2025/08/26 Tue 「──はい。それじゃあ、また」 朝。 先に目を覚ました甲洋は軽くシャワーを浴びたあと、玄関先まで移動して昨日の着信に折り返した。 通話を終えて部屋に戻ると、裸のままベッドに横たわっていた操が掛け布団から両腕を出し、ぐーっと背伸びをしていた。 「ふぁ~……あ、甲洋。おはよ」 「ん、おはよ」 枯れている声に苦笑しながら、ベッドの縁に腰を下ろす。起き抜けの赤い頬を指の甲で軽く撫で、ついでに目にかかっている前髪をそっと払い除けてやった。 「身体、平気……?」 すべすべの頬に指を触れさせたまま、眉尻を下げて問いかける。少し熱っぽいだろうか。操はまだどこか眠たそうな顔をしている。 昨夜、晴れてエッチ禁止令が解禁されて、甲洋は夢中で操を抱いた。 蕩けた身体とは対照的に、昨日の操はどこか不器用で初々しくすらあったように思う。いつもとは違った反応に激情を焚きつけられ、ずいぶんと性急に事を進めてしまったし、何度もナカに出してしまった。 「平気。そんな顔しなくていいよ」 ふにゃりと笑った操が、頬に触れていた甲洋の手をきゅうと握った。 彼の首筋からは手形が消えて、代わりに身体中に甲洋がつけた印が刻まれている。甲洋の背中にも操の爪痕が残されており、それは薄いシャツの下でヒリヒリとした熱を放っていた。 「ねぇ、それよりさ。聞いてもいい?」 「うん、なに?」 「宣戦布告ってなに?」 ずっと気になっていたことだったのだろう。操は興味津々の瞳で甲洋を見上げてくる。 「君、なんでアイツのこと知ってたのさ?」 「ああ……まぁ、うん」 甲洋は少し渋い表情を浮かべながらも、事の経緯を簡単に説明した。 ちょうど一週間前の夜、常連としてよく訪れるようになっていた男が残した痕跡と、その後始末をさせられた苦い記憶を。 一通り話を聞き終えた操は、「うぇ~」と呻きながら眉間にシワを寄せた。 「そんなことがあったんだ……」 「俺もちょくちょく監視されてたってことさ」 「……ごめん」 操は長いまつ毛を伏せながらモゾモゾと身を起こした。肩を抱いて補助してやると、甲洋の身体にくったりともたれかかってくる。 「おれ、AVもやめたし、住むとこだって変わったし……だからもう終わったことなんだって思い込んでて。でも……でもさ、もしかしたら、襲われてたのは甲洋の方だったかもしれないんだよね。おれ、なにも考えてなかったよ……」 あるいはその方がずっとよかったと、甲洋は思う。操をあんな恐ろしい目にあわせるくらいなら、自分が襲われていたほうがよっぽどマシだった。 もしあのタイミングでいったん部屋に引き返そうとしていなかったら。もし操の悲鳴を聞き逃していたら──考えるだけで背筋が凍る。 「もういいよ、来主」 子供みたいに頼りない肩を引き寄せて、両腕にすっぽりと閉じ込めた。強く抱きしめ、大きく息を吐き出す。 「お前が無事で、本当によかった」 あれは──あの男は、甲洋でもあったのかもしれない。 来栖ミサオへの感情を一歩でも間違えていれば、自分もどこかで歯車を狂わせていたかもしれないのだ。操には、そうさせるだけの魔性がある。 ともすれば永遠に失っていたかもしれない熱を抱きしめて、甲洋はしばし考えた。 操は芸能人のように派手な活動をしていたわけではないし、一般的な認知度が高いわけでもない。だけど彼が出演した作品は未だ世に出回っていて、これから先だって同じことが起こらないとは限らなかった。 かといって隠れ潜むようにコソコソと生きていくなんて、そんなことをこの子に強いたいわけでもない。そうやって生きていく孤独や窮屈さを、甲洋自身が誰よりも理解している。 「──あのさ、来主」 「ん、なに?」 「俺の故郷に、一緒に来ないか?」 甲洋の胸にすっかり顔を埋めていた操が、視線をあげて大きく目を瞬かせる。 「どういうこと?」 「言葉通りだよ。実家がさ、喫茶店をやっていて」 甲洋はついさっき通話をしていた相手──溝口恭介のことを操に話した。 彼と話したのは実に数ヶ月ぶりのことだった。こまめに電話しろと言われているけれど、甲洋から連絡したことはほとんどない。だから痺れを切らしたように、たまに電話を寄こすのだ。 子供の頃から知っているという理由だけで、赤の他人でしかない甲洋のことをなにかと気にかけてくれている。面倒見がよくて情が深くて、ちょっと風変わりな男でもあった。 そんな彼は今、甲洋の実家でもあったはずの喫茶『楽園』で、仮オーナーを務めている。もともとは両親がふたりで経営していたけれど、甲洋が学校を卒業して島を出た翌年に閉店し、彼らもまた島を出ていった。 甲洋は両親の行き先を知らされていない。かろうじて父の携帯番号くらいなら知ってはいるけれど、お互いに連絡を取り合ったことは一度もなかった。 親子らしい絆など欠片もないのだ。そういう家庭に、甲洋は育った。 島には楽園の他に、食堂がひとつあるだけだった。溝口はもともと店の常連で、貴重な飯場がなくなると困るという理由から、楽園の経営を半ば強引に引き継いだ。 だけど本当の理由は別にあることに、甲洋はずっと気がついていた。 『ここはお前さんの家だよ。いつでも帰ってきな』 問われたことにただ答えるだけの近況報告が済むと、溝口はいつも決まってその台詞を口にする。どこか諦めを滲ませながら、それでも甲洋を気遣っていた。 彼は自分が帰る場所を守ってくれているのだ。けれど甲洋には、島に戻ろうという意思がなかった。ほんのつい、最近までは。 「オシャレな店なんかないし、流行りの服も最新のゲームも、欲しいときすぐには手に入らない。相当な不便をかけると思う。だけど、もしお前さえよければ──そこで俺と、一緒に暮らしてほしい」 ここよりもずっと人が少なくて、穏やかなときが流れる小さな田舎の漁師町。洗練された都会育ちの操にとっては、未開の地もいいところかもしれない。 だけどそこで一緒に喫茶店をやりながら、同じ屋根の下で寄り添って生きることができたなら。それはとても幸せなことなんじゃないだろうか。 少なくとも今よりはずっと、のびのびと生きられる場所であるように思う。 それは操と出会わなければ、決して生まれなかったであろう人生の選択肢だった。彼とここで暮らすようになってから、時々ふと考えるようになっていた。 「それって君と一緒にお店屋さんしながら暮らすってこと?」 「そうなるかな」 「う~ん、どうかなぁ……」 操は珍しく考え込んでいるようだった。うんうんと唸りながら、難しい顔をして首を傾げている。 慣れない土地に突然移住しようなんて言われても、すぐに決断することは難しいだろう。しかしこの反応を見る限り、やはり望みは薄いだろうか。操が嫌と言うならば、決して無理強いはできない。甲洋の胸が落胆に沈みかける。 「おれにできるかなぁ……だってさおれ、ケーキだってしょっちゅうダメにしてたし。お店のお皿、何枚割るか分かんないよ?」 「……あ、そっち?」 操の気がかりは移住への決断をとっくに通り越し、喫茶店の方へと向けられていた。 「そっちってどっち?」 「いや、てっきり田舎暮らしを嫌がるとばかり」 「なんで?」 操はきょとんとした顔をして、大きな瞳をくるくると踊らせた。 「君はそこに帰りたいんでしょ? だったらおれも行くよ。喫茶店、けっこう楽しそうだしね」 「……いいの?」 さも当然とばかりに、操は「うん」と頷いた。 「君が帰る場所におれも帰るよ。お皿はたぶん割るけどさ」 あまりにもあっけらかんとして言うものだから、思わず拍子抜けしてしまう。なんの迷いもない操の瞳を見ていたら、迷っていたのは自分の方なのだと気づかされた。自分から誘っておいて、おかしな話ではあるけれど。 甲洋自身が島に帰りたいのかと聞かれれば、正直よく分からない。溝口がどんな言葉をかけてくれたって、自分にはもう帰る家はないと思っていた。 どこかで帰ってはいけないような、そんな気すらしていたのだ。逃げるように飛び出したあの島に、居心地の悪かったあの家に。 だけど操は言った。甲洋が帰る場所に、自分も帰ると。 疑いもせず無邪気に示されたその意思に、喜びが熱い波になって押し寄せた。ああ俺は、ずっとこの子と生きていくのだと。操とふたり、安心して帰ることができる家を作りたい、と。 「ありがとう、来主」 「変な甲洋。好きなら一緒にいたいって思うのは当然でしょ?」 そうやってまた。甲洋が欲しい言葉を、平然と。 操は覚えているだろうか。あの日、大荷物を抱えてこの部屋を訪れた彼は、今とまったく同じことを口にした。それがどんなに嬉しかったか。 どれほどの語彙を尽くしたとしても、この喜びを明確には伝えられないような気がした。だから代わりにその身を強く抱きしめる。えへへと笑って、操の腕が甲洋の背を抱き返した。 「皿くらい、いくら割ったっていいよ。俺がちゃんと教えるから」 「ん、わかった」 自分は世界一幸せな男かもしれないと、今この瞬間も本気でそう思いながら、甲洋は操の髪に鼻先を埋める。 お互いしばらくはずっとそうしていたけれど、やがて操が思いだしたように身じろぎをした。 「ねぇ甲洋、お願いがあるんだけど」 「うん、なに?」 もじもじと身を揺らす操が、うつむけていた顔をわずかに上げる。 「お風呂に連れてって。おれ、たぶん立てない」 「あ、ああ……そっか」 脳内が幸せモード一色で、すっかり忘れてしまっていた。 操が気を失っているあいだに軽く清めはしたけれど、それは十分な処理とはいえない。彼のナカには甲洋が放ったものがまだ残っていて、このまま放っておけば大変なことになってしまうだろう。 「でさ、一緒に入ろうよ。お風呂」 「ッ、え?」 思わず肩をギクリと跳ねさせた。 「い、いや、俺はもう……」 甲洋がすでにシャワーを済ませていることは、身につけている部屋着と石鹸の香りが証明しているはずだ。言いよどむ甲洋に、けれど操は不満そうな上目使いをした。 「だってダルいんだもん。ねぇいいでしょ? 洗うの手伝ってよ」 そう言われると、立場的に嫌とは言えない。そもそも身体にかかる負担は、甲洋と操ではまるで違うのだ。いくら許しを得たからとはいえ、さんざん出してしまったのは自分でもある。 「……わかった」 「えへへー、やった!」 にっこり笑った操が甘えた仕草で両腕を首にまわしてくる。よいせとお姫様抱っこをして浴室に向かいながら、また変な気を起こさないようにしようと心に誓った。操だって、そんなつもりはないはずだ。 今から行うのはあくまでも入浴の介助である。昨日あれだけ無理をさせた以上、また繰り返しては意味がない。 しがみついている操が、どんなにちゅっちゅと音を立てて頬にキスをしてこようとも、甲洋は鋼の理性を保つ必要があるのだ。 「そういえばお風呂ではまだ一度もしたことないね」 「言われてみれば確かにそう……じゃなくて。しないよ。しないから」 「しないの!?」 「えっ?」 「えっ?」 脱衣所の扉の前で咄嗟に足を止めた。お互い目をまん丸くして、しばらく無言で見つめ合う。 やがて操が猫のように瞳を細めて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。 「ねぇ、しないの?」 「……する」 むっつりとした表情で短く答えた。浴室に辿り着きすらしないうちに、甲洋の理性はいともたやすく崩れ去ったのである。 * あの事件から一ヶ月。 トントン拍子に引っ越しの準備が進んでいくうちに、季節は冬から春へと移ろいを見せはじめていた。 「忘れ物はない?」 すっかり空になった部屋の玄関で靴をはきながら、甲洋は背後の操に問いかけた。荷物はあらかた先に送ったはずだが、なにかあってもそうそう戻ってくることはできないのだ。 答えがないので振り向くと、操はなぜかむぅっと唇を尖らせていた。小さな顔に、まんまるのラウンド眼鏡がよく似合っている。 「来主?」 「ないよ。ないけどさ」 操はどこか不満そうに、スクエア型の黒縁眼鏡をかけた甲洋の顔をじっと見つめた。 「君、あの眼鏡はもうしないの?」 彼が言っているのは甲洋がずっと手放さずにかけていた、あのぐるぐる眼鏡のことである。やっぱりそのことかと、苦笑しながら頷いた。 「あれは壊れちゃっただろ」 「そうだけどさぁ」 操は口をモゴモゴとさせ、腑に落ちないといった様子で目を逸らす。 甲洋がどれだけ野暮ったい格好をしていても頓着しなかったはずの操だが、実はヤキモチ焼きの彼が気にしているのは眼鏡の件だけではないのだ。この一ヶ月で、甲洋はすっかり様変わりしていた。ボロボロのコートを着るのもやめたし、髪も切って身綺麗になっている。 眼鏡をかけているのは、あまりにも馴染みすぎたせいで落ち着かないからだ。だから前に操が似合うと言ってくれたものと、似たデザインの眼鏡を購入した。 操にはあのぐるぐる眼鏡はもうどこにも売っておらず、手に入らないと適当なことを言って納得させていた。あれはただのコスチューム小物で、通販サイトなどを利用すればいくらでも入手できるのだが。 「もういいんだ。あれはもう卒業」 今から向かおうとしているのは、顔馴染みばかりの故郷である。以前のような格好で帰ろうものなら驚かせてしまうだけだし、故郷でまで顔を隠す意味などない──というのは、実は建前だったりもする。 あの事件の際に男から言われた『ダサイモ野郎』という言葉が、地味に堪えてしまったからだ。 だったら可愛いこの子の横にいて、恥ずかしくない自分になってやろうじゃないかとそう決めた。過去のトラウマを引きずることに、どこかで疲れてもいたのかもしれない。 もし操に危害が及ぶようなことがあればと、ずっとそれを気にしていたけれど。どうせ何があったって、彼のことは自分がこの手で守るのだ。 あの件があったから自信と踏ん切りがついたなんて、皮肉にも程があるとは思うのだが。 「ふぅん……なんかよく分かんないけど。っていうかそもそも君、なんであんな眼鏡してたわけ?」 そういえばまだ話したことがない。操からも特に質問はなかったし、わざわざしたいと思えるような楽しい内容でもなかった。 なにより、それなりに長い話になってしまうから。 「道中話すよ」 そう言って、甲洋は操に手を差し出した。操は唇を可愛く尖らせたままではあったけれど、素直に手を重ねてくる。 (小さい手だな) しっかりと握りしめながら、しみじみとそう思った。この手に触れたかった男たちが、この世界にはどれだけの数いるだろう。 それでも今こうして彼の手を握っているのは甲洋だ。まるで奇跡としか思えないのに、このぬくもりは現実だった。 「甲洋?」 重なる手と手を見つめながら黙り込んでしまった甲洋に、操が不思議そうな顔をする。甲洋は「なんでもないよ」と言って笑った。 「行こう、来主」 今日この日、甲洋は操を連れて生まれ育った故郷に帰る。 操はいっそ性別を超えて人を魅了するし、この先もきっと甲洋の不安の種が尽きることはないだろう。お互いこれからもちょっとしたことでヤキモチをやいたり、すれ違ったり、思い悩んだりするかもしれない。 望むところだと、甲洋は思う。恋の病は果てしない。 「うん!」 どこか晴れ晴れとした甲洋の微笑みに、操も自然と笑みをこぼれさせた。小さな手が、一回り大きい甲洋の手を強く握りしめる。可愛い笑顔。愛しいぬくもり。甲洋だけの、来主操。 これから築いていく新しい未来には、多くの喜びが溢れていると信じて。 そうしてふたり、空っぽになった部屋を出た。 ネバーエンドラブシック / 了 ←戻る ・ Wavebox👏
朝。
先に目を覚ました甲洋は軽くシャワーを浴びたあと、玄関先まで移動して昨日の着信に折り返した。
通話を終えて部屋に戻ると、裸のままベッドに横たわっていた操が掛け布団から両腕を出し、ぐーっと背伸びをしていた。
「ふぁ~……あ、甲洋。おはよ」
「ん、おはよ」
枯れている声に苦笑しながら、ベッドの縁に腰を下ろす。起き抜けの赤い頬を指の甲で軽く撫で、ついでに目にかかっている前髪をそっと払い除けてやった。
「身体、平気……?」
すべすべの頬に指を触れさせたまま、眉尻を下げて問いかける。少し熱っぽいだろうか。操はまだどこか眠たそうな顔をしている。
昨夜、晴れてエッチ禁止令が解禁されて、甲洋は夢中で操を抱いた。
蕩けた身体とは対照的に、昨日の操はどこか不器用で初々しくすらあったように思う。いつもとは違った反応に激情を焚きつけられ、ずいぶんと性急に事を進めてしまったし、何度もナカに出してしまった。
「平気。そんな顔しなくていいよ」
ふにゃりと笑った操が、頬に触れていた甲洋の手をきゅうと握った。
彼の首筋からは手形が消えて、代わりに身体中に甲洋がつけた印が刻まれている。甲洋の背中にも操の爪痕が残されており、それは薄いシャツの下でヒリヒリとした熱を放っていた。
「ねぇ、それよりさ。聞いてもいい?」
「うん、なに?」
「宣戦布告ってなに?」
ずっと気になっていたことだったのだろう。操は興味津々の瞳で甲洋を見上げてくる。
「君、なんでアイツのこと知ってたのさ?」
「ああ……まぁ、うん」
甲洋は少し渋い表情を浮かべながらも、事の経緯を簡単に説明した。
ちょうど一週間前の夜、常連としてよく訪れるようになっていた男が残した痕跡と、その後始末をさせられた苦い記憶を。
一通り話を聞き終えた操は、「うぇ~」と呻きながら眉間にシワを寄せた。
「そんなことがあったんだ……」
「俺もちょくちょく監視されてたってことさ」
「……ごめん」
操は長いまつ毛を伏せながらモゾモゾと身を起こした。肩を抱いて補助してやると、甲洋の身体にくったりともたれかかってくる。
「おれ、AVもやめたし、住むとこだって変わったし……だからもう終わったことなんだって思い込んでて。でも……でもさ、もしかしたら、襲われてたのは甲洋の方だったかもしれないんだよね。おれ、なにも考えてなかったよ……」
あるいはその方がずっとよかったと、甲洋は思う。操をあんな恐ろしい目にあわせるくらいなら、自分が襲われていたほうがよっぽどマシだった。
もしあのタイミングでいったん部屋に引き返そうとしていなかったら。もし操の悲鳴を聞き逃していたら──考えるだけで背筋が凍る。
「もういいよ、来主」
子供みたいに頼りない肩を引き寄せて、両腕にすっぽりと閉じ込めた。強く抱きしめ、大きく息を吐き出す。
「お前が無事で、本当によかった」
あれは──あの男は、甲洋でもあったのかもしれない。
来栖ミサオへの感情を一歩でも間違えていれば、自分もどこかで歯車を狂わせていたかもしれないのだ。操には、そうさせるだけの魔性がある。
ともすれば永遠に失っていたかもしれない熱を抱きしめて、甲洋はしばし考えた。
操は芸能人のように派手な活動をしていたわけではないし、一般的な認知度が高いわけでもない。だけど彼が出演した作品は未だ世に出回っていて、これから先だって同じことが起こらないとは限らなかった。
かといって隠れ潜むようにコソコソと生きていくなんて、そんなことをこの子に強いたいわけでもない。そうやって生きていく孤独や窮屈さを、甲洋自身が誰よりも理解している。
「──あのさ、来主」
「ん、なに?」
「俺の故郷に、一緒に来ないか?」
甲洋の胸にすっかり顔を埋めていた操が、視線をあげて大きく目を瞬かせる。
「どういうこと?」
「言葉通りだよ。実家がさ、喫茶店をやっていて」
甲洋はついさっき通話をしていた相手──溝口恭介のことを操に話した。
彼と話したのは実に数ヶ月ぶりのことだった。こまめに電話しろと言われているけれど、甲洋から連絡したことはほとんどない。だから痺れを切らしたように、たまに電話を寄こすのだ。
子供の頃から知っているという理由だけで、赤の他人でしかない甲洋のことをなにかと気にかけてくれている。面倒見がよくて情が深くて、ちょっと風変わりな男でもあった。
そんな彼は今、甲洋の実家でもあったはずの喫茶『楽園』で、仮オーナーを務めている。もともとは両親がふたりで経営していたけれど、甲洋が学校を卒業して島を出た翌年に閉店し、彼らもまた島を出ていった。
甲洋は両親の行き先を知らされていない。かろうじて父の携帯番号くらいなら知ってはいるけれど、お互いに連絡を取り合ったことは一度もなかった。
親子らしい絆など欠片もないのだ。そういう家庭に、甲洋は育った。
島には楽園の他に、食堂がひとつあるだけだった。溝口はもともと店の常連で、貴重な飯場がなくなると困るという理由から、楽園の経営を半ば強引に引き継いだ。
だけど本当の理由は別にあることに、甲洋はずっと気がついていた。
『ここはお前さんの家だよ。いつでも帰ってきな』
問われたことにただ答えるだけの近況報告が済むと、溝口はいつも決まってその台詞を口にする。どこか諦めを滲ませながら、それでも甲洋を気遣っていた。
彼は自分が帰る場所を守ってくれているのだ。けれど甲洋には、島に戻ろうという意思がなかった。ほんのつい、最近までは。
「オシャレな店なんかないし、流行りの服も最新のゲームも、欲しいときすぐには手に入らない。相当な不便をかけると思う。だけど、もしお前さえよければ──そこで俺と、一緒に暮らしてほしい」
ここよりもずっと人が少なくて、穏やかなときが流れる小さな田舎の漁師町。洗練された都会育ちの操にとっては、未開の地もいいところかもしれない。
だけどそこで一緒に喫茶店をやりながら、同じ屋根の下で寄り添って生きることができたなら。それはとても幸せなことなんじゃないだろうか。
少なくとも今よりはずっと、のびのびと生きられる場所であるように思う。
それは操と出会わなければ、決して生まれなかったであろう人生の選択肢だった。彼とここで暮らすようになってから、時々ふと考えるようになっていた。
「それって君と一緒にお店屋さんしながら暮らすってこと?」
「そうなるかな」
「う~ん、どうかなぁ……」
操は珍しく考え込んでいるようだった。うんうんと唸りながら、難しい顔をして首を傾げている。
慣れない土地に突然移住しようなんて言われても、すぐに決断することは難しいだろう。しかしこの反応を見る限り、やはり望みは薄いだろうか。操が嫌と言うならば、決して無理強いはできない。甲洋の胸が落胆に沈みかける。
「おれにできるかなぁ……だってさおれ、ケーキだってしょっちゅうダメにしてたし。お店のお皿、何枚割るか分かんないよ?」
「……あ、そっち?」
操の気がかりは移住への決断をとっくに通り越し、喫茶店の方へと向けられていた。
「そっちってどっち?」
「いや、てっきり田舎暮らしを嫌がるとばかり」
「なんで?」
操はきょとんとした顔をして、大きな瞳をくるくると踊らせた。
「君はそこに帰りたいんでしょ? だったらおれも行くよ。喫茶店、けっこう楽しそうだしね」
「……いいの?」
さも当然とばかりに、操は「うん」と頷いた。
「君が帰る場所におれも帰るよ。お皿はたぶん割るけどさ」
あまりにもあっけらかんとして言うものだから、思わず拍子抜けしてしまう。なんの迷いもない操の瞳を見ていたら、迷っていたのは自分の方なのだと気づかされた。自分から誘っておいて、おかしな話ではあるけれど。
甲洋自身が島に帰りたいのかと聞かれれば、正直よく分からない。溝口がどんな言葉をかけてくれたって、自分にはもう帰る家はないと思っていた。
どこかで帰ってはいけないような、そんな気すらしていたのだ。逃げるように飛び出したあの島に、居心地の悪かったあの家に。
だけど操は言った。甲洋が帰る場所に、自分も帰ると。
疑いもせず無邪気に示されたその意思に、喜びが熱い波になって押し寄せた。ああ俺は、ずっとこの子と生きていくのだと。操とふたり、安心して帰ることができる家を作りたい、と。
「ありがとう、来主」
「変な甲洋。好きなら一緒にいたいって思うのは当然でしょ?」
そうやってまた。甲洋が欲しい言葉を、平然と。
操は覚えているだろうか。あの日、大荷物を抱えてこの部屋を訪れた彼は、今とまったく同じことを口にした。それがどんなに嬉しかったか。
どれほどの語彙を尽くしたとしても、この喜びを明確には伝えられないような気がした。だから代わりにその身を強く抱きしめる。えへへと笑って、操の腕が甲洋の背を抱き返した。
「皿くらい、いくら割ったっていいよ。俺がちゃんと教えるから」
「ん、わかった」
自分は世界一幸せな男かもしれないと、今この瞬間も本気でそう思いながら、甲洋は操の髪に鼻先を埋める。
お互いしばらくはずっとそうしていたけれど、やがて操が思いだしたように身じろぎをした。
「ねぇ甲洋、お願いがあるんだけど」
「うん、なに?」
もじもじと身を揺らす操が、うつむけていた顔をわずかに上げる。
「お風呂に連れてって。おれ、たぶん立てない」
「あ、ああ……そっか」
脳内が幸せモード一色で、すっかり忘れてしまっていた。
操が気を失っているあいだに軽く清めはしたけれど、それは十分な処理とはいえない。彼のナカには甲洋が放ったものがまだ残っていて、このまま放っておけば大変なことになってしまうだろう。
「でさ、一緒に入ろうよ。お風呂」
「ッ、え?」
思わず肩をギクリと跳ねさせた。
「い、いや、俺はもう……」
甲洋がすでにシャワーを済ませていることは、身につけている部屋着と石鹸の香りが証明しているはずだ。言いよどむ甲洋に、けれど操は不満そうな上目使いをした。
「だってダルいんだもん。ねぇいいでしょ? 洗うの手伝ってよ」
そう言われると、立場的に嫌とは言えない。そもそも身体にかかる負担は、甲洋と操ではまるで違うのだ。いくら許しを得たからとはいえ、さんざん出してしまったのは自分でもある。
「……わかった」
「えへへー、やった!」
にっこり笑った操が甘えた仕草で両腕を首にまわしてくる。よいせとお姫様抱っこをして浴室に向かいながら、また変な気を起こさないようにしようと心に誓った。操だって、そんなつもりはないはずだ。
今から行うのはあくまでも入浴の介助である。昨日あれだけ無理をさせた以上、また繰り返しては意味がない。
しがみついている操が、どんなにちゅっちゅと音を立てて頬にキスをしてこようとも、甲洋は鋼の理性を保つ必要があるのだ。
「そういえばお風呂ではまだ一度もしたことないね」
「言われてみれば確かにそう……じゃなくて。しないよ。しないから」
「しないの!?」
「えっ?」
「えっ?」
脱衣所の扉の前で咄嗟に足を止めた。お互い目をまん丸くして、しばらく無言で見つめ合う。
やがて操が猫のように瞳を細めて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ねぇ、しないの?」
「……する」
むっつりとした表情で短く答えた。浴室に辿り着きすらしないうちに、甲洋の理性はいともたやすく崩れ去ったのである。
*
あの事件から一ヶ月。
トントン拍子に引っ越しの準備が進んでいくうちに、季節は冬から春へと移ろいを見せはじめていた。
「忘れ物はない?」
すっかり空になった部屋の玄関で靴をはきながら、甲洋は背後の操に問いかけた。荷物はあらかた先に送ったはずだが、なにかあってもそうそう戻ってくることはできないのだ。
答えがないので振り向くと、操はなぜかむぅっと唇を尖らせていた。小さな顔に、まんまるのラウンド眼鏡がよく似合っている。
「来主?」
「ないよ。ないけどさ」
操はどこか不満そうに、スクエア型の黒縁眼鏡をかけた甲洋の顔をじっと見つめた。
「君、あの眼鏡はもうしないの?」
彼が言っているのは甲洋がずっと手放さずにかけていた、あのぐるぐる眼鏡のことである。やっぱりそのことかと、苦笑しながら頷いた。
「あれは壊れちゃっただろ」
「そうだけどさぁ」
操は口をモゴモゴとさせ、腑に落ちないといった様子で目を逸らす。
甲洋がどれだけ野暮ったい格好をしていても頓着しなかったはずの操だが、実はヤキモチ焼きの彼が気にしているのは眼鏡の件だけではないのだ。この一ヶ月で、甲洋はすっかり様変わりしていた。ボロボロのコートを着るのもやめたし、髪も切って身綺麗になっている。
眼鏡をかけているのは、あまりにも馴染みすぎたせいで落ち着かないからだ。だから前に操が似合うと言ってくれたものと、似たデザインの眼鏡を購入した。
操にはあのぐるぐる眼鏡はもうどこにも売っておらず、手に入らないと適当なことを言って納得させていた。あれはただのコスチューム小物で、通販サイトなどを利用すればいくらでも入手できるのだが。
「もういいんだ。あれはもう卒業」
今から向かおうとしているのは、顔馴染みばかりの故郷である。以前のような格好で帰ろうものなら驚かせてしまうだけだし、故郷でまで顔を隠す意味などない──というのは、実は建前だったりもする。
あの事件の際に男から言われた『ダサイモ野郎』という言葉が、地味に堪えてしまったからだ。
だったら可愛いこの子の横にいて、恥ずかしくない自分になってやろうじゃないかとそう決めた。過去のトラウマを引きずることに、どこかで疲れてもいたのかもしれない。
もし操に危害が及ぶようなことがあればと、ずっとそれを気にしていたけれど。どうせ何があったって、彼のことは自分がこの手で守るのだ。
あの件があったから自信と踏ん切りがついたなんて、皮肉にも程があるとは思うのだが。
「ふぅん……なんかよく分かんないけど。っていうかそもそも君、なんであんな眼鏡してたわけ?」
そういえばまだ話したことがない。操からも特に質問はなかったし、わざわざしたいと思えるような楽しい内容でもなかった。
なにより、それなりに長い話になってしまうから。
「道中話すよ」
そう言って、甲洋は操に手を差し出した。操は唇を可愛く尖らせたままではあったけれど、素直に手を重ねてくる。
(小さい手だな)
しっかりと握りしめながら、しみじみとそう思った。この手に触れたかった男たちが、この世界にはどれだけの数いるだろう。
それでも今こうして彼の手を握っているのは甲洋だ。まるで奇跡としか思えないのに、このぬくもりは現実だった。
「甲洋?」
重なる手と手を見つめながら黙り込んでしまった甲洋に、操が不思議そうな顔をする。甲洋は「なんでもないよ」と言って笑った。
「行こう、来主」
今日この日、甲洋は操を連れて生まれ育った故郷に帰る。
操はいっそ性別を超えて人を魅了するし、この先もきっと甲洋の不安の種が尽きることはないだろう。お互いこれからもちょっとしたことでヤキモチをやいたり、すれ違ったり、思い悩んだりするかもしれない。
望むところだと、甲洋は思う。恋の病は果てしない。
「うん!」
どこか晴れ晴れとした甲洋の微笑みに、操も自然と笑みをこぼれさせた。小さな手が、一回り大きい甲洋の手を強く握りしめる。可愛い笑顔。愛しいぬくもり。甲洋だけの、来主操。
これから築いていく新しい未来には、多くの喜びが溢れていると信じて。
そうしてふたり、空っぽになった部屋を出た。
ネバーエンドラブシック / 了
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