2025/09/18 Thu 「オレ、オレね、今日、あの子とお話した……!」 ファイはいつも、夕食前にはユゥイの部屋で宿題をする。 その日は部屋に入って来たかと思うと勉強道具を床に投げ出し、すぐにベッドに乗り上げて鼻息を荒くしている。 「ほんと?」 広げていた本をぱたりと閉じて、ユゥイが目を見開くとファイは大きな声で「うん!」と返事をした。 「こうやってね、あの子が人差し指を立てたら、真っ赤なトンボが止まったの! 魔法みたいだった……」 小さな人差し指をつんと立てて、ファイは顔を赤くしていた。ファイの興奮が手に取るように伝わるユゥイは、そのときの二人のやり取りを想像して、胸をワクワクと躍らせる。 ふたりはどんな話をしたのだろう。ちゃんと仲良くなれたのだろうか。そのあと、トンボはどうなったのだろう。 「でもね、オレが捕まえようとしたら、あの子が逃がしちゃったんだ……」 しゅんとするファイの頭を撫でながら、ユゥイは笑った。 「言ったでしょ? 優しい子だよって」 「でも……でも、捕まえたかったんだもん……」 俯くファイの様子を見て、きっと上手くはいかなかったのだろうなと、ユゥイは思った。きっと黒鋼は、自分がああいう話をしたから、頑張ってくれたのだろうけど。 かと言ってファイと同調してしょんぼりもしていられない。だから殊更優しく頭を撫でた。これではどちらが兄かわからない。 「捕まえたら、あっという間に死んじゃうよ?」 「死なないもん! オレが、ちゃんと大事に育てるもん……」 うぅん、と言ってユゥイは首を左右に振った。 「せっかく羽があるんだもの。閉じ込めちゃったらだめ。ファイの傍では生きられないの」 「っ、そんなの……」 「ほら、泣かないの」 顔を上げたファイの瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。ユゥイはその目元にキスをする。 彼が、トンボが逃げてしまったことを悔やんで泣いているのではないことくらい、知っている。 入退院を繰り返す間、ファイはこの屋敷で一人きりだった。 優しい老夫婦が住み込みで屋敷を管理してくれているけれど、両親は海外を飛び回る生活の中、数年前に飛行機事故で死んでいた。 墜落地点は海の真上だったと聞いている。遺体は上がっていない。 形ばかりの墓標が、この屋敷の裏に茂る森の奥に佇んでいるだけだった。 おかしな話かもしれないが、ユゥイは両親の顔をあまり覚えていない。きっとそれはファイも同じだ。 ユゥイはこの幼さで、漠然と悟っていた。 自分はおそらくこの部屋から生涯出られない。行ける場所は病院の、ベッドや手術台の上が関の山。 あとどれくらいかは分からないけれど、自分には、ファイや黒鋼ほどの時間は残されていないように思う。 口には出さないけれど、ファイもそれを無意識に悟り、そしてユゥイ以上に恐れていた。だから彼はこうして身を震わせるのだ。 閉じ込められるのは自分一人で十分だった。この背中に羽根がないことを、誰よりも知っていたのはユゥイだったから。 飛ぶ力があるのなら、例えその生涯が短くとも。それを手折る資格は誰にもないから。 ファイの手がどんなに優しくても、どんなに愛しても、一緒には生きられない。 「ね、ファイ。今度は三人でお話しよう? トンボを側で見せてくれたんでしょ? お礼は言ったの?」 ふわふわと金の髪を揺らして、ファイは首を振った。その瞳から雫が零れることはなかった。ユゥイはほっと安心して、もう一度キスをした。 「じゃあ言わなくちゃ。本当は仲良くなりたいんだよね?」 「……オレは、いい」 「どうして?」 「だって……なにお話したらいいか……わかんないもん……」 「そんなの」 ユゥイは笑う。 「その時にならなきゃわかんないよ。チャンスはいっぱいあるんだもの。きっといくらでもお話できるよ?」 黒鋼だってそうだ。きっとファイと打ち解けたいと思っているに違いない。 赤子がむずがるように小さく「うぅん」と唸ったファイが可愛くて、これではやっぱりどちらが先に生まれてきたのか、さっぱり分からなかった。 これ以上追いつめても仕方がないと割り切ったユゥイは、しょうがないなと内心呟くと、ファイの肩をぽんと叩いた。 「宿題やっちゃお? ボクも一緒にやったげる」 そう言うと、気を取り直したファイは照れ臭そうにはにかみながら「うん」と返事をした。 * いつか本当に、黒鋼とファイと自分とで、楽しくお喋りが出来たらと、ユゥイは思う。 懐っこいようでいて実は人見知りをしてしまうファイと、本当は優しいくせにぶっきらぼうな物言いしか出来ない黒鋼は、見ているこちらが笑ってしまうくらい不器用で、実はとてもよく似ていた。 二人が早く仲良くなれたらいいのに。心から思っている。 けれど時々、不安にもなった。 もしファイと黒鋼が仲良しになったら。 もう、ここに黒鋼は来なくなるかもしれない。 こんな小さな庭ではなく、表の大きな庭で、お喋りよりも駆けまわって遊ぶ方が楽しいかもしれない。 仲良くなってほしい。でも、仲良くなってほしくない。 ユゥイの小さな胸の中には、そんな二つの相反する思いがあった。 自分には駆けまわるだけの体力はない。長い時間、外の風に当たっていることも出来ない。 したくても出来ないことがたくさんある。それらは全て、ファイが持っていた。 なら自分には、何が与えられたのだろう。何を持っているのだろう。何を得ることができるのだろう。 黒鋼と出会うまでは、こんなこと考えもしなかった。 初めての友達。ファイから顔が怖いなんて話を聞いていたから、最初はどんな子なのかと思っていたけれど。 一生懸命に花の手入れをする姿を見て、ユゥイには彼の優しさが一目でわかった。 話しかける勇気がなくて、ただ見ているだけの自分を、彼は最初ファイと間違えて腹を立てていたようだが、話をするうちにすぐに仲良くなれた。大好きになった。 だから黒鋼がファイをよく思っていないことは悲しかった。 ファイはユゥイだから。多分きっと、元々はたった一つの魂だった。別たれてしまったのは、神様の悪戯なのだと。 だから黒鋼には、ユゥイ自身でもあるファイを好きになってほしいのに。それが怖い。 もしファイがいなければ。 自由に外を駆けまわり、色々な場所へ行ったり、学校へ行ったり。それを出来たのは、自分の方だったのかもしれないなんて。 そんなことを一人、知らず知らずのうちに考えてしまう夜。 ユゥイは自分が嫌で仕方がなくなる。許せなくなる。時に涙さえ零しながら。 窓から覗く月はどこまでも遠くて、どんなに手を伸ばしても、届かないことを知っているのに。 ファイは大切な家族。もう一人の自分。彼の喜びや幸せは、自分にとっての幸福でなければならない。 だからそんなときはただ、決して触れることの出来ない月を見上げながら、明日のことを思った。 大丈夫。明日も生きられる。明日も、きっと黒鋼が来てくれる。 ずっとずっと、一緒にいたい。 *** 「白くなっちゃったね」 春。 裏庭の雑草を丁寧に毟っていた黒鋼に、ユゥイが言った。 「これか?」 黒鋼は毟ったばかりの白い綿毛のたんぽぽを、ユゥイの側まで近付けて見せる。彼は「うん」と頷いた。 「黄色いのが好きなんだ」 「これもこれで面白いぜ。ほら、吹いてみろ」 「いいの?」 なぜか、ユゥイは瞳をキラキラと輝かせた。外で遊んだことのない彼は、たんぽぽの綿毛を飛ばすなんて当たり前の遊びすら、したことがないのだ。 「いくよ?」 ふっ、と薄紅の唇が綿毛に息を送った。けれど勢いが足りなくて、ほんの数本がゆらりと舞うだけだった。 「下手くそ。おら、一緒にいくぞ」 黒鋼は彼に並ぶように身体を寄せた。中にいるユゥイと、外にいる黒鋼の肩がそのとき初めて触れあった。互いに少し赤くなった頬を寄せあって、合図を送る。 そして二人、同時に息を吹きかけた。 「うわぁ……!」 ふわり、ふわりと。真っ白の綿毛が四散して、空に舞った。 緩やかで優しい春の風が、その一本一本をどこか遠くへと運んでいく。 黒鋼は大きな瞳に綿毛を映すユゥイの横顔を見た。全ての綿毛が見えなくなるまで、それを目で追うユゥイを、ずっと。 「ボクが飛ばしたんだ」 「そうだな。おまえが飛ばして、どっか遠くで花が咲くんだろうな」 黒鋼の方を向いたユゥイとの、顔の距離が近い。赤い頬。ドキドキして、すぐに顔を背けそうになったけれど、黒鋼はそうしなかった。 キラキラと光り輝く瞳が今は自分だけを写しているのが、特別なことに感じられた。宝石のようだと思った。 「どこで咲くんだろう。ずっとずっと遠く?」 「たぶん、ずっとずっと遠く」 「ずっとずっと遠くで咲いたら、そこからまた戻って来るかな?」 「どうだろうな」 始まりと終わりを繰り返しながら咲く花。ユゥイが運んだ綿毛がどこかでまた咲いて、どこかで誰かが、風が、綿毛を吹いて。 巡り巡って、またいつか出会えるのかもしれない。 ユゥイはまるで夢見る少女のように、また空を見上げた。それから、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。 「ボクは、たんぽぽになりたい」 再び、元気よく黒鋼の方を向いたユゥイの笑顔は、希望に満ち溢れていた。 「綿毛になって、いろんな場所に飛んで行きたい」 そしてまた空を仰ぐ横顔が、ふと大人びて見えたのは気のせいだろうか。 胸がチクリと痛んでいた。この感情が切なさだということに、まだ幼い黒鋼は気付かない。 彼はか細い両腕を空へ向かって伸ばした。青空を掴むように、もみじのような小さな手のひらを懸命に開いた。 「ボクはここだよ」 風が吹いた。優しい風が。それが、黒鋼をどうしようもなく不安にさせた。 「ここにいるよ」 咄嗟に腕を伸ばして、ユゥイの手首を掴んだ。そうしなければ、本当に綿毛のように飛ばされて、いなくなってしまうような気がしたから。 この腕を、繋ぎとめておかなければいけない。 何かに背を追われるような焦りを覚えた黒鋼には、けれどその『何か』の正体はまだ見えない。 ユゥイは、ただ穏やかに笑っていた。 *** 月日はさらさらと砂のように流れていった。 子供と呼べる年齢をとうに過ぎても、黒鋼とユゥイの部屋の中と外での交流は続いていた。 「旅立ちの季節なんだね」 窓辺に頬杖をついて、背中に届くほど長く伸びた金色の髪を春風に揺らしながら笑うユゥイの腕には、今も赤黒い鬱血の痕がある。彼はまた、少し痩せた。 「これか」 黒鋼は毟らずに残しておいたものを摘み取った。真っ白の綿毛になっているたんぽぽの茎を、指先でくるくると回す。 それを渡すと、彼は嬉しそうにニコニコとしながらそっと吹いた。子供の頃は下手くそで、一人で全てを飛ばすことが出来なかったけれど、ユゥイが送った風に乗って、幾つもの綿毛が旅立った。 「黄色いたんぽぽと綿毛のたんぽぽ、別々の花言葉があるの、知ってる?」 「好きだな、おまえそういうの」 「たくさん本を読んでいるもの」 「知らねぇな」 「ふぅん。知らないんだ」 にんまりとした笑顔から彼の機嫌のよさは伝わってくるものの、なんだかバカにされているような気もして、黒鋼は少しむっとする。 「悪かったな。花言葉までは興味なくてよ」 「いいよ別に。君がそこまで詳しかったら、ちょっと気持ち悪いしね」 「おまえなぁ……」 話を振っておいてこれである。呆れて腹を立てる気にもなれない黒鋼は、ただ苦笑した。 「で? なんだよ、花言葉」 実際のところ本当に興味がないものの、それでも律儀に付き合ってやるつもりで問いかけた。 するとユゥイは、なぜか少しだけ照れ臭そうに頬を染めた。 「どうしようかな?」 「なんだよ。教えてくれねぇのか」 そんな表情をされては、違った意味で気になってしまうではないか。 長く伸びた髪をひとつに纏めている彼は背も伸びて、声も大人の男のものになっていたけれど、妙にもったいぶってよそ見をしたりする姿に、どこか幼いままの面影を垣間見た気がした。 黒鋼は「しょうがねぇな」と言いながら、実はずっとユゥイに見えないように隠し持っていたものを、彼の前に差し出した。 「え?」 「これやるから教えろよ」 「わ……!」 それはちょうど見頃を迎えている、薔薇の花だった。 春のそれは大ぶりで、黄色い花が好きだと言っていた彼のために、黄色を選んだ。棘もちゃんと落としてある。 両手でそれを受け取った彼は目を輝かせた。 「これ、ボクに?」 「まぁな」 渡した途端に照れ臭くなってしまった黒鋼は、ぶっきらぼうに言うとそっぽを向いた。 けれど薔薇の花に鼻を寄せて吸い込んだりしている横顔は、ちゃっかり盗み見る。 「その、なんだ。そこそこ見栄え良く咲いたからな」 「記念?」 「それだ、記念」 「ありがとう」 男が男に薔薇の花なんぞを渡すのもどうかとは思うが、それを喜ぶというのも、果たして如何なものか。もしかしなくても、自分は今とんでもなく恥ずかしい真似をしたのかもしれない。 「嬉しい……本当にありがとう」 可憐、なんて言葉も、男性を表現する言葉ではないと思う。けれどどんなに大人びても、黒鋼の中で彼はいつまでも部屋の中から出られない、小さな小鳥のような存在だったから。 頬を染めながら嬉しそうに笑うユゥイを見て、彼が喜ぶなら多少気恥しくとも、不自然でも、何も気にする必要はないと感じられた。 純粋に喜ぶ顔が見たい。それだけだから。 「じゃあ、お礼に教えてあげるね」 「おう」 実はちょっと忘れていた。そういえば花言葉を教えてもらう代わりの捧げものだったのだ。そんなものがなくとも渡す機会をジリジリと窺っていたのは、黒鋼だけの秘密だった。 「黄色いたんぽぽの花言葉はね、いつも君がボクにくれているもの、だよ」 「なんかやったか? 俺」 「今もくれたよ」 「薔薇?」 ふふ、とユゥイは笑って頷いた。そしてたった今受け取った薔薇の花に頬を寄せ、少しだけ小首を傾げながら正解を口にした。 「真心の愛」 咄嗟に何と返せばいいか分からなくなった黒鋼は、ぐっと喉を詰まらせる。 照れ臭いね、なんて言いながら無邪気に笑う彼が、どうしてずっと頬を染めていたのかがようやく分かって、黒鋼も思わず赤面した。 「こっ恥ずかしいこと言ってんじゃねぇぞ」 「顔、真っ赤だよ?」 「うるせぇな。てめぇこそ」 さらに身を乗り出して、壁に背を預ける黒鋼の顔を覗きこもうとするユゥイの髪が、さらりと流れる。 ゆらゆらと艶やかな馬の尻尾のように垂れ下がるそれを綺麗だと思ったときには、黒鋼はそっぽを向くのも忘れてその髪に手を伸ばしていた。 緩くそれを引いて、自分もまた自然と身を寄せる。 唇同士が触れたのは、一瞬のことだった。 「ふふ」 「笑うな」 「うん。ごめん」 「で?」 余韻なんて、たまったもんじゃない。これ以上みっともなく顔を赤らめる様なんぞ見せられるかと、黒鋼は何事もなかったように話題をすり替える。 「綿毛の花言葉は?」 ユゥイの淡いブルーの瞳が優しく、そして切なげに細められたのを、黒鋼は見逃さない。 けれどすぐにおどけたように笑った彼は、再び勿体ぶった様子を見せた。 「教えてあげない」 「なんだよ。またなにかと交換か?」 「またなにかくれるの?」 「そうだな……」 黒鋼が花言葉に興味がないのは本当のことだった。だから、今すぐにどうしても聞きたいわけではなかった。ただ、いつも通りの言葉遊びをしているだけ。 「じゃあ、秋の薔薇が咲いたら、またやる」 「本当?」 「その代わり、ちょっと小ぶりだぞ」 文句言うなよ、と言うと、彼は大きく頷いた。そして、立てた小指を黒鋼に差し出した。 「約束だよ」 「ああ」 大きな手で小指を立てて、黒鋼は小さく笑うとそれに応えてやった。 初めて交わした口づけの余韻など、最初からそこにはなかったのかもしれない。 黒鋼は思った。 なぜなら二人の恋は、もうとっくの昔に始まって、いつの間にか大きく花を咲かせていたのだから。 そう。あとは、散るだけ。 ←戻る ・ 次へ→
ファイはいつも、夕食前にはユゥイの部屋で宿題をする。
その日は部屋に入って来たかと思うと勉強道具を床に投げ出し、すぐにベッドに乗り上げて鼻息を荒くしている。
「ほんと?」
広げていた本をぱたりと閉じて、ユゥイが目を見開くとファイは大きな声で「うん!」と返事をした。
「こうやってね、あの子が人差し指を立てたら、真っ赤なトンボが止まったの! 魔法みたいだった……」
小さな人差し指をつんと立てて、ファイは顔を赤くしていた。ファイの興奮が手に取るように伝わるユゥイは、そのときの二人のやり取りを想像して、胸をワクワクと躍らせる。
ふたりはどんな話をしたのだろう。ちゃんと仲良くなれたのだろうか。そのあと、トンボはどうなったのだろう。
「でもね、オレが捕まえようとしたら、あの子が逃がしちゃったんだ……」
しゅんとするファイの頭を撫でながら、ユゥイは笑った。
「言ったでしょ? 優しい子だよって」
「でも……でも、捕まえたかったんだもん……」
俯くファイの様子を見て、きっと上手くはいかなかったのだろうなと、ユゥイは思った。きっと黒鋼は、自分がああいう話をしたから、頑張ってくれたのだろうけど。
かと言ってファイと同調してしょんぼりもしていられない。だから殊更優しく頭を撫でた。これではどちらが兄かわからない。
「捕まえたら、あっという間に死んじゃうよ?」
「死なないもん! オレが、ちゃんと大事に育てるもん……」
うぅん、と言ってユゥイは首を左右に振った。
「せっかく羽があるんだもの。閉じ込めちゃったらだめ。ファイの傍では生きられないの」
「っ、そんなの……」
「ほら、泣かないの」
顔を上げたファイの瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。ユゥイはその目元にキスをする。
彼が、トンボが逃げてしまったことを悔やんで泣いているのではないことくらい、知っている。
入退院を繰り返す間、ファイはこの屋敷で一人きりだった。
優しい老夫婦が住み込みで屋敷を管理してくれているけれど、両親は海外を飛び回る生活の中、数年前に飛行機事故で死んでいた。
墜落地点は海の真上だったと聞いている。遺体は上がっていない。
形ばかりの墓標が、この屋敷の裏に茂る森の奥に佇んでいるだけだった。
おかしな話かもしれないが、ユゥイは両親の顔をあまり覚えていない。きっとそれはファイも同じだ。
ユゥイはこの幼さで、漠然と悟っていた。
自分はおそらくこの部屋から生涯出られない。行ける場所は病院の、ベッドや手術台の上が関の山。
あとどれくらいかは分からないけれど、自分には、ファイや黒鋼ほどの時間は残されていないように思う。
口には出さないけれど、ファイもそれを無意識に悟り、そしてユゥイ以上に恐れていた。だから彼はこうして身を震わせるのだ。
閉じ込められるのは自分一人で十分だった。この背中に羽根がないことを、誰よりも知っていたのはユゥイだったから。
飛ぶ力があるのなら、例えその生涯が短くとも。それを手折る資格は誰にもないから。
ファイの手がどんなに優しくても、どんなに愛しても、一緒には生きられない。
「ね、ファイ。今度は三人でお話しよう? トンボを側で見せてくれたんでしょ? お礼は言ったの?」
ふわふわと金の髪を揺らして、ファイは首を振った。その瞳から雫が零れることはなかった。ユゥイはほっと安心して、もう一度キスをした。
「じゃあ言わなくちゃ。本当は仲良くなりたいんだよね?」
「……オレは、いい」
「どうして?」
「だって……なにお話したらいいか……わかんないもん……」
「そんなの」
ユゥイは笑う。
「その時にならなきゃわかんないよ。チャンスはいっぱいあるんだもの。きっといくらでもお話できるよ?」
黒鋼だってそうだ。きっとファイと打ち解けたいと思っているに違いない。
赤子がむずがるように小さく「うぅん」と唸ったファイが可愛くて、これではやっぱりどちらが先に生まれてきたのか、さっぱり分からなかった。
これ以上追いつめても仕方がないと割り切ったユゥイは、しょうがないなと内心呟くと、ファイの肩をぽんと叩いた。
「宿題やっちゃお? ボクも一緒にやったげる」
そう言うと、気を取り直したファイは照れ臭そうにはにかみながら「うん」と返事をした。
*
いつか本当に、黒鋼とファイと自分とで、楽しくお喋りが出来たらと、ユゥイは思う。
懐っこいようでいて実は人見知りをしてしまうファイと、本当は優しいくせにぶっきらぼうな物言いしか出来ない黒鋼は、見ているこちらが笑ってしまうくらい不器用で、実はとてもよく似ていた。
二人が早く仲良くなれたらいいのに。心から思っている。
けれど時々、不安にもなった。
もしファイと黒鋼が仲良しになったら。
もう、ここに黒鋼は来なくなるかもしれない。
こんな小さな庭ではなく、表の大きな庭で、お喋りよりも駆けまわって遊ぶ方が楽しいかもしれない。
仲良くなってほしい。でも、仲良くなってほしくない。
ユゥイの小さな胸の中には、そんな二つの相反する思いがあった。
自分には駆けまわるだけの体力はない。長い時間、外の風に当たっていることも出来ない。
したくても出来ないことがたくさんある。それらは全て、ファイが持っていた。
なら自分には、何が与えられたのだろう。何を持っているのだろう。何を得ることができるのだろう。
黒鋼と出会うまでは、こんなこと考えもしなかった。
初めての友達。ファイから顔が怖いなんて話を聞いていたから、最初はどんな子なのかと思っていたけれど。
一生懸命に花の手入れをする姿を見て、ユゥイには彼の優しさが一目でわかった。
話しかける勇気がなくて、ただ見ているだけの自分を、彼は最初ファイと間違えて腹を立てていたようだが、話をするうちにすぐに仲良くなれた。大好きになった。
だから黒鋼がファイをよく思っていないことは悲しかった。
ファイはユゥイだから。多分きっと、元々はたった一つの魂だった。別たれてしまったのは、神様の悪戯なのだと。
だから黒鋼には、ユゥイ自身でもあるファイを好きになってほしいのに。それが怖い。
もしファイがいなければ。
自由に外を駆けまわり、色々な場所へ行ったり、学校へ行ったり。それを出来たのは、自分の方だったのかもしれないなんて。
そんなことを一人、知らず知らずのうちに考えてしまう夜。
ユゥイは自分が嫌で仕方がなくなる。許せなくなる。時に涙さえ零しながら。
窓から覗く月はどこまでも遠くて、どんなに手を伸ばしても、届かないことを知っているのに。
ファイは大切な家族。もう一人の自分。彼の喜びや幸せは、自分にとっての幸福でなければならない。
だからそんなときはただ、決して触れることの出来ない月を見上げながら、明日のことを思った。
大丈夫。明日も生きられる。明日も、きっと黒鋼が来てくれる。
ずっとずっと、一緒にいたい。
***
「白くなっちゃったね」
春。
裏庭の雑草を丁寧に毟っていた黒鋼に、ユゥイが言った。
「これか?」
黒鋼は毟ったばかりの白い綿毛のたんぽぽを、ユゥイの側まで近付けて見せる。彼は「うん」と頷いた。
「黄色いのが好きなんだ」
「これもこれで面白いぜ。ほら、吹いてみろ」
「いいの?」
なぜか、ユゥイは瞳をキラキラと輝かせた。外で遊んだことのない彼は、たんぽぽの綿毛を飛ばすなんて当たり前の遊びすら、したことがないのだ。
「いくよ?」
ふっ、と薄紅の唇が綿毛に息を送った。けれど勢いが足りなくて、ほんの数本がゆらりと舞うだけだった。
「下手くそ。おら、一緒にいくぞ」
黒鋼は彼に並ぶように身体を寄せた。中にいるユゥイと、外にいる黒鋼の肩がそのとき初めて触れあった。互いに少し赤くなった頬を寄せあって、合図を送る。
そして二人、同時に息を吹きかけた。
「うわぁ……!」
ふわり、ふわりと。真っ白の綿毛が四散して、空に舞った。
緩やかで優しい春の風が、その一本一本をどこか遠くへと運んでいく。
黒鋼は大きな瞳に綿毛を映すユゥイの横顔を見た。全ての綿毛が見えなくなるまで、それを目で追うユゥイを、ずっと。
「ボクが飛ばしたんだ」
「そうだな。おまえが飛ばして、どっか遠くで花が咲くんだろうな」
黒鋼の方を向いたユゥイとの、顔の距離が近い。赤い頬。ドキドキして、すぐに顔を背けそうになったけれど、黒鋼はそうしなかった。
キラキラと光り輝く瞳が今は自分だけを写しているのが、特別なことに感じられた。宝石のようだと思った。
「どこで咲くんだろう。ずっとずっと遠く?」
「たぶん、ずっとずっと遠く」
「ずっとずっと遠くで咲いたら、そこからまた戻って来るかな?」
「どうだろうな」
始まりと終わりを繰り返しながら咲く花。ユゥイが運んだ綿毛がどこかでまた咲いて、どこかで誰かが、風が、綿毛を吹いて。
巡り巡って、またいつか出会えるのかもしれない。
ユゥイはまるで夢見る少女のように、また空を見上げた。それから、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。
「ボクは、たんぽぽになりたい」
再び、元気よく黒鋼の方を向いたユゥイの笑顔は、希望に満ち溢れていた。
「綿毛になって、いろんな場所に飛んで行きたい」
そしてまた空を仰ぐ横顔が、ふと大人びて見えたのは気のせいだろうか。
胸がチクリと痛んでいた。この感情が切なさだということに、まだ幼い黒鋼は気付かない。
彼はか細い両腕を空へ向かって伸ばした。青空を掴むように、もみじのような小さな手のひらを懸命に開いた。
「ボクはここだよ」
風が吹いた。優しい風が。それが、黒鋼をどうしようもなく不安にさせた。
「ここにいるよ」
咄嗟に腕を伸ばして、ユゥイの手首を掴んだ。そうしなければ、本当に綿毛のように飛ばされて、いなくなってしまうような気がしたから。
この腕を、繋ぎとめておかなければいけない。
何かに背を追われるような焦りを覚えた黒鋼には、けれどその『何か』の正体はまだ見えない。
ユゥイは、ただ穏やかに笑っていた。
***
月日はさらさらと砂のように流れていった。
子供と呼べる年齢をとうに過ぎても、黒鋼とユゥイの部屋の中と外での交流は続いていた。
「旅立ちの季節なんだね」
窓辺に頬杖をついて、背中に届くほど長く伸びた金色の髪を春風に揺らしながら笑うユゥイの腕には、今も赤黒い鬱血の痕がある。彼はまた、少し痩せた。
「これか」
黒鋼は毟らずに残しておいたものを摘み取った。真っ白の綿毛になっているたんぽぽの茎を、指先でくるくると回す。
それを渡すと、彼は嬉しそうにニコニコとしながらそっと吹いた。子供の頃は下手くそで、一人で全てを飛ばすことが出来なかったけれど、ユゥイが送った風に乗って、幾つもの綿毛が旅立った。
「黄色いたんぽぽと綿毛のたんぽぽ、別々の花言葉があるの、知ってる?」
「好きだな、おまえそういうの」
「たくさん本を読んでいるもの」
「知らねぇな」
「ふぅん。知らないんだ」
にんまりとした笑顔から彼の機嫌のよさは伝わってくるものの、なんだかバカにされているような気もして、黒鋼は少しむっとする。
「悪かったな。花言葉までは興味なくてよ」
「いいよ別に。君がそこまで詳しかったら、ちょっと気持ち悪いしね」
「おまえなぁ……」
話を振っておいてこれである。呆れて腹を立てる気にもなれない黒鋼は、ただ苦笑した。
「で? なんだよ、花言葉」
実際のところ本当に興味がないものの、それでも律儀に付き合ってやるつもりで問いかけた。
するとユゥイは、なぜか少しだけ照れ臭そうに頬を染めた。
「どうしようかな?」
「なんだよ。教えてくれねぇのか」
そんな表情をされては、違った意味で気になってしまうではないか。
長く伸びた髪をひとつに纏めている彼は背も伸びて、声も大人の男のものになっていたけれど、妙にもったいぶってよそ見をしたりする姿に、どこか幼いままの面影を垣間見た気がした。
黒鋼は「しょうがねぇな」と言いながら、実はずっとユゥイに見えないように隠し持っていたものを、彼の前に差し出した。
「え?」
「これやるから教えろよ」
「わ……!」
それはちょうど見頃を迎えている、薔薇の花だった。
春のそれは大ぶりで、黄色い花が好きだと言っていた彼のために、黄色を選んだ。棘もちゃんと落としてある。
両手でそれを受け取った彼は目を輝かせた。
「これ、ボクに?」
「まぁな」
渡した途端に照れ臭くなってしまった黒鋼は、ぶっきらぼうに言うとそっぽを向いた。
けれど薔薇の花に鼻を寄せて吸い込んだりしている横顔は、ちゃっかり盗み見る。
「その、なんだ。そこそこ見栄え良く咲いたからな」
「記念?」
「それだ、記念」
「ありがとう」
男が男に薔薇の花なんぞを渡すのもどうかとは思うが、それを喜ぶというのも、果たして如何なものか。もしかしなくても、自分は今とんでもなく恥ずかしい真似をしたのかもしれない。
「嬉しい……本当にありがとう」
可憐、なんて言葉も、男性を表現する言葉ではないと思う。けれどどんなに大人びても、黒鋼の中で彼はいつまでも部屋の中から出られない、小さな小鳥のような存在だったから。
頬を染めながら嬉しそうに笑うユゥイを見て、彼が喜ぶなら多少気恥しくとも、不自然でも、何も気にする必要はないと感じられた。
純粋に喜ぶ顔が見たい。それだけだから。
「じゃあ、お礼に教えてあげるね」
「おう」
実はちょっと忘れていた。そういえば花言葉を教えてもらう代わりの捧げものだったのだ。そんなものがなくとも渡す機会をジリジリと窺っていたのは、黒鋼だけの秘密だった。
「黄色いたんぽぽの花言葉はね、いつも君がボクにくれているもの、だよ」
「なんかやったか? 俺」
「今もくれたよ」
「薔薇?」
ふふ、とユゥイは笑って頷いた。そしてたった今受け取った薔薇の花に頬を寄せ、少しだけ小首を傾げながら正解を口にした。
「真心の愛」
咄嗟に何と返せばいいか分からなくなった黒鋼は、ぐっと喉を詰まらせる。
照れ臭いね、なんて言いながら無邪気に笑う彼が、どうしてずっと頬を染めていたのかがようやく分かって、黒鋼も思わず赤面した。
「こっ恥ずかしいこと言ってんじゃねぇぞ」
「顔、真っ赤だよ?」
「うるせぇな。てめぇこそ」
さらに身を乗り出して、壁に背を預ける黒鋼の顔を覗きこもうとするユゥイの髪が、さらりと流れる。
ゆらゆらと艶やかな馬の尻尾のように垂れ下がるそれを綺麗だと思ったときには、黒鋼はそっぽを向くのも忘れてその髪に手を伸ばしていた。
緩くそれを引いて、自分もまた自然と身を寄せる。
唇同士が触れたのは、一瞬のことだった。
「ふふ」
「笑うな」
「うん。ごめん」
「で?」
余韻なんて、たまったもんじゃない。これ以上みっともなく顔を赤らめる様なんぞ見せられるかと、黒鋼は何事もなかったように話題をすり替える。
「綿毛の花言葉は?」
ユゥイの淡いブルーの瞳が優しく、そして切なげに細められたのを、黒鋼は見逃さない。
けれどすぐにおどけたように笑った彼は、再び勿体ぶった様子を見せた。
「教えてあげない」
「なんだよ。またなにかと交換か?」
「またなにかくれるの?」
「そうだな……」
黒鋼が花言葉に興味がないのは本当のことだった。だから、今すぐにどうしても聞きたいわけではなかった。ただ、いつも通りの言葉遊びをしているだけ。
「じゃあ、秋の薔薇が咲いたら、またやる」
「本当?」
「その代わり、ちょっと小ぶりだぞ」
文句言うなよ、と言うと、彼は大きく頷いた。そして、立てた小指を黒鋼に差し出した。
「約束だよ」
「ああ」
大きな手で小指を立てて、黒鋼は小さく笑うとそれに応えてやった。
初めて交わした口づけの余韻など、最初からそこにはなかったのかもしれない。
黒鋼は思った。
なぜなら二人の恋は、もうとっくの昔に始まって、いつの間にか大きく花を咲かせていたのだから。
そう。あとは、散るだけ。
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