●●県、××市にお住まいの山田太郎さん、花子さん夫婦。
二人は今からおよそ10年前に結婚し、ほぼ同時期に子宝にも恵まれた。
幸せ絶頂の夫婦だったが、なんと妊娠5ヶ月目にして流産してしまう。
悲劇の事態に悲しみに暮れる夫婦だったが、医師から告げられた新たな事実によってさらに打ちのめされる。
妻花子さんは元々妊娠するのが困難な体質であったことが判明したのである。
もう二度と子供は望めないのか……一時期は絶望に暮れ、全てに対して自暴自棄になってしまった花子さん。
しかし夫の献身的な愛情と励ましを受け、不妊治療に踏み切る。
夫婦は共に支え、励まし合い、辛く長い治療の日々を乗り越えて来た。
やがて10年近くに及ぶ歳月を経て、ようやく花子さんが妊娠。
授かった命の重み、そして一度も産声を上げることなく失われた我が子への想いを胸に、夫婦の悲願がようやく叶った。
産まれたのは3000グラムの元気な男の子。
夫の太郎さんは、「息子が大きくなったら、一緒にキャッチボールがしたい」と満面の笑みで語っている。
+++
「グス……ッ」
晩御飯も入浴も済ませ、あとは寝るだけ……という頃、ファイは床にクッションを抱えてうつ伏せながら、とあるドキュメンタリー番組を見ていた。
流産、不妊治療、そして苦労の末、再びの妊娠、出産。
夫婦の深い愛情が生んだその奇跡のドラマに、見終わったあとファイは涙ぐんで鼻をすすった。
愛し合って結ばれた夫婦が子供を授かり、無事に出産し、子育てに励む……。そういった流れは自然の摂理であり、ごく当たり前のことだと思っていた。
けれどこういった番組を見たり話を聞いたりすると、決して当たり前のことではないのかもしれない、とファイは思う。
「女の人だからって、簡単に赤ちゃんが授かるわけじゃないんだなぁ……」
ファイにはどう引っくり返っても一生経験できない喜びもあれば、辛さもある。
テレビ番組の尺で綺麗に収まりがつくほど、簡単な道のりではなかったに違いない。
想像で推し量ることさえおこがましく感じつつも、女性は本当に凄い……とにかく凄い……そして夫も偉い……グッジョブ……とファイは感動していたのだった。
そのときは、本当にただそれだけだった。
+++
翌日、日曜日のことである。
ここ数日はずっと鉛色の雲が空を覆い、肌寒い日々が続いていた。
だが、今日は久しぶりに雲間から太陽が姿を見せ、暖かな気温が春の訪れを告げているようで気持ちがよかった。
そんな中、ファイと黒鋼はユゥイから預かったメモを片手に近所のスーパーへ買い出しへと訪れていた。
今はその帰り道。
「買い漏らしないよねー? ユゥイ今日は何作ってくれるんだろー?」
「さぁな。和食じゃねぇのか」
「黒様先生が食べたいだけじゃーん」
「いいだろ。俺は基本そっち派なんだ」
そんなの知ってるよ、と言ってファイは笑う。
ユゥイは最近ずっと和食にハマっている。いよいよ創作料理なども作り出し、そのうち本場日本で料理店でも出すのかと思うほどだった。
教員宿舎からスーパーまでの道のりなど、せいぜい歩いても10分かかるかかからないかの些細なもので、そんな短い距離だとしてもまるでデートでもしているみたいな気分だった。
鼻先を時折掠める春の香りは『これ』と明確に表現できるものではなく、ただ心がふんわりと軽くなるような、どこか懐かしさを感じさせる微かなもので、訳もなくただ幸せだと思えた。
(もうちょっとだけ……こうしていたいなぁ……)
ファイは横目でチラリと真っすぐに前を見て歩く黒鋼の横顔を盗み見た。
そしてほぼ同時に、道が公園前にまで差し掛かっていることに気がつく。
「ねーねーせんせー」
「なんだ」
「天気いいしさ、ちょっと日向ぼっこしていかない?」
そう言いながら公園を指さす。
ブランコや滑り台などの基本的な遊具はもちろん、噴水や芝生もある、そこそこ広い公園だった。
「しょうがねぇな……」
黒鋼はそう返事すると、即座に公園へと方向を変えた。
ファイははしゃいで「バンザーイ」と言いながら、うっかり腕に抱きつきそうになるのを我慢する。
ここで羽目を外しすぎるといつものゲンコツルートだ。
ファイは慣れっこだが、日曜日で家族連れや子供もそこそこ目につく中そんなことになれば、黒鋼の鬼の形相を見た子供が泣く。さらにトラウマになる。
子供達の健やかな成長と未来を守ることも化学教師の務めなのだ……とファイは涙を呑む。
途中、設置してあった自販機で温かな紅茶を買って、二人は芝生側の小道沿いにあるベンチに座った。
野菜や調味料などが入ったビニール袋を脇に置いた黒鋼がペットボトルの蓋を捻ってファイに差し出してくる。
「わ、ありがとー」
「そっち寄こせ」
「はーい」
おもむろに差し出されたそれを受け取って、自分が持っていた未開封のものを手渡す。
すぐにそれも蓋を開けて飲み始める黒鋼を見て、ファイは急に照れ臭くなると頬を赤らめた。
変なところでさりげなく甘やかしてくる……いつもは鋭い突っ込みに徹するくせに、素でこういうことをしてくるあたりこの男は天然だ。
そして幸せを噛みしめながらいつまで経ってもドキドキしてしまうファイは……乙女である。
ほかほかのペットボトルに口をつけて飲み込むと、有無を言わさず無糖のはずのそれが妙に甘く感じた。
二人はそのまま暫くの間、ほっこりとしながら過ごした。
真上にある太陽が燦々と輝き、心地よい風がゆったりと吹きぬけてゆく。
手を繋いで歩く若いカップル達や、木陰で仲良く弁当を食べている家族連れ。遊具で遊ぶ子供たちの元気な声と、噴きあげる噴水の水音が遠くに聞こえる。
もっと暖かくなったら、ユゥイや四月一日にお弁当を作ってもらって、皆で遊びに来れたらいいな、なんてことを考えた。
そんなときだった。
前方の少し離れた場所で、親子がキャッチボールをしているのが目に入る。
日曜日の公園という場所柄、いっそベタとも思えるありきたりな光景。けれどなんとなく胸が温まる。
父親と思しき男が手加減丸出しでボールを投げる。
まだ小さな息子は真剣な表情で必死にそれを取ろうとして、結局グローブから転げ落ちてしまった。
だがすぐに拾い上げ、全力で父に投げ返す。
最初のうちはすんなりキャッチできなかったボールも、回数を重ねるうちにどんどん上手に受け止めることが出来るようになってきて、いつしか余裕の笑顔を見せていた父親も本気を出し始めた。
物凄くハートフルな光景だった。
(いいなぁ……あーゆうの)
見ているこちらまで幸せな気持ちになってきて、ふとファイは何気なく隣を見やった。
黒鋼もまた、ファイと同じ光景をじっと見つめていた。
その横顔に、ドキリとした。
もともと精悍な顔つきが、熱心さを帯びている。
彼の受け持ちは体育であるから、二人の親子のやり取りがもどかしいのかもしれない。
けれど、それにしては妙に張りつめているような、何かを熟考しながらいるような、そんな印象を受けた。
(……もしかして)
ふと、ファイは昨夜見たテレビ番組を思い出した。
ようやくの思いで生まれた息子。
父親は、いつかキャッチボールがしたいと、そう遠くない未来を幸せそうに語っていた……。
途端に、ファイは胸が締めつけられるのを感じた。
黒鋼もまた、そんな未来を夢見ているのだろうかと。
そうだとすれば、ファイにはその夢を叶えてやれる力はない。
ファイも黒鋼も同性で、どんなに愛し合ったとしてもそこには何も生まれない。
本当は考えたくもないけれど、もし……もし黒鋼が自分以外の誰かを、可愛いお嫁さんを見つけて、いつか子供が授かって、その子供が少しずつ大きくなったら、あんな風に公園やマイホームの庭なんかでキャッチボールをするのだろう。
子供は男の子なら父親に瓜二つの可愛いヤンチャ坊主で、黒鋼は厳しいけれど強くてかっこよくて、優しいパパになる。
(どうしよう……やだな……。ちょっと泣きそう……)
たった今まではちょっとしたデート気分を味わって、ほのぼのとした光景を見ながら幸せな気分だったのに。
いつだってのんびりお気楽でいたいのに、黒鋼に案外天然な部分があるのと同じように、ファイには一度ハマりこむと抜け出せないネガティブな一面があった。
途端に俯いてキャッチボール親子から目を背ける。
それでも仲のいい掛け合いは微かに聞こえてきて、ファイは唇を噛みしめた。
「どうした?」
それに気付いた黒鋼が、こちらに顔を向けた。
「腹でも減ったか?」
なんて呑気な問いかけを投げて寄こすものだから、ファイは慌てて顔を上げると笑顔を作った。
「なんでもないよー?」
「うそつけ」
即座に返された。
少し不機嫌そうに顔を顰められて、少し焦った。
「ホントのホントだよ?」
「…………」
「う……」
そのまま、怖い顔でじーっと見つめられて、思わず目を泳がせた。
どうして隠せないのだろう。黒鋼にはいつも見透かされてしまう。
そのくせ言葉で執拗に問いかけてこないぶん、こうしてじっと目で責めるように訴えてくる。
ファイは右へ左へと視線を彷徨わせたあと、温くなってしまった紅茶に口をつけた。
ちびりと少ない量を飲み込んでから、改めて黒鋼をおずおずと上目づかいで見やる。
「あのねー……」
「おう」
「黒たん先生も……やっぱりいつかは子供とか……欲しいよね……?」
「あ?」
「黒たん、きっといいパパになるんだろうなーって」
「何言ってんだおまえは?」
何、と言われても。そのまんま、思ったことを言ってみただけだった。
呆れたような顔をした黒鋼は、至極当然のことを口にした。
「俺とおまえとでどうやってガキなんざ作るんだ?」
「だ、だから聞いたのにー……」
情けない声を出したファイを相変わらず呆れ顔で見つめる黒鋼。
どうせ言っても仕方ないことで悩んでますよ……と思わず俯く。
「もういいよー……バカ……」
沈黙のあと、黒鋼の溜息が聞こえた。
そうだ、どうせくだらないことを考えている。勝手に想像して、勝手に落ち込んでしまっただけだ。
仮にここで黒鋼が肯定していたとして、さらに落ち込むだけでどうせファイは黒鋼から離れられない。
今までもこれからも、オジサンになっておじいちゃんになって、そして死ぬまでずっと離れられない。
いっそ死んでからも一緒にいたい……。
我ながら重たすぎると自分に呆れかえるほどだった。
「いらねぇよ。ガキなんざ」
「え……?」
地の底まで落ちこまん勢いだったファイは、思わず勢いよく顔を上げた。
「どどど、どうして?」
「そんなもん……」
目をキラキラとさせて続きを待つファイに、黒鋼は思いっきり眉間に皺を寄せて人相をさらに悪くしながら言った。
「てめぇみてぇなのがもう一人増えるかと思ったらぞっとするぜ……」
「んなー!?」
スパーンと何か見えない力に後頭部をぶたれたかのように、ファイはズコーッと前のめりになった。
ここは優しく微笑んで「バカだな……俺はおまえというこの混沌とした地上に咲き誇る一輪の花が側にいれば……他には何もいらないぜ……」と甘く囁く場面ではないのか。
と、思ったがいつものようにそれを口にすればやっぱりゲンコツフラグなので口を噤む。
ああーああー、どうせそうでしょうよ……とファイはぐすんと鼻をすすった。
悩んでいたのがバカのように感じる。
「もういいよー! オレ帰る!」
勢いよく立ちあがって、まだベンチに腰掛けている黒鋼に背を向けると先にズンズンと大股で歩き出した。
人の気も知らないで。こうなったら置いてきぼりにしてやる。
すっかり臍を曲げてしまったファイに、取り残されながら「やれやれ」と頭を掻く黒鋼。
「ったく……アホだなあいつは……」
ファイの悩みなどちゃっかりお見通しだった黒鋼の呟きは、もちろんファイの耳に届くことはなかった。
ちなみに。
別に親子のキャッチボールを見つめていたわけではなく、ただぼんやりと一点を見つめていただけの黒鋼は頭の中で、
(たこ焼きが食いてぇな……)
と考えていただけだったそうな……。
+++
「ママ! ママってばー!」
(……もう……なぁに~?)
「かあちゃん、おきて、かあちゃん」
(子供~? なんで子供の声が……)
甲高い子供の声がすぐ側でして、そして何かぷにぷにとした柔らかいものに頬をぺチぺチと叩かれる感触にファイは目を覚ました。
ぼんやりと視線の先に意識を向ければ、木の年輪が緩やかに波を描く天井が見える。
幾度か瞬きを繰り返していると、視界の隅からひょっこりと二つの頭が顔を出した。
「ママったら……いくら日曜日だからって寝すぎだよ」
「……へ」
一瞬にしてまだぼやけている思考が固まった。フリーズ状態である。
ファイは仰向けで横たわったまま石のように硬い首をギギギ……と動かして二人の子供たちを見やった。
まず一人目。
ペタンと女の子のように畳みの上に座り込んで、こちらを困った顔で見つめながら小首を傾げている子供。
金色の髪に青い目。白い肌。少し垂れた目元と薄い唇。
それはどこかで見たことのある顔だった。
「……君……名前は……?」
掠れる声で恐る恐る訪ねてみる。
子供は「はぁ?」と大きく口を開けた。
「ママ! まだ寝ぼけてる! ボクのこと忘れたの?」
「ボ……ボク……?」
「ユゥイだよ!」
……?
「…………あー、なるほど」
見覚えがあるのはそのはず。目の前の子供は自分自身にそっくりなのだ。
そこでファイはようやく合点がついた。
(これ、夢だ……)
それにしても妙な夢である。
ファイはユゥイと名乗る小さな子供をさらにじっくりと眺めた。
歳の頃は10歳前後といったところか。
水色に赤い小さなハートが水玉模様のように散りばめられたパーカーに、可愛らしいデニムのミニスカートを穿いている。
そしてふと、そこまで認識してファイはまたフリーズしかけた。
スカート……?
スカートというのは……あのスカートで、このスカート……?
「スカートぉ!?」
大きな声を発しながらガバッと起き上ったファイに、チビッ子二人がビクリと跳ねた。
「な、なぁにママ……スカートがどうかしたの?」
「す、す、すか……ゆ、ユゥイ……え、ど、どうして、え?」
たどたどしく口走りながら、ファイは震える手をそっと彼……いや、彼女? の太股辺りに伸ばした。
そして、恐る恐る裾を摘むと、ひょいっとまくってみた。
そこには白いリボンのついた、水色のしましまパンツが……。
「きゃあ……!」
「!?」
きゃあ……だと……?
慌てて両手でスカートの裾を押さえつける可憐な少女は、真っ赤な頬で怒った表情を浮かべ、泣きそうな顔で睨みつけて来た。
これは確かに大問題である。
いい歳をした大人の男が、事もあろうか唐突に幼女のスカートをめくり上げたということになるのだから。
一瞬で犯罪の香りが漂う事態にファイは真っ青になった。
「あ、あ、ご、ごめ……け、決してそんな趣味は……」
わなわなとしながら震えるファイに、幼女……ユゥイはまた小首を傾げた。
「変なママ。ボクのお洋服は全部ママが選んでくれたんじゃない」
「え……へ……へぇ……ああ、そうか……そう、だね……」
混乱のゲージが振りきれた状態のファイは適当に話を合わせてしまった。
そういえばさっきから当たり前のように『ママ』などと呼ばれている気がするのだが、気のせいだろうか。そうだ。きっと気のせいだ。
少し落ち着こう……という意味も含めてファイは一つ咳払いをした。
それから、ファイとユゥイのやりとりをぽーっと指を銜えて見ているもう一人の子供に目を向ける。
そして次の瞬間、ファイはカッと目を見開いた。
「――ッ!?!?」
二人目の子供。
歳の頃はおそらくまだ4~5歳程度か。
真っ黒のジャージを着て、真っ黒の短髪をツンツンにさせて、少し吊り上がった赤い目にキリっとした眉。
まだ眉間に皺は刻まれていないが、明らかに見たことがあるその子供は……。
「く……く……黒たぁん!?」
全身にビビビ、と鳥肌が立った。
小さな身体で両足を真っすぐ投げ出すように座って、チビ黒鋼が「ぽわ~」っと不思議そうな眼でファイを見上げてくる。
その頬はふっくらとしていて、少し赤みもさしていた。
ファイがよく知る鋭く精悍でヤクザのような雰囲気はまったくなく、どこかぼんやりとした癒しオーラを纏っていた。
「な……な……な……」
なにこれかわいい……!!!
「ひぎゃーーっ!!」
ファイはもしここに黒鋼(大)がいれば、どっから声出してんだ、という突っ込みが確実に入るであろう奇声を発すると、黒鋼(小)を思いっきり抱きしめた。
そのままグリグリと光速で頬ずりをする。
「いやーっ! なにこれいやーっ! かわいいかわいいかわいいぐぁんわいぃ~~~っ!!」
思った通り高い体温、ぷにっぷにの頬、ファイの腕の中にすっぽりと収まるミニサイズ。
小宇宙を大爆発させたファイは「すはーすはー」と匂いまで嗅ぎ出す。
「ハァー……ハァー……ハァー……」 ※彼は右側ポジの人です。
「……かあちゃん……くるちい……」
「……へんたい」
その様子を死んだような覇気のない目で見ていたユゥイが冷やかな呟きを零す。
「ああっ! ご、ごめんねごめんね? だってチビ黒たん可愛すぎるんだもんママうっかり危険なリビドーを迸らせるところだったよぉ」
一度身体を離すと、小さな身体の両脇に手を差し入れてひょいっと持ち上げ、膝の上に向かい合うようにして乗せた。
軽い。軽すぎる。そしてやっぱり体温が高い。可愛い。
そして何気にこの自分が母であるということを一瞬にして受け入れはじめたファイ。
「それ、とうちゃんのなまえ。おれ、ちがう」
「へ?」
「そうだよ! 黒たんはパパの名前でしょママ」
「おれ、はがねまる」
「え? え? パパ? はがねまる?」
これは黒鋼ではない……。そして黒鋼がパパ……?
考えてみればファイにそっくりな子供と黒鋼にそっくりな子供が、こちらを母と呼ぶのだから、誰との子供かは考えるまでもなく……。
「おい。さっきからぎゃーぎゃーうるせぇぞ。近所迷惑考えろ」
そのときである。
襖を開けて、チビ黒……いや、はがねまると全く同じデザインの黒ジャージを着た黒鋼が姿を現した。
「あ、パパー!」
ユゥイがミニスカートを翻しながら立ち上がると、黒鋼に正面からタックルして抱きついた。
黒鋼はそれを軽く受け止めてやりながらも側までやってくる。
「ったく……また鋼丸ばっか猫可愛がりしてんのかてめぇは」
「え……ま、また……って……? えーと……黒様先生……だよねぇ?」
「なんだよ先生ってのは」
「???」
先生……という単語を否定した黒鋼は、「まだ寝ぼけてんのか」と呆れた溜息を零す。
「えっと……えっと、つまり、要するに……」
この小さな子供達はファイを母と呼び、そして黒鋼を父と呼ぶ。
おそらくこの世界は夢の中であるから、自分と黒鋼は夫婦ということになって……。
「す、すみません……聞いてもいいかな」
黒鋼はファイの膝の上からよちよちと抜け出してやってきた鋼丸と、腰に抱きついていたユゥイを、それぞれひょいと抱き上げた。
「なんだよ」
「……その子たちって……やっぱりその……オレと……その、君の……」
「? おまえ……寝ぼけてるにしたって妙だぞ。こいつらは俺とてめぇの子供だろうが」
子供達は背が高く逞しい父親に抱っこされて、近くなった天井との距離にキャッキャとはしゃいでいる。
「てめぇが腹痛めて生んだガキのこと忘れてんじゃねぇぞ」
さぁ飯だ飯、と言いながら二人の子供を抱いたまま、黒鋼は背を向けると襖の向こうの廊下へと消えてしまった。
ぽつん……と残されたファイはぽかーんと口を開けたまましばらくの間身動きができないでいた。
そして、「ピン!」と何かが閃いた。
バッと自分の胸に触る。
「……ぺしゃんこ」
ガッと自分の股間に触る。
「……ついて……る」
ユゥイが女体化してるならあるいは自分も……と思ったのだが、アテが外れた。
「どうやって産んだの……オレ……」
夢の中は……ハチャメチャである。
*
夢と分かっていても、やはり飲み込むのに少し時間がかかった。
いっそこのまま適当に待っていれば、現実世界の自分が目を覚まして起きだすだろう……とは思ったが、どうやらまだその兆しはない。
ファイは仕方なく布団から立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回しながら部屋から出てみた。
ひやりと冷たい廊下に出ると、正面にも襖。右側を見ると玄関へ続いている。
木製の棚の上にある電話はレトロ感たっぷりの黒電話だった。
左を見ると廊下が続いていて、その向こうから子供達の楽しそうな声が微かに聞こえた。
それに引き寄せられるように進んで行くと、突き当りの襖へ手を伸ばす。
するりと開ければ、そこはどうやら茶の間のようだった。
丸い木製のちゃぶ台、これまた年代を感じさせるスイッチを捻るタイプのアナログテレビ。
なぜだろう。全体的に、この家の中はどこかで見たことがあるような気がするのだが……。
「ママー。台所すごいことになってるよ?」
すでに席についているユゥイが、隣にいる鋼丸とあっちむいてホイをして遊んでいた。
「だ、台所……?」
戸惑いつつも視線を走らせると、台所は茶の間のすぐ隣にあるらしい。
なぜかコソ泥のように抜き足差し足で子供達の後ろを通り抜け、ファイは台所に足を踏み入れた。
するとそこはまさに地獄と呼ぶにふさわしい光景が繰り広げられていた……。
「な、なにこれー!?」
流しスペースやコンロ付近など、ここにユゥイ(大)がいたら頭から角を生やすであろう酷い汚れっぷりだった。
ちなみにどうもこの台所も見たことがあるような気がした。
そしてそこに似合わないピンクのふりふりエプロンを装着(黒鋼がつけると妙にエプロンが小さく見える)した黒鋼が、むっと顔を顰めながらフライパンとフライ返しをそれぞれ両手に持って佇んでいた。
「うっせぇな……慣れねぇんだから仕方ねぇだろ」
「もしかして黒たんお料理してたの……?」
「悪ぃか」
「わ、悪くは……ないんだけど……」
銀製のボールも何かクリーム色のドロドロしたものが溢れて汚らしくなっているし、そのドロドロは至る所に飛び散っていた。
「な、何作ってたの……?」
「ホットケーキ」
「ホッ!?」
黒鋼とホットケーキ……この似合わなさは人知を超えるような気がした。
だがすぐに「ガキどものリクエストだ」という返答が返って来て納得する。
それにしてもホットケーキを作るのにここまで酷い状態にするというのも……いや、ファイも人のことは言えない。
だが人のやらかすことというのは客観的に見られるもので、この有様を見ていると普段の現実世界でいかに自分が迷惑をかけてきたかを痛感させられる思いだった。
「悪かったな……」
現実世界の自分に対して打ちひしがれていたファイだったのだが、それを見て黒鋼は珍しく少しヘコんでいる。
その様子にハッとして、ファイは慌てて首を振った。
「い、いいよー! 誰にでも不得意なことはあるし、オレだって……」
とは思ったが、どうやらこの世界の黒鋼は現実世界に比べると少し……いや、かなり不器用なのではないかと感じてしまう。
ファイのよく知る黒鋼といえば案外几帳面で、もちろんユゥイほどではないがこのくらいなら手際よくこなしてしまうように思う。
「せっかくの日曜だったからな……少しはてめぇを休ませてやりたかったんだが……」
「……へ」
「これじゃあ仕事を増やしただけだな……」
汚れきった台所を見渡す黒鋼の横顔をまじまじと見る。
そうか……きっとこの黒鋼は休日を利用して家族サービスをしてくれたのだ。
じーん……と胸に込み上げてくるものがある。
「黒様……うぅんアナタ……!」
溢れ出る愛しさに身を任せてその胸に飛び込もうと両手を広げた瞬間だった。
バーンと勝手口が開いた。
「ちわー! 三河屋でーす!!」
「!?」
瞬間、我が目を疑う。
黄色のケースを両手に抱えて登場したのは……。
「さ、さ、さ…………サ●ちゃーーーん!?」
主に日曜の夜によく見かける青年は、『三河屋の●ブちゃん』その人だった……。
この場においてあきらかに彼だけ顔の作りや容姿が単純である。
そこでファイはこの空間についてようやく思い出すことができた。
どこか見覚えがあるような間取り、電化製品や家具などなど。
そうここは、あの有名な磯●家そのものではないか……!
「すすす、凄い……! 本物!?」
いや、夢の中なのだから本物も糞もない上にそもそも架空の人物なのだが、まさかの有名人登場にファイは光の速さで近づくと右手を差し出した。
「ファン……ってわけではないけど握手してくださいー!」
熱狂的な勢いにサ●ちゃんは「はぁ?」と目を丸く……いや、もともと丸いというか黒い点のような目なのだが、とにかくそれを気持ち丸くした。そして黒鋼を見やる。
「奥さんどうしたんですか?」
「いや……こいつはちょっと寝ぼけてるだけだ。いつも悪いな」
「まいどー! ケースここに置いときまーす!」
●ブちゃんはファイに若干の戸惑いを見せたものの、ビール瓶の詰まった黄色のケースを置くと爽やかに去って行った。
+++
ファイはホットケーキを焼きながらこれまでのことを改めて整理することにした。
周辺では黒鋼がせっせと自分が汚しきってしまった部分を雑巾でゴシゴシしている。
(これはオレの夢の中。んで、オレと黒たん先生は……その、夫婦……)
そこまで考えて、ふとファイは自分の左手の薬指に指輪がはまっていることに気がついた。
「!?」
ぎょっとする。今まで気がつかなかったのか、それとも状況をまとめる中で突如として出現したのか。
そして隣でゴシゴシ作業をしている黒鋼の左手にも……同じものがはまっていることを確かめると今更のようにボンッと顔を赤らめる。
ジタバタしてキャッキャとはしゃぎたいのを堪えて、さらに整理する。
(どこをどうして産んだかは考えないとして、二人の子供がいて、それはオレにそっくりな子と黒様にそっくりな子……。そんでもってこの家は磯●さんちの間取り、サブちゃんも出てくる)
もしかして隣のお宅にはいさ●か先生がいたりするのだろうか……み、見たい……と思ったところで、ふいに焦げた臭いがした。
「おい、焦げてんぞ?」
「あっ!? ああ~! やっちゃったー……」
慌ててすぐ横に置いてあった皿へと移したが、時すでに遅し。表側は上手く焼けたのに、裏側は真っ黒になっていた。
しょんぼりするファイの側に黒鋼が寄り添って、焦げたホットケーキを見て言った。
「珍しいな。おまえが失敗するなんて」
「……え?」
珍しい、とはどういうことだろう。
いっそホットケーキをスムーズに引っくり返せたことさえ奇跡に等しいというのに。
ファイは目をパチクリとさせる。
「オレ、いっつもこんなだよ……? むしろこれは大成功の部類かも……」
「なに言ってんだ」
黒鋼はふっと小さく口元を緩ませると、ファイの腰を抱き寄せた。
「え、わ、わ……」
あの……それ雑巾持ってた手……と思わなくもなかったが、胸のドキドキがそれを凌いだ。
「おまえはいつもよくやってる。謙遜する必要はねぇよ」
「で、で、でも……お、オレ、いつも失敗ばっかで……」
「失敗? おまえが?」
黒鋼は少し目を丸くした。その不思議そうな反応に違和感を覚える。
彼は世辞など言える人間ではないし、そもそも側にいながらファイに料理など、絶対にさせてくれない。
(あ、そっか……これって夢だから……)
「おまえがしっかりしてるから、俺は安心してこの家やガキ共を任せていられるんじゃねぇか。もっと自信を持て」
「く、黒様……!」
思わずジンとして、涙が出そうになった。
どうやら夢の中で自分はよき妻であり、家事や料理、子育てに至るまで万能であるという設定らしい。
ぎゅっと抱きつこうとして、けれどそれは甲高い声に遮られた。
「あー! パパとママまたイチャイチャしてる! ズルイ! ボクもー!」
どうやら腹の虫が限界に達したらしいユゥイが、鋼丸の手を引いて台所にやってきた。
ぶぅっと口を尖らせて黒鋼とファイの間に飛び込んできた。
「うるせぇぞこら。もうちょっと待ってろ」
口では咎めるようなことを言いながら、黒鋼の目は優しい。飛び込んできたユゥイの頭をグリグリと撫でている。
ファイは胸に温かなものが込み上げてくるのを感じた。
黒鋼は、きっといいパパになる。その予想が今、目の前で的中している。
「はらへった……」
どこかぽわっとした鋼丸が、ファイの指をきゅっと掴んだ。
それに気付いて目線を落として笑いながら、ファイは決心する。
(それならオレも、いいママにならなくちゃ!)
ようやくこの状況に幸せを感じるだけの余裕が出て来た瞬間だった。
+++
そこで場面は一転した。
それに気がついたのは、台所が嘘のようにピカピカな状態になっていることと、側にいたはずの黒鋼や子供達の姿が忽然と消えていたからだった。
「あれ? あれ?」
辺りを見回し、それから視線を落とす。
そこにはたった今詰めたばかりのお弁当箱が二つ、並べられていた。
卵焼きやからあげ、ポテトサラダなどがみっしり詰まった大きな弁当箱、トマトやらハムやらミニハンバーグやらでキャラデコされた小さな弁当箱。
そしてファイの右手には菜箸が握られていた。
「こ、これ……オレが作ったの……?」
その見事な出来栄えに瞬きも忘れて見入る。
するとそこにかっちりとスーツを着込んだ黒鋼が顔を出した。
「おい、行くぞ」
「へ!? え!? あ、はい!」
ファイは瞬間的に弁当の蓋をし、ハンカチで包むとそれを手に廊下へと消えて行った黒鋼を追いかける。
「ま、待って! お弁当!」
「おう」
玄関で靴をはいていた黒鋼が顔を上げ、それを受け取った。
そこでファイは改めてスーツ姿の黒鋼を見つめる。
(か、かっこよすぎる……)
普段はジャージ姿がほとんどで、こんなかっちりした姿を見ることは滅多にない。
黒のストライプスーツに身を包む彼はどこに出しても恥ずかしくない、どこからどう見ても立派なヤクz……いや、出来る男風のサラリーマンだった。
その見慣れない姿に胸がキュンキュンのムラムラ状態で、頬に血が上る。
黒鋼が「先生」という言葉を否定したこととこの様子から察するに、どうやら夢の中の黒鋼は教師ではなく、どこぞの企業に勤めるサラリーマンという設定らしい。
同僚に穴●君がいたり……するのだろうか……。
「行ってくる」
真っ赤になってときめいているファイに黒鋼が何気なく手を伸ばした。項の辺りに添えられた手に引き寄せられて、頬に一瞬だけ何かが押し当てられた。
「!?」
それが何だったのか、フリーズしてしまったファイが気付いたときには玄関の引き戸が閉められていた。
へなへなと足元から崩れ落ちる。ペタリと座り込んで、ファイは熱くなっている頬に指先で触れる。
「ご……ご武運を~……」
この世界……凄すぎる……。
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二人は今からおよそ10年前に結婚し、ほぼ同時期に子宝にも恵まれた。
幸せ絶頂の夫婦だったが、なんと妊娠5ヶ月目にして流産してしまう。
悲劇の事態に悲しみに暮れる夫婦だったが、医師から告げられた新たな事実によってさらに打ちのめされる。
妻花子さんは元々妊娠するのが困難な体質であったことが判明したのである。
もう二度と子供は望めないのか……一時期は絶望に暮れ、全てに対して自暴自棄になってしまった花子さん。
しかし夫の献身的な愛情と励ましを受け、不妊治療に踏み切る。
夫婦は共に支え、励まし合い、辛く長い治療の日々を乗り越えて来た。
やがて10年近くに及ぶ歳月を経て、ようやく花子さんが妊娠。
授かった命の重み、そして一度も産声を上げることなく失われた我が子への想いを胸に、夫婦の悲願がようやく叶った。
産まれたのは3000グラムの元気な男の子。
夫の太郎さんは、「息子が大きくなったら、一緒にキャッチボールがしたい」と満面の笑みで語っている。
+++
「グス……ッ」
晩御飯も入浴も済ませ、あとは寝るだけ……という頃、ファイは床にクッションを抱えてうつ伏せながら、とあるドキュメンタリー番組を見ていた。
流産、不妊治療、そして苦労の末、再びの妊娠、出産。
夫婦の深い愛情が生んだその奇跡のドラマに、見終わったあとファイは涙ぐんで鼻をすすった。
愛し合って結ばれた夫婦が子供を授かり、無事に出産し、子育てに励む……。そういった流れは自然の摂理であり、ごく当たり前のことだと思っていた。
けれどこういった番組を見たり話を聞いたりすると、決して当たり前のことではないのかもしれない、とファイは思う。
「女の人だからって、簡単に赤ちゃんが授かるわけじゃないんだなぁ……」
ファイにはどう引っくり返っても一生経験できない喜びもあれば、辛さもある。
テレビ番組の尺で綺麗に収まりがつくほど、簡単な道のりではなかったに違いない。
想像で推し量ることさえおこがましく感じつつも、女性は本当に凄い……とにかく凄い……そして夫も偉い……グッジョブ……とファイは感動していたのだった。
そのときは、本当にただそれだけだった。
+++
翌日、日曜日のことである。
ここ数日はずっと鉛色の雲が空を覆い、肌寒い日々が続いていた。
だが、今日は久しぶりに雲間から太陽が姿を見せ、暖かな気温が春の訪れを告げているようで気持ちがよかった。
そんな中、ファイと黒鋼はユゥイから預かったメモを片手に近所のスーパーへ買い出しへと訪れていた。
今はその帰り道。
「買い漏らしないよねー? ユゥイ今日は何作ってくれるんだろー?」
「さぁな。和食じゃねぇのか」
「黒様先生が食べたいだけじゃーん」
「いいだろ。俺は基本そっち派なんだ」
そんなの知ってるよ、と言ってファイは笑う。
ユゥイは最近ずっと和食にハマっている。いよいよ創作料理なども作り出し、そのうち本場日本で料理店でも出すのかと思うほどだった。
教員宿舎からスーパーまでの道のりなど、せいぜい歩いても10分かかるかかからないかの些細なもので、そんな短い距離だとしてもまるでデートでもしているみたいな気分だった。
鼻先を時折掠める春の香りは『これ』と明確に表現できるものではなく、ただ心がふんわりと軽くなるような、どこか懐かしさを感じさせる微かなもので、訳もなくただ幸せだと思えた。
(もうちょっとだけ……こうしていたいなぁ……)
ファイは横目でチラリと真っすぐに前を見て歩く黒鋼の横顔を盗み見た。
そしてほぼ同時に、道が公園前にまで差し掛かっていることに気がつく。
「ねーねーせんせー」
「なんだ」
「天気いいしさ、ちょっと日向ぼっこしていかない?」
そう言いながら公園を指さす。
ブランコや滑り台などの基本的な遊具はもちろん、噴水や芝生もある、そこそこ広い公園だった。
「しょうがねぇな……」
黒鋼はそう返事すると、即座に公園へと方向を変えた。
ファイははしゃいで「バンザーイ」と言いながら、うっかり腕に抱きつきそうになるのを我慢する。
ここで羽目を外しすぎるといつものゲンコツルートだ。
ファイは慣れっこだが、日曜日で家族連れや子供もそこそこ目につく中そんなことになれば、黒鋼の鬼の形相を見た子供が泣く。さらにトラウマになる。
子供達の健やかな成長と未来を守ることも化学教師の務めなのだ……とファイは涙を呑む。
途中、設置してあった自販機で温かな紅茶を買って、二人は芝生側の小道沿いにあるベンチに座った。
野菜や調味料などが入ったビニール袋を脇に置いた黒鋼がペットボトルの蓋を捻ってファイに差し出してくる。
「わ、ありがとー」
「そっち寄こせ」
「はーい」
おもむろに差し出されたそれを受け取って、自分が持っていた未開封のものを手渡す。
すぐにそれも蓋を開けて飲み始める黒鋼を見て、ファイは急に照れ臭くなると頬を赤らめた。
変なところでさりげなく甘やかしてくる……いつもは鋭い突っ込みに徹するくせに、素でこういうことをしてくるあたりこの男は天然だ。
そして幸せを噛みしめながらいつまで経ってもドキドキしてしまうファイは……乙女である。
ほかほかのペットボトルに口をつけて飲み込むと、有無を言わさず無糖のはずのそれが妙に甘く感じた。
二人はそのまま暫くの間、ほっこりとしながら過ごした。
真上にある太陽が燦々と輝き、心地よい風がゆったりと吹きぬけてゆく。
手を繋いで歩く若いカップル達や、木陰で仲良く弁当を食べている家族連れ。遊具で遊ぶ子供たちの元気な声と、噴きあげる噴水の水音が遠くに聞こえる。
もっと暖かくなったら、ユゥイや四月一日にお弁当を作ってもらって、皆で遊びに来れたらいいな、なんてことを考えた。
そんなときだった。
前方の少し離れた場所で、親子がキャッチボールをしているのが目に入る。
日曜日の公園という場所柄、いっそベタとも思えるありきたりな光景。けれどなんとなく胸が温まる。
父親と思しき男が手加減丸出しでボールを投げる。
まだ小さな息子は真剣な表情で必死にそれを取ろうとして、結局グローブから転げ落ちてしまった。
だがすぐに拾い上げ、全力で父に投げ返す。
最初のうちはすんなりキャッチできなかったボールも、回数を重ねるうちにどんどん上手に受け止めることが出来るようになってきて、いつしか余裕の笑顔を見せていた父親も本気を出し始めた。
物凄くハートフルな光景だった。
(いいなぁ……あーゆうの)
見ているこちらまで幸せな気持ちになってきて、ふとファイは何気なく隣を見やった。
黒鋼もまた、ファイと同じ光景をじっと見つめていた。
その横顔に、ドキリとした。
もともと精悍な顔つきが、熱心さを帯びている。
彼の受け持ちは体育であるから、二人の親子のやり取りがもどかしいのかもしれない。
けれど、それにしては妙に張りつめているような、何かを熟考しながらいるような、そんな印象を受けた。
(……もしかして)
ふと、ファイは昨夜見たテレビ番組を思い出した。
ようやくの思いで生まれた息子。
父親は、いつかキャッチボールがしたいと、そう遠くない未来を幸せそうに語っていた……。
途端に、ファイは胸が締めつけられるのを感じた。
黒鋼もまた、そんな未来を夢見ているのだろうかと。
そうだとすれば、ファイにはその夢を叶えてやれる力はない。
ファイも黒鋼も同性で、どんなに愛し合ったとしてもそこには何も生まれない。
本当は考えたくもないけれど、もし……もし黒鋼が自分以外の誰かを、可愛いお嫁さんを見つけて、いつか子供が授かって、その子供が少しずつ大きくなったら、あんな風に公園やマイホームの庭なんかでキャッチボールをするのだろう。
子供は男の子なら父親に瓜二つの可愛いヤンチャ坊主で、黒鋼は厳しいけれど強くてかっこよくて、優しいパパになる。
(どうしよう……やだな……。ちょっと泣きそう……)
たった今まではちょっとしたデート気分を味わって、ほのぼのとした光景を見ながら幸せな気分だったのに。
いつだってのんびりお気楽でいたいのに、黒鋼に案外天然な部分があるのと同じように、ファイには一度ハマりこむと抜け出せないネガティブな一面があった。
途端に俯いてキャッチボール親子から目を背ける。
それでも仲のいい掛け合いは微かに聞こえてきて、ファイは唇を噛みしめた。
「どうした?」
それに気付いた黒鋼が、こちらに顔を向けた。
「腹でも減ったか?」
なんて呑気な問いかけを投げて寄こすものだから、ファイは慌てて顔を上げると笑顔を作った。
「なんでもないよー?」
「うそつけ」
即座に返された。
少し不機嫌そうに顔を顰められて、少し焦った。
「ホントのホントだよ?」
「…………」
「う……」
そのまま、怖い顔でじーっと見つめられて、思わず目を泳がせた。
どうして隠せないのだろう。黒鋼にはいつも見透かされてしまう。
そのくせ言葉で執拗に問いかけてこないぶん、こうしてじっと目で責めるように訴えてくる。
ファイは右へ左へと視線を彷徨わせたあと、温くなってしまった紅茶に口をつけた。
ちびりと少ない量を飲み込んでから、改めて黒鋼をおずおずと上目づかいで見やる。
「あのねー……」
「おう」
「黒たん先生も……やっぱりいつかは子供とか……欲しいよね……?」
「あ?」
「黒たん、きっといいパパになるんだろうなーって」
「何言ってんだおまえは?」
何、と言われても。そのまんま、思ったことを言ってみただけだった。
呆れたような顔をした黒鋼は、至極当然のことを口にした。
「俺とおまえとでどうやってガキなんざ作るんだ?」
「だ、だから聞いたのにー……」
情けない声を出したファイを相変わらず呆れ顔で見つめる黒鋼。
どうせ言っても仕方ないことで悩んでますよ……と思わず俯く。
「もういいよー……バカ……」
沈黙のあと、黒鋼の溜息が聞こえた。
そうだ、どうせくだらないことを考えている。勝手に想像して、勝手に落ち込んでしまっただけだ。
仮にここで黒鋼が肯定していたとして、さらに落ち込むだけでどうせファイは黒鋼から離れられない。
今までもこれからも、オジサンになっておじいちゃんになって、そして死ぬまでずっと離れられない。
いっそ死んでからも一緒にいたい……。
我ながら重たすぎると自分に呆れかえるほどだった。
「いらねぇよ。ガキなんざ」
「え……?」
地の底まで落ちこまん勢いだったファイは、思わず勢いよく顔を上げた。
「どどど、どうして?」
「そんなもん……」
目をキラキラとさせて続きを待つファイに、黒鋼は思いっきり眉間に皺を寄せて人相をさらに悪くしながら言った。
「てめぇみてぇなのがもう一人増えるかと思ったらぞっとするぜ……」
「んなー!?」
スパーンと何か見えない力に後頭部をぶたれたかのように、ファイはズコーッと前のめりになった。
ここは優しく微笑んで「バカだな……俺はおまえというこの混沌とした地上に咲き誇る一輪の花が側にいれば……他には何もいらないぜ……」と甘く囁く場面ではないのか。
と、思ったがいつものようにそれを口にすればやっぱりゲンコツフラグなので口を噤む。
ああーああー、どうせそうでしょうよ……とファイはぐすんと鼻をすすった。
悩んでいたのがバカのように感じる。
「もういいよー! オレ帰る!」
勢いよく立ちあがって、まだベンチに腰掛けている黒鋼に背を向けると先にズンズンと大股で歩き出した。
人の気も知らないで。こうなったら置いてきぼりにしてやる。
すっかり臍を曲げてしまったファイに、取り残されながら「やれやれ」と頭を掻く黒鋼。
「ったく……アホだなあいつは……」
ファイの悩みなどちゃっかりお見通しだった黒鋼の呟きは、もちろんファイの耳に届くことはなかった。
ちなみに。
別に親子のキャッチボールを見つめていたわけではなく、ただぼんやりと一点を見つめていただけの黒鋼は頭の中で、
(たこ焼きが食いてぇな……)
と考えていただけだったそうな……。
+++
「ママ! ママってばー!」
(……もう……なぁに~?)
「かあちゃん、おきて、かあちゃん」
(子供~? なんで子供の声が……)
甲高い子供の声がすぐ側でして、そして何かぷにぷにとした柔らかいものに頬をぺチぺチと叩かれる感触にファイは目を覚ました。
ぼんやりと視線の先に意識を向ければ、木の年輪が緩やかに波を描く天井が見える。
幾度か瞬きを繰り返していると、視界の隅からひょっこりと二つの頭が顔を出した。
「ママったら……いくら日曜日だからって寝すぎだよ」
「……へ」
一瞬にしてまだぼやけている思考が固まった。フリーズ状態である。
ファイは仰向けで横たわったまま石のように硬い首をギギギ……と動かして二人の子供たちを見やった。
まず一人目。
ペタンと女の子のように畳みの上に座り込んで、こちらを困った顔で見つめながら小首を傾げている子供。
金色の髪に青い目。白い肌。少し垂れた目元と薄い唇。
それはどこかで見たことのある顔だった。
「……君……名前は……?」
掠れる声で恐る恐る訪ねてみる。
子供は「はぁ?」と大きく口を開けた。
「ママ! まだ寝ぼけてる! ボクのこと忘れたの?」
「ボ……ボク……?」
「ユゥイだよ!」
……?
「…………あー、なるほど」
見覚えがあるのはそのはず。目の前の子供は自分自身にそっくりなのだ。
そこでファイはようやく合点がついた。
(これ、夢だ……)
それにしても妙な夢である。
ファイはユゥイと名乗る小さな子供をさらにじっくりと眺めた。
歳の頃は10歳前後といったところか。
水色に赤い小さなハートが水玉模様のように散りばめられたパーカーに、可愛らしいデニムのミニスカートを穿いている。
そしてふと、そこまで認識してファイはまたフリーズしかけた。
スカート……?
スカートというのは……あのスカートで、このスカート……?
「スカートぉ!?」
大きな声を発しながらガバッと起き上ったファイに、チビッ子二人がビクリと跳ねた。
「な、なぁにママ……スカートがどうかしたの?」
「す、す、すか……ゆ、ユゥイ……え、ど、どうして、え?」
たどたどしく口走りながら、ファイは震える手をそっと彼……いや、彼女? の太股辺りに伸ばした。
そして、恐る恐る裾を摘むと、ひょいっとまくってみた。
そこには白いリボンのついた、水色のしましまパンツが……。
「きゃあ……!」
「!?」
きゃあ……だと……?
慌てて両手でスカートの裾を押さえつける可憐な少女は、真っ赤な頬で怒った表情を浮かべ、泣きそうな顔で睨みつけて来た。
これは確かに大問題である。
いい歳をした大人の男が、事もあろうか唐突に幼女のスカートをめくり上げたということになるのだから。
一瞬で犯罪の香りが漂う事態にファイは真っ青になった。
「あ、あ、ご、ごめ……け、決してそんな趣味は……」
わなわなとしながら震えるファイに、幼女……ユゥイはまた小首を傾げた。
「変なママ。ボクのお洋服は全部ママが選んでくれたんじゃない」
「え……へ……へぇ……ああ、そうか……そう、だね……」
混乱のゲージが振りきれた状態のファイは適当に話を合わせてしまった。
そういえばさっきから当たり前のように『ママ』などと呼ばれている気がするのだが、気のせいだろうか。そうだ。きっと気のせいだ。
少し落ち着こう……という意味も含めてファイは一つ咳払いをした。
それから、ファイとユゥイのやりとりをぽーっと指を銜えて見ているもう一人の子供に目を向ける。
そして次の瞬間、ファイはカッと目を見開いた。
「――ッ!?!?」
二人目の子供。
歳の頃はおそらくまだ4~5歳程度か。
真っ黒のジャージを着て、真っ黒の短髪をツンツンにさせて、少し吊り上がった赤い目にキリっとした眉。
まだ眉間に皺は刻まれていないが、明らかに見たことがあるその子供は……。
「く……く……黒たぁん!?」
全身にビビビ、と鳥肌が立った。
小さな身体で両足を真っすぐ投げ出すように座って、チビ黒鋼が「ぽわ~」っと不思議そうな眼でファイを見上げてくる。
その頬はふっくらとしていて、少し赤みもさしていた。
ファイがよく知る鋭く精悍でヤクザのような雰囲気はまったくなく、どこかぼんやりとした癒しオーラを纏っていた。
「な……な……な……」
なにこれかわいい……!!!
「ひぎゃーーっ!!」
ファイはもしここに黒鋼(大)がいれば、どっから声出してんだ、という突っ込みが確実に入るであろう奇声を発すると、黒鋼(小)を思いっきり抱きしめた。
そのままグリグリと光速で頬ずりをする。
「いやーっ! なにこれいやーっ! かわいいかわいいかわいいぐぁんわいぃ~~~っ!!」
思った通り高い体温、ぷにっぷにの頬、ファイの腕の中にすっぽりと収まるミニサイズ。
小宇宙を大爆発させたファイは「すはーすはー」と匂いまで嗅ぎ出す。
「ハァー……ハァー……ハァー……」 ※彼は右側ポジの人です。
「……かあちゃん……くるちい……」
「……へんたい」
その様子を死んだような覇気のない目で見ていたユゥイが冷やかな呟きを零す。
「ああっ! ご、ごめんねごめんね? だってチビ黒たん可愛すぎるんだもんママうっかり危険なリビドーを迸らせるところだったよぉ」
一度身体を離すと、小さな身体の両脇に手を差し入れてひょいっと持ち上げ、膝の上に向かい合うようにして乗せた。
軽い。軽すぎる。そしてやっぱり体温が高い。可愛い。
そして何気にこの自分が母であるということを一瞬にして受け入れはじめたファイ。
「それ、とうちゃんのなまえ。おれ、ちがう」
「へ?」
「そうだよ! 黒たんはパパの名前でしょママ」
「おれ、はがねまる」
「え? え? パパ? はがねまる?」
これは黒鋼ではない……。そして黒鋼がパパ……?
考えてみればファイにそっくりな子供と黒鋼にそっくりな子供が、こちらを母と呼ぶのだから、誰との子供かは考えるまでもなく……。
「おい。さっきからぎゃーぎゃーうるせぇぞ。近所迷惑考えろ」
そのときである。
襖を開けて、チビ黒……いや、はがねまると全く同じデザインの黒ジャージを着た黒鋼が姿を現した。
「あ、パパー!」
ユゥイがミニスカートを翻しながら立ち上がると、黒鋼に正面からタックルして抱きついた。
黒鋼はそれを軽く受け止めてやりながらも側までやってくる。
「ったく……また鋼丸ばっか猫可愛がりしてんのかてめぇは」
「え……ま、また……って……? えーと……黒様先生……だよねぇ?」
「なんだよ先生ってのは」
「???」
先生……という単語を否定した黒鋼は、「まだ寝ぼけてんのか」と呆れた溜息を零す。
「えっと……えっと、つまり、要するに……」
この小さな子供達はファイを母と呼び、そして黒鋼を父と呼ぶ。
おそらくこの世界は夢の中であるから、自分と黒鋼は夫婦ということになって……。
「す、すみません……聞いてもいいかな」
黒鋼はファイの膝の上からよちよちと抜け出してやってきた鋼丸と、腰に抱きついていたユゥイを、それぞれひょいと抱き上げた。
「なんだよ」
「……その子たちって……やっぱりその……オレと……その、君の……」
「? おまえ……寝ぼけてるにしたって妙だぞ。こいつらは俺とてめぇの子供だろうが」
子供達は背が高く逞しい父親に抱っこされて、近くなった天井との距離にキャッキャとはしゃいでいる。
「てめぇが腹痛めて生んだガキのこと忘れてんじゃねぇぞ」
さぁ飯だ飯、と言いながら二人の子供を抱いたまま、黒鋼は背を向けると襖の向こうの廊下へと消えてしまった。
ぽつん……と残されたファイはぽかーんと口を開けたまましばらくの間身動きができないでいた。
そして、「ピン!」と何かが閃いた。
バッと自分の胸に触る。
「……ぺしゃんこ」
ガッと自分の股間に触る。
「……ついて……る」
ユゥイが女体化してるならあるいは自分も……と思ったのだが、アテが外れた。
「どうやって産んだの……オレ……」
夢の中は……ハチャメチャである。
*
夢と分かっていても、やはり飲み込むのに少し時間がかかった。
いっそこのまま適当に待っていれば、現実世界の自分が目を覚まして起きだすだろう……とは思ったが、どうやらまだその兆しはない。
ファイは仕方なく布団から立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回しながら部屋から出てみた。
ひやりと冷たい廊下に出ると、正面にも襖。右側を見ると玄関へ続いている。
木製の棚の上にある電話はレトロ感たっぷりの黒電話だった。
左を見ると廊下が続いていて、その向こうから子供達の楽しそうな声が微かに聞こえた。
それに引き寄せられるように進んで行くと、突き当りの襖へ手を伸ばす。
するりと開ければ、そこはどうやら茶の間のようだった。
丸い木製のちゃぶ台、これまた年代を感じさせるスイッチを捻るタイプのアナログテレビ。
なぜだろう。全体的に、この家の中はどこかで見たことがあるような気がするのだが……。
「ママー。台所すごいことになってるよ?」
すでに席についているユゥイが、隣にいる鋼丸とあっちむいてホイをして遊んでいた。
「だ、台所……?」
戸惑いつつも視線を走らせると、台所は茶の間のすぐ隣にあるらしい。
なぜかコソ泥のように抜き足差し足で子供達の後ろを通り抜け、ファイは台所に足を踏み入れた。
するとそこはまさに地獄と呼ぶにふさわしい光景が繰り広げられていた……。
「な、なにこれー!?」
流しスペースやコンロ付近など、ここにユゥイ(大)がいたら頭から角を生やすであろう酷い汚れっぷりだった。
ちなみにどうもこの台所も見たことがあるような気がした。
そしてそこに似合わないピンクのふりふりエプロンを装着(黒鋼がつけると妙にエプロンが小さく見える)した黒鋼が、むっと顔を顰めながらフライパンとフライ返しをそれぞれ両手に持って佇んでいた。
「うっせぇな……慣れねぇんだから仕方ねぇだろ」
「もしかして黒たんお料理してたの……?」
「悪ぃか」
「わ、悪くは……ないんだけど……」
銀製のボールも何かクリーム色のドロドロしたものが溢れて汚らしくなっているし、そのドロドロは至る所に飛び散っていた。
「な、何作ってたの……?」
「ホットケーキ」
「ホッ!?」
黒鋼とホットケーキ……この似合わなさは人知を超えるような気がした。
だがすぐに「ガキどものリクエストだ」という返答が返って来て納得する。
それにしてもホットケーキを作るのにここまで酷い状態にするというのも……いや、ファイも人のことは言えない。
だが人のやらかすことというのは客観的に見られるもので、この有様を見ていると普段の現実世界でいかに自分が迷惑をかけてきたかを痛感させられる思いだった。
「悪かったな……」
現実世界の自分に対して打ちひしがれていたファイだったのだが、それを見て黒鋼は珍しく少しヘコんでいる。
その様子にハッとして、ファイは慌てて首を振った。
「い、いいよー! 誰にでも不得意なことはあるし、オレだって……」
とは思ったが、どうやらこの世界の黒鋼は現実世界に比べると少し……いや、かなり不器用なのではないかと感じてしまう。
ファイのよく知る黒鋼といえば案外几帳面で、もちろんユゥイほどではないがこのくらいなら手際よくこなしてしまうように思う。
「せっかくの日曜だったからな……少しはてめぇを休ませてやりたかったんだが……」
「……へ」
「これじゃあ仕事を増やしただけだな……」
汚れきった台所を見渡す黒鋼の横顔をまじまじと見る。
そうか……きっとこの黒鋼は休日を利用して家族サービスをしてくれたのだ。
じーん……と胸に込み上げてくるものがある。
「黒様……うぅんアナタ……!」
溢れ出る愛しさに身を任せてその胸に飛び込もうと両手を広げた瞬間だった。
バーンと勝手口が開いた。
「ちわー! 三河屋でーす!!」
「!?」
瞬間、我が目を疑う。
黄色のケースを両手に抱えて登場したのは……。
「さ、さ、さ…………サ●ちゃーーーん!?」
主に日曜の夜によく見かける青年は、『三河屋の●ブちゃん』その人だった……。
この場においてあきらかに彼だけ顔の作りや容姿が単純である。
そこでファイはこの空間についてようやく思い出すことができた。
どこか見覚えがあるような間取り、電化製品や家具などなど。
そうここは、あの有名な磯●家そのものではないか……!
「すすす、凄い……! 本物!?」
いや、夢の中なのだから本物も糞もない上にそもそも架空の人物なのだが、まさかの有名人登場にファイは光の速さで近づくと右手を差し出した。
「ファン……ってわけではないけど握手してくださいー!」
熱狂的な勢いにサ●ちゃんは「はぁ?」と目を丸く……いや、もともと丸いというか黒い点のような目なのだが、とにかくそれを気持ち丸くした。そして黒鋼を見やる。
「奥さんどうしたんですか?」
「いや……こいつはちょっと寝ぼけてるだけだ。いつも悪いな」
「まいどー! ケースここに置いときまーす!」
●ブちゃんはファイに若干の戸惑いを見せたものの、ビール瓶の詰まった黄色のケースを置くと爽やかに去って行った。
+++
ファイはホットケーキを焼きながらこれまでのことを改めて整理することにした。
周辺では黒鋼がせっせと自分が汚しきってしまった部分を雑巾でゴシゴシしている。
(これはオレの夢の中。んで、オレと黒たん先生は……その、夫婦……)
そこまで考えて、ふとファイは自分の左手の薬指に指輪がはまっていることに気がついた。
「!?」
ぎょっとする。今まで気がつかなかったのか、それとも状況をまとめる中で突如として出現したのか。
そして隣でゴシゴシ作業をしている黒鋼の左手にも……同じものがはまっていることを確かめると今更のようにボンッと顔を赤らめる。
ジタバタしてキャッキャとはしゃぎたいのを堪えて、さらに整理する。
(どこをどうして産んだかは考えないとして、二人の子供がいて、それはオレにそっくりな子と黒様にそっくりな子……。そんでもってこの家は磯●さんちの間取り、サブちゃんも出てくる)
もしかして隣のお宅にはいさ●か先生がいたりするのだろうか……み、見たい……と思ったところで、ふいに焦げた臭いがした。
「おい、焦げてんぞ?」
「あっ!? ああ~! やっちゃったー……」
慌ててすぐ横に置いてあった皿へと移したが、時すでに遅し。表側は上手く焼けたのに、裏側は真っ黒になっていた。
しょんぼりするファイの側に黒鋼が寄り添って、焦げたホットケーキを見て言った。
「珍しいな。おまえが失敗するなんて」
「……え?」
珍しい、とはどういうことだろう。
いっそホットケーキをスムーズに引っくり返せたことさえ奇跡に等しいというのに。
ファイは目をパチクリとさせる。
「オレ、いっつもこんなだよ……? むしろこれは大成功の部類かも……」
「なに言ってんだ」
黒鋼はふっと小さく口元を緩ませると、ファイの腰を抱き寄せた。
「え、わ、わ……」
あの……それ雑巾持ってた手……と思わなくもなかったが、胸のドキドキがそれを凌いだ。
「おまえはいつもよくやってる。謙遜する必要はねぇよ」
「で、で、でも……お、オレ、いつも失敗ばっかで……」
「失敗? おまえが?」
黒鋼は少し目を丸くした。その不思議そうな反応に違和感を覚える。
彼は世辞など言える人間ではないし、そもそも側にいながらファイに料理など、絶対にさせてくれない。
(あ、そっか……これって夢だから……)
「おまえがしっかりしてるから、俺は安心してこの家やガキ共を任せていられるんじゃねぇか。もっと自信を持て」
「く、黒様……!」
思わずジンとして、涙が出そうになった。
どうやら夢の中で自分はよき妻であり、家事や料理、子育てに至るまで万能であるという設定らしい。
ぎゅっと抱きつこうとして、けれどそれは甲高い声に遮られた。
「あー! パパとママまたイチャイチャしてる! ズルイ! ボクもー!」
どうやら腹の虫が限界に達したらしいユゥイが、鋼丸の手を引いて台所にやってきた。
ぶぅっと口を尖らせて黒鋼とファイの間に飛び込んできた。
「うるせぇぞこら。もうちょっと待ってろ」
口では咎めるようなことを言いながら、黒鋼の目は優しい。飛び込んできたユゥイの頭をグリグリと撫でている。
ファイは胸に温かなものが込み上げてくるのを感じた。
黒鋼は、きっといいパパになる。その予想が今、目の前で的中している。
「はらへった……」
どこかぽわっとした鋼丸が、ファイの指をきゅっと掴んだ。
それに気付いて目線を落として笑いながら、ファイは決心する。
(それならオレも、いいママにならなくちゃ!)
ようやくこの状況に幸せを感じるだけの余裕が出て来た瞬間だった。
+++
そこで場面は一転した。
それに気がついたのは、台所が嘘のようにピカピカな状態になっていることと、側にいたはずの黒鋼や子供達の姿が忽然と消えていたからだった。
「あれ? あれ?」
辺りを見回し、それから視線を落とす。
そこにはたった今詰めたばかりのお弁当箱が二つ、並べられていた。
卵焼きやからあげ、ポテトサラダなどがみっしり詰まった大きな弁当箱、トマトやらハムやらミニハンバーグやらでキャラデコされた小さな弁当箱。
そしてファイの右手には菜箸が握られていた。
「こ、これ……オレが作ったの……?」
その見事な出来栄えに瞬きも忘れて見入る。
するとそこにかっちりとスーツを着込んだ黒鋼が顔を出した。
「おい、行くぞ」
「へ!? え!? あ、はい!」
ファイは瞬間的に弁当の蓋をし、ハンカチで包むとそれを手に廊下へと消えて行った黒鋼を追いかける。
「ま、待って! お弁当!」
「おう」
玄関で靴をはいていた黒鋼が顔を上げ、それを受け取った。
そこでファイは改めてスーツ姿の黒鋼を見つめる。
(か、かっこよすぎる……)
普段はジャージ姿がほとんどで、こんなかっちりした姿を見ることは滅多にない。
黒のストライプスーツに身を包む彼はどこに出しても恥ずかしくない、どこからどう見ても立派なヤクz……いや、出来る男風のサラリーマンだった。
その見慣れない姿に胸がキュンキュンのムラムラ状態で、頬に血が上る。
黒鋼が「先生」という言葉を否定したこととこの様子から察するに、どうやら夢の中の黒鋼は教師ではなく、どこぞの企業に勤めるサラリーマンという設定らしい。
同僚に穴●君がいたり……するのだろうか……。
「行ってくる」
真っ赤になってときめいているファイに黒鋼が何気なく手を伸ばした。項の辺りに添えられた手に引き寄せられて、頬に一瞬だけ何かが押し当てられた。
「!?」
それが何だったのか、フリーズしてしまったファイが気付いたときには玄関の引き戸が閉められていた。
へなへなと足元から崩れ落ちる。ペタリと座り込んで、ファイは熱くなっている頬に指先で触れる。
「ご……ご武運を~……」
この世界……凄すぎる……。
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週末、雨の夜。
繁華街の一角にあるゲームセンターは人もまばらで、閑散としていた。
(あんま人いないなぁ……雨だからかな?)
白衣の代わりに黒のトレンチコートを纏ったファイは、肌寒さからポケットに両手を突っ込むと肩をすくめる。
キョロキョロと辺りを見回しつつ店内を歩くと、レースゲームに夢中になる若いサラリーマン風の男や、UFOキャッチャーではしゃいでいるカップルがちらほらと見てとれるが、他に客の姿は見えなかった。
ゲーム機が奏でるBGMや効果音だけがやたらと騒々しい中、一見賑やかに見えて閑散としている店内は、妙に虚しさをそそる。
見知った顔もなければ、ましてや彼らの中に教え子たちの姿はない。ファイは少しほっとして息をついた。
(仕事じゃなければ遊んで帰ってもいいんだけどなー。あ、あのぬいぐるみ可愛い……)
ついつい景品に目が行きそうになりつつ、自分の立場と出がけに体育教師から言われた言葉を思い出して、我慢する。
(早く帰って来いって言われてるんだった)
可愛いぬいぐるみよりも、厳つい恋人の方が優先なのは当り前のことだった。
ここは確か二階も同様にゲームセンターになっているはずだ。そこさえ覗けばあとは帰れる。
組んでいたはずの補導員とはなぜかはぐれてしまったが、どうせこの近辺にしかいないのだし、念のためにと交換し合った携帯番号にかければ連絡もすぐつくだろう。
とっとと終わらせるかと、ファイは幾つも並ぶプリクラの機械の裏側にある通路へと足を向けた。
そもそもなぜファイがこんな場所へ、わざわざ出向いているかというと。
この学園都市内にある繁華街で夜、大学の院生数人が酒を飲んで口論となり、騒ぎを起こしたという話が職員会議で持ち出された。
現場に居合わせた人間から、高等部の生徒と思しき者も複数見かけた、という証言があったものの、特定は難しく、ホームルームでの厳重注意を徹底すること、夜は補導員と共に、当面は繁華街の見回りを行うということになった。
せっかくの週末ではあるが、割り当てられたものは仕方が無いと腹を括って来てみたものの、何事もなく終われそうで安堵する。
だが薄暗い階段通路へ足を踏み入れ、二階へ上がろうと一段目に足をかけたとき、前方の踊り場に何者かがいることに気がついた。
2Fという表示の下、壁と向き合って男が立っている。ベージュのよれたコートを着たその男はファイの存在に気が付き、ふと首だけ振り返ったが、すぐにまた壁を向いた。
(……なにしてんだろ。壁がお友達? 怪しいなぁ)
薄明かりの下、このような人気のない場所で、しかも壁と仲良しなんて、はっきり言って気味が悪い。
いきなりナイフでも取り出してこられたらどうしようか、なんて物騒な想像が頭の中にぽっかりと浮かぶ。
少々肉付きのいい後ろ姿は丸まっていて、こころなしかもぞもぞと揺れている気がした。
明らかに不審者丸出し。念のため通報するべき物件かもしれないが……。
(春先は変なのがわくんだよねぇ……)
嫌な予感をひしひしと感じつつ階段を上り、狭い踊り場まで到着した、そのときだった。
男が今度は身体ごと、急に振り返った。
「!」
うっかりビクンと肩を震わせ、足を止めてしまったのが不味かったのかもしれない。
ファイよりも幾分か背の低い小太りな男は、コートの前を両手で厳重に抑えて、どこかギラついた目でファイをじっと見上げて来た。
黒い、というよりはただ単に不潔さを漂わせる荒れた肌。髭の剃り残しが、まるで汚れのように付着しているように見えた。
咄嗟に身構えてしまったファイだったが、その手にナイフがないことにひとまずほっとする。
とはいえ、もしかしたらコートの中に隠し持っているかもしれない。当然、気を抜くことはできなかった。
男はファイを値踏みするかのようにねっとりと見つめながら、何かブツブツとしきりに呟いていた。この距離であってもよくは聞き取れない。
どう見ても気色が悪く、関わり合いになるべきでないことは明白だった。
とりあえずここは無視して階段を駆け上がろうと身じろいだとき、聞き取れなかった男の声がはっきりと聞こえた。
「いいか……可愛いし……」
男は確かにそう言った。
なんのこと? と思った瞬間、男はしっかりと両手を交差させるようにして合わせていたコートを、勢いよく左右に開いた。
「!?」
一瞬、頭が真っ白になった。
これは何かの見間違いだろうか。
凍りついたファイの視線の先には、どういうわけか本来こういった公共の場で開いていてはいけない窓を全開にして、これ見よがしに己の性器を曝している男がいる。
その無駄に天を仰ぐイチモツを見て、ファイは即座に思った。
どうしろと……?
――と。
半ば呆れた心境で股間から男の顔へ視線を移すと、彼はニヤニヤと笑ってこちらの反応を伺っている。
(うわぁ……こういう変質者ってまだいるんだー)
いきなり女性の前に現れてコートを開き、局部を露出させるという正に王道パターン。
近年の変質者事情というものは知らないが、いっそ悲しいほどベタに思えて、ファイは肩透かしを食らったような気分だった。
ナイフが出てくるよりはずっとマシかもしれないが、ある意味、凶器と言えなくもない。
(キャーとかイヤーって言って逃げ出したら満足なのかな)
それにしたって自分はか弱い女性ではない。
確かに上背だけ高く、必要最低限の筋肉しかついてくれない身体は、あの体育教師に言わせれば『軟弱』そのもので、舐めてかかられても仕方が無いかもしれないが。
もしかしてもしかしなくても、目ぼしい女性が通りかからないものだから、運悪くターゲットにされてしまったのだろうか。
(まぁオレが可愛いのは認めるけどー)
「あのー……風邪引きますよー? 主に局部が」
「!」
凍りついた表情に気をよくしていたはずの男の口元が、ピリリと引き攣る。
今や生温かい笑顔を浮かべるファイに、それでも負けじと屹立した性器を揺らして、一歩前へ踏み出してきた。
こう言ってはなんだが、精一杯の主張をしているらしい性器は、ファイにしてみればお粗末なものでしかなかった。
いっそ哀れにさえ思えてきて、ファイは極力優しい声で言った。
「ごめんね、オレもっと立派なのしょっちゅう見てるんだー。可哀想だから早くしまってもらえるかなぁ」
あははと笑って頭を掻くと、男はみるみるうちに顔を赤くして、額に汗の粒を浮き上がらせた。
そして、鼻息を荒くしつつ、また口の中でブツブツと呟きながら、一目散に階段を駆け下りて行ってしまった。
残されたファイは大きな溜息をついて肩を落とす。やはりとっ捕まえて警察にでも差し出すべきだったか、と思ったがもう遅い。
おそらく元々の体臭と汗と、あと何か嫌な残り香が鼻先を掠めたような気がして、顔を顰める。
なんて無駄な時間を浪費してしまったのだろう。そういったことが相まって、今更のように少し腹が立ってくる。
「もう! バカみたい!」
一刻も早く二階を見回って、一応不審者の報告だけはして宿舎へ帰ろう。
なんとなくまだあの不愉快な視線が体中に纏わりついているように感じられて、背筋を震わせると階段を素早く駆けあがった。
+++
「って、いうことがあってねー、オレすっごい怖かったのー」
自室へ帰宅する、と見せかけて、ファイは真っ先に隣室の黒鋼の元へと駆けこんでいた。
コートも脱がずにほんのりと肌寒い夜気を纏わせて、ベッドの上で胡坐をかいてマガニャンを読んでいる黒鋼に、ぎゅうと抱きつく。
とりあえず一気に捲し立てるように先刻の出来事を話きってしまうと、期待に満ちた瞳で黒鋼を見上げる。
本から目を離さないまま一連の話を聞いていた彼は、そんなあからさまな表情をするファイを鼻で笑った。
「モノ好きもいるもんだ」
「ちょぉー……話聞いてたー? オレすっごい怖くてー、今も震えが止まらないんだけどー! ここは普通、物凄い剣幕で変態への怒りを露わにする場面じゃないー? あるいはさ、何もされてないか確かめるために大人のボディチェックを開始する場面だと思うんだけどー!」
「そんだけアホみてぇに喋ってられんなら平気だろ」
「んもー! 違う! オレが期待してた反応とぜんっぜん違うー!!」
「うるせぇな今いいことだ」
「マンガ優先ー!?」
不愉快極まりない事件ではあったが、これをネタに今夜は思いっきり黒鋼に甘えて慰めてもらう算段をつけていたというのに。
まったくもってアテが外れてしまった。
(もうちょっと脚色すればよかったかなぁ……いっそ襲われて酷いことされちゃったー、とか……?)
だがあのニヤニヤとした顔や、何かを呟き続ける乾いた口元を思い出して、即座にゾッとした。
「おい、どうした」
がっしりとした腕にしがみついたまま、ブルリと大きく震えたファイの少し青くなった顔を、黒鋼が覗きこんでくる。
「んー? 別にー?」
慌てて笑顔を繕う。一瞬でもそんなふざけたことを考えてしまった自分が嫌になった。
冗談じゃない。脚色するにしたって性質が悪すぎる。
だいたいまるで消去法のようにターゲットにされたことも腹立たしいが、あんな形でしか欲求を満たせない人間は、最低で最悪だ。
見るのも嫌なのに、触れられて、ましてや暴行されるなんて、想像するだけで吐き気がする。
「さーて、シャワーでも浴びて来ようかなー」
とりあえず熱い湯でも浴びて、綺麗さっぱり洗い流してしまおう。
大人しくベッドを下りたファイに、黒鋼が鋭い視線で問いかける。
「飯は」
「んーん。いいや」
「……おまえ、一応は聞いといてやるがな」
「ん?」
「それ以上のことは何もなかったんだな?」
「!」
思わずビクンと肩を揺らしながら、ファイは顔が真っ赤になるのを感じた。
一応、というのは不要だが、それこそ一応は、気にしてくれているらしい。
途端に気恥しくなって、ファイは両手の人差し指を胸の前でぐりぐりと擦り合わせた。
「な、ないよぅ。あるわけないじゃん。オレ、黒様以外は絶対やだもん」
「そうか」
無表情のまま、黒鋼は再び手元のマンガ本に視線を落とした。
「とっとと浴びて来い」
まるで興味なさげな台詞に聞こえるけれど、その響きはむしろこの後の展開がさも当然と言っているようで、胸が浮き立つのを感じる。
はぁい、と返事をしてクルリとベッドに背を向けたファイの中から、あの薄ら寒い不快感は消えていた。
+++
勝手に黒鋼の部屋のシャワーを浴びて、勝手に引っ張り出したシャツとジャージの下を身につけて戻れば、彼はキッチンで缶ビールに口をつけているところだった。
サイズが大きく、だぼつく裾を微妙に引きずりながら側まで行くと、黒鋼は片眉をひょいと上げた。
それに少し笑ってから、ファイは冷蔵庫に手を伸ばす。これまた勝手にミネラルウォーターを取りだして、喉を潤すためだった。
だが、ファイの手が冷蔵庫のドアにかかるより先に、その手を掴まれる。
反応する間もなく強く引き寄せられて、あっという間に腰を抱かれた。
「くろさ……っ」
ま、と言い終わらぬうちに顎をすくわれて、上向かされたファイの唇が塞がれる。
心臓が大きく跳ねるのと同時に、口の中に液体が流し込まれた。
「んんっ……!?」
炭酸の微かな刺激と共に、吐き出すことを許さないとでもいうように押し込まれた冷たい舌に、口蓋をぬるりと舐められて肩が大きく震える。
流しこまれたアルコールが喉の奥を通過していくのを感じて、その瞬間、少し咽た。
「ッ、げほっ……、い、いきなり……ッ」
「喉乾いたんだろ?」
「だからって!」
腰を抱かれたまま、顔を真っ赤にしながらがっしりとした肩に幾度か拳を叩きつける。
だからって、風呂上がりにリラックス状態のところをいきなり来られては、心臓に悪い。
黒鋼は人の悪い笑みを浮かべて鼻で笑う。
「つれねぇこと言うなよ」
「絶対わざとでしょ……こんなときばっか!」
いつだってつれないのは黒鋼の方だ。
だからこんな風に不意打ちをしかけられることに、ファイが慣れていないのを知っている。
そして何より、空っぽの胃にアルコールを流し込んでくる辺り、この男は実はとてつもなくいやらしいのかもしれない。むっつりなのだ。
「あー、もう……効いてきた……黒たんせんせぇのバカぁ」
激しい眩暈を感じて、ファイは黒鋼の肩に縋ると首筋に額を擦りつける。
口づけられた瞬間からすでに酔ったように頬が熱くて仕方がないのに、胃が入り込んできたそれを認識した瞬間、焼けるような熱さが広がる。
普段無駄にザルなだけに、こんな酔わされ方は理不尽だと感じた。
せっかくの週末の夜。時間はたっぷりあるのに、今すぐにでも欲しくなる。
ファイは片手を移動させて、黒鋼の顎から頬のラインを撫でると、耳の裏側に音を立てて口づけた。そのまま夢中で耳朶を食み、吸いつく。
「なに一人で盛ってんだよ」
子猫がミルクを舐めるような水音がくすぐったかったのか、黒鋼が微かに笑った。
からかうような意地悪な台詞にさえ鼓膜を犯されているような気がして、腰を支えるだけで動こうとしない男に苛立つ。
「さかってなんか、ないよ……」
「じゃあこの手はなんだ」
ファイの右手は黒鋼のウエスト辺りをゆるゆると移動していた。指先を侵入させて下着の中に潜り込もうとしたところで、手首を掴まれる。
「やだ、邪魔しないで」
嫌々と首を振り、強引に中へと忍ばせた。
指先が触れたそこは熱くて、ほんの僅かだが硬度が増していることに安堵する。
(これだけで……もう大きい……)
太くて長くていやらしいそれが、どんな風にすればもっと大きく育つかは熟知していた。
黒鋼の首筋に舌を這わせながらさらに身体を密着させると、触れているそれの根元に指を絡めた。
「おもちゃじゃねぇぞ」
咎めるような口調に、微かに吐息めいたものが混ざっていた。ゾクゾクする。
「知ってるよ……でもこれ、オレのだもん」
甘えた声を出しながら、ファイは指先の動きを大胆なものにしていく。
半分ほど勃起しかけている性器の亀頭を優しく撫でる。窪みをツンツンと悪戯に刺激すれば、また少し硬くなった。
「ふふ、ね? これ、もっと遊んでいい?」
「おまえのなんだろ」
見上げて問えば、好きにしろと暗に言う彼の瞳に、はっきりと情欲の色が浮かんでいる気がして嬉しくなる。
ゆっくりと腰を落として、床に膝をついた。
その過程で黒鋼のジャージの下を、下着ごと少しだけ下げる。弾力のある性器がバネのようにしなるのを見て、思わずごくりと息を飲み込んだ。
(やっぱ、凄い)
赤黒いそれを、熟れた果実を扱うような優しさで、根元から先端までそっと撫でる。
浮き上がる血管が時々小さく脈打ち、ファイはほぅと甘い息をついて目を潤ませた。
(これならいつも見ていたいのに)
両手を添えて、先端に幾つものキスの雨を降らせると、何の躊躇いもなく亀頭を口に含んだ。
ゆっくりと頭を左右に動かして軽い刺激を与えながら、その頃にはもう完全に勃ちあがっている性器を、徐々に飲み込んでいった。
黒鋼の手がファイの頭に触れる。労わるように撫でられると、くすぐったくて少し身体が跳ねた。
大きく怒張したそれを根元まで納めることは難しく、それでも一度喉の奥まで押し込めてしまうと、息苦しさを緩和したくて鼻から息を吐く。
そして舌を平にし、上手く添えるように絡めてしゃぶった。
空の胃袋に流れ込んだ僅かなアルコールよりも、今ファイを酷く酔わせているのは、口いっぱいに溢れて満ちる雄の香りだった。
(これ、好き……大好き……)
そう、あんな薄汚い、粗末なものではファイは一切反応しない。
決して同性が好きなわけではないのだ。恋をしてしまった相手が、たまたま男性だったというだけで。
「いつになくがっついてんな、おまえ」
「うん、ん、んっ」
ほんのりと水気を含む髪を幾度も梳かすように撫でられる。太い指先が頭皮を滑る感覚にさえ、身体が痺れた。
がっつきたくもなる。当たり前だと、ファイは思った。
あの変質者と遭遇したとき、もちろん多少の恐怖はあった。
だがそれ以上に、ファイの中の真っ黒な部分が、優越感を覚えていたことも確かだった。
我ながらバカバカしいとは思うけれど。
夢中でしゃぶり、扱き続けていると、黒鋼の手がファイの髪を掴んだ。口の中では、膨らみ切ったものが破裂しそうになっている。
このまま、全て飲み込んでしまいたい。先走りと唾液が顎を伝う。それでも構わずいっそう強く舌を絡め、激しく水音を立てながら顔を動かして射精を促した。
「ッ……!」
低い呻きと共に、黒鋼の腰が一度大きく揺らいだ。
どっぷりと溢れ出る精液を次々と飲み込んで、口を離してもなお手で扱き続ける。最後の一滴まで腹に納めないと気が済まず、緩く出続けるそれを舐め取った。
「おいこら、離せ」
放っておけば再びぱくりと咥え込もうとするファイを、僅かに乱れた呼吸で黒鋼の声が制した。
前髪を掴まれて遠ざけられると、思わずむっとして上目づかいに睨みつける。
「オレのって言ったー!」
「わかったからそんな顔すんな」
呆れた様子で言いながら、ジャージの袖で口元をぐいぐいと拭かれて、さらにムッとする。まだちっとも足りない。
今日はとことん可愛がってあげたい気分だったのに。
一度出しきったにも関わらず萎える様子のない性器を、唇を尖らせながら名残惜しげに撫で続けるファイの額が、黒鋼の指先にコツンと弾かれた。
「あーん」
「おまえまさか、例の変質者のブツを見て、実は興奮したんじゃねぇだろうな」
むっつりとした顔には、明らかにがっついているファイを咎める色が浮かんでいる。
思わず小さく噴き出した。
「そりゃあそうだよ。これの半分もない可哀想なの見たらさ」
懲りずに手を伸ばし、先端にキスをしながらにんまりと笑う。
「あれじゃ満足できないだろうなって、ね」
「アホ」
「だーってー! こっちの方がよっぽど衝撃的だと思わない? 見て、これ、うわー、立派だなぁ」
「もう黙れ」
「わっ」
二の腕を掴まれ、引っ張り上げられるようにして首根っこまで掴まれた。
「だったら満足させてやる」
続きはベッドの上で、ということらしい。
低い呟きに、もはや腰が砕けそうなファイは赤い顔で、期待に全身を粟立たせた。
+++
「ぅ、あ……ッ! あぁ……っ、ぅ、ん……ッ!」
人肌に蕩け切ったローションが、ファイの高く掲げた尻の谷間を伝って、内腿を滑り落ちていく。
ぐちぐちと狭い穴を2本の指で解されながら、まるで粗相をしているような感覚と必死で戦う。
ミント系のローションの爽やかな香りの中に、汗や体液のそれが混じる。
清涼感溢れるものとは対照的だからこそ、妙に興奮して、ファイは元は美しく整えられていたはずのシーツを両手で掻きむしった。
「い、あっ、ぁ、だ、め、もう、だめ……ッ、それ、やだ……っ!」
嫌々と首を振り、シーツに額を擦りつけながら涙を流す。
互いに生まれたままの姿になって始まった行為は、前戯もおざなりに性急に求めたのは自分の方だけれど、結局ここで時間をかけられては、生殺しも同然だった。
「やだ、じゃねぇだろ。欲しいならちったぁ我慢しろ」
「し、た……! もう、いっぱい、我慢したから……っ、ねぇ……ッ」
すっぽりと咥え込んでいる長く太い指が、ぐるりと内壁を擦りあげる。もうそれだけで堪らず腰を捩った。
まだ一度も達していない性器は赤く膨れ上がり、先走りがシーツにだらしなく零れ続けている。
熱く太いものに穿たれる快感をすでに知り尽くしている身体では、この程度では到底足りなかった。十分すぎるほど濡れて、解れていることを知っているくせに、黒鋼はまだファイの欲しいものを与えようとはしない。
「足りねぇなら増やすか? 指」
そんなことをわざと聞いてくるから、思わずカッとなった。
「バカ! 嫌い……!」
本当は大好きだけど。
無理に首を捻って潤んだ瞳で睨みつけても、そんな言葉の裏などお見通しの黒鋼は、意地悪そうに口元を歪めているだけだった。
(自分だって今すぐ入れたいくせに……っ)
いつもはつれないくせに、羽目を外せばすぐに拳で物を言うくせに、こんなときばかりとことん意地悪で、いやらしい。
けれどそれもまた、ファイの中にある自虐心を揺さぶる。苛められているのだと思えば思うほど、もっともっとと貪欲に熱を上げる。
だがそんな心とは裏腹に堪え性のない身体は、これ以上は待てないと呆気なく男の術中にはまっていく。
黒鋼はただ、そうやって落ちていくファイを見て笑っていた。
本当は自分の泣き濡れた喘ぎ声は好きじゃない。それがどんな風に相手の耳に届いているのか、想像も出来ない。
(でも……でももう……!)
「はっ、は、ぁ……! おね、がい……ッ」
嫌いと言ったその口で、ファイは腰を揺らしながら懇願する。
体重を支える肩が痛むのも構わずに、両手を後方へ伸ばして突きだした尻の肉を、自ら割り開いた。
「指じゃないの、入れて……ッ! 黒たんのおっきいの、ここに入れてよぉ……!」
黒鋼が、ふっと息を吐いた。
「見せつけてくれるじゃねぇか。随分と」
「は、はや、く! ね、おねが……ア……ッ!」
自らの尻に伸ばしているそれぞれの手首を掴まれた。折りたたむようにして背中で一纏めに掴まれて、そこに黒鋼の体重がかかる。
肩や胸がシーツに強く押し付けられ、ファイはその苦しさにぎゅっと目を閉じた。必死に立てている膝に力を込めれば、さらに高く尻を突き出す形になって、募る羞恥に涙が溢れる。
黒鋼は、ファイの内腿を濡らすローションをもう片方の手で撫で上げるようにして掬うと、自身の屹立した性器にまぶす様に塗りつけた。
そしてぐずぐずに溶け切って赤く染まっている中心の穴に、ぐっと押しつける。
「んんんっ……!」
全身に戦慄が走る。どんなに慣らされ、濡らされても、穿たれる瞬間の本能的な恐怖は消えない。
その分すぐに快感が上塗りされることを知っているだけに、期待もまた膨らんだ。
入って来る。肉を抉るように掻きわけて、あの恐ろしく大きなものが、中へ。
「ひっ、ん、くっ、ぁ……ッ、あ、すご、い、ぃ……ッ、ゆっく、り……っ」
「ッ、わかってる」
襞をギリギリまで伸ばされる感覚。スブスブと音を立てて、どこまでも潜り込んでくるそれに、頭の天辺まで貫かれるのではないかと思う。
ゆっくりと、時間をかけて。
奥まで、来た。そう思った。だがいつだってその考えの甘さに泣かされる。
「ヒ、ぃッ……!?」
「まだだ。知ってるだろ?」
喉を必死で反らし、瞳を見開くファイの腰が片腕に強く抱きこまれた。
拘束された腕と腰では、逃げることさえ叶わないのに、無意識に立てた膝を引きずる。それはただベッドを重く軋ませ、シーツの皺を深いものにするだけで終わった。
「うあぁ……ッ! 深いっ、駄目っ、ふかすぎる……!」
「おら、あと少しふんばれ……ッ」
「――ッ!!」
ズン、という音が聞こえた気がした。腹の中を突き破られたのではないかとさえ思う。
自分でも知らないような身体の奥深くに、黒鋼の先端が触れている。
苦しさはあるが痛みはない。文字通り、隅々まで犯されてしまったような、そんな気分だった。
口だけでは根元まで飲み込み切れなかったものを、それよりもっと狭い穴が全て飲み込んでいる。
はぁ、と、黒鋼が吐き出した熱い息が背中にかかった。
挿入だけで汗だくのファイは小刻みに震えて、はかはかと浅く呼吸を繰り返す。
「よくまぁ入るもんだ。こんなちっこいケツに」
「ひ、ぁ、まっ、て……まだ、うごかな……っ」
「俺にしてみりゃ、こっちの方が衝撃的だぜ」
「ああぁっ、んぅ……!」
ひとつ腰をズンと突き動かされ、本当に突き破る気かと思う。
だが、それでもよかった。
ファイの甘ったるい声に拒絶の色がないことを確かめて、黒鋼は徐々に動きを開始した。
どろどろの粘液が纏わりつく肉の棒が、限界まで広がった内壁をきつく擦りあげる。
突かれる度にガクガクと震える身体の中心で、張りつめた性器が同時に揺れていた。パタパタと先走りが零れ落ちる水音がやけに大きく響く。
「あぅっ、アッ、あッ! いっくっ、もう、いっちゃう……ッ!!」
先刻から目を開けていてさえバチバチと飛び散る火花が見えていた。
そういえばまだ一度も達していないのだ。いっそ挿入途中に果てなかったことは奇跡に等しい。
だがもう限界だった。ただでさえ大きな彼のものは、中で一々『いい場所』に当たる。
ファイの身体の痙攣が激しいものになったことに気がついた黒鋼の手が、中心に触れた。
「ああぁだめっ! い、く、ぅ……!!」
「駄目だ。まだ早ぇ」
「――ッ!?」
一瞬、背筋が凍るような感覚を味わった。それはすぐに爆発しそうなほどの残酷な熱として、体内に籠る。
黒鋼の指が、絶頂を迎える瞬間だったファイの性器の根元を押さえつけていた。湧きあがって来るのは大きな絶望だった。
(殺される……死んじゃう……死んじゃう……)
大粒の涙がとめどなく零れ、ファイは後ろ手に拘束されている手を必死で振り解こうと身を捩る。
「やだぁ……っ! いくっ、いくのっ、いかせてぇ……!!」
だが纏めて背中に縫いつけられている両腕が軋むように痛むだけで、前の戒めは外れない。
容赦なく再開された抽挿の激しさに、ファイはいっそ死んだ方がマシだと思った。
絶頂に最も近い場所まで中途半端に上り詰めた感覚が、その場から上がることも下がることも出来ないまま焼かれ続ける。堪え性のない身体にはあまりにも負荷が大きく、強すぎる快感はむしろ拷問に等しかった。
頬をシーツに押し付けて、ファイは虚ろに開かれた瞳から涙を零し続けた。揺さぶられる度に舌を噛みそうになる。
「ぶっ壊れちまったか? あ? 答えろよ」
「ふぇ、ぁっ、こわ、れ……ッ、へ、ぁ……っ、ぁ……ッ」
「来い」
「ッ!?」
拘束された両腕をぐいと引かれる。
ずっとシーツに突っ伏したままだった視界が開けた。
そのまま胡坐をかいた黒鋼の足の中心に尻を収め、ぴったりと背中を包みこまれる体勢になる。
「ぅあっ……!!」
それによって自分の体重が全て一点に集中することになった。
片足を腹につくほど折りたたまれて、動けないように膝裏をぐっと掴まれることで、それは一層増した。
性器への戒めはそのままに、ファイが新たな体位に慣れるのも待たず、黒鋼が腰を揺さぶった。
「ああぁ待って……っ、まっ、ぁひ、う、あぁッ!」
「まだまだ満足できねぇだろ? なぁ?」
その言葉を受けて、ファイは必死で首を左右に振った。
パタパタと頬に当たる金糸の感覚がくすぐったかったのか、黒鋼は耳元で小さく笑ったかと思うと、先刻のお返しとばかりにファイの耳朶に吸いつく。
性的な水音が鼓膜を震わせ、堪らず喉を反らして甲高い悲鳴を上げる。
中を掻きまわす肉棒が最も弱い個所を執拗に擦るから、ファイは自由になった手で性器を拘束する黒鋼の手首を強く掴んだ。
「これ離して……っ! もう無理、したから、満足したからぁ……!」
「見え透いた嘘つくんじゃねぇよ」
黒鋼がファイの身体を揺さぶる度に、ベッドが軋んで悲鳴を上げた。
密着する結合部がぐじゅぐじゅと音を立てて、彼の弾む息が肌にかかる。全身に駆け抜ける電流に、肌が鳥肌を立てる。そして。
(ぁ……)
ぶっつりと、何かが焼き切れる音が脳内に響いた気がした。
――壊れた。
内腿の痙攣が止まらない。
抱え上げられた片足の先が、攣りそうなほどぐんと伸びる。
閉じることを忘れた唇から、だらしなく唾液が零れて胸に伝った。
そうだ、まだ満足なんて出来ない。
もっともっと苛めて、焦らして、そこにある一番大きな快楽へ導いてほしい。
「っ、……、てめぇ、まだ締めつけるってのか」
黒鋼の声音から余裕が消えた。ファイは締まりのない口元に笑みを浮かべる。
「あはっ、あぁッ、もっと、もっといじめてっ、おしり、もっとしてぇ……!!」
それに応えるかのように、中で大きなものがさらに膨らんだ。激しく脈打っている。愛しい。嬉しい。全部、自分だけのものだ。
かろうじて地についている方の足で身体を支えながら、彼の動きに合わせて腰を振った。
黒鋼の手が戒めていた性器を痛いくらに擦りあげる。
「壊して……っ、こわして……ッ、いやっ、あぁっ、きもちいぃ……!」
いざとなると終わるのが微かに切ない。だが、終わらなければ先が続けられない。
「いけよ。おら、いっちまえ……ッ」
もっともっと、何度でも壊れたいから。
ファイはその拷問のような快楽を、促されるまま甘んじて受け入れる。
「ひぐっ、あっ、アッ、あぁ――ッッ!!」
我ながら、酷い声。
痛み切った喉から、よくぞこんな絶叫が飛び出すものだと、全身を引き攣らせて射精しながら、ファイは脳裏の奥底で思った。
耳元に押し付けられた黒鋼の唇から、低い呻きが吐き出される。彼の身体も大きく強張り、奥に熱いものが注がれるのを感じて戦慄いた。
止まらない。震えも、快感も、新しく生まれる欲求も。
かろうじて意識を飛ばすことなく吐精を終えたファイは、ぐったりと黒鋼の胸に背を預けて、その頬に涙に濡れた頬を擦りつけた。
射精した後は、甘えたくて仕方が無い。心地いい脱力感と、ドカドカと胸の内側から叩く心臓の音と、そして継続する断続的な痙攣を、優しく慰めてほしかった。
ファイの片足を解放した黒鋼が、両腕でぎゅうと抱きしめてくる。
その腕に両手を這わせ、さらに頬ずりをすれば唇に同じ温もりが触れた。
「ぁ、ん……は、ふ……ッ」
緩く舌を絡め合って、唾液の交換をし終えると、糸を引きながらそれは離れた。
それからしばし、うっとりと見つめ合う。
「ねぇ、このまま……」
「ん」
抜かないで、今度は前からしてと、言わずとも相手には伝わっていた。
今度は優しく、労わるように、黒鋼はゆっくりとファイの身体を返してシーツへ押し倒す。
「何べんやったら満足するんだ、おまえは」
「黒様先生こそ……あのねー、オレこれでもまだ一回しかイッてないんだからね」
中に挿れたままのものをきゅっと締めつけて、ファイはその首に両腕を回した。
驚いたことに、すでに十分な硬さを取り戻しつつあるそれに、もしかしたらこの身には少々余る代物かもしれない、なんて弱気なことを思った。
(だからって絶対に誰にもあげないけど)
「こら、なに力んでんだ」
「あ、ごめん」
「……」
掠れた声で「えへへ」と照れ笑いをするファイの顔を至近距離で見つめて、黒鋼はほんの僅かに眉間の皺を深くする。
「おまえ、まだ比べてんじゃねぇだろうな」
「ん? なにを?」
「忘れてんならいい」
「うん。ねぇ早く」
ふん、と鼻から小さく息を吐いた黒鋼の頭をぎゅっと抱いて、逞しい腰に両足を絡める。
何を言われたのかなんて本当は分かっていたけれど、いざ身体をぶつけてみれば、それがちゃんちゃら可笑しいことであることに気がついた。
(比べようないよねー。ほんとバカ)
オレも、あの変質者さんも。ね。
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繁華街の一角にあるゲームセンターは人もまばらで、閑散としていた。
(あんま人いないなぁ……雨だからかな?)
白衣の代わりに黒のトレンチコートを纏ったファイは、肌寒さからポケットに両手を突っ込むと肩をすくめる。
キョロキョロと辺りを見回しつつ店内を歩くと、レースゲームに夢中になる若いサラリーマン風の男や、UFOキャッチャーではしゃいでいるカップルがちらほらと見てとれるが、他に客の姿は見えなかった。
ゲーム機が奏でるBGMや効果音だけがやたらと騒々しい中、一見賑やかに見えて閑散としている店内は、妙に虚しさをそそる。
見知った顔もなければ、ましてや彼らの中に教え子たちの姿はない。ファイは少しほっとして息をついた。
(仕事じゃなければ遊んで帰ってもいいんだけどなー。あ、あのぬいぐるみ可愛い……)
ついつい景品に目が行きそうになりつつ、自分の立場と出がけに体育教師から言われた言葉を思い出して、我慢する。
(早く帰って来いって言われてるんだった)
可愛いぬいぐるみよりも、厳つい恋人の方が優先なのは当り前のことだった。
ここは確か二階も同様にゲームセンターになっているはずだ。そこさえ覗けばあとは帰れる。
組んでいたはずの補導員とはなぜかはぐれてしまったが、どうせこの近辺にしかいないのだし、念のためにと交換し合った携帯番号にかければ連絡もすぐつくだろう。
とっとと終わらせるかと、ファイは幾つも並ぶプリクラの機械の裏側にある通路へと足を向けた。
そもそもなぜファイがこんな場所へ、わざわざ出向いているかというと。
この学園都市内にある繁華街で夜、大学の院生数人が酒を飲んで口論となり、騒ぎを起こしたという話が職員会議で持ち出された。
現場に居合わせた人間から、高等部の生徒と思しき者も複数見かけた、という証言があったものの、特定は難しく、ホームルームでの厳重注意を徹底すること、夜は補導員と共に、当面は繁華街の見回りを行うということになった。
せっかくの週末ではあるが、割り当てられたものは仕方が無いと腹を括って来てみたものの、何事もなく終われそうで安堵する。
だが薄暗い階段通路へ足を踏み入れ、二階へ上がろうと一段目に足をかけたとき、前方の踊り場に何者かがいることに気がついた。
2Fという表示の下、壁と向き合って男が立っている。ベージュのよれたコートを着たその男はファイの存在に気が付き、ふと首だけ振り返ったが、すぐにまた壁を向いた。
(……なにしてんだろ。壁がお友達? 怪しいなぁ)
薄明かりの下、このような人気のない場所で、しかも壁と仲良しなんて、はっきり言って気味が悪い。
いきなりナイフでも取り出してこられたらどうしようか、なんて物騒な想像が頭の中にぽっかりと浮かぶ。
少々肉付きのいい後ろ姿は丸まっていて、こころなしかもぞもぞと揺れている気がした。
明らかに不審者丸出し。念のため通報するべき物件かもしれないが……。
(春先は変なのがわくんだよねぇ……)
嫌な予感をひしひしと感じつつ階段を上り、狭い踊り場まで到着した、そのときだった。
男が今度は身体ごと、急に振り返った。
「!」
うっかりビクンと肩を震わせ、足を止めてしまったのが不味かったのかもしれない。
ファイよりも幾分か背の低い小太りな男は、コートの前を両手で厳重に抑えて、どこかギラついた目でファイをじっと見上げて来た。
黒い、というよりはただ単に不潔さを漂わせる荒れた肌。髭の剃り残しが、まるで汚れのように付着しているように見えた。
咄嗟に身構えてしまったファイだったが、その手にナイフがないことにひとまずほっとする。
とはいえ、もしかしたらコートの中に隠し持っているかもしれない。当然、気を抜くことはできなかった。
男はファイを値踏みするかのようにねっとりと見つめながら、何かブツブツとしきりに呟いていた。この距離であってもよくは聞き取れない。
どう見ても気色が悪く、関わり合いになるべきでないことは明白だった。
とりあえずここは無視して階段を駆け上がろうと身じろいだとき、聞き取れなかった男の声がはっきりと聞こえた。
「いいか……可愛いし……」
男は確かにそう言った。
なんのこと? と思った瞬間、男はしっかりと両手を交差させるようにして合わせていたコートを、勢いよく左右に開いた。
「!?」
一瞬、頭が真っ白になった。
これは何かの見間違いだろうか。
凍りついたファイの視線の先には、どういうわけか本来こういった公共の場で開いていてはいけない窓を全開にして、これ見よがしに己の性器を曝している男がいる。
その無駄に天を仰ぐイチモツを見て、ファイは即座に思った。
どうしろと……?
――と。
半ば呆れた心境で股間から男の顔へ視線を移すと、彼はニヤニヤと笑ってこちらの反応を伺っている。
(うわぁ……こういう変質者ってまだいるんだー)
いきなり女性の前に現れてコートを開き、局部を露出させるという正に王道パターン。
近年の変質者事情というものは知らないが、いっそ悲しいほどベタに思えて、ファイは肩透かしを食らったような気分だった。
ナイフが出てくるよりはずっとマシかもしれないが、ある意味、凶器と言えなくもない。
(キャーとかイヤーって言って逃げ出したら満足なのかな)
それにしたって自分はか弱い女性ではない。
確かに上背だけ高く、必要最低限の筋肉しかついてくれない身体は、あの体育教師に言わせれば『軟弱』そのもので、舐めてかかられても仕方が無いかもしれないが。
もしかしてもしかしなくても、目ぼしい女性が通りかからないものだから、運悪くターゲットにされてしまったのだろうか。
(まぁオレが可愛いのは認めるけどー)
「あのー……風邪引きますよー? 主に局部が」
「!」
凍りついた表情に気をよくしていたはずの男の口元が、ピリリと引き攣る。
今や生温かい笑顔を浮かべるファイに、それでも負けじと屹立した性器を揺らして、一歩前へ踏み出してきた。
こう言ってはなんだが、精一杯の主張をしているらしい性器は、ファイにしてみればお粗末なものでしかなかった。
いっそ哀れにさえ思えてきて、ファイは極力優しい声で言った。
「ごめんね、オレもっと立派なのしょっちゅう見てるんだー。可哀想だから早くしまってもらえるかなぁ」
あははと笑って頭を掻くと、男はみるみるうちに顔を赤くして、額に汗の粒を浮き上がらせた。
そして、鼻息を荒くしつつ、また口の中でブツブツと呟きながら、一目散に階段を駆け下りて行ってしまった。
残されたファイは大きな溜息をついて肩を落とす。やはりとっ捕まえて警察にでも差し出すべきだったか、と思ったがもう遅い。
おそらく元々の体臭と汗と、あと何か嫌な残り香が鼻先を掠めたような気がして、顔を顰める。
なんて無駄な時間を浪費してしまったのだろう。そういったことが相まって、今更のように少し腹が立ってくる。
「もう! バカみたい!」
一刻も早く二階を見回って、一応不審者の報告だけはして宿舎へ帰ろう。
なんとなくまだあの不愉快な視線が体中に纏わりついているように感じられて、背筋を震わせると階段を素早く駆けあがった。
+++
「って、いうことがあってねー、オレすっごい怖かったのー」
自室へ帰宅する、と見せかけて、ファイは真っ先に隣室の黒鋼の元へと駆けこんでいた。
コートも脱がずにほんのりと肌寒い夜気を纏わせて、ベッドの上で胡坐をかいてマガニャンを読んでいる黒鋼に、ぎゅうと抱きつく。
とりあえず一気に捲し立てるように先刻の出来事を話きってしまうと、期待に満ちた瞳で黒鋼を見上げる。
本から目を離さないまま一連の話を聞いていた彼は、そんなあからさまな表情をするファイを鼻で笑った。
「モノ好きもいるもんだ」
「ちょぉー……話聞いてたー? オレすっごい怖くてー、今も震えが止まらないんだけどー! ここは普通、物凄い剣幕で変態への怒りを露わにする場面じゃないー? あるいはさ、何もされてないか確かめるために大人のボディチェックを開始する場面だと思うんだけどー!」
「そんだけアホみてぇに喋ってられんなら平気だろ」
「んもー! 違う! オレが期待してた反応とぜんっぜん違うー!!」
「うるせぇな今いいことだ」
「マンガ優先ー!?」
不愉快極まりない事件ではあったが、これをネタに今夜は思いっきり黒鋼に甘えて慰めてもらう算段をつけていたというのに。
まったくもってアテが外れてしまった。
(もうちょっと脚色すればよかったかなぁ……いっそ襲われて酷いことされちゃったー、とか……?)
だがあのニヤニヤとした顔や、何かを呟き続ける乾いた口元を思い出して、即座にゾッとした。
「おい、どうした」
がっしりとした腕にしがみついたまま、ブルリと大きく震えたファイの少し青くなった顔を、黒鋼が覗きこんでくる。
「んー? 別にー?」
慌てて笑顔を繕う。一瞬でもそんなふざけたことを考えてしまった自分が嫌になった。
冗談じゃない。脚色するにしたって性質が悪すぎる。
だいたいまるで消去法のようにターゲットにされたことも腹立たしいが、あんな形でしか欲求を満たせない人間は、最低で最悪だ。
見るのも嫌なのに、触れられて、ましてや暴行されるなんて、想像するだけで吐き気がする。
「さーて、シャワーでも浴びて来ようかなー」
とりあえず熱い湯でも浴びて、綺麗さっぱり洗い流してしまおう。
大人しくベッドを下りたファイに、黒鋼が鋭い視線で問いかける。
「飯は」
「んーん。いいや」
「……おまえ、一応は聞いといてやるがな」
「ん?」
「それ以上のことは何もなかったんだな?」
「!」
思わずビクンと肩を揺らしながら、ファイは顔が真っ赤になるのを感じた。
一応、というのは不要だが、それこそ一応は、気にしてくれているらしい。
途端に気恥しくなって、ファイは両手の人差し指を胸の前でぐりぐりと擦り合わせた。
「な、ないよぅ。あるわけないじゃん。オレ、黒様以外は絶対やだもん」
「そうか」
無表情のまま、黒鋼は再び手元のマンガ本に視線を落とした。
「とっとと浴びて来い」
まるで興味なさげな台詞に聞こえるけれど、その響きはむしろこの後の展開がさも当然と言っているようで、胸が浮き立つのを感じる。
はぁい、と返事をしてクルリとベッドに背を向けたファイの中から、あの薄ら寒い不快感は消えていた。
+++
勝手に黒鋼の部屋のシャワーを浴びて、勝手に引っ張り出したシャツとジャージの下を身につけて戻れば、彼はキッチンで缶ビールに口をつけているところだった。
サイズが大きく、だぼつく裾を微妙に引きずりながら側まで行くと、黒鋼は片眉をひょいと上げた。
それに少し笑ってから、ファイは冷蔵庫に手を伸ばす。これまた勝手にミネラルウォーターを取りだして、喉を潤すためだった。
だが、ファイの手が冷蔵庫のドアにかかるより先に、その手を掴まれる。
反応する間もなく強く引き寄せられて、あっという間に腰を抱かれた。
「くろさ……っ」
ま、と言い終わらぬうちに顎をすくわれて、上向かされたファイの唇が塞がれる。
心臓が大きく跳ねるのと同時に、口の中に液体が流し込まれた。
「んんっ……!?」
炭酸の微かな刺激と共に、吐き出すことを許さないとでもいうように押し込まれた冷たい舌に、口蓋をぬるりと舐められて肩が大きく震える。
流しこまれたアルコールが喉の奥を通過していくのを感じて、その瞬間、少し咽た。
「ッ、げほっ……、い、いきなり……ッ」
「喉乾いたんだろ?」
「だからって!」
腰を抱かれたまま、顔を真っ赤にしながらがっしりとした肩に幾度か拳を叩きつける。
だからって、風呂上がりにリラックス状態のところをいきなり来られては、心臓に悪い。
黒鋼は人の悪い笑みを浮かべて鼻で笑う。
「つれねぇこと言うなよ」
「絶対わざとでしょ……こんなときばっか!」
いつだってつれないのは黒鋼の方だ。
だからこんな風に不意打ちをしかけられることに、ファイが慣れていないのを知っている。
そして何より、空っぽの胃にアルコールを流し込んでくる辺り、この男は実はとてつもなくいやらしいのかもしれない。むっつりなのだ。
「あー、もう……効いてきた……黒たんせんせぇのバカぁ」
激しい眩暈を感じて、ファイは黒鋼の肩に縋ると首筋に額を擦りつける。
口づけられた瞬間からすでに酔ったように頬が熱くて仕方がないのに、胃が入り込んできたそれを認識した瞬間、焼けるような熱さが広がる。
普段無駄にザルなだけに、こんな酔わされ方は理不尽だと感じた。
せっかくの週末の夜。時間はたっぷりあるのに、今すぐにでも欲しくなる。
ファイは片手を移動させて、黒鋼の顎から頬のラインを撫でると、耳の裏側に音を立てて口づけた。そのまま夢中で耳朶を食み、吸いつく。
「なに一人で盛ってんだよ」
子猫がミルクを舐めるような水音がくすぐったかったのか、黒鋼が微かに笑った。
からかうような意地悪な台詞にさえ鼓膜を犯されているような気がして、腰を支えるだけで動こうとしない男に苛立つ。
「さかってなんか、ないよ……」
「じゃあこの手はなんだ」
ファイの右手は黒鋼のウエスト辺りをゆるゆると移動していた。指先を侵入させて下着の中に潜り込もうとしたところで、手首を掴まれる。
「やだ、邪魔しないで」
嫌々と首を振り、強引に中へと忍ばせた。
指先が触れたそこは熱くて、ほんの僅かだが硬度が増していることに安堵する。
(これだけで……もう大きい……)
太くて長くていやらしいそれが、どんな風にすればもっと大きく育つかは熟知していた。
黒鋼の首筋に舌を這わせながらさらに身体を密着させると、触れているそれの根元に指を絡めた。
「おもちゃじゃねぇぞ」
咎めるような口調に、微かに吐息めいたものが混ざっていた。ゾクゾクする。
「知ってるよ……でもこれ、オレのだもん」
甘えた声を出しながら、ファイは指先の動きを大胆なものにしていく。
半分ほど勃起しかけている性器の亀頭を優しく撫でる。窪みをツンツンと悪戯に刺激すれば、また少し硬くなった。
「ふふ、ね? これ、もっと遊んでいい?」
「おまえのなんだろ」
見上げて問えば、好きにしろと暗に言う彼の瞳に、はっきりと情欲の色が浮かんでいる気がして嬉しくなる。
ゆっくりと腰を落として、床に膝をついた。
その過程で黒鋼のジャージの下を、下着ごと少しだけ下げる。弾力のある性器がバネのようにしなるのを見て、思わずごくりと息を飲み込んだ。
(やっぱ、凄い)
赤黒いそれを、熟れた果実を扱うような優しさで、根元から先端までそっと撫でる。
浮き上がる血管が時々小さく脈打ち、ファイはほぅと甘い息をついて目を潤ませた。
(これならいつも見ていたいのに)
両手を添えて、先端に幾つものキスの雨を降らせると、何の躊躇いもなく亀頭を口に含んだ。
ゆっくりと頭を左右に動かして軽い刺激を与えながら、その頃にはもう完全に勃ちあがっている性器を、徐々に飲み込んでいった。
黒鋼の手がファイの頭に触れる。労わるように撫でられると、くすぐったくて少し身体が跳ねた。
大きく怒張したそれを根元まで納めることは難しく、それでも一度喉の奥まで押し込めてしまうと、息苦しさを緩和したくて鼻から息を吐く。
そして舌を平にし、上手く添えるように絡めてしゃぶった。
空の胃袋に流れ込んだ僅かなアルコールよりも、今ファイを酷く酔わせているのは、口いっぱいに溢れて満ちる雄の香りだった。
(これ、好き……大好き……)
そう、あんな薄汚い、粗末なものではファイは一切反応しない。
決して同性が好きなわけではないのだ。恋をしてしまった相手が、たまたま男性だったというだけで。
「いつになくがっついてんな、おまえ」
「うん、ん、んっ」
ほんのりと水気を含む髪を幾度も梳かすように撫でられる。太い指先が頭皮を滑る感覚にさえ、身体が痺れた。
がっつきたくもなる。当たり前だと、ファイは思った。
あの変質者と遭遇したとき、もちろん多少の恐怖はあった。
だがそれ以上に、ファイの中の真っ黒な部分が、優越感を覚えていたことも確かだった。
我ながらバカバカしいとは思うけれど。
夢中でしゃぶり、扱き続けていると、黒鋼の手がファイの髪を掴んだ。口の中では、膨らみ切ったものが破裂しそうになっている。
このまま、全て飲み込んでしまいたい。先走りと唾液が顎を伝う。それでも構わずいっそう強く舌を絡め、激しく水音を立てながら顔を動かして射精を促した。
「ッ……!」
低い呻きと共に、黒鋼の腰が一度大きく揺らいだ。
どっぷりと溢れ出る精液を次々と飲み込んで、口を離してもなお手で扱き続ける。最後の一滴まで腹に納めないと気が済まず、緩く出続けるそれを舐め取った。
「おいこら、離せ」
放っておけば再びぱくりと咥え込もうとするファイを、僅かに乱れた呼吸で黒鋼の声が制した。
前髪を掴まれて遠ざけられると、思わずむっとして上目づかいに睨みつける。
「オレのって言ったー!」
「わかったからそんな顔すんな」
呆れた様子で言いながら、ジャージの袖で口元をぐいぐいと拭かれて、さらにムッとする。まだちっとも足りない。
今日はとことん可愛がってあげたい気分だったのに。
一度出しきったにも関わらず萎える様子のない性器を、唇を尖らせながら名残惜しげに撫で続けるファイの額が、黒鋼の指先にコツンと弾かれた。
「あーん」
「おまえまさか、例の変質者のブツを見て、実は興奮したんじゃねぇだろうな」
むっつりとした顔には、明らかにがっついているファイを咎める色が浮かんでいる。
思わず小さく噴き出した。
「そりゃあそうだよ。これの半分もない可哀想なの見たらさ」
懲りずに手を伸ばし、先端にキスをしながらにんまりと笑う。
「あれじゃ満足できないだろうなって、ね」
「アホ」
「だーってー! こっちの方がよっぽど衝撃的だと思わない? 見て、これ、うわー、立派だなぁ」
「もう黙れ」
「わっ」
二の腕を掴まれ、引っ張り上げられるようにして首根っこまで掴まれた。
「だったら満足させてやる」
続きはベッドの上で、ということらしい。
低い呟きに、もはや腰が砕けそうなファイは赤い顔で、期待に全身を粟立たせた。
+++
「ぅ、あ……ッ! あぁ……っ、ぅ、ん……ッ!」
人肌に蕩け切ったローションが、ファイの高く掲げた尻の谷間を伝って、内腿を滑り落ちていく。
ぐちぐちと狭い穴を2本の指で解されながら、まるで粗相をしているような感覚と必死で戦う。
ミント系のローションの爽やかな香りの中に、汗や体液のそれが混じる。
清涼感溢れるものとは対照的だからこそ、妙に興奮して、ファイは元は美しく整えられていたはずのシーツを両手で掻きむしった。
「い、あっ、ぁ、だ、め、もう、だめ……ッ、それ、やだ……っ!」
嫌々と首を振り、シーツに額を擦りつけながら涙を流す。
互いに生まれたままの姿になって始まった行為は、前戯もおざなりに性急に求めたのは自分の方だけれど、結局ここで時間をかけられては、生殺しも同然だった。
「やだ、じゃねぇだろ。欲しいならちったぁ我慢しろ」
「し、た……! もう、いっぱい、我慢したから……っ、ねぇ……ッ」
すっぽりと咥え込んでいる長く太い指が、ぐるりと内壁を擦りあげる。もうそれだけで堪らず腰を捩った。
まだ一度も達していない性器は赤く膨れ上がり、先走りがシーツにだらしなく零れ続けている。
熱く太いものに穿たれる快感をすでに知り尽くしている身体では、この程度では到底足りなかった。十分すぎるほど濡れて、解れていることを知っているくせに、黒鋼はまだファイの欲しいものを与えようとはしない。
「足りねぇなら増やすか? 指」
そんなことをわざと聞いてくるから、思わずカッとなった。
「バカ! 嫌い……!」
本当は大好きだけど。
無理に首を捻って潤んだ瞳で睨みつけても、そんな言葉の裏などお見通しの黒鋼は、意地悪そうに口元を歪めているだけだった。
(自分だって今すぐ入れたいくせに……っ)
いつもはつれないくせに、羽目を外せばすぐに拳で物を言うくせに、こんなときばかりとことん意地悪で、いやらしい。
けれどそれもまた、ファイの中にある自虐心を揺さぶる。苛められているのだと思えば思うほど、もっともっとと貪欲に熱を上げる。
だがそんな心とは裏腹に堪え性のない身体は、これ以上は待てないと呆気なく男の術中にはまっていく。
黒鋼はただ、そうやって落ちていくファイを見て笑っていた。
本当は自分の泣き濡れた喘ぎ声は好きじゃない。それがどんな風に相手の耳に届いているのか、想像も出来ない。
(でも……でももう……!)
「はっ、は、ぁ……! おね、がい……ッ」
嫌いと言ったその口で、ファイは腰を揺らしながら懇願する。
体重を支える肩が痛むのも構わずに、両手を後方へ伸ばして突きだした尻の肉を、自ら割り開いた。
「指じゃないの、入れて……ッ! 黒たんのおっきいの、ここに入れてよぉ……!」
黒鋼が、ふっと息を吐いた。
「見せつけてくれるじゃねぇか。随分と」
「は、はや、く! ね、おねが……ア……ッ!」
自らの尻に伸ばしているそれぞれの手首を掴まれた。折りたたむようにして背中で一纏めに掴まれて、そこに黒鋼の体重がかかる。
肩や胸がシーツに強く押し付けられ、ファイはその苦しさにぎゅっと目を閉じた。必死に立てている膝に力を込めれば、さらに高く尻を突き出す形になって、募る羞恥に涙が溢れる。
黒鋼は、ファイの内腿を濡らすローションをもう片方の手で撫で上げるようにして掬うと、自身の屹立した性器にまぶす様に塗りつけた。
そしてぐずぐずに溶け切って赤く染まっている中心の穴に、ぐっと押しつける。
「んんんっ……!」
全身に戦慄が走る。どんなに慣らされ、濡らされても、穿たれる瞬間の本能的な恐怖は消えない。
その分すぐに快感が上塗りされることを知っているだけに、期待もまた膨らんだ。
入って来る。肉を抉るように掻きわけて、あの恐ろしく大きなものが、中へ。
「ひっ、ん、くっ、ぁ……ッ、あ、すご、い、ぃ……ッ、ゆっく、り……っ」
「ッ、わかってる」
襞をギリギリまで伸ばされる感覚。スブスブと音を立てて、どこまでも潜り込んでくるそれに、頭の天辺まで貫かれるのではないかと思う。
ゆっくりと、時間をかけて。
奥まで、来た。そう思った。だがいつだってその考えの甘さに泣かされる。
「ヒ、ぃッ……!?」
「まだだ。知ってるだろ?」
喉を必死で反らし、瞳を見開くファイの腰が片腕に強く抱きこまれた。
拘束された腕と腰では、逃げることさえ叶わないのに、無意識に立てた膝を引きずる。それはただベッドを重く軋ませ、シーツの皺を深いものにするだけで終わった。
「うあぁ……ッ! 深いっ、駄目っ、ふかすぎる……!」
「おら、あと少しふんばれ……ッ」
「――ッ!!」
ズン、という音が聞こえた気がした。腹の中を突き破られたのではないかとさえ思う。
自分でも知らないような身体の奥深くに、黒鋼の先端が触れている。
苦しさはあるが痛みはない。文字通り、隅々まで犯されてしまったような、そんな気分だった。
口だけでは根元まで飲み込み切れなかったものを、それよりもっと狭い穴が全て飲み込んでいる。
はぁ、と、黒鋼が吐き出した熱い息が背中にかかった。
挿入だけで汗だくのファイは小刻みに震えて、はかはかと浅く呼吸を繰り返す。
「よくまぁ入るもんだ。こんなちっこいケツに」
「ひ、ぁ、まっ、て……まだ、うごかな……っ」
「俺にしてみりゃ、こっちの方が衝撃的だぜ」
「ああぁっ、んぅ……!」
ひとつ腰をズンと突き動かされ、本当に突き破る気かと思う。
だが、それでもよかった。
ファイの甘ったるい声に拒絶の色がないことを確かめて、黒鋼は徐々に動きを開始した。
どろどろの粘液が纏わりつく肉の棒が、限界まで広がった内壁をきつく擦りあげる。
突かれる度にガクガクと震える身体の中心で、張りつめた性器が同時に揺れていた。パタパタと先走りが零れ落ちる水音がやけに大きく響く。
「あぅっ、アッ、あッ! いっくっ、もう、いっちゃう……ッ!!」
先刻から目を開けていてさえバチバチと飛び散る火花が見えていた。
そういえばまだ一度も達していないのだ。いっそ挿入途中に果てなかったことは奇跡に等しい。
だがもう限界だった。ただでさえ大きな彼のものは、中で一々『いい場所』に当たる。
ファイの身体の痙攣が激しいものになったことに気がついた黒鋼の手が、中心に触れた。
「ああぁだめっ! い、く、ぅ……!!」
「駄目だ。まだ早ぇ」
「――ッ!?」
一瞬、背筋が凍るような感覚を味わった。それはすぐに爆発しそうなほどの残酷な熱として、体内に籠る。
黒鋼の指が、絶頂を迎える瞬間だったファイの性器の根元を押さえつけていた。湧きあがって来るのは大きな絶望だった。
(殺される……死んじゃう……死んじゃう……)
大粒の涙がとめどなく零れ、ファイは後ろ手に拘束されている手を必死で振り解こうと身を捩る。
「やだぁ……っ! いくっ、いくのっ、いかせてぇ……!!」
だが纏めて背中に縫いつけられている両腕が軋むように痛むだけで、前の戒めは外れない。
容赦なく再開された抽挿の激しさに、ファイはいっそ死んだ方がマシだと思った。
絶頂に最も近い場所まで中途半端に上り詰めた感覚が、その場から上がることも下がることも出来ないまま焼かれ続ける。堪え性のない身体にはあまりにも負荷が大きく、強すぎる快感はむしろ拷問に等しかった。
頬をシーツに押し付けて、ファイは虚ろに開かれた瞳から涙を零し続けた。揺さぶられる度に舌を噛みそうになる。
「ぶっ壊れちまったか? あ? 答えろよ」
「ふぇ、ぁっ、こわ、れ……ッ、へ、ぁ……っ、ぁ……ッ」
「来い」
「ッ!?」
拘束された両腕をぐいと引かれる。
ずっとシーツに突っ伏したままだった視界が開けた。
そのまま胡坐をかいた黒鋼の足の中心に尻を収め、ぴったりと背中を包みこまれる体勢になる。
「ぅあっ……!!」
それによって自分の体重が全て一点に集中することになった。
片足を腹につくほど折りたたまれて、動けないように膝裏をぐっと掴まれることで、それは一層増した。
性器への戒めはそのままに、ファイが新たな体位に慣れるのも待たず、黒鋼が腰を揺さぶった。
「ああぁ待って……っ、まっ、ぁひ、う、あぁッ!」
「まだまだ満足できねぇだろ? なぁ?」
その言葉を受けて、ファイは必死で首を左右に振った。
パタパタと頬に当たる金糸の感覚がくすぐったかったのか、黒鋼は耳元で小さく笑ったかと思うと、先刻のお返しとばかりにファイの耳朶に吸いつく。
性的な水音が鼓膜を震わせ、堪らず喉を反らして甲高い悲鳴を上げる。
中を掻きまわす肉棒が最も弱い個所を執拗に擦るから、ファイは自由になった手で性器を拘束する黒鋼の手首を強く掴んだ。
「これ離して……っ! もう無理、したから、満足したからぁ……!」
「見え透いた嘘つくんじゃねぇよ」
黒鋼がファイの身体を揺さぶる度に、ベッドが軋んで悲鳴を上げた。
密着する結合部がぐじゅぐじゅと音を立てて、彼の弾む息が肌にかかる。全身に駆け抜ける電流に、肌が鳥肌を立てる。そして。
(ぁ……)
ぶっつりと、何かが焼き切れる音が脳内に響いた気がした。
――壊れた。
内腿の痙攣が止まらない。
抱え上げられた片足の先が、攣りそうなほどぐんと伸びる。
閉じることを忘れた唇から、だらしなく唾液が零れて胸に伝った。
そうだ、まだ満足なんて出来ない。
もっともっと苛めて、焦らして、そこにある一番大きな快楽へ導いてほしい。
「っ、……、てめぇ、まだ締めつけるってのか」
黒鋼の声音から余裕が消えた。ファイは締まりのない口元に笑みを浮かべる。
「あはっ、あぁッ、もっと、もっといじめてっ、おしり、もっとしてぇ……!!」
それに応えるかのように、中で大きなものがさらに膨らんだ。激しく脈打っている。愛しい。嬉しい。全部、自分だけのものだ。
かろうじて地についている方の足で身体を支えながら、彼の動きに合わせて腰を振った。
黒鋼の手が戒めていた性器を痛いくらに擦りあげる。
「壊して……っ、こわして……ッ、いやっ、あぁっ、きもちいぃ……!」
いざとなると終わるのが微かに切ない。だが、終わらなければ先が続けられない。
「いけよ。おら、いっちまえ……ッ」
もっともっと、何度でも壊れたいから。
ファイはその拷問のような快楽を、促されるまま甘んじて受け入れる。
「ひぐっ、あっ、アッ、あぁ――ッッ!!」
我ながら、酷い声。
痛み切った喉から、よくぞこんな絶叫が飛び出すものだと、全身を引き攣らせて射精しながら、ファイは脳裏の奥底で思った。
耳元に押し付けられた黒鋼の唇から、低い呻きが吐き出される。彼の身体も大きく強張り、奥に熱いものが注がれるのを感じて戦慄いた。
止まらない。震えも、快感も、新しく生まれる欲求も。
かろうじて意識を飛ばすことなく吐精を終えたファイは、ぐったりと黒鋼の胸に背を預けて、その頬に涙に濡れた頬を擦りつけた。
射精した後は、甘えたくて仕方が無い。心地いい脱力感と、ドカドカと胸の内側から叩く心臓の音と、そして継続する断続的な痙攣を、優しく慰めてほしかった。
ファイの片足を解放した黒鋼が、両腕でぎゅうと抱きしめてくる。
その腕に両手を這わせ、さらに頬ずりをすれば唇に同じ温もりが触れた。
「ぁ、ん……は、ふ……ッ」
緩く舌を絡め合って、唾液の交換をし終えると、糸を引きながらそれは離れた。
それからしばし、うっとりと見つめ合う。
「ねぇ、このまま……」
「ん」
抜かないで、今度は前からしてと、言わずとも相手には伝わっていた。
今度は優しく、労わるように、黒鋼はゆっくりとファイの身体を返してシーツへ押し倒す。
「何べんやったら満足するんだ、おまえは」
「黒様先生こそ……あのねー、オレこれでもまだ一回しかイッてないんだからね」
中に挿れたままのものをきゅっと締めつけて、ファイはその首に両腕を回した。
驚いたことに、すでに十分な硬さを取り戻しつつあるそれに、もしかしたらこの身には少々余る代物かもしれない、なんて弱気なことを思った。
(だからって絶対に誰にもあげないけど)
「こら、なに力んでんだ」
「あ、ごめん」
「……」
掠れた声で「えへへ」と照れ笑いをするファイの顔を至近距離で見つめて、黒鋼はほんの僅かに眉間の皺を深くする。
「おまえ、まだ比べてんじゃねぇだろうな」
「ん? なにを?」
「忘れてんならいい」
「うん。ねぇ早く」
ふん、と鼻から小さく息を吐いた黒鋼の頭をぎゅっと抱いて、逞しい腰に両足を絡める。
何を言われたのかなんて本当は分かっていたけれど、いざ身体をぶつけてみれば、それがちゃんちゃら可笑しいことであることに気がついた。
(比べようないよねー。ほんとバカ)
オレも、あの変質者さんも。ね。
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面倒くせぇなぁ、と黒鋼は思っていた。
外は連日30度超えの厳しい暑さにより、不快指数は満点である。
そんな中で汗だくになってようやく帰宅し、快適な部屋の中で麦茶を一杯やったところで一息をついたかと思えば、これだ。
黒鋼の目の前には、ツーンとそっぽを向いているファイがいた。
「……おい」
「ツーン」
「悪かったって言ってんだろ」
「ツーンだ」
ツンツンしているのはこの際いいとして、口で言うな口で、という突っ込みは、面倒だったので飲みこむことにした。
代わりに溜息を零しかけて、ぐっと堪える。
ここでうんざりした様子を曝せば、この男はまたさらに臍を曲げる。ご機嫌取りは得意な方ではないし、なぜ自分がそんなことをしなければいけないのか、という感情もあったりなかったり。
ただ今回ばかりは、どちらかと言えば自分に非があることは認めているから、だからこうして素直に謝罪しているつもりなのだが。
ファイはテーブルの上のグラスに注がれた麦茶に口をつけることもせず、ただペタリと床に座ったままそっぽを向いている。
ああ面倒くさい。
こっそりと、そしてゆっくりと長く息を吐き出しながら、項の辺りをポリポリと掻いた。
「おまえな……いつまで不貞腐れてんだこら。さっきから何回謝りゃ気が済むんだ?」
「……だって……だってさ、オレすっごい楽しみにして行ったのに……」
いい加減、ツンツンしているばかりにも疲れたらしいファイが、ぶぅと唇を尖らせながら口を開いた。白い指先で、グラスから流れる水滴をしきりに突いている。
「だから謝ってんだろ」
「どーしても気が済まないんだから仕方ないじゃん! もう放っておいてよバカー!」
ファイがダン、と拳でテーブルを叩いた。音の割に大した威力はなかったようで、グラスの中身が零れることはなかった。
そして黒鋼は『じゃあなぜここにいる……?』という素朴な疑問を、さらに喉の奥に押し込めた。
ここは黒鋼の自室である。外出先からずっとこの調子であるくせに、ファイはなぜか自分の部屋には戻らず、のこのことここまでついてきて、どっかりと腰を下ろしたのだ。
「だいたいさー、普通は映画館でデートって言ったら、もっと緊張感あるもんじゃないの!? 隣の可愛い子の手をどのタイミングで握ろうかな、とかさー! オレずっと待ってたのにー!!」
いや、そんな涙目で睨まれましても。そして可愛い子ってのは一体誰のことだ……?
「それどころか居眠りしてるなんて、ほんっとサイテー!!」
「だーから! 謝ってんだろうが!! だいたいなぁ、何が緊張感だ!? あんなガキ向けの特撮映画に、ムードもタイミングも手ぇ握るも糞もねぇだろ!?」
「見たかったんだから仕方ないでしょぉ!?」
そう、黒鋼は朝っぱらから映画館に連れだされ、そして大画面でよくわからない特撮映画を見せられたのだ。
てっきりその横のベッタベタな恋愛映画でも見るのかと思っていた。看板を見上げたときにはウンザリしたが、ファイの魂胆は見え見えだったのだ。
太古の時代からあるようなベタな展開が大好きなこの男は、おそらく映画の中で男女のクライマックスシーンにでも手を握ってほしいに違いない……と、黒鋼はしっかり読んでいた。
まったくしょうがない奴だと思ったが、まぁたまにはちょっとくらい付き合ってやってもいいか、と思ったのは、決して大声では言えないが、主演の女優が嫌いではなかったからだ。ファイには絶対に言わないが。(さらに厄介なことになるので)
仕方ないので適当な場面で手を握ってやるつもりだった。優しく、指の骨を砕く程度に。(←日頃の鬱憤も兼ねて)
それがまさかの特撮。しかも2本立て。
周りには夏休みということもあって、小さなお子様連れのお母様方で溢れかえっていた。ちらほら若い女性だけの姿も見えたが、長身の男二人は思いっきり浮いていた。
ファイは目を輝かせながら「カッコいいんだよー! 凄いんだよー!」とはしゃいでいた。ぶん殴って一人で帰宅しようかと思ったが、なんだかそれも面倒に思えるほど、黒鋼は気持ちの面で疲れていた。
暑さも寒さも基本は体力気力精神力で平然としていられる方だったが、今年の夏は少々厳しい。流石の黒鋼も多少は気が滅入っていた、のかもしれない。
そんな中、むさ苦しい野郎共がむさ苦しい怪人と戦う映画なんぞを見せられて、どれほどの無神経さを併せ持てば、手なんか握る気になれるのだろう。
しばらく呆れた面持ちで大画面を眺めていた黒鋼だったが、いつしか飽きて欠伸を噛み殺すようになり、やがてうつらうつらとしているうちに、ファイに乱暴に揺り起こされた。もちろん映画は終わっていた。
そして今に至る。
「もういいよ! 二度と黒たん先生と映画なんて行かないから!」
一歩間違えれば指の骨を粉砕されていたかもしれないなんて露知らず、ファイはまたそっぽを向いた。
なんだか知らないが、よほど腹に据え兼ねているらしいファイの機嫌は、どうやらちょっとやそっとじゃ回復しないように思われた。
彼がここまでツンを貫くことは珍しい。彼も彼で、ただでさえ煮えている脳内が、連日続く酷暑のせいで腐ってしまったのだろう。
放っておけばそのうち勝手に元通りになっているだろうが、黒鋼には黒鋼なりに、思うところはそれなりにある。
はっきり言って、別に二度と映画館にこの野郎と一緒に行けなくとも、困りはしない。見たい映画は忘れた頃にでも、DVDを借りて見られればそれで十分な気がする。
だいたい、夏休みといえども生徒たちとは違い、教師にはそれなりに仕事はあるのだ。のうのうと一カ月や二カ月の長期に渡る休暇はなく、世間一般のカレンダーに準ずる、ほんの短い間の休暇のみである。
たまの休みくらいは誰に合わせるでもなく、のんびりと過ごしたいものだ。
黒鋼的にはデートのつもりで出かけたつもりは毛頭なく、だだをこねられて、仕方なく付き合ってやったに過ぎなかった。
だが、映画が終わってファイの気が済んだあとは、どこかで美味い飯でも……くらいのことは考えていた。
ファイはしょっちゅうテレビやら雑誌やらで気になる店を見つけてきては、あーだこーだと話に花を咲かせているが、彼の弟はプロの料理人である。
結局はユゥイの作るものが絶品すぎて、外食などここ最近はめっきりしなくなった。
しかし現在、そのユゥイは里帰り中である。たまにはいい機会だと思ったし、ファイも喜ぶだろうと考えていたが、当人が臍を曲げたせいで、映画館から寄り道せずに直帰したのだった。
黒鋼はついに堪え切れずに溜息を零した。
頭をがりがりと掻きながら「めんどくせぇ」と呟いた。
「ムッ」
案の定、ファイは顔をこちらに向けて頬を膨らませた。つい、ハムスターを思い浮かべてしまう。
「おまえ、どうあっても臍曲げたまんまでいるつもりか」
「……さぁねー」
「だったら自分の部屋で、一人ぶー垂れてりゃいいんじゃねぇのか」
そう、わざわざここでこうしていなくたって、本当に腹が立っているなら、自室へ戻ればいいだけの話だ。
ズバリ指摘されたファイは、少しだけ「ビクリ」と肩を揺らしてそっぽを向くと、下手くそな唇を吹く動作をした。
「べ、別にー。オレがどこで何してたって関係ないじゃーん」
黒鋼は不敵に笑った。
「素直に一人が寂しいって言えばいいんじゃねぇか?」
「そんなんじゃないですー! 黒様先生が一人で寂しくて退屈するだろうと思って、仕方なく一緒にいてあげてるだけですー」
顔を真っ赤にしながらテーブルを両手でバンバン叩いているファイを見て、どこまで面倒くさければ気がすむのかと呆れる。
どうしてこう妙なところで意地っ張りなのか知らないが、まぁ本音を言えば、そこがこの男の面白いところなのだ。
むくり……と、黒鋼の中で何かが頭を擡げた。別にこれで一日が無駄になったわけではない。まだ日も高いことだし、楽しみ方は十分にある。
ちょっとした仕返しも兼ねて、目の前のアホに、たまにはオモチャにでもなってもらおう。
「そいつはありがてぇな」
黒鋼は少し腰を浮かせると、ファイへ向けて手を伸ばした。隙だらけだった彼の胸倉を掴んで強引に引き寄せつつ、同時に互いを隔てていたテーブルを適当に押して動かしてしまう。
「わわわっ!?」
痩せっぽちの身体は簡単に黒鋼の胸へと落ちて来た。抱きかかえるようにしてその腰に腕を回し、驚いて身を固くしているファイの顎を掴んで上向かせる。
「っ、く、くろ……?」
「なんだかんだ言って朝っぱらから付き合ってやったろうが。今度は俺に付き合ってもらうぜ」
ぽかんと口を開けたままだったファイの顔が、みるみるうちに真っ赤になった。途端、細腕が必死に黒鋼の胸を遠ざけようともがきだした。
「な、なに言ってんの!? なにする気!?」
「俺が退屈して寂しくねぇように傍にいてくれてんだろ? だったら一人じゃできねぇことでもして遊ぼうじゃねぇか」
「ちょ、ちょっと!? どこ触って……! ひ、一人でも出来るじゃん! やろうと思えば!」
「相手がいるに越したことねぇだろ」
「なんか目が据わってるよー!?」
うるせぇ、と低く言って噛みつくようにその唇を奪った。腕の中で彼がどんなに暴れても、黒鋼はビクともしない。
むしろ彼が逃れようと身を捩れば捩るほど、拘束する腕の力を強めていく。
口内を犯す動作は相手を感じさせるというよりは、体力を奪うことが目的の乱暴なものであったが、それでもファイは小刻みに背筋を震わせる。もともと体力面で黒鋼に敵うはずのない彼は、面白いほどあっけなく弱っていった。
「もっ、ちょ……ッ」
そろそろいいかと、腰を拘束していた腕を動かし、彼のシャツの中へと手を潜り込ませ、脇腹をゆるりと撫でたときだった。へにゃりとなっていた身体に再び緊張が帯びて、大きく跳ね上がった。
ファイの手が黒鋼の口元を覆うと、ぐっと遠ざける。
「あんだよ……」
「だ、だめ……。ほん、とに、今は……っ」
息も絶え絶えに、ファイはにじにじと距離を取ろうとする。それを再び抱き寄せて、間近でじっと見つめた。
どの道もう黒鋼にはスイッチが入っているので、ここで離すつもりはなかったが、一応は聞く態勢である。
ファイは痛いほどの視線を感じつつ、口元をもごもごとさせた。
「……まだ明るいし……暑いし……」
日頃、朝昼晩とどこででも盛るくせに、今日に限ってやけにまともなことを言うもんだと不信感が募る中、ファイはさらにぼそりと口にした。
「あ、汗……かいたし……」
自分の胸の辺りで両手をぎゅっと握ってもじもじとしながら、ファイは「ね?」と小首を傾げた。お願いのポーズである。
だが、通常であればその仕草にイラッとしている黒鋼もまた、普段とは少し違っていた。
「おもしれねぇな、それ」
「え」
「汗くせぇかどうか、俺が検査してやる」
「え!?」
「おら、脱げ」
「!?」
ザァッと青ざめたファイのシャツを思い切りたくしあげると、夏でも透けるように白い胸が露出した。確かに、少し汗ばんで艶々としている。
「だ、ダメだってばー!! オレ帰る! 帰ってお風呂入ってからまたすぐ来るぅー!!」
思わずその素肌に唇を寄せかけた黒鋼の頭をポカポカと殴りながら、またしてもファイは暴れた。
「すぐ来るっておまえ……結局は昼間だろうが関係ねぇんだな……」
突っ込みもそこそこに汗ばんだ肌にべろりと舌を這わすと、ファイの「きぃーやぁー!!」という悲鳴と共に微かな塩の味がして、黒鋼は青ざめている男を上目使いに見上げると、にやりと笑った。
「味はまぁまぁだな。次は匂いか」
「!?」
ファイの背を両手で抱いて、そのまま体勢を変えた。床の上にすっかり転がされ、見下ろされる立場となったファイは、涙目でプルプルと震えると
「へ、へ、変態!!」
と、叫んだ。
***
「やー!! やだー!! 離してぇーっ」
「暴れっとなおさら汗だくになんぞ」
「……!」
バタバタと身体の真下で暴れていたファイだったが、黒鋼の一言にビシッと動きを止めた。
室内温度は現在エアコンで28度と、きっちりエコに調節されている。しかしながら真昼間、身体を動かすとなると、些か物足りない室温だ。
散々ぱら暴れた後であるから、今さら静止したところでもはや遅い気もするのだが。
しめたとばかりにたくし上げられていたシャツを、ズボッと頭から引き抜いてしまうと、完全に取り払うことはせずファイの手首の辺りで適当にゴタゴタと丸めたり、捻じったりして拘束した。
そこでようやくハッとしたファイが、また悲鳴を上げた。
「ギャー!? 黒様が言霊でオレを縛った!! そしてその間に手首まで縛ったぁーイヤァー!!」
「だから暴れんなって」
うまい具合に体重をかけて押さえつけると、黒鋼はファイの耳の裏に顔を埋めた。そして、わざとらしく鼻を鳴らして吸い込む音を聞かせてやる。
「っ――!!」
薄い身体が息を飲みながらビクンと跳ね上がった。その反応に気を良くしながら耳たぶに舌を這わせ、緩く歯を立てる。
「ちょ、ぁ! く、くろ……、ほんとに、や……ッ」
緊張に身を硬くしながらも、その声は甘い。どこまでも快楽に弱いこの男の弱点は全て知り尽くしている。じわじわと高めてやることで、やがてまるで全身が性感帯にでもなったかのように蕩けていくことも。
すでにささやかな主張をしはじめている胸の突起にも触れてやりながら、黒鋼はあえてバカにしたように、その耳元に向けて鼻で笑ってやった。
ビクリと腰を揺らしながら、ファイは傷ついたような表情を見せた。
「なんて顔してんだよ」
「だっ、て……だって……臭いもん……オレ……」
「それを確かめてんだろ」
「もう……もう、いい、でしょ? 嗅いだじゃん……! お風呂、入らせてよぉ……」
両手を拘束しているグルグル巻きのシャツを目元に押し当てながら、ファイは顔を真っ赤に染めていた。
彼がここまで抵抗して嫌がるのは珍しいことだった。黒鋼自身、無理やり事を成すことはあまり好きではない。
それが今はなぜだか、ファイが嫌がれば嫌がるほど、無性に興奮する自分がいた。
このまま続ければ確実に泣きだすだろうと、そう理解しつつも、黒鋼は行為を続行する。
濡れた音を立てながら白い首筋を貪る。時折緩く歯を立て、吸いついてやれば、敏感な肌には面白いほど簡単に痕が残る。
しっとりと汗ばむ肌は、ほんのりと塩辛いはずが、なぜか妙に甘く感じた。甘いものは好きではない。けれど今、黒鋼はまるで必死で花の蜜を集める蜂にでもなった気分だった。
「やっ、ぁ……ふ、ぅ、ん……」
顔を隠しながら嫌々と首を振るファイの、細い割に柔らかな二の腕を掴む。顔を見せろと言わんばかりに上へと押し上げて、その表情を暴けば、彼の瞳は涙で潤んでいた。嫌だと言う割に、しっかりと情欲の色を乗せた揺らめくそれに、黒鋼は静かに喉を鳴らす。
腕を押し上げたことで剥き出しになった、ファイのシミ一つない脇のへこみが眼下に飛び込んでくる。そこに目を留めている黒鋼が何をするつもりかを察したのだろう、はっとしたファイが暴れ出す前に、唇を寄せた。
「やっ、だ……ッ! あっ! やぁ……!!」
案の定、暴れ出すファイの抵抗など完全に無視して、そのへこみをベロリと舐め上げる。甘い味と、香りが一層増した気がして、黒鋼は熱い息を吐きだした。身体の中心に、激しい疼きを感じる。
薄い皮膚の下、神経の集中した敏感なそこは、特に気になる場所である。それを知りつつ殊更いやらしい音を立てて執拗に吸いつけば、ファイは身悶えながらもついに涙を流して泣きだした。
「そこ嫌ッ、そこ嫌だぁ……ッ! 舐めちゃダメ……! もうやだ……ッ!」
ひくひくと身を震わせるファイに、流石に顔を上げる。
幼子のように頬を濡らしている様を見て、イジメすぎたかと思いつつ、黒鋼は小さく笑った。
「マジ泣きすんなよ」
「っ、ぅ、っく……、ばか……もうきらい……っ」
「てめぇの匂いしかしねぇよ」
それは本当に、彼の匂い、としか言いようがない。
こういうものをフェロモン、とでも言えばいいのか。黒鋼の雄の本能を刺激してやまない。愛おしくてどうしようもなかった。
「しょうがねぇだろ。興奮しちまうんもんは」
そもそも体臭など人それぞれで、実際のところ、この男はその体臭そのものが薄い。
だいたい、普段からこうして身体を重ねればお互い汗をかくのは当たり前で、そんなもの気にする余裕などないくせに。
けれどそれを言ってしまえば、きっと彼は「そういう問題じゃない」と言って、さらに怒り出すに違いなかった。
身を乗り出して、濡れた頬に口づけた。それでもどうやら感情の高ぶりが治まらないらしいファイは顔を逸らす。
「きらい……いじわる……っ」
「んなこと言うな。……よくしてやるから」
「ぅ、わ……!」
乱暴にならない程度の力で、彼の身体をひっくり返した。
白く美しい曲線を描く背中や、腰のラインに幾度もキスをしながら、ファイの気を逸らしつつ細いウエストに手を回すと、器用に前をくつろげて下着ごと下ろしてしまう。
小さな尻がつるりと姿を現して、ファイは羞恥から逃れようと身体をくねらせる。尻を高く掲げて突きだすような体勢に、その全身が桃色に染まった。
「や、やだ……っ!」
だが、膝の辺りまでしか下ろされていない下着とジーンズは、上手い具合に彼の両足も拘束する形になる。
両足の中心では緩く勃ち上がる性器が微かに震えていた。
むしゃぶりついて思いきり啼かせてやりたい衝動に駆られながらも、ひとまずは柔らかな二つの丘を大きな手でそれぞれ包み込む。ぐにぐにと揉みしだき、吸いつくような弾力を確かめてから親指に力を入れ、ぐっと割り開いた。
「もうヒクついてんじゃねぇか」
きゅっと窄まった桃色の秘穴が、それを持つ本人の建前とは裏腹に、何かを期待するかのようにヒクヒクとしている。
「い、やだ……、恥ずかしい、から……見ないで……お願い、お願いだよ……」
弱々しい懇願も、泣き濡れて掠れた語尾も、震える身体も、今はその全てが黒鋼を煽る材料にしかならない。
昼間の明るい日差しがレースのカーテン越しに射しこむ中で全て暴かれて、彼の羞恥は如何ほどだろうか。心中を察すれば若干哀れに思いつつも、黒鋼自身あまり余裕はなかった。
引き寄せられるかのように顔を寄せて、窄まりにキスをする。
大きく跳ね上がったファイは背筋を仰け反らせ、声にならない悲鳴を上げた。
「ヒッ――!?」
ぬるりと舌の先端を入り口に潜り込ませて、刻まれている小さな皺の一つ一つを丹念に伸ばすようにして穿る。
「うそ、うそ……ッ、ダメ、舐めちゃ……ッ!」
拘束されている両腕で必死に肘を立て、無理に身体を捻ろうとする動きも意に介さず、黒鋼はそこを解す作業に夢中になった。
チクチクという小さな水音と共に、頑なな蕾は熱を孕みながら開いていく。
ファイの内腿が痙攣しはじめる。床に縋りつきながらしくしくと泣いているくせに、いつしか細い腰は物欲しげに揺れ始めていた。
「だめ、……っ、ぁ、うぅ、んッ、おしり、ッ、オレの、おしり……とけ、ちゃう、ぅ……ッ」
舌だけでは奥になど到底届かない。彼が切なく身を焦がしていることは知っていた。わざわざ触れて確認せずとも、性器が痛いほど張りつめているであろうことも。
角度を変えながら音を立てて秘穴を舐め解しながら、黒鋼はファイの下着とジーンズをさらに下ろし、片足だけ引き抜かせた。痙攣する内腿に手を差し入れて開かせると、案の定、反り返っている性器の先端から溢れた先走りの液が、柔らかな袋を伝い、床に染みを作り上げていた。
悟られぬよう薄く笑いながら、唾液で潤ってきたタイミングを見計らって、中指を差し入れた。びくびくと、ファイの背筋が跳ねる。
「あ……ひ……っ、んんっ!」
関節ごとに僅かに引っ掛かりながらも、そこは黒鋼の指を丸々飲みこんだ。このぶんならと幾度か出し入れをしてから中指を引き抜くと、次は人差し指も添えて2本同時に潜り込ませる。
ファイのあえかな悲鳴が、明るい室内に水音と共に響き渡った。
あまりにも不釣り合いに思えて、甘美な背徳感が黒鋼をさらに高揚させた。
熱い肉壁の中へ二本の指を慎重に進めながら、さらに彼を追い立てる場所を探り当てる。小さく柔らかなしこりを指先に感じた瞬間、ファイの腰がのたうちながら、本能的な逃げを打つべく大きく跳ねた。
「――ッ!! アッ、ああぁッ、そこ、は……ッ、だ……っ!!」
その一点に指先を軽く押し当てるだけで、面白いほど乱れ狂う彼は、もはや羞恥を感じる間もない様子だが、このまま続ければすぐにでも限界を迎えてしまうことは明白だ。
「まだイクんじゃねぇぞ」
「ぁう、うぅ……っ、う……っく、ぅ……」
そっと指を引き抜くと、黒鋼は自分の汗で張り付いている鬱陶しいシャツを、乱暴に脱ぎ捨てた。今にもくったりと崩れ落ちそうになっている腰を片手で掴んで支えながら、自分のジーンズの前を寛げる。
痛いほど張りつめていた自身の性器を自由にしてやると、ほっと息を吐きだした。
そしてファイの身体を背中からすっぽりと覆うように身を乗り出して、床に顔を伏して泣いている彼の項に、あやすように口づけた。
「おら、泣いてんなよ。よくしてやってるだろ」
耳元に囁くと、苦しそうにこちらに顔を向けたファイに睨まれた。涙に濡れ、快感に赤くなった頬をしながらそんな目をされても、黒鋼は笑うしかない。
「バカ黒……! よすぎて……もう、わかんない! ぐちゃぐちゃだよ!」
「まだ嫌いとかほざくんじゃねぇだろうな」
「あっ! んぅ、や、擦りつけ、ないで……ッ」
わざと先端をヒクつく穴に押しつける。焦らすように当たりを外しながら、自身の先走りを塗りつけるようにして。
「ヒッ、ん……! ばかぁ……!」
「言えよ」
余裕はないものの、身体の下でビクンビクンと反応する身体が面白くて、黒鋼は焦らすのを止めない。
挿入するギリギリの強さでぐっと先端を押し付けると、ファイはきつく目を閉じて悔しそうに言い放った。
「もう! 好きだよ! 好きだから、早く入れてよ……!」
それを合図に、しっかりと腰を抱きしめた状態で身体を前へと進めた。
ずぶりという音がした瞬間、先端からゆっくりと熱い肉の壁に締めつけられていく。思わず漏れそうになる呻きをぐっと堪えた。
「あっ、あ、あぁあ……ッ! すご、はいっ、て、くるっ! すごいの……ッ!」
背を反らし、喉を反らして喘ぐファイの耳裏に、鼻先を擦りつけるようにして押し付けた。ふわりと、またファイが香った。
時間をかけて納めきってしまえば、挿入しているのは身体の一部分のはずなのに、まるで全身を包み込まれているような気がして眩暈がした。
汗が、頬を伝い落ちる。
「平気か」
弾む息を整えながら、震えの止まらないファイを気遣う。彼は、緩く首を振った。
「平気じゃ、ない……っ! つぎ、動かれたら、オレ、いく……ッ」
これでも随分と堪えたらしい。ふと手を伸ばせば、驚くほど熱を持った性器が弾けそうなほど膨らみ、よだれを垂らし続けているのがわかった。
「しょうがねぇな」
「さ、さわらない、で……!」
「いいぜ。イケよ。なんべんでも」
「やっ……!」
手のひらにそれをきゅっと包みこんで、緩く扱くのと同時に腰を小刻みに動かし、揺さぶった。腕の中の身体がぐっと緊張する。
「――ッ!!」
彼は宣言通り、あっけないほど一瞬にして絶頂を迎えた。
強すぎた快感がゆえに、大きく開かれた唇からは悲鳴さえ上がらない。食いちぎられそうなほどの締めつけに歯を食いしばりながらも、黒鋼は全身を大きく震わせながら射精するファイを、しっかりと抱きしめていた。
手だけでは受け止めきれなかった精液が床に零れ落ちる。後で掃除が面倒だと思いながらも、そんなこと今はどうでもよかった。
「ぁ―……、ぁ……ぁ、ぁ……っ」
「派手にいったな」
まともに言葉も発せずに、必死で呼吸を繰り返すファイの両手の戒めを解くと、グシャグシャになったそれで適当に手を拭って放り投げた。
未だ断続的に痙攣しながら力の抜けていく腰を支えながら、くしゃりと髪を撫でてやる。
そして、一度ナカから自身を引き抜くとファイの身体を今度は向き合うようにひっくり返した。
くったりと成すがままのファイのとろんとした瞳はどこか虚ろで、ふと笑みが零れる。
「こら、飛んでんじゃねぇよ。腕まわせ」
「ぁ……?」
ファイの腕を掴み、首に回させる。弱々しいながらも素直にファイの両腕が絡みついてくると、黒鋼は熱い息を吐きだすその唇に深く口づけながら、再び肉棒を濡れた秘穴に挿入していく。
「んっ、んっ、ぁ、ふ……」
混ざり合った互いの唾液が、ファイの口端から溢れだす頃になると、黒鋼はようやく自らも欲望を満たすため動きを再開させた。
はじめはゆっくり、抱きしめたファイの身体を小刻みに揺さぶりながら、やがて徐々に律動を大きくしていく。
唇同士が糸を引きながら離れると、ファイの口からはひっきりなしに甘い嬌声が上がる。
黒鋼もまた次第に息が上がり、獣じみた呼吸に支配されていた。
汗が、吐息が、鼓動が混ざり合う。境目などないほどに繋がって、溶け合って、二人が一つになっていく。
「すごいっ、すごいの……ッ! も、こんなのっ、ダメっ、死んじゃう……!」
いつしかバツンバツンと肌がぶつかり合うほどの激しさで快楽を貪っていた。結合部が淫らな音を立てる。
先刻、あれほど勢いよく放ったはずのファイの性器も、すでに力を取り戻して、律動の度にブルブルと震えながら玉のような液を幾粒も散らしていた。
「あっ、あっ、イッ、く、イク……! いくぅ!!」
瞼の裏側にぱちぱちとした火花のようなものが煌めく。黒鋼にもついに限界が訪れようとしていたが、先に果てたのはファイの方だった。
放たれた精液が黒鋼の腹をも熱く濡らした瞬間、堪えがたいほどの締めつけに腰が跳ねる。食いしばった歯の隙間から低い呻きを漏らしながら、黒鋼はファイの最奥に精を放った。
「っ、はっ、く……!」
凄まじい射精感が一瞬の嵐のように過ぎ去ると、黒鋼はファイの首筋に額を埋めた。
はかはかと浅い呼吸を繰り返しながら、ファイの両腕がそんな黒鋼の頭を優しく抱きとめた。
*
そうして二人は少しの間、余韻に浸っていた。
ふと思い出してちらりと窓の外を見れば、ほんの僅かに陽が傾き始めていることに気がつく。
夢中になりすぎて、時間の感覚を失っていた。
結局、ファイが雑誌で見つけてくるような店には行けなかったが、この後もし彼の身体が大丈夫そうなら、軽くシャワーでも浴びて、どこかその辺りの店にでも連れだしてやろうか。いい加減、腹も減ったことだし。
そんなことにぼんやりと思考を巡らせながら、抜かずにいた性器を引き抜こうとしたとき、ファイがぽつりと口を開いた。
「黒たんせんせ……」
「なんだ?」
「ん……」
顔を上げると鼻先が触れあいそうな距離でファイが困ったような、戸惑ったような表情を浮かべている。
「なんだよ」
「……あのね、オレ……ほんとはちょっと、わかる気がする」
「何が」
「うんとね……黒たんの……」
ファイの頬が赤い。こうして本気で照れているような表情は、彼にしては少し珍しい。
無言で僅かに首を傾げていると、白い腕がぎゅっと黒鋼の首を抱いて、首筋に顔を埋めてくる。その状態で上目づかいで黒鋼を見やるとファイは言った。
「黒たんの汗の匂いね、凄く、エッチな匂いがするから……」
黒鋼は思わず目を見開き、すっとんきょうな顔をした。それから、堪らず小さく吹き出した。
「もう、笑うのずるい……っ、て! ちょ、っと!?」
「おまえなぁ……せっかく人が……」
「えっ!? え!? ぅあっ!? 黒た……っ、中で、おっきくな……ッ」
腕の中、華奢な身体がビクンと跳ね上がった。
体中を真っ赤にしながらあたふたともがくファイに、黒鋼はとびきりの悪人面でニヤリと笑って見せた。
彼にとっては何気ない発言だったものが、ひとまずは鎮まっていた黒鋼に、またしても火をつけてしまった。
「可愛いこと言ってんじゃねぇぞ」
強く抱きしめて耳元に囁きながら腰を揺らすと、再びファイの唇からは甘い吐息と喘ぎが零れた。
それは暑い熱い夏の日のこと。
止めどなく発情する二人の姿を知っているのは、テーブルの上、口をつけられることなく放置されて温くなった、麦茶のグラスだけだった。
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外は連日30度超えの厳しい暑さにより、不快指数は満点である。
そんな中で汗だくになってようやく帰宅し、快適な部屋の中で麦茶を一杯やったところで一息をついたかと思えば、これだ。
黒鋼の目の前には、ツーンとそっぽを向いているファイがいた。
「……おい」
「ツーン」
「悪かったって言ってんだろ」
「ツーンだ」
ツンツンしているのはこの際いいとして、口で言うな口で、という突っ込みは、面倒だったので飲みこむことにした。
代わりに溜息を零しかけて、ぐっと堪える。
ここでうんざりした様子を曝せば、この男はまたさらに臍を曲げる。ご機嫌取りは得意な方ではないし、なぜ自分がそんなことをしなければいけないのか、という感情もあったりなかったり。
ただ今回ばかりは、どちらかと言えば自分に非があることは認めているから、だからこうして素直に謝罪しているつもりなのだが。
ファイはテーブルの上のグラスに注がれた麦茶に口をつけることもせず、ただペタリと床に座ったままそっぽを向いている。
ああ面倒くさい。
こっそりと、そしてゆっくりと長く息を吐き出しながら、項の辺りをポリポリと掻いた。
「おまえな……いつまで不貞腐れてんだこら。さっきから何回謝りゃ気が済むんだ?」
「……だって……だってさ、オレすっごい楽しみにして行ったのに……」
いい加減、ツンツンしているばかりにも疲れたらしいファイが、ぶぅと唇を尖らせながら口を開いた。白い指先で、グラスから流れる水滴をしきりに突いている。
「だから謝ってんだろ」
「どーしても気が済まないんだから仕方ないじゃん! もう放っておいてよバカー!」
ファイがダン、と拳でテーブルを叩いた。音の割に大した威力はなかったようで、グラスの中身が零れることはなかった。
そして黒鋼は『じゃあなぜここにいる……?』という素朴な疑問を、さらに喉の奥に押し込めた。
ここは黒鋼の自室である。外出先からずっとこの調子であるくせに、ファイはなぜか自分の部屋には戻らず、のこのことここまでついてきて、どっかりと腰を下ろしたのだ。
「だいたいさー、普通は映画館でデートって言ったら、もっと緊張感あるもんじゃないの!? 隣の可愛い子の手をどのタイミングで握ろうかな、とかさー! オレずっと待ってたのにー!!」
いや、そんな涙目で睨まれましても。そして可愛い子ってのは一体誰のことだ……?
「それどころか居眠りしてるなんて、ほんっとサイテー!!」
「だーから! 謝ってんだろうが!! だいたいなぁ、何が緊張感だ!? あんなガキ向けの特撮映画に、ムードもタイミングも手ぇ握るも糞もねぇだろ!?」
「見たかったんだから仕方ないでしょぉ!?」
そう、黒鋼は朝っぱらから映画館に連れだされ、そして大画面でよくわからない特撮映画を見せられたのだ。
てっきりその横のベッタベタな恋愛映画でも見るのかと思っていた。看板を見上げたときにはウンザリしたが、ファイの魂胆は見え見えだったのだ。
太古の時代からあるようなベタな展開が大好きなこの男は、おそらく映画の中で男女のクライマックスシーンにでも手を握ってほしいに違いない……と、黒鋼はしっかり読んでいた。
まったくしょうがない奴だと思ったが、まぁたまにはちょっとくらい付き合ってやってもいいか、と思ったのは、決して大声では言えないが、主演の女優が嫌いではなかったからだ。ファイには絶対に言わないが。(さらに厄介なことになるので)
仕方ないので適当な場面で手を握ってやるつもりだった。優しく、指の骨を砕く程度に。(←日頃の鬱憤も兼ねて)
それがまさかの特撮。しかも2本立て。
周りには夏休みということもあって、小さなお子様連れのお母様方で溢れかえっていた。ちらほら若い女性だけの姿も見えたが、長身の男二人は思いっきり浮いていた。
ファイは目を輝かせながら「カッコいいんだよー! 凄いんだよー!」とはしゃいでいた。ぶん殴って一人で帰宅しようかと思ったが、なんだかそれも面倒に思えるほど、黒鋼は気持ちの面で疲れていた。
暑さも寒さも基本は体力気力精神力で平然としていられる方だったが、今年の夏は少々厳しい。流石の黒鋼も多少は気が滅入っていた、のかもしれない。
そんな中、むさ苦しい野郎共がむさ苦しい怪人と戦う映画なんぞを見せられて、どれほどの無神経さを併せ持てば、手なんか握る気になれるのだろう。
しばらく呆れた面持ちで大画面を眺めていた黒鋼だったが、いつしか飽きて欠伸を噛み殺すようになり、やがてうつらうつらとしているうちに、ファイに乱暴に揺り起こされた。もちろん映画は終わっていた。
そして今に至る。
「もういいよ! 二度と黒たん先生と映画なんて行かないから!」
一歩間違えれば指の骨を粉砕されていたかもしれないなんて露知らず、ファイはまたそっぽを向いた。
なんだか知らないが、よほど腹に据え兼ねているらしいファイの機嫌は、どうやらちょっとやそっとじゃ回復しないように思われた。
彼がここまでツンを貫くことは珍しい。彼も彼で、ただでさえ煮えている脳内が、連日続く酷暑のせいで腐ってしまったのだろう。
放っておけばそのうち勝手に元通りになっているだろうが、黒鋼には黒鋼なりに、思うところはそれなりにある。
はっきり言って、別に二度と映画館にこの野郎と一緒に行けなくとも、困りはしない。見たい映画は忘れた頃にでも、DVDを借りて見られればそれで十分な気がする。
だいたい、夏休みといえども生徒たちとは違い、教師にはそれなりに仕事はあるのだ。のうのうと一カ月や二カ月の長期に渡る休暇はなく、世間一般のカレンダーに準ずる、ほんの短い間の休暇のみである。
たまの休みくらいは誰に合わせるでもなく、のんびりと過ごしたいものだ。
黒鋼的にはデートのつもりで出かけたつもりは毛頭なく、だだをこねられて、仕方なく付き合ってやったに過ぎなかった。
だが、映画が終わってファイの気が済んだあとは、どこかで美味い飯でも……くらいのことは考えていた。
ファイはしょっちゅうテレビやら雑誌やらで気になる店を見つけてきては、あーだこーだと話に花を咲かせているが、彼の弟はプロの料理人である。
結局はユゥイの作るものが絶品すぎて、外食などここ最近はめっきりしなくなった。
しかし現在、そのユゥイは里帰り中である。たまにはいい機会だと思ったし、ファイも喜ぶだろうと考えていたが、当人が臍を曲げたせいで、映画館から寄り道せずに直帰したのだった。
黒鋼はついに堪え切れずに溜息を零した。
頭をがりがりと掻きながら「めんどくせぇ」と呟いた。
「ムッ」
案の定、ファイは顔をこちらに向けて頬を膨らませた。つい、ハムスターを思い浮かべてしまう。
「おまえ、どうあっても臍曲げたまんまでいるつもりか」
「……さぁねー」
「だったら自分の部屋で、一人ぶー垂れてりゃいいんじゃねぇのか」
そう、わざわざここでこうしていなくたって、本当に腹が立っているなら、自室へ戻ればいいだけの話だ。
ズバリ指摘されたファイは、少しだけ「ビクリ」と肩を揺らしてそっぽを向くと、下手くそな唇を吹く動作をした。
「べ、別にー。オレがどこで何してたって関係ないじゃーん」
黒鋼は不敵に笑った。
「素直に一人が寂しいって言えばいいんじゃねぇか?」
「そんなんじゃないですー! 黒様先生が一人で寂しくて退屈するだろうと思って、仕方なく一緒にいてあげてるだけですー」
顔を真っ赤にしながらテーブルを両手でバンバン叩いているファイを見て、どこまで面倒くさければ気がすむのかと呆れる。
どうしてこう妙なところで意地っ張りなのか知らないが、まぁ本音を言えば、そこがこの男の面白いところなのだ。
むくり……と、黒鋼の中で何かが頭を擡げた。別にこれで一日が無駄になったわけではない。まだ日も高いことだし、楽しみ方は十分にある。
ちょっとした仕返しも兼ねて、目の前のアホに、たまにはオモチャにでもなってもらおう。
「そいつはありがてぇな」
黒鋼は少し腰を浮かせると、ファイへ向けて手を伸ばした。隙だらけだった彼の胸倉を掴んで強引に引き寄せつつ、同時に互いを隔てていたテーブルを適当に押して動かしてしまう。
「わわわっ!?」
痩せっぽちの身体は簡単に黒鋼の胸へと落ちて来た。抱きかかえるようにしてその腰に腕を回し、驚いて身を固くしているファイの顎を掴んで上向かせる。
「っ、く、くろ……?」
「なんだかんだ言って朝っぱらから付き合ってやったろうが。今度は俺に付き合ってもらうぜ」
ぽかんと口を開けたままだったファイの顔が、みるみるうちに真っ赤になった。途端、細腕が必死に黒鋼の胸を遠ざけようともがきだした。
「な、なに言ってんの!? なにする気!?」
「俺が退屈して寂しくねぇように傍にいてくれてんだろ? だったら一人じゃできねぇことでもして遊ぼうじゃねぇか」
「ちょ、ちょっと!? どこ触って……! ひ、一人でも出来るじゃん! やろうと思えば!」
「相手がいるに越したことねぇだろ」
「なんか目が据わってるよー!?」
うるせぇ、と低く言って噛みつくようにその唇を奪った。腕の中で彼がどんなに暴れても、黒鋼はビクともしない。
むしろ彼が逃れようと身を捩れば捩るほど、拘束する腕の力を強めていく。
口内を犯す動作は相手を感じさせるというよりは、体力を奪うことが目的の乱暴なものであったが、それでもファイは小刻みに背筋を震わせる。もともと体力面で黒鋼に敵うはずのない彼は、面白いほどあっけなく弱っていった。
「もっ、ちょ……ッ」
そろそろいいかと、腰を拘束していた腕を動かし、彼のシャツの中へと手を潜り込ませ、脇腹をゆるりと撫でたときだった。へにゃりとなっていた身体に再び緊張が帯びて、大きく跳ね上がった。
ファイの手が黒鋼の口元を覆うと、ぐっと遠ざける。
「あんだよ……」
「だ、だめ……。ほん、とに、今は……っ」
息も絶え絶えに、ファイはにじにじと距離を取ろうとする。それを再び抱き寄せて、間近でじっと見つめた。
どの道もう黒鋼にはスイッチが入っているので、ここで離すつもりはなかったが、一応は聞く態勢である。
ファイは痛いほどの視線を感じつつ、口元をもごもごとさせた。
「……まだ明るいし……暑いし……」
日頃、朝昼晩とどこででも盛るくせに、今日に限ってやけにまともなことを言うもんだと不信感が募る中、ファイはさらにぼそりと口にした。
「あ、汗……かいたし……」
自分の胸の辺りで両手をぎゅっと握ってもじもじとしながら、ファイは「ね?」と小首を傾げた。お願いのポーズである。
だが、通常であればその仕草にイラッとしている黒鋼もまた、普段とは少し違っていた。
「おもしれねぇな、それ」
「え」
「汗くせぇかどうか、俺が検査してやる」
「え!?」
「おら、脱げ」
「!?」
ザァッと青ざめたファイのシャツを思い切りたくしあげると、夏でも透けるように白い胸が露出した。確かに、少し汗ばんで艶々としている。
「だ、ダメだってばー!! オレ帰る! 帰ってお風呂入ってからまたすぐ来るぅー!!」
思わずその素肌に唇を寄せかけた黒鋼の頭をポカポカと殴りながら、またしてもファイは暴れた。
「すぐ来るっておまえ……結局は昼間だろうが関係ねぇんだな……」
突っ込みもそこそこに汗ばんだ肌にべろりと舌を這わすと、ファイの「きぃーやぁー!!」という悲鳴と共に微かな塩の味がして、黒鋼は青ざめている男を上目使いに見上げると、にやりと笑った。
「味はまぁまぁだな。次は匂いか」
「!?」
ファイの背を両手で抱いて、そのまま体勢を変えた。床の上にすっかり転がされ、見下ろされる立場となったファイは、涙目でプルプルと震えると
「へ、へ、変態!!」
と、叫んだ。
***
「やー!! やだー!! 離してぇーっ」
「暴れっとなおさら汗だくになんぞ」
「……!」
バタバタと身体の真下で暴れていたファイだったが、黒鋼の一言にビシッと動きを止めた。
室内温度は現在エアコンで28度と、きっちりエコに調節されている。しかしながら真昼間、身体を動かすとなると、些か物足りない室温だ。
散々ぱら暴れた後であるから、今さら静止したところでもはや遅い気もするのだが。
しめたとばかりにたくし上げられていたシャツを、ズボッと頭から引き抜いてしまうと、完全に取り払うことはせずファイの手首の辺りで適当にゴタゴタと丸めたり、捻じったりして拘束した。
そこでようやくハッとしたファイが、また悲鳴を上げた。
「ギャー!? 黒様が言霊でオレを縛った!! そしてその間に手首まで縛ったぁーイヤァー!!」
「だから暴れんなって」
うまい具合に体重をかけて押さえつけると、黒鋼はファイの耳の裏に顔を埋めた。そして、わざとらしく鼻を鳴らして吸い込む音を聞かせてやる。
「っ――!!」
薄い身体が息を飲みながらビクンと跳ね上がった。その反応に気を良くしながら耳たぶに舌を這わせ、緩く歯を立てる。
「ちょ、ぁ! く、くろ……、ほんとに、や……ッ」
緊張に身を硬くしながらも、その声は甘い。どこまでも快楽に弱いこの男の弱点は全て知り尽くしている。じわじわと高めてやることで、やがてまるで全身が性感帯にでもなったかのように蕩けていくことも。
すでにささやかな主張をしはじめている胸の突起にも触れてやりながら、黒鋼はあえてバカにしたように、その耳元に向けて鼻で笑ってやった。
ビクリと腰を揺らしながら、ファイは傷ついたような表情を見せた。
「なんて顔してんだよ」
「だっ、て……だって……臭いもん……オレ……」
「それを確かめてんだろ」
「もう……もう、いい、でしょ? 嗅いだじゃん……! お風呂、入らせてよぉ……」
両手を拘束しているグルグル巻きのシャツを目元に押し当てながら、ファイは顔を真っ赤に染めていた。
彼がここまで抵抗して嫌がるのは珍しいことだった。黒鋼自身、無理やり事を成すことはあまり好きではない。
それが今はなぜだか、ファイが嫌がれば嫌がるほど、無性に興奮する自分がいた。
このまま続ければ確実に泣きだすだろうと、そう理解しつつも、黒鋼は行為を続行する。
濡れた音を立てながら白い首筋を貪る。時折緩く歯を立て、吸いついてやれば、敏感な肌には面白いほど簡単に痕が残る。
しっとりと汗ばむ肌は、ほんのりと塩辛いはずが、なぜか妙に甘く感じた。甘いものは好きではない。けれど今、黒鋼はまるで必死で花の蜜を集める蜂にでもなった気分だった。
「やっ、ぁ……ふ、ぅ、ん……」
顔を隠しながら嫌々と首を振るファイの、細い割に柔らかな二の腕を掴む。顔を見せろと言わんばかりに上へと押し上げて、その表情を暴けば、彼の瞳は涙で潤んでいた。嫌だと言う割に、しっかりと情欲の色を乗せた揺らめくそれに、黒鋼は静かに喉を鳴らす。
腕を押し上げたことで剥き出しになった、ファイのシミ一つない脇のへこみが眼下に飛び込んでくる。そこに目を留めている黒鋼が何をするつもりかを察したのだろう、はっとしたファイが暴れ出す前に、唇を寄せた。
「やっ、だ……ッ! あっ! やぁ……!!」
案の定、暴れ出すファイの抵抗など完全に無視して、そのへこみをベロリと舐め上げる。甘い味と、香りが一層増した気がして、黒鋼は熱い息を吐きだした。身体の中心に、激しい疼きを感じる。
薄い皮膚の下、神経の集中した敏感なそこは、特に気になる場所である。それを知りつつ殊更いやらしい音を立てて執拗に吸いつけば、ファイは身悶えながらもついに涙を流して泣きだした。
「そこ嫌ッ、そこ嫌だぁ……ッ! 舐めちゃダメ……! もうやだ……ッ!」
ひくひくと身を震わせるファイに、流石に顔を上げる。
幼子のように頬を濡らしている様を見て、イジメすぎたかと思いつつ、黒鋼は小さく笑った。
「マジ泣きすんなよ」
「っ、ぅ、っく……、ばか……もうきらい……っ」
「てめぇの匂いしかしねぇよ」
それは本当に、彼の匂い、としか言いようがない。
こういうものをフェロモン、とでも言えばいいのか。黒鋼の雄の本能を刺激してやまない。愛おしくてどうしようもなかった。
「しょうがねぇだろ。興奮しちまうんもんは」
そもそも体臭など人それぞれで、実際のところ、この男はその体臭そのものが薄い。
だいたい、普段からこうして身体を重ねればお互い汗をかくのは当たり前で、そんなもの気にする余裕などないくせに。
けれどそれを言ってしまえば、きっと彼は「そういう問題じゃない」と言って、さらに怒り出すに違いなかった。
身を乗り出して、濡れた頬に口づけた。それでもどうやら感情の高ぶりが治まらないらしいファイは顔を逸らす。
「きらい……いじわる……っ」
「んなこと言うな。……よくしてやるから」
「ぅ、わ……!」
乱暴にならない程度の力で、彼の身体をひっくり返した。
白く美しい曲線を描く背中や、腰のラインに幾度もキスをしながら、ファイの気を逸らしつつ細いウエストに手を回すと、器用に前をくつろげて下着ごと下ろしてしまう。
小さな尻がつるりと姿を現して、ファイは羞恥から逃れようと身体をくねらせる。尻を高く掲げて突きだすような体勢に、その全身が桃色に染まった。
「や、やだ……っ!」
だが、膝の辺りまでしか下ろされていない下着とジーンズは、上手い具合に彼の両足も拘束する形になる。
両足の中心では緩く勃ち上がる性器が微かに震えていた。
むしゃぶりついて思いきり啼かせてやりたい衝動に駆られながらも、ひとまずは柔らかな二つの丘を大きな手でそれぞれ包み込む。ぐにぐにと揉みしだき、吸いつくような弾力を確かめてから親指に力を入れ、ぐっと割り開いた。
「もうヒクついてんじゃねぇか」
きゅっと窄まった桃色の秘穴が、それを持つ本人の建前とは裏腹に、何かを期待するかのようにヒクヒクとしている。
「い、やだ……、恥ずかしい、から……見ないで……お願い、お願いだよ……」
弱々しい懇願も、泣き濡れて掠れた語尾も、震える身体も、今はその全てが黒鋼を煽る材料にしかならない。
昼間の明るい日差しがレースのカーテン越しに射しこむ中で全て暴かれて、彼の羞恥は如何ほどだろうか。心中を察すれば若干哀れに思いつつも、黒鋼自身あまり余裕はなかった。
引き寄せられるかのように顔を寄せて、窄まりにキスをする。
大きく跳ね上がったファイは背筋を仰け反らせ、声にならない悲鳴を上げた。
「ヒッ――!?」
ぬるりと舌の先端を入り口に潜り込ませて、刻まれている小さな皺の一つ一つを丹念に伸ばすようにして穿る。
「うそ、うそ……ッ、ダメ、舐めちゃ……ッ!」
拘束されている両腕で必死に肘を立て、無理に身体を捻ろうとする動きも意に介さず、黒鋼はそこを解す作業に夢中になった。
チクチクという小さな水音と共に、頑なな蕾は熱を孕みながら開いていく。
ファイの内腿が痙攣しはじめる。床に縋りつきながらしくしくと泣いているくせに、いつしか細い腰は物欲しげに揺れ始めていた。
「だめ、……っ、ぁ、うぅ、んッ、おしり、ッ、オレの、おしり……とけ、ちゃう、ぅ……ッ」
舌だけでは奥になど到底届かない。彼が切なく身を焦がしていることは知っていた。わざわざ触れて確認せずとも、性器が痛いほど張りつめているであろうことも。
角度を変えながら音を立てて秘穴を舐め解しながら、黒鋼はファイの下着とジーンズをさらに下ろし、片足だけ引き抜かせた。痙攣する内腿に手を差し入れて開かせると、案の定、反り返っている性器の先端から溢れた先走りの液が、柔らかな袋を伝い、床に染みを作り上げていた。
悟られぬよう薄く笑いながら、唾液で潤ってきたタイミングを見計らって、中指を差し入れた。びくびくと、ファイの背筋が跳ねる。
「あ……ひ……っ、んんっ!」
関節ごとに僅かに引っ掛かりながらも、そこは黒鋼の指を丸々飲みこんだ。このぶんならと幾度か出し入れをしてから中指を引き抜くと、次は人差し指も添えて2本同時に潜り込ませる。
ファイのあえかな悲鳴が、明るい室内に水音と共に響き渡った。
あまりにも不釣り合いに思えて、甘美な背徳感が黒鋼をさらに高揚させた。
熱い肉壁の中へ二本の指を慎重に進めながら、さらに彼を追い立てる場所を探り当てる。小さく柔らかなしこりを指先に感じた瞬間、ファイの腰がのたうちながら、本能的な逃げを打つべく大きく跳ねた。
「――ッ!! アッ、ああぁッ、そこ、は……ッ、だ……っ!!」
その一点に指先を軽く押し当てるだけで、面白いほど乱れ狂う彼は、もはや羞恥を感じる間もない様子だが、このまま続ければすぐにでも限界を迎えてしまうことは明白だ。
「まだイクんじゃねぇぞ」
「ぁう、うぅ……っ、う……っく、ぅ……」
そっと指を引き抜くと、黒鋼は自分の汗で張り付いている鬱陶しいシャツを、乱暴に脱ぎ捨てた。今にもくったりと崩れ落ちそうになっている腰を片手で掴んで支えながら、自分のジーンズの前を寛げる。
痛いほど張りつめていた自身の性器を自由にしてやると、ほっと息を吐きだした。
そしてファイの身体を背中からすっぽりと覆うように身を乗り出して、床に顔を伏して泣いている彼の項に、あやすように口づけた。
「おら、泣いてんなよ。よくしてやってるだろ」
耳元に囁くと、苦しそうにこちらに顔を向けたファイに睨まれた。涙に濡れ、快感に赤くなった頬をしながらそんな目をされても、黒鋼は笑うしかない。
「バカ黒……! よすぎて……もう、わかんない! ぐちゃぐちゃだよ!」
「まだ嫌いとかほざくんじゃねぇだろうな」
「あっ! んぅ、や、擦りつけ、ないで……ッ」
わざと先端をヒクつく穴に押しつける。焦らすように当たりを外しながら、自身の先走りを塗りつけるようにして。
「ヒッ、ん……! ばかぁ……!」
「言えよ」
余裕はないものの、身体の下でビクンビクンと反応する身体が面白くて、黒鋼は焦らすのを止めない。
挿入するギリギリの強さでぐっと先端を押し付けると、ファイはきつく目を閉じて悔しそうに言い放った。
「もう! 好きだよ! 好きだから、早く入れてよ……!」
それを合図に、しっかりと腰を抱きしめた状態で身体を前へと進めた。
ずぶりという音がした瞬間、先端からゆっくりと熱い肉の壁に締めつけられていく。思わず漏れそうになる呻きをぐっと堪えた。
「あっ、あ、あぁあ……ッ! すご、はいっ、て、くるっ! すごいの……ッ!」
背を反らし、喉を反らして喘ぐファイの耳裏に、鼻先を擦りつけるようにして押し付けた。ふわりと、またファイが香った。
時間をかけて納めきってしまえば、挿入しているのは身体の一部分のはずなのに、まるで全身を包み込まれているような気がして眩暈がした。
汗が、頬を伝い落ちる。
「平気か」
弾む息を整えながら、震えの止まらないファイを気遣う。彼は、緩く首を振った。
「平気じゃ、ない……っ! つぎ、動かれたら、オレ、いく……ッ」
これでも随分と堪えたらしい。ふと手を伸ばせば、驚くほど熱を持った性器が弾けそうなほど膨らみ、よだれを垂らし続けているのがわかった。
「しょうがねぇな」
「さ、さわらない、で……!」
「いいぜ。イケよ。なんべんでも」
「やっ……!」
手のひらにそれをきゅっと包みこんで、緩く扱くのと同時に腰を小刻みに動かし、揺さぶった。腕の中の身体がぐっと緊張する。
「――ッ!!」
彼は宣言通り、あっけないほど一瞬にして絶頂を迎えた。
強すぎた快感がゆえに、大きく開かれた唇からは悲鳴さえ上がらない。食いちぎられそうなほどの締めつけに歯を食いしばりながらも、黒鋼は全身を大きく震わせながら射精するファイを、しっかりと抱きしめていた。
手だけでは受け止めきれなかった精液が床に零れ落ちる。後で掃除が面倒だと思いながらも、そんなこと今はどうでもよかった。
「ぁ―……、ぁ……ぁ、ぁ……っ」
「派手にいったな」
まともに言葉も発せずに、必死で呼吸を繰り返すファイの両手の戒めを解くと、グシャグシャになったそれで適当に手を拭って放り投げた。
未だ断続的に痙攣しながら力の抜けていく腰を支えながら、くしゃりと髪を撫でてやる。
そして、一度ナカから自身を引き抜くとファイの身体を今度は向き合うようにひっくり返した。
くったりと成すがままのファイのとろんとした瞳はどこか虚ろで、ふと笑みが零れる。
「こら、飛んでんじゃねぇよ。腕まわせ」
「ぁ……?」
ファイの腕を掴み、首に回させる。弱々しいながらも素直にファイの両腕が絡みついてくると、黒鋼は熱い息を吐きだすその唇に深く口づけながら、再び肉棒を濡れた秘穴に挿入していく。
「んっ、んっ、ぁ、ふ……」
混ざり合った互いの唾液が、ファイの口端から溢れだす頃になると、黒鋼はようやく自らも欲望を満たすため動きを再開させた。
はじめはゆっくり、抱きしめたファイの身体を小刻みに揺さぶりながら、やがて徐々に律動を大きくしていく。
唇同士が糸を引きながら離れると、ファイの口からはひっきりなしに甘い嬌声が上がる。
黒鋼もまた次第に息が上がり、獣じみた呼吸に支配されていた。
汗が、吐息が、鼓動が混ざり合う。境目などないほどに繋がって、溶け合って、二人が一つになっていく。
「すごいっ、すごいの……ッ! も、こんなのっ、ダメっ、死んじゃう……!」
いつしかバツンバツンと肌がぶつかり合うほどの激しさで快楽を貪っていた。結合部が淫らな音を立てる。
先刻、あれほど勢いよく放ったはずのファイの性器も、すでに力を取り戻して、律動の度にブルブルと震えながら玉のような液を幾粒も散らしていた。
「あっ、あっ、イッ、く、イク……! いくぅ!!」
瞼の裏側にぱちぱちとした火花のようなものが煌めく。黒鋼にもついに限界が訪れようとしていたが、先に果てたのはファイの方だった。
放たれた精液が黒鋼の腹をも熱く濡らした瞬間、堪えがたいほどの締めつけに腰が跳ねる。食いしばった歯の隙間から低い呻きを漏らしながら、黒鋼はファイの最奥に精を放った。
「っ、はっ、く……!」
凄まじい射精感が一瞬の嵐のように過ぎ去ると、黒鋼はファイの首筋に額を埋めた。
はかはかと浅い呼吸を繰り返しながら、ファイの両腕がそんな黒鋼の頭を優しく抱きとめた。
*
そうして二人は少しの間、余韻に浸っていた。
ふと思い出してちらりと窓の外を見れば、ほんの僅かに陽が傾き始めていることに気がつく。
夢中になりすぎて、時間の感覚を失っていた。
結局、ファイが雑誌で見つけてくるような店には行けなかったが、この後もし彼の身体が大丈夫そうなら、軽くシャワーでも浴びて、どこかその辺りの店にでも連れだしてやろうか。いい加減、腹も減ったことだし。
そんなことにぼんやりと思考を巡らせながら、抜かずにいた性器を引き抜こうとしたとき、ファイがぽつりと口を開いた。
「黒たんせんせ……」
「なんだ?」
「ん……」
顔を上げると鼻先が触れあいそうな距離でファイが困ったような、戸惑ったような表情を浮かべている。
「なんだよ」
「……あのね、オレ……ほんとはちょっと、わかる気がする」
「何が」
「うんとね……黒たんの……」
ファイの頬が赤い。こうして本気で照れているような表情は、彼にしては少し珍しい。
無言で僅かに首を傾げていると、白い腕がぎゅっと黒鋼の首を抱いて、首筋に顔を埋めてくる。その状態で上目づかいで黒鋼を見やるとファイは言った。
「黒たんの汗の匂いね、凄く、エッチな匂いがするから……」
黒鋼は思わず目を見開き、すっとんきょうな顔をした。それから、堪らず小さく吹き出した。
「もう、笑うのずるい……っ、て! ちょ、っと!?」
「おまえなぁ……せっかく人が……」
「えっ!? え!? ぅあっ!? 黒た……っ、中で、おっきくな……ッ」
腕の中、華奢な身体がビクンと跳ね上がった。
体中を真っ赤にしながらあたふたともがくファイに、黒鋼はとびきりの悪人面でニヤリと笑って見せた。
彼にとっては何気ない発言だったものが、ひとまずは鎮まっていた黒鋼に、またしても火をつけてしまった。
「可愛いこと言ってんじゃねぇぞ」
強く抱きしめて耳元に囁きながら腰を揺らすと、再びファイの唇からは甘い吐息と喘ぎが零れた。
それは暑い熱い夏の日のこと。
止めどなく発情する二人の姿を知っているのは、テーブルの上、口をつけられることなく放置されて温くなった、麦茶のグラスだけだった。
←戻る ・ Wavebox👏
「うーわー! すっごい人がいっぱいだねー!」
小雪のチラつく元旦。
黒鋼とファイは二人揃って近場の神社へと足を運んでいた。
「チョロチョロして迷子になるんじゃねぇぞ」
「ほらほら見てー! 振袖の女の子がいっぱいー! 可愛いなーいいなー」
行き交う人の波にあって、子供のようにはしゃぐファイは思い切り目立っている。
大声を出しては身振り手振りで感情を表現している彼は、時折擦れ違う人間とぶつかってはペコリと頭を下げたりもする。でも懲りない。すぐにまたキャアキャアとはしゃぐ。
「だから嫌だったんだ俺は……」
元日早々この寒い中を出歩いて、しかもこの人込みの中こんな小うるさい野郎にいちいち目を向けていなければならないなんて。
石畳の階段を神社の境内へ向けて登るまでに、黒鋼はもう幾度この男を咎めたか知れない。
ファイの気紛れで初詣へと訪れたのはいいものの、参拝する前にすでに帰りたくて仕方が無い気分だ。部屋に戻れば正月のために買い込んである酒と、ポカポカの炬燵が待っているのだ。
「オレもまた振袖着たぁい」
「それはやめとけ」
「えー」
うんざりしつつも階段を登りきると、境内へ至るまでの一本道もまた人の波で凄まじいことになっていた。
路上には幾つかの露店も見えて、子供連れの家族などが群がっているのが見える。
それは当然ファイの目にも入っていて、彼は瞳を輝かせると「きゃー!!」と奇声を上げて、露店へ駆け寄ろうとする。
その襟首をむんずと掴んで、ズルズルと引きずった。
「いやー! 離してー! 白濁戦隊デルンジャーのお面買うのー!!」
「馬鹿かてめぇは!! 後にしろ後に! つうか幾つになってお面とかほざいてんだ!?」
しかもその戦隊ヒーローは本当にチビッ子向けなのか?
と疑問を抱きつつ、恐ろしい形相で怒鳴る黒鋼もまた、人目を思いっきり浴びている。そのお陰か、二人の周りからは徐々に人が退きつつあった。逆に進みやすくなってありがたいような、そうでないような。
「黒たん先生のけちんぼ……お面売り切れたら呪ってやる……」
「呪いでもなんでもかけてみやがれってんだ。ったく……」
ぶーぶーと文句を零しながらも自力で前へと歩き出したファイの襟を解放した。
このまま進めばもうじき参拝客の列の最後尾につける。そのときだった。
「ほら、はぐれたら大変だから」
「大丈夫よぉ」
「おまえ小さいんだから、迷子になっても見つけられないぞ?」
「ひどーい! アタシ小っちゃくなんかないもん!」
ファイと黒鋼の目の前で二人の若い男女が手を繋ぎ、人込みの中に消えて行った。
なんとなく目についてしまったせいで立ち止まってしまったが、黒鋼はすぐに興味なさげに歩き出した。だが、ファイがついて来ない。
「……おい、なにやってんだ行くぞ」
「…………」
「おい?」
「いいなぁあーゆうの……」
見ればファイが人さし指を咥えて、二人の男女が消えた方向を物欲しげに見つめている。
思わず嫌そうな顔をした黒鋼に、ファイはぱっと顔を上げると手を差し出してきた。
「さぁオレたちもはぐれないように手を! 繋ごう!」
「ざけんじゃねぇぞ。なに触発されてんだ」
「だってほら! 手繋がないとオレたちはぐれちゃうんだよー!」
「はぐれたってすぐに見つけられるだろうが。てめぇは目立つんだよ」
ただでさえ騒がしいのに加えて、黒鋼もファイも揃って長身である。普通の人間よりも軽く頭一つ分は余裕で飛びぬけている黒鋼に、ファイはこの金髪だけでも結構目立つ。
そもそもこの落ち着きのない男から、常に目を離さずにいることがすっかり身についている黒鋼が、ファイを見失うことなど到底ありえないことだった。
「だいたい野郎が二人して手なんぞ繋いで歩けるか」
「えー!! こんだけ人がいたら逆に平気だってー!」
「うっせぇ行くぞ」
「もう! 黒様先生ってばダメダメばっか! 意地悪ー! けちんぼー!」
くだらないことで時間を無駄にしてしまったことに苛立ちながら、黒鋼はズンズンと前へ進んだ。ファイも相変わらずブツブツと文句は垂れていたが、結局素直に横に並んだ。
「オレもっとちっちゃく生まれればよかったー」
言っても仕方の無い呟きが確かに聞こえたが、黒鋼は聞かなかったことにした。
*
よやく列に並んでからは、順番が回って来るのは案外早かった。
賽銭を投げて鐘を鳴らすと、二人揃って手を合わせる。
流石に大人しく口を噤んだファイを横目でチラリと見れば、何かを必死で願っているらしい整った横顔に、少し複雑な気持ちになった。この男は、黙ってさえいれば完璧なのに。
(今年はいい加減、ちっとは落ち着いてくれりゃあいいんだが)
まさに困ったときの神頼みである。黒鋼もまた目を閉じて、今年一年の息災を願う。
ファイが落ち着きますように、ファイがまた馬鹿なことをしでかしませんように、ファイがはしゃぎすぎて怪我をしませんように。
(こいつのことばっかじゃねぇか……)
手を合わせつつ、黒鋼はそんな自分自身に思わず呆れた。
己がことよりも常に心配なのは、結局ファイのことばかりだった。
今年も一年、この騒がしくて子供のような男に手を焼くことになるのか。
(しょうがねぇな……)
ほとんど諦めの境地に至っていることに気がついて、そしてきっとこれほど手のかかる男の面倒を見れるのは、自分だけに違いないと思った。
面倒臭いといえばその通りだが、決して嫌ではない。これも最早どうしようもないことなのかもしれない。
本人には絶対に口が裂けても言わないけれど、黒鋼はなんだかんだでファイが可愛くて仕方が無い。ただ表現の仕方が不器用なだけで。
(少しぐれぇ甘やかしてやるか……)
実際は先刻のやり取りが多少は気になっている黒鋼だった。そんなにも手を繋いで歩きたいのなら、せめて今日くらいは。
そんなことをチラリと考えてながら顔を上げて、隣を見やる。
「おら、そろそろ行くぞ……って?」
見ればもう、そこにファイの姿はなかった。
後に並んでいる参拝客の邪魔にならぬようにその場を退き、辺りを見回す。だがすぐに見つけられるはずの金髪が、すぐには見つからない。
まさか本当に迷子にでもなったのか。確かにここにはあのアホが喜びそうなものが沢山ある。だが、これほど短時間の間に……。
「一体どこ行きやがった……?」
「黒たーん! お参り終わったー?」
「!」
するとすぐに能天気な声が耳に飛び込んできた。
「……てめぇ、なんだそりゃあ?」
声の方を振り向けば、そこには頭の両サイドに妙な面を被り、両手に白い紙コップを持ったニコニコ顔のファイがいる。
「ごめんごめん。黒たん先生ずっと真剣に手を合わせてたからねー、先にちょっと出店の方に行ってきちゃったよー」
さっきまで頬を膨らませてぶつくさを文句を垂れていたくせに、ファイは今やすっかりご機嫌だった。
「ほらほら、先生の分のお面も買ったよ! うしろうしろ!」
くるりと後を向いたファイの後頭部にも、さらにもう一つお面があった。左右と後方に被さるようにして装着された三つのお面。これでは金髪も探し難いわけである。
「右の青レンジャーがオレで、後ろの赤レンジャーが黒たんだよー。もう一個のグリーンはユゥイの分でーす!」
「この野郎……」
少しでも心配しかけた自分が馬鹿馬鹿しくなって、黒鋼は赤レンジャーとやらの面を思いっきり引っ張った。ガクンと後方に身体を傾けたファイが、あわあわと悲鳴を上げる。
「やーめーてー! 零れちゃう! コップの中身が零れちゃうからー!」
「なんだぁ? そいつは」
「甘酒でーす。あっちの方で無料で配ってたから貰ってきましたー。はい、黒様ー」
態勢を立て直したファイが、片方のカップをこちらに差し出してきた。だが、黒鋼は顔を顰めてそれを拒絶する。
「んな甘いもん飲めるか」
「そう言うとは思ったけどー、せっかくただでくれるって言うからさー。ね?」
「ね、じゃねぇ。てめぇが飲め」
「えー!? 二つも飲めないよー!」
「……ったく」
呆れはしたものの、甘酒を二つも持っていたのでは、手が繋げないではないか。
どこまでも手のかかる奴だと思いつつも、手を伸ばして受け取ろうとしたところで、コップがすっと引いた。
「あ?」
「ちぇー、せっかく持ってきてあげたのに! もういいよ、全部飲めばいいんでしょー」
「いや、おい」
「それに二つ持ってた方が両手あったかいもんねー。ラッキーだもんねー」
「お、おい!」
「なにしてんの黒様ー! グズグズしてると置いてっちゃうよー! 早く部屋に帰ろうよー!」
気がつくと、黒鋼は一人ポツンと残されていた。差し出した片手だけが虚しく宙に浮いている。
後頭部の赤い面が、どんどん遠ざかって行った。
「あ、あの野郎……」
突き放せば縋りついてくるくせに、いざ手を伸ばそうとすれば逃げていくとはどういうことだ。
「待てこのアホ教師!!」
理不尽な苛立ちと自覚しながらも腹のムカつきを隠せない黒鋼だったが、ドスンドスンと大股で歩けばすぐに追いついた。
ファイは両手に持っているカップに交互にチビチビ口をつけながら、追いついてきた黒鋼にふにゃっと微笑んだ。
「お参りも済んだし、今年もいっぱい楽しいことあるといいよねー。あ、黒たん先生は何かお願いごとした?」
「……さぁな」
「あのねー、オレ今年は黒様先生に迷惑かけないで過ごせますようにって、神様にお願いしたんだよー」
「……ああ?」
鬼や悪魔もチビりそうな物騒な顔をしている黒鋼に気づかず、ファイはどこか自信たっぷりに言った。
「もうワガママ言ったりしないから安心してよねー!」
「!?」
言い切ったあとどこか誇らしげなファイに、黒鋼は大きな衝撃を受けた。
少しくらいであれば、ワガママくらい聞いてやってもいいかもしれない、だなどと思いなおしたのはつい今しがたのことである。
ファイがまさかそんなことを考えていたなんて、普段の黒鋼であれば素直に喜ぶ場面だったかもしれない。
「あれ? 黒様先生? 嬉しくないのー?」
だが今は少し事情が違う。とはいえ、ここで不満を爆発させたのではあまりにも大人気がなさすぎる。
堪えろ。堪えるんだ黒鋼。落ち着くんだ黒鋼。だが……。
「うるせぇ……」
「へ?」
面白くないものは面白くないのだから仕方がない……!
「てめぇなんぞもう知るか! とっとと転べ! 転んで甘酒ぶちまけやがれ!!」
「え? え? え~!? なんで!? なんで怒ってるの~!?」
「先に帰る!!」
「ま!? 待ってよ黒様ー!! わっ、わーっ!!」
ドスドスと大股で歩き、とっとと先を行く黒鋼の背後で、ファイが派手にすっ転ぶ音がした。
そして結局どうなったかというと、黒鋼の言った通り甘酒を二つぶちまけて転んだファイは、鼻先を思いっきり真っ赤に擦りむいて泣いた。
グスグスとべそをかいているファイの腕を掴んで寮へと戻る黒鋼の表情は、そこはかとなくご満悦そうなものだった……。
←戻る ・ Wavebox👏
小雪のチラつく元旦。
黒鋼とファイは二人揃って近場の神社へと足を運んでいた。
「チョロチョロして迷子になるんじゃねぇぞ」
「ほらほら見てー! 振袖の女の子がいっぱいー! 可愛いなーいいなー」
行き交う人の波にあって、子供のようにはしゃぐファイは思い切り目立っている。
大声を出しては身振り手振りで感情を表現している彼は、時折擦れ違う人間とぶつかってはペコリと頭を下げたりもする。でも懲りない。すぐにまたキャアキャアとはしゃぐ。
「だから嫌だったんだ俺は……」
元日早々この寒い中を出歩いて、しかもこの人込みの中こんな小うるさい野郎にいちいち目を向けていなければならないなんて。
石畳の階段を神社の境内へ向けて登るまでに、黒鋼はもう幾度この男を咎めたか知れない。
ファイの気紛れで初詣へと訪れたのはいいものの、参拝する前にすでに帰りたくて仕方が無い気分だ。部屋に戻れば正月のために買い込んである酒と、ポカポカの炬燵が待っているのだ。
「オレもまた振袖着たぁい」
「それはやめとけ」
「えー」
うんざりしつつも階段を登りきると、境内へ至るまでの一本道もまた人の波で凄まじいことになっていた。
路上には幾つかの露店も見えて、子供連れの家族などが群がっているのが見える。
それは当然ファイの目にも入っていて、彼は瞳を輝かせると「きゃー!!」と奇声を上げて、露店へ駆け寄ろうとする。
その襟首をむんずと掴んで、ズルズルと引きずった。
「いやー! 離してー! 白濁戦隊デルンジャーのお面買うのー!!」
「馬鹿かてめぇは!! 後にしろ後に! つうか幾つになってお面とかほざいてんだ!?」
しかもその戦隊ヒーローは本当にチビッ子向けなのか?
と疑問を抱きつつ、恐ろしい形相で怒鳴る黒鋼もまた、人目を思いっきり浴びている。そのお陰か、二人の周りからは徐々に人が退きつつあった。逆に進みやすくなってありがたいような、そうでないような。
「黒たん先生のけちんぼ……お面売り切れたら呪ってやる……」
「呪いでもなんでもかけてみやがれってんだ。ったく……」
ぶーぶーと文句を零しながらも自力で前へと歩き出したファイの襟を解放した。
このまま進めばもうじき参拝客の列の最後尾につける。そのときだった。
「ほら、はぐれたら大変だから」
「大丈夫よぉ」
「おまえ小さいんだから、迷子になっても見つけられないぞ?」
「ひどーい! アタシ小っちゃくなんかないもん!」
ファイと黒鋼の目の前で二人の若い男女が手を繋ぎ、人込みの中に消えて行った。
なんとなく目についてしまったせいで立ち止まってしまったが、黒鋼はすぐに興味なさげに歩き出した。だが、ファイがついて来ない。
「……おい、なにやってんだ行くぞ」
「…………」
「おい?」
「いいなぁあーゆうの……」
見ればファイが人さし指を咥えて、二人の男女が消えた方向を物欲しげに見つめている。
思わず嫌そうな顔をした黒鋼に、ファイはぱっと顔を上げると手を差し出してきた。
「さぁオレたちもはぐれないように手を! 繋ごう!」
「ざけんじゃねぇぞ。なに触発されてんだ」
「だってほら! 手繋がないとオレたちはぐれちゃうんだよー!」
「はぐれたってすぐに見つけられるだろうが。てめぇは目立つんだよ」
ただでさえ騒がしいのに加えて、黒鋼もファイも揃って長身である。普通の人間よりも軽く頭一つ分は余裕で飛びぬけている黒鋼に、ファイはこの金髪だけでも結構目立つ。
そもそもこの落ち着きのない男から、常に目を離さずにいることがすっかり身についている黒鋼が、ファイを見失うことなど到底ありえないことだった。
「だいたい野郎が二人して手なんぞ繋いで歩けるか」
「えー!! こんだけ人がいたら逆に平気だってー!」
「うっせぇ行くぞ」
「もう! 黒様先生ってばダメダメばっか! 意地悪ー! けちんぼー!」
くだらないことで時間を無駄にしてしまったことに苛立ちながら、黒鋼はズンズンと前へ進んだ。ファイも相変わらずブツブツと文句は垂れていたが、結局素直に横に並んだ。
「オレもっとちっちゃく生まれればよかったー」
言っても仕方の無い呟きが確かに聞こえたが、黒鋼は聞かなかったことにした。
*
よやく列に並んでからは、順番が回って来るのは案外早かった。
賽銭を投げて鐘を鳴らすと、二人揃って手を合わせる。
流石に大人しく口を噤んだファイを横目でチラリと見れば、何かを必死で願っているらしい整った横顔に、少し複雑な気持ちになった。この男は、黙ってさえいれば完璧なのに。
(今年はいい加減、ちっとは落ち着いてくれりゃあいいんだが)
まさに困ったときの神頼みである。黒鋼もまた目を閉じて、今年一年の息災を願う。
ファイが落ち着きますように、ファイがまた馬鹿なことをしでかしませんように、ファイがはしゃぎすぎて怪我をしませんように。
(こいつのことばっかじゃねぇか……)
手を合わせつつ、黒鋼はそんな自分自身に思わず呆れた。
己がことよりも常に心配なのは、結局ファイのことばかりだった。
今年も一年、この騒がしくて子供のような男に手を焼くことになるのか。
(しょうがねぇな……)
ほとんど諦めの境地に至っていることに気がついて、そしてきっとこれほど手のかかる男の面倒を見れるのは、自分だけに違いないと思った。
面倒臭いといえばその通りだが、決して嫌ではない。これも最早どうしようもないことなのかもしれない。
本人には絶対に口が裂けても言わないけれど、黒鋼はなんだかんだでファイが可愛くて仕方が無い。ただ表現の仕方が不器用なだけで。
(少しぐれぇ甘やかしてやるか……)
実際は先刻のやり取りが多少は気になっている黒鋼だった。そんなにも手を繋いで歩きたいのなら、せめて今日くらいは。
そんなことをチラリと考えてながら顔を上げて、隣を見やる。
「おら、そろそろ行くぞ……って?」
見ればもう、そこにファイの姿はなかった。
後に並んでいる参拝客の邪魔にならぬようにその場を退き、辺りを見回す。だがすぐに見つけられるはずの金髪が、すぐには見つからない。
まさか本当に迷子にでもなったのか。確かにここにはあのアホが喜びそうなものが沢山ある。だが、これほど短時間の間に……。
「一体どこ行きやがった……?」
「黒たーん! お参り終わったー?」
「!」
するとすぐに能天気な声が耳に飛び込んできた。
「……てめぇ、なんだそりゃあ?」
声の方を振り向けば、そこには頭の両サイドに妙な面を被り、両手に白い紙コップを持ったニコニコ顔のファイがいる。
「ごめんごめん。黒たん先生ずっと真剣に手を合わせてたからねー、先にちょっと出店の方に行ってきちゃったよー」
さっきまで頬を膨らませてぶつくさを文句を垂れていたくせに、ファイは今やすっかりご機嫌だった。
「ほらほら、先生の分のお面も買ったよ! うしろうしろ!」
くるりと後を向いたファイの後頭部にも、さらにもう一つお面があった。左右と後方に被さるようにして装着された三つのお面。これでは金髪も探し難いわけである。
「右の青レンジャーがオレで、後ろの赤レンジャーが黒たんだよー。もう一個のグリーンはユゥイの分でーす!」
「この野郎……」
少しでも心配しかけた自分が馬鹿馬鹿しくなって、黒鋼は赤レンジャーとやらの面を思いっきり引っ張った。ガクンと後方に身体を傾けたファイが、あわあわと悲鳴を上げる。
「やーめーてー! 零れちゃう! コップの中身が零れちゃうからー!」
「なんだぁ? そいつは」
「甘酒でーす。あっちの方で無料で配ってたから貰ってきましたー。はい、黒様ー」
態勢を立て直したファイが、片方のカップをこちらに差し出してきた。だが、黒鋼は顔を顰めてそれを拒絶する。
「んな甘いもん飲めるか」
「そう言うとは思ったけどー、せっかくただでくれるって言うからさー。ね?」
「ね、じゃねぇ。てめぇが飲め」
「えー!? 二つも飲めないよー!」
「……ったく」
呆れはしたものの、甘酒を二つも持っていたのでは、手が繋げないではないか。
どこまでも手のかかる奴だと思いつつも、手を伸ばして受け取ろうとしたところで、コップがすっと引いた。
「あ?」
「ちぇー、せっかく持ってきてあげたのに! もういいよ、全部飲めばいいんでしょー」
「いや、おい」
「それに二つ持ってた方が両手あったかいもんねー。ラッキーだもんねー」
「お、おい!」
「なにしてんの黒様ー! グズグズしてると置いてっちゃうよー! 早く部屋に帰ろうよー!」
気がつくと、黒鋼は一人ポツンと残されていた。差し出した片手だけが虚しく宙に浮いている。
後頭部の赤い面が、どんどん遠ざかって行った。
「あ、あの野郎……」
突き放せば縋りついてくるくせに、いざ手を伸ばそうとすれば逃げていくとはどういうことだ。
「待てこのアホ教師!!」
理不尽な苛立ちと自覚しながらも腹のムカつきを隠せない黒鋼だったが、ドスンドスンと大股で歩けばすぐに追いついた。
ファイは両手に持っているカップに交互にチビチビ口をつけながら、追いついてきた黒鋼にふにゃっと微笑んだ。
「お参りも済んだし、今年もいっぱい楽しいことあるといいよねー。あ、黒たん先生は何かお願いごとした?」
「……さぁな」
「あのねー、オレ今年は黒様先生に迷惑かけないで過ごせますようにって、神様にお願いしたんだよー」
「……ああ?」
鬼や悪魔もチビりそうな物騒な顔をしている黒鋼に気づかず、ファイはどこか自信たっぷりに言った。
「もうワガママ言ったりしないから安心してよねー!」
「!?」
言い切ったあとどこか誇らしげなファイに、黒鋼は大きな衝撃を受けた。
少しくらいであれば、ワガママくらい聞いてやってもいいかもしれない、だなどと思いなおしたのはつい今しがたのことである。
ファイがまさかそんなことを考えていたなんて、普段の黒鋼であれば素直に喜ぶ場面だったかもしれない。
「あれ? 黒様先生? 嬉しくないのー?」
だが今は少し事情が違う。とはいえ、ここで不満を爆発させたのではあまりにも大人気がなさすぎる。
堪えろ。堪えるんだ黒鋼。落ち着くんだ黒鋼。だが……。
「うるせぇ……」
「へ?」
面白くないものは面白くないのだから仕方がない……!
「てめぇなんぞもう知るか! とっとと転べ! 転んで甘酒ぶちまけやがれ!!」
「え? え? え~!? なんで!? なんで怒ってるの~!?」
「先に帰る!!」
「ま!? 待ってよ黒様ー!! わっ、わーっ!!」
ドスドスと大股で歩き、とっとと先を行く黒鋼の背後で、ファイが派手にすっ転ぶ音がした。
そして結局どうなったかというと、黒鋼の言った通り甘酒を二つぶちまけて転んだファイは、鼻先を思いっきり真っ赤に擦りむいて泣いた。
グスグスとべそをかいているファイの腕を掴んで寮へと戻る黒鋼の表情は、そこはかとなくご満悦そうなものだった……。
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「まぁまぁユゥイー。黒様先生も悪気があったわけじゃないしー、オレは責任持って先生にお嫁に貰ってもらうから落ち着いてよー」
蛇に睨まれたカエル状態で硬直していた黒鋼に助け舟を出したのは、まさに自分をカエルにまで貶めたはずのファイだった。
悪びれもなくヘラヘラふにゃふにゃしている化学教師を前に、黒鋼は胸中で『後で絶対に殴る』と固く誓った。(嫁にもらうことに関しての異存はない)
だがそれ以上に、このよく分からない妄想イベントはまだ続くのだろうか。酷い胸焼けに襲われ、そこはかとなく頬がこけたようになっている黒鋼は、仲のよろしい双子を尻目に、腕時計を覗き込んだ。
時刻は丑三つ時に差し掛かっている。大きな溜息が零れた。
「どうでもいいがな、時間も時間だ……そろそろお開きでいいんじゃねぇか……?」
「だんだん黒様先生とばっかり絡むのも飽きてきたでしょー? だからねー、ユゥイを登場させてみたんだー」
「ボク? それは嬉しいけど……なんだか少し複雑だね」
「そんなこと言わないでよー。結構よく出来てると思うんだー」
「聞いてくれよ……」
ガックリと項垂れた黒鋼。話を聞かないばかりか、勝手に妄想の中に登場させておいて「飽きた」という暴言を吐くファイに、そこはかとなくハートも傷つけられた。
今夜はもしかすれば眠ることを許されないのかもしれない……と思った黒鋼は、ふと考えた。
「おい、てめぇ」
「なぁに~?」
「その、この弟との絡みがあるってんならそれ読め。存分に読め」
「あれー? いきなりノリノリになっちゃったよこの人ー」
からかうようなファイの言葉に、黒鋼は無言を貫いた。なんと思われようが、この際どうでもいい。これで少しは自分が受けたダメージを、この弟も理解できるかもしれない。黒鋼はそう考えたのだ。
「わーかったよー! じゃあ、行くねー!」
「え、ちょっと待ってファイ……」
戸惑う弟に構わず、ファイはニコニコ顔で息を吸い込んだ……。
***
妄想日記 『双子の秘め事編』
それは真夜中のこと。
雷が鳴ったのと、傍らの温もりがビクリと身を震わせたのは同時だった。
「ファイ? 大丈夫……?」
ユゥイはベッドから僅かに身を起こすと、隣に身を横たえるファイの頬にそっと手を伸ばした。すぐに、手の甲に温かな指先が触れる。
「うん……ちょっとビックリしちゃっただけだからー……」
弱々しい声からは、普段のはつらつとした様子は窺えない。ユゥイは思わずクスリと笑った。
「ファイは昔から雷が苦手だったもんね」
「そ、そんなことー」
否定しようとするファイの言葉を遮るように、再び大きな音が響き渡る。声にならない悲鳴をあげて、ファイがユゥイに抱きついた。
「大丈夫、ね? ほら、こうしてボクが抱いててあげる。そうすれば怖くないよ。きっとね」
「うん……ごめんね、ユゥイ……」
ユゥイは小さく震えるファイを抱きしめて、その背中を優しく擦り続けた。雷は低く唸りを上げながらも、ときおり響く大きな轟きはやがて遠ざかっていく。
胸に顔を埋めたままだったファイが、僅かに顔を上げると、ほっと息を吐き出した。
「ユゥイの腕の中……凄く安心する……」
ようやく笑顔を見せてくれたファイに、ユゥイは込み上げる愛しさを抑えきれない。小さな頃から甘えん坊で、いつもユゥイの背中に隠れるようにして側にいたファイ。
身体はどんなに成長しても、今も昔も何一つ変わらないファイが、可愛くて仕方が無い。
気がつくと、ユゥイはファイの頬に手を伸ばし、ゆっくりとその唇に口付けていた。
「ん……ユゥイ……」
上ずった声に気をよくし、そのまま抱き込んだ状態でファイをシーツへ押し倒す。深く合わさる唇の隙間から、甘い吐息が零れ出し、絡まる舌と舌が小さく濡れた音を立てていた。
ユゥイは口付けに夢中になりながらも、ファイの寝巻きの裾からそっと手を忍ばせる。ゆっくりとたくし上げ、そのまま白い胸に手を這わせた。
「ぁ……だめ……ユゥイ……」
熱に浮かされたような潤んだ瞳で、ファイがユゥイの手首を掴む。けれどその手に力は込められていなかった。
ユゥイは笑うと、平らな胸の上にある二つの小さな飾りの片方に、指先で触れた。ファイの身体がビクリと跳ねる。
「すごく可愛い……」
うっとりと呟きながら、もう片方に唇を寄せる。ちゅっと音を立てて吸い付いて、その小さな中心を舌で穿るように刺激した。
ファイの両手が、今度はユゥイの両肩をぎゅうと掴む。
「やっ、ぁん……恥ずかしい、よぉ……」
嫌々と首を振るファイだったが、ユゥイの舌や、そして指先は、そこがぷっくりと固く膨らんでいくのを確かに感じていた。身体の下で身悶える身体が、徐々に熱を孕んでいく。
しっとりと濡れていく肌の上に幾度も口付け、指先で悪戯をしながら、ユゥイはファイの下肢に手を伸ばした。
下着の中に手を入れると、ファイ自身がゆるゆると反応しているのが確認できる。
「だ、め……! そんなとこ……触ったら駄目だよ……」
「どうして? だって、ファイが可愛いのが悪いんだよ」
そのまま寝巻きの下を、下着と一緒に膝元辺りまで下げてしまう。ファイは全身を赤く染めながら、両手で顔を隠してしまった。
ユゥイがその白い手で薄紅色の性器を包み込むと、それは面白いほど簡単に硬さを増した。ゆっくりと優しく刺激していくと、肉の薄い太腿が小刻みに痙攣する。
「あぁ……っ、ん……! やだ……気持ちいい……っ」
「ここ……こうされると、気持ちいいの?」
小さな子供にでも語りかけるように優しく問うと、ファイは幾度もコクコクと頷いた。
「ユゥイの手……、やわらかくて……きもち、ぃ……」
「じゃあ、もっとしてあげる……」
指の隙間から大きな瞳を覗かせるファイに、ユゥイは身を乗り出してその額にキスをした。ファイのお気に入りの手の平を使って、先端から蜜を零す性器を握ったまま、ゆっくりと扱き続ける。
堪らなくなったのか、ファイがユゥイに抱きついた。その顔中に、幾度も小さなキスをする。
やがて、ファイの全身の震えが大きくなり、手の中のものが限界を迎えようとしていることが分かった。
「だめ、いく……いっちゃうから……!」
「いいよ……」
けれどファイは強く首を左右に振った。すると、ずっとユゥイにしがみつくばかりだった両手が解かれる。
「ファイ?」
「オレも……」
ファイの手が、ユゥイのシャツの中に潜り込んだ。先刻自分がそうしたように、今度はファイの手がユゥイの身体の上をゆるゆると這いずった。
「ファ、イ……ボクは、いいよ……」
ざわざわとした感覚に、思わず身を捩って逃れようとする。けれど、ファイはやんわりと首を左右に振りながら、柔らかな指先で胸をくすぐるように刺激してきた。
「んっ、ぁ……ファイ、は、そんなこと、しなくていいから……!」
「だーめ……オレだって、ユゥイを可愛がってあげたいんだもん」
だからイクときは一緒だよ、と、ファイが甘く耳元で囁いた。
***
「なるほどな……」
切りの良さげなところで、黒鋼は腕を組んだ状態で深く頷いた。
「どうだったどうだったー?」
うざったいファイの感想を強要する様に、思わず目を背ける。
自分が登場しないという辺りは断然よかった。だが、決して顔には出さないが、どうも……尻の辺りがむずむずするような気がしてならない。
なぜ関係ないはずの自分がこんなにも照れ臭いような、おかしな気持ちにならねばならないのか……。
一応はファイと身体の関係もある、恋人同士という立場の自分である。中身や外見の小さな違いはあれど、基本的には双子がゆえに想像しやすい分、やはりどうにもむず痒い。
「ユゥイー! 黒様先生がナニかに目覚めそうになってるよー」
「て、てめぇ! 妙なこと言ってんな!」
慌てて否定しつつ、黒鋼は本来の目的であるユゥイの反応が気になった。自分だったら、とっくにブチ切れて怒鳴りつけている頃だが、流石にこの弟はそうはいかないらしい。
だが、そのくらいは予想済みだ。けれどきっと今頃は、彼の中には多少なりとも怒りや嫌悪の嵐が吹き荒れているはず……。
内心ニヤリとほくそ笑みたいのを堪えつつユゥイを伺えば、彼は先刻の黒鋼同様、腕を組んで難しい顔をしていた。
「ファイ……これはちょっと……間違ってると思うよ……」
思わずガッツポーズをしたい衝動に駆られる。これで彼も思い知っただろう。
「どうだ……。これで少しは俺の気持ちが分かったろうが」
「ファイって子供の頃から、ぜんぜん雷なんか怖がらなかったよね? むしろ雷や嵐が来ると大ハシャギで飛び出して行こうとするから、それを止めるのが大変だったんだよ」
そ こ ぉ !?
黒鋼は、顎が外れるかと思うほど口をあんぐりと開けた。
そしてよくよく思い返せば、ファイが雷が鳴ろうが嵐が来ようが、キャアキャアと奇声を上げて喜んでいる様子は、黒鋼自身も幾度も目にしている。
同時に、ユゥイにとっての突っ込み所など、その程度の些細な部分のみなのかと思うと、異常なまでに悔しかった。
「ちくしょう……ッ」
思わず拳を床に叩きつけた黒鋼を、ユゥイが頭上にハテナマークを浮かべながら見ていた。
「そっか~。ユゥイは黒様先生と違って手強いなー」
「なんで俺がまるで小者みてぇな言われ方してんだ……」
「あ、じゃあこれはー」
「待て待て待て!!」
まだあるのか、という突っ込みは勿論だが、これ以上居心地が悪い思いをするのはウンザリだった黒鋼は、慌てて止めに入る。
「んー? だってユゥイが満足しないからー」
「満足するとかしないとかじゃねぇ! もういい加減こっちは疲れてんだ……。だいたい、そんないかがわしい内容ばっかり聞かされて、俺はさっきから胃が痛ぇんだよ……!」
確か、ユゥイの手料理に大満足して茶を啜っていたはずだったが、今はもう見る影もなく胃腸が弱りきっている。薬でも飲んで大人しく休息を取りたいところだ。
ここまで言えば、いくらこの常識のない男でも察するだろう……と思いきや、ファイは意外なことを口にした。
「いかがわしい内容ばっかりじゃないよー。オレだっていっつもそんなことばっかり考えてるわけじゃないんだからー」
「……ああ?」
どうやら多少はまともな内容も含まれているようだ。今度こそ、本当に日記の類いだろうか
けれど、もうすっかり黒鋼は興味を無くしている。今更まともな方面に軌道を修正したからといって、睡眠時間が戻ってくるわけでもない。
「何にせよ、俺はもう満腹だ。吐き気すらしやがる。そろそろ帰……」
「じゃ、行くよー」
「おぉい!?」
***
妄想日記 『双子の儀式編』
その村では、双子は不幸の凶兆であり、そして同時に稀有なものであるともされていた。
双子とは、本来の一つの魂が二つに分かれて生まれてきた存在。
村では、双子の魂を一つにすることにより、災厄から守られるとも考えられていた。
ゆえに、生まれた双子は災厄を鎮めるための人柱にならなければならない。
片方がもう片方の首を絞め、その命を奪う。それが、古くより村で受け継がれてきた残酷な儀式の実態であった……。
巨大な鳥居の真下には、奈落の底へと続くであろう漆黒の闇が、ぽっかりとその口を開いている。
二人の双子は、白い襦袢に血のような紅い色の帯を結んでいた。手を繋ぎ、ゆっくりと前へ進み出ると、生温い奈落の風が二人の帯を頼りなく揺らす。
目の前には石の台座があった。ユゥイはファイに向き合うと、ファイの両手を引いてそれに導く。
「ユゥイ……」
ユゥイは、今まさに残酷な儀式が執り行われようとしているこの時でさえ、穏やかに微笑んでいた。
「始めよう、ファイ……。それがボクらの運命(さだめ)だから」
「嫌だよ……オレには出来ない……したくない……」
ファイはふるふると首を振った。抑え切れない涙が、頬を濡らす。
ユゥイが台座に腰をかける。そして後方にゆっくりと倒れ込むと、押し倒すような体勢でファイは台座に膝をついた。両手は、ユゥイの細い首へと誘われている。
「やだ……やだよ……どうして……?」
ずっと一緒だった。生まれる前から、ずっと。
二人は同じ場所から生まれて、同じ場所で一緒に生きてきた。いつでも鏡を合わせたように寄り添い、小指を絡めて誓い合った。
ずっと一緒にいようねと。
ファイの涙が、ユゥイの頬に伝い落ちた。
「約束したよね、ファイ。ずっと一緒にいようって」
「そうだよ……約束したんだ……だから……オレには出来ない……ッ」
ユゥイはファイであり、ファイはユゥイだった。二人で一つ。約束したのに。
「ボクをファイのものにして。一つになろう……約束を、果たそう……」
そして、ユゥイの唇が小さく動いた。吐息のように囁かれた言葉。ユゥイの、最期の言葉。
「殺して」
まるで抗えない呪詛のような訴えが、ファイの意識を縛り付けた。
見守る宮司たちが、いっせいに鈴を鳴らす。ゆったりとしたリズムから、それは徐々に激しさを増していく。
祭の熱気にも似た異様な空気の中、ファイにはもう何も分からない。考えられない。大きく目を見開いて、気がつけば鈴の音に合わせて両手に力を込めていた。細い首に、自分の指が食い込んでいく。
やがて、ファイの手首にかかっていたユゥイの手が、コトリと落ちた。
宮司たちの歓声が上がる。茫然と立ち尽くし、亡骸を見下ろすファイを取り残して、皆が儀式の成功を謳う。
何をしてしまったのか分からないまま、ファイは緩く首を振りながら己の白い両手を見つめた。
殺した。この手で……。
宮司達がユゥイの身体を抱え上げ、奈落の底へと放り込む。
もう二度と手の届かない場所へ、もう一人の自分が堕ちていく。
ファイは地に崩れ落ち、千切れんばかりの声を張り上げながら、ユゥイの名を呼び続けた。
――ありがとう。
優しい声が、聞こえた気がした。
***
「どっかで見たような展開じゃねぇか? それ……?」
呆れたように呟く黒鋼に、ファイはぶんぶんと大きく首を左右に振った。
「気のせいだよー! それにこれにはまだ続きがあってね、このあとユゥイを手にかけたことを嘆きながら泣き暮らすオレの元に、稀人黒たん先生がやって来て村から駆け落ちを」
「その地図から消えた村に俺を登場させんじゃねぇ!! おい! 流石にこれは無いだろ! おまえ勝手に殺されてんぞ!!」
だが黒鋼はそろそろ気がついていた。これしきのことでユゥイが怒りもしなければ、嘆きもしないであろうということを……。
「それ……今までの中で一番よかったよ……ファイ……」
「やっぱりか……」
蕩けそうな微笑を浮かべ、ユゥイは頬を染めていた。心なしか小刻みに震えているように見える。
どうやら彼の秘められた願望が、そのまま形になっていたらしい……。
「ほんとー!? だよねー! ユゥイはハマるんじゃなかなって思ったんだー!」
「うん……ファイになら……殺されてもいいってずっと思っていたからね……」
危ない。このままでは覗きたくも無い双子の深淵をリアルに覗かされてしまう。
やるなら自分のいないところで好きなだけやって欲しいと思った黒鋼は、今度こそこの場から退散することを決めた。
*
翌朝。
校門前にて竹刀を片手に、登校してくる生徒達の中に遅刻や違反者などがいないかをチェックしていた黒鋼の目の下には、見事な隈が浮き上がっていた。
元気いっぱいに爽やかな挨拶をしてくる生徒達への対応もおざなりに、黒鋼はみなぎる疲労感からつい、溜息を洩らした。
「あらぁ? 今日も男前ねぇ黒鋼先生」
「……どっから湧いて出た」
ひょっこりと背後から覗き込むようにして顔を出したのは、学園の理事長である侑子だった。
艶やかな黒髪がキラキラと朝日を弾いて、はっきり言って寝不足の目にはあまり優しくない。
「何よ? 部下が元気なさそうにしてるから、わざわざ声をかけてあげたんじゃない」
「部下を思う気持ちがあるなら、頼むから放っておいてくれ……」
げんなりとして遠くを見やる黒鋼に、侑子はにんまりと不敵に微笑んだ。
「昨夜は楽しかったわねぇー。ファイ先生って本当に飽きないわぁ」
「!?」
「あたしが出てくる話もあるかしら? 聞いてみよーっと」
「ごるぁ待てぇぇい!!!!!」
「あ、いっそのこと、これから毎日お昼のラジオで音読してもらうってのもいいわね……。ねぇ? 黒鋼先生」
跳ねるようにして校舎へと消えて行こうとする侑子を、鬼の形相で追いかける。竹刀を振り回す黒鋼に、辺りにいた生徒達が恐れ慄いていた。
だが、今の黒鋼にそれを気遣う余裕などありはしない。
なぜ昨夜から朝方にかけて行われたあの茶番を、この女が知っているのか。そういえば、なぜ彼女がベッドの下の例のブツについて知っているのかも、まだはっきりと聞いていなかった。
そしてこの女なら、たった今言ったことを実際にやりかねないのだ。さらにあの馬鹿な化学教師も、嬉々としてリクエストを賜るに違いない。
「なんでてめぇが知ってる!? ちょ、マジで待てーーーっ!!」
秋空の下に黒鋼の悲痛な叫びが木霊する。
そして黒鋼は、やっぱり持ち主ごとあの日記帳は闇に葬ろうと心に誓った……。
←戻る ・ Wavebox👏
蛇に睨まれたカエル状態で硬直していた黒鋼に助け舟を出したのは、まさに自分をカエルにまで貶めたはずのファイだった。
悪びれもなくヘラヘラふにゃふにゃしている化学教師を前に、黒鋼は胸中で『後で絶対に殴る』と固く誓った。(嫁にもらうことに関しての異存はない)
だがそれ以上に、このよく分からない妄想イベントはまだ続くのだろうか。酷い胸焼けに襲われ、そこはかとなく頬がこけたようになっている黒鋼は、仲のよろしい双子を尻目に、腕時計を覗き込んだ。
時刻は丑三つ時に差し掛かっている。大きな溜息が零れた。
「どうでもいいがな、時間も時間だ……そろそろお開きでいいんじゃねぇか……?」
「だんだん黒様先生とばっかり絡むのも飽きてきたでしょー? だからねー、ユゥイを登場させてみたんだー」
「ボク? それは嬉しいけど……なんだか少し複雑だね」
「そんなこと言わないでよー。結構よく出来てると思うんだー」
「聞いてくれよ……」
ガックリと項垂れた黒鋼。話を聞かないばかりか、勝手に妄想の中に登場させておいて「飽きた」という暴言を吐くファイに、そこはかとなくハートも傷つけられた。
今夜はもしかすれば眠ることを許されないのかもしれない……と思った黒鋼は、ふと考えた。
「おい、てめぇ」
「なぁに~?」
「その、この弟との絡みがあるってんならそれ読め。存分に読め」
「あれー? いきなりノリノリになっちゃったよこの人ー」
からかうようなファイの言葉に、黒鋼は無言を貫いた。なんと思われようが、この際どうでもいい。これで少しは自分が受けたダメージを、この弟も理解できるかもしれない。黒鋼はそう考えたのだ。
「わーかったよー! じゃあ、行くねー!」
「え、ちょっと待ってファイ……」
戸惑う弟に構わず、ファイはニコニコ顔で息を吸い込んだ……。
***
妄想日記 『双子の秘め事編』
それは真夜中のこと。
雷が鳴ったのと、傍らの温もりがビクリと身を震わせたのは同時だった。
「ファイ? 大丈夫……?」
ユゥイはベッドから僅かに身を起こすと、隣に身を横たえるファイの頬にそっと手を伸ばした。すぐに、手の甲に温かな指先が触れる。
「うん……ちょっとビックリしちゃっただけだからー……」
弱々しい声からは、普段のはつらつとした様子は窺えない。ユゥイは思わずクスリと笑った。
「ファイは昔から雷が苦手だったもんね」
「そ、そんなことー」
否定しようとするファイの言葉を遮るように、再び大きな音が響き渡る。声にならない悲鳴をあげて、ファイがユゥイに抱きついた。
「大丈夫、ね? ほら、こうしてボクが抱いててあげる。そうすれば怖くないよ。きっとね」
「うん……ごめんね、ユゥイ……」
ユゥイは小さく震えるファイを抱きしめて、その背中を優しく擦り続けた。雷は低く唸りを上げながらも、ときおり響く大きな轟きはやがて遠ざかっていく。
胸に顔を埋めたままだったファイが、僅かに顔を上げると、ほっと息を吐き出した。
「ユゥイの腕の中……凄く安心する……」
ようやく笑顔を見せてくれたファイに、ユゥイは込み上げる愛しさを抑えきれない。小さな頃から甘えん坊で、いつもユゥイの背中に隠れるようにして側にいたファイ。
身体はどんなに成長しても、今も昔も何一つ変わらないファイが、可愛くて仕方が無い。
気がつくと、ユゥイはファイの頬に手を伸ばし、ゆっくりとその唇に口付けていた。
「ん……ユゥイ……」
上ずった声に気をよくし、そのまま抱き込んだ状態でファイをシーツへ押し倒す。深く合わさる唇の隙間から、甘い吐息が零れ出し、絡まる舌と舌が小さく濡れた音を立てていた。
ユゥイは口付けに夢中になりながらも、ファイの寝巻きの裾からそっと手を忍ばせる。ゆっくりとたくし上げ、そのまま白い胸に手を這わせた。
「ぁ……だめ……ユゥイ……」
熱に浮かされたような潤んだ瞳で、ファイがユゥイの手首を掴む。けれどその手に力は込められていなかった。
ユゥイは笑うと、平らな胸の上にある二つの小さな飾りの片方に、指先で触れた。ファイの身体がビクリと跳ねる。
「すごく可愛い……」
うっとりと呟きながら、もう片方に唇を寄せる。ちゅっと音を立てて吸い付いて、その小さな中心を舌で穿るように刺激した。
ファイの両手が、今度はユゥイの両肩をぎゅうと掴む。
「やっ、ぁん……恥ずかしい、よぉ……」
嫌々と首を振るファイだったが、ユゥイの舌や、そして指先は、そこがぷっくりと固く膨らんでいくのを確かに感じていた。身体の下で身悶える身体が、徐々に熱を孕んでいく。
しっとりと濡れていく肌の上に幾度も口付け、指先で悪戯をしながら、ユゥイはファイの下肢に手を伸ばした。
下着の中に手を入れると、ファイ自身がゆるゆると反応しているのが確認できる。
「だ、め……! そんなとこ……触ったら駄目だよ……」
「どうして? だって、ファイが可愛いのが悪いんだよ」
そのまま寝巻きの下を、下着と一緒に膝元辺りまで下げてしまう。ファイは全身を赤く染めながら、両手で顔を隠してしまった。
ユゥイがその白い手で薄紅色の性器を包み込むと、それは面白いほど簡単に硬さを増した。ゆっくりと優しく刺激していくと、肉の薄い太腿が小刻みに痙攣する。
「あぁ……っ、ん……! やだ……気持ちいい……っ」
「ここ……こうされると、気持ちいいの?」
小さな子供にでも語りかけるように優しく問うと、ファイは幾度もコクコクと頷いた。
「ユゥイの手……、やわらかくて……きもち、ぃ……」
「じゃあ、もっとしてあげる……」
指の隙間から大きな瞳を覗かせるファイに、ユゥイは身を乗り出してその額にキスをした。ファイのお気に入りの手の平を使って、先端から蜜を零す性器を握ったまま、ゆっくりと扱き続ける。
堪らなくなったのか、ファイがユゥイに抱きついた。その顔中に、幾度も小さなキスをする。
やがて、ファイの全身の震えが大きくなり、手の中のものが限界を迎えようとしていることが分かった。
「だめ、いく……いっちゃうから……!」
「いいよ……」
けれどファイは強く首を左右に振った。すると、ずっとユゥイにしがみつくばかりだった両手が解かれる。
「ファイ?」
「オレも……」
ファイの手が、ユゥイのシャツの中に潜り込んだ。先刻自分がそうしたように、今度はファイの手がユゥイの身体の上をゆるゆると這いずった。
「ファ、イ……ボクは、いいよ……」
ざわざわとした感覚に、思わず身を捩って逃れようとする。けれど、ファイはやんわりと首を左右に振りながら、柔らかな指先で胸をくすぐるように刺激してきた。
「んっ、ぁ……ファイ、は、そんなこと、しなくていいから……!」
「だーめ……オレだって、ユゥイを可愛がってあげたいんだもん」
だからイクときは一緒だよ、と、ファイが甘く耳元で囁いた。
***
「なるほどな……」
切りの良さげなところで、黒鋼は腕を組んだ状態で深く頷いた。
「どうだったどうだったー?」
うざったいファイの感想を強要する様に、思わず目を背ける。
自分が登場しないという辺りは断然よかった。だが、決して顔には出さないが、どうも……尻の辺りがむずむずするような気がしてならない。
なぜ関係ないはずの自分がこんなにも照れ臭いような、おかしな気持ちにならねばならないのか……。
一応はファイと身体の関係もある、恋人同士という立場の自分である。中身や外見の小さな違いはあれど、基本的には双子がゆえに想像しやすい分、やはりどうにもむず痒い。
「ユゥイー! 黒様先生がナニかに目覚めそうになってるよー」
「て、てめぇ! 妙なこと言ってんな!」
慌てて否定しつつ、黒鋼は本来の目的であるユゥイの反応が気になった。自分だったら、とっくにブチ切れて怒鳴りつけている頃だが、流石にこの弟はそうはいかないらしい。
だが、そのくらいは予想済みだ。けれどきっと今頃は、彼の中には多少なりとも怒りや嫌悪の嵐が吹き荒れているはず……。
内心ニヤリとほくそ笑みたいのを堪えつつユゥイを伺えば、彼は先刻の黒鋼同様、腕を組んで難しい顔をしていた。
「ファイ……これはちょっと……間違ってると思うよ……」
思わずガッツポーズをしたい衝動に駆られる。これで彼も思い知っただろう。
「どうだ……。これで少しは俺の気持ちが分かったろうが」
「ファイって子供の頃から、ぜんぜん雷なんか怖がらなかったよね? むしろ雷や嵐が来ると大ハシャギで飛び出して行こうとするから、それを止めるのが大変だったんだよ」
そ こ ぉ !?
黒鋼は、顎が外れるかと思うほど口をあんぐりと開けた。
そしてよくよく思い返せば、ファイが雷が鳴ろうが嵐が来ようが、キャアキャアと奇声を上げて喜んでいる様子は、黒鋼自身も幾度も目にしている。
同時に、ユゥイにとっての突っ込み所など、その程度の些細な部分のみなのかと思うと、異常なまでに悔しかった。
「ちくしょう……ッ」
思わず拳を床に叩きつけた黒鋼を、ユゥイが頭上にハテナマークを浮かべながら見ていた。
「そっか~。ユゥイは黒様先生と違って手強いなー」
「なんで俺がまるで小者みてぇな言われ方してんだ……」
「あ、じゃあこれはー」
「待て待て待て!!」
まだあるのか、という突っ込みは勿論だが、これ以上居心地が悪い思いをするのはウンザリだった黒鋼は、慌てて止めに入る。
「んー? だってユゥイが満足しないからー」
「満足するとかしないとかじゃねぇ! もういい加減こっちは疲れてんだ……。だいたい、そんないかがわしい内容ばっかり聞かされて、俺はさっきから胃が痛ぇんだよ……!」
確か、ユゥイの手料理に大満足して茶を啜っていたはずだったが、今はもう見る影もなく胃腸が弱りきっている。薬でも飲んで大人しく休息を取りたいところだ。
ここまで言えば、いくらこの常識のない男でも察するだろう……と思いきや、ファイは意外なことを口にした。
「いかがわしい内容ばっかりじゃないよー。オレだっていっつもそんなことばっかり考えてるわけじゃないんだからー」
「……ああ?」
どうやら多少はまともな内容も含まれているようだ。今度こそ、本当に日記の類いだろうか
けれど、もうすっかり黒鋼は興味を無くしている。今更まともな方面に軌道を修正したからといって、睡眠時間が戻ってくるわけでもない。
「何にせよ、俺はもう満腹だ。吐き気すらしやがる。そろそろ帰……」
「じゃ、行くよー」
「おぉい!?」
***
妄想日記 『双子の儀式編』
その村では、双子は不幸の凶兆であり、そして同時に稀有なものであるともされていた。
双子とは、本来の一つの魂が二つに分かれて生まれてきた存在。
村では、双子の魂を一つにすることにより、災厄から守られるとも考えられていた。
ゆえに、生まれた双子は災厄を鎮めるための人柱にならなければならない。
片方がもう片方の首を絞め、その命を奪う。それが、古くより村で受け継がれてきた残酷な儀式の実態であった……。
巨大な鳥居の真下には、奈落の底へと続くであろう漆黒の闇が、ぽっかりとその口を開いている。
二人の双子は、白い襦袢に血のような紅い色の帯を結んでいた。手を繋ぎ、ゆっくりと前へ進み出ると、生温い奈落の風が二人の帯を頼りなく揺らす。
目の前には石の台座があった。ユゥイはファイに向き合うと、ファイの両手を引いてそれに導く。
「ユゥイ……」
ユゥイは、今まさに残酷な儀式が執り行われようとしているこの時でさえ、穏やかに微笑んでいた。
「始めよう、ファイ……。それがボクらの運命(さだめ)だから」
「嫌だよ……オレには出来ない……したくない……」
ファイはふるふると首を振った。抑え切れない涙が、頬を濡らす。
ユゥイが台座に腰をかける。そして後方にゆっくりと倒れ込むと、押し倒すような体勢でファイは台座に膝をついた。両手は、ユゥイの細い首へと誘われている。
「やだ……やだよ……どうして……?」
ずっと一緒だった。生まれる前から、ずっと。
二人は同じ場所から生まれて、同じ場所で一緒に生きてきた。いつでも鏡を合わせたように寄り添い、小指を絡めて誓い合った。
ずっと一緒にいようねと。
ファイの涙が、ユゥイの頬に伝い落ちた。
「約束したよね、ファイ。ずっと一緒にいようって」
「そうだよ……約束したんだ……だから……オレには出来ない……ッ」
ユゥイはファイであり、ファイはユゥイだった。二人で一つ。約束したのに。
「ボクをファイのものにして。一つになろう……約束を、果たそう……」
そして、ユゥイの唇が小さく動いた。吐息のように囁かれた言葉。ユゥイの、最期の言葉。
「殺して」
まるで抗えない呪詛のような訴えが、ファイの意識を縛り付けた。
見守る宮司たちが、いっせいに鈴を鳴らす。ゆったりとしたリズムから、それは徐々に激しさを増していく。
祭の熱気にも似た異様な空気の中、ファイにはもう何も分からない。考えられない。大きく目を見開いて、気がつけば鈴の音に合わせて両手に力を込めていた。細い首に、自分の指が食い込んでいく。
やがて、ファイの手首にかかっていたユゥイの手が、コトリと落ちた。
宮司たちの歓声が上がる。茫然と立ち尽くし、亡骸を見下ろすファイを取り残して、皆が儀式の成功を謳う。
何をしてしまったのか分からないまま、ファイは緩く首を振りながら己の白い両手を見つめた。
殺した。この手で……。
宮司達がユゥイの身体を抱え上げ、奈落の底へと放り込む。
もう二度と手の届かない場所へ、もう一人の自分が堕ちていく。
ファイは地に崩れ落ち、千切れんばかりの声を張り上げながら、ユゥイの名を呼び続けた。
――ありがとう。
優しい声が、聞こえた気がした。
***
「どっかで見たような展開じゃねぇか? それ……?」
呆れたように呟く黒鋼に、ファイはぶんぶんと大きく首を左右に振った。
「気のせいだよー! それにこれにはまだ続きがあってね、このあとユゥイを手にかけたことを嘆きながら泣き暮らすオレの元に、稀人黒たん先生がやって来て村から駆け落ちを」
「その地図から消えた村に俺を登場させんじゃねぇ!! おい! 流石にこれは無いだろ! おまえ勝手に殺されてんぞ!!」
だが黒鋼はそろそろ気がついていた。これしきのことでユゥイが怒りもしなければ、嘆きもしないであろうということを……。
「それ……今までの中で一番よかったよ……ファイ……」
「やっぱりか……」
蕩けそうな微笑を浮かべ、ユゥイは頬を染めていた。心なしか小刻みに震えているように見える。
どうやら彼の秘められた願望が、そのまま形になっていたらしい……。
「ほんとー!? だよねー! ユゥイはハマるんじゃなかなって思ったんだー!」
「うん……ファイになら……殺されてもいいってずっと思っていたからね……」
危ない。このままでは覗きたくも無い双子の深淵をリアルに覗かされてしまう。
やるなら自分のいないところで好きなだけやって欲しいと思った黒鋼は、今度こそこの場から退散することを決めた。
*
翌朝。
校門前にて竹刀を片手に、登校してくる生徒達の中に遅刻や違反者などがいないかをチェックしていた黒鋼の目の下には、見事な隈が浮き上がっていた。
元気いっぱいに爽やかな挨拶をしてくる生徒達への対応もおざなりに、黒鋼はみなぎる疲労感からつい、溜息を洩らした。
「あらぁ? 今日も男前ねぇ黒鋼先生」
「……どっから湧いて出た」
ひょっこりと背後から覗き込むようにして顔を出したのは、学園の理事長である侑子だった。
艶やかな黒髪がキラキラと朝日を弾いて、はっきり言って寝不足の目にはあまり優しくない。
「何よ? 部下が元気なさそうにしてるから、わざわざ声をかけてあげたんじゃない」
「部下を思う気持ちがあるなら、頼むから放っておいてくれ……」
げんなりとして遠くを見やる黒鋼に、侑子はにんまりと不敵に微笑んだ。
「昨夜は楽しかったわねぇー。ファイ先生って本当に飽きないわぁ」
「!?」
「あたしが出てくる話もあるかしら? 聞いてみよーっと」
「ごるぁ待てぇぇい!!!!!」
「あ、いっそのこと、これから毎日お昼のラジオで音読してもらうってのもいいわね……。ねぇ? 黒鋼先生」
跳ねるようにして校舎へと消えて行こうとする侑子を、鬼の形相で追いかける。竹刀を振り回す黒鋼に、辺りにいた生徒達が恐れ慄いていた。
だが、今の黒鋼にそれを気遣う余裕などありはしない。
なぜ昨夜から朝方にかけて行われたあの茶番を、この女が知っているのか。そういえば、なぜ彼女がベッドの下の例のブツについて知っているのかも、まだはっきりと聞いていなかった。
そしてこの女なら、たった今言ったことを実際にやりかねないのだ。さらにあの馬鹿な化学教師も、嬉々としてリクエストを賜るに違いない。
「なんでてめぇが知ってる!? ちょ、マジで待てーーーっ!!」
秋空の下に黒鋼の悲痛な叫びが木霊する。
そして黒鋼は、やっぱり持ち主ごとあの日記帳は闇に葬ろうと心に誓った……。
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突如として始まったファイによる未来日記……否、妄想日記公開は、深夜0時を過ぎてもいまだに続いていた……。
「ねぇファイ、他にもまだまだあるって言ってたけど、どんなものがあるの?」
無邪気に問いかける弟を、黒鋼は横目でジロリと睨みつける。
この男は果たして意味が分かっているのか。それとも、これは双子ぐるみで自分を弄んで楽しんでいるだけなのか。しかもこんな平日の真夜中に、である。
黒鋼の怒りや憎しみなどどこ吹く風で、ファイが嬉しそうに皮の日記帳をペラペラと捲る。
「うん。いっぱいあるよー。他にはえっとねー、新妻と新聞屋さんネタでしょー、敵国のスパイネタでしょー、囚われのお姫様ネタでしょー」
「どんだけあんだよ……」
最早それら全てのネタに突っ込みを入れるだけの体力は残っていない。黒鋼のHPは、いわばゼロに近い状態だった。
「あとはー、殿と家臣の下克上ネタでしょー、記憶喪失ネタもあるしー、獣耳は外せないでしょー、あ! 万引きネタっていうのもあるよー」
「万引きぃ?」
今にも鼻を穿らん勢いで興味なさげにそっぽを向いていた黒鋼だったが、並べられた一覧の中にあって、妙に浮いていると感じられる単語に首を捻った。
「あ、黒様先生が食いついてきたー! じゃ、今度は趣向を変えてこのネタ行くねー!」
「お、おい、ちょっとま……!」
「これ、結構気に入ってるんだー」
再び、黒鋼の制止も聞かずにファイはそれを読み上げ始めた。
***
妄想日記 『悪い子にはお仕置き編』
「ほんの出来心だった……じゃ、世の中って済まされないことの方が多いんだよねー」
金髪に碧眼を持った端正な顔立ちの男が、楽しげに組み替えた足の先をブラブラと揺らしていた。
その揺れる足先は俯く黒鋼の目の前にあり、男は腕と足を組んだ状態でパイプ椅子に腰を落ち着かせている。一方の黒鋼はというと、両手を背後に一纏めにされた状態で、縄で縛られ正座をさせられていた。
ただでさえ、いっそ舌を噛み切ってしまいたいほどの屈辱だ。けれど、それだけに留まらない。
信じられないことに、黒鋼は目の前の見下ろす男の眼下に下半身を曝しているのだ。下着ごと取り払われたそれらは、今はまるでゴミのように丸められて、部屋の片隅に捨てられている。
「おうちが貧乏なのかは知らないけど、やっちゃいけないこととそうでないことの区別くらい……つくよねぇ?」
「……くそ……っ」
忌々しげにそっぽを向きながら吐き捨てた黒鋼に、男が頭上で小さく笑った。
「ふぅん……そーゆう態度取っちゃうんだー?」
その瞬間、男が組んでいた足を解くと、黒鋼の身体の中心を靴の裏で抉るように踏みつけた。
「――っ!?」
想像を絶する痛みと衝撃に、目の前が真っ赤に染まる。
「あ、ごめんねー? このまんまじゃ流石に痛かったよねー?」
楽しそうに声を上げて笑いながら、男は靴と、その下の靴下を脱ぎ去り、背後に放ってしまう。だが、激痛に身を屈めて震える黒鋼には、それにいちいち気を留める余裕がない。脂汗が全身を伝う。
足の先が、黒鋼の顎にかかると強引に顔を上向かせる。
「っ……!!」
「ふふ、いい顔だね」
青い瞳が、すっと細められた。黒鋼は、こんな状態になってまでも気丈にそれを睨みつける。
「悪い子にはお仕置きしなくちゃ……ね?」
天使のような微笑みで、悪魔がうっとりと呟いた。そして、白い足先が黒鋼の顎から胸、腹へかけて辿ると、やがて赤く萎れた性器に触れる。
「ぐっ……!!」
いまだ焼け付くような痛みを持つ敏感な肉が、柔らかく、そして冷ややかな皮膚にやわやわとぎこちなく撫でられる。黒鋼は必死で悲鳴を噛み殺すために歯を食いしばった。
「立派なの持ってるねー。固くなる前からこれだと、このまま刺激し続けたらどんな風に育つのかなぁ?」
足先で性器を弄ぶ男は、まるで小さな男のように無邪気に言い放った。
黒鋼は、冗談じゃないと思った。このような恥辱を受けているというのに、感じてなどなるものか、と。
だが、そんな黒鋼の意思とは裏腹に、最初に受けた一撃のせいで、そこは敏感さを増していた。
与えられるぎこちない刺激に、ゆっくりと、だが確実に変化しはじめている。
「あれー? なーんかコリコリしてきたよー? これ、お仕置きだってこと分かってるー?」
「くっ……そ……! いい加減に……しやがれ……!」
俯いた状態でぎゅうと目を瞑り、それでも口の減らない黒鋼に、男はますます楽しそうに笑った。そして、頭を擡げ始めた性器を、器用に足の親指と人さし指の間で支えるようにして下から持ち上げる。拍子に、先走りの糸が地面に垂れた。
「このまま足だけで可愛がってあげるねー。オレの足、気持ちいいんでしょ?」
「ふざ、けんな……!!」
語尾が擦れていることに、すでに傷だらけのプライドを打ちのめされる。だが、決して心までは折れない。折れてなるものか。
非はこちらにある。如何なる理由があれど、店の売り物に手を出してしまった自分はどうかしていたとしか思えない。だが、この男はそれよりもずっと、狂っている。
「君、凄く可愛い。なんだかオレまで……欲しくなってきちゃったー……」
きつく睨み付けた先では、男が薄紅の唇から赤い舌を覗かせていた。ねっとりといやらしく、唇を濡らしている。
その淫らな表情に、不覚にも黒鋼の性器はさらに膨れ上がり……
***
「……って、アレー? 黒様? 何かな? その道端に転がる犬の糞でも見るような目は……?」
熱っぽく読み上げていたファイだったが、そろそろ黒鋼が怒鳴ってもおかしくないところで無反応だったことが、流石に気になったらしい。
つまりは確信犯だったということに繋がるのだが、黒鋼は最早どんなことにも心折れない、鋼のような精神を養いつつあった。悟りの領域に達していたといっても過言ではない……と、いうのは冗談で、本当は血管が破裂せん勢いで、腸は煮えくり返っているのだが、なんにしろ喉が痛い。怒鳴ったり叫んだりするような時間帯でも、最早ない。
しかも、激しい怒りも悲しみも、度を越えると感覚が麻痺するものだ。あらゆる意味でどうにかギリギリのところで保っていたようなものであるが、目だけは嘘はつけなかったようだ。
黒鋼はまさに、ファイを犬の糞を見るような目で見つめていたのだった。
「そろそろ騒いでくれないとつまんなーい! ねぇどうだった? ドSなオレってどうだった? ねぇねぇねぇ!」
身を乗り出してくるファイに、流石にイラッときた黒鋼は、気がつくと「死にてぇのか……」と低音をさらに低くして唸るように口にしていた。怒鳴りたいのはどうにか堪える。
「死ぬ前に一回くらいは、こーゆうプレイもしてみたいっていう、オレの可愛くて健気でささやかな願いを形にしてみたんだー」
ぽっと頬を赤らめて満面の笑顔を浮かべるファイを見た瞬間、黒鋼は幾度目かになる限界を超えた。押さえ込んでいたものが一気に爆発する。
「てめぇ本気で十発くらいでいいからぶん殴らせろ!! 万引きだぁ!? しかも脳内で人を使って勝手に妙なプレイしやがってもう我慢ならねぇ!!」
勢いよく立ち上がった黒鋼は、テーブルに片足を乗り上げてファイに殴りかかろうとした。だが、ファイも負けずに立ち上がって乗り上げてくると、声を張り上げた。
「なにさー!? 十発も殴ることないじゃなーい!! だいたいこれくらいでどうして怒るのー!? 妄想するくらいいーじゃない!! 黒様こんなのさせてくれないじゃない!! どっちかって言うと、オレの方が縛られてるじゃない!!」
「だったら今すぐその妙な日記帳ごと、てめぇをスマキにしてドブ川に捨ててやるからちょっと黙ってろ!!」
「そんなこと言われて黙ってるわけないでしょー!? 黒様先生はオレへの愛が足りないよー!!」
「いいから大人しくそいつを寄越せ!! 俺が愛情込めて焼き尽くしてやる!!」
「オレが欲しい愛はそんなんじゃないのにー!!!」
うわぁぁぁ……と泣き崩れたファイがテーブルに突っ伏した。その拍子に、投げ出された日記帳(?)に手を伸ばそうとした黒鋼だったが、その瞬間、身も凍るような視線を感じて思わずその方向へ目を向けた。
そこには、まるで道端の犬の糞にたかるハエを見るかのような、生温かな目で黒鋼を見ているユゥイがいた……。
「……おい? なんだその虫けらでも見るような目は……?」
「いえ? 別に」
相変わらずやんわりとした笑みを絶やさないユゥイの周辺が、絶対零度の冷気に包まれている、ように見えた。
「ただ、黒鋼先生はファイを無理矢理縛り付けて、一体ナニをしているのかなぁと思っただけです」
「は……?」
なんだか嫌な感じがした。そして、ついついユゥイの存在をされ忘れ、ファイとの口論に熱中してしまったのが不味かったということに、今更になって気がついた。
「おまえ、何か勘違いして……」
「何をです?」
微笑んでいるはずのユゥイだったが、目だけは明らかに笑っていない。身体全体にずっしりと重く圧し掛かる不可思議な圧力に、思わず口を噤む黒鋼。これ以上は下がらないだろうと思っていた辺りの気温が、さらにぐっと下がったような気さえする。
どういうわけか、自分はいつの間にか圧倒的に不利な立場に立たされていたらしい。先刻、ファイが口を滑らせた(?)ように、そういったプレイに興じたことがあるのは確かな事実ではあるが……。
「あ、いや、それはだな、ちょっとした出来心であって、あくまで合意の上でだな……」
黒鋼としては、そういったプレイを常日頃から好んで嗜むという趣味は、決してない。だが恋人同士の情事というものには、時として勢いや出来心、未知なる領域への関心や、あるいは悪戯心といったものが付き纏うことも……あると思う。多分。
だがこういった場面では、そこに至るまでにどんな経緯があろうとも、やられるよりやっちゃった方に是非を問われるのは、致し方ないことなのかもしれない……。
黒鋼は指先がかじかむのを感じながらも、ユゥイを宥めるべく「どうどう」と手の平を翳した。けれど、これは好機といわんばりに、ファイがユゥイに抱きついた。
「そうなんだよユゥイー! 黒様先生ってばすっごいドSでね、オレもう普通にお嫁にもお婿にも行けないような身体に調教されちゃったんだよー!」
「はぁぁ!? てめぇ何あることないこと言って……」
ファイをしっかりと抱きとめたユゥイの背後から、ゴゴゴ……という音が聞こえたような気がした。
「!?」
なぜこんなことに……。
己の不運を嘆きつつ、まだまだ夜明けは遠い。
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「ねぇファイ、他にもまだまだあるって言ってたけど、どんなものがあるの?」
無邪気に問いかける弟を、黒鋼は横目でジロリと睨みつける。
この男は果たして意味が分かっているのか。それとも、これは双子ぐるみで自分を弄んで楽しんでいるだけなのか。しかもこんな平日の真夜中に、である。
黒鋼の怒りや憎しみなどどこ吹く風で、ファイが嬉しそうに皮の日記帳をペラペラと捲る。
「うん。いっぱいあるよー。他にはえっとねー、新妻と新聞屋さんネタでしょー、敵国のスパイネタでしょー、囚われのお姫様ネタでしょー」
「どんだけあんだよ……」
最早それら全てのネタに突っ込みを入れるだけの体力は残っていない。黒鋼のHPは、いわばゼロに近い状態だった。
「あとはー、殿と家臣の下克上ネタでしょー、記憶喪失ネタもあるしー、獣耳は外せないでしょー、あ! 万引きネタっていうのもあるよー」
「万引きぃ?」
今にも鼻を穿らん勢いで興味なさげにそっぽを向いていた黒鋼だったが、並べられた一覧の中にあって、妙に浮いていると感じられる単語に首を捻った。
「あ、黒様先生が食いついてきたー! じゃ、今度は趣向を変えてこのネタ行くねー!」
「お、おい、ちょっとま……!」
「これ、結構気に入ってるんだー」
再び、黒鋼の制止も聞かずにファイはそれを読み上げ始めた。
***
妄想日記 『悪い子にはお仕置き編』
「ほんの出来心だった……じゃ、世の中って済まされないことの方が多いんだよねー」
金髪に碧眼を持った端正な顔立ちの男が、楽しげに組み替えた足の先をブラブラと揺らしていた。
その揺れる足先は俯く黒鋼の目の前にあり、男は腕と足を組んだ状態でパイプ椅子に腰を落ち着かせている。一方の黒鋼はというと、両手を背後に一纏めにされた状態で、縄で縛られ正座をさせられていた。
ただでさえ、いっそ舌を噛み切ってしまいたいほどの屈辱だ。けれど、それだけに留まらない。
信じられないことに、黒鋼は目の前の見下ろす男の眼下に下半身を曝しているのだ。下着ごと取り払われたそれらは、今はまるでゴミのように丸められて、部屋の片隅に捨てられている。
「おうちが貧乏なのかは知らないけど、やっちゃいけないこととそうでないことの区別くらい……つくよねぇ?」
「……くそ……っ」
忌々しげにそっぽを向きながら吐き捨てた黒鋼に、男が頭上で小さく笑った。
「ふぅん……そーゆう態度取っちゃうんだー?」
その瞬間、男が組んでいた足を解くと、黒鋼の身体の中心を靴の裏で抉るように踏みつけた。
「――っ!?」
想像を絶する痛みと衝撃に、目の前が真っ赤に染まる。
「あ、ごめんねー? このまんまじゃ流石に痛かったよねー?」
楽しそうに声を上げて笑いながら、男は靴と、その下の靴下を脱ぎ去り、背後に放ってしまう。だが、激痛に身を屈めて震える黒鋼には、それにいちいち気を留める余裕がない。脂汗が全身を伝う。
足の先が、黒鋼の顎にかかると強引に顔を上向かせる。
「っ……!!」
「ふふ、いい顔だね」
青い瞳が、すっと細められた。黒鋼は、こんな状態になってまでも気丈にそれを睨みつける。
「悪い子にはお仕置きしなくちゃ……ね?」
天使のような微笑みで、悪魔がうっとりと呟いた。そして、白い足先が黒鋼の顎から胸、腹へかけて辿ると、やがて赤く萎れた性器に触れる。
「ぐっ……!!」
いまだ焼け付くような痛みを持つ敏感な肉が、柔らかく、そして冷ややかな皮膚にやわやわとぎこちなく撫でられる。黒鋼は必死で悲鳴を噛み殺すために歯を食いしばった。
「立派なの持ってるねー。固くなる前からこれだと、このまま刺激し続けたらどんな風に育つのかなぁ?」
足先で性器を弄ぶ男は、まるで小さな男のように無邪気に言い放った。
黒鋼は、冗談じゃないと思った。このような恥辱を受けているというのに、感じてなどなるものか、と。
だが、そんな黒鋼の意思とは裏腹に、最初に受けた一撃のせいで、そこは敏感さを増していた。
与えられるぎこちない刺激に、ゆっくりと、だが確実に変化しはじめている。
「あれー? なーんかコリコリしてきたよー? これ、お仕置きだってこと分かってるー?」
「くっ……そ……! いい加減に……しやがれ……!」
俯いた状態でぎゅうと目を瞑り、それでも口の減らない黒鋼に、男はますます楽しそうに笑った。そして、頭を擡げ始めた性器を、器用に足の親指と人さし指の間で支えるようにして下から持ち上げる。拍子に、先走りの糸が地面に垂れた。
「このまま足だけで可愛がってあげるねー。オレの足、気持ちいいんでしょ?」
「ふざ、けんな……!!」
語尾が擦れていることに、すでに傷だらけのプライドを打ちのめされる。だが、決して心までは折れない。折れてなるものか。
非はこちらにある。如何なる理由があれど、店の売り物に手を出してしまった自分はどうかしていたとしか思えない。だが、この男はそれよりもずっと、狂っている。
「君、凄く可愛い。なんだかオレまで……欲しくなってきちゃったー……」
きつく睨み付けた先では、男が薄紅の唇から赤い舌を覗かせていた。ねっとりといやらしく、唇を濡らしている。
その淫らな表情に、不覚にも黒鋼の性器はさらに膨れ上がり……
***
「……って、アレー? 黒様? 何かな? その道端に転がる犬の糞でも見るような目は……?」
熱っぽく読み上げていたファイだったが、そろそろ黒鋼が怒鳴ってもおかしくないところで無反応だったことが、流石に気になったらしい。
つまりは確信犯だったということに繋がるのだが、黒鋼は最早どんなことにも心折れない、鋼のような精神を養いつつあった。悟りの領域に達していたといっても過言ではない……と、いうのは冗談で、本当は血管が破裂せん勢いで、腸は煮えくり返っているのだが、なんにしろ喉が痛い。怒鳴ったり叫んだりするような時間帯でも、最早ない。
しかも、激しい怒りも悲しみも、度を越えると感覚が麻痺するものだ。あらゆる意味でどうにかギリギリのところで保っていたようなものであるが、目だけは嘘はつけなかったようだ。
黒鋼はまさに、ファイを犬の糞を見るような目で見つめていたのだった。
「そろそろ騒いでくれないとつまんなーい! ねぇどうだった? ドSなオレってどうだった? ねぇねぇねぇ!」
身を乗り出してくるファイに、流石にイラッときた黒鋼は、気がつくと「死にてぇのか……」と低音をさらに低くして唸るように口にしていた。怒鳴りたいのはどうにか堪える。
「死ぬ前に一回くらいは、こーゆうプレイもしてみたいっていう、オレの可愛くて健気でささやかな願いを形にしてみたんだー」
ぽっと頬を赤らめて満面の笑顔を浮かべるファイを見た瞬間、黒鋼は幾度目かになる限界を超えた。押さえ込んでいたものが一気に爆発する。
「てめぇ本気で十発くらいでいいからぶん殴らせろ!! 万引きだぁ!? しかも脳内で人を使って勝手に妙なプレイしやがってもう我慢ならねぇ!!」
勢いよく立ち上がった黒鋼は、テーブルに片足を乗り上げてファイに殴りかかろうとした。だが、ファイも負けずに立ち上がって乗り上げてくると、声を張り上げた。
「なにさー!? 十発も殴ることないじゃなーい!! だいたいこれくらいでどうして怒るのー!? 妄想するくらいいーじゃない!! 黒様こんなのさせてくれないじゃない!! どっちかって言うと、オレの方が縛られてるじゃない!!」
「だったら今すぐその妙な日記帳ごと、てめぇをスマキにしてドブ川に捨ててやるからちょっと黙ってろ!!」
「そんなこと言われて黙ってるわけないでしょー!? 黒様先生はオレへの愛が足りないよー!!」
「いいから大人しくそいつを寄越せ!! 俺が愛情込めて焼き尽くしてやる!!」
「オレが欲しい愛はそんなんじゃないのにー!!!」
うわぁぁぁ……と泣き崩れたファイがテーブルに突っ伏した。その拍子に、投げ出された日記帳(?)に手を伸ばそうとした黒鋼だったが、その瞬間、身も凍るような視線を感じて思わずその方向へ目を向けた。
そこには、まるで道端の犬の糞にたかるハエを見るかのような、生温かな目で黒鋼を見ているユゥイがいた……。
「……おい? なんだその虫けらでも見るような目は……?」
「いえ? 別に」
相変わらずやんわりとした笑みを絶やさないユゥイの周辺が、絶対零度の冷気に包まれている、ように見えた。
「ただ、黒鋼先生はファイを無理矢理縛り付けて、一体ナニをしているのかなぁと思っただけです」
「は……?」
なんだか嫌な感じがした。そして、ついついユゥイの存在をされ忘れ、ファイとの口論に熱中してしまったのが不味かったということに、今更になって気がついた。
「おまえ、何か勘違いして……」
「何をです?」
微笑んでいるはずのユゥイだったが、目だけは明らかに笑っていない。身体全体にずっしりと重く圧し掛かる不可思議な圧力に、思わず口を噤む黒鋼。これ以上は下がらないだろうと思っていた辺りの気温が、さらにぐっと下がったような気さえする。
どういうわけか、自分はいつの間にか圧倒的に不利な立場に立たされていたらしい。先刻、ファイが口を滑らせた(?)ように、そういったプレイに興じたことがあるのは確かな事実ではあるが……。
「あ、いや、それはだな、ちょっとした出来心であって、あくまで合意の上でだな……」
黒鋼としては、そういったプレイを常日頃から好んで嗜むという趣味は、決してない。だが恋人同士の情事というものには、時として勢いや出来心、未知なる領域への関心や、あるいは悪戯心といったものが付き纏うことも……あると思う。多分。
だがこういった場面では、そこに至るまでにどんな経緯があろうとも、やられるよりやっちゃった方に是非を問われるのは、致し方ないことなのかもしれない……。
黒鋼は指先がかじかむのを感じながらも、ユゥイを宥めるべく「どうどう」と手の平を翳した。けれど、これは好機といわんばりに、ファイがユゥイに抱きついた。
「そうなんだよユゥイー! 黒様先生ってばすっごいドSでね、オレもう普通にお嫁にもお婿にも行けないような身体に調教されちゃったんだよー!」
「はぁぁ!? てめぇ何あることないこと言って……」
ファイをしっかりと抱きとめたユゥイの背後から、ゴゴゴ……という音が聞こえたような気がした。
「!?」
なぜこんなことに……。
己の不運を嘆きつつ、まだまだ夜明けは遠い。
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黒鋼を見送って腰砕けになっている場合ではない。
ユゥイや鋼丸は今どうしているのかと慌てて立ちあがると、すぐ背後に黒ジャージを着たままの鋼丸がぽつんと裸足で佇んでいた。
「鋼丸! まだパジャマ着てたの!?」
両脇に手を差し込んでぶらーんと持ち上げられた鋼丸はぶんぶんと首を振った。
「ダメだよー! ちゃんとお洋服着ないと保育園行けないでしょー?」
ぶんぶん。再び首を振る鋼丸。
「鋼丸はパジャマもお洋服も黒ジャージでしょ?」
するとそこにピンク色のランドセルを背負って黄色の通学帽をかぶったユゥイが顔を出した。
「へ……?」
黒いレースがあしらわれた赤のチェックワンピースを着用し、彼女はすでに出かける準備が整っているらしい。
子供もこのくらい大きくなると、ある程度は手がかからないものなのか……とファイは感心する。なにより、いでたちがなんとも可愛らしい。
思わず鋼丸を片腕に抱えたまま屈んでユゥイをぎゅっと抱きしめた。
「可愛い!! 可愛いよユゥイハァハァ! 流石はオレの生き写し!!」
「ちょ、ちょっと……! やめてよー! 遅れちゃうでしょ!」
「はぁ……女の子いいなぁ女の子可愛いよオレも女体化して可愛いお洋服着たいー!」
「なんか最近ママ変ー!」
照れ臭いのか、ユゥイは顔を真っ赤にしながらファイの腕の中から抜け出した。
玄関に一度腰かけて、慌ててブーツをはいてしまうと「いってきます!」とこちらも見ずに行ってしまった。
ファイの目が、思わず三日月のようになる。
「うふふ……な~んかお年頃って感じ~……照れ臭いのかなぁ~?」
時間も忘れてニヤニヤしていると、抱っこしていた鋼丸がもぞもぞと妙な動きを見せ始めた。
「あれ? どうかした?」
至近距離で見る小さな息子の顔は無表情だった。だが、少し眉間に皺が寄って心なしか涙目だった。
「……しっこ」
「!?」
ズザァッと青褪めたファイは、廊下をスピードスケート選手のように光速で滑走しながらトイレへと向かった。
+++
鋼丸を保育園へと送り届けるために、ファイはこの夢の世界で初めて外へ出た。
てっきりサ●エさんの世界のように昭和の情景が広がっているのかと思いきや、現代風のごく普通の街並みがそこにはあった。
一瞬お隣の家を覗きこもうかと思ったものの、辺りの建物は全てアパートやマンションばかりだった。
こじんまりとした木造平屋の磯●家はどこか浮いて見える。
黄色の帽子をかぶり、黒いジャージの上から水色のスモックを着た鋼丸がトテトテと自転車の方へ向かうのでついていく。
後部座席に子供用の座席が固定してある自転車を見て、どうやら毎日これで通っているらしいことを察する。
ちなみに鋼丸の黒ジャージなのだが、子供部屋の引き出しを開けて見たらみっちりとそればかりが詰まっていた。
パジャマ用、保育園用、その他お出かけ用と、彼なりの拘りがあるらしい……。
+++
鋼丸を乗せて、自転車で颯爽と走り出したファイだったが、ふと保育園はどこにあるのだろうかと考えた。
が、そこはさすが夢の中である。
なぜかファイは知らないはずの道のりをすいすいと目的地へ向かって順調に走っていた。
「いや~、いいなぁ夢の中ってー。なんでもご都合的でー」
自転車に乗るというのも久しぶりで、真正面から風を受けて走るのがまた心地いい。
上機嫌で独り言を呟いていると、腰にぎゅっと掴まっていた鋼丸が少し大きな声を出した。
「かあちゃん……ゆめってなに!」
どうやら耳元を吹き抜ける風に声が掻き消されないよう、頑張って声を張っているらしい。
「夢だよー夢! 鋼丸も見るでしょー?」
そう答えたものの、この子はファイの見る夢の中の住人なのだから果たして夢を見る、などという概念はあるのか。
けれど鋼丸はすぐに「うん」と返事をした。
「ゆめ、いつもみる」
「へー? ちゃんと見るんだー。どんな夢見るのー?」
「かあちゃんと、とうちゃんのゆめ、みる」
「オレとパパの夢ー?」
「うん」
それは興味深い。夢の中の息子は、一体自分達のどんな夢を見ているのだろうか。
鋼丸はそのまま続けた。
「ゆめのなか、かあちゃんがふたり、いる」
「え?」
思わず自転車を止めた。そして背後を振り返る。
「オレが二人?」
「うん。いる」
「ユゥイじゃなくて?」
「ねえちゃんじゃない。だっておおきいもん」
見上げてくる鋼丸の瞳は父親そっくりの赤い色。けれど父親のそれよりもまだ丸くて大きくて、無垢そのものだった。
「かあちゃん、どっちもしろいおようふくきてる。とうちゃんは、いつもくろいジャージ、きてる」
もしかして、とファイは思った。
「ねぇ、その夢の中にいるオレって、片っぽは髪長い?」
「うん。ながい。むすんでる。とうちゃんは、ながいきのぼう、もってる」
「長生きの棒? ……あ、長い木の棒?」
竹刀だ。白い服というのはおそらくファイの白衣と、ユゥイのコック服ではないか。
やっぱり、と確信した。
「ねぇ、それってきっと現実の世界だよ」
「げんじゅつ?」
「そっか。鋼丸はオレと逆のものを見てるんだね」
「?」
小さな頭に手を乗せて、優しく撫でた。
夢の中だけれど、不思議と感覚がある。これもきっと脳が勘違いでもしているせいだ。
「現実のオレはまだ起きてくれないみたい。でも、今もすっごく幸せだから、まだいいんだ」
「ぜんぶ、ゆめなの?」
「うん。ごめんね」
別に隠すようなことではないと思った。
きっと言ってもわからないことだし、これは夢の中の話だから。
案の定、鋼丸はぼんやりとしながら「ふぅん」と言っただけだった。
それからすぐに遠くを指さして「あ」と言った。
「ん?」
振り向けば、広い道路の反対側に学校がある。
『友枝小学校』と書かれた大きな表札があって、今まさに門をくぐろうとしているピンクのランドセルが見えた。
「ねえちゃんだ」
「ほんとだー! ユゥイー! おーい!」
手をぶんぶんと振って声をかけるけれど、道行く自動車が声を掻き消してしまう。
ダメかー、と手を下ろしつつ、ファイは娘の隣に見覚えのある子供がいることに気がついた。
「あれ……? もしかしてあの子って……」
鷲色の癖毛の子供。けれど小狼か小龍かは判断がつかない。だが、さらにすぐ側に全く同じ顔をした少年とサクラと思しき少女が見えた。
「じゃあ、あれは小龍君の方だ」
緑のランドセルを背負った小龍は、ユゥイと手を繋いで歩いていた。
「やだー……ちょっと……いい感じ……?」
なかなか微笑ましい光景である。
だが同時に複雑な心境にも駆られてしまう。
まさか娘が幼いながらにボーイフレンドがいるとは、しかも手なんて繋いで歩いているとは……最近の子供はなかなか……などと生温かい笑顔を浮かべながら顎をジョリジョリした。(生えてないけど)
(まぁでも結構お似合いかもなぁ)
小狼も勿論いい子だが、小龍の方がどちらかと言えばどっしりと構えていてしっかりしている。
ちょっと腹黒そうなところなど、案外ユゥイと合うかもしれない。
「面白そうだから、いっそ現実でもフラグ立っちゃえばいいのに……」
夢の中だけでなく、現実世界の弟に対しても野暮な親心を抱くファイだった。
*
「ふー……結構疲れるー……」
遅刻ギリギリで保育園に滑り込むと、迎えてくれた泣きぼくろがセクシーな女の先生に鋼丸を預けた。(ちなみに保育園の名前はよもぎ保育園だった)
そしてようやく帰宅すると、ファイは茶の間のテーブルに突っ伏した。
「夢なのに……この疲労感……」
ふとテレビでもつけようかとリモコンを探して、テレビがとんでもなく時代錯誤なものだということに気がつく。
「うわ、めんどー」
今時ロータリー式のテレビもどうかと思うし、これでは地デジが見られないではないか……という心配をしつつ、結局テレビは断念した。
すると室内がシーンと静まり返っているのがやけに気になる。
ファイの認識としては、世間一般の主婦というものは、夫も子供達も送り出した後は一人の時間を堪能するのだとばかり思っていた。
けれど実際のところファイは働き盛りの男性であり、通常この時間は授業を行っているはずだった。
時々窓から同じく授業中の黒鋼を盗み見たり、生徒達と冗談を言い合ったり。
基本的に受け持ちは違っても、黒鋼もユゥイもいつも同じ校舎内にいるはずなのに。
それがこの世界では何もかもが違う。夫も子供達もみな、今はそれぞれ別の場所でやるべきことをやっている。
ふと溜息をつく。
そう、暇なのだ。そして寂しい。
ならば自分で仕事を見つけよう……夫のいない家を守り気持ちよく帰ってきてもらうために美しく保つのも妻の役目と、掃除や洗濯をするべく立ちあがろうとした瞬間だった。
また、場面が変わった。
「あり……?」
ファイは薄暗い部屋の中で横向きに寝転がっていた。
ここが子供部屋で、今が夜だということは子供用の机の上にあるライトが仄かな明かりを放っているのを見たからだった。
腕の中には鋼丸がいた。その隣の布団ではユゥイがすでに寝息を立てている。
どうやら子供を寝かしつけている最中に飛んだらしい。
鋼丸もまた、大きな目が薄目になり、うとうとしはじめていた。
ファイは少し長い時間をかけて息を吐きだした。自然と優しい笑みが浮かんで、盛り上がった布団をそっと撫でる。
やがて鋼丸が完全に眠りに落ちると、ファイは待ってましたとばかりにその丸い頬を指先でぷにぷにした。
「やぁらか~い……」
小さくて可愛い鋼丸。これがあと少しすれば、もっと自我のようなものが目覚めてどんどんヤンチャになっていくに違いなかった。
「将来は、体育の先生になるかもね」
黒鋼が子供の頃も、きっとこんなだったのだろうと思うと愛しさがひとしおだった。
そういえば、現実の世界であまり彼の子供時代の話を聞いたことがない。
目覚めたら聞いてみようか。かと言って素直に教えてくれるとは思えなかったけれど、それでも聞いてみたいと思った。
「いい夢見てねー」
鋼丸の額にそっとキスをしてから身体を起こして、ユゥイの側へも行くと同じようにキスをした。
+++
「寝たか?」
子供部屋と廊下を挟んで向かい合っている寝室へ向かうと、寝巻(黒ジャージ)を着こんだ黒鋼が布団の上で胡坐をかき、何か書類に目を通していた。
「うん。二人ともよく寝てるよー」
「そうか」
ふっと口元を緩めた黒鋼が、手にしていた書類を文机の上に放った。
手が空いたのを確認して、すかさず隣に腰を下ろすとぴったりと寄り添ってみる。
「なんだよ。寒いのか?」
「んーん。ずーっとちっちゃいの相手してたからー」
自分より大きな存在に寄りかかるのが、やけに久しぶりで新鮮なことのように思えた。
ようやく身体から力が抜けたような気がして、ファイはほっと息を吐いた。
肩を抱かれて、先刻ファイがしたような額へのキスを逆にされてしまう。
不思議な感じがした。
抱きしめてキスをして、愛情をいっぱい注ぐ母親という立場から、こうして二人きりになった瞬間、全く違う一人の人間になるような、そんな気がした。
むず痒いような、照れ臭いような、今まで経験したことのない感覚だった。
「甘えたくなったか?」
「えへへ。うん」
現実の世界でも、黒鋼はよくファイのことを『甘ったれ』と言う。
今まであまり自覚はなかったけれど、実際そうなのだと思った。
逞しい肩に額を押し付けるようにして預けながら、ファイはこの温もりも全てが夢だと思うと少し寂しい気がした。
「オレ、黒たんは絶対にいいパパになるって思ってたよ」
「そうか」
「うん。いつか可愛いお嫁さんもらって、可愛い子供が生まれるのかなって」
「実際そうなったろ?」
「! ……うん」
頬が熱くなった。
何も言えないでもごもごしていると、黒鋼がぽつりと零し始める。
「最初はな」
「うん」
「まだしばらくは俺とおまえの二人でいいんじゃねぇかって思った」
「そうなんだ……」
「籍入れてすぐデキちまったろ?」
そ、そうなの……? という言葉はひとまず飲み込む。
「その、なんだ。多少はな、複雑だった」
もしかして……とファイは思った。
新婚生活もままならないうちに妊娠をして、そして出産という流れに彼は多少の寂しさを感じていたのだろうか。
この男は、実は意外と独占欲が強いということをファイは知っていた。
思わず「ふふふ」と笑ってしまった。
「なんだよ」
「うぅん。黒たん、おっきい子供みたいだなって」
「……うるせぇな」
顔に似合わず照れ臭そうにそっぽを向いた黒鋼に横目で睨まれた。
ファイはなんだか嬉しくて、今にも踊りだしたいような気持ちになった。
夢だけど。
幸せだから、まだもう少しいいか、なんて。
「子供……可愛い?」
悪戯っ子のような上目づかいで問いかけた。黒鋼はむっとしていた口元をまた少し緩める。
「当たり前のこと聞くな」
「うん」
「てめぇん中から出て来たガキ、可愛くねぇわけねぇだろ」
もっと他に言い方はないのかと、やっぱり声を出して笑ってしまう。
うるさいと言わんばかりにその唇を塞がれた。
一瞬で離れてしまったけれど、ファイを黙らせるには十分な威力を発揮した。
夢だろうが現実だろうが、こうして黒鋼と触れあうのはいつまで経っても心臓が慣れない。
ドキドキと高鳴って、熱にうかされたように頬が熱くなる。
見つめあったあと、再び顔を寄せてくる黒鋼に目を閉じた。
黒鋼の首に腕を回して、引き寄せる。
物音ひとつ立てればすぐに子供達が起きだしてしまうかもしれないのに。
だが火がついてしまったものは仕方がない。
ここからは夫婦であり、そして大人の時間が幕を……
開けなかった。
+++
「……えっ」
めまぐるしいにも程がある。
どうやら場面は再び朝のようだった。
ファイは夫と子供達と四人で食卓を囲んでいた。
そこには卵焼きやソーセージ、サラダや納豆、漬物などが並べられていた。
(あとちょっと頑張れなかったのオレー!?)
あと少し……あと少しであるいは3人目が出来ていたかもしれない、めくるめく一大イベントの幕開けだったというのに……。
ガックーンと項垂れるファイを余所に、年代を感じさせるテレビでは運勢占いが流れていて、画面右上にはしっかりと『アナログ』の余計な文字。
あらかた食べ終えて新聞を読んでいるシャツとネクタイ姿の黒鋼と、箸を咥えたまま占いに夢中のユゥイ。子供用のフォークを使って一生懸命トマトを刺そうとしている鋼丸。
その頬にはご飯粒がくっついていて、ファイは苦笑しながらそれを指先で取ってやった。
きっとどこにでもある、ごく普通の朝の風景。
けれど少し違う気がした。身体がどこかふわふわとしていることに気がつく。
これはファイ自身が見ている夢の世界。最初はうまく状況が飲み込めず、戸惑うことばかりだったけれど、今は慣れてきたのか、少し感じる。
(もうすぐ……起きちゃうんだ……)
思い思いに食事をしながら朝の団欒を過ごしている家族達をざっと見回す。
短い間だったけれど、とても長い夢。
もうすぐ終わるのだと思うと、少ししんみりした。
「かあちゃん、させた」
鋼丸が、小さな手で掴んだフォークの先を見せてくる。しっかりとトマトが刺さっていて、ファイはそれを見て少しだけ涙ぐんだ。
「上手だねー鋼丸。そのうちすぐにお箸も使えるようになるんだろうなー」
その成長を自分は見ることが出来るだろうか。再びこの夢の続きを。
「あーん! 今日の恋愛運サイテーだよー!」
占いの結果を見てがっかりするユゥイ。ピンクと黒のボーダー柄のボアチュニックが今日も可愛い。
「恋愛運だぁ? そんなもんおまえにゃまだ早い」
「早くないもん! ボクだってもう大人のオンナなんだから!」
「10年早ぇ。いや、100年だ」
「そんなに待ってたらシワシワ通り越して死んじゃうよ! パパのいじわる!」
「おう上等だ……!」
『何処の馬の骨とも知れぬ輩に娘はやれん』精神丸出しの黒鋼が、大人げなく青筋を立てながら娘に突っかかっている。
お父さん……娘にはもう立派なボーイフレンドが……と言いたかったが、ちゃぶ台をひっくり返しかねないので黙っておいた。
(賑やかだなぁ……)
そうしているうちにどんどん意識がふわふわとしてきて、ファイは慌てて立ちあがると片付けを始めた。
「ケンカしてないでもう時間だよ! 黒たん新聞ナイナイして!」
「おっと……おい、この続きは夜だ夜。いいな」
「ふんだ!」
新聞を畳みつつ同じく立ちあがる黒鋼。ツンとそっぽを向くユゥイ。いまだトマトをもぐもぐしている鋼丸。
子供達はまだ多少の余裕があるからいいとして、まずは夫を送り出さなければ。
じきに覚めるとわかっているから、せめて今この瞬間の務めを最後まで果たしたい。
どうかユゥイを送り出して、鋼丸を保育園に送り届けるまでは。
ハンガーにかかっていたジャケットを取って、先に玄関先へ行ってしまった黒鋼を追いかける。
「お弁当持ったよねー?」
「おう」
後ろから着せてやると、黒鋼はすぐに振り返って手を伸ばしてきた。
行ってきますのチューだ。
けれどファイはそれをやんわりと制した。
「どうした?」
「うぅん。ますます名残惜しくなっちゃうから……」
「仕事行くだけだろ」
苦笑する黒鋼に、ファイは笑いながら首を振った。
「起きたら、してもらうね?」
「?」
「行ってらっしゃい、あなた」
「……おう、行ってくる」
不思議そうに首を傾げながらも、黒鋼は引き戸を開けると出て行った。
しばらく見えなくなった背をその場で見つめて、ファイは「よし!」と気合を入れる。
すぐに茶の間へ向かって、いまだテレビと食事に齧りついている子供達に声をかけた。
「ほらユゥイ、もうテレビ終わり! 遅刻しちゃうよー! 鋼丸も、保育園用のジャージに着替えちゃお……ッ、あ……」
その瞬間、ふわりと足元が揺らぐ。子供達の姿が白く霞んでいった。
(やだ……もうちょっとなのに……!)
「ねぇママー。この俳優さん、ちょっとパパに似てない?」
つい今しがたまでケンカしていたくせに、何事もなかったかのように父の話題を出すユゥイ。
同じようにテレビを見て答えてやりたいのに、ファイの目にはもうゆっくりと世界に滲んでゆく子供たちしか見えない。
「あはは! でもパパの方がかっこいい」
(うん……うん……。君達のパパは誰よりもかっこいいよ)
「目つきだってパパの方が悪いよねー」
(でも、凄く優しい目なんだよ。いつだって見守ってくれてる)
「かあちゃん」
鋼丸だけが、まるで今のファイの状況を理解しているかのように真っすぐにこちらを見ていた。
(鋼丸……?)
「おれたちは、ずっとここにいる」
(鋼丸……)
「ここはげんじゅつのセカイじゃないけど……でも、いつもいる。かあちゃんのなかに、いつも」
動かない身体で必死に腕を伸ばそうと足掻いた。
どうかせめてもう一度。
この子たちは現実の世界へ帰ってももう会えない。
小さな黒鋼はいない。女の子のユゥイもいない。
ならばせめて、せめてもう一度だけ、抱きしめたいのに。
鋼丸が、そこで初めて笑顔を見せた。
前歯が一本だけ抜けている、幼い笑顔だった。
「いってらっしゃい」
+++
「ぁ……」
小さな呻きを自分の声だと認識した瞬間、ファイは自分が完全に覚醒したことを知った。
天井に向けて伸ばしている手が、微かに震えている。
涙が幾筋も流れて、頬を濡らしていた。
「おいおまえ……どうした?」
そのまま動けないでいたファイは、ついさっきまで聞いていたはずの懐かしい声に目を向けた。
空を彷徨っていた手が、大きな手に掴まれる。
「黒たん……せんせぇ?」
「おう」
沈み込んでいた身体を起こす。
どうやらここは正真正銘現実の、黒鋼の部屋らしい。
「おまえな……戻ってきた途端に人のベッドで不貞寝しはじめたと思ったら……」
温かな指先がファイの目尻を拭った。
彼は怒っているとも困っているともつかない、あるいはその両方が混ざったような複雑な顔をしている。
「泣いてんじゃねぇよ」
ああそうだ。
今日は日曜日で、昼間から二人で買い出しへ行った。
公園で紅茶を飲みながら、キャッチボールをする親子を見て。
一方的に怒って一人先に帰宅したファイは、けれどいつのもように黒鋼の部屋に入った。
怒ったら少し疲れてしまって、こうなったら昼寝してやるとベッドに寝そべったのだ。
少し遅れて帰って来た黒鋼は、買ったものをユゥイに届けてから戻って来たらしい。
「おっかねぇ夢でも見たか?」
何も答えないままぼんやりしているファイを心配してか、珍しく声のトーンが優しかった。
それによってまた少し涙腺が緩んだファイは、ぎゅっと目を閉じるとぶんぶんと首を振る。
そして、勢いよく起き上ると黒鋼の首に抱きついた。
「……一体なんだってんだよ……」
口ではそんなことを言いながら、どうやら泣くほど怖い夢を見たと思っているらしい黒鋼は、ファイの背中に腕を回すと、あやす様にそっと撫でる。
ファイはそんな黒鋼の肩口に熱い目元をぐっと押しつけた。
「オレ……オレさ……」
「なんだ」
「オレ、可愛いお嫁さんにもなれないし……男だから……子供も産めないけど……」
ずびっと鼻を啜ってから、顔を上げた。
相当酷い顔になっているだろうなと思いはしたけれど、今は夢から覚めた自分の想いを伝えることで精いっぱいだった。
「ずっと……死ぬまで一緒にいてもいい……?」
繋ぎとめるものが自分に一切ないと思い知ったとき、いつか彼の気持ちがどこか余所へ行ったとしても、縋りつくだけの力はないと思った。
一緒にいても人並みの幸せも与えてやれない。それでも離れるのが嫌で、考えるのも嫌で、怖くてたまらなくて、そんな自分はきっと一時的だとわかっていても眠りの中に逃げ場を求めてしまったのかもしれない。
黒鋼が僅かに目を見開いた。それから、目線だけ上へ向けて大きな溜息を零した。
「重てぇんだよ、てめぇはいちいち」
「……ごめん」
「聞くな。このアホ」
あやすような優しさで包みこんでいたはずの腕に、ぐっと力が込められた。
一ミリの隙間もないほど強く抱きしめられて、ファイは再びその肩口に顔を埋めた。
この腕の強さこそが彼の答えだと、本当はずっと知っていたのに。
そのとき、胸の中に小さな炎が灯った気がした。
よく知るその感覚は、いつもは当たり前すぎて気がつかないもの。
黒鋼を愛しいと、こうして抱き合っていることが嬉しいと、そう感じたときにいつだって灯っている炎。
『かあちゃんのなかに、いつも』
最後の鋼丸の言葉を思い出した。
そして理解する。
(そっか……これがあの子たちの正体なんだ)
今もここにいる。
もしもの世界の小さな家で、愛しい子供達は夢を見ている。
母と、そして父の姿を。
会うことはもう決して叶わないのだと思っていた。
こうして黒鋼と愛し合ったとしても、何も生まれないのだとも。
嬉しさと、ほんの少しの切なさに結局ファイの涙は止まらなかった。
なんだかんだでファイの涙に弱いらしい黒鋼は、どうしたものかと迷ったのちに僅かに身体を離すと、ファイの頬にキスをした。
(オレたちは、こうやって愛を育てているんだね)
長くて短い幸せな夢は、大切なものをファイの胸に確かに刻んだ。
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