2025/09/11 Thu 07 そこから一騎のアパートまで、全速力で走って30分とかからなかった。 階段を駆け上り、つい先日訪れたばかりの部屋のドアを何度も叩く。 「一騎! 俺だ! 開けてくれ!」 すると扉を開けて顔を出したのは、えらく迷惑そうな顔をした総士だった。 「総士、操は?」 「いいからまずは入れ。近所迷惑だ」 総士は軽く顎をしゃくるようにして甲洋を中に招き入れた。先日初めて会ったときよりも、心なしかやつれて見えるのは気のせいだろうか。髪も引っ掻き回されたように乱れているし、表情に疲れが滲んでいる。毛足の長いしっぽが、苛立ったように左右に激しく揺れていた。 甲洋は促されるまま中に入ると、先をいく総士を追って部屋へと足を踏み入れた。するとそこには──。 「この通り、やつなら寝てる」 「……これは、どういう状況?」 目の前の光景に困惑しながら、甲洋は口元を引きつらせた。 操はのんきに眠りこけていた。買ってやったばかりの赤いパーカーを着て、カーキ色のパンツを履いて、ベッドでぬくぬくと幸せそうに。 が、それだけではない。彼はなぜか一騎に腕枕をされていた。ぴったりと身を寄せて、すっかり安心しきっている。そして一騎も一騎でなぜか爆睡していた。 通話を終えてわずか30分足らずである。それがどうしてこうなった……。 「それは僕が聞きたい」 総士は極めて不愉快そうに吐き捨てた。 甲洋は全く状況が飲み込めない。操が親友とひとつのベッドで眠っているという捨て置けない事実もさることながら、そもそもどうしてこの子がここにいるのか。 立ち尽くす甲洋に、総士はため息を漏らすと「とりあえず座れ」と言った。それから台所へと消えてしまう。 しかたなく、甲洋は言われたとおり床に腰をおろした。 ベッドの上をジリジリと睨みつけながら待つこと数分。 総士がお茶を淹れて運んできた。この子は家事ができるのか。大人びてはいるが操とそう歳が変わらないように見えるのに、大したものだと思わず感心してしまう。 「ありがとう。凄いな、総士は」 「このくらい赤ん坊だってできる」 「え? ああ……うん」 うちの操には無理だなぁ……と思ったが、なんとなく悔しいので黙っておいた。そもそもキッチンに立たせたことがないなんて言ったら、猛烈にバカにされそうな気がする。 (うちの操、か……) ふと漏れたため息が、湯呑みから立ち上る白い湯気を掻き乱す。 総士はソファにドカリと腰をおろして足を組み、さらに両手を組むと膝にかぶせた。 「とんだやんちゃ坊主だな。最初は死にそうな顔をしていたくせに」 「死にそう……? 操は、どうしてここに?」 「一騎が拾った。僕もその場に同行していたが」 総士は不服そうな表情を崩すことなく、操を保護した経緯を話してくれた。 操を見つけたのはこの近くのスーパーの出入り口だった。総士は一騎と一緒に買い物に訪れていて、自動ドアの横にうずくまっていた操を見つけたのは一騎だった。 「最初は野良かと思ったよ。裸足だったからな」 総士は操を気にする一騎に放っておけと言った。いちいち野良ネコを気にかけていたらキリがない。だが一騎は操の身なりが綺麗なことから、どこかの飼いネコが迷子になっているのかもしれないと考え、声をかけた。 どこから来たのか、飼い主はどこにいるのか。そう訪ねると、彼はしばらく迷った末にただ首を横に振った。なにを問いかけても、そうやって首を振り続けるだけでなにも言わない。 やがてみるみるうちに涙をためて、ついには泣きだした。困り果てた一騎はさながら犬のお巡りさんだった。 見かねた総士は仕方なく心に直接問いかけた。操は心を閉ざしていたため、その背景をうかがい知ることはできなかったが、かろうじて自分の名前だけは答えたという。 その名を聞いて、すぐにピンときた。甲洋が先日ここで話していた捨てネコと、同じ名前。茶トラの鍵しっぽという点も一致していた。 なにかしら事情があるのだろうと、一騎と総士はひとまず操を自宅に連れ帰って保護することにした。 操はずっとふさぎ込んだ様子でいたが、一騎カレーを出すと急に目の色を変えた。わっと声をあげ、カレーを口にすると「この味知ってる!」と言って夢中で食べた。おかわりもした。 食後、一騎が片付けをしているあいだ総士は操に懐かれていた。彼はしきりに総士の匂いを嗅いで、「君の匂いも知ってる!」と言った。それから、めちゃくちゃジャレつかれた。 今まで同族と接したことがなかったからかもしれない。歳も近いし、友達ができたことが──かなり一方的だが──嬉しかったのだろう。 「それでボロボロだったんだね、お前……」 総士も総士で、操のようなタイプと接したことがなかったのかもしれない。髪もめちゃくちゃで、疲れ切った様子だったのは、操の相手をさせられていたからだったのだ。 さんざん食べてさんざん遊んで、疲れた操はやがて総士の髪を引っ掴んだまま船を漕ぎだした。片付けを終え、甲洋に連絡を入れて戻ってきた一騎が操をベッドに寝かせようとしたが、操は一騎にしがみついて離れようとしなかった。 無理に剥がそうとすると赤ん坊のようにぐずるので、結局そのまま抱いて寝かしつけるしかなかった。 「で、そのうち一騎まで寝たと?」 総士は眉間に深く皺を刻み、鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。 彼としてもそりゃあ面白くないだろう。めちゃくちゃにペースを乱されたあげく、大好きな飼い主と寝床まで占領されてしまったのだから。 けれどそれは甲洋も同じだった。あれだけ心配させておいて、蓋を開けたらたらふくカレーを食ったあげく、他の男にしがみついてのんきに寝ているのだから。 本音を言えば今すぐにでも引っ剥がしてやりたいところだが、そもそもこうなったのは甲洋に責任があるのだ。とはいえこのままジリジリと待ち続けるというのも、それはそれで正直しんどい。 甲洋の複雑な胸中を感じ取ったのか、総士がやれやれといった様子で息を漏らした。 「気持ちはわかるがそっとしておけ。無理をして、ずいぶんはしゃいでいた」 「……大人だね、お前」 「お前はナリだけ大人だな」 ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。 読心能力というものは厄介だなと、甲洋は苦笑しながら目を泳がせる。 するとベッドの方から小さなうめき声がした。 「ん……あ、やばい寝てた」 目を覚ました一騎のどこか間の抜けた呟きに、「お早いお目覚めだな」と総士が嫌味を言っている。 「おはよう総士。甲洋も。遅かったな」 「結構早く来たつもりなんだけどね……」 一騎は操を起こさないよう慎重にベッドから抜け出すと、小さく欠伸をしながら総士の横に腰をおろした。すると総士が一騎の伸びた横髪を引っ掴み、ぐいと引っ張ると鼻を近づけてしきりに匂いをかぎはじめる。 「痛い痛い、引っぱるなよ総士」 一騎は困った様子で、けれど笑って好きにさせていた。総士は一騎の髪や首筋、胸元などの匂いをかいで、険しかった表情をより一層しかめて見せる。 「あいつの匂いがついてる」 そう言って、今度は一騎の首に両腕を回してさらに引き寄せると、頬や鼻先を擦りつけはじめた。 どこかで見た光景だなと甲洋は思う。総士の仕草は操よりも幾らか控えめだが、あの子もよくこんなふうに甲洋に身体を擦りつけていた。 一見するとただ甘えているようにしか見えない光景だ。けれど総士の真剣な表情を見ると、とてもそんな微笑ましさは感じない。 なにを見せつけられているのだろうかと戸惑いながらも、ふと気がついた。 「もしかして、自分の匂いをつけてる?」 操は甲洋が帰宅すると必ず熱心に匂いをかぎ、顔や身体を擦りつけていた。 特に初めて「おかえり」を言われた日は、知らないネコの匂い──総士の匂いだ──に敏感に反応していたことを思いだす。 あれはただ甘えているだけではなく、自分の匂いをつけて他の匂いを消すための行為でもあったのではないか。 すると総士は甲洋のほうにチラリと目を向け、「当然だ」と言った。 「お前たち人間だって、自分の所有物には名前くらい書くだろう。それと同じことだ」 「しょ、所有物……」 まるでモノ扱いである。 どこか複雑な気持ちになりながら、甲洋は一向に起きる気配のない操の寝姿に目をやった。すっかり身体を丸くして、胎児のような格好で寝息を立てている。 (俺って、こいつのものだったのか……?) 知らなかった。なんともいえないおかしな気分だ。誰かのものになるなんて、経験したことがないから分からない。 くすぐったいような、なにかが腑に落ちないような。だけど不思議と嫌ではなかった。 「一騎は僕のものだからな。譲る気はない。分かったら早くそいつを連れて帰れ」 「総士……!」 一騎は感激した様子で目を潤ませながら破顔して、総士を抱きしめると頬ずりをしはじめた。総士の発言がよほど嬉しかったらしく、まさにメロメロである。いまだかつてこんな親友の締りない顔は見たことがない。 やがて一騎はどこからともなく取り出したブラシで、乱れた総士の髪を丁寧に梳かしはじめた。気が済んだらしい総士は腕を組み、ソファにゆったりと背を預けると気持ちよさそうに目を閉じている。 これがネコ飼いというものかと、甲洋は思った。ヒトは所詮、ネコのしもべなのだ。世話をしているんじゃない。お世話をさせてもらっている。 飼い主とは名ばかりで、飼われているのは人間の方なのかもしれない。 王様と家来。あながち間違ってはいないのだ。 * 雪はすっかりやんでいたが、空気は鋭く冷え切ったままだった。 甲洋は眠っている操の肩に脱いだコートをかぶせると、背負いあげてアパートの階段をおりていく。 一騎は甲洋の足元に注意を払いながら傍に付き添い、寒いなか見送りに来てくれた。 「迷惑かけたな。一騎にも、総士にも」 別れ際に声をかけると、一騎は笑って首を左右に振る。 「総士もあれでけっこう楽しそうだったよ。兄弟みたいで可愛かったし」 「そっか」 その笑顔に甲洋もゆるりと微笑んだ。 街灯だけが辺りを照らすなか、こうしているとあの雨の夜を思いだす。行くあてもなく、ただ途方に暮れていた甲洋と子犬を救ってくれたのも彼だった。結局、いつも一騎に助けられてばかりいる。 今回のことだって彼と総士が見つけてくれなければ、今ごろ甲洋は操と無事に再会できていたか分からない。 ダメなやつだ。自分という人間は。ほとほと嫌になって白いため息を漏らす。 「ところで甲洋」 自己嫌悪に沈みかける意識を、一騎の穏やかな声がそっと引き止めた。うつむきがちだった甲洋が顔をあげると、彼は「頼まれてたことだけど」と言って操の寝顔に視線を向ける。 「ネコ、欲しいって人がいてさ。バイト先の常連さんなんだけど」 どうする? と甲洋を見て、一騎は小さく首を傾げた。 ドキリと胸を突き上げられたような気がして、甲洋は肩に乗っている操の頭に目をやった。耳のすぐ近くで規則正しい寝息が聞こえる。背中に感じる体温に目を細め、甲洋は静かにうつむいた。 取り戻したいと、強く願って彼を探した。もう会えないかもしれないと思うと、怖くて怖くてたまらなくて。今こうしてそばにあるぬくもりに、甲洋は深く安堵している。 けれど操はどうだろう。どんな気持ちで、あの部屋を飛び出したのだろうか。彼はこんな自分を、まだ自分のものだと思ってくれているのだろうか。以前のように、鼻にキスをしてくれるだろうか。 「──」 そのとき、耳元で声がした。 それは聞こえるか聞こえないかの微かな音で、冷えた風が通り抜ける音を、都合よく聞き間違えただけだったのかもしれない。だけどその音は、確かに自分の名前を呼んだ気がした。 小さな声で、「こうよう」と。 「……ごめん一騎」 「うん?」 「その話、なしにできるか?」 操がどうして黙って家を飛び出したのか、本当のところは分からない。 けれど甲洋は、どんな理由があったにせよもうこの子を手放せる気がしないのだ。そんなところまで、心は走り出してしまっていた。 新しい飼い主のもとで暮らすようになれば、それなりの幸せは約束されているのだと思う。一騎の紹介なら、きっと信用できる人物であるに違いないのだから。 それでも他の誰かに委ねるなんて、今の甲洋には考えられなかった。もうなにもできない子供じゃない。この手で、操を幸せにしたいと思った。 すると一騎は、あらかじめ甲洋がそう答えることを知っていたかのように、あっさりと「できるさ」と言って笑った。 「だって嘘だし」 「……は?」 甲洋はそのままぽっかり口を開けて固まった。嘘、とは、どういう意味だろう? 一騎は肩をすくめると、申し訳なさそうに眉をハの字にして見せる。 「ごめん甲洋。総士がそう言ってカマかけろって言うから」 「か、かま……?」 「もどかしくて、ついお節介したくなるんだってさ。お前たち、両思いらしいぞ?」 そう言ってのほほんと笑う一騎を見て、腑抜けたように力が抜けていくのを感じた。 帰り際に総士が一騎の耳元でなにか囁いていたことには気がついていた。けれど甲洋はくったりと眠ったままの操に、自分のコートを着せたり毛糸の靴下──総士がくれた──を履かせたりと忙しかったのだ。いちいち気にかけてもいられなかった。 「策士だな。まんまと気分を盛り上げられたよ」 「可愛いだろ? うちの総士」 得意げな笑顔がやけに子供っぽく見えて、言い返す気も失せてしまった。 憎たらしいなぁと思う。だけどそこから可笑しさがはみ出すように滲みでてくる。 「うちの操も負けてないけどね」 そう言った甲洋の笑顔も、一騎に負けないくらい子供っぽいものだった。 ←戻る ・ 次へ→
そこから一騎のアパートまで、全速力で走って30分とかからなかった。
階段を駆け上り、つい先日訪れたばかりの部屋のドアを何度も叩く。
「一騎! 俺だ! 開けてくれ!」
すると扉を開けて顔を出したのは、えらく迷惑そうな顔をした総士だった。
「総士、操は?」
「いいからまずは入れ。近所迷惑だ」
総士は軽く顎をしゃくるようにして甲洋を中に招き入れた。先日初めて会ったときよりも、心なしかやつれて見えるのは気のせいだろうか。髪も引っ掻き回されたように乱れているし、表情に疲れが滲んでいる。毛足の長いしっぽが、苛立ったように左右に激しく揺れていた。
甲洋は促されるまま中に入ると、先をいく総士を追って部屋へと足を踏み入れた。するとそこには──。
「この通り、やつなら寝てる」
「……これは、どういう状況?」
目の前の光景に困惑しながら、甲洋は口元を引きつらせた。
操はのんきに眠りこけていた。買ってやったばかりの赤いパーカーを着て、カーキ色のパンツを履いて、ベッドでぬくぬくと幸せそうに。
が、それだけではない。彼はなぜか一騎に腕枕をされていた。ぴったりと身を寄せて、すっかり安心しきっている。そして一騎も一騎でなぜか爆睡していた。
通話を終えてわずか30分足らずである。それがどうしてこうなった……。
「それは僕が聞きたい」
総士は極めて不愉快そうに吐き捨てた。
甲洋は全く状況が飲み込めない。操が親友とひとつのベッドで眠っているという捨て置けない事実もさることながら、そもそもどうしてこの子がここにいるのか。
立ち尽くす甲洋に、総士はため息を漏らすと「とりあえず座れ」と言った。それから台所へと消えてしまう。
しかたなく、甲洋は言われたとおり床に腰をおろした。
ベッドの上をジリジリと睨みつけながら待つこと数分。
総士がお茶を淹れて運んできた。この子は家事ができるのか。大人びてはいるが操とそう歳が変わらないように見えるのに、大したものだと思わず感心してしまう。
「ありがとう。凄いな、総士は」
「このくらい赤ん坊だってできる」
「え? ああ……うん」
うちの操には無理だなぁ……と思ったが、なんとなく悔しいので黙っておいた。そもそもキッチンに立たせたことがないなんて言ったら、猛烈にバカにされそうな気がする。
(うちの操、か……)
ふと漏れたため息が、湯呑みから立ち上る白い湯気を掻き乱す。
総士はソファにドカリと腰をおろして足を組み、さらに両手を組むと膝にかぶせた。
「とんだやんちゃ坊主だな。最初は死にそうな顔をしていたくせに」
「死にそう……? 操は、どうしてここに?」
「一騎が拾った。僕もその場に同行していたが」
総士は不服そうな表情を崩すことなく、操を保護した経緯を話してくれた。
操を見つけたのはこの近くのスーパーの出入り口だった。総士は一騎と一緒に買い物に訪れていて、自動ドアの横にうずくまっていた操を見つけたのは一騎だった。
「最初は野良かと思ったよ。裸足だったからな」
総士は操を気にする一騎に放っておけと言った。いちいち野良ネコを気にかけていたらキリがない。だが一騎は操の身なりが綺麗なことから、どこかの飼いネコが迷子になっているのかもしれないと考え、声をかけた。
どこから来たのか、飼い主はどこにいるのか。そう訪ねると、彼はしばらく迷った末にただ首を横に振った。なにを問いかけても、そうやって首を振り続けるだけでなにも言わない。
やがてみるみるうちに涙をためて、ついには泣きだした。困り果てた一騎はさながら犬のお巡りさんだった。
見かねた総士は仕方なく心に直接問いかけた。操は心を閉ざしていたため、その背景をうかがい知ることはできなかったが、かろうじて自分の名前だけは答えたという。
その名を聞いて、すぐにピンときた。甲洋が先日ここで話していた捨てネコと、同じ名前。茶トラの鍵しっぽという点も一致していた。
なにかしら事情があるのだろうと、一騎と総士はひとまず操を自宅に連れ帰って保護することにした。
操はずっとふさぎ込んだ様子でいたが、一騎カレーを出すと急に目の色を変えた。わっと声をあげ、カレーを口にすると「この味知ってる!」と言って夢中で食べた。おかわりもした。
食後、一騎が片付けをしているあいだ総士は操に懐かれていた。彼はしきりに総士の匂いを嗅いで、「君の匂いも知ってる!」と言った。それから、めちゃくちゃジャレつかれた。
今まで同族と接したことがなかったからかもしれない。歳も近いし、友達ができたことが──かなり一方的だが──嬉しかったのだろう。
「それでボロボロだったんだね、お前……」
総士も総士で、操のようなタイプと接したことがなかったのかもしれない。髪もめちゃくちゃで、疲れ切った様子だったのは、操の相手をさせられていたからだったのだ。
さんざん食べてさんざん遊んで、疲れた操はやがて総士の髪を引っ掴んだまま船を漕ぎだした。片付けを終え、甲洋に連絡を入れて戻ってきた一騎が操をベッドに寝かせようとしたが、操は一騎にしがみついて離れようとしなかった。
無理に剥がそうとすると赤ん坊のようにぐずるので、結局そのまま抱いて寝かしつけるしかなかった。
「で、そのうち一騎まで寝たと?」
総士は眉間に深く皺を刻み、鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。
彼としてもそりゃあ面白くないだろう。めちゃくちゃにペースを乱されたあげく、大好きな飼い主と寝床まで占領されてしまったのだから。
けれどそれは甲洋も同じだった。あれだけ心配させておいて、蓋を開けたらたらふくカレーを食ったあげく、他の男にしがみついてのんきに寝ているのだから。
本音を言えば今すぐにでも引っ剥がしてやりたいところだが、そもそもこうなったのは甲洋に責任があるのだ。とはいえこのままジリジリと待ち続けるというのも、それはそれで正直しんどい。
甲洋の複雑な胸中を感じ取ったのか、総士がやれやれといった様子で息を漏らした。
「気持ちはわかるがそっとしておけ。無理をして、ずいぶんはしゃいでいた」
「……大人だね、お前」
「お前はナリだけ大人だな」
ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。
読心能力というものは厄介だなと、甲洋は苦笑しながら目を泳がせる。
するとベッドの方から小さなうめき声がした。
「ん……あ、やばい寝てた」
目を覚ました一騎のどこか間の抜けた呟きに、「お早いお目覚めだな」と総士が嫌味を言っている。
「おはよう総士。甲洋も。遅かったな」
「結構早く来たつもりなんだけどね……」
一騎は操を起こさないよう慎重にベッドから抜け出すと、小さく欠伸をしながら総士の横に腰をおろした。すると総士が一騎の伸びた横髪を引っ掴み、ぐいと引っ張ると鼻を近づけてしきりに匂いをかぎはじめる。
「痛い痛い、引っぱるなよ総士」
一騎は困った様子で、けれど笑って好きにさせていた。総士は一騎の髪や首筋、胸元などの匂いをかいで、険しかった表情をより一層しかめて見せる。
「あいつの匂いがついてる」
そう言って、今度は一騎の首に両腕を回してさらに引き寄せると、頬や鼻先を擦りつけはじめた。
どこかで見た光景だなと甲洋は思う。総士の仕草は操よりも幾らか控えめだが、あの子もよくこんなふうに甲洋に身体を擦りつけていた。
一見するとただ甘えているようにしか見えない光景だ。けれど総士の真剣な表情を見ると、とてもそんな微笑ましさは感じない。
なにを見せつけられているのだろうかと戸惑いながらも、ふと気がついた。
「もしかして、自分の匂いをつけてる?」
操は甲洋が帰宅すると必ず熱心に匂いをかぎ、顔や身体を擦りつけていた。
特に初めて「おかえり」を言われた日は、知らないネコの匂い──総士の匂いだ──に敏感に反応していたことを思いだす。
あれはただ甘えているだけではなく、自分の匂いをつけて他の匂いを消すための行為でもあったのではないか。
すると総士は甲洋のほうにチラリと目を向け、「当然だ」と言った。
「お前たち人間だって、自分の所有物には名前くらい書くだろう。それと同じことだ」
「しょ、所有物……」
まるでモノ扱いである。
どこか複雑な気持ちになりながら、甲洋は一向に起きる気配のない操の寝姿に目をやった。すっかり身体を丸くして、胎児のような格好で寝息を立てている。
(俺って、こいつのものだったのか……?)
知らなかった。なんともいえないおかしな気分だ。誰かのものになるなんて、経験したことがないから分からない。
くすぐったいような、なにかが腑に落ちないような。だけど不思議と嫌ではなかった。
「一騎は僕のものだからな。譲る気はない。分かったら早くそいつを連れて帰れ」
「総士……!」
一騎は感激した様子で目を潤ませながら破顔して、総士を抱きしめると頬ずりをしはじめた。総士の発言がよほど嬉しかったらしく、まさにメロメロである。いまだかつてこんな親友の締りない顔は見たことがない。
やがて一騎はどこからともなく取り出したブラシで、乱れた総士の髪を丁寧に梳かしはじめた。気が済んだらしい総士は腕を組み、ソファにゆったりと背を預けると気持ちよさそうに目を閉じている。
これがネコ飼いというものかと、甲洋は思った。ヒトは所詮、ネコのしもべなのだ。世話をしているんじゃない。お世話をさせてもらっている。
飼い主とは名ばかりで、飼われているのは人間の方なのかもしれない。
王様と家来。あながち間違ってはいないのだ。
*
雪はすっかりやんでいたが、空気は鋭く冷え切ったままだった。
甲洋は眠っている操の肩に脱いだコートをかぶせると、背負いあげてアパートの階段をおりていく。
一騎は甲洋の足元に注意を払いながら傍に付き添い、寒いなか見送りに来てくれた。
「迷惑かけたな。一騎にも、総士にも」
別れ際に声をかけると、一騎は笑って首を左右に振る。
「総士もあれでけっこう楽しそうだったよ。兄弟みたいで可愛かったし」
「そっか」
その笑顔に甲洋もゆるりと微笑んだ。
街灯だけが辺りを照らすなか、こうしているとあの雨の夜を思いだす。行くあてもなく、ただ途方に暮れていた甲洋と子犬を救ってくれたのも彼だった。結局、いつも一騎に助けられてばかりいる。
今回のことだって彼と総士が見つけてくれなければ、今ごろ甲洋は操と無事に再会できていたか分からない。
ダメなやつだ。自分という人間は。ほとほと嫌になって白いため息を漏らす。
「ところで甲洋」
自己嫌悪に沈みかける意識を、一騎の穏やかな声がそっと引き止めた。うつむきがちだった甲洋が顔をあげると、彼は「頼まれてたことだけど」と言って操の寝顔に視線を向ける。
「ネコ、欲しいって人がいてさ。バイト先の常連さんなんだけど」
どうする? と甲洋を見て、一騎は小さく首を傾げた。
ドキリと胸を突き上げられたような気がして、甲洋は肩に乗っている操の頭に目をやった。耳のすぐ近くで規則正しい寝息が聞こえる。背中に感じる体温に目を細め、甲洋は静かにうつむいた。
取り戻したいと、強く願って彼を探した。もう会えないかもしれないと思うと、怖くて怖くてたまらなくて。今こうしてそばにあるぬくもりに、甲洋は深く安堵している。
けれど操はどうだろう。どんな気持ちで、あの部屋を飛び出したのだろうか。彼はこんな自分を、まだ自分のものだと思ってくれているのだろうか。以前のように、鼻にキスをしてくれるだろうか。
「──」
そのとき、耳元で声がした。
それは聞こえるか聞こえないかの微かな音で、冷えた風が通り抜ける音を、都合よく聞き間違えただけだったのかもしれない。だけどその音は、確かに自分の名前を呼んだ気がした。
小さな声で、「こうよう」と。
「……ごめん一騎」
「うん?」
「その話、なしにできるか?」
操がどうして黙って家を飛び出したのか、本当のところは分からない。
けれど甲洋は、どんな理由があったにせよもうこの子を手放せる気がしないのだ。そんなところまで、心は走り出してしまっていた。
新しい飼い主のもとで暮らすようになれば、それなりの幸せは約束されているのだと思う。一騎の紹介なら、きっと信用できる人物であるに違いないのだから。
それでも他の誰かに委ねるなんて、今の甲洋には考えられなかった。もうなにもできない子供じゃない。この手で、操を幸せにしたいと思った。
すると一騎は、あらかじめ甲洋がそう答えることを知っていたかのように、あっさりと「できるさ」と言って笑った。
「だって嘘だし」
「……は?」
甲洋はそのままぽっかり口を開けて固まった。嘘、とは、どういう意味だろう?
一騎は肩をすくめると、申し訳なさそうに眉をハの字にして見せる。
「ごめん甲洋。総士がそう言ってカマかけろって言うから」
「か、かま……?」
「もどかしくて、ついお節介したくなるんだってさ。お前たち、両思いらしいぞ?」
そう言ってのほほんと笑う一騎を見て、腑抜けたように力が抜けていくのを感じた。
帰り際に総士が一騎の耳元でなにか囁いていたことには気がついていた。けれど甲洋はくったりと眠ったままの操に、自分のコートを着せたり毛糸の靴下──総士がくれた──を履かせたりと忙しかったのだ。いちいち気にかけてもいられなかった。
「策士だな。まんまと気分を盛り上げられたよ」
「可愛いだろ? うちの総士」
得意げな笑顔がやけに子供っぽく見えて、言い返す気も失せてしまった。
憎たらしいなぁと思う。だけどそこから可笑しさがはみ出すように滲みでてくる。
「うちの操も負けてないけどね」
そう言った甲洋の笑顔も、一騎に負けないくらい子供っぽいものだった。
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