2025/09/18 Thu 大騒ぎになりはしたが黒鋼と共に軽症で戻ってきたファイも、週末をはさんだ翌週には涼しい顔で、たまに足をひょこひょこと引きずっている程度だった。 登山の夜以来、ファイからの個人的な連絡も接触もなく、これまで通りの日々が過ぎていた。 それから十日ほどが経過したある日。 虫の知らせとは、よく言ったものだ。 三時間目の授業が終わり、次の授業へと向かう生徒達とまばらに擦れ違いながら、黒鋼はふと保健室の前で足を止めた。 閉じられた扉の擦りガラスの向こうが薄暗い。 だがそれ自体はなんら気にすることではないはずだった。所要で部屋を開けることだってあるだろうし、普段であれば気にも留めない、些細なこと。 けれど、そのときの黒鋼には、何かが引っかかった。 思わず手を伸ばして、保健室の扉を開ける。中は案の定もぬけの殻で、空気がいやに冷えている。 理由など分からない。胸騒ぎとでもいえばいいのか。 いるはずの場所にいない養護教諭。主のいない、暗くひんやりとした室内。 彼は、いつからいないのか。なぜかそのとき、あの夜の山の中で力なく笑っていたファイの表情がぽっかりと頭に浮かんだ。 弾かれたように、保健室を後にした。道すがら職員室も覗いて、中にファイがいないことを確認する。 いつしか、黒鋼の胸は常時よりも早いスピードで鼓動を刻んでいた。 そして足取りは自然と北校舎への渡り廊下へ向かっていた。 どうしてか、彼の居場所はそこしかないような気がしていた。 *** ここ数日は、また雨が降っていた。 雨の夜はファイのことを想った。すると、不思議と穏やかな気持ちになって、悪夢は訪れなかった。そして眠ることが出来た。 彼は、いるのだろうか。今ではもうすっかり足を運ぶことがなくなった、あの場所に。 黒鋼は逸る気持ちを表情には出さないまま、久しく訪れていなかった屋上のドアを開けた。 微かに雨上がりの香りを乗せた風が、頬を鋭く撫でた。空は高く、そして青く澄んでいる。 黒鋼は案の定、目当ての人物がそこにいるのを見ると、眉間に皺を寄せて足を踏み出した。 「なにしてる」 押し殺した声をかけると、白衣の裾と金髪を風に靡かせたファイが振り向いた。 錆びたフェンスの向こう、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いてから、苦笑した。 「やっぱり凄いね、君。どうしてわかったの?」 「なにしてるって聞いてんだ」 険しい表情で見据えても、フェンスの向こう側にいるファイの笑顔は崩れなかった。 最悪な予感がして、黒鋼は左右を見回した。そしてやや離れた位置に、フェンスの綻びを見つけた。 それは小さな穴だったが、ファイほど身体が細ければ潜り抜けることが可能だろう。そして黒鋼の予感が当たっているとすれば、自らもそれをこじ開けてでも、向こう側に行く必要がある。 「待ってよ」 舌打ちと共にそこに走りだそうとした黒鋼を、ファイが止めた。それから、ひょいと軽い身のこなしで建物の縁に飛び乗った。 「おいてめぇ!! なにする気だ!? ふざけたことしてんじゃねぇぞ!!」 腹の底が一瞬でヒヤリとして、黒鋼は乱暴にフェンスに手をかけて怒鳴った。 けれどそんなものはお構いなしに、ファイは両手を広げるとその狭い縁部分を大道芸人が綱渡りをするかのように歩きだした。 「おい聞いてんのか!?」 「聞いてるよ? っと」 「ッ!?」 まだ完治していない足首が痛んだのか、ファイは一瞬グラリと体勢を崩す。息を呑んだ黒鋼は、一気に血の気が全身から引いてゆくのを感じた。 「危なかったー」 「くだらねぇことしてんなよ……早く戻れ……ッ」 「やぁだ」 相変わらず縁に佇んだまま、ファイは黒鋼の方に身体を向けると両手を後にやってニコリと微笑んだ。 「オレさ、考えたんだ。ちゃんと」 「……だからなんだってんだ」 ファイが言っていることと、この状況のどこに関係があるのか、黒鋼には理解できなかった。 今にもいっそこの高いフェンスを登ってでも連れ戻したい気持ちを、抑えた口調に閉じ込める。下手に動けば、彼は何をしでかすか分からない。だが、このままただ指を咥えて見ていたとしても、結果は同じような気もしていた。 「ごめんね。馬鹿なことしてるよね。分かってるんだ。でもね、オレはずっとこうして生きてきたから、どんなに一生懸命考えたって、今更どうしようもなかった」 彼はどうするつもりなのか。嫌な予感が一向に絶えない。冗談じゃない。 「あのね、こんな風にしか、オレには答えが出せないみたい。でも、もう逃げたくない。だって君は、オレに気づいてくれた。君みたいな人は、初めてだった」 握り締めたフェンスが、ギシリと軋んだ音を立てる。心臓の音が脳内にまで響いていた。混乱をギリギリまで押し込めて、黒鋼は一つ息を呑むと声を絞り出した。 「そうだ。俺にはなんでかてめぇが猫かぶってんのが分かっちまった。だがそれだけだ。今だって、てめぇがしようとしてることのこれっぽっちも分からねぇ」 「あはは……そうだよね。ごめんね」 ファイは力なく首を振った。そして、ちらりと横目に背後を見下ろした。 「おい……ッ」 「こんなに高かったかな。子供の頃は、ぜんぜん平気だったのに」 彼は再び真っ直ぐに黒鋼と向き合うと、酷く穏やかに笑った。 「君は聞いたね。オレが誰なのかって」 金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。 それは今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は痛みを堪えるような表情で手を伸ばそうとした。 けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。 「オレもずっと考えていた……」 黒鋼は激しく首を左右に振った。こんなにも細く紡がれた無機質な糸が、黒鋼からファイを引き離している。 「もういい。言ったはずだ。てめぇはてめぇだろ……」 「駄目なんだ。それじゃあ、あの子がオレの中からいなくなってしまう」 「あの子……?」 「あの石は、もうない。それでも『オレ』が『オレ』でいられたら……言うよ。本当の気持ち」 「おい待てッ! てめぇ何を!?」 「だからお願い。答え合わせがしたいんだ」 両手を羽のように広げて、ファイは空を仰いだ。目を閉じて、それから独り言のように呟く。 「ごめんねファイ……。オレ、上手くやれなかった……。でも、今ならわかるよ。どうして君が、あのとき……」 誰に向かっての言葉なのだろう。今目の前で馬鹿なことをしようとしている男は、一体誰なのだろう。 黒鋼はただ漠然と感じていた。『ファイ』という人間は、もしかしたら本当はどこにもいなかったのかもしれない、と。 煙のように、幻のように、そして悪夢のように。 消えてしまうことこそが、本来あるべき姿なのだとしたら。 もう二度と。 もう二度と……? 「見てて」 悲しそうな瞳をした白衣の天使が、空に羽ばたいた。 *** ――ねぇファイ。どうして君は、あのとき笑ったの? ファイは物心ついた頃からあまり身体が丈夫ではなく、気の弱いおとなしい性格の子供だった。 対照的にやんちゃで勝気で活発だったのが双子の弟であるユゥイで、よく悪戯をしては叱られることが多かったのも、ユゥイの方だった。 幼い双子はいつも一緒だった。小学校ではクラスは分かれていたが、休み時間や登下校、クラブ活動など片時も側を離れたことはなかった。 けれど友達と活発に遊びまわるのはユゥイで、ファイはいつもそれを離れた位置から眺めていることがほとんどだった。 彼は身体が丈夫ではなかったので、少し激しい運動をするだけで夜中に熱を出すこともあった。 それでも、どんなときでもファイはいつもニコニコと、柔らかく微笑んでいた。 その笑顔はユゥイだけでなく、見るもの全てを幸せにするような、太陽にも似た暖かく眩しいものだった。 「ねぇ、大きくなったら何になるか、ファイはもう決めた?」 寝るときも同じ部屋だった双子は、二つ並んでいるベッドのどちらか片方に、いつも二人で寄り添っていた。 闇の中でユゥイが語りかけると、隣で猫のように丸まっていたファイがモゾリと動く。 「作文のこと?」 「うん、それ」 明日の授業では、将来の夢について書くことになっている。先生が、よく考えてくるようにと帰りの会で言っていた。 「うーん。ボクは、学校の先生になりたい」 「えー。オレだったら大きくなってからも学校なんか行きたくないなぁ」 そう言うと、ファイは少し迷ってしまったようだった。 「じゃあ……じゃあ、動物病院の先生になるよ」 「ファイは先生って呼ばれたいんだ?」 「そういうんじゃないけど……。ねぇユゥイは? ボクばっかりズルイ」 「オレはー……」 ユゥイは天井を見上げた。暗闇の中でもある程度は目が慣れてしまっているため、吊るされている飛行機の模型がぽっかり浮いているのが見えた。 ついこの間までは飛行機のパイロットになりたかったような気がするけれど、今はどうでもいいような気がしている。その前は警察官になりたかったし、その前は電車の車掌になりたかった。 なりたいものが多すぎて、考えれば考えるほど迷ってしまう。 「毎日飽きないくらい、スリル満点な仕事がしたいなぁ……。ほら、山とか海とか冒険したり」 「そんなお仕事ってあるの?」 「ない、のかなぁ……?」 「それに危ないよ。大きな蛇とか……岩が転がってくるかもよ?」 「そんなの平気だよ。やっつけちゃうから。それにオレ足速いし」 大丈夫かなぁ、と心配しているファイに、ユゥイはガバッと起き上がると「そうだ!」と言った。 「こないだテレビでさ、蛇とかカエルを焼いて食べてる人がいたんだ」 「え~、気持ち悪いよ……」 ファイも渋々起き上がる。ユゥイはぴょんと飛び跳ねるようにしてファイと向かい合った。 「だからさ、オレ料理の勉強するよ! そんでやっつけた蛇を、レストランのご飯みたいにちょちょいって料理しちゃうんだ!」 「でも……蛇だよ……?」 「平気平気! オムライスとかに入れちゃえばわかんないよ! ファイにも作ってあげるから!」 「じゃあ、コックさんになるってこと?」 「そう! 世界中を冒険してまわるコックさん!」 ユゥイはその名案に満足しながら笑った。 * きっかけは朝に弱かったユゥイが、間違えてファイの名前の書かれた名札をつけてしまったことだった。 「ユゥイ、それボクの」 「ん~? あ~? ホントだぁ~」 すぐに取り外そうとして、けれどユゥイはパッと眠気を吹き飛ばした。にんまりとして、ファイが持っている自分の名札を取り上げると彼の胸につけた。 「なにしてるの?」 「いいからいいから」 「ちょっとユゥイ……まさか……」 「そ。今日はオレがファイ。ファイがユゥイ」 そう言うと、ファイは困ったように眉間に皺を寄せる。 「ダメだよそんなの。ぜったいバレちゃうってば」 「合唱の練習でアルトとソプラノ入れ代わったときはバレなかったよ?」 「だってあれは歌ってただけだもん」 「いいからいいからー! ほら、ファイはこっちのランドセルー」 ユゥイは大ハシャギで少し潰れ気味のランドセルをファイに背負わせた。逆にユゥイが、まるで新品のように綺麗なランドセルを背負う。 「ね? 部屋を出たらスタートだから。ちゃんと元気いっぱいで行ってきますって言うんだよ」 「もう……仕方ないなぁ……」 ファイは最後まで嫌そうにしていたが、結局は流されてしまった。 ユゥイは何か忘れているような気がしたが、母でさえも気がつかなかったことに気をよくして、家の門を出た頃には入れ代わりゲームのことで頭がいっぱいになった。 いつもとは違う教室の、違う席に座って授業を受けるのはスリルがあった。 担任の先生ももちろん気づくことはなく、ファイの名前を呼ばれたユゥイは控えめな声のトーンで返事をした。 ファイがどんな風に振舞うかは熟知していたので、例え当てられた問題に答えられなくても、どうとでも誤魔化せる。 作文も、昨夜ファイが言っていた動物病院の先生と、学校の先生のことをどちらも書いた。 (ファイも、うまくやってるかなぁ?) 休み時間が待ち遠しくて、ユゥイは頬がにんまりするのを堪えるのに必死だった。 けれど、あんなに待ち遠しかった休み時間の途中、ユゥイは辺りにバレないよう密かに唇を尖らせることになった。 友達と追いかけっこをして廊下ではしゃぐのも、校庭でキャッチボールをするのも、今日の自分はそれが出来ない。 ファイに成りすましているユゥイは、ただそれを笑いながら見ているだけだった。 廊下の壁によりかかって、走り回っている友達とファイを眺めた。ファイは最初は嫌がっていたのが嘘のように、ユゥイになりきって走り回っている。 (ちぇー、ファイってば。本当はあんなに走れるじゃん) 頬を赤く上気させたファイは、キャアキャアと高い声を上げて笑っていた。走り回るよりは本を読んでいる方が好きな普段の彼とは、まるで別人だ。 (当たり前かー。別人なんだもん。今のオレたち……) 小さく溜息をつきながら、それでも楽しそうに動き回るファイを見るのは嬉しかった。 自分も一緒になって大声を出して走りたい。廊下を走るなと先生に怒られて、悲鳴を上げながら逃げたりしたい。 そして思う。 (ファイは、オレを見ていつもこんな風に思っていたのかな) ファイは身体が弱いから、もしかしたらはしゃぎすぎて今日の夜には熱を出すかもしれない。それでも、死ぬほどのことではないのだから、今だけはいいかと思った。 給食が終わると、皆で旧校舎の屋上へ行こうという話になった。 そこは普段は立ち入り禁止だったが、実はずっと前から裏口の鍵が壊れている。旧校舎は新校舎の真裏にあり、上手い具合に屋上に人がいても校庭からは見えない。悪ガキたちの格好の遊び場だった。 ユゥイは、友人達に先に行っててと言った。そしてファイを連れてトイレに入ると、人気がないのを確認した。 「ユゥイ、どうかした?」 「今から屋上だって」 「うん。早く行こうよ」 「この遊び、もうやめよ?」 そう言うと、ファイが顔を曇らせる。 「どうして? ボク……あ、オレ、ちゃんと上手くやれてるでしょ?」 「でも、屋上に行くと危ないことして遊ぶでしょ……? ファイには無理だよ」 「そんなことない!!」 「!」 それは、ユゥイが初めて聞くファイの感情的な声だった。頬を赤くして、眉間にぎゅっと皺を寄せながら眉を吊り上げている。 そんな顔を見たのも初めてで、思わずビクリと肩を震わせた。怯えるユゥイの反応を見て、ファイがはっとする。そして、少し泣きそうな顔をした。 「ぁ……ごめん。ごめんねユゥイ……」 「うん……オレ、じゃなくて、ボクもごめん……」 微妙な空気が流れたところで、他の学年の生徒が数名トイレに入ってきた。ユゥイはファイに手を引かれてその場を出る。 騒がしい廊下を並んで手を繋いで歩きながら、ファイが小声で言った。 「作文、ユゥイが言ってたとおりのこと、書いたよ」 「オ……、ボクも、書いた。動物の先生と、ガッコの先生、どっちも書いたよ」 「ありがと」 「うん」 上靴のままで体育館へと続く校庭脇の渡り廊下から外へ出た。 皆はもう、とっくに旧校舎に行っているだろう。 屋上へ行くと、決まってやる危険な遊びがある。このまま名札を代えずに行けば、きっとファイにも出番が回って来てしまう。 「ファイ……あの」 「ユゥイ」 今は週に数回のクラブ活動でしか使われていない旧校舎にたどり着き、裏口から中に入ると、ユゥイの声を遮ってファイが言った。 「今日だけ、お願い。あのね、ボク……本当はずっとユゥイみたいになりたかったの」 「でも……」 「お願い」 ユゥイは迷った。けれど、ファイが今にも泣きそうな顔で強く手を握ってくるので、思わず口を噤んだ。 「ありがとう!」 すると、ファイは嬉しそうに笑って走り出した。そのとき、握っていた手が外された。 「あ、待ってよファ……ユゥイ!」 「オレ、先に行ってるから!」 そう言って、ユゥイになりきったファイは階段を上って行ってしまった。 慌てて追いかけようとして、そこでユゥイはずっと忘れていたことを思い出した。 (そうだ! 蛍石を渡さなきゃ……!) それは御守りの石だった。どんなにヤンチャな遊びをしても、この石があったからユゥイは今まで一度も大きな怪我をしないで済んだ。 今は自分が『ファイ』だから、これを持っていなければならないのは『ユゥイ』なのだ。 「ユゥイ! 待って!!」 ――待って。待ってよユゥイ。ボクを置いて、行かないで。 ←戻る ・ 次へ→
登山の夜以来、ファイからの個人的な連絡も接触もなく、これまで通りの日々が過ぎていた。
それから十日ほどが経過したある日。
虫の知らせとは、よく言ったものだ。
三時間目の授業が終わり、次の授業へと向かう生徒達とまばらに擦れ違いながら、黒鋼はふと保健室の前で足を止めた。
閉じられた扉の擦りガラスの向こうが薄暗い。
だがそれ自体はなんら気にすることではないはずだった。所要で部屋を開けることだってあるだろうし、普段であれば気にも留めない、些細なこと。
けれど、そのときの黒鋼には、何かが引っかかった。
思わず手を伸ばして、保健室の扉を開ける。中は案の定もぬけの殻で、空気がいやに冷えている。
理由など分からない。胸騒ぎとでもいえばいいのか。
いるはずの場所にいない養護教諭。主のいない、暗くひんやりとした室内。
彼は、いつからいないのか。なぜかそのとき、あの夜の山の中で力なく笑っていたファイの表情がぽっかりと頭に浮かんだ。
弾かれたように、保健室を後にした。道すがら職員室も覗いて、中にファイがいないことを確認する。
いつしか、黒鋼の胸は常時よりも早いスピードで鼓動を刻んでいた。
そして足取りは自然と北校舎への渡り廊下へ向かっていた。
どうしてか、彼の居場所はそこしかないような気がしていた。
***
ここ数日は、また雨が降っていた。
雨の夜はファイのことを想った。すると、不思議と穏やかな気持ちになって、悪夢は訪れなかった。そして眠ることが出来た。
彼は、いるのだろうか。今ではもうすっかり足を運ぶことがなくなった、あの場所に。
黒鋼は逸る気持ちを表情には出さないまま、久しく訪れていなかった屋上のドアを開けた。
微かに雨上がりの香りを乗せた風が、頬を鋭く撫でた。空は高く、そして青く澄んでいる。
黒鋼は案の定、目当ての人物がそこにいるのを見ると、眉間に皺を寄せて足を踏み出した。
「なにしてる」
押し殺した声をかけると、白衣の裾と金髪を風に靡かせたファイが振り向いた。
錆びたフェンスの向こう、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いてから、苦笑した。
「やっぱり凄いね、君。どうしてわかったの?」
「なにしてるって聞いてんだ」
険しい表情で見据えても、フェンスの向こう側にいるファイの笑顔は崩れなかった。
最悪な予感がして、黒鋼は左右を見回した。そしてやや離れた位置に、フェンスの綻びを見つけた。
それは小さな穴だったが、ファイほど身体が細ければ潜り抜けることが可能だろう。そして黒鋼の予感が当たっているとすれば、自らもそれをこじ開けてでも、向こう側に行く必要がある。
「待ってよ」
舌打ちと共にそこに走りだそうとした黒鋼を、ファイが止めた。それから、ひょいと軽い身のこなしで建物の縁に飛び乗った。
「おいてめぇ!! なにする気だ!? ふざけたことしてんじゃねぇぞ!!」
腹の底が一瞬でヒヤリとして、黒鋼は乱暴にフェンスに手をかけて怒鳴った。
けれどそんなものはお構いなしに、ファイは両手を広げるとその狭い縁部分を大道芸人が綱渡りをするかのように歩きだした。
「おい聞いてんのか!?」
「聞いてるよ? っと」
「ッ!?」
まだ完治していない足首が痛んだのか、ファイは一瞬グラリと体勢を崩す。息を呑んだ黒鋼は、一気に血の気が全身から引いてゆくのを感じた。
「危なかったー」
「くだらねぇことしてんなよ……早く戻れ……ッ」
「やぁだ」
相変わらず縁に佇んだまま、ファイは黒鋼の方に身体を向けると両手を後にやってニコリと微笑んだ。
「オレさ、考えたんだ。ちゃんと」
「……だからなんだってんだ」
ファイが言っていることと、この状況のどこに関係があるのか、黒鋼には理解できなかった。
今にもいっそこの高いフェンスを登ってでも連れ戻したい気持ちを、抑えた口調に閉じ込める。下手に動けば、彼は何をしでかすか分からない。だが、このままただ指を咥えて見ていたとしても、結果は同じような気もしていた。
「ごめんね。馬鹿なことしてるよね。分かってるんだ。でもね、オレはずっとこうして生きてきたから、どんなに一生懸命考えたって、今更どうしようもなかった」
彼はどうするつもりなのか。嫌な予感が一向に絶えない。冗談じゃない。
「あのね、こんな風にしか、オレには答えが出せないみたい。でも、もう逃げたくない。だって君は、オレに気づいてくれた。君みたいな人は、初めてだった」
握り締めたフェンスが、ギシリと軋んだ音を立てる。心臓の音が脳内にまで響いていた。混乱をギリギリまで押し込めて、黒鋼は一つ息を呑むと声を絞り出した。
「そうだ。俺にはなんでかてめぇが猫かぶってんのが分かっちまった。だがそれだけだ。今だって、てめぇがしようとしてることのこれっぽっちも分からねぇ」
「あはは……そうだよね。ごめんね」
ファイは力なく首を振った。そして、ちらりと横目に背後を見下ろした。
「おい……ッ」
「こんなに高かったかな。子供の頃は、ぜんぜん平気だったのに」
彼は再び真っ直ぐに黒鋼と向き合うと、酷く穏やかに笑った。
「君は聞いたね。オレが誰なのかって」
金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。
それは今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は痛みを堪えるような表情で手を伸ばそうとした。
けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。
「オレもずっと考えていた……」
黒鋼は激しく首を左右に振った。こんなにも細く紡がれた無機質な糸が、黒鋼からファイを引き離している。
「もういい。言ったはずだ。てめぇはてめぇだろ……」
「駄目なんだ。それじゃあ、あの子がオレの中からいなくなってしまう」
「あの子……?」
「あの石は、もうない。それでも『オレ』が『オレ』でいられたら……言うよ。本当の気持ち」
「おい待てッ! てめぇ何を!?」
「だからお願い。答え合わせがしたいんだ」
両手を羽のように広げて、ファイは空を仰いだ。目を閉じて、それから独り言のように呟く。
「ごめんねファイ……。オレ、上手くやれなかった……。でも、今ならわかるよ。どうして君が、あのとき……」
誰に向かっての言葉なのだろう。今目の前で馬鹿なことをしようとしている男は、一体誰なのだろう。
黒鋼はただ漠然と感じていた。『ファイ』という人間は、もしかしたら本当はどこにもいなかったのかもしれない、と。
煙のように、幻のように、そして悪夢のように。
消えてしまうことこそが、本来あるべき姿なのだとしたら。
もう二度と。
もう二度と……?
「見てて」
悲しそうな瞳をした白衣の天使が、空に羽ばたいた。
***
――ねぇファイ。どうして君は、あのとき笑ったの?
ファイは物心ついた頃からあまり身体が丈夫ではなく、気の弱いおとなしい性格の子供だった。
対照的にやんちゃで勝気で活発だったのが双子の弟であるユゥイで、よく悪戯をしては叱られることが多かったのも、ユゥイの方だった。
幼い双子はいつも一緒だった。小学校ではクラスは分かれていたが、休み時間や登下校、クラブ活動など片時も側を離れたことはなかった。
けれど友達と活発に遊びまわるのはユゥイで、ファイはいつもそれを離れた位置から眺めていることがほとんどだった。
彼は身体が丈夫ではなかったので、少し激しい運動をするだけで夜中に熱を出すこともあった。
それでも、どんなときでもファイはいつもニコニコと、柔らかく微笑んでいた。
その笑顔はユゥイだけでなく、見るもの全てを幸せにするような、太陽にも似た暖かく眩しいものだった。
「ねぇ、大きくなったら何になるか、ファイはもう決めた?」
寝るときも同じ部屋だった双子は、二つ並んでいるベッドのどちらか片方に、いつも二人で寄り添っていた。
闇の中でユゥイが語りかけると、隣で猫のように丸まっていたファイがモゾリと動く。
「作文のこと?」
「うん、それ」
明日の授業では、将来の夢について書くことになっている。先生が、よく考えてくるようにと帰りの会で言っていた。
「うーん。ボクは、学校の先生になりたい」
「えー。オレだったら大きくなってからも学校なんか行きたくないなぁ」
そう言うと、ファイは少し迷ってしまったようだった。
「じゃあ……じゃあ、動物病院の先生になるよ」
「ファイは先生って呼ばれたいんだ?」
「そういうんじゃないけど……。ねぇユゥイは? ボクばっかりズルイ」
「オレはー……」
ユゥイは天井を見上げた。暗闇の中でもある程度は目が慣れてしまっているため、吊るされている飛行機の模型がぽっかり浮いているのが見えた。
ついこの間までは飛行機のパイロットになりたかったような気がするけれど、今はどうでもいいような気がしている。その前は警察官になりたかったし、その前は電車の車掌になりたかった。
なりたいものが多すぎて、考えれば考えるほど迷ってしまう。
「毎日飽きないくらい、スリル満点な仕事がしたいなぁ……。ほら、山とか海とか冒険したり」
「そんなお仕事ってあるの?」
「ない、のかなぁ……?」
「それに危ないよ。大きな蛇とか……岩が転がってくるかもよ?」
「そんなの平気だよ。やっつけちゃうから。それにオレ足速いし」
大丈夫かなぁ、と心配しているファイに、ユゥイはガバッと起き上がると「そうだ!」と言った。
「こないだテレビでさ、蛇とかカエルを焼いて食べてる人がいたんだ」
「え~、気持ち悪いよ……」
ファイも渋々起き上がる。ユゥイはぴょんと飛び跳ねるようにしてファイと向かい合った。
「だからさ、オレ料理の勉強するよ! そんでやっつけた蛇を、レストランのご飯みたいにちょちょいって料理しちゃうんだ!」
「でも……蛇だよ……?」
「平気平気! オムライスとかに入れちゃえばわかんないよ! ファイにも作ってあげるから!」
「じゃあ、コックさんになるってこと?」
「そう! 世界中を冒険してまわるコックさん!」
ユゥイはその名案に満足しながら笑った。
*
きっかけは朝に弱かったユゥイが、間違えてファイの名前の書かれた名札をつけてしまったことだった。
「ユゥイ、それボクの」
「ん~? あ~? ホントだぁ~」
すぐに取り外そうとして、けれどユゥイはパッと眠気を吹き飛ばした。にんまりとして、ファイが持っている自分の名札を取り上げると彼の胸につけた。
「なにしてるの?」
「いいからいいから」
「ちょっとユゥイ……まさか……」
「そ。今日はオレがファイ。ファイがユゥイ」
そう言うと、ファイは困ったように眉間に皺を寄せる。
「ダメだよそんなの。ぜったいバレちゃうってば」
「合唱の練習でアルトとソプラノ入れ代わったときはバレなかったよ?」
「だってあれは歌ってただけだもん」
「いいからいいからー! ほら、ファイはこっちのランドセルー」
ユゥイは大ハシャギで少し潰れ気味のランドセルをファイに背負わせた。逆にユゥイが、まるで新品のように綺麗なランドセルを背負う。
「ね? 部屋を出たらスタートだから。ちゃんと元気いっぱいで行ってきますって言うんだよ」
「もう……仕方ないなぁ……」
ファイは最後まで嫌そうにしていたが、結局は流されてしまった。
ユゥイは何か忘れているような気がしたが、母でさえも気がつかなかったことに気をよくして、家の門を出た頃には入れ代わりゲームのことで頭がいっぱいになった。
いつもとは違う教室の、違う席に座って授業を受けるのはスリルがあった。
担任の先生ももちろん気づくことはなく、ファイの名前を呼ばれたユゥイは控えめな声のトーンで返事をした。
ファイがどんな風に振舞うかは熟知していたので、例え当てられた問題に答えられなくても、どうとでも誤魔化せる。
作文も、昨夜ファイが言っていた動物病院の先生と、学校の先生のことをどちらも書いた。
(ファイも、うまくやってるかなぁ?)
休み時間が待ち遠しくて、ユゥイは頬がにんまりするのを堪えるのに必死だった。
けれど、あんなに待ち遠しかった休み時間の途中、ユゥイは辺りにバレないよう密かに唇を尖らせることになった。
友達と追いかけっこをして廊下ではしゃぐのも、校庭でキャッチボールをするのも、今日の自分はそれが出来ない。
ファイに成りすましているユゥイは、ただそれを笑いながら見ているだけだった。
廊下の壁によりかかって、走り回っている友達とファイを眺めた。ファイは最初は嫌がっていたのが嘘のように、ユゥイになりきって走り回っている。
(ちぇー、ファイってば。本当はあんなに走れるじゃん)
頬を赤く上気させたファイは、キャアキャアと高い声を上げて笑っていた。走り回るよりは本を読んでいる方が好きな普段の彼とは、まるで別人だ。
(当たり前かー。別人なんだもん。今のオレたち……)
小さく溜息をつきながら、それでも楽しそうに動き回るファイを見るのは嬉しかった。
自分も一緒になって大声を出して走りたい。廊下を走るなと先生に怒られて、悲鳴を上げながら逃げたりしたい。
そして思う。
(ファイは、オレを見ていつもこんな風に思っていたのかな)
ファイは身体が弱いから、もしかしたらはしゃぎすぎて今日の夜には熱を出すかもしれない。それでも、死ぬほどのことではないのだから、今だけはいいかと思った。
給食が終わると、皆で旧校舎の屋上へ行こうという話になった。
そこは普段は立ち入り禁止だったが、実はずっと前から裏口の鍵が壊れている。旧校舎は新校舎の真裏にあり、上手い具合に屋上に人がいても校庭からは見えない。悪ガキたちの格好の遊び場だった。
ユゥイは、友人達に先に行っててと言った。そしてファイを連れてトイレに入ると、人気がないのを確認した。
「ユゥイ、どうかした?」
「今から屋上だって」
「うん。早く行こうよ」
「この遊び、もうやめよ?」
そう言うと、ファイが顔を曇らせる。
「どうして? ボク……あ、オレ、ちゃんと上手くやれてるでしょ?」
「でも、屋上に行くと危ないことして遊ぶでしょ……? ファイには無理だよ」
「そんなことない!!」
「!」
それは、ユゥイが初めて聞くファイの感情的な声だった。頬を赤くして、眉間にぎゅっと皺を寄せながら眉を吊り上げている。
そんな顔を見たのも初めてで、思わずビクリと肩を震わせた。怯えるユゥイの反応を見て、ファイがはっとする。そして、少し泣きそうな顔をした。
「ぁ……ごめん。ごめんねユゥイ……」
「うん……オレ、じゃなくて、ボクもごめん……」
微妙な空気が流れたところで、他の学年の生徒が数名トイレに入ってきた。ユゥイはファイに手を引かれてその場を出る。
騒がしい廊下を並んで手を繋いで歩きながら、ファイが小声で言った。
「作文、ユゥイが言ってたとおりのこと、書いたよ」
「オ……、ボクも、書いた。動物の先生と、ガッコの先生、どっちも書いたよ」
「ありがと」
「うん」
上靴のままで体育館へと続く校庭脇の渡り廊下から外へ出た。
皆はもう、とっくに旧校舎に行っているだろう。
屋上へ行くと、決まってやる危険な遊びがある。このまま名札を代えずに行けば、きっとファイにも出番が回って来てしまう。
「ファイ……あの」
「ユゥイ」
今は週に数回のクラブ活動でしか使われていない旧校舎にたどり着き、裏口から中に入ると、ユゥイの声を遮ってファイが言った。
「今日だけ、お願い。あのね、ボク……本当はずっとユゥイみたいになりたかったの」
「でも……」
「お願い」
ユゥイは迷った。けれど、ファイが今にも泣きそうな顔で強く手を握ってくるので、思わず口を噤んだ。
「ありがとう!」
すると、ファイは嬉しそうに笑って走り出した。そのとき、握っていた手が外された。
「あ、待ってよファ……ユゥイ!」
「オレ、先に行ってるから!」
そう言って、ユゥイになりきったファイは階段を上って行ってしまった。
慌てて追いかけようとして、そこでユゥイはずっと忘れていたことを思い出した。
(そうだ! 蛍石を渡さなきゃ……!)
それは御守りの石だった。どんなにヤンチャな遊びをしても、この石があったからユゥイは今まで一度も大きな怪我をしないで済んだ。
今は自分が『ファイ』だから、これを持っていなければならないのは『ユゥイ』なのだ。
「ユゥイ! 待って!!」
――待って。待ってよユゥイ。ボクを置いて、行かないで。
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