2025/09/19 Fri 「うお!?」 寒さも少しずつ和らいできた、春の訪れ間近の朝。 黒鋼は自宅の洗面所の床板を踏み抜き、低い悲鳴を上げていた。 「やっちまった……」 ちょうど浴室への入り口付近の床。 ここは前々から少しでも重さが加わると軋んだ音を立てていて、踏みつけようものなら微かにしなるほど脆くなっていた。 だから普段は極力踏まないように気をつけていたのだが……踏んでしまった。 「どうすんだよこれ……」 一部分がすっかり折れている床板の側にしゃがみ込み、穴の中を覗きこんでみる。 真っ暗でなにも見えないが、そこからひゅうひゅうと冷たい風が吹き上げて来るのが分かった。 とりあえずここがアパートの下の階でよかった。全身でブチ抜いて落下しようものなら、確実に死ぬ。下の住人が。 これは早急に管理会社に連絡をして修理せねば。だが今はそんな時間もなく、黒鋼はイライラしつつ辺りを見回し、適当に側にあった洗濯籠で床を塞ぐと朝の準備に取り掛かった。 *** 「それは災難でしたね」 窓際の席に陣取った黒鋼の目の前に、ナポリタンがどーんと盛られた大皿を置きながらユゥイが苦笑する。 彼は向かいに座ると皿を覗き込み、「これ新作なんですよ」と言った。 「ナポリタンをアレンジして、チリクラブソースを加えてるんですけど、お子様の味覚には合わなかったみたいで」 「味見すんのは別にいいけどよ、流石に多くねぇかこれ」 いつからここはデカ盛りの店になったんだ。 そりゃあこのタッパを見れば分かるように、黒鋼はその気になれば人の倍は食う。だが、この山盛りパスタは軽く5,6人分はありそうだ。 「可愛い弟には贔屓したくなるじゃないですか」 「弟? 誰が?」 眉間に皺を寄せて片目を眇める黒鋼に向かって、ユゥイはスッ……と指を指した。この男は一体なにを気色の悪いことを言っているのだろうか。 「兄の夫になる人なので、ボクの弟ってことです。兄嫁ならぬ兄夫?」 「聞いたことねぇぞそんな単語」 「いやぁ、嬉しいなぁ。ボク弟って憧れてたんですよね」 「……なんか企んでねぇか?」 「ぜんぜん?」 首を傾げてにっこり笑うユゥイは、不思議と目だけは笑っていないような気がして、思い切り胡散臭かった。 そんな人間が差し出してくる食べ物を、みすみす口に入れてしまっていいのだろうか。だが、あからさまに不審そうな顔をする黒鋼を、ユゥイは「冷めないうちに早く」と急かしてくる。 昼時で腹が減っているのは確かで、黒鋼は渋々フォークを手にするとナポリタンを口に入れた。 「思ったほど辛くはねぇな」 「でしょ?」 「いいんじゃねぇか?」 「そうですか。よかった」 じゃあメニュー入り決定ですね、とユゥイが背もたれにゆったりと背を預けたとき、店のドアベルが鳴った。 「たっだいまー! お買い物してきたー! 100円オマケしてもらったー!」 買い物籠にネギを刺したファイが元気に店に飛び込んできた。彼は窓際の席に黒鋼がいるのを見つけて、パッと目を輝かせると、ちょっと転びそうになりながら駆けてくる。 おかえり、と言うユゥイにただいまと返事をしつつ買い物袋を渡し、すぐに黒鋼の首に抱き付いた。 「黒りん来てたのー!? 会いたかったよー!!」 「昨日も会ったろ」 「オレ隣にすーわる!」 そう言って、ファイはわざわざ背後からではなく黒鋼の正面を跨いで隣の席に座ろうとした。なんて迷惑な……と思いつつ、椅子を引きながらぶつからないようにデカ盛りパスタを遠ざける。 椅子に座ったファイは黒鋼の腕にぎゅっとしがみついて、下から顔を覗き込んできた。 「お昼食べに来たのー?」 「まぁな」 「じゃあこれ食べたら会社に戻るのー?」 「午後は会議があるからな」 「そっかぁ……」 ぷぅっと唇を尖らせるファイに苦笑したユゥイが、黒鋼を見て「今夜は?」と聞いてくる。 「夕食はどうします?」 「あぁ……どうだろうな。会議の運び次第だが……今夜は難しいかもな」 「大変ですよねぇ……いちいちここに通うの」 ユゥイはなざかわざとらしく腕を組み、目を閉じてうんうんと唸っている。 「夜遅くまで仕事をして、お腹を空かせたまま誰が待つわけでもない、床が抜けた家に帰る……涙が出そうですよボクは」 「おまえ一体なにが言いてぇんだよ」 「え!? 黒たんおうち壊したの!? 凄いね! どうやって壊したの!?」 「あのな……別に倒壊させたわけじゃねぇんだぞ……」 「オレも黒たんくらい大きくなったらおうち壊せるようになる?」 「壊す必要がそもそもねぇだろ!」 そうなの? と首を傾げるファイに溜息をついて、黒鋼はとりあえずモリモリのナポリタンに再び口をつけながら考える。 今のアパートは学生時代からずっと住み続けていて、当時から相当なボロではあった。確か今年で築年数も25年になるのだったか。 面倒だという理由でずっと住み続けていたが、そろそろもう少しまともなところに引っ越しを考えてもいいのかもしれない。できれば、この近辺とか……。 するとユゥイが、絶妙なタイミングで独り言のような呟きを漏らした。 「上の階……一部屋余ってるんだよなぁ……」 「……あ?」 「物置代わりにしてるけど、なんだかんだで捨ててもいいようなガラクタばかりなんだよなぁ……」 チラリ。 「最近物騒だし、そういえば二件先のお宅に空き巣が入ったって聞いたなぁ。どこかに厳ついヤクザみたいなアル●ックさんがいてくれればなぁ」 チラリ。 「その選択を迫るようなチラ見はなんなんだよ……逆に食いつきにくいぞ」 「前より明らかにここに通う頻度も高くなってるわけですし、この際どうでしょう?」 「どうって……」 確かに引っ越しを考えようと思っていたタイミングではある。 しかもこの近辺であればなおよしだった。だが、流石に直接住み込むなんて頭はなくて、黒鋼はユゥイの申し出にただ戸惑った。 いや、家人がいいと言っているなら問題はないのだが。家探しの手間も省けるし、何より……。 黒鋼は横目で隣のファイを窺った。彼は黒鋼の飲みかけの紅茶のカップに大量の砂糖とミルクを入れて、勝手に飲んでは「ぷはー」と息を吐き出している。 ユゥイは僅かに身を乗り出すとファイの名前を呼んだ。 「ファイも、ここに黒鋼さんが一緒に住んだら嬉しいよね?」 「え? 住む……?」 ファイは目を丸くして黒鋼を見上げた。白い頬が、興奮してサッと赤く染まる。 「黒たん住むの!? 住むの!?」 「いや、それはまだ」 「黒たんここに住むの!? わぁいやったー!!」 「お、おい……」 ファイが思いっきり抱き付いてくるものだから、黒鋼は一瞬ナポリタンの皿をぶちまけそうになった。 当人がまだ戸惑いの最中にいるというのに、家人の一人であるファイは異常なまでのはしゃぎぶりを見せる。 「嬉しいー! じゃあこれからは毎日一緒にご飯食べれるんだねー!!」 「あのな、俺はまだ」 「お風呂も一緒に入ろうねー! 黒たんの背中ゴシゴシしてあげるー!」 「…………風呂、か」 「狭いから一緒に入るのは無理じゃないかな」 こ、このやろう。 悪くねぇなと流されかけていた黒鋼はギリギリと奥歯を噛み締めながらユゥイを睨み付ける。彼はどこ吹く風で「じゃあ決まりですね」と言って笑った。 物凄く強引に話が決まってしまったような気がするが、それよりも黒鋼はユゥイが漏らした安堵の溜息の方が気になった。 「てめぇ、一体なにが目的なんだよ」 「目的だなんて人聞きが悪い」 「吐け」 「…………」 こちらも有無を言わさぬ勢いで凄めば、ユゥイは肩を力なく落として疲れたような表情を見せる。 「狙われてるんですよ……その部屋」 「狙われてる? ……ああ、ひょっとするとあれか」 あの冗談が嫌いな男子高校生のことか。 「おまえらデキてるんじゃねぇのか?」 「まだですよ。いくらなんでも高校生に手を出すほど飢えてません」 まだ、と言い切るあたり、気を持たせるような真似は十分にしているような印象を受けるが。 「と、とにかく。このままだといつ大荷物を抱えて乗り込んでくるか、分からない勢いなんです。だから防犯の意味でもお願いします」 「人をセ●ム扱いすんなよ……」 ついでに将来の恋人候補を犯罪者予備軍扱いするのもやめてやれ……。 てっきり前進したと思っていたら、その場で足踏みをしていただけの少年を多少気の毒に思いつつ、諦めたような息を漏らす黒鋼だったが、次の瞬間、 「黒たん、一緒のベッドに寝ようねー!!」 というファイの無邪気な提案に派手に吹き出した。そんな黒鋼を見たユゥイはどこか冷やかに「ムッツリだなぁ……」と呟くのだった。 *** 「黒たん待ってー!!」 特盛ナポリタンをどうにか胃袋に押し込んでから店を出た黒鋼は、商店街の出口付近で呼び止められ、足を止めた。 振り返れば、ファイが懸命に駆けてくる様子が見える。 「なんだ、追いかけてきたのか?」 「はーっ、よかった、間に合ったー!」 僅かに首を傾げる黒鋼に、大きく深呼吸して息を整えたファイは「うん」と頷きながら俯いた。 どうしたのかと彼の言葉を黙って待ち続けていると、ファイは黒いパンツの後ろポケットからあるものを取り出し、黒鋼に差し出してきた。 「これ、あげる」 それは、小さな黒わんの編みぐるみだった。 星空のテラスで思いを通じ合わせてから、ファイが帰り際に黒わんを手渡してくることはなくなっていた。 もう必要ないということは何度も言って聞かせてたし、彼も納得したはずだが。 「あのな、これはもう」 「うぅん違うの。ほら、ちゃんとマフラーしてるでしょ?」 確かに、その黒わんは以前のように裸ではなかった。小さな赤いマフラーをして、吊り上がっていた目も前に比べると少しだけ柔らかな印象を受ける。 黒鋼はそれを受け取ると、再びファイを見やった。 「ちゃんとしたの……一回もあげてなかったから。それ、黒たんにあげる」 「このためにわざわざ?」 「ユゥイがいるとこで渡すの、なんか恥ずかしかったの……」 恥じらうファイに小さく笑って、黒鋼は指で黒わんを優しく包み込む。 「あのね、それ、今までで一番上手にできたの。あとね、その、背中にね……」 「背中?」 うん、と頷くファイの赤い頬を見て、黒鋼はすぐに黒わんを引っくり返した。そこにあるものを見て、黒鋼もつい、顔が熱くなるのを感じる。 黒わんの背中には、ハート型に切り取られた赤いフェルトが縫い付けられていた。 ファイはもじもじと、胸元にぶら下がるオルゴールのペンダントを弄ぶ。それから、恥ずかしそうに上目使いで見上げてきた。 「ハート、もらってくれる……?」 こんちくしょう、と、黒鋼は思う。 赤い顔をして向かい合う二人の横を、シルバーカーを引く老人がゆっくりと横切って行った。遠くから青果店の肝っ玉熟女が客引きをする声が聞こえ、定食屋から出てきた親父が派手にクシャミをする。 豆腐屋のシャッターが開かれる音、蕎麦屋の出前が乗るバイクの排気音。井戸端会議に興じる奥様方の笑い声。 こんな場所じゃあ、抱きしめてキスをすることもできやしない。 「黒たん……?」 「あたりめぇだろ」 そう言って、黒鋼はその華奢な肩を掴んで引き寄せると、耳元に口を寄せる。 「今夜、遅くなっても必ず行く」 「え……?」 「待ってろよ」 ゆっくりと離れた黒鋼に、ファイはどこか潤んだ瞳でふにゃりと笑う。誰よりも眩しくて、誰よりも可愛い、甘い甘い、砂糖菓子のように。 燦々と降り注ぐ陽光。春を目の前に控えた、青い空。 きっと今夜も晴れるから。 「待ってる」 あの満天の星空の下、箱庭のような、小さなテラスで。 END ←戻る ・ Wavebox👏
寒さも少しずつ和らいできた、春の訪れ間近の朝。
黒鋼は自宅の洗面所の床板を踏み抜き、低い悲鳴を上げていた。
「やっちまった……」
ちょうど浴室への入り口付近の床。
ここは前々から少しでも重さが加わると軋んだ音を立てていて、踏みつけようものなら微かにしなるほど脆くなっていた。
だから普段は極力踏まないように気をつけていたのだが……踏んでしまった。
「どうすんだよこれ……」
一部分がすっかり折れている床板の側にしゃがみ込み、穴の中を覗きこんでみる。
真っ暗でなにも見えないが、そこからひゅうひゅうと冷たい風が吹き上げて来るのが分かった。
とりあえずここがアパートの下の階でよかった。全身でブチ抜いて落下しようものなら、確実に死ぬ。下の住人が。
これは早急に管理会社に連絡をして修理せねば。だが今はそんな時間もなく、黒鋼はイライラしつつ辺りを見回し、適当に側にあった洗濯籠で床を塞ぐと朝の準備に取り掛かった。
***
「それは災難でしたね」
窓際の席に陣取った黒鋼の目の前に、ナポリタンがどーんと盛られた大皿を置きながらユゥイが苦笑する。
彼は向かいに座ると皿を覗き込み、「これ新作なんですよ」と言った。
「ナポリタンをアレンジして、チリクラブソースを加えてるんですけど、お子様の味覚には合わなかったみたいで」
「味見すんのは別にいいけどよ、流石に多くねぇかこれ」
いつからここはデカ盛りの店になったんだ。
そりゃあこのタッパを見れば分かるように、黒鋼はその気になれば人の倍は食う。だが、この山盛りパスタは軽く5,6人分はありそうだ。
「可愛い弟には贔屓したくなるじゃないですか」
「弟? 誰が?」
眉間に皺を寄せて片目を眇める黒鋼に向かって、ユゥイはスッ……と指を指した。この男は一体なにを気色の悪いことを言っているのだろうか。
「兄の夫になる人なので、ボクの弟ってことです。兄嫁ならぬ兄夫?」
「聞いたことねぇぞそんな単語」
「いやぁ、嬉しいなぁ。ボク弟って憧れてたんですよね」
「……なんか企んでねぇか?」
「ぜんぜん?」
首を傾げてにっこり笑うユゥイは、不思議と目だけは笑っていないような気がして、思い切り胡散臭かった。
そんな人間が差し出してくる食べ物を、みすみす口に入れてしまっていいのだろうか。だが、あからさまに不審そうな顔をする黒鋼を、ユゥイは「冷めないうちに早く」と急かしてくる。
昼時で腹が減っているのは確かで、黒鋼は渋々フォークを手にするとナポリタンを口に入れた。
「思ったほど辛くはねぇな」
「でしょ?」
「いいんじゃねぇか?」
「そうですか。よかった」
じゃあメニュー入り決定ですね、とユゥイが背もたれにゆったりと背を預けたとき、店のドアベルが鳴った。
「たっだいまー! お買い物してきたー! 100円オマケしてもらったー!」
買い物籠にネギを刺したファイが元気に店に飛び込んできた。彼は窓際の席に黒鋼がいるのを見つけて、パッと目を輝かせると、ちょっと転びそうになりながら駆けてくる。
おかえり、と言うユゥイにただいまと返事をしつつ買い物袋を渡し、すぐに黒鋼の首に抱き付いた。
「黒りん来てたのー!? 会いたかったよー!!」
「昨日も会ったろ」
「オレ隣にすーわる!」
そう言って、ファイはわざわざ背後からではなく黒鋼の正面を跨いで隣の席に座ろうとした。なんて迷惑な……と思いつつ、椅子を引きながらぶつからないようにデカ盛りパスタを遠ざける。
椅子に座ったファイは黒鋼の腕にぎゅっとしがみついて、下から顔を覗き込んできた。
「お昼食べに来たのー?」
「まぁな」
「じゃあこれ食べたら会社に戻るのー?」
「午後は会議があるからな」
「そっかぁ……」
ぷぅっと唇を尖らせるファイに苦笑したユゥイが、黒鋼を見て「今夜は?」と聞いてくる。
「夕食はどうします?」
「あぁ……どうだろうな。会議の運び次第だが……今夜は難しいかもな」
「大変ですよねぇ……いちいちここに通うの」
ユゥイはなざかわざとらしく腕を組み、目を閉じてうんうんと唸っている。
「夜遅くまで仕事をして、お腹を空かせたまま誰が待つわけでもない、床が抜けた家に帰る……涙が出そうですよボクは」
「おまえ一体なにが言いてぇんだよ」
「え!? 黒たんおうち壊したの!? 凄いね! どうやって壊したの!?」
「あのな……別に倒壊させたわけじゃねぇんだぞ……」
「オレも黒たんくらい大きくなったらおうち壊せるようになる?」
「壊す必要がそもそもねぇだろ!」
そうなの? と首を傾げるファイに溜息をついて、黒鋼はとりあえずモリモリのナポリタンに再び口をつけながら考える。
今のアパートは学生時代からずっと住み続けていて、当時から相当なボロではあった。確か今年で築年数も25年になるのだったか。
面倒だという理由でずっと住み続けていたが、そろそろもう少しまともなところに引っ越しを考えてもいいのかもしれない。できれば、この近辺とか……。
するとユゥイが、絶妙なタイミングで独り言のような呟きを漏らした。
「上の階……一部屋余ってるんだよなぁ……」
「……あ?」
「物置代わりにしてるけど、なんだかんだで捨ててもいいようなガラクタばかりなんだよなぁ……」
チラリ。
「最近物騒だし、そういえば二件先のお宅に空き巣が入ったって聞いたなぁ。どこかに厳ついヤクザみたいなアル●ックさんがいてくれればなぁ」
チラリ。
「その選択を迫るようなチラ見はなんなんだよ……逆に食いつきにくいぞ」
「前より明らかにここに通う頻度も高くなってるわけですし、この際どうでしょう?」
「どうって……」
確かに引っ越しを考えようと思っていたタイミングではある。
しかもこの近辺であればなおよしだった。だが、流石に直接住み込むなんて頭はなくて、黒鋼はユゥイの申し出にただ戸惑った。
いや、家人がいいと言っているなら問題はないのだが。家探しの手間も省けるし、何より……。
黒鋼は横目で隣のファイを窺った。彼は黒鋼の飲みかけの紅茶のカップに大量の砂糖とミルクを入れて、勝手に飲んでは「ぷはー」と息を吐き出している。
ユゥイは僅かに身を乗り出すとファイの名前を呼んだ。
「ファイも、ここに黒鋼さんが一緒に住んだら嬉しいよね?」
「え? 住む……?」
ファイは目を丸くして黒鋼を見上げた。白い頬が、興奮してサッと赤く染まる。
「黒たん住むの!? 住むの!?」
「いや、それはまだ」
「黒たんここに住むの!? わぁいやったー!!」
「お、おい……」
ファイが思いっきり抱き付いてくるものだから、黒鋼は一瞬ナポリタンの皿をぶちまけそうになった。
当人がまだ戸惑いの最中にいるというのに、家人の一人であるファイは異常なまでのはしゃぎぶりを見せる。
「嬉しいー! じゃあこれからは毎日一緒にご飯食べれるんだねー!!」
「あのな、俺はまだ」
「お風呂も一緒に入ろうねー! 黒たんの背中ゴシゴシしてあげるー!」
「…………風呂、か」
「狭いから一緒に入るのは無理じゃないかな」
こ、このやろう。
悪くねぇなと流されかけていた黒鋼はギリギリと奥歯を噛み締めながらユゥイを睨み付ける。彼はどこ吹く風で「じゃあ決まりですね」と言って笑った。
物凄く強引に話が決まってしまったような気がするが、それよりも黒鋼はユゥイが漏らした安堵の溜息の方が気になった。
「てめぇ、一体なにが目的なんだよ」
「目的だなんて人聞きが悪い」
「吐け」
「…………」
こちらも有無を言わさぬ勢いで凄めば、ユゥイは肩を力なく落として疲れたような表情を見せる。
「狙われてるんですよ……その部屋」
「狙われてる? ……ああ、ひょっとするとあれか」
あの冗談が嫌いな男子高校生のことか。
「おまえらデキてるんじゃねぇのか?」
「まだですよ。いくらなんでも高校生に手を出すほど飢えてません」
まだ、と言い切るあたり、気を持たせるような真似は十分にしているような印象を受けるが。
「と、とにかく。このままだといつ大荷物を抱えて乗り込んでくるか、分からない勢いなんです。だから防犯の意味でもお願いします」
「人をセ●ム扱いすんなよ……」
ついでに将来の恋人候補を犯罪者予備軍扱いするのもやめてやれ……。
てっきり前進したと思っていたら、その場で足踏みをしていただけの少年を多少気の毒に思いつつ、諦めたような息を漏らす黒鋼だったが、次の瞬間、
「黒たん、一緒のベッドに寝ようねー!!」
というファイの無邪気な提案に派手に吹き出した。そんな黒鋼を見たユゥイはどこか冷やかに「ムッツリだなぁ……」と呟くのだった。
***
「黒たん待ってー!!」
特盛ナポリタンをどうにか胃袋に押し込んでから店を出た黒鋼は、商店街の出口付近で呼び止められ、足を止めた。
振り返れば、ファイが懸命に駆けてくる様子が見える。
「なんだ、追いかけてきたのか?」
「はーっ、よかった、間に合ったー!」
僅かに首を傾げる黒鋼に、大きく深呼吸して息を整えたファイは「うん」と頷きながら俯いた。
どうしたのかと彼の言葉を黙って待ち続けていると、ファイは黒いパンツの後ろポケットからあるものを取り出し、黒鋼に差し出してきた。
「これ、あげる」
それは、小さな黒わんの編みぐるみだった。
星空のテラスで思いを通じ合わせてから、ファイが帰り際に黒わんを手渡してくることはなくなっていた。
もう必要ないということは何度も言って聞かせてたし、彼も納得したはずだが。
「あのな、これはもう」
「うぅん違うの。ほら、ちゃんとマフラーしてるでしょ?」
確かに、その黒わんは以前のように裸ではなかった。小さな赤いマフラーをして、吊り上がっていた目も前に比べると少しだけ柔らかな印象を受ける。
黒鋼はそれを受け取ると、再びファイを見やった。
「ちゃんとしたの……一回もあげてなかったから。それ、黒たんにあげる」
「このためにわざわざ?」
「ユゥイがいるとこで渡すの、なんか恥ずかしかったの……」
恥じらうファイに小さく笑って、黒鋼は指で黒わんを優しく包み込む。
「あのね、それ、今までで一番上手にできたの。あとね、その、背中にね……」
「背中?」
うん、と頷くファイの赤い頬を見て、黒鋼はすぐに黒わんを引っくり返した。そこにあるものを見て、黒鋼もつい、顔が熱くなるのを感じる。
黒わんの背中には、ハート型に切り取られた赤いフェルトが縫い付けられていた。
ファイはもじもじと、胸元にぶら下がるオルゴールのペンダントを弄ぶ。それから、恥ずかしそうに上目使いで見上げてきた。
「ハート、もらってくれる……?」
こんちくしょう、と、黒鋼は思う。
赤い顔をして向かい合う二人の横を、シルバーカーを引く老人がゆっくりと横切って行った。遠くから青果店の肝っ玉熟女が客引きをする声が聞こえ、定食屋から出てきた親父が派手にクシャミをする。
豆腐屋のシャッターが開かれる音、蕎麦屋の出前が乗るバイクの排気音。井戸端会議に興じる奥様方の笑い声。
こんな場所じゃあ、抱きしめてキスをすることもできやしない。
「黒たん……?」
「あたりめぇだろ」
そう言って、黒鋼はその華奢な肩を掴んで引き寄せると、耳元に口を寄せる。
「今夜、遅くなっても必ず行く」
「え……?」
「待ってろよ」
ゆっくりと離れた黒鋼に、ファイはどこか潤んだ瞳でふにゃりと笑う。誰よりも眩しくて、誰よりも可愛い、甘い甘い、砂糖菓子のように。
燦々と降り注ぐ陽光。春を目の前に控えた、青い空。
きっと今夜も晴れるから。
「待ってる」
あの満天の星空の下、箱庭のような、小さなテラスで。
END
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