「うお!?」
寒さも少しずつ和らいできた、春の訪れ間近の朝。
黒鋼は自宅の洗面所の床板を踏み抜き、低い悲鳴を上げていた。
「やっちまった……」
ちょうど浴室への入り口付近の床。
ここは前々から少しでも重さが加わると軋んだ音を立てていて、踏みつけようものなら微かにしなるほど脆くなっていた。
だから普段は極力踏まないように気をつけていたのだが……踏んでしまった。
「どうすんだよこれ……」
一部分がすっかり折れている床板の側にしゃがみ込み、穴の中を覗きこんでみる。
真っ暗でなにも見えないが、そこからひゅうひゅうと冷たい風が吹き上げて来るのが分かった。
とりあえずここがアパートの下の階でよかった。全身でブチ抜いて落下しようものなら、確実に死ぬ。下の住人が。
これは早急に管理会社に連絡をして修理せねば。だが今はそんな時間もなく、黒鋼はイライラしつつ辺りを見回し、適当に側にあった洗濯籠で床を塞ぐと朝の準備に取り掛かった。
***
「それは災難でしたね」
窓際の席に陣取った黒鋼の目の前に、ナポリタンがどーんと盛られた大皿を置きながらユゥイが苦笑する。
彼は向かいに座ると皿を覗き込み、「これ新作なんですよ」と言った。
「ナポリタンをアレンジして、チリクラブソースを加えてるんですけど、お子様の味覚には合わなかったみたいで」
「味見すんのは別にいいけどよ、流石に多くねぇかこれ」
いつからここはデカ盛りの店になったんだ。
そりゃあこのタッパを見れば分かるように、黒鋼はその気になれば人の倍は食う。だが、この山盛りパスタは軽く5,6人分はありそうだ。
「可愛い弟には贔屓したくなるじゃないですか」
「弟? 誰が?」
眉間に皺を寄せて片目を眇める黒鋼に向かって、ユゥイはスッ……と指を指した。この男は一体なにを気色の悪いことを言っているのだろうか。
「兄の夫になる人なので、ボクの弟ってことです。兄嫁ならぬ兄夫?」
「聞いたことねぇぞそんな単語」
「いやぁ、嬉しいなぁ。ボク弟って憧れてたんですよね」
「……なんか企んでねぇか?」
「ぜんぜん?」
首を傾げてにっこり笑うユゥイは、不思議と目だけは笑っていないような気がして、思い切り胡散臭かった。
そんな人間が差し出してくる食べ物を、みすみす口に入れてしまっていいのだろうか。だが、あからさまに不審そうな顔をする黒鋼を、ユゥイは「冷めないうちに早く」と急かしてくる。
昼時で腹が減っているのは確かで、黒鋼は渋々フォークを手にするとナポリタンを口に入れた。
「思ったほど辛くはねぇな」
「でしょ?」
「いいんじゃねぇか?」
「そうですか。よかった」
じゃあメニュー入り決定ですね、とユゥイが背もたれにゆったりと背を預けたとき、店のドアベルが鳴った。
「たっだいまー! お買い物してきたー! 100円オマケしてもらったー!」
買い物籠にネギを刺したファイが元気に店に飛び込んできた。彼は窓際の席に黒鋼がいるのを見つけて、パッと目を輝かせると、ちょっと転びそうになりながら駆けてくる。
おかえり、と言うユゥイにただいまと返事をしつつ買い物袋を渡し、すぐに黒鋼の首に抱き付いた。
「黒りん来てたのー!? 会いたかったよー!!」
「昨日も会ったろ」
「オレ隣にすーわる!」
そう言って、ファイはわざわざ背後からではなく黒鋼の正面を跨いで隣の席に座ろうとした。なんて迷惑な……と思いつつ、椅子を引きながらぶつからないようにデカ盛りパスタを遠ざける。
椅子に座ったファイは黒鋼の腕にぎゅっとしがみついて、下から顔を覗き込んできた。
「お昼食べに来たのー?」
「まぁな」
「じゃあこれ食べたら会社に戻るのー?」
「午後は会議があるからな」
「そっかぁ……」
ぷぅっと唇を尖らせるファイに苦笑したユゥイが、黒鋼を見て「今夜は?」と聞いてくる。
「夕食はどうします?」
「あぁ……どうだろうな。会議の運び次第だが……今夜は難しいかもな」
「大変ですよねぇ……いちいちここに通うの」
ユゥイはなざかわざとらしく腕を組み、目を閉じてうんうんと唸っている。
「夜遅くまで仕事をして、お腹を空かせたまま誰が待つわけでもない、床が抜けた家に帰る……涙が出そうですよボクは」
「おまえ一体なにが言いてぇんだよ」
「え!? 黒たんおうち壊したの!? 凄いね! どうやって壊したの!?」
「あのな……別に倒壊させたわけじゃねぇんだぞ……」
「オレも黒たんくらい大きくなったらおうち壊せるようになる?」
「壊す必要がそもそもねぇだろ!」
そうなの? と首を傾げるファイに溜息をついて、黒鋼はとりあえずモリモリのナポリタンに再び口をつけながら考える。
今のアパートは学生時代からずっと住み続けていて、当時から相当なボロではあった。確か今年で築年数も25年になるのだったか。
面倒だという理由でずっと住み続けていたが、そろそろもう少しまともなところに引っ越しを考えてもいいのかもしれない。できれば、この近辺とか……。
するとユゥイが、絶妙なタイミングで独り言のような呟きを漏らした。
「上の階……一部屋余ってるんだよなぁ……」
「……あ?」
「物置代わりにしてるけど、なんだかんだで捨ててもいいようなガラクタばかりなんだよなぁ……」
チラリ。
「最近物騒だし、そういえば二件先のお宅に空き巣が入ったって聞いたなぁ。どこかに厳ついヤクザみたいなアル●ックさんがいてくれればなぁ」
チラリ。
「その選択を迫るようなチラ見はなんなんだよ……逆に食いつきにくいぞ」
「前より明らかにここに通う頻度も高くなってるわけですし、この際どうでしょう?」
「どうって……」
確かに引っ越しを考えようと思っていたタイミングではある。
しかもこの近辺であればなおよしだった。だが、流石に直接住み込むなんて頭はなくて、黒鋼はユゥイの申し出にただ戸惑った。
いや、家人がいいと言っているなら問題はないのだが。家探しの手間も省けるし、何より……。
黒鋼は横目で隣のファイを窺った。彼は黒鋼の飲みかけの紅茶のカップに大量の砂糖とミルクを入れて、勝手に飲んでは「ぷはー」と息を吐き出している。
ユゥイは僅かに身を乗り出すとファイの名前を呼んだ。
「ファイも、ここに黒鋼さんが一緒に住んだら嬉しいよね?」
「え? 住む……?」
ファイは目を丸くして黒鋼を見上げた。白い頬が、興奮してサッと赤く染まる。
「黒たん住むの!? 住むの!?」
「いや、それはまだ」
「黒たんここに住むの!? わぁいやったー!!」
「お、おい……」
ファイが思いっきり抱き付いてくるものだから、黒鋼は一瞬ナポリタンの皿をぶちまけそうになった。
当人がまだ戸惑いの最中にいるというのに、家人の一人であるファイは異常なまでのはしゃぎぶりを見せる。
「嬉しいー! じゃあこれからは毎日一緒にご飯食べれるんだねー!!」
「あのな、俺はまだ」
「お風呂も一緒に入ろうねー! 黒たんの背中ゴシゴシしてあげるー!」
「…………風呂、か」
「狭いから一緒に入るのは無理じゃないかな」
こ、このやろう。
悪くねぇなと流されかけていた黒鋼はギリギリと奥歯を噛み締めながらユゥイを睨み付ける。彼はどこ吹く風で「じゃあ決まりですね」と言って笑った。
物凄く強引に話が決まってしまったような気がするが、それよりも黒鋼はユゥイが漏らした安堵の溜息の方が気になった。
「てめぇ、一体なにが目的なんだよ」
「目的だなんて人聞きが悪い」
「吐け」
「…………」
こちらも有無を言わさぬ勢いで凄めば、ユゥイは肩を力なく落として疲れたような表情を見せる。
「狙われてるんですよ……その部屋」
「狙われてる? ……ああ、ひょっとするとあれか」
あの冗談が嫌いな男子高校生のことか。
「おまえらデキてるんじゃねぇのか?」
「まだですよ。いくらなんでも高校生に手を出すほど飢えてません」
まだ、と言い切るあたり、気を持たせるような真似は十分にしているような印象を受けるが。
「と、とにかく。このままだといつ大荷物を抱えて乗り込んでくるか、分からない勢いなんです。だから防犯の意味でもお願いします」
「人をセ●ム扱いすんなよ……」
ついでに将来の恋人候補を犯罪者予備軍扱いするのもやめてやれ……。
てっきり前進したと思っていたら、その場で足踏みをしていただけの少年を多少気の毒に思いつつ、諦めたような息を漏らす黒鋼だったが、次の瞬間、
「黒たん、一緒のベッドに寝ようねー!!」
というファイの無邪気な提案に派手に吹き出した。そんな黒鋼を見たユゥイはどこか冷やかに「ムッツリだなぁ……」と呟くのだった。
***
「黒たん待ってー!!」
特盛ナポリタンをどうにか胃袋に押し込んでから店を出た黒鋼は、商店街の出口付近で呼び止められ、足を止めた。
振り返れば、ファイが懸命に駆けてくる様子が見える。
「なんだ、追いかけてきたのか?」
「はーっ、よかった、間に合ったー!」
僅かに首を傾げる黒鋼に、大きく深呼吸して息を整えたファイは「うん」と頷きながら俯いた。
どうしたのかと彼の言葉を黙って待ち続けていると、ファイは黒いパンツの後ろポケットからあるものを取り出し、黒鋼に差し出してきた。
「これ、あげる」
それは、小さな黒わんの編みぐるみだった。
星空のテラスで思いを通じ合わせてから、ファイが帰り際に黒わんを手渡してくることはなくなっていた。
もう必要ないということは何度も言って聞かせてたし、彼も納得したはずだが。
「あのな、これはもう」
「うぅん違うの。ほら、ちゃんとマフラーしてるでしょ?」
確かに、その黒わんは以前のように裸ではなかった。小さな赤いマフラーをして、吊り上がっていた目も前に比べると少しだけ柔らかな印象を受ける。
黒鋼はそれを受け取ると、再びファイを見やった。
「ちゃんとしたの……一回もあげてなかったから。それ、黒たんにあげる」
「このためにわざわざ?」
「ユゥイがいるとこで渡すの、なんか恥ずかしかったの……」
恥じらうファイに小さく笑って、黒鋼は指で黒わんを優しく包み込む。
「あのね、それ、今までで一番上手にできたの。あとね、その、背中にね……」
「背中?」
うん、と頷くファイの赤い頬を見て、黒鋼はすぐに黒わんを引っくり返した。そこにあるものを見て、黒鋼もつい、顔が熱くなるのを感じる。
黒わんの背中には、ハート型に切り取られた赤いフェルトが縫い付けられていた。
ファイはもじもじと、胸元にぶら下がるオルゴールのペンダントを弄ぶ。それから、恥ずかしそうに上目使いで見上げてきた。
「ハート、もらってくれる……?」
こんちくしょう、と、黒鋼は思う。
赤い顔をして向かい合う二人の横を、シルバーカーを引く老人がゆっくりと横切って行った。遠くから青果店の肝っ玉熟女が客引きをする声が聞こえ、定食屋から出てきた親父が派手にクシャミをする。
豆腐屋のシャッターが開かれる音、蕎麦屋の出前が乗るバイクの排気音。井戸端会議に興じる奥様方の笑い声。
こんな場所じゃあ、抱きしめてキスをすることもできやしない。
「黒たん……?」
「あたりめぇだろ」
そう言って、黒鋼はその華奢な肩を掴んで引き寄せると、耳元に口を寄せる。
「今夜、遅くなっても必ず行く」
「え……?」
「待ってろよ」
ゆっくりと離れた黒鋼に、ファイはどこか潤んだ瞳でふにゃりと笑う。誰よりも眩しくて、誰よりも可愛い、甘い甘い、砂糖菓子のように。
燦々と降り注ぐ陽光。春を目の前に控えた、青い空。
きっと今夜も晴れるから。
「待ってる」
あの満天の星空の下、箱庭のような、小さなテラスで。
END
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寒さも少しずつ和らいできた、春の訪れ間近の朝。
黒鋼は自宅の洗面所の床板を踏み抜き、低い悲鳴を上げていた。
「やっちまった……」
ちょうど浴室への入り口付近の床。
ここは前々から少しでも重さが加わると軋んだ音を立てていて、踏みつけようものなら微かにしなるほど脆くなっていた。
だから普段は極力踏まないように気をつけていたのだが……踏んでしまった。
「どうすんだよこれ……」
一部分がすっかり折れている床板の側にしゃがみ込み、穴の中を覗きこんでみる。
真っ暗でなにも見えないが、そこからひゅうひゅうと冷たい風が吹き上げて来るのが分かった。
とりあえずここがアパートの下の階でよかった。全身でブチ抜いて落下しようものなら、確実に死ぬ。下の住人が。
これは早急に管理会社に連絡をして修理せねば。だが今はそんな時間もなく、黒鋼はイライラしつつ辺りを見回し、適当に側にあった洗濯籠で床を塞ぐと朝の準備に取り掛かった。
***
「それは災難でしたね」
窓際の席に陣取った黒鋼の目の前に、ナポリタンがどーんと盛られた大皿を置きながらユゥイが苦笑する。
彼は向かいに座ると皿を覗き込み、「これ新作なんですよ」と言った。
「ナポリタンをアレンジして、チリクラブソースを加えてるんですけど、お子様の味覚には合わなかったみたいで」
「味見すんのは別にいいけどよ、流石に多くねぇかこれ」
いつからここはデカ盛りの店になったんだ。
そりゃあこのタッパを見れば分かるように、黒鋼はその気になれば人の倍は食う。だが、この山盛りパスタは軽く5,6人分はありそうだ。
「可愛い弟には贔屓したくなるじゃないですか」
「弟? 誰が?」
眉間に皺を寄せて片目を眇める黒鋼に向かって、ユゥイはスッ……と指を指した。この男は一体なにを気色の悪いことを言っているのだろうか。
「兄の夫になる人なので、ボクの弟ってことです。兄嫁ならぬ兄夫?」
「聞いたことねぇぞそんな単語」
「いやぁ、嬉しいなぁ。ボク弟って憧れてたんですよね」
「……なんか企んでねぇか?」
「ぜんぜん?」
首を傾げてにっこり笑うユゥイは、不思議と目だけは笑っていないような気がして、思い切り胡散臭かった。
そんな人間が差し出してくる食べ物を、みすみす口に入れてしまっていいのだろうか。だが、あからさまに不審そうな顔をする黒鋼を、ユゥイは「冷めないうちに早く」と急かしてくる。
昼時で腹が減っているのは確かで、黒鋼は渋々フォークを手にするとナポリタンを口に入れた。
「思ったほど辛くはねぇな」
「でしょ?」
「いいんじゃねぇか?」
「そうですか。よかった」
じゃあメニュー入り決定ですね、とユゥイが背もたれにゆったりと背を預けたとき、店のドアベルが鳴った。
「たっだいまー! お買い物してきたー! 100円オマケしてもらったー!」
買い物籠にネギを刺したファイが元気に店に飛び込んできた。彼は窓際の席に黒鋼がいるのを見つけて、パッと目を輝かせると、ちょっと転びそうになりながら駆けてくる。
おかえり、と言うユゥイにただいまと返事をしつつ買い物袋を渡し、すぐに黒鋼の首に抱き付いた。
「黒りん来てたのー!? 会いたかったよー!!」
「昨日も会ったろ」
「オレ隣にすーわる!」
そう言って、ファイはわざわざ背後からではなく黒鋼の正面を跨いで隣の席に座ろうとした。なんて迷惑な……と思いつつ、椅子を引きながらぶつからないようにデカ盛りパスタを遠ざける。
椅子に座ったファイは黒鋼の腕にぎゅっとしがみついて、下から顔を覗き込んできた。
「お昼食べに来たのー?」
「まぁな」
「じゃあこれ食べたら会社に戻るのー?」
「午後は会議があるからな」
「そっかぁ……」
ぷぅっと唇を尖らせるファイに苦笑したユゥイが、黒鋼を見て「今夜は?」と聞いてくる。
「夕食はどうします?」
「あぁ……どうだろうな。会議の運び次第だが……今夜は難しいかもな」
「大変ですよねぇ……いちいちここに通うの」
ユゥイはなざかわざとらしく腕を組み、目を閉じてうんうんと唸っている。
「夜遅くまで仕事をして、お腹を空かせたまま誰が待つわけでもない、床が抜けた家に帰る……涙が出そうですよボクは」
「おまえ一体なにが言いてぇんだよ」
「え!? 黒たんおうち壊したの!? 凄いね! どうやって壊したの!?」
「あのな……別に倒壊させたわけじゃねぇんだぞ……」
「オレも黒たんくらい大きくなったらおうち壊せるようになる?」
「壊す必要がそもそもねぇだろ!」
そうなの? と首を傾げるファイに溜息をついて、黒鋼はとりあえずモリモリのナポリタンに再び口をつけながら考える。
今のアパートは学生時代からずっと住み続けていて、当時から相当なボロではあった。確か今年で築年数も25年になるのだったか。
面倒だという理由でずっと住み続けていたが、そろそろもう少しまともなところに引っ越しを考えてもいいのかもしれない。できれば、この近辺とか……。
するとユゥイが、絶妙なタイミングで独り言のような呟きを漏らした。
「上の階……一部屋余ってるんだよなぁ……」
「……あ?」
「物置代わりにしてるけど、なんだかんだで捨ててもいいようなガラクタばかりなんだよなぁ……」
チラリ。
「最近物騒だし、そういえば二件先のお宅に空き巣が入ったって聞いたなぁ。どこかに厳ついヤクザみたいなアル●ックさんがいてくれればなぁ」
チラリ。
「その選択を迫るようなチラ見はなんなんだよ……逆に食いつきにくいぞ」
「前より明らかにここに通う頻度も高くなってるわけですし、この際どうでしょう?」
「どうって……」
確かに引っ越しを考えようと思っていたタイミングではある。
しかもこの近辺であればなおよしだった。だが、流石に直接住み込むなんて頭はなくて、黒鋼はユゥイの申し出にただ戸惑った。
いや、家人がいいと言っているなら問題はないのだが。家探しの手間も省けるし、何より……。
黒鋼は横目で隣のファイを窺った。彼は黒鋼の飲みかけの紅茶のカップに大量の砂糖とミルクを入れて、勝手に飲んでは「ぷはー」と息を吐き出している。
ユゥイは僅かに身を乗り出すとファイの名前を呼んだ。
「ファイも、ここに黒鋼さんが一緒に住んだら嬉しいよね?」
「え? 住む……?」
ファイは目を丸くして黒鋼を見上げた。白い頬が、興奮してサッと赤く染まる。
「黒たん住むの!? 住むの!?」
「いや、それはまだ」
「黒たんここに住むの!? わぁいやったー!!」
「お、おい……」
ファイが思いっきり抱き付いてくるものだから、黒鋼は一瞬ナポリタンの皿をぶちまけそうになった。
当人がまだ戸惑いの最中にいるというのに、家人の一人であるファイは異常なまでのはしゃぎぶりを見せる。
「嬉しいー! じゃあこれからは毎日一緒にご飯食べれるんだねー!!」
「あのな、俺はまだ」
「お風呂も一緒に入ろうねー! 黒たんの背中ゴシゴシしてあげるー!」
「…………風呂、か」
「狭いから一緒に入るのは無理じゃないかな」
こ、このやろう。
悪くねぇなと流されかけていた黒鋼はギリギリと奥歯を噛み締めながらユゥイを睨み付ける。彼はどこ吹く風で「じゃあ決まりですね」と言って笑った。
物凄く強引に話が決まってしまったような気がするが、それよりも黒鋼はユゥイが漏らした安堵の溜息の方が気になった。
「てめぇ、一体なにが目的なんだよ」
「目的だなんて人聞きが悪い」
「吐け」
「…………」
こちらも有無を言わさぬ勢いで凄めば、ユゥイは肩を力なく落として疲れたような表情を見せる。
「狙われてるんですよ……その部屋」
「狙われてる? ……ああ、ひょっとするとあれか」
あの冗談が嫌いな男子高校生のことか。
「おまえらデキてるんじゃねぇのか?」
「まだですよ。いくらなんでも高校生に手を出すほど飢えてません」
まだ、と言い切るあたり、気を持たせるような真似は十分にしているような印象を受けるが。
「と、とにかく。このままだといつ大荷物を抱えて乗り込んでくるか、分からない勢いなんです。だから防犯の意味でもお願いします」
「人をセ●ム扱いすんなよ……」
ついでに将来の恋人候補を犯罪者予備軍扱いするのもやめてやれ……。
てっきり前進したと思っていたら、その場で足踏みをしていただけの少年を多少気の毒に思いつつ、諦めたような息を漏らす黒鋼だったが、次の瞬間、
「黒たん、一緒のベッドに寝ようねー!!」
というファイの無邪気な提案に派手に吹き出した。そんな黒鋼を見たユゥイはどこか冷やかに「ムッツリだなぁ……」と呟くのだった。
***
「黒たん待ってー!!」
特盛ナポリタンをどうにか胃袋に押し込んでから店を出た黒鋼は、商店街の出口付近で呼び止められ、足を止めた。
振り返れば、ファイが懸命に駆けてくる様子が見える。
「なんだ、追いかけてきたのか?」
「はーっ、よかった、間に合ったー!」
僅かに首を傾げる黒鋼に、大きく深呼吸して息を整えたファイは「うん」と頷きながら俯いた。
どうしたのかと彼の言葉を黙って待ち続けていると、ファイは黒いパンツの後ろポケットからあるものを取り出し、黒鋼に差し出してきた。
「これ、あげる」
それは、小さな黒わんの編みぐるみだった。
星空のテラスで思いを通じ合わせてから、ファイが帰り際に黒わんを手渡してくることはなくなっていた。
もう必要ないということは何度も言って聞かせてたし、彼も納得したはずだが。
「あのな、これはもう」
「うぅん違うの。ほら、ちゃんとマフラーしてるでしょ?」
確かに、その黒わんは以前のように裸ではなかった。小さな赤いマフラーをして、吊り上がっていた目も前に比べると少しだけ柔らかな印象を受ける。
黒鋼はそれを受け取ると、再びファイを見やった。
「ちゃんとしたの……一回もあげてなかったから。それ、黒たんにあげる」
「このためにわざわざ?」
「ユゥイがいるとこで渡すの、なんか恥ずかしかったの……」
恥じらうファイに小さく笑って、黒鋼は指で黒わんを優しく包み込む。
「あのね、それ、今までで一番上手にできたの。あとね、その、背中にね……」
「背中?」
うん、と頷くファイの赤い頬を見て、黒鋼はすぐに黒わんを引っくり返した。そこにあるものを見て、黒鋼もつい、顔が熱くなるのを感じる。
黒わんの背中には、ハート型に切り取られた赤いフェルトが縫い付けられていた。
ファイはもじもじと、胸元にぶら下がるオルゴールのペンダントを弄ぶ。それから、恥ずかしそうに上目使いで見上げてきた。
「ハート、もらってくれる……?」
こんちくしょう、と、黒鋼は思う。
赤い顔をして向かい合う二人の横を、シルバーカーを引く老人がゆっくりと横切って行った。遠くから青果店の肝っ玉熟女が客引きをする声が聞こえ、定食屋から出てきた親父が派手にクシャミをする。
豆腐屋のシャッターが開かれる音、蕎麦屋の出前が乗るバイクの排気音。井戸端会議に興じる奥様方の笑い声。
こんな場所じゃあ、抱きしめてキスをすることもできやしない。
「黒たん……?」
「あたりめぇだろ」
そう言って、黒鋼はその華奢な肩を掴んで引き寄せると、耳元に口を寄せる。
「今夜、遅くなっても必ず行く」
「え……?」
「待ってろよ」
ゆっくりと離れた黒鋼に、ファイはどこか潤んだ瞳でふにゃりと笑う。誰よりも眩しくて、誰よりも可愛い、甘い甘い、砂糖菓子のように。
燦々と降り注ぐ陽光。春を目の前に控えた、青い空。
きっと今夜も晴れるから。
「待ってる」
あの満天の星空の下、箱庭のような、小さなテラスで。
END
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あれから数日。
どうにか仕事から解放される目途が経った頃、黒鋼はユゥイに連絡を取った。
ファイの体調や、どんな様子でいるのかも知りたかったし、こちらの都合だけで突然店に顔を出せば、また怯えさせるかもしれない。だから次に店に行く日時を伝えるためにも、休憩の合間を見て携帯に電話をかけた。
すると、てっきりユゥイが応じるとばかり思っていた電話に出たのはファイ本人だった。
「具合はどうだ?」
意外に感じつつ送話口に向かって問いかけると、ファイがまだ少し沈んだ様子で「うん」と返事をした。
「無理すんなよ。病院は行ったか?」
『うぅん平気。あのね、オレ病気じゃないの。お医者さんじゃダメなの』
「?」
『くろがねさん』
よく知る声で、名前を呼ばれた。
自分の名前。けれど、まるで赤の他人の名前のように聞こえる。
「今、俺を呼んだのか?」
『……くろがねさん。あのね、お話、したいの』
「……それは構わねぇが」
『今じゃないの。会って話す。大事なことだから』
いつ帰る? という問いかけのあと、ファイは『明日?』とは聞かなかった。
彼にさらなる変化があったことは明白で、それがなんであるか黒鋼には予想もつかない。ただ、ファイが黒鋼の名前を呼んだ。黒わんではなく、黒鋼、と。
(なんだってんだよ……)
嫌な焦りが込み上げる。
いや、喪失感だろうか。自分の名前を正確に呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも重たい気分になるのだろう。
だが、ファイはこの場でその胸のうちを明かす気はないようだった。
「明後日には行く。そのまま行くから夜になるが……」
『わかった。待ってるね』
通話はたったそれだけで終わった。
***
はっきり言ってほとんど仕事にならなかった。
オンとオフの切り替えは極端すぎるほど徹底しているつもりでいたが、気づくとファイとの会話を思い出してはもやもやとした気持ちになった。
とはいえ仕事に私情を挟むなんて真似はできない。雑念を必死で振り払い、全ての仕事を終えた黒鋼は、職場ビルを出たその足ですぐに猫の目に向かった。
数日ぶりに店を訪れたとき、時計の針はちょうど夜の8時を指していた。
「おかえりなさい」
いつものようにカウンターの奥にいるユゥイが、皿を拭きながら顔を上げて笑う。
黒鋼はムッツリとした表情で「おう」と低く応じて、すぐに店内を見回した。
雑貨スペースのある、店の奥。テラスへと続くガラス張りのドアが半分だけ開いていて、ファイはこの寒空の下、いつもの席に座って背中を向けている。
「なにやってんだあいつ」
「あそこで待つって聞かないんですよ。一応コートの下には目一杯カイロを貼ってるんですけどね」
「そこまでして一体なにがあるってんだ」
「さぁーて……あ、ボクちょっと通りの看板下げてきますね」
そう言いながら、ユゥイはなぜか蝶ネクタイと腰のエプロンを外し、ベストを脱ぐとカウンターテーブルに適当に放った。そして、ファイと色違いの黒いコートを羽織って店を出て行こうとする。
「てめぇこら、ちょっと看板下げに行く格好じゃねぇだろ」
「多分また捕まるんで。熟女に」
「……あの双子の兄貴の方がそこの角にいたぞ。デートか」
「あれ、駅で待ち合わせたんだけどなぁ」
こいつらいつの間に……と、ここ数日モヤモヤしながら過ごしていた自分とのギャップに腹が立ってくる。
「じゃ、あとはよろしくお願いします」
そう言って、ユゥイは飄々とした様子で黒鋼に手を振ると、店を出て行ってしまう。あれだけゲンナリしながらあしらわれていたのに、あの小僧(兄)は一体どんな手を使ったんだ……。
確実に前進しているらしい彼らに比べ、後退の気配をひしひしと感じている黒鋼は、テラスに目をやるとなんとなく咳払いをして、それから一歩足を踏み出す。
(思い出すな)
初めて店に来た日のことを。
どんな気難しい人間なのかと身構えながら、黒鋼はこうしてテラスに向かった。
あの頃はこの店自体がえらく居心地が悪くて、自分が住む世界とは遠くかけ離れた空間のように思えた。仕事でもない限り、絶対に来ることはないだろうと。
それがなぜか、あの中身と見た目がまるきり異なる男に懐かれ、いつの間にか絆されていた。あれに好かれることが心地よくなるにつれ、この店そのものが黒鋼にとってかけがえのない場所になっていった。
多分、もう絶対に手放せない。だけど。
今日で何かが変わる。
そんな気がしていた。ファイが黒鋼の名を呼んだときから。あの瞬間から、黒鋼は黒わんとしての役目を終えたのだと思う。
なら、今から彼の前に立つ自分は、どんな姿形をしているのだろうか。
自分に都合のいい想像をするのは簡単だった。だが、心のどこかでは傷つかないための準備もしている。どうせ子供の気まぐれだったのだと、少しの間、付き合ってやっただけなのだと。
それでももしまだ間に合うなら、黒鋼には彼に伝えたい言葉が沢山ある。もしファイにとって自分の存在が不要になったのだとしても、黒鋼には、必要だった。
黒鋼はいつになく緊張している自分に気づいて、ゆっくりと震える息を吐き出した。
そのとき、音が聞こえた。
オルゴールが奏でるその曲は、ファイと初めてあったとき、彼が口ずさんでいたものだった。
黒鋼がテラスへと足を踏み入れた瞬間、飛び込んできた冬の夜空は星で溢れかえっていた。星に願いを込めたことなんかない。それでも、願わずにはいられない。
光が欲しい。ただひとつ、目の前の光が。
「風邪ひくぞ」
そう声をかけると、ファイはビクンと肩を震わせた。
黒鋼は、振り向くことなく俯く彼の隣の椅子に腰かける。店内から漏れる灯りと、満点の星空から降り注ぐ微かな光の中、ファイは首から下げたペンダントをしっかりと握りしめていた。
黒鋼は何も言わずに俯くファイに、「寒いな」と何気ない言葉をかけながら白い息を吐き出した。自分もカイロの一つくらい仕込んでくるべきだったろうか。
ファイは小さく「うん」と頷いた。そして、オルゴールが奏でるメロディだけが辺りに響き渡る。
何をしているんだと、黒鋼は胸の内で自身を叱咤した。ここに来ると言ったのは自分で、話があると言ったのはファイだ。互いがどう切り出せばいいか分からない状況の中、先に動かねばならないのは自分の方だった。
「なぁ」
「あの」
「…………」
「…………」
「なんだ」
「あ……んと……いいよ、オレは、後でも……」
ファイの方が引いたところで、オルゴールが止んだ。彼が切り出そうとした内容は気になるが、黒鋼はまず先に自分の思いを言葉に乗せる。
「悪かった。カレー、食いに来れなくてよ」
「……うぅん」
「俺は……」
おまえに会いたかったのだと、そう伝えようとしたところで、ずっと俯いていたファイが顔を上げる。不安そうに見上げてくる潤んだ瞳に、あの日のような星の瞬きはなかった。
燦々と輝く光の道で、彼はあんなにも煌めいていたのに。
『すごいすごーい! とってもキレイー!』
『黒わんと見れて、すごく嬉しい』
『おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー』
『ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!』
柔らかな声が蘇る。眩しくて、胸が締め付けられるくらいに無邪気な笑顔が。
今、彼の表情をこんな風に曇らせているのは他の誰でもない、黒鋼自身だ。
誰よりも大切にしたいと思った相手に。何よりも愛しいと感じた相手に。そう思わせてくれた存在に。今の今まで、何一つ伝えずにいたなんて。
黒鋼は知らぬ間に力んでいた肩から緊張を解いた。何も難しいことなんか、ないじゃないかと。
「俺は、おまえの笑ってる顔が好きだ」
「……くろ」
「おまえの声も、目も、髪も、すぐ泣いちまうところも」
「…………」
「全部、好きだ」
ファイは大きく目を見開いた。星空の下で、白い頬がほんのりと薄桃に染まる。
黒鋼の言う『好き』を、幼い彼は理解できないかもしれない。だけどそれでもよかった。黒鋼はファイが好きだ。誰よりも大切だ。その感情に嘘偽りがないことだけでも、伝わってほしい。
黒鋼が真っ直ぐにファイの目を見据えていると、彼はどこか落ち着かない様子で幾度か目を泳がせ、俯いた。
「……あ、あのね」
「おう」
「くろがねさん、も……ドキドキする?」
「……?」
「オレ……オレね、くろがねさんといると、ここがドキドキする」
そう言って、ファイはペンダントがぶら下がる自分の胸に手の平を這わせた。
「きゅってなって、苦しくなる……でも、すごく嬉しくて……恥ずかしくて……泣きそうになる……」
だけど、と続けて、ファイは辛そうな顔で再び黒鋼を見上げた。
「くろがねさんが、もし消えちゃったらどうしようって、いなくなっちゃったらどうしようって……もう来てくれなくなったらって……そう考えたら、オレ……」
ファイの頬に涙が伝った。星灯りの下で、それはキラリと小さく煌めく。
胸の中で燻っていた感情が、一気に熱く爆ぜるような気がした。堪らない気持ちになった黒鋼は、ぐっと奥歯を噛み締めると、華奢な身体を思い切り引き寄せる。その拍子に互いの椅子がガタンと音を立てて揺らぎ、体勢を崩す直前で両足で踏ん張ると、彼を抱きすくめるようにしながら立ち上がった。
案の定、椅子は二つとも音を立ててひっくり返る。それでも、黒鋼の意識は腕の中の温もりにだけ、注がれていた。
「く、くろが……ッ」
「おまえ、ちゃんと分かってんだな」
「ぇ……?」
「どうすんだよ。マジで離せなくなっちまった」
ファイの身体が熱い。一体どれほどカイロを仕込んでいるんだと思うと、声を上げて笑いたくなる。
黒鋼は少しだけ二人の間に隙間を作ると、戸惑いがちに肩に這わされていた手を取り、前を開いた状態のジャケットの中にそれを引き込んだ。ワイシャツの上から自分の胸の中心に触れさせて、ファイの瞳を覗き込む。
「どうなってる?」
「ドキドキ、してる……」
「おまえと一緒だな」
「……苦しい?」
「ああ」
息ができないくらいに。
ファイはやっぱり泣いてしまった。金色の睫毛に縁どられた青い瞳から透明な雫を幾つも溢れさせる。
黒鋼は親指でその目元をなぞり、熱い頬の感触を確かめると微かに笑った。
「あんま泣くなよ。ふやけちまうぞ」
「だ、って……だって……もう、嫌われちゃったと、思ってたから……ッ」
「んなわけねぇだろ」
「じゃあ……どこにも行かない……?」
「行かねぇよ」
「急にいなくなったり、しない……?」
「しねぇ」
「オレのこと……」
置いてったりしない?
その言葉を、黒鋼は唇を塞ぐことで飲み込ませた。
何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返していると、腕の中で強張っていた身体からすっかり力が抜ける。
ファイは顔を可哀想なくらい真っ赤にして、くったりと黒鋼の肩に額を預けると「ふわぁ~……」とおかしな声を上げた。
「だからなんなんだよ、その反応は」
「あ、あつくて……ふわふわ、しちゃうんだもん~……」
呼吸の隙は十分に与えていたはずだが、ファイはずっと息を止めていたようだった。ぐったりしながらはかはかと肩を上下させている。
息継ぎのタイミングをこれから教えていかなければと考えつつ、黒鋼はファイの耳元に唇を押し付けた。
「いいか、よく聞いとけよ」
「ん……」
「俺は、俺がおまえに会いてぇからここに来てる。だからもう、約束なんて関係ねぇ」
ファイが泣きながら裸の黒わんを手渡してくる瞬間が好きだった。恥ずかしそうに、新しい黒わんを預けてくる瞬間も。だけど、そんな我儘はもう終わりだ。
正直、叫び出したいほど照れ臭い。だけど恥ずかしがってもいられない。ここまで言ってもまだ不安になるのなら、その度に何度でも言ってやるから。
「ずっと、おまえの側にいる」
ファイは頷いて、何度も「嬉しい」と言った。嬉しくて、苦しいと。黒鋼だって同じだ。愛しくて、狂おしい。
ファイは黒鋼の肩から恥ずかしそうに顔を上げると、しがみついてくる腕の力をいっそう強めた。そして言った。
「くろがねさん、大好き」
その額に唇を押し付けて、黒鋼も囁くような吐息混じりの声で同じ想いを返した。
でもひとつだけ、腑に落ちない点がある。
「その、黒鋼さんってのやめねぇか?」
「どうして?」
「落ち着かねぇっつうかな」
ファイは不思議そうに小首を傾げた。
「だって……くろがねさんは黒わんじゃないよ?」
「まぁ……そうなんだけどな」
彼が理解してくれたのは嬉しい。黒鋼が黒わんの勤めを終えたとき、彼の目に映っていたのは自分という一人の人間だったことは喜ばしいことだ。
だけど落ち着かない。どうも居心地が悪いような、尻の座りが悪いような。
顔を顰める黒鋼に、ファイはパチパチと瞬きを繰り返した。それから、「んー」と視線だけ満天の夜空に向け、すぐに何か思いついたようにパッと表情を明るくする。
「じゃあ、黒たんだ」
「……たん、か」
「黒ぽんの方がいい?」
「どっちもどっちだが……まぁ……」
悪くねぇかと、そう言って笑ってやるとファイはあの黒鋼が大好きな、溶けた砂糖菓子のような情けない笑顔を見せた。
***
月は消えていた。
いつだって強い光で花畑を照らしていたはずの月が。
名も知らぬ白い花が咲き乱れる丘は暗く、風だけが温く吹きぬけていた。
その中央にぽつんと佇んでいるファイは、月さえも消え去ってしまった世界に取り残されている。
「黒わん……」
親友の名を呼ぶ声は、幼く甲高いものではなかった。
ファイは薄ぼんやりとした空間で、僅かに右腕を浮かせる。すらりと伸びたその腕は、華奢ではあるが大人の男のものだった。
まるで自分の身体じゃないような気がした。ここでファイはずっと母親とユゥイと三人で暮らしていた頃と同じ、小さな子供のまま過ごしていたから。大きくなった身体も、低くなった声も、変わってしまったこの世界も。実感が湧かない。
茫然としたままでいるファイは、ふと自分以外の気配を感じて顔を上げる。
後ろからゆっくりと近づくそれは、草を掻き分けるようにして足音を立てていた。
振り返ると、ずっと会いたかった『親友』の姿があった。
「黒わん……!」
ファイは彼に向かって駆け出した。赤いマフラーをした、黒いオオカミのような犬。そのふかふかの身体に、膝をついて両手を伸ばす。
『なんだよおまえ、まだこんなとこにいたのか』
「黒わん……黒わん……会いたかった……!」
ファイは泣きじゃくり、強く黒わんを抱きしめた。黒わんは大きな姿になってもやっぱり泣き虫のままでいるファイの背中を、ポンポンと優しく叩く。
会いたかった。ずっと会いたかった。もう二度と会えないかと思った。
だけど彼はちゃんと戻ってきてくれた。でも。
「黒わんて、こんなにちっちゃかったんだね」
腕の中にすっぽりと納まってしまうくらい、小さな黒わん。同じ目線で過ごしたはずなのに、まるで小さな子供を抱きしめているような気分だった。
黒わんは少しムッとして、吊り上がった目をさらに吊り上げる。
『おれはチビじゃねぇ。おまえがでっかくなったんだ。おれよりちっこかったくせに』
「そんなことないよー。おんなじくらいだったよー」
『いいや、おまえの方がチビだった』
「むー、なんか黒わんイジワルー」
ファイが唇を尖らせると、黒わんが笑った。だからファイも、声を上げて笑った。
「黒鋼さんって名前なんだ」
二人で並んで座り込み、真っ暗な空を見上げながら、ファイは黒わんに黒鋼の話をした。
ファイにとっての黒わんは今こうして隣にいる黒わんだけだから。だからあえて渾名ではなく、『黒鋼』と呼ぶ。
「大きくて、黒いツンツン頭でね、少し怖い顔してるの。黒わんにそっくりだったから、最初は黒わんだーって思っちゃったんだ」
『そんなに似てるのか?』
「うん。そっくり。だって黒わんと同じくらい優しいし、ぎゅってしてくれるもん」
あ、そうだ。そう言って、ファイは首にぶら下がるオルゴールのペンダントを黒わんに見せた。
「これね、音が鳴るんだ」
ネジを巻くと、可愛らしい音色が薄闇の空間に優しく響き渡った。
『ほしにねがいを、だな』
「うん。くれたの。黒鋼さんが」
ファイは木製のペンダントを愛しげに見つめ、その表面をそっと撫でる。
一度は床に投げつけてしまったけれど、どこにも傷がつかなくてよかった。大切にするって、約束したから。
ファイの横顔をじっと見つめて、黒わんは『いいやつだな』と言った。
「うん。いい人だよ」
『とくべつか?』
「うん。特別」
『おまえだけのひとなんだな』
「うん……オレだけの人」
『そうか』
ファイは目を閉じると、音の鳴りやんだペンダントをそっと胸に抱きしめる。
そして黒わんを見るとふわりと笑った。
「君もね」
『…………』
「君も、オレだけの友達だよ。オレの、一番の親友」
ファイは黒わんを抱き寄せると、身を屈めてそのピンと尖った耳にキスをした。そのまま柔らかな毛の感触を頬で確かめる。
胸が痛かった。少しだけ泣きたいような気がした。でも、涙は出なかった。
「どこにも行かないでって、そう言いたいけど。多分、お別れだね」
『ああ。おれの役目は、もうおわったからな』
「ありがとう、黒わん」
ずっと守ってくれた。
悲しいときも、嬉しいときも、いつもここにいてくれた。話を聞いて、優しく抱きしめてくれた。
今のファイは知っている。これはファイの夢の世界。この黒わんは、ただ自分の幼い心を守るためだけに作りだした、幻想だということ。
だけど温かかった。まるで現実のように。だから黒わんはここにいる。確かにいる。ファイだけの、大切な『親友』だ。
寂しいのは、大好きだから。
別れを恐れてはいけない。この温もりを手放してでも、ファイは殻を破らなくてはいけない。怖くても、先へ進まなくてはいけない。たとえどんなに幸せな過去があったとしても。美しい思い出と引き換えにしても。
同じ時間の中で、愛しい人と生きていくことを決めたから。
そのとき、寄り添う二人の頭上が一瞬、光った。揃って見上げた空に、一筋の星が走り抜ける。
「流れ星……?」
ファイは立ち上がると、その場から数歩前に進んだ。そして次から次へと流れる光の筋に目を輝かせる。
「こんなにたくさん……」
やがて空は眩い光に包まれる。星たちは、本当はずっとこの空にあった。月の光があまりにも強すぎて、ただ隠されていただけで。
ずっとずっと、ここにあった。
「黒わん、何かお願いごとしたら、きっと叶うよ!」
振り向くと、そこに黒わんはいなかった。
辺りを見回すと、ファイの数メートル先に佇む黒わんがいる。伸ばしかけた手を、ファイはぐっと堪えることで握りしめた。
「黒わん……」
『おれの願いは、もうかなったからいい』
「何を……お願いしたの?」
『おまえと、おなじだ』
黒わんは空を見上げた。同じように、ファイもキラキラと流れゆく満天の星空を見上げる。
『だれかの願いがかなったから、星がながれるんだ』
星の瞬きがあまりにも綺麗で、ファイは小さく微笑みながら一筋の涙を流した。
願うための光ではなく、願ったからこそ、星が駆け抜ける。一瞬の強い光を放ちながら。
「さよなら、黒わん」
ありがとう。
***
目が覚めて、ゆっくりと起き上がったファイは片方だけ濡れている頬をそっと指先で拭った。
幾度か瞬きをしてから、枕元を見やって行儀よく座っている黒わんのぬいぐるみを手に取る。向かい合うように膝に座らせて、直したばかりの耳をそっと撫でた。
こんなに穏やかな気持ちで目覚めたのは久しぶりだ。昨日までのファイは目が覚めるとただ悲しいばかりで、頬がぐしゃぐしゃになるくらい涙を流していたから。
「おはよ、黒わん」
額にそっとキスをして、ファイは微笑んだ。
まだ少しだけ、腕の中に抱きしめた黒わんの感触が残っているような気がした。たくさんの星が流れる空の下、最後のお別れをするために戻ってきてくれた親友。
彼の願いもファイの願いも、あの星々の中で光り輝いた。
同じ願い。それは、大好きな人とずっと一緒にいること。
だからあれは別れじゃない。
だって黒わんは、こうしてファイの腕の中にいるのだから。
もう話すことはできないし、これからも針と糸を通すことになるけれど。
「ずっとここにいたんだよね、君は」
ファイは黒わんをぎゅっと胸に抱きしめたあと、再びそっと枕元に座らせる。
そして、床に目を向けた。
絨毯の上に敷かれた布団で、どこか窮屈そうに背中を丸めて眠る人。ファイは「ふふふ」と笑うと、ベッドから降りて彼の上に思いっきり乗り上げた。
「おはよー黒たん! 朝だよ起きてー!」
「うお!? な、なんだ、なんだおまえは!」
「朝だよぉ! いつまで寝てるのー!」
「元気だな……」
大きな溜息をついて起き上がった黒鋼は、膝に乗ったままのファイの前髪をくしゃりと撫でた。
昨夜テラスで思いを打ち明け合ったあと、二人は長いことずっと夜空を見上げながら話をしていた。黒鋼が普段どんな仕事をしているのか、どうして時々遠くへ行かなくてはいけないのか、どんな会社で、どんな家に住んでいるのか。ファイは母親が生きていた頃にユゥイと三人で過ごした思い出や、どうやって黒わんと出会ったのか、そしてそのあと、どんなふうに施設で暮らしたのかを話した。
黒鋼は施設での話をすでに知っている様子だった。ユゥイから聞いていたのかもしれない。ずっと苦しそうに目を細め、ファイの手を強く握っていてくれた。
お互いのことを話しているうち、ユゥイが帰って来た。なぜか小龍もいて、そのあと四人で晩御飯を食べた。
そしてあのクリスマスの夜のように、終電を逃した黒鋼はそのままこの部屋に泊まったのだった。
しばらくは黒鋼に髪をわしゃわしゃと撫でられて声を上げて笑っていたファイだったが、その腕を掴んで押し戻しながら唇を尖らせる。
「また黒たんと夜中にお喋りできなかったよー」
「夜は寝るもんだ。しょうがねぇだろ」
「たまには夜更かししたいもん……起こしてくれればいいのに……」
「わざわざ起こすこともねぇだろ……つうか、寝ててもらわねぇと困る」
「なんでー?」
キョトンとした表情で小首を傾げると、なぜか黒鋼はそっぽを向いて咳払いをした。
「黒たん?」
「うるせぇな。ガキはとっとと寝るもんなんだよ」
「オレ、ガキじゃないよ! 大人だよ!」
だから困るんだろうが……と、悪人のような顔で目を逸らす黒鋼に、ファイはむぅーっと頬を膨らませる。黒鋼の言ってることは、まだ自分には難しいことなんだろうか。
「いいよー! あとでユゥイに聞くからー!」
「バカ野郎! それはやめとけ! そんなもん家族に聞いたって気まずくなるだけだぞ!」
「もー! またよく分かんないこと言うー! じゃあちゃんと教えてよー!」
「…………そのうちな」
「そのうちって明日?」
「阿呆」
黒鋼に額をペシッと叩かれて、ファイはますますふくれっ面をした。これは二人のことなのに、黒鋼だけが知っていて自分には分からないなんて、なんだかズルい。
すっかり不貞腐れてしまったファイの顔に、明後日の方向を向いている黒鋼がチラリと視線を寄越す。そして、指先で顎を持ち上げてきた瞬間、尖っていた唇にキスをされた。
「ッ……!」
ファイは一瞬で頬を赤らめる。頭の天辺から湯気が上がりそうだ。胸の内側で心臓がドンドンと忙しなく暴れ出して、息ができなくなる。
「う~~……」
「これで機嫌直せ」
「急にチュウするの、禁止だよぉ……」
熱くて苦しくて、そして恥ずかしくて。
骨抜き状態でくったりと広い胸板に身を預けるファイを、黒鋼は小さく笑うと抱きしめた。
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どうにか仕事から解放される目途が経った頃、黒鋼はユゥイに連絡を取った。
ファイの体調や、どんな様子でいるのかも知りたかったし、こちらの都合だけで突然店に顔を出せば、また怯えさせるかもしれない。だから次に店に行く日時を伝えるためにも、休憩の合間を見て携帯に電話をかけた。
すると、てっきりユゥイが応じるとばかり思っていた電話に出たのはファイ本人だった。
「具合はどうだ?」
意外に感じつつ送話口に向かって問いかけると、ファイがまだ少し沈んだ様子で「うん」と返事をした。
「無理すんなよ。病院は行ったか?」
『うぅん平気。あのね、オレ病気じゃないの。お医者さんじゃダメなの』
「?」
『くろがねさん』
よく知る声で、名前を呼ばれた。
自分の名前。けれど、まるで赤の他人の名前のように聞こえる。
「今、俺を呼んだのか?」
『……くろがねさん。あのね、お話、したいの』
「……それは構わねぇが」
『今じゃないの。会って話す。大事なことだから』
いつ帰る? という問いかけのあと、ファイは『明日?』とは聞かなかった。
彼にさらなる変化があったことは明白で、それがなんであるか黒鋼には予想もつかない。ただ、ファイが黒鋼の名前を呼んだ。黒わんではなく、黒鋼、と。
(なんだってんだよ……)
嫌な焦りが込み上げる。
いや、喪失感だろうか。自分の名前を正確に呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも重たい気分になるのだろう。
だが、ファイはこの場でその胸のうちを明かす気はないようだった。
「明後日には行く。そのまま行くから夜になるが……」
『わかった。待ってるね』
通話はたったそれだけで終わった。
***
はっきり言ってほとんど仕事にならなかった。
オンとオフの切り替えは極端すぎるほど徹底しているつもりでいたが、気づくとファイとの会話を思い出してはもやもやとした気持ちになった。
とはいえ仕事に私情を挟むなんて真似はできない。雑念を必死で振り払い、全ての仕事を終えた黒鋼は、職場ビルを出たその足ですぐに猫の目に向かった。
数日ぶりに店を訪れたとき、時計の針はちょうど夜の8時を指していた。
「おかえりなさい」
いつものようにカウンターの奥にいるユゥイが、皿を拭きながら顔を上げて笑う。
黒鋼はムッツリとした表情で「おう」と低く応じて、すぐに店内を見回した。
雑貨スペースのある、店の奥。テラスへと続くガラス張りのドアが半分だけ開いていて、ファイはこの寒空の下、いつもの席に座って背中を向けている。
「なにやってんだあいつ」
「あそこで待つって聞かないんですよ。一応コートの下には目一杯カイロを貼ってるんですけどね」
「そこまでして一体なにがあるってんだ」
「さぁーて……あ、ボクちょっと通りの看板下げてきますね」
そう言いながら、ユゥイはなぜか蝶ネクタイと腰のエプロンを外し、ベストを脱ぐとカウンターテーブルに適当に放った。そして、ファイと色違いの黒いコートを羽織って店を出て行こうとする。
「てめぇこら、ちょっと看板下げに行く格好じゃねぇだろ」
「多分また捕まるんで。熟女に」
「……あの双子の兄貴の方がそこの角にいたぞ。デートか」
「あれ、駅で待ち合わせたんだけどなぁ」
こいつらいつの間に……と、ここ数日モヤモヤしながら過ごしていた自分とのギャップに腹が立ってくる。
「じゃ、あとはよろしくお願いします」
そう言って、ユゥイは飄々とした様子で黒鋼に手を振ると、店を出て行ってしまう。あれだけゲンナリしながらあしらわれていたのに、あの小僧(兄)は一体どんな手を使ったんだ……。
確実に前進しているらしい彼らに比べ、後退の気配をひしひしと感じている黒鋼は、テラスに目をやるとなんとなく咳払いをして、それから一歩足を踏み出す。
(思い出すな)
初めて店に来た日のことを。
どんな気難しい人間なのかと身構えながら、黒鋼はこうしてテラスに向かった。
あの頃はこの店自体がえらく居心地が悪くて、自分が住む世界とは遠くかけ離れた空間のように思えた。仕事でもない限り、絶対に来ることはないだろうと。
それがなぜか、あの中身と見た目がまるきり異なる男に懐かれ、いつの間にか絆されていた。あれに好かれることが心地よくなるにつれ、この店そのものが黒鋼にとってかけがえのない場所になっていった。
多分、もう絶対に手放せない。だけど。
今日で何かが変わる。
そんな気がしていた。ファイが黒鋼の名を呼んだときから。あの瞬間から、黒鋼は黒わんとしての役目を終えたのだと思う。
なら、今から彼の前に立つ自分は、どんな姿形をしているのだろうか。
自分に都合のいい想像をするのは簡単だった。だが、心のどこかでは傷つかないための準備もしている。どうせ子供の気まぐれだったのだと、少しの間、付き合ってやっただけなのだと。
それでももしまだ間に合うなら、黒鋼には彼に伝えたい言葉が沢山ある。もしファイにとって自分の存在が不要になったのだとしても、黒鋼には、必要だった。
黒鋼はいつになく緊張している自分に気づいて、ゆっくりと震える息を吐き出した。
そのとき、音が聞こえた。
オルゴールが奏でるその曲は、ファイと初めてあったとき、彼が口ずさんでいたものだった。
黒鋼がテラスへと足を踏み入れた瞬間、飛び込んできた冬の夜空は星で溢れかえっていた。星に願いを込めたことなんかない。それでも、願わずにはいられない。
光が欲しい。ただひとつ、目の前の光が。
「風邪ひくぞ」
そう声をかけると、ファイはビクンと肩を震わせた。
黒鋼は、振り向くことなく俯く彼の隣の椅子に腰かける。店内から漏れる灯りと、満点の星空から降り注ぐ微かな光の中、ファイは首から下げたペンダントをしっかりと握りしめていた。
黒鋼は何も言わずに俯くファイに、「寒いな」と何気ない言葉をかけながら白い息を吐き出した。自分もカイロの一つくらい仕込んでくるべきだったろうか。
ファイは小さく「うん」と頷いた。そして、オルゴールが奏でるメロディだけが辺りに響き渡る。
何をしているんだと、黒鋼は胸の内で自身を叱咤した。ここに来ると言ったのは自分で、話があると言ったのはファイだ。互いがどう切り出せばいいか分からない状況の中、先に動かねばならないのは自分の方だった。
「なぁ」
「あの」
「…………」
「…………」
「なんだ」
「あ……んと……いいよ、オレは、後でも……」
ファイの方が引いたところで、オルゴールが止んだ。彼が切り出そうとした内容は気になるが、黒鋼はまず先に自分の思いを言葉に乗せる。
「悪かった。カレー、食いに来れなくてよ」
「……うぅん」
「俺は……」
おまえに会いたかったのだと、そう伝えようとしたところで、ずっと俯いていたファイが顔を上げる。不安そうに見上げてくる潤んだ瞳に、あの日のような星の瞬きはなかった。
燦々と輝く光の道で、彼はあんなにも煌めいていたのに。
『すごいすごーい! とってもキレイー!』
『黒わんと見れて、すごく嬉しい』
『おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー』
『ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!』
柔らかな声が蘇る。眩しくて、胸が締め付けられるくらいに無邪気な笑顔が。
今、彼の表情をこんな風に曇らせているのは他の誰でもない、黒鋼自身だ。
誰よりも大切にしたいと思った相手に。何よりも愛しいと感じた相手に。そう思わせてくれた存在に。今の今まで、何一つ伝えずにいたなんて。
黒鋼は知らぬ間に力んでいた肩から緊張を解いた。何も難しいことなんか、ないじゃないかと。
「俺は、おまえの笑ってる顔が好きだ」
「……くろ」
「おまえの声も、目も、髪も、すぐ泣いちまうところも」
「…………」
「全部、好きだ」
ファイは大きく目を見開いた。星空の下で、白い頬がほんのりと薄桃に染まる。
黒鋼の言う『好き』を、幼い彼は理解できないかもしれない。だけどそれでもよかった。黒鋼はファイが好きだ。誰よりも大切だ。その感情に嘘偽りがないことだけでも、伝わってほしい。
黒鋼が真っ直ぐにファイの目を見据えていると、彼はどこか落ち着かない様子で幾度か目を泳がせ、俯いた。
「……あ、あのね」
「おう」
「くろがねさん、も……ドキドキする?」
「……?」
「オレ……オレね、くろがねさんといると、ここがドキドキする」
そう言って、ファイはペンダントがぶら下がる自分の胸に手の平を這わせた。
「きゅってなって、苦しくなる……でも、すごく嬉しくて……恥ずかしくて……泣きそうになる……」
だけど、と続けて、ファイは辛そうな顔で再び黒鋼を見上げた。
「くろがねさんが、もし消えちゃったらどうしようって、いなくなっちゃったらどうしようって……もう来てくれなくなったらって……そう考えたら、オレ……」
ファイの頬に涙が伝った。星灯りの下で、それはキラリと小さく煌めく。
胸の中で燻っていた感情が、一気に熱く爆ぜるような気がした。堪らない気持ちになった黒鋼は、ぐっと奥歯を噛み締めると、華奢な身体を思い切り引き寄せる。その拍子に互いの椅子がガタンと音を立てて揺らぎ、体勢を崩す直前で両足で踏ん張ると、彼を抱きすくめるようにしながら立ち上がった。
案の定、椅子は二つとも音を立ててひっくり返る。それでも、黒鋼の意識は腕の中の温もりにだけ、注がれていた。
「く、くろが……ッ」
「おまえ、ちゃんと分かってんだな」
「ぇ……?」
「どうすんだよ。マジで離せなくなっちまった」
ファイの身体が熱い。一体どれほどカイロを仕込んでいるんだと思うと、声を上げて笑いたくなる。
黒鋼は少しだけ二人の間に隙間を作ると、戸惑いがちに肩に這わされていた手を取り、前を開いた状態のジャケットの中にそれを引き込んだ。ワイシャツの上から自分の胸の中心に触れさせて、ファイの瞳を覗き込む。
「どうなってる?」
「ドキドキ、してる……」
「おまえと一緒だな」
「……苦しい?」
「ああ」
息ができないくらいに。
ファイはやっぱり泣いてしまった。金色の睫毛に縁どられた青い瞳から透明な雫を幾つも溢れさせる。
黒鋼は親指でその目元をなぞり、熱い頬の感触を確かめると微かに笑った。
「あんま泣くなよ。ふやけちまうぞ」
「だ、って……だって……もう、嫌われちゃったと、思ってたから……ッ」
「んなわけねぇだろ」
「じゃあ……どこにも行かない……?」
「行かねぇよ」
「急にいなくなったり、しない……?」
「しねぇ」
「オレのこと……」
置いてったりしない?
その言葉を、黒鋼は唇を塞ぐことで飲み込ませた。
何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返していると、腕の中で強張っていた身体からすっかり力が抜ける。
ファイは顔を可哀想なくらい真っ赤にして、くったりと黒鋼の肩に額を預けると「ふわぁ~……」とおかしな声を上げた。
「だからなんなんだよ、その反応は」
「あ、あつくて……ふわふわ、しちゃうんだもん~……」
呼吸の隙は十分に与えていたはずだが、ファイはずっと息を止めていたようだった。ぐったりしながらはかはかと肩を上下させている。
息継ぎのタイミングをこれから教えていかなければと考えつつ、黒鋼はファイの耳元に唇を押し付けた。
「いいか、よく聞いとけよ」
「ん……」
「俺は、俺がおまえに会いてぇからここに来てる。だからもう、約束なんて関係ねぇ」
ファイが泣きながら裸の黒わんを手渡してくる瞬間が好きだった。恥ずかしそうに、新しい黒わんを預けてくる瞬間も。だけど、そんな我儘はもう終わりだ。
正直、叫び出したいほど照れ臭い。だけど恥ずかしがってもいられない。ここまで言ってもまだ不安になるのなら、その度に何度でも言ってやるから。
「ずっと、おまえの側にいる」
ファイは頷いて、何度も「嬉しい」と言った。嬉しくて、苦しいと。黒鋼だって同じだ。愛しくて、狂おしい。
ファイは黒鋼の肩から恥ずかしそうに顔を上げると、しがみついてくる腕の力をいっそう強めた。そして言った。
「くろがねさん、大好き」
その額に唇を押し付けて、黒鋼も囁くような吐息混じりの声で同じ想いを返した。
でもひとつだけ、腑に落ちない点がある。
「その、黒鋼さんってのやめねぇか?」
「どうして?」
「落ち着かねぇっつうかな」
ファイは不思議そうに小首を傾げた。
「だって……くろがねさんは黒わんじゃないよ?」
「まぁ……そうなんだけどな」
彼が理解してくれたのは嬉しい。黒鋼が黒わんの勤めを終えたとき、彼の目に映っていたのは自分という一人の人間だったことは喜ばしいことだ。
だけど落ち着かない。どうも居心地が悪いような、尻の座りが悪いような。
顔を顰める黒鋼に、ファイはパチパチと瞬きを繰り返した。それから、「んー」と視線だけ満天の夜空に向け、すぐに何か思いついたようにパッと表情を明るくする。
「じゃあ、黒たんだ」
「……たん、か」
「黒ぽんの方がいい?」
「どっちもどっちだが……まぁ……」
悪くねぇかと、そう言って笑ってやるとファイはあの黒鋼が大好きな、溶けた砂糖菓子のような情けない笑顔を見せた。
***
月は消えていた。
いつだって強い光で花畑を照らしていたはずの月が。
名も知らぬ白い花が咲き乱れる丘は暗く、風だけが温く吹きぬけていた。
その中央にぽつんと佇んでいるファイは、月さえも消え去ってしまった世界に取り残されている。
「黒わん……」
親友の名を呼ぶ声は、幼く甲高いものではなかった。
ファイは薄ぼんやりとした空間で、僅かに右腕を浮かせる。すらりと伸びたその腕は、華奢ではあるが大人の男のものだった。
まるで自分の身体じゃないような気がした。ここでファイはずっと母親とユゥイと三人で暮らしていた頃と同じ、小さな子供のまま過ごしていたから。大きくなった身体も、低くなった声も、変わってしまったこの世界も。実感が湧かない。
茫然としたままでいるファイは、ふと自分以外の気配を感じて顔を上げる。
後ろからゆっくりと近づくそれは、草を掻き分けるようにして足音を立てていた。
振り返ると、ずっと会いたかった『親友』の姿があった。
「黒わん……!」
ファイは彼に向かって駆け出した。赤いマフラーをした、黒いオオカミのような犬。そのふかふかの身体に、膝をついて両手を伸ばす。
『なんだよおまえ、まだこんなとこにいたのか』
「黒わん……黒わん……会いたかった……!」
ファイは泣きじゃくり、強く黒わんを抱きしめた。黒わんは大きな姿になってもやっぱり泣き虫のままでいるファイの背中を、ポンポンと優しく叩く。
会いたかった。ずっと会いたかった。もう二度と会えないかと思った。
だけど彼はちゃんと戻ってきてくれた。でも。
「黒わんて、こんなにちっちゃかったんだね」
腕の中にすっぽりと納まってしまうくらい、小さな黒わん。同じ目線で過ごしたはずなのに、まるで小さな子供を抱きしめているような気分だった。
黒わんは少しムッとして、吊り上がった目をさらに吊り上げる。
『おれはチビじゃねぇ。おまえがでっかくなったんだ。おれよりちっこかったくせに』
「そんなことないよー。おんなじくらいだったよー」
『いいや、おまえの方がチビだった』
「むー、なんか黒わんイジワルー」
ファイが唇を尖らせると、黒わんが笑った。だからファイも、声を上げて笑った。
「黒鋼さんって名前なんだ」
二人で並んで座り込み、真っ暗な空を見上げながら、ファイは黒わんに黒鋼の話をした。
ファイにとっての黒わんは今こうして隣にいる黒わんだけだから。だからあえて渾名ではなく、『黒鋼』と呼ぶ。
「大きくて、黒いツンツン頭でね、少し怖い顔してるの。黒わんにそっくりだったから、最初は黒わんだーって思っちゃったんだ」
『そんなに似てるのか?』
「うん。そっくり。だって黒わんと同じくらい優しいし、ぎゅってしてくれるもん」
あ、そうだ。そう言って、ファイは首にぶら下がるオルゴールのペンダントを黒わんに見せた。
「これね、音が鳴るんだ」
ネジを巻くと、可愛らしい音色が薄闇の空間に優しく響き渡った。
『ほしにねがいを、だな』
「うん。くれたの。黒鋼さんが」
ファイは木製のペンダントを愛しげに見つめ、その表面をそっと撫でる。
一度は床に投げつけてしまったけれど、どこにも傷がつかなくてよかった。大切にするって、約束したから。
ファイの横顔をじっと見つめて、黒わんは『いいやつだな』と言った。
「うん。いい人だよ」
『とくべつか?』
「うん。特別」
『おまえだけのひとなんだな』
「うん……オレだけの人」
『そうか』
ファイは目を閉じると、音の鳴りやんだペンダントをそっと胸に抱きしめる。
そして黒わんを見るとふわりと笑った。
「君もね」
『…………』
「君も、オレだけの友達だよ。オレの、一番の親友」
ファイは黒わんを抱き寄せると、身を屈めてそのピンと尖った耳にキスをした。そのまま柔らかな毛の感触を頬で確かめる。
胸が痛かった。少しだけ泣きたいような気がした。でも、涙は出なかった。
「どこにも行かないでって、そう言いたいけど。多分、お別れだね」
『ああ。おれの役目は、もうおわったからな』
「ありがとう、黒わん」
ずっと守ってくれた。
悲しいときも、嬉しいときも、いつもここにいてくれた。話を聞いて、優しく抱きしめてくれた。
今のファイは知っている。これはファイの夢の世界。この黒わんは、ただ自分の幼い心を守るためだけに作りだした、幻想だということ。
だけど温かかった。まるで現実のように。だから黒わんはここにいる。確かにいる。ファイだけの、大切な『親友』だ。
寂しいのは、大好きだから。
別れを恐れてはいけない。この温もりを手放してでも、ファイは殻を破らなくてはいけない。怖くても、先へ進まなくてはいけない。たとえどんなに幸せな過去があったとしても。美しい思い出と引き換えにしても。
同じ時間の中で、愛しい人と生きていくことを決めたから。
そのとき、寄り添う二人の頭上が一瞬、光った。揃って見上げた空に、一筋の星が走り抜ける。
「流れ星……?」
ファイは立ち上がると、その場から数歩前に進んだ。そして次から次へと流れる光の筋に目を輝かせる。
「こんなにたくさん……」
やがて空は眩い光に包まれる。星たちは、本当はずっとこの空にあった。月の光があまりにも強すぎて、ただ隠されていただけで。
ずっとずっと、ここにあった。
「黒わん、何かお願いごとしたら、きっと叶うよ!」
振り向くと、そこに黒わんはいなかった。
辺りを見回すと、ファイの数メートル先に佇む黒わんがいる。伸ばしかけた手を、ファイはぐっと堪えることで握りしめた。
「黒わん……」
『おれの願いは、もうかなったからいい』
「何を……お願いしたの?」
『おまえと、おなじだ』
黒わんは空を見上げた。同じように、ファイもキラキラと流れゆく満天の星空を見上げる。
『だれかの願いがかなったから、星がながれるんだ』
星の瞬きがあまりにも綺麗で、ファイは小さく微笑みながら一筋の涙を流した。
願うための光ではなく、願ったからこそ、星が駆け抜ける。一瞬の強い光を放ちながら。
「さよなら、黒わん」
ありがとう。
***
目が覚めて、ゆっくりと起き上がったファイは片方だけ濡れている頬をそっと指先で拭った。
幾度か瞬きをしてから、枕元を見やって行儀よく座っている黒わんのぬいぐるみを手に取る。向かい合うように膝に座らせて、直したばかりの耳をそっと撫でた。
こんなに穏やかな気持ちで目覚めたのは久しぶりだ。昨日までのファイは目が覚めるとただ悲しいばかりで、頬がぐしゃぐしゃになるくらい涙を流していたから。
「おはよ、黒わん」
額にそっとキスをして、ファイは微笑んだ。
まだ少しだけ、腕の中に抱きしめた黒わんの感触が残っているような気がした。たくさんの星が流れる空の下、最後のお別れをするために戻ってきてくれた親友。
彼の願いもファイの願いも、あの星々の中で光り輝いた。
同じ願い。それは、大好きな人とずっと一緒にいること。
だからあれは別れじゃない。
だって黒わんは、こうしてファイの腕の中にいるのだから。
もう話すことはできないし、これからも針と糸を通すことになるけれど。
「ずっとここにいたんだよね、君は」
ファイは黒わんをぎゅっと胸に抱きしめたあと、再びそっと枕元に座らせる。
そして、床に目を向けた。
絨毯の上に敷かれた布団で、どこか窮屈そうに背中を丸めて眠る人。ファイは「ふふふ」と笑うと、ベッドから降りて彼の上に思いっきり乗り上げた。
「おはよー黒たん! 朝だよ起きてー!」
「うお!? な、なんだ、なんだおまえは!」
「朝だよぉ! いつまで寝てるのー!」
「元気だな……」
大きな溜息をついて起き上がった黒鋼は、膝に乗ったままのファイの前髪をくしゃりと撫でた。
昨夜テラスで思いを打ち明け合ったあと、二人は長いことずっと夜空を見上げながら話をしていた。黒鋼が普段どんな仕事をしているのか、どうして時々遠くへ行かなくてはいけないのか、どんな会社で、どんな家に住んでいるのか。ファイは母親が生きていた頃にユゥイと三人で過ごした思い出や、どうやって黒わんと出会ったのか、そしてそのあと、どんなふうに施設で暮らしたのかを話した。
黒鋼は施設での話をすでに知っている様子だった。ユゥイから聞いていたのかもしれない。ずっと苦しそうに目を細め、ファイの手を強く握っていてくれた。
お互いのことを話しているうち、ユゥイが帰って来た。なぜか小龍もいて、そのあと四人で晩御飯を食べた。
そしてあのクリスマスの夜のように、終電を逃した黒鋼はそのままこの部屋に泊まったのだった。
しばらくは黒鋼に髪をわしゃわしゃと撫でられて声を上げて笑っていたファイだったが、その腕を掴んで押し戻しながら唇を尖らせる。
「また黒たんと夜中にお喋りできなかったよー」
「夜は寝るもんだ。しょうがねぇだろ」
「たまには夜更かししたいもん……起こしてくれればいいのに……」
「わざわざ起こすこともねぇだろ……つうか、寝ててもらわねぇと困る」
「なんでー?」
キョトンとした表情で小首を傾げると、なぜか黒鋼はそっぽを向いて咳払いをした。
「黒たん?」
「うるせぇな。ガキはとっとと寝るもんなんだよ」
「オレ、ガキじゃないよ! 大人だよ!」
だから困るんだろうが……と、悪人のような顔で目を逸らす黒鋼に、ファイはむぅーっと頬を膨らませる。黒鋼の言ってることは、まだ自分には難しいことなんだろうか。
「いいよー! あとでユゥイに聞くからー!」
「バカ野郎! それはやめとけ! そんなもん家族に聞いたって気まずくなるだけだぞ!」
「もー! またよく分かんないこと言うー! じゃあちゃんと教えてよー!」
「…………そのうちな」
「そのうちって明日?」
「阿呆」
黒鋼に額をペシッと叩かれて、ファイはますますふくれっ面をした。これは二人のことなのに、黒鋼だけが知っていて自分には分からないなんて、なんだかズルい。
すっかり不貞腐れてしまったファイの顔に、明後日の方向を向いている黒鋼がチラリと視線を寄越す。そして、指先で顎を持ち上げてきた瞬間、尖っていた唇にキスをされた。
「ッ……!」
ファイは一瞬で頬を赤らめる。頭の天辺から湯気が上がりそうだ。胸の内側で心臓がドンドンと忙しなく暴れ出して、息ができなくなる。
「う~~……」
「これで機嫌直せ」
「急にチュウするの、禁止だよぉ……」
熱くて苦しくて、そして恥ずかしくて。
骨抜き状態でくったりと広い胸板に身を預けるファイを、黒鋼は小さく笑うと抱きしめた。
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「ファイ、起きてて大丈夫? 今は苦しくない?」
椅子に腰かけてぼんやりとしていたファイは、ホットミルクの入ったカップを持ってやってきたユゥイにゆっくりと顔を上げた。
「無理してお店に出なくてもいいんだよ。はい、これ飲んで」
「ん、ありがと」
「やっぱり少し熱っぽいね。本当に病院、行かなくていいの?」
カップを受け取って指先を温めるファイの額に、ユゥイの優しい手が触れる。ひんやりとして気持ちがよかったが、彼の口から飛び出した『病院』という単語に、慌てて首を左右に振った。
「い、いいよー。平気ー」
「……注射が怖いんでしょ」
「う……」
黒鋼と電話で話したのは三日前。
ファイはあまりにも思いつめたせいか、あれからずっと身体が熱っぽくて頭がぼんやりとしていた。
ユゥイは何度も病院へ行こうと言うが、できれば行きたくなかった。行けば注射をするかもしれない。縫い物をする時の針ですら本当は怖いのに、それよりも太いものが刺さるなんて絶対に嫌だった。痛いし、怖い。
黒わんが壊れる度に針を通すことはできるくせに、いざ自分がとなると身が竦む。こんなだから、黒わんは何も言わずに消えてしまったんだろうか。
それに、起き上がれないほど辛いわけでもなかった。気づくと溜息が漏れて、黒鋼のことを考えないようにしていても考えてしまうから、その度に胸がズキズキと痛むだけで。
今だって思い出してしまったせいで胸が痛い。咄嗟に手を心臓の辺りに押し付けると、いつもしていたはずのペンダントの感触ないことに、また苦しくなった。
「…………」
「……ずっと苦しそうだね。そこ、痛い?」
「……ズキズキする」
「やっぱり念のため病院で診てもらおうよ。何か大きな病気だったら大変だし」
「…………うん」
そうなんだろうか。この痛みは、病院で診てもらえばなくなるんだろうか。
だとしたら、黒鋼とキスをした時に感じたあのドキドキも、やっぱり病気だったということになるのか。
もし治せるなら、治したい。前みたいに何も考えないで、ただ楽しく好きな雑貨を作って過ごしたい。叶うなら、黒鋼と出会う前に戻りたかった。
(嫌いになるって決めたのに……)
どうしてこんなに胸が痛いのか、寂しくて仕方がないのか分からない。早く忘れないと、黒鋼はもうここには来ないのだから。
ファイにはユゥイがいる。サクラや小狼や、小龍がいる。いつも店に遊びに来てくれる友達が沢山いる。夢の中の黒わんは、やっぱりどこを探してもいないけど。
(オレはもう一人じゃないんだ)
だから、もう黒わんがいなくても……。
そのときだった。ドアベルがカラリと音を立てて、扉が開いた。お客さんだろうかと顔を上げると、そこには今いちばん会いたくないはずの人間の姿があった。
彼はいつものようにスーツの上からジャケットを羽織り、赤いマフラーを首から下げて大きな鞄を持っていた。
「!」
「おう、邪魔するぜ」
「黒鋼さん? どうして?」
黒鋼はムッツリと不機嫌そうに顔を顰め、ズカズカと店に入って来る。
「今戻った。会社に戻る前に、ちょっとな」
「出張先からそのまま?」
まぁな、と短く返事をした黒鋼は、険しい表情のままファイの元へ近づこうとした。身体が竦みあがるような思いがして、ファイは思わず席を立つ。その拍子に手の中からホットミルクの入ったカップが落ちて、床に中身をぶちまけながら粉々に砕けた。
「ッ……!!」
「大丈夫!? すぐに離れて、怪我すると危ないから!」
白い液体で汚れた床と、バラバラのカップを見てファイは茫然とした。真っ青な顔をしてピクリとも動けないでいると、右手首を掴まれる。
肩を震わせ、見上げれば黒鋼が怖い顔をして「離れろ」と低く言い、引き寄せようとする。
ファイは、咄嗟にその腕を振り払ってしまった。
「ッ!」
息を飲む黒鋼から慌てて距離を取り、ジリジリと背後に後ずさる。やがて二階へと続く階段がある扉に、背中がぶつかった。
黒鋼は振り払われた手を宙に浮かせたまま、目を見開いていた。けれどすぐに吊り上がった目を細め、大きく息を吐き出した。
「俺がなにかしたか?」
「…………」
「言わなきゃ分かんねぇだろ」
「……どうして、来たの?」
ファイは黒鋼の問いかけには答えず、自らの疑問だけを口にした。
黒鋼は、多分とても怒っている。あんな酷いことを言ったのだから当たり前だ。だからきっと、もう嫌われてしまったに違いない。
なのに、どうしてわざわざ来たんだろう。
「どうして来たって……そんなもん、おまえに……」
「オレ、もう会いたくないって言ったよ」
「……だからその理由を確かめに来たんだろうが」
「オレはもう……黒わんのこと嫌いになるって決めたから!」
「はぁ?」
何を言っているんだこいつは、という表情で、黒鋼はユゥイを見た。ユゥイは困っているとも笑っているともつかない、なんともいえない曖昧な表情を浮かべていた。
ファイは、とにかく黒鋼にこの思いを伝えなくてはと焦りを覚える。
彼がいると苦しい。彼がいなくなってしまったとき、どうしたらいいか分からない。ただ、今よりもっと辛い気持ちになることだけは分かる。だから、その前に。
「黒わんと、もう一緒にいたくない……だから嫌いになる……」
「……俺は、もういらねぇってことか?」
――だけど、おれはもういらないみたいだ。
「……ッ」
あのときと同じだ。寂しそうにそう言って、黒わんは消えた。
ファイが上手に話せなかったから。だから黒わんを傷つけてしまった。黒わんに、嫌われてしまった。
胸が苦しい。痛くて痛くて、息ができない。自分の心を制御できない。
間違っていたんだろうか。何を間違えてしまったんだろうか。
ファイは胸を押さえ、泣き叫びたいのを堪えて背後の扉を開けると、その場から逃げ出してしまった。
***
「ありゃ一体どういうことだ」
カウンターに向かって座り、熱いお茶を飲んで一息ついた黒鋼は、不機嫌オーラ全開で向かいのユゥイを睨み付ける。
彼は床を掃除し、黒鋼にお茶をだしてからというもの、ずっと複雑そうな表情で黙りこくっていた。
「おい、なんとか言え」
「……なんとなく、考えてることは分からなくもないんですけどね」
双子の以心伝心というやつだろうか。
ユゥイは多少なりともファイの考えていることが分かっているようだが、黒鋼にしてみれば雲を掴むような話だ。
彼が何かしら思い悩んでいるらしいことは、あの電話の様子からも明らかだった。
だからこそ、本当ならすぐにでも職場に戻らなければならないところを、こうして足を運んだ。ファイが何を考え、何を思ってあのようなことを言ったのか、ここに来ればハッキリするものとばかり思っていたのに。
考え込む黒鋼に、ユゥイはさらに気になることを口にした。
「体調も優れないようで……ずっと微熱が続いてるんです」
「風邪か? 病院は連れてったのか」
「行きたがらないんですよ。注射が怖いみたいですね」
「そんなもん、ガキじゃねぇんだから……って……」
ガキだったな、と零す黒鋼に、ユゥイが苦笑する。
彼も手を焼いているのかもしれない。ファイはあれでいて、なかなか頑固なところがある。
「夢見もあまりよくないみたいなんですよね。それが原因で精神的に不安定になっているのかもしれません。だから元気づけようと思って、一緒にカレーを作ったのに」
ちらりと目を合わせてくるユゥイの視線に、そこはかとなく棘が含まれている。思いっきり嫌そうに顔を顰めた黒鋼を見て、彼はまた苦笑した。
「分かってますよ。タイミングが悪かっただけだって」
「だったら言うなよ。俺だってな……」
「ファイに会いたくてたまらなかった?」
「…………」
「それ、ちゃんと本人に言いました?」
「……別にわざわざ言わなくたって分かんだろ」
「おかしいですよね」
何が、と目で問えば、彼は腕を組んで僅かに首を傾げた。
「子供が悪いことをすれば、繰り返し言い聞かせるでしょ? 分かるまで、何度でも根気よく」
「……そうだな」
「どうしてその逆はできないんだろう。叱るときは繰り返し同じことを言って聞かせるのに。何度も何度も、愛情を伝えることはしないんだろう」
黒鋼は、何も返すことができなかった。
けれど彼の言う通りだと思う。ファイはいつだって自分を待っていてくれた。帰り際には必ず「ずっと一緒にいたい」と言いながら大粒の涙を流して、裸の黒わんを預けてきた。
もうそんな脅しなど必要ないと、いつかちゃんと教えてやらなくてはと……。
(……いつかってのは、そもそもいつなんだろうな)
ふと、思う。
真っ直ぐに向けられる感情、言葉、笑顔。泣き顔さえも眩しくて、黒鋼はファイに惹かれた。ずっと手を引いて歩きたいと思った。あんなにも誰かを愛しいと感じたことはなかった。
けれどいつの間にか、望まれることばかりが当たり前になってはいなかったか?
それこそわざわざ言わずとも、ファイが黒鋼を心から信用していれば、彼はそんな小さな脅しなどかけ続けずに済んでいたのではないか?
約束がなくても会いに来てくれる。無条件に好意を寄せてくれる。そんな相手に、黒鋼はなれていなかったということではないか……?
会いたいから、会いに来ているのだと。一度でも言葉にしていたら、あんな顔をさせずに済んだかもしれないのに。
――黒わんのこと嫌いになるって決めたから。
(この世の終わりみてぇな顔して言いやがって……)
黒鋼はカウンターに肘をついて項垂れ、頭をガリガリと掻きむしった。苛立ちを含ませた深い溜息が、磨きこまれたテーブルの表面を僅かに曇らせる。
情けなかった。当たり前のことを、当たり前のように伝えていなかった自分の怠慢が、彼を不安にさせてしまったのだとしたら。
苦い錠剤を噛み潰したような気分だ。嫌な感覚がどろりと身体中に広がる。
ああこれは、後悔だ。
いちど口をつけただけのカップに手を伸ばす。指先に血が通い、じんと痺れるほどに熱かったはずのそれが、今はただ冷たく無機質に感じられた。
黒鋼は一度ゆっくりと瞬きをして、それからジャケットのポケットから裸の黒わんを取り出した。吊り上がった目と、真っ黒の身体。不愛想で、可愛げなんて欠片もない。確かに似ているかもしれない。だけど、黒鋼は黒わんではない。
「あいつに言っといてくれねぇか」
冷めたカップの横に、黒わんを座らせる。そして黒鋼は席を立った。
「また来る。そんときゃ逃げずに、ツラ見せろってな」
「いいんですか? それ置いて行って」
「ここに来たら返す約束だからな」
「多分、作ってあると思いますよ。新しい黒わん」
「いらねぇよ」
もう必要ない。
そう言って、黒鋼は後ろ髪を引かれる思いで店を出て行った。
***
黒鋼が店を出てから、ユゥイはすぐに二階へ上がるとファイの部屋をノックした。
返事はなかったが静かに開けて中を覗けば、彼はベッドに両膝をついて窓の外を見下ろし、帰っていく黒鋼の背中を目で追いかけていた。
「ファイ」
しょうがないなと苦笑しながら入り込むと、ベッドまで歩み寄って縁に腰かける。
ファイは窓から離れ、整えられたシーツの中央にペタリと座り込んだ。俯いたまま何も言わない彼の膝に、黒鋼が置いて行った黒わんを置く。
ファイは目を見開き、すぐに縋るような目を向けた。
「ユゥイ……これ……」
「うん。置いて行ったよ」
青い瞳から、一気に涙が噴出した。
黒鋼が何も持たずに店を出ていくのはこれが初めてだ。彼はいつでも裸の黒わんを持ってきて、そして新たに渡されたものを持って帰る。
だけど今日はそれがない。自らが望んだ結果だろうに、ファイは黒わんを握りしめて、目元を擦りながらしくしくと泣き始めた。
やっぱり彼が泣いている姿は胸が痛む。自分より幾分か短い金髪を撫でて、「大丈夫だよ」と何度も繰り返し言い聞かせる。
ユゥイはファイを抱き寄せると、よしよし、と背中を摩りながらその額にキスをした。優しくすればするほど、ファイは酷く泣いてしまう。
自分にできることは、こうして涙と一緒に吐き出させることだった。
「ゆ、ぃ……ッ、オレ……」
「いいよ。ゆっくり話して。ほら、ちゃんと息吐いて」
ん、という声を上げて、ファイは震える息を忙しなく吐き出した。
「オレ、わかんなくって」
「うん」
「嫌いに、なろうとしたの……忘れようとしたの……そしたらもう、寂しくないと思ったから……」
「そっか」
「でも、わかんなかった……いっぱい考えたけど、わかんなかった……」
どうすれば、黒鋼を嫌いになれるのか。
握りしめられた裸の黒わん。ファイはそれをよりいっそう強く握り、口元に押し付けると嗚咽を堪える。
ユゥイはその泣き顔を覗き込みながら、次から次へと溢れる涙を拭ってやる。
「ねぇファイ、黒わんはどこにも行かないよ。だから嫌いになるなんて言わないで」
ファイはひくひくと苦しそうに肩を震わせ、うぅん、と言って首を振った。
「もういない……黒わん、もうどこにもいないの……」
「?」
彼は言う。夢の中でいつも遊んだり、話を聞いてくれていた黒わんが、突然いなくなってしまったのだと。
それはファイだけの世界に存在する、大切な友達だった。
ああそうかと、ユゥイは悟る。ファイにとって夢は逃げ込むための場所だった。おそらく彼は夢の中で黒わんと過ごすことで、自分自身の幼い心を守っていたのではないかと。
「オレ、ホントは寂しかった……ユゥイがいなくなって、一人ぼっちで、毎日こわい人に、酷いこと、いっぱい言われた……いっぱい殴られて、すごく痛かった……」
「……うん」
「オレね、もしかしたら、ユゥイはオレのこと嫌いになったから、だからいなくなっちゃったのかなって、そう思ったの。オレが悪い子だから」
「そんなことないよ……!」
自分でも思っていた以上に大きな声を出してしまったことにハッとするユゥイに、ファイはこくんと頷いた。
「黒わんもね、いつもそう言ってくれてた。ユゥイはファイが大好きだよって。いつも言ってくれたの。そしたら、ユゥイはちゃんとオレのこと、迎えに来てくれた」
だけど。
「黒わんが、いなくなっちゃった……もう会えなくなっちゃった……」
「……だから、あの人もいなくなっちゃうかもしれないって思った?」
「うん……。こっちの黒わんも、いつか消えちゃうかもしれない……オレ、黒わんに嫌われたくない……どこにも行って欲しくない……だから……」
「嫌いになろうとした?」
ファイは頷いた。それから苦しそうに胸元をぎゅっと握った。
彼の考えていることはなんとなく分かっていた。ユゥイも同じだったからだ。ファイのことが大好きで仕方がないのに、寂しさに耐えきれず忘れようとした。そうしなければ心が押し潰されそうだったから。
でも、結局できなかった。忘れたふりはできても、本当に心の中から消すことなんて、決して。
(やっぱりボクらは双子だね。よく似てる)
簡単に逃げ道を探すことはできるのに、振り向かずに進むことはできない。歩き方さえ忘れたように、ただ真っ直ぐに進めばいいだけの一本道で迷子になって、泣いてしまう。
ユゥイはゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じて、そして開く。ファイの両頬を手で包み込んで、真っ直ぐに視線を交えた。
「黒わんもね、ファイとずっと一緒にいたいって思ってるよ。置いて行ったりなんかしない」
「そんなの分かんないよ……だって黒わん、どこにもいないもん……オレのこと、置いてっちゃったもん……」
「……あの人の名前は、黒鋼さん」
「ユゥイ……?」
「黒鋼さんだよ。言ってごらん」
「……くろ、がね、さん」
「そう。似てるけど、黒わんじゃない。本当は、もう気づいてるんじゃないかな?」
「…………」
「ここ」
ユゥイは、指先でファイの胸の中央を軽くつついた。
「痛いって思うとき、側にいるのは誰?」
「…………」
「誰のことを考えると、ここが苦しい?」
「……くろがね、さん」
「どういう風になるのか、もっと教えて」
ファイは真っ赤な顔をして下唇を噛み締めた。
本当は自分で自覚できるのが一番いい。黒鋼が黒わんじゃないこと、ただの友達じゃないこと、彼が突然消えてしまったりなんかしないこと。
だけど、ユゥイは結局ファイに甘かった。それに。
(ちょっとだけ、助けてあげます。貸を作ったままでいるのは癪だから)
黒わんを抜け出せないままでいる、照れ屋で不器用な友人に。彼がいてくれたから、ユゥイは自分の幸せに気づくことができた。屈折したままだった心が、救われた。
ファイはぎゅっと目を閉じて、肩を竦めながら震える息を吐き出す。
「くろがねさんと、いるとね……」
「うん」
「ここ、ドンドンってなる。叩かれてるみたいに、なる」
「胸がドキドキする?」
うん、と、ファイは大きく頷いた。
「息、できなくなって……すごくポカポカして、恥ずかしい気持ちになる……」
「うん」
「でも、嫌われちゃうかもって思ったら……もっと痛くなったの……もっともっと、苦しくなったの……ぜんぜん、あったかくならないの……」
話を聞いているだけで、もどかしい気分になった。
ファイは自分の感情に名前をつけられないでいるだけだ。胸がドキドキするのも、離れたくないという気持ちも、全部。
(分かってたつもりだけど。出る幕なしだなぁ)
自分にできることは何もない。だってファイの真っ赤な顔には、ちゃんと答えが書いてある。
そもそも伊達に双子の片割れをやっているわけじゃない。いつからか、黒鋼を見るファイの目がぬいぐるみを愛でるものとはまるで違っていたことに、ユゥイはちゃんと気がついていた。
兄は、恋をしている。
彼の外見だけを見れば、初恋なんて遅いくらいだ。
けれど幼いままの心で生き続けてきた彼は、誰もが普通に通る道に踏み出せないまま、ここまで来てしまった。
だから抱えきれなくて、不安ばかりが膨らんで、こうして泣いている。
寂しいような気が抜けたような、複雑な気分だったが、生まれて初めての感情に戸惑うファイは不安そうな表情でユゥイを見上げた。
「病院、行ったら治る……? 注射するの我慢したら……くろがねさんのこと、忘れられる?」
ユゥイはふぅっと息を吐き出して、ファイの頭を優しく撫でた。
「忘れる必要なんかない。ボクがファイを大好きなように、ファイも黒鋼さんのこと、好きでいていいんだよ」
「……だけど、それじゃあ……」
「それね、病気じゃないよ」
「……ほんと?」
「そう。だからお医者さんじゃ治せないかな」
「じゃあ……どうしたらいい……?」
そうだなぁ、とユゥイは勿体ぶるように天井を見上げた。
それは恋だよと、教えてやるのは簡単だ。だけど、言ったところできっと今のファイに全てを理解することはできない。
彼にそれを自覚させてやれるのは、この世に一人しかいないのだろうし。
だから余計なお節介はここまでにする。
「ファイ、次に黒鋼さんが来たら、今ボクとした話、できる?」
「……もう来ないよ」
俯くファイに、ユゥイはクスリと笑うと身を屈め、床に手を伸ばす。そして拾い上げたものをベッドの上に置いた。
あ、という小さな声を上げ、ファイは赤い顔をさらに赤くして恥ずかしそうに俯いてしまう。
それは目つきの悪い、オオカミのような黒い犬。マフラーがなくて、少し寒そうだ。
ファイはやっぱり、新しい黒わんを作っていた。
「大丈夫。黒鋼さんはまた来るよ。ちゃんと約束しといたから」
「……来なかったら?」
「そうだねぇ。じゃあ、一緒に嫌いになる方法、考えよっか?」
「ユゥイも考えてくれるの?」
もちろん、と言って笑いかけてやると、ファイはほんの少しだけホッとしたように肩から力を抜いた。
多分、絶対、そんなことにはならないだろうけど。
「だけど約束通り来てくれたときは、恥ずかしくてもちゃんとお話すること。そしたら」
きっと教えてくれるから。
まだ戸惑っている様子のファイの頬に、ユゥイはそっと口づけた。
がんばれ、と、心の中でエールを送りながら。
←戻る ・ 次へ→
椅子に腰かけてぼんやりとしていたファイは、ホットミルクの入ったカップを持ってやってきたユゥイにゆっくりと顔を上げた。
「無理してお店に出なくてもいいんだよ。はい、これ飲んで」
「ん、ありがと」
「やっぱり少し熱っぽいね。本当に病院、行かなくていいの?」
カップを受け取って指先を温めるファイの額に、ユゥイの優しい手が触れる。ひんやりとして気持ちがよかったが、彼の口から飛び出した『病院』という単語に、慌てて首を左右に振った。
「い、いいよー。平気ー」
「……注射が怖いんでしょ」
「う……」
黒鋼と電話で話したのは三日前。
ファイはあまりにも思いつめたせいか、あれからずっと身体が熱っぽくて頭がぼんやりとしていた。
ユゥイは何度も病院へ行こうと言うが、できれば行きたくなかった。行けば注射をするかもしれない。縫い物をする時の針ですら本当は怖いのに、それよりも太いものが刺さるなんて絶対に嫌だった。痛いし、怖い。
黒わんが壊れる度に針を通すことはできるくせに、いざ自分がとなると身が竦む。こんなだから、黒わんは何も言わずに消えてしまったんだろうか。
それに、起き上がれないほど辛いわけでもなかった。気づくと溜息が漏れて、黒鋼のことを考えないようにしていても考えてしまうから、その度に胸がズキズキと痛むだけで。
今だって思い出してしまったせいで胸が痛い。咄嗟に手を心臓の辺りに押し付けると、いつもしていたはずのペンダントの感触ないことに、また苦しくなった。
「…………」
「……ずっと苦しそうだね。そこ、痛い?」
「……ズキズキする」
「やっぱり念のため病院で診てもらおうよ。何か大きな病気だったら大変だし」
「…………うん」
そうなんだろうか。この痛みは、病院で診てもらえばなくなるんだろうか。
だとしたら、黒鋼とキスをした時に感じたあのドキドキも、やっぱり病気だったということになるのか。
もし治せるなら、治したい。前みたいに何も考えないで、ただ楽しく好きな雑貨を作って過ごしたい。叶うなら、黒鋼と出会う前に戻りたかった。
(嫌いになるって決めたのに……)
どうしてこんなに胸が痛いのか、寂しくて仕方がないのか分からない。早く忘れないと、黒鋼はもうここには来ないのだから。
ファイにはユゥイがいる。サクラや小狼や、小龍がいる。いつも店に遊びに来てくれる友達が沢山いる。夢の中の黒わんは、やっぱりどこを探してもいないけど。
(オレはもう一人じゃないんだ)
だから、もう黒わんがいなくても……。
そのときだった。ドアベルがカラリと音を立てて、扉が開いた。お客さんだろうかと顔を上げると、そこには今いちばん会いたくないはずの人間の姿があった。
彼はいつものようにスーツの上からジャケットを羽織り、赤いマフラーを首から下げて大きな鞄を持っていた。
「!」
「おう、邪魔するぜ」
「黒鋼さん? どうして?」
黒鋼はムッツリと不機嫌そうに顔を顰め、ズカズカと店に入って来る。
「今戻った。会社に戻る前に、ちょっとな」
「出張先からそのまま?」
まぁな、と短く返事をした黒鋼は、険しい表情のままファイの元へ近づこうとした。身体が竦みあがるような思いがして、ファイは思わず席を立つ。その拍子に手の中からホットミルクの入ったカップが落ちて、床に中身をぶちまけながら粉々に砕けた。
「ッ……!!」
「大丈夫!? すぐに離れて、怪我すると危ないから!」
白い液体で汚れた床と、バラバラのカップを見てファイは茫然とした。真っ青な顔をしてピクリとも動けないでいると、右手首を掴まれる。
肩を震わせ、見上げれば黒鋼が怖い顔をして「離れろ」と低く言い、引き寄せようとする。
ファイは、咄嗟にその腕を振り払ってしまった。
「ッ!」
息を飲む黒鋼から慌てて距離を取り、ジリジリと背後に後ずさる。やがて二階へと続く階段がある扉に、背中がぶつかった。
黒鋼は振り払われた手を宙に浮かせたまま、目を見開いていた。けれどすぐに吊り上がった目を細め、大きく息を吐き出した。
「俺がなにかしたか?」
「…………」
「言わなきゃ分かんねぇだろ」
「……どうして、来たの?」
ファイは黒鋼の問いかけには答えず、自らの疑問だけを口にした。
黒鋼は、多分とても怒っている。あんな酷いことを言ったのだから当たり前だ。だからきっと、もう嫌われてしまったに違いない。
なのに、どうしてわざわざ来たんだろう。
「どうして来たって……そんなもん、おまえに……」
「オレ、もう会いたくないって言ったよ」
「……だからその理由を確かめに来たんだろうが」
「オレはもう……黒わんのこと嫌いになるって決めたから!」
「はぁ?」
何を言っているんだこいつは、という表情で、黒鋼はユゥイを見た。ユゥイは困っているとも笑っているともつかない、なんともいえない曖昧な表情を浮かべていた。
ファイは、とにかく黒鋼にこの思いを伝えなくてはと焦りを覚える。
彼がいると苦しい。彼がいなくなってしまったとき、どうしたらいいか分からない。ただ、今よりもっと辛い気持ちになることだけは分かる。だから、その前に。
「黒わんと、もう一緒にいたくない……だから嫌いになる……」
「……俺は、もういらねぇってことか?」
――だけど、おれはもういらないみたいだ。
「……ッ」
あのときと同じだ。寂しそうにそう言って、黒わんは消えた。
ファイが上手に話せなかったから。だから黒わんを傷つけてしまった。黒わんに、嫌われてしまった。
胸が苦しい。痛くて痛くて、息ができない。自分の心を制御できない。
間違っていたんだろうか。何を間違えてしまったんだろうか。
ファイは胸を押さえ、泣き叫びたいのを堪えて背後の扉を開けると、その場から逃げ出してしまった。
***
「ありゃ一体どういうことだ」
カウンターに向かって座り、熱いお茶を飲んで一息ついた黒鋼は、不機嫌オーラ全開で向かいのユゥイを睨み付ける。
彼は床を掃除し、黒鋼にお茶をだしてからというもの、ずっと複雑そうな表情で黙りこくっていた。
「おい、なんとか言え」
「……なんとなく、考えてることは分からなくもないんですけどね」
双子の以心伝心というやつだろうか。
ユゥイは多少なりともファイの考えていることが分かっているようだが、黒鋼にしてみれば雲を掴むような話だ。
彼が何かしら思い悩んでいるらしいことは、あの電話の様子からも明らかだった。
だからこそ、本当ならすぐにでも職場に戻らなければならないところを、こうして足を運んだ。ファイが何を考え、何を思ってあのようなことを言ったのか、ここに来ればハッキリするものとばかり思っていたのに。
考え込む黒鋼に、ユゥイはさらに気になることを口にした。
「体調も優れないようで……ずっと微熱が続いてるんです」
「風邪か? 病院は連れてったのか」
「行きたがらないんですよ。注射が怖いみたいですね」
「そんなもん、ガキじゃねぇんだから……って……」
ガキだったな、と零す黒鋼に、ユゥイが苦笑する。
彼も手を焼いているのかもしれない。ファイはあれでいて、なかなか頑固なところがある。
「夢見もあまりよくないみたいなんですよね。それが原因で精神的に不安定になっているのかもしれません。だから元気づけようと思って、一緒にカレーを作ったのに」
ちらりと目を合わせてくるユゥイの視線に、そこはかとなく棘が含まれている。思いっきり嫌そうに顔を顰めた黒鋼を見て、彼はまた苦笑した。
「分かってますよ。タイミングが悪かっただけだって」
「だったら言うなよ。俺だってな……」
「ファイに会いたくてたまらなかった?」
「…………」
「それ、ちゃんと本人に言いました?」
「……別にわざわざ言わなくたって分かんだろ」
「おかしいですよね」
何が、と目で問えば、彼は腕を組んで僅かに首を傾げた。
「子供が悪いことをすれば、繰り返し言い聞かせるでしょ? 分かるまで、何度でも根気よく」
「……そうだな」
「どうしてその逆はできないんだろう。叱るときは繰り返し同じことを言って聞かせるのに。何度も何度も、愛情を伝えることはしないんだろう」
黒鋼は、何も返すことができなかった。
けれど彼の言う通りだと思う。ファイはいつだって自分を待っていてくれた。帰り際には必ず「ずっと一緒にいたい」と言いながら大粒の涙を流して、裸の黒わんを預けてきた。
もうそんな脅しなど必要ないと、いつかちゃんと教えてやらなくてはと……。
(……いつかってのは、そもそもいつなんだろうな)
ふと、思う。
真っ直ぐに向けられる感情、言葉、笑顔。泣き顔さえも眩しくて、黒鋼はファイに惹かれた。ずっと手を引いて歩きたいと思った。あんなにも誰かを愛しいと感じたことはなかった。
けれどいつの間にか、望まれることばかりが当たり前になってはいなかったか?
それこそわざわざ言わずとも、ファイが黒鋼を心から信用していれば、彼はそんな小さな脅しなどかけ続けずに済んでいたのではないか?
約束がなくても会いに来てくれる。無条件に好意を寄せてくれる。そんな相手に、黒鋼はなれていなかったということではないか……?
会いたいから、会いに来ているのだと。一度でも言葉にしていたら、あんな顔をさせずに済んだかもしれないのに。
――黒わんのこと嫌いになるって決めたから。
(この世の終わりみてぇな顔して言いやがって……)
黒鋼はカウンターに肘をついて項垂れ、頭をガリガリと掻きむしった。苛立ちを含ませた深い溜息が、磨きこまれたテーブルの表面を僅かに曇らせる。
情けなかった。当たり前のことを、当たり前のように伝えていなかった自分の怠慢が、彼を不安にさせてしまったのだとしたら。
苦い錠剤を噛み潰したような気分だ。嫌な感覚がどろりと身体中に広がる。
ああこれは、後悔だ。
いちど口をつけただけのカップに手を伸ばす。指先に血が通い、じんと痺れるほどに熱かったはずのそれが、今はただ冷たく無機質に感じられた。
黒鋼は一度ゆっくりと瞬きをして、それからジャケットのポケットから裸の黒わんを取り出した。吊り上がった目と、真っ黒の身体。不愛想で、可愛げなんて欠片もない。確かに似ているかもしれない。だけど、黒鋼は黒わんではない。
「あいつに言っといてくれねぇか」
冷めたカップの横に、黒わんを座らせる。そして黒鋼は席を立った。
「また来る。そんときゃ逃げずに、ツラ見せろってな」
「いいんですか? それ置いて行って」
「ここに来たら返す約束だからな」
「多分、作ってあると思いますよ。新しい黒わん」
「いらねぇよ」
もう必要ない。
そう言って、黒鋼は後ろ髪を引かれる思いで店を出て行った。
***
黒鋼が店を出てから、ユゥイはすぐに二階へ上がるとファイの部屋をノックした。
返事はなかったが静かに開けて中を覗けば、彼はベッドに両膝をついて窓の外を見下ろし、帰っていく黒鋼の背中を目で追いかけていた。
「ファイ」
しょうがないなと苦笑しながら入り込むと、ベッドまで歩み寄って縁に腰かける。
ファイは窓から離れ、整えられたシーツの中央にペタリと座り込んだ。俯いたまま何も言わない彼の膝に、黒鋼が置いて行った黒わんを置く。
ファイは目を見開き、すぐに縋るような目を向けた。
「ユゥイ……これ……」
「うん。置いて行ったよ」
青い瞳から、一気に涙が噴出した。
黒鋼が何も持たずに店を出ていくのはこれが初めてだ。彼はいつでも裸の黒わんを持ってきて、そして新たに渡されたものを持って帰る。
だけど今日はそれがない。自らが望んだ結果だろうに、ファイは黒わんを握りしめて、目元を擦りながらしくしくと泣き始めた。
やっぱり彼が泣いている姿は胸が痛む。自分より幾分か短い金髪を撫でて、「大丈夫だよ」と何度も繰り返し言い聞かせる。
ユゥイはファイを抱き寄せると、よしよし、と背中を摩りながらその額にキスをした。優しくすればするほど、ファイは酷く泣いてしまう。
自分にできることは、こうして涙と一緒に吐き出させることだった。
「ゆ、ぃ……ッ、オレ……」
「いいよ。ゆっくり話して。ほら、ちゃんと息吐いて」
ん、という声を上げて、ファイは震える息を忙しなく吐き出した。
「オレ、わかんなくって」
「うん」
「嫌いに、なろうとしたの……忘れようとしたの……そしたらもう、寂しくないと思ったから……」
「そっか」
「でも、わかんなかった……いっぱい考えたけど、わかんなかった……」
どうすれば、黒鋼を嫌いになれるのか。
握りしめられた裸の黒わん。ファイはそれをよりいっそう強く握り、口元に押し付けると嗚咽を堪える。
ユゥイはその泣き顔を覗き込みながら、次から次へと溢れる涙を拭ってやる。
「ねぇファイ、黒わんはどこにも行かないよ。だから嫌いになるなんて言わないで」
ファイはひくひくと苦しそうに肩を震わせ、うぅん、と言って首を振った。
「もういない……黒わん、もうどこにもいないの……」
「?」
彼は言う。夢の中でいつも遊んだり、話を聞いてくれていた黒わんが、突然いなくなってしまったのだと。
それはファイだけの世界に存在する、大切な友達だった。
ああそうかと、ユゥイは悟る。ファイにとって夢は逃げ込むための場所だった。おそらく彼は夢の中で黒わんと過ごすことで、自分自身の幼い心を守っていたのではないかと。
「オレ、ホントは寂しかった……ユゥイがいなくなって、一人ぼっちで、毎日こわい人に、酷いこと、いっぱい言われた……いっぱい殴られて、すごく痛かった……」
「……うん」
「オレね、もしかしたら、ユゥイはオレのこと嫌いになったから、だからいなくなっちゃったのかなって、そう思ったの。オレが悪い子だから」
「そんなことないよ……!」
自分でも思っていた以上に大きな声を出してしまったことにハッとするユゥイに、ファイはこくんと頷いた。
「黒わんもね、いつもそう言ってくれてた。ユゥイはファイが大好きだよって。いつも言ってくれたの。そしたら、ユゥイはちゃんとオレのこと、迎えに来てくれた」
だけど。
「黒わんが、いなくなっちゃった……もう会えなくなっちゃった……」
「……だから、あの人もいなくなっちゃうかもしれないって思った?」
「うん……。こっちの黒わんも、いつか消えちゃうかもしれない……オレ、黒わんに嫌われたくない……どこにも行って欲しくない……だから……」
「嫌いになろうとした?」
ファイは頷いた。それから苦しそうに胸元をぎゅっと握った。
彼の考えていることはなんとなく分かっていた。ユゥイも同じだったからだ。ファイのことが大好きで仕方がないのに、寂しさに耐えきれず忘れようとした。そうしなければ心が押し潰されそうだったから。
でも、結局できなかった。忘れたふりはできても、本当に心の中から消すことなんて、決して。
(やっぱりボクらは双子だね。よく似てる)
簡単に逃げ道を探すことはできるのに、振り向かずに進むことはできない。歩き方さえ忘れたように、ただ真っ直ぐに進めばいいだけの一本道で迷子になって、泣いてしまう。
ユゥイはゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じて、そして開く。ファイの両頬を手で包み込んで、真っ直ぐに視線を交えた。
「黒わんもね、ファイとずっと一緒にいたいって思ってるよ。置いて行ったりなんかしない」
「そんなの分かんないよ……だって黒わん、どこにもいないもん……オレのこと、置いてっちゃったもん……」
「……あの人の名前は、黒鋼さん」
「ユゥイ……?」
「黒鋼さんだよ。言ってごらん」
「……くろ、がね、さん」
「そう。似てるけど、黒わんじゃない。本当は、もう気づいてるんじゃないかな?」
「…………」
「ここ」
ユゥイは、指先でファイの胸の中央を軽くつついた。
「痛いって思うとき、側にいるのは誰?」
「…………」
「誰のことを考えると、ここが苦しい?」
「……くろがね、さん」
「どういう風になるのか、もっと教えて」
ファイは真っ赤な顔をして下唇を噛み締めた。
本当は自分で自覚できるのが一番いい。黒鋼が黒わんじゃないこと、ただの友達じゃないこと、彼が突然消えてしまったりなんかしないこと。
だけど、ユゥイは結局ファイに甘かった。それに。
(ちょっとだけ、助けてあげます。貸を作ったままでいるのは癪だから)
黒わんを抜け出せないままでいる、照れ屋で不器用な友人に。彼がいてくれたから、ユゥイは自分の幸せに気づくことができた。屈折したままだった心が、救われた。
ファイはぎゅっと目を閉じて、肩を竦めながら震える息を吐き出す。
「くろがねさんと、いるとね……」
「うん」
「ここ、ドンドンってなる。叩かれてるみたいに、なる」
「胸がドキドキする?」
うん、と、ファイは大きく頷いた。
「息、できなくなって……すごくポカポカして、恥ずかしい気持ちになる……」
「うん」
「でも、嫌われちゃうかもって思ったら……もっと痛くなったの……もっともっと、苦しくなったの……ぜんぜん、あったかくならないの……」
話を聞いているだけで、もどかしい気分になった。
ファイは自分の感情に名前をつけられないでいるだけだ。胸がドキドキするのも、離れたくないという気持ちも、全部。
(分かってたつもりだけど。出る幕なしだなぁ)
自分にできることは何もない。だってファイの真っ赤な顔には、ちゃんと答えが書いてある。
そもそも伊達に双子の片割れをやっているわけじゃない。いつからか、黒鋼を見るファイの目がぬいぐるみを愛でるものとはまるで違っていたことに、ユゥイはちゃんと気がついていた。
兄は、恋をしている。
彼の外見だけを見れば、初恋なんて遅いくらいだ。
けれど幼いままの心で生き続けてきた彼は、誰もが普通に通る道に踏み出せないまま、ここまで来てしまった。
だから抱えきれなくて、不安ばかりが膨らんで、こうして泣いている。
寂しいような気が抜けたような、複雑な気分だったが、生まれて初めての感情に戸惑うファイは不安そうな表情でユゥイを見上げた。
「病院、行ったら治る……? 注射するの我慢したら……くろがねさんのこと、忘れられる?」
ユゥイはふぅっと息を吐き出して、ファイの頭を優しく撫でた。
「忘れる必要なんかない。ボクがファイを大好きなように、ファイも黒鋼さんのこと、好きでいていいんだよ」
「……だけど、それじゃあ……」
「それね、病気じゃないよ」
「……ほんと?」
「そう。だからお医者さんじゃ治せないかな」
「じゃあ……どうしたらいい……?」
そうだなぁ、とユゥイは勿体ぶるように天井を見上げた。
それは恋だよと、教えてやるのは簡単だ。だけど、言ったところできっと今のファイに全てを理解することはできない。
彼にそれを自覚させてやれるのは、この世に一人しかいないのだろうし。
だから余計なお節介はここまでにする。
「ファイ、次に黒鋼さんが来たら、今ボクとした話、できる?」
「……もう来ないよ」
俯くファイに、ユゥイはクスリと笑うと身を屈め、床に手を伸ばす。そして拾い上げたものをベッドの上に置いた。
あ、という小さな声を上げ、ファイは赤い顔をさらに赤くして恥ずかしそうに俯いてしまう。
それは目つきの悪い、オオカミのような黒い犬。マフラーがなくて、少し寒そうだ。
ファイはやっぱり、新しい黒わんを作っていた。
「大丈夫。黒鋼さんはまた来るよ。ちゃんと約束しといたから」
「……来なかったら?」
「そうだねぇ。じゃあ、一緒に嫌いになる方法、考えよっか?」
「ユゥイも考えてくれるの?」
もちろん、と言って笑いかけてやると、ファイはほんの少しだけホッとしたように肩から力を抜いた。
多分、絶対、そんなことにはならないだろうけど。
「だけど約束通り来てくれたときは、恥ずかしくてもちゃんとお話すること。そしたら」
きっと教えてくれるから。
まだ戸惑っている様子のファイの頬に、ユゥイはそっと口づけた。
がんばれ、と、心の中でエールを送りながら。
←戻る ・ 次へ→
『なにその目?』
壁の隅に追いやられ、冷たい床に座り込んでしまったファイを、冷やかな目をした中年女性が仁王立ちで見下ろしている。
『アンタ分かってるの? アンタのために躾けてやってんだよこっちは!!』
夕飯時。他の子供たちより、ほんの一瞬だけテーブルにつくのが遅かったという理由で、ファイは爪が食い込むほど強く二の腕を掴まれ、部屋の隅に引きずられた。
壁に叩きつけられる形で床にへたり込んだファイは、ただ怯えた表情で女を見上げただけだった。その目が、彼女は気に食わなかったらしい。
汚れたスリッパの足裏で思い切りファイの裸足の足を踏み、それから何度もドンドンと踏みつけた。
『反抗ばっかりして! アンタね、そんなだから弟に捨てられちまったんだよ!!』
『ッ、ち、ちが……』
『はぁ!? なに!? 違うって!? アンタが聞き分けのないクソガキだから! 弟はアンタを置いて行っちまったんだよ!! そんなことも分からないなんて、本当に頭の悪いガキだね!!』
違う違うと、何度も首を振って否定した。前髪を掴まれて引きずらそうになったが、それでも力の限り抵抗し続ける。
この人が言っていることは嘘だ。全部嘘なんだ。だってユゥイは言ってくれた。一緒がいいと言って、あんなに泣いてくれた。
本当はファイだって離れたくなかった。だけど、ここには怖い大人ばかりがいる。自分だけの力ではユゥイを守ってやれない。
寂しくて悲しくて、とても怖かったけど、それでもユゥイが大切で、大好きだったから。ファイはお兄ちゃんだったから、だから我慢した。
でも、本当は違ったんだろうか。
毎日毎日、こんな風に言われ続ける度に。
もしかしたら、ユゥイは本当に自分のことが嫌いで、一緒にいるのが嫌になったから、一人で行ってしまったんだろうかと。
暴力に屈するしかない幼いファイは、そう感じるようになっていた。
(ユゥイ、オレ……いっしょにいちゃダメだったの……?)
本当は嫌いだったの?
だから一人で行っちゃったの?
今、君は幸せ?
『泣けば済むと思って!! だったら一生メソメソ泣いてな!! 死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!』
――だけどね。
「それでもよかったんだー」
月の丘で、幼い姿をしたファイは小さな両手を後ろにやって、白い花の中をブラブラと歩いていた。
風が金色の髪を揺らして、その度に頬をくすぐられているようで肩を竦める。
「オレはユゥイが大好きだもん。ユゥイが幸せだったらいいやって思ったの。もしオレのことが嫌いで、だから一緒にいられなくなったなら……よかったんだよ、これで」
辛かったし、悲しかった。
だけどファイには大切な思い出があった。愛された記憶があった。
父親はいなかったけど、母親とユゥイと三人で小さな家に暮らしていた頃。たった一枚のクッキーですらユゥイと半分こして、二人せぇので口に放り込んだ。そうすると甘いクッキーが一段と甘く感じられて、お腹いっぱいにはならなかったけど、とても嬉しかった。ユゥイと笑い合ったことを思い出すだけで、胸が温かくなる。
だけどそれと同じくらい、あの頃に戻りたいと強く願ってもいた。あのときのまま、ずっと変わらずにいたかった。
「でもいいの。だって、今はこうして黒わんがいてくれるから」
そうだよね?
「……黒わん?」
クルリと振り向いたファイは、そこに誰もいないことに茫然とした。
月の光にほんのりと光る白い花畑。どこまでも続く美しい光景の中に、黒い犬の姿はなかった。
「どうして……?」
ずっと一緒にいてくれたのに。
寂しい夜は抱きしめてくれた。二人だけの世界にいてくれた。温かくて優しかった風が、今はこんなにも冷たい。
胸の真ん中に大きな穴が開いたみたいで、寒くて寒くて仕方がなかった。ファイは可憐な花を押し潰しながら、力なく地に膝をついた。
涙がぽろりと頬を滑り落ちる。そして堰を切ったように溢れて止まらなくなった。
我慢していたのに。黒わんが側にいてくれたから、ずっと笑っていられたのに。
本当は、ぜんぶ嘘だった。
「さみしい……」
ぜんぶぜんぶ、嘘ばかり。
「さみしいよぉ……」
ユゥイと一緒に行きたかった。離れたくなかった。寂しい。寂しい。怖い。痛い。
ここには、もう誰もいない。
「ひとりは、やだよぉ……」
黒わんも、オレを置いていくんだね。
***
カーテンの隙間から朝の光が射していた。
また夢を見ていたんだと、ファイはのろのろと起き上がりながら濡れた頬を手の甲で拭う。
今日は、施設にいた頃の夢も一緒に見たような気がする。そしてあの月の丘には、やっぱり黒わんはいなかった。
あれからずっと。クリスマスの夜に見た夢を最後に、どんなに探しても見つけ出すことができない。
ファイはベッドの枕元を忙しなく見回した。寝る間際まで抱きしめていたはずの黒わんのぬいぐるみがない。
必死で探して、ベッドの下を覗き込んでみたら、そこに黒わんが落ちていた。
いつの間に手放していたんだろう。慌てて拾い上げ、胸に抱きしめる。
「ごめんね黒わん……」
黒わんは、初めてユゥイと一緒に施設に預けられたとき、宛がわれた部屋に置き去りにされていたものだった。
誰の持ち物か分からなかったが、一目で気に入ってしまったファイは、それからずっと黒わんを宝物のように側に置いた。
黒わんが夢に出てくるようになったのは、ユゥイがいなくなってしばらく経ってからだった。
本当は寂しくて仕方がなかったファイは嬉しくて、夢の中だけが安らぎの場所になった。そこでは、ファイはいつまで経っても子供のままだった。
鏡を見る度に少しずつ大きくなっていく現実の自分とは違って、黒わんとあの月の丘で過ごすファイは小さいまま。
いつしかどちらが本当の自分なのか、ファイには分からなくなっていた。
「どうすればいいのかな……」
どうすれば、黒わんは帰ってきてくれるんだろう。
ユゥイは戻ってきてくれた。また一緒に暮らそうと言ってくれて、それからずっと側にいてくれる。悪いことをして叱られると、またお別れしなくちゃいけないような気がして悲しくなるけれど、最後には必ず抱きしめて、大好きだよと言ってくれる。
何度も何度も、愛していると言ってくれる。
だから黒わんにも戻ってきてほしい。もし怒らせてしまったなら、ちゃんとごめんなさいを言いたいから。
ファイは抱きしめていた黒わんから少しだけ身体を離して、その顔を見下ろす。頭を撫でようとしたところで、異変に気付いた。
「あ……」
よく見ると、右の耳の裏側から微かに綿が飛び出していた。
***
「ユゥイ……」
ファイが黒わんを胸に抱いて下に降りると、ユゥイはすでに着替えを終えて朝食の支度をしていた。
「おはようファイ。顔は洗った? 今パンが焼けるから……どうしたの?」
カウンター奥のキッチンでスープを温めていたユゥイは、赤い目をしてしょんぼりと俯くファイを見て表情を曇らせた。
コンロの火を止め、立ち尽くしたままのファイの側までやってきたユゥイの肩に、顔を埋める。
「怖い夢でも見たのかな? 泣いちゃった?」
「ユゥイ……黒わんが……」
「ん? なぁに?」
「黒わん、壊れた……」
ユゥイはファイが抱いている黒わんを見て、「ああ、本当だ」と言った。
「すぐに直してあげないと。これじゃ可哀想だね」
「でも……黒わん、もうボロボロだよ……」
ずっと昔から一緒にいた黒わんは、今までも何度も目や鼻や尻尾が取れかけたり、背中が破れて綿が飛び出したりして、その度に縫っては直してを繰り返してきた。
黒い糸を使っているから分かりにくいが、よく見れば彼の身体はつぎはぎだらけだ。耳が取れかけたのだってこれが初めてではない。
そんな黒わんの身体に、また針と糸を通さなくてはならないと思うと、ファイの胸は締め付けられるように痛むのだった。
「わかった。じゃあ、ボクがやっておいてあげる。それでいいかな?」
「……うん」
結局は同じことだと分かってはいても、ファイはユゥイに黒わんを預けることにした。彼はひとまず受け取ったそれをカウンターテーブルの隅に座らせて、それからファイに笑いかけると「ご飯にしよう」と言った。
でも、本当はあまり食欲がない。俯いたままのファイに、ユゥイは小さく首を傾げると顔を覗き込んでくる。
「元気ないね。そんなんじゃ黒わんが悲しむよ」
「……うん」
「それにほら、今日はおっきい黒わんも遊びに来るって言ってたよ。そんな顔してたら心配させちゃう」
「黒わん、来るの?」
「来るよ。お仕事が終わったらって言ってたから、夜ご飯は一緒に食べられるんじゃないかな?」
起きてからずっと悲しかった気分が、少しずつ温かいものに包まれていくような気がした。黒鋼が来る。嬉しさが込み上げて、空っぽだった胸をゆっくりと満たす。
ファイは頬がカイロを押し当てたみたいに温かくなるのを感じた。それはだんだん熱いくらいになってきて、火傷しそうなほどになってくると、どうしてか胸が苦しくなる。太鼓が鳴るように忙しなく音を刻みはじめる。
黒鋼とクリスマスの夜にキスをしてから、彼のことを考えたり、一緒にいたりするといつもこうだ。どうしてなのか分からないし、胸がきゅうっとなるのは苦しいけど、だけど嬉しい。
ユゥイはファイが表情を明るくしたことに安堵して笑うと、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。
「ファイ、おっきい黒わんのために、一緒にカレー作って待ってようか?」
「!」
「そうだなぁ、カボチャがいっぱい入った野菜カレーなんてどう?」
「作る! 今度はちゃんと成功させるよ!」
「よし、じゃあ後でお使い頼んじゃおうかな? お野菜一人でも買いに行ける?」
「行ける! 任せてー!!」
ファイの心の中は、ユゥイと一緒にカレーを作ることと、それを黒鋼と食べることでいっぱいになった。
このあいだは勝手なことをして大失敗してしまったけれど、ユゥイはあのとき約束したことを覚えていてくれた。
「じゃあその前に早く朝ご飯食べちゃお」
「わかったー!」
そうと決まればまずは洗顔と歯磨きを済まそうと、ファイは元気に二階へと続く階段に向かって駆け出そうとした。けれどふと足を止めて、カウンターテーブルの上に座る耳の解れた黒わんを見る。
(やっぱり……ちゃんと自分でやろ……)
黒わんの一番の友達はファイだから。
ちゃんと綺麗に耳を直すことができたら、戻ってきてくれるかもしれない。
また少し不安な気持ちがぶり返しそうになるのを押しやって、ファイは階段を力いっぱい駆け上がった。
***
「そうですか……じゃあ今日は……」
夕方、ユゥイの携帯が鳴った。
それに応じた彼の声がどんどん沈んでいくのを聞いて、ファイはカウンター席で黒わんの耳を縫う手を止め、顔を上げる。
「あぁ、いえ……今日はファイと一緒にカレーを作ったんです。美味しくできたので、食べてほしかったんですが……」
バツの悪そうな視線を送って来るユゥイに、ファイは咄嗟に席を立った。
相手はきっと黒鋼だ。この様子からすると、もしかしたら。
「ユゥイ……? 黒わん、来ないの……?」
「ちょっと待ってくださいね。今ファイに変わりますから」
「ねぇユゥイ、黒わん来ない……?」
「お仕事でね、急に遠くへ行かなくちゃいけないんだって……。ほら、お話して」
「遠くに……?」
差し出された携帯を青ざめた表情で見つめて、ファイは首を左右に振った。
「やだ」
「どうして? ほら、そんなこと言わないで」
「やだったらやだ! 話したくない!」
「……いま話しておかないと、次に来れるのは来週だって」
「来週って……」
明日?
いつものように聞くことはできなかった。
黒鋼は来ない。朝から楽しみにしていのに。一人でちゃんと野菜を買いに行ったのに。ユゥイに教えてもらいながら、ひとつも怪我をしないで上手にカレーを作ることができたのに。
なのに、黒鋼は来ない。
(遠くに行くって、言ってた……)
ユゥイに促すように名前を呼ばれ、ファイは震える指先で携帯電話を受け取った。心臓が苦しい。いつもみたいにポカポカするような感じではなく、思い切り叩きつけられるみたいに、鋭く痛む。
「……黒わん」
恐る恐る耳に当てた携帯に向かって、ファイは黒鋼の名前を呼んだ。
『悪い……急に出張が入っちまった』
「お仕事……?」
『ああ。だから今日は』
「黒わん、ほんとに……ほんとにお仕事……?」
いつもならすぐに信じられる。
あのクリスマスの夜だって、黒鋼はちゃんと約束を守ってくれた。本当は泣いてしまいそうだったけど、あのときのファイは真っ直ぐに黒鋼を信じることができた。
それは彼が裸の黒わんを持っていたからだ。黒わんが風邪をひかないようにと、そうお願いすれば黒鋼は必ず店に来てくれる。
もちろん今だってそうだ。最後に会ったとき、ファイはいつものようにマフラーをしていない黒わんを彼に渡しているのだから。
なのに、不安で仕方がない。あのときと今とでは、何も変わらないはずなのに。
まるで何かに背を追われているようだ。焦りばかりが膨らんで、四肢が凍ったように動かない。
そのとき頭の中で声がした。ファイを蹴りつけながら、怖い顔をして怒鳴り散らしていた、あの女の人の声。
――死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!
彼女は言った。ファイが頭の悪い子供だから、弟はお前を捨てたんだと。ずっと一生、一人で泣いていればいいと。それがお似合いだと。
ファイは本当は知っている。この世界には、楽しいことや嬉しいことよりも、悲しいことの方がずっと多い。
いつかはまたユゥイとも離れ離れになってしまうかもしれない。あの月の丘で消えてしまった黒わんのように。黒鋼も、いなくなってしまうような気がした。
「黒わん……オレのこと、嫌いになった……?」
言葉にした途端、足元から崩れ落ちそうな気分になった。
黒鋼はもう来てくれないのではないか。ずっと遠くへ行ったまま、もう会えないのではないか。
「黒わん言って……嫌いになったなら、ちゃんと言って……」
電話の向こうで、黒鋼は溜息をつきながら「そんなわけねぇだろ」と言った。
『機嫌なおせ。俺だって、おまえに……』
黒鋼は、なぜか言いにくそうにその先を続けることをやめた。その沈黙がファイの不安をいっそう煽る。どうして何も言ってくれないんだろう。今、受話器の向こうで黒鋼はどんな顔をしているんだろう。
もちろんファイは黒鋼を信じている。いや、信じたいと思っている。
でも、怖い。信じるのが怖い。嫌われるのが怖い。あるとき突然、彼が消えてしまったら。
黒鋼は必ずまた来ると言っている。彼は嘘をついたことがない。いつだって優しいし、綺麗なオルゴールのペンダントもくれた。だからファイは黒鋼のことが好きで、大好きで。
大好きだから。
「もう、いい」
だから、こんなこと言いたくないけど。
ファイは気づいてしまった。辛くならずに済む方法。楽になる方法が、一つだけあることに。
「黒わん、もういいよ。もう……会いたくない……」
言った瞬間、楽になった。思った通り。心臓の痛みが、すぅっと治まっていくような気がする。
ユゥイが顔を顰め、慌ててファイの手から受話器を奪った。
「すみません……今日はちょっと様子がおかしいみたいで。いえ、いじけてるだけだと思いますから……ええ、そうですね。待ってます。じゃあ、また……」
通話を終えたユゥイは、ゆっくりと静かに息を吐き出してファイを見た。咎めるような視線に、目を合わせることができない。
「どうしてあんなこと言ったの?」
「…………嫌いになったから」
「嘘はよくないよ」
「嘘じゃないよ」
「ファイ……」
ファイは縫いかけの黒わんを掴むと、まだ何か言おうとしているユゥイに背を向け、部屋へ戻った。
***
どうしてか、部屋に戻ると治まっていたはずの心臓の痛みが蘇った。
針と糸がついたままの黒わんを机に置いて、ファイは胸を押さえながら床に崩れ落ちる。
「う……ッ、ぅ……」
呻きはすぐに嗚咽に変わった。悲しくて、心がバラバラになりそうだった。
ファイは首から下げている革紐を引っ張り、シャツの中からペンダントを取り出した。そしてそれを首から外し、思い切り床に投げつける。
一度だけ大きくバウンドしたそれは、滑るようにベッドの下に入り込んだ。
どうしてこんなに胸が痛いのか、ファイにはさっぱり分からない。
黒鋼のことを思うと心が熱くなった。お湯の中に浸かっているみたいに温かくて、そのうちだんだんのぼせたようになってきて、苦しくなった。
だけどファイはその感覚がとても好きだった。なぜか恥ずかしいような気持ちになってしまうけど、黒鋼に触れられると嬉しくて、側にいると楽しくて、会えない時間も彼を思うだけで幸せだった。
黒鋼はまた来ると言った。その言葉にきっと嘘はない。
でも怖い。あの黒わんのように、いつか何も言わずに消えてしまうのかもしれない。ファイを一人残して、遠くへ行ってしまうのかもしれない。
そうしたら、今よりもっと辛くて苦しくて、悲しい。
(だったらその前に、オレの方から嫌いになればいいんだ)
寂しいのは、大好きだから。
だけどその相手を嫌いになってしまえば、もう寂しくない。
会いたいと思うのをやめてしまえば、側にいたいと思うのをやめてしまえば。
(寂しくなくなるんだ)
嫌われる前に。置いていかれる前に。消えてしまう前に。
(なのに、どうして……)
こんなに胸が痛いんだろう。
***
「……なんだってんだよ」
タクシーの後部座席で、黒鋼は携帯のディスプレイを見つめたまま低く吐き捨てた。
ユゥイも言っていた通り、ファイの様子は明らかにおかしかった。
ここ最近の彼は以前よりも少し落ち着いていて、黒鋼の仕事へも理解を示すようになっていた。それがどうして。
(特にタイミングが悪かったのかもな……)
順調に進行していたはずの企画が先方との交渉決裂により白紙に戻り、埋め合わせとして組まれた特集のため、黒鋼は早々に地方へ飛ぶことになってしまった。
とるものもとりあえずタクシーを捕まえ、新幹線に乗るために駅へ向かう道中、ユゥイに断りの連絡を入れた結果がこれだ。まさか例のカレーのリベンジが今日だったなんて。
黒鋼は携帯をスーツのジャケットの内ポケットにしまい込むと、腕を組んで窓の外を睨み付けた。流れゆく夜の街並みを視界に収めながら、ファイの感情を押し殺したような声が頭から離れない。
『もう……会いたくない……』
どういうことだろう。
黒鋼は小さく舌打ちをする。あんなことを言われて、心穏やかでいられるはずがない。こんな気持ちの悪さを残したまま、遠い地へ赴かねばならないなんて。
やらなければならないことは山ほどある。これから向かう駅でカメラマンと合流して、新幹線に乗って、急きょ手配した安ホテルへ向かって。
突然の依頼にも快く取材を引き受けてくれた店のオーナーについて、明日は早朝から市場での取材も行われる予定になっている。
帰ったら帰ったでおそらく数日は身動きがとれない。それほどまでに、今回の企画のお蔵入りは突然で、手痛いものだった。
ついてない。そうとしか言いようがない。
「くそ……」
何がファイを追い詰めているのだろう。
そればかりが気になって、今すぐにでも運転手に行先の変更を告げてしまいたい衝動をぐっと堪えることに、黒鋼はただひたすら集中するしかなかった。
←戻る ・ 次へ→
壁の隅に追いやられ、冷たい床に座り込んでしまったファイを、冷やかな目をした中年女性が仁王立ちで見下ろしている。
『アンタ分かってるの? アンタのために躾けてやってんだよこっちは!!』
夕飯時。他の子供たちより、ほんの一瞬だけテーブルにつくのが遅かったという理由で、ファイは爪が食い込むほど強く二の腕を掴まれ、部屋の隅に引きずられた。
壁に叩きつけられる形で床にへたり込んだファイは、ただ怯えた表情で女を見上げただけだった。その目が、彼女は気に食わなかったらしい。
汚れたスリッパの足裏で思い切りファイの裸足の足を踏み、それから何度もドンドンと踏みつけた。
『反抗ばっかりして! アンタね、そんなだから弟に捨てられちまったんだよ!!』
『ッ、ち、ちが……』
『はぁ!? なに!? 違うって!? アンタが聞き分けのないクソガキだから! 弟はアンタを置いて行っちまったんだよ!! そんなことも分からないなんて、本当に頭の悪いガキだね!!』
違う違うと、何度も首を振って否定した。前髪を掴まれて引きずらそうになったが、それでも力の限り抵抗し続ける。
この人が言っていることは嘘だ。全部嘘なんだ。だってユゥイは言ってくれた。一緒がいいと言って、あんなに泣いてくれた。
本当はファイだって離れたくなかった。だけど、ここには怖い大人ばかりがいる。自分だけの力ではユゥイを守ってやれない。
寂しくて悲しくて、とても怖かったけど、それでもユゥイが大切で、大好きだったから。ファイはお兄ちゃんだったから、だから我慢した。
でも、本当は違ったんだろうか。
毎日毎日、こんな風に言われ続ける度に。
もしかしたら、ユゥイは本当に自分のことが嫌いで、一緒にいるのが嫌になったから、一人で行ってしまったんだろうかと。
暴力に屈するしかない幼いファイは、そう感じるようになっていた。
(ユゥイ、オレ……いっしょにいちゃダメだったの……?)
本当は嫌いだったの?
だから一人で行っちゃったの?
今、君は幸せ?
『泣けば済むと思って!! だったら一生メソメソ泣いてな!! 死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!』
――だけどね。
「それでもよかったんだー」
月の丘で、幼い姿をしたファイは小さな両手を後ろにやって、白い花の中をブラブラと歩いていた。
風が金色の髪を揺らして、その度に頬をくすぐられているようで肩を竦める。
「オレはユゥイが大好きだもん。ユゥイが幸せだったらいいやって思ったの。もしオレのことが嫌いで、だから一緒にいられなくなったなら……よかったんだよ、これで」
辛かったし、悲しかった。
だけどファイには大切な思い出があった。愛された記憶があった。
父親はいなかったけど、母親とユゥイと三人で小さな家に暮らしていた頃。たった一枚のクッキーですらユゥイと半分こして、二人せぇので口に放り込んだ。そうすると甘いクッキーが一段と甘く感じられて、お腹いっぱいにはならなかったけど、とても嬉しかった。ユゥイと笑い合ったことを思い出すだけで、胸が温かくなる。
だけどそれと同じくらい、あの頃に戻りたいと強く願ってもいた。あのときのまま、ずっと変わらずにいたかった。
「でもいいの。だって、今はこうして黒わんがいてくれるから」
そうだよね?
「……黒わん?」
クルリと振り向いたファイは、そこに誰もいないことに茫然とした。
月の光にほんのりと光る白い花畑。どこまでも続く美しい光景の中に、黒い犬の姿はなかった。
「どうして……?」
ずっと一緒にいてくれたのに。
寂しい夜は抱きしめてくれた。二人だけの世界にいてくれた。温かくて優しかった風が、今はこんなにも冷たい。
胸の真ん中に大きな穴が開いたみたいで、寒くて寒くて仕方がなかった。ファイは可憐な花を押し潰しながら、力なく地に膝をついた。
涙がぽろりと頬を滑り落ちる。そして堰を切ったように溢れて止まらなくなった。
我慢していたのに。黒わんが側にいてくれたから、ずっと笑っていられたのに。
本当は、ぜんぶ嘘だった。
「さみしい……」
ぜんぶぜんぶ、嘘ばかり。
「さみしいよぉ……」
ユゥイと一緒に行きたかった。離れたくなかった。寂しい。寂しい。怖い。痛い。
ここには、もう誰もいない。
「ひとりは、やだよぉ……」
黒わんも、オレを置いていくんだね。
***
カーテンの隙間から朝の光が射していた。
また夢を見ていたんだと、ファイはのろのろと起き上がりながら濡れた頬を手の甲で拭う。
今日は、施設にいた頃の夢も一緒に見たような気がする。そしてあの月の丘には、やっぱり黒わんはいなかった。
あれからずっと。クリスマスの夜に見た夢を最後に、どんなに探しても見つけ出すことができない。
ファイはベッドの枕元を忙しなく見回した。寝る間際まで抱きしめていたはずの黒わんのぬいぐるみがない。
必死で探して、ベッドの下を覗き込んでみたら、そこに黒わんが落ちていた。
いつの間に手放していたんだろう。慌てて拾い上げ、胸に抱きしめる。
「ごめんね黒わん……」
黒わんは、初めてユゥイと一緒に施設に預けられたとき、宛がわれた部屋に置き去りにされていたものだった。
誰の持ち物か分からなかったが、一目で気に入ってしまったファイは、それからずっと黒わんを宝物のように側に置いた。
黒わんが夢に出てくるようになったのは、ユゥイがいなくなってしばらく経ってからだった。
本当は寂しくて仕方がなかったファイは嬉しくて、夢の中だけが安らぎの場所になった。そこでは、ファイはいつまで経っても子供のままだった。
鏡を見る度に少しずつ大きくなっていく現実の自分とは違って、黒わんとあの月の丘で過ごすファイは小さいまま。
いつしかどちらが本当の自分なのか、ファイには分からなくなっていた。
「どうすればいいのかな……」
どうすれば、黒わんは帰ってきてくれるんだろう。
ユゥイは戻ってきてくれた。また一緒に暮らそうと言ってくれて、それからずっと側にいてくれる。悪いことをして叱られると、またお別れしなくちゃいけないような気がして悲しくなるけれど、最後には必ず抱きしめて、大好きだよと言ってくれる。
何度も何度も、愛していると言ってくれる。
だから黒わんにも戻ってきてほしい。もし怒らせてしまったなら、ちゃんとごめんなさいを言いたいから。
ファイは抱きしめていた黒わんから少しだけ身体を離して、その顔を見下ろす。頭を撫でようとしたところで、異変に気付いた。
「あ……」
よく見ると、右の耳の裏側から微かに綿が飛び出していた。
***
「ユゥイ……」
ファイが黒わんを胸に抱いて下に降りると、ユゥイはすでに着替えを終えて朝食の支度をしていた。
「おはようファイ。顔は洗った? 今パンが焼けるから……どうしたの?」
カウンター奥のキッチンでスープを温めていたユゥイは、赤い目をしてしょんぼりと俯くファイを見て表情を曇らせた。
コンロの火を止め、立ち尽くしたままのファイの側までやってきたユゥイの肩に、顔を埋める。
「怖い夢でも見たのかな? 泣いちゃった?」
「ユゥイ……黒わんが……」
「ん? なぁに?」
「黒わん、壊れた……」
ユゥイはファイが抱いている黒わんを見て、「ああ、本当だ」と言った。
「すぐに直してあげないと。これじゃ可哀想だね」
「でも……黒わん、もうボロボロだよ……」
ずっと昔から一緒にいた黒わんは、今までも何度も目や鼻や尻尾が取れかけたり、背中が破れて綿が飛び出したりして、その度に縫っては直してを繰り返してきた。
黒い糸を使っているから分かりにくいが、よく見れば彼の身体はつぎはぎだらけだ。耳が取れかけたのだってこれが初めてではない。
そんな黒わんの身体に、また針と糸を通さなくてはならないと思うと、ファイの胸は締め付けられるように痛むのだった。
「わかった。じゃあ、ボクがやっておいてあげる。それでいいかな?」
「……うん」
結局は同じことだと分かってはいても、ファイはユゥイに黒わんを預けることにした。彼はひとまず受け取ったそれをカウンターテーブルの隅に座らせて、それからファイに笑いかけると「ご飯にしよう」と言った。
でも、本当はあまり食欲がない。俯いたままのファイに、ユゥイは小さく首を傾げると顔を覗き込んでくる。
「元気ないね。そんなんじゃ黒わんが悲しむよ」
「……うん」
「それにほら、今日はおっきい黒わんも遊びに来るって言ってたよ。そんな顔してたら心配させちゃう」
「黒わん、来るの?」
「来るよ。お仕事が終わったらって言ってたから、夜ご飯は一緒に食べられるんじゃないかな?」
起きてからずっと悲しかった気分が、少しずつ温かいものに包まれていくような気がした。黒鋼が来る。嬉しさが込み上げて、空っぽだった胸をゆっくりと満たす。
ファイは頬がカイロを押し当てたみたいに温かくなるのを感じた。それはだんだん熱いくらいになってきて、火傷しそうなほどになってくると、どうしてか胸が苦しくなる。太鼓が鳴るように忙しなく音を刻みはじめる。
黒鋼とクリスマスの夜にキスをしてから、彼のことを考えたり、一緒にいたりするといつもこうだ。どうしてなのか分からないし、胸がきゅうっとなるのは苦しいけど、だけど嬉しい。
ユゥイはファイが表情を明るくしたことに安堵して笑うと、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。
「ファイ、おっきい黒わんのために、一緒にカレー作って待ってようか?」
「!」
「そうだなぁ、カボチャがいっぱい入った野菜カレーなんてどう?」
「作る! 今度はちゃんと成功させるよ!」
「よし、じゃあ後でお使い頼んじゃおうかな? お野菜一人でも買いに行ける?」
「行ける! 任せてー!!」
ファイの心の中は、ユゥイと一緒にカレーを作ることと、それを黒鋼と食べることでいっぱいになった。
このあいだは勝手なことをして大失敗してしまったけれど、ユゥイはあのとき約束したことを覚えていてくれた。
「じゃあその前に早く朝ご飯食べちゃお」
「わかったー!」
そうと決まればまずは洗顔と歯磨きを済まそうと、ファイは元気に二階へと続く階段に向かって駆け出そうとした。けれどふと足を止めて、カウンターテーブルの上に座る耳の解れた黒わんを見る。
(やっぱり……ちゃんと自分でやろ……)
黒わんの一番の友達はファイだから。
ちゃんと綺麗に耳を直すことができたら、戻ってきてくれるかもしれない。
また少し不安な気持ちがぶり返しそうになるのを押しやって、ファイは階段を力いっぱい駆け上がった。
***
「そうですか……じゃあ今日は……」
夕方、ユゥイの携帯が鳴った。
それに応じた彼の声がどんどん沈んでいくのを聞いて、ファイはカウンター席で黒わんの耳を縫う手を止め、顔を上げる。
「あぁ、いえ……今日はファイと一緒にカレーを作ったんです。美味しくできたので、食べてほしかったんですが……」
バツの悪そうな視線を送って来るユゥイに、ファイは咄嗟に席を立った。
相手はきっと黒鋼だ。この様子からすると、もしかしたら。
「ユゥイ……? 黒わん、来ないの……?」
「ちょっと待ってくださいね。今ファイに変わりますから」
「ねぇユゥイ、黒わん来ない……?」
「お仕事でね、急に遠くへ行かなくちゃいけないんだって……。ほら、お話して」
「遠くに……?」
差し出された携帯を青ざめた表情で見つめて、ファイは首を左右に振った。
「やだ」
「どうして? ほら、そんなこと言わないで」
「やだったらやだ! 話したくない!」
「……いま話しておかないと、次に来れるのは来週だって」
「来週って……」
明日?
いつものように聞くことはできなかった。
黒鋼は来ない。朝から楽しみにしていのに。一人でちゃんと野菜を買いに行ったのに。ユゥイに教えてもらいながら、ひとつも怪我をしないで上手にカレーを作ることができたのに。
なのに、黒鋼は来ない。
(遠くに行くって、言ってた……)
ユゥイに促すように名前を呼ばれ、ファイは震える指先で携帯電話を受け取った。心臓が苦しい。いつもみたいにポカポカするような感じではなく、思い切り叩きつけられるみたいに、鋭く痛む。
「……黒わん」
恐る恐る耳に当てた携帯に向かって、ファイは黒鋼の名前を呼んだ。
『悪い……急に出張が入っちまった』
「お仕事……?」
『ああ。だから今日は』
「黒わん、ほんとに……ほんとにお仕事……?」
いつもならすぐに信じられる。
あのクリスマスの夜だって、黒鋼はちゃんと約束を守ってくれた。本当は泣いてしまいそうだったけど、あのときのファイは真っ直ぐに黒鋼を信じることができた。
それは彼が裸の黒わんを持っていたからだ。黒わんが風邪をひかないようにと、そうお願いすれば黒鋼は必ず店に来てくれる。
もちろん今だってそうだ。最後に会ったとき、ファイはいつものようにマフラーをしていない黒わんを彼に渡しているのだから。
なのに、不安で仕方がない。あのときと今とでは、何も変わらないはずなのに。
まるで何かに背を追われているようだ。焦りばかりが膨らんで、四肢が凍ったように動かない。
そのとき頭の中で声がした。ファイを蹴りつけながら、怖い顔をして怒鳴り散らしていた、あの女の人の声。
――死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!
彼女は言った。ファイが頭の悪い子供だから、弟はお前を捨てたんだと。ずっと一生、一人で泣いていればいいと。それがお似合いだと。
ファイは本当は知っている。この世界には、楽しいことや嬉しいことよりも、悲しいことの方がずっと多い。
いつかはまたユゥイとも離れ離れになってしまうかもしれない。あの月の丘で消えてしまった黒わんのように。黒鋼も、いなくなってしまうような気がした。
「黒わん……オレのこと、嫌いになった……?」
言葉にした途端、足元から崩れ落ちそうな気分になった。
黒鋼はもう来てくれないのではないか。ずっと遠くへ行ったまま、もう会えないのではないか。
「黒わん言って……嫌いになったなら、ちゃんと言って……」
電話の向こうで、黒鋼は溜息をつきながら「そんなわけねぇだろ」と言った。
『機嫌なおせ。俺だって、おまえに……』
黒鋼は、なぜか言いにくそうにその先を続けることをやめた。その沈黙がファイの不安をいっそう煽る。どうして何も言ってくれないんだろう。今、受話器の向こうで黒鋼はどんな顔をしているんだろう。
もちろんファイは黒鋼を信じている。いや、信じたいと思っている。
でも、怖い。信じるのが怖い。嫌われるのが怖い。あるとき突然、彼が消えてしまったら。
黒鋼は必ずまた来ると言っている。彼は嘘をついたことがない。いつだって優しいし、綺麗なオルゴールのペンダントもくれた。だからファイは黒鋼のことが好きで、大好きで。
大好きだから。
「もう、いい」
だから、こんなこと言いたくないけど。
ファイは気づいてしまった。辛くならずに済む方法。楽になる方法が、一つだけあることに。
「黒わん、もういいよ。もう……会いたくない……」
言った瞬間、楽になった。思った通り。心臓の痛みが、すぅっと治まっていくような気がする。
ユゥイが顔を顰め、慌ててファイの手から受話器を奪った。
「すみません……今日はちょっと様子がおかしいみたいで。いえ、いじけてるだけだと思いますから……ええ、そうですね。待ってます。じゃあ、また……」
通話を終えたユゥイは、ゆっくりと静かに息を吐き出してファイを見た。咎めるような視線に、目を合わせることができない。
「どうしてあんなこと言ったの?」
「…………嫌いになったから」
「嘘はよくないよ」
「嘘じゃないよ」
「ファイ……」
ファイは縫いかけの黒わんを掴むと、まだ何か言おうとしているユゥイに背を向け、部屋へ戻った。
***
どうしてか、部屋に戻ると治まっていたはずの心臓の痛みが蘇った。
針と糸がついたままの黒わんを机に置いて、ファイは胸を押さえながら床に崩れ落ちる。
「う……ッ、ぅ……」
呻きはすぐに嗚咽に変わった。悲しくて、心がバラバラになりそうだった。
ファイは首から下げている革紐を引っ張り、シャツの中からペンダントを取り出した。そしてそれを首から外し、思い切り床に投げつける。
一度だけ大きくバウンドしたそれは、滑るようにベッドの下に入り込んだ。
どうしてこんなに胸が痛いのか、ファイにはさっぱり分からない。
黒鋼のことを思うと心が熱くなった。お湯の中に浸かっているみたいに温かくて、そのうちだんだんのぼせたようになってきて、苦しくなった。
だけどファイはその感覚がとても好きだった。なぜか恥ずかしいような気持ちになってしまうけど、黒鋼に触れられると嬉しくて、側にいると楽しくて、会えない時間も彼を思うだけで幸せだった。
黒鋼はまた来ると言った。その言葉にきっと嘘はない。
でも怖い。あの黒わんのように、いつか何も言わずに消えてしまうのかもしれない。ファイを一人残して、遠くへ行ってしまうのかもしれない。
そうしたら、今よりもっと辛くて苦しくて、悲しい。
(だったらその前に、オレの方から嫌いになればいいんだ)
寂しいのは、大好きだから。
だけどその相手を嫌いになってしまえば、もう寂しくない。
会いたいと思うのをやめてしまえば、側にいたいと思うのをやめてしまえば。
(寂しくなくなるんだ)
嫌われる前に。置いていかれる前に。消えてしまう前に。
(なのに、どうして……)
こんなに胸が痛いんだろう。
***
「……なんだってんだよ」
タクシーの後部座席で、黒鋼は携帯のディスプレイを見つめたまま低く吐き捨てた。
ユゥイも言っていた通り、ファイの様子は明らかにおかしかった。
ここ最近の彼は以前よりも少し落ち着いていて、黒鋼の仕事へも理解を示すようになっていた。それがどうして。
(特にタイミングが悪かったのかもな……)
順調に進行していたはずの企画が先方との交渉決裂により白紙に戻り、埋め合わせとして組まれた特集のため、黒鋼は早々に地方へ飛ぶことになってしまった。
とるものもとりあえずタクシーを捕まえ、新幹線に乗るために駅へ向かう道中、ユゥイに断りの連絡を入れた結果がこれだ。まさか例のカレーのリベンジが今日だったなんて。
黒鋼は携帯をスーツのジャケットの内ポケットにしまい込むと、腕を組んで窓の外を睨み付けた。流れゆく夜の街並みを視界に収めながら、ファイの感情を押し殺したような声が頭から離れない。
『もう……会いたくない……』
どういうことだろう。
黒鋼は小さく舌打ちをする。あんなことを言われて、心穏やかでいられるはずがない。こんな気持ちの悪さを残したまま、遠い地へ赴かねばならないなんて。
やらなければならないことは山ほどある。これから向かう駅でカメラマンと合流して、新幹線に乗って、急きょ手配した安ホテルへ向かって。
突然の依頼にも快く取材を引き受けてくれた店のオーナーについて、明日は早朝から市場での取材も行われる予定になっている。
帰ったら帰ったでおそらく数日は身動きがとれない。それほどまでに、今回の企画のお蔵入りは突然で、手痛いものだった。
ついてない。そうとしか言いようがない。
「くそ……」
何がファイを追い詰めているのだろう。
そればかりが気になって、今すぐにでも運転手に行先の変更を告げてしまいたい衝動をぐっと堪えることに、黒鋼はただひたすら集中するしかなかった。
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正月明けの、ある寒い日のことだった。
「それじゃあ行ってきまーす!」
白いコートに青いマフラー、さらにベージュの耳当てと手袋までして完全防備のファイが、買い物籠を腕に引っ掛けて元気よく店を飛び出して行った。
ユゥイはカウンターの奥から手を振って、扉が完全に閉まりきってから携帯電話を取り出し、電話をかけはじめる。
「……ボクです。目標、出発しました。よろしくお願いします」
『了解。目標を確認した。追跡する』
双方が手短に会話を切り上げて、場面は寒空の下。
黒鋼はいつもの黒ジャケットに赤マフラー、そしてマスクとサングラスを装備し、あからさまに不審者丸出しで電柱の陰に佇んでいた。
通話を終えた携帯をポケットにねじ込み、商店街の通りへ入ってゆくファイの背を、一定の間隔を保ちながら尾行する。
(なにやってんだ俺は……)
もちろん黒鋼は正気である。
だからこそこれが正気の沙汰じゃないことは理解していた。
だが、一度走り出してしまった運命の歯車は止まらない……そう、これは決して失敗の許されない、命がけのミッションなのである。
……というのはかなり大袈裟だが、今日はファイの晴れの舞台だ。
見た目は大人、頭脳は子供の彼は今日、人生初のお使いに挑戦している。
保護者であるユゥイは言った。
『今まではあまりにも過保護に接し過ぎていた。だからあの子には少し冒険させて、この広い世界を知ってほしい』
遅くね?
と思いはしたが、最近すっかり笑顔も明るくなって、ほんのちょっとだけバイトで入っている男子高校生(双子・兄)に対して優しくなったユゥイは、彼なりに兄離れしようと前向きになることが出来たようだった。
黒鋼にその壮絶な過去を語り、儚く笑う姿は見るからに長生きしなさそうな幸薄オーラを纏っていたが、そんな彼がこうしてファイを一人前として扱おうとする姿は、友人として感慨深いものがある。
今日はその第一歩。こうして逐一連絡を取り合える体勢で、鞄にカメラを仕込むスタッフよろしく監視をつけようというのだから、まだまだ十分すぎるほど過保護なのだが……。
もちろん、それに全面的に協力している黒鋼も大概だ。
しかもただそこにいるだけでも目立つ自分に、こっそり隠れて様子を窺うなんて真似が、果たしてできるのか。不安と疑問ばかりが膨らむ中、とにかく黒鋼は店でヤキモキしながら待つユゥイに変わり、隠密行動を余儀なくてされている。
そうこうしているうちに、まずは最初のミッションである豆腐屋に到着した。
ここで買うものは豆腐二丁。今夜はみんなで鍋をしようという口実のもと、ユゥイがウッカリ(わざと)買い漏らしてしまったものを補填するというのがファイの使命だ。
ちなみに買い物メモは以下である。
『かいものリスト
・おとうふ二丁(とうふ屋)
・はくさい1/2(青果店)
・ポテトチップス(スーパー)』
最後のポテトチップスはもちろん鍋の具材ではなく、ファイのおやつである。
ルート的にはまずは近場の商店街で豆腐と白菜を購入し、そのあと駅前の銀杏並木の並びにあるスーパーで目当てのものを買ってから帰宅、ということになるだろう。
黒鋼は魚屋の真横に立ててある『不審者を見かけたら110番』という看板にしゃがんで身を隠し、順調に豆腐屋に到着したファイの姿を確認すると、報告のために携帯を取り出した。
が、なぜかファイは豆腐屋を素通りした。
(おい、どうした? 豆腐だ、まずは豆腐を買え!)
必死でココロ通信を試みるが、もちろんファイには届いていない。
彼は豆腐屋を通り過ぎ、白菜を買うはずの青果店すらスルーすると、商店街を出て駅前の通りに出た。
ヒヨコのような金髪頭を追いかけて、黒鋼も広い通りへ足を向ける。彼は裸の銀杏の枝を見上げ、「キラキラしてないねー」と呟きながらスーパーの手前の喫茶店に入った。
(喫茶店!? なんでだ!? おまえんち喫茶店だろ!! なんでわざわざ入るんだ!? しかもこんな近場に!! もう疲れたのか!?)
訳が分からないながらも、ファイが窓際の席につくのを確認してから黒鋼も店内に入る。ファイがメニュー表に夢中になっている隙をついて、植物が並ぶ仕切りを挟んだ隣の通路に席を陣取ると、念のため仕込んであった新聞紙を開いて顔を隠しながら(すでにマスクとグラサンはしているが)横目でファイを窺った。
「お客様、メニューはお決まりですか?」
ファイの元に、ユゥイと似たようなギャルソン服の男がやって来る。なかなかイケメンだ。なぜか黒鋼の眉間の皺が深くなった。
「うーんと、この、バナナにチョコとクリームいっぱいのやつは」
「ショコラバナナのフレンチトーストでございますね」
「ちょこらばななの」
「ショコラバナナでございます」
「はれんちとーすと」
「フレンチトーストでございます、お客様」
(ああくそ! 別にいいだろ! ちょっと噛んじまったぐれぇでゴチャゴチャ言うな! 可愛いじゃねぇか!!)
「あの、お客様」
(だいたいチョコラでもいいだろうが! チョコかかってんだからチョコラでも別にいいだろ細けぇな!)
「お客様、メニューはお決まりでしょうか……?」
(まぁでもはれんちってのは不味かったな、そいつは仕方ねぇな)
「お客様ー!」
「うるせぇ!! 黙って水持ってこい!!」
一瞬、店内が静まり返った。
しまった、と思ったが、ファイは何度かキョロキョロと視線を彷徨わせ、「なんかおっきい声がしたー」と言うだけですぐにまたメニュー表に夢中になった。
危なかった……。
黒鋼は震えあがっているウエイトレスの女に、声を潜めて「なんでもいいから茶ぁ持ってこい」とだけ言って下がらせる。(水はすでに置いてあったので)
その間もファイとイケメンの攻防、いや、口防は続いていた。
「ちょこ……ショコラバナナのやつの、かろりーはなんキロですかー?」
「620キロカロリーとなっております」
「うーむむ……じゃあこっちの赤いシロップのは」
「フランボワーズソースのフレンチトーストでございますね。そちらは588キロカロリーでございます」
「うーん……かろりーが高いですねー」
(なんだ……? あいつダイエットでもしてんのか? 必要ねぇだろ)
ファイはやたらとカロリーを気にして、次から次へとスイーツを指さしては店員に尋ねている。
「お客様、カロリーが気になるようでしたら、こちらのモンブランはいかがでしょう? 当店のスイーツでは最もカロリーの低い、235キロカロリーとなっておりますが」
「んー……うん、じゃあそれにしようかなー」
「かしこまりました」
ようやく解放された店員は、少しゲッソリした面持ちで店の奥へ引っ込んで行った。
やがて運ばれてきたモンブランを食べて、ファイは「ユゥイのが美味しいー」と失礼なことを言っている。
黒鋼は彼が食べるのをある程度見届けたあと、まったく口をつけずに冷め切ってしまった紅茶と、店員に言ってファイのテーブルの分の会計を済ませて店を出た。(どんな人間が支払ったかは絶対に言うなと口止めしといた)
そしてまた電柱の陰に身を寄せて、ファイが店から出てくるのを確認する。
「このお店ってタダなんだー凄いなー」
ファイは呑気に言うと、また通りを歩きはじめる。ちょうどスーパーがあるのはこの先だ。もしかしたら重量的に軽いものから先に済ませる作戦なのかもしれない。
どうせ同じだけ距離を歩くなら、白菜や豆腐を持って移動するより確かに効率がいい。意外と考えてるんだな……と感心する黒鋼だったが、なぜかスーパーをスルーしてのこのこと歩いて行くファイに衝撃を受けた。
(お、おい! スーパー通り過ぎてんぞ! おまえの好きなポテトチップスはそこだ! そこだぞ!!)
彼は一体どこへ向かおうとしているのか、黒鋼はそれを追いかけながらポケットから携帯を取り出し、ユゥイの番号にかける。
『ちょっと、いつまで待たせるんですか。あんまり遅いから豆腐屋まで見に行っちゃったじゃないですか』
「うるせぇ! おまえの兄貴は一体なにを考えてやがるんだ!」
どういうことかと不審そうなオーラを出すユゥイに、黒鋼はたった今起こった喫茶店での出来事を簡潔に伝えた。
するとユゥイは「あぁ~」と納得したような声を上げる。
「なんだ? どういうことだ?」
『サクラちゃんが最近カロリーを気にし始めたんですよ。女の子ですよねぇ。で、うちのメニューは全体的にカロリーが高いから、少しレシピを見直そうってことになって』
女性のお客さんが圧倒的ですからね、と言うユゥイに黒鋼も納得する。
つまりあれはちょっとした敵情視察だったというわけだ。
そんなことを話しているうちに、ファイがコンビニに入るのを見て、黒鋼はひとまず通話を切った。
流石にコンビニは店内が狭すぎて中に入れないでいると、すぐに出てきたファイはなぜか手に巨大なコッペパンを手にしていた。
「これこれー! このおっきいパンはここじゃないとないんだよねー!」
一体なんのつもりだろうか。さきほど喫茶店でモンブランを食べていたはずだが、腹でも減っているのか。
再び歩き出したファイの後をつけながら首を傾げていると、彼はひょいっと横道にそれて姿を消した。
少し小走りで追いかければ、そこは大きな公園だった。
公園で優雅にコッペパンを食うつもりなのか、とにかく茂みや太い木が多くある空間はまぁまぁ身を隠しやすい。
曲がりくねった道を鼻歌を歌いながら歩くファイから僅かに距離を取り、茂みの向こうを腰を屈めて移動する。
平日の昼間、公園内はあまり人がいなかった。季節的にこの寒さではOLやサラリーマンも外で弁当をつつく気にはなれないのかもしれない。
「ふー、けっこう歩いたなー」
やがてファイと尾行中の黒鋼がたどり着いたのは公園の中央だった。開けた空間の真ん中に噴水があり、その周りを丸く縁取るように等間隔に設置されたベンチにファイが腰かける。
黒鋼はそのベンチから3メートルほど離れた背後の木に身を隠した。思いっきりはみ出ているが、とりあえず気合いで気配を殺す。
今からコッペパンタイムが始まるのだろうか。ひとまずユゥイに状況メールでもするかと携帯を取り出しかけたところで、ファイの足元に一匹の鳩がやってくる。
「あ、いたいたー! 鳩先輩、パン買ってきましたー!」
おまえはヤンキーのパシリか……。
目を見張る黒鋼の視界の先で、ファイは千切ったパンを鳩に与える。気配を察知した他の鳩たちがどんどん集まり、彼の周りに群がり始めた。
「うふふ、慌てなくてもいっぱいあるからねー」
ポッポポッポと忙しない鳩たちにパンを撒きながら、ファイが楽しそうに笑っている。あれは鳩用のパンだったということか。
全てのパンを千切り終えても、鳩たちはファイの側を離れなかった。腕にしがみついたり、肩に乗ったり、膝の上でくつろぎだす鳩も現れだして、すっかり手懐けている。
「鳩先輩も寒いんだねー。くっついてるとあったかいー? あ、そうだ」
ファイは首に巻いているマフラーの中に手を突っ込むと、そこからズルリと何かを取り出す。それは黒鋼がクリスマスの夜に贈った、木製のオルゴールペンダントだった。
「いいもの見せてあげるー。これね、可愛い音が鳴るんだよー」
黒わんにもらったの、と言って笑いながらネジを巻く姿に、黒鋼はジン……とした。ああやっていつも身に着けているのか。ゆったりとした公園の風景に、オルゴールの可憐なメロディが溶けるように馴染む。鳩たちは首を傾げ、ファイはのんびりと身体を左右に揺らして曲に聞き入っていた。
(ほっといても大丈夫なのかもしれねぇな……)
もしかしたら、普段ほとんど一人で外に出してもらえなかったファイは、散歩気分で初めてのお使いを満喫しているのかもしれない。
黒鋼は肩から力が抜けるのを感じて小さく笑った。
晴れ舞台だなんだと、黒鋼やユゥイがこうして気を張らずとも、彼は自分の思う通り、気ままに一人の時間を過ごしている。
黒鋼がそっとこの場を去ったとしても、ファイはちゃんとメモの通りに必要なものを購入して、無事に帰って来るに違いない。
ならば先に店に戻って、ファイを驚かせよう。彼は黒鋼が来るのは晩飯時だと思っているはずだ。だからこんな早い時間に来ている姿を見たら、きっと喜んでくれるに違いない。
そうと決まればとっとと帰ろうと、黒鋼が身を隠していた木から離れかけたとき、遠くから数人の男がファイに向かって歩いてくるのが見えた。
(なんだ……?)
彼らは鳩まみれのファイを見ると、「オー」とか「イエー」なんて浮かれた声を上げて笑顔を浮かべる。全員外人だ。
旅行者と思しきその外人たちは、大きなリュックを背負って地図を手にファイに話しかけた。驚いた鳩が一斉に飛び去ってゆく。
「Excuse me, I want to go to the station, where should I go?」
※すんません、駅に行きたいんですけど、どっちに行ったらいいですかね?
「わぁ……! が、ガイジンさんだぁ……どうしよー!」
明らかに驚いているファイは、咄嗟に立ち上がると不安そうな表情を浮かべる。
いや、おまえも見た目は外人だぞ、と思いはしたがファイもユゥイも日本育ちのはずだ。日本語すら拙いファイが外人を相手にできるはずもなく、しかもその中の一人が思い切りファイの肩を抱き寄せるので、黒鋼は額に青筋を立てると木陰からベンチに向かって一歩踏み出した。そのとき。
「In order to go to a station, please come out of this park and turn to the left immediately!」
※駅に行くためには、この公園を出てすぐに左へ行けばいいですよー!
ズサァッと音を立てて黒鋼は派手にこけた。その拍子にサングラスとマスクが思いっきりズレる。
「喋れんのかよ!! しかも流暢だなおい!!」
「あれー? 黒わんどうしてこんなところにー?」
突然ツッコミと共に姿を現した(しかも地面に膝をついている)黒鋼に、ファイは青い瞳を丸く見開いて驚いた。
駅の方向を教えられた外人は、またしても「オー、イエー」と声を上げるとファイに向かって手の平を翳す。
「イエーイ!」
ファイは笑顔で彼らとハイタッチして、去ってゆく姿に手を振ったあと、改めて黒鋼の方を向いて瞬きを繰り返した。
「黒わん、そんなとこにお膝ついたら汚いよー」
「くそ……」
「転んじゃったのー?」
黒鋼の苦労など知りもしない彼は、ベンチを迂回して側までやってくると、「はい」と手を差し出してくる。
一瞬叩き落としたいような気もしたが、素直に手を取り立ち上がる。
「きぐうだねー! オレもね、いまお買い物のついでにお散歩してたのー! 黒わんは? お仕事お休みだったのー?」
ずっとおまえをストーキングしていたんだとは、口が裂けても言えなかった。
こうなったらもう変装(?)も意味がない。ズレているサングラスとぶら下がっているだけになってしまったマスクを取り去り、ポケットに押し込めた。
「お、おう……俺も散歩だ。おまえんとこに行くついでにな」
「あれー? でも今日は夜じゃないと来れないって……」
「……急に時間が開いた」
「そうだったんだー!」
ファイは嬉しそうに黒鋼の胸に飛び込むと、ぎゅうっとしがみついてきた。
結局、作戦は失敗に終わってしまったが、彼が一人でも十分やって行けるくらいには逞しいということが分かっただけでも、きっとユゥイも安心するだろう。
それにしても、やっぱり自分には隠密行動は無理だったなと、黒鋼は苦笑しながらファイの頭をグリグリと撫でた。
「立派だな、おまえは」
「りっぱー? えらいってことー?」
「そうだ。おまえはえらい」
「えへへー」
ファイは一体なにを褒められているのか分からない様子だったが、頬を赤らめて照れ笑いを浮かべた。
そしてその後、黒鋼とファイは一緒に買い物をしながら、結局揃って店に帰ることになったのだった。
←戻る ・ 次へ→
「それじゃあ行ってきまーす!」
白いコートに青いマフラー、さらにベージュの耳当てと手袋までして完全防備のファイが、買い物籠を腕に引っ掛けて元気よく店を飛び出して行った。
ユゥイはカウンターの奥から手を振って、扉が完全に閉まりきってから携帯電話を取り出し、電話をかけはじめる。
「……ボクです。目標、出発しました。よろしくお願いします」
『了解。目標を確認した。追跡する』
双方が手短に会話を切り上げて、場面は寒空の下。
黒鋼はいつもの黒ジャケットに赤マフラー、そしてマスクとサングラスを装備し、あからさまに不審者丸出しで電柱の陰に佇んでいた。
通話を終えた携帯をポケットにねじ込み、商店街の通りへ入ってゆくファイの背を、一定の間隔を保ちながら尾行する。
(なにやってんだ俺は……)
もちろん黒鋼は正気である。
だからこそこれが正気の沙汰じゃないことは理解していた。
だが、一度走り出してしまった運命の歯車は止まらない……そう、これは決して失敗の許されない、命がけのミッションなのである。
……というのはかなり大袈裟だが、今日はファイの晴れの舞台だ。
見た目は大人、頭脳は子供の彼は今日、人生初のお使いに挑戦している。
保護者であるユゥイは言った。
『今まではあまりにも過保護に接し過ぎていた。だからあの子には少し冒険させて、この広い世界を知ってほしい』
遅くね?
と思いはしたが、最近すっかり笑顔も明るくなって、ほんのちょっとだけバイトで入っている男子高校生(双子・兄)に対して優しくなったユゥイは、彼なりに兄離れしようと前向きになることが出来たようだった。
黒鋼にその壮絶な過去を語り、儚く笑う姿は見るからに長生きしなさそうな幸薄オーラを纏っていたが、そんな彼がこうしてファイを一人前として扱おうとする姿は、友人として感慨深いものがある。
今日はその第一歩。こうして逐一連絡を取り合える体勢で、鞄にカメラを仕込むスタッフよろしく監視をつけようというのだから、まだまだ十分すぎるほど過保護なのだが……。
もちろん、それに全面的に協力している黒鋼も大概だ。
しかもただそこにいるだけでも目立つ自分に、こっそり隠れて様子を窺うなんて真似が、果たしてできるのか。不安と疑問ばかりが膨らむ中、とにかく黒鋼は店でヤキモキしながら待つユゥイに変わり、隠密行動を余儀なくてされている。
そうこうしているうちに、まずは最初のミッションである豆腐屋に到着した。
ここで買うものは豆腐二丁。今夜はみんなで鍋をしようという口実のもと、ユゥイがウッカリ(わざと)買い漏らしてしまったものを補填するというのがファイの使命だ。
ちなみに買い物メモは以下である。
『かいものリスト
・おとうふ二丁(とうふ屋)
・はくさい1/2(青果店)
・ポテトチップス(スーパー)』
最後のポテトチップスはもちろん鍋の具材ではなく、ファイのおやつである。
ルート的にはまずは近場の商店街で豆腐と白菜を購入し、そのあと駅前の銀杏並木の並びにあるスーパーで目当てのものを買ってから帰宅、ということになるだろう。
黒鋼は魚屋の真横に立ててある『不審者を見かけたら110番』という看板にしゃがんで身を隠し、順調に豆腐屋に到着したファイの姿を確認すると、報告のために携帯を取り出した。
が、なぜかファイは豆腐屋を素通りした。
(おい、どうした? 豆腐だ、まずは豆腐を買え!)
必死でココロ通信を試みるが、もちろんファイには届いていない。
彼は豆腐屋を通り過ぎ、白菜を買うはずの青果店すらスルーすると、商店街を出て駅前の通りに出た。
ヒヨコのような金髪頭を追いかけて、黒鋼も広い通りへ足を向ける。彼は裸の銀杏の枝を見上げ、「キラキラしてないねー」と呟きながらスーパーの手前の喫茶店に入った。
(喫茶店!? なんでだ!? おまえんち喫茶店だろ!! なんでわざわざ入るんだ!? しかもこんな近場に!! もう疲れたのか!?)
訳が分からないながらも、ファイが窓際の席につくのを確認してから黒鋼も店内に入る。ファイがメニュー表に夢中になっている隙をついて、植物が並ぶ仕切りを挟んだ隣の通路に席を陣取ると、念のため仕込んであった新聞紙を開いて顔を隠しながら(すでにマスクとグラサンはしているが)横目でファイを窺った。
「お客様、メニューはお決まりですか?」
ファイの元に、ユゥイと似たようなギャルソン服の男がやって来る。なかなかイケメンだ。なぜか黒鋼の眉間の皺が深くなった。
「うーんと、この、バナナにチョコとクリームいっぱいのやつは」
「ショコラバナナのフレンチトーストでございますね」
「ちょこらばななの」
「ショコラバナナでございます」
「はれんちとーすと」
「フレンチトーストでございます、お客様」
(ああくそ! 別にいいだろ! ちょっと噛んじまったぐれぇでゴチャゴチャ言うな! 可愛いじゃねぇか!!)
「あの、お客様」
(だいたいチョコラでもいいだろうが! チョコかかってんだからチョコラでも別にいいだろ細けぇな!)
「お客様、メニューはお決まりでしょうか……?」
(まぁでもはれんちってのは不味かったな、そいつは仕方ねぇな)
「お客様ー!」
「うるせぇ!! 黙って水持ってこい!!」
一瞬、店内が静まり返った。
しまった、と思ったが、ファイは何度かキョロキョロと視線を彷徨わせ、「なんかおっきい声がしたー」と言うだけですぐにまたメニュー表に夢中になった。
危なかった……。
黒鋼は震えあがっているウエイトレスの女に、声を潜めて「なんでもいいから茶ぁ持ってこい」とだけ言って下がらせる。(水はすでに置いてあったので)
その間もファイとイケメンの攻防、いや、口防は続いていた。
「ちょこ……ショコラバナナのやつの、かろりーはなんキロですかー?」
「620キロカロリーとなっております」
「うーむむ……じゃあこっちの赤いシロップのは」
「フランボワーズソースのフレンチトーストでございますね。そちらは588キロカロリーでございます」
「うーん……かろりーが高いですねー」
(なんだ……? あいつダイエットでもしてんのか? 必要ねぇだろ)
ファイはやたらとカロリーを気にして、次から次へとスイーツを指さしては店員に尋ねている。
「お客様、カロリーが気になるようでしたら、こちらのモンブランはいかがでしょう? 当店のスイーツでは最もカロリーの低い、235キロカロリーとなっておりますが」
「んー……うん、じゃあそれにしようかなー」
「かしこまりました」
ようやく解放された店員は、少しゲッソリした面持ちで店の奥へ引っ込んで行った。
やがて運ばれてきたモンブランを食べて、ファイは「ユゥイのが美味しいー」と失礼なことを言っている。
黒鋼は彼が食べるのをある程度見届けたあと、まったく口をつけずに冷め切ってしまった紅茶と、店員に言ってファイのテーブルの分の会計を済ませて店を出た。(どんな人間が支払ったかは絶対に言うなと口止めしといた)
そしてまた電柱の陰に身を寄せて、ファイが店から出てくるのを確認する。
「このお店ってタダなんだー凄いなー」
ファイは呑気に言うと、また通りを歩きはじめる。ちょうどスーパーがあるのはこの先だ。もしかしたら重量的に軽いものから先に済ませる作戦なのかもしれない。
どうせ同じだけ距離を歩くなら、白菜や豆腐を持って移動するより確かに効率がいい。意外と考えてるんだな……と感心する黒鋼だったが、なぜかスーパーをスルーしてのこのこと歩いて行くファイに衝撃を受けた。
(お、おい! スーパー通り過ぎてんぞ! おまえの好きなポテトチップスはそこだ! そこだぞ!!)
彼は一体どこへ向かおうとしているのか、黒鋼はそれを追いかけながらポケットから携帯を取り出し、ユゥイの番号にかける。
『ちょっと、いつまで待たせるんですか。あんまり遅いから豆腐屋まで見に行っちゃったじゃないですか』
「うるせぇ! おまえの兄貴は一体なにを考えてやがるんだ!」
どういうことかと不審そうなオーラを出すユゥイに、黒鋼はたった今起こった喫茶店での出来事を簡潔に伝えた。
するとユゥイは「あぁ~」と納得したような声を上げる。
「なんだ? どういうことだ?」
『サクラちゃんが最近カロリーを気にし始めたんですよ。女の子ですよねぇ。で、うちのメニューは全体的にカロリーが高いから、少しレシピを見直そうってことになって』
女性のお客さんが圧倒的ですからね、と言うユゥイに黒鋼も納得する。
つまりあれはちょっとした敵情視察だったというわけだ。
そんなことを話しているうちに、ファイがコンビニに入るのを見て、黒鋼はひとまず通話を切った。
流石にコンビニは店内が狭すぎて中に入れないでいると、すぐに出てきたファイはなぜか手に巨大なコッペパンを手にしていた。
「これこれー! このおっきいパンはここじゃないとないんだよねー!」
一体なんのつもりだろうか。さきほど喫茶店でモンブランを食べていたはずだが、腹でも減っているのか。
再び歩き出したファイの後をつけながら首を傾げていると、彼はひょいっと横道にそれて姿を消した。
少し小走りで追いかければ、そこは大きな公園だった。
公園で優雅にコッペパンを食うつもりなのか、とにかく茂みや太い木が多くある空間はまぁまぁ身を隠しやすい。
曲がりくねった道を鼻歌を歌いながら歩くファイから僅かに距離を取り、茂みの向こうを腰を屈めて移動する。
平日の昼間、公園内はあまり人がいなかった。季節的にこの寒さではOLやサラリーマンも外で弁当をつつく気にはなれないのかもしれない。
「ふー、けっこう歩いたなー」
やがてファイと尾行中の黒鋼がたどり着いたのは公園の中央だった。開けた空間の真ん中に噴水があり、その周りを丸く縁取るように等間隔に設置されたベンチにファイが腰かける。
黒鋼はそのベンチから3メートルほど離れた背後の木に身を隠した。思いっきりはみ出ているが、とりあえず気合いで気配を殺す。
今からコッペパンタイムが始まるのだろうか。ひとまずユゥイに状況メールでもするかと携帯を取り出しかけたところで、ファイの足元に一匹の鳩がやってくる。
「あ、いたいたー! 鳩先輩、パン買ってきましたー!」
おまえはヤンキーのパシリか……。
目を見張る黒鋼の視界の先で、ファイは千切ったパンを鳩に与える。気配を察知した他の鳩たちがどんどん集まり、彼の周りに群がり始めた。
「うふふ、慌てなくてもいっぱいあるからねー」
ポッポポッポと忙しない鳩たちにパンを撒きながら、ファイが楽しそうに笑っている。あれは鳩用のパンだったということか。
全てのパンを千切り終えても、鳩たちはファイの側を離れなかった。腕にしがみついたり、肩に乗ったり、膝の上でくつろぎだす鳩も現れだして、すっかり手懐けている。
「鳩先輩も寒いんだねー。くっついてるとあったかいー? あ、そうだ」
ファイは首に巻いているマフラーの中に手を突っ込むと、そこからズルリと何かを取り出す。それは黒鋼がクリスマスの夜に贈った、木製のオルゴールペンダントだった。
「いいもの見せてあげるー。これね、可愛い音が鳴るんだよー」
黒わんにもらったの、と言って笑いながらネジを巻く姿に、黒鋼はジン……とした。ああやっていつも身に着けているのか。ゆったりとした公園の風景に、オルゴールの可憐なメロディが溶けるように馴染む。鳩たちは首を傾げ、ファイはのんびりと身体を左右に揺らして曲に聞き入っていた。
(ほっといても大丈夫なのかもしれねぇな……)
もしかしたら、普段ほとんど一人で外に出してもらえなかったファイは、散歩気分で初めてのお使いを満喫しているのかもしれない。
黒鋼は肩から力が抜けるのを感じて小さく笑った。
晴れ舞台だなんだと、黒鋼やユゥイがこうして気を張らずとも、彼は自分の思う通り、気ままに一人の時間を過ごしている。
黒鋼がそっとこの場を去ったとしても、ファイはちゃんとメモの通りに必要なものを購入して、無事に帰って来るに違いない。
ならば先に店に戻って、ファイを驚かせよう。彼は黒鋼が来るのは晩飯時だと思っているはずだ。だからこんな早い時間に来ている姿を見たら、きっと喜んでくれるに違いない。
そうと決まればとっとと帰ろうと、黒鋼が身を隠していた木から離れかけたとき、遠くから数人の男がファイに向かって歩いてくるのが見えた。
(なんだ……?)
彼らは鳩まみれのファイを見ると、「オー」とか「イエー」なんて浮かれた声を上げて笑顔を浮かべる。全員外人だ。
旅行者と思しきその外人たちは、大きなリュックを背負って地図を手にファイに話しかけた。驚いた鳩が一斉に飛び去ってゆく。
「Excuse me, I want to go to the station, where should I go?」
※すんません、駅に行きたいんですけど、どっちに行ったらいいですかね?
「わぁ……! が、ガイジンさんだぁ……どうしよー!」
明らかに驚いているファイは、咄嗟に立ち上がると不安そうな表情を浮かべる。
いや、おまえも見た目は外人だぞ、と思いはしたがファイもユゥイも日本育ちのはずだ。日本語すら拙いファイが外人を相手にできるはずもなく、しかもその中の一人が思い切りファイの肩を抱き寄せるので、黒鋼は額に青筋を立てると木陰からベンチに向かって一歩踏み出した。そのとき。
「In order to go to a station, please come out of this park and turn to the left immediately!」
※駅に行くためには、この公園を出てすぐに左へ行けばいいですよー!
ズサァッと音を立てて黒鋼は派手にこけた。その拍子にサングラスとマスクが思いっきりズレる。
「喋れんのかよ!! しかも流暢だなおい!!」
「あれー? 黒わんどうしてこんなところにー?」
突然ツッコミと共に姿を現した(しかも地面に膝をついている)黒鋼に、ファイは青い瞳を丸く見開いて驚いた。
駅の方向を教えられた外人は、またしても「オー、イエー」と声を上げるとファイに向かって手の平を翳す。
「イエーイ!」
ファイは笑顔で彼らとハイタッチして、去ってゆく姿に手を振ったあと、改めて黒鋼の方を向いて瞬きを繰り返した。
「黒わん、そんなとこにお膝ついたら汚いよー」
「くそ……」
「転んじゃったのー?」
黒鋼の苦労など知りもしない彼は、ベンチを迂回して側までやってくると、「はい」と手を差し出してくる。
一瞬叩き落としたいような気もしたが、素直に手を取り立ち上がる。
「きぐうだねー! オレもね、いまお買い物のついでにお散歩してたのー! 黒わんは? お仕事お休みだったのー?」
ずっとおまえをストーキングしていたんだとは、口が裂けても言えなかった。
こうなったらもう変装(?)も意味がない。ズレているサングラスとぶら下がっているだけになってしまったマスクを取り去り、ポケットに押し込めた。
「お、おう……俺も散歩だ。おまえんとこに行くついでにな」
「あれー? でも今日は夜じゃないと来れないって……」
「……急に時間が開いた」
「そうだったんだー!」
ファイは嬉しそうに黒鋼の胸に飛び込むと、ぎゅうっとしがみついてきた。
結局、作戦は失敗に終わってしまったが、彼が一人でも十分やって行けるくらいには逞しいということが分かっただけでも、きっとユゥイも安心するだろう。
それにしても、やっぱり自分には隠密行動は無理だったなと、黒鋼は苦笑しながらファイの頭をグリグリと撫でた。
「立派だな、おまえは」
「りっぱー? えらいってことー?」
「そうだ。おまえはえらい」
「えへへー」
ファイは一体なにを褒められているのか分からない様子だったが、頬を赤らめて照れ笑いを浮かべた。
そしてその後、黒鋼とファイは一緒に買い物をしながら、結局揃って店に帰ることになったのだった。
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アニメや絵本の中に出てくるような、大きな丸い月が真っ黒の空にぽっかりと浮かんでいた。
優しい風が吹く丘には白い花畑がどこまでも広がって、甘い香りで溢れかえっている。
幼い少年の姿をしたファイは一人、丘の真ん中にこじんまりとしゃがみ込んで、揺れる花々を見つめていた。
『またひとりぼっちか?』
頭の上で声がして、ファイは顔を上げた。
そこには目つきの悪い、黒い犬が佇んでいる。月明かりの下、赤いマフラーが風に吹かれてふわふわと踊っていた。
「黒わん」
立ち上がったファイは、自分と同じくらいの大きさの黒い犬にぎゅっと抱き付いた。黒わんは、こうしてファイが一人ぼっちでいると必ず現れる。
吊り上がった目は少しだけ怖いけど、黒い毛は柔らかくて温かい。
ずっとずっと昔から、黒わんはファイの友達だった。
「あのね、今日はクリスマスだったんだー」
ファイと黒わんは、丘の上で隣り合って座ると膝を抱え、丸い月を見上げた。
いつもこうしてその日あったことを報告する時間が、ファイにとってかけがえのないものだった。
「キラキラの木、すっごくキレイだったよー」
黒わんはファイの話をただ静かに聞いて、そうかそうかと何度も頷く。
「あのね、オルゴールもらったの。首から下げられるの」
『ペンダントか?』
「うん、そうー。ぺんだんと」
『よかったな』
「うん、嬉しかった……あとね」
ファイは子供らしい、丸みのある頬をほんのりと桃色に染めて俯いた。
幼い指先で、ちょん、と唇に触れて、少し迷う。誰にも言わないと約束したけれど、黒わんになら、話してもいいだろうか。
もじもじしながら唇を尖らせたり噛み締めたりしていると、黒わんが不思議そうに首を傾げて顔を覗き込んでくる。
「えと……それでね……そのあとね、黒わんがね」
『おれのことか?』
「あ、えっと……うぅん、違うの。黒わんじゃないの」
『おれのことじゃないのか?』
「うー、あのね、黒わんだけど、黒わんじゃなくて……んー……もっと、おっきいの」
ファイは上手く話せないことにだんだん焦りを覚え始めた。
今こうして一緒にいてくれる黒わんは、ファイの大切な友達だった。だけど、ファイが話したいのはもっと大きくて、もっと怖い顔をしている方の黒わんだった。
けれど今すぐ隣にいる黒わんは、どこか寂しそうだった。
『おれは、おまえの黒わんじゃないのか?』
「黒わんは、黒わんだよ……オレの大事なしんゆーだよ」
『だけど、おれはもういらないみたいだ』
「そんなことないよ!」
ファイが大きな声を出すと、白い花びらが空に舞い上がった。
風が強く吹いて、ぎゅっと目を閉じてからゆっくり目を開けると、そこにはもう黒わんの姿はなかった。
「黒わん……? 黒わんどこ……?」
ファイは立ち上がって黒わんを探した。月の丘を、黒わんの名前を呼びながら一生懸命探した。だけど、見つからなかった。どこまで行っても、ほんのりと淡い光を放つ花畑が広がっているだけだった。
一瞬でいなくなってしまった『しんゆー』の姿を懸命に探しながらも、ふと、この世界は一体どこまで続いているのだろうかという疑問が浮かび上がった。
広い広い世界にたった一人で取り残されてしまったのかと思うと、途端に膝から下がガクガクと震えだした。
「黒わん……どうして……」
どこにもいないんだろう。
いつだって話を聞いてくれた。寂しいときも、悲しいときも、嬉しいときも。
黒わんは静かに、ファイの隣にいてくれた。
なのに、もういない。どこにもいない。嫌われてしまったのだろうか。ファイはただ、話がしたかっただけなのに。
大好きな『黒わん』との思い出を、聞いてほしかっただけなのに。
***
目元に温かなものが触れていることに気が付いて、ファイはゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きをして、温もりの正体を目で追った。それは黒鋼の指で、彼は少し困ったように眉間の皺を深くしながら、ファイの顔を覗き込んでいた。
「なに泣いてんだよ」
「……黒わん?」
ファイは慌てて身を起こすとベッドの縁に腰かけていた黒鋼の胸にしがみつく。胸がズキズキと痛んでいた。悲しくて、寂しくて、涙が止まらない。
黒鋼は驚いていたようだが、すぐにファイを抱き返した。大きな腕の中に包まれていると、なぜかもっと泣きたくなった。
「黒わん……どこにも行かないで……遠くに行かないで……」
「なんだ、おっかねぇ夢でも見たか?」
黒鋼はファイの金色の頭に鼻先を押し付けて、小さく笑った。優しく背中を撫でられているうちに、ゆっくりと心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
引き攣るように息苦しかった呼吸が、黒鋼の温もりや匂いを感じるだけでどんどん楽になる。ほぅ、と息を吐き出して、ファイはひとつ鼻をすすった。
「黒わんが、いなくなっちゃう夢、見たの」
「俺が?」
「うぅん……黒わんだけど、黒わんじゃなくて……」
(あ……)
これは、あの月の丘でした会話と同じだ。
ファイが上手く話すことができなかったから、黒わんは消えてしまった。
「どうした?」
「ッ、あ、あの……なんでもない……」
「そうか」
黒鋼は長い指でファイの前髪をくしゃりと乱した。微かに持ち上がった口角を見ていると、昨日の夜のことを思い出す。
キラキラと輝くイルミネーションの中で、ファイは黒鋼とキスをした。
それは寝る前にユゥイとするものとは何かが違うような気がした。ユゥイとするのはお互いの頬っぺただったし、唇のキスはぬいぐるみとしかしたことがなかった。
黒鋼としたキスは、そのどれとも異なっていた。胸がぎゅっと締め付けられるような感じがして、身体の中に小さな火がついたみたいに、熱かった。
ファイはあのときと同じように顔が赤くなっていくのを感じながら俯いた。心臓のあたりが苦しくなってきて、胸元を強く握った。
落ち着かない気分で視線を泳がせれば、ぬいぐるみの方の黒わんが枕元に座っているのが視界の隅を掠めた。昔は耳や尻尾が取れかけていたが、ちゃんと直したから今は綺麗になっている。
夢の中に出てくる黒わんは、不思議なことにファイと大きさが変わらない。だけど枕元にあるものはすっぽりと膝に乗る程度の無難なサイズだ。
「おい、どっか痛ぇのか?」
そんなファイに気が付いて、黒鋼はファイの肩を掴むと少しだけ引き離す。だけどファイは顔を上げられなかった。いま黒鋼の顔を見たら、なぜかまた泣いてしまいそうだった。どうしてこんな気持ちになるのか、さっぱり分からない。自分が自分じゃないみたいだった。
黒鋼はファイの額に手を当てて、「少し熱っぽいか」と呟いた。
「寒いなか歩いちまったからな……薬、の前に飯がいいか。待ってろ、いま弟呼んでくる」
そう言って離れようとする黒鋼のシャツの袖を咄嗟に掴んで、ファイは首を傾げる。
そういえば、どうしてここに彼がいるんだろう。
昨夜は外から戻って、すぐに店の長椅子に腰かけた気がするのだが、そこから記憶がない。いつの間に眠って、しかも自分の部屋に戻ってきたのか、まるで思い出せなかった。
「黒わん、なんでここにいるの?」
「ああ、おまえ何も覚えてねぇのか」
「?」
「ゆうべは遅かっただろ。面倒だったから泊まらせてもらった」
黒鋼が指を指すので、ファイはベッドの下に視線をやった。雑貨を作るための毛糸や小物が溢れかえる部屋の中央に、折りたたまれた毛布とクッションが置いてある。
これで寝ていたということか。だとしたら、朝までずっと一緒にいたということだ。
「な、なんで起こしてくれなかったのー!」
「あ? なんで起こす必要があるんだよ」
「だって、だって、黒わんともっとお喋りしたかった!」
「今だってできんだろ」
「むぅー……黒わん分かってないー……」
いつもはせっかく遊びに来ても時間が来ると帰ってしまう黒鋼が、夜の間ずっと側にいた。
彼には彼の家があって、仕事もある。ユゥイに何度そう教えられても、頭では分かっているのにどうしても寂しくて。
それでも我慢していたご褒美を、神様がくれたのかもしれない。なのに、眠気に負けて気づいたら朝になっていたなんて。
いつもよりもっとたくさん遊んだり、話したりするチャンスだったのに。
でも、とファイは思う。悲しい夢を見たあとに、近くにいてくれたのが黒鋼でよかった。真っ先に彼の顔を見れてよかった。
普段は絶対に会えない時間に、黒鋼がいる。夜の間も側にいたんだと思うと、残念な気持ちもあったけど、嬉しかった。
「そっかぁ、黒わん、ずっと一緒だったんだぁ~」
ふにゃん、と笑うと黒鋼の頬が一瞬だけ赤くなったような気がした。彼は大きく咳払いをしたあと、部屋の出入り口をチラリと見て、それからファイに手を伸ばす。
顎に指先が触れたと思った次の瞬間、上向かされたのと同時に黒鋼の顔が驚くほど間近にあった。唇に押し付けられた熱に、呼吸が止まる。
(黒わん、まつ毛長い……)
側にいる間はずっとくっついているのに、昨日だってこういうキスをしたのに、今初めて気が付いた。
また胸が苦しくなってくる。唇が離れても、なんだか頭がぼんやりして、身体がふわふわした。風船みたいに飛んで行ってしまいそうだ。こんな感覚は、生まれて初めてだった。
「ふわあぁ~……」
「おまえそれどういう反応だよ」
気が抜けたようにおかしな声を上げたファイに、黒鋼は苦笑した。
そんな彼の表情を見るのが恥ずかしくて、ファイは枕元の黒わんを咄嗟に掴んで抱きしめると、赤い顔を思いっきり押し付けた。
「弟はもう下か」
黒鋼は立ち上がってそう呟くと、黒わんに顔を埋めたままのファイの頭をくしゃりと撫でて、部屋から出て行った。
その足音と扉が閉まる音を聞きながら、ファイはふと不安になる。
(なんでこんなにドキドキしちゃうのかなぁ……オレ、病気なのかなぁ……)
黒鋼は風邪かもしれないと言ったが、風邪をひいた時とは少し違うような気がした。
きゅうきゅうと締め付けられるみたいな心臓の痛みを覚えて、ファイはいっそう黒わんを強く抱きしめると、熱っぽい息を漏らした。
←戻る ・ 次へ→
優しい風が吹く丘には白い花畑がどこまでも広がって、甘い香りで溢れかえっている。
幼い少年の姿をしたファイは一人、丘の真ん中にこじんまりとしゃがみ込んで、揺れる花々を見つめていた。
『またひとりぼっちか?』
頭の上で声がして、ファイは顔を上げた。
そこには目つきの悪い、黒い犬が佇んでいる。月明かりの下、赤いマフラーが風に吹かれてふわふわと踊っていた。
「黒わん」
立ち上がったファイは、自分と同じくらいの大きさの黒い犬にぎゅっと抱き付いた。黒わんは、こうしてファイが一人ぼっちでいると必ず現れる。
吊り上がった目は少しだけ怖いけど、黒い毛は柔らかくて温かい。
ずっとずっと昔から、黒わんはファイの友達だった。
「あのね、今日はクリスマスだったんだー」
ファイと黒わんは、丘の上で隣り合って座ると膝を抱え、丸い月を見上げた。
いつもこうしてその日あったことを報告する時間が、ファイにとってかけがえのないものだった。
「キラキラの木、すっごくキレイだったよー」
黒わんはファイの話をただ静かに聞いて、そうかそうかと何度も頷く。
「あのね、オルゴールもらったの。首から下げられるの」
『ペンダントか?』
「うん、そうー。ぺんだんと」
『よかったな』
「うん、嬉しかった……あとね」
ファイは子供らしい、丸みのある頬をほんのりと桃色に染めて俯いた。
幼い指先で、ちょん、と唇に触れて、少し迷う。誰にも言わないと約束したけれど、黒わんになら、話してもいいだろうか。
もじもじしながら唇を尖らせたり噛み締めたりしていると、黒わんが不思議そうに首を傾げて顔を覗き込んでくる。
「えと……それでね……そのあとね、黒わんがね」
『おれのことか?』
「あ、えっと……うぅん、違うの。黒わんじゃないの」
『おれのことじゃないのか?』
「うー、あのね、黒わんだけど、黒わんじゃなくて……んー……もっと、おっきいの」
ファイは上手く話せないことにだんだん焦りを覚え始めた。
今こうして一緒にいてくれる黒わんは、ファイの大切な友達だった。だけど、ファイが話したいのはもっと大きくて、もっと怖い顔をしている方の黒わんだった。
けれど今すぐ隣にいる黒わんは、どこか寂しそうだった。
『おれは、おまえの黒わんじゃないのか?』
「黒わんは、黒わんだよ……オレの大事なしんゆーだよ」
『だけど、おれはもういらないみたいだ』
「そんなことないよ!」
ファイが大きな声を出すと、白い花びらが空に舞い上がった。
風が強く吹いて、ぎゅっと目を閉じてからゆっくり目を開けると、そこにはもう黒わんの姿はなかった。
「黒わん……? 黒わんどこ……?」
ファイは立ち上がって黒わんを探した。月の丘を、黒わんの名前を呼びながら一生懸命探した。だけど、見つからなかった。どこまで行っても、ほんのりと淡い光を放つ花畑が広がっているだけだった。
一瞬でいなくなってしまった『しんゆー』の姿を懸命に探しながらも、ふと、この世界は一体どこまで続いているのだろうかという疑問が浮かび上がった。
広い広い世界にたった一人で取り残されてしまったのかと思うと、途端に膝から下がガクガクと震えだした。
「黒わん……どうして……」
どこにもいないんだろう。
いつだって話を聞いてくれた。寂しいときも、悲しいときも、嬉しいときも。
黒わんは静かに、ファイの隣にいてくれた。
なのに、もういない。どこにもいない。嫌われてしまったのだろうか。ファイはただ、話がしたかっただけなのに。
大好きな『黒わん』との思い出を、聞いてほしかっただけなのに。
***
目元に温かなものが触れていることに気が付いて、ファイはゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きをして、温もりの正体を目で追った。それは黒鋼の指で、彼は少し困ったように眉間の皺を深くしながら、ファイの顔を覗き込んでいた。
「なに泣いてんだよ」
「……黒わん?」
ファイは慌てて身を起こすとベッドの縁に腰かけていた黒鋼の胸にしがみつく。胸がズキズキと痛んでいた。悲しくて、寂しくて、涙が止まらない。
黒鋼は驚いていたようだが、すぐにファイを抱き返した。大きな腕の中に包まれていると、なぜかもっと泣きたくなった。
「黒わん……どこにも行かないで……遠くに行かないで……」
「なんだ、おっかねぇ夢でも見たか?」
黒鋼はファイの金色の頭に鼻先を押し付けて、小さく笑った。優しく背中を撫でられているうちに、ゆっくりと心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
引き攣るように息苦しかった呼吸が、黒鋼の温もりや匂いを感じるだけでどんどん楽になる。ほぅ、と息を吐き出して、ファイはひとつ鼻をすすった。
「黒わんが、いなくなっちゃう夢、見たの」
「俺が?」
「うぅん……黒わんだけど、黒わんじゃなくて……」
(あ……)
これは、あの月の丘でした会話と同じだ。
ファイが上手く話すことができなかったから、黒わんは消えてしまった。
「どうした?」
「ッ、あ、あの……なんでもない……」
「そうか」
黒鋼は長い指でファイの前髪をくしゃりと乱した。微かに持ち上がった口角を見ていると、昨日の夜のことを思い出す。
キラキラと輝くイルミネーションの中で、ファイは黒鋼とキスをした。
それは寝る前にユゥイとするものとは何かが違うような気がした。ユゥイとするのはお互いの頬っぺただったし、唇のキスはぬいぐるみとしかしたことがなかった。
黒鋼としたキスは、そのどれとも異なっていた。胸がぎゅっと締め付けられるような感じがして、身体の中に小さな火がついたみたいに、熱かった。
ファイはあのときと同じように顔が赤くなっていくのを感じながら俯いた。心臓のあたりが苦しくなってきて、胸元を強く握った。
落ち着かない気分で視線を泳がせれば、ぬいぐるみの方の黒わんが枕元に座っているのが視界の隅を掠めた。昔は耳や尻尾が取れかけていたが、ちゃんと直したから今は綺麗になっている。
夢の中に出てくる黒わんは、不思議なことにファイと大きさが変わらない。だけど枕元にあるものはすっぽりと膝に乗る程度の無難なサイズだ。
「おい、どっか痛ぇのか?」
そんなファイに気が付いて、黒鋼はファイの肩を掴むと少しだけ引き離す。だけどファイは顔を上げられなかった。いま黒鋼の顔を見たら、なぜかまた泣いてしまいそうだった。どうしてこんな気持ちになるのか、さっぱり分からない。自分が自分じゃないみたいだった。
黒鋼はファイの額に手を当てて、「少し熱っぽいか」と呟いた。
「寒いなか歩いちまったからな……薬、の前に飯がいいか。待ってろ、いま弟呼んでくる」
そう言って離れようとする黒鋼のシャツの袖を咄嗟に掴んで、ファイは首を傾げる。
そういえば、どうしてここに彼がいるんだろう。
昨夜は外から戻って、すぐに店の長椅子に腰かけた気がするのだが、そこから記憶がない。いつの間に眠って、しかも自分の部屋に戻ってきたのか、まるで思い出せなかった。
「黒わん、なんでここにいるの?」
「ああ、おまえ何も覚えてねぇのか」
「?」
「ゆうべは遅かっただろ。面倒だったから泊まらせてもらった」
黒鋼が指を指すので、ファイはベッドの下に視線をやった。雑貨を作るための毛糸や小物が溢れかえる部屋の中央に、折りたたまれた毛布とクッションが置いてある。
これで寝ていたということか。だとしたら、朝までずっと一緒にいたということだ。
「な、なんで起こしてくれなかったのー!」
「あ? なんで起こす必要があるんだよ」
「だって、だって、黒わんともっとお喋りしたかった!」
「今だってできんだろ」
「むぅー……黒わん分かってないー……」
いつもはせっかく遊びに来ても時間が来ると帰ってしまう黒鋼が、夜の間ずっと側にいた。
彼には彼の家があって、仕事もある。ユゥイに何度そう教えられても、頭では分かっているのにどうしても寂しくて。
それでも我慢していたご褒美を、神様がくれたのかもしれない。なのに、眠気に負けて気づいたら朝になっていたなんて。
いつもよりもっとたくさん遊んだり、話したりするチャンスだったのに。
でも、とファイは思う。悲しい夢を見たあとに、近くにいてくれたのが黒鋼でよかった。真っ先に彼の顔を見れてよかった。
普段は絶対に会えない時間に、黒鋼がいる。夜の間も側にいたんだと思うと、残念な気持ちもあったけど、嬉しかった。
「そっかぁ、黒わん、ずっと一緒だったんだぁ~」
ふにゃん、と笑うと黒鋼の頬が一瞬だけ赤くなったような気がした。彼は大きく咳払いをしたあと、部屋の出入り口をチラリと見て、それからファイに手を伸ばす。
顎に指先が触れたと思った次の瞬間、上向かされたのと同時に黒鋼の顔が驚くほど間近にあった。唇に押し付けられた熱に、呼吸が止まる。
(黒わん、まつ毛長い……)
側にいる間はずっとくっついているのに、昨日だってこういうキスをしたのに、今初めて気が付いた。
また胸が苦しくなってくる。唇が離れても、なんだか頭がぼんやりして、身体がふわふわした。風船みたいに飛んで行ってしまいそうだ。こんな感覚は、生まれて初めてだった。
「ふわあぁ~……」
「おまえそれどういう反応だよ」
気が抜けたようにおかしな声を上げたファイに、黒鋼は苦笑した。
そんな彼の表情を見るのが恥ずかしくて、ファイは枕元の黒わんを咄嗟に掴んで抱きしめると、赤い顔を思いっきり押し付けた。
「弟はもう下か」
黒鋼は立ち上がってそう呟くと、黒わんに顔を埋めたままのファイの頭をくしゃりと撫でて、部屋から出て行った。
その足音と扉が閉まる音を聞きながら、ファイはふと不安になる。
(なんでこんなにドキドキしちゃうのかなぁ……オレ、病気なのかなぁ……)
黒鋼は風邪かもしれないと言ったが、風邪をひいた時とは少し違うような気がした。
きゅうきゅうと締め付けられるみたいな心臓の痛みを覚えて、ファイはいっそう黒わんを強く抱きしめると、熱っぽい息を漏らした。
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海が見える中庭で、ベンチに腰かけた兄は夕空を見上げていた。
温い風がほんのりと潮の香りを運んでくる。普段は嗅ぎ慣れないそれに、酷く遠い世界へ迷い込んでしまったような、そんな不安に胸が締め付けられるような気がした。
ボクは彼が腰かけるベンチに一歩一歩、確かめるように近づくと、肘掛に手をかけた。兄はボクと同じ、だけどどこか垢抜けない無邪気さを残した顔を上げる。
彼の膝の上には、幼い頃よりもずっとボロボロに朽ち果てた『黒わん』が行儀よく座っていた。
「お兄さん、だぁれ?」
兄は目を丸くして、瞬きを繰り返しながら小首を傾げた。
無理もない。離れ離れになってからおよそ10年。その間、ボクらは一度も顔を合わせていない。
何も言えずにいるボクに、兄はもう一度「だぁれ?」と問いかけてくる。
まるで幼い子供のような口調に戸惑うボクに、兄は不安そうに表情を曇らせた。
「ファイ」
ボクは震える声で兄の名を呼んだ。兄は自分の名前にピクリと反応して、うん、と頷いた。
「ボクが分かる?」
兄は一言「知らない」と言って首を振った。
ボクは一度強く拳を握りしめてから、彼の正面に回って膝をつく。黒わんに添えられている白い手をそっと取って、両手で包み込むようにして緩く握った。
「ボクは、ユゥイ。遅くなっちゃったけど……会いに来たよ」
「ユゥイ?」
兄の瞳に、はっきりと不審そうな色が浮かんだ。彼は「うぅん」と赤子がぐずるような声を上げて、先刻よりも強く首を振った。
「違うよ。お兄さんはユゥイじゃない」
「どうして?」
「だって、ユゥイはもっと小さいもん。小さくて、すぐに泣いちゃうの。だからオレが守ってあげなくちゃ」
「……ボクは」
ユゥイは、もう小さくもなければ泣き虫でもない。
兄は分からないのだ。あれから10年もの時が過ぎて、彼もボクも大人になった。髪も伸びたし、背も伸びた。声も変わった。
そうやって、ボクらは一人の大人の男として再会するはずだった。
だけど、兄は今もあの星灯りの部屋に取り残されたままだった。
いや、むしろあの頃よりもずっと……。
やっぱりあの時、彼を残して行くべきではなかった。何もできなかったと分かってはいても、それでも。
ボクにできたのは、せいぜい彼の大事な黒わんを置いていくことだけだった。
あの日、ボクは大人になることを決めた。ファイを思って泣くことをやめた。一人でも生きていけるように、寂しくても泣かないように。
彼は言ったのに。忘れないでと、ボクに言ったのに。ボクは、忘れなければ生きていけなかった。
「ごめんね」
ボクは兄の手を握りしめたまま、その膝に額を預けて涙を流した。
ああ、ボクも同じだ。大人になんかなれなかった。壊れてしまった兄は綺麗なままで、ボクはこんなにも狡く、薄汚れた人間だった。
ボクの中で兄は、いつしか忌むべき過去の象徴になっていた。思い出したくなかった。
ボクは周りの大人たちのせいにして、兄から、逃げたんだ。
「ごめんなさい……ファイ、ごめんなさい……」
肩を震わせて泣くボクに、兄は少しだけ身を屈めるとそっと頭に触れてきた。顔を上げたボクに、彼は優しく微笑んだ。
「やっぱり泣き虫だね。ユゥイは」
「ッ……ぅ……」
涙が止まらなかった。兄と離れてからずっと堪えていたそれが、後から後から溢れて止まらなかった。
ボクは兄の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。兄はそんなボクを抱き留めて、幾度も伸びた金髪を梳かすように撫でる。
「大丈夫。もう泣かなくていいんだよ」
「ッ、ファイ……」
「また会えて嬉しい。ずっと大好きだったよ、ユゥイ」
大好きだから、寂しい。ずっとずっと。
寂しかった。
小さくて泣き虫だったボクを、兄はずっと愛していてくれた。
黒わんだけを側に置いて、他の誰に縋るでもなく、幼い心のまま、一人で。
なら、ボクはもう絶対に離れない。今度はボクが、彼を守る番だった。
「帰ろう、ファイ。また一緒に暮らそう?」
そう言うと、彼は嬉しそうに頷いて、笑った。
***
暗い店内に、点滅するツリーの電飾だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
その微かな光の中で、ファイが長椅子に上半身を横たえて眠っている。手にはしっかりと、木製のオルゴールペンダントを握りしめて。
「驚いたでしょう?」
ファイの身体にコートをかぶせてやりながら、カウンターに腰かける黒鋼にユゥイが微笑みかけた。
黒鋼はブランデー入りの紅茶のカップを傾け、あの不思議な現象について目だけで問いかける。ユゥイはゆっくりとカウンター席に近づくと、一席分のスペースを開けて隣に腰かけた。
「常連さんの中に、自治会長の娘さんがいるんです。ほら、よくそこの席で静かに本を読んでいる……」
「ああ、あの黒髪の」
この店に初めて訪れた時にもいた少女のことだ。名前は知世だったか。
ファイが大親友だと言って手を振っていたのを思い出す。まだ直接話をしたことはないが、お茶とケーキをお供に読書をしているのをよく見かける。
「彼女にちょっとお願いして、ひと肌脱いでもらったんですよ」
「職権乱用じゃねぇのか……?」
「クリスマスですから。言いっこなしです」
そういう問題ではないと思うのだが……。
最終的にファイは大喜びだったし、なんというか、黒鋼もすっかりあの空気に感化され、つい手を出してしまう結果になったわけだが。
真っ直ぐに懐いてくるファイをただただ可愛いと思っていたはず気持ちが、まさかあのような形で姿を現すとは、夢にも思わなかった。未だに少し信じられない。
(ガキに惚れちまったってことになるのか、俺は……)
ファイが大人なのは見た目だけだ。しかも歴とした男性でもある。
ただなんとなく、彼は性別という枠にはハマらないような気もした。言い訳かもしれないが、ファイはファイであって男でも女でもない。そんな考えがすんなりと自分の中に浸透するのが不思議だった。
とにかく、勢い余って抱きしめて口づけてしまった自分の大胆さに、今更になって恥ずかしいような、むず痒い気持ちになった。
「少し顔が赤いですけど、ブランデー入れすぎましたか?」
「……かもな」
誤魔化すように目を逸らし、視線を長椅子で眠るファイに向けた。
はしゃぎすぎて疲れた彼は、ここに帰ってきてすぐにあそこで寝入ってしまった。その手に握られるペンダントに、自然と口元が綻ぶ。
「ボクも泣くと思ってました」
ユゥイもまた、眠るファイに目を向けて微笑んでいた。
「きっとお仕事で遅れているんだって、そう言ったら珍しく我慢したんです。少し前の彼だったら、大泣きして自分の部屋に閉じこもって、出てこなかったんじゃないかな」
「意外だな。少し拍子抜けした」
「……ファイは、大人になろうとしているのかもしれません」
その先を続けようとして、ユゥイの唇が微かに震えた。でも、彼は何も言わない。ただ静かに睫毛を伏せるだけだった。
黒鋼はその横顔をじっと見つめ、すっと目を細める。
「言えよ」
「…………」
「ここんとこずっとそうだな。言いたいことがあるんじゃねぇのか?」
ユゥイは鼻から小さく息を漏らすようにクスリと笑った。
微かな電飾の中で、その微笑みはひどく儚いものに見える。イルミネーションの強い光の中で笑っていたファイとは違う、深い翳りの中に、彼はあえて身を置いているような気がした。
「少し、昔話をしてもいいですか?」
黒鋼が無言の肯定をすると、彼はカウンターの上で両手を握りしめ、俯きながらゆっくりと話し始めた。
「……ボクらの父親は、ボクらが生まれてすぐに死んだんです」
「…………」
「母は幼いボクとファイを施設に預けて、そのあと自ら命を絶ちました」
死んじゃうからと、そう言って父親の石を放り投げ、母親の石を遠ざけたファイの姿を思い出す。やはりあれは彼らの両親のことだった。
「酷い環境でした。少しでも聞き分けのない子供や、粗相をする子供には容赦なく暴力がふるわれる。ボクは鈍臭くて、泣き虫で、すぐに食器を割ったり、食べ物を零しては叱られていました。そんなとき、必ずファイが前に出て、ボクを庇ってくれたんです」
ファイが前に出ることによって、暴力の矛先はいつも彼に向けられたという。
時にはユゥイが失敗する前に自分からわざと物を壊したり汚したりして、憎まれ役を買って出ていた。
「ボクを守るために兄は……ファイは、いつも傷だらけだった。身体中痣だらけになって、それでも笑ってボクを抱きしめてくれた」
握られたユゥイの手が、微かに震えている。劣悪な環境に身を置いていた頃を、傷だらけで笑うファイを、思い出して。
そんな生活の中、ファイとユゥイのどちらかを引き取りたいと申し出た老夫婦が現れた。
「父の遠い親戚にあたる人でした。だけどその家庭は決して裕福というわけではなく、一人しか引き取れないと言って、選ばれたのはボクでした」
活発で、前に出るタイプのファイよりも、その夫婦は物静かであまり自己主張をしないユゥイを好んだ。共に生まれ、寄り添って生きてきた双子は、そこで離れ離れになることを余儀なくされた。
『お別れしなきゃいけないの。大好きだから』
あの日、ファイはそう言った。
何かしら事情があったことは察していたが、こうして聞かされた詳細に、黒鋼はやり場のない憤りを覚えた。
背中に庇うべき存在がいなくなったとしても、その後も虐待が続いたであろうことは容易に想像できる。
「聞いてもいいか」
「どうぞ」
「俺が初めてここに来た日、おまえは言ったな。自分の責任だ、と」
「言いました」
「あいつの頭ん中がガキのまんまなのは……」
ユゥイはどこか遠くを見るような目をしながら、ぽつりと零す。
「兄は、壊れてしまった」
ファイは要領のいい子供だったと、ユゥイは続けた。
「そそっかしいボクとは違って手先も器用で、頭のいい子供だった。だからボクさえいなければもう叱られることも、暴力をふるわれることもないだろうと、そう思っていたのに」
ユゥイを庇い続けているうちに、ファイは施設の人間から特に問題のある子供として認識されてしまった。躾と称した理不尽な虐待は、やはりその後も続いた。
一人ぼっちになった淋しさと、自分を傷つける大人しかいない環境に身を置き続けた彼の心は、水の流れが岩を削るように擦り減っていった。
そして壊れた。
「兄と再会したのは二十歳の頃です。ずっと遠い街で暮らしていたボクは、引き取ってくれた老夫婦が他界したのを機に家を出ました。一人になると、いつも思い出すのは兄のことばかりだった。彼がどうしているのか、それだけでも知りたくて、探しました」
真っ先に問い合わせた施設はとっくの昔に解体されていたが、役所や興信所を頼りに探し出したファイは、町はずれの精神障害者施設で生活訓練を受ける日々を送っていた。
「兄は、最初はボクが分からなかったみたいです。彼の中では時間が止まっていて、ボクはまだ小さな姿のままだったから。だけどちゃんと分かってくれた。情けない話ですが、いい歳をして泣いてしまったボクの顔を見て、ユゥイって、呼んでくれたんです」
その後ユゥイはファイを引き取り、二人で細々と暮らし始めた。
元々料理やスイーツを作るのが趣味だったユゥイは、飲食店で働きながら学校を卒業し、この店は育ての親である老夫婦が残した、僅かばかりの遺産でオープンさせたという。ファイの雑貨作りの技能は、訓練施設で身につけてきたものらしい。
そこまで話し終えたユゥイは、胸の痞えが取れたようにホッと息をつく。
「長くなってしまいました。だけど、どうしても聞いてほしかった」
彼は黙って耳を傾けていた黒鋼の目を、探るように真っ直ぐに見つめる。そして、
「同情しますか?」
そう、静かに問いかけてきた。
「そりゃするだろ」
ユゥイの考えていることは分からない。
何を試そうとしているのかも。ただ、彼の機嫌を窺うような答え探しはしたくなかった。
黒鋼が正直に述べると、彼は目を逸らし、下唇を一瞬噛み締めた。
「ファイに付き合ってくれているのは、可哀想だから、ですか」
「何が言いたい?」
「……彼は見た目だけなら立派な大人だ。だけど中身は違う。優しくしてくれる人も沢山いるけれど……一時の同情だけで手を伸ばすなら、やめてほしい」
いつか絶対に、抱えきれなくなる。
ユゥイの言葉を聞いて、そういうことかと、黒鋼は静かに息を漏らした。
どんなに打ち解けた素振りを見せていても、彼はどこかでジャッジを下さなければならない。誰かがファイを傷つける前に。
けれど黒鋼は、その言葉の裏側に彼の苦悩を垣間見たような気がした。
「それは、おまえのことじゃねぇのか?」
「!」
肩を揺らし、目を見開くユゥイに黒鋼は続ける。
「償ってる気でいるのか? ありもしねぇ罪を」
「…………」
「俺はな、この店はおまえら双子が幸せにやってることの象徴だと、そう感じてたんだよ。だが、違ったのかもしれねぇな」
訪れる客をユゥイが笑顔でもてなし、ファイが陽の当たるテラスで雑貨を作る。
時間が空けばサクラや小狼たちと食事をしたり、お茶を飲んだり、ファイが何か悪いことをすれば叱ったりもして。
だけど最後には必ず笑顔で溢れる。ファイと接するユゥイの表情はいつも優しくて、触れる指先に愛情が滲み出ているのを見るだけで、黒鋼もまた温かな気持ちになっていた。
けれど。
「ここは檻だったのか? あれを外に出さねぇように、誰の目にも触れねぇように、ただ囲うための」
ユゥイは何も言わなかった。
彼も分かっていなかったのかもしれない。ファイが暴力を受け続けたのも、壊れてしまったのも、何もかもが自分の責任だと、そうでなければならないのだと、背負い込むことで自分を保とうとしている。
彼はこの可愛らしい雑貨と甘い香りに包まれた箱庭で、死ぬまでずっとファイを囲い続ける気でいるのか。けれど、縛られるのはファイだけではない。守ろうと足掻くユゥイ自身もまた、ここから出て自由を得ることはできないのだから。
「ボクは……」
そのまま口を閉ざしてしまったユゥイに、少し強くつつき過ぎたかと黒鋼もまた口を噤んだ。
黒鋼はファイと出会って、接している中で、誰かを何よりも大切に愛おしむ気持ちを知った。真っ直ぐに慕われる心地よさを知った。
光の道を手を繋いで歩きながら確信した思いは、夢から覚めたようなこの薄暗い空間に身を置いても、変わることなく胸の中に息づいていた。
最初は確かに同情だったかもしれない。大好きな黒わんと離れたくなくて泣いていたファイは、ただ弱くて可哀想な生き物にしか見えなかった。
でも今は違う。黒鋼自身がファイの側にいたいと思っている。いつか彼が黒鋼と黒わんは別のものだと理解する日が来るのだとしたら、そのとき彼の目に映っている自分は、ただの一人の男でありたいと。
それは決して雲を掴むような、途方もない話ではないような気がする。近い将来、きっと。
「あいつは、俺たちが思ってるよりもずっと大人なのかもな」
「え……?」
思いつめたような顔を上げるユゥイに、黒鋼は小さく笑った。
ユゥイは知らない。ファイがもうサンタクロースに夢を見ていないこと。彼は必死でファイを守っているつもりなのだろうが、ファイもまた、彼の夢を守ろうとしている。
ユゥイには内緒。ファイと約束したから、彼にそれを教えてやることはできないけれど。
「おまえたちの過去は悲惨だ。誰だって聞けば同情のひとつくらいするだろうよ」
「…………」
「だけど俺は、羨ましかったのかもしれねぇな」
「羨ましい?」
黒鋼は、再び眠っているファイに目を向けた。
「泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑ってよ。好きも嫌いも寂しいも、思ったときには口にして、身体全部で表すじゃねぇか」
大人になってしまった自分たちは、そう簡単に真っ直ぐ生きることができなくなってしまった。あらゆる感情全てに相応の理由をつけなければ、確信にさえ至れないことだってある。
ファイと出会って、そのむき出しの感情に触れているうちに、黒鋼はいつの間にか不器用にしか生きられなくなっていた自分に気づかされてしまった。
「眩しいな。目が眩んじまいそうだ」
だけど、同じ光の中にいたいと思う。その裏側にある悲しみも、傷も、孤独も、全てひっくるめて、今ここに生きているファイの側に在りたいと。
ユゥイが小さく息を飲む。彼は何かに気づいたように茫然とした表情を浮かべ、それからまるで棘が抜けていくようにゆっくりと、息を吐き出しながら微笑んだ。
そして噛み締めるように、確かめるように言った。
「ボクたちは、幸せなんですね」
***
黒鋼は眠くてぐずるファイを抱えて二階へ行ってしまった。
今夜はもう遅いから、適当に休んでくれと言うと彼は素直に頷いていた。
一人残されたユゥイは、チカチカと点滅するツリーの電飾をぼんやりと見つめたまま、その場から動く気になれずにいた。
『眩しいな。目が眩んじまいそうだ』
黒鋼の言葉が頭から離れなかった。そして気づかされた。
(眩しかったんだ)
時々、無性にファイから目を逸らしたくて仕方がない瞬間があった。
寂しいと、悲しいと、彼はそれがどこであろうと、誰の前であろうと隠すことなく涙を流しては感情をさらけ出す。そんな真似、大人にはできない。
ファイがこんな風になってしまったのは、全て非力で守られることが当たり前だった自分のせいだと、今までのユゥイはただ自らを責めるばかりだった。
泣いているファイを見ているのは辛くて、彼の嗚咽を聞いていると、まるで「おまえのせいだ」と責められているような気がして。
ユゥイは初めて黒鋼がこの店に来たときのことを思い出した。彼を黒わんだと思い込むファイは、帰り際に泣きながら「一緒に行く」と言った。
あのときの胸の痛みは、きっと生涯忘れられない。
そう思っていた。
幼い日、あの星灯りの部屋でファイは涙を流すことも、ユゥイを責めることも、ましてや「一緒に行きたい」なんて一言も、決して漏らすことはなかった。
けれどきっと悲しかったに違いなかった。一緒に行きたいに違いなかった。
幼かったはずの彼は、自分の感情を全てその小さな身体の中に押し込めて笑っていた。
だから、寂しいと言って黒鋼に泣き縋る姿が辛かった。可哀想で仕方がなかった。
兄はこんな人間じゃなかったと、もっと強かったはずだと、こんな風にしてしまったのは、他でもないボク自身なのだと。
だけど。
(ボクは、喜んでいいんだ)
ファイが素直に感情をさらけ出せるようになったことを。
彼はもう何も我慢する必要はない。我慢なら、もう沢山したから。だからあとは、笑って泣いて、ただ生きればいい。
ここに可哀想な子供なんかいない。ファイはただあるがままに、真っ直ぐに生きているに過ぎなかった。
(今、ボクらは幸せなんだ)
ずっと暗い場所にいるのだと思っていた。目に飛び込んでくる光の眩しさに目が眩んで、自分も同じ光の中にいるのだということに、気づけなかった。
もし黒鋼が一時の気まぐれで情をかけているのだとしたら、いつか必ず傷つけることになる。ファイが彼に懐くほどに、微笑ましいと感じるのと同じだけそんな不安も膨らんでいた。
黒鋼はああ見えて優しくて、お人好しだ。信用するに値する人間だと分かってはいても。何か裏があるのではないかと、どこかでは信じきれないでいる自分もいた。
だから彼の真意を真っ向から確かめようとしたはずなのに、逆に思い知らされるなんて。少し情けない気持ちになって、思わず笑ってしまう。
今のユゥイは嘘のように心が軽くなっていた。
だから本当は、いつものようにただ冷たくあしらうつもりだったのだが。
「君はいつから泥棒にでもなったのかな」
呆れたように言うと、カウンターの奥からぬっと姿を現したのは小龍だった。
カーキ色をしたミリタリージャケットのポケットに両手を突っ込んで、彼はいつもの無表情でカウンターを回り込むと、ユゥイのすぐ隣の椅子に浅く腰かけた。
「子供が遊んでていい時間じゃないの、分かってる?」
「やり残した仕事があったので」
「だからって裏口からこっそり入るのはどうなんだろうね」
小狼たちと一緒に帰ったはずなのに、彼は一体いつからいたんだろう。聞いたとしてもこの少年がまともに答えるとは思えなくて、ユゥイはただ横目でチラリと睨んでおくだけにしておいた。
「やり残した仕事ってなに? 掃除はもう済んだし、明日は休みだし」
問いかけるユゥイに、小龍はただ無言でポケットから手を出した。そこには、金色のリボンで飾られた黒い箱がある。
彼はそれをカウンターテーブルに置いて、指先を添えながらユゥイの側まですぅっと滑らせた。
「……ボクに?」
目を丸くすると、小龍は無言で頷きながら「開けろ」と促す。少し戸惑いながら、ユゥイはリボンを解いて包みを開けた。剥き出しになった白く分厚い包装箱をそっと開けると、丸みのあるフォルムのケースが姿を現した。
灰色の上質な手触りに指先を這わせ、ゆっくりと蓋を開ける。
「ブレスレット?」
それはロールチェーンのシルバーブレスレットだった。細身のシルエットに小さな十字架のアクセントが、頼りない電飾の灯りをキラリと弾く。
視線を小龍に向けると、彼は小さく口元だけで笑った。その大人びた微笑が、丸い瞳に残る幼さと比例してなんだか憎たらしい。
「日付が変わる前に渡したかったんですが。なかなかお話が終わらないようだったので」
「……随分と前から潜んでたんだね」
「過ごしたいじゃないですか。好きな相手と、クリスマスの夜」
「困った子だな……」
気持ちは決して嬉しくないわけではない。
だけどまさか自分が男子高校生に求愛されるなんて夢にも思っていなかったし、なかなか受け入れがたい事実でもある。
それに、今までのユゥイは自分のことにかまけていられる心の余裕がなかった。
小龍はいい子だ。助けられることも多いし、正直、誰よりもあてにしている。
けれど雇い主としての信用と、一個人としての感情は別物だった。というより、考えたこともなかった。でも。
(少しくらいは、自分のことを考えてもいいんだろうか)
死ぬまでファイのために生きるつもりでいた。それしか償うことはできないと。
けれど黒鋼はユゥイが抱えるものを『ありもしない罪』と言った。
ユゥイは償いのためにここにいたわけではなかった。ただファイを愛していたから、彼の放つ光の中に、共に在りたかった。
「ねぇ、貴方は今、幸せなんでしょう?」
おそらくほぼ最初から最後まで立ち聞きをしていたのであろう小龍が、いつになく熱っぽい眼差しを向けてくる。
「おれに守らせてくれませんか。貴方と、貴方の幸せを」
普段は何を考えているのか分かりにくい顔をしているくせに。今の彼はやけに真摯で、やけに必死だ。肌から伝わる張り詰めたような空気に、ユゥイは思わず吹き出してしまった。
「……どうして笑うんですか」
「ごめん。だって、生意気だから」
小龍はあからさまに不貞腐れたように眉間にきゅうっと皺を寄せる。なんだ、結構可愛いじゃないかと、絆されかけている自分に気づいてさらに可笑しくなった。
どうしてか、嫌じゃない。こんな風に笑える自分が。
ユゥイはケースの中からブレスレットを摘まみだすと、それを小龍に差し出した。
「つけて」
「はい?」
「普段こういうのつける習慣がないんだ。上手くつけられないから、つけて」
そう言って左腕を差し出すと、小龍は丸い目で瞬きを繰り返し、笑った。
「なんで笑うの」
「いや、なんだかんだで弟気質だなと」
「しょうがないよ。ボクは甘やかされて育ったんだ」
「いいですよ」
ブレスレットを手の平に受け取った小龍は、苦笑しながらそれをユゥイの腕にかけ、薄闇の中でも器用に留めた。点滅する電飾を弾いて輝く、銀色のそれを目線の高さまで持ち上げて、じっくり眺めてからユゥイは頷く。悪くない。
「ありがと」
短く礼を言うと、「どういたしまして」と笑う小龍に向かって身を屈めた。そして、目を見開く彼の頬に一瞬だけ、唇を押し付ける。
ちゅ、という微かな音が、妙に恥ずかしい。一体何をしているんだろう。
「ッ、ぁ、あの」
「……お返し、これでよかったかな」
「……できればもっと別の場所の方が」
「調子に乗るな」
真剣な表情で両手を伸ばしてくる小龍の額を、手の平でペシッと叩く。ユゥイは立ち上がると、逃れるようにカウンターの向こうに回り込んだ。眉間に皺を刻む少年は、お預けを食らった子犬のようにむっと唇を尖らせる。
「この先は、そうだな……高校を卒業するまでに、ボクの身長に追いついたら考えてあげなくもないよ」
「……追い越します。必ず」
「そこまでは言ってないけど……まぁ、頑張って」
薄明りの中で瞳を燃え上がらせる小龍に、ユゥイは大きく息をつきながら情けなく眉尻を下げて笑った。
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温い風がほんのりと潮の香りを運んでくる。普段は嗅ぎ慣れないそれに、酷く遠い世界へ迷い込んでしまったような、そんな不安に胸が締め付けられるような気がした。
ボクは彼が腰かけるベンチに一歩一歩、確かめるように近づくと、肘掛に手をかけた。兄はボクと同じ、だけどどこか垢抜けない無邪気さを残した顔を上げる。
彼の膝の上には、幼い頃よりもずっとボロボロに朽ち果てた『黒わん』が行儀よく座っていた。
「お兄さん、だぁれ?」
兄は目を丸くして、瞬きを繰り返しながら小首を傾げた。
無理もない。離れ離れになってからおよそ10年。その間、ボクらは一度も顔を合わせていない。
何も言えずにいるボクに、兄はもう一度「だぁれ?」と問いかけてくる。
まるで幼い子供のような口調に戸惑うボクに、兄は不安そうに表情を曇らせた。
「ファイ」
ボクは震える声で兄の名を呼んだ。兄は自分の名前にピクリと反応して、うん、と頷いた。
「ボクが分かる?」
兄は一言「知らない」と言って首を振った。
ボクは一度強く拳を握りしめてから、彼の正面に回って膝をつく。黒わんに添えられている白い手をそっと取って、両手で包み込むようにして緩く握った。
「ボクは、ユゥイ。遅くなっちゃったけど……会いに来たよ」
「ユゥイ?」
兄の瞳に、はっきりと不審そうな色が浮かんだ。彼は「うぅん」と赤子がぐずるような声を上げて、先刻よりも強く首を振った。
「違うよ。お兄さんはユゥイじゃない」
「どうして?」
「だって、ユゥイはもっと小さいもん。小さくて、すぐに泣いちゃうの。だからオレが守ってあげなくちゃ」
「……ボクは」
ユゥイは、もう小さくもなければ泣き虫でもない。
兄は分からないのだ。あれから10年もの時が過ぎて、彼もボクも大人になった。髪も伸びたし、背も伸びた。声も変わった。
そうやって、ボクらは一人の大人の男として再会するはずだった。
だけど、兄は今もあの星灯りの部屋に取り残されたままだった。
いや、むしろあの頃よりもずっと……。
やっぱりあの時、彼を残して行くべきではなかった。何もできなかったと分かってはいても、それでも。
ボクにできたのは、せいぜい彼の大事な黒わんを置いていくことだけだった。
あの日、ボクは大人になることを決めた。ファイを思って泣くことをやめた。一人でも生きていけるように、寂しくても泣かないように。
彼は言ったのに。忘れないでと、ボクに言ったのに。ボクは、忘れなければ生きていけなかった。
「ごめんね」
ボクは兄の手を握りしめたまま、その膝に額を預けて涙を流した。
ああ、ボクも同じだ。大人になんかなれなかった。壊れてしまった兄は綺麗なままで、ボクはこんなにも狡く、薄汚れた人間だった。
ボクの中で兄は、いつしか忌むべき過去の象徴になっていた。思い出したくなかった。
ボクは周りの大人たちのせいにして、兄から、逃げたんだ。
「ごめんなさい……ファイ、ごめんなさい……」
肩を震わせて泣くボクに、兄は少しだけ身を屈めるとそっと頭に触れてきた。顔を上げたボクに、彼は優しく微笑んだ。
「やっぱり泣き虫だね。ユゥイは」
「ッ……ぅ……」
涙が止まらなかった。兄と離れてからずっと堪えていたそれが、後から後から溢れて止まらなかった。
ボクは兄の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。兄はそんなボクを抱き留めて、幾度も伸びた金髪を梳かすように撫でる。
「大丈夫。もう泣かなくていいんだよ」
「ッ、ファイ……」
「また会えて嬉しい。ずっと大好きだったよ、ユゥイ」
大好きだから、寂しい。ずっとずっと。
寂しかった。
小さくて泣き虫だったボクを、兄はずっと愛していてくれた。
黒わんだけを側に置いて、他の誰に縋るでもなく、幼い心のまま、一人で。
なら、ボクはもう絶対に離れない。今度はボクが、彼を守る番だった。
「帰ろう、ファイ。また一緒に暮らそう?」
そう言うと、彼は嬉しそうに頷いて、笑った。
***
暗い店内に、点滅するツリーの電飾だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
その微かな光の中で、ファイが長椅子に上半身を横たえて眠っている。手にはしっかりと、木製のオルゴールペンダントを握りしめて。
「驚いたでしょう?」
ファイの身体にコートをかぶせてやりながら、カウンターに腰かける黒鋼にユゥイが微笑みかけた。
黒鋼はブランデー入りの紅茶のカップを傾け、あの不思議な現象について目だけで問いかける。ユゥイはゆっくりとカウンター席に近づくと、一席分のスペースを開けて隣に腰かけた。
「常連さんの中に、自治会長の娘さんがいるんです。ほら、よくそこの席で静かに本を読んでいる……」
「ああ、あの黒髪の」
この店に初めて訪れた時にもいた少女のことだ。名前は知世だったか。
ファイが大親友だと言って手を振っていたのを思い出す。まだ直接話をしたことはないが、お茶とケーキをお供に読書をしているのをよく見かける。
「彼女にちょっとお願いして、ひと肌脱いでもらったんですよ」
「職権乱用じゃねぇのか……?」
「クリスマスですから。言いっこなしです」
そういう問題ではないと思うのだが……。
最終的にファイは大喜びだったし、なんというか、黒鋼もすっかりあの空気に感化され、つい手を出してしまう結果になったわけだが。
真っ直ぐに懐いてくるファイをただただ可愛いと思っていたはず気持ちが、まさかあのような形で姿を現すとは、夢にも思わなかった。未だに少し信じられない。
(ガキに惚れちまったってことになるのか、俺は……)
ファイが大人なのは見た目だけだ。しかも歴とした男性でもある。
ただなんとなく、彼は性別という枠にはハマらないような気もした。言い訳かもしれないが、ファイはファイであって男でも女でもない。そんな考えがすんなりと自分の中に浸透するのが不思議だった。
とにかく、勢い余って抱きしめて口づけてしまった自分の大胆さに、今更になって恥ずかしいような、むず痒い気持ちになった。
「少し顔が赤いですけど、ブランデー入れすぎましたか?」
「……かもな」
誤魔化すように目を逸らし、視線を長椅子で眠るファイに向けた。
はしゃぎすぎて疲れた彼は、ここに帰ってきてすぐにあそこで寝入ってしまった。その手に握られるペンダントに、自然と口元が綻ぶ。
「ボクも泣くと思ってました」
ユゥイもまた、眠るファイに目を向けて微笑んでいた。
「きっとお仕事で遅れているんだって、そう言ったら珍しく我慢したんです。少し前の彼だったら、大泣きして自分の部屋に閉じこもって、出てこなかったんじゃないかな」
「意外だな。少し拍子抜けした」
「……ファイは、大人になろうとしているのかもしれません」
その先を続けようとして、ユゥイの唇が微かに震えた。でも、彼は何も言わない。ただ静かに睫毛を伏せるだけだった。
黒鋼はその横顔をじっと見つめ、すっと目を細める。
「言えよ」
「…………」
「ここんとこずっとそうだな。言いたいことがあるんじゃねぇのか?」
ユゥイは鼻から小さく息を漏らすようにクスリと笑った。
微かな電飾の中で、その微笑みはひどく儚いものに見える。イルミネーションの強い光の中で笑っていたファイとは違う、深い翳りの中に、彼はあえて身を置いているような気がした。
「少し、昔話をしてもいいですか?」
黒鋼が無言の肯定をすると、彼はカウンターの上で両手を握りしめ、俯きながらゆっくりと話し始めた。
「……ボクらの父親は、ボクらが生まれてすぐに死んだんです」
「…………」
「母は幼いボクとファイを施設に預けて、そのあと自ら命を絶ちました」
死んじゃうからと、そう言って父親の石を放り投げ、母親の石を遠ざけたファイの姿を思い出す。やはりあれは彼らの両親のことだった。
「酷い環境でした。少しでも聞き分けのない子供や、粗相をする子供には容赦なく暴力がふるわれる。ボクは鈍臭くて、泣き虫で、すぐに食器を割ったり、食べ物を零しては叱られていました。そんなとき、必ずファイが前に出て、ボクを庇ってくれたんです」
ファイが前に出ることによって、暴力の矛先はいつも彼に向けられたという。
時にはユゥイが失敗する前に自分からわざと物を壊したり汚したりして、憎まれ役を買って出ていた。
「ボクを守るために兄は……ファイは、いつも傷だらけだった。身体中痣だらけになって、それでも笑ってボクを抱きしめてくれた」
握られたユゥイの手が、微かに震えている。劣悪な環境に身を置いていた頃を、傷だらけで笑うファイを、思い出して。
そんな生活の中、ファイとユゥイのどちらかを引き取りたいと申し出た老夫婦が現れた。
「父の遠い親戚にあたる人でした。だけどその家庭は決して裕福というわけではなく、一人しか引き取れないと言って、選ばれたのはボクでした」
活発で、前に出るタイプのファイよりも、その夫婦は物静かであまり自己主張をしないユゥイを好んだ。共に生まれ、寄り添って生きてきた双子は、そこで離れ離れになることを余儀なくされた。
『お別れしなきゃいけないの。大好きだから』
あの日、ファイはそう言った。
何かしら事情があったことは察していたが、こうして聞かされた詳細に、黒鋼はやり場のない憤りを覚えた。
背中に庇うべき存在がいなくなったとしても、その後も虐待が続いたであろうことは容易に想像できる。
「聞いてもいいか」
「どうぞ」
「俺が初めてここに来た日、おまえは言ったな。自分の責任だ、と」
「言いました」
「あいつの頭ん中がガキのまんまなのは……」
ユゥイはどこか遠くを見るような目をしながら、ぽつりと零す。
「兄は、壊れてしまった」
ファイは要領のいい子供だったと、ユゥイは続けた。
「そそっかしいボクとは違って手先も器用で、頭のいい子供だった。だからボクさえいなければもう叱られることも、暴力をふるわれることもないだろうと、そう思っていたのに」
ユゥイを庇い続けているうちに、ファイは施設の人間から特に問題のある子供として認識されてしまった。躾と称した理不尽な虐待は、やはりその後も続いた。
一人ぼっちになった淋しさと、自分を傷つける大人しかいない環境に身を置き続けた彼の心は、水の流れが岩を削るように擦り減っていった。
そして壊れた。
「兄と再会したのは二十歳の頃です。ずっと遠い街で暮らしていたボクは、引き取ってくれた老夫婦が他界したのを機に家を出ました。一人になると、いつも思い出すのは兄のことばかりだった。彼がどうしているのか、それだけでも知りたくて、探しました」
真っ先に問い合わせた施設はとっくの昔に解体されていたが、役所や興信所を頼りに探し出したファイは、町はずれの精神障害者施設で生活訓練を受ける日々を送っていた。
「兄は、最初はボクが分からなかったみたいです。彼の中では時間が止まっていて、ボクはまだ小さな姿のままだったから。だけどちゃんと分かってくれた。情けない話ですが、いい歳をして泣いてしまったボクの顔を見て、ユゥイって、呼んでくれたんです」
その後ユゥイはファイを引き取り、二人で細々と暮らし始めた。
元々料理やスイーツを作るのが趣味だったユゥイは、飲食店で働きながら学校を卒業し、この店は育ての親である老夫婦が残した、僅かばかりの遺産でオープンさせたという。ファイの雑貨作りの技能は、訓練施設で身につけてきたものらしい。
そこまで話し終えたユゥイは、胸の痞えが取れたようにホッと息をつく。
「長くなってしまいました。だけど、どうしても聞いてほしかった」
彼は黙って耳を傾けていた黒鋼の目を、探るように真っ直ぐに見つめる。そして、
「同情しますか?」
そう、静かに問いかけてきた。
「そりゃするだろ」
ユゥイの考えていることは分からない。
何を試そうとしているのかも。ただ、彼の機嫌を窺うような答え探しはしたくなかった。
黒鋼が正直に述べると、彼は目を逸らし、下唇を一瞬噛み締めた。
「ファイに付き合ってくれているのは、可哀想だから、ですか」
「何が言いたい?」
「……彼は見た目だけなら立派な大人だ。だけど中身は違う。優しくしてくれる人も沢山いるけれど……一時の同情だけで手を伸ばすなら、やめてほしい」
いつか絶対に、抱えきれなくなる。
ユゥイの言葉を聞いて、そういうことかと、黒鋼は静かに息を漏らした。
どんなに打ち解けた素振りを見せていても、彼はどこかでジャッジを下さなければならない。誰かがファイを傷つける前に。
けれど黒鋼は、その言葉の裏側に彼の苦悩を垣間見たような気がした。
「それは、おまえのことじゃねぇのか?」
「!」
肩を揺らし、目を見開くユゥイに黒鋼は続ける。
「償ってる気でいるのか? ありもしねぇ罪を」
「…………」
「俺はな、この店はおまえら双子が幸せにやってることの象徴だと、そう感じてたんだよ。だが、違ったのかもしれねぇな」
訪れる客をユゥイが笑顔でもてなし、ファイが陽の当たるテラスで雑貨を作る。
時間が空けばサクラや小狼たちと食事をしたり、お茶を飲んだり、ファイが何か悪いことをすれば叱ったりもして。
だけど最後には必ず笑顔で溢れる。ファイと接するユゥイの表情はいつも優しくて、触れる指先に愛情が滲み出ているのを見るだけで、黒鋼もまた温かな気持ちになっていた。
けれど。
「ここは檻だったのか? あれを外に出さねぇように、誰の目にも触れねぇように、ただ囲うための」
ユゥイは何も言わなかった。
彼も分かっていなかったのかもしれない。ファイが暴力を受け続けたのも、壊れてしまったのも、何もかもが自分の責任だと、そうでなければならないのだと、背負い込むことで自分を保とうとしている。
彼はこの可愛らしい雑貨と甘い香りに包まれた箱庭で、死ぬまでずっとファイを囲い続ける気でいるのか。けれど、縛られるのはファイだけではない。守ろうと足掻くユゥイ自身もまた、ここから出て自由を得ることはできないのだから。
「ボクは……」
そのまま口を閉ざしてしまったユゥイに、少し強くつつき過ぎたかと黒鋼もまた口を噤んだ。
黒鋼はファイと出会って、接している中で、誰かを何よりも大切に愛おしむ気持ちを知った。真っ直ぐに慕われる心地よさを知った。
光の道を手を繋いで歩きながら確信した思いは、夢から覚めたようなこの薄暗い空間に身を置いても、変わることなく胸の中に息づいていた。
最初は確かに同情だったかもしれない。大好きな黒わんと離れたくなくて泣いていたファイは、ただ弱くて可哀想な生き物にしか見えなかった。
でも今は違う。黒鋼自身がファイの側にいたいと思っている。いつか彼が黒鋼と黒わんは別のものだと理解する日が来るのだとしたら、そのとき彼の目に映っている自分は、ただの一人の男でありたいと。
それは決して雲を掴むような、途方もない話ではないような気がする。近い将来、きっと。
「あいつは、俺たちが思ってるよりもずっと大人なのかもな」
「え……?」
思いつめたような顔を上げるユゥイに、黒鋼は小さく笑った。
ユゥイは知らない。ファイがもうサンタクロースに夢を見ていないこと。彼は必死でファイを守っているつもりなのだろうが、ファイもまた、彼の夢を守ろうとしている。
ユゥイには内緒。ファイと約束したから、彼にそれを教えてやることはできないけれど。
「おまえたちの過去は悲惨だ。誰だって聞けば同情のひとつくらいするだろうよ」
「…………」
「だけど俺は、羨ましかったのかもしれねぇな」
「羨ましい?」
黒鋼は、再び眠っているファイに目を向けた。
「泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑ってよ。好きも嫌いも寂しいも、思ったときには口にして、身体全部で表すじゃねぇか」
大人になってしまった自分たちは、そう簡単に真っ直ぐ生きることができなくなってしまった。あらゆる感情全てに相応の理由をつけなければ、確信にさえ至れないことだってある。
ファイと出会って、そのむき出しの感情に触れているうちに、黒鋼はいつの間にか不器用にしか生きられなくなっていた自分に気づかされてしまった。
「眩しいな。目が眩んじまいそうだ」
だけど、同じ光の中にいたいと思う。その裏側にある悲しみも、傷も、孤独も、全てひっくるめて、今ここに生きているファイの側に在りたいと。
ユゥイが小さく息を飲む。彼は何かに気づいたように茫然とした表情を浮かべ、それからまるで棘が抜けていくようにゆっくりと、息を吐き出しながら微笑んだ。
そして噛み締めるように、確かめるように言った。
「ボクたちは、幸せなんですね」
***
黒鋼は眠くてぐずるファイを抱えて二階へ行ってしまった。
今夜はもう遅いから、適当に休んでくれと言うと彼は素直に頷いていた。
一人残されたユゥイは、チカチカと点滅するツリーの電飾をぼんやりと見つめたまま、その場から動く気になれずにいた。
『眩しいな。目が眩んじまいそうだ』
黒鋼の言葉が頭から離れなかった。そして気づかされた。
(眩しかったんだ)
時々、無性にファイから目を逸らしたくて仕方がない瞬間があった。
寂しいと、悲しいと、彼はそれがどこであろうと、誰の前であろうと隠すことなく涙を流しては感情をさらけ出す。そんな真似、大人にはできない。
ファイがこんな風になってしまったのは、全て非力で守られることが当たり前だった自分のせいだと、今までのユゥイはただ自らを責めるばかりだった。
泣いているファイを見ているのは辛くて、彼の嗚咽を聞いていると、まるで「おまえのせいだ」と責められているような気がして。
ユゥイは初めて黒鋼がこの店に来たときのことを思い出した。彼を黒わんだと思い込むファイは、帰り際に泣きながら「一緒に行く」と言った。
あのときの胸の痛みは、きっと生涯忘れられない。
そう思っていた。
幼い日、あの星灯りの部屋でファイは涙を流すことも、ユゥイを責めることも、ましてや「一緒に行きたい」なんて一言も、決して漏らすことはなかった。
けれどきっと悲しかったに違いなかった。一緒に行きたいに違いなかった。
幼かったはずの彼は、自分の感情を全てその小さな身体の中に押し込めて笑っていた。
だから、寂しいと言って黒鋼に泣き縋る姿が辛かった。可哀想で仕方がなかった。
兄はこんな人間じゃなかったと、もっと強かったはずだと、こんな風にしてしまったのは、他でもないボク自身なのだと。
だけど。
(ボクは、喜んでいいんだ)
ファイが素直に感情をさらけ出せるようになったことを。
彼はもう何も我慢する必要はない。我慢なら、もう沢山したから。だからあとは、笑って泣いて、ただ生きればいい。
ここに可哀想な子供なんかいない。ファイはただあるがままに、真っ直ぐに生きているに過ぎなかった。
(今、ボクらは幸せなんだ)
ずっと暗い場所にいるのだと思っていた。目に飛び込んでくる光の眩しさに目が眩んで、自分も同じ光の中にいるのだということに、気づけなかった。
もし黒鋼が一時の気まぐれで情をかけているのだとしたら、いつか必ず傷つけることになる。ファイが彼に懐くほどに、微笑ましいと感じるのと同じだけそんな不安も膨らんでいた。
黒鋼はああ見えて優しくて、お人好しだ。信用するに値する人間だと分かってはいても。何か裏があるのではないかと、どこかでは信じきれないでいる自分もいた。
だから彼の真意を真っ向から確かめようとしたはずなのに、逆に思い知らされるなんて。少し情けない気持ちになって、思わず笑ってしまう。
今のユゥイは嘘のように心が軽くなっていた。
だから本当は、いつものようにただ冷たくあしらうつもりだったのだが。
「君はいつから泥棒にでもなったのかな」
呆れたように言うと、カウンターの奥からぬっと姿を現したのは小龍だった。
カーキ色をしたミリタリージャケットのポケットに両手を突っ込んで、彼はいつもの無表情でカウンターを回り込むと、ユゥイのすぐ隣の椅子に浅く腰かけた。
「子供が遊んでていい時間じゃないの、分かってる?」
「やり残した仕事があったので」
「だからって裏口からこっそり入るのはどうなんだろうね」
小狼たちと一緒に帰ったはずなのに、彼は一体いつからいたんだろう。聞いたとしてもこの少年がまともに答えるとは思えなくて、ユゥイはただ横目でチラリと睨んでおくだけにしておいた。
「やり残した仕事ってなに? 掃除はもう済んだし、明日は休みだし」
問いかけるユゥイに、小龍はただ無言でポケットから手を出した。そこには、金色のリボンで飾られた黒い箱がある。
彼はそれをカウンターテーブルに置いて、指先を添えながらユゥイの側まですぅっと滑らせた。
「……ボクに?」
目を丸くすると、小龍は無言で頷きながら「開けろ」と促す。少し戸惑いながら、ユゥイはリボンを解いて包みを開けた。剥き出しになった白く分厚い包装箱をそっと開けると、丸みのあるフォルムのケースが姿を現した。
灰色の上質な手触りに指先を這わせ、ゆっくりと蓋を開ける。
「ブレスレット?」
それはロールチェーンのシルバーブレスレットだった。細身のシルエットに小さな十字架のアクセントが、頼りない電飾の灯りをキラリと弾く。
視線を小龍に向けると、彼は小さく口元だけで笑った。その大人びた微笑が、丸い瞳に残る幼さと比例してなんだか憎たらしい。
「日付が変わる前に渡したかったんですが。なかなかお話が終わらないようだったので」
「……随分と前から潜んでたんだね」
「過ごしたいじゃないですか。好きな相手と、クリスマスの夜」
「困った子だな……」
気持ちは決して嬉しくないわけではない。
だけどまさか自分が男子高校生に求愛されるなんて夢にも思っていなかったし、なかなか受け入れがたい事実でもある。
それに、今までのユゥイは自分のことにかまけていられる心の余裕がなかった。
小龍はいい子だ。助けられることも多いし、正直、誰よりもあてにしている。
けれど雇い主としての信用と、一個人としての感情は別物だった。というより、考えたこともなかった。でも。
(少しくらいは、自分のことを考えてもいいんだろうか)
死ぬまでファイのために生きるつもりでいた。それしか償うことはできないと。
けれど黒鋼はユゥイが抱えるものを『ありもしない罪』と言った。
ユゥイは償いのためにここにいたわけではなかった。ただファイを愛していたから、彼の放つ光の中に、共に在りたかった。
「ねぇ、貴方は今、幸せなんでしょう?」
おそらくほぼ最初から最後まで立ち聞きをしていたのであろう小龍が、いつになく熱っぽい眼差しを向けてくる。
「おれに守らせてくれませんか。貴方と、貴方の幸せを」
普段は何を考えているのか分かりにくい顔をしているくせに。今の彼はやけに真摯で、やけに必死だ。肌から伝わる張り詰めたような空気に、ユゥイは思わず吹き出してしまった。
「……どうして笑うんですか」
「ごめん。だって、生意気だから」
小龍はあからさまに不貞腐れたように眉間にきゅうっと皺を寄せる。なんだ、結構可愛いじゃないかと、絆されかけている自分に気づいてさらに可笑しくなった。
どうしてか、嫌じゃない。こんな風に笑える自分が。
ユゥイはケースの中からブレスレットを摘まみだすと、それを小龍に差し出した。
「つけて」
「はい?」
「普段こういうのつける習慣がないんだ。上手くつけられないから、つけて」
そう言って左腕を差し出すと、小龍は丸い目で瞬きを繰り返し、笑った。
「なんで笑うの」
「いや、なんだかんだで弟気質だなと」
「しょうがないよ。ボクは甘やかされて育ったんだ」
「いいですよ」
ブレスレットを手の平に受け取った小龍は、苦笑しながらそれをユゥイの腕にかけ、薄闇の中でも器用に留めた。点滅する電飾を弾いて輝く、銀色のそれを目線の高さまで持ち上げて、じっくり眺めてからユゥイは頷く。悪くない。
「ありがと」
短く礼を言うと、「どういたしまして」と笑う小龍に向かって身を屈めた。そして、目を見開く彼の頬に一瞬だけ、唇を押し付ける。
ちゅ、という微かな音が、妙に恥ずかしい。一体何をしているんだろう。
「ッ、ぁ、あの」
「……お返し、これでよかったかな」
「……できればもっと別の場所の方が」
「調子に乗るな」
真剣な表情で両手を伸ばしてくる小龍の額を、手の平でペシッと叩く。ユゥイは立ち上がると、逃れるようにカウンターの向こうに回り込んだ。眉間に皺を刻む少年は、お預けを食らった子犬のようにむっと唇を尖らせる。
「この先は、そうだな……高校を卒業するまでに、ボクの身長に追いついたら考えてあげなくもないよ」
「……追い越します。必ず」
「そこまでは言ってないけど……まぁ、頑張って」
薄明りの中で瞳を燃え上がらせる小龍に、ユゥイは大きく息をつきながら情けなく眉尻を下げて笑った。
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「黒わん、キラキラする木、知ってる?」
仕事の合間を縫って、いつものように猫の目に訪れた時のことだった。
十二月に入って寒さもいよいよ本格的に厳しくなってきたが、その日は天気もよく、テラスに出て温かなお茶を飲んでいると、いっそ少し汗ばむほどの気候だった。
「キラキラする木?」
「そうだよー。キラキラでピカピカの木だよー。黒わん、知らないのー?」
「絵本かなんかに出てくる木か?」
「ブー! 違いまーす!」
なぜかクイズの出題者気取りになっているファイは、黒鋼が正解を言い当てられないことに喜んでパチパチと両手を叩く。
「黒わんハズレたからバツゲームだねー。何がいいかなー?」
「そんなんあんのかよ……」
ファイがうーんうーんと罰ゲームとやらの内容を考えている間に、黒鋼もふとひらめく。そういえば今月はいよいよクリスマスシーズンの到来だ。
彼が言っているキラキラでピカピカの木というのは、お馴染みのあの木のことを言っているのではないか。
「ツリーのことか? クリスマスの」
「おしい」
そう言ったのはファイではなく、ケーキの乗った皿を運んできたユゥイだった。
彼が目の前にズラリを並べ始めたスイーツの数々を見て、黒鋼は思わず胸を押さえる。チョコレートケーキなどの定番品はもちろん、カボチャのタルトにミルクレープ、果物たっぷりのロールケーキにティラミスなどなど……。
見ているだけで胸焼けがして、うえ、と潰れたカエルのように低く呻く黒鋼を見て、ユゥイはなぜか楽しそうだった。
「駅前の通りに銀杏並木があるでしょう。毎年クリスマスの二日間だけ、ライトアップされるんですよ」
「イルミネーションか」
「ピンポンピンポーン!」
正解したらしたで、ファイはまた手を叩いて喜んだ。
思えばクリスマスに向けてのケーキ屋特集で地獄を見たのは、つい先月のことだ。ハッキリ言って黒鋼は、ことスイーツ関係では全く戦力にならない。
まず目の前のケーキの数々に嫌気がさしていることからも分かるように、生まれてこのかた甘いものが好きだった時期など一秒たりともないのだった。
嫌々ケーキを食べまくり、苦し紛れに書いた記事に何度ダメ出しされたか知れない。上司の壱原侑子は黒鋼が甘味嫌いであることを知っていながら、あえて反応を楽しむドSの女王である。
「思い出すだけで気分が悪くなるぜ……」
ついに表情まで青くしはじめる黒鋼にぴったりとくっついていたファイが、フォークをぎゅっと握りしめて目を輝かせる。
「ユゥイー、これ食べてもいいー?」
「もちろんだよ。黒鋼さんもよければどうぞ」
「遠慮しとく……」
「黒たんは甘いのダメなんだよねー。ユゥイのケーキ美味しいのにカワウソー」
「可哀想、だよ。ファイ」
「んー、おいしー!」
嬉しそうにタルトを頬張るファイを横目でじっとりと見つめつつ、甘いのはこの笑顔だけで充分だと感じる。
よく料理人が、作っているだけで腹がいっぱいになる、なんて言うのを聞くが、これはそれに似た感覚だろうか。甘いものは嫌いだが、甘いものを満面の笑顔で食べているファイという図は癒し効果抜群だった。
「で、そのイルミネーションがなんだって?」
黒鋼がテーブルに片肘をついて顎を乗せながら聞くと、さらにチーズケーキやモンブランを追加で運んできたユゥイが「ああ」と思い出したように頷いた。
「毎年見に行くんです。ファイと。だけど、今年はちょっと事情があって」
「……待て、その前にこのケーキは全部こいつに食わすのか?」
「まさか。ボクも食べます」
「ならいいけどよ……」
すでにタルトを完食したファイは、ロールケーキに手をつけている。テーブルいっぱいに所狭しと並べられたこれら全てを一人で食わせれば、一瞬で糖尿になりそうだ。いや、二人で食うにしてもかなりの量ではあるのだが。
ファイは華奢だが、胃袋は結構でかい。いつも一緒に食事をするときは、黒鋼と同じだけの量をペロリと平らげる。
食ったものが身にならないのは体質だろうか。
「事情ってのはなんだ? あの双子の兄貴の方とデートでもすんのか」
ファイの口元についていたクリームを優雅に指先で拭い、椅子に腰かけながら舌で舐めとるユゥイが冷やかな視線を送って寄越す。地雷と知って踏んだのは自分だが、なかなか迫力がある。
ユゥイはわざとらしく咳払いをして、自らもフォークに手を伸ばしながら話を続けた。
「今年のイヴは町内会のクリスマスパーティーに参加することになっているんです。奥様方にどうしてもと誘われているので」
「また熟女か。モテる男は辛いな」
「……クリスマス当日はここで、常連さんだけを呼んでケーキバイキングをする予定になっているので、今年はどうしてもファイを連れて行けないんです」
「すぐそこだろ。ちょっと歩けば見に行ける距離じゃねぇのか」
「あのねあのね」
ロールケーキに夢中になっていた視線をこちらに向けて、ファイが黒鋼のジャケットの袖をクイクイと引っ張った。
「いっぱい人がいるところには、一人で行っちゃダメなのー。ぶつかったり転んだりするし、悪い人もいるかもだからユゥイがダメーって」
「過保護だな」
なんて思いつつ、ファイを人ごみに放り出すのは確かに不安だ。この純粋培養がおかしな輩に引っかかろうものなら、すぐに騙されて何をされるか分かったもんじゃない。一直線であるはずの銀杏並木で迷子にもなりかねない気がした。
「それにねー、オレ黒わんと一緒がいいのー。キラキラの木、黒わんと見るんだー」
「……クリスマスか」
二日間のうち、いずれかなら時間を作ることはできるかもしれない。
ファイの中では黒わんとイルミネーションを見に行くのがすでに決定事項になっているようだし、渋ればまた泣き出すに違いなかった。
ユゥイが少しだけ申し訳なさそうに肩を竦めながら視線を送ってくる。黒鋼はポンと膝を叩いて「わかった」と了承する。
「ほんとー? わぁい!」
「いいんですか?」
「その辺ブラつくぐれぇの時間はなんとでもなる。ただし、ケーキ以外にも食えるもん作っとけよ」
「それはもちろん」
頷いたユゥイはホッと息をつきながら申し訳なさそうに苦笑していた。ファイは嬉しそうにニコニコしながら、フォークでモンブランの上に乗っている栗を刺し、油断していた黒鋼の口にスポッと入れる。
「むが!? て、てめ! なにしやがる!!」
一瞬で口の中にあま~い砂糖と栗の味が広がった。思いっきり顔を顰めて睨み付けても、ファイは嬉しそうにまた手を叩く。
「バツゲームだよー! だって黒わん一回で正解できなかったもーん」
「こ、このやろう……」
「楽しみだねー! サンタさんも、キラキラ見に来るかなー?」
そう言ってゆらゆらと身体を左右に揺らす姿と、口の中がうんざりするほど甘ったるい。黒鋼は軽い頭痛を覚えながらお茶で無理やり流し込んでみたが、視線の先はいつまでも甘ったるいままだった。
「…………」
そんな二人の様子を見て、ユゥイが何か言いたげに唇を震わせたが、彼は結局無言のまま、ただ寂しげに笑っていた。
***
クリスマス当日が近づくにつれ、黒鋼はふとした瞬間、街中で足を止めるようになった。
それは決まっておもちゃ屋や雑貨屋のディスプレイの前で、一度見入ってしまうとつい時間を忘れて唸ってしまう。おかげで他の通行人に不審そうな目で見られたり、酷いときは店の人間が怯えた表情で様子を見に来る始末だった。
おのれ、どいつもこいつも人を顔だけでヤクザと判断しやがって……と、多少イラッとしつつ、ここ最近の黒鋼はずっと子供受けするアイテムについて考えているのだった。
その日は真冬らしく、冷え込みの厳しい朝だった。
いつものように目覚めてすぐに暖房のスイッチを入れ、お茶を淹れるための湯を火にかけながらあれこれ準備を整える。
黒鋼がトースターに厚切りの食パンを二枚突っ込んでから台所を出ると、朝の情報番組ではクリスマスの話題が取り上げられていた。
ファッションやコスメ、グルメはもちろんデートスポットなどなど。
時期的にこの手の話がひっきりなしだが、次の話題はおもちゃ屋の売れ筋調査だった。
美人リポーターが大手百貨店の玩具売場へ行き、男性店員に直接話を聞いている光景が映し出される。
『これからクリスマスに向けて、一番の人気商品はどれしょう?』
『そうですね、男の子向けならこちらの特撮ヒーローの変身グッズが、やはり一番の売れ筋商品となっております』
『わー! まるで本物みたいにクオリティが高いですねー!』
店員から変身ベルトを受け取ったリポーターが、わざとらしくはしゃいだ声をあげる姿に、黒鋼は思わず身を乗り出して見入ってしまった。
男性店員は次から次へと人気の商品を持ち出し、宣伝に余念がない。
『女の子に最近人気なのは、こちらのオモチャのスマートフォンです』
『きゃー可愛い! 本物みたい!』
『カードを入れると音楽アプリやカメラアプリが起動して、お友達とスタンプメールのやりとりを楽しむこともできるんです。娘さんのためにと、こちらを購入されるお父さんが多いですね』
『クリスマスプレゼントに最適ですねー!』
「なるほどな……」
いつの間にか、黒鋼は腕を組んでうんうんと深く頷いていた。
確かに、こないだ足を止めたおもちゃ屋のディスプレイにも同じような商品がズラリと並んでいた気がする。ただ眺めているだけでは分からなかったが、オモチャといえども侮れない機能の多さだ。
やはり店先で眺めているだけでなく、直接中に乗り込んで色々と店員の意見を聞いてみる方がいいということか。
そこまで真剣に考えてから。
黒鋼はハッとした。
いくらなんでも女児向けのスマホやら変身ベルトというのはいかがなものだろう。ファイの中身は確かに子供だが、流石にバカにしていると思われても仕方がないような気がする。
喜びはすると思うが、もっと気の利いたものはないものか。
最近ずっとこの調子だ。もうじきクリスマスということもあって、黒鋼は何かファイが貰って喜ぶようなものはないだろうかと、頭を悩ませている。
ぬいぐるみなどの雑貨品は普段から本人が作っているし、洋服、という手もあるが、ハッキリ言ってファッションセンスには自信がない。
慣れないことをしている自覚はある。
かつてこれほどまでに誰かにプレゼントする品について頭を悩ませたことなどなかった。
母の日ならハンカチを、父の日ならネクタイを、友人が相手なら単刀直入に聞いた方が手っ取り早かったし、恋人なら聞くまでもなく強請られることが多かった。
いっそファイにも直接聞いた方が早いのかもしれない。黒鋼には彼が何を欲しがり、何をすれば喜ぶのかがさっぱり分からなかった。彼が話すのは大抵大好きな黒わんのことや雑貨作りに関してで、あとは仲のいい常連客やユゥイのことに絞られている。彼自身の話というのは滅多に聞かない。
黒鋼はふと、部屋の中央にある木製のテーブルに目をやった。仕事用の資料が積まれているその横に、裸の黒わんが座っている。
思わず、ふっと笑ってしまう。いまだにマフラーを巻いた黒わんは貰えていない。もうそんな脅しなどかけなくても、おそらく黒鋼はあの店に通う。純粋に、ファイの笑顔が見たいから。
「らしくねぇってのは、分かってんだがな」
ファイはいつだって黒鋼が店に顔を出せば大喜びでしがみついてくる。
砂糖菓子のような笑顔を浮かべて、幼い口調で一生懸命喋って、黒わんにマフラーを縫い付けて。帰り際には泣きながら、裸の黒わんを手渡してくる。
黒鋼はただそこにいるだけなのに。あんなにも喜び、泣き、真っ直ぐに好意をぶつけてくる存在が、特別なものにならないわけがない。
だからだろうか。黒鋼はファイに何かしてやりたくて仕方がなかった。
サプライズなんて柄じゃない。だけど。
これはいわゆる子を持つ親の感覚に近いのだろうか。
子供どころか結婚すら遠い黒鋼には予想もできないが、もし仮に自分が子供をもつ父親だった場合、こういう気持ちに……。
「……それは流石にねぇな」
黒鋼が自分に突っ込みを入れたところで、ヤカンが蒸気を噴出す甲高い音が聞こえて思考が途切れる。
とりあえずクリスマスは来週に迫っているのだから、その間に何かしら考えて用意しようと決めて、台所へ向かった。
***
クリスマス当日、黒鋼は焦っていた。
編集会議が予想以上に長引いて、職場ビルを飛び出したとき、時刻はすでに22時をとうに過ぎていた。
イルミネーションの点灯時間は17時から23時。
ここから駅まで走って電車に乗ったとしても、おそらく店につく頃には何もかも終わっている。
もう一時間もないのだから、何をどうしようが絶望的と知りつつも、運よく路肩に停車していたタクシーを拾う。が、流石はクリスマス当日ということもあり、もうじき目的地の駅周辺という辺りで渋滞に巻き込まれた。
黒鋼はここでいいと運転手に告げ、財布から現金を取り出すとそれを渡し、釣り銭も受け取らずに人の多く行き交う街の中を全力で駆け抜けた。
分かってはいたが、駅前の通りはすっかり光が消えていた。
時刻はもはや23時を過ぎている。かろうじて人通りと車通りの多さが光り輝くイルミネーションの名残を残しているだけで、あとは何の変哲もない、夜の街並みが広がるばかりだった。
黒鋼は白い息を吐き出しながら、それでも駅裏に向かって走った。
すっかりシャッターの下りた寂しい商店街を突っ切り、通い慣れた脇道に入る。closeの看板がかかった猫の目は、灯りこそついてはいるがしんと静まり返っている。
「悪い、すっかり遅くなった」
黒鋼は勢いよく店の扉を開いた。
外は冷たい空気に満ちていたが、店内は暖房がきいていて温かい。ここまでの距離を走ってやって来た黒鋼には、少し暑いくらいだった。
「黒鋼さん」
カウンター越しに、食器の片付けをしていたユゥイが驚いた様子で顔を上げる。
彼はいつまで経っても現れない黒鋼の事情をちゃんと察していたようだった。焦って飛び込んできた黒鋼に少しだけ眉尻を下げて、緩く微笑んだ。
「お疲れ様です。走っていらしたんですか?」
「まぁな……」
店内を見回すと、ついさっきまで人がいた名残が充分に残っている。
床に散らばるクラッカーの中身と、カウンター脇で色とりどりの電飾で飾られたツリーが祭の後を物語っているようで、いやに物悲しい。
ファイは室内の片隅の、窓際の席に座って両腕に顔を伏せていた。ピクリとも動かないその姿に、咄嗟にユゥイを見ると彼は苦笑して肩を竦める。
「いつもこの時間は寝ているので……さっきまで起きて待ってたんですけどね」
「……やっちまったな。泣いたか?」
「いえ……」
ユゥイは言葉を濁すように睫毛を伏せて、何かを言いかけた。が、すぐにいつもの笑顔を張り付ける。
「サクラちゃんたちも待ってたんですよ。でも、もう時間が時間なので帰しました。お料理はちゃんと残してますから、すぐに食べますか?」
「いや、いい」
黒鋼は足音を立てないように窓際の席に歩み寄った。
ファイはテーブルに伏せているが、その両腕の下には赤い紙の包みが敷かれている。
てっきり泣きはらした表情で不貞腐れているとばかり思っていたため、ユゥイの否定は少し意外だった。
起こしてしまわないように手を伸ばして、ふわふわの金髪に指を通す。冬の冷気に冷え切っていた指先にじわりと火が灯るような温かさを感じる。
「うー……」
ファイは身じろいで、ゆっくりと身体を起こした。眠っているのを起こさないようにと配慮していたつもりだが、どこかでは顔が見たいと思っていたのかもしれない。ぼんやりとしながら幾度か瞬きを繰り返す間抜けな表情に、少しだけ笑ってしまう。
「黒わん……?」
「おう。悪かったな……間に合わなかった」
「うぅん」
ファイは椅子から立ち上がり、首を振りながら黒鋼に両腕を伸ばし、ぽふっと音を立てて肩に顔を埋めてくる。
「黒わん、ちゃんと来てくれたからいいの。嬉しいよー」
「本当に悪かった」
「いいの。ユゥイがね、黒わんはお仕事がんばってるんだから、ワガママ言ったらダメって言ったの。だから黒わん、謝っちゃダメ」
黒鋼の腰に腕を回してしがみついてくるファイは顔を上げて、ふにゃりと笑う。
その聞き分けの良さがなぜか切ない。臍を曲げて泣いているファイの機嫌を、どうやって取るかばかり考えて走ってきた黒鋼は、少しだけ寂しいような、拍子抜けしたような気分になった。
それでも彼が楽しみにしていた銀杏並木のイルミネーションが終わってしまったことに変わりはない。ファイの笑顔を見ても、黒鋼の中の罪悪感は消えなかった。
すると、そこにカウンターから出てきたユゥイが白いコートと青いマフラーを手にやって来た
「銀杏並木、まだ間に合いますよ」
「間に合うって……もう終わってたぞ」
ユゥイは小さく笑いながら不思議そうに首を傾げるファイにコートを着せて、前の合わせを止めながら黒鋼を見た。
「間に合うんです」
「ユゥイー、もうキラキラ終わってるよー?」
「終わらないよ。だってまだサンタさんが来てない」
「サンタさん?」
「そう。サンタさんもね、時間に間に合わなかったんだって。だから今行けば会えるかもしれないよ」
「ほんと!?」
「うん」
マフラーを巻いてもらいながら、ファイはパッと表情を明るくした。その頬が少し赤くなっている。
一体どういうことだろかと、黒鋼は戸惑いの視線をユゥイに向けるが、彼はただ静かに笑っているだけだった。
***
ユゥイの意図はまるで分からなかったが、黒鋼ははしゃぐファイを連れて夜の街に出た。
ファイは黒鋼と手を繋ぎながら、もう片方の腕にはあの赤い包みをしっかりと抱きしめている。
「それどうした?」
「んー?」
「その赤いの」
「えへへー、サンタさんのプレゼントなんだー」
ファイはその包みをいっそう強く、大事そうに抱きしめる。
サンタさんに渡すという意味なのか、それとも貰った、という意味なのか。
彼の口振りからはハッキリとは分からなかったが、今日は店に常連客が集まると言っていたから、そのうちの誰かに貰ったのかもしれない。
どっちにしろ、白くけぶるような息を吐き出すファイの手を握る力を強くして、身長の割に狭い歩幅に合わせながら歩いていると、すぐに駅前通りが見えてきた。
そこはさっき通りがかった時のまま、街灯やコンビニの灯りしかない暗い街並みだった。人や車の往来が減り、名残すらどこにも見当たらなくなっている。
「何があるってんだろうな」
駅の正面まで出て、黒鋼は不審そうに眉間の皺を深くした。ファイもキョロキョロと辺りを見回すと、「まっくらだねぇ」と間延びした口調で言う。
気分だけでも味わって来いという意味だったのだろうか。ただ立ち尽くしているのも時間の無駄に思えて、黒鋼はファイの手を引くと元来た道を引き返そうとした。
そのときだった。
「!」
プッ、という音がして、手前から一つ一つドミノ倒しのように次々と銀杏並木に光が灯る。
それはずっと向こう側に至るまで続き、やがて眩い光の道が出来上がった。
「わあぁ……!」
その美しく幻想的な光景に賛嘆の声を上げるファイの隣で、黒鋼も驚きに目を見開いた。
何がどうなっているのかは分からないが、ユゥイの言っていた「サンタさん」とは、このことを指していたのか。
「黒わん行こー!」
「あ、ああ」
黒鋼の手を強く引っ張るファイの瞳も、イルミネーションの光を受けて負けじと輝いている。暗く寂しい街並みから、一瞬にして夢の世界に連れてこられたような気持ちになった。
「すごいすごーい! とってもキレイー!」
「そうだな」
光り輝く道を、二人はのんびりと木々を見上げながら歩いた。
ファイがしきりにはしゃいだ声を上げて、黒鋼はただ言葉少なに同意しながら、いつしか視線はファイの金色の髪や、星が瞬いたように輝く青い瞳にばかり向けられていた。綺麗だった。
どんな力が働いての奇跡なのか、今はそんなことどうでもよかった。なぜなら黒鋼は今、とてつもなく重要なことに気が付いてしまったからだ。
(なにが親心だよ……こりゃ全く違うもんじゃねぇか……)
光を一身に纏うファイの笑顔を、愛しいと、感じた。
今まで見てきたどんなものより、彼は美しく光り輝いていた。
まるで宝石のようだ。少しばかりロマンチックな光景に感化されてしまっている自分を、恥ずかしく感じる。
黒鋼の大きな手によく馴染む、ファイの華奢な手はほんのりと汗ばんでいた。それほど強く握り合っていたことに気が付いて、多分きっと、一生この手を離さずに生きていくような、そんな予感がする。
「黒わんと見れて、すごく嬉しい」
銀杏の木々を見上げていた瞳が、今度は真っ直ぐに黒鋼に向けられた。
一瞬にして予感が確信に変わったとき、黒鋼はその白いコートに包まれた華奢な身体を引き寄せ、衝動的に抱きしめていた。どうしてだろう。柄にもなく、少し泣きたいような気持ちだった。
それほどに、強く強く胸を打たれていた。
「ひゃー、どうしたの黒わん? 寒いのー?」
ファイの片腕が黒鋼の背に回り、「よしよし」と言いながらしきりに摩る。それから、何かを思い出したように小さく声を上げて、ずっと抱え込んでいた赤い包みを胸に押し付けてきた。
「あのね、これあげる」
「……俺にか? だがこれは」
「黒わんのだよ。開けて」
黒鋼は少し戸惑いながら、ファイから僅かに身を離す。そして赤い包みを受け取って、破れないように慎重にテープを剥がした。
すると、中から現れたのは真っ赤な手編みのマフラーだった。
目を見開いてファイを見ると、彼は花が咲いたように柔らかく笑っていた。
「おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー」
言葉が出なかった。小さなぬいぐるみを編むのとは訳が違う。これだけのものを仕上げるのに、どれほど時間がかかったのだろうか。
黒鋼はぐっと息を呑みながら、包みを全て取り去ると脇に抱え、マフラーを首に巻いた。ふわりと、砂糖のような甘い香りがする。温かかった。
黒のジャケットに赤いマフラー。これでは本当に黒わんだなと思いつつ、ファイが「似合う似合う」と言って手を叩くから、どうでもよくなってしまう。
「あのね、オレ知ってるんだ。ほんとはサンタさんなんかいないの」
「……どうしてそう思った?」
「ユゥイがね、毎年こっそりオレが寝てるところにプレゼントを置くの。だからオレ、ちゃんと寝たふりするんだー」
ああ、黒鋼にも覚えがある。
サンタクロースを信じていた子供の頃、枕元にそっとプレゼントを置いてくれるのは父と母だった。
眠気眼でそれを見たとき、黒鋼の夢は終わった。だけど、悲しくはなかった。今みたいに、温かな気持ちで夢から覚めた。守ろうとしてくれる両親の、愛情だけを感じて。
「ユゥイには内緒。言っちゃダメねー」
「……わかった」
夢を見ているのは子供だけではないのだと黒鋼は思った。
夢見る彼らに、大人もまた、夢を見ている。
だから気づかない。いつの間にか遠くへ行こうとする子供の成長を。
「だからね、オレがサンタさんになろうって決めたの。ちゃんとなれたかなぁ?」
黒鋼は答える代りに小さく笑って、金色の髪を優しく撫でた。
「よかったぁ」
誰かをこんなに大切だと感じたのは、これが初めてかもしれない。
なのに、これ以上愛しくさせてどうする気だろう。もう一度、強く抱きしめたい衝動をぐっと堪えて、黒鋼はジャケットのポケットに手を忍ばせる。
そして取り出したものを、ファイの首にかけた。
「なぁに?」
「俺からだ」
ファイは自分の首にかけられた、黒の革紐に指先を這わせ、その先端についている楕円形のものに触れると手の平に乗せた。
それは、木製のペンダントだった。
「後ろにネジがついてんのわかるか?」
「えと……あ、これ?」
「巻いてみろ」
不思議そうに頷いたファイが、言われた通り指先で小さなネジを巻く。すると、可愛らしい音色が優しく辺りに響き渡った。
曲は、星に願いを。
「わぁ……! オルゴールだー!」
凄い凄いと、ファイは何度も繰り返して両手でぎゅっとペンダントを握りしめる。喜んでいる姿に心底安堵した。
悩むにいいだけ悩んでいた最中、黒鋼は取材先で行った街で見かけたアンティークショップに、ふらりと足を向けた。
そこにあったのがこのペンダントだった。決め手はやはり、このオルゴールが奏でる曲だった。ファイと初めて会ったとき、彼が口ずさんでいたのがこれだったからだ。
「ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!」
「おう」
嬉しそうに再びネジを巻くファイの頬に、堪らず手を伸ばす。ファイは光をいっぱいに吸い込んだ瞳で見上げてくる。
こちらまで吸い込まれそうになって、黒鋼はその錯覚に抗うことなく顔を寄せる。一瞬だけ触れた唇の柔らかさに、眩暈がしそうだった。
オルゴールが再び柔らかなメロディを奏でる。夢を見ているような、ふわふわとした気分だった。
ファイは目を丸くして、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「黒わん、チュウした」
「誰にも言うなよ」
ファイは黒鋼の顔をじっと見つめた後、頬を赤らめてこくりと頷いた。
それから、ちょっと苦しそうに胸元をぎゅうっと握り閉めながら、小さく首を傾げる。
「二人だけの、秘密だねぇ」
そう言って、ファイは眉をハの字にしてふにゃっと笑った。
←戻る ・ 次へ→
仕事の合間を縫って、いつものように猫の目に訪れた時のことだった。
十二月に入って寒さもいよいよ本格的に厳しくなってきたが、その日は天気もよく、テラスに出て温かなお茶を飲んでいると、いっそ少し汗ばむほどの気候だった。
「キラキラする木?」
「そうだよー。キラキラでピカピカの木だよー。黒わん、知らないのー?」
「絵本かなんかに出てくる木か?」
「ブー! 違いまーす!」
なぜかクイズの出題者気取りになっているファイは、黒鋼が正解を言い当てられないことに喜んでパチパチと両手を叩く。
「黒わんハズレたからバツゲームだねー。何がいいかなー?」
「そんなんあんのかよ……」
ファイがうーんうーんと罰ゲームとやらの内容を考えている間に、黒鋼もふとひらめく。そういえば今月はいよいよクリスマスシーズンの到来だ。
彼が言っているキラキラでピカピカの木というのは、お馴染みのあの木のことを言っているのではないか。
「ツリーのことか? クリスマスの」
「おしい」
そう言ったのはファイではなく、ケーキの乗った皿を運んできたユゥイだった。
彼が目の前にズラリを並べ始めたスイーツの数々を見て、黒鋼は思わず胸を押さえる。チョコレートケーキなどの定番品はもちろん、カボチャのタルトにミルクレープ、果物たっぷりのロールケーキにティラミスなどなど……。
見ているだけで胸焼けがして、うえ、と潰れたカエルのように低く呻く黒鋼を見て、ユゥイはなぜか楽しそうだった。
「駅前の通りに銀杏並木があるでしょう。毎年クリスマスの二日間だけ、ライトアップされるんですよ」
「イルミネーションか」
「ピンポンピンポーン!」
正解したらしたで、ファイはまた手を叩いて喜んだ。
思えばクリスマスに向けてのケーキ屋特集で地獄を見たのは、つい先月のことだ。ハッキリ言って黒鋼は、ことスイーツ関係では全く戦力にならない。
まず目の前のケーキの数々に嫌気がさしていることからも分かるように、生まれてこのかた甘いものが好きだった時期など一秒たりともないのだった。
嫌々ケーキを食べまくり、苦し紛れに書いた記事に何度ダメ出しされたか知れない。上司の壱原侑子は黒鋼が甘味嫌いであることを知っていながら、あえて反応を楽しむドSの女王である。
「思い出すだけで気分が悪くなるぜ……」
ついに表情まで青くしはじめる黒鋼にぴったりとくっついていたファイが、フォークをぎゅっと握りしめて目を輝かせる。
「ユゥイー、これ食べてもいいー?」
「もちろんだよ。黒鋼さんもよければどうぞ」
「遠慮しとく……」
「黒たんは甘いのダメなんだよねー。ユゥイのケーキ美味しいのにカワウソー」
「可哀想、だよ。ファイ」
「んー、おいしー!」
嬉しそうにタルトを頬張るファイを横目でじっとりと見つめつつ、甘いのはこの笑顔だけで充分だと感じる。
よく料理人が、作っているだけで腹がいっぱいになる、なんて言うのを聞くが、これはそれに似た感覚だろうか。甘いものは嫌いだが、甘いものを満面の笑顔で食べているファイという図は癒し効果抜群だった。
「で、そのイルミネーションがなんだって?」
黒鋼がテーブルに片肘をついて顎を乗せながら聞くと、さらにチーズケーキやモンブランを追加で運んできたユゥイが「ああ」と思い出したように頷いた。
「毎年見に行くんです。ファイと。だけど、今年はちょっと事情があって」
「……待て、その前にこのケーキは全部こいつに食わすのか?」
「まさか。ボクも食べます」
「ならいいけどよ……」
すでにタルトを完食したファイは、ロールケーキに手をつけている。テーブルいっぱいに所狭しと並べられたこれら全てを一人で食わせれば、一瞬で糖尿になりそうだ。いや、二人で食うにしてもかなりの量ではあるのだが。
ファイは華奢だが、胃袋は結構でかい。いつも一緒に食事をするときは、黒鋼と同じだけの量をペロリと平らげる。
食ったものが身にならないのは体質だろうか。
「事情ってのはなんだ? あの双子の兄貴の方とデートでもすんのか」
ファイの口元についていたクリームを優雅に指先で拭い、椅子に腰かけながら舌で舐めとるユゥイが冷やかな視線を送って寄越す。地雷と知って踏んだのは自分だが、なかなか迫力がある。
ユゥイはわざとらしく咳払いをして、自らもフォークに手を伸ばしながら話を続けた。
「今年のイヴは町内会のクリスマスパーティーに参加することになっているんです。奥様方にどうしてもと誘われているので」
「また熟女か。モテる男は辛いな」
「……クリスマス当日はここで、常連さんだけを呼んでケーキバイキングをする予定になっているので、今年はどうしてもファイを連れて行けないんです」
「すぐそこだろ。ちょっと歩けば見に行ける距離じゃねぇのか」
「あのねあのね」
ロールケーキに夢中になっていた視線をこちらに向けて、ファイが黒鋼のジャケットの袖をクイクイと引っ張った。
「いっぱい人がいるところには、一人で行っちゃダメなのー。ぶつかったり転んだりするし、悪い人もいるかもだからユゥイがダメーって」
「過保護だな」
なんて思いつつ、ファイを人ごみに放り出すのは確かに不安だ。この純粋培養がおかしな輩に引っかかろうものなら、すぐに騙されて何をされるか分かったもんじゃない。一直線であるはずの銀杏並木で迷子にもなりかねない気がした。
「それにねー、オレ黒わんと一緒がいいのー。キラキラの木、黒わんと見るんだー」
「……クリスマスか」
二日間のうち、いずれかなら時間を作ることはできるかもしれない。
ファイの中では黒わんとイルミネーションを見に行くのがすでに決定事項になっているようだし、渋ればまた泣き出すに違いなかった。
ユゥイが少しだけ申し訳なさそうに肩を竦めながら視線を送ってくる。黒鋼はポンと膝を叩いて「わかった」と了承する。
「ほんとー? わぁい!」
「いいんですか?」
「その辺ブラつくぐれぇの時間はなんとでもなる。ただし、ケーキ以外にも食えるもん作っとけよ」
「それはもちろん」
頷いたユゥイはホッと息をつきながら申し訳なさそうに苦笑していた。ファイは嬉しそうにニコニコしながら、フォークでモンブランの上に乗っている栗を刺し、油断していた黒鋼の口にスポッと入れる。
「むが!? て、てめ! なにしやがる!!」
一瞬で口の中にあま~い砂糖と栗の味が広がった。思いっきり顔を顰めて睨み付けても、ファイは嬉しそうにまた手を叩く。
「バツゲームだよー! だって黒わん一回で正解できなかったもーん」
「こ、このやろう……」
「楽しみだねー! サンタさんも、キラキラ見に来るかなー?」
そう言ってゆらゆらと身体を左右に揺らす姿と、口の中がうんざりするほど甘ったるい。黒鋼は軽い頭痛を覚えながらお茶で無理やり流し込んでみたが、視線の先はいつまでも甘ったるいままだった。
「…………」
そんな二人の様子を見て、ユゥイが何か言いたげに唇を震わせたが、彼は結局無言のまま、ただ寂しげに笑っていた。
***
クリスマス当日が近づくにつれ、黒鋼はふとした瞬間、街中で足を止めるようになった。
それは決まっておもちゃ屋や雑貨屋のディスプレイの前で、一度見入ってしまうとつい時間を忘れて唸ってしまう。おかげで他の通行人に不審そうな目で見られたり、酷いときは店の人間が怯えた表情で様子を見に来る始末だった。
おのれ、どいつもこいつも人を顔だけでヤクザと判断しやがって……と、多少イラッとしつつ、ここ最近の黒鋼はずっと子供受けするアイテムについて考えているのだった。
その日は真冬らしく、冷え込みの厳しい朝だった。
いつものように目覚めてすぐに暖房のスイッチを入れ、お茶を淹れるための湯を火にかけながらあれこれ準備を整える。
黒鋼がトースターに厚切りの食パンを二枚突っ込んでから台所を出ると、朝の情報番組ではクリスマスの話題が取り上げられていた。
ファッションやコスメ、グルメはもちろんデートスポットなどなど。
時期的にこの手の話がひっきりなしだが、次の話題はおもちゃ屋の売れ筋調査だった。
美人リポーターが大手百貨店の玩具売場へ行き、男性店員に直接話を聞いている光景が映し出される。
『これからクリスマスに向けて、一番の人気商品はどれしょう?』
『そうですね、男の子向けならこちらの特撮ヒーローの変身グッズが、やはり一番の売れ筋商品となっております』
『わー! まるで本物みたいにクオリティが高いですねー!』
店員から変身ベルトを受け取ったリポーターが、わざとらしくはしゃいだ声をあげる姿に、黒鋼は思わず身を乗り出して見入ってしまった。
男性店員は次から次へと人気の商品を持ち出し、宣伝に余念がない。
『女の子に最近人気なのは、こちらのオモチャのスマートフォンです』
『きゃー可愛い! 本物みたい!』
『カードを入れると音楽アプリやカメラアプリが起動して、お友達とスタンプメールのやりとりを楽しむこともできるんです。娘さんのためにと、こちらを購入されるお父さんが多いですね』
『クリスマスプレゼントに最適ですねー!』
「なるほどな……」
いつの間にか、黒鋼は腕を組んでうんうんと深く頷いていた。
確かに、こないだ足を止めたおもちゃ屋のディスプレイにも同じような商品がズラリと並んでいた気がする。ただ眺めているだけでは分からなかったが、オモチャといえども侮れない機能の多さだ。
やはり店先で眺めているだけでなく、直接中に乗り込んで色々と店員の意見を聞いてみる方がいいということか。
そこまで真剣に考えてから。
黒鋼はハッとした。
いくらなんでも女児向けのスマホやら変身ベルトというのはいかがなものだろう。ファイの中身は確かに子供だが、流石にバカにしていると思われても仕方がないような気がする。
喜びはすると思うが、もっと気の利いたものはないものか。
最近ずっとこの調子だ。もうじきクリスマスということもあって、黒鋼は何かファイが貰って喜ぶようなものはないだろうかと、頭を悩ませている。
ぬいぐるみなどの雑貨品は普段から本人が作っているし、洋服、という手もあるが、ハッキリ言ってファッションセンスには自信がない。
慣れないことをしている自覚はある。
かつてこれほどまでに誰かにプレゼントする品について頭を悩ませたことなどなかった。
母の日ならハンカチを、父の日ならネクタイを、友人が相手なら単刀直入に聞いた方が手っ取り早かったし、恋人なら聞くまでもなく強請られることが多かった。
いっそファイにも直接聞いた方が早いのかもしれない。黒鋼には彼が何を欲しがり、何をすれば喜ぶのかがさっぱり分からなかった。彼が話すのは大抵大好きな黒わんのことや雑貨作りに関してで、あとは仲のいい常連客やユゥイのことに絞られている。彼自身の話というのは滅多に聞かない。
黒鋼はふと、部屋の中央にある木製のテーブルに目をやった。仕事用の資料が積まれているその横に、裸の黒わんが座っている。
思わず、ふっと笑ってしまう。いまだにマフラーを巻いた黒わんは貰えていない。もうそんな脅しなどかけなくても、おそらく黒鋼はあの店に通う。純粋に、ファイの笑顔が見たいから。
「らしくねぇってのは、分かってんだがな」
ファイはいつだって黒鋼が店に顔を出せば大喜びでしがみついてくる。
砂糖菓子のような笑顔を浮かべて、幼い口調で一生懸命喋って、黒わんにマフラーを縫い付けて。帰り際には泣きながら、裸の黒わんを手渡してくる。
黒鋼はただそこにいるだけなのに。あんなにも喜び、泣き、真っ直ぐに好意をぶつけてくる存在が、特別なものにならないわけがない。
だからだろうか。黒鋼はファイに何かしてやりたくて仕方がなかった。
サプライズなんて柄じゃない。だけど。
これはいわゆる子を持つ親の感覚に近いのだろうか。
子供どころか結婚すら遠い黒鋼には予想もできないが、もし仮に自分が子供をもつ父親だった場合、こういう気持ちに……。
「……それは流石にねぇな」
黒鋼が自分に突っ込みを入れたところで、ヤカンが蒸気を噴出す甲高い音が聞こえて思考が途切れる。
とりあえずクリスマスは来週に迫っているのだから、その間に何かしら考えて用意しようと決めて、台所へ向かった。
***
クリスマス当日、黒鋼は焦っていた。
編集会議が予想以上に長引いて、職場ビルを飛び出したとき、時刻はすでに22時をとうに過ぎていた。
イルミネーションの点灯時間は17時から23時。
ここから駅まで走って電車に乗ったとしても、おそらく店につく頃には何もかも終わっている。
もう一時間もないのだから、何をどうしようが絶望的と知りつつも、運よく路肩に停車していたタクシーを拾う。が、流石はクリスマス当日ということもあり、もうじき目的地の駅周辺という辺りで渋滞に巻き込まれた。
黒鋼はここでいいと運転手に告げ、財布から現金を取り出すとそれを渡し、釣り銭も受け取らずに人の多く行き交う街の中を全力で駆け抜けた。
分かってはいたが、駅前の通りはすっかり光が消えていた。
時刻はもはや23時を過ぎている。かろうじて人通りと車通りの多さが光り輝くイルミネーションの名残を残しているだけで、あとは何の変哲もない、夜の街並みが広がるばかりだった。
黒鋼は白い息を吐き出しながら、それでも駅裏に向かって走った。
すっかりシャッターの下りた寂しい商店街を突っ切り、通い慣れた脇道に入る。closeの看板がかかった猫の目は、灯りこそついてはいるがしんと静まり返っている。
「悪い、すっかり遅くなった」
黒鋼は勢いよく店の扉を開いた。
外は冷たい空気に満ちていたが、店内は暖房がきいていて温かい。ここまでの距離を走ってやって来た黒鋼には、少し暑いくらいだった。
「黒鋼さん」
カウンター越しに、食器の片付けをしていたユゥイが驚いた様子で顔を上げる。
彼はいつまで経っても現れない黒鋼の事情をちゃんと察していたようだった。焦って飛び込んできた黒鋼に少しだけ眉尻を下げて、緩く微笑んだ。
「お疲れ様です。走っていらしたんですか?」
「まぁな……」
店内を見回すと、ついさっきまで人がいた名残が充分に残っている。
床に散らばるクラッカーの中身と、カウンター脇で色とりどりの電飾で飾られたツリーが祭の後を物語っているようで、いやに物悲しい。
ファイは室内の片隅の、窓際の席に座って両腕に顔を伏せていた。ピクリとも動かないその姿に、咄嗟にユゥイを見ると彼は苦笑して肩を竦める。
「いつもこの時間は寝ているので……さっきまで起きて待ってたんですけどね」
「……やっちまったな。泣いたか?」
「いえ……」
ユゥイは言葉を濁すように睫毛を伏せて、何かを言いかけた。が、すぐにいつもの笑顔を張り付ける。
「サクラちゃんたちも待ってたんですよ。でも、もう時間が時間なので帰しました。お料理はちゃんと残してますから、すぐに食べますか?」
「いや、いい」
黒鋼は足音を立てないように窓際の席に歩み寄った。
ファイはテーブルに伏せているが、その両腕の下には赤い紙の包みが敷かれている。
てっきり泣きはらした表情で不貞腐れているとばかり思っていたため、ユゥイの否定は少し意外だった。
起こしてしまわないように手を伸ばして、ふわふわの金髪に指を通す。冬の冷気に冷え切っていた指先にじわりと火が灯るような温かさを感じる。
「うー……」
ファイは身じろいで、ゆっくりと身体を起こした。眠っているのを起こさないようにと配慮していたつもりだが、どこかでは顔が見たいと思っていたのかもしれない。ぼんやりとしながら幾度か瞬きを繰り返す間抜けな表情に、少しだけ笑ってしまう。
「黒わん……?」
「おう。悪かったな……間に合わなかった」
「うぅん」
ファイは椅子から立ち上がり、首を振りながら黒鋼に両腕を伸ばし、ぽふっと音を立てて肩に顔を埋めてくる。
「黒わん、ちゃんと来てくれたからいいの。嬉しいよー」
「本当に悪かった」
「いいの。ユゥイがね、黒わんはお仕事がんばってるんだから、ワガママ言ったらダメって言ったの。だから黒わん、謝っちゃダメ」
黒鋼の腰に腕を回してしがみついてくるファイは顔を上げて、ふにゃりと笑う。
その聞き分けの良さがなぜか切ない。臍を曲げて泣いているファイの機嫌を、どうやって取るかばかり考えて走ってきた黒鋼は、少しだけ寂しいような、拍子抜けしたような気分になった。
それでも彼が楽しみにしていた銀杏並木のイルミネーションが終わってしまったことに変わりはない。ファイの笑顔を見ても、黒鋼の中の罪悪感は消えなかった。
すると、そこにカウンターから出てきたユゥイが白いコートと青いマフラーを手にやって来た
「銀杏並木、まだ間に合いますよ」
「間に合うって……もう終わってたぞ」
ユゥイは小さく笑いながら不思議そうに首を傾げるファイにコートを着せて、前の合わせを止めながら黒鋼を見た。
「間に合うんです」
「ユゥイー、もうキラキラ終わってるよー?」
「終わらないよ。だってまだサンタさんが来てない」
「サンタさん?」
「そう。サンタさんもね、時間に間に合わなかったんだって。だから今行けば会えるかもしれないよ」
「ほんと!?」
「うん」
マフラーを巻いてもらいながら、ファイはパッと表情を明るくした。その頬が少し赤くなっている。
一体どういうことだろかと、黒鋼は戸惑いの視線をユゥイに向けるが、彼はただ静かに笑っているだけだった。
***
ユゥイの意図はまるで分からなかったが、黒鋼ははしゃぐファイを連れて夜の街に出た。
ファイは黒鋼と手を繋ぎながら、もう片方の腕にはあの赤い包みをしっかりと抱きしめている。
「それどうした?」
「んー?」
「その赤いの」
「えへへー、サンタさんのプレゼントなんだー」
ファイはその包みをいっそう強く、大事そうに抱きしめる。
サンタさんに渡すという意味なのか、それとも貰った、という意味なのか。
彼の口振りからはハッキリとは分からなかったが、今日は店に常連客が集まると言っていたから、そのうちの誰かに貰ったのかもしれない。
どっちにしろ、白くけぶるような息を吐き出すファイの手を握る力を強くして、身長の割に狭い歩幅に合わせながら歩いていると、すぐに駅前通りが見えてきた。
そこはさっき通りがかった時のまま、街灯やコンビニの灯りしかない暗い街並みだった。人や車の往来が減り、名残すらどこにも見当たらなくなっている。
「何があるってんだろうな」
駅の正面まで出て、黒鋼は不審そうに眉間の皺を深くした。ファイもキョロキョロと辺りを見回すと、「まっくらだねぇ」と間延びした口調で言う。
気分だけでも味わって来いという意味だったのだろうか。ただ立ち尽くしているのも時間の無駄に思えて、黒鋼はファイの手を引くと元来た道を引き返そうとした。
そのときだった。
「!」
プッ、という音がして、手前から一つ一つドミノ倒しのように次々と銀杏並木に光が灯る。
それはずっと向こう側に至るまで続き、やがて眩い光の道が出来上がった。
「わあぁ……!」
その美しく幻想的な光景に賛嘆の声を上げるファイの隣で、黒鋼も驚きに目を見開いた。
何がどうなっているのかは分からないが、ユゥイの言っていた「サンタさん」とは、このことを指していたのか。
「黒わん行こー!」
「あ、ああ」
黒鋼の手を強く引っ張るファイの瞳も、イルミネーションの光を受けて負けじと輝いている。暗く寂しい街並みから、一瞬にして夢の世界に連れてこられたような気持ちになった。
「すごいすごーい! とってもキレイー!」
「そうだな」
光り輝く道を、二人はのんびりと木々を見上げながら歩いた。
ファイがしきりにはしゃいだ声を上げて、黒鋼はただ言葉少なに同意しながら、いつしか視線はファイの金色の髪や、星が瞬いたように輝く青い瞳にばかり向けられていた。綺麗だった。
どんな力が働いての奇跡なのか、今はそんなことどうでもよかった。なぜなら黒鋼は今、とてつもなく重要なことに気が付いてしまったからだ。
(なにが親心だよ……こりゃ全く違うもんじゃねぇか……)
光を一身に纏うファイの笑顔を、愛しいと、感じた。
今まで見てきたどんなものより、彼は美しく光り輝いていた。
まるで宝石のようだ。少しばかりロマンチックな光景に感化されてしまっている自分を、恥ずかしく感じる。
黒鋼の大きな手によく馴染む、ファイの華奢な手はほんのりと汗ばんでいた。それほど強く握り合っていたことに気が付いて、多分きっと、一生この手を離さずに生きていくような、そんな予感がする。
「黒わんと見れて、すごく嬉しい」
銀杏の木々を見上げていた瞳が、今度は真っ直ぐに黒鋼に向けられた。
一瞬にして予感が確信に変わったとき、黒鋼はその白いコートに包まれた華奢な身体を引き寄せ、衝動的に抱きしめていた。どうしてだろう。柄にもなく、少し泣きたいような気持ちだった。
それほどに、強く強く胸を打たれていた。
「ひゃー、どうしたの黒わん? 寒いのー?」
ファイの片腕が黒鋼の背に回り、「よしよし」と言いながらしきりに摩る。それから、何かを思い出したように小さく声を上げて、ずっと抱え込んでいた赤い包みを胸に押し付けてきた。
「あのね、これあげる」
「……俺にか? だがこれは」
「黒わんのだよ。開けて」
黒鋼は少し戸惑いながら、ファイから僅かに身を離す。そして赤い包みを受け取って、破れないように慎重にテープを剥がした。
すると、中から現れたのは真っ赤な手編みのマフラーだった。
目を見開いてファイを見ると、彼は花が咲いたように柔らかく笑っていた。
「おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー」
言葉が出なかった。小さなぬいぐるみを編むのとは訳が違う。これだけのものを仕上げるのに、どれほど時間がかかったのだろうか。
黒鋼はぐっと息を呑みながら、包みを全て取り去ると脇に抱え、マフラーを首に巻いた。ふわりと、砂糖のような甘い香りがする。温かかった。
黒のジャケットに赤いマフラー。これでは本当に黒わんだなと思いつつ、ファイが「似合う似合う」と言って手を叩くから、どうでもよくなってしまう。
「あのね、オレ知ってるんだ。ほんとはサンタさんなんかいないの」
「……どうしてそう思った?」
「ユゥイがね、毎年こっそりオレが寝てるところにプレゼントを置くの。だからオレ、ちゃんと寝たふりするんだー」
ああ、黒鋼にも覚えがある。
サンタクロースを信じていた子供の頃、枕元にそっとプレゼントを置いてくれるのは父と母だった。
眠気眼でそれを見たとき、黒鋼の夢は終わった。だけど、悲しくはなかった。今みたいに、温かな気持ちで夢から覚めた。守ろうとしてくれる両親の、愛情だけを感じて。
「ユゥイには内緒。言っちゃダメねー」
「……わかった」
夢を見ているのは子供だけではないのだと黒鋼は思った。
夢見る彼らに、大人もまた、夢を見ている。
だから気づかない。いつの間にか遠くへ行こうとする子供の成長を。
「だからね、オレがサンタさんになろうって決めたの。ちゃんとなれたかなぁ?」
黒鋼は答える代りに小さく笑って、金色の髪を優しく撫でた。
「よかったぁ」
誰かをこんなに大切だと感じたのは、これが初めてかもしれない。
なのに、これ以上愛しくさせてどうする気だろう。もう一度、強く抱きしめたい衝動をぐっと堪えて、黒鋼はジャケットのポケットに手を忍ばせる。
そして取り出したものを、ファイの首にかけた。
「なぁに?」
「俺からだ」
ファイは自分の首にかけられた、黒の革紐に指先を這わせ、その先端についている楕円形のものに触れると手の平に乗せた。
それは、木製のペンダントだった。
「後ろにネジがついてんのわかるか?」
「えと……あ、これ?」
「巻いてみろ」
不思議そうに頷いたファイが、言われた通り指先で小さなネジを巻く。すると、可愛らしい音色が優しく辺りに響き渡った。
曲は、星に願いを。
「わぁ……! オルゴールだー!」
凄い凄いと、ファイは何度も繰り返して両手でぎゅっとペンダントを握りしめる。喜んでいる姿に心底安堵した。
悩むにいいだけ悩んでいた最中、黒鋼は取材先で行った街で見かけたアンティークショップに、ふらりと足を向けた。
そこにあったのがこのペンダントだった。決め手はやはり、このオルゴールが奏でる曲だった。ファイと初めて会ったとき、彼が口ずさんでいたのがこれだったからだ。
「ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!」
「おう」
嬉しそうに再びネジを巻くファイの頬に、堪らず手を伸ばす。ファイは光をいっぱいに吸い込んだ瞳で見上げてくる。
こちらまで吸い込まれそうになって、黒鋼はその錯覚に抗うことなく顔を寄せる。一瞬だけ触れた唇の柔らかさに、眩暈がしそうだった。
オルゴールが再び柔らかなメロディを奏でる。夢を見ているような、ふわふわとした気分だった。
ファイは目を丸くして、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「黒わん、チュウした」
「誰にも言うなよ」
ファイは黒鋼の顔をじっと見つめた後、頬を赤らめてこくりと頷いた。
それから、ちょっと苦しそうに胸元をぎゅうっと握り閉めながら、小さく首を傾げる。
「二人だけの、秘密だねぇ」
そう言って、ファイは眉をハの字にしてふにゃっと笑った。
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それから黒鋼はよく店に通うようになった。
流石に毎日とはいかないが、仕事の合間やたまの休みに時間を作り、最低でも週に一度は必ず顔を出すようにした。
帰り際は必ず、泣きながらマフラーのない黒わんを手渡される。風邪をひくからという文句はすっかり定番となって、これが夏だったらどんな言い訳をしていたのだろうかと、渡される度に笑ってしまう。
その日も、少し早目に仕事を上がった黒鋼はファイの待つ猫の目を訪れていた。
「はい、できたー! これでもう寒くないねー」
暗くなるとテラス席は締め切られてしまうため、黒鋼とファイは店内の窓際の席についていた。四人掛けで向かい合う形のテーブルだが、ファイはわざわざ黒鋼の隣に座って身を寄せる。がら空きの向いの二席は鞄とコートと、スーツのジャケットを置くだけのスペースになっていた。
彼は黒鋼が持ち帰ってきた黒わんに赤いマフラーを縫い付けると、満足げにニッコリと笑った。だが、それを再び黒鋼に返しては寄越さない。
「今日も完成品はもらえねぇのか?」
あえて聞くと、ファイは俯いて顔を赤らめ、もじもじと膝を擦り合わせる。
「こ、この黒わんは、もういいの。新しい黒わん作ったから、帰りにあげる」
「マフラーは?」
「う……あの、えとね、間に合わなかったの。だから今日のも裸なの」
「そうか、ならしょうがねぇな」
「うん、しょうがねぇの」
黒鋼の口調を真似てはにかむファイは、純粋に可愛いと思う。
初対面で懐かれたときは戸惑うばかりだったが、ここのところ黒鋼は無邪気でいじらしいファイの姿に癒しを見出していた。
子供にしろ何にしろ、ここまで懐かれた経験は今までなかった。どちらかと言うとこの野蛮そうな面構えのせいか、子供に好かれた記憶がない。
だからこうして真っ直ぐに好意を寄せてくるファイが、新鮮に感じられるのかもしれない。それに、懐かれればやっぱり可愛い。どんなに顔が凶悪でも、黒鋼にだって人間らしい情くらいあるのだから。
「また黒わんのお話ですか?」
そこに、カレーの乗った盆を持った一人の少年がやって来た。
鷲色の髪と瞳をした彼は、この近くの高校の制服を身につけているが、ジャケットは脱いで猫のシルエットが描かれたエプロンをしている。
「おまえは小狼の方だな」
「そうです。凄いですね、一度見ただけなのに間違わないなんて」
「兄貴の方とは目つきが違うからな」
小狼は黒鋼の前にカレー皿を置くと、少し困ったような笑みを浮かべる。この店のオーナーも双子なら、雇っているバイトも双子というのはなかなか面白い。
兄の方は小龍という名前で、どちらも意志が強そうな瞳を持っていることに変わりはないのだが、弟に比べると少し生意気そうな、食えない印象を受ける。
弟の方はどちからといえば目つきが柔らかく、少年らしい純朴さが滲み出ていた。
この双子が揃うのは週に一度だけ。黒鋼が二度目に訪れた日が偶然それに当たり、揃って紹介された。
そしてもう一人。
「さ、さくら……大丈夫か?」
「う、う、うん、だい、じょ、ぶぅ……」
カウンター裏から出てきたのは小狼と同じ高校の制服にエプロンをした少女だった。彼女はカレーの乗った盆をプルプルと震える手つきで運び、表情を硬くしながらこちらに近づいてくる。
新緑を思わせる爽やかな瞳が、盆の上のカレーにのみ真剣に注がれていた。細心の注意を払っているように見えて、足元には全く意識が向いていないのが激しく不安を煽る。
「おい小僧。おまえが一度に運んできた方が早ぇんじゃねぇのか」
「はぁ……おれもそう思うんですが……」
黒鋼が来店したときには、店内には数人の客がいた。だが閉店間近になってくると皆、会計を済ませて帰って行った。
特にやることがなくなったせいか、サクラは二人分のカレーを運ぶという、たったそれだけの作業を分担すると言ってきかなかった。
「ふぅ……! お待たせしました! カレーは無事です、どうぞ!」
サクラはファイの前にカレー皿を置いて、やり遂げたような表情で額の汗を拭った。
確かに無事といえば無事だが、皿の縁がルーで思いっきり汚れている。小狼がすかさず取り出したナプキンで縁を綺麗に拭き取った。フォローの仕方がすっかり手馴れているような気がする。
「わーいありがとー! 黒わん早く食べよー!」
万歳をしたファイが、スプーンでカレーを食べ始める。手つきがどこかぎこちないせいで、零すのではないかとハラハラしながら黒鋼もスプーンを手にした。
飯時に来ると、いつもこのシーフードカレーを頼む。そしてファイも同じものを一緒に食べるというのも、最近ではすっかりお馴染みになっていた。
じっくりと煮込まれた魚介とスパイスの香りが、空腹の胃袋を刺激する。
「黒鋼さんってカレーが大好きなんですね」
盆を胸に抱いたサクラが、美味しそうにカレーを口に運ぶファイを見てニッコリ笑いながら問いかけてきた。黒鋼は一度口に入れたものをきちんと飲み込んでから、小さく唸る。
「好きっちゃ好きだが。手っ取り早ぇからな、カレーは」
「わたし知ってます。カレーって飲み物なんですよね」
「そこまで極端な食い方はしねぇけどな……」
小狼が半分ほどに減っていたグラスに水を注ぎ足しながら、黒鋼とサクラの会話に苦笑した。
「記者の仕事って、やっぱりお忙しいんですね。お昼もカレーで済ますことが多いんですか?」
「いや、割と色々食う。仕事柄な」
「そういえばグルメ雑誌の担当をされているんですよね」
「美味しいものをお仕事で食べられるなんて……羨ましいです」
サクラがうっとりと目を閉じて呟くが、実際はそんなに甘くはない。
中には驚くほど不味い飯を出す店もあるし、最近ではデカ盛りなんて品のないブームが起こっているせいで、それなりにタフな胃袋がなければ勤まらない仕事だ。
美味いと評判の店があればどこであろうが飛んで行き、記事を書くからには実際に食わなければ話が進まない。
だからだろうか。プライベートでの食事は地味になってしまった。自宅ではカップ麺で済ませてしまうし、外で食べなければならない時はカレーか、適当に立ち食い蕎麦屋にでも入ってしまうことが多かった。
「黒わん……」
なんやかんやと三人で会話をしている最中、大人しくカレーを食べていたファイが手を止めて、じっとこちらを見上げてきた。
どうしたのかと目で問えば、彼は視線を食べかけのカレー皿に落としてから、また黒鋼を見上げた。
「黒わん、カレー大好きなんだ」
「いや、まぁ好きだが……聞いてたか? 人の話」
「黒鋼さん! ファイさんはイカが噛み切れなくて、ずっと一生懸命口をモゴモゴさせてたんです! 叱らないであげてください!」
サクラがすかさずファイの肩にしがみついて、必死に庇う。流石『しんゆー』だ。決して叱っているわけではないのだが……。
とりあえずイカが噛み切れなかったのなら仕方がない、悪いのはイカだ。(この間、小狼がファイからサクラをペリッと剥がしていた)
「黒わん、オレがカレー作ったら嬉しい?」
「おまえ料理なんかできんのか?」
「やったことないけどね、あのね、ユゥイがいっつも言ってるの。ファイはテサキがキヨーだから、何をやってもジョーズだよーって」
「ジョーズ……? 鮫? ああ、上手な」
「そう、ジョーズ」
明らかにイントネーションがおかしいが、ファイは何やら瞳の奥に炎を宿しているようだった。
作る気だろうか。だが、子供にナイフや火を使わせるわけにはいかない。いくら手先が器用でも、彼が普段扱っているのは毛糸や綿で、刃物なんてせいぜいハサミくらいのものだ。料理をするのとは全く訳が違う。
それでも彼の気持ちは充分に嬉しくて、黒鋼は小さく笑うと金色の頭を優しく撫でた。
「無理すんな」
「ムリしてないよー! オレ黒わんにカレー作る! 黒わん、今度いつ来る? 明日?」
「明日って、おまえはいつもせっかちだな」
思わず小狼の方を見ると、彼は困った顔をしながらも小さく笑った。
「ファイさん、結構頑固なのでこうなったら聞かないかもしれません」
「つってもな……」
「ユゥイさんがいれば大丈夫だとは思いますが……」
確かに、あのしっかり者の弟がいれば大丈夫だろうが、そもそも許すだろうか。
そういえば、彼は最後の客が帰るのに続いて看板を下げるために外へ出たまま、まだ戻っていなかった。話好きかつイケメン好きのおばちゃんにでも捕まっているのかもしれない。
「そうだな……次の日曜あたりにまた来るつもりではいたが」
「四日後ですね。じゃあ、ユゥイさんが戻ったらお話してみましょう」
「ねぇ、ヨッカゴって明日?」
「違ぇよ、あほ」
そわそわしながら顔を覗き込んでくるファイの頭をポンと軽く叩いて、黒鋼は苦笑した。
***
「この石なんてどうですか? 丸くて大きいです」
「ん……ダメ。それだとお父さんよりおっきい」
「じゃあ、これは?」
「それはね、お兄さん石だよ。これ、このちょっと尖がってるのがお母さん」
「むぅー……けっこう難しいです……」
「何してんだおまえら……」
黒鋼が少し呆れた表情で声をかけると、店先にしゃがみ込んでいたサクラと小狼、そしてファイが顔を上げた。
「あ……黒わん……」
すかさず立ち上がったファイが、駆け寄ってきて胸に顔を埋める。それを受け止めてやりつつ、黒鋼はペコリと頭を下げる他の二人に向かって首を傾げた。
「石拾いか?」
彼らは黒鋼が声をかけるまで、なぜかしゃがみ込んで道路脇の砂利スペースに手を伸ばしていた。
主に石を拾っては何やら吟味していたのはファイとサクラだったが、遠目からもそこはかとなく、沈んだ様子に見えたのは気のせいだろうか。
証拠に、小狼とサクラが顔を見合わせてからしょんぼりと俯き、いつもなら黒鋼と顔を合わせた途端に休みなく喋りだすファイも、力なく項垂れている。
「おい、一体どうした」
それが……と言いにくそうに小狼が切り出すと、そこでカフェの扉が鐘を鳴らしながら開かれる。
「ユゥイさんを怒らせたんですよ」
出てきたのは小狼と同じ顔をした少年だった。
だが、雰囲気はどこか大人びていて、冷えた印象を受ける。これは兄の方だ。
「怒らせた……ってのはどういう」
「カレー鍋をぶちまけたんです。あの人、大概は笑ってやり過ごすような人ですけど、キッチンを汚されるのだけは我慢ならないから。それに」
小龍は扉に背を預け、不遜な態度で腕を組むと小さく顎をしゃくった。
ふと胸にしがみついているファイの指先を見ると、血の滲んだ絆創膏が幾つも巻かれていた。しかも、彼だけじゃない。胸元で小石をもじもじといじくるサクラの手も、似たような有様だった。
「……まさかとは思うが、おまえらだけで作ろうとしたのか?」
今日は日曜日だ。
前回ここを訪れたとき、ファイはカレーを作ると言って張り切っていた。
あのあとすぐに戻って来たユゥイ(やっぱりおばちゃんの立ち話に付き合わされていた)に了承を得て、黒鋼はちょうど昼時に腹を空かせてくるようにと言い渡された。
「なんだってそんなことに……あの弟はどうした? 側にいたんじゃねぇのか?」
「いなかったんです……」
小狼が見ているこちらが可哀想になるほど肩を落として言った。
「ユゥイさん、午前中は兄と店の買い出しに出ていたんです。それがなかなか戻らなくて……」
「仕方ないだろう。青果店の熟女に捕まったんだ」
辟易とした様子で吐き捨てる小龍の様子から察するに、話好きかつイケメン好きのおばちゃんとやらの正体は青果店の女主人ということか。
店先で声を張る姿を幾度か見かけたことがあるが、肝っ玉母さん風のなかなか迫力ある熟女だった。
つまりユゥイの帰りを待ちきれずに勝手に作業を開始して、散々な結果になったというわけだ。
その結果、しばらく外で反省していろとでも言われたのだろうか。
黒鋼は項垂れるファイの手を取り、傷ついた指先を見つめて顔を顰めた。
「おまえな、危ねぇだろ……こんな怪我までしやがって、なんで待ってらんなかった?」
「だって……黒わんお腹ペコペコだと思ったんだもん……」
「だからってな……」
そんなことを言われてしまったら、黒鋼としては彼らを叱りつけることが出来なくなってしまう。
彼の優しさは嬉しいし、一生懸命さくらいは評価してやりたかった。だが、下手をすれば指先の怪我だけでは済まなかったかもしれないのだから、ユゥイの怒りは無理もない。
ここで黒鋼が無責任に甘やかすわけにはいかなかった。
「すみません……おれが側にいたのに止められなくて……」
「小狼君は悪くないよ! カレーのお鍋を引っくり返しちゃったのはわたしだし……」
「違うよー。オレの足がサクラちゃんの足に引っかかっちゃったから……」
張り切ってカレーを作りだす二人と、それをどうにか止めようとしつつ流されて、結局は一緒に作業をしだす小狼の姿が目に浮かぶ。
大方、狭いスペースで揉みくちゃになりながら体勢を崩して、カレー鍋にタックルでもかましたのだろう……。
「悪気がねぇのが一番性質が悪ぃからな……」
胸に顔を埋めてしくしくと泣きだしてしまったファイの頭を優しく撫でる黒鋼に、小龍が冷めた口調で「同感です」と呟いた。
***
悪気がないのも性質が悪いが、笑っているのに実は激怒しているというのもなかなか厄介だと、黒鋼はカウンター越しにユゥイの整った笑顔を見ながらひしひしと感じていた。
「あんまり怒るなよ。ガキがやったことだろ」
「ガキがやったから怒ってるんですよ。ガキはガキらしく外で小石と戯れていればいい。違いますか?」
「まぁ言い分はもっともだが……」
ファイは見た目だけなら成人した大人だが、その言動ばかりでなく仕草もどこかたどたどしい、小さな子供だ。
サクラはあの通りそそっかしいし、小狼は小狼で、礼儀を重んじる彼はどうしてもファイを子供と同等に扱うことに遠慮があるのかもしれない。
とはいえ、サクラの手に傷が残っては両親に申し訳がたたないし、ファイの手は商売道具でもある。それ以前に、彼のあの白くて綺麗な手に巻かれた絆創膏はあまりにも痛々しくて、やはり四日前のあのとき、もっとしっかり止めておくべきだったと反省した。
「俺も悪かった。だからそろそろ」
「黒鋼さんは悪くないでしょう。あのガキ共の浅はかさをボクが舐めきっていた、その結果なんですから」
「おまえ、せめて感情と表情くらいは一致させたらどうだ……」
笑っているのに笑っていないというのは、なんとも気味が悪い。店内にも心なしか凍えるような空気が漂っている気がした。あと、凄くカレー臭い。
浅はかなガキとキッパリ言いきられてしまった三人は、まだ外で反省している。この調子では、彼らも恐ろしくてなかなか店に戻ることはできないだろう。
とりあえずフォローするつもりで入って来たが、黒鋼にも自信がなくなってくる。どうしたものか……。
「ユゥイさん、あまり怒るとハゲますよ」
そこに、ユゥイの隣でグラスを磨いていた小龍が助け舟になっているのかいないのか、よくわからない横やりを入れた。
よしいいぞ、もういっそなんでもいいからうまくやれ小僧(兄)、と内心で応援する黒鋼。
ユゥイは小龍の「ハゲ」という単語に、にこやかな表情をピクリと動かす。
「生憎、うちの家系にハゲはいないよ」
「分かりませんよ。遥か遠い親戚が実はハゲ揃いで、それがうっかり隔世遺伝なんてこともあります」
「うっかりでハゲがうつっちゃ敵わないな。そういう冗談はよそでやってくれない?」
「おれは冗談は嫌いです」
「…………」
(もっと空気凍らせてどうするんだこの野郎……!)
お願いやめて、大人の男はみんなハゲという単語に敏感なの。ちょっとのキッカケで毛根を気にし始めるデリケートな生き物なの……と、恐れ知らずのうら若き男子高校生を黙らせたくて仕方がなくなってきた頃、小龍がさらなる爆弾を投下した。
「おれはハゲててもあなたを愛する自信はありますけどね」
「なんの話だ」
なぜかすかさず反応してしまったのは黒鋼だった。
冗談は嫌いだと言った口が、笑っていいのか悪いのかよく分からない冗談を吐いている。
「おいなんだ……まさかおまえらそういう関係か」
「違うに決まってるでしょ……」
「これからそうなる予定です」
「君、明日からうちの店来なくていいよ」
ようやくユゥイの笑顔の仮面が剥がれた。彼は見たこともないようなゲッソリとした表情でクビ宣告をしている。
小龍は何を考えているのか分からない無表情のまま、ユゥイを見上げた。
「おかしいな。おれの人生という名のシナリオにはそう書いてあるんですが」
「君の人生設計に勝手にボクとハゲを組み込まないでくれるかな……」
「メタボも気にしません。物件としては悪くないかと」
「……最悪だ」
ユゥイの心底疲れきった表情を見るに、どうやらいつもこうして口説かれているらしいことが分かった。
気の毒なような応援したいような、微妙な気分だったが、最終的には付き合ってられないという結論に至った黒鋼は席を立ち、ファイたちの様子を見に行くことにした。
***
「またやってんのか」
黒鋼が三人の様子を見に行くと、サクラとファイがまた石拾いをしていた。
絆創膏を貼ってはいるが、傷口にばい菌でも入ったらどうするのか。
ハッとして立ち上がった小狼が、黒鋼に縋るような目を向ける。
「ユゥイさん……どうでしたか?」
「どうもこうも……おい、おまえの兄貴が暴走してんぞ。とっとと助けてやれ」
「またですか……」
小狼は力なく項垂れると、凍えてるんだか熱いんだか分からない謎の空気に包まれた店内に入っていく。それを追って、サクラも一緒に扉の向こうに消えていった。
残されたファイだけが、しゃがみ込んだまま俯いている。
彼の視線の先には、大きい順から石がきっちりと並べられていた。
「おまえは石集めが趣味なのか?」
仕方なく、黒鋼もその隣にしゃがみ込む。ファイは小さく首を振って「うぅん」と唸った。そして、一番左端の大きな石をちょこんと指さす。
「これね、お父さんの石」
「お父さん?」
「ん。でね、これがお母さんの石。隣がお兄さんで、これが弟」
ああ、石を家族に見立てているのか。
そういえば黒鋼も小さな頃に、なんだかんだとこじつけて石を集めて遊んでいた記憶がある。どうしてそんな遊びをしようと思ったのか、今では全く思い出せないが、あの頃はとにかく夢中になっていた。
「でもね、お父さん石はすぐになくなるの」
「なくなる? 仕事か?」
「うぅん。しんじゃうの」
「…………」
「でね、お母さん石もなくなるの」
しんじゃうからと、ファイは言った。
「それは……」
おまえの家族の話かと、黒鋼は聞くことができなかった。
ファイは左端のお父さん石を掴むと、ポイッと放り投げた。石は狭い道の反対側に転がって、石塀にぶつかると動きを止める。
それからファイは、さらにお母さん石を掴むと今度は投げずに、少し離れた場所に転がした。残されたのは、小さな二つの兄弟石だった。
黒鋼は、そのぽつりと寂しげに取り残された二つの石を見つめた。
どちらも丸みと微かな光沢があり、色もサイズも同じだった。
まるで双子のように。
きっとこの石はファイとユゥイだ。彼がそう断言したわけではないが、間違いない。だとしたら、二人の両親は。
「……この兄弟はこの後どうなるんだ?」
寄り添うように並ぶ二つの石が、あまりにも物悲しく見えた。
今、彼らはこの駅裏の商店街の片隅で同じように身を寄せて暮らしている。ファイはいつも楽しそうだし、それを見守るユゥイの目は優しい。
だからきっと、ファイの口からは黒鋼が求める『救い』が吐き出されるはずだった。そうでなければならなかった。だけど、違った。
「一緒にはいられないの」
「…………」
「お別れしなきゃいけないの。大好きだから」
いっしょには、いけないの。
膝頭にちょこんと置かれていたファイの、傷だらけの指をした手の甲に、透明な雫が落ちた。それは次から次へと降ってきて、幾つもの筋を作って流れていく。
「ユゥイ、オレのこと、嫌いに、なったかなぁ……?」
自らに問いかけるような言葉だった。
彼は石をじっと見下ろしたまま、何度も鼻をすすって肩を震わせる。時折大きくしゃくり上げるせいで、その声は途切れ途切れになっていた。
「オレ、もう、いっしょに、いちゃダメに、なったかなぁ……?」
もう見ていられなくなって、黒鋼は堪らず彼に腕を伸ばした。頭を鷲掴んで、思いっきり引き寄せると首筋に額を押し付けさせる。
「嫌いになるわけねぇだろ」
「でも、ユゥイ……すごく、怒ってた……」
「心配させちまったんだ。勝手に危ねぇ真似したから」
「ユゥイ、遠く、行っちゃう? オレ、また……ひとりぼっち……?」
「…………」
彼らは過去に、離れ離れにならなくてはいけない事情があったのだろうか。何があったのか、黒鋼には知る由もない。
幼い子供はただ無力だ。望む望まないに関わらず周りに依存しなければ生きていけない。でも、彼らはもう大人だ。ファイの心だけはまだ遠い過去に置き去りにされているのかもしれないが、今はこうして自らの意志で穏やかな日々を過ごすことができているではないか。
まだ断片に触れた程度の自分にだって分かる。この店がその象徴だ。
黒鋼はファイが少しずつ落ち着いてきたころ、ようやく身を離した。そして立ち上がると道路を横断し、投げ捨てられた石を拾った。
「黒わん……?」
大きな石を手に戻って来た黒鋼は、またファイの隣にしゃがむと元あった位置にそれを置く。
「これはな、お父さん石じゃねぇよ」
「?」
「黒わんの石がねぇじゃねぇか。大事なんだろ?」
「あ……」
ファイは泣き濡れた赤い目元で、小さな声を上げる。潤んだ碧眼が丸く見開かれ、花びらが踊るように瞬きを繰り返した。
「で、こっちはおまえでいいだろ」
黒鋼は手を伸ばすと、ファイが転がしたお母さん石を取り、黒わんの隣に置いた。それから、足元を見回して似たような大きさの石を探り当て、さらに隣に並べる。
「これが弟だ」
「ユゥイ……?」
「そうだ。そのちっこい二つは……そうだな、あの小僧どもでいいか」
「じゃあ、じゃあ……これ」
少しだけ明るさを取り戻したファイは、すぐその辺りを探ると指先で小さな石を摘み上げ、兄弟石の隣に追加する。
「これ、サクラちゃん。女の子だから、一番ちっちゃくて可愛いの」
「揃ったな」
「うん!」
ああ、やっと笑った。
初めて出会った日、別れ際に泣いていたファイが笑顔を取り戻したときも、こんな風に安堵した。彼の笑顔には黒鋼の心を癒す力がある。柔らかくて、無邪気で、真っ直ぐで、可愛い。
どんな悲しい過去があったとしても、こうして今を笑って生きられるならそれでいいのではないか。ファイにはずっと、いつまでもこうしていて欲しいと心から思う。
「そろそろいいんじゃねぇか?」
黒鋼が背後を振り仰ぎ、声をかけると店の扉を開けてユゥイが姿を現した。
すかさず立ちあがったファイが黒鋼の腕に縋りつき、隠れるように肩に顔を埋めるけれど、その頭をポンポンと叩いて勇気づけてやると、おずおずと顔をあげる。
そしてユゥイの正面までのろのろとした足取りで向い、俯いた。
「…………」
ユゥイは何も言わない。ただ切なげに眉根を寄せて、ファイの言葉を待っている。
「……ユゥイ、ごめんなさい」
「…………」
「もうしない……しないから、だから」
「ッ」
息をのみながら両腕を伸ばしたユゥイが、ファイを力いっぱい抱きしめる。
何度も何度も頭を撫でて、彼は絞り出すような声で「なれるわけない」と言った。
「嫌いになんかなれるわけないよ。ボクはファイのことが大好きなんだ。だからずっと一緒。もうひとりぼっちになんかしないよ」
「うん……」
「約束して。これからは絶対に危ない真似はしないって。見てごらん、こんなに傷がついて」
ユゥイはファイの左手を取ると、そっと握りしめて自分の胸に押し当てる。人差し指と親指の先、さらに中指の中腹に巻かれた絆創膏はやっぱり血が滲んでいて、痛々しかった。
ユゥイが怒っているのはファイが勝手に危ない真似をして、こうして傷を作ったからだ。ファイにもやっとそれが分かったのだろうか。再び涙を浮かべて、声にならない声で「ごめんなさい」と謝罪しながら鼻をぐずらせた。
「もう泣かないで。ちゃんとごめんなさいできたね。だからこの話は終わり。ね、中に戻ってお昼ご飯にしよう?」
「ん……」
「カレーは指が治ったら、一緒に作ろ。ナイフの持ち方も、ボクがちゃんと教えてあげる」
「いいの……?」
「もちろん。黒わんも、今日はカレーはないですけど、延期でいいですか?」
「おまえまで黒わん呼びすんな……」
苦々しい表情で頭をガリガリと掻きながら立ち上がる黒鋼にユゥイが笑って、ファイもつられて笑顔を浮かべる。彼らが揃って笑うと、辺りにふわりとした甘い空気が立ち込めるような気がして力が抜けた。
二人は手を繋いで、仲良く店に戻っていく。そんな双子の背を見つめたあと、一人残された黒鋼は足元に行儀よく並んだ六つの石を見下ろした。
石遊び自体はやめさせた方がいいだろうが、これからはファイが孤独な過去ではなく、今の幸せだけを考えながら過ごせればいい。
いなくなってしまった人たちを思って石を集めては捨てるのではなく、側にいる誰かを思って、笑っていられれば。
「黒わーん、どうしたのー? 早く来てくれなきゃやだよー」
なかなか戻らない黒鋼に、ファイが少しだけ開けた扉から心配そうな顔を出す。それに手を上げて「おう」と返事をすると、彼は安心したようにふにゃっと笑ってまた消えた。
「黒わん、な」
成り行きとはいえ、これではいつになったら黒わんの役目を卒業できるのか、分かったもんじゃない。
それでもまるで嫌な気持ちがないどころか、緩んでいる口元に気が付いて、黒鋼は両手で頬を幾度か叩く。
そういえば言いつけ通り腹ぺこで来るために、今日は朝から何も口にしていないことを思い出した途端、ぐぅっと腹が鳴った。
なんだかんだで自分もファイが作ったカレーを楽しみにしていたということか。別に大好物というわけではないのだが。
誰に見られていたわけでもないのに咳払いをして、黒鋼も店に戻って行った。
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流石に毎日とはいかないが、仕事の合間やたまの休みに時間を作り、最低でも週に一度は必ず顔を出すようにした。
帰り際は必ず、泣きながらマフラーのない黒わんを手渡される。風邪をひくからという文句はすっかり定番となって、これが夏だったらどんな言い訳をしていたのだろうかと、渡される度に笑ってしまう。
その日も、少し早目に仕事を上がった黒鋼はファイの待つ猫の目を訪れていた。
「はい、できたー! これでもう寒くないねー」
暗くなるとテラス席は締め切られてしまうため、黒鋼とファイは店内の窓際の席についていた。四人掛けで向かい合う形のテーブルだが、ファイはわざわざ黒鋼の隣に座って身を寄せる。がら空きの向いの二席は鞄とコートと、スーツのジャケットを置くだけのスペースになっていた。
彼は黒鋼が持ち帰ってきた黒わんに赤いマフラーを縫い付けると、満足げにニッコリと笑った。だが、それを再び黒鋼に返しては寄越さない。
「今日も完成品はもらえねぇのか?」
あえて聞くと、ファイは俯いて顔を赤らめ、もじもじと膝を擦り合わせる。
「こ、この黒わんは、もういいの。新しい黒わん作ったから、帰りにあげる」
「マフラーは?」
「う……あの、えとね、間に合わなかったの。だから今日のも裸なの」
「そうか、ならしょうがねぇな」
「うん、しょうがねぇの」
黒鋼の口調を真似てはにかむファイは、純粋に可愛いと思う。
初対面で懐かれたときは戸惑うばかりだったが、ここのところ黒鋼は無邪気でいじらしいファイの姿に癒しを見出していた。
子供にしろ何にしろ、ここまで懐かれた経験は今までなかった。どちらかと言うとこの野蛮そうな面構えのせいか、子供に好かれた記憶がない。
だからこうして真っ直ぐに好意を寄せてくるファイが、新鮮に感じられるのかもしれない。それに、懐かれればやっぱり可愛い。どんなに顔が凶悪でも、黒鋼にだって人間らしい情くらいあるのだから。
「また黒わんのお話ですか?」
そこに、カレーの乗った盆を持った一人の少年がやって来た。
鷲色の髪と瞳をした彼は、この近くの高校の制服を身につけているが、ジャケットは脱いで猫のシルエットが描かれたエプロンをしている。
「おまえは小狼の方だな」
「そうです。凄いですね、一度見ただけなのに間違わないなんて」
「兄貴の方とは目つきが違うからな」
小狼は黒鋼の前にカレー皿を置くと、少し困ったような笑みを浮かべる。この店のオーナーも双子なら、雇っているバイトも双子というのはなかなか面白い。
兄の方は小龍という名前で、どちらも意志が強そうな瞳を持っていることに変わりはないのだが、弟に比べると少し生意気そうな、食えない印象を受ける。
弟の方はどちからといえば目つきが柔らかく、少年らしい純朴さが滲み出ていた。
この双子が揃うのは週に一度だけ。黒鋼が二度目に訪れた日が偶然それに当たり、揃って紹介された。
そしてもう一人。
「さ、さくら……大丈夫か?」
「う、う、うん、だい、じょ、ぶぅ……」
カウンター裏から出てきたのは小狼と同じ高校の制服にエプロンをした少女だった。彼女はカレーの乗った盆をプルプルと震える手つきで運び、表情を硬くしながらこちらに近づいてくる。
新緑を思わせる爽やかな瞳が、盆の上のカレーにのみ真剣に注がれていた。細心の注意を払っているように見えて、足元には全く意識が向いていないのが激しく不安を煽る。
「おい小僧。おまえが一度に運んできた方が早ぇんじゃねぇのか」
「はぁ……おれもそう思うんですが……」
黒鋼が来店したときには、店内には数人の客がいた。だが閉店間近になってくると皆、会計を済ませて帰って行った。
特にやることがなくなったせいか、サクラは二人分のカレーを運ぶという、たったそれだけの作業を分担すると言ってきかなかった。
「ふぅ……! お待たせしました! カレーは無事です、どうぞ!」
サクラはファイの前にカレー皿を置いて、やり遂げたような表情で額の汗を拭った。
確かに無事といえば無事だが、皿の縁がルーで思いっきり汚れている。小狼がすかさず取り出したナプキンで縁を綺麗に拭き取った。フォローの仕方がすっかり手馴れているような気がする。
「わーいありがとー! 黒わん早く食べよー!」
万歳をしたファイが、スプーンでカレーを食べ始める。手つきがどこかぎこちないせいで、零すのではないかとハラハラしながら黒鋼もスプーンを手にした。
飯時に来ると、いつもこのシーフードカレーを頼む。そしてファイも同じものを一緒に食べるというのも、最近ではすっかりお馴染みになっていた。
じっくりと煮込まれた魚介とスパイスの香りが、空腹の胃袋を刺激する。
「黒鋼さんってカレーが大好きなんですね」
盆を胸に抱いたサクラが、美味しそうにカレーを口に運ぶファイを見てニッコリ笑いながら問いかけてきた。黒鋼は一度口に入れたものをきちんと飲み込んでから、小さく唸る。
「好きっちゃ好きだが。手っ取り早ぇからな、カレーは」
「わたし知ってます。カレーって飲み物なんですよね」
「そこまで極端な食い方はしねぇけどな……」
小狼が半分ほどに減っていたグラスに水を注ぎ足しながら、黒鋼とサクラの会話に苦笑した。
「記者の仕事って、やっぱりお忙しいんですね。お昼もカレーで済ますことが多いんですか?」
「いや、割と色々食う。仕事柄な」
「そういえばグルメ雑誌の担当をされているんですよね」
「美味しいものをお仕事で食べられるなんて……羨ましいです」
サクラがうっとりと目を閉じて呟くが、実際はそんなに甘くはない。
中には驚くほど不味い飯を出す店もあるし、最近ではデカ盛りなんて品のないブームが起こっているせいで、それなりにタフな胃袋がなければ勤まらない仕事だ。
美味いと評判の店があればどこであろうが飛んで行き、記事を書くからには実際に食わなければ話が進まない。
だからだろうか。プライベートでの食事は地味になってしまった。自宅ではカップ麺で済ませてしまうし、外で食べなければならない時はカレーか、適当に立ち食い蕎麦屋にでも入ってしまうことが多かった。
「黒わん……」
なんやかんやと三人で会話をしている最中、大人しくカレーを食べていたファイが手を止めて、じっとこちらを見上げてきた。
どうしたのかと目で問えば、彼は視線を食べかけのカレー皿に落としてから、また黒鋼を見上げた。
「黒わん、カレー大好きなんだ」
「いや、まぁ好きだが……聞いてたか? 人の話」
「黒鋼さん! ファイさんはイカが噛み切れなくて、ずっと一生懸命口をモゴモゴさせてたんです! 叱らないであげてください!」
サクラがすかさずファイの肩にしがみついて、必死に庇う。流石『しんゆー』だ。決して叱っているわけではないのだが……。
とりあえずイカが噛み切れなかったのなら仕方がない、悪いのはイカだ。(この間、小狼がファイからサクラをペリッと剥がしていた)
「黒わん、オレがカレー作ったら嬉しい?」
「おまえ料理なんかできんのか?」
「やったことないけどね、あのね、ユゥイがいっつも言ってるの。ファイはテサキがキヨーだから、何をやってもジョーズだよーって」
「ジョーズ……? 鮫? ああ、上手な」
「そう、ジョーズ」
明らかにイントネーションがおかしいが、ファイは何やら瞳の奥に炎を宿しているようだった。
作る気だろうか。だが、子供にナイフや火を使わせるわけにはいかない。いくら手先が器用でも、彼が普段扱っているのは毛糸や綿で、刃物なんてせいぜいハサミくらいのものだ。料理をするのとは全く訳が違う。
それでも彼の気持ちは充分に嬉しくて、黒鋼は小さく笑うと金色の頭を優しく撫でた。
「無理すんな」
「ムリしてないよー! オレ黒わんにカレー作る! 黒わん、今度いつ来る? 明日?」
「明日って、おまえはいつもせっかちだな」
思わず小狼の方を見ると、彼は困った顔をしながらも小さく笑った。
「ファイさん、結構頑固なのでこうなったら聞かないかもしれません」
「つってもな……」
「ユゥイさんがいれば大丈夫だとは思いますが……」
確かに、あのしっかり者の弟がいれば大丈夫だろうが、そもそも許すだろうか。
そういえば、彼は最後の客が帰るのに続いて看板を下げるために外へ出たまま、まだ戻っていなかった。話好きかつイケメン好きのおばちゃんにでも捕まっているのかもしれない。
「そうだな……次の日曜あたりにまた来るつもりではいたが」
「四日後ですね。じゃあ、ユゥイさんが戻ったらお話してみましょう」
「ねぇ、ヨッカゴって明日?」
「違ぇよ、あほ」
そわそわしながら顔を覗き込んでくるファイの頭をポンと軽く叩いて、黒鋼は苦笑した。
***
「この石なんてどうですか? 丸くて大きいです」
「ん……ダメ。それだとお父さんよりおっきい」
「じゃあ、これは?」
「それはね、お兄さん石だよ。これ、このちょっと尖がってるのがお母さん」
「むぅー……けっこう難しいです……」
「何してんだおまえら……」
黒鋼が少し呆れた表情で声をかけると、店先にしゃがみ込んでいたサクラと小狼、そしてファイが顔を上げた。
「あ……黒わん……」
すかさず立ち上がったファイが、駆け寄ってきて胸に顔を埋める。それを受け止めてやりつつ、黒鋼はペコリと頭を下げる他の二人に向かって首を傾げた。
「石拾いか?」
彼らは黒鋼が声をかけるまで、なぜかしゃがみ込んで道路脇の砂利スペースに手を伸ばしていた。
主に石を拾っては何やら吟味していたのはファイとサクラだったが、遠目からもそこはかとなく、沈んだ様子に見えたのは気のせいだろうか。
証拠に、小狼とサクラが顔を見合わせてからしょんぼりと俯き、いつもなら黒鋼と顔を合わせた途端に休みなく喋りだすファイも、力なく項垂れている。
「おい、一体どうした」
それが……と言いにくそうに小狼が切り出すと、そこでカフェの扉が鐘を鳴らしながら開かれる。
「ユゥイさんを怒らせたんですよ」
出てきたのは小狼と同じ顔をした少年だった。
だが、雰囲気はどこか大人びていて、冷えた印象を受ける。これは兄の方だ。
「怒らせた……ってのはどういう」
「カレー鍋をぶちまけたんです。あの人、大概は笑ってやり過ごすような人ですけど、キッチンを汚されるのだけは我慢ならないから。それに」
小龍は扉に背を預け、不遜な態度で腕を組むと小さく顎をしゃくった。
ふと胸にしがみついているファイの指先を見ると、血の滲んだ絆創膏が幾つも巻かれていた。しかも、彼だけじゃない。胸元で小石をもじもじといじくるサクラの手も、似たような有様だった。
「……まさかとは思うが、おまえらだけで作ろうとしたのか?」
今日は日曜日だ。
前回ここを訪れたとき、ファイはカレーを作ると言って張り切っていた。
あのあとすぐに戻って来たユゥイ(やっぱりおばちゃんの立ち話に付き合わされていた)に了承を得て、黒鋼はちょうど昼時に腹を空かせてくるようにと言い渡された。
「なんだってそんなことに……あの弟はどうした? 側にいたんじゃねぇのか?」
「いなかったんです……」
小狼が見ているこちらが可哀想になるほど肩を落として言った。
「ユゥイさん、午前中は兄と店の買い出しに出ていたんです。それがなかなか戻らなくて……」
「仕方ないだろう。青果店の熟女に捕まったんだ」
辟易とした様子で吐き捨てる小龍の様子から察するに、話好きかつイケメン好きのおばちゃんとやらの正体は青果店の女主人ということか。
店先で声を張る姿を幾度か見かけたことがあるが、肝っ玉母さん風のなかなか迫力ある熟女だった。
つまりユゥイの帰りを待ちきれずに勝手に作業を開始して、散々な結果になったというわけだ。
その結果、しばらく外で反省していろとでも言われたのだろうか。
黒鋼は項垂れるファイの手を取り、傷ついた指先を見つめて顔を顰めた。
「おまえな、危ねぇだろ……こんな怪我までしやがって、なんで待ってらんなかった?」
「だって……黒わんお腹ペコペコだと思ったんだもん……」
「だからってな……」
そんなことを言われてしまったら、黒鋼としては彼らを叱りつけることが出来なくなってしまう。
彼の優しさは嬉しいし、一生懸命さくらいは評価してやりたかった。だが、下手をすれば指先の怪我だけでは済まなかったかもしれないのだから、ユゥイの怒りは無理もない。
ここで黒鋼が無責任に甘やかすわけにはいかなかった。
「すみません……おれが側にいたのに止められなくて……」
「小狼君は悪くないよ! カレーのお鍋を引っくり返しちゃったのはわたしだし……」
「違うよー。オレの足がサクラちゃんの足に引っかかっちゃったから……」
張り切ってカレーを作りだす二人と、それをどうにか止めようとしつつ流されて、結局は一緒に作業をしだす小狼の姿が目に浮かぶ。
大方、狭いスペースで揉みくちゃになりながら体勢を崩して、カレー鍋にタックルでもかましたのだろう……。
「悪気がねぇのが一番性質が悪ぃからな……」
胸に顔を埋めてしくしくと泣きだしてしまったファイの頭を優しく撫でる黒鋼に、小龍が冷めた口調で「同感です」と呟いた。
***
悪気がないのも性質が悪いが、笑っているのに実は激怒しているというのもなかなか厄介だと、黒鋼はカウンター越しにユゥイの整った笑顔を見ながらひしひしと感じていた。
「あんまり怒るなよ。ガキがやったことだろ」
「ガキがやったから怒ってるんですよ。ガキはガキらしく外で小石と戯れていればいい。違いますか?」
「まぁ言い分はもっともだが……」
ファイは見た目だけなら成人した大人だが、その言動ばかりでなく仕草もどこかたどたどしい、小さな子供だ。
サクラはあの通りそそっかしいし、小狼は小狼で、礼儀を重んじる彼はどうしてもファイを子供と同等に扱うことに遠慮があるのかもしれない。
とはいえ、サクラの手に傷が残っては両親に申し訳がたたないし、ファイの手は商売道具でもある。それ以前に、彼のあの白くて綺麗な手に巻かれた絆創膏はあまりにも痛々しくて、やはり四日前のあのとき、もっとしっかり止めておくべきだったと反省した。
「俺も悪かった。だからそろそろ」
「黒鋼さんは悪くないでしょう。あのガキ共の浅はかさをボクが舐めきっていた、その結果なんですから」
「おまえ、せめて感情と表情くらいは一致させたらどうだ……」
笑っているのに笑っていないというのは、なんとも気味が悪い。店内にも心なしか凍えるような空気が漂っている気がした。あと、凄くカレー臭い。
浅はかなガキとキッパリ言いきられてしまった三人は、まだ外で反省している。この調子では、彼らも恐ろしくてなかなか店に戻ることはできないだろう。
とりあえずフォローするつもりで入って来たが、黒鋼にも自信がなくなってくる。どうしたものか……。
「ユゥイさん、あまり怒るとハゲますよ」
そこに、ユゥイの隣でグラスを磨いていた小龍が助け舟になっているのかいないのか、よくわからない横やりを入れた。
よしいいぞ、もういっそなんでもいいからうまくやれ小僧(兄)、と内心で応援する黒鋼。
ユゥイは小龍の「ハゲ」という単語に、にこやかな表情をピクリと動かす。
「生憎、うちの家系にハゲはいないよ」
「分かりませんよ。遥か遠い親戚が実はハゲ揃いで、それがうっかり隔世遺伝なんてこともあります」
「うっかりでハゲがうつっちゃ敵わないな。そういう冗談はよそでやってくれない?」
「おれは冗談は嫌いです」
「…………」
(もっと空気凍らせてどうするんだこの野郎……!)
お願いやめて、大人の男はみんなハゲという単語に敏感なの。ちょっとのキッカケで毛根を気にし始めるデリケートな生き物なの……と、恐れ知らずのうら若き男子高校生を黙らせたくて仕方がなくなってきた頃、小龍がさらなる爆弾を投下した。
「おれはハゲててもあなたを愛する自信はありますけどね」
「なんの話だ」
なぜかすかさず反応してしまったのは黒鋼だった。
冗談は嫌いだと言った口が、笑っていいのか悪いのかよく分からない冗談を吐いている。
「おいなんだ……まさかおまえらそういう関係か」
「違うに決まってるでしょ……」
「これからそうなる予定です」
「君、明日からうちの店来なくていいよ」
ようやくユゥイの笑顔の仮面が剥がれた。彼は見たこともないようなゲッソリとした表情でクビ宣告をしている。
小龍は何を考えているのか分からない無表情のまま、ユゥイを見上げた。
「おかしいな。おれの人生という名のシナリオにはそう書いてあるんですが」
「君の人生設計に勝手にボクとハゲを組み込まないでくれるかな……」
「メタボも気にしません。物件としては悪くないかと」
「……最悪だ」
ユゥイの心底疲れきった表情を見るに、どうやらいつもこうして口説かれているらしいことが分かった。
気の毒なような応援したいような、微妙な気分だったが、最終的には付き合ってられないという結論に至った黒鋼は席を立ち、ファイたちの様子を見に行くことにした。
***
「またやってんのか」
黒鋼が三人の様子を見に行くと、サクラとファイがまた石拾いをしていた。
絆創膏を貼ってはいるが、傷口にばい菌でも入ったらどうするのか。
ハッとして立ち上がった小狼が、黒鋼に縋るような目を向ける。
「ユゥイさん……どうでしたか?」
「どうもこうも……おい、おまえの兄貴が暴走してんぞ。とっとと助けてやれ」
「またですか……」
小狼は力なく項垂れると、凍えてるんだか熱いんだか分からない謎の空気に包まれた店内に入っていく。それを追って、サクラも一緒に扉の向こうに消えていった。
残されたファイだけが、しゃがみ込んだまま俯いている。
彼の視線の先には、大きい順から石がきっちりと並べられていた。
「おまえは石集めが趣味なのか?」
仕方なく、黒鋼もその隣にしゃがみ込む。ファイは小さく首を振って「うぅん」と唸った。そして、一番左端の大きな石をちょこんと指さす。
「これね、お父さんの石」
「お父さん?」
「ん。でね、これがお母さんの石。隣がお兄さんで、これが弟」
ああ、石を家族に見立てているのか。
そういえば黒鋼も小さな頃に、なんだかんだとこじつけて石を集めて遊んでいた記憶がある。どうしてそんな遊びをしようと思ったのか、今では全く思い出せないが、あの頃はとにかく夢中になっていた。
「でもね、お父さん石はすぐになくなるの」
「なくなる? 仕事か?」
「うぅん。しんじゃうの」
「…………」
「でね、お母さん石もなくなるの」
しんじゃうからと、ファイは言った。
「それは……」
おまえの家族の話かと、黒鋼は聞くことができなかった。
ファイは左端のお父さん石を掴むと、ポイッと放り投げた。石は狭い道の反対側に転がって、石塀にぶつかると動きを止める。
それからファイは、さらにお母さん石を掴むと今度は投げずに、少し離れた場所に転がした。残されたのは、小さな二つの兄弟石だった。
黒鋼は、そのぽつりと寂しげに取り残された二つの石を見つめた。
どちらも丸みと微かな光沢があり、色もサイズも同じだった。
まるで双子のように。
きっとこの石はファイとユゥイだ。彼がそう断言したわけではないが、間違いない。だとしたら、二人の両親は。
「……この兄弟はこの後どうなるんだ?」
寄り添うように並ぶ二つの石が、あまりにも物悲しく見えた。
今、彼らはこの駅裏の商店街の片隅で同じように身を寄せて暮らしている。ファイはいつも楽しそうだし、それを見守るユゥイの目は優しい。
だからきっと、ファイの口からは黒鋼が求める『救い』が吐き出されるはずだった。そうでなければならなかった。だけど、違った。
「一緒にはいられないの」
「…………」
「お別れしなきゃいけないの。大好きだから」
いっしょには、いけないの。
膝頭にちょこんと置かれていたファイの、傷だらけの指をした手の甲に、透明な雫が落ちた。それは次から次へと降ってきて、幾つもの筋を作って流れていく。
「ユゥイ、オレのこと、嫌いに、なったかなぁ……?」
自らに問いかけるような言葉だった。
彼は石をじっと見下ろしたまま、何度も鼻をすすって肩を震わせる。時折大きくしゃくり上げるせいで、その声は途切れ途切れになっていた。
「オレ、もう、いっしょに、いちゃダメに、なったかなぁ……?」
もう見ていられなくなって、黒鋼は堪らず彼に腕を伸ばした。頭を鷲掴んで、思いっきり引き寄せると首筋に額を押し付けさせる。
「嫌いになるわけねぇだろ」
「でも、ユゥイ……すごく、怒ってた……」
「心配させちまったんだ。勝手に危ねぇ真似したから」
「ユゥイ、遠く、行っちゃう? オレ、また……ひとりぼっち……?」
「…………」
彼らは過去に、離れ離れにならなくてはいけない事情があったのだろうか。何があったのか、黒鋼には知る由もない。
幼い子供はただ無力だ。望む望まないに関わらず周りに依存しなければ生きていけない。でも、彼らはもう大人だ。ファイの心だけはまだ遠い過去に置き去りにされているのかもしれないが、今はこうして自らの意志で穏やかな日々を過ごすことができているではないか。
まだ断片に触れた程度の自分にだって分かる。この店がその象徴だ。
黒鋼はファイが少しずつ落ち着いてきたころ、ようやく身を離した。そして立ち上がると道路を横断し、投げ捨てられた石を拾った。
「黒わん……?」
大きな石を手に戻って来た黒鋼は、またファイの隣にしゃがむと元あった位置にそれを置く。
「これはな、お父さん石じゃねぇよ」
「?」
「黒わんの石がねぇじゃねぇか。大事なんだろ?」
「あ……」
ファイは泣き濡れた赤い目元で、小さな声を上げる。潤んだ碧眼が丸く見開かれ、花びらが踊るように瞬きを繰り返した。
「で、こっちはおまえでいいだろ」
黒鋼は手を伸ばすと、ファイが転がしたお母さん石を取り、黒わんの隣に置いた。それから、足元を見回して似たような大きさの石を探り当て、さらに隣に並べる。
「これが弟だ」
「ユゥイ……?」
「そうだ。そのちっこい二つは……そうだな、あの小僧どもでいいか」
「じゃあ、じゃあ……これ」
少しだけ明るさを取り戻したファイは、すぐその辺りを探ると指先で小さな石を摘み上げ、兄弟石の隣に追加する。
「これ、サクラちゃん。女の子だから、一番ちっちゃくて可愛いの」
「揃ったな」
「うん!」
ああ、やっと笑った。
初めて出会った日、別れ際に泣いていたファイが笑顔を取り戻したときも、こんな風に安堵した。彼の笑顔には黒鋼の心を癒す力がある。柔らかくて、無邪気で、真っ直ぐで、可愛い。
どんな悲しい過去があったとしても、こうして今を笑って生きられるならそれでいいのではないか。ファイにはずっと、いつまでもこうしていて欲しいと心から思う。
「そろそろいいんじゃねぇか?」
黒鋼が背後を振り仰ぎ、声をかけると店の扉を開けてユゥイが姿を現した。
すかさず立ちあがったファイが黒鋼の腕に縋りつき、隠れるように肩に顔を埋めるけれど、その頭をポンポンと叩いて勇気づけてやると、おずおずと顔をあげる。
そしてユゥイの正面までのろのろとした足取りで向い、俯いた。
「…………」
ユゥイは何も言わない。ただ切なげに眉根を寄せて、ファイの言葉を待っている。
「……ユゥイ、ごめんなさい」
「…………」
「もうしない……しないから、だから」
「ッ」
息をのみながら両腕を伸ばしたユゥイが、ファイを力いっぱい抱きしめる。
何度も何度も頭を撫でて、彼は絞り出すような声で「なれるわけない」と言った。
「嫌いになんかなれるわけないよ。ボクはファイのことが大好きなんだ。だからずっと一緒。もうひとりぼっちになんかしないよ」
「うん……」
「約束して。これからは絶対に危ない真似はしないって。見てごらん、こんなに傷がついて」
ユゥイはファイの左手を取ると、そっと握りしめて自分の胸に押し当てる。人差し指と親指の先、さらに中指の中腹に巻かれた絆創膏はやっぱり血が滲んでいて、痛々しかった。
ユゥイが怒っているのはファイが勝手に危ない真似をして、こうして傷を作ったからだ。ファイにもやっとそれが分かったのだろうか。再び涙を浮かべて、声にならない声で「ごめんなさい」と謝罪しながら鼻をぐずらせた。
「もう泣かないで。ちゃんとごめんなさいできたね。だからこの話は終わり。ね、中に戻ってお昼ご飯にしよう?」
「ん……」
「カレーは指が治ったら、一緒に作ろ。ナイフの持ち方も、ボクがちゃんと教えてあげる」
「いいの……?」
「もちろん。黒わんも、今日はカレーはないですけど、延期でいいですか?」
「おまえまで黒わん呼びすんな……」
苦々しい表情で頭をガリガリと掻きながら立ち上がる黒鋼にユゥイが笑って、ファイもつられて笑顔を浮かべる。彼らが揃って笑うと、辺りにふわりとした甘い空気が立ち込めるような気がして力が抜けた。
二人は手を繋いで、仲良く店に戻っていく。そんな双子の背を見つめたあと、一人残された黒鋼は足元に行儀よく並んだ六つの石を見下ろした。
石遊び自体はやめさせた方がいいだろうが、これからはファイが孤独な過去ではなく、今の幸せだけを考えながら過ごせればいい。
いなくなってしまった人たちを思って石を集めては捨てるのではなく、側にいる誰かを思って、笑っていられれば。
「黒わーん、どうしたのー? 早く来てくれなきゃやだよー」
なかなか戻らない黒鋼に、ファイが少しだけ開けた扉から心配そうな顔を出す。それに手を上げて「おう」と返事をすると、彼は安心したようにふにゃっと笑ってまた消えた。
「黒わん、な」
成り行きとはいえ、これではいつになったら黒わんの役目を卒業できるのか、分かったもんじゃない。
それでもまるで嫌な気持ちがないどころか、緩んでいる口元に気が付いて、黒鋼は両手で頬を幾度か叩く。
そういえば言いつけ通り腹ぺこで来るために、今日は朝から何も口にしていないことを思い出した途端、ぐぅっと腹が鳴った。
なんだかんだで自分もファイが作ったカレーを楽しみにしていたということか。別に大好物というわけではないのだが。
誰に見られていたわけでもないのに咳払いをして、黒鋼も店に戻って行った。
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ファントムの森
NOT宇宙世紀・謎時空&謎世界線の捏造モリモリ謎AU。
家族を奪われ、故郷を追われた少年キャスバルが、迷い込んだ森の中で不思議な青年シャリアと出会って恋する話。
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ゴミ捨て場で推しカプを拾った件
最終決戦直後、ご都合ゼクノヴァで異世界の日本(2025・現代)に飛ばされたシャアシャリが、モブ腐男子に保護されてアパート暮らしをすることになる話。続きを書くかは未定です。