むかしむかしある村に、一軒のアメ屋がありました。
ある夜、店主の甲洋がそろそろ店じまいをしようかと思っていると、トントンと戸を叩く音が聞こえてきました。
「こんな時間にお客さん?」
甲洋が戸を開けると、そこには白い着物を着た一人の少年が、小さなお椀を両手に持って立っていました。その青白い肌と儚げな佇まいに、甲洋は一瞬幽霊でも出たのかと驚きましたが、少年は琥珀の瞳で甲洋を見上げて、ニコリと微笑むと言いました。
「アメが欲しいんだ。ほんの少しでいいから」
あ、可愛い……と、甲洋は思いました。
透けるような白い頬に亜麻色の髪を張りつけた少年は、真っ白の着物も相まって生気が感じられません。けれどその笑顔はふわりと柔らかで、正直ちょっと好みだなと思ってしまったのです。
甲洋は少しだけ心が浮つくのを感じながら少年からお椀を受け取ると、ツボから水飴をすくって入れました。
「はい、30円だよ」
「ありがとう」
少年はまたふわりと笑ってお椀を受け取り、甲洋の手のひらにお金を乗せました。
一瞬だけ触れた指先は、ちょっとドキリとしてしまうくらい冷たいものでした。
*
その次の日も、そのまた次の日も。
少年は小さなお椀を持って、夜更けになるとアメを買いにやってくるようになりました。
これといって会話をするわけではありませんが、甲洋は少年が毎晩やってくるのを心待ちにするようになりました。
お椀を差し出す白い手や、どこか儚さを感じる柔らかな笑顔。それを見るのが、いつしか楽しみになっていたのです。
せめて名前くらいは知りたいと思うのですが、いざとなると話しかけることができません。甲洋は村の娘たちに大人気の超絶イケメンでしたが、女子とはまだ付き合ったことのない奥手な性格だったのです。
*
とある雨の夜。
その日は隣村から友人の剣司がフラリと訪ねてきて、甲洋は夜更けまで話し込んでいました。
するといつものように戸を叩く音がして、少年がアメを買いにやって来ました。
少年はアメの入ったお椀を受け取り、お金を払うと「ありがとう」と笑って夜道にすぅっと消えていきます。
それを眺めていた剣司が、戻ってきた甲洋に言いました。
「なぁんか幽霊みたいだよなぁ。こんな夜更けに白い着物なんてさ」
「俺も最初はそう思ったけど」
「肌もやけに生白いし、なぁ? あれってマジで幽霊なんじゃね?」
「バカ言うなよ」
死んだ人間が夜な夜なアメを買いに訪れるなんて、そんなバカな話はありません。
ですが剣司は納得がいかない様子で、「追いかけてみようぜ」と言い出しました。
「はぁ?」
「なぁ、いいだろ? 面白そうじゃんか!」
このテンションの剣司は言いだしたら聞きません。
甲洋は仕方なく、剣司に付き合って少年のあとをつけてみることにしました。
少年は暗い夜道をすいすいと歩き、やがて林を抜けると隣村の方角へと進んでいきました。
そこで剣司が青ざめてガタガタと震えながら「おい、あっちは墓だぞ」と言って、甲洋にしがみついてきました。あまり嬉しくないシチュエーションです。
肝試し感覚で夜道を歩き、野郎に抱きつかれているほうがよっぽど怖いと、甲洋は思いました。
が、そうこうしているうちに少年は墓場の中へ入っていくと、すぅっと、煙のように姿を消してしまったのです。
「ッ!?」
「や、やっぱり幽霊だー!!」
剣司が叫び、甲洋の腕を掴むと脱兎のごとく走り出します。
二人はそのまま近くの寺に駆け込むと、そこには若い黒髪の和尚さんがいました。
「どうしたんだ二人とも? 幽霊でも見たような顔して」
「か、か、一騎! 出た! 出たんだよ! 幽霊が!!」
二人はこれまでの経緯を一騎和尚に話しました。すると一騎は困った顔をして
「そんな馬鹿なことあるわけないだろ。俺も父さんもずっとここに住んでるけど、一度も幽霊なんて見たことないぞ?」
「本当だって! 見たんだって! なぁ、甲洋!?」
「あ、ああ……」
甲洋はどこか上の空で、初めて少年が訪れた夜のことを思いだしていました。
生きている人間とは思えないほど冷え切った指先の感触。心のどこかでは、薄々感じていたのです。もしかしたら、この世の存在ではないのかもしれない、と。
けれど甲洋はあの柔らかな笑顔に惹かれていました。話しかけられなかった本当の理由は、真実を知るのを恐れていたからです。なにも知らなければ、毎晩あの笑顔を見ることができると、そう信じていたからでした。
「しょうがないな……わかった。とりあえず確認してみよう」
そう言って一騎が立ち上がり、三人は少年が消えた墓場へと足を運んでみることにしました。
すると──
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ……
どこからか、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえます。
三人は顔を見合わせ、大急ぎで声のする方向へと走りました。
「あ、赤ん坊だ! こんなところに、赤ん坊がいるぞ!」
剣司が声を上げました。一騎が提灯で足元を照らします。
するとそこには、白いおくるみに包まれた赤ん坊が元気に泣き声をあげていました。大きな木の根本に、雨を遮るようにして寝かされていたのです。
甲洋が赤子を抱き上げると、おくるみに手紙が挟まっていることに気がつきました。剣司は手紙を抜き取り、開封して中身を見ると眉根を寄せました。
「この子、捨て子だってよ……しかも、日付が数日前だ! こんなチビっこいのが、どうやって今まで生き延びたっていうんだよ……?」
「待ってくれ。これ、アメを入れていた器じゃないか?」
辺りを提灯で照らしていた一騎が、木の根元に転がっているお椀に気がつきました。さらにそのすぐ横に、小さな墓が立っています。
「こんなところに、こんな墓なんかあったかな……」
一騎は首を傾げながら、その朽ちた墓石へと提灯の明かりを向けました。するとそこには
『来主操』
という文字が刻まれていました。
「来主、操……」
甲洋はその名を声に出してなぞりながら、腕の中の赤子に視線を落としました。
ふわふわとした柔らかそうな髪は、あの少年と同じ亜麻色をしています。甲洋のぬくもりに安堵したのか、泣き止んでこちらを見上げる瞳が琥珀色に輝いていました。甲洋と目が合うと、赤子がにっこりと笑みを浮かべます。
そのあどけない笑顔は、どこかあの少年に似ているような気がしました。
「あの幽霊、この子を生かすためにアメを買って食わせてたんだな」
剣司の呟きに、甲洋は鼻の先がツンと痛むのを感じました。
あの少年はアメを買うだけではなくて、自分にこの子の存在を知らせようとしていたのではないか。甲洋には、そう思えてなりませんでした。
一騎は提灯を足元に置き、墓の前に膝をつくと手を合わせて言いました。
「幽霊の正体は、優しい仏さんだったんだな。ありがとう、この子を助けてくれて」
甲洋は腕のなかの赤ん坊に笑みを浮かべ、それから小さな墓石に目を向けると、心の中で言いました。
(大丈夫。守るよ。この子を)
こうして墓のそばに捨てられていた赤ん坊は甲洋に引き取られ、『操』と名付けられて育てられることになりました。
以来、少年がアメ屋を訪れることはなくなったそうです。
←戻る ・ Wavebox👏
ある夜、店主の甲洋がそろそろ店じまいをしようかと思っていると、トントンと戸を叩く音が聞こえてきました。
「こんな時間にお客さん?」
甲洋が戸を開けると、そこには白い着物を着た一人の少年が、小さなお椀を両手に持って立っていました。その青白い肌と儚げな佇まいに、甲洋は一瞬幽霊でも出たのかと驚きましたが、少年は琥珀の瞳で甲洋を見上げて、ニコリと微笑むと言いました。
「アメが欲しいんだ。ほんの少しでいいから」
あ、可愛い……と、甲洋は思いました。
透けるような白い頬に亜麻色の髪を張りつけた少年は、真っ白の着物も相まって生気が感じられません。けれどその笑顔はふわりと柔らかで、正直ちょっと好みだなと思ってしまったのです。
甲洋は少しだけ心が浮つくのを感じながら少年からお椀を受け取ると、ツボから水飴をすくって入れました。
「はい、30円だよ」
「ありがとう」
少年はまたふわりと笑ってお椀を受け取り、甲洋の手のひらにお金を乗せました。
一瞬だけ触れた指先は、ちょっとドキリとしてしまうくらい冷たいものでした。
*
その次の日も、そのまた次の日も。
少年は小さなお椀を持って、夜更けになるとアメを買いにやってくるようになりました。
これといって会話をするわけではありませんが、甲洋は少年が毎晩やってくるのを心待ちにするようになりました。
お椀を差し出す白い手や、どこか儚さを感じる柔らかな笑顔。それを見るのが、いつしか楽しみになっていたのです。
せめて名前くらいは知りたいと思うのですが、いざとなると話しかけることができません。甲洋は村の娘たちに大人気の超絶イケメンでしたが、女子とはまだ付き合ったことのない奥手な性格だったのです。
*
とある雨の夜。
その日は隣村から友人の剣司がフラリと訪ねてきて、甲洋は夜更けまで話し込んでいました。
するといつものように戸を叩く音がして、少年がアメを買いにやって来ました。
少年はアメの入ったお椀を受け取り、お金を払うと「ありがとう」と笑って夜道にすぅっと消えていきます。
それを眺めていた剣司が、戻ってきた甲洋に言いました。
「なぁんか幽霊みたいだよなぁ。こんな夜更けに白い着物なんてさ」
「俺も最初はそう思ったけど」
「肌もやけに生白いし、なぁ? あれってマジで幽霊なんじゃね?」
「バカ言うなよ」
死んだ人間が夜な夜なアメを買いに訪れるなんて、そんなバカな話はありません。
ですが剣司は納得がいかない様子で、「追いかけてみようぜ」と言い出しました。
「はぁ?」
「なぁ、いいだろ? 面白そうじゃんか!」
このテンションの剣司は言いだしたら聞きません。
甲洋は仕方なく、剣司に付き合って少年のあとをつけてみることにしました。
少年は暗い夜道をすいすいと歩き、やがて林を抜けると隣村の方角へと進んでいきました。
そこで剣司が青ざめてガタガタと震えながら「おい、あっちは墓だぞ」と言って、甲洋にしがみついてきました。あまり嬉しくないシチュエーションです。
肝試し感覚で夜道を歩き、野郎に抱きつかれているほうがよっぽど怖いと、甲洋は思いました。
が、そうこうしているうちに少年は墓場の中へ入っていくと、すぅっと、煙のように姿を消してしまったのです。
「ッ!?」
「や、やっぱり幽霊だー!!」
剣司が叫び、甲洋の腕を掴むと脱兎のごとく走り出します。
二人はそのまま近くの寺に駆け込むと、そこには若い黒髪の和尚さんがいました。
「どうしたんだ二人とも? 幽霊でも見たような顔して」
「か、か、一騎! 出た! 出たんだよ! 幽霊が!!」
二人はこれまでの経緯を一騎和尚に話しました。すると一騎は困った顔をして
「そんな馬鹿なことあるわけないだろ。俺も父さんもずっとここに住んでるけど、一度も幽霊なんて見たことないぞ?」
「本当だって! 見たんだって! なぁ、甲洋!?」
「あ、ああ……」
甲洋はどこか上の空で、初めて少年が訪れた夜のことを思いだしていました。
生きている人間とは思えないほど冷え切った指先の感触。心のどこかでは、薄々感じていたのです。もしかしたら、この世の存在ではないのかもしれない、と。
けれど甲洋はあの柔らかな笑顔に惹かれていました。話しかけられなかった本当の理由は、真実を知るのを恐れていたからです。なにも知らなければ、毎晩あの笑顔を見ることができると、そう信じていたからでした。
「しょうがないな……わかった。とりあえず確認してみよう」
そう言って一騎が立ち上がり、三人は少年が消えた墓場へと足を運んでみることにしました。
すると──
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ……
どこからか、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえます。
三人は顔を見合わせ、大急ぎで声のする方向へと走りました。
「あ、赤ん坊だ! こんなところに、赤ん坊がいるぞ!」
剣司が声を上げました。一騎が提灯で足元を照らします。
するとそこには、白いおくるみに包まれた赤ん坊が元気に泣き声をあげていました。大きな木の根本に、雨を遮るようにして寝かされていたのです。
甲洋が赤子を抱き上げると、おくるみに手紙が挟まっていることに気がつきました。剣司は手紙を抜き取り、開封して中身を見ると眉根を寄せました。
「この子、捨て子だってよ……しかも、日付が数日前だ! こんなチビっこいのが、どうやって今まで生き延びたっていうんだよ……?」
「待ってくれ。これ、アメを入れていた器じゃないか?」
辺りを提灯で照らしていた一騎が、木の根元に転がっているお椀に気がつきました。さらにそのすぐ横に、小さな墓が立っています。
「こんなところに、こんな墓なんかあったかな……」
一騎は首を傾げながら、その朽ちた墓石へと提灯の明かりを向けました。するとそこには
『来主操』
という文字が刻まれていました。
「来主、操……」
甲洋はその名を声に出してなぞりながら、腕の中の赤子に視線を落としました。
ふわふわとした柔らかそうな髪は、あの少年と同じ亜麻色をしています。甲洋のぬくもりに安堵したのか、泣き止んでこちらを見上げる瞳が琥珀色に輝いていました。甲洋と目が合うと、赤子がにっこりと笑みを浮かべます。
そのあどけない笑顔は、どこかあの少年に似ているような気がしました。
「あの幽霊、この子を生かすためにアメを買って食わせてたんだな」
剣司の呟きに、甲洋は鼻の先がツンと痛むのを感じました。
あの少年はアメを買うだけではなくて、自分にこの子の存在を知らせようとしていたのではないか。甲洋には、そう思えてなりませんでした。
一騎は提灯を足元に置き、墓の前に膝をつくと手を合わせて言いました。
「幽霊の正体は、優しい仏さんだったんだな。ありがとう、この子を助けてくれて」
甲洋は腕のなかの赤ん坊に笑みを浮かべ、それから小さな墓石に目を向けると、心の中で言いました。
(大丈夫。守るよ。この子を)
こうして墓のそばに捨てられていた赤ん坊は甲洋に引き取られ、『操』と名付けられて育てられることになりました。
以来、少年がアメ屋を訪れることはなくなったそうです。
←戻る ・ Wavebox👏
むかしむかし山奥の小さな村に、甲洋という名のイケメンで心優しい青年が住んでいました。
ある寒い冬の日、甲洋は町に薪を売りに出かけました。
するとその途中の田んぼで、一羽の鶴が罠にかかって苦しんでいるのを見つけました。
「可哀想に……いま助けてやるからな」
甲洋はそう言って罠を外すと、鶴を逃してやりました。
幸い鶴は弱っている様子もなく元気に羽ばたくと、甲洋の真上を嬉しそうに飛び回ったあと山の方へと消えていきました。
*
その夜のことです。
甲洋が囲炉裏でお粥を炊いていると、トントンと戸を叩く音がしました。
「ごめんくださーい! 寒いよー! 助けてー!」
戸の向こうからは必死に助けを求める声がします。
こんな夜更けに、しかも外は日暮れから降りだした雪が積もりはじめています。
甲洋が急いで戸を開けると、そこには亜麻色の髪に粉雪を積もらせた少年の姿がありました。
粗末な着物を着た少年は、ぷるぷると震えながら甲洋を見上げます。
「どうしたの? こんな雪の中……とにかく入って」
どこの子かは分かりませんでしたが、凍えている少年をほうっておくことはできません。
甲洋は少年を家に入れると、囲炉裏のそばに座らせました。
「ありがと……こんなに雪がひどくなるなんて思ってなくて」
「このあたりになにか用事でも?」
「うん。人を訪ねて来たんだけど、雪はひどくなるしどんどん暗くなるしで、道が分からなくなっちゃって……ねぇ、よければ泊めてもらえない?」
少年が少し泣きそうな顔で言うので、甲洋は快く頷きました。
「もちろんいいよ。こんなボロ家でよければ、今夜は泊まっておいき」
「やったー! ありがとう! おれの名前は来主操! よろしくね!」
少年は大喜びで、その夜は一緒にお粥を食べると布団を並べて眠りにつきました。
*
次の日も、そしてその次の日も、雪は酷くなるばかりで止む気配がありませんでした。
戸を開けることもできず、操は甲洋の家からなかなか出ることができずにいました。
「雪、やまないね。おれずっといるけどいいの?」
少年はあぐらをかく甲洋の後ろに膝立ちになり、その肩を両手の拳でトントンと叩きながら言いました。
「いいよ別に。どうせ俺ひとりだし、遠慮しなくても。あ、そこもうちょっと右」
「右? こう? このへん?」
「そうそうそこ」
「ねぇ君、家族はいないの?」
「いないよ。昔はいたけど」
甲洋はもともと町の方で暮らしていましたが、両親との折り合いが悪く、数年前に家を出て以来この山奥の小さな村に一人で暮らしていました。
「ここは山だし、夜は暗いし、ひとりだと寂しいねぇ」
「そうだね」
「君が寂しくないように、おれがずっとここにいようか?」
操の提案に、甲洋は目を丸くしました。
「お前、家族は?」
「ひとりだよ。甲洋と同じ」
「……そっか」
甲洋は囲炉裏に灯る火を見つめました。ずっとここで独りで暮らしていくつもりでいましたが、彼にも身寄りがないのなら、それもいいかもしれません。
コツコツと木こりの真似事をしながらの生活には決してゆとりがあるわけではありませんが、一人くらい食い扶持が増えたところで、そのぶん働けばいいだけです。
「好きなだけいればいいよ」
そう言って笑うと、操は「うん」と嬉しそうな笑顔を浮かべました。
こうしてふたりは一緒に暮らすことになったのです。
*
さて、ある日のことです。
操が機(はた)を織りたいので、糸を買ってほしいと頼んできました。
甲洋が望み通り町で糸を買って与えると、操は「織り終わるまで絶対に部屋を覗かないでね!」と言って、部屋で機を織りはじめました。すると──
「うわぁ!」
甲洋が夕飯のお粥を炊いていると、隣の部屋から操の悲鳴が聞こえてきました。
驚いて部屋の方を見ると、ピッタリと閉じられた障子の向こうで、わたわたと影がうごめいています。
「来主? どうかした?」
「なっ、なんてもない! なんでもないよ! あっ、あっ、うわ~っ!」
「明らかになんでもなくないんじゃない!? なにがあったの!?」
甲洋が慌てて障子を開けようとすると、操が焦ってそれを止めます。
「待って! 開けちゃダメだって! ああぁどうしよこれ! 大変だー!」
「そう言われてほっとけるわけないだろ! いい!? 開けるよ!」
「ダメだってば! ほんとにダメなの! いまはダメー!」
「もういいって! 鶴だろ!? どうせ鶴なんだろ!? 俺的には問題ないから!」
驚異のメタ発言をブチかましながら、甲洋は障子を思い切り開け放ちました。
するとそこには美しい鶴が──いません。
「……えっ」
そこにいたのは金ピカに光り輝くのっぺらぼうでした。
ヒト……のような形に見えなくもないそれは、機の前でわたわたと焦った様子で両腕をバタつかせながらこちらを見て……いるような気がしますが、なにぶんのっぺらぼうなので分かりません。そしてその生物の周りには、真っ白い羽根が大量にふわふわと漂っていました。
「なんで開けたの!? ダメって言ったじゃん!!」
「え、おま……来主、なのか?」
魑魅魍魎の類でしょうか。それとも新種のUMAでしょうか。耳からというよりは直接心の中に響いてくる声は確かに操のものでしたが、甲洋にはまるで状況が理解できません。ただ分かるのは、部屋中におびただしい量の白い羽根が舞っているということだけです。
「そうだよおれだよ……鶴じゃなくてごめん……」
「鶴、じゃないとかもうそういう次元を超えてるっていうか……」
「おれの正体は……まぁざっくり言うと宇宙人だよ」
「うちゅ、え、なんだって?」
金ピカののっぺらぼうは、心なしか悲しげに俯きました。
「君のために、これで綺麗な布を織ってプレゼントしようと思ったんだけど……うっかりクシャミしたら羽根が舞い上がっちゃって……」
「クシャミなんかするのかお前……? いや、多分なにを聞いても理解できないだろうから、そのへんはもういいよ。それより、鶴でもないのにこの大量の羽根はどこから?」
「これはね、君がこないだ助けた鶴からむしり取ってきたものだよ」
「えぇ……」
「あ、大丈夫! あの子はおれの友達なんだ! 君に恩返しがしたいけど、よくある昔話みたいに女の人に変身するなんて非現実的な力はないからって。だからおれが代わりに羽根をもらって、恩返しを引き受けたんだよ。羽根はすぐ生えるから平気って言ってたよ」
「非現実的な力……宇宙人がそれを言うのか……」
つまり、彼はあのとき助けた鶴の代理だったのです。
羽根は操がテンパって暴れたせいでずっとふわふわと空中を漂っていましたが、話しているうちに全て床に落ちていました。そして機の上には綺麗な布……ではなく、バレーボールくらいのサイズの毛玉が出来上がっていました。不器用か……。
「話は分かった。とりあえず、お前その姿はもう固定なの? ヒトの姿には戻れないの?」
「戻れるけど……」
「ピカピカしすぎてそろそろ目が痛いから、戻ってもらえるとありがたいかな」
神々しくて美しいとは思いますが、ビジュアル的には人間の操の方が好みです。この姿は流石に甲洋の守備範囲外でしたし、地味に上半身がムキムキでいい身体をしていることも気になります。これでは近々大人の関係に発展した際、抱くというより抱かれかねません。
操は全身からカッと光を放つと、元の姿に戻りました。よかった。目に優しくて可愛い姿が戻ってきた……と、甲洋は心底安堵しました。ですが操は浮かない顔をしています。
「甲洋……おれ、正体を見られたからにはもうここにはいられないよ……」
「なぜ?」
「なぜ? えーと……うーん、なぜだろう?」
「特に理由がないならいいんじゃない? ここにいても」
本家は正体を知られた鶴と老夫婦が別れるシーンで終わりますが、このお話はどこまでいってもパロディなのです。これといって問題もないことですし、お別れする意味はありません。
宇宙人がどうとか言っていた気がしますが、もともと甲洋は彼が鶴だろうがなんだろうが構わないと思っていたのです。それが地球外生命体であろうと、恋の障害にはなりえませんでした。
すると操は憑き物が落ちたように、ぱぁっと明るい表情を取り戻して言いました。
「そっか! じゃあ、おれずっとここにいるね!」
「もちろん。ずっとここにいな」
「やったー! 甲洋大好き!」
こうして操の代理恩返しは無事に成功(?)し、甲洋は可愛い宇宙人の少年とずっとふたりで、末永く幸せに暮らしたそうです。
←戻る ・ Wavebox👏
ある寒い冬の日、甲洋は町に薪を売りに出かけました。
するとその途中の田んぼで、一羽の鶴が罠にかかって苦しんでいるのを見つけました。
「可哀想に……いま助けてやるからな」
甲洋はそう言って罠を外すと、鶴を逃してやりました。
幸い鶴は弱っている様子もなく元気に羽ばたくと、甲洋の真上を嬉しそうに飛び回ったあと山の方へと消えていきました。
*
その夜のことです。
甲洋が囲炉裏でお粥を炊いていると、トントンと戸を叩く音がしました。
「ごめんくださーい! 寒いよー! 助けてー!」
戸の向こうからは必死に助けを求める声がします。
こんな夜更けに、しかも外は日暮れから降りだした雪が積もりはじめています。
甲洋が急いで戸を開けると、そこには亜麻色の髪に粉雪を積もらせた少年の姿がありました。
粗末な着物を着た少年は、ぷるぷると震えながら甲洋を見上げます。
「どうしたの? こんな雪の中……とにかく入って」
どこの子かは分かりませんでしたが、凍えている少年をほうっておくことはできません。
甲洋は少年を家に入れると、囲炉裏のそばに座らせました。
「ありがと……こんなに雪がひどくなるなんて思ってなくて」
「このあたりになにか用事でも?」
「うん。人を訪ねて来たんだけど、雪はひどくなるしどんどん暗くなるしで、道が分からなくなっちゃって……ねぇ、よければ泊めてもらえない?」
少年が少し泣きそうな顔で言うので、甲洋は快く頷きました。
「もちろんいいよ。こんなボロ家でよければ、今夜は泊まっておいき」
「やったー! ありがとう! おれの名前は来主操! よろしくね!」
少年は大喜びで、その夜は一緒にお粥を食べると布団を並べて眠りにつきました。
*
次の日も、そしてその次の日も、雪は酷くなるばかりで止む気配がありませんでした。
戸を開けることもできず、操は甲洋の家からなかなか出ることができずにいました。
「雪、やまないね。おれずっといるけどいいの?」
少年はあぐらをかく甲洋の後ろに膝立ちになり、その肩を両手の拳でトントンと叩きながら言いました。
「いいよ別に。どうせ俺ひとりだし、遠慮しなくても。あ、そこもうちょっと右」
「右? こう? このへん?」
「そうそうそこ」
「ねぇ君、家族はいないの?」
「いないよ。昔はいたけど」
甲洋はもともと町の方で暮らしていましたが、両親との折り合いが悪く、数年前に家を出て以来この山奥の小さな村に一人で暮らしていました。
「ここは山だし、夜は暗いし、ひとりだと寂しいねぇ」
「そうだね」
「君が寂しくないように、おれがずっとここにいようか?」
操の提案に、甲洋は目を丸くしました。
「お前、家族は?」
「ひとりだよ。甲洋と同じ」
「……そっか」
甲洋は囲炉裏に灯る火を見つめました。ずっとここで独りで暮らしていくつもりでいましたが、彼にも身寄りがないのなら、それもいいかもしれません。
コツコツと木こりの真似事をしながらの生活には決してゆとりがあるわけではありませんが、一人くらい食い扶持が増えたところで、そのぶん働けばいいだけです。
「好きなだけいればいいよ」
そう言って笑うと、操は「うん」と嬉しそうな笑顔を浮かべました。
こうしてふたりは一緒に暮らすことになったのです。
*
さて、ある日のことです。
操が機(はた)を織りたいので、糸を買ってほしいと頼んできました。
甲洋が望み通り町で糸を買って与えると、操は「織り終わるまで絶対に部屋を覗かないでね!」と言って、部屋で機を織りはじめました。すると──
「うわぁ!」
甲洋が夕飯のお粥を炊いていると、隣の部屋から操の悲鳴が聞こえてきました。
驚いて部屋の方を見ると、ピッタリと閉じられた障子の向こうで、わたわたと影がうごめいています。
「来主? どうかした?」
「なっ、なんてもない! なんでもないよ! あっ、あっ、うわ~っ!」
「明らかになんでもなくないんじゃない!? なにがあったの!?」
甲洋が慌てて障子を開けようとすると、操が焦ってそれを止めます。
「待って! 開けちゃダメだって! ああぁどうしよこれ! 大変だー!」
「そう言われてほっとけるわけないだろ! いい!? 開けるよ!」
「ダメだってば! ほんとにダメなの! いまはダメー!」
「もういいって! 鶴だろ!? どうせ鶴なんだろ!? 俺的には問題ないから!」
驚異のメタ発言をブチかましながら、甲洋は障子を思い切り開け放ちました。
するとそこには美しい鶴が──いません。
「……えっ」
そこにいたのは金ピカに光り輝くのっぺらぼうでした。
ヒト……のような形に見えなくもないそれは、機の前でわたわたと焦った様子で両腕をバタつかせながらこちらを見て……いるような気がしますが、なにぶんのっぺらぼうなので分かりません。そしてその生物の周りには、真っ白い羽根が大量にふわふわと漂っていました。
「なんで開けたの!? ダメって言ったじゃん!!」
「え、おま……来主、なのか?」
魑魅魍魎の類でしょうか。それとも新種のUMAでしょうか。耳からというよりは直接心の中に響いてくる声は確かに操のものでしたが、甲洋にはまるで状況が理解できません。ただ分かるのは、部屋中におびただしい量の白い羽根が舞っているということだけです。
「そうだよおれだよ……鶴じゃなくてごめん……」
「鶴、じゃないとかもうそういう次元を超えてるっていうか……」
「おれの正体は……まぁざっくり言うと宇宙人だよ」
「うちゅ、え、なんだって?」
金ピカののっぺらぼうは、心なしか悲しげに俯きました。
「君のために、これで綺麗な布を織ってプレゼントしようと思ったんだけど……うっかりクシャミしたら羽根が舞い上がっちゃって……」
「クシャミなんかするのかお前……? いや、多分なにを聞いても理解できないだろうから、そのへんはもういいよ。それより、鶴でもないのにこの大量の羽根はどこから?」
「これはね、君がこないだ助けた鶴からむしり取ってきたものだよ」
「えぇ……」
「あ、大丈夫! あの子はおれの友達なんだ! 君に恩返しがしたいけど、よくある昔話みたいに女の人に変身するなんて非現実的な力はないからって。だからおれが代わりに羽根をもらって、恩返しを引き受けたんだよ。羽根はすぐ生えるから平気って言ってたよ」
「非現実的な力……宇宙人がそれを言うのか……」
つまり、彼はあのとき助けた鶴の代理だったのです。
羽根は操がテンパって暴れたせいでずっとふわふわと空中を漂っていましたが、話しているうちに全て床に落ちていました。そして機の上には綺麗な布……ではなく、バレーボールくらいのサイズの毛玉が出来上がっていました。不器用か……。
「話は分かった。とりあえず、お前その姿はもう固定なの? ヒトの姿には戻れないの?」
「戻れるけど……」
「ピカピカしすぎてそろそろ目が痛いから、戻ってもらえるとありがたいかな」
神々しくて美しいとは思いますが、ビジュアル的には人間の操の方が好みです。この姿は流石に甲洋の守備範囲外でしたし、地味に上半身がムキムキでいい身体をしていることも気になります。これでは近々大人の関係に発展した際、抱くというより抱かれかねません。
操は全身からカッと光を放つと、元の姿に戻りました。よかった。目に優しくて可愛い姿が戻ってきた……と、甲洋は心底安堵しました。ですが操は浮かない顔をしています。
「甲洋……おれ、正体を見られたからにはもうここにはいられないよ……」
「なぜ?」
「なぜ? えーと……うーん、なぜだろう?」
「特に理由がないならいいんじゃない? ここにいても」
本家は正体を知られた鶴と老夫婦が別れるシーンで終わりますが、このお話はどこまでいってもパロディなのです。これといって問題もないことですし、お別れする意味はありません。
宇宙人がどうとか言っていた気がしますが、もともと甲洋は彼が鶴だろうがなんだろうが構わないと思っていたのです。それが地球外生命体であろうと、恋の障害にはなりえませんでした。
すると操は憑き物が落ちたように、ぱぁっと明るい表情を取り戻して言いました。
「そっか! じゃあ、おれずっとここにいるね!」
「もちろん。ずっとここにいな」
「やったー! 甲洋大好き!」
こうして操の代理恩返しは無事に成功(?)し、甲洋は可愛い宇宙人の少年とずっとふたりで、末永く幸せに暮らしたそうです。
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昔々、深い森の中にある大きなお屋敷に、一人の美しい青年が住んでいました。
青年は沢山の金銀財宝を持ち、各地に別荘を持つほどの大金持ちでした。
ですが彼はいつも無表情で、人形のようになにを考えているか分からなかったので、人々は青年を不気味がり、近付こうとする者はいませんでした。
しかも青年には、なんとも奇妙で恐ろしい噂話まであったのです。
それは今まで何人もの奥さんをもらったのに、みんな行方不明になってしまったらしい、というものでした。
あるとき青年は近くの町に住む可愛らしい少年を、新しい妻に迎えたいと思いました。
そこで少年を屋敷に呼び、美味しい料理でもてなしました。別荘へも連れていき、そこで何日も楽しい時間を過ごしました。
青年は柔らかな笑顔で優しく少年に接しました。少年はいつしか青年に惹かれ、結婚してもいいと思うようになりました。
噂のことは気になりましたが、少年は生まれたときから家族もなく、一人で寂しく暮らしていたので、こんなに優しい人とならきっと毎日幸せだろう思ったのです。
青年はとても喜んで、すぐに少年と結婚式をあげました。
*
結婚式から少し経ったころ、青年は少年に言いました。
「明日から少し用事があって、しばらく旅に出ることになったんだ。だからお前に、この屋敷の鍵を預けておくよ」
少年はこんな広いお屋敷で、一人ぼっちで留守番をすることに不安を覚えました。
ここへ来てから、少年は青年と片時も離れることがなかったので、一緒にいられないのは嫌だなと思ったのです。彼がどのくらいで戻ってくるのかも分かりません。
そんな気持ちを察した青年は、少年のふわふわとした髪を撫でながら微笑みました。
「大丈夫。何日かしたらすぐに戻るよ。だからいい子で待っていて」
「うん……わかった」
少年は頷くと、青年からジャラジャラと沢山の鍵がついた束を受け取りました。
「俺がいない間、この鍵でどの部屋に入って遊んでも構わないよ。寂しかったら、誰か友達を呼んでもいい。ただし──」
青年はふっと無表情になると、暗く沈んだ瞳をしながら言いました。
「この小さな鍵だけは、絶対に使わないで」
「これは、どこの部屋の鍵?」
「廊下のいちばん奥にある部屋だよ」
少年は小首を傾げます。
「そこにはなにがあるの?」
「楽園」
「らくえん……?」
「いい? その部屋にだけは、なにがあっても入らないこと。約束できる?」
少年が戸惑いながらもこくりと頷くと、青年は優しく微笑みました。
*
翌日の朝、青年は出かけていきました。
少年は友達の美羽とエメリーを呼んで、絵を描いたりしながら楽しく過ごしましたが、二人が帰ってしまうとすぐにまた退屈になってしまいました。
やはり一人ぼっちでいるには、このお屋敷は広すぎます。少年は青年がいない寂しさを紛らわすため、預かった鍵を使ってひとつひとつ部屋の中を探検してみることにしました。
美しい宝石が並ぶ部屋、有名な画家の絵が飾ってある部屋、きらびやかな衣装部屋など、見たこともない豪華な品がそれぞれの部屋には沢山ありました。
それらの品々は少年を楽しませましたが、やがて全ての部屋を巡ってしまうと、また退屈になってしまいました。
すると、だんだんあの入ってはいけないと言われている部屋のことが気になって、仕方がなくなってきます。
(楽園ってなんだろう。きっとすごいものがあるんだろうな)
ですが、青年はあの部屋に決して入るなと言いました。約束を破ることはできません。
だけどダメだと思えば思うほど、気になって夜も眠れませんでした。
青年はいつまで経っても帰ってきません。少年は、いよいよ我慢ができなくなりました。
(少しくらいなら……いいかな……?)
ほんの少しだけ中を覗いたら、すぐに元通り鍵をかければ大丈夫。自分にそう言い聞かせ、少年は廊下の奥の禁じられた部屋の前に立ち、小さな鍵を使いました。
カチリという音がして、鍵が開きました。少年は胸をワクワクとさせながら扉を開けて、そっと足を踏み入れます。
「うっ、なにここ……変な臭いがする……」
部屋の中は真っ暗で、なにも見えません。辺りを漂う生臭さに、少年は思わず鼻を押さえながらもまた一步踏みだしました。
そのとき、ボチャンという水たまりを踏んだような濡れた音がしました。
「!」
少年がハッと息をのむと、窓の外で雷が鳴り響きました。酷い雨が降り出して、窓ガラスを激しく叩きはじめます。
少年は目を見開き、思わず鍵を床に落としてしまいました。
絶え間なく鳴り響く雷に、部屋の中が明るく照らされます。少年は目の前に広がる光景のあまりのおぞましさに、ガタガタと身体を震わせました。
そこに楽園なんてものは存在していませんでした。
あるのは床や壁一面に飛び散った赤黒い血と、かつて『ヒト』だったものの残骸です。
無残に転がる幾つものそれは、黒く焼け焦げたものや、いっそ原型すらとどめていないものまでありました。
そして、それらはみな一様に──。
「──ただいま」
そのとき、玄関の方から青年の声がしました。
少年は悲鳴を飲み込んで、大急ぎで鍵を拾い上げると元通り扉を閉めて、玄関ホールへ向かいました。
ホールには雨に濡れて青白い顔をした青年の姿があります。
「お、おかえり!」
数日ぶりに少年を見た青年は、嬉しそうにふわりと笑顔を浮かべました。
「ただいま。遅くなってごめん──どうかした? そんなに震えて、なにかあったの?」
「な、なにも、なにもないよ」
いつも通りにしなければと思うのに、青ざめた少年はうまく笑うことができません。声さえもひどく震えて、今にも崩折れてしまいそうでした。
青年の顔から、すぅっと笑顔が消えました。ガラス玉のような虚ろな瞳で、少年に手を差し出してきます。
「預けていた鍵を返して」
少年は肩をビクリと跳ねさせました。心臓がバクバクと激しく音を立てています。
けれど言われた通り、震える指で鍵の束を取り出し、青年に返しました。
「……入ったんだね。あの部屋に」
受け取った鍵を見下ろしながら、青年は悲しそうに言いました。
鍵にはべったりと血がこびりついていたのです。床に落としたときに、付着してしまったものでした。
少年はあまりの恐ろしさに酷く震えながら、もつれそうになる足で後退りをします。
一步、また一步と後ろへ下がるたび、青年もまた足を前に踏み出しました。
「こ、来ないで!」
「信じていたのに。どうして約束を破ったの?」
「嘘つき……! あんなの楽園なんかじゃない! あれは……地獄だよ!」
「あの部屋は楽園だよ」
「ッ!」
少年の背が、壁にぶつかりました。逃げ場を失った少年の頬に、青年の冷たい手がそっと這わされます。
「俺の大事な宝物が詰まった、楽園だ」
あんなに優しかった青年の笑顔が、今は死人のように冷たく見えます。
少年は混乱しながら、目にいっぱいの涙を浮かべて言いました。
「ねぇどうして……? あれはなに? どうしてみんな」
──おれと同じ顔をしているの……?
青年が楽園と呼ぶ、血まみれの部屋。あそこに転がっていた無数の残骸は、どれも全て少年と同じ姿形をしていました。
自分自身が無残に死に絶えている光景。それはあまりにも奇妙で、異常で、信じがたいものでした。
「これは夢? だってあんなのおかしいよ。おれはここに、ちゃんといるのに……!」
青年は少年の頬を優しく擦りながら、目を細めて言いました。
「一人目のお前は、今日みたいな雷の夜に焼け死んだ。落雷に燃える森の中で」
「なに……? なにを言っているの?」
「二人目のお前は、野犬に食われて息絶えた。俺が少し目を離した隙に」
「ねぇ、なんの話をしているの!?」
「三人目のお前は崖から落ちた。青い空に溶けるみたいに、吸い込まれていった」
「やめて……もうやめて……!」
「四人目も五人目も、六人目も七人目も、みんなみんな……お前はいつだって、俺を置いていなくなる」
青年は目を見開いたまま、瞬きひとつしませんでした。その薄い唇が、三日月のように歪んだ笑みを浮かべています。
「何度でも生まれて、何度でも死んで、お前はまた俺の目の前に現れる。なにも知らない顔をして、俺からお前を奪いに来るんだ」
頬にかかっていた手が、少年の細い首にかかりました。
「どうせお前もいなくなる……だったらいっそ、俺がこの手で奪おうか」
「ぁぐッ、ぅ……ァ! や、め……ッ」
青年の両手が、少年の首を絞めました。少年はあまりの苦しさに、ズルズルと壁を伝って床に崩れ落ちていきます。
青年は少年の首を絞めたまま、冷たい汗が滲む額にキスをしました。
「愛してる。今度は俺も一緒にいくよ──楽園に」
薄れていく意識の中で少年が最期に見たのは、壊れた青年の幸せそうな微笑みでした。
***
「……ふぁ!?」
昼下がりの喫茶楽園にて、テーブルに突っ伏して眠りこけていた操は、ビクンと身体を跳ねさせながら目を覚ました。
勢いよく起き上がり、咄嗟に辺りを見回す。誰もいない。強張っていた肩から力を抜くと、大きく息を吐き出した。
「はぁー、夢かぁ……やな夢だったな……」
初めのうちは甲洋と結婚して幸せに暮らしていたはずなのに、最後にはあんな恐ろしい結末を迎えるなんて。
「どうしてあんな夢なんか見たんだろう?」
操は無意識に首筋に触れながら首を傾げた。そこには冷えた感触が残っているような気がしたけれど、まぁいいやと思いなして「うーん」と大きく伸びをした。
「──来主」
そのとき、すぐ真横で声がした。
「うわぁ!?」
そこには甲洋が立っていた。誰もいないところに突然ワープで現れるものだから、操は驚いて椅子から落ちかけてしまう。
「ビックリした! 急に出てこないでよぉ!」
甲洋は暗く沈んだ表情で操を見下ろしている。どこか虚ろでうら悲しいその瞳に既視感を覚えて、背筋にひやりとしたものが駆け抜けた。
「ね、ねぇ? どうかしたの?」
少しビクビクしながら問えば、彼は暗い表情のまま言った。
「……引き出し、開けた?」
「えぇ?」
操がコトリと首を傾げる。
「なんのこと?」
「この鍵」
甲洋はテーブルの中央に小さな鍵をそっと置く。血がついていたらどうしようかと思ったが、それはなんの変哲もない古ぼけた鍵でしかなかった。
ホッと息をつきながら、操は甲洋を見上げる。
「甲洋の机の引き出しの鍵でしょ。うん、開けたよ」
「……前から言ってあったよね。あの引き出しは触るなって」
「なんでバレたの? おれが開けたこと」
「これ見よがしに鍵が出しっぱなしになってれば、嫌でも気づくよ」
甲洋の部屋の机には、ひとつだけ鍵がかかった場所がある。彼は普段から操が部屋のどこを触ろうがこれといって咎めはしないが、そこだけは決して触るなと常々言っていた。
が、たまたま彼が不在のときにこの鍵を見つけて、どうしても好奇心に勝てずに開けてしまったのだ。
「だぁって気になったんだもん」
唇を尖らせる操に、甲洋は目を閉じて片手で額を押さえながら溜息を漏らす。それからチラリと操を見ると、どこかバツが悪そうに小声で言った。
「……見た?」
「えー?」
「中身」
開けたのだから、そりゃあ見た。操はケロリとした表情で「うん」と頷いた。
「肌色がいっぱいの本。君たちがエロ本と呼んでいるものが、沢山あったよ」
「ああぁ……」
甲洋が呻きとも溜息ともつかない声をあげる。
「あれは違う。違わないけど、俺のじゃない」
「剣司? どうしていま剣司のことを思い浮かべたの?」
勝手に心を覗かれた甲洋は、なぜか黙り込んでしまった。
いつにも増して多くを語ろうとしない様子に焦れて、操は彼の心をさらに覗いてみることにした。彼自身もその方が手っ取り早いと思ったのか、黙って好きにさせる構えだ。そして見えてきたものと皆城総士の知識を重ねて、なるほどなぁと納得した。
「古きよき日本の文化……あれは河原や裏山に捨て置かれていたものなんだね」
「……あるんだよ。年頃の男子中学生には、色々と黒歴史が」
あのエロ本は、剣司を筆頭にした少年たちが河原や空き地に捨てられているものを拾ってきたものなのだ。それをごく一部の友人間で回し読みしたあと処分に困り、最終的にはいつも甲洋に押し付けていた。
甲洋少年は口では拒みながらも、なんだかんだでちゃっかり受け取っていたのである。
「甲洋も見たかったんだね。エロ本」
「……否定はしない。俺も年頃だったから」
「ふぅん」
のほほんと返事をしながら、ふと操は思った。
(ひょっとして、だからあんな夢を見たのかな?)
操はこの鍵を使ったことをすっかり忘れていたけれど、心のどこかでは勝手に引き出しを開けたことを後ろめたく感じていたのかもしれない。
そしてこの鍵は、確かに『楽園』の鍵だった。少年だった彼らの、夢と希望と青春が沢山つまった、桃色の楽園とでも呼べばいいのか。死体とエロ本では、だいぶ規模が異なるけれど。
「ごめんね甲洋」
「なに?」
「勝手に楽園の扉を開けちゃったこと。ちゃんとごめんなさいするから、もう怒らないで」
「ら、楽園……? 引き出しのことを言ってるの?」
「うん、そう」
「まぁある意味では楽園か……いいよもう。怒ってない」
「よかったぁ」
心底ホッとして笑う操だったが、どこか物言いたげな甲洋はいまいち落ち着かない様子だった。コホンと咳払いをして、操の向かいの椅子に腰をおろす。
「言っておくけど」
「なぁに」
「俺にはもう必要ないから」
「なにが?」
「……エロ本」
「知ってるよ。甲洋はおれの裸のほうが興奮するんでしょ?」
「薄っぺらくて、エロさなんて欠片もないのにね」
最後の台詞からは甲洋の開き直りが感じられる。
操は彼がエロ本を見て興奮したからといって、別にどうとも思わない。特定の相手に対する愛欲と、娯楽としての欲求はまた別物だ。操に後者は理解できないが、理屈としては分かっているつもりだった。
けれどわざわざ言葉にしてまで伝えてくるということは、甲洋にとってそれだけ重要な意味があるということだろう。操はそれを嬉しいと感じた。
「おれも同じ。性的に興奮するのは、裸の甲洋とくっついてるときだけだよ」
「……そう」
嬉しいくせにそっぽを向いた甲洋に、操はふにゃりと笑ってみせる。そしてテーブルの上にある『楽園』の鍵を、指の先で軽く弾いた。
←戻る ・ Wavebox👏
青年は沢山の金銀財宝を持ち、各地に別荘を持つほどの大金持ちでした。
ですが彼はいつも無表情で、人形のようになにを考えているか分からなかったので、人々は青年を不気味がり、近付こうとする者はいませんでした。
しかも青年には、なんとも奇妙で恐ろしい噂話まであったのです。
それは今まで何人もの奥さんをもらったのに、みんな行方不明になってしまったらしい、というものでした。
あるとき青年は近くの町に住む可愛らしい少年を、新しい妻に迎えたいと思いました。
そこで少年を屋敷に呼び、美味しい料理でもてなしました。別荘へも連れていき、そこで何日も楽しい時間を過ごしました。
青年は柔らかな笑顔で優しく少年に接しました。少年はいつしか青年に惹かれ、結婚してもいいと思うようになりました。
噂のことは気になりましたが、少年は生まれたときから家族もなく、一人で寂しく暮らしていたので、こんなに優しい人とならきっと毎日幸せだろう思ったのです。
青年はとても喜んで、すぐに少年と結婚式をあげました。
*
結婚式から少し経ったころ、青年は少年に言いました。
「明日から少し用事があって、しばらく旅に出ることになったんだ。だからお前に、この屋敷の鍵を預けておくよ」
少年はこんな広いお屋敷で、一人ぼっちで留守番をすることに不安を覚えました。
ここへ来てから、少年は青年と片時も離れることがなかったので、一緒にいられないのは嫌だなと思ったのです。彼がどのくらいで戻ってくるのかも分かりません。
そんな気持ちを察した青年は、少年のふわふわとした髪を撫でながら微笑みました。
「大丈夫。何日かしたらすぐに戻るよ。だからいい子で待っていて」
「うん……わかった」
少年は頷くと、青年からジャラジャラと沢山の鍵がついた束を受け取りました。
「俺がいない間、この鍵でどの部屋に入って遊んでも構わないよ。寂しかったら、誰か友達を呼んでもいい。ただし──」
青年はふっと無表情になると、暗く沈んだ瞳をしながら言いました。
「この小さな鍵だけは、絶対に使わないで」
「これは、どこの部屋の鍵?」
「廊下のいちばん奥にある部屋だよ」
少年は小首を傾げます。
「そこにはなにがあるの?」
「楽園」
「らくえん……?」
「いい? その部屋にだけは、なにがあっても入らないこと。約束できる?」
少年が戸惑いながらもこくりと頷くと、青年は優しく微笑みました。
*
翌日の朝、青年は出かけていきました。
少年は友達の美羽とエメリーを呼んで、絵を描いたりしながら楽しく過ごしましたが、二人が帰ってしまうとすぐにまた退屈になってしまいました。
やはり一人ぼっちでいるには、このお屋敷は広すぎます。少年は青年がいない寂しさを紛らわすため、預かった鍵を使ってひとつひとつ部屋の中を探検してみることにしました。
美しい宝石が並ぶ部屋、有名な画家の絵が飾ってある部屋、きらびやかな衣装部屋など、見たこともない豪華な品がそれぞれの部屋には沢山ありました。
それらの品々は少年を楽しませましたが、やがて全ての部屋を巡ってしまうと、また退屈になってしまいました。
すると、だんだんあの入ってはいけないと言われている部屋のことが気になって、仕方がなくなってきます。
(楽園ってなんだろう。きっとすごいものがあるんだろうな)
ですが、青年はあの部屋に決して入るなと言いました。約束を破ることはできません。
だけどダメだと思えば思うほど、気になって夜も眠れませんでした。
青年はいつまで経っても帰ってきません。少年は、いよいよ我慢ができなくなりました。
(少しくらいなら……いいかな……?)
ほんの少しだけ中を覗いたら、すぐに元通り鍵をかければ大丈夫。自分にそう言い聞かせ、少年は廊下の奥の禁じられた部屋の前に立ち、小さな鍵を使いました。
カチリという音がして、鍵が開きました。少年は胸をワクワクとさせながら扉を開けて、そっと足を踏み入れます。
「うっ、なにここ……変な臭いがする……」
部屋の中は真っ暗で、なにも見えません。辺りを漂う生臭さに、少年は思わず鼻を押さえながらもまた一步踏みだしました。
そのとき、ボチャンという水たまりを踏んだような濡れた音がしました。
「!」
少年がハッと息をのむと、窓の外で雷が鳴り響きました。酷い雨が降り出して、窓ガラスを激しく叩きはじめます。
少年は目を見開き、思わず鍵を床に落としてしまいました。
絶え間なく鳴り響く雷に、部屋の中が明るく照らされます。少年は目の前に広がる光景のあまりのおぞましさに、ガタガタと身体を震わせました。
そこに楽園なんてものは存在していませんでした。
あるのは床や壁一面に飛び散った赤黒い血と、かつて『ヒト』だったものの残骸です。
無残に転がる幾つものそれは、黒く焼け焦げたものや、いっそ原型すらとどめていないものまでありました。
そして、それらはみな一様に──。
「──ただいま」
そのとき、玄関の方から青年の声がしました。
少年は悲鳴を飲み込んで、大急ぎで鍵を拾い上げると元通り扉を閉めて、玄関ホールへ向かいました。
ホールには雨に濡れて青白い顔をした青年の姿があります。
「お、おかえり!」
数日ぶりに少年を見た青年は、嬉しそうにふわりと笑顔を浮かべました。
「ただいま。遅くなってごめん──どうかした? そんなに震えて、なにかあったの?」
「な、なにも、なにもないよ」
いつも通りにしなければと思うのに、青ざめた少年はうまく笑うことができません。声さえもひどく震えて、今にも崩折れてしまいそうでした。
青年の顔から、すぅっと笑顔が消えました。ガラス玉のような虚ろな瞳で、少年に手を差し出してきます。
「預けていた鍵を返して」
少年は肩をビクリと跳ねさせました。心臓がバクバクと激しく音を立てています。
けれど言われた通り、震える指で鍵の束を取り出し、青年に返しました。
「……入ったんだね。あの部屋に」
受け取った鍵を見下ろしながら、青年は悲しそうに言いました。
鍵にはべったりと血がこびりついていたのです。床に落としたときに、付着してしまったものでした。
少年はあまりの恐ろしさに酷く震えながら、もつれそうになる足で後退りをします。
一步、また一步と後ろへ下がるたび、青年もまた足を前に踏み出しました。
「こ、来ないで!」
「信じていたのに。どうして約束を破ったの?」
「嘘つき……! あんなの楽園なんかじゃない! あれは……地獄だよ!」
「あの部屋は楽園だよ」
「ッ!」
少年の背が、壁にぶつかりました。逃げ場を失った少年の頬に、青年の冷たい手がそっと這わされます。
「俺の大事な宝物が詰まった、楽園だ」
あんなに優しかった青年の笑顔が、今は死人のように冷たく見えます。
少年は混乱しながら、目にいっぱいの涙を浮かべて言いました。
「ねぇどうして……? あれはなに? どうしてみんな」
──おれと同じ顔をしているの……?
青年が楽園と呼ぶ、血まみれの部屋。あそこに転がっていた無数の残骸は、どれも全て少年と同じ姿形をしていました。
自分自身が無残に死に絶えている光景。それはあまりにも奇妙で、異常で、信じがたいものでした。
「これは夢? だってあんなのおかしいよ。おれはここに、ちゃんといるのに……!」
青年は少年の頬を優しく擦りながら、目を細めて言いました。
「一人目のお前は、今日みたいな雷の夜に焼け死んだ。落雷に燃える森の中で」
「なに……? なにを言っているの?」
「二人目のお前は、野犬に食われて息絶えた。俺が少し目を離した隙に」
「ねぇ、なんの話をしているの!?」
「三人目のお前は崖から落ちた。青い空に溶けるみたいに、吸い込まれていった」
「やめて……もうやめて……!」
「四人目も五人目も、六人目も七人目も、みんなみんな……お前はいつだって、俺を置いていなくなる」
青年は目を見開いたまま、瞬きひとつしませんでした。その薄い唇が、三日月のように歪んだ笑みを浮かべています。
「何度でも生まれて、何度でも死んで、お前はまた俺の目の前に現れる。なにも知らない顔をして、俺からお前を奪いに来るんだ」
頬にかかっていた手が、少年の細い首にかかりました。
「どうせお前もいなくなる……だったらいっそ、俺がこの手で奪おうか」
「ぁぐッ、ぅ……ァ! や、め……ッ」
青年の両手が、少年の首を絞めました。少年はあまりの苦しさに、ズルズルと壁を伝って床に崩れ落ちていきます。
青年は少年の首を絞めたまま、冷たい汗が滲む額にキスをしました。
「愛してる。今度は俺も一緒にいくよ──楽園に」
薄れていく意識の中で少年が最期に見たのは、壊れた青年の幸せそうな微笑みでした。
***
「……ふぁ!?」
昼下がりの喫茶楽園にて、テーブルに突っ伏して眠りこけていた操は、ビクンと身体を跳ねさせながら目を覚ました。
勢いよく起き上がり、咄嗟に辺りを見回す。誰もいない。強張っていた肩から力を抜くと、大きく息を吐き出した。
「はぁー、夢かぁ……やな夢だったな……」
初めのうちは甲洋と結婚して幸せに暮らしていたはずなのに、最後にはあんな恐ろしい結末を迎えるなんて。
「どうしてあんな夢なんか見たんだろう?」
操は無意識に首筋に触れながら首を傾げた。そこには冷えた感触が残っているような気がしたけれど、まぁいいやと思いなして「うーん」と大きく伸びをした。
「──来主」
そのとき、すぐ真横で声がした。
「うわぁ!?」
そこには甲洋が立っていた。誰もいないところに突然ワープで現れるものだから、操は驚いて椅子から落ちかけてしまう。
「ビックリした! 急に出てこないでよぉ!」
甲洋は暗く沈んだ表情で操を見下ろしている。どこか虚ろでうら悲しいその瞳に既視感を覚えて、背筋にひやりとしたものが駆け抜けた。
「ね、ねぇ? どうかしたの?」
少しビクビクしながら問えば、彼は暗い表情のまま言った。
「……引き出し、開けた?」
「えぇ?」
操がコトリと首を傾げる。
「なんのこと?」
「この鍵」
甲洋はテーブルの中央に小さな鍵をそっと置く。血がついていたらどうしようかと思ったが、それはなんの変哲もない古ぼけた鍵でしかなかった。
ホッと息をつきながら、操は甲洋を見上げる。
「甲洋の机の引き出しの鍵でしょ。うん、開けたよ」
「……前から言ってあったよね。あの引き出しは触るなって」
「なんでバレたの? おれが開けたこと」
「これ見よがしに鍵が出しっぱなしになってれば、嫌でも気づくよ」
甲洋の部屋の机には、ひとつだけ鍵がかかった場所がある。彼は普段から操が部屋のどこを触ろうがこれといって咎めはしないが、そこだけは決して触るなと常々言っていた。
が、たまたま彼が不在のときにこの鍵を見つけて、どうしても好奇心に勝てずに開けてしまったのだ。
「だぁって気になったんだもん」
唇を尖らせる操に、甲洋は目を閉じて片手で額を押さえながら溜息を漏らす。それからチラリと操を見ると、どこかバツが悪そうに小声で言った。
「……見た?」
「えー?」
「中身」
開けたのだから、そりゃあ見た。操はケロリとした表情で「うん」と頷いた。
「肌色がいっぱいの本。君たちがエロ本と呼んでいるものが、沢山あったよ」
「ああぁ……」
甲洋が呻きとも溜息ともつかない声をあげる。
「あれは違う。違わないけど、俺のじゃない」
「剣司? どうしていま剣司のことを思い浮かべたの?」
勝手に心を覗かれた甲洋は、なぜか黙り込んでしまった。
いつにも増して多くを語ろうとしない様子に焦れて、操は彼の心をさらに覗いてみることにした。彼自身もその方が手っ取り早いと思ったのか、黙って好きにさせる構えだ。そして見えてきたものと皆城総士の知識を重ねて、なるほどなぁと納得した。
「古きよき日本の文化……あれは河原や裏山に捨て置かれていたものなんだね」
「……あるんだよ。年頃の男子中学生には、色々と黒歴史が」
あのエロ本は、剣司を筆頭にした少年たちが河原や空き地に捨てられているものを拾ってきたものなのだ。それをごく一部の友人間で回し読みしたあと処分に困り、最終的にはいつも甲洋に押し付けていた。
甲洋少年は口では拒みながらも、なんだかんだでちゃっかり受け取っていたのである。
「甲洋も見たかったんだね。エロ本」
「……否定はしない。俺も年頃だったから」
「ふぅん」
のほほんと返事をしながら、ふと操は思った。
(ひょっとして、だからあんな夢を見たのかな?)
操はこの鍵を使ったことをすっかり忘れていたけれど、心のどこかでは勝手に引き出しを開けたことを後ろめたく感じていたのかもしれない。
そしてこの鍵は、確かに『楽園』の鍵だった。少年だった彼らの、夢と希望と青春が沢山つまった、桃色の楽園とでも呼べばいいのか。死体とエロ本では、だいぶ規模が異なるけれど。
「ごめんね甲洋」
「なに?」
「勝手に楽園の扉を開けちゃったこと。ちゃんとごめんなさいするから、もう怒らないで」
「ら、楽園……? 引き出しのことを言ってるの?」
「うん、そう」
「まぁある意味では楽園か……いいよもう。怒ってない」
「よかったぁ」
心底ホッとして笑う操だったが、どこか物言いたげな甲洋はいまいち落ち着かない様子だった。コホンと咳払いをして、操の向かいの椅子に腰をおろす。
「言っておくけど」
「なぁに」
「俺にはもう必要ないから」
「なにが?」
「……エロ本」
「知ってるよ。甲洋はおれの裸のほうが興奮するんでしょ?」
「薄っぺらくて、エロさなんて欠片もないのにね」
最後の台詞からは甲洋の開き直りが感じられる。
操は彼がエロ本を見て興奮したからといって、別にどうとも思わない。特定の相手に対する愛欲と、娯楽としての欲求はまた別物だ。操に後者は理解できないが、理屈としては分かっているつもりだった。
けれどわざわざ言葉にしてまで伝えてくるということは、甲洋にとってそれだけ重要な意味があるということだろう。操はそれを嬉しいと感じた。
「おれも同じ。性的に興奮するのは、裸の甲洋とくっついてるときだけだよ」
「……そう」
嬉しいくせにそっぽを向いた甲洋に、操はふにゃりと笑ってみせる。そしてテーブルの上にある『楽園』の鍵を、指の先で軽く弾いた。
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昔々、しんしんと雪が降りしきる大晦日の夜の出来事です。
カゴいっぱいに入ったマッチを持つ少年が、道行く人々に呼びかけていました。
「マッチいりませんかー? マッチ買ってくださーい! マッチでーす!」
マッチ売りの少年、操は一生懸命大きな声で言いますが、誰一人として足を止めようとする人はいませんでした。
せめて彼が原作通り悲壮感溢れるみすぼらしい格好をしていれば、誰かしら気にかけてくれる人もいたかもしれません。ですが操はふわもこの白いコートを来て、ふわもこの耳あてをし、ふわもこのミトンまではめて、赤いマフラーをぐるぐる巻きにしています。
コートの中に着ているヒートテックにも、ブーツの中にも、これでもかというほどのホッカイロが仕込まれている有様でした。
育ての親の一騎と総士が、外で遊ぶなら風邪をひかないようにと、いつもこうして着込ませてくれるのです。
「マッチ売れないな……一騎と総士に肉まん買って帰ろうと思ったのに」
操ははぁっと白く染まる息を吐き出しました。
世の中の世知辛さを感じつつ、もう少し人通りが多い場所へ移動しようとしたそのとき。誰かが操の肩をポン、と叩きました。
振り向くと、そこには子豚のように肥えていて、頭がバーコードのようにハゲ散らかった、いかにもなモブおじさんが立っていました。
「き、君、可愛いね。2万でどうかな?」
おじさんが指を二本立て、ピースサインを向けてきます。操はびっくりして目を丸く見開きました。
「え? そんなに高く買ってくれるの?」
それだけの大金があったら、肉まんが幾つ買えるのでしょうか。ファ●チキだって買えてしまいます。
操が大喜びで「いいよ!」と言うと、おじさんは嬉しそうにブヒヒと笑って操の手を引き、歩きだそうとしました。が、そこで誰かが空いている方の手首をガッシリと掴んできました。
「ちょっと待って!」
「わっ! なに!?」
ぐいっと引っ張られ、操が驚いて声の主を見ると、そこには背の高い焦茶の髪をしたイケメンなお兄さんが、険しい表情を浮かべていました。
お兄さんは白いワイシャツに黒いパンツを穿いて、黒いエプロンをしています。どこかのお店の人でしょうか。
一度に二人も知らない人に声をかけられて、操は口をポカンと丸く開けました。
「そういう余計なフラグは立たせなくていい。エロ同人みたいな展開は勘弁して」
フラグ……エロ同人……なんのことでしょうか。操にはよく分かりませんが、お兄さんはそう言ってハゲたモブおじさんをきつく睨みつけました。するとおじさんは目を泳がせ、操の手を離すとそそくさとどこかへ行ってしまいました。
あ、おれの2万円が……と、操は悲しい気持ちになりながらしょぼんと俯きました。
「酷いことされたくなかったら、ああいうのについて行くのはやめな」
お兄さんはそんな操を見て、少し怒った顔をしながら言いました。
「酷いことってなに? どんなこと?」
「……もう遅いから、帰ったほうがいい。子供が出歩いていい時間じゃないよ」
お兄さんは怒った顔のまま吐き捨てて、背中を向けると帰っていきます。
操はなんだかちょっぴりカチンときました。
(あの人は好きじゃないな。おれはもう子供じゃないのに)
ハゲさんは破格の値段でマッチを買ってくれようとしただけなのに、あのお兄さんが邪魔をしたせいで台無しです。これでは肉まんもファミ●キも買えません。
そうこうしているうちに、通りには全く人がいなくなっていました。年越しを控え、他所の家やお店の明かりだけが雪の町をほんのりと明るく照らしています。
操はちょっぴり寂しい気持ちになりました。
「帰ろっかな……」
一騎と総士に会いたくなりました。あのお兄さんに言われたことには腹が立ちましたが、確かに早く帰らないと二人が心配します。それに、年越しそばを食べそびれるのも嫌でした。
そのとき、強い風がびゅうと吹き抜けました。完全防備の操でしたが、剥き出しの頬や鼻は冷気にさらされて真っ赤になっています。
操は寒さをしのぐため、咄嗟に建物と建物の間の細い通路に入りこみました。
「寒いな……そうだ、マッチをすったらあったかくなるかも!」
ふと思いつき、操はその場にしゃがむと籠の中にあるマッチを一箱、取り出しました。
そして小箱の中からマッチを一本引き抜くと、箱の側面に擦り付けようとしました。が、そのとき。
「ちょっと待った!!」
どこからか、またあのお兄さんが血相を変えてやって来ました。
操は驚き、手からマッチを落としてしまいました。
「な、なぁに? また邪魔しに来たのぉ?」
しゃがんだままキッと睨みあげると、お兄さんはまたあの怒った顔で溜息をつきました。
「こんな真冬の狭い路地で、しかもゴミが置いてあるすぐ側でマッチを擦るなんて。しかも手にミトンをはめたままじゃ、なおさら危ないだろ。火だるまにでもなりたいのか?」
「え? ゴミ?」
操は自分のすぐ斜め後ろに目を向けました。確かにそこには幾つかのゴミ袋が山になって置かれています。操の目には、暗くてよく見えていませんでした。
このお兄さんが来てくれなかったら、操はうっかり放火魔になっていたかもしれません。それどころか、ミトンに引火してこんがり丸焼けになっていた可能性もあります。
操は急に怖くなり、目にじわりと涙を浮かべました。
「焼かれるのは……嫌だな……」
「俺だって嫌だ。この年の瀬に店を燃やされたんじゃ、たまったもんじゃないしね」
「店?」
「ここは俺の店のすぐ横だよ」
操が身を寄せた場所は、ちょうどお兄さんが経営している喫茶店脇の通路でした。
実はお兄さん、店の中からずっと操のことを見ていたのです。なにやら白くてもこもことした可愛い生き物が、夜道でマッチを売ろうとしている姿が気がかりで、仕事の合間に様子を窺っていたのでした。
お兄さんは操の正面にしゃがみ込むと、困った顔をして言いました。
「平気で変な奴について行こうとするし、自分ごと店に火をつけようとするし、お前は一体なにがしたくてここにいるんだ? しかもこんな時間にさ」
「別に火事を起こそうなんて思ったわけじゃない。寒いから、マッチであたたまろうと思っただけ」
「寒いなら家に帰るなり、店に入ればいいだろ」
「それはそうなんだけど……」
操はしょんぼりと俯き、足元にあるマッチが入った籠を見つめました。
操はマッチを売ったお金で、大好きな一騎と総士にお土産を買って帰りたかったのです。それにお金がなければ、お店にだって入れません。
「……お金に困ってるの?」
「うん……」
お兄さんが、また溜息をつきました。
「幾ら?」
「え?」
「俺が買うから。そのマッチ幾ら?」
操はぱぁっと顔色を明るくして、元気よく答えました。
「一箱五千円だよ!」
「高い!!」
お兄さんが驚きの声をあげました。
「そんな法外な値段で誰が買うのさ!?」
「さっきのおじさんは2万円で買ってくれるって言ったよ!」
「あれはマッチじゃなくて、お前を買おうとしてたんだ!」
「え? おれって2万円で売れるの?」
「ああもう……なんなんだこいつは……」
お兄さんは頭を抱え、ほとほと困り果てた様子を見せました。
「あのね、お前がどこの温室で育ったのかは知らないけど、世の中にはお前が思う以上に怖いことが沢山あるんだよ。お金を稼ぐのだって、そう簡単なことじゃない」
「怖いこと……?」
そういえば、お兄さんはさっきも「酷いことをされたくなければ」なんてことを言っていました。それは火で焼かれるよりも、もっと恐ろしいことなのでしょうか。
例えば犬と同じ檻に閉じ込められるとか、死ぬまで一騎カレーが食べられなくなるとか……思いつく限りの怖いことを想像して、操は震えながら目にいっぱいの涙を浮かべました。
「わかった……もうハゲたおじさんにはついて行かない……」
「毛量は関係ない。男はみんなオオカミだよ」
「総士も前に同じこと言ってた気がする」
「それって家の人? なんだ、ちゃんと教育されてるんじゃないか」
お兄さんはそこで初めて笑顔を見せました。
その柔らかくて優しい笑顔に、操は胸がドキリと高鳴るのを感じました。そのままドキドキと大きな音を立てて、一向に静まる様子がありません。なんだかおかしな気持ちです。
「分かったなら早く帰りな。もうすぐ年が明けてしまうよ」
そう言って立ち上がったお兄さんが、操にそっと手を差し出します。操はその大きな手の平に、ミトンで丸まった指先をちょこんと乗せました。きゅっと握られ、軽く引っ張られるのに合わせて立ち上がると、お兄さんを見上げて問いかけました。
「ねぇ、君は?」
「なに?」
「君もやっぱりオオカミなの?」
お兄さんは目をぱちくりとさせてから、少し困ったように眉を下げて笑いました。
「オオカミだよ、俺も」
「じゃあ、ついて行ったら酷いことする?」
「ついて来たいの?」
「そ、れは……よく分かんない、けど」
どうしてでしょうか。操は頬を赤らめながらまごついてしまいました。お兄さんの顔を見ることができず、俯けた目が泳いでしまいます。
お兄さんが「そうだな」と言って、ふっと笑いました。
「少しくらいは、酷いこともするかもね」
「……どんなこと?」
「それは言えない」
お兄さんは答えてくれませんでしたが、操には彼が酷いことをするような人間にはどうしても思えません。不思議なことに、操の中にはこのお兄さんについて行ってしまいたいという気持ちが芽生えはじめていました。
一度は好きじゃないとまで思ったのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。
操はお兄さんの手をきゅっと握って、もじもじと肩を揺らしました。
そのとき、街中に染み入るような鐘の音が響き渡りました。
「年が明けた。そろそろ店じまいをしようかな」
お兄さんが空を見上げながら言いました。吐く息が真っ白に染まっています。
操と違って、お兄さんは上になにも羽織ってはいません。髪や肩に雪が積もりはじめていて、とても寒そうに見えました。
操がずっと手を握って離さないため、お兄さんはお店に戻ることができないでいるのです。
だからもうお別れをしなくてはいけません。寂しいなと、操は思いました。
「そういえば、こないだバイトの子が一人やめちゃったんだっけ」
「え?」
操がその手を離そうとしたとき、お兄さんがこちらを見て言いました。
「よければおいで。手伝ってくれたら、少しはお駄賃をあげられる」
「いいの?」
お兄さんが笑うので、操は嬉しくなりました。
「おれ、店じまい手伝う! だから君についてくよ!」
操の中に迷いはありませんでした。もう少しこのお兄さんと一緒にいられるのなら、少しくらい酷いことをされたって構いません。
どんなことをされたって、きっとこの人なら大丈夫だと思えるからです。
優しいオオカミに手を引かれ、マッチ売りの少年は暖かなお店の中へと姿を消しました。
そのあとふたりがどうなったかは分かりませんが、街の片隅にある小さな喫茶店は、それから毎日のようにお客さんが途絶えることなく、大繁盛したそうです。
←戻る ・ Wavebox👏
カゴいっぱいに入ったマッチを持つ少年が、道行く人々に呼びかけていました。
「マッチいりませんかー? マッチ買ってくださーい! マッチでーす!」
マッチ売りの少年、操は一生懸命大きな声で言いますが、誰一人として足を止めようとする人はいませんでした。
せめて彼が原作通り悲壮感溢れるみすぼらしい格好をしていれば、誰かしら気にかけてくれる人もいたかもしれません。ですが操はふわもこの白いコートを来て、ふわもこの耳あてをし、ふわもこのミトンまではめて、赤いマフラーをぐるぐる巻きにしています。
コートの中に着ているヒートテックにも、ブーツの中にも、これでもかというほどのホッカイロが仕込まれている有様でした。
育ての親の一騎と総士が、外で遊ぶなら風邪をひかないようにと、いつもこうして着込ませてくれるのです。
「マッチ売れないな……一騎と総士に肉まん買って帰ろうと思ったのに」
操ははぁっと白く染まる息を吐き出しました。
世の中の世知辛さを感じつつ、もう少し人通りが多い場所へ移動しようとしたそのとき。誰かが操の肩をポン、と叩きました。
振り向くと、そこには子豚のように肥えていて、頭がバーコードのようにハゲ散らかった、いかにもなモブおじさんが立っていました。
「き、君、可愛いね。2万でどうかな?」
おじさんが指を二本立て、ピースサインを向けてきます。操はびっくりして目を丸く見開きました。
「え? そんなに高く買ってくれるの?」
それだけの大金があったら、肉まんが幾つ買えるのでしょうか。ファ●チキだって買えてしまいます。
操が大喜びで「いいよ!」と言うと、おじさんは嬉しそうにブヒヒと笑って操の手を引き、歩きだそうとしました。が、そこで誰かが空いている方の手首をガッシリと掴んできました。
「ちょっと待って!」
「わっ! なに!?」
ぐいっと引っ張られ、操が驚いて声の主を見ると、そこには背の高い焦茶の髪をしたイケメンなお兄さんが、険しい表情を浮かべていました。
お兄さんは白いワイシャツに黒いパンツを穿いて、黒いエプロンをしています。どこかのお店の人でしょうか。
一度に二人も知らない人に声をかけられて、操は口をポカンと丸く開けました。
「そういう余計なフラグは立たせなくていい。エロ同人みたいな展開は勘弁して」
フラグ……エロ同人……なんのことでしょうか。操にはよく分かりませんが、お兄さんはそう言ってハゲたモブおじさんをきつく睨みつけました。するとおじさんは目を泳がせ、操の手を離すとそそくさとどこかへ行ってしまいました。
あ、おれの2万円が……と、操は悲しい気持ちになりながらしょぼんと俯きました。
「酷いことされたくなかったら、ああいうのについて行くのはやめな」
お兄さんはそんな操を見て、少し怒った顔をしながら言いました。
「酷いことってなに? どんなこと?」
「……もう遅いから、帰ったほうがいい。子供が出歩いていい時間じゃないよ」
お兄さんは怒った顔のまま吐き捨てて、背中を向けると帰っていきます。
操はなんだかちょっぴりカチンときました。
(あの人は好きじゃないな。おれはもう子供じゃないのに)
ハゲさんは破格の値段でマッチを買ってくれようとしただけなのに、あのお兄さんが邪魔をしたせいで台無しです。これでは肉まんもファミ●キも買えません。
そうこうしているうちに、通りには全く人がいなくなっていました。年越しを控え、他所の家やお店の明かりだけが雪の町をほんのりと明るく照らしています。
操はちょっぴり寂しい気持ちになりました。
「帰ろっかな……」
一騎と総士に会いたくなりました。あのお兄さんに言われたことには腹が立ちましたが、確かに早く帰らないと二人が心配します。それに、年越しそばを食べそびれるのも嫌でした。
そのとき、強い風がびゅうと吹き抜けました。完全防備の操でしたが、剥き出しの頬や鼻は冷気にさらされて真っ赤になっています。
操は寒さをしのぐため、咄嗟に建物と建物の間の細い通路に入りこみました。
「寒いな……そうだ、マッチをすったらあったかくなるかも!」
ふと思いつき、操はその場にしゃがむと籠の中にあるマッチを一箱、取り出しました。
そして小箱の中からマッチを一本引き抜くと、箱の側面に擦り付けようとしました。が、そのとき。
「ちょっと待った!!」
どこからか、またあのお兄さんが血相を変えてやって来ました。
操は驚き、手からマッチを落としてしまいました。
「な、なぁに? また邪魔しに来たのぉ?」
しゃがんだままキッと睨みあげると、お兄さんはまたあの怒った顔で溜息をつきました。
「こんな真冬の狭い路地で、しかもゴミが置いてあるすぐ側でマッチを擦るなんて。しかも手にミトンをはめたままじゃ、なおさら危ないだろ。火だるまにでもなりたいのか?」
「え? ゴミ?」
操は自分のすぐ斜め後ろに目を向けました。確かにそこには幾つかのゴミ袋が山になって置かれています。操の目には、暗くてよく見えていませんでした。
このお兄さんが来てくれなかったら、操はうっかり放火魔になっていたかもしれません。それどころか、ミトンに引火してこんがり丸焼けになっていた可能性もあります。
操は急に怖くなり、目にじわりと涙を浮かべました。
「焼かれるのは……嫌だな……」
「俺だって嫌だ。この年の瀬に店を燃やされたんじゃ、たまったもんじゃないしね」
「店?」
「ここは俺の店のすぐ横だよ」
操が身を寄せた場所は、ちょうどお兄さんが経営している喫茶店脇の通路でした。
実はお兄さん、店の中からずっと操のことを見ていたのです。なにやら白くてもこもことした可愛い生き物が、夜道でマッチを売ろうとしている姿が気がかりで、仕事の合間に様子を窺っていたのでした。
お兄さんは操の正面にしゃがみ込むと、困った顔をして言いました。
「平気で変な奴について行こうとするし、自分ごと店に火をつけようとするし、お前は一体なにがしたくてここにいるんだ? しかもこんな時間にさ」
「別に火事を起こそうなんて思ったわけじゃない。寒いから、マッチであたたまろうと思っただけ」
「寒いなら家に帰るなり、店に入ればいいだろ」
「それはそうなんだけど……」
操はしょんぼりと俯き、足元にあるマッチが入った籠を見つめました。
操はマッチを売ったお金で、大好きな一騎と総士にお土産を買って帰りたかったのです。それにお金がなければ、お店にだって入れません。
「……お金に困ってるの?」
「うん……」
お兄さんが、また溜息をつきました。
「幾ら?」
「え?」
「俺が買うから。そのマッチ幾ら?」
操はぱぁっと顔色を明るくして、元気よく答えました。
「一箱五千円だよ!」
「高い!!」
お兄さんが驚きの声をあげました。
「そんな法外な値段で誰が買うのさ!?」
「さっきのおじさんは2万円で買ってくれるって言ったよ!」
「あれはマッチじゃなくて、お前を買おうとしてたんだ!」
「え? おれって2万円で売れるの?」
「ああもう……なんなんだこいつは……」
お兄さんは頭を抱え、ほとほと困り果てた様子を見せました。
「あのね、お前がどこの温室で育ったのかは知らないけど、世の中にはお前が思う以上に怖いことが沢山あるんだよ。お金を稼ぐのだって、そう簡単なことじゃない」
「怖いこと……?」
そういえば、お兄さんはさっきも「酷いことをされたくなければ」なんてことを言っていました。それは火で焼かれるよりも、もっと恐ろしいことなのでしょうか。
例えば犬と同じ檻に閉じ込められるとか、死ぬまで一騎カレーが食べられなくなるとか……思いつく限りの怖いことを想像して、操は震えながら目にいっぱいの涙を浮かべました。
「わかった……もうハゲたおじさんにはついて行かない……」
「毛量は関係ない。男はみんなオオカミだよ」
「総士も前に同じこと言ってた気がする」
「それって家の人? なんだ、ちゃんと教育されてるんじゃないか」
お兄さんはそこで初めて笑顔を見せました。
その柔らかくて優しい笑顔に、操は胸がドキリと高鳴るのを感じました。そのままドキドキと大きな音を立てて、一向に静まる様子がありません。なんだかおかしな気持ちです。
「分かったなら早く帰りな。もうすぐ年が明けてしまうよ」
そう言って立ち上がったお兄さんが、操にそっと手を差し出します。操はその大きな手の平に、ミトンで丸まった指先をちょこんと乗せました。きゅっと握られ、軽く引っ張られるのに合わせて立ち上がると、お兄さんを見上げて問いかけました。
「ねぇ、君は?」
「なに?」
「君もやっぱりオオカミなの?」
お兄さんは目をぱちくりとさせてから、少し困ったように眉を下げて笑いました。
「オオカミだよ、俺も」
「じゃあ、ついて行ったら酷いことする?」
「ついて来たいの?」
「そ、れは……よく分かんない、けど」
どうしてでしょうか。操は頬を赤らめながらまごついてしまいました。お兄さんの顔を見ることができず、俯けた目が泳いでしまいます。
お兄さんが「そうだな」と言って、ふっと笑いました。
「少しくらいは、酷いこともするかもね」
「……どんなこと?」
「それは言えない」
お兄さんは答えてくれませんでしたが、操には彼が酷いことをするような人間にはどうしても思えません。不思議なことに、操の中にはこのお兄さんについて行ってしまいたいという気持ちが芽生えはじめていました。
一度は好きじゃないとまで思ったのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。
操はお兄さんの手をきゅっと握って、もじもじと肩を揺らしました。
そのとき、街中に染み入るような鐘の音が響き渡りました。
「年が明けた。そろそろ店じまいをしようかな」
お兄さんが空を見上げながら言いました。吐く息が真っ白に染まっています。
操と違って、お兄さんは上になにも羽織ってはいません。髪や肩に雪が積もりはじめていて、とても寒そうに見えました。
操がずっと手を握って離さないため、お兄さんはお店に戻ることができないでいるのです。
だからもうお別れをしなくてはいけません。寂しいなと、操は思いました。
「そういえば、こないだバイトの子が一人やめちゃったんだっけ」
「え?」
操がその手を離そうとしたとき、お兄さんがこちらを見て言いました。
「よければおいで。手伝ってくれたら、少しはお駄賃をあげられる」
「いいの?」
お兄さんが笑うので、操は嬉しくなりました。
「おれ、店じまい手伝う! だから君についてくよ!」
操の中に迷いはありませんでした。もう少しこのお兄さんと一緒にいられるのなら、少しくらい酷いことをされたって構いません。
どんなことをされたって、きっとこの人なら大丈夫だと思えるからです。
優しいオオカミに手を引かれ、マッチ売りの少年は暖かなお店の中へと姿を消しました。
そのあとふたりがどうなったかは分かりませんが、街の片隅にある小さな喫茶店は、それから毎日のようにお客さんが途絶えることなく、大繁盛したそうです。
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昔々、あるところに春日井甲洋という顔よし、頭よし、性格よしの若者がおりました。
甲洋は拾われた子供で、お父さんとお母さんは実の親ではありません。
二人はとても意地悪な怠け者で、掃除や洗濯などの家事や畑仕事を全て甲洋一人におしつけ、自分たちは楽な暮らしを送っていました。
そんなある日のこと。この国の王子様が結婚相手を選ぶため、お城で舞踏会が開かれることになりました。
お父さんとお母さんは呼ばれてもいないのに行く気満々です。
甲洋は二人の靴を磨き、着替えを手伝い、綺麗に髪型や髪飾りをセットしてあげました。
「二人とも……本当に行くの?」
姿見の前で身なりをチェックしているお母さんの足元に膝をつき、赤いドレスの裾を整えながら、甲洋はおずおずと視線を上げて問いかけました。
「ええ行くわ。お城の舞踏会なんて、一生に一度行けるかどうかのチャンスですもの」
「それはそうだろうけど……」
果たしてお嫁さん候補を探すための舞踏会に、招待状もなしにシレッと紛れ込むことなんてできるのでしょうか。熟年夫婦が無理に押しかけたところで、追い返されるのが関の山ではないかと甲洋は心配でなりません。
そんな甲洋に、お父さんが能天気な声で言いました。
「なにをグダグダ言ってるんだ。これで王子の目にでもとまってみろ。玉の輿じゃないか」
「いやだわどうしましょう! おほほ」
「わはは」
一見すると冗談を言い合って笑う夫婦の光景に見えますが、甲洋は少しも笑うことができません。
お母さんに代わって姿見の前に立つお父さんを見て、甲洋はずっと言うべきかどうか迷っていたことを、堪えきれずついに言いました。
「父さん……その格好はなにかの間違いだよね?」
目の前には菜の花のように可憐な色をした、フリフリドレスのおじさんがいます。信じがたいことですが、それは女装したお父さんの姿でした。
けばけばしい化粧に、真っ赤なルージュが痛いほど目に突き刺さります。
「なんだ、文句でもあるのか? いいか? 遊びじゃないぞ、甲洋。俺はこの美しさで、必ず王子のハートを射止めてみせる!」
てっきりツッコミ待ちかと思いきや、お父さんは本気の目をして言いました。とても正気の沙汰とは思えません。玉の輿に乗ることを疑いもしないその自信は、一体どこから来るのでしょうか。
甲洋には兵士にひっ捕らえられて牢屋にブチ込まれるお父さんの未来しか見えません。
「甲洋、あなたもさぞかし舞踏会へ行きたいでしょうねぇ」
「いや俺は別に」
「しょうがないさ。ドレスはこの二着しかないしなぁ。こんなみすぼらしい格好の人間が一緒じゃあ、俺たちが恥をかくだけさ」
え、それマジで言ってんの……と、恥を絵に描いたようなお父さんのドレス姿を見つめながら思いましたが、甲洋は賢いので余計なことは言いません。
それにお父さんが言っていることは事実です。甲洋には日頃から、ツギハギだらけのイモいあずきジャージしか与えられていませんでした。胸には『こうよう』とマジックで名前が書かれたワッペンまでついています。
正直これで買い出しに行くのですらちょっとした拷問でしかないのに、お城だなんてとんでもない話です。
「俺はいいから、ふたりとも気をつけて行っておいでよ」
甲洋は死んだ魚のような目で儚く笑い、浮かれきった様子の両親を見送りました。
*
「ショコラ、おいで」
二人が行ってしまうと、甲洋は家の裏の倉庫を開けて、愛犬を家の中に入れました。ショコラは甲洋がお父さんとお母さんに内緒で飼っている可愛い犬です。
「今日は二人とも遅くまで帰らないから、家の中でご飯にしよう」
「わんわん!」
ショコラは黒い尻尾を大きく振って、足にまとわりついてきます。
嬉しそうにはしゃぐ姿に笑いかけ、甲洋はミルクにドッグフードを浸したものをショコラに与えました。よほどお腹が空いていたのか、ショコラは夢中で食べはじめます。
しばらくそれを見守っていると、ふと台所の方からガサリと物音が聞こえました。
「なんだ?」
泥棒でも入ったのでしょうか。ショコラも顔を上げ、音がしたほうをじっと見ています。
甲洋は足音を立てないよう、慎重に台所へと向かいました。
するとそこには、なにやら黒い人影がしゃがみ込んでこちらに背を向け、ゴソゴソと蠢いています。
「誰?」
声をかけると、全身真っ黒の影がビクンと跳ねました。
甲洋の声に、影が恐る恐るといった様子で振り向きました。顔はフードに隠れてよく見えませんが、口にパンを咥えていることは分かります。
影だと思っていたのは、その人物が頭から爪先をフードつきの大きな黒いローブで覆っていたからでした。
「もご、むぐぐッ!?」
謎の人物は甲洋と目が合った瞬間、パンを喉に詰まらせてもがき苦しみました。激しく身を震わせ、胸をドンドンと叩いています。
甲洋はなんて間抜けな泥棒だと呆れながら、カップにミルク(犬用)を注ぐと、そっと差し出しました。
「ほら、とりあえずこれ飲んで」
「んぐぐッ、うぅ~~……んっ、ぷは! 死ぬかと思った!」
ミルク(犬用)を飲み干した人物が息をつきながら天を仰ぐと、フードが脱げて亜麻色の綺麗な髪が姿を現しました。まだあどけない顔をした少年です。
甲洋は腕を組み、床にペタリと座ったままの少年を見下ろして言いました。
「どこの子? 人のうちに勝手に入って、勝手にパンを食べるなんて」
「助けてくれてありがとう! おれは魔法使い。空から来たよ!」
「……通報するから動かないでいて。ショコラ」
「わう!」
甲洋が呼ぶと、見張りは任せろとばかりにショコラが背後から飛び出し、少年の目の前で姿勢を低くしながら唸りを上げました。
「わああぁ!? 犬だ! やだやだ助けて! 動かないからあっちに行ってぇ!」
少年はひどく怯えて、再びフードをすっぽりとかぶりながら丸くなってしまいました。よほどショコラが怖いのか、可哀想なくらい震えています。
流石に少し気の毒になってきた甲洋は、少年の傍にしゃがみこむと手で軽くショコラを制しました。
「で? どこの子? 名前は?」
おずおずと顔をあげた少年は、目にいっぱい涙を溜めています。その情けない表情にSっ気をそそられた甲洋は、一瞬だけ胸が疼くのを感じました。
「おれは魔法使いだよ。空から来たんだってば」
「……そう。でも泥棒はよくないね」
「君ぜんぜん信じてないでしょ! さっきからずっと目が死んでるし!」
魔法使いと名乗った少年は、ご立腹した様子で勢いよく立ち上がりました。それからローブの中に手を入れて、ゴソゴソと何かを探ると一本の棒切れを取り出します。
「じゃーん! 証拠に、魔法のステッキも持ってるよ!」
「ひのきのぼう?」
「そんな初期の最弱武器と一緒にしないで!」
よく見れば、細長い棒切れの先端には星がついています。クリスマスツリーの天辺につけるようなアレが、ガムテープでぐるぐる巻きに固定されていました。驚きの低クオリティに、甲洋はいよいよ困ったなぁと頭を掻きました。
いわゆる不思議ちゃんというやつでしょうか。それともただのヤベェ奴でしょうか。いずれにしろ、あまり積極的に関わりたいタイプではありません。
「おれはね、いつもがんばってる君に、ご褒美をあげるために来たんだよ!」
「ご褒美どころか、さっきのパンは俺の夕食だったんだけど」
「もう泣くのはおよし、シンデレラ!」
「泣いてないし、俺はシンデレラなんて名前じゃない」
「え? 違うの? じゃあなんていうの?」
「春日井甲洋」
「そっか、じゃあカスデレr」
「やめて」
食い気味にピシャリと切り捨てた甲洋に、魔法使いは唇を尖らせました。けれどすぐに気を取り直し、にっこり笑顔を浮かべて見せます。
「さあ! そうと決まれば準備をしようよ! 君だって舞踏会に行きたいでしょ?」
「はぁ?」
「まずはカボチャとハツカネズミを用意して! それからトカゲと」
「待って。勝手に話を進められても」
「大丈夫! おれに任せて!」
魔法使いは全く話を聞きません。
嫌な予感しかしない甲洋は、その端正な顔を苦く曇らせるばかりでした。
*
畑にカボチャはありましたが、ネズミとトカゲは見つけることができませんでした。
代わりにどこからかよく遊びにやって来る白猫のクーが、ショコラと庭を駆け回って遊んでいます。
「一体なにをする気?」
「まぁ見てて」
そう言うと、魔法使いは例のステッキをカボチャに向かって振りかざしました。
するとカボチャがどんどん大きくなり、なんということでしょう。金色の馬車へと姿を変えたではありませんか!
「えぇ……」
非現実的すぎる事態に甲洋が引き気味でいると、魔法使いが今度は遊んでいるショコラとクーに向かってステッキを振りかざします。すると二匹はみるみるうちに、美しい白馬へと姿を変えました。
「ショコラ!? クー!?」
これには流石の甲洋も顔色を変えました。
「だいじょうぶ、時間になれば元に戻るから心配しないで。さ、次はいよいよ君の番だね」
「え、ちょっとやめ」
「そーれへんしーん!」
悪魔のステッキが甲洋に向かって振りかざされました。すると次の瞬間、甲洋はみすぼらしいイモジャージから、淡い水色のきらびやかなドレス姿へと変身を遂げていたのです。
ダイヤのティアラが頭の上でピカピカと光り輝き、靴は美しいガラスでできていました。
甲洋はあまりのことに目眩を覚えながら、青ざめるより他にありません。
「なんでドレス……? なんで俺までこんな惨い格好を……!?」
「うわぁー、キレイ! よく似合ってるよ!」
「似合ってたまるか……!」
目を輝かせる魔法使いを尻目に、甲洋の脳裏には今ごろ牢屋にブチ込まれているかもしれないお父さんの背中がよぎりました。義理とはいえ、このままでは親子揃って社会的に死ぬことになってしまいます。そんなのはご免です。
「お前が本物の魔法使いだってことは分かった。分かったから、早くこの呪いを解いて」
「信じてくれて嬉しいよ! 馬車はおれが引くね!」
「あ、ダメだこの子ぜんぜん話聞かないな」
「早くしないと、舞踏会が終わっちゃう!」
「ちょ、ちょっと待って、この靴痛い。凄く痛い」
魔法使いに手を引かれ、甲洋は慣れないヒール靴でよろめきました。しかもこの靴、サイズが合っていません。無理やり足を押し込めているような状態で、このままでは確実に砕け飛び散ってバラバラバラになります。
靴がガラス製であることを考えると、後に起こる惨劇は火を見るよりも明らかでした。
「女装のオプションつきで流血騒ぎはちょっと……」
「12時には魔法が解けるから、それまで我慢して!」
「そんな無茶な……」
これではご褒美どころかただの罰ゲームです。
けれど甲洋は魔法使いによって、強引に馬車に押し込まれてしまうのでした。
*
やって来ました舞踏会。
どうせ門前払いを食らうだろうと思っていた甲洋でしたが、なぜかあっさり大広間まで通されました。ガバガバ警備もいいところです。
広間には大勢の美しく着飾った女性たちがいました。しかしみんな元気がありません。
(どうしたんだろう? もっと活気があるものだと思っていたけど)
中にはメソメソと泣いている女性や、お供や御者の男性と合コンパーティーをはじめる女性たちもいます。みんな王子様のハートを射止めるために来ているはずなのに、一体どうしたというのでしょうか。
「全く冗談じゃない! せっかく来たっていうのに、とんだ無駄足だ!」
不思議そうに辺りを見回していると、そこによく知る声が聞こえてきました。ギクリとしながらその方向を見ると──いました。お父さんとお母さんです。
ふたりはご馳走が並ぶテーブルで、ほとんどやけ酒に溺れている状態でした。
「やっぱり男ってのは、王子様だろうが若い子がいいってことかしらね!」
そういう問題ではないのですが、お母さんもキレながらお酒を飲んでいます。
「ちくしょー! 俺の玉の輿がー!」
そんなことよりよくぞご無事で……と、この城の来る者を拒まない姿勢に感服しながら、甲洋はそそくさとその場を離れて柱の影に身を隠しました。
そのとき、大広間に美しい音楽が鳴り響きました。中央へ目を向けると、年若い黒髪の王子様が、純白のドレスを着た髪の長い女性とダンスを踊っています。
どうやら彼女が誰よりも早く王子様のハートを射止めたようでした。美しい面立ちをした彼女は王子様より幾分か背が高く、女性というにはそこはかとない肩幅勝負感が漂っています。
甲洋は彼女から自分と同じ匂いを感じとりましたが、あえて生温かく微笑むだけに留めると、ささやかな拍手を送りました。どうか末永くお幸せに……。
さて、お父さんとお母さんの無事も確認できましたし、これといって用もないので甲洋はさっさとこの場を後にすることに決めました。
しかし御者を買って出たはずの魔法使いの姿が、どこにもありません。
「ああもう、フラフラと……一体どこに行ったんだあいつは」
この靴で歩き回るのは嫌でしたが、ここで脱ぐわけにもいきません。仕方なく痛む足で慎重に人並みを掻き分けて、魔法使いを探しました。
すると天井まである立派な格子窓の向こうに、月明かりに浮かぶ淡い髪色が見えました。
広々としたテラスには、何席かのテーブルセットが設置されています。他に人影はありません。甲洋はテラスに出ると、魔法使いに声をかけました。
「こんなところにいた」
「あ、甲洋―。これ美味しいよぉ! マカロンっていうんだってー!」
魔法使いはテーブルの上にこれでもかというほど菓子類を取り分けた皿を並べ、呑気にムシャムシャと頬張っています。お前さっき人のパン食べたのにまだ食べるのか……と呆れつつ、甲洋も隣の椅子に腰掛けました。
「王子様には会えた?」
ほっぺたに生クリームをつけた魔法使いに問いかけられ、甲洋は曖昧に笑って見せました。
「うん。幸せそうだったよ」
「そっかー、よかったね」
魔法使いは食べかけのマカロンを口の中に放り込むと、頬をモゴモゴとさせながら夜空を見上げました。つられて見上げた先には、丸くて大きな月がぽっかりと浮かんでいます。
マカロンを飲み込んだ魔法使いが、ぽつりと言いました。
「でもおれは、甲洋に幸せを見つけてほしかったんだけどな」
「俺の幸せ?」
「そう。君の幸せ」
そんなこと、今まで考えたこともありませんでした。
甲洋は幼い頃からずっと不遇な扱いを受けてきました。ボロボロの服を着て、家の仕事を全てこなし、自分のことはないがしろにしながら生きてきたのです。
けれど甲洋はもう大人です。そろそろ自分の幸せというものを、ちゃんと考えてみてもいいのかもしれません。
あの家を出れば、もう隠れてショコラを飼う必要だってなくなるのですから。
甲洋は焼菓子にかぶりつく魔法使いへ目を向けました。食べかすをボロボロと零し、頬にクリームをつけたままの彼は、まるで小さな子供のようです。
ふとそのまま視線を足元へやると、ローブの裾から白い爪先が見えました。魔法使いは足先まですっぽり隠れるほど大きなローブを纏っていたので、甲洋は彼が裸足でいることに気がつかなかったのです。
「お前、靴は?」
「靴? ないよ?」
魔法使いがきょとんとしながら首を傾げ、両手で裾をベロンと捲りました。真っ白の太腿までが露わになって、甲洋はちょっぴり赤くなりながらぎょっとしました。
「ちょ、え? その下、裸?」
「そうだよ。服はこれしか持ってない。ヒトの形をもらったのも、ついさっきのことだもん」
空から舞い降りたという魔法使いは全裸だったのです。そこをたまたま通りがかった知らないおじさんに拾われて、交番という場所へ連れて行かれ、そこで色々な質問を受けたあと、可哀想な目で見られてこのローブをもらったのだと、魔法使いは言いました。
そのおじさん(お巡りさん)もこの不思議ちゃんにはお手上げ状態だったんだろうなと思いながら、甲洋は黒い裾をそっと戻してあげました。
それから甲洋は少し考えたあと、ガラスの靴を脱ぎました。そして椅子から腰をあげ、魔法使いの足元に膝をつくと、右足首に触れて軽く持ち上げました。
不思議そうな顔をしている魔法使いの右足に、靴をそっと履かせます。思った通り、ほっそりとした足にはガラスの靴がピッタリと合いました。
「なんでおれに履かせるの? それは君のためのガラスの靴だよ」
「俺には小さいよ。ほら、お前の方がよく似合う」
魔法使いはむぅっと唇を尖らせます。
「でもこれじゃあ、君へのご褒美にならないよ」
「どうしてそんなにこだわるのさ」
「だっておれはずっと見ていたんだよ。君はどんなにつらくても、いつもがんばるいい子だったでしょ。だからご褒美をあげなくちゃと思ったんだ」
「見てたって、空から?」
「そうだよ」
なんだかよく分かりませんが、どこまでも不思議なことばかりを言うやつだなぁと思いました。けれど彼の言葉はとても嬉しく感じます。
「ねぇ、なにかないの? なんでも言ってよ」
魔法使いが身を乗り出して言います。甲洋は困ってしまいました。
(ご褒美、か)
もうすぐ12時の鐘が鳴る頃です。そうしたら目の前にいる魔法使いもまた、魔法のように姿を消してしまうのでしょうか。
どうしてか、甲洋はそれをとても嫌だと感じました。
「本当になんでもいいの?」
「もちろん!」
甲洋はシルクのロンググローブを片方外し、魔法使いに手を伸ばすと、そっと頬についたクリームを指先で拭います。
魔法使いは少し驚いた顔をして、小麦畑のような色をした瞳をパチパチと瞬かせました。
「名前は?」
甲洋がふっと微笑みながら尋ねると、魔法使いはぽわんと赤く頬を染めました。それからやや間を置いて、おずおずと小さな唇が開かれます。
「おれの名前は……来主操」
「じゃあ来主。お前が俺のご褒美になって」
「はえぇ?」
魔法使いが目を丸くしながら素っ頓狂な声をあげました。
「な、なんでぇ? なんでおれがご褒美になるのぉ?」
「さぁ、俺にもよく分からないけど」
甲洋はこの魔法使いの少年と、もう少し一緒にいてみたいと思ったのです。
なんの因果か、空からずっと甲洋を見ていてくれたという、この不思議な少年と。
彼とこうしていると、なぜだか心がポカポカとあたたかくなるのを感じます。これが幸せというものなのかもしれないと、甲洋は思いました。
「うーん、君がそれでいいなら構わないけど……本当に?」
「うん、それで十分」
甲洋が笑って頷くと、魔法使いは「わかった!」と言って頷き返しました。
「それじゃあ今から、おれは君だけの魔法使いになるね!」
12時になり鐘が鳴り響くと甲洋にかかった魔法は解けましたが、ガラスの靴だけは消えずに残り、輝きを放ち続けました。
ようやく自分の幸せを見つけることができた青年は、空からやって来た可愛い魔法使いの少年と、いつまでも末永く一緒に暮らしたのだそうです。
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甲洋は拾われた子供で、お父さんとお母さんは実の親ではありません。
二人はとても意地悪な怠け者で、掃除や洗濯などの家事や畑仕事を全て甲洋一人におしつけ、自分たちは楽な暮らしを送っていました。
そんなある日のこと。この国の王子様が結婚相手を選ぶため、お城で舞踏会が開かれることになりました。
お父さんとお母さんは呼ばれてもいないのに行く気満々です。
甲洋は二人の靴を磨き、着替えを手伝い、綺麗に髪型や髪飾りをセットしてあげました。
「二人とも……本当に行くの?」
姿見の前で身なりをチェックしているお母さんの足元に膝をつき、赤いドレスの裾を整えながら、甲洋はおずおずと視線を上げて問いかけました。
「ええ行くわ。お城の舞踏会なんて、一生に一度行けるかどうかのチャンスですもの」
「それはそうだろうけど……」
果たしてお嫁さん候補を探すための舞踏会に、招待状もなしにシレッと紛れ込むことなんてできるのでしょうか。熟年夫婦が無理に押しかけたところで、追い返されるのが関の山ではないかと甲洋は心配でなりません。
そんな甲洋に、お父さんが能天気な声で言いました。
「なにをグダグダ言ってるんだ。これで王子の目にでもとまってみろ。玉の輿じゃないか」
「いやだわどうしましょう! おほほ」
「わはは」
一見すると冗談を言い合って笑う夫婦の光景に見えますが、甲洋は少しも笑うことができません。
お母さんに代わって姿見の前に立つお父さんを見て、甲洋はずっと言うべきかどうか迷っていたことを、堪えきれずついに言いました。
「父さん……その格好はなにかの間違いだよね?」
目の前には菜の花のように可憐な色をした、フリフリドレスのおじさんがいます。信じがたいことですが、それは女装したお父さんの姿でした。
けばけばしい化粧に、真っ赤なルージュが痛いほど目に突き刺さります。
「なんだ、文句でもあるのか? いいか? 遊びじゃないぞ、甲洋。俺はこの美しさで、必ず王子のハートを射止めてみせる!」
てっきりツッコミ待ちかと思いきや、お父さんは本気の目をして言いました。とても正気の沙汰とは思えません。玉の輿に乗ることを疑いもしないその自信は、一体どこから来るのでしょうか。
甲洋には兵士にひっ捕らえられて牢屋にブチ込まれるお父さんの未来しか見えません。
「甲洋、あなたもさぞかし舞踏会へ行きたいでしょうねぇ」
「いや俺は別に」
「しょうがないさ。ドレスはこの二着しかないしなぁ。こんなみすぼらしい格好の人間が一緒じゃあ、俺たちが恥をかくだけさ」
え、それマジで言ってんの……と、恥を絵に描いたようなお父さんのドレス姿を見つめながら思いましたが、甲洋は賢いので余計なことは言いません。
それにお父さんが言っていることは事実です。甲洋には日頃から、ツギハギだらけのイモいあずきジャージしか与えられていませんでした。胸には『こうよう』とマジックで名前が書かれたワッペンまでついています。
正直これで買い出しに行くのですらちょっとした拷問でしかないのに、お城だなんてとんでもない話です。
「俺はいいから、ふたりとも気をつけて行っておいでよ」
甲洋は死んだ魚のような目で儚く笑い、浮かれきった様子の両親を見送りました。
*
「ショコラ、おいで」
二人が行ってしまうと、甲洋は家の裏の倉庫を開けて、愛犬を家の中に入れました。ショコラは甲洋がお父さんとお母さんに内緒で飼っている可愛い犬です。
「今日は二人とも遅くまで帰らないから、家の中でご飯にしよう」
「わんわん!」
ショコラは黒い尻尾を大きく振って、足にまとわりついてきます。
嬉しそうにはしゃぐ姿に笑いかけ、甲洋はミルクにドッグフードを浸したものをショコラに与えました。よほどお腹が空いていたのか、ショコラは夢中で食べはじめます。
しばらくそれを見守っていると、ふと台所の方からガサリと物音が聞こえました。
「なんだ?」
泥棒でも入ったのでしょうか。ショコラも顔を上げ、音がしたほうをじっと見ています。
甲洋は足音を立てないよう、慎重に台所へと向かいました。
するとそこには、なにやら黒い人影がしゃがみ込んでこちらに背を向け、ゴソゴソと蠢いています。
「誰?」
声をかけると、全身真っ黒の影がビクンと跳ねました。
甲洋の声に、影が恐る恐るといった様子で振り向きました。顔はフードに隠れてよく見えませんが、口にパンを咥えていることは分かります。
影だと思っていたのは、その人物が頭から爪先をフードつきの大きな黒いローブで覆っていたからでした。
「もご、むぐぐッ!?」
謎の人物は甲洋と目が合った瞬間、パンを喉に詰まらせてもがき苦しみました。激しく身を震わせ、胸をドンドンと叩いています。
甲洋はなんて間抜けな泥棒だと呆れながら、カップにミルク(犬用)を注ぐと、そっと差し出しました。
「ほら、とりあえずこれ飲んで」
「んぐぐッ、うぅ~~……んっ、ぷは! 死ぬかと思った!」
ミルク(犬用)を飲み干した人物が息をつきながら天を仰ぐと、フードが脱げて亜麻色の綺麗な髪が姿を現しました。まだあどけない顔をした少年です。
甲洋は腕を組み、床にペタリと座ったままの少年を見下ろして言いました。
「どこの子? 人のうちに勝手に入って、勝手にパンを食べるなんて」
「助けてくれてありがとう! おれは魔法使い。空から来たよ!」
「……通報するから動かないでいて。ショコラ」
「わう!」
甲洋が呼ぶと、見張りは任せろとばかりにショコラが背後から飛び出し、少年の目の前で姿勢を低くしながら唸りを上げました。
「わああぁ!? 犬だ! やだやだ助けて! 動かないからあっちに行ってぇ!」
少年はひどく怯えて、再びフードをすっぽりとかぶりながら丸くなってしまいました。よほどショコラが怖いのか、可哀想なくらい震えています。
流石に少し気の毒になってきた甲洋は、少年の傍にしゃがみこむと手で軽くショコラを制しました。
「で? どこの子? 名前は?」
おずおずと顔をあげた少年は、目にいっぱい涙を溜めています。その情けない表情にSっ気をそそられた甲洋は、一瞬だけ胸が疼くのを感じました。
「おれは魔法使いだよ。空から来たんだってば」
「……そう。でも泥棒はよくないね」
「君ぜんぜん信じてないでしょ! さっきからずっと目が死んでるし!」
魔法使いと名乗った少年は、ご立腹した様子で勢いよく立ち上がりました。それからローブの中に手を入れて、ゴソゴソと何かを探ると一本の棒切れを取り出します。
「じゃーん! 証拠に、魔法のステッキも持ってるよ!」
「ひのきのぼう?」
「そんな初期の最弱武器と一緒にしないで!」
よく見れば、細長い棒切れの先端には星がついています。クリスマスツリーの天辺につけるようなアレが、ガムテープでぐるぐる巻きに固定されていました。驚きの低クオリティに、甲洋はいよいよ困ったなぁと頭を掻きました。
いわゆる不思議ちゃんというやつでしょうか。それともただのヤベェ奴でしょうか。いずれにしろ、あまり積極的に関わりたいタイプではありません。
「おれはね、いつもがんばってる君に、ご褒美をあげるために来たんだよ!」
「ご褒美どころか、さっきのパンは俺の夕食だったんだけど」
「もう泣くのはおよし、シンデレラ!」
「泣いてないし、俺はシンデレラなんて名前じゃない」
「え? 違うの? じゃあなんていうの?」
「春日井甲洋」
「そっか、じゃあカスデレr」
「やめて」
食い気味にピシャリと切り捨てた甲洋に、魔法使いは唇を尖らせました。けれどすぐに気を取り直し、にっこり笑顔を浮かべて見せます。
「さあ! そうと決まれば準備をしようよ! 君だって舞踏会に行きたいでしょ?」
「はぁ?」
「まずはカボチャとハツカネズミを用意して! それからトカゲと」
「待って。勝手に話を進められても」
「大丈夫! おれに任せて!」
魔法使いは全く話を聞きません。
嫌な予感しかしない甲洋は、その端正な顔を苦く曇らせるばかりでした。
*
畑にカボチャはありましたが、ネズミとトカゲは見つけることができませんでした。
代わりにどこからかよく遊びにやって来る白猫のクーが、ショコラと庭を駆け回って遊んでいます。
「一体なにをする気?」
「まぁ見てて」
そう言うと、魔法使いは例のステッキをカボチャに向かって振りかざしました。
するとカボチャがどんどん大きくなり、なんということでしょう。金色の馬車へと姿を変えたではありませんか!
「えぇ……」
非現実的すぎる事態に甲洋が引き気味でいると、魔法使いが今度は遊んでいるショコラとクーに向かってステッキを振りかざします。すると二匹はみるみるうちに、美しい白馬へと姿を変えました。
「ショコラ!? クー!?」
これには流石の甲洋も顔色を変えました。
「だいじょうぶ、時間になれば元に戻るから心配しないで。さ、次はいよいよ君の番だね」
「え、ちょっとやめ」
「そーれへんしーん!」
悪魔のステッキが甲洋に向かって振りかざされました。すると次の瞬間、甲洋はみすぼらしいイモジャージから、淡い水色のきらびやかなドレス姿へと変身を遂げていたのです。
ダイヤのティアラが頭の上でピカピカと光り輝き、靴は美しいガラスでできていました。
甲洋はあまりのことに目眩を覚えながら、青ざめるより他にありません。
「なんでドレス……? なんで俺までこんな惨い格好を……!?」
「うわぁー、キレイ! よく似合ってるよ!」
「似合ってたまるか……!」
目を輝かせる魔法使いを尻目に、甲洋の脳裏には今ごろ牢屋にブチ込まれているかもしれないお父さんの背中がよぎりました。義理とはいえ、このままでは親子揃って社会的に死ぬことになってしまいます。そんなのはご免です。
「お前が本物の魔法使いだってことは分かった。分かったから、早くこの呪いを解いて」
「信じてくれて嬉しいよ! 馬車はおれが引くね!」
「あ、ダメだこの子ぜんぜん話聞かないな」
「早くしないと、舞踏会が終わっちゃう!」
「ちょ、ちょっと待って、この靴痛い。凄く痛い」
魔法使いに手を引かれ、甲洋は慣れないヒール靴でよろめきました。しかもこの靴、サイズが合っていません。無理やり足を押し込めているような状態で、このままでは確実に砕け飛び散ってバラバラバラになります。
靴がガラス製であることを考えると、後に起こる惨劇は火を見るよりも明らかでした。
「女装のオプションつきで流血騒ぎはちょっと……」
「12時には魔法が解けるから、それまで我慢して!」
「そんな無茶な……」
これではご褒美どころかただの罰ゲームです。
けれど甲洋は魔法使いによって、強引に馬車に押し込まれてしまうのでした。
*
やって来ました舞踏会。
どうせ門前払いを食らうだろうと思っていた甲洋でしたが、なぜかあっさり大広間まで通されました。ガバガバ警備もいいところです。
広間には大勢の美しく着飾った女性たちがいました。しかしみんな元気がありません。
(どうしたんだろう? もっと活気があるものだと思っていたけど)
中にはメソメソと泣いている女性や、お供や御者の男性と合コンパーティーをはじめる女性たちもいます。みんな王子様のハートを射止めるために来ているはずなのに、一体どうしたというのでしょうか。
「全く冗談じゃない! せっかく来たっていうのに、とんだ無駄足だ!」
不思議そうに辺りを見回していると、そこによく知る声が聞こえてきました。ギクリとしながらその方向を見ると──いました。お父さんとお母さんです。
ふたりはご馳走が並ぶテーブルで、ほとんどやけ酒に溺れている状態でした。
「やっぱり男ってのは、王子様だろうが若い子がいいってことかしらね!」
そういう問題ではないのですが、お母さんもキレながらお酒を飲んでいます。
「ちくしょー! 俺の玉の輿がー!」
そんなことよりよくぞご無事で……と、この城の来る者を拒まない姿勢に感服しながら、甲洋はそそくさとその場を離れて柱の影に身を隠しました。
そのとき、大広間に美しい音楽が鳴り響きました。中央へ目を向けると、年若い黒髪の王子様が、純白のドレスを着た髪の長い女性とダンスを踊っています。
どうやら彼女が誰よりも早く王子様のハートを射止めたようでした。美しい面立ちをした彼女は王子様より幾分か背が高く、女性というにはそこはかとない肩幅勝負感が漂っています。
甲洋は彼女から自分と同じ匂いを感じとりましたが、あえて生温かく微笑むだけに留めると、ささやかな拍手を送りました。どうか末永くお幸せに……。
さて、お父さんとお母さんの無事も確認できましたし、これといって用もないので甲洋はさっさとこの場を後にすることに決めました。
しかし御者を買って出たはずの魔法使いの姿が、どこにもありません。
「ああもう、フラフラと……一体どこに行ったんだあいつは」
この靴で歩き回るのは嫌でしたが、ここで脱ぐわけにもいきません。仕方なく痛む足で慎重に人並みを掻き分けて、魔法使いを探しました。
すると天井まである立派な格子窓の向こうに、月明かりに浮かぶ淡い髪色が見えました。
広々としたテラスには、何席かのテーブルセットが設置されています。他に人影はありません。甲洋はテラスに出ると、魔法使いに声をかけました。
「こんなところにいた」
「あ、甲洋―。これ美味しいよぉ! マカロンっていうんだってー!」
魔法使いはテーブルの上にこれでもかというほど菓子類を取り分けた皿を並べ、呑気にムシャムシャと頬張っています。お前さっき人のパン食べたのにまだ食べるのか……と呆れつつ、甲洋も隣の椅子に腰掛けました。
「王子様には会えた?」
ほっぺたに生クリームをつけた魔法使いに問いかけられ、甲洋は曖昧に笑って見せました。
「うん。幸せそうだったよ」
「そっかー、よかったね」
魔法使いは食べかけのマカロンを口の中に放り込むと、頬をモゴモゴとさせながら夜空を見上げました。つられて見上げた先には、丸くて大きな月がぽっかりと浮かんでいます。
マカロンを飲み込んだ魔法使いが、ぽつりと言いました。
「でもおれは、甲洋に幸せを見つけてほしかったんだけどな」
「俺の幸せ?」
「そう。君の幸せ」
そんなこと、今まで考えたこともありませんでした。
甲洋は幼い頃からずっと不遇な扱いを受けてきました。ボロボロの服を着て、家の仕事を全てこなし、自分のことはないがしろにしながら生きてきたのです。
けれど甲洋はもう大人です。そろそろ自分の幸せというものを、ちゃんと考えてみてもいいのかもしれません。
あの家を出れば、もう隠れてショコラを飼う必要だってなくなるのですから。
甲洋は焼菓子にかぶりつく魔法使いへ目を向けました。食べかすをボロボロと零し、頬にクリームをつけたままの彼は、まるで小さな子供のようです。
ふとそのまま視線を足元へやると、ローブの裾から白い爪先が見えました。魔法使いは足先まですっぽり隠れるほど大きなローブを纏っていたので、甲洋は彼が裸足でいることに気がつかなかったのです。
「お前、靴は?」
「靴? ないよ?」
魔法使いがきょとんとしながら首を傾げ、両手で裾をベロンと捲りました。真っ白の太腿までが露わになって、甲洋はちょっぴり赤くなりながらぎょっとしました。
「ちょ、え? その下、裸?」
「そうだよ。服はこれしか持ってない。ヒトの形をもらったのも、ついさっきのことだもん」
空から舞い降りたという魔法使いは全裸だったのです。そこをたまたま通りがかった知らないおじさんに拾われて、交番という場所へ連れて行かれ、そこで色々な質問を受けたあと、可哀想な目で見られてこのローブをもらったのだと、魔法使いは言いました。
そのおじさん(お巡りさん)もこの不思議ちゃんにはお手上げ状態だったんだろうなと思いながら、甲洋は黒い裾をそっと戻してあげました。
それから甲洋は少し考えたあと、ガラスの靴を脱ぎました。そして椅子から腰をあげ、魔法使いの足元に膝をつくと、右足首に触れて軽く持ち上げました。
不思議そうな顔をしている魔法使いの右足に、靴をそっと履かせます。思った通り、ほっそりとした足にはガラスの靴がピッタリと合いました。
「なんでおれに履かせるの? それは君のためのガラスの靴だよ」
「俺には小さいよ。ほら、お前の方がよく似合う」
魔法使いはむぅっと唇を尖らせます。
「でもこれじゃあ、君へのご褒美にならないよ」
「どうしてそんなにこだわるのさ」
「だっておれはずっと見ていたんだよ。君はどんなにつらくても、いつもがんばるいい子だったでしょ。だからご褒美をあげなくちゃと思ったんだ」
「見てたって、空から?」
「そうだよ」
なんだかよく分かりませんが、どこまでも不思議なことばかりを言うやつだなぁと思いました。けれど彼の言葉はとても嬉しく感じます。
「ねぇ、なにかないの? なんでも言ってよ」
魔法使いが身を乗り出して言います。甲洋は困ってしまいました。
(ご褒美、か)
もうすぐ12時の鐘が鳴る頃です。そうしたら目の前にいる魔法使いもまた、魔法のように姿を消してしまうのでしょうか。
どうしてか、甲洋はそれをとても嫌だと感じました。
「本当になんでもいいの?」
「もちろん!」
甲洋はシルクのロンググローブを片方外し、魔法使いに手を伸ばすと、そっと頬についたクリームを指先で拭います。
魔法使いは少し驚いた顔をして、小麦畑のような色をした瞳をパチパチと瞬かせました。
「名前は?」
甲洋がふっと微笑みながら尋ねると、魔法使いはぽわんと赤く頬を染めました。それからやや間を置いて、おずおずと小さな唇が開かれます。
「おれの名前は……来主操」
「じゃあ来主。お前が俺のご褒美になって」
「はえぇ?」
魔法使いが目を丸くしながら素っ頓狂な声をあげました。
「な、なんでぇ? なんでおれがご褒美になるのぉ?」
「さぁ、俺にもよく分からないけど」
甲洋はこの魔法使いの少年と、もう少し一緒にいてみたいと思ったのです。
なんの因果か、空からずっと甲洋を見ていてくれたという、この不思議な少年と。
彼とこうしていると、なぜだか心がポカポカとあたたかくなるのを感じます。これが幸せというものなのかもしれないと、甲洋は思いました。
「うーん、君がそれでいいなら構わないけど……本当に?」
「うん、それで十分」
甲洋が笑って頷くと、魔法使いは「わかった!」と言って頷き返しました。
「それじゃあ今から、おれは君だけの魔法使いになるね!」
12時になり鐘が鳴り響くと甲洋にかかった魔法は解けましたが、ガラスの靴だけは消えずに残り、輝きを放ち続けました。
ようやく自分の幸せを見つけることができた青年は、空からやって来た可愛い魔法使いの少年と、いつまでも末永く一緒に暮らしたのだそうです。
←戻る ・ Wavebox👏
その日、喫茶楽園には制服姿の珪素系男子が四人勢揃いしていた。
「これが去年も出した夏野菜の冷製パスタ、こっちは冷しゃぶサラダうどん」
「この素麺のつゆは?」
「トマトのだしつゆと、鶏だしつゆだよ。お客さんには注文のとき、好きな方を選んでもらう形がいいかと思うんだけど」
「なるほど。いいんじゃないかな」
四人が囲むひとつのテーブルには、夏に向けたメニューがズラリと並んでいた。
作った本人である一騎がひとつひとつ説明し、店のオーナーである甲洋とあれこれ話をしている。
直接この店に関わっているわけではない総士と操は、黙って二人の会話に耳を傾けながら試食にあやかっていた。
総士は昼食をと思って足を運んだのだが、残念なことに今日が定休日であることを失念していた。しかしちょうどいいから食べてってくれという一騎の申し出に甘えて、ここにいる。
操は総士が来たときにはすでにここにいた。基本的にいつも暇をもてあましている彼は、なんやかんやで常に楽園に入り浸っているのだ。
新メニューはどれも言うまでもなく絶品だった。そもそも一騎が作る料理に間違いはない。
どれも夏向けというだけあってさっぱりしていて、食欲がなくてもツルツルといけそうなものばかりだ。
しかし操は腹が満ちると飽きてきたのか、コースターを指で弾いて遊んだり、空になったグラスの氷をガリガリと噛み砕いたりして明らかに暇そうにしていた。
「ねぇー、この話いつまで続くのぉー? そろそろ遊ぼうよぉ」
「遊びじゃないよ、来主」
「おれは遊びに来てるんだよぉ」
口答えされた甲洋が、無表情でイラッとしている。
操はケロリとした様子で、正面にいる総士の空のグラスに手を伸ばし、「これちょうだい」と言うと氷を口の中に全て流し込んだ。(自分の分は全て食べつくしたので)
ガーリガーリという氷を噛み砕く音に、知覚過敏にればいいのに、という甲洋の心の声が聞こえた気がした。
「ねぇねぇ! 暇だし、おままごとして遊ぼうよ!」
「お、おままごと……だと?」
なにを言いだすんだこいつは。そのあまりにも無邪気で唐突すぎる提案に、総士が顔を顰める。甲洋と一騎も困惑の表情を浮かべていた。
「こないだ美羽のところでやった遊び。楽しかったから、みんなでやりたい!」
操は先日、日野美羽のもとへ遊びに行った際に初めてのままごと体験をしたらしい。その場に居合わせた真矢と千鶴もそれに巻き込まれた。
美羽が母親役、真矢が父親役で、千鶴は子供役、そして操はペットのイグアナ役を演じたのだという。ペットの種類は好みの問題なのでなんとも言えないが、彼がいかにしてイグアナを演じたのかに関しては、極めて興味深いところである。というか、楽しいのかそれは……。
「おままごとか。子供の頃を思いだすな」
一騎が懐かしそうに目を細めながら言った。
男子的にはあまり気乗りしない遊びではあったが、女子の強い要望により何度か付き合わされたことがある。
幼い頃を思いだし、甲洋が死にかけの魚のような翳りを帯びた瞳で儚く笑った。
「母親が翔子、父親は一騎で、俺はその子供だったっけ……毎日おねしょをする設定で……」
「僕は嫁をイビリ倒すことだけが生き甲斐の意地悪な姑役だ……」
「いつも遠見が配役を決めてたんだよな」
朗らかに笑う一騎とは対照的に、総士と甲洋の面持ちは暗い。
少しでも拒む素振りを見せれば翔子が涙ぐみ、冷ややかな目をした真矢に謝罪を要求されるため、逆らえる男子はいなかった。
「へぇ、総士と甲洋って子供社会におけるヒエラルキーの最底辺だったんだ!」
イグアナは黙ってろ……。
「だけどな来主、俺たちはもう流石におままごとなんて年齢じゃないぞ」
困り顔の一騎が、微妙に凍りついていた空気を溶かしにかかる。
「えー! なんでぇ? おままごとは楽しいよ! 年齢なんか関係ないよ!」
「一騎の言う通りだ。僕も遠慮させてもらう」
「どうして!? おれと甲洋だけじゃ寂しいよ!」
「あ、俺には拒否権が与えられてないんだな……」
なぜか甲洋だけは強制参加になっている。
悪いが甲洋にはこのまま生贄になってもらうしかあるまい……などと考えていると、操はテーブルを両手でバンバンと叩いてダダをこねはじめた。
「やだやだ! みんなでやろうよおままごと! ねぇ一騎! 総士ぃー!」
「だから僕は嫌だと」
「しょうがないな……そんなに言うなら少しだけだぞ?」
「アッサリほだされるな一騎! 来主を甘やかすんじゃない!」
「やったー! 一騎は優しいから大好き!」
操の言葉に甲洋が無言でまたしてもイラッとしている。妬く暇があるならこのワガママ坊主を止めたらどうだ……と、総士は痛むこめかみを指先で強く押さえて溜息を漏らした。
*
というわけで、なんだかんだで操に甘い男たち(成人済み)が、ままごと遊びに巻き込まれることになった。
配役は話し合いの結果、
父親……総士
母親……一騎
長男……甲洋
末っ子……操
に決まった。
この歳になってまでおねしょ癖のある子供や、嫁いびりが趣味の姑を演じる羽目になっては敵わないと、操以外の三人で無難に決めた。
やるからにはとことんリアリティを追求すべく、店内のテーブルセットを隅にどかしてちゃぶ台と人数分の座布団を設置した。できれば籠に山盛りのミカンも置きたかったが、オレンジしかなかったのでそれで代用することにした。
これでそこはかとなく一般家庭のお茶の間らしくなったような気がする。
そしていよいよおままごとが始まった。
シーンは総士(父親)が仕事から帰宅するところから始めることになり、総士は律儀にいったん店の外に出た。
くだらないと思いつつ、やると決めたからには妥協はできない。総士は扉を前にふっと息をつき、役作りに集中する。
(5秒後に扉を開け、帰宅の挨拶をしながら店──家に入る。駆け寄ってくる末っ子を高い高いしてやりながら長男に今日の学校での様子を聞いた後、先に風呂にするか食事にするか、妻にするかという究極のルート分岐が──いや、子供たちに寝室を覗かせるのは極めて不健全だ。となると無難に食事からか……)
「総士ぃー! まだぁー?」
バカ正直に脳内シミュレーションという名の妄想をしていた総士だったが、扉の向こうから焦れた様子の操の声がして我に返る。ひとつ咳払いをしてから深呼吸をすると、カウントダウンを開始した。
5秒前、4,3,2,1──
「ただい──……」
小気味良いドアベルの音と共に扉を開けた総士は、目の前に広がる光景に我が目を疑った。
「!?」
「い、痛いぃー! やだやだー! 頭が割れちゃうー!!」
そこにはなぜか操(末っ子)の顔を片手で掴んで持ち上げ、アイアンクロー(別名:脳天締め)をかましている甲洋(長男)の姿があった……。
(な、なんだこれは……一体なにが起こっているというんだ!?)
思い描いていた家族の光景とはまるで違っていた。
この短い間になにが起こったのか。長男に顔面を掴まれている末っ子の爪先が、ちょっぴり地面から浮き上がっている。
仮にも掛け算をしている者同士が、なぜこのようなドメスティックでバイオレンスな状態になっているのだろうか。
長男は無表情だが、心なしか青筋が浮きまくっているような気がした。怒っている。なんだか分からないが、めちゃくちゃ怒っていらっしゃる。
「うわぁーん! やめてよぉ! 助けて総士ぃー!」
ジタバタしながら泣き叫ぶ末っ子にハッと我に返り、総士は一騎(妻)を見た。
妻はのほほんと笑いながら座布団の上に正座して、ナイフでオレンジの皮をリンゴを剥く要領でクルクルと剥いている。
「か、一騎! これはどういうことだ!?」
「はは。やっぱり男の子が二人だと大変だなぁ」
「和んでる場合か!? 一体いつの間におままごとがプロレスごっこになったんだ!?」
「ただの兄弟喧嘩だよ。甲洋、そろそろやめな。割と本気で来主の頭が割れるぞ」
「とめるなかず……母さん。いま出来の悪い弟を可愛がってるところだから」
「痛いよぉー! ギリギリされるのは嫌いだよー!!」
痛めつけているの間違いではないのか……。
「と、とりあえずその辺りにしておけ甲洋。というか、なにがなんだか分かるように説明してくれ……」
「あうぅ~」
長男が仕方なしに手を離すと、末っ子は情けない声をあげながら床にへにゃりと崩れ落ちた。その顔には思いっきり赤い手形が残っている。
ドンとあぐらをかいて顔を背けてしまった長男の代わりに、妻が状況を説明しはじめた。
「来主がイタズラしたんだ。ほら、これを見てみろよ総士」
一騎の隣に腰を下ろした総士の前に、古びた紙が広げられた。
「これは……」
「通信簿だよ、甲洋の」
確かにそれは中学時代の甲洋の通信簿だった。
各教科ごとに五段階で評価されており、そのほとんどが『5』とされている、はずなのだが──。
「オール0になっている……?」
評価すべてに横棒が引かれ、雑な字で『0』と書き直されている。しかも赤いマジックで。
さらにコメント欄には、元々ある担任からのコメント(基本的に褒め言葉ばかり)の上から
『むすこさんは むっつりスケベ です♥』
と、拙い字でデカデカと上書きされていた。
どうすればこんなアホなイタズラが思いつくのだろう。どこから引っ張り出してきたのか知らないが、流石の長男も怒って当然である。
「これは……来主が悪いな……」
「なんでぇ? だってホントのことだよ! 甲洋はむっつりスケベなんだから!」
「どこで覚えてくるんだそんな言葉……僕か? 僕なのか?」
「男は所詮スケベな生き物なんだぞ来主。父さんと母さんだってそうだ。な? あなた」
同意を求められても困るし、妻の口からそんなこと聞きたくない……と、幻想の殻に閉じこもりかけている総士を他所に、妻が母親らしく末っ子を窘めている。
「ほら、ちゃんとお兄ちゃんにごめんなさいしな」
「わかったよぅ……」
渋々といった様子で末っ子が長男にペコリと頭を下げた。
「ごめんね甲洋。次からはオール100にするから許して」
両手をモジモジとさせながら上目遣いで謝罪した末っ子に、いやそういう問題じゃないだろう……と思いながら長男に視線を走らせると、彼はなぜか胸をキュンとさせていた。
「……しょうがないな、俺の弟は」
「ふぁっ、や、ほっぺたふにふにしないでよぅ~。甲洋のバカぁ」
「呼び捨てはダメだよ」
「んぅー、甲洋お兄ちゃんやめてぇ」
「…………いい」(ガッツポーズ)
「何を見せられているんだ僕らは……」
夫婦役の自分たちを差し置いてイチャコラしている兄弟に、今度は総士がイラッとする番だった。父さんはそんな爛れた兄弟愛は認めんぞ……。
*
というわけで、長男が静かに(?)ブチ切れたことで台無しになってしまったおままごとだが、シーンを変えてテイク2することになった。
設定的には先程とたいして変わらない。場面は父親が風呂から上がってきたところから始まることになったため、総士は律儀に脱衣所に待機した。
(一般的に男性の入浴時間は20分以上、30分未満。間をとって、25分か)
ここでも一切妥協する気がない総士は、腕時計を確認しながら再び役作りに専念し、やがてきっちり25分後に脱衣所を出た。
するとその瞬間、バギィッという凄まじい音がした。
「な、なんだ?」
「ウワァァァン!!」
「ッ!? この悲鳴は……来主か!?」
ただ事ではない様子に血相を変えながら茶の間(仮)へ向かうと、そこには修羅場と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
「ギブギブギブー! 折れる! 背骨が折れるよぉー!!」
そこには仰向けにした末っ子の身体を、肩の上に担ぎ上げた豪快すぎる長男の姿があった。
自身の後ろ首を支柱としながら末っ子の顎と脛を掴み、背骨をメリメリと不吉な音がするほど弓なりに反らしている。
「あ、アルゼンチンバックブリーカー(別名:アルゼンチン式背骨折り)だと!? だからどうしておままごとがプロレスごっこになるんだ!?」
最早ごっこ遊びを超越している気がするが、総士が慌てて妻に目を走らせると、彼は笑顔を浮かべながら素手でオレンジを握りつぶし、果汁100%ジュースを作りだしていた。
長男が再びブチ切れ金剛化しているのは見ての通りだが、行き過ぎた兄弟喧嘩に穏やかな妻までもがいよいよキレている。
しかもなぜかちゃぶ台が真っ二つに割れて、Vの字のようになっていた。さっきのバギィはこれか……。
「や、やめろ二人とも! 見ろ! 分かりにくいが、母さん結構な勢いでキレてるぞ!! 甲洋! 何があったか知らないが、ショコラがいないからって自ら手を下すのはやめろ!!」
どうせまた末っ子がなにかやらかしたのは明白だが、ショコラ警察が出動不可能だから(羽佐間さんちに遊びに行ってる)といって、あの優しい長男に高難易度のプロレス技をかけさせるとは。
長男は堪忍袋と言う名の宝石箱が、怒りのジュエルではち切れた状態になっている。これではもう蟲笛もきかない……。
「うえぇ、いだいよぉぉだずげでぇ~~~ぞぉじ~~~!」
「やめろと言っている!!」
総士が捨て身で飛びかかり、ギリギリのところで技を解除させることに成功した。
ズシャア! という効果音と共に床に車田落ちする末っ子。普段は涼しい顔の長男も、うっすらと汗をかきながら肩で息をしている。というか、だいぶ顔色が悪い。
「全く一体なにがあっ……ん? このノートはなんだ?」
ひとまず末っ子の背骨が折れずに済んだことに安堵の息を漏らした総士は、足元に色褪せた青いノートが落ちていることに気がついた。
「ッ!」
咄嗟に拾い上げると、息を呑んだ長男に素早くノートを奪われてしまう。
「甲洋、それは?」
「…………」
「日記だよ」
総士の問いに答えたのは妻だった。
「日記? 甲洋のか? なぜそんなものがここに」
首を傾げる総士に、妻はほとほと困り果てた様子で力なく笑う。その視線は床で伸びている末っ子に向けられていた。
一体なにがあったのか、未だに状況を理解できないでいる総士に、妻がこの25分の間に起こった出来事の全てを語りだした──。
~以下、回想シーン~
几帳面すぎる総士が、おそらくきっちり入浴時間を守って出てくるだろうと踏んだ一騎は、ひたすらオレンジの皮を剥きつつ操のお喋りに付き合っていた。
「ねぇ一騎、おままごとって楽しいね」
「そうだな。まだおままごとらしいことは何もできてないけど」
「これが終わったら、今度はおれが一騎のお母さんになるね」
「俺がお前の子供になるか? 別にいいけど、じゃあ総士と甲洋は?」
「えーっとね」
迷っている操の横で、なぜか甲洋がソワソワしている。その様子はさながらバレンタインデーに「べ、別にチョコなんかいらねーし!」と強がりながらも、一日中ふわふわしている男子中学生を彷彿とさせるものだった。
「よし決めた! 甲洋は赤ちゃんの役!」
「!?」
甲洋が絶句した。その眉間にはみるみるうちに不機嫌そうなシワが寄せられていく。
「なんで俺が赤ちゃん? そこはお前……そこは……違うだろ……」
甲洋はどこか煮え切らない物言いをしながら、なにかを訴えかけるような目をしている。
流石に赤ちゃん役は嫌だよなと気の毒に思った一騎は、助け舟を出すことにした。
「そうすると、今度もまた総士が父親役になっちゃうだろ? なるべくカブらない方がいいんじゃないか? なぁ甲洋」
「うん」
甲洋が大きく頷きながら、無表情で一騎に『GJ』と親指を立ててきた。
操は素直に「あ、そっか」と納得の声をあげる。
「じゃあ総士が赤ちゃん役だね。えへへ、おれ一度でいいから赤ちゃんにおっぱいあげてみたかったんだ!」
「「……え?」」
一騎と甲洋が揃って声をあげる。一瞬で変な空気になってしまったことにも気づかず、操はワクワクした様子で浮かれていた。
「楽しみだな。総士、おれのおっぱいちゃんと吸ってくれるかな?」
「そ、総士に吸わせるのか!? お前のおっぱいを!?」
総士が他人のおっぱいを吸う姿なんて想像したくないし、吸われている姿も当然見たくない。というか、吸うのも吸わせるのも母さん絶対に許さないからな! と焦りながら、一騎は甲洋に縋るような目を向けた。
「甲洋、なんとか言ってくれ! このままじゃ総士が! 総士が!!」
「俺がやる」
「えっ」
「俺がやる」
甲洋の目つきが変わっていた。
「吸うよ……来主のおっぱい」
そこには赤子役への並々ならぬ執着と熱意が垣間見える。それにしても今のトーン……名言を汚されたような気持ちになるからやめてほしい。
「えー、でもそれじゃ総士が」
「俺が父親と赤ちゃんの二役をやる。そうすれば誰も傷つかない」
「二役……? それってありなのか……?」
「俺が母なる来主から生まれて、母なる来主と結ばれる。そういうシナリオで行こう」
「なんか気持ち悪いぞお前……」
とりあえず親友の性癖が歪んでいることだけはよく分かった……。
その後、三人は話し合って総士の役をペットのカブトムシに決めた。
ゼリーを用意しないとなと考えていると、テーブルに頬杖をついた操が「総士まだかなぁ」とぼやきはじめる。
「そろそろだと思うけど」
一騎がオレンジの皮を剥きながら(あとでタルトを作る予定)言うと、暇を持て余した操は「あ、そうだ!」と掌に拳をぽんと叩きつけた。
「暇つぶしにちょうどいいものがあるよ!」
そう言うと、操は制服のジャケットの内側をなにやらゴソゴソと探りはじめる。さっきもこの調子で通信簿を取りだしたっけなぁと思いつつ見守っていると、そこから古びたノートが姿を現した。
一体なにが始まるのだろうかと戸惑いながら甲洋に目配せすると、彼は腕を組んで俯きながら目を閉じて瞑想していた。いや、妄想だろうか。おそらく例のシナリオを脳内でシミュレートしているに違いない。今はそっとしておこう……。
操は卓袱台の上にノートを広げる。そしてすぅっと息を吸い込み、朗読しはじめた。
「血に濡れたペルソナ(仮面)を纏いし殺人鬼が徘徊する夜……。
こんな日は、冥界の番犬ケルベロスを従えて挑んだジハード(聖戦)で負った古傷が、疼いてしかたない。
しかし俺はそのペイン(痛み)に耐えながらも、人の汚れし業(カルマ)を浄化する白き聖杯に光を取り戻すまで、眠りにつくことは許されない。
それがセラフィム(熾天使)である俺に課せられし、抗えぬレゾンデートル(存在理由)。
早くしなければ。ジャッジメント(審判)の日は近い。ガイア(地上)が俺に囁いている。」
「ブフォォッ」
瞑想にふけっていた甲洋が突如として吹き出した。
「なんなんだ? ジハードとかカルマとかガイアとか……SF小説かなにかか?」
一騎が文面の意味を理解できずに首を傾げていると、甲洋が赤くなったり青くなったりしながら操が手にしているノートを指差す。
「くる、く、来主……今のは……そそ、そのノートは、一体どこから……!?」
「これ? 甲洋の部屋の押入れを漁ってたら出てきた本だよ」
ケロッと言い放った操から、甲洋がこの世の終わりを見たような表情でノートを奪おうとした。が、彼はシュンッとワープして一騎の背に隠れる。
「さっきのは甲洋が書いたものなのか」
「来主! それは禁書だ! お前が触れていいものじゃない!」
「なんでぇ? これ読んでるとすごく面白いよ! よくわかんないけど背中がゾワゾワしてきて、その感じが癖になるっていうか──えっとね、まだまだいっぱい続きがあるから、読んであげるね!」
「やめ、やめて!!」
甲洋が帰還後の彼からは想像もつかないほど激しく取り乱している。
銃口を突きつけられてもケロリとしていた彼をここまで追い詰めるなんて、その禁書とやらはそれほどまでに禍々しい書物なのか。
しかし甲洋がいよいよキャラを保っていられなくなる前にと、一騎はうまく話を逸らすことにした。
「甲洋、このノートはなんなんだ? お前って作家志望だったっけ? なんだか分からないけど、凄い内容だな。ちっとも意味は分からないけど」
「~~~ッ!!」
褒めたつもりなのだが、甲洋は卓袱台に突っ伏して小刻みに震えている。そして耳まで赤くしながら蚊の鳴くような声で「……中学時代の……日記だ」と言った。
「これ日記なのか? てっきり小説でも書いてたのかとばかり……」
ちなみにあの文章をシンプルに訳すと
『今日は13日の金曜日。
夕まずめを狙って、学校が終わってからショコラと一緒に釣りに出かけた。
そうしたらうっかり釣り針に指を引っ掛けてしまい、かなり血が出た。結構痛い。
でもトイレ掃除をするように母さんに言われたので、寝る前にちゃんと終わらせよう。
明日は大事なテストの日だから、遅刻しないように早く寝なくちゃ。』
になるらしい。全くもって意味が分からない。なぜそのまま素直に書かなかったのか。
まさか『汚れし業(カルマ)を浄化する白き聖杯』が、『便器』のことだなんて思いもしなかった……。
「ち、違う、それは夜の妖精さん的なアレがイタズラをしたというか、若気の至りというか……とにかく、それを書いていたのは俺であって俺じゃなくて、俺の中のもう一人の俺が」
「言えば言うほど墓穴を掘ってる気がするな……」
そうこうしているうちに、一騎の背中にくっついたままの操が再び日記を音読しはじめる。
「ちょ、ちょっと! 本気でやめッ……!」
「彼女はこの傷つき疲れ果てた心の暗闇を照らし出す、瓦礫のルイン(廃墟)に咲いた花……そう、永遠(とこしえ)に咲き乱れるステラ(星)のスノーフレーク。俺の聖なる救世主(メシア)、清廉なる湖の乙女。ファルシのルシがコクーンでパージ……」
「ああぁ~~~!!」
頭を抱えて悶絶する甲洋。そのキャラが完全に崩壊している様子があまりにも憐れで、一騎は操からノートを取り上げようとした。が、その前に操はノートをパタリと閉じてしまう。
「なにこれ……? なんか、ぜんぜん意味わかんないのにここがチクチクして、モヤモヤして……やな感じがする」
操が顔を顰めて胸に手をやり、むっと口をへの字に曲げる。おそらく誰かへの熱い想いを綴った内容と思しき文章に、彼がジェラシーを理解しかけた瞬間であった。
「なんかもう飽きちゃった! おれ総士を呼んでく──」
操がノートをポイッと放り出した瞬間
バギィッ
という音がした。ぎょっとした一騎と操の眼の前には、手刀で卓袱台を割った甲洋が、真っ赤な顔をしながら涙目でプルプルしていた……。
~回想シーンここまで~
「で、あの背骨折りか……」
あのノートは、多感な年頃によくある(?)†黒歴史ノート†だったのだ。
回想中、いよいよ耐えきれなくなった甲洋が総士の足元に蹲って身を震わせていた。おそらくしばらくは立ち直れまい。メンタルリセット不可能な状態である。
総士は膝をつき、痛々しく震える肩にそっと手を添えた。
「しっかりしろ甲洋。誰にだってこういう時期はある……」
「そうだぞ甲洋。父さんなんか現役のデスポエマーなんだから。な? あなた」
「……」
妻が天然でディスってくる。総士もまた心に深い傷を負ってしまった……。
ところで厨ニノートのインパクトのせいで薄れかけていたが、前半部分の回想は必要だったのだろうか。
まさか脱衣所に待機している間、危うく操の乳を吸うフラグが立ちかけたり、受けた覚えのないカブトムシオーディションに合格していたとは。一体なにを基準に決めたのか、三人を正座させて小一時間ほど問い詰めたい気持ちになる総士だった。
*
結局まともにままごと遊びができないまま、日が暮れようとしていた。
卓袱台と座布団を片付け、四人は元通りになった店内でひとつのテーブルを囲んでいる。
「疲れたな……」
総士がげっそりしながら言うと、甲洋が「俺も」と同意する。
一騎は小さく笑うだけだったが、流石にその笑顔にも疲労が滲んでいるようだった。
あのあと目を覚ました操の頭部を掴み、床にめり込むほどの土下座をさせたことで甲洋のメンタルはリセットされ、崩壊していたキャラもどうにか無事に修復された。
額に大きな痣を作った操はわんわん泣いたが、一騎が素手で絞った果汁100%ジュースを飲ませると笑顔になった。
「楽しかったね! また今度みんなでやろう!」
あれだけ痛い目にあっておいて何が楽しかったのか、操は一騎が作ったオレンジタルトを頬張りながら言った。
「僕はもう嫌だ。カブトムシを演じるつもりもない」
「えぇー!? なんで!? 総士は楽しくなかったの!?」
「逆にあれのどこが楽しかったのか、理解不能だ」
唯一の救いは一騎と夫婦設定という一点のみだったというのに、それが全く生かされることなくただ疲労困憊しただけだった。
ピシャリと言い捨てると、操は「ちぇー」と唇を尖らせながらフォークでタルトをツンツンとつつく。
「赤ちゃんにおっぱいあげたかったのに……」
操が残念そうに漏らすと、疲れ切って項垂れていたはずの甲洋が急にしゃっきりと背筋を伸ばした。
「それは別にこのあとすぐにでもできる」
「えぇー? でも総士はもうやらないって言ってるよ」
「来主、その遊びは二人だけでした方が絶対に楽しい」
「ほんと? うーん……わかった! じゃあおれと甲洋だけでいいよ!」
もう少し渋るかと思いきや、操はコロッと了承してしまう。彼は一体どこまで理解しているのだろうか。いや、この様子ではおそらく何も分かっていないだろう。が、よくよく考えれば真っ先に甲洋を赤ん坊役に指名したあたり、操の中にもまた特殊な性癖が眠っているのかもしれない。(自覚していないだけで)
その間、甲洋はテーブルの下で密かにガッツポーズをしていた。どこに出しても恥ずかしいむっつりスケベである。
「では、僕らはそろそろ退散しよう」
総士が溜息を漏らしながら席を立つ。遠回しと見せかけて、こうも堂々と「このあとヤりまくります★」と宣言されては、居心地が悪いったらありゃしない。
生むなり吸うなり好きにしろという思いで、総士は一騎と共に楽園を後にしたのだった。
その後、甲洋は操と欲望のままにプレイを堪能し、なんやかんやで触発されてしまった英雄二人も、ノリノリで夜の夫婦ごっこに励んだのだが、それはまた別のお話……。
←戻る ・ Wavebox👏
「これが去年も出した夏野菜の冷製パスタ、こっちは冷しゃぶサラダうどん」
「この素麺のつゆは?」
「トマトのだしつゆと、鶏だしつゆだよ。お客さんには注文のとき、好きな方を選んでもらう形がいいかと思うんだけど」
「なるほど。いいんじゃないかな」
四人が囲むひとつのテーブルには、夏に向けたメニューがズラリと並んでいた。
作った本人である一騎がひとつひとつ説明し、店のオーナーである甲洋とあれこれ話をしている。
直接この店に関わっているわけではない総士と操は、黙って二人の会話に耳を傾けながら試食にあやかっていた。
総士は昼食をと思って足を運んだのだが、残念なことに今日が定休日であることを失念していた。しかしちょうどいいから食べてってくれという一騎の申し出に甘えて、ここにいる。
操は総士が来たときにはすでにここにいた。基本的にいつも暇をもてあましている彼は、なんやかんやで常に楽園に入り浸っているのだ。
新メニューはどれも言うまでもなく絶品だった。そもそも一騎が作る料理に間違いはない。
どれも夏向けというだけあってさっぱりしていて、食欲がなくてもツルツルといけそうなものばかりだ。
しかし操は腹が満ちると飽きてきたのか、コースターを指で弾いて遊んだり、空になったグラスの氷をガリガリと噛み砕いたりして明らかに暇そうにしていた。
「ねぇー、この話いつまで続くのぉー? そろそろ遊ぼうよぉ」
「遊びじゃないよ、来主」
「おれは遊びに来てるんだよぉ」
口答えされた甲洋が、無表情でイラッとしている。
操はケロリとした様子で、正面にいる総士の空のグラスに手を伸ばし、「これちょうだい」と言うと氷を口の中に全て流し込んだ。(自分の分は全て食べつくしたので)
ガーリガーリという氷を噛み砕く音に、知覚過敏にればいいのに、という甲洋の心の声が聞こえた気がした。
「ねぇねぇ! 暇だし、おままごとして遊ぼうよ!」
「お、おままごと……だと?」
なにを言いだすんだこいつは。そのあまりにも無邪気で唐突すぎる提案に、総士が顔を顰める。甲洋と一騎も困惑の表情を浮かべていた。
「こないだ美羽のところでやった遊び。楽しかったから、みんなでやりたい!」
操は先日、日野美羽のもとへ遊びに行った際に初めてのままごと体験をしたらしい。その場に居合わせた真矢と千鶴もそれに巻き込まれた。
美羽が母親役、真矢が父親役で、千鶴は子供役、そして操はペットのイグアナ役を演じたのだという。ペットの種類は好みの問題なのでなんとも言えないが、彼がいかにしてイグアナを演じたのかに関しては、極めて興味深いところである。というか、楽しいのかそれは……。
「おままごとか。子供の頃を思いだすな」
一騎が懐かしそうに目を細めながら言った。
男子的にはあまり気乗りしない遊びではあったが、女子の強い要望により何度か付き合わされたことがある。
幼い頃を思いだし、甲洋が死にかけの魚のような翳りを帯びた瞳で儚く笑った。
「母親が翔子、父親は一騎で、俺はその子供だったっけ……毎日おねしょをする設定で……」
「僕は嫁をイビリ倒すことだけが生き甲斐の意地悪な姑役だ……」
「いつも遠見が配役を決めてたんだよな」
朗らかに笑う一騎とは対照的に、総士と甲洋の面持ちは暗い。
少しでも拒む素振りを見せれば翔子が涙ぐみ、冷ややかな目をした真矢に謝罪を要求されるため、逆らえる男子はいなかった。
「へぇ、総士と甲洋って子供社会におけるヒエラルキーの最底辺だったんだ!」
イグアナは黙ってろ……。
「だけどな来主、俺たちはもう流石におままごとなんて年齢じゃないぞ」
困り顔の一騎が、微妙に凍りついていた空気を溶かしにかかる。
「えー! なんでぇ? おままごとは楽しいよ! 年齢なんか関係ないよ!」
「一騎の言う通りだ。僕も遠慮させてもらう」
「どうして!? おれと甲洋だけじゃ寂しいよ!」
「あ、俺には拒否権が与えられてないんだな……」
なぜか甲洋だけは強制参加になっている。
悪いが甲洋にはこのまま生贄になってもらうしかあるまい……などと考えていると、操はテーブルを両手でバンバンと叩いてダダをこねはじめた。
「やだやだ! みんなでやろうよおままごと! ねぇ一騎! 総士ぃー!」
「だから僕は嫌だと」
「しょうがないな……そんなに言うなら少しだけだぞ?」
「アッサリほだされるな一騎! 来主を甘やかすんじゃない!」
「やったー! 一騎は優しいから大好き!」
操の言葉に甲洋が無言でまたしてもイラッとしている。妬く暇があるならこのワガママ坊主を止めたらどうだ……と、総士は痛むこめかみを指先で強く押さえて溜息を漏らした。
*
というわけで、なんだかんだで操に甘い男たち(成人済み)が、ままごと遊びに巻き込まれることになった。
配役は話し合いの結果、
父親……総士
母親……一騎
長男……甲洋
末っ子……操
に決まった。
この歳になってまでおねしょ癖のある子供や、嫁いびりが趣味の姑を演じる羽目になっては敵わないと、操以外の三人で無難に決めた。
やるからにはとことんリアリティを追求すべく、店内のテーブルセットを隅にどかしてちゃぶ台と人数分の座布団を設置した。できれば籠に山盛りのミカンも置きたかったが、オレンジしかなかったのでそれで代用することにした。
これでそこはかとなく一般家庭のお茶の間らしくなったような気がする。
そしていよいよおままごとが始まった。
シーンは総士(父親)が仕事から帰宅するところから始めることになり、総士は律儀にいったん店の外に出た。
くだらないと思いつつ、やると決めたからには妥協はできない。総士は扉を前にふっと息をつき、役作りに集中する。
(5秒後に扉を開け、帰宅の挨拶をしながら店──家に入る。駆け寄ってくる末っ子を高い高いしてやりながら長男に今日の学校での様子を聞いた後、先に風呂にするか食事にするか、妻にするかという究極のルート分岐が──いや、子供たちに寝室を覗かせるのは極めて不健全だ。となると無難に食事からか……)
「総士ぃー! まだぁー?」
バカ正直に脳内シミュレーションという名の妄想をしていた総士だったが、扉の向こうから焦れた様子の操の声がして我に返る。ひとつ咳払いをしてから深呼吸をすると、カウントダウンを開始した。
5秒前、4,3,2,1──
「ただい──……」
小気味良いドアベルの音と共に扉を開けた総士は、目の前に広がる光景に我が目を疑った。
「!?」
「い、痛いぃー! やだやだー! 頭が割れちゃうー!!」
そこにはなぜか操(末っ子)の顔を片手で掴んで持ち上げ、アイアンクロー(別名:脳天締め)をかましている甲洋(長男)の姿があった……。
(な、なんだこれは……一体なにが起こっているというんだ!?)
思い描いていた家族の光景とはまるで違っていた。
この短い間になにが起こったのか。長男に顔面を掴まれている末っ子の爪先が、ちょっぴり地面から浮き上がっている。
仮にも掛け算をしている者同士が、なぜこのようなドメスティックでバイオレンスな状態になっているのだろうか。
長男は無表情だが、心なしか青筋が浮きまくっているような気がした。怒っている。なんだか分からないが、めちゃくちゃ怒っていらっしゃる。
「うわぁーん! やめてよぉ! 助けて総士ぃー!」
ジタバタしながら泣き叫ぶ末っ子にハッと我に返り、総士は一騎(妻)を見た。
妻はのほほんと笑いながら座布団の上に正座して、ナイフでオレンジの皮をリンゴを剥く要領でクルクルと剥いている。
「か、一騎! これはどういうことだ!?」
「はは。やっぱり男の子が二人だと大変だなぁ」
「和んでる場合か!? 一体いつの間におままごとがプロレスごっこになったんだ!?」
「ただの兄弟喧嘩だよ。甲洋、そろそろやめな。割と本気で来主の頭が割れるぞ」
「とめるなかず……母さん。いま出来の悪い弟を可愛がってるところだから」
「痛いよぉー! ギリギリされるのは嫌いだよー!!」
痛めつけているの間違いではないのか……。
「と、とりあえずその辺りにしておけ甲洋。というか、なにがなんだか分かるように説明してくれ……」
「あうぅ~」
長男が仕方なしに手を離すと、末っ子は情けない声をあげながら床にへにゃりと崩れ落ちた。その顔には思いっきり赤い手形が残っている。
ドンとあぐらをかいて顔を背けてしまった長男の代わりに、妻が状況を説明しはじめた。
「来主がイタズラしたんだ。ほら、これを見てみろよ総士」
一騎の隣に腰を下ろした総士の前に、古びた紙が広げられた。
「これは……」
「通信簿だよ、甲洋の」
確かにそれは中学時代の甲洋の通信簿だった。
各教科ごとに五段階で評価されており、そのほとんどが『5』とされている、はずなのだが──。
「オール0になっている……?」
評価すべてに横棒が引かれ、雑な字で『0』と書き直されている。しかも赤いマジックで。
さらにコメント欄には、元々ある担任からのコメント(基本的に褒め言葉ばかり)の上から
『むすこさんは むっつりスケベ です♥』
と、拙い字でデカデカと上書きされていた。
どうすればこんなアホなイタズラが思いつくのだろう。どこから引っ張り出してきたのか知らないが、流石の長男も怒って当然である。
「これは……来主が悪いな……」
「なんでぇ? だってホントのことだよ! 甲洋はむっつりスケベなんだから!」
「どこで覚えてくるんだそんな言葉……僕か? 僕なのか?」
「男は所詮スケベな生き物なんだぞ来主。父さんと母さんだってそうだ。な? あなた」
同意を求められても困るし、妻の口からそんなこと聞きたくない……と、幻想の殻に閉じこもりかけている総士を他所に、妻が母親らしく末っ子を窘めている。
「ほら、ちゃんとお兄ちゃんにごめんなさいしな」
「わかったよぅ……」
渋々といった様子で末っ子が長男にペコリと頭を下げた。
「ごめんね甲洋。次からはオール100にするから許して」
両手をモジモジとさせながら上目遣いで謝罪した末っ子に、いやそういう問題じゃないだろう……と思いながら長男に視線を走らせると、彼はなぜか胸をキュンとさせていた。
「……しょうがないな、俺の弟は」
「ふぁっ、や、ほっぺたふにふにしないでよぅ~。甲洋のバカぁ」
「呼び捨てはダメだよ」
「んぅー、甲洋お兄ちゃんやめてぇ」
「…………いい」(ガッツポーズ)
「何を見せられているんだ僕らは……」
夫婦役の自分たちを差し置いてイチャコラしている兄弟に、今度は総士がイラッとする番だった。父さんはそんな爛れた兄弟愛は認めんぞ……。
*
というわけで、長男が静かに(?)ブチ切れたことで台無しになってしまったおままごとだが、シーンを変えてテイク2することになった。
設定的には先程とたいして変わらない。場面は父親が風呂から上がってきたところから始まることになったため、総士は律儀に脱衣所に待機した。
(一般的に男性の入浴時間は20分以上、30分未満。間をとって、25分か)
ここでも一切妥協する気がない総士は、腕時計を確認しながら再び役作りに専念し、やがてきっちり25分後に脱衣所を出た。
するとその瞬間、バギィッという凄まじい音がした。
「な、なんだ?」
「ウワァァァン!!」
「ッ!? この悲鳴は……来主か!?」
ただ事ではない様子に血相を変えながら茶の間(仮)へ向かうと、そこには修羅場と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
「ギブギブギブー! 折れる! 背骨が折れるよぉー!!」
そこには仰向けにした末っ子の身体を、肩の上に担ぎ上げた豪快すぎる長男の姿があった。
自身の後ろ首を支柱としながら末っ子の顎と脛を掴み、背骨をメリメリと不吉な音がするほど弓なりに反らしている。
「あ、アルゼンチンバックブリーカー(別名:アルゼンチン式背骨折り)だと!? だからどうしておままごとがプロレスごっこになるんだ!?」
最早ごっこ遊びを超越している気がするが、総士が慌てて妻に目を走らせると、彼は笑顔を浮かべながら素手でオレンジを握りつぶし、果汁100%ジュースを作りだしていた。
長男が再びブチ切れ金剛化しているのは見ての通りだが、行き過ぎた兄弟喧嘩に穏やかな妻までもがいよいよキレている。
しかもなぜかちゃぶ台が真っ二つに割れて、Vの字のようになっていた。さっきのバギィはこれか……。
「や、やめろ二人とも! 見ろ! 分かりにくいが、母さん結構な勢いでキレてるぞ!! 甲洋! 何があったか知らないが、ショコラがいないからって自ら手を下すのはやめろ!!」
どうせまた末っ子がなにかやらかしたのは明白だが、ショコラ警察が出動不可能だから(羽佐間さんちに遊びに行ってる)といって、あの優しい長男に高難易度のプロレス技をかけさせるとは。
長男は堪忍袋と言う名の宝石箱が、怒りのジュエルではち切れた状態になっている。これではもう蟲笛もきかない……。
「うえぇ、いだいよぉぉだずげでぇ~~~ぞぉじ~~~!」
「やめろと言っている!!」
総士が捨て身で飛びかかり、ギリギリのところで技を解除させることに成功した。
ズシャア! という効果音と共に床に車田落ちする末っ子。普段は涼しい顔の長男も、うっすらと汗をかきながら肩で息をしている。というか、だいぶ顔色が悪い。
「全く一体なにがあっ……ん? このノートはなんだ?」
ひとまず末っ子の背骨が折れずに済んだことに安堵の息を漏らした総士は、足元に色褪せた青いノートが落ちていることに気がついた。
「ッ!」
咄嗟に拾い上げると、息を呑んだ長男に素早くノートを奪われてしまう。
「甲洋、それは?」
「…………」
「日記だよ」
総士の問いに答えたのは妻だった。
「日記? 甲洋のか? なぜそんなものがここに」
首を傾げる総士に、妻はほとほと困り果てた様子で力なく笑う。その視線は床で伸びている末っ子に向けられていた。
一体なにがあったのか、未だに状況を理解できないでいる総士に、妻がこの25分の間に起こった出来事の全てを語りだした──。
~以下、回想シーン~
几帳面すぎる総士が、おそらくきっちり入浴時間を守って出てくるだろうと踏んだ一騎は、ひたすらオレンジの皮を剥きつつ操のお喋りに付き合っていた。
「ねぇ一騎、おままごとって楽しいね」
「そうだな。まだおままごとらしいことは何もできてないけど」
「これが終わったら、今度はおれが一騎のお母さんになるね」
「俺がお前の子供になるか? 別にいいけど、じゃあ総士と甲洋は?」
「えーっとね」
迷っている操の横で、なぜか甲洋がソワソワしている。その様子はさながらバレンタインデーに「べ、別にチョコなんかいらねーし!」と強がりながらも、一日中ふわふわしている男子中学生を彷彿とさせるものだった。
「よし決めた! 甲洋は赤ちゃんの役!」
「!?」
甲洋が絶句した。その眉間にはみるみるうちに不機嫌そうなシワが寄せられていく。
「なんで俺が赤ちゃん? そこはお前……そこは……違うだろ……」
甲洋はどこか煮え切らない物言いをしながら、なにかを訴えかけるような目をしている。
流石に赤ちゃん役は嫌だよなと気の毒に思った一騎は、助け舟を出すことにした。
「そうすると、今度もまた総士が父親役になっちゃうだろ? なるべくカブらない方がいいんじゃないか? なぁ甲洋」
「うん」
甲洋が大きく頷きながら、無表情で一騎に『GJ』と親指を立ててきた。
操は素直に「あ、そっか」と納得の声をあげる。
「じゃあ総士が赤ちゃん役だね。えへへ、おれ一度でいいから赤ちゃんにおっぱいあげてみたかったんだ!」
「「……え?」」
一騎と甲洋が揃って声をあげる。一瞬で変な空気になってしまったことにも気づかず、操はワクワクした様子で浮かれていた。
「楽しみだな。総士、おれのおっぱいちゃんと吸ってくれるかな?」
「そ、総士に吸わせるのか!? お前のおっぱいを!?」
総士が他人のおっぱいを吸う姿なんて想像したくないし、吸われている姿も当然見たくない。というか、吸うのも吸わせるのも母さん絶対に許さないからな! と焦りながら、一騎は甲洋に縋るような目を向けた。
「甲洋、なんとか言ってくれ! このままじゃ総士が! 総士が!!」
「俺がやる」
「えっ」
「俺がやる」
甲洋の目つきが変わっていた。
「吸うよ……来主のおっぱい」
そこには赤子役への並々ならぬ執着と熱意が垣間見える。それにしても今のトーン……名言を汚されたような気持ちになるからやめてほしい。
「えー、でもそれじゃ総士が」
「俺が父親と赤ちゃんの二役をやる。そうすれば誰も傷つかない」
「二役……? それってありなのか……?」
「俺が母なる来主から生まれて、母なる来主と結ばれる。そういうシナリオで行こう」
「なんか気持ち悪いぞお前……」
とりあえず親友の性癖が歪んでいることだけはよく分かった……。
その後、三人は話し合って総士の役をペットのカブトムシに決めた。
ゼリーを用意しないとなと考えていると、テーブルに頬杖をついた操が「総士まだかなぁ」とぼやきはじめる。
「そろそろだと思うけど」
一騎がオレンジの皮を剥きながら(あとでタルトを作る予定)言うと、暇を持て余した操は「あ、そうだ!」と掌に拳をぽんと叩きつけた。
「暇つぶしにちょうどいいものがあるよ!」
そう言うと、操は制服のジャケットの内側をなにやらゴソゴソと探りはじめる。さっきもこの調子で通信簿を取りだしたっけなぁと思いつつ見守っていると、そこから古びたノートが姿を現した。
一体なにが始まるのだろうかと戸惑いながら甲洋に目配せすると、彼は腕を組んで俯きながら目を閉じて瞑想していた。いや、妄想だろうか。おそらく例のシナリオを脳内でシミュレートしているに違いない。今はそっとしておこう……。
操は卓袱台の上にノートを広げる。そしてすぅっと息を吸い込み、朗読しはじめた。
「血に濡れたペルソナ(仮面)を纏いし殺人鬼が徘徊する夜……。
こんな日は、冥界の番犬ケルベロスを従えて挑んだジハード(聖戦)で負った古傷が、疼いてしかたない。
しかし俺はそのペイン(痛み)に耐えながらも、人の汚れし業(カルマ)を浄化する白き聖杯に光を取り戻すまで、眠りにつくことは許されない。
それがセラフィム(熾天使)である俺に課せられし、抗えぬレゾンデートル(存在理由)。
早くしなければ。ジャッジメント(審判)の日は近い。ガイア(地上)が俺に囁いている。」
「ブフォォッ」
瞑想にふけっていた甲洋が突如として吹き出した。
「なんなんだ? ジハードとかカルマとかガイアとか……SF小説かなにかか?」
一騎が文面の意味を理解できずに首を傾げていると、甲洋が赤くなったり青くなったりしながら操が手にしているノートを指差す。
「くる、く、来主……今のは……そそ、そのノートは、一体どこから……!?」
「これ? 甲洋の部屋の押入れを漁ってたら出てきた本だよ」
ケロッと言い放った操から、甲洋がこの世の終わりを見たような表情でノートを奪おうとした。が、彼はシュンッとワープして一騎の背に隠れる。
「さっきのは甲洋が書いたものなのか」
「来主! それは禁書だ! お前が触れていいものじゃない!」
「なんでぇ? これ読んでるとすごく面白いよ! よくわかんないけど背中がゾワゾワしてきて、その感じが癖になるっていうか──えっとね、まだまだいっぱい続きがあるから、読んであげるね!」
「やめ、やめて!!」
甲洋が帰還後の彼からは想像もつかないほど激しく取り乱している。
銃口を突きつけられてもケロリとしていた彼をここまで追い詰めるなんて、その禁書とやらはそれほどまでに禍々しい書物なのか。
しかし甲洋がいよいよキャラを保っていられなくなる前にと、一騎はうまく話を逸らすことにした。
「甲洋、このノートはなんなんだ? お前って作家志望だったっけ? なんだか分からないけど、凄い内容だな。ちっとも意味は分からないけど」
「~~~ッ!!」
褒めたつもりなのだが、甲洋は卓袱台に突っ伏して小刻みに震えている。そして耳まで赤くしながら蚊の鳴くような声で「……中学時代の……日記だ」と言った。
「これ日記なのか? てっきり小説でも書いてたのかとばかり……」
ちなみにあの文章をシンプルに訳すと
『今日は13日の金曜日。
夕まずめを狙って、学校が終わってからショコラと一緒に釣りに出かけた。
そうしたらうっかり釣り針に指を引っ掛けてしまい、かなり血が出た。結構痛い。
でもトイレ掃除をするように母さんに言われたので、寝る前にちゃんと終わらせよう。
明日は大事なテストの日だから、遅刻しないように早く寝なくちゃ。』
になるらしい。全くもって意味が分からない。なぜそのまま素直に書かなかったのか。
まさか『汚れし業(カルマ)を浄化する白き聖杯』が、『便器』のことだなんて思いもしなかった……。
「ち、違う、それは夜の妖精さん的なアレがイタズラをしたというか、若気の至りというか……とにかく、それを書いていたのは俺であって俺じゃなくて、俺の中のもう一人の俺が」
「言えば言うほど墓穴を掘ってる気がするな……」
そうこうしているうちに、一騎の背中にくっついたままの操が再び日記を音読しはじめる。
「ちょ、ちょっと! 本気でやめッ……!」
「彼女はこの傷つき疲れ果てた心の暗闇を照らし出す、瓦礫のルイン(廃墟)に咲いた花……そう、永遠(とこしえ)に咲き乱れるステラ(星)のスノーフレーク。俺の聖なる救世主(メシア)、清廉なる湖の乙女。ファルシのルシがコクーンでパージ……」
「ああぁ~~~!!」
頭を抱えて悶絶する甲洋。そのキャラが完全に崩壊している様子があまりにも憐れで、一騎は操からノートを取り上げようとした。が、その前に操はノートをパタリと閉じてしまう。
「なにこれ……? なんか、ぜんぜん意味わかんないのにここがチクチクして、モヤモヤして……やな感じがする」
操が顔を顰めて胸に手をやり、むっと口をへの字に曲げる。おそらく誰かへの熱い想いを綴った内容と思しき文章に、彼がジェラシーを理解しかけた瞬間であった。
「なんかもう飽きちゃった! おれ総士を呼んでく──」
操がノートをポイッと放り出した瞬間
バギィッ
という音がした。ぎょっとした一騎と操の眼の前には、手刀で卓袱台を割った甲洋が、真っ赤な顔をしながら涙目でプルプルしていた……。
~回想シーンここまで~
「で、あの背骨折りか……」
あのノートは、多感な年頃によくある(?)†黒歴史ノート†だったのだ。
回想中、いよいよ耐えきれなくなった甲洋が総士の足元に蹲って身を震わせていた。おそらくしばらくは立ち直れまい。メンタルリセット不可能な状態である。
総士は膝をつき、痛々しく震える肩にそっと手を添えた。
「しっかりしろ甲洋。誰にだってこういう時期はある……」
「そうだぞ甲洋。父さんなんか現役のデスポエマーなんだから。な? あなた」
「……」
妻が天然でディスってくる。総士もまた心に深い傷を負ってしまった……。
ところで厨ニノートのインパクトのせいで薄れかけていたが、前半部分の回想は必要だったのだろうか。
まさか脱衣所に待機している間、危うく操の乳を吸うフラグが立ちかけたり、受けた覚えのないカブトムシオーディションに合格していたとは。一体なにを基準に決めたのか、三人を正座させて小一時間ほど問い詰めたい気持ちになる総士だった。
*
結局まともにままごと遊びができないまま、日が暮れようとしていた。
卓袱台と座布団を片付け、四人は元通りになった店内でひとつのテーブルを囲んでいる。
「疲れたな……」
総士がげっそりしながら言うと、甲洋が「俺も」と同意する。
一騎は小さく笑うだけだったが、流石にその笑顔にも疲労が滲んでいるようだった。
あのあと目を覚ました操の頭部を掴み、床にめり込むほどの土下座をさせたことで甲洋のメンタルはリセットされ、崩壊していたキャラもどうにか無事に修復された。
額に大きな痣を作った操はわんわん泣いたが、一騎が素手で絞った果汁100%ジュースを飲ませると笑顔になった。
「楽しかったね! また今度みんなでやろう!」
あれだけ痛い目にあっておいて何が楽しかったのか、操は一騎が作ったオレンジタルトを頬張りながら言った。
「僕はもう嫌だ。カブトムシを演じるつもりもない」
「えぇー!? なんで!? 総士は楽しくなかったの!?」
「逆にあれのどこが楽しかったのか、理解不能だ」
唯一の救いは一騎と夫婦設定という一点のみだったというのに、それが全く生かされることなくただ疲労困憊しただけだった。
ピシャリと言い捨てると、操は「ちぇー」と唇を尖らせながらフォークでタルトをツンツンとつつく。
「赤ちゃんにおっぱいあげたかったのに……」
操が残念そうに漏らすと、疲れ切って項垂れていたはずの甲洋が急にしゃっきりと背筋を伸ばした。
「それは別にこのあとすぐにでもできる」
「えぇー? でも総士はもうやらないって言ってるよ」
「来主、その遊びは二人だけでした方が絶対に楽しい」
「ほんと? うーん……わかった! じゃあおれと甲洋だけでいいよ!」
もう少し渋るかと思いきや、操はコロッと了承してしまう。彼は一体どこまで理解しているのだろうか。いや、この様子ではおそらく何も分かっていないだろう。が、よくよく考えれば真っ先に甲洋を赤ん坊役に指名したあたり、操の中にもまた特殊な性癖が眠っているのかもしれない。(自覚していないだけで)
その間、甲洋はテーブルの下で密かにガッツポーズをしていた。どこに出しても恥ずかしいむっつりスケベである。
「では、僕らはそろそろ退散しよう」
総士が溜息を漏らしながら席を立つ。遠回しと見せかけて、こうも堂々と「このあとヤりまくります★」と宣言されては、居心地が悪いったらありゃしない。
生むなり吸うなり好きにしろという思いで、総士は一騎と共に楽園を後にしたのだった。
その後、甲洋は操と欲望のままにプレイを堪能し、なんやかんやで触発されてしまった英雄二人も、ノリノリで夜の夫婦ごっこに励んだのだが、それはまた別のお話……。
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利用者もおらず朽ち果てるばかりの狭い空間は、どこかカビ臭く湿っている。
「すごい雨……濡れちゃったね」
バタバタと叩きつける雨音に紛れて、ぽつりと操が零す。
雨雲を見上げる横顔が、薄暗いなかで青ざめて見えた。雨に濡れた半袖パーカーが薄っぺらい身体に張りき、どこか未発達なライン浮き上がらせている。
前髪から落ちた雫が頬を伝い、まるで泣いているようだった。
その姿がやけに痛々しく見えて、胸の疼きを覚えた甲洋は思わず操の肩を抱き寄せていた。
「寒いの? 甲洋」
問いかけに、甲洋は「うん」とだけ短く答える。
本当はちっとも寒さなど感じていない。それでも操は熱を分け与えるように甲洋の腰を両腕でぎゅうと抱いた。
ああ、好きだ。ふとそんな想いが込みあげる。少年の形をした、このあどけない命が。嘘をついた甲洋を見上げ、「あったかいね」と言って笑うやわらかな心が。
好きだ。好きだ。俺だけのものだと思うほどに、誰かを愛おしむことができる喜びに胸が震える。
雨が降りしきる世界で、このカビ臭い空間だけがまるでハサミで切り取られた檻のようだった。
雨音だけの小さな世界に、たったふたりきり。
このままずっと、閉じ込められたままでも構わないのに。
ささやかな願いを吹き消すように、やがて雨は通り過ぎてしまうのだ。
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