2025/09/11 Thu 08 部屋に戻ると甲洋は操の身体を毛布で包み、ソファのカウチ部分に横たえさせた。 自分も傍に腰掛けて、その髪に触れながら寝顔を見つめる。 懐かしいなと思った。彼を保護して、まだ一ヶ月も経っていないのに。ずいぶん長いこと一緒にいるような気がしてしまう。 あのときは、この子がこんなにも特別な存在になるなんて思いもしなかった。 (……いや、違うな。多分、あのときから) 駆け抜けた電流。鳴り響いた鐘の音。気のせいで片付けてしまったあの感覚。瞳が綺麗だったから。あんなに綺麗な瞳は初めて見たから。囚われてしまった。 あまりにも唐突に。あまりにも自然に。操は甲洋の心に入り込んできた。 「んぅ~……」 小さな呻きに、甲洋は思わず髪に触れていた手を引っ込めた。長いまつ毛が小さく揺れて、ゆっくりと琥珀の瞳が開かれる。彼はぼんやりと瞬きを繰り返し、やがてハッと見開きながら勢いよく身を起こした。 「え!? なんで!? なんでおれここにいるの!? 一騎と総士は!?」 その言葉に、少しムッとする。 「俺んちで悪かったな」 「こ、甲洋? なんで? おれ、甲洋とはさよならしたはずなのに!」 まんまるの目を瞬かせてこちらを見る操に、甲洋はより深く眉間の皺を深くした。 「さよならってなに? された覚えがないんだけど?」 「したよ。だって、ちゃんとお別れの準備してから行ったもん」 「はぁ?」 すると操はテーブルの上を指さして「ほら」と言った。 そこには広げられたティッシュの上に、クッキーが数枚置いてあるだけである。 「……これがなに?」 「甲洋がお腹空いても大丈夫なように、準備してったんだよ。なんで食べなかったの?」 「なんで食べなかったのって聞かれても」 意味が分からない。 クッキーが置いてあるのには気づいていたが、てっきり操の食べ残しかと思っていたのだ。 (いや待てよ……なんか似たような話を聞いたことがあるぞ……) 昔、猫を飼っていた友人が困り果てた様子で話していたのを思いだす。 朝起きると枕元にネズミや昆虫の死骸が置かれていて、どうやらそれは愛猫の仕業であるらしいと。よくよく調べてみると、その死骸は猫からのプレゼントであることが判明した。 そういった行動をとる猫は母性本能が強く、飼い主のことを『狩りもできない未熟な子供』だと思っているため、お世話をしているつもりでいるらしい。 「お前なぁ……」 甲洋は大仰なため息をつき、ガックリと項垂れた。 「俺のことなんだと思ってるわけ……?」 「?」 未熟な子ネコに、未熟な子供だと思われていた……。 ショックである。だいたいオスのくせに母性とは何事か。世話を焼いていたつもりが、操はその逆の意識でいたということだ。世話をされた覚えがない上に、クッキーを数枚置いていかれたところでどうしようもない。ネズミや虫の死骸が置かれているよりはマシかもしれないが。 これが人間の仕業なら、流石の甲洋も今ごろ一発くらいぶん殴っているところだ。しかしネコにヒトの常識を説いても意味がない。今は他に追求すべき大事な問題もある。 「それは分か……りたくはなかったけど、いいよ。分かった。それより、どうして急に黙っていなくなったりしたの?」 「……探したの?」 「当たり前だろ」 操は耳をしゅんとさせ、うつむいてしまった。 「操」 「……だって」 きゅうと身体を固くしながら、操は膝の上でくしゃくしゃになっている毛布を掴む拳に力を込めた。肩に首が埋まるほど身をすくめ、今にも泣き出しそうな声を絞りだす。 「甲洋が、苦しそうだったから。一緒にいたら、ダメだと思った」 「操……」 「だっておれのせいなんでしょ? おれといるから、甲洋のここはずっと痛いままなんでしょ?」 操は小さな白い手を自分の胸に当てて、涙で潤んだ目をしながら甲洋を見た。 「そんなのやだよ。おれのせいで甲洋が悲しくなるのは嫌なんだ……でも、でもさ……」 大きな瞳から、ついに涙が溢れ出した。ずっと堪えていたのが分かるほど大粒のそれが、後から後から赤い頬を伝い落ちていく。 「おれは、甲洋と一緒がいい……新しいご主人様なんかいらないよ。甲洋がいい……けど、そしたら甲洋、おれのせいでずっと苦しいまんまで、ずっと痛くて……だったら、おれがいなくなれば……」 そのうち涙だけじゃなく、鼻水まで出てきてしまった。操の心がぐちゃぐちゃになるほど、顔も一緒にぐちゃぐちゃになっていく。もう完全に泣いてしまっているのに、まだ堪えているつもりでいるのか、ヒクヒクと肩を引きつらせながら鼻の穴を膨らませている。 笑う場面じゃないはずなのに、自分のためにこんなにも辛い気持ちを吐露しているのに、甲洋は気が抜けたようにふっと息を吐きだしながら笑ってしまった。笑いながら、「違うよ」と言って首を振る。 「こぉよ……?」 「おいで、操」 その肩を抱いて引き寄せると、そばにあったティッシュの箱から中身を数枚引き抜く。それを操の鼻にあてがって、緩く摘んだ。 「チンして、チン」 「んにゅ、うぅ~」 「よしよし」 操が力むと、ズビッという間抜けな音がする。 緊張感がないなぁと思った。だけどたぶん、重たくなるよりずっといい。操の一生懸命な泣き顔を見ていたら、心の中にあったしこりがほどけていくような感覚を覚えた。 いつまでたっても思い出に変えることができなかった過去の記憶。だけどそろそろ手放してもいい頃なんだろうなと、そんなふうに思うことができた。 愛されなかった過去も、あの雨の夜のことも。甲洋が見つめていたいと思うのは過去じゃない。いま目の前で泣いている操のことだ。操と一緒に紡ぐ未来だけを、見つめていたい。 甲洋は鼻が出きったところでティッシュを丸めて、ついでに操の顔も綺麗にぬぐった。ポイとゴミ箱に放り投げてから、改めて操を腕に閉じ込める。 片手で頬を包み込んで上向かせると、操は濡れた瞳をパチパチと踊らせた。そういえば、自分からこんなふうに手を伸ばしたのはこれが初めてだ。いつも飛びついてくるのは操のほうで、甲洋はただ受け止めるだけだった。 甲洋は操の赤くなっている鼻に自分の鼻を近づけ、いつも彼がそうしていたように小さく触れ合わせた。そのままゆるりと頬を擦り寄せると、操の肌が熱を上げるのが分かる。 まんまるに見開かれた琥珀の瞳を間近に見つめ、甲洋は目を細めて笑った。 「こぉよ……?」 「お前がいないと、もっと痛いよ」 「!」 「俺は、操がいないとダメみたいだ」 甲洋の中にぽっかりと開いていた穴は、最初はただの大きな丸だったのだと思う。だけど気づいたらその穴は操の形をしていて、こうして抱きしめていなければ、きっと凍えて死んでしまう。 「ここにいて、操。俺と、一緒に暮らそう」 腕の中で操が揺れた。揺れながら、蚊の鳴くような声で「いいの?」と言った。尖った耳は後ろ向きにぺたりと倒れ、頼りなく震えていた。なんていじらしいんだろうと、甲洋は思う。 細い身体で、小さな胸で、この子は必死に甲洋のことを考えていた。甲洋の痛みを感じながら、それが自分の責任だと心を痛めて、テーブルの上にクッキーを置いて、裸足で家を飛び出した。 可愛い。そして、愛しい。あのとき助けたのがこの子でよかった。この子を助けたのが、自分でよかった。逢えてよかった。多分、きっと、死ぬまでずっとこの子と離れることはないんだろうなと、漠然とした、けれど確かな予感が胸をさらう。 甲洋は答える代わりに、強く強く、操の身体を抱きしめた。 「おれ、これからも毎日、甲洋におかえりって言ってもいいの? 匂いつけてもいいの?」 「いいよ」 ふわふわの髪に鼻を埋める。自分も使っているはずのシャンプーの香りに、春めいた陽だまりのような匂いが混ざっている。これが操の匂いだ。こんなにもあたたかな匂いに包まれていたことに、どうして気づけなかったのだろう。 「嬉しい……甲洋、大好き……!」 操の両腕が甲洋の首に回された。息ができないくらい強く抱きしめられて、甲洋は笑いながら「俺も」と言った。 操は甲洋のうなじの髪を両手でくしゃりと乱しながら、頬や額を擦りつけてくる。グリグリと一生懸命に自分の匂いをつけながら、ふとなにかに気がついたように「ぁ」と声をあげた。 「なに?」 「甲洋……雨、やんだね」 鼻と鼻が触れ合う距離で、操は嬉しそうにそう言った。 「雨なんか降ってないよ」 雪は少しだけ降ったけれど、すぐにやんでしまった。 小首を傾げる甲洋に、操は肩をすくめて溶け出しそうなくらい甘ったるい笑顔を浮かべる。 「うぅん、いいの。なんでもない」 甲洋は「変なやつ」と言ってクスリと笑うと、視線を交わしあったまま、ゆっくりと、お互いの鼻の先をくっつけあった。 * 春日井甲洋には夢があった。 それは綺麗で優しくて、ちょっぴり天然ボケな可愛いお嫁さん(黒髪ロングで巨乳ならなおよし)をもらって、海が一望できる高台に庭付き一戸建てを購入し、子宝にも恵まれて幸せな家庭を築くこと。 庭では黒柴の子犬を飼って、陽だまりのなかにベンチを置いて、理想の家族と過ごしたかった。 そのためにコツコツ貯金もしてきたし、暇さえあれば出会ってすらいない運命の人に想いを馳せ、幸せな家庭像への妄想を膨らませていた。 けれどそれは、もう過去の話になってしまった。 甲洋が一緒にいたいと思った黒柴の子犬は『あの子』だけで、代わりなんかどこにもいない。 海が見える庭付き一戸建てには憧れるけれど、とりあえず当面は、ネコ一匹と窮屈せずに暮らせる部屋があれば、十分だった。 おしゃべりな可愛い子ネコは陽だまりの匂いをさせながら、いつも自分の帰りを待っている。「ただいま」と言えば「おかえり」と元気に飛びついてくる。甲洋はそんな彼のために、毎日せっせと『狩り』へ出かけているらしい。 まるで原始の暮らしを送っているかのような言いようだが、大学だってバイトだって知識や生活費を得るために行っているのだから、あながち間違った表現でもないような気がする。 なんにせよ、甲洋は今の暮らしに満足している。 ネコ一匹、幸せにできるだけの力があれば、それだけで甲洋も幸せなのだ。 そのために、コツコツと積み立ててきた貯金もおろした。住み慣れた小規模マンションを引っ越して、ペットとの入居が可能な新居に移り住むためである。 「あ、ご主人様だ」 ある朝、操が焼き立てのパンに齧りつきながらテレビを指差し、そう言った。 「えっ?」 口をつけていたコーヒーに咽そうになりながら、甲洋も慌ててテレビ画面へと視線を走らせる。 どこにでもいそうな平凡な顔立ちをした男性の顔写真をバックに、ニュースキャスターが最新ニュースを読み上げている。 それはヒト型動物への性的虐待未遂で、一人の男性が逮捕されたというものだった。 男は自宅アパートに散歩中のメスネコを連れ込み、無理やり猥褻な行為に及ぼうとしたところを、悲鳴を聞きつけた近隣住民によって取り押さえられ、通報された。しかも一連の様子は動画に撮られてSNSで拡散されたらしく、男が無様に取り押さえられている光景がテレビ画面に映しだされている。 ネコは無事に飼い主のもとに返され、男はさらに児童買春の疑いもあるとして、現在取り調べを行っているらしい。 「本当に? こいつで間違いない?」 「うん。この人だよ。ねぇ甲洋、ご主人様はどうしてテレビに出てるの?」 口の端にパンくずをつけた操が、くるくるとした瞳で問いかけてくる。甲洋はそれを指先で取り払ってやりながら、「悪いことをしたからだよ」と言った。 「わるいこと?」 「そう。お前だけじゃなくて、他の子にまで酷いことをしようとしたから。だから捕まったんだよ」 操にも分かる言葉で柔らかく説明しながら、甲洋は安堵していた。 一度は捨てたとはいえ、急に惜しくなって連れ戻しに来るなんてことになりはしないかと、少し──いや、かなり心配していたのだ。だって、その可能性は決して0ではない。 (うちの操は世界一可愛いからなぁ……) もはや立派な親ばかである。だが仕方ない。操が可愛いのは事実なのだ。 年が明けたら新居に引っ越すことになっているが、こういったニュースを目にしてしまうと、あまりひとりで出歩かせないほうがいいような気がしてきてしまう。 「甲洋、甲洋ってば。ねぇ、どうしたの?」 「ん、なに?」 「さっきからずっと怖い顔してるよ」 「ああ、ごめん、なんでもないよ。操、パンは? もういいの?」 「うん、もうお腹いっぱーい! あのね甲洋、ご飯もお菓子も、食べ過ぎると太っちゃうんだよ。知ってた?」 「知ってるよ」 そう言って笑うと、操はむぅっと眉を寄せて唇を尖らせた。 先端がくるりと丸まったかぎしっぽをブンブンと大きく振って、床を叩きはじめる。 「なぁんだ。せっかく教えてあげようと思ったのに」 ……しまった。 操はおそらく、甲洋がいぬ間にテレビから仕入れたのであろう新しい知識を、得意げに披露したかったのだ。食べすぎると太るなんてあまりにも常識すぎて、選択肢を間違えてしまった。 「知ってる、けど、忘れがちかもね。うん、忘れてた。操は物知りだな」 「甲洋って、もしかして嘘つくのも下手なのかな?」 「もってなに? もって……」 可愛いくせに、たまに可愛くないことを言うネコである。 甲洋は少しムッとしながら、テーブルの上で空になっている皿を重ねた。 「食べ過ぎが気になるなら、今夜のケーキはなしかな」 「え!? ケーキ!?」 「クリスマスだからね、今日は」 「クリスマス!?」 操の耳がぴょこんと跳ねた。 そう、今日はクリスマス。正確にはイブである。世間は浮かれモード一色で、しかも今夜は雪の予報が出ていた。的中すればホワイトクリスマスになるだろう。 数日前、甲洋は街のケーキ屋でクリスマスケーキを予約した。4号のワンホールだ。このあと取りに行くことになっている。 「わーいやったー! クリスマスにケーキなんて初めて! 夢みたい!」 操はかぎしっぽをピンと立て、バンザイをすると甲洋に飛びかかってきた。 その勢いが凄まじいものだから、咄嗟に受け止めきれずに横倒しになってしまう。 「うわ、危ない! コーヒー! まだ入ってるから!」 うっかりカップを倒しそうになったが、なんとか無事だった。 床に押し倒されてしまった甲洋は、そのまま操の頬ずり攻撃を食らう。甲洋はその背に両腕をまわし、背中をぽんぽんと軽く叩いた。 「甲洋、おれ嬉しいよぅ」 「わかったから。あまり興奮しないで」 「太ってもいいから、ケーキいっぱい食べたいよ!」 「いやそれはダメだろ……」 操は食べても食べても痩せっぽちだけれど、保護したときよりはずっと頬がふっくらしてきている。毛並みも艶がでてきたし、そういえばひょろひょろだったしっぽも、ほんの少しだけ太くなったかもしれない。 このままもっとふくふくとして、なんならぷくぷくになってしまったとしても、それはそれで猛烈に可愛いだろうなと甲洋は思う。だが、やっぱり食べ過ぎはいけない。健康管理は飼い主としての立派な勤めである。そこでふと、気がついた。 「そうだ、操。ひとつ言っておきたいことがあるよ」 「にゃあに~?」 甲洋の頬にスリスリと頬を擦りつけていた操が、顔をあげて見下ろしてくる。 「お前はもううちの子だから。他所の人をご主人様なんて呼ぶのは禁止」 あの男は操の飼い主である責任を放棄したのだ。そもそも果たしてすらいなかった。操はヤツの名前を知らないそうだから、他に呼びようがないのかもしれないが、それでもだ。 甲洋は操の飼い主で、そしてある意味、仕えてもいるのである。 操は一瞬だけきょとんとして首を傾げたが、すぐにふにゃあと笑って「そっか」と言った。 「おれはもう、甲洋んちの子になったんだもんね」 そして嬉しそうに鼻を寄せてくる。いつものあれだ。甲洋は小さく笑って目を閉じた。鼻と鼻のキス。くすぐったいあの感触を待ちわびて、けれど、鼻にキスは落とされない。 代わりに唇に、むにゅりと何か柔らかなものが押しつけられる感触があった。 (へ……?) 目を見開く。信じられないくらい近い距離で、伏せられた操のまつ毛が揺れる。 頭の中が真っ白になって、甲洋はそのまま石のように固まった。すると次の瞬間、唇をぺろりと舐められ、さらに歯が、立てられた。 「んむっ!?」 それは軽い甘噛だったが、あまりにもショッキングな出来事だった。思わず悲鳴をあげた甲洋が、操の両肩を掴んで引き剥がす。耳まで真っ赤になっているのを感じながら、口をパクパクとさせた。 「な、なに……? な、な……?」 なにが、起こったんだ──? 操はとろりと潤んだ瞳で、「どうして邪魔するの」と言わんばかりに小首を傾げた。心臓が、胸を突き破って破裂しそうなほど高鳴っている。 「なに、したの……今……?」 「甲洋のこと好きって思ったら、ちゅうして噛みたくなっちゃった」 「ッ……!?」 きっとこの子は、自分がなにをしたか分かっていない。 行き過ぎた愛情表現。甲洋にとっては、ファーストキス。頭の中では、やっぱりあの祝福の鐘が鳴り響いていた。 操は甲洋の上で「えへへ」と笑う。無邪気で可愛い、甲洋の子ネコ。 独りぼっちで思い描いていたはずの未来。理想の家庭は夢のまた夢。もういっそどうでもよくすらなっていて、この子が笑っていてさえくれれば、それでいい。 ただそう遠くない未来、童貞まで捧げてしまう日が来ることを、このときの甲洋はまだ知らないのだ。 毛玉の気持ち/了 ←戻る ・ 続編へ→
部屋に戻ると甲洋は操の身体を毛布で包み、ソファのカウチ部分に横たえさせた。
自分も傍に腰掛けて、その髪に触れながら寝顔を見つめる。
懐かしいなと思った。彼を保護して、まだ一ヶ月も経っていないのに。ずいぶん長いこと一緒にいるような気がしてしまう。
あのときは、この子がこんなにも特別な存在になるなんて思いもしなかった。
(……いや、違うな。多分、あのときから)
駆け抜けた電流。鳴り響いた鐘の音。気のせいで片付けてしまったあの感覚。瞳が綺麗だったから。あんなに綺麗な瞳は初めて見たから。囚われてしまった。
あまりにも唐突に。あまりにも自然に。操は甲洋の心に入り込んできた。
「んぅ~……」
小さな呻きに、甲洋は思わず髪に触れていた手を引っ込めた。長いまつ毛が小さく揺れて、ゆっくりと琥珀の瞳が開かれる。彼はぼんやりと瞬きを繰り返し、やがてハッと見開きながら勢いよく身を起こした。
「え!? なんで!? なんでおれここにいるの!? 一騎と総士は!?」
その言葉に、少しムッとする。
「俺んちで悪かったな」
「こ、甲洋? なんで? おれ、甲洋とはさよならしたはずなのに!」
まんまるの目を瞬かせてこちらを見る操に、甲洋はより深く眉間の皺を深くした。
「さよならってなに? された覚えがないんだけど?」
「したよ。だって、ちゃんとお別れの準備してから行ったもん」
「はぁ?」
すると操はテーブルの上を指さして「ほら」と言った。
そこには広げられたティッシュの上に、クッキーが数枚置いてあるだけである。
「……これがなに?」
「甲洋がお腹空いても大丈夫なように、準備してったんだよ。なんで食べなかったの?」
「なんで食べなかったのって聞かれても」
意味が分からない。
クッキーが置いてあるのには気づいていたが、てっきり操の食べ残しかと思っていたのだ。
(いや待てよ……なんか似たような話を聞いたことがあるぞ……)
昔、猫を飼っていた友人が困り果てた様子で話していたのを思いだす。
朝起きると枕元にネズミや昆虫の死骸が置かれていて、どうやらそれは愛猫の仕業であるらしいと。よくよく調べてみると、その死骸は猫からのプレゼントであることが判明した。
そういった行動をとる猫は母性本能が強く、飼い主のことを『狩りもできない未熟な子供』だと思っているため、お世話をしているつもりでいるらしい。
「お前なぁ……」
甲洋は大仰なため息をつき、ガックリと項垂れた。
「俺のことなんだと思ってるわけ……?」
「?」
未熟な子ネコに、未熟な子供だと思われていた……。
ショックである。だいたいオスのくせに母性とは何事か。世話を焼いていたつもりが、操はその逆の意識でいたということだ。世話をされた覚えがない上に、クッキーを数枚置いていかれたところでどうしようもない。ネズミや虫の死骸が置かれているよりはマシかもしれないが。
これが人間の仕業なら、流石の甲洋も今ごろ一発くらいぶん殴っているところだ。しかしネコにヒトの常識を説いても意味がない。今は他に追求すべき大事な問題もある。
「それは分か……りたくはなかったけど、いいよ。分かった。それより、どうして急に黙っていなくなったりしたの?」
「……探したの?」
「当たり前だろ」
操は耳をしゅんとさせ、うつむいてしまった。
「操」
「……だって」
きゅうと身体を固くしながら、操は膝の上でくしゃくしゃになっている毛布を掴む拳に力を込めた。肩に首が埋まるほど身をすくめ、今にも泣き出しそうな声を絞りだす。
「甲洋が、苦しそうだったから。一緒にいたら、ダメだと思った」
「操……」
「だっておれのせいなんでしょ? おれといるから、甲洋のここはずっと痛いままなんでしょ?」
操は小さな白い手を自分の胸に当てて、涙で潤んだ目をしながら甲洋を見た。
「そんなのやだよ。おれのせいで甲洋が悲しくなるのは嫌なんだ……でも、でもさ……」
大きな瞳から、ついに涙が溢れ出した。ずっと堪えていたのが分かるほど大粒のそれが、後から後から赤い頬を伝い落ちていく。
「おれは、甲洋と一緒がいい……新しいご主人様なんかいらないよ。甲洋がいい……けど、そしたら甲洋、おれのせいでずっと苦しいまんまで、ずっと痛くて……だったら、おれがいなくなれば……」
そのうち涙だけじゃなく、鼻水まで出てきてしまった。操の心がぐちゃぐちゃになるほど、顔も一緒にぐちゃぐちゃになっていく。もう完全に泣いてしまっているのに、まだ堪えているつもりでいるのか、ヒクヒクと肩を引きつらせながら鼻の穴を膨らませている。
笑う場面じゃないはずなのに、自分のためにこんなにも辛い気持ちを吐露しているのに、甲洋は気が抜けたようにふっと息を吐きだしながら笑ってしまった。笑いながら、「違うよ」と言って首を振る。
「こぉよ……?」
「おいで、操」
その肩を抱いて引き寄せると、そばにあったティッシュの箱から中身を数枚引き抜く。それを操の鼻にあてがって、緩く摘んだ。
「チンして、チン」
「んにゅ、うぅ~」
「よしよし」
操が力むと、ズビッという間抜けな音がする。
緊張感がないなぁと思った。だけどたぶん、重たくなるよりずっといい。操の一生懸命な泣き顔を見ていたら、心の中にあったしこりがほどけていくような感覚を覚えた。
いつまでたっても思い出に変えることができなかった過去の記憶。だけどそろそろ手放してもいい頃なんだろうなと、そんなふうに思うことができた。
愛されなかった過去も、あの雨の夜のことも。甲洋が見つめていたいと思うのは過去じゃない。いま目の前で泣いている操のことだ。操と一緒に紡ぐ未来だけを、見つめていたい。
甲洋は鼻が出きったところでティッシュを丸めて、ついでに操の顔も綺麗にぬぐった。ポイとゴミ箱に放り投げてから、改めて操を腕に閉じ込める。
片手で頬を包み込んで上向かせると、操は濡れた瞳をパチパチと踊らせた。そういえば、自分からこんなふうに手を伸ばしたのはこれが初めてだ。いつも飛びついてくるのは操のほうで、甲洋はただ受け止めるだけだった。
甲洋は操の赤くなっている鼻に自分の鼻を近づけ、いつも彼がそうしていたように小さく触れ合わせた。そのままゆるりと頬を擦り寄せると、操の肌が熱を上げるのが分かる。
まんまるに見開かれた琥珀の瞳を間近に見つめ、甲洋は目を細めて笑った。
「こぉよ……?」
「お前がいないと、もっと痛いよ」
「!」
「俺は、操がいないとダメみたいだ」
甲洋の中にぽっかりと開いていた穴は、最初はただの大きな丸だったのだと思う。だけど気づいたらその穴は操の形をしていて、こうして抱きしめていなければ、きっと凍えて死んでしまう。
「ここにいて、操。俺と、一緒に暮らそう」
腕の中で操が揺れた。揺れながら、蚊の鳴くような声で「いいの?」と言った。尖った耳は後ろ向きにぺたりと倒れ、頼りなく震えていた。なんていじらしいんだろうと、甲洋は思う。
細い身体で、小さな胸で、この子は必死に甲洋のことを考えていた。甲洋の痛みを感じながら、それが自分の責任だと心を痛めて、テーブルの上にクッキーを置いて、裸足で家を飛び出した。
可愛い。そして、愛しい。あのとき助けたのがこの子でよかった。この子を助けたのが、自分でよかった。逢えてよかった。多分、きっと、死ぬまでずっとこの子と離れることはないんだろうなと、漠然とした、けれど確かな予感が胸をさらう。
甲洋は答える代わりに、強く強く、操の身体を抱きしめた。
「おれ、これからも毎日、甲洋におかえりって言ってもいいの? 匂いつけてもいいの?」
「いいよ」
ふわふわの髪に鼻を埋める。自分も使っているはずのシャンプーの香りに、春めいた陽だまりのような匂いが混ざっている。これが操の匂いだ。こんなにもあたたかな匂いに包まれていたことに、どうして気づけなかったのだろう。
「嬉しい……甲洋、大好き……!」
操の両腕が甲洋の首に回された。息ができないくらい強く抱きしめられて、甲洋は笑いながら「俺も」と言った。
操は甲洋のうなじの髪を両手でくしゃりと乱しながら、頬や額を擦りつけてくる。グリグリと一生懸命に自分の匂いをつけながら、ふとなにかに気がついたように「ぁ」と声をあげた。
「なに?」
「甲洋……雨、やんだね」
鼻と鼻が触れ合う距離で、操は嬉しそうにそう言った。
「雨なんか降ってないよ」
雪は少しだけ降ったけれど、すぐにやんでしまった。
小首を傾げる甲洋に、操は肩をすくめて溶け出しそうなくらい甘ったるい笑顔を浮かべる。
「うぅん、いいの。なんでもない」
甲洋は「変なやつ」と言ってクスリと笑うと、視線を交わしあったまま、ゆっくりと、お互いの鼻の先をくっつけあった。
*
春日井甲洋には夢があった。
それは綺麗で優しくて、ちょっぴり天然ボケな可愛いお嫁さん(黒髪ロングで巨乳ならなおよし)をもらって、海が一望できる高台に庭付き一戸建てを購入し、子宝にも恵まれて幸せな家庭を築くこと。
庭では黒柴の子犬を飼って、陽だまりのなかにベンチを置いて、理想の家族と過ごしたかった。
そのためにコツコツ貯金もしてきたし、暇さえあれば出会ってすらいない運命の人に想いを馳せ、幸せな家庭像への妄想を膨らませていた。
けれどそれは、もう過去の話になってしまった。
甲洋が一緒にいたいと思った黒柴の子犬は『あの子』だけで、代わりなんかどこにもいない。
海が見える庭付き一戸建てには憧れるけれど、とりあえず当面は、ネコ一匹と窮屈せずに暮らせる部屋があれば、十分だった。
おしゃべりな可愛い子ネコは陽だまりの匂いをさせながら、いつも自分の帰りを待っている。「ただいま」と言えば「おかえり」と元気に飛びついてくる。甲洋はそんな彼のために、毎日せっせと『狩り』へ出かけているらしい。
まるで原始の暮らしを送っているかのような言いようだが、大学だってバイトだって知識や生活費を得るために行っているのだから、あながち間違った表現でもないような気がする。
なんにせよ、甲洋は今の暮らしに満足している。
ネコ一匹、幸せにできるだけの力があれば、それだけで甲洋も幸せなのだ。
そのために、コツコツと積み立ててきた貯金もおろした。住み慣れた小規模マンションを引っ越して、ペットとの入居が可能な新居に移り住むためである。
「あ、ご主人様だ」
ある朝、操が焼き立てのパンに齧りつきながらテレビを指差し、そう言った。
「えっ?」
口をつけていたコーヒーに咽そうになりながら、甲洋も慌ててテレビ画面へと視線を走らせる。
どこにでもいそうな平凡な顔立ちをした男性の顔写真をバックに、ニュースキャスターが最新ニュースを読み上げている。
それはヒト型動物への性的虐待未遂で、一人の男性が逮捕されたというものだった。
男は自宅アパートに散歩中のメスネコを連れ込み、無理やり猥褻な行為に及ぼうとしたところを、悲鳴を聞きつけた近隣住民によって取り押さえられ、通報された。しかも一連の様子は動画に撮られてSNSで拡散されたらしく、男が無様に取り押さえられている光景がテレビ画面に映しだされている。
ネコは無事に飼い主のもとに返され、男はさらに児童買春の疑いもあるとして、現在取り調べを行っているらしい。
「本当に? こいつで間違いない?」
「うん。この人だよ。ねぇ甲洋、ご主人様はどうしてテレビに出てるの?」
口の端にパンくずをつけた操が、くるくるとした瞳で問いかけてくる。甲洋はそれを指先で取り払ってやりながら、「悪いことをしたからだよ」と言った。
「わるいこと?」
「そう。お前だけじゃなくて、他の子にまで酷いことをしようとしたから。だから捕まったんだよ」
操にも分かる言葉で柔らかく説明しながら、甲洋は安堵していた。
一度は捨てたとはいえ、急に惜しくなって連れ戻しに来るなんてことになりはしないかと、少し──いや、かなり心配していたのだ。だって、その可能性は決して0ではない。
(うちの操は世界一可愛いからなぁ……)
もはや立派な親ばかである。だが仕方ない。操が可愛いのは事実なのだ。
年が明けたら新居に引っ越すことになっているが、こういったニュースを目にしてしまうと、あまりひとりで出歩かせないほうがいいような気がしてきてしまう。
「甲洋、甲洋ってば。ねぇ、どうしたの?」
「ん、なに?」
「さっきからずっと怖い顔してるよ」
「ああ、ごめん、なんでもないよ。操、パンは? もういいの?」
「うん、もうお腹いっぱーい! あのね甲洋、ご飯もお菓子も、食べ過ぎると太っちゃうんだよ。知ってた?」
「知ってるよ」
そう言って笑うと、操はむぅっと眉を寄せて唇を尖らせた。
先端がくるりと丸まったかぎしっぽをブンブンと大きく振って、床を叩きはじめる。
「なぁんだ。せっかく教えてあげようと思ったのに」
……しまった。
操はおそらく、甲洋がいぬ間にテレビから仕入れたのであろう新しい知識を、得意げに披露したかったのだ。食べすぎると太るなんてあまりにも常識すぎて、選択肢を間違えてしまった。
「知ってる、けど、忘れがちかもね。うん、忘れてた。操は物知りだな」
「甲洋って、もしかして嘘つくのも下手なのかな?」
「もってなに? もって……」
可愛いくせに、たまに可愛くないことを言うネコである。
甲洋は少しムッとしながら、テーブルの上で空になっている皿を重ねた。
「食べ過ぎが気になるなら、今夜のケーキはなしかな」
「え!? ケーキ!?」
「クリスマスだからね、今日は」
「クリスマス!?」
操の耳がぴょこんと跳ねた。
そう、今日はクリスマス。正確にはイブである。世間は浮かれモード一色で、しかも今夜は雪の予報が出ていた。的中すればホワイトクリスマスになるだろう。
数日前、甲洋は街のケーキ屋でクリスマスケーキを予約した。4号のワンホールだ。このあと取りに行くことになっている。
「わーいやったー! クリスマスにケーキなんて初めて! 夢みたい!」
操はかぎしっぽをピンと立て、バンザイをすると甲洋に飛びかかってきた。
その勢いが凄まじいものだから、咄嗟に受け止めきれずに横倒しになってしまう。
「うわ、危ない! コーヒー! まだ入ってるから!」
うっかりカップを倒しそうになったが、なんとか無事だった。
床に押し倒されてしまった甲洋は、そのまま操の頬ずり攻撃を食らう。甲洋はその背に両腕をまわし、背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「甲洋、おれ嬉しいよぅ」
「わかったから。あまり興奮しないで」
「太ってもいいから、ケーキいっぱい食べたいよ!」
「いやそれはダメだろ……」
操は食べても食べても痩せっぽちだけれど、保護したときよりはずっと頬がふっくらしてきている。毛並みも艶がでてきたし、そういえばひょろひょろだったしっぽも、ほんの少しだけ太くなったかもしれない。
このままもっとふくふくとして、なんならぷくぷくになってしまったとしても、それはそれで猛烈に可愛いだろうなと甲洋は思う。だが、やっぱり食べ過ぎはいけない。健康管理は飼い主としての立派な勤めである。そこでふと、気がついた。
「そうだ、操。ひとつ言っておきたいことがあるよ」
「にゃあに~?」
甲洋の頬にスリスリと頬を擦りつけていた操が、顔をあげて見下ろしてくる。
「お前はもううちの子だから。他所の人をご主人様なんて呼ぶのは禁止」
あの男は操の飼い主である責任を放棄したのだ。そもそも果たしてすらいなかった。操はヤツの名前を知らないそうだから、他に呼びようがないのかもしれないが、それでもだ。
甲洋は操の飼い主で、そしてある意味、仕えてもいるのである。
操は一瞬だけきょとんとして首を傾げたが、すぐにふにゃあと笑って「そっか」と言った。
「おれはもう、甲洋んちの子になったんだもんね」
そして嬉しそうに鼻を寄せてくる。いつものあれだ。甲洋は小さく笑って目を閉じた。鼻と鼻のキス。くすぐったいあの感触を待ちわびて、けれど、鼻にキスは落とされない。
代わりに唇に、むにゅりと何か柔らかなものが押しつけられる感触があった。
(へ……?)
目を見開く。信じられないくらい近い距離で、伏せられた操のまつ毛が揺れる。
頭の中が真っ白になって、甲洋はそのまま石のように固まった。すると次の瞬間、唇をぺろりと舐められ、さらに歯が、立てられた。
「んむっ!?」
それは軽い甘噛だったが、あまりにもショッキングな出来事だった。思わず悲鳴をあげた甲洋が、操の両肩を掴んで引き剥がす。耳まで真っ赤になっているのを感じながら、口をパクパクとさせた。
「な、なに……? な、な……?」
なにが、起こったんだ──?
操はとろりと潤んだ瞳で、「どうして邪魔するの」と言わんばかりに小首を傾げた。心臓が、胸を突き破って破裂しそうなほど高鳴っている。
「なに、したの……今……?」
「甲洋のこと好きって思ったら、ちゅうして噛みたくなっちゃった」
「ッ……!?」
きっとこの子は、自分がなにをしたか分かっていない。
行き過ぎた愛情表現。甲洋にとっては、ファーストキス。頭の中では、やっぱりあの祝福の鐘が鳴り響いていた。
操は甲洋の上で「えへへ」と笑う。無邪気で可愛い、甲洋の子ネコ。
独りぼっちで思い描いていたはずの未来。理想の家庭は夢のまた夢。もういっそどうでもよくすらなっていて、この子が笑っていてさえくれれば、それでいい。
ただそう遠くない未来、童貞まで捧げてしまう日が来ることを、このときの甲洋はまだ知らないのだ。
毛玉の気持ち/了
←戻る ・ 続編へ→