2025/09/18 Thu 鏡の中の自分。子供の頃の、おかしな遊び。 そんな風に記憶が歪曲したのは、それほどまでに黒鋼を離したくなかったから、なのかもしれない。 欲張りだった。我儘だった。狡かった。 だからもう、充分だった。 *** 裸足で窓から飛び出して、禁じられた森に足を踏み入れたファイの手には、折りたたまれたナイフと、枯れた薔薇が握られていた。 屋敷の脇の小屋に置いてある、園芸道具の中の一つ。使い込まれた、けれどよく手入れされたそれを、手に馴染ませるようにきつく握りしめて、ファイは枝や小石、枯葉が足裏を傷つけるのも構わず、ただ真っすぐに伸びた山道を歩き続けた。 涼やかな秋の虫の声が、ファイが小枝を踏みしめる度にプツリと止む。 日が暮れたばかりの蒼い道。闇より淡い、けれど限りなく闇に近い、夜の森。 密集する木々が途切れて視界が開けば、やがて丸い月がぽっかりと姿を現した。 僅かに弾む息で、ファイは目を見開く。 赤黒い彼岸の花が咲き乱れるその丘に、ユゥイが眠っていた。 洋型の墓石に絡まる蔓が、時の流れを物語っているようで。 「ごめん……寂しい思い、させたね」 ユゥイの名が刻まれた墓石に近づくと、ファイは膝をついた。 そこには両親の名も刻まれているけれど、彼らの亡骸はここにはいない。 もう一人の自分の名前を、指先でそっとなぞった。いつか自分の名も、ここに刻まれる日が必ず来るのだと。そう思うほどに、ファイは指先に想いを込めた。 空っぽだった心が埋まるような気がした。黒鋼に縋りつくことでしか埋められなかったそれは、ユゥイの喪失がもたらした穴だった。 「全部、思い出したから……」 取り戻した。同じ日、同じ場所で産まれて、そしてずっと一緒に生きて来た、半身の記憶を。 ファイは墓前に枯れた薔薇を供えた。白か黄色かもわからなくなってしまったその薔薇は、黒鋼がくれたもの。 そして全ての禁を破った自分が、もはや手放さなければならないものの象徴のように思えた。 「返すよ」 だからと言って許されるとは思えなかった。 ただ楽になりたいだけだと分かってはいても、これはファイなりのケジメのようなものだったから。 「短い間だったけどね。記憶がなかったときのオレも、多分、本当のオレだったんだと思う」 指先でナイフを起こす。月光を弾いて、刃が光り輝いた。 「もしユゥイがいなかったら……そう考えたことがあったんだ……」 左手を後ろへやると、緩く縛った長い髪の束を掴んだ。右手で掴んだナイフも後方へとやり、縛った根元に押し当てる。 「でもね、今のオレも、本当のオレなんだ」 そう、決して後悔はしてない。 黒鋼を愛していた。 例え彼が自分を通してユゥイの影を追いかけていたのだとしても、今もこれからも、彼への想いを否定するつもりはなかった。 ぐっと右手に力を込める。そっと静かに目を閉じて、そして断ち切るように強く引いた。 ザクリという音と共に、嘘のように頭が軽くなる。 「だからオレ、ユゥイになんてなれっこないよ」 ふわりと、短くなった髪が項をくすぐる。 風になびいて、切り落とされた長い金色が、風に乗ってサラサラとどこへともなく消えていく。 金糸の群れが、月光を弾いて煌めいていた。 「これでお終い」 全ての髪を流し終えると、ファイは振り向き、そして笑った。 「全部終わり。そうだよね?」 そこには僅かに息を乱した黒鋼が佇んでいた。 眉間の皺を深くして、物言いたげな彼に、ファイは言った。 「初めてだね。君がここへ来るのは」 そう言うと、黒鋼は一つ大きな息を吐き出して目を閉じた。 「……そうだな」 それもそのはずだった。もし彼がここへ頻繁に訪れているようなら、きっと今頃ここはもっと整備されているし、美しい花も絶やさず供えられているはずだから。 それは彼が本当の意味でユゥイの死と向き合い、受け入れることが出来なかったからなのではないか。そのくせこの男は、先に毀れてしまったファイの心を、ずっと背負い込んできた。 抱えて、守って、与えてくれた。 「ありがとう」 壊れることは簡単で、そしてとても楽な逃げ道だったから。 一度ヒビの入った心は、ゆっくりと足元からファイを飲みこんでいった。それは酷く柔らかな、漆黒の沼だった。そこに身を委ねるのはとても心地がよくて、本当はあのまま沈んでいきたかった。ユゥイの元へ、逝きたかった。 けれどそれを許さなかったのは黒鋼だった。 「君はオレの願いを叶えてくれた。だからオレは、ここにいられる」 一本の薔薇の花。欲しくて欲しくて堪らなかったくせに、手にすることが出来なかった薔薇。黄色ではない、白い薔薇。 それを差し出されたあの瞬間、ファイは知らぬ間に満たされたのだ。あとはゆっくりと、夢から覚めるだけだった。 自らの深い悲しみを抑え込み、何もかもを抱え込んでくれていた男の表情は険しく、そして切ない。 もういいと、ファイは思った。 「いっぱい我儘言ったね。でも、もう甘えるのは終わり。ちゃんと一人で歩かなくちゃ」 彼は記憶を失くしたままでいる限りは、傍にいてくれると言った。 いつしか抱え込んだ痛みや苦しみが、ファイだけを見て、そして愛を注ぐための『理由』にすり替わってしまったのは、どうしようもないことなのだ。 そうやって互いに依存し合わなければ生きられなかった自分たちは、きっととてもよく似ているのだと思う。 「ごめんね、黒たん」 きつく抱き合いながら、水の底で足掻き続ける蜜月は終わりを告げる。 互いに手を離さなければならないときが来た。 「おまえが一人で歩く道に……俺の居場所はないのか?」 「君が一緒にいきたかった相手は、オレじゃないでしょ? オレは、ユゥイにはなれないもん」 髪も切っちゃったしねと、ファイはおどけた。 「それにね、オレはユゥイより幸せだったんだよ。ユゥイがしたくても出来なかったこと、いっぱいしてもらったもの」 だから、もう夢は終わり。 「これ、返すよ」 言葉を失う黒鋼に歩み寄り、ナイフを折りたたむと差し出した。 これを返せば、これを彼が受け取れば、それで終わりだ。 「ユゥイとは、ちゃんとお別れできなかったでしょ? でも、オレたちは生きてるから。ちゃんと笑って、お別れしよう?」 どこからともなく吹く風に、切り落とし、短くなってしまったファイの髪が揺れた。 月の光に包まれた丘で、咲き乱れる彼岸の花は、まるで押し寄せる赤い波のようだった。 黒鋼は閉じていた瞼をそっと開いた。そこにもまた、鮮やかな紅がある。 この燃えるような瞳が好きだった。最初はただ話がしたかった。一言、初対面の非礼を詫びたかった。 それがいつの間にか、手を繋いで歩きたいと願うようになっていた。 ユゥイのものだと思えば思うほど欲しくて、欲しくて、憎くて。 気がつけば、恋をしていた。 ナイフを差し出しながら静かに待つファイに、黒鋼もまた一歩、歩み寄った。大きな手が伸ばされる。ファイは目を閉じた。 けれど彼は、差し出されたナイフを取らなかった。 彼が取ったのは、ファイの細い手首だった。 ナイフが落ちる。赤い波の中で。そよぐ風の中で。月の下で。 いけないと、そう思った瞬間には、ファイは力強い腕に抱かれていた。 何が起こったのだろう。まだ蜜のように甘い夢は続いている。 あとはナイフと一緒に、彼への想いを返すだけだったはずなのに。 「くろ……」 「俺なしじゃ生きられねぇって言ったのは……てめぇだろ……」 違うと、ファイは首を振った。 生きられないのではない。生きなければならないことに、ようやく気づいたのだ。 「駄目だよ」 だからこそ黒鋼が守ってくれて、息を吹き返したこの心を保っていたかった。強くなりたかった。 「対価はもう、無効なんだから……」 欲しがれば際限がなくなる。もう十分に満たされたはずなのに。 身体を離そうと胸に手をついて押し返そうにも、そうすればするほど黒鋼の腕は力を増した。 手を伸ばすだけだったファイは、こんな強さは知らない。戸惑うだけだった。 ユゥイが眠る墓の前で、記憶を取り戻してまで彼の背を抱き返すことは出来ない。幼い頃からずっと堪えて来たのは、誰よりもユゥイを傷つけたくなかったからなのに。 けれどいつだって、感情はファイを置き去りにするから。 だから涙だって、勝手に零れる。 黒鋼の肩を濡らして、みっともないと思うほどに、止まらなくなる。 「オレは、ユゥイの代わりになんてなれないんだよ」 「そんなのは知ってる」 「じゃあどうして……?」 「代わりにできたら、いっそもっと楽だったんだろうな」 濡れた頬に熱い指が触れて、涙を掬う。 「面影を探したことはあった。けど、結局重ならねぇ」 同じ姿形をした双子。纏う雰囲気が違えど、同じ人間に惹かれた、同じ魂の持主だ。 それでもユゥイを選んだのは黒鋼のはずだった。 「怖かった。おまえといると、俺の中でどんどんあいつの影が消えて行くような気がした。対価なんて言い方をしたのは……俺が臆病だったからだ」 少しだけ身体を離して、黒鋼はファイと目を合わせた。そして続ける。 「おまえを、あいつの代わりにしたくなかった」 「……!」 ファイの目に、今の黒鋼の姿はまるで懺悔する罪人のように映った。 彼の迷いと葛藤が、肌を通して伝わる。二人とも、ほんの微かに震えていることも。 「出口はないのかもしれねぇ。俺とおまえがこうしてる限り、ずっと苦しいままかもしれねぇ。それでも…… 」 紅く揺れる瞳に囚われる。呼吸さえも忘れて目を見開くファイに、黒鋼は告げた。 「てめぇを離す気になれねぇんだ」 瞬きも忘れて、ファイは彼の告白を幾度も頭の中で反芻する。 代わりにされていたのだと、そう思っていた。 それでも幸せだった日々の記憶さえあれば、この先も生きていけると信じて、断ち切ろうとした想いだった。 黒鋼の背を抱けない代わりに、ファイは咄嗟にその頬を両手で包みこんだ。そうしなければ、彼が泣いてしまうのではないかと思ったから。 彼がまるで、小さな子供のように見えてしまったから。 黒鋼の告白。一度は手放すことを覚悟したはずの心が、大きくざわめく。 ずっと諦めていた。 ユゥイを悲しませたくなくて、そして今は、奪いたくなくて。 「オレは……」 取り残された二人は、亡き者への愛と罪悪感に縛られている。 共にある限りその影に惑い、怯えることになるかもしれない。許されないかもしれない。最初から、許されているのかもしれない。知る術のない、茨の道だ。 彼の言うように、きっと出口は見つからない。あるいは死ぬまで。 (ねぇユゥイ。オレたちは同じだから。君は、知っていたんだよね。オレの気持ちを) 「オレは、ずっと君が欲しかったよ……今も、何ひとつ変わらない……」 欲しがるばかりだった。縋りつくものがなければ生きられなかった。けれど、罪の意識に耐えるだけの強さを持つことは出来なかった。 今、この瞬間までは。 「愛してるんだ。子供の頃からずっと……ずっとだよ……」 (だからユゥイ) もし許されるなら。この想いを貫くことこそが、強さだというのなら。 (この人を、オレにちょうだい) 彼の背に腕を回すことは、二度とないと思っていた。 けれど今、ファイは黒鋼の背を掻き抱いていた。そして強く、抱かれている。 「……ごめんなさい」 確かな温もりに包まれながら、ともすれば秋風に掻き消されそうな声で亡き弟への謝罪を口にするファイに、黒鋼は首を振った。 「これはもう償いじゃない。わかってるのは、俺がこうしているのは、俺の意思だってことだけだ」 だからと、黒鋼は続けた。 「今さら一人でなんて、生きられるか……」 例えユゥイが許しても、後をついてくる罪の意識が、きっと二人を許さない。 けれど、それでもいいとファイは思った。この温もりを手放す以上に怖いことなんて、この世のどこにもありはしないだろうと。 「キスして、黒様」 吐息だけで、そう言った。 目を閉じれば、すぐに唇に熱いものが重なる。 ユゥイの眠る墓前で、二人はそうして長い間ずっと抱き合った。 取り残され、置き去りにされた迷子の二人は、だから知らない。 ――いつか三人で、森に遊びに行けたらいいのにな 強い月の光を浴びて、墓前に供えてある色褪せた薔薇が、一瞬だけ純白の輝きを取り戻していたことを。 ←戻る ・ 次へ→
そんな風に記憶が歪曲したのは、それほどまでに黒鋼を離したくなかったから、なのかもしれない。
欲張りだった。我儘だった。狡かった。
だからもう、充分だった。
***
裸足で窓から飛び出して、禁じられた森に足を踏み入れたファイの手には、折りたたまれたナイフと、枯れた薔薇が握られていた。
屋敷の脇の小屋に置いてある、園芸道具の中の一つ。使い込まれた、けれどよく手入れされたそれを、手に馴染ませるようにきつく握りしめて、ファイは枝や小石、枯葉が足裏を傷つけるのも構わず、ただ真っすぐに伸びた山道を歩き続けた。
涼やかな秋の虫の声が、ファイが小枝を踏みしめる度にプツリと止む。
日が暮れたばかりの蒼い道。闇より淡い、けれど限りなく闇に近い、夜の森。
密集する木々が途切れて視界が開けば、やがて丸い月がぽっかりと姿を現した。
僅かに弾む息で、ファイは目を見開く。
赤黒い彼岸の花が咲き乱れるその丘に、ユゥイが眠っていた。
洋型の墓石に絡まる蔓が、時の流れを物語っているようで。
「ごめん……寂しい思い、させたね」
ユゥイの名が刻まれた墓石に近づくと、ファイは膝をついた。
そこには両親の名も刻まれているけれど、彼らの亡骸はここにはいない。
もう一人の自分の名前を、指先でそっとなぞった。いつか自分の名も、ここに刻まれる日が必ず来るのだと。そう思うほどに、ファイは指先に想いを込めた。
空っぽだった心が埋まるような気がした。黒鋼に縋りつくことでしか埋められなかったそれは、ユゥイの喪失がもたらした穴だった。
「全部、思い出したから……」
取り戻した。同じ日、同じ場所で産まれて、そしてずっと一緒に生きて来た、半身の記憶を。
ファイは墓前に枯れた薔薇を供えた。白か黄色かもわからなくなってしまったその薔薇は、黒鋼がくれたもの。
そして全ての禁を破った自分が、もはや手放さなければならないものの象徴のように思えた。
「返すよ」
だからと言って許されるとは思えなかった。
ただ楽になりたいだけだと分かってはいても、これはファイなりのケジメのようなものだったから。
「短い間だったけどね。記憶がなかったときのオレも、多分、本当のオレだったんだと思う」
指先でナイフを起こす。月光を弾いて、刃が光り輝いた。
「もしユゥイがいなかったら……そう考えたことがあったんだ……」
左手を後ろへやると、緩く縛った長い髪の束を掴んだ。右手で掴んだナイフも後方へとやり、縛った根元に押し当てる。
「でもね、今のオレも、本当のオレなんだ」
そう、決して後悔はしてない。
黒鋼を愛していた。
例え彼が自分を通してユゥイの影を追いかけていたのだとしても、今もこれからも、彼への想いを否定するつもりはなかった。
ぐっと右手に力を込める。そっと静かに目を閉じて、そして断ち切るように強く引いた。
ザクリという音と共に、嘘のように頭が軽くなる。
「だからオレ、ユゥイになんてなれっこないよ」
ふわりと、短くなった髪が項をくすぐる。
風になびいて、切り落とされた長い金色が、風に乗ってサラサラとどこへともなく消えていく。
金糸の群れが、月光を弾いて煌めいていた。
「これでお終い」
全ての髪を流し終えると、ファイは振り向き、そして笑った。
「全部終わり。そうだよね?」
そこには僅かに息を乱した黒鋼が佇んでいた。
眉間の皺を深くして、物言いたげな彼に、ファイは言った。
「初めてだね。君がここへ来るのは」
そう言うと、黒鋼は一つ大きな息を吐き出して目を閉じた。
「……そうだな」
それもそのはずだった。もし彼がここへ頻繁に訪れているようなら、きっと今頃ここはもっと整備されているし、美しい花も絶やさず供えられているはずだから。
それは彼が本当の意味でユゥイの死と向き合い、受け入れることが出来なかったからなのではないか。そのくせこの男は、先に毀れてしまったファイの心を、ずっと背負い込んできた。
抱えて、守って、与えてくれた。
「ありがとう」
壊れることは簡単で、そしてとても楽な逃げ道だったから。
一度ヒビの入った心は、ゆっくりと足元からファイを飲みこんでいった。それは酷く柔らかな、漆黒の沼だった。そこに身を委ねるのはとても心地がよくて、本当はあのまま沈んでいきたかった。ユゥイの元へ、逝きたかった。
けれどそれを許さなかったのは黒鋼だった。
「君はオレの願いを叶えてくれた。だからオレは、ここにいられる」
一本の薔薇の花。欲しくて欲しくて堪らなかったくせに、手にすることが出来なかった薔薇。黄色ではない、白い薔薇。
それを差し出されたあの瞬間、ファイは知らぬ間に満たされたのだ。あとはゆっくりと、夢から覚めるだけだった。
自らの深い悲しみを抑え込み、何もかもを抱え込んでくれていた男の表情は険しく、そして切ない。
もういいと、ファイは思った。
「いっぱい我儘言ったね。でも、もう甘えるのは終わり。ちゃんと一人で歩かなくちゃ」
彼は記憶を失くしたままでいる限りは、傍にいてくれると言った。
いつしか抱え込んだ痛みや苦しみが、ファイだけを見て、そして愛を注ぐための『理由』にすり替わってしまったのは、どうしようもないことなのだ。
そうやって互いに依存し合わなければ生きられなかった自分たちは、きっととてもよく似ているのだと思う。
「ごめんね、黒たん」
きつく抱き合いながら、水の底で足掻き続ける蜜月は終わりを告げる。
互いに手を離さなければならないときが来た。
「おまえが一人で歩く道に……俺の居場所はないのか?」
「君が一緒にいきたかった相手は、オレじゃないでしょ? オレは、ユゥイにはなれないもん」
髪も切っちゃったしねと、ファイはおどけた。
「それにね、オレはユゥイより幸せだったんだよ。ユゥイがしたくても出来なかったこと、いっぱいしてもらったもの」
だから、もう夢は終わり。
「これ、返すよ」
言葉を失う黒鋼に歩み寄り、ナイフを折りたたむと差し出した。
これを返せば、これを彼が受け取れば、それで終わりだ。
「ユゥイとは、ちゃんとお別れできなかったでしょ? でも、オレたちは生きてるから。ちゃんと笑って、お別れしよう?」
どこからともなく吹く風に、切り落とし、短くなってしまったファイの髪が揺れた。
月の光に包まれた丘で、咲き乱れる彼岸の花は、まるで押し寄せる赤い波のようだった。
黒鋼は閉じていた瞼をそっと開いた。そこにもまた、鮮やかな紅がある。
この燃えるような瞳が好きだった。最初はただ話がしたかった。一言、初対面の非礼を詫びたかった。
それがいつの間にか、手を繋いで歩きたいと願うようになっていた。
ユゥイのものだと思えば思うほど欲しくて、欲しくて、憎くて。
気がつけば、恋をしていた。
ナイフを差し出しながら静かに待つファイに、黒鋼もまた一歩、歩み寄った。大きな手が伸ばされる。ファイは目を閉じた。
けれど彼は、差し出されたナイフを取らなかった。
彼が取ったのは、ファイの細い手首だった。
ナイフが落ちる。赤い波の中で。そよぐ風の中で。月の下で。
いけないと、そう思った瞬間には、ファイは力強い腕に抱かれていた。
何が起こったのだろう。まだ蜜のように甘い夢は続いている。
あとはナイフと一緒に、彼への想いを返すだけだったはずなのに。
「くろ……」
「俺なしじゃ生きられねぇって言ったのは……てめぇだろ……」
違うと、ファイは首を振った。
生きられないのではない。生きなければならないことに、ようやく気づいたのだ。
「駄目だよ」
だからこそ黒鋼が守ってくれて、息を吹き返したこの心を保っていたかった。強くなりたかった。
「対価はもう、無効なんだから……」
欲しがれば際限がなくなる。もう十分に満たされたはずなのに。
身体を離そうと胸に手をついて押し返そうにも、そうすればするほど黒鋼の腕は力を増した。
手を伸ばすだけだったファイは、こんな強さは知らない。戸惑うだけだった。
ユゥイが眠る墓の前で、記憶を取り戻してまで彼の背を抱き返すことは出来ない。幼い頃からずっと堪えて来たのは、誰よりもユゥイを傷つけたくなかったからなのに。
けれどいつだって、感情はファイを置き去りにするから。
だから涙だって、勝手に零れる。
黒鋼の肩を濡らして、みっともないと思うほどに、止まらなくなる。
「オレは、ユゥイの代わりになんてなれないんだよ」
「そんなのは知ってる」
「じゃあどうして……?」
「代わりにできたら、いっそもっと楽だったんだろうな」
濡れた頬に熱い指が触れて、涙を掬う。
「面影を探したことはあった。けど、結局重ならねぇ」
同じ姿形をした双子。纏う雰囲気が違えど、同じ人間に惹かれた、同じ魂の持主だ。
それでもユゥイを選んだのは黒鋼のはずだった。
「怖かった。おまえといると、俺の中でどんどんあいつの影が消えて行くような気がした。対価なんて言い方をしたのは……俺が臆病だったからだ」
少しだけ身体を離して、黒鋼はファイと目を合わせた。そして続ける。
「おまえを、あいつの代わりにしたくなかった」
「……!」
ファイの目に、今の黒鋼の姿はまるで懺悔する罪人のように映った。
彼の迷いと葛藤が、肌を通して伝わる。二人とも、ほんの微かに震えていることも。
「出口はないのかもしれねぇ。俺とおまえがこうしてる限り、ずっと苦しいままかもしれねぇ。それでも…… 」
紅く揺れる瞳に囚われる。呼吸さえも忘れて目を見開くファイに、黒鋼は告げた。
「てめぇを離す気になれねぇんだ」
瞬きも忘れて、ファイは彼の告白を幾度も頭の中で反芻する。
代わりにされていたのだと、そう思っていた。
それでも幸せだった日々の記憶さえあれば、この先も生きていけると信じて、断ち切ろうとした想いだった。
黒鋼の背を抱けない代わりに、ファイは咄嗟にその頬を両手で包みこんだ。そうしなければ、彼が泣いてしまうのではないかと思ったから。
彼がまるで、小さな子供のように見えてしまったから。
黒鋼の告白。一度は手放すことを覚悟したはずの心が、大きくざわめく。
ずっと諦めていた。
ユゥイを悲しませたくなくて、そして今は、奪いたくなくて。
「オレは……」
取り残された二人は、亡き者への愛と罪悪感に縛られている。
共にある限りその影に惑い、怯えることになるかもしれない。許されないかもしれない。最初から、許されているのかもしれない。知る術のない、茨の道だ。
彼の言うように、きっと出口は見つからない。あるいは死ぬまで。
(ねぇユゥイ。オレたちは同じだから。君は、知っていたんだよね。オレの気持ちを)
「オレは、ずっと君が欲しかったよ……今も、何ひとつ変わらない……」
欲しがるばかりだった。縋りつくものがなければ生きられなかった。けれど、罪の意識に耐えるだけの強さを持つことは出来なかった。
今、この瞬間までは。
「愛してるんだ。子供の頃からずっと……ずっとだよ……」
(だからユゥイ)
もし許されるなら。この想いを貫くことこそが、強さだというのなら。
(この人を、オレにちょうだい)
彼の背に腕を回すことは、二度とないと思っていた。
けれど今、ファイは黒鋼の背を掻き抱いていた。そして強く、抱かれている。
「……ごめんなさい」
確かな温もりに包まれながら、ともすれば秋風に掻き消されそうな声で亡き弟への謝罪を口にするファイに、黒鋼は首を振った。
「これはもう償いじゃない。わかってるのは、俺がこうしているのは、俺の意思だってことだけだ」
だからと、黒鋼は続けた。
「今さら一人でなんて、生きられるか……」
例えユゥイが許しても、後をついてくる罪の意識が、きっと二人を許さない。
けれど、それでもいいとファイは思った。この温もりを手放す以上に怖いことなんて、この世のどこにもありはしないだろうと。
「キスして、黒様」
吐息だけで、そう言った。
目を閉じれば、すぐに唇に熱いものが重なる。
ユゥイの眠る墓前で、二人はそうして長い間ずっと抱き合った。
取り残され、置き去りにされた迷子の二人は、だから知らない。
――いつか三人で、森に遊びに行けたらいいのにな
強い月の光を浴びて、墓前に供えてある色褪せた薔薇が、一瞬だけ純白の輝きを取り戻していたことを。
←戻る ・ 次へ→