2025/09/19 Fri あれから数日。 どうにか仕事から解放される目途が経った頃、黒鋼はユゥイに連絡を取った。 ファイの体調や、どんな様子でいるのかも知りたかったし、こちらの都合だけで突然店に顔を出せば、また怯えさせるかもしれない。だから次に店に行く日時を伝えるためにも、休憩の合間を見て携帯に電話をかけた。 すると、てっきりユゥイが応じるとばかり思っていた電話に出たのはファイ本人だった。 「具合はどうだ?」 意外に感じつつ送話口に向かって問いかけると、ファイがまだ少し沈んだ様子で「うん」と返事をした。 「無理すんなよ。病院は行ったか?」 『うぅん平気。あのね、オレ病気じゃないの。お医者さんじゃダメなの』 「?」 『くろがねさん』 よく知る声で、名前を呼ばれた。 自分の名前。けれど、まるで赤の他人の名前のように聞こえる。 「今、俺を呼んだのか?」 『……くろがねさん。あのね、お話、したいの』 「……それは構わねぇが」 『今じゃないの。会って話す。大事なことだから』 いつ帰る? という問いかけのあと、ファイは『明日?』とは聞かなかった。 彼にさらなる変化があったことは明白で、それがなんであるか黒鋼には予想もつかない。ただ、ファイが黒鋼の名前を呼んだ。黒わんではなく、黒鋼、と。 (なんだってんだよ……) 嫌な焦りが込み上げる。 いや、喪失感だろうか。自分の名前を正確に呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも重たい気分になるのだろう。 だが、ファイはこの場でその胸のうちを明かす気はないようだった。 「明後日には行く。そのまま行くから夜になるが……」 『わかった。待ってるね』 通話はたったそれだけで終わった。 *** はっきり言ってほとんど仕事にならなかった。 オンとオフの切り替えは極端すぎるほど徹底しているつもりでいたが、気づくとファイとの会話を思い出してはもやもやとした気持ちになった。 とはいえ仕事に私情を挟むなんて真似はできない。雑念を必死で振り払い、全ての仕事を終えた黒鋼は、職場ビルを出たその足ですぐに猫の目に向かった。 数日ぶりに店を訪れたとき、時計の針はちょうど夜の8時を指していた。 「おかえりなさい」 いつものようにカウンターの奥にいるユゥイが、皿を拭きながら顔を上げて笑う。 黒鋼はムッツリとした表情で「おう」と低く応じて、すぐに店内を見回した。 雑貨スペースのある、店の奥。テラスへと続くガラス張りのドアが半分だけ開いていて、ファイはこの寒空の下、いつもの席に座って背中を向けている。 「なにやってんだあいつ」 「あそこで待つって聞かないんですよ。一応コートの下には目一杯カイロを貼ってるんですけどね」 「そこまでして一体なにがあるってんだ」 「さぁーて……あ、ボクちょっと通りの看板下げてきますね」 そう言いながら、ユゥイはなぜか蝶ネクタイと腰のエプロンを外し、ベストを脱ぐとカウンターテーブルに適当に放った。そして、ファイと色違いの黒いコートを羽織って店を出て行こうとする。 「てめぇこら、ちょっと看板下げに行く格好じゃねぇだろ」 「多分また捕まるんで。熟女に」 「……あの双子の兄貴の方がそこの角にいたぞ。デートか」 「あれ、駅で待ち合わせたんだけどなぁ」 こいつらいつの間に……と、ここ数日モヤモヤしながら過ごしていた自分とのギャップに腹が立ってくる。 「じゃ、あとはよろしくお願いします」 そう言って、ユゥイは飄々とした様子で黒鋼に手を振ると、店を出て行ってしまう。あれだけゲンナリしながらあしらわれていたのに、あの小僧(兄)は一体どんな手を使ったんだ……。 確実に前進しているらしい彼らに比べ、後退の気配をひしひしと感じている黒鋼は、テラスに目をやるとなんとなく咳払いをして、それから一歩足を踏み出す。 (思い出すな) 初めて店に来た日のことを。 どんな気難しい人間なのかと身構えながら、黒鋼はこうしてテラスに向かった。 あの頃はこの店自体がえらく居心地が悪くて、自分が住む世界とは遠くかけ離れた空間のように思えた。仕事でもない限り、絶対に来ることはないだろうと。 それがなぜか、あの中身と見た目がまるきり異なる男に懐かれ、いつの間にか絆されていた。あれに好かれることが心地よくなるにつれ、この店そのものが黒鋼にとってかけがえのない場所になっていった。 多分、もう絶対に手放せない。だけど。 今日で何かが変わる。 そんな気がしていた。ファイが黒鋼の名を呼んだときから。あの瞬間から、黒鋼は黒わんとしての役目を終えたのだと思う。 なら、今から彼の前に立つ自分は、どんな姿形をしているのだろうか。 自分に都合のいい想像をするのは簡単だった。だが、心のどこかでは傷つかないための準備もしている。どうせ子供の気まぐれだったのだと、少しの間、付き合ってやっただけなのだと。 それでももしまだ間に合うなら、黒鋼には彼に伝えたい言葉が沢山ある。もしファイにとって自分の存在が不要になったのだとしても、黒鋼には、必要だった。 黒鋼はいつになく緊張している自分に気づいて、ゆっくりと震える息を吐き出した。 そのとき、音が聞こえた。 オルゴールが奏でるその曲は、ファイと初めてあったとき、彼が口ずさんでいたものだった。 黒鋼がテラスへと足を踏み入れた瞬間、飛び込んできた冬の夜空は星で溢れかえっていた。星に願いを込めたことなんかない。それでも、願わずにはいられない。 光が欲しい。ただひとつ、目の前の光が。 「風邪ひくぞ」 そう声をかけると、ファイはビクンと肩を震わせた。 黒鋼は、振り向くことなく俯く彼の隣の椅子に腰かける。店内から漏れる灯りと、満点の星空から降り注ぐ微かな光の中、ファイは首から下げたペンダントをしっかりと握りしめていた。 黒鋼は何も言わずに俯くファイに、「寒いな」と何気ない言葉をかけながら白い息を吐き出した。自分もカイロの一つくらい仕込んでくるべきだったろうか。 ファイは小さく「うん」と頷いた。そして、オルゴールが奏でるメロディだけが辺りに響き渡る。 何をしているんだと、黒鋼は胸の内で自身を叱咤した。ここに来ると言ったのは自分で、話があると言ったのはファイだ。互いがどう切り出せばいいか分からない状況の中、先に動かねばならないのは自分の方だった。 「なぁ」 「あの」 「…………」 「…………」 「なんだ」 「あ……んと……いいよ、オレは、後でも……」 ファイの方が引いたところで、オルゴールが止んだ。彼が切り出そうとした内容は気になるが、黒鋼はまず先に自分の思いを言葉に乗せる。 「悪かった。カレー、食いに来れなくてよ」 「……うぅん」 「俺は……」 おまえに会いたかったのだと、そう伝えようとしたところで、ずっと俯いていたファイが顔を上げる。不安そうに見上げてくる潤んだ瞳に、あの日のような星の瞬きはなかった。 燦々と輝く光の道で、彼はあんなにも煌めいていたのに。 『すごいすごーい! とってもキレイー!』 『黒わんと見れて、すごく嬉しい』 『おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー』 『ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!』 柔らかな声が蘇る。眩しくて、胸が締め付けられるくらいに無邪気な笑顔が。 今、彼の表情をこんな風に曇らせているのは他の誰でもない、黒鋼自身だ。 誰よりも大切にしたいと思った相手に。何よりも愛しいと感じた相手に。そう思わせてくれた存在に。今の今まで、何一つ伝えずにいたなんて。 黒鋼は知らぬ間に力んでいた肩から緊張を解いた。何も難しいことなんか、ないじゃないかと。 「俺は、おまえの笑ってる顔が好きだ」 「……くろ」 「おまえの声も、目も、髪も、すぐ泣いちまうところも」 「…………」 「全部、好きだ」 ファイは大きく目を見開いた。星空の下で、白い頬がほんのりと薄桃に染まる。 黒鋼の言う『好き』を、幼い彼は理解できないかもしれない。だけどそれでもよかった。黒鋼はファイが好きだ。誰よりも大切だ。その感情に嘘偽りがないことだけでも、伝わってほしい。 黒鋼が真っ直ぐにファイの目を見据えていると、彼はどこか落ち着かない様子で幾度か目を泳がせ、俯いた。 「……あ、あのね」 「おう」 「くろがねさん、も……ドキドキする?」 「……?」 「オレ……オレね、くろがねさんといると、ここがドキドキする」 そう言って、ファイはペンダントがぶら下がる自分の胸に手の平を這わせた。 「きゅってなって、苦しくなる……でも、すごく嬉しくて……恥ずかしくて……泣きそうになる……」 だけど、と続けて、ファイは辛そうな顔で再び黒鋼を見上げた。 「くろがねさんが、もし消えちゃったらどうしようって、いなくなっちゃったらどうしようって……もう来てくれなくなったらって……そう考えたら、オレ……」 ファイの頬に涙が伝った。星灯りの下で、それはキラリと小さく煌めく。 胸の中で燻っていた感情が、一気に熱く爆ぜるような気がした。堪らない気持ちになった黒鋼は、ぐっと奥歯を噛み締めると、華奢な身体を思い切り引き寄せる。その拍子に互いの椅子がガタンと音を立てて揺らぎ、体勢を崩す直前で両足で踏ん張ると、彼を抱きすくめるようにしながら立ち上がった。 案の定、椅子は二つとも音を立ててひっくり返る。それでも、黒鋼の意識は腕の中の温もりにだけ、注がれていた。 「く、くろが……ッ」 「おまえ、ちゃんと分かってんだな」 「ぇ……?」 「どうすんだよ。マジで離せなくなっちまった」 ファイの身体が熱い。一体どれほどカイロを仕込んでいるんだと思うと、声を上げて笑いたくなる。 黒鋼は少しだけ二人の間に隙間を作ると、戸惑いがちに肩に這わされていた手を取り、前を開いた状態のジャケットの中にそれを引き込んだ。ワイシャツの上から自分の胸の中心に触れさせて、ファイの瞳を覗き込む。 「どうなってる?」 「ドキドキ、してる……」 「おまえと一緒だな」 「……苦しい?」 「ああ」 息ができないくらいに。 ファイはやっぱり泣いてしまった。金色の睫毛に縁どられた青い瞳から透明な雫を幾つも溢れさせる。 黒鋼は親指でその目元をなぞり、熱い頬の感触を確かめると微かに笑った。 「あんま泣くなよ。ふやけちまうぞ」 「だ、って……だって……もう、嫌われちゃったと、思ってたから……ッ」 「んなわけねぇだろ」 「じゃあ……どこにも行かない……?」 「行かねぇよ」 「急にいなくなったり、しない……?」 「しねぇ」 「オレのこと……」 置いてったりしない? その言葉を、黒鋼は唇を塞ぐことで飲み込ませた。 何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返していると、腕の中で強張っていた身体からすっかり力が抜ける。 ファイは顔を可哀想なくらい真っ赤にして、くったりと黒鋼の肩に額を預けると「ふわぁ~……」とおかしな声を上げた。 「だからなんなんだよ、その反応は」 「あ、あつくて……ふわふわ、しちゃうんだもん~……」 呼吸の隙は十分に与えていたはずだが、ファイはずっと息を止めていたようだった。ぐったりしながらはかはかと肩を上下させている。 息継ぎのタイミングをこれから教えていかなければと考えつつ、黒鋼はファイの耳元に唇を押し付けた。 「いいか、よく聞いとけよ」 「ん……」 「俺は、俺がおまえに会いてぇからここに来てる。だからもう、約束なんて関係ねぇ」 ファイが泣きながら裸の黒わんを手渡してくる瞬間が好きだった。恥ずかしそうに、新しい黒わんを預けてくる瞬間も。だけど、そんな我儘はもう終わりだ。 正直、叫び出したいほど照れ臭い。だけど恥ずかしがってもいられない。ここまで言ってもまだ不安になるのなら、その度に何度でも言ってやるから。 「ずっと、おまえの側にいる」 ファイは頷いて、何度も「嬉しい」と言った。嬉しくて、苦しいと。黒鋼だって同じだ。愛しくて、狂おしい。 ファイは黒鋼の肩から恥ずかしそうに顔を上げると、しがみついてくる腕の力をいっそう強めた。そして言った。 「くろがねさん、大好き」 その額に唇を押し付けて、黒鋼も囁くような吐息混じりの声で同じ想いを返した。 でもひとつだけ、腑に落ちない点がある。 「その、黒鋼さんってのやめねぇか?」 「どうして?」 「落ち着かねぇっつうかな」 ファイは不思議そうに小首を傾げた。 「だって……くろがねさんは黒わんじゃないよ?」 「まぁ……そうなんだけどな」 彼が理解してくれたのは嬉しい。黒鋼が黒わんの勤めを終えたとき、彼の目に映っていたのは自分という一人の人間だったことは喜ばしいことだ。 だけど落ち着かない。どうも居心地が悪いような、尻の座りが悪いような。 顔を顰める黒鋼に、ファイはパチパチと瞬きを繰り返した。それから、「んー」と視線だけ満天の夜空に向け、すぐに何か思いついたようにパッと表情を明るくする。 「じゃあ、黒たんだ」 「……たん、か」 「黒ぽんの方がいい?」 「どっちもどっちだが……まぁ……」 悪くねぇかと、そう言って笑ってやるとファイはあの黒鋼が大好きな、溶けた砂糖菓子のような情けない笑顔を見せた。 *** 月は消えていた。 いつだって強い光で花畑を照らしていたはずの月が。 名も知らぬ白い花が咲き乱れる丘は暗く、風だけが温く吹きぬけていた。 その中央にぽつんと佇んでいるファイは、月さえも消え去ってしまった世界に取り残されている。 「黒わん……」 親友の名を呼ぶ声は、幼く甲高いものではなかった。 ファイは薄ぼんやりとした空間で、僅かに右腕を浮かせる。すらりと伸びたその腕は、華奢ではあるが大人の男のものだった。 まるで自分の身体じゃないような気がした。ここでファイはずっと母親とユゥイと三人で暮らしていた頃と同じ、小さな子供のまま過ごしていたから。大きくなった身体も、低くなった声も、変わってしまったこの世界も。実感が湧かない。 茫然としたままでいるファイは、ふと自分以外の気配を感じて顔を上げる。 後ろからゆっくりと近づくそれは、草を掻き分けるようにして足音を立てていた。 振り返ると、ずっと会いたかった『親友』の姿があった。 「黒わん……!」 ファイは彼に向かって駆け出した。赤いマフラーをした、黒いオオカミのような犬。そのふかふかの身体に、膝をついて両手を伸ばす。 『なんだよおまえ、まだこんなとこにいたのか』 「黒わん……黒わん……会いたかった……!」 ファイは泣きじゃくり、強く黒わんを抱きしめた。黒わんは大きな姿になってもやっぱり泣き虫のままでいるファイの背中を、ポンポンと優しく叩く。 会いたかった。ずっと会いたかった。もう二度と会えないかと思った。 だけど彼はちゃんと戻ってきてくれた。でも。 「黒わんて、こんなにちっちゃかったんだね」 腕の中にすっぽりと納まってしまうくらい、小さな黒わん。同じ目線で過ごしたはずなのに、まるで小さな子供を抱きしめているような気分だった。 黒わんは少しムッとして、吊り上がった目をさらに吊り上げる。 『おれはチビじゃねぇ。おまえがでっかくなったんだ。おれよりちっこかったくせに』 「そんなことないよー。おんなじくらいだったよー」 『いいや、おまえの方がチビだった』 「むー、なんか黒わんイジワルー」 ファイが唇を尖らせると、黒わんが笑った。だからファイも、声を上げて笑った。 「黒鋼さんって名前なんだ」 二人で並んで座り込み、真っ暗な空を見上げながら、ファイは黒わんに黒鋼の話をした。 ファイにとっての黒わんは今こうして隣にいる黒わんだけだから。だからあえて渾名ではなく、『黒鋼』と呼ぶ。 「大きくて、黒いツンツン頭でね、少し怖い顔してるの。黒わんにそっくりだったから、最初は黒わんだーって思っちゃったんだ」 『そんなに似てるのか?』 「うん。そっくり。だって黒わんと同じくらい優しいし、ぎゅってしてくれるもん」 あ、そうだ。そう言って、ファイは首にぶら下がるオルゴールのペンダントを黒わんに見せた。 「これね、音が鳴るんだ」 ネジを巻くと、可愛らしい音色が薄闇の空間に優しく響き渡った。 『ほしにねがいを、だな』 「うん。くれたの。黒鋼さんが」 ファイは木製のペンダントを愛しげに見つめ、その表面をそっと撫でる。 一度は床に投げつけてしまったけれど、どこにも傷がつかなくてよかった。大切にするって、約束したから。 ファイの横顔をじっと見つめて、黒わんは『いいやつだな』と言った。 「うん。いい人だよ」 『とくべつか?』 「うん。特別」 『おまえだけのひとなんだな』 「うん……オレだけの人」 『そうか』 ファイは目を閉じると、音の鳴りやんだペンダントをそっと胸に抱きしめる。 そして黒わんを見るとふわりと笑った。 「君もね」 『…………』 「君も、オレだけの友達だよ。オレの、一番の親友」 ファイは黒わんを抱き寄せると、身を屈めてそのピンと尖った耳にキスをした。そのまま柔らかな毛の感触を頬で確かめる。 胸が痛かった。少しだけ泣きたいような気がした。でも、涙は出なかった。 「どこにも行かないでって、そう言いたいけど。多分、お別れだね」 『ああ。おれの役目は、もうおわったからな』 「ありがとう、黒わん」 ずっと守ってくれた。 悲しいときも、嬉しいときも、いつもここにいてくれた。話を聞いて、優しく抱きしめてくれた。 今のファイは知っている。これはファイの夢の世界。この黒わんは、ただ自分の幼い心を守るためだけに作りだした、幻想だということ。 だけど温かかった。まるで現実のように。だから黒わんはここにいる。確かにいる。ファイだけの、大切な『親友』だ。 寂しいのは、大好きだから。 別れを恐れてはいけない。この温もりを手放してでも、ファイは殻を破らなくてはいけない。怖くても、先へ進まなくてはいけない。たとえどんなに幸せな過去があったとしても。美しい思い出と引き換えにしても。 同じ時間の中で、愛しい人と生きていくことを決めたから。 そのとき、寄り添う二人の頭上が一瞬、光った。揃って見上げた空に、一筋の星が走り抜ける。 「流れ星……?」 ファイは立ち上がると、その場から数歩前に進んだ。そして次から次へと流れる光の筋に目を輝かせる。 「こんなにたくさん……」 やがて空は眩い光に包まれる。星たちは、本当はずっとこの空にあった。月の光があまりにも強すぎて、ただ隠されていただけで。 ずっとずっと、ここにあった。 「黒わん、何かお願いごとしたら、きっと叶うよ!」 振り向くと、そこに黒わんはいなかった。 辺りを見回すと、ファイの数メートル先に佇む黒わんがいる。伸ばしかけた手を、ファイはぐっと堪えることで握りしめた。 「黒わん……」 『おれの願いは、もうかなったからいい』 「何を……お願いしたの?」 『おまえと、おなじだ』 黒わんは空を見上げた。同じように、ファイもキラキラと流れゆく満天の星空を見上げる。 『だれかの願いがかなったから、星がながれるんだ』 星の瞬きがあまりにも綺麗で、ファイは小さく微笑みながら一筋の涙を流した。 願うための光ではなく、願ったからこそ、星が駆け抜ける。一瞬の強い光を放ちながら。 「さよなら、黒わん」 ありがとう。 *** 目が覚めて、ゆっくりと起き上がったファイは片方だけ濡れている頬をそっと指先で拭った。 幾度か瞬きをしてから、枕元を見やって行儀よく座っている黒わんのぬいぐるみを手に取る。向かい合うように膝に座らせて、直したばかりの耳をそっと撫でた。 こんなに穏やかな気持ちで目覚めたのは久しぶりだ。昨日までのファイは目が覚めるとただ悲しいばかりで、頬がぐしゃぐしゃになるくらい涙を流していたから。 「おはよ、黒わん」 額にそっとキスをして、ファイは微笑んだ。 まだ少しだけ、腕の中に抱きしめた黒わんの感触が残っているような気がした。たくさんの星が流れる空の下、最後のお別れをするために戻ってきてくれた親友。 彼の願いもファイの願いも、あの星々の中で光り輝いた。 同じ願い。それは、大好きな人とずっと一緒にいること。 だからあれは別れじゃない。 だって黒わんは、こうしてファイの腕の中にいるのだから。 もう話すことはできないし、これからも針と糸を通すことになるけれど。 「ずっとここにいたんだよね、君は」 ファイは黒わんをぎゅっと胸に抱きしめたあと、再びそっと枕元に座らせる。 そして、床に目を向けた。 絨毯の上に敷かれた布団で、どこか窮屈そうに背中を丸めて眠る人。ファイは「ふふふ」と笑うと、ベッドから降りて彼の上に思いっきり乗り上げた。 「おはよー黒たん! 朝だよ起きてー!」 「うお!? な、なんだ、なんだおまえは!」 「朝だよぉ! いつまで寝てるのー!」 「元気だな……」 大きな溜息をついて起き上がった黒鋼は、膝に乗ったままのファイの前髪をくしゃりと撫でた。 昨夜テラスで思いを打ち明け合ったあと、二人は長いことずっと夜空を見上げながら話をしていた。黒鋼が普段どんな仕事をしているのか、どうして時々遠くへ行かなくてはいけないのか、どんな会社で、どんな家に住んでいるのか。ファイは母親が生きていた頃にユゥイと三人で過ごした思い出や、どうやって黒わんと出会ったのか、そしてそのあと、どんなふうに施設で暮らしたのかを話した。 黒鋼は施設での話をすでに知っている様子だった。ユゥイから聞いていたのかもしれない。ずっと苦しそうに目を細め、ファイの手を強く握っていてくれた。 お互いのことを話しているうち、ユゥイが帰って来た。なぜか小龍もいて、そのあと四人で晩御飯を食べた。 そしてあのクリスマスの夜のように、終電を逃した黒鋼はそのままこの部屋に泊まったのだった。 しばらくは黒鋼に髪をわしゃわしゃと撫でられて声を上げて笑っていたファイだったが、その腕を掴んで押し戻しながら唇を尖らせる。 「また黒たんと夜中にお喋りできなかったよー」 「夜は寝るもんだ。しょうがねぇだろ」 「たまには夜更かししたいもん……起こしてくれればいいのに……」 「わざわざ起こすこともねぇだろ……つうか、寝ててもらわねぇと困る」 「なんでー?」 キョトンとした表情で小首を傾げると、なぜか黒鋼はそっぽを向いて咳払いをした。 「黒たん?」 「うるせぇな。ガキはとっとと寝るもんなんだよ」 「オレ、ガキじゃないよ! 大人だよ!」 だから困るんだろうが……と、悪人のような顔で目を逸らす黒鋼に、ファイはむぅーっと頬を膨らませる。黒鋼の言ってることは、まだ自分には難しいことなんだろうか。 「いいよー! あとでユゥイに聞くからー!」 「バカ野郎! それはやめとけ! そんなもん家族に聞いたって気まずくなるだけだぞ!」 「もー! またよく分かんないこと言うー! じゃあちゃんと教えてよー!」 「…………そのうちな」 「そのうちって明日?」 「阿呆」 黒鋼に額をペシッと叩かれて、ファイはますますふくれっ面をした。これは二人のことなのに、黒鋼だけが知っていて自分には分からないなんて、なんだかズルい。 すっかり不貞腐れてしまったファイの顔に、明後日の方向を向いている黒鋼がチラリと視線を寄越す。そして、指先で顎を持ち上げてきた瞬間、尖っていた唇にキスをされた。 「ッ……!」 ファイは一瞬で頬を赤らめる。頭の天辺から湯気が上がりそうだ。胸の内側で心臓がドンドンと忙しなく暴れ出して、息ができなくなる。 「う~~……」 「これで機嫌直せ」 「急にチュウするの、禁止だよぉ……」 熱くて苦しくて、そして恥ずかしくて。 骨抜き状態でくったりと広い胸板に身を預けるファイを、黒鋼は小さく笑うと抱きしめた。 ←戻る ・ 次へ→
どうにか仕事から解放される目途が経った頃、黒鋼はユゥイに連絡を取った。
ファイの体調や、どんな様子でいるのかも知りたかったし、こちらの都合だけで突然店に顔を出せば、また怯えさせるかもしれない。だから次に店に行く日時を伝えるためにも、休憩の合間を見て携帯に電話をかけた。
すると、てっきりユゥイが応じるとばかり思っていた電話に出たのはファイ本人だった。
「具合はどうだ?」
意外に感じつつ送話口に向かって問いかけると、ファイがまだ少し沈んだ様子で「うん」と返事をした。
「無理すんなよ。病院は行ったか?」
『うぅん平気。あのね、オレ病気じゃないの。お医者さんじゃダメなの』
「?」
『くろがねさん』
よく知る声で、名前を呼ばれた。
自分の名前。けれど、まるで赤の他人の名前のように聞こえる。
「今、俺を呼んだのか?」
『……くろがねさん。あのね、お話、したいの』
「……それは構わねぇが」
『今じゃないの。会って話す。大事なことだから』
いつ帰る? という問いかけのあと、ファイは『明日?』とは聞かなかった。
彼にさらなる変化があったことは明白で、それがなんであるか黒鋼には予想もつかない。ただ、ファイが黒鋼の名前を呼んだ。黒わんではなく、黒鋼、と。
(なんだってんだよ……)
嫌な焦りが込み上げる。
いや、喪失感だろうか。自分の名前を正確に呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも重たい気分になるのだろう。
だが、ファイはこの場でその胸のうちを明かす気はないようだった。
「明後日には行く。そのまま行くから夜になるが……」
『わかった。待ってるね』
通話はたったそれだけで終わった。
***
はっきり言ってほとんど仕事にならなかった。
オンとオフの切り替えは極端すぎるほど徹底しているつもりでいたが、気づくとファイとの会話を思い出してはもやもやとした気持ちになった。
とはいえ仕事に私情を挟むなんて真似はできない。雑念を必死で振り払い、全ての仕事を終えた黒鋼は、職場ビルを出たその足ですぐに猫の目に向かった。
数日ぶりに店を訪れたとき、時計の針はちょうど夜の8時を指していた。
「おかえりなさい」
いつものようにカウンターの奥にいるユゥイが、皿を拭きながら顔を上げて笑う。
黒鋼はムッツリとした表情で「おう」と低く応じて、すぐに店内を見回した。
雑貨スペースのある、店の奥。テラスへと続くガラス張りのドアが半分だけ開いていて、ファイはこの寒空の下、いつもの席に座って背中を向けている。
「なにやってんだあいつ」
「あそこで待つって聞かないんですよ。一応コートの下には目一杯カイロを貼ってるんですけどね」
「そこまでして一体なにがあるってんだ」
「さぁーて……あ、ボクちょっと通りの看板下げてきますね」
そう言いながら、ユゥイはなぜか蝶ネクタイと腰のエプロンを外し、ベストを脱ぐとカウンターテーブルに適当に放った。そして、ファイと色違いの黒いコートを羽織って店を出て行こうとする。
「てめぇこら、ちょっと看板下げに行く格好じゃねぇだろ」
「多分また捕まるんで。熟女に」
「……あの双子の兄貴の方がそこの角にいたぞ。デートか」
「あれ、駅で待ち合わせたんだけどなぁ」
こいつらいつの間に……と、ここ数日モヤモヤしながら過ごしていた自分とのギャップに腹が立ってくる。
「じゃ、あとはよろしくお願いします」
そう言って、ユゥイは飄々とした様子で黒鋼に手を振ると、店を出て行ってしまう。あれだけゲンナリしながらあしらわれていたのに、あの小僧(兄)は一体どんな手を使ったんだ……。
確実に前進しているらしい彼らに比べ、後退の気配をひしひしと感じている黒鋼は、テラスに目をやるとなんとなく咳払いをして、それから一歩足を踏み出す。
(思い出すな)
初めて店に来た日のことを。
どんな気難しい人間なのかと身構えながら、黒鋼はこうしてテラスに向かった。
あの頃はこの店自体がえらく居心地が悪くて、自分が住む世界とは遠くかけ離れた空間のように思えた。仕事でもない限り、絶対に来ることはないだろうと。
それがなぜか、あの中身と見た目がまるきり異なる男に懐かれ、いつの間にか絆されていた。あれに好かれることが心地よくなるにつれ、この店そのものが黒鋼にとってかけがえのない場所になっていった。
多分、もう絶対に手放せない。だけど。
今日で何かが変わる。
そんな気がしていた。ファイが黒鋼の名を呼んだときから。あの瞬間から、黒鋼は黒わんとしての役目を終えたのだと思う。
なら、今から彼の前に立つ自分は、どんな姿形をしているのだろうか。
自分に都合のいい想像をするのは簡単だった。だが、心のどこかでは傷つかないための準備もしている。どうせ子供の気まぐれだったのだと、少しの間、付き合ってやっただけなのだと。
それでももしまだ間に合うなら、黒鋼には彼に伝えたい言葉が沢山ある。もしファイにとって自分の存在が不要になったのだとしても、黒鋼には、必要だった。
黒鋼はいつになく緊張している自分に気づいて、ゆっくりと震える息を吐き出した。
そのとき、音が聞こえた。
オルゴールが奏でるその曲は、ファイと初めてあったとき、彼が口ずさんでいたものだった。
黒鋼がテラスへと足を踏み入れた瞬間、飛び込んできた冬の夜空は星で溢れかえっていた。星に願いを込めたことなんかない。それでも、願わずにはいられない。
光が欲しい。ただひとつ、目の前の光が。
「風邪ひくぞ」
そう声をかけると、ファイはビクンと肩を震わせた。
黒鋼は、振り向くことなく俯く彼の隣の椅子に腰かける。店内から漏れる灯りと、満点の星空から降り注ぐ微かな光の中、ファイは首から下げたペンダントをしっかりと握りしめていた。
黒鋼は何も言わずに俯くファイに、「寒いな」と何気ない言葉をかけながら白い息を吐き出した。自分もカイロの一つくらい仕込んでくるべきだったろうか。
ファイは小さく「うん」と頷いた。そして、オルゴールが奏でるメロディだけが辺りに響き渡る。
何をしているんだと、黒鋼は胸の内で自身を叱咤した。ここに来ると言ったのは自分で、話があると言ったのはファイだ。互いがどう切り出せばいいか分からない状況の中、先に動かねばならないのは自分の方だった。
「なぁ」
「あの」
「…………」
「…………」
「なんだ」
「あ……んと……いいよ、オレは、後でも……」
ファイの方が引いたところで、オルゴールが止んだ。彼が切り出そうとした内容は気になるが、黒鋼はまず先に自分の思いを言葉に乗せる。
「悪かった。カレー、食いに来れなくてよ」
「……うぅん」
「俺は……」
おまえに会いたかったのだと、そう伝えようとしたところで、ずっと俯いていたファイが顔を上げる。不安そうに見上げてくる潤んだ瞳に、あの日のような星の瞬きはなかった。
燦々と輝く光の道で、彼はあんなにも煌めいていたのに。
『すごいすごーい! とってもキレイー!』
『黒わんと見れて、すごく嬉しい』
『おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー』
『ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!』
柔らかな声が蘇る。眩しくて、胸が締め付けられるくらいに無邪気な笑顔が。
今、彼の表情をこんな風に曇らせているのは他の誰でもない、黒鋼自身だ。
誰よりも大切にしたいと思った相手に。何よりも愛しいと感じた相手に。そう思わせてくれた存在に。今の今まで、何一つ伝えずにいたなんて。
黒鋼は知らぬ間に力んでいた肩から緊張を解いた。何も難しいことなんか、ないじゃないかと。
「俺は、おまえの笑ってる顔が好きだ」
「……くろ」
「おまえの声も、目も、髪も、すぐ泣いちまうところも」
「…………」
「全部、好きだ」
ファイは大きく目を見開いた。星空の下で、白い頬がほんのりと薄桃に染まる。
黒鋼の言う『好き』を、幼い彼は理解できないかもしれない。だけどそれでもよかった。黒鋼はファイが好きだ。誰よりも大切だ。その感情に嘘偽りがないことだけでも、伝わってほしい。
黒鋼が真っ直ぐにファイの目を見据えていると、彼はどこか落ち着かない様子で幾度か目を泳がせ、俯いた。
「……あ、あのね」
「おう」
「くろがねさん、も……ドキドキする?」
「……?」
「オレ……オレね、くろがねさんといると、ここがドキドキする」
そう言って、ファイはペンダントがぶら下がる自分の胸に手の平を這わせた。
「きゅってなって、苦しくなる……でも、すごく嬉しくて……恥ずかしくて……泣きそうになる……」
だけど、と続けて、ファイは辛そうな顔で再び黒鋼を見上げた。
「くろがねさんが、もし消えちゃったらどうしようって、いなくなっちゃったらどうしようって……もう来てくれなくなったらって……そう考えたら、オレ……」
ファイの頬に涙が伝った。星灯りの下で、それはキラリと小さく煌めく。
胸の中で燻っていた感情が、一気に熱く爆ぜるような気がした。堪らない気持ちになった黒鋼は、ぐっと奥歯を噛み締めると、華奢な身体を思い切り引き寄せる。その拍子に互いの椅子がガタンと音を立てて揺らぎ、体勢を崩す直前で両足で踏ん張ると、彼を抱きすくめるようにしながら立ち上がった。
案の定、椅子は二つとも音を立ててひっくり返る。それでも、黒鋼の意識は腕の中の温もりにだけ、注がれていた。
「く、くろが……ッ」
「おまえ、ちゃんと分かってんだな」
「ぇ……?」
「どうすんだよ。マジで離せなくなっちまった」
ファイの身体が熱い。一体どれほどカイロを仕込んでいるんだと思うと、声を上げて笑いたくなる。
黒鋼は少しだけ二人の間に隙間を作ると、戸惑いがちに肩に這わされていた手を取り、前を開いた状態のジャケットの中にそれを引き込んだ。ワイシャツの上から自分の胸の中心に触れさせて、ファイの瞳を覗き込む。
「どうなってる?」
「ドキドキ、してる……」
「おまえと一緒だな」
「……苦しい?」
「ああ」
息ができないくらいに。
ファイはやっぱり泣いてしまった。金色の睫毛に縁どられた青い瞳から透明な雫を幾つも溢れさせる。
黒鋼は親指でその目元をなぞり、熱い頬の感触を確かめると微かに笑った。
「あんま泣くなよ。ふやけちまうぞ」
「だ、って……だって……もう、嫌われちゃったと、思ってたから……ッ」
「んなわけねぇだろ」
「じゃあ……どこにも行かない……?」
「行かねぇよ」
「急にいなくなったり、しない……?」
「しねぇ」
「オレのこと……」
置いてったりしない?
その言葉を、黒鋼は唇を塞ぐことで飲み込ませた。
何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返していると、腕の中で強張っていた身体からすっかり力が抜ける。
ファイは顔を可哀想なくらい真っ赤にして、くったりと黒鋼の肩に額を預けると「ふわぁ~……」とおかしな声を上げた。
「だからなんなんだよ、その反応は」
「あ、あつくて……ふわふわ、しちゃうんだもん~……」
呼吸の隙は十分に与えていたはずだが、ファイはずっと息を止めていたようだった。ぐったりしながらはかはかと肩を上下させている。
息継ぎのタイミングをこれから教えていかなければと考えつつ、黒鋼はファイの耳元に唇を押し付けた。
「いいか、よく聞いとけよ」
「ん……」
「俺は、俺がおまえに会いてぇからここに来てる。だからもう、約束なんて関係ねぇ」
ファイが泣きながら裸の黒わんを手渡してくる瞬間が好きだった。恥ずかしそうに、新しい黒わんを預けてくる瞬間も。だけど、そんな我儘はもう終わりだ。
正直、叫び出したいほど照れ臭い。だけど恥ずかしがってもいられない。ここまで言ってもまだ不安になるのなら、その度に何度でも言ってやるから。
「ずっと、おまえの側にいる」
ファイは頷いて、何度も「嬉しい」と言った。嬉しくて、苦しいと。黒鋼だって同じだ。愛しくて、狂おしい。
ファイは黒鋼の肩から恥ずかしそうに顔を上げると、しがみついてくる腕の力をいっそう強めた。そして言った。
「くろがねさん、大好き」
その額に唇を押し付けて、黒鋼も囁くような吐息混じりの声で同じ想いを返した。
でもひとつだけ、腑に落ちない点がある。
「その、黒鋼さんってのやめねぇか?」
「どうして?」
「落ち着かねぇっつうかな」
ファイは不思議そうに小首を傾げた。
「だって……くろがねさんは黒わんじゃないよ?」
「まぁ……そうなんだけどな」
彼が理解してくれたのは嬉しい。黒鋼が黒わんの勤めを終えたとき、彼の目に映っていたのは自分という一人の人間だったことは喜ばしいことだ。
だけど落ち着かない。どうも居心地が悪いような、尻の座りが悪いような。
顔を顰める黒鋼に、ファイはパチパチと瞬きを繰り返した。それから、「んー」と視線だけ満天の夜空に向け、すぐに何か思いついたようにパッと表情を明るくする。
「じゃあ、黒たんだ」
「……たん、か」
「黒ぽんの方がいい?」
「どっちもどっちだが……まぁ……」
悪くねぇかと、そう言って笑ってやるとファイはあの黒鋼が大好きな、溶けた砂糖菓子のような情けない笑顔を見せた。
***
月は消えていた。
いつだって強い光で花畑を照らしていたはずの月が。
名も知らぬ白い花が咲き乱れる丘は暗く、風だけが温く吹きぬけていた。
その中央にぽつんと佇んでいるファイは、月さえも消え去ってしまった世界に取り残されている。
「黒わん……」
親友の名を呼ぶ声は、幼く甲高いものではなかった。
ファイは薄ぼんやりとした空間で、僅かに右腕を浮かせる。すらりと伸びたその腕は、華奢ではあるが大人の男のものだった。
まるで自分の身体じゃないような気がした。ここでファイはずっと母親とユゥイと三人で暮らしていた頃と同じ、小さな子供のまま過ごしていたから。大きくなった身体も、低くなった声も、変わってしまったこの世界も。実感が湧かない。
茫然としたままでいるファイは、ふと自分以外の気配を感じて顔を上げる。
後ろからゆっくりと近づくそれは、草を掻き分けるようにして足音を立てていた。
振り返ると、ずっと会いたかった『親友』の姿があった。
「黒わん……!」
ファイは彼に向かって駆け出した。赤いマフラーをした、黒いオオカミのような犬。そのふかふかの身体に、膝をついて両手を伸ばす。
『なんだよおまえ、まだこんなとこにいたのか』
「黒わん……黒わん……会いたかった……!」
ファイは泣きじゃくり、強く黒わんを抱きしめた。黒わんは大きな姿になってもやっぱり泣き虫のままでいるファイの背中を、ポンポンと優しく叩く。
会いたかった。ずっと会いたかった。もう二度と会えないかと思った。
だけど彼はちゃんと戻ってきてくれた。でも。
「黒わんて、こんなにちっちゃかったんだね」
腕の中にすっぽりと納まってしまうくらい、小さな黒わん。同じ目線で過ごしたはずなのに、まるで小さな子供を抱きしめているような気分だった。
黒わんは少しムッとして、吊り上がった目をさらに吊り上げる。
『おれはチビじゃねぇ。おまえがでっかくなったんだ。おれよりちっこかったくせに』
「そんなことないよー。おんなじくらいだったよー」
『いいや、おまえの方がチビだった』
「むー、なんか黒わんイジワルー」
ファイが唇を尖らせると、黒わんが笑った。だからファイも、声を上げて笑った。
「黒鋼さんって名前なんだ」
二人で並んで座り込み、真っ暗な空を見上げながら、ファイは黒わんに黒鋼の話をした。
ファイにとっての黒わんは今こうして隣にいる黒わんだけだから。だからあえて渾名ではなく、『黒鋼』と呼ぶ。
「大きくて、黒いツンツン頭でね、少し怖い顔してるの。黒わんにそっくりだったから、最初は黒わんだーって思っちゃったんだ」
『そんなに似てるのか?』
「うん。そっくり。だって黒わんと同じくらい優しいし、ぎゅってしてくれるもん」
あ、そうだ。そう言って、ファイは首にぶら下がるオルゴールのペンダントを黒わんに見せた。
「これね、音が鳴るんだ」
ネジを巻くと、可愛らしい音色が薄闇の空間に優しく響き渡った。
『ほしにねがいを、だな』
「うん。くれたの。黒鋼さんが」
ファイは木製のペンダントを愛しげに見つめ、その表面をそっと撫でる。
一度は床に投げつけてしまったけれど、どこにも傷がつかなくてよかった。大切にするって、約束したから。
ファイの横顔をじっと見つめて、黒わんは『いいやつだな』と言った。
「うん。いい人だよ」
『とくべつか?』
「うん。特別」
『おまえだけのひとなんだな』
「うん……オレだけの人」
『そうか』
ファイは目を閉じると、音の鳴りやんだペンダントをそっと胸に抱きしめる。
そして黒わんを見るとふわりと笑った。
「君もね」
『…………』
「君も、オレだけの友達だよ。オレの、一番の親友」
ファイは黒わんを抱き寄せると、身を屈めてそのピンと尖った耳にキスをした。そのまま柔らかな毛の感触を頬で確かめる。
胸が痛かった。少しだけ泣きたいような気がした。でも、涙は出なかった。
「どこにも行かないでって、そう言いたいけど。多分、お別れだね」
『ああ。おれの役目は、もうおわったからな』
「ありがとう、黒わん」
ずっと守ってくれた。
悲しいときも、嬉しいときも、いつもここにいてくれた。話を聞いて、優しく抱きしめてくれた。
今のファイは知っている。これはファイの夢の世界。この黒わんは、ただ自分の幼い心を守るためだけに作りだした、幻想だということ。
だけど温かかった。まるで現実のように。だから黒わんはここにいる。確かにいる。ファイだけの、大切な『親友』だ。
寂しいのは、大好きだから。
別れを恐れてはいけない。この温もりを手放してでも、ファイは殻を破らなくてはいけない。怖くても、先へ進まなくてはいけない。たとえどんなに幸せな過去があったとしても。美しい思い出と引き換えにしても。
同じ時間の中で、愛しい人と生きていくことを決めたから。
そのとき、寄り添う二人の頭上が一瞬、光った。揃って見上げた空に、一筋の星が走り抜ける。
「流れ星……?」
ファイは立ち上がると、その場から数歩前に進んだ。そして次から次へと流れる光の筋に目を輝かせる。
「こんなにたくさん……」
やがて空は眩い光に包まれる。星たちは、本当はずっとこの空にあった。月の光があまりにも強すぎて、ただ隠されていただけで。
ずっとずっと、ここにあった。
「黒わん、何かお願いごとしたら、きっと叶うよ!」
振り向くと、そこに黒わんはいなかった。
辺りを見回すと、ファイの数メートル先に佇む黒わんがいる。伸ばしかけた手を、ファイはぐっと堪えることで握りしめた。
「黒わん……」
『おれの願いは、もうかなったからいい』
「何を……お願いしたの?」
『おまえと、おなじだ』
黒わんは空を見上げた。同じように、ファイもキラキラと流れゆく満天の星空を見上げる。
『だれかの願いがかなったから、星がながれるんだ』
星の瞬きがあまりにも綺麗で、ファイは小さく微笑みながら一筋の涙を流した。
願うための光ではなく、願ったからこそ、星が駆け抜ける。一瞬の強い光を放ちながら。
「さよなら、黒わん」
ありがとう。
***
目が覚めて、ゆっくりと起き上がったファイは片方だけ濡れている頬をそっと指先で拭った。
幾度か瞬きをしてから、枕元を見やって行儀よく座っている黒わんのぬいぐるみを手に取る。向かい合うように膝に座らせて、直したばかりの耳をそっと撫でた。
こんなに穏やかな気持ちで目覚めたのは久しぶりだ。昨日までのファイは目が覚めるとただ悲しいばかりで、頬がぐしゃぐしゃになるくらい涙を流していたから。
「おはよ、黒わん」
額にそっとキスをして、ファイは微笑んだ。
まだ少しだけ、腕の中に抱きしめた黒わんの感触が残っているような気がした。たくさんの星が流れる空の下、最後のお別れをするために戻ってきてくれた親友。
彼の願いもファイの願いも、あの星々の中で光り輝いた。
同じ願い。それは、大好きな人とずっと一緒にいること。
だからあれは別れじゃない。
だって黒わんは、こうしてファイの腕の中にいるのだから。
もう話すことはできないし、これからも針と糸を通すことになるけれど。
「ずっとここにいたんだよね、君は」
ファイは黒わんをぎゅっと胸に抱きしめたあと、再びそっと枕元に座らせる。
そして、床に目を向けた。
絨毯の上に敷かれた布団で、どこか窮屈そうに背中を丸めて眠る人。ファイは「ふふふ」と笑うと、ベッドから降りて彼の上に思いっきり乗り上げた。
「おはよー黒たん! 朝だよ起きてー!」
「うお!? な、なんだ、なんだおまえは!」
「朝だよぉ! いつまで寝てるのー!」
「元気だな……」
大きな溜息をついて起き上がった黒鋼は、膝に乗ったままのファイの前髪をくしゃりと撫でた。
昨夜テラスで思いを打ち明け合ったあと、二人は長いことずっと夜空を見上げながら話をしていた。黒鋼が普段どんな仕事をしているのか、どうして時々遠くへ行かなくてはいけないのか、どんな会社で、どんな家に住んでいるのか。ファイは母親が生きていた頃にユゥイと三人で過ごした思い出や、どうやって黒わんと出会ったのか、そしてそのあと、どんなふうに施設で暮らしたのかを話した。
黒鋼は施設での話をすでに知っている様子だった。ユゥイから聞いていたのかもしれない。ずっと苦しそうに目を細め、ファイの手を強く握っていてくれた。
お互いのことを話しているうち、ユゥイが帰って来た。なぜか小龍もいて、そのあと四人で晩御飯を食べた。
そしてあのクリスマスの夜のように、終電を逃した黒鋼はそのままこの部屋に泊まったのだった。
しばらくは黒鋼に髪をわしゃわしゃと撫でられて声を上げて笑っていたファイだったが、その腕を掴んで押し戻しながら唇を尖らせる。
「また黒たんと夜中にお喋りできなかったよー」
「夜は寝るもんだ。しょうがねぇだろ」
「たまには夜更かししたいもん……起こしてくれればいいのに……」
「わざわざ起こすこともねぇだろ……つうか、寝ててもらわねぇと困る」
「なんでー?」
キョトンとした表情で小首を傾げると、なぜか黒鋼はそっぽを向いて咳払いをした。
「黒たん?」
「うるせぇな。ガキはとっとと寝るもんなんだよ」
「オレ、ガキじゃないよ! 大人だよ!」
だから困るんだろうが……と、悪人のような顔で目を逸らす黒鋼に、ファイはむぅーっと頬を膨らませる。黒鋼の言ってることは、まだ自分には難しいことなんだろうか。
「いいよー! あとでユゥイに聞くからー!」
「バカ野郎! それはやめとけ! そんなもん家族に聞いたって気まずくなるだけだぞ!」
「もー! またよく分かんないこと言うー! じゃあちゃんと教えてよー!」
「…………そのうちな」
「そのうちって明日?」
「阿呆」
黒鋼に額をペシッと叩かれて、ファイはますますふくれっ面をした。これは二人のことなのに、黒鋼だけが知っていて自分には分からないなんて、なんだかズルい。
すっかり不貞腐れてしまったファイの顔に、明後日の方向を向いている黒鋼がチラリと視線を寄越す。そして、指先で顎を持ち上げてきた瞬間、尖っていた唇にキスをされた。
「ッ……!」
ファイは一瞬で頬を赤らめる。頭の天辺から湯気が上がりそうだ。胸の内側で心臓がドンドンと忙しなく暴れ出して、息ができなくなる。
「う~~……」
「これで機嫌直せ」
「急にチュウするの、禁止だよぉ……」
熱くて苦しくて、そして恥ずかしくて。
骨抜き状態でくったりと広い胸板に身を預けるファイを、黒鋼は小さく笑うと抱きしめた。
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