁ釣れたー!」
初の釣果に操が歓声をあげる。
上がったのは緑がかった身体に黒いスジが入った魚だった。
糸を掴んで魚を目線の高さまで持ち上げた操が、大きな瞳を瞬かせる。
「これなに!? なんて魚!?」
「ベラだよ。いいサイズだな」
それは20センチ以上はありそうな立派なサイズのベラだった。時折ブルリと跳ねているベラは、上唇に綺麗に針がかかっている。
「これ食べられる?」
「食べられるよ。この大きさなら十分。ちょうど旬の魚だし、刺し身でもいける」
「やったー! 今夜はお刺身だ!」
「あ、こら、危ないから跳ねないで」
腕の中にすっぽり収まったままの操が、不安定な足場でぴょんぴょん跳ねる。転ばないようにと、甲洋は片腕をその腹に回して押さえつけた。
まぁ、はしゃぐ気持ちはよく分かる。今までも何度か一緒に釣りをしたが、操がまともに釣果を上げたのはこれが初めてのことだった。
「おめでとう来主。お前、なかなか素質があるかもよ」
「ほんと? えへへー!」
腕の中で甲洋を見上げた操は嬉しそうに歯を見せて笑った。興奮しているのか、その頬が少し赤らんでいるのが可愛くて、こちらまでつい頬が緩みっぱなしになるのをぐっと堪える。
「ねぇ、もっと釣ろうよ! 次は君がやってみて!」
「うん、いいよ」
堤防に行儀よく座っているショコラが、テトラ地帯でイチャつくリア充に優しく目を細めながら、ひとつ小さく「わうっ」と鳴いた。
*
そのあとも穴釣りチャレンジは続き、カサゴやメバルも数匹釣った。
さらに岩場に潜んでいたガザミも捕まえ、それらはきっちり締めてクーラーボックスの中で眠りについている。
「いっぱい釣れたね」
堤防に並んで腰掛け、夕暮れ間近の海を眺めながら操が言った。
甲洋はそんな操に笑いかけながら、今夜のメニューについてあれこれ思考を巡らせる。
刺し身に塩焼き、ガザミはカニ汁。二人だけではきっと食べきれないから、その分は店で出すなり欲しい人がいればお裾分けしてもいい。
「釣りって楽しいんだ。知らなかったな」
操がしみじみ言ったので、甲洋も「そうだな」と同意する。
昔からよく釣りはしていたが、今日は今までで一番楽しかったかもしれない。
趣味だったからという理由を除いて、甲洋が一人で釣りに出かけていたのは、あの家に居場所がないと感じていたからだ。隣にはいつもショコラだけが寄り添っていて、話し相手はいなかった。
だからあんなに騒がしく釣りをしたのは、これが初めてのことだった。
甲洋は隣に座る操を見た。彼は夕焼けが迫りつつある空を見上げている。ショコラは堤防から下りて、おとなしく地面に寝そべっていた。
いま甲洋の隣にいるのは操で、彼はどこへ行くにもひょこひょことヒヨコのようについてくる。今日だって、別に一緒に行こうと誘ったわけではない。操が勝手について来て、甲洋もそうなるだろうと思っていたから、わざわざ誘う必要がなかったのだ。
(なんだか不思議だな)
当たり前のように特定の誰かが傍にいることが。まるで息をするみたいに、気づけば彼は甲洋の隣にいる。自分もまた、今ではそれが当たり前になっていた。
操の髪が潮風にふわふわと揺れている。踊る毛先が少年らしく丸みを帯びた頬をくすぐり、ゆっくりと夕焼け色に染まろうとしていた。
ふいに触れたいという欲求が込み上げて、甲洋は操の身体を引き寄せようとした。けれどその肩に手が触れる前に、操の方から甲洋に身体を傾けてくる。
こつんと肩に頭が乗って、頬に柔らかな癖毛があたった。
「はしゃぎすぎて疲れた?」
「ん。楽しいのは、少し疲れるね。だけど気持ちいい」
「わかるよ」
「あとね、こうして波の音を聞いてると……ちょっぴり眠くなる」
「ああ、わかる」
さっきまで楽しげに弾んでいた声が、今はゆるゆると蕩けたようになっている。
甲洋は亜麻色の髪にゆるく頬ずりをしながら微笑んで、その肩を優しく抱いた。
「いいよ。眠っても」
無防備に身を預けて寄こされるのが嬉しい。こちらから触れようとする前に触れてくる体温が。こんなふうに抱いても許されることが。
操は完全に気を抜いていて、それでも「寝ないよぅ」と言って小さく笑った。ぴったりと寄せ合う身体から伝わる振動を、愛しく思う。
(できたんだ。俺にも)
こんなふうに傍にいられる相手が。傍にいてくれる誰かが。
操は甲洋のものだ。そして自分もまた、彼だけのものだと確信をもって言える。いつからだろう。操が甲洋をこんなにも傲慢にさせた。
だけど彼は甲洋のためだけに存在しているわけではない。甲洋だってそうだ。守りたいものは他にもあって、自分たちは例えどちらかがいなくなったとしても生きていくし、戦い続ける。
だからこそ嬉しいのかもしれないと、甲洋は思う。こうして何気ない時間のなかで寄り添っていられることを。求めているし、求められているということを、強く意識することができるから。
空がゆっくりとオレンジ色に染まるように、甲洋の胸にもじわじわと純粋な感動がこみ上げた。
(なぁ、甲洋)
一匹の犬だけを連れて、たった一人で釣りをしていた少年に、甲洋は心の中で静かに語りかける。あの頃の自分に言ってやりたかった。その飢えは、いつか必ず満たされるのだと。
(大丈夫。できるよ、お前にも)
一緒に釣りをして、一緒に帰って、一緒に魚を食べて。当たり前のように同じベッドで眠ったら、朝一番におはようを言える相手が。笑い合う相手が。
子供っぽくてワガママで、手を焼かされることもあるけれど。
(俺はいま、幸せだ)
甲洋は操の肩を抱く手に力を込める。
あともう少しだけ休んだら、ふたりで一緒に家に帰ろう。
釣った魚を両手に抱えて、優しい記憶がたくさん詰まった、あの場所に。
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はじめのうちは防波堤からのんびり投げ釣りを行っていたのだが、なかなか釣れないことに操が飽きはじめたので、場所を堤防に移すことにした。
「今度はここから投げるの?」
「投げるのは終わり。この堤防の向こう側で、今度は穴釣りをするよ」
「穴釣り?」
「初心者でも釣果を得やすいから、うまく行けばすぐに釣れると思う。絶対ではないけど」
「ふぅん?」
腰の高さ程度の堤防の向こう側は、テトラ地帯になっている。
穴釣りとは、折り重なるテトラや石畳の隙間を狙って、穴に住み着く根魚を狙う方法だ。
もとより操が飽きてしまうのは予想していたし、たまには普段しない手法で釣りをするのもいいだろうと、あらかじめ穴釣り用の道具も持ってきていた。
甲洋は堤防の天端をテーブル代わりに道具一式を並べると、ひとまず準備に取り掛かる。
「これが穴釣り用の竿。そして、この針と一体型になってるおもりがブラクリだよ」
「へぇ。こんな小さくて細い竿で、ほんとに釣れるの?」
「まぁ、お前の運と腕次第かな」
小型のベイトリールが取り付けられた竿は、せいぜい1メートル程度の短いものだ。
不思議そうに竿を見つめている操に笑いかけ、甲洋はブラクリの針に虫エサを模したワームを取り付ける。
ワームが放つ匂いが気になるのか、ショコラがヒョイッと堤防の上に乗り上げ、興味深そうに甲洋の手元に鼻を寄せて匂いを嗅いでいた。
「ほら、できた」
仕掛けを終えた竿を手に、甲洋は堤防へと足をかけてひょいと飛び越え、テトラ地帯に足を踏み入れる。
「おいで」
振り向いて手を差し出すと、操は素直にその手をとって堤防を乗り越えた。
「危ないから、足元に気をつけて」
「う、うん、平気」
四脚ブロックが不規則に連なるテトラ地帯は、非常に足場が悪い。
自分たちはいざとなれば空も飛べるし、ワープだってできるのだからそう心配することはないが、それでも甲洋はグラついている操の手を離すことなく、その足元に注意を払う。
「転ばないように注意して。ほら、そこの角に腰を下ろしな」
「はぁい」
甲洋はいい具合に突き出たブロックの角に操を座らせ、自分も適当なところで片膝をつく。
操に竿を渡すと、足元に幾つもある隙間のひとつを指さした。
「こういう隙間がそこらじゅうにあるだろ? 覗き込んでみて、底が見えないくらい深い穴を狙うんだ。ほら、ここにそっと落としてみな」
「わかった。そーっとだね」
「根がかりしないように気をつけて」
操は真剣な眼差しで、リールのクラッチを切りながらブラクリを静かに落としていく。
「仕掛けを上下に動かして、探りながら底の方に落としていって。根魚は穴の深い場所にいて、落下してくるものに反応する習性があるんだ。完全に底についたのが分かったら、巻き上げながら上下させたりして魚を誘う。反応がなければ諦めて他の穴に移ろう」
「んん、難しいな……あっ? あっ、なんか分かった! つんつんしてる感じがしたよ!」
「アタリを感じたら一気に引き上げる」
「よぉし今だ! ……あ、あれぇ?」
操がぐんっと立ち上がりながら勢いよく竿を引き上げるが、そこに魚の姿はない。糸の先端でワームだけが虚しく揺れている。
「まぁ、最初はこんなものかな」
「えぇー……難しいよこれ……」
「でも魚がいるのは分かっただろ? コツとタイミングさえ上手く掴めば、きっと釣れるようになるよ」
「むー……もっかいやる」
不満そうに顔を顰めながらもやる気を見せた操は、テトラに乗り上げたりしながら水深がありそうな穴を探しはじめた。
さっきの穴で粘るのも手だが、飽きさせないためには好きにさせるのが一番だ。
「今度はここ! ここに決めた!」
「いいよ。やってごらん」
具合いのいいブロックの角にしゃがみこんだ操が、さっきと同じ要領で隙間に仕掛けを落としていく。
「ん、さっきより深い、かも」
「いそうだな、ここも」
「うん……んー……ぁ、深い……んっ、そんなに奥……? あ、ァ……深いよぉ」
「……ああ、うん」
「あぁ、あ! おれの穴! 穴がぁ……深くまでぇ……ん、奥……ダメ、すごい……」
「お前それわざとじゃないよな……?」
操の表情は真剣だが、その声は完全にいたしている際の喘ぎである。
青い空、白い雲、そして真昼の海。爽やかな要素しかないところで、微妙におかしな気分になるのでやめてほしい。
ちょっぴり頬を赤らめながら咳払いをした甲洋を他所に、操はこれだというアタリを感じたのか、勢いよく立ち上がりながら合わせを入れる。
「うわっ! 引っ張られる! なかなか上がらないよ!」
「いいぞ。リールを巻きながら、落ち着いて上げてみて」
「んんんー!」
小さな竿が、ぐんと大きくしなりを見せる。甲洋は操の背後に回り込むと、背中をすっぽり覆うようにして一緒に竿を掴んだ。魚が激しく抵抗しているのが、感覚として伝わってくる。
これはなかなかの大物かもしれない。
「いい? 次で上げるよ」
「んんっ、よいしょ!」
掛け声と同時に、針にかかった魚が勢いよく穴から飛び出してくる。水しぶきが太陽を弾いてキラキラと輝き、まんまるに見開かれた操の瞳もまた、眩しいほどに光り輝く。
「わあぁ! やったぁ釣れたー!」
初の釣果に操が歓声をあげる。
上がったのは緑がかった身体に黒いスジが入った魚だった。
糸を掴んで魚を目線の高さまで持ち上げた操が、大きな瞳を瞬かせる。
「これなに!? なんて魚!?」
「ベラだよ。いいサイズだな」
それは20センチ以上はありそうな立派なサイズのベラだった。時折ブルリと跳ねているベラは、上唇に綺麗に針がかかっている。
「これ食べられる?」
「食べられるよ。この大きさなら十分。ちょうど旬の魚だし、刺し身でもいける」
「やったー! 今夜はお刺身だ!」
「あ、こら、危ないから跳ねないで」
腕の中にすっぽり収まったままの操が、不安定な足場でぴょんぴょん跳ねる。転ばないようにと、甲洋は片腕をその腹に回して押さえつけた。
まぁ、はしゃぐ気持ちはよく分かる。今までも何度か一緒に釣りをしたが、操がまともに釣果を上げたのはこれが初めてのことだった。
「おめでとう来主。お前、なかなか素質があるかもよ」
「ほんと? えへへー!」
腕の中で甲洋を見上げた操は嬉しそうに歯を見せて笑った。興奮しているのか、その頬が少し赤らんでいるのが可愛くて、こちらまでつい頬が緩みっぱなしになるのをぐっと堪える。
「ねぇ、もっと釣ろうよ! 次は君がやってみて!」
「うん、いいよ」
堤防に行儀よく座っているショコラが、テトラ地帯でイチャつくリア充に優しく目を細めながら、ひとつ小さく「わうっ」と鳴いた。
*
そのあとも穴釣りチャレンジは続き、カサゴやメバルも数匹釣った。
さらに岩場に潜んでいたガザミも捕まえ、それらはきっちり締めてクーラーボックスの中で眠りについている。
「いっぱい釣れたね」
堤防に並んで腰掛け、夕暮れ間近の海を眺めながら操が言った。
甲洋はそんな操に笑いかけながら、今夜のメニューについてあれこれ思考を巡らせる。
刺し身に塩焼き、ガザミはカニ汁。二人だけではきっと食べきれないから、その分は店で出すなり欲しい人がいればお裾分けしてもいい。
「釣りって楽しいんだ。知らなかったな」
操がしみじみ言ったので、甲洋も「そうだな」と同意する。
昔からよく釣りはしていたが、今日は今までで一番楽しかったかもしれない。
趣味だったからという理由を除いて、甲洋が一人で釣りに出かけていたのは、あの家に居場所がないと感じていたからだ。隣にはいつもショコラだけが寄り添っていて、話し相手はいなかった。
だからあんなに騒がしく釣りをしたのは、これが初めてのことだった。
甲洋は隣に座る操を見た。彼は夕焼けが迫りつつある空を見上げている。ショコラは堤防から下りて、おとなしく地面に寝そべっていた。
いま甲洋の隣にいるのは操で、彼はどこへ行くにもひょこひょことヒヨコのようについてくる。今日だって、別に一緒に行こうと誘ったわけではない。操が勝手について来て、甲洋もそうなるだろうと思っていたから、わざわざ誘う必要がなかったのだ。
(なんだか不思議だな)
当たり前のように特定の誰かが傍にいることが。まるで息をするみたいに、気づけば彼は甲洋の隣にいる。自分もまた、今ではそれが当たり前になっていた。
操の髪が潮風にふわふわと揺れている。踊る毛先が少年らしく丸みを帯びた頬をくすぐり、ゆっくりと夕焼け色に染まろうとしていた。
ふいに触れたいという欲求が込み上げて、甲洋は操の身体を引き寄せようとした。けれどその肩に手が触れる前に、操の方から甲洋に身体を傾けてくる。
こつんと肩に頭が乗って、頬に柔らかな癖毛があたった。
「はしゃぎすぎて疲れた?」
「ん。楽しいのは、少し疲れるね。だけど気持ちいい」
「わかるよ」
「あとね、こうして波の音を聞いてると……ちょっぴり眠くなる」
「ああ、わかる」
さっきまで楽しげに弾んでいた声が、今はゆるゆると蕩けたようになっている。
甲洋は亜麻色の髪にゆるく頬ずりをしながら微笑んで、その肩を優しく抱いた。
「いいよ。眠っても」
無防備に身を預けて寄こされるのが嬉しい。こちらから触れようとする前に触れてくる体温が。こんなふうに抱いても許されることが。
操は完全に気を抜いていて、それでも「寝ないよぅ」と言って小さく笑った。ぴったりと寄せ合う身体から伝わる振動を、愛しく思う。
(できたんだ。俺にも)
こんなふうに傍にいられる相手が。傍にいてくれる誰かが。
操は甲洋のものだ。そして自分もまた、彼だけのものだと確信をもって言える。いつからだろう。操が甲洋をこんなにも傲慢にさせた。
だけど彼は甲洋のためだけに存在しているわけではない。甲洋だってそうだ。守りたいものは他にもあって、自分たちは例えどちらかがいなくなったとしても生きていくし、戦い続ける。
だからこそ嬉しいのかもしれないと、甲洋は思う。こうして何気ない時間のなかで寄り添っていられることを。求めているし、求められているということを、強く意識することができるから。
空がゆっくりとオレンジ色に染まるように、甲洋の胸にもじわじわと純粋な感動がこみ上げた。
(なぁ、甲洋)
一匹の犬だけを連れて、たった一人で釣りをしていた少年に、甲洋は心の中で静かに語りかける。あの頃の自分に言ってやりたかった。その飢えは、いつか必ず満たされるのだと。
(大丈夫。できるよ、お前にも)
一緒に釣りをして、一緒に帰って、一緒に魚を食べて。当たり前のように同じベッドで眠ったら、朝一番におはようを言える相手が。笑い合う相手が。
子供っぽくてワガママで、手を焼かされることもあるけれど。
(俺はいま、幸せだ)
甲洋は操の肩を抱く手に力を込める。
あともう少しだけ休んだら、ふたりで一緒に家に帰ろう。
釣った魚を両手に抱えて、優しい記憶がたくさん詰まった、あの場所に。
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喫茶【楽園】海神店にて、とある日の昼下がりにそれは起こった。
「ねぇ、甲洋はお尻ぺんぺんされたことある?」
雪遊びをして帰ってきた操が、ホットレモネードを飲みながらくるくるとよく動く瞳で問いかけてきた。
甲洋はドーナツを盛った皿を手に「は?」という顔をして、それから
「ないよ」
と短く返すとテーブルに皿を置く。
操は「なんだぁつまんない」と唇を尖らせながら、砂糖がたっぷりまぶされたリングドーナツに手を伸ばす。元気にかぶりつく様子を見ながら、またこいつはろくでもないことを言いだしそうだなと嘆息を漏らし、甲洋は向かいの席に腰掛けた。
「あのね、さっき、一騎が」
「口の中にものを入れて喋らない」
「んっ、んむ、んぐぐ」
口をドーナツでいっぱいにしていた操が、膨らんだ頬を忙しなく動かしている。まるでせっせと冬支度をするリスのようだ。あの小さな頬袋には、片方だけでどんぐりが3つも入るらしい。
本人は早く話したくてしょうがないようだが、甲洋としては特に急かすつもりもないので、黙ってコーヒーを飲みながら待つことにする。
それにしてもお尻ぺんぺんとは、なんとも懐かしい響きである。甲洋にはそんな経験はない──そもそも子育てに熱心な親ではなかったので──が、子供の頃に剣司や衛がよくイタズラをしては、親御さんに尻を叩かれていたのを思いだす。
こいつもそれを見たんだろうなと、甲洋は思う。きっと『そうし』だ。
下手をすれば操よりもずっとやんちゃに成長している、小さな友人の顔を脳裏に思い描いた。
昨日の夕方から降りだした雪は一晩かけて降り積もり、島中を白銀の世界に変えていた。
甲洋は一騎のところに遊びに行くと言ってきかない操をこれでもかというくらい厚着させ、耳あてまで装備させて送りだしてやった。
今日は店の定休日だが、こういう寒い日には誰かしらが温かい飲み物と暖を求めて顔をだす。予定があるわけでもなかったので、甲洋は看板は出さないまでも気楽に店を開けながら、久しぶりにショコラとふたりきりの静かな時間を過ごしていた。
丸一日遊んでくるかと思いきや、操は昼を過ぎるころには帰ってきた。すっかり鼻を赤くしていたので、たっぷり蜂蜜を入れてホットレモネードを出してやった。
着込ませてやったコートなどの防寒具は、今は全て隣の椅子の背もたれにかけられている。
操が着ているオフホワイトのハイネックセーターは甲洋のもので、手の甲まですっぽり隠れて指先だけがちょこんと出ていた。いわゆる萌え袖というやつだ。
本当は中学の頃に着ていた服だとか、新しく買い与えた服だってあるのだが、甲洋はあえて今の自分の普段着を彼に着せることが多かった。
サイズ違いの服の中で、操がその身体を泳がせている姿を見るのが好きだからだ。袖だとか裾だとか、下の方にずれてしまう肩線だとか。華奢な少年の身体が、さらに一回り小さく見えてしまうことに男心をくすぐられてしまう。
それはサイズが大きければなんだっていいというわけではなくて、甲洋の服であるという点に大きな意味があった。自分の服を着せることによって、甲洋のなかの独占欲が満たされるのだ。
「あのね、さっき空き地でそうしと美羽と三人で雪合戦して遊んでたんだけど──」
そうこうしているうちに、ドーナツを嚥下した操がようやく口を開きはじめた。が、微妙にニヤけている甲洋の顔を見てことんと首を傾げる。
「ねぇ、どうかした? なんか楽しそう」
「……別に。いいから続けて」
ひとつ咳払いをしながら表情を消し、誤魔化すようにコーヒーカップに口をつける。内心デレデレなことを知られるのはどうしても恥ずかしいので、読まれないようしっかり心の蓋を閉じながら。
操は特に気にするふうもなく、素直に話の続きをしはじめた。
「でね、雪合戦してるとき、そうしがこっそり雪玉の中に石を入れたんだ」
「ああ……やんちゃ坊主がやりがちなやつ」
「当たったら痛そうでしょ? 嫌だなって思って。おれ、美羽と一緒に避けたんだ、それ。そしたらさ──」
石が入った雪玉が、物の見事に他所のお宅の窓ガラスをぶち抜いた。
少し離れた位置には談笑する一騎と真矢がおり、その派手な音に血相を変えたという。幸い怪我人はなく、ガラスを割られた家主も笑って許してくれたそうだが……。
「それで、お尻ぺんぺん?」
「そう。一騎がそうしを膝に抱えて、お尻をぺろっと出してね。悪い子にはそうやってお仕置きしなきゃいけないんだって」
甲洋の脳裏に、操から送られてきたイメージが再生される。
キリッと眉を吊り上げた一騎が、小さなそうしの小さな尻をペンペンと叩いていた。ピーピーと泣き喚くそうしの子供らしさや、まるで母親のような一騎の姿に、悪いと思いながらもつい苦笑が漏れてしまう。
「まぁ、それはしょうがないな」
下手をすれば怪我人を出していた可能性だってあるし、当たりどころが悪ければもっと最悪の事態を招くことだってある。何事もなかったからいいものの──窓を割られるのも甚大な被害といえるが──昔ながらの妥当なお灸のすえかたに思えた。
「でね、でね」
しかし本題はここからだった。
甲洋がはじめに予想した通り、操の口からろくでもない言葉が飛び出したのである。
「おれも尻ぺんぺんしてみたいから、甲洋で試してもいい?」
ほら来たぞ、と甲洋は思った。
「されてみたい、じゃなくて? してみたい?」
「されるのなんか嫌に決まってるでしょ。想像しただけで痛すぎて悲しいよ」
「なかなか理不尽なこと言ってるよ、お前。俺が快くいいよって言うとでも思った?」
「え!?」
「え、じゃないよ……」
断られるという可能性を1ミリも想像していなかったとばかりに、ショックを受けている操に深々と息を漏らす。
オープンすぎる操の感情は、さっきから惜しみなく伝わってきている。彼はどういうわけか、お尻ぺんぺんをする一騎の子育てぶりに憧憬を抱いてしまったのだ。心を鬼にして子供を躾ける姿が、やけに格好良くその目に写ってしまったらしい。さらに──
「そうしのお尻、ぷにぷにしてそうで可愛かったんだ。あれ、叩いたら気持ちいいんだろうなぁ」
などと言って、なぜかうっとりしている。
こいつ、サドっ気なんかあったっけ……? と首をひねる甲洋に、操は矢も盾もたまらないといった様子で「ねぇお願い!」と身を乗りだしてくる。
この子犬のようなつぶらな瞳でおねだりをされるとめっぽう弱い甲洋だが、しかし今回ばかりは首を縦に振ることはできそうもなかった。なにが悲しくてこの歳で用もないのに尻を丸出しにした挙げ句、引っ叩かれなくてはならないのか。親父にもぶたれたことないのに。(ネグレクト的な意味で)
「い、や、だ」
「なんでぇ!?」
「俺にはそういう趣味はないし、残念ながらお尻もぷにぷにしてないよ」
「趣味? 趣味でお尻を叩かれたい人がいるってこと?」
「人によってはご褒美だろうね」
「へぇ~」
極めて無駄な知識を植えつけてしまったような気がする。
この可愛い顔に尻を叩かれてブヒブヒと喜べるのは、せいぜいエ●同人に出てきそうなモブおじくらいではなかろうか。(※あくまでもイメージです)
「あーあ、おれも悪い子にお仕置きしてみたかったのにな……甲洋のケチ……」
悪い子認定されるようなことをした覚えもない上に、ケチと言われる筋合いもないのだが。
その理不尽さに呆れつつ、それでもこのままおとなしく引き下がってくれそうな気配にホッとした──のも束の間、カラーンとドアベルが鳴ったと同時によく知る人物が扉から顔を覗かせた。
「さっみ~! よう甲洋、やってるか?」
「あ、剣司だー!」
それは昔馴染みの仲間の一人、近藤剣司だった。
彼もまた鼻先を赤くして、両腕で二の腕を摩りながら店のなかに入ってくる。コートで着ぶくれを起こしているのを差し引いても、このところ見る度に身体つきがふっくらしていくように見えるのは気のせいだろうか。
剣司はテーブルの側までやってきて片手をあげると「ホット頼むわ」と言った。それから操の頭をくしゃりと撫でて、白い歯を見せながら笑顔を浮かべる。
「おー、元気か来主。ん? なんかお前、そのセーター少し大きくないか?」
「うん。だってこれ甲洋の」
「ホットコーヒーね。すぐに淹れるから、どうぞ座って」
「お? おう、頼むわ」
さりげなく話題を逸らしつつ席を離れて背を向ける。すると、とつぜん操の「あ、そうだ!」という声が聞こえてきて、嫌な予感に思わず足を止めた。
「剣司にお願いすればいいんだ!」
「!?」
「お願い? なんだそれ?」
予感的中だ。まなじりを吊り上げながら勢いよく振り返れば、すっかりおねだりモードに入った操が剣司の肩にしがみついていく姿が目に飛び込んできた。
「ねぇ剣司! 聞いてほしいことがあるんだけど!」
『 待って。まさかとは思うけどお前…… 』
咄嗟に読心に切り替えて問えば、操はべーっと舌を出しながら同じく心の中に返事を寄越す。
『 だって甲洋ケチなんだもん。だったら他の人に頼んじゃえば問題ないでしょ? 』
『 大アリだろ…… 』
そんな非常識な頼み事なんか、誰が相手でもきくわけがないだろう。(モブおじ以外は)
どうせ断られるのは目に見えているのだから放っておけばいいのだが、操が他の男に引っついて「尻を叩かせてくれ」なんて頼み込む姿など、想像するだけで気分が悪い。というより、引っつくという行為そのものが極めて不愉快だ。
例え間違いが起こる可能性が、万に一つもない相手であったとしても関係ない。
しかしそんな甲洋を煽るかのように、操は剣司の腕に両腕を絡めて抱きつくと、あの子犬のような瞳をしながら上目遣いをする。
「剣司は優しいから、おれのお願い聞いてくれるよね?」
終始キョトンとした表情だった剣司が、その言葉に満更でもない顔を見せる。ずいぶん落ち着いたように見えて、この男は基本的におだてれば木に登るタイプのお調子者なのだ。
「そう言われると悪い気はしないよなぁ。んで? なんだ? 俺にできることならなんでも言ってみ」
「やったー! 剣司大好き! あのねあのね、お尻を」
「来主」
自分でもどこから出したのかと思うほどの低い声で、操の名前を呼んでいた。
雪化粧をほどこされた外気と同等にまで下がってしまった室内の空気に、さすがの操もギクリとしながら甲洋を見る。
『 ……それ以上言ったらどうなると思う? 』
やんわりと笑みを浮かべながら声には出さずに問いかけた。もちろん、目だけは全く笑っていない。
静かに静かに、腸が煮えくり返っていた。いわゆる地雷というやつだ。操はとっくに踏み抜いているのだが、彼はまだ間に合うとでも考えたのか、少し青い顔をしながらよりいっそう剣司に引っつくと、その耳元に口を寄せる。
「け、剣司、逃げよう。甲洋は、今すごく怒ってる。心がマグマみたいになってるよ」
「はぁ? なんで?」
「いいから!」
操が剣司の腕を引っ張ろうとしたところで、距離を詰めた甲洋が彼の後ろ襟をむんずと掴んだ。
「うわぁ!」
「剣司、悪いけど今日はもう店じまいだよ」
「へ? いや、でも」
「やだー! 離して! 怒ってる甲洋は嫌だ! 心がピリピリするから嫌だー!」
「なんかすげぇ暴れてるんだけど……いいのかこれ?」
両手足をバタつかせて叫ぶ操と、にっこり笑いかけてくる甲洋を交互に見比べて、剣司は指先で頬を掻きながら口元を引きつらせた。
「俺は来主と大事な話があるから」
「た、助けて剣司! おれを置いて行かないで!」
「なんかよく分かんねぇけど、了解。今日は帰るよ」
「剣司ってばぁー!!」
剣司は涙目になっている操に一瞬だけ気の毒そうな視線を向けたが、甲洋が怒るのは、操がなにかしら問題行動を起こした場合であることはもはや誰もが知る事実だったので、ただ苦笑するしかないようだった。
その目には保護者兼、教育係への労いが色濃く浮かびあがっている。
「ありがとう、剣司。それじゃ」
そう言い残し、甲洋は操ごと一瞬で姿を消した。
取り残されてしまった剣司は、なんだかよく分からないままとりあえず店を出るしかなかった。
当たり前だが外は寒い。が、店の中の凍りついた空気よりは、いくらかマシに思えてしまう。
「一体なにやらかしたんだよ、アイツ」
下手をすれば生尻を引っ叩かれていたかもしれないなんて知る由もなく、肩をすくめながらぼやいた剣司は愛する妻が待っている家へと帰っていくのだった。
*
二階の寝室に移動した甲洋は、凝りもせず暴れ続ける操の身体をベッドへひょいと放り投げた。
横倒しの状態でシーツに着地した操は、スプリングに軽く身体を跳ねさせてから身を起こして甲洋を睨みつける。
「なんでそんなに怒ってるの!? 甲洋がケチんぼだから、剣司に頼もうとしただけじゃん!」
「誰に頼もうが同じだよ。自分がされて嫌なことは、相手にもしない。想像するだけで痛くて悲しいんじゃなかったっけ?」
「そうだけど……」
操はバツが悪そうに目を泳がせながらも、ぶぅと唇を尖らせた。どうしても腑に落ちないといった様子だ。
基本的に甲洋が操を叱るのは、彼が店のものを壊したり、誰かに迷惑をかけたときだけだった。けれど今回はなにかを壊したわけではないし、結果的に誰にも迷惑をかけていない。
だからなぜ甲洋が怒っているのかが分からず、彼はそれが不服でしかたないのだ。あれだけ煽るような真似をしておきながら、である。
「納得がいかない? なら実際どれだけ痛くて悲しいのか、身をもって経験してみたらどう?」
「えっ?」
操がぎょっとして身を強張らせる。
「ちょっと待って、それってどういうこと? まさか、おれのお尻を叩くってこと?」
「そうなるね」
「なんで!? なんでそうなるのぉ!?」
「来主が悪い子だからだろ?」
甲洋が一歩一歩ベッドに近づくたび、操の腰が引けていく。彼は慌ててベッドの端まで移動すると、壁にぴったり身を寄せた。
「待ってってば! わかったよ! ごめん! 謝るから、それ以上こっちに来ないで!」
「もう遅いし、俺が怒ってる理由はそこじゃないんだよ、来主」
「なにそれ意味わかんない! 心も読ませてくれないし!」
その無自覚さにまた少し腹がたった。
他にいくらでも洋服があるのに、わざわざ自分のものを着せるくらいには、甲洋の独占欲は強いのだ。それは操と今の関係に落ち着くまで、自分でも知らなかった新しい側面だった。
そんな甲洋の目の前で見せつけるように他の男にくっついて、挙げ句「大好き」だなんて言ったのだ。こいつは。
もちろんそこに深い意味がないことは知っている。操には自覚がなかった。甲洋がどう思い、どう感じるか、そして本当はどれほど余裕がないかを彼は考えもしないし、知ろうともしないのだ。
その自覚のなさが、なによりも腹立たしい。
「わかんないけど、わかったから! 俺が悪かったんでしょ! ごめんってば!」
『 黙って 』
「ッ!」
心に直接言い捨てると、その冷ややかな声音に操が口を噤む。
甲洋が怒っているのは甲洋のエゴだ。それを理解できない操に腹を立てるのも、子供っぽい独占欲とただの嫉妬でしかない。
だけど、いい機会じゃないか。分からないことは、丁寧に教えこんでやればいい。丁度いいお手本を、彼はその目で見てきたそうだから。
「悪い子にはお仕置き。そうだろ、来主」
不釣り合いなまでに優しく微笑めば、唇を引き結んだ操の瞳に涙が浮かんだ。
*
ベッドの縁にどっかりと腰をおろした甲洋の膝に、うつ伏せた身体を横向きにした状態で操の身体が押さえ込まれている。
サイズが大きいセーターはそのままに、下だけは全て脱いで惜しげもなく秘所が晒されていた。
「ううぅ~……」
ぎゅっと握った拳を唇に押し付けて、操が情けない呻きを漏らす。
「今からそんなでどうするの? まだ始まってないよ」
「だってぇ……ぁ、ンッ!」
セーター越しに背中を撫でてやりながら、眼前に晒された丸くて白い双丘にもゆるりと手を滑らせる。操の身体が跳ねると、柔らかな肉の丘も同時にぷるりと小さく揺れた。
ふっくらとしたなだらかな曲線に、甲洋はそっと熱い息を漏らす。手のひらに吸い付くような素肌はぷにぷにとしていて、まるで小さな子供のようだ。
そこには傷もなければ罪もない。ただ白く、柔らかく、愛されるためだけに存在しているかのように幼気な肉があるだけだった。
今からこれを罰するために折檻を加えるのだと、そう思うとひどく気分が高揚し、胸が疼きだすのを止められない。
(サドっ気があったのは俺のほう、か)
膝の上で震えながら鼻をすする操はとても可哀想で、けれどどんな声で鳴くのだろうかと想像を巡らせるだけで、背筋にゾクゾクとした痺れが走る。無意識に、喉がごくりと音を立てていた。
「そうしは何回叩かれてた?」
優しく尻を撫でながら問えば、くぐもった声で操が答える。
「……10回」
「そう。なら、20回は必要かな」
「な、なんで増えるのぉ!?」
シーツに手をつき半端に身体をひねった操が青い顔をして見上げてくる。甲洋は緩く笑みを浮かべると、瞬きと一緒に頷いた。
「来主はそうしよりお兄さんだからね」
「そんなぁ……」
くしゃりと顔を歪めながら、操がガクリと項垂れる。
甲洋は自身を焦らすように勿体つけて、尻の肉に軽く爪を立てると、ふっと息を吐きだした。それが合図であることを察したのか、操は息を詰まらせたように喉奥で小さく呻き、その身を強張らせる。
「数、ちゃんと数えてて」
じゃなきゃ分からなくなるかもよと白々しく言い放ち、甲洋は振りかざした手のひらで風を切る。
パンッ!
という小気味良い音と同時に、操の口から「きゃう!」という子犬のような悲鳴が上がった。
加減はしたつもりだが、ジンとした痺れがさざ波のように手のひら全体に広がっていく。
「うぅ~……痛いよぅ……」
情けない声を漏らしながら、操が自由な両手でシーツに皺を作っていた。
「ちゃんと数えないと、一からやり直しになるけど?」
「ッ、ぃ、いち! 今ので一回目!」
ギクリとしながら慌てて数を数えた操にクスリと笑い、甲洋は手首のスナップを効かせながらそのまま何度も尻を打ちすえる。尾骶骨がある上部は避けて、もっとも柔らかい場所をすくい上げるような角度で叩いた。
パン、パン、という音が一定の間隔を保ちながら響き渡ると、操の口からも甲高い悲鳴がひっきりなしに溢れだす。
「ひゃうッ! ぁ、に、にぃ! ふぁッ、ぁ、さ、んッ! あぁ、ぅッ、しぃ! くうぅ、ぁっ、やめ、も、やだぁ……!」
ほとんどまともに数えもしないうちに、操は完全に音を上げて腰を捩りながら泣きだした。けれど構うことなくその背を押さえつけて平手を打ち続ける。
キャンキャンと上がる高い鳴き声と、打つほどに赤く腫れぼったくなっていく皮膚に自然と息があがり、甲洋は目を細めながら獣のように舌なめずりをした。
「ひぐっ! ぁッ、きゃうぅッ! ぁ、こう、よ、痛い、お尻、こわれちゃうぅ……ッ!」
操が可愛らしく鳴けば鳴くほど、身体の奥に眠っていた獰猛な神経が研ぎ澄まされて、熱を滾らせていくのを感じる。シーツを掻き乱す指先の痛々しさといじらしさを哀れみながら、胸を締めつける甘い痛みは甲洋の独占欲と征服欲を同時に満たしていく。
けれどそれは満ちるほどに欠けていき、もっともっとと、より強い乾きをもたらした。
「今ので、何回目?」
何度も何度も打ちつけて、やがて手のひらに感覚がなくなる頃になって、ようやく一度手を止めた。
荒い息を押し殺して意地悪く問えば、操が髪を振り乱しながら首を左右に振る。
「わかん、ない……うぅ……もう許してよぉ……」
「20回だよ。だけど最初からやり直し」
「そんな!」
「最初にそう言ったはずだけど?」
「だって、だってこんなの、無理に決まってるよぉ!」
癇癪を起こしかけるのを咎めるように、一際大きな音を響かせながら尻を打つ。喉を限界まで反らして声なき声をあげ、やがて操はぐったりと頭を垂れた。シーツに額を擦りつけ、ひくひくと震えながら「もうやだ」と言って、か細くすすり泣きはじめる。
甲洋は真っ赤に染まった双丘をゆらゆらと労るように撫で擦った。そこは燃えるような熱を持ち、痺れている手のひらに瑞々しく吸いついてくる。
なんて可愛いんだろう。ここをこんな風にイジメてもいいのは自分だけ。確信を強めるほどに、加虐的な陶酔と恍惚に浸ることができた。
「もうしないって誓って」
柔らかな声で言うと、操の身体が小さく跳ねる。そしてこくこくと何度も頷いた。
「し、ない……もう、わがまま、言わない、から」
「違う。来主は我儘でいいんだよ。そうやって俺を困らせればいい。お前はその方が可愛いから」
パン、と、また尻を打つ。ひゃん、と声を上げながら、操の身体がビクンと跳ねた。
「俺が言いたいのは、そういうことじゃないんだよ」
さらに打つ。言葉をひとつ発する度に、甲洋はそれを容赦なく繰り返した。
「お前が剣司に抱きついたとき、俺がどんな気持ちでいたか分かる?」
「ぇ……? あ、あうぅッ!」
「そんなに剣司がいい? あいつのことが好き?」
「こう、よ、なんで、そんな……イッ、ああぁダメっ! ほんとにもう無理! お尻、ほんとに壊れちゃうってばぁ!」
「……壊してるんだよ」
「あ、ィ……──ッ!!」
宣言通り、甲洋はその後もきっちりもう20回を目指して折檻を続ける。合計で30回を超えたあたりで、流石に手のひらの痺れが鋭くなってきた。
操の尻も猿のように真っ赤に染まり、打たれる度に張りのある肉がぶるりと震える。
悲鳴は徐々に弱々しいものへと変わっていったが、痛々しさが薄れた代わりに、どこか艶を帯びてきたように思えた。
「アッ、ぁんっ……ぁ、はぁ……っ、はぁ、ぁ、ふぁぁ……っ」
強張りが解けた身体はくったりと甲洋の膝に伸し掛かっているが、尻を打たれる都度ビクンビクンと活きのいい反応を示す。
明らかにさっきまでとは様子が違ってきている。そこでふと、腿のあたりにコリコリと何かが擦れていることに気がついて、甲洋は咄嗟に手を止めた。
「お前、叩かれて感じてるの?」
目を瞬かせながら見下ろせば、尻が腫れている以外にもその身体がすっかり色づいていることに気がついた。
長い袖からちょこんと出ている指先も、すらりと伸びた両足も、爪先まで薄桃に染まっている。
「ふ、ぇ……?」
本人も、自分の身体になにが起こっているのか分かっていない様子だった。
甲洋の腿に押し付けられている操の性器は勃起している。繰り返しもたらされる痛みの中で麻痺した感覚が、別のなにかまで一緒に引きずり出してしまったのだろうか。
「ぁ……なん、で……?」
「これじゃお仕置きにならないな」
そう言いつつも、甲洋は薄く笑いながらパチンと真っ赤な尻を叩く。
「あんんッ……! ぁ、や……やら、ぁ……こうよ、なんか……なんか、変だよぉ……痛いのに……痛いのにぃ……」
「ふぅん。来主にはそっちの気があったんだ?」
そう言ってまた叩く。操の唇から甘えたような嬌声があがる。
「くぅ、んっ! あぁ……あ、やめ、ぇ……こ、よ……ねぇ、なん、でぇ? おれのお尻と、おちんちん、壊れちゃった、の……?」
「そうかもね」
どうしよう、と言って、操はメソメソと泣きだした。
平然と尻を叩かせろと言った傲慢さも、剣司にくっつきながら舌を出していた生意気さも、そこにはもう欠片もない。ヒトの形を模したヒトならざるものが、その理解の範疇を超えた変化に戸惑い、ただ泣いているだけのか弱い姿があるだけだった。
少しやりすぎたなと、甲洋は操の身体を抱き起こして両脇に手を差し込み、膝の上に跨がせた。彼は尻が擦れたことに一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに甲洋の両肩に手を置いてぎゅうと握りしめてくる。
そのまま自分の身体の中心に視線を落とし、兆している自身に唇を噛み締めると、助けを求めるような目を向けてきた。
「こおよ……ねぇどうしよ……壊れちゃったの、どうしたら治る……?」
「もっと気持ちいいことしたら、治るかも」
「まだ、叩く……?」
「叩いてほしい?」
操の瞳が迷いに揺れる。否と言えない自身に言葉を失くしていた。
その反応を見ながら、このままではお互い癖になってしまうかもしれないと思った。それは流石に考えものだなと、甲洋は小さく笑うと両手を操の尻にかぶせて優しくなぞる。
「あっ、ぁ、や……! ピリピリ、する……」
小刻みに痙攣しながら、操が悩ましげに腰を揺らした。痛みだけではない何かに肌を粟立たせ、駄々をこねるように首を振り、半開きの瞳を蕩けさせている。
もっともっと滅茶苦茶に酷くしてやりたいという欲求を内包しながらも、それと同じくらいトロトロになるまで優しくしてやりたいという感情がこみ上げる。
ふたつの願望がせめぎ合い、もたらされる葛藤は不思議と心地がいいものだった。
熟れたように色づく屹立に手を添える。とろりと溢れた先走りの蜜に、小さな幹は濡れていた。
くちくちとささやかな水音を立てながら扱いてやると、面白いほど顕著な反応が返ってくる。
「ふぁっ……あッ、ぁん……っ」
全体をすっかり手の中に収めながら親指の腹で鈴口をくじってやれば、甲洋の首にしがみついた操が嫌々と首を振りながら腰を揺らした。
「だめ、だめ、それだめ、ァ、ァ!」
「どうして? なにがダメ?」
「先のとこ、だめ、きもちぃ、きもちい、から……!」
駄目だと言われるほどに甲洋はそこを執拗に嬲り続ける。小刻みに高い喘ぎを漏らす操が、堪えきれずに果ててしまうまで、その責めは終わらなかった。
「ひぃッ、ん! ァ、あぁぁ……ッ!」
ひ、ひ、とひきつけを起こした子供のように脆弱な呼吸を繰り返し、操の身体から力が抜ける。くったりともたれかかってくる身体を片腕でしっかりと抱きとめて、甲洋は彼が放ったもので濡れた指先を、ぷるぷるとした柔らかな袋のさらに奥の方へと忍ばせた。
指先が辿り着く頃には、すでに双丘の中心は伝い落ちていた先走りでしっとりと湿り気を帯びていた。ほどけた身体はさしたる抵抗もなく、指先を孔の中へと誘い込む。
「あぅ、ん……っ」
濡れた指先を飲み込ませれば、操の背筋が戦慄いた。
食らいついてくる肉の感触に、甲洋は堪らず獣じみた息を漏らす。逸る気持ちを押さえ込み、少しずつ指を増やしながら蕾を開かせていく。
こうしてここに触れるとき、いつも感じるのは尊さにも似た純粋な歓びだった。だってここは、この孔は、甲洋しか知らない。甲洋の指、甲洋の舌、そして甲洋自身しか。
それでもなお余裕がないのはどうしてだろう。誰にも渡したくない。誰にも触れてほしくない。心にも、身体にも。この気持ちを、そんな甲洋の我儘を、どうすれば彼は理解するだろう。
興奮に上気した頬に、セーターの余った袖口からちょこんと覗いた指先が触れる。甲洋の肩口から顔を上げた操が、唇に吸い付いてきた。ちゅうっという可愛らしい音に胸を掴まれて、柔らかく濡れた口腔を思うがままに貪りながら、甲洋は指を引き抜くと自身の前を寛げていく。
引きずりだした怒張する肉茎と、再びゆるゆると勃ちあがりかけていた操のものが触れ合った。ふたり同時に、息を飲む。糸を引きながら離れた唇が、甲洋の名前を呼んだ。
「……いい?」
耳元で囁くと、小さな頷きが返ってくる。
操は心得たように腰を浮かして、その濡れ綻んだ孔に甲洋の切っ先を受け入れた。背筋を震わせ、ゆっくりと飲み込んでいく。
その腰を支えながら、甲洋は徐々に身体を後ろへと倒していった。すっかり仰向けに寝転んだ甲洋の胸に手をついて、操は大きく肩を上下させながら息を乱している。
「んんぅ、ぁ、ぁ、あ……っ」
もうすぐ根本まで収まりきるというところで、操の身体が動きを止めた。そのままはかはかと浅い呼吸を繰り返している。
いつもは浅い場所から徐々に馴染ませていくことの方が多いから、いきなり最奥まで貫かれることには慣れていないのだ。けれど今日の甲洋には、珍しくそれを気遣う余裕がない。
「まだ、だよ」
中途半端に浮いている腰に両手を添えて、甲洋は自身の腰を突き上げるのと同時に操の身体を引き寄せる。自重と下からの突きによって、ドン、と奥を穿たれて、操は見開いた瞳から大粒の涙を撒き散らした。
「ヒぐッ、ぅ、あぁあ………ッ!」
弓なりに背を反らし、若木のような身体が瑞々しく跳ね上がる。まんまるの瞳にとろりと瞼がおりてきて、気をやったように濁っていくのを見上げながら、甲洋はさらに腰を突き上げた。
ベッドのスプリングの力を借りて、反動をつけながら激しく揺さぶる。
「ぁう、ァッ! ふあぁっ、や、や、奥、おなか……あぁ、ぁっ、やぶけ、ちゃ……っ」
されるがままの操の身体は、馬にでも跨っているように上下している。その動きに合わせて、彼の小さな屹立もぷるんぷるんと揺れていた。
バランスを保てなくなった身体が、胸の上に倒れ込んでくる。甲洋は腰にあった両手を赤くなった尻へと這わせ、それぞれの肉を掴み上げると、中に収まる自身を扱くように力強く揉みこんだ。
「や、だッ、だめ! お尻、そんなに強く、したら……ッ、あ、痛いの、ビリビリしちゃうよぉ!」
「お前の心はそうは言ってないみたいだけど?」
新緑がざわざわと萌えぐように、操の波打った感情は拒絶の言葉とは裏腹なものを伝えてくる。意地悪をする体で、甲洋はその願望を焦らすことなく叶えてやることにした。
突き上げる動きはそのままに、掴んでいた尻から手を離すと双臀に思い切り両の平手を打ち付ける。
パァンという乾いた音が室内に響き、甲洋の胸に縋りつく操が背を反らす。
「ッ、──! ァ、ぃ……っ!」
孔を穿ち、尻を叩き、操の中で目を覚ました被虐嗜好を、自身の嗜虐性で満たしていく。互いが互いの衝動と快楽を暴いていく行為は、怖いくらい気持ちがいい。内も外も、引きずり出された熱に焼け爛れていくようだった。
軋むベッドと鈍い水音。肉を打つ乾いた音に、獣のような呼吸が重なる。
いつしか揺さぶられるだけだった操の腰も、甲洋の動きに合わせて淫らに動きはじめていた。時おり尻を打ってやる度に、中がぎゅうと締めつけてくる。
「ッ、ぁ……凄い、締まる。来主、そんなにいいんだ?」
あえての問いかけに、操はガクガクと首を縦に振る。
「ダメ、ダメ、きもちいい、これ、きもちい……! お尻、痛いのに、きゅんきゅんする……っ」
操の思考はもはや強烈すぎるほどの刺激に陶酔しきっていた。最初の目的や、ここに至る経緯などそっちのけで、焦点が合わなくなっている瞳から涙を溢れさせている。
「して、もっとして、甲洋、ねぇ甲洋……!」
「悪い子だね、来主は」
こんなに酷いことをされているのに。こんなに酷いことをしているのに。
操も、自分も、どうかしている。
『 いい、いいの……悪い子でもいいから、ねぇイジメて……いっぱい、もっと、気持ちよくして! 』
惜しみなく心の声を露にし、口からはうわ言のようにひたすら「叩いて」と繰り返す。甲洋もまた倒錯した快楽をたっぷりと味わいながら、終わりに向かってその願いを聞き入れた。
ひときわ激しい腰つきで、奥を突く。同時に容赦なく手のひらを叩きつけた。
「いっくっ……! イッちゃ、ぁう、あっ、……あ、……あぁ──!」
完熟したように赤く染まる尻を震わせ、操は悦びの悲鳴をあげながら達した。白濁が飛び散り、セーターにも、甲洋の服にもパタパタと降りかかる。
「来主、ッ、ぅ……あ……っ!」
一滴も残さず搾り取ろうとする鋭い締めつけに、甲洋も思わず声を漏らして奥で達した。気が遠くなるほどの快感に腰を震わせ、精の飛沫を迸らせる。
操は甲洋の上でぐったりとしながらも、ピクピクと痙攣し続けていた。ぁ、ぁ、とか細く鳴いているのが可愛くて、甲洋はその身体を強く抱きしめながら余韻に浸った。
*
気をやっている操をベッドにうつ伏せに寝かせて、腫れ上がった尻には冷たく濡らしたタオルをかぶせた。
椅子を引き寄せて腰掛けると、心なしかやつれたように見える横顔を見下ろし、溜息をつく。
(いくらなんでも、やりすぎだ……)
双方がノリノリだったとはいえ、もとはと言えば甲洋が独占欲をこじらせてしまった結果がこれである。さらに元を正すなら操がおかしな我儘を言い出したのが全ての発端ではあるのだが、まさかこんな日も高いうちから倒錯的なセックスに溺れるなんて。
おそらく、しばらくはまともに椅子にも座れまい。さっきはほとんど脳内麻薬がキマったような状態だったからいいものの、操が目を覚ましたらピーピーと泣きだすのは目に見えていた。
「バカだな、俺は」
項垂れながら独りごちる。膝に肘を置いて伸びっぱなしの髪をガリガリと掻いていると、小さく掠れた声が甲洋の名を呼んだ。
「来主?」
まだどこかぼんやりとした様子でノロノロと瞬きをしている操に、甲洋は身を乗り出した。
思わず漏れたのは安堵の息だった。まるで死んだように眠っているから、このまま目を覚まさないのではないかと、少し本気で心配していたのだ。
「お尻、平気?」
ほんのりと汗を含んで、パサついている髪を撫でながら問いかける。すると操は小さく「ん」と頷いた。
「感覚がない……でも多分、ジンジンしてる」
「……ごめん、やりすぎた」
「うぅん。甲洋、気持ちよさそうだったし。おれも気持ちよかったし。叩くのも叩かれるのも、どっちも気持ちがいいんだね」
「いや、その……誰しもに当てはまるとは限らないから……そこは誤解しないほうがいい」
「そっか。じゃあ、甲洋だから気持ちよかったのかな?」
そう言って、操はやけに嬉しそうにふふっと笑った。
「そうだといいけど」
甲洋は眉をハの字にしながら小さく笑い返した。
さっきまでいた傲慢な自分は、欲を満たすだけ満たして心の奥底で眠っている。今はただ無体を強いたことへの罪の意識が勝っていた。濡れタオルに隠された尻は、こうして慌てて冷やしたところで、そうそう腫れは引かないだろう。
「甲洋、まだ怒ってる?」
黙り込んで睫毛を伏せた甲洋に、今度は操が眉をハの字にして見せた。
「怒ってないよ」
そう返すと、彼はもう一度「そっか」と言って目を細める。
「もう少し冷やしたら、湿布を貼ろう。着替えもしないと」
「いいよ、まだこのままで」
「汚れたまんまじゃいられないよ。こないだ買ったセーターを着ればいい。赤いやつ、着るの楽しみにしてただろ?」
甲洋は立ち上がると、チェストに足を向けて引き出しを開ける。中には操の衣類がみっちりと詰まっていた。貰い物もあれば買ったばかりのものもあって、新品の赤いセーターは一番上にタグも取らずに収まっていた。
「うぅん。おれ甲洋の服が着たい」
「え?」
セーターを取り出し、机の上のペン立てに刺さるハサミに手を伸ばしかけていた甲洋は、目を丸くして操を見下ろす。
「おれ、君の服好きだよ。抱きしめられてるみたいで嬉しくなる。だって甲洋の匂いがするから」
思わず息をのみながら、一瞬にして頬に熱が集まるのを感じた。
「誰かのものになるのって、きっとこんな気持ちでしょ? だからおれは、甲洋の服を着るよ」
「来主……」
参ったなと、甲洋は思う。操には自覚がない。だから平気で誰とでもくっつくし、誰にでも好意を向ける。好きだと思ったら好きだと言う。嫌いなら嫌いだと、感じたままにはっきりと口に出して告げるのだ。
甲洋にはそんな無邪気すぎる彼の行動を、全て許容できるだけの余裕がない。自分だけが好きでいるような気がして、独りよがりのような気がして。
だからヤキモキしてしまう。大人気なく嫉妬に駆られてしまうのを、止める術が見つからなかった。
けれど彼は甲洋の服を好んで着る。大好きな新しい服よりも、甲洋の匂いが染み付いた服を選ぶ。
甲洋が相手なら尻を叩かれたって悦んでしまうし、この身体は、甲洋以外の男を知る予定もなければ、その意思もない。もちろん、女も。
しばらく呆然としたあと、肩を震わせながら笑ってしまった甲洋に、操は不思議そうな顔をした。
「なんで笑うの?」
「なんでもないよ」
ただ、と言って、甲洋は赤いセーターをチェストにしまう。代わりに下の段の引き出しを開け、自分が普段着ているスウェット生地のインナーを取り出した。
甲洋自身もゆったりと着られるサイズだから、操にはなおのこと大きいだろう。
「俺も自覚が足りなかったなと思ってさ」
彼にとって自分という存在が、充分すぎるほど特別であるこということを。
「ふぅん? そっかぁ」
操は落ちてきそうな瞼でふにゃりと笑った。再び襲ってきた睡魔に飲み込まれそうになっている彼の耳に、甲洋の言葉は半分も届いていないだろう。
甲洋は取り出したインナーをその枕元に置くと、ベッドの縁へと腰を下ろす。
「もう少しおやすみ。起きたら身体を拭いてあげる。そうしたら、俺の服を着て」
「ん、ぅ」
羽根でくすぐるように優しく髪を撫でれば、操はクルリと長い睫毛を震わせながら目を閉じた。
無垢な寝顔に募る愛しさ。止め処なく溢れる想いに胸を熱く満たしながら、それでもきっとまた何度でも繰り返してしまうんだろうなと、甲洋は思った。
操が操である限りこの独占欲は消えないし、そうとも知らずに、彼はまた甲洋を煽るだろう。
「大好きだよ、来主」
甲洋は大人気なくて、嫉妬深い。そんな自分を、認めてやるしかなさそうだ。
←戻る ・ Wavebox👏
「ねぇ、甲洋はお尻ぺんぺんされたことある?」
雪遊びをして帰ってきた操が、ホットレモネードを飲みながらくるくるとよく動く瞳で問いかけてきた。
甲洋はドーナツを盛った皿を手に「は?」という顔をして、それから
「ないよ」
と短く返すとテーブルに皿を置く。
操は「なんだぁつまんない」と唇を尖らせながら、砂糖がたっぷりまぶされたリングドーナツに手を伸ばす。元気にかぶりつく様子を見ながら、またこいつはろくでもないことを言いだしそうだなと嘆息を漏らし、甲洋は向かいの席に腰掛けた。
「あのね、さっき、一騎が」
「口の中にものを入れて喋らない」
「んっ、んむ、んぐぐ」
口をドーナツでいっぱいにしていた操が、膨らんだ頬を忙しなく動かしている。まるでせっせと冬支度をするリスのようだ。あの小さな頬袋には、片方だけでどんぐりが3つも入るらしい。
本人は早く話したくてしょうがないようだが、甲洋としては特に急かすつもりもないので、黙ってコーヒーを飲みながら待つことにする。
それにしてもお尻ぺんぺんとは、なんとも懐かしい響きである。甲洋にはそんな経験はない──そもそも子育てに熱心な親ではなかったので──が、子供の頃に剣司や衛がよくイタズラをしては、親御さんに尻を叩かれていたのを思いだす。
こいつもそれを見たんだろうなと、甲洋は思う。きっと『そうし』だ。
下手をすれば操よりもずっとやんちゃに成長している、小さな友人の顔を脳裏に思い描いた。
昨日の夕方から降りだした雪は一晩かけて降り積もり、島中を白銀の世界に変えていた。
甲洋は一騎のところに遊びに行くと言ってきかない操をこれでもかというくらい厚着させ、耳あてまで装備させて送りだしてやった。
今日は店の定休日だが、こういう寒い日には誰かしらが温かい飲み物と暖を求めて顔をだす。予定があるわけでもなかったので、甲洋は看板は出さないまでも気楽に店を開けながら、久しぶりにショコラとふたりきりの静かな時間を過ごしていた。
丸一日遊んでくるかと思いきや、操は昼を過ぎるころには帰ってきた。すっかり鼻を赤くしていたので、たっぷり蜂蜜を入れてホットレモネードを出してやった。
着込ませてやったコートなどの防寒具は、今は全て隣の椅子の背もたれにかけられている。
操が着ているオフホワイトのハイネックセーターは甲洋のもので、手の甲まですっぽり隠れて指先だけがちょこんと出ていた。いわゆる萌え袖というやつだ。
本当は中学の頃に着ていた服だとか、新しく買い与えた服だってあるのだが、甲洋はあえて今の自分の普段着を彼に着せることが多かった。
サイズ違いの服の中で、操がその身体を泳がせている姿を見るのが好きだからだ。袖だとか裾だとか、下の方にずれてしまう肩線だとか。華奢な少年の身体が、さらに一回り小さく見えてしまうことに男心をくすぐられてしまう。
それはサイズが大きければなんだっていいというわけではなくて、甲洋の服であるという点に大きな意味があった。自分の服を着せることによって、甲洋のなかの独占欲が満たされるのだ。
「あのね、さっき空き地でそうしと美羽と三人で雪合戦して遊んでたんだけど──」
そうこうしているうちに、ドーナツを嚥下した操がようやく口を開きはじめた。が、微妙にニヤけている甲洋の顔を見てことんと首を傾げる。
「ねぇ、どうかした? なんか楽しそう」
「……別に。いいから続けて」
ひとつ咳払いをしながら表情を消し、誤魔化すようにコーヒーカップに口をつける。内心デレデレなことを知られるのはどうしても恥ずかしいので、読まれないようしっかり心の蓋を閉じながら。
操は特に気にするふうもなく、素直に話の続きをしはじめた。
「でね、雪合戦してるとき、そうしがこっそり雪玉の中に石を入れたんだ」
「ああ……やんちゃ坊主がやりがちなやつ」
「当たったら痛そうでしょ? 嫌だなって思って。おれ、美羽と一緒に避けたんだ、それ。そしたらさ──」
石が入った雪玉が、物の見事に他所のお宅の窓ガラスをぶち抜いた。
少し離れた位置には談笑する一騎と真矢がおり、その派手な音に血相を変えたという。幸い怪我人はなく、ガラスを割られた家主も笑って許してくれたそうだが……。
「それで、お尻ぺんぺん?」
「そう。一騎がそうしを膝に抱えて、お尻をぺろっと出してね。悪い子にはそうやってお仕置きしなきゃいけないんだって」
甲洋の脳裏に、操から送られてきたイメージが再生される。
キリッと眉を吊り上げた一騎が、小さなそうしの小さな尻をペンペンと叩いていた。ピーピーと泣き喚くそうしの子供らしさや、まるで母親のような一騎の姿に、悪いと思いながらもつい苦笑が漏れてしまう。
「まぁ、それはしょうがないな」
下手をすれば怪我人を出していた可能性だってあるし、当たりどころが悪ければもっと最悪の事態を招くことだってある。何事もなかったからいいものの──窓を割られるのも甚大な被害といえるが──昔ながらの妥当なお灸のすえかたに思えた。
「でね、でね」
しかし本題はここからだった。
甲洋がはじめに予想した通り、操の口からろくでもない言葉が飛び出したのである。
「おれも尻ぺんぺんしてみたいから、甲洋で試してもいい?」
ほら来たぞ、と甲洋は思った。
「されてみたい、じゃなくて? してみたい?」
「されるのなんか嫌に決まってるでしょ。想像しただけで痛すぎて悲しいよ」
「なかなか理不尽なこと言ってるよ、お前。俺が快くいいよって言うとでも思った?」
「え!?」
「え、じゃないよ……」
断られるという可能性を1ミリも想像していなかったとばかりに、ショックを受けている操に深々と息を漏らす。
オープンすぎる操の感情は、さっきから惜しみなく伝わってきている。彼はどういうわけか、お尻ぺんぺんをする一騎の子育てぶりに憧憬を抱いてしまったのだ。心を鬼にして子供を躾ける姿が、やけに格好良くその目に写ってしまったらしい。さらに──
「そうしのお尻、ぷにぷにしてそうで可愛かったんだ。あれ、叩いたら気持ちいいんだろうなぁ」
などと言って、なぜかうっとりしている。
こいつ、サドっ気なんかあったっけ……? と首をひねる甲洋に、操は矢も盾もたまらないといった様子で「ねぇお願い!」と身を乗りだしてくる。
この子犬のようなつぶらな瞳でおねだりをされるとめっぽう弱い甲洋だが、しかし今回ばかりは首を縦に振ることはできそうもなかった。なにが悲しくてこの歳で用もないのに尻を丸出しにした挙げ句、引っ叩かれなくてはならないのか。親父にもぶたれたことないのに。(ネグレクト的な意味で)
「い、や、だ」
「なんでぇ!?」
「俺にはそういう趣味はないし、残念ながらお尻もぷにぷにしてないよ」
「趣味? 趣味でお尻を叩かれたい人がいるってこと?」
「人によってはご褒美だろうね」
「へぇ~」
極めて無駄な知識を植えつけてしまったような気がする。
この可愛い顔に尻を叩かれてブヒブヒと喜べるのは、せいぜいエ●同人に出てきそうなモブおじくらいではなかろうか。(※あくまでもイメージです)
「あーあ、おれも悪い子にお仕置きしてみたかったのにな……甲洋のケチ……」
悪い子認定されるようなことをした覚えもない上に、ケチと言われる筋合いもないのだが。
その理不尽さに呆れつつ、それでもこのままおとなしく引き下がってくれそうな気配にホッとした──のも束の間、カラーンとドアベルが鳴ったと同時によく知る人物が扉から顔を覗かせた。
「さっみ~! よう甲洋、やってるか?」
「あ、剣司だー!」
それは昔馴染みの仲間の一人、近藤剣司だった。
彼もまた鼻先を赤くして、両腕で二の腕を摩りながら店のなかに入ってくる。コートで着ぶくれを起こしているのを差し引いても、このところ見る度に身体つきがふっくらしていくように見えるのは気のせいだろうか。
剣司はテーブルの側までやってきて片手をあげると「ホット頼むわ」と言った。それから操の頭をくしゃりと撫でて、白い歯を見せながら笑顔を浮かべる。
「おー、元気か来主。ん? なんかお前、そのセーター少し大きくないか?」
「うん。だってこれ甲洋の」
「ホットコーヒーね。すぐに淹れるから、どうぞ座って」
「お? おう、頼むわ」
さりげなく話題を逸らしつつ席を離れて背を向ける。すると、とつぜん操の「あ、そうだ!」という声が聞こえてきて、嫌な予感に思わず足を止めた。
「剣司にお願いすればいいんだ!」
「!?」
「お願い? なんだそれ?」
予感的中だ。まなじりを吊り上げながら勢いよく振り返れば、すっかりおねだりモードに入った操が剣司の肩にしがみついていく姿が目に飛び込んできた。
「ねぇ剣司! 聞いてほしいことがあるんだけど!」
『 待って。まさかとは思うけどお前…… 』
咄嗟に読心に切り替えて問えば、操はべーっと舌を出しながら同じく心の中に返事を寄越す。
『 だって甲洋ケチなんだもん。だったら他の人に頼んじゃえば問題ないでしょ? 』
『 大アリだろ…… 』
そんな非常識な頼み事なんか、誰が相手でもきくわけがないだろう。(モブおじ以外は)
どうせ断られるのは目に見えているのだから放っておけばいいのだが、操が他の男に引っついて「尻を叩かせてくれ」なんて頼み込む姿など、想像するだけで気分が悪い。というより、引っつくという行為そのものが極めて不愉快だ。
例え間違いが起こる可能性が、万に一つもない相手であったとしても関係ない。
しかしそんな甲洋を煽るかのように、操は剣司の腕に両腕を絡めて抱きつくと、あの子犬のような瞳をしながら上目遣いをする。
「剣司は優しいから、おれのお願い聞いてくれるよね?」
終始キョトンとした表情だった剣司が、その言葉に満更でもない顔を見せる。ずいぶん落ち着いたように見えて、この男は基本的におだてれば木に登るタイプのお調子者なのだ。
「そう言われると悪い気はしないよなぁ。んで? なんだ? 俺にできることならなんでも言ってみ」
「やったー! 剣司大好き! あのねあのね、お尻を」
「来主」
自分でもどこから出したのかと思うほどの低い声で、操の名前を呼んでいた。
雪化粧をほどこされた外気と同等にまで下がってしまった室内の空気に、さすがの操もギクリとしながら甲洋を見る。
『 ……それ以上言ったらどうなると思う? 』
やんわりと笑みを浮かべながら声には出さずに問いかけた。もちろん、目だけは全く笑っていない。
静かに静かに、腸が煮えくり返っていた。いわゆる地雷というやつだ。操はとっくに踏み抜いているのだが、彼はまだ間に合うとでも考えたのか、少し青い顔をしながらよりいっそう剣司に引っつくと、その耳元に口を寄せる。
「け、剣司、逃げよう。甲洋は、今すごく怒ってる。心がマグマみたいになってるよ」
「はぁ? なんで?」
「いいから!」
操が剣司の腕を引っ張ろうとしたところで、距離を詰めた甲洋が彼の後ろ襟をむんずと掴んだ。
「うわぁ!」
「剣司、悪いけど今日はもう店じまいだよ」
「へ? いや、でも」
「やだー! 離して! 怒ってる甲洋は嫌だ! 心がピリピリするから嫌だー!」
「なんかすげぇ暴れてるんだけど……いいのかこれ?」
両手足をバタつかせて叫ぶ操と、にっこり笑いかけてくる甲洋を交互に見比べて、剣司は指先で頬を掻きながら口元を引きつらせた。
「俺は来主と大事な話があるから」
「た、助けて剣司! おれを置いて行かないで!」
「なんかよく分かんねぇけど、了解。今日は帰るよ」
「剣司ってばぁー!!」
剣司は涙目になっている操に一瞬だけ気の毒そうな視線を向けたが、甲洋が怒るのは、操がなにかしら問題行動を起こした場合であることはもはや誰もが知る事実だったので、ただ苦笑するしかないようだった。
その目には保護者兼、教育係への労いが色濃く浮かびあがっている。
「ありがとう、剣司。それじゃ」
そう言い残し、甲洋は操ごと一瞬で姿を消した。
取り残されてしまった剣司は、なんだかよく分からないままとりあえず店を出るしかなかった。
当たり前だが外は寒い。が、店の中の凍りついた空気よりは、いくらかマシに思えてしまう。
「一体なにやらかしたんだよ、アイツ」
下手をすれば生尻を引っ叩かれていたかもしれないなんて知る由もなく、肩をすくめながらぼやいた剣司は愛する妻が待っている家へと帰っていくのだった。
*
二階の寝室に移動した甲洋は、凝りもせず暴れ続ける操の身体をベッドへひょいと放り投げた。
横倒しの状態でシーツに着地した操は、スプリングに軽く身体を跳ねさせてから身を起こして甲洋を睨みつける。
「なんでそんなに怒ってるの!? 甲洋がケチんぼだから、剣司に頼もうとしただけじゃん!」
「誰に頼もうが同じだよ。自分がされて嫌なことは、相手にもしない。想像するだけで痛くて悲しいんじゃなかったっけ?」
「そうだけど……」
操はバツが悪そうに目を泳がせながらも、ぶぅと唇を尖らせた。どうしても腑に落ちないといった様子だ。
基本的に甲洋が操を叱るのは、彼が店のものを壊したり、誰かに迷惑をかけたときだけだった。けれど今回はなにかを壊したわけではないし、結果的に誰にも迷惑をかけていない。
だからなぜ甲洋が怒っているのかが分からず、彼はそれが不服でしかたないのだ。あれだけ煽るような真似をしておきながら、である。
「納得がいかない? なら実際どれだけ痛くて悲しいのか、身をもって経験してみたらどう?」
「えっ?」
操がぎょっとして身を強張らせる。
「ちょっと待って、それってどういうこと? まさか、おれのお尻を叩くってこと?」
「そうなるね」
「なんで!? なんでそうなるのぉ!?」
「来主が悪い子だからだろ?」
甲洋が一歩一歩ベッドに近づくたび、操の腰が引けていく。彼は慌ててベッドの端まで移動すると、壁にぴったり身を寄せた。
「待ってってば! わかったよ! ごめん! 謝るから、それ以上こっちに来ないで!」
「もう遅いし、俺が怒ってる理由はそこじゃないんだよ、来主」
「なにそれ意味わかんない! 心も読ませてくれないし!」
その無自覚さにまた少し腹がたった。
他にいくらでも洋服があるのに、わざわざ自分のものを着せるくらいには、甲洋の独占欲は強いのだ。それは操と今の関係に落ち着くまで、自分でも知らなかった新しい側面だった。
そんな甲洋の目の前で見せつけるように他の男にくっついて、挙げ句「大好き」だなんて言ったのだ。こいつは。
もちろんそこに深い意味がないことは知っている。操には自覚がなかった。甲洋がどう思い、どう感じるか、そして本当はどれほど余裕がないかを彼は考えもしないし、知ろうともしないのだ。
その自覚のなさが、なによりも腹立たしい。
「わかんないけど、わかったから! 俺が悪かったんでしょ! ごめんってば!」
『 黙って 』
「ッ!」
心に直接言い捨てると、その冷ややかな声音に操が口を噤む。
甲洋が怒っているのは甲洋のエゴだ。それを理解できない操に腹を立てるのも、子供っぽい独占欲とただの嫉妬でしかない。
だけど、いい機会じゃないか。分からないことは、丁寧に教えこんでやればいい。丁度いいお手本を、彼はその目で見てきたそうだから。
「悪い子にはお仕置き。そうだろ、来主」
不釣り合いなまでに優しく微笑めば、唇を引き結んだ操の瞳に涙が浮かんだ。
*
ベッドの縁にどっかりと腰をおろした甲洋の膝に、うつ伏せた身体を横向きにした状態で操の身体が押さえ込まれている。
サイズが大きいセーターはそのままに、下だけは全て脱いで惜しげもなく秘所が晒されていた。
「ううぅ~……」
ぎゅっと握った拳を唇に押し付けて、操が情けない呻きを漏らす。
「今からそんなでどうするの? まだ始まってないよ」
「だってぇ……ぁ、ンッ!」
セーター越しに背中を撫でてやりながら、眼前に晒された丸くて白い双丘にもゆるりと手を滑らせる。操の身体が跳ねると、柔らかな肉の丘も同時にぷるりと小さく揺れた。
ふっくらとしたなだらかな曲線に、甲洋はそっと熱い息を漏らす。手のひらに吸い付くような素肌はぷにぷにとしていて、まるで小さな子供のようだ。
そこには傷もなければ罪もない。ただ白く、柔らかく、愛されるためだけに存在しているかのように幼気な肉があるだけだった。
今からこれを罰するために折檻を加えるのだと、そう思うとひどく気分が高揚し、胸が疼きだすのを止められない。
(サドっ気があったのは俺のほう、か)
膝の上で震えながら鼻をすする操はとても可哀想で、けれどどんな声で鳴くのだろうかと想像を巡らせるだけで、背筋にゾクゾクとした痺れが走る。無意識に、喉がごくりと音を立てていた。
「そうしは何回叩かれてた?」
優しく尻を撫でながら問えば、くぐもった声で操が答える。
「……10回」
「そう。なら、20回は必要かな」
「な、なんで増えるのぉ!?」
シーツに手をつき半端に身体をひねった操が青い顔をして見上げてくる。甲洋は緩く笑みを浮かべると、瞬きと一緒に頷いた。
「来主はそうしよりお兄さんだからね」
「そんなぁ……」
くしゃりと顔を歪めながら、操がガクリと項垂れる。
甲洋は自身を焦らすように勿体つけて、尻の肉に軽く爪を立てると、ふっと息を吐きだした。それが合図であることを察したのか、操は息を詰まらせたように喉奥で小さく呻き、その身を強張らせる。
「数、ちゃんと数えてて」
じゃなきゃ分からなくなるかもよと白々しく言い放ち、甲洋は振りかざした手のひらで風を切る。
パンッ!
という小気味良い音と同時に、操の口から「きゃう!」という子犬のような悲鳴が上がった。
加減はしたつもりだが、ジンとした痺れがさざ波のように手のひら全体に広がっていく。
「うぅ~……痛いよぅ……」
情けない声を漏らしながら、操が自由な両手でシーツに皺を作っていた。
「ちゃんと数えないと、一からやり直しになるけど?」
「ッ、ぃ、いち! 今ので一回目!」
ギクリとしながら慌てて数を数えた操にクスリと笑い、甲洋は手首のスナップを効かせながらそのまま何度も尻を打ちすえる。尾骶骨がある上部は避けて、もっとも柔らかい場所をすくい上げるような角度で叩いた。
パン、パン、という音が一定の間隔を保ちながら響き渡ると、操の口からも甲高い悲鳴がひっきりなしに溢れだす。
「ひゃうッ! ぁ、に、にぃ! ふぁッ、ぁ、さ、んッ! あぁ、ぅッ、しぃ! くうぅ、ぁっ、やめ、も、やだぁ……!」
ほとんどまともに数えもしないうちに、操は完全に音を上げて腰を捩りながら泣きだした。けれど構うことなくその背を押さえつけて平手を打ち続ける。
キャンキャンと上がる高い鳴き声と、打つほどに赤く腫れぼったくなっていく皮膚に自然と息があがり、甲洋は目を細めながら獣のように舌なめずりをした。
「ひぐっ! ぁッ、きゃうぅッ! ぁ、こう、よ、痛い、お尻、こわれちゃうぅ……ッ!」
操が可愛らしく鳴けば鳴くほど、身体の奥に眠っていた獰猛な神経が研ぎ澄まされて、熱を滾らせていくのを感じる。シーツを掻き乱す指先の痛々しさといじらしさを哀れみながら、胸を締めつける甘い痛みは甲洋の独占欲と征服欲を同時に満たしていく。
けれどそれは満ちるほどに欠けていき、もっともっとと、より強い乾きをもたらした。
「今ので、何回目?」
何度も何度も打ちつけて、やがて手のひらに感覚がなくなる頃になって、ようやく一度手を止めた。
荒い息を押し殺して意地悪く問えば、操が髪を振り乱しながら首を左右に振る。
「わかん、ない……うぅ……もう許してよぉ……」
「20回だよ。だけど最初からやり直し」
「そんな!」
「最初にそう言ったはずだけど?」
「だって、だってこんなの、無理に決まってるよぉ!」
癇癪を起こしかけるのを咎めるように、一際大きな音を響かせながら尻を打つ。喉を限界まで反らして声なき声をあげ、やがて操はぐったりと頭を垂れた。シーツに額を擦りつけ、ひくひくと震えながら「もうやだ」と言って、か細くすすり泣きはじめる。
甲洋は真っ赤に染まった双丘をゆらゆらと労るように撫で擦った。そこは燃えるような熱を持ち、痺れている手のひらに瑞々しく吸いついてくる。
なんて可愛いんだろう。ここをこんな風にイジメてもいいのは自分だけ。確信を強めるほどに、加虐的な陶酔と恍惚に浸ることができた。
「もうしないって誓って」
柔らかな声で言うと、操の身体が小さく跳ねる。そしてこくこくと何度も頷いた。
「し、ない……もう、わがまま、言わない、から」
「違う。来主は我儘でいいんだよ。そうやって俺を困らせればいい。お前はその方が可愛いから」
パン、と、また尻を打つ。ひゃん、と声を上げながら、操の身体がビクンと跳ねた。
「俺が言いたいのは、そういうことじゃないんだよ」
さらに打つ。言葉をひとつ発する度に、甲洋はそれを容赦なく繰り返した。
「お前が剣司に抱きついたとき、俺がどんな気持ちでいたか分かる?」
「ぇ……? あ、あうぅッ!」
「そんなに剣司がいい? あいつのことが好き?」
「こう、よ、なんで、そんな……イッ、ああぁダメっ! ほんとにもう無理! お尻、ほんとに壊れちゃうってばぁ!」
「……壊してるんだよ」
「あ、ィ……──ッ!!」
宣言通り、甲洋はその後もきっちりもう20回を目指して折檻を続ける。合計で30回を超えたあたりで、流石に手のひらの痺れが鋭くなってきた。
操の尻も猿のように真っ赤に染まり、打たれる度に張りのある肉がぶるりと震える。
悲鳴は徐々に弱々しいものへと変わっていったが、痛々しさが薄れた代わりに、どこか艶を帯びてきたように思えた。
「アッ、ぁんっ……ぁ、はぁ……っ、はぁ、ぁ、ふぁぁ……っ」
強張りが解けた身体はくったりと甲洋の膝に伸し掛かっているが、尻を打たれる都度ビクンビクンと活きのいい反応を示す。
明らかにさっきまでとは様子が違ってきている。そこでふと、腿のあたりにコリコリと何かが擦れていることに気がついて、甲洋は咄嗟に手を止めた。
「お前、叩かれて感じてるの?」
目を瞬かせながら見下ろせば、尻が腫れている以外にもその身体がすっかり色づいていることに気がついた。
長い袖からちょこんと出ている指先も、すらりと伸びた両足も、爪先まで薄桃に染まっている。
「ふ、ぇ……?」
本人も、自分の身体になにが起こっているのか分かっていない様子だった。
甲洋の腿に押し付けられている操の性器は勃起している。繰り返しもたらされる痛みの中で麻痺した感覚が、別のなにかまで一緒に引きずり出してしまったのだろうか。
「ぁ……なん、で……?」
「これじゃお仕置きにならないな」
そう言いつつも、甲洋は薄く笑いながらパチンと真っ赤な尻を叩く。
「あんんッ……! ぁ、や……やら、ぁ……こうよ、なんか……なんか、変だよぉ……痛いのに……痛いのにぃ……」
「ふぅん。来主にはそっちの気があったんだ?」
そう言ってまた叩く。操の唇から甘えたような嬌声があがる。
「くぅ、んっ! あぁ……あ、やめ、ぇ……こ、よ……ねぇ、なん、でぇ? おれのお尻と、おちんちん、壊れちゃった、の……?」
「そうかもね」
どうしよう、と言って、操はメソメソと泣きだした。
平然と尻を叩かせろと言った傲慢さも、剣司にくっつきながら舌を出していた生意気さも、そこにはもう欠片もない。ヒトの形を模したヒトならざるものが、その理解の範疇を超えた変化に戸惑い、ただ泣いているだけのか弱い姿があるだけだった。
少しやりすぎたなと、甲洋は操の身体を抱き起こして両脇に手を差し込み、膝の上に跨がせた。彼は尻が擦れたことに一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに甲洋の両肩に手を置いてぎゅうと握りしめてくる。
そのまま自分の身体の中心に視線を落とし、兆している自身に唇を噛み締めると、助けを求めるような目を向けてきた。
「こおよ……ねぇどうしよ……壊れちゃったの、どうしたら治る……?」
「もっと気持ちいいことしたら、治るかも」
「まだ、叩く……?」
「叩いてほしい?」
操の瞳が迷いに揺れる。否と言えない自身に言葉を失くしていた。
その反応を見ながら、このままではお互い癖になってしまうかもしれないと思った。それは流石に考えものだなと、甲洋は小さく笑うと両手を操の尻にかぶせて優しくなぞる。
「あっ、ぁ、や……! ピリピリ、する……」
小刻みに痙攣しながら、操が悩ましげに腰を揺らした。痛みだけではない何かに肌を粟立たせ、駄々をこねるように首を振り、半開きの瞳を蕩けさせている。
もっともっと滅茶苦茶に酷くしてやりたいという欲求を内包しながらも、それと同じくらいトロトロになるまで優しくしてやりたいという感情がこみ上げる。
ふたつの願望がせめぎ合い、もたらされる葛藤は不思議と心地がいいものだった。
熟れたように色づく屹立に手を添える。とろりと溢れた先走りの蜜に、小さな幹は濡れていた。
くちくちとささやかな水音を立てながら扱いてやると、面白いほど顕著な反応が返ってくる。
「ふぁっ……あッ、ぁん……っ」
全体をすっかり手の中に収めながら親指の腹で鈴口をくじってやれば、甲洋の首にしがみついた操が嫌々と首を振りながら腰を揺らした。
「だめ、だめ、それだめ、ァ、ァ!」
「どうして? なにがダメ?」
「先のとこ、だめ、きもちぃ、きもちい、から……!」
駄目だと言われるほどに甲洋はそこを執拗に嬲り続ける。小刻みに高い喘ぎを漏らす操が、堪えきれずに果ててしまうまで、その責めは終わらなかった。
「ひぃッ、ん! ァ、あぁぁ……ッ!」
ひ、ひ、とひきつけを起こした子供のように脆弱な呼吸を繰り返し、操の身体から力が抜ける。くったりともたれかかってくる身体を片腕でしっかりと抱きとめて、甲洋は彼が放ったもので濡れた指先を、ぷるぷるとした柔らかな袋のさらに奥の方へと忍ばせた。
指先が辿り着く頃には、すでに双丘の中心は伝い落ちていた先走りでしっとりと湿り気を帯びていた。ほどけた身体はさしたる抵抗もなく、指先を孔の中へと誘い込む。
「あぅ、ん……っ」
濡れた指先を飲み込ませれば、操の背筋が戦慄いた。
食らいついてくる肉の感触に、甲洋は堪らず獣じみた息を漏らす。逸る気持ちを押さえ込み、少しずつ指を増やしながら蕾を開かせていく。
こうしてここに触れるとき、いつも感じるのは尊さにも似た純粋な歓びだった。だってここは、この孔は、甲洋しか知らない。甲洋の指、甲洋の舌、そして甲洋自身しか。
それでもなお余裕がないのはどうしてだろう。誰にも渡したくない。誰にも触れてほしくない。心にも、身体にも。この気持ちを、そんな甲洋の我儘を、どうすれば彼は理解するだろう。
興奮に上気した頬に、セーターの余った袖口からちょこんと覗いた指先が触れる。甲洋の肩口から顔を上げた操が、唇に吸い付いてきた。ちゅうっという可愛らしい音に胸を掴まれて、柔らかく濡れた口腔を思うがままに貪りながら、甲洋は指を引き抜くと自身の前を寛げていく。
引きずりだした怒張する肉茎と、再びゆるゆると勃ちあがりかけていた操のものが触れ合った。ふたり同時に、息を飲む。糸を引きながら離れた唇が、甲洋の名前を呼んだ。
「……いい?」
耳元で囁くと、小さな頷きが返ってくる。
操は心得たように腰を浮かして、その濡れ綻んだ孔に甲洋の切っ先を受け入れた。背筋を震わせ、ゆっくりと飲み込んでいく。
その腰を支えながら、甲洋は徐々に身体を後ろへと倒していった。すっかり仰向けに寝転んだ甲洋の胸に手をついて、操は大きく肩を上下させながら息を乱している。
「んんぅ、ぁ、ぁ、あ……っ」
もうすぐ根本まで収まりきるというところで、操の身体が動きを止めた。そのままはかはかと浅い呼吸を繰り返している。
いつもは浅い場所から徐々に馴染ませていくことの方が多いから、いきなり最奥まで貫かれることには慣れていないのだ。けれど今日の甲洋には、珍しくそれを気遣う余裕がない。
「まだ、だよ」
中途半端に浮いている腰に両手を添えて、甲洋は自身の腰を突き上げるのと同時に操の身体を引き寄せる。自重と下からの突きによって、ドン、と奥を穿たれて、操は見開いた瞳から大粒の涙を撒き散らした。
「ヒぐッ、ぅ、あぁあ………ッ!」
弓なりに背を反らし、若木のような身体が瑞々しく跳ね上がる。まんまるの瞳にとろりと瞼がおりてきて、気をやったように濁っていくのを見上げながら、甲洋はさらに腰を突き上げた。
ベッドのスプリングの力を借りて、反動をつけながら激しく揺さぶる。
「ぁう、ァッ! ふあぁっ、や、や、奥、おなか……あぁ、ぁっ、やぶけ、ちゃ……っ」
されるがままの操の身体は、馬にでも跨っているように上下している。その動きに合わせて、彼の小さな屹立もぷるんぷるんと揺れていた。
バランスを保てなくなった身体が、胸の上に倒れ込んでくる。甲洋は腰にあった両手を赤くなった尻へと這わせ、それぞれの肉を掴み上げると、中に収まる自身を扱くように力強く揉みこんだ。
「や、だッ、だめ! お尻、そんなに強く、したら……ッ、あ、痛いの、ビリビリしちゃうよぉ!」
「お前の心はそうは言ってないみたいだけど?」
新緑がざわざわと萌えぐように、操の波打った感情は拒絶の言葉とは裏腹なものを伝えてくる。意地悪をする体で、甲洋はその願望を焦らすことなく叶えてやることにした。
突き上げる動きはそのままに、掴んでいた尻から手を離すと双臀に思い切り両の平手を打ち付ける。
パァンという乾いた音が室内に響き、甲洋の胸に縋りつく操が背を反らす。
「ッ、──! ァ、ぃ……っ!」
孔を穿ち、尻を叩き、操の中で目を覚ました被虐嗜好を、自身の嗜虐性で満たしていく。互いが互いの衝動と快楽を暴いていく行為は、怖いくらい気持ちがいい。内も外も、引きずり出された熱に焼け爛れていくようだった。
軋むベッドと鈍い水音。肉を打つ乾いた音に、獣のような呼吸が重なる。
いつしか揺さぶられるだけだった操の腰も、甲洋の動きに合わせて淫らに動きはじめていた。時おり尻を打ってやる度に、中がぎゅうと締めつけてくる。
「ッ、ぁ……凄い、締まる。来主、そんなにいいんだ?」
あえての問いかけに、操はガクガクと首を縦に振る。
「ダメ、ダメ、きもちいい、これ、きもちい……! お尻、痛いのに、きゅんきゅんする……っ」
操の思考はもはや強烈すぎるほどの刺激に陶酔しきっていた。最初の目的や、ここに至る経緯などそっちのけで、焦点が合わなくなっている瞳から涙を溢れさせている。
「して、もっとして、甲洋、ねぇ甲洋……!」
「悪い子だね、来主は」
こんなに酷いことをされているのに。こんなに酷いことをしているのに。
操も、自分も、どうかしている。
『 いい、いいの……悪い子でもいいから、ねぇイジメて……いっぱい、もっと、気持ちよくして! 』
惜しみなく心の声を露にし、口からはうわ言のようにひたすら「叩いて」と繰り返す。甲洋もまた倒錯した快楽をたっぷりと味わいながら、終わりに向かってその願いを聞き入れた。
ひときわ激しい腰つきで、奥を突く。同時に容赦なく手のひらを叩きつけた。
「いっくっ……! イッちゃ、ぁう、あっ、……あ、……あぁ──!」
完熟したように赤く染まる尻を震わせ、操は悦びの悲鳴をあげながら達した。白濁が飛び散り、セーターにも、甲洋の服にもパタパタと降りかかる。
「来主、ッ、ぅ……あ……っ!」
一滴も残さず搾り取ろうとする鋭い締めつけに、甲洋も思わず声を漏らして奥で達した。気が遠くなるほどの快感に腰を震わせ、精の飛沫を迸らせる。
操は甲洋の上でぐったりとしながらも、ピクピクと痙攣し続けていた。ぁ、ぁ、とか細く鳴いているのが可愛くて、甲洋はその身体を強く抱きしめながら余韻に浸った。
*
気をやっている操をベッドにうつ伏せに寝かせて、腫れ上がった尻には冷たく濡らしたタオルをかぶせた。
椅子を引き寄せて腰掛けると、心なしかやつれたように見える横顔を見下ろし、溜息をつく。
(いくらなんでも、やりすぎだ……)
双方がノリノリだったとはいえ、もとはと言えば甲洋が独占欲をこじらせてしまった結果がこれである。さらに元を正すなら操がおかしな我儘を言い出したのが全ての発端ではあるのだが、まさかこんな日も高いうちから倒錯的なセックスに溺れるなんて。
おそらく、しばらくはまともに椅子にも座れまい。さっきはほとんど脳内麻薬がキマったような状態だったからいいものの、操が目を覚ましたらピーピーと泣きだすのは目に見えていた。
「バカだな、俺は」
項垂れながら独りごちる。膝に肘を置いて伸びっぱなしの髪をガリガリと掻いていると、小さく掠れた声が甲洋の名を呼んだ。
「来主?」
まだどこかぼんやりとした様子でノロノロと瞬きをしている操に、甲洋は身を乗り出した。
思わず漏れたのは安堵の息だった。まるで死んだように眠っているから、このまま目を覚まさないのではないかと、少し本気で心配していたのだ。
「お尻、平気?」
ほんのりと汗を含んで、パサついている髪を撫でながら問いかける。すると操は小さく「ん」と頷いた。
「感覚がない……でも多分、ジンジンしてる」
「……ごめん、やりすぎた」
「うぅん。甲洋、気持ちよさそうだったし。おれも気持ちよかったし。叩くのも叩かれるのも、どっちも気持ちがいいんだね」
「いや、その……誰しもに当てはまるとは限らないから……そこは誤解しないほうがいい」
「そっか。じゃあ、甲洋だから気持ちよかったのかな?」
そう言って、操はやけに嬉しそうにふふっと笑った。
「そうだといいけど」
甲洋は眉をハの字にしながら小さく笑い返した。
さっきまでいた傲慢な自分は、欲を満たすだけ満たして心の奥底で眠っている。今はただ無体を強いたことへの罪の意識が勝っていた。濡れタオルに隠された尻は、こうして慌てて冷やしたところで、そうそう腫れは引かないだろう。
「甲洋、まだ怒ってる?」
黙り込んで睫毛を伏せた甲洋に、今度は操が眉をハの字にして見せた。
「怒ってないよ」
そう返すと、彼はもう一度「そっか」と言って目を細める。
「もう少し冷やしたら、湿布を貼ろう。着替えもしないと」
「いいよ、まだこのままで」
「汚れたまんまじゃいられないよ。こないだ買ったセーターを着ればいい。赤いやつ、着るの楽しみにしてただろ?」
甲洋は立ち上がると、チェストに足を向けて引き出しを開ける。中には操の衣類がみっちりと詰まっていた。貰い物もあれば買ったばかりのものもあって、新品の赤いセーターは一番上にタグも取らずに収まっていた。
「うぅん。おれ甲洋の服が着たい」
「え?」
セーターを取り出し、机の上のペン立てに刺さるハサミに手を伸ばしかけていた甲洋は、目を丸くして操を見下ろす。
「おれ、君の服好きだよ。抱きしめられてるみたいで嬉しくなる。だって甲洋の匂いがするから」
思わず息をのみながら、一瞬にして頬に熱が集まるのを感じた。
「誰かのものになるのって、きっとこんな気持ちでしょ? だからおれは、甲洋の服を着るよ」
「来主……」
参ったなと、甲洋は思う。操には自覚がない。だから平気で誰とでもくっつくし、誰にでも好意を向ける。好きだと思ったら好きだと言う。嫌いなら嫌いだと、感じたままにはっきりと口に出して告げるのだ。
甲洋にはそんな無邪気すぎる彼の行動を、全て許容できるだけの余裕がない。自分だけが好きでいるような気がして、独りよがりのような気がして。
だからヤキモキしてしまう。大人気なく嫉妬に駆られてしまうのを、止める術が見つからなかった。
けれど彼は甲洋の服を好んで着る。大好きな新しい服よりも、甲洋の匂いが染み付いた服を選ぶ。
甲洋が相手なら尻を叩かれたって悦んでしまうし、この身体は、甲洋以外の男を知る予定もなければ、その意思もない。もちろん、女も。
しばらく呆然としたあと、肩を震わせながら笑ってしまった甲洋に、操は不思議そうな顔をした。
「なんで笑うの?」
「なんでもないよ」
ただ、と言って、甲洋は赤いセーターをチェストにしまう。代わりに下の段の引き出しを開け、自分が普段着ているスウェット生地のインナーを取り出した。
甲洋自身もゆったりと着られるサイズだから、操にはなおのこと大きいだろう。
「俺も自覚が足りなかったなと思ってさ」
彼にとって自分という存在が、充分すぎるほど特別であるこということを。
「ふぅん? そっかぁ」
操は落ちてきそうな瞼でふにゃりと笑った。再び襲ってきた睡魔に飲み込まれそうになっている彼の耳に、甲洋の言葉は半分も届いていないだろう。
甲洋は取り出したインナーをその枕元に置くと、ベッドの縁へと腰を下ろす。
「もう少しおやすみ。起きたら身体を拭いてあげる。そうしたら、俺の服を着て」
「ん、ぅ」
羽根でくすぐるように優しく髪を撫でれば、操はクルリと長い睫毛を震わせながら目を閉じた。
無垢な寝顔に募る愛しさ。止め処なく溢れる想いに胸を熱く満たしながら、それでもきっとまた何度でも繰り返してしまうんだろうなと、甲洋は思った。
操が操である限りこの独占欲は消えないし、そうとも知らずに、彼はまた甲洋を煽るだろう。
「大好きだよ、来主」
甲洋は大人気なくて、嫉妬深い。そんな自分を、認めてやるしかなさそうだ。
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ある寒い冬の日、甲洋は町に薪を売りに出かけました。
するとその途中の田んぼで、一羽の鶴が罠にかかって苦しんでいるのを見つけました。
「可哀想に……いま助けてやるからな」
甲洋はそう言って罠を外すと、鶴を逃してやりました。
幸い鶴は弱っている様子もなく元気に羽ばたくと、甲洋の真上を嬉しそうに飛び回ったあと山の方へと消えていきました。
*
その夜のことです。
甲洋が囲炉裏でお粥を炊いていると、トントンと戸を叩く音がしました。
「ごめんくださーい! 寒いよー! 助けてー!」
戸の向こうからは必死に助けを求める声がします。
こんな夜更けに、しかも外は日暮れから降りだした雪が積もりはじめています。
甲洋が急いで戸を開けると、そこには亜麻色の髪に粉雪を積もらせた少年の姿がありました。
粗末な着物を着た少年は、ぷるぷると震えながら甲洋を見上げます。
「どうしたの? こんな雪の中……とにかく入って」
どこの子かは分かりませんでしたが、凍えている少年をほうっておくことはできません。
甲洋は少年を家に入れると、囲炉裏のそばに座らせました。
「ありがと……こんなに雪がひどくなるなんて思ってなくて」
「このあたりになにか用事でも?」
「うん。人を訪ねて来たんだけど、雪はひどくなるしどんどん暗くなるしで、道が分からなくなっちゃって……ねぇ、よければ泊めてもらえない?」
少年が少し泣きそうな顔で言うので、甲洋は快く頷きました。
「もちろんいいよ。こんなボロ家でよければ、今夜は泊まっておいき」
「やったー! ありがとう! おれの名前は来主操! よろしくね!」
少年は大喜びで、その夜は一緒にお粥を食べると布団を並べて眠りにつきました。
*
次の日も、そしてその次の日も、雪は酷くなるばかりで止む気配がありませんでした。
戸を開けることもできず、操は甲洋の家からなかなか出ることができずにいました。
「雪、やまないね。おれずっといるけどいいの?」
少年はあぐらをかく甲洋の後ろに膝立ちになり、その肩を両手の拳でトントンと叩きながら言いました。
「いいよ別に。どうせ俺ひとりだし、遠慮しなくても。あ、そこもうちょっと右」
「右? こう? このへん?」
「そうそうそこ」
「ねぇ君、家族はいないの?」
「いないよ。昔はいたけど」
甲洋はもともと町の方で暮らしていましたが、両親との折り合いが悪く、数年前に家を出て以来この山奥の小さな村に一人で暮らしていました。
「ここは山だし、夜は暗いし、ひとりだと寂しいねぇ」
「そうだね」
「君が寂しくないように、おれがずっとここにいようか?」
操の提案に、甲洋は目を丸くしました。
「お前、家族は?」
「ひとりだよ。甲洋と同じ」
「……そっか」
甲洋は囲炉裏に灯る火を見つめました。ずっとここで独りで暮らしていくつもりでいましたが、彼にも身寄りがないのなら、それもいいかもしれません。
コツコツと木こりの真似事をしながらの生活には決してゆとりがあるわけではありませんが、一人くらい食い扶持が増えたところで、そのぶん働けばいいだけです。
「好きなだけいればいいよ」
そう言って笑うと、操は「うん」と嬉しそうな笑顔を浮かべました。
こうしてふたりは一緒に暮らすことになったのです。
*
さて、ある日のことです。
操が機(はた)を織りたいので、糸を買ってほしいと頼んできました。
甲洋が望み通り町で糸を買って与えると、操は「織り終わるまで絶対に部屋を覗かないでね!」と言って、部屋で機を織りはじめました。すると──
「うわぁ!」
甲洋が夕飯のお粥を炊いていると、隣の部屋から操の悲鳴が聞こえてきました。
驚いて部屋の方を見ると、ピッタリと閉じられた障子の向こうで、わたわたと影がうごめいています。
「来主? どうかした?」
「なっ、なんてもない! なんでもないよ! あっ、あっ、うわ~っ!」
「明らかになんでもなくないんじゃない!? なにがあったの!?」
甲洋が慌てて障子を開けようとすると、操が焦ってそれを止めます。
「待って! 開けちゃダメだって! ああぁどうしよこれ! 大変だー!」
「そう言われてほっとけるわけないだろ! いい!? 開けるよ!」
「ダメだってば! ほんとにダメなの! いまはダメー!」
「もういいって! 鶴だろ!? どうせ鶴なんだろ!? 俺的には問題ないから!」
驚異のメタ発言をブチかましながら、甲洋は障子を思い切り開け放ちました。
するとそこには美しい鶴が──いません。
「……えっ」
そこにいたのは金ピカに光り輝くのっぺらぼうでした。
ヒト……のような形に見えなくもないそれは、機の前でわたわたと焦った様子で両腕をバタつかせながらこちらを見て……いるような気がしますが、なにぶんのっぺらぼうなので分かりません。そしてその生物の周りには、真っ白い羽根が大量にふわふわと漂っていました。
「なんで開けたの!? ダメって言ったじゃん!!」
「え、おま……来主、なのか?」
魑魅魍魎の類でしょうか。それとも新種のUMAでしょうか。耳からというよりは直接心の中に響いてくる声は確かに操のものでしたが、甲洋にはまるで状況が理解できません。ただ分かるのは、部屋中におびただしい量の白い羽根が舞っているということだけです。
「そうだよおれだよ……鶴じゃなくてごめん……」
「鶴、じゃないとかもうそういう次元を超えてるっていうか……」
「おれの正体は……まぁざっくり言うと宇宙人だよ」
「うちゅ、え、なんだって?」
金ピカののっぺらぼうは、心なしか悲しげに俯きました。
「君のために、これで綺麗な布を織ってプレゼントしようと思ったんだけど……うっかりクシャミしたら羽根が舞い上がっちゃって……」
「クシャミなんかするのかお前……? いや、多分なにを聞いても理解できないだろうから、そのへんはもういいよ。それより、鶴でもないのにこの大量の羽根はどこから?」
「これはね、君がこないだ助けた鶴からむしり取ってきたものだよ」
「えぇ……」
「あ、大丈夫! あの子はおれの友達なんだ! 君に恩返しがしたいけど、よくある昔話みたいに女の人に変身するなんて非現実的な力はないからって。だからおれが代わりに羽根をもらって、恩返しを引き受けたんだよ。羽根はすぐ生えるから平気って言ってたよ」
「非現実的な力……宇宙人がそれを言うのか……」
つまり、彼はあのとき助けた鶴の代理だったのです。
羽根は操がテンパって暴れたせいでずっとふわふわと空中を漂っていましたが、話しているうちに全て床に落ちていました。そして機の上には綺麗な布……ではなく、バレーボールくらいのサイズの毛玉が出来上がっていました。不器用か……。
「話は分かった。とりあえず、お前その姿はもう固定なの? ヒトの姿には戻れないの?」
「戻れるけど……」
「ピカピカしすぎてそろそろ目が痛いから、戻ってもらえるとありがたいかな」
神々しくて美しいとは思いますが、ビジュアル的には人間の操の方が好みです。この姿は流石に甲洋の守備範囲外でしたし、地味に上半身がムキムキでいい身体をしていることも気になります。これでは近々大人の関係に発展した際、抱くというより抱かれかねません。
操は全身からカッと光を放つと、元の姿に戻りました。よかった。目に優しくて可愛い姿が戻ってきた……と、甲洋は心底安堵しました。ですが操は浮かない顔をしています。
「甲洋……おれ、正体を見られたからにはもうここにはいられないよ……」
「なぜ?」
「なぜ? えーと……うーん、なぜだろう?」
「特に理由がないならいいんじゃない? ここにいても」
本家は正体を知られた鶴と老夫婦が別れるシーンで終わりますが、このお話はどこまでいってもパロディなのです。これといって問題もないことですし、お別れする意味はありません。
宇宙人がどうとか言っていた気がしますが、もともと甲洋は彼が鶴だろうがなんだろうが構わないと思っていたのです。それが地球外生命体であろうと、恋の障害にはなりえませんでした。
すると操は憑き物が落ちたように、ぱぁっと明るい表情を取り戻して言いました。
「そっか! じゃあ、おれずっとここにいるね!」
「もちろん。ずっとここにいな」
「やったー! 甲洋大好き!」
こうして操の代理恩返しは無事に成功(?)し、甲洋は可愛い宇宙人の少年とずっとふたりで、末永く幸せに暮らしたそうです。
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