2025/09/11 Thu 01 春日井甲洋には夢がある。 それは綺麗で優しくて、ちょっぴり天然ボケな可愛いお嫁さん(黒髪ロングで巨乳ならなおよし)をもらって、海が一望できる高台に庭付き一戸建てを購入し、子宝にも恵まれて幸せな家庭を築くこと。 ただいまを言えばおかえりと言ってくれる家族がいる暮らし。その日あった出来事や、何気ない会話を楽しみながら全員で囲むあたたかな食卓。笑顔と笑い声がたえない明るい家。 どこにでもあるような、ごくありふれた、だけど誰もが羨むような。そんな理想の家庭を作ることが、甲洋の幼い頃からの憧れだ。 庭では黒柴の子犬を飼いたいと思う。豊かな芝生の絨毯を子供と愛犬が元気に走りまわって遊ぶ姿を、奥さんと一緒に見守りながら穏やかな休日の午後を過ごすのだ。 ひだまりの中にベンチを置いて、そこにふたり並んで腰掛けて。子供たちのはしゃぐ声を聞きながら、いつまでも恋人気分でそっと手を握り合ったりなんかして── などという幸せ妄想に日々明け暮れる甲洋は、二十歳にして恋人いない歴=年齢だった。 けれどそれは決して彼が非モテ男子なわけではなく、むしろ甲洋は子供の頃からそれはそれはよくモテた。ラブレターは毎日のようにもらっていたし、休み時間や放課後に呼び出しを受けて告白されるなんてことも、一度や二度ではなかった。 そして今もなおその人気ぶりは健在だ。 が、甲洋はその全てを律儀に断り続けてきた。 好いてくれるのはありがたいし、とても嬉しく思う。可愛いなと思う子もいたし、まるで気にならなかったわけじゃない。 だけど付き合うとなると、何かが違うような気がしたのだ。ピントがずれたままのレンズを覗き込んでいるみたいに、相手に対しておぼろげな感情を抱くことしかできなかった。 もしもの話。この世界のどこかに『運命の人』と呼べるような相手がいたとして、その相手と出会う瞬間というのは、やはりなにか特別なものを感じたりするのだろうか。 互いが引力に吸い寄せられたように惹かれ合い、「このひとだ」と強く確信を抱くような、決定的な何か。例えば目と目が合った瞬間ビビッと電気が走るとか、頭のなかに鐘の音が響き渡るとか。 もしそんなドラマチックな出会いがあるのだとしたら、死ぬまでに一度は経験してみたいと思う。まるで少女漫画のような発想が、少し恥ずかしい気もするけれど。 とにもかくにも甲洋はいつか巡り合う(かもしれない)運命の人のため、夢である幸せ家族計画のため、真面目にコツコツ勉強をしながらバイトをして、貯金をして、来たる理想の未来に備えている。 しかし今のところ運命の出会いは訪れる気配を見せていない。 大学に通いながら塾講師のアルバイトに勤しむだけの、ごくごく平坦な日常が続いている。 特待生制度を利用して進学した甲洋は学費の面での負担はないが、一人で暮らしていくための生活費は全て自力で捻出する必要があった。 彼の両親は絵に描いたような毒親だったので、仕送りなどの援助はいっさい望めないのだ。 家を出てからは他人も同然で、連絡すら取りあっていない。甲洋自身も最初から期待はしていなかったし、なによりあたたかな家庭を築くという夢に固執する最大の原因は、この毒親たちにこそあるのだった。 * ある朝、土曜日。 十一月が終わりを迎えようとするなか、寒さもよりいっそう厳しさを増してきた。 部屋着の上から軽くネイビーのコートに袖を通しただけの甲洋が、ゴミ袋を片手にゴミ捨て場を訪れると、ギャアギャアと騒がしく数羽のカラスが暴れ狂っている光景に遭遇した。 彼らは黒い羽根をバタつかせ、執拗にゴミを突きまわしている。地面に散乱する野菜カスなどに顔を顰めた甲洋だったが、よくよく見れば群れの中心にあるものがゴミではないことに気がついた。 「やだー! やめて! 痛いよ助けて! 誰か助けてぇー!!」 それは悲痛な声をあげながら、両腕で頭を守るようにして蹲っている人間の姿だった。大きさから見て、おそらくまだ子供だ。 甲洋は一も二もなく駆け寄ると、ゴミ袋を振り回すようにしながらカラスたちを追い払う。 「やめろってこら! あっちに行け!」 ガアガアと掠れた声をあげながら、カラスたちが飛び去っていく。 甲洋はゴミ袋をゴミ山へ投げ捨てると、すぐさま膝をついて丸くなっている少年を抱き起こした。 「しっかり! もう大丈夫だから……って、ネコ?」 人間だとばかり思っていた少年の頭には、尖った獣の耳がついていた。 紅茶にたっぷりとミルクを含ませたような淡い髪色。それとよく似た色味の尖った耳は、今はへにゃりと力なく倒れてしまっている。 土埃にすっかり汚れた白いロングシャツは膝丈だったが、ぺろりと捲くれ上がって太ももまでがむき出しになっていた。ほっそりとした裸足の両足と一緒に、シマシマ模様の長いしっぽが伸びている。先端がくるりと曲がった、愛嬌のあるかぎしっぽだった。 茶トラの子ネコは甲洋の腕のなかでぐったりとして動かない。 痩せっぽちの身体は冷え切っていて、閉じられた瞼を縁取る長い睫毛は涙にしっとりと濡れていた。 その青白い頬に、甲洋の血の気が引いていく。 「まさか、死んで……?」 そう思った瞬間、 「……すぅー、すぅー」 という、安らかな寝息が聞こえて力が抜けた。 子ネコはうっすらと開かれた唇の端から、のんきによだれまで垂らして眠っている。 「ビックリした。人騒がせなやつ……」 そのあどけない寝顔に思わず大きな息を漏らしながら、ふと子ネコの首に赤い首輪がぶら下がる形ではめられていることに気がついた。 革製のそれは酷くくたびれて年季が入っている。サイズから見て、おそらく四足タイプの大型犬につけるものだ。 (ヒト型のネコに首輪……?) それは一般的には珍しいことだった。 犬猫とはいえ、ヒトに近い姿形をしている生き物に首輪をつけることは、倫理上問題があるとして昨今なにかと騒がれているからだ。 首輪をつけたヒト型のイヌネコ画像をSNSに投稿し、飼い主が炎上したという話も最近よく耳にする。甲洋は今どき珍しくそういったものを利用していないので、実際に見たのはこれが初めてのことだった。 とはいえ、首輪は彼が野良ではないことの証明にはなっている。つまり迷いネコということだ。早く飼い主のもとへ返してやらなければ、きっと今ごろ心配しているだろう。 「困ったな」 送り届けてやろうにも、まずは話を聞かないことには身動きがとれない。けれど子ネコはすっかり眠り込んでいる。 どうしたものかと少しばかり途方に暮れながらも、寒空の下こんな薄着でいる幼いネコを放っておけば、どうなるかは目に見えていた。 (……しょうがない) ここはひとまず保護する以外に道はなさそうだ。 甲洋は寝息をたて続ける子ネコを、起こさないようにそうっと静かに抱き上げると、もと来た道を引き返した。 * 自宅である小規模マンションは四階建てで、甲洋の部屋はその二階にあった。 1LDKでそこそこの広さだが、築年数の古さや交通の便があまりよくないことから、家賃はだいぶ抑えられている。 いつもは階段を使うところを、エレベーターを利用して部屋へ戻ると、暖房をつけていたおかげでリビングは暖かな室温が保たれていた。 甲洋はひとまず子ネコの身体をL字ソファのカウチ部分へ横たえさせた。 脱いだコートを腹のあたりにかけてやり、キッチンに向かうとぬるま湯に浸して絞った手拭いを持ってくる。傷ついている場所はないかを確認しながら、顔や手足についた汚れをそれで丁寧に拭き取ってやった。 あらかた終えると自分もソファに腰掛けて、ふっと小さく息をつく。 憔悴しきった様子でこんこんと眠り続ける子ネコは、年の頃はせいぜい15、6といったところだろうか。 髪は艶がなくパサついているし、耳と尻尾の毛並みも悪い。とりわけ足先の汚れが酷かったことから、ずいぶん長いこと外をさまよっていたことが見てとれた。 けれど青白かった肌は少しずつ血色を取り戻し、手足の先も薄桃に染まりつつある。その頬にもうっすらと赤みがさしはじめていることを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。 ふと、例の首輪にも改めて目を向けてみる。さっきは気づかなかったが、よく見ればボロボロにひび割れた側面に、黒いマジックで『操』と書かれていることに気がついた。 「操、か。いい名前だな」 少し不安だったが、わざわざ首輪に名前を記すくらいなのだから、きっと可愛がられていたのだろう。ついでに連絡先のひとつでも記されていれば言うことなしだったのだが。 子ネコは相変わらずすやすやと寝息を立てていた。 その幼い寝顔にふっと笑みをこぼしながら、甲洋はローテーブルの上に置かれた本に手を伸ばし、彼が目覚めるのをただ静かに待つことにした。 * ゴソゴソと、なにかが腹の下あたりで蠢いている気配がする。 (あれ……寝てたのか、俺) ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れたリビングの天井が広がっていた。 本を読んでいるうちに、ソファの背もたれにすっかり首まで預けて眠っていたらしい。 それにしてもなんだろうか。この腰のあたりで何かがもぞもぞと動いている感覚は。 どこかぼうっとしながら首を起こして、視線を下へ移動させる。ピンと尖った耳の先。内側から白が混ざった茶色の毛が生えていて、ふさふさとした茂みから少しだけ、ピンク色の皮膚が覗いている。 ──ネコ。そうだ、今この部屋には、ネコがいる。 「な……?」 足元に、子ネコが。 大きく開かれた甲洋の両足の間に身体を収め、床に女の子のようにペタリと座り込みながら、彼は白い両手を甲洋の下肢に這わせていた。生地の上からそこにあるものを確かめるように幾度か摩り、それから指先をイージーパンツの紐へと伸ばす。摘み上げてスルリとほどき、緩くなったウエスト部分を中の下着ごと掴むと、思いっきりぐいっと引き下げようとした。 「ッ!?」 あわや息子(未使用)が『こんにちは』しそうになった寸でのところで、甲洋は冷水を浴びせられたような気分を味わい、身体を大きく跳ねさせた。 「ちょ、な、なに!?」 咄嗟に上ずった声をあげ、ウエスト部分を押さえながら白い両手を振り払う。そのまま素早く避難して、ソファの端っこギリギリまで身を寄せた。 一体なにが起こったのだろう。いや、起ころうとしていたのだろうか。 今まで感じたことのない類の危機感に、心臓がバクバクと音を立てていた。混乱する頭で目を見開いたままの甲洋に、子ネコがぽかんとしながら丸い瞳を向けてくる。 かっちりと視線が交わった瞬間、甲洋は無意識に息を呑んだ。 「ッ!」 大きな瞳だった。色づいた銀杏並木のような、金色の。 縁取る睫毛はくるりと長くカールしていて、彼がまばたきをするたびに花びらがくるくると瞬いているように見える。 金縛りにあったみたいに身動きができなくて、まるで自分だけが静止した時の中に囚われているようだった。ああ、これが見惚れるということかと理解したとき、背筋になにかが駆け抜ける。 (え) その感覚に呆然とした。 (電気……?) それは甲洋が漠然とした憧れを抱いていた、あの感覚だった。 世界中でたったひとり、出会った瞬間、恋に落ちる。そんな特別な誰かと巡り会えたとき、全身を駆け抜ける痺れと一緒に祝福の鐘が鳴り響く。 頭のなかで、リーンゴーンと、運命を告げる鐘の音が──。 まばたきすら忘れて硬直する甲洋に、子ネコが不思議そうに首を傾げる。くるんと曲がったかぎしっぽは、ちょうどハテナマークのような形に見えた。ゆらりゆらりと、揺れている。 「……いやいやいや」 スッ……と、甲洋は片手を子ネコに向かって翳した。待て、の合図だ。同時に顔をうつむけて、もう片方の手で目元を覆い隠すと、大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐きだしていく。 (待て、落ち着け、今のは違う。違うったら違う) ポーカーフェイスを装っているため分かりにくいが、甲洋の頭は混乱していた。顔中に血液が集まり、赤く火照っていくのを感じる。ドッドッドッ、と心臓が激しく動悸を打っていた。 違う違う。そうじゃない。そう、瞳が綺麗だったから。あんなに綺麗な瞳を見たのは初めてだったから、ちょっと驚いてしまっただけだ。電気なんか走ってないし、鐘の音なんか聞いてない。 たいだいこの子はネコである。黒髪ロングの巨乳でもない(重要)し、そもそもオスだ。 とにかく、無理矢理にでも気のせいということにして片付けることにした。 それよりなにより、今はもっと他に問題にしなければならないことがあるはずだ。 「お前、いま一体なにをしようとしてたわけ……?」 待ての合図を解いて、顔を上げると問いかける。 見ず知らずの他人(しかも寝ている)の股間を、なんの断りもなく(あっても困るが)暴こうだなんて、一体どういう考えがあってのことだろうか。 紐にジャレていたというには少々無理があるような気がする。あの迷いのない手つきには、何かしら明確な『意図』があったようにしか感じられなかった。 それともネコという生き物には、人間の下半身を撫で回して露出させたがる習性でもあるのだろうか……いやそんなバカな。 甲洋が内心でツッコミを入れていると、子ネコはケロリとした顔で言い放つ。 「嬉しくさせようと思っただけだよ」 「……はい?」 「だってお腹が空いたから」 「ごめん、ちょっと意味が分からない」 なんの話をしているのだろう? 甲洋の頭に幾つもの疑問符が浮かぶ。 「人にお願いするときは、まずは相手を嬉しくさせなきゃいけないんでしょ?」 「……嬉しく、とは?」 ごくり。思わず喉を鳴らしてしまう。なぜだかとても嫌な予感がする。この先は聞かないほうがいいんじゃないか。そんな気がしてしょうがない。じわりと額に汗が滲んだ。 子ネコは大きな目をくるくるとさせながら、甲洋の股間を指さした。 「そこ、舐めると嬉しくなるんでしょ?」 ──絶句した。 この子はなにを言っているんだ? それともなにかの聞き間違いか? 童貞をこじらせすぎて、夢と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。少し……いや、かなり虚しい気がするが、きっとそうに違いない。 けれど薄桃の指先は迷いなく股間を指し続けている。股間。甲洋の股間。ここにあるのは── 「おちんちん、舐めたらご飯くれるんじゃないの?」 「~~ッ!?」 天使のような可愛い顔から、爆弾発言が落とされた。 二度目の絶句。全身に激しい稲光が生じたような衝撃を覚える。 その常識外れな内容もさることながら、もしほんの少しでも起きるのが遅れていたら、甲洋の甲洋は今頃どうなっていたのだろう。この可憐な唇のなかに、すっぽり収まっていたということに── 「な、なに言って……!?」 うっかり想像しかけてしまい、反射的に両手で股間を抑えると、気持ち内股気味になりながら声を上ずらせた。得意なはずのポーカーフェイスも忘れ、愕然としながら頬を赤らめる。 おち……ん、を舐めるとかなんとか、この顔で無邪気に言っていいことではないはずだ。じゃあどんな顔なら許されるのかと聞かれても、そうそう答えられる問題ではないのだが。 「なんで? おれなにかおかしなこと言った?」 「おかしいもなにも……いったい誰がそんなことを?」 「誰って、ご主人様だよ。それがヒトとネコが一緒に暮らすためのルール。でしょ?」 「そんなルール聞いたことないけど!?」 咄嗟に声を荒げてしまう。自分でも珍しいほど取り乱しているという自覚はあった。 ご主人様とやらが彼の飼い主をさしていて、男性であることは分かる。しかしこの子が言うルールとやらは、これまでの人生で一度も耳にしたことがなかった。 そんな間違ったルールは、AVやエロ同人の世界にしか存在してはいけないものだ。現実に起こっているのだとしたら、それはただの──。 (虐待じゃないか!) しかし子ネコは自らの行動や言動に、なんら疑問を抱いていない様子だった。冗談を言っているようにも見えない。その真っ直ぐすぎる瞳に、むしろこちらの方が常識を疑われているような気持ちにさせられる。 くうぅ……。 戸惑うあまり言葉を発せないでいると、乾いた音が室内に響き渡った。 子ネコは耳を弱々しくぺたりと寝かせ、眉を下げると両手で腹を押さえている。それからきゅっと下唇を噛みしめて、助けを求めるような上目遣いで甲洋を見上げると、弱々しく「にゃぁ」と鳴いた。 そうだ、この子は腹を空かしているのだ。どうにもざわざわとして気分が落ち着かないが、まずはなにか食べさせてやらなければ。 「わ、わかった。いま食事を用意するから」 「ほんと!? やったー!」 子ネコは嬉しそうに表情を明るくし、床に伏せていた尻尾をピンっと元気よく上向ける。 そうすると丈の長いシャツの裾が引っかかるようにして持ち上がるものだから、うっかり太ももから尻のラインが見えそうになって慌てて目を逸らす。 甲洋は解かれてしまったウエストの紐を結び直すと、にじり寄って来ようとする子ネコから逃れるべく、勢いよく立ち上がった。 「だけど、なにもしなくていい。そこでただおとなしく待っていて」 「え? でも」 「いいから。それが普通なんだから」 「ふつう?」 再びぺたんと床に尻を落ち着け、瞬きをしながら小首を傾げる子ネコを見下ろし、甲洋は「そうだよ」と言って力なく笑うと頷いた。 ←戻る ・ 次へ→
春日井甲洋には夢がある。
それは綺麗で優しくて、ちょっぴり天然ボケな可愛いお嫁さん(黒髪ロングで巨乳ならなおよし)をもらって、海が一望できる高台に庭付き一戸建てを購入し、子宝にも恵まれて幸せな家庭を築くこと。
ただいまを言えばおかえりと言ってくれる家族がいる暮らし。その日あった出来事や、何気ない会話を楽しみながら全員で囲むあたたかな食卓。笑顔と笑い声がたえない明るい家。
どこにでもあるような、ごくありふれた、だけど誰もが羨むような。そんな理想の家庭を作ることが、甲洋の幼い頃からの憧れだ。
庭では黒柴の子犬を飼いたいと思う。豊かな芝生の絨毯を子供と愛犬が元気に走りまわって遊ぶ姿を、奥さんと一緒に見守りながら穏やかな休日の午後を過ごすのだ。
ひだまりの中にベンチを置いて、そこにふたり並んで腰掛けて。子供たちのはしゃぐ声を聞きながら、いつまでも恋人気分でそっと手を握り合ったりなんかして──
などという幸せ妄想に日々明け暮れる甲洋は、二十歳にして恋人いない歴=年齢だった。
けれどそれは決して彼が非モテ男子なわけではなく、むしろ甲洋は子供の頃からそれはそれはよくモテた。ラブレターは毎日のようにもらっていたし、休み時間や放課後に呼び出しを受けて告白されるなんてことも、一度や二度ではなかった。
そして今もなおその人気ぶりは健在だ。
が、甲洋はその全てを律儀に断り続けてきた。
好いてくれるのはありがたいし、とても嬉しく思う。可愛いなと思う子もいたし、まるで気にならなかったわけじゃない。
だけど付き合うとなると、何かが違うような気がしたのだ。ピントがずれたままのレンズを覗き込んでいるみたいに、相手に対しておぼろげな感情を抱くことしかできなかった。
もしもの話。この世界のどこかに『運命の人』と呼べるような相手がいたとして、その相手と出会う瞬間というのは、やはりなにか特別なものを感じたりするのだろうか。
互いが引力に吸い寄せられたように惹かれ合い、「このひとだ」と強く確信を抱くような、決定的な何か。例えば目と目が合った瞬間ビビッと電気が走るとか、頭のなかに鐘の音が響き渡るとか。
もしそんなドラマチックな出会いがあるのだとしたら、死ぬまでに一度は経験してみたいと思う。まるで少女漫画のような発想が、少し恥ずかしい気もするけれど。
とにもかくにも甲洋はいつか巡り合う(かもしれない)運命の人のため、夢である幸せ家族計画のため、真面目にコツコツ勉強をしながらバイトをして、貯金をして、来たる理想の未来に備えている。
しかし今のところ運命の出会いは訪れる気配を見せていない。
大学に通いながら塾講師のアルバイトに勤しむだけの、ごくごく平坦な日常が続いている。
特待生制度を利用して進学した甲洋は学費の面での負担はないが、一人で暮らしていくための生活費は全て自力で捻出する必要があった。
彼の両親は絵に描いたような毒親だったので、仕送りなどの援助はいっさい望めないのだ。
家を出てからは他人も同然で、連絡すら取りあっていない。甲洋自身も最初から期待はしていなかったし、なによりあたたかな家庭を築くという夢に固執する最大の原因は、この毒親たちにこそあるのだった。
*
ある朝、土曜日。
十一月が終わりを迎えようとするなか、寒さもよりいっそう厳しさを増してきた。
部屋着の上から軽くネイビーのコートに袖を通しただけの甲洋が、ゴミ袋を片手にゴミ捨て場を訪れると、ギャアギャアと騒がしく数羽のカラスが暴れ狂っている光景に遭遇した。
彼らは黒い羽根をバタつかせ、執拗にゴミを突きまわしている。地面に散乱する野菜カスなどに顔を顰めた甲洋だったが、よくよく見れば群れの中心にあるものがゴミではないことに気がついた。
「やだー! やめて! 痛いよ助けて! 誰か助けてぇー!!」
それは悲痛な声をあげながら、両腕で頭を守るようにして蹲っている人間の姿だった。大きさから見て、おそらくまだ子供だ。
甲洋は一も二もなく駆け寄ると、ゴミ袋を振り回すようにしながらカラスたちを追い払う。
「やめろってこら! あっちに行け!」
ガアガアと掠れた声をあげながら、カラスたちが飛び去っていく。
甲洋はゴミ袋をゴミ山へ投げ捨てると、すぐさま膝をついて丸くなっている少年を抱き起こした。
「しっかり! もう大丈夫だから……って、ネコ?」
人間だとばかり思っていた少年の頭には、尖った獣の耳がついていた。
紅茶にたっぷりとミルクを含ませたような淡い髪色。それとよく似た色味の尖った耳は、今はへにゃりと力なく倒れてしまっている。
土埃にすっかり汚れた白いロングシャツは膝丈だったが、ぺろりと捲くれ上がって太ももまでがむき出しになっていた。ほっそりとした裸足の両足と一緒に、シマシマ模様の長いしっぽが伸びている。先端がくるりと曲がった、愛嬌のあるかぎしっぽだった。
茶トラの子ネコは甲洋の腕のなかでぐったりとして動かない。
痩せっぽちの身体は冷え切っていて、閉じられた瞼を縁取る長い睫毛は涙にしっとりと濡れていた。
その青白い頬に、甲洋の血の気が引いていく。
「まさか、死んで……?」
そう思った瞬間、
「……すぅー、すぅー」
という、安らかな寝息が聞こえて力が抜けた。
子ネコはうっすらと開かれた唇の端から、のんきによだれまで垂らして眠っている。
「ビックリした。人騒がせなやつ……」
そのあどけない寝顔に思わず大きな息を漏らしながら、ふと子ネコの首に赤い首輪がぶら下がる形ではめられていることに気がついた。
革製のそれは酷くくたびれて年季が入っている。サイズから見て、おそらく四足タイプの大型犬につけるものだ。
(ヒト型のネコに首輪……?)
それは一般的には珍しいことだった。
犬猫とはいえ、ヒトに近い姿形をしている生き物に首輪をつけることは、倫理上問題があるとして昨今なにかと騒がれているからだ。
首輪をつけたヒト型のイヌネコ画像をSNSに投稿し、飼い主が炎上したという話も最近よく耳にする。甲洋は今どき珍しくそういったものを利用していないので、実際に見たのはこれが初めてのことだった。
とはいえ、首輪は彼が野良ではないことの証明にはなっている。つまり迷いネコということだ。早く飼い主のもとへ返してやらなければ、きっと今ごろ心配しているだろう。
「困ったな」
送り届けてやろうにも、まずは話を聞かないことには身動きがとれない。けれど子ネコはすっかり眠り込んでいる。
どうしたものかと少しばかり途方に暮れながらも、寒空の下こんな薄着でいる幼いネコを放っておけば、どうなるかは目に見えていた。
(……しょうがない)
ここはひとまず保護する以外に道はなさそうだ。
甲洋は寝息をたて続ける子ネコを、起こさないようにそうっと静かに抱き上げると、もと来た道を引き返した。
*
自宅である小規模マンションは四階建てで、甲洋の部屋はその二階にあった。
1LDKでそこそこの広さだが、築年数の古さや交通の便があまりよくないことから、家賃はだいぶ抑えられている。
いつもは階段を使うところを、エレベーターを利用して部屋へ戻ると、暖房をつけていたおかげでリビングは暖かな室温が保たれていた。
甲洋はひとまず子ネコの身体をL字ソファのカウチ部分へ横たえさせた。
脱いだコートを腹のあたりにかけてやり、キッチンに向かうとぬるま湯に浸して絞った手拭いを持ってくる。傷ついている場所はないかを確認しながら、顔や手足についた汚れをそれで丁寧に拭き取ってやった。
あらかた終えると自分もソファに腰掛けて、ふっと小さく息をつく。
憔悴しきった様子でこんこんと眠り続ける子ネコは、年の頃はせいぜい15、6といったところだろうか。
髪は艶がなくパサついているし、耳と尻尾の毛並みも悪い。とりわけ足先の汚れが酷かったことから、ずいぶん長いこと外をさまよっていたことが見てとれた。
けれど青白かった肌は少しずつ血色を取り戻し、手足の先も薄桃に染まりつつある。その頬にもうっすらと赤みがさしはじめていることを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。
ふと、例の首輪にも改めて目を向けてみる。さっきは気づかなかったが、よく見ればボロボロにひび割れた側面に、黒いマジックで『操』と書かれていることに気がついた。
「操、か。いい名前だな」
少し不安だったが、わざわざ首輪に名前を記すくらいなのだから、きっと可愛がられていたのだろう。ついでに連絡先のひとつでも記されていれば言うことなしだったのだが。
子ネコは相変わらずすやすやと寝息を立てていた。
その幼い寝顔にふっと笑みをこぼしながら、甲洋はローテーブルの上に置かれた本に手を伸ばし、彼が目覚めるのをただ静かに待つことにした。
*
ゴソゴソと、なにかが腹の下あたりで蠢いている気配がする。
(あれ……寝てたのか、俺)
ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れたリビングの天井が広がっていた。
本を読んでいるうちに、ソファの背もたれにすっかり首まで預けて眠っていたらしい。
それにしてもなんだろうか。この腰のあたりで何かがもぞもぞと動いている感覚は。
どこかぼうっとしながら首を起こして、視線を下へ移動させる。ピンと尖った耳の先。内側から白が混ざった茶色の毛が生えていて、ふさふさとした茂みから少しだけ、ピンク色の皮膚が覗いている。
──ネコ。そうだ、今この部屋には、ネコがいる。
「な……?」
足元に、子ネコが。
大きく開かれた甲洋の両足の間に身体を収め、床に女の子のようにペタリと座り込みながら、彼は白い両手を甲洋の下肢に這わせていた。生地の上からそこにあるものを確かめるように幾度か摩り、それから指先をイージーパンツの紐へと伸ばす。摘み上げてスルリとほどき、緩くなったウエスト部分を中の下着ごと掴むと、思いっきりぐいっと引き下げようとした。
「ッ!?」
あわや息子(未使用)が『こんにちは』しそうになった寸でのところで、甲洋は冷水を浴びせられたような気分を味わい、身体を大きく跳ねさせた。
「ちょ、な、なに!?」
咄嗟に上ずった声をあげ、ウエスト部分を押さえながら白い両手を振り払う。そのまま素早く避難して、ソファの端っこギリギリまで身を寄せた。
一体なにが起こったのだろう。いや、起ころうとしていたのだろうか。
今まで感じたことのない類の危機感に、心臓がバクバクと音を立てていた。混乱する頭で目を見開いたままの甲洋に、子ネコがぽかんとしながら丸い瞳を向けてくる。
かっちりと視線が交わった瞬間、甲洋は無意識に息を呑んだ。
「ッ!」
大きな瞳だった。色づいた銀杏並木のような、金色の。
縁取る睫毛はくるりと長くカールしていて、彼がまばたきをするたびに花びらがくるくると瞬いているように見える。
金縛りにあったみたいに身動きができなくて、まるで自分だけが静止した時の中に囚われているようだった。ああ、これが見惚れるということかと理解したとき、背筋になにかが駆け抜ける。
(え)
その感覚に呆然とした。
(電気……?)
それは甲洋が漠然とした憧れを抱いていた、あの感覚だった。
世界中でたったひとり、出会った瞬間、恋に落ちる。そんな特別な誰かと巡り会えたとき、全身を駆け抜ける痺れと一緒に祝福の鐘が鳴り響く。
頭のなかで、リーンゴーンと、運命を告げる鐘の音が──。
まばたきすら忘れて硬直する甲洋に、子ネコが不思議そうに首を傾げる。くるんと曲がったかぎしっぽは、ちょうどハテナマークのような形に見えた。ゆらりゆらりと、揺れている。
「……いやいやいや」
スッ……と、甲洋は片手を子ネコに向かって翳した。待て、の合図だ。同時に顔をうつむけて、もう片方の手で目元を覆い隠すと、大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐きだしていく。
(待て、落ち着け、今のは違う。違うったら違う)
ポーカーフェイスを装っているため分かりにくいが、甲洋の頭は混乱していた。顔中に血液が集まり、赤く火照っていくのを感じる。ドッドッドッ、と心臓が激しく動悸を打っていた。
違う違う。そうじゃない。そう、瞳が綺麗だったから。あんなに綺麗な瞳を見たのは初めてだったから、ちょっと驚いてしまっただけだ。電気なんか走ってないし、鐘の音なんか聞いてない。
たいだいこの子はネコである。黒髪ロングの巨乳でもない(重要)し、そもそもオスだ。
とにかく、無理矢理にでも気のせいということにして片付けることにした。
それよりなにより、今はもっと他に問題にしなければならないことがあるはずだ。
「お前、いま一体なにをしようとしてたわけ……?」
待ての合図を解いて、顔を上げると問いかける。
見ず知らずの他人(しかも寝ている)の股間を、なんの断りもなく(あっても困るが)暴こうだなんて、一体どういう考えがあってのことだろうか。
紐にジャレていたというには少々無理があるような気がする。あの迷いのない手つきには、何かしら明確な『意図』があったようにしか感じられなかった。
それともネコという生き物には、人間の下半身を撫で回して露出させたがる習性でもあるのだろうか……いやそんなバカな。
甲洋が内心でツッコミを入れていると、子ネコはケロリとした顔で言い放つ。
「嬉しくさせようと思っただけだよ」
「……はい?」
「だってお腹が空いたから」
「ごめん、ちょっと意味が分からない」
なんの話をしているのだろう? 甲洋の頭に幾つもの疑問符が浮かぶ。
「人にお願いするときは、まずは相手を嬉しくさせなきゃいけないんでしょ?」
「……嬉しく、とは?」
ごくり。思わず喉を鳴らしてしまう。なぜだかとても嫌な予感がする。この先は聞かないほうがいいんじゃないか。そんな気がしてしょうがない。じわりと額に汗が滲んだ。
子ネコは大きな目をくるくるとさせながら、甲洋の股間を指さした。
「そこ、舐めると嬉しくなるんでしょ?」
──絶句した。
この子はなにを言っているんだ? それともなにかの聞き間違いか?
童貞をこじらせすぎて、夢と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。少し……いや、かなり虚しい気がするが、きっとそうに違いない。
けれど薄桃の指先は迷いなく股間を指し続けている。股間。甲洋の股間。ここにあるのは──
「おちんちん、舐めたらご飯くれるんじゃないの?」
「~~ッ!?」
天使のような可愛い顔から、爆弾発言が落とされた。
二度目の絶句。全身に激しい稲光が生じたような衝撃を覚える。
その常識外れな内容もさることながら、もしほんの少しでも起きるのが遅れていたら、甲洋の甲洋は今頃どうなっていたのだろう。この可憐な唇のなかに、すっぽり収まっていたということに──
「な、なに言って……!?」
うっかり想像しかけてしまい、反射的に両手で股間を抑えると、気持ち内股気味になりながら声を上ずらせた。得意なはずのポーカーフェイスも忘れ、愕然としながら頬を赤らめる。
おち……ん、を舐めるとかなんとか、この顔で無邪気に言っていいことではないはずだ。じゃあどんな顔なら許されるのかと聞かれても、そうそう答えられる問題ではないのだが。
「なんで? おれなにかおかしなこと言った?」
「おかしいもなにも……いったい誰がそんなことを?」
「誰って、ご主人様だよ。それがヒトとネコが一緒に暮らすためのルール。でしょ?」
「そんなルール聞いたことないけど!?」
咄嗟に声を荒げてしまう。自分でも珍しいほど取り乱しているという自覚はあった。
ご主人様とやらが彼の飼い主をさしていて、男性であることは分かる。しかしこの子が言うルールとやらは、これまでの人生で一度も耳にしたことがなかった。
そんな間違ったルールは、AVやエロ同人の世界にしか存在してはいけないものだ。現実に起こっているのだとしたら、それはただの──。
(虐待じゃないか!)
しかし子ネコは自らの行動や言動に、なんら疑問を抱いていない様子だった。冗談を言っているようにも見えない。その真っ直ぐすぎる瞳に、むしろこちらの方が常識を疑われているような気持ちにさせられる。
くうぅ……。
戸惑うあまり言葉を発せないでいると、乾いた音が室内に響き渡った。
子ネコは耳を弱々しくぺたりと寝かせ、眉を下げると両手で腹を押さえている。それからきゅっと下唇を噛みしめて、助けを求めるような上目遣いで甲洋を見上げると、弱々しく「にゃぁ」と鳴いた。
そうだ、この子は腹を空かしているのだ。どうにもざわざわとして気分が落ち着かないが、まずはなにか食べさせてやらなければ。
「わ、わかった。いま食事を用意するから」
「ほんと!? やったー!」
子ネコは嬉しそうに表情を明るくし、床に伏せていた尻尾をピンっと元気よく上向ける。
そうすると丈の長いシャツの裾が引っかかるようにして持ち上がるものだから、うっかり太ももから尻のラインが見えそうになって慌てて目を逸らす。
甲洋は解かれてしまったウエストの紐を結び直すと、にじり寄って来ようとする子ネコから逃れるべく、勢いよく立ち上がった。
「だけど、なにもしなくていい。そこでただおとなしく待っていて」
「え? でも」
「いいから。それが普通なんだから」
「ふつう?」
再びぺたんと床に尻を落ち着け、瞬きをしながら小首を傾げる子ネコを見下ろし、甲洋は「そうだよ」と言って力なく笑うと頷いた。
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