2025/09/11 Thu 02 冷蔵庫の中にはニンジン、タマネギといった僅かな残り野菜と卵が2個。 甲洋はそれらを全て使い切って炒飯を作ると、かろうじて棚にストックされていたインスタント味噌汁をつけて出してやった。 「わぁ、いいの? これ食べていいの?」 操はテーブルの上と甲洋の顔を交互に見て、潤んだ瞳を輝かせる。ぽっかりと開いた唇の端から今にもよだれがこぼれ落ちそうになっているのを見て、甲洋は苦笑すると頷いた。 「どうぞ。間に合わせで悪いけど」 「やったー! いただきまーす!」 操は相変わらず床にペタリと女の子座りをして、大喜びで炒飯を食べはじめる。 頬を上気させながら、拳で掴み上げたスプーンですくったものに一生懸命「ふーっふーっ」と息を吹きかけてから口に運んでいた。ヒト型でも、ネコはネコ舌ということか。食べやすく冷ましてから出すべきだったなと反省する。 その様子をテーブル越しにあぐらをかいて見つめながら、甲洋の頭のなかはさっきのやり取りが拭えないままだった。 まだどこか半信半疑なのは、それが甲洋が持ち合わせる常識からあまりにも大きくかけ離れているせいだ。子供の、しかもネコに。あんな非常識なことを平然と仕込める人間がこの世にいるということを、どうしても認めたくない自分がいる。 けれど動物への虐待は、獣型でもヒト型でも往々にして社会問題になっているのが現状だ。特にヒト型は性的にもその対象になりやすく、犯罪が横行しているのもまた事実だった。 未成年の少年少女を斡旋して売春させる他、わいせつなビデオを販売するなどのよくある事件が、ヒト型動物でも同様に頻発してニュースで取り上げられては世間を賑わせている。 家庭内など、外からでは目につきにくい場所での犯行ならば、きっと星の数ほどあるだろう。この子のケースもまたその一端でしかないのだ。 (やりきれないな……) 一体どれだけの間まともに食事をしていなかったのだろう。夢中で炒飯を食べる操は、まさにがっつくという表現がピッタリなほど周りが見えていなかった。 そのうち冷ます時間すら惜しくなったのか、熱いのを無視して無理やり口に押し込めるものだから、目尻いっぱいに溜まった涙が今にもこぼれ落ちそうになっている。 それでも彼は必死で食べ続けていた。スプーンを拳で掴むような持ち方をして、皿から米粒を幾つも飛び散らせながら。口の端も汚しているし、猫背になってテーブルに肘を乗せているせいで、味噌汁のカップとぶつかって中身が大きく波打っていた。 食事前のありえないルールは教えられているのに、食事中の基本的なマナーはなにも知らないのだ。 「んぐっ、ケホッ、ゴホッ!」 あまりにも忙しなく食べているものだから、喉を詰まらせた操が咽る。甲洋はそばにあったウェットティッシュのケースを掴むと、腰を上げてその隣へと移動した。膝をつくと優しく背中を擦ってやる。 「慌てないで。ゆっくり食べな」 「ケホッ、ケホッ、んぅ」 「ほら」 並べられていた水のグラスを手にとり、差し出す。操はそれを受け取ると中身を一気に飲み干した。 「ぷは! はぁ……死んじゃうかと思った。ありがとう」 顔を真っ赤にしている操の口元をウェットティッシュで拭うと、ついでにテーブルに飛び散っているものも拭き取ってゴミ箱に放り投げる。 そのまま腰を落ち着けた甲洋は右手を差し出すと、「スプーン貸して」と言った。不思議そうに小首を傾げながらも、操が言われたとおり握っていたスプーンを寄越す。 甲洋はそれを彼がしていたのと同じように、拳で掴む持ち方をして見せた。 「持ち方はこうじゃない。こう。よく見て」 すぐに正しい持ち方をして見せると、操は甲洋の手にぐっと顔を近づける。 「肘はテーブルに置かないように。背中も丸めないで。無理に口の中に詰め込まなくていいから、少しずつよく噛んで食べなきゃ駄目だよ」 「そうなんだ。うん、わかった」 操は素直に頷くと、甲洋からスプーンを受け取って教えられた通りの持ち方を実践しようとした。が、慣れないせいか上手く手に馴染まずに落としてしまう。 「あ、あれぇ……えっと、どうするんだっけ?」 情けなく困り眉になるのと同じ角度で、茶色の耳が垂れ下がる。 甲洋はすぐにスプーンを拾って渡すと、操の身体に腕を回した。手に手をかぶせる形で補助してやりながら、もういちど持ち方を教えてやる。 「ほら、こうだよ」 「わぁ」 感嘆の声をあげた操が嬉しそうに甲洋を見上げた。 やたらと近い距離であの金色の瞳と視線がぶつかる。無意識にとった行動だったが、ずいぶんと身体を密着させていることに今さら気づいて、心臓がドキンと飛び跳ねた。 操の身体は甲洋よりも一回り小さくて、腕の中にすっぽりと収まってしまうサイズだった。手も小さい。甲洋の骨ばった手に比べると、まるでいたいけな少女のようだった。 「ッ!」 意識した途端とんでもなく恥ずかしいことをしているような気がして、慌てて離れる。 「ご、ごめん」 「なんでごめんって言うの?」 「なんでもないよ。いいから食べな」 「うん、見ててね。食べるとこ見てて」 「見てるよ、ちゃんと」 教えられたとおりに食べる姿を見ていてほしいらしい。気を取り直した甲洋はクスリと笑うと、その場から離れることなく操が食事を再開する様子を眺めた。 彼はどこかおぼつかない手つきでスプーンを扱い、背筋を伸ばしてまた炒飯を食べはじめる。いい具合に熱も冷めて、すっかり食べやすくなっているようだった。こぼさないように口に運んで、よく噛んでから飲み込んでいる。 「美味しい?」 「ん! おいしー!」 いい子だなと思った。素直で、純粋で、とても可愛い。 どうしてこんな子に虐待なんかできるのだろう。だけどきっと、こんな子だからなのだとも思う。 まっさらな画用紙は何色にも染まってしまうのだ。そしてこの子は自分がどんな色に染まっているかさえ知らないまま、ただ無邪気に生きている。 ヒト型のイヌやネコは本来ヒトと変わらぬ水準で思考したり、行動したりするだけの知能が備わっているはずだが、操はまるでようやく自我を持ちはじめた子供のように、無知で幼い。 「おいしかった! ごちそうさま!」 冷めた味噌汁まで残さず食べ終えると、操は腹をさすりながら安堵の息をついた。床に伏せられている長いしっぽが、穏やかな動きでゆったりと波打っている。その安心しきった表情に、曇っていた甲洋の心がほんの少しだけ和らいだ。 「親切にしてくれてありがとう。えっと、そうだ。ねぇ、君の名前を教えてよ」 「甲洋だよ。春日井甲洋。どういたしまして」 操は小さな声で幾度か甲洋の名前を繰り返すと、にっこり笑って頷いた。 「甲洋。覚えたよ。おれは──」 「操」 「なんで知ってるの?」 目を丸くした操の首を軽く指差す。それからふと思いたち、甲洋は彼の細い首にぶら下がるようにしてはめられている、古びた首輪を外してやった。 「ほら、ここにお前の名前が書いてある」 「ふぅん。おれの名前ってこんな字書くだ。初めて見たよ。ねぇ、これ外しちゃっていいの?」 「……ボロボロだからさ。気に入ってるなら返すけど」 操は首を左右に振ると「別にいらない」と言った。 その答えにホッとする。大きくて無骨な首輪はただ痛々しいばかりで、最初に見たときからずっと気がかりだったのだ。 「お腹いっぱになったし、なにかお礼をしなくちゃ」 「いいよ、気にしなくても」 「でも……」 操は困った様子で耳を寝かせると、甲洋の身体の中心に視線を向ける。 「ねぇ、本当にしなくていいの? 甲洋のこと、嬉しくさせなくていいの?」 「またその話?」 「だってさ、おれにはそれしかないんだよ。他にあげられるものがないの」 「……ご主人様がそう言ったの?」 こくりと操が頷いた。 「ご主人様はね、本当はメスのネコが欲しかったんだよ。オスは使い物にならないんだって」 「使い物、ね」 最悪だ。吐き気がした。使い物。その意味は想像に難しくない。甲洋はひとつ拳を握りしめ、静かに震える息を吐きだした。 「でも顔だけは可愛いからって、おれに仕事をくれたんだ。ご主人様を嬉しくさせるのがおれの仕事だよ。おれはそれしか役に立たないから、だからちゃんと──」 「もういいよ」 それ以上は言わせたくなくて、操の言葉を遮ると手を伸ばし、その頭をくしゃりと撫でた。 産毛のように短な毛で覆われた耳は、ほんのりと熱を持っている。満腹になったから、少し眠たくなっているのかもしれない。 甲洋の手が離れると、操がことりと首を傾げた。 「どうして怒ってるの?」 「……別に」 「嘘だ。君は怒ってるし、悲しいって思ってる。そうでしょ?」 「ああ、そっか」 いわゆる読心能力と呼ばれるものだ。実際にハッキリと読みとれるわけではないそうだが、イヌやネコには人間の心の動きを敏感に感じとる能力があるらしい。特にヒト型である彼らは感じたものを言葉にすることができるぶん、獣型よりも上位のコミュニケーション能力を有している。 ネコはイヌと比べれば能力そのものは劣るといわれているが、操にも甲洋のおおまかな心の動きくらいは感じとれるようだった。 甲洋はゆっくり大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、緩く首を振ってみせる。 「お前に怒ってるわけじゃない。お前のご主人様に怒ってるんだよ」 「どうして?」 「……聞いて、操。いい? ご飯をもらうときも、食べ終わったあとも、お前がなにかをする必要はないんだ。役に立つとか立たないとか、そんなことは関係ない。それが普通なんだよ」 噛んで含めるように言い聞かせる。けれど操はどこか腑に落ちない様子で首を傾げた。 「でも、そう教わったよ」 「それは嘘。お前は間違ったことを教えられてきただけ」 「うそ?」 操はどこか呆然とした様子で幾度か視線を彷徨わせる。 「ふぅん。そっか、嘘なんだ」 意外にもあっさりと甲洋の言葉を受け止めた彼は、すぐにパッと明るい笑顔を浮かべて甲洋を見た。 「なにもしなくても優しくしてもらえるなんて、ふつうって凄いんだね」 甲洋は咄嗟になにも言うことができなかった。 「あのね、おれ、本当はアレするの嫌いだったんだ。だってあれは苦いし、息ができなくなるし、ご飯の味が分からなくなるんだもん。だから、しなくていいのは嬉しいよ」 操は感動した様子で頬を染め、嬉しそうになおも続けた。 「でも甲洋の炒飯は、すごくすごく美味しかった!」 * それから甲洋は操に幾つかの質問を投げかけた。 飼い主は今どこにいるのか、なぜボロボロの姿であんな場所にいたのか。 操はたどたどしく、拙い語彙で一生懸命に話してくれた。 その結果わかったことは、彼は迷いネコではなく捨てネコであるということだけだった。操は飼い主の男性の名前を含め、自分の家がどこにあるのかすら、いっさい知らなかったのだ。 小さなアパートで完全室内飼いだった操は、家の外に出ることを禁じられていた。 首輪には長い鎖をつけられて柱に固定され、トイレも風呂も、飼い主の許可がなければ自由に行き来することはできない。締め切られたカーテンの隙間から、ときどきこっそり窓の外を眺めるだけの、そんな生活を送っていた。 けれどある日、操は焦った様子の飼い主によって外に連れだされた。 車に乗せられて移動する最中、飼い主がこぼした「大家にバレた」という言葉だけは覚えているそうだが、操は外の景色に夢中でそれどころではなかった。 なにせ普段からずっと部屋のなかに閉じ込められていたのだ。目につくもの全てに胸を踊らせ、窓に張りつきながら移りゆく景色に夢中になっていた。 ずいぶん長いこと車に揺られて、たどり着いたのは見知らぬ大きな公園だった。飼い主はそこで操をおろすと、「用事があるからここでしばらく遊んでろ」と命じ、車を発進させた。 取り残された操はただ素直に喜んで、広い公園のなかを好きなだけ散歩した。やがて飽きてしまうと、ベンチに腰掛けてずっと空を見上げて過ごしていた。 やがて日が暮れる頃、お腹がすいてきた。寒さも耐え難くなってきて、操は飼い主を探しはじめた。車が停車した場所に戻ってしばらく待ってみたが、飼い主は姿を現さない。 どうすることもできず、その場にうずくまって一晩中寒さに震えながら飼い主を待ち続けた。だけど迎えは来なかった。 朝になり、操はあてもなく歩きはじめた。自分がどこから来たのか、その方角すら分からない。見知らぬ土地で、ただなんとなく勘だけを頼りに飼い主を探した。 三日三晩、飲まず食わずで歩き続けた。 夜は狭い路地にある飲食店の換気口に身を寄せて、暖を取りながら漂ってくる美味しそうな匂いを嗅いで過ごした。 その頃にはもう元いた公園の場所すら分からなくなっていた。それでも行くあてのない彼は、たださまよい歩くしかなかった。 体力と空腹が限界を迎えるころ、ゴミ捨て場が目についた。耐えかねた操はなんでもいいから食べ物を探そうとしたが、そこをカラスの集団に襲われたのだ。 身体中を突かれて悲鳴を上げているうちに、意識がだんだん遠のいてきた。そこから先の記憶はなく、目が覚めたら見知らぬ部屋で、見知らぬ男が居眠りをしていたというわけである。 * 操が食べ終えた食器を片したあと、甲洋はコーヒーを淹れてソファへ深く腰掛けた。 やるせない気持ちで深い息を漏らす。同時に憤りも覚えていた。 飼い主が漏らしたという呟きから察するに、彼が暮らしていたアパートはペットの飼育を禁じられていたのだろう。それがなんらかの理由で家主の知るところとなった。 結果、飼い主は操を手放すことを選択した。この冬の寒い時期に、そうそう帰っては来られないよう、わざわざ車で遠方まで足を運んで彼を置き去りにしたのだ。 (……俺も捨てられてたのかな) ふと、今は連絡すら取りあっていない両親のことを思いだした。 もし自分がネコだったら。あるいはイヌだったら。あの両親のことだから、飼いきれないと思えばなんの躊躇いもなく甲洋を捨てただろう。 操はなんでもないことのようにあっけらかんとしていたが、それは本人が自覚できていないだけなのだ。愛情をかけてもらえず、ただ厄介者のように扱われる苦しみを、甲洋はよく知っていた。 だけど甲洋には一人で生きていくだけの力がある。術がある。だから自らの意思で家を出た。けれどあの子にはそれがない。飼い主に依存しなければ、まともに生きてはいけないのだ。 その違いさえ除けば、自分も彼もそう変わらないような気がしていた。 「さて、どうしようか」 ぽつりとこぼしながら、気休めにコーヒーをひとくち飲む。少し濃く淹れすぎたようで、口の中に嫌な苦味が広がった。わずかに顔をしかめながら、頭にあるのは操の今後のことだった。 彼を捨てた男についてはどうにも腹に据えかねるとはいえ、今は操がこれからの一生を安心して暮らせるよう、手を尽くすことを第一に考えるべきだ。 このマンションはペットの飼育を禁止されているため、長く置いておくことはできない。けれど保護した以上は責任がある。 甲洋は再び深い息を漏らし、キッチン横にある廊下の扉へ目をやった。 操は風呂に入っている。そのくらいの生活動作は備わっているようで、正直ホッとした。 タオルと新しい着替えは、頃合いをみて今しがた置いてきたばかりだ。甲洋のものだからサイズは大きいだろうが、他にないので仕方ない。 汚れたシャツはほとんどボロ雑巾に近い状態とはいえ、なんの了承もなく処分するのは気が引けて、迷った末に袋に入れて置いてある。 「甲洋! 甲洋ー!」 そのとき、廊下の奥から声がした。バタバタと足音を響かせながら近づいてくる気配に、手にしていたカップをテーブルに置く。 「操? ちゃんとあったまった?」 「大変だ甲洋!」 バタン、と勢いよく扉が開く。飛び込んできた操は、なぜか素っ裸だった。 「ッ!?」 「服がある! 知らない服があるよ!!」 全身ずぶ濡れの操が、床を水浸しにしながら廊下の奥にある浴室の方向を指さして叫んだ。 「ば、バカ! お前、なんでそんな格好で出てくるわけ!?」 普段、甲洋は滅多に声を荒げない。動揺することだってほとんどない。感情を押し殺すのは得意なほうだと自負している。だけどこの子といると、どうも調子が狂ってしまう。 「服は!? 服! 置いといたはずだけど!?」 甲洋は両手で顔を覆うと慌てて顔を背ける。 どうしてか、見てはいけないものを見てしまったような気がしてならない。 操はオスなわけだし、裸を見たところでどうということはないはずだ。未発達で毛も生えていなかったが、甲洋だって基本的には同じブツを持っている。胸だってぺったんこで、膨らみひとつない。なのにこうも酷い罪悪感に苛まれてしまうのはなぜだろう。 しかし操はそれどころじゃない様子だった。彼はどういうわけか、ひどく興奮している。 「あったよ! 置いてあった! でも、あれはおれのじゃないよ!」 「せっかく風呂に入ったのに、汚れた服なんか着たら意味がないだろ!」 「じゃあ、あれはおれが着てもいいってこと!?」 「それ以外にある!?」 「甲洋~!」 操は感極まった様子で甲洋の名を呼び、それから勢いよく飛びかかってきた。 両手ですっかり顔を覆っていた甲洋は、咄嗟にそれを避けることができなかった。突然の衝撃に、悲鳴すら上げられない。 ふたりの身体が折り重なるようにしてソファになだれ込んだ。細い両腕が、ぎゅうと首に絡みついている。 「~~ッ!!」 「新しい服! 嬉しい! ありがと、甲洋!」 別に新品というわけではないのだが。大喜びの彼には関係ないようだった。 操の身体はずぶ濡れで、ピンとまっすぐ上向けられたしっぽからも、髪からも、水が大量に滴り落ちている。床もソファも、そして甲洋もすっかりびしょ濡れになっていた。 だけど構っていられない。そんなことは、この状況においては些細なことだ。 ぴったりと密着した身体からは石鹸の香りがする。その肌の感触が、熱が、水分と一緒にじんわりと染み入るように伝わってきて、目眩がした。 「ねぇ、ここって天国?」 操は上体を起こして甲洋の胸に手をつくと、身を乗り出すようにして顔を覗き込んできた。水分を含んで色味を濃くした髪の毛先から、伝い落ちた雫が甲洋の頬に落ちてくる。 蕩けたように潤んだ琥珀が嬉しそうに細められ、跳ねていた甲洋の心臓を鷲掴む。息ができない。やっぱり綺麗だ。その瞳に吸い込まれそうになる。 「おれ、甲洋のこと好き。優しくて、なんでも教えてくれるから」 好き、という言葉に、肌が粟立ち痺れが走る。掴まれたままの心臓を、ひどく揺さぶられたような気がした。 落ち着け、落ち着け、と念じながら、甲洋は震える息を吐きだすと緩く首を左右に振った。 「別に、優しくなんか」 絞り出した否定の言葉に、操は「うぅん」と小さく唸りながら首を振る。 「優しいよ。優しくて、やわらかくて──ちょっと壊れそう」 ああ、なぜかまた。 頭のなかで、鐘の音が鳴り響いていた。 ←戻る ・ 次へ→
冷蔵庫の中にはニンジン、タマネギといった僅かな残り野菜と卵が2個。
甲洋はそれらを全て使い切って炒飯を作ると、かろうじて棚にストックされていたインスタント味噌汁をつけて出してやった。
「わぁ、いいの? これ食べていいの?」
操はテーブルの上と甲洋の顔を交互に見て、潤んだ瞳を輝かせる。ぽっかりと開いた唇の端から今にもよだれがこぼれ落ちそうになっているのを見て、甲洋は苦笑すると頷いた。
「どうぞ。間に合わせで悪いけど」
「やったー! いただきまーす!」
操は相変わらず床にペタリと女の子座りをして、大喜びで炒飯を食べはじめる。
頬を上気させながら、拳で掴み上げたスプーンですくったものに一生懸命「ふーっふーっ」と息を吹きかけてから口に運んでいた。ヒト型でも、ネコはネコ舌ということか。食べやすく冷ましてから出すべきだったなと反省する。
その様子をテーブル越しにあぐらをかいて見つめながら、甲洋の頭のなかはさっきのやり取りが拭えないままだった。
まだどこか半信半疑なのは、それが甲洋が持ち合わせる常識からあまりにも大きくかけ離れているせいだ。子供の、しかもネコに。あんな非常識なことを平然と仕込める人間がこの世にいるということを、どうしても認めたくない自分がいる。
けれど動物への虐待は、獣型でもヒト型でも往々にして社会問題になっているのが現状だ。特にヒト型は性的にもその対象になりやすく、犯罪が横行しているのもまた事実だった。
未成年の少年少女を斡旋して売春させる他、わいせつなビデオを販売するなどのよくある事件が、ヒト型動物でも同様に頻発してニュースで取り上げられては世間を賑わせている。
家庭内など、外からでは目につきにくい場所での犯行ならば、きっと星の数ほどあるだろう。この子のケースもまたその一端でしかないのだ。
(やりきれないな……)
一体どれだけの間まともに食事をしていなかったのだろう。夢中で炒飯を食べる操は、まさにがっつくという表現がピッタリなほど周りが見えていなかった。
そのうち冷ます時間すら惜しくなったのか、熱いのを無視して無理やり口に押し込めるものだから、目尻いっぱいに溜まった涙が今にもこぼれ落ちそうになっている。
それでも彼は必死で食べ続けていた。スプーンを拳で掴むような持ち方をして、皿から米粒を幾つも飛び散らせながら。口の端も汚しているし、猫背になってテーブルに肘を乗せているせいで、味噌汁のカップとぶつかって中身が大きく波打っていた。
食事前のありえないルールは教えられているのに、食事中の基本的なマナーはなにも知らないのだ。
「んぐっ、ケホッ、ゴホッ!」
あまりにも忙しなく食べているものだから、喉を詰まらせた操が咽る。甲洋はそばにあったウェットティッシュのケースを掴むと、腰を上げてその隣へと移動した。膝をつくと優しく背中を擦ってやる。
「慌てないで。ゆっくり食べな」
「ケホッ、ケホッ、んぅ」
「ほら」
並べられていた水のグラスを手にとり、差し出す。操はそれを受け取ると中身を一気に飲み干した。
「ぷは! はぁ……死んじゃうかと思った。ありがとう」
顔を真っ赤にしている操の口元をウェットティッシュで拭うと、ついでにテーブルに飛び散っているものも拭き取ってゴミ箱に放り投げる。
そのまま腰を落ち着けた甲洋は右手を差し出すと、「スプーン貸して」と言った。不思議そうに小首を傾げながらも、操が言われたとおり握っていたスプーンを寄越す。
甲洋はそれを彼がしていたのと同じように、拳で掴む持ち方をして見せた。
「持ち方はこうじゃない。こう。よく見て」
すぐに正しい持ち方をして見せると、操は甲洋の手にぐっと顔を近づける。
「肘はテーブルに置かないように。背中も丸めないで。無理に口の中に詰め込まなくていいから、少しずつよく噛んで食べなきゃ駄目だよ」
「そうなんだ。うん、わかった」
操は素直に頷くと、甲洋からスプーンを受け取って教えられた通りの持ち方を実践しようとした。が、慣れないせいか上手く手に馴染まずに落としてしまう。
「あ、あれぇ……えっと、どうするんだっけ?」
情けなく困り眉になるのと同じ角度で、茶色の耳が垂れ下がる。
甲洋はすぐにスプーンを拾って渡すと、操の身体に腕を回した。手に手をかぶせる形で補助してやりながら、もういちど持ち方を教えてやる。
「ほら、こうだよ」
「わぁ」
感嘆の声をあげた操が嬉しそうに甲洋を見上げた。
やたらと近い距離であの金色の瞳と視線がぶつかる。無意識にとった行動だったが、ずいぶんと身体を密着させていることに今さら気づいて、心臓がドキンと飛び跳ねた。
操の身体は甲洋よりも一回り小さくて、腕の中にすっぽりと収まってしまうサイズだった。手も小さい。甲洋の骨ばった手に比べると、まるでいたいけな少女のようだった。
「ッ!」
意識した途端とんでもなく恥ずかしいことをしているような気がして、慌てて離れる。
「ご、ごめん」
「なんでごめんって言うの?」
「なんでもないよ。いいから食べな」
「うん、見ててね。食べるとこ見てて」
「見てるよ、ちゃんと」
教えられたとおりに食べる姿を見ていてほしいらしい。気を取り直した甲洋はクスリと笑うと、その場から離れることなく操が食事を再開する様子を眺めた。
彼はどこかおぼつかない手つきでスプーンを扱い、背筋を伸ばしてまた炒飯を食べはじめる。いい具合に熱も冷めて、すっかり食べやすくなっているようだった。こぼさないように口に運んで、よく噛んでから飲み込んでいる。
「美味しい?」
「ん! おいしー!」
いい子だなと思った。素直で、純粋で、とても可愛い。
どうしてこんな子に虐待なんかできるのだろう。だけどきっと、こんな子だからなのだとも思う。
まっさらな画用紙は何色にも染まってしまうのだ。そしてこの子は自分がどんな色に染まっているかさえ知らないまま、ただ無邪気に生きている。
ヒト型のイヌやネコは本来ヒトと変わらぬ水準で思考したり、行動したりするだけの知能が備わっているはずだが、操はまるでようやく自我を持ちはじめた子供のように、無知で幼い。
「おいしかった! ごちそうさま!」
冷めた味噌汁まで残さず食べ終えると、操は腹をさすりながら安堵の息をついた。床に伏せられている長いしっぽが、穏やかな動きでゆったりと波打っている。その安心しきった表情に、曇っていた甲洋の心がほんの少しだけ和らいだ。
「親切にしてくれてありがとう。えっと、そうだ。ねぇ、君の名前を教えてよ」
「甲洋だよ。春日井甲洋。どういたしまして」
操は小さな声で幾度か甲洋の名前を繰り返すと、にっこり笑って頷いた。
「甲洋。覚えたよ。おれは──」
「操」
「なんで知ってるの?」
目を丸くした操の首を軽く指差す。それからふと思いたち、甲洋は彼の細い首にぶら下がるようにしてはめられている、古びた首輪を外してやった。
「ほら、ここにお前の名前が書いてある」
「ふぅん。おれの名前ってこんな字書くだ。初めて見たよ。ねぇ、これ外しちゃっていいの?」
「……ボロボロだからさ。気に入ってるなら返すけど」
操は首を左右に振ると「別にいらない」と言った。
その答えにホッとする。大きくて無骨な首輪はただ痛々しいばかりで、最初に見たときからずっと気がかりだったのだ。
「お腹いっぱになったし、なにかお礼をしなくちゃ」
「いいよ、気にしなくても」
「でも……」
操は困った様子で耳を寝かせると、甲洋の身体の中心に視線を向ける。
「ねぇ、本当にしなくていいの? 甲洋のこと、嬉しくさせなくていいの?」
「またその話?」
「だってさ、おれにはそれしかないんだよ。他にあげられるものがないの」
「……ご主人様がそう言ったの?」
こくりと操が頷いた。
「ご主人様はね、本当はメスのネコが欲しかったんだよ。オスは使い物にならないんだって」
「使い物、ね」
最悪だ。吐き気がした。使い物。その意味は想像に難しくない。甲洋はひとつ拳を握りしめ、静かに震える息を吐きだした。
「でも顔だけは可愛いからって、おれに仕事をくれたんだ。ご主人様を嬉しくさせるのがおれの仕事だよ。おれはそれしか役に立たないから、だからちゃんと──」
「もういいよ」
それ以上は言わせたくなくて、操の言葉を遮ると手を伸ばし、その頭をくしゃりと撫でた。
産毛のように短な毛で覆われた耳は、ほんのりと熱を持っている。満腹になったから、少し眠たくなっているのかもしれない。
甲洋の手が離れると、操がことりと首を傾げた。
「どうして怒ってるの?」
「……別に」
「嘘だ。君は怒ってるし、悲しいって思ってる。そうでしょ?」
「ああ、そっか」
いわゆる読心能力と呼ばれるものだ。実際にハッキリと読みとれるわけではないそうだが、イヌやネコには人間の心の動きを敏感に感じとる能力があるらしい。特にヒト型である彼らは感じたものを言葉にすることができるぶん、獣型よりも上位のコミュニケーション能力を有している。
ネコはイヌと比べれば能力そのものは劣るといわれているが、操にも甲洋のおおまかな心の動きくらいは感じとれるようだった。
甲洋はゆっくり大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、緩く首を振ってみせる。
「お前に怒ってるわけじゃない。お前のご主人様に怒ってるんだよ」
「どうして?」
「……聞いて、操。いい? ご飯をもらうときも、食べ終わったあとも、お前がなにかをする必要はないんだ。役に立つとか立たないとか、そんなことは関係ない。それが普通なんだよ」
噛んで含めるように言い聞かせる。けれど操はどこか腑に落ちない様子で首を傾げた。
「でも、そう教わったよ」
「それは嘘。お前は間違ったことを教えられてきただけ」
「うそ?」
操はどこか呆然とした様子で幾度か視線を彷徨わせる。
「ふぅん。そっか、嘘なんだ」
意外にもあっさりと甲洋の言葉を受け止めた彼は、すぐにパッと明るい笑顔を浮かべて甲洋を見た。
「なにもしなくても優しくしてもらえるなんて、ふつうって凄いんだね」
甲洋は咄嗟になにも言うことができなかった。
「あのね、おれ、本当はアレするの嫌いだったんだ。だってあれは苦いし、息ができなくなるし、ご飯の味が分からなくなるんだもん。だから、しなくていいのは嬉しいよ」
操は感動した様子で頬を染め、嬉しそうになおも続けた。
「でも甲洋の炒飯は、すごくすごく美味しかった!」
*
それから甲洋は操に幾つかの質問を投げかけた。
飼い主は今どこにいるのか、なぜボロボロの姿であんな場所にいたのか。
操はたどたどしく、拙い語彙で一生懸命に話してくれた。
その結果わかったことは、彼は迷いネコではなく捨てネコであるということだけだった。操は飼い主の男性の名前を含め、自分の家がどこにあるのかすら、いっさい知らなかったのだ。
小さなアパートで完全室内飼いだった操は、家の外に出ることを禁じられていた。
首輪には長い鎖をつけられて柱に固定され、トイレも風呂も、飼い主の許可がなければ自由に行き来することはできない。締め切られたカーテンの隙間から、ときどきこっそり窓の外を眺めるだけの、そんな生活を送っていた。
けれどある日、操は焦った様子の飼い主によって外に連れだされた。
車に乗せられて移動する最中、飼い主がこぼした「大家にバレた」という言葉だけは覚えているそうだが、操は外の景色に夢中でそれどころではなかった。
なにせ普段からずっと部屋のなかに閉じ込められていたのだ。目につくもの全てに胸を踊らせ、窓に張りつきながら移りゆく景色に夢中になっていた。
ずいぶん長いこと車に揺られて、たどり着いたのは見知らぬ大きな公園だった。飼い主はそこで操をおろすと、「用事があるからここでしばらく遊んでろ」と命じ、車を発進させた。
取り残された操はただ素直に喜んで、広い公園のなかを好きなだけ散歩した。やがて飽きてしまうと、ベンチに腰掛けてずっと空を見上げて過ごしていた。
やがて日が暮れる頃、お腹がすいてきた。寒さも耐え難くなってきて、操は飼い主を探しはじめた。車が停車した場所に戻ってしばらく待ってみたが、飼い主は姿を現さない。
どうすることもできず、その場にうずくまって一晩中寒さに震えながら飼い主を待ち続けた。だけど迎えは来なかった。
朝になり、操はあてもなく歩きはじめた。自分がどこから来たのか、その方角すら分からない。見知らぬ土地で、ただなんとなく勘だけを頼りに飼い主を探した。
三日三晩、飲まず食わずで歩き続けた。
夜は狭い路地にある飲食店の換気口に身を寄せて、暖を取りながら漂ってくる美味しそうな匂いを嗅いで過ごした。
その頃にはもう元いた公園の場所すら分からなくなっていた。それでも行くあてのない彼は、たださまよい歩くしかなかった。
体力と空腹が限界を迎えるころ、ゴミ捨て場が目についた。耐えかねた操はなんでもいいから食べ物を探そうとしたが、そこをカラスの集団に襲われたのだ。
身体中を突かれて悲鳴を上げているうちに、意識がだんだん遠のいてきた。そこから先の記憶はなく、目が覚めたら見知らぬ部屋で、見知らぬ男が居眠りをしていたというわけである。
*
操が食べ終えた食器を片したあと、甲洋はコーヒーを淹れてソファへ深く腰掛けた。
やるせない気持ちで深い息を漏らす。同時に憤りも覚えていた。
飼い主が漏らしたという呟きから察するに、彼が暮らしていたアパートはペットの飼育を禁じられていたのだろう。それがなんらかの理由で家主の知るところとなった。
結果、飼い主は操を手放すことを選択した。この冬の寒い時期に、そうそう帰っては来られないよう、わざわざ車で遠方まで足を運んで彼を置き去りにしたのだ。
(……俺も捨てられてたのかな)
ふと、今は連絡すら取りあっていない両親のことを思いだした。
もし自分がネコだったら。あるいはイヌだったら。あの両親のことだから、飼いきれないと思えばなんの躊躇いもなく甲洋を捨てただろう。
操はなんでもないことのようにあっけらかんとしていたが、それは本人が自覚できていないだけなのだ。愛情をかけてもらえず、ただ厄介者のように扱われる苦しみを、甲洋はよく知っていた。
だけど甲洋には一人で生きていくだけの力がある。術がある。だから自らの意思で家を出た。けれどあの子にはそれがない。飼い主に依存しなければ、まともに生きてはいけないのだ。
その違いさえ除けば、自分も彼もそう変わらないような気がしていた。
「さて、どうしようか」
ぽつりとこぼしながら、気休めにコーヒーをひとくち飲む。少し濃く淹れすぎたようで、口の中に嫌な苦味が広がった。わずかに顔をしかめながら、頭にあるのは操の今後のことだった。
彼を捨てた男についてはどうにも腹に据えかねるとはいえ、今は操がこれからの一生を安心して暮らせるよう、手を尽くすことを第一に考えるべきだ。
このマンションはペットの飼育を禁止されているため、長く置いておくことはできない。けれど保護した以上は責任がある。
甲洋は再び深い息を漏らし、キッチン横にある廊下の扉へ目をやった。
操は風呂に入っている。そのくらいの生活動作は備わっているようで、正直ホッとした。
タオルと新しい着替えは、頃合いをみて今しがた置いてきたばかりだ。甲洋のものだからサイズは大きいだろうが、他にないので仕方ない。
汚れたシャツはほとんどボロ雑巾に近い状態とはいえ、なんの了承もなく処分するのは気が引けて、迷った末に袋に入れて置いてある。
「甲洋! 甲洋ー!」
そのとき、廊下の奥から声がした。バタバタと足音を響かせながら近づいてくる気配に、手にしていたカップをテーブルに置く。
「操? ちゃんとあったまった?」
「大変だ甲洋!」
バタン、と勢いよく扉が開く。飛び込んできた操は、なぜか素っ裸だった。
「ッ!?」
「服がある! 知らない服があるよ!!」
全身ずぶ濡れの操が、床を水浸しにしながら廊下の奥にある浴室の方向を指さして叫んだ。
「ば、バカ! お前、なんでそんな格好で出てくるわけ!?」
普段、甲洋は滅多に声を荒げない。動揺することだってほとんどない。感情を押し殺すのは得意なほうだと自負している。だけどこの子といると、どうも調子が狂ってしまう。
「服は!? 服! 置いといたはずだけど!?」
甲洋は両手で顔を覆うと慌てて顔を背ける。
どうしてか、見てはいけないものを見てしまったような気がしてならない。
操はオスなわけだし、裸を見たところでどうということはないはずだ。未発達で毛も生えていなかったが、甲洋だって基本的には同じブツを持っている。胸だってぺったんこで、膨らみひとつない。なのにこうも酷い罪悪感に苛まれてしまうのはなぜだろう。
しかし操はそれどころじゃない様子だった。彼はどういうわけか、ひどく興奮している。
「あったよ! 置いてあった! でも、あれはおれのじゃないよ!」
「せっかく風呂に入ったのに、汚れた服なんか着たら意味がないだろ!」
「じゃあ、あれはおれが着てもいいってこと!?」
「それ以外にある!?」
「甲洋~!」
操は感極まった様子で甲洋の名を呼び、それから勢いよく飛びかかってきた。
両手ですっかり顔を覆っていた甲洋は、咄嗟にそれを避けることができなかった。突然の衝撃に、悲鳴すら上げられない。
ふたりの身体が折り重なるようにしてソファになだれ込んだ。細い両腕が、ぎゅうと首に絡みついている。
「~~ッ!!」
「新しい服! 嬉しい! ありがと、甲洋!」
別に新品というわけではないのだが。大喜びの彼には関係ないようだった。
操の身体はずぶ濡れで、ピンとまっすぐ上向けられたしっぽからも、髪からも、水が大量に滴り落ちている。床もソファも、そして甲洋もすっかりびしょ濡れになっていた。
だけど構っていられない。そんなことは、この状況においては些細なことだ。
ぴったりと密着した身体からは石鹸の香りがする。その肌の感触が、熱が、水分と一緒にじんわりと染み入るように伝わってきて、目眩がした。
「ねぇ、ここって天国?」
操は上体を起こして甲洋の胸に手をつくと、身を乗り出すようにして顔を覗き込んできた。水分を含んで色味を濃くした髪の毛先から、伝い落ちた雫が甲洋の頬に落ちてくる。
蕩けたように潤んだ琥珀が嬉しそうに細められ、跳ねていた甲洋の心臓を鷲掴む。息ができない。やっぱり綺麗だ。その瞳に吸い込まれそうになる。
「おれ、甲洋のこと好き。優しくて、なんでも教えてくれるから」
好き、という言葉に、肌が粟立ち痺れが走る。掴まれたままの心臓を、ひどく揺さぶられたような気がした。
落ち着け、落ち着け、と念じながら、甲洋は震える息を吐きだすと緩く首を左右に振った。
「別に、優しくなんか」
絞り出した否定の言葉に、操は「うぅん」と小さく唸りながら首を振る。
「優しいよ。優しくて、やわらかくて──ちょっと壊れそう」
ああ、なぜかまた。
頭のなかで、鐘の音が鳴り響いていた。
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