2025/07/27 Sun 朝は一分一秒が戦争である。 黒鋼を見送って腰砕けになっている場合ではない。 ユゥイや鋼丸は今どうしているのかと慌てて立ちあがると、すぐ背後に黒ジャージを着たままの鋼丸がぽつんと裸足で佇んでいた。 「鋼丸! まだパジャマ着てたの!?」 両脇に手を差し込んでぶらーんと持ち上げられた鋼丸はぶんぶんと首を振った。 「ダメだよー! ちゃんとお洋服着ないと保育園行けないでしょー?」 ぶんぶん。再び首を振る鋼丸。 「鋼丸はパジャマもお洋服も黒ジャージでしょ?」 するとそこにピンク色のランドセルを背負って黄色の通学帽をかぶったユゥイが顔を出した。 「へ……?」 黒いレースがあしらわれた赤のチェックワンピースを着用し、彼女はすでに出かける準備が整っているらしい。 子供もこのくらい大きくなると、ある程度は手がかからないものなのか……とファイは感心する。なにより、いでたちがなんとも可愛らしい。 思わず鋼丸を片腕に抱えたまま屈んでユゥイをぎゅっと抱きしめた。 「可愛い!! 可愛いよユゥイハァハァ! 流石はオレの生き写し!!」 「ちょ、ちょっと……! やめてよー! 遅れちゃうでしょ!」 「はぁ……女の子いいなぁ女の子可愛いよオレも女体化して可愛いお洋服着たいー!」 「なんか最近ママ変ー!」 照れ臭いのか、ユゥイは顔を真っ赤にしながらファイの腕の中から抜け出した。 玄関に一度腰かけて、慌ててブーツをはいてしまうと「いってきます!」とこちらも見ずに行ってしまった。 ファイの目が、思わず三日月のようになる。 「うふふ……な~んかお年頃って感じ~……照れ臭いのかなぁ~?」 時間も忘れてニヤニヤしていると、抱っこしていた鋼丸がもぞもぞと妙な動きを見せ始めた。 「あれ? どうかした?」 至近距離で見る小さな息子の顔は無表情だった。だが、少し眉間に皺が寄って心なしか涙目だった。 「……しっこ」 「!?」 ズザァッと青褪めたファイは、廊下をスピードスケート選手のように光速で滑走しながらトイレへと向かった。 +++ 鋼丸を保育園へと送り届けるために、ファイはこの夢の世界で初めて外へ出た。 てっきりサ●エさんの世界のように昭和の情景が広がっているのかと思いきや、現代風のごく普通の街並みがそこにはあった。 一瞬お隣の家を覗きこもうかと思ったものの、辺りの建物は全てアパートやマンションばかりだった。 こじんまりとした木造平屋の磯●家はどこか浮いて見える。 黄色の帽子をかぶり、黒いジャージの上から水色のスモックを着た鋼丸がトテトテと自転車の方へ向かうのでついていく。 後部座席に子供用の座席が固定してある自転車を見て、どうやら毎日これで通っているらしいことを察する。 ちなみに鋼丸の黒ジャージなのだが、子供部屋の引き出しを開けて見たらみっちりとそればかりが詰まっていた。 パジャマ用、保育園用、その他お出かけ用と、彼なりの拘りがあるらしい……。 +++ 鋼丸を乗せて、自転車で颯爽と走り出したファイだったが、ふと保育園はどこにあるのだろうかと考えた。 が、そこはさすが夢の中である。 なぜかファイは知らないはずの道のりをすいすいと目的地へ向かって順調に走っていた。 「いや~、いいなぁ夢の中ってー。なんでもご都合的でー」 自転車に乗るというのも久しぶりで、真正面から風を受けて走るのがまた心地いい。 上機嫌で独り言を呟いていると、腰にぎゅっと掴まっていた鋼丸が少し大きな声を出した。 「かあちゃん……ゆめってなに!」 どうやら耳元を吹き抜ける風に声が掻き消されないよう、頑張って声を張っているらしい。 「夢だよー夢! 鋼丸も見るでしょー?」 そう答えたものの、この子はファイの見る夢の中の住人なのだから果たして夢を見る、などという概念はあるのか。 けれど鋼丸はすぐに「うん」と返事をした。 「ゆめ、いつもみる」 「へー? ちゃんと見るんだー。どんな夢見るのー?」 「かあちゃんと、とうちゃんのゆめ、みる」 「オレとパパの夢ー?」 「うん」 それは興味深い。夢の中の息子は、一体自分達のどんな夢を見ているのだろうか。 鋼丸はそのまま続けた。 「ゆめのなか、かあちゃんがふたり、いる」 「え?」 思わず自転車を止めた。そして背後を振り返る。 「オレが二人?」 「うん。いる」 「ユゥイじゃなくて?」 「ねえちゃんじゃない。だっておおきいもん」 見上げてくる鋼丸の瞳は父親そっくりの赤い色。けれど父親のそれよりもまだ丸くて大きくて、無垢そのものだった。 「かあちゃん、どっちもしろいおようふくきてる。とうちゃんは、いつもくろいジャージ、きてる」 もしかして、とファイは思った。 「ねぇ、その夢の中にいるオレって、片っぽは髪長い?」 「うん。ながい。むすんでる。とうちゃんは、ながいきのぼう、もってる」 「長生きの棒? ……あ、長い木の棒?」 竹刀だ。白い服というのはおそらくファイの白衣と、ユゥイのコック服ではないか。 やっぱり、と確信した。 「ねぇ、それってきっと現実の世界だよ」 「げんじゅつ?」 「そっか。鋼丸はオレと逆のものを見てるんだね」 「?」 小さな頭に手を乗せて、優しく撫でた。 夢の中だけれど、不思議と感覚がある。これもきっと脳が勘違いでもしているせいだ。 「現実のオレはまだ起きてくれないみたい。でも、今もすっごく幸せだから、まだいいんだ」 「ぜんぶ、ゆめなの?」 「うん。ごめんね」 別に隠すようなことではないと思った。 きっと言ってもわからないことだし、これは夢の中の話だから。 案の定、鋼丸はぼんやりとしながら「ふぅん」と言っただけだった。 それからすぐに遠くを指さして「あ」と言った。 「ん?」 振り向けば、広い道路の反対側に学校がある。 『友枝小学校』と書かれた大きな表札があって、今まさに門をくぐろうとしているピンクのランドセルが見えた。 「ねえちゃんだ」 「ほんとだー! ユゥイー! おーい!」 手をぶんぶんと振って声をかけるけれど、道行く自動車が声を掻き消してしまう。 ダメかー、と手を下ろしつつ、ファイは娘の隣に見覚えのある子供がいることに気がついた。 「あれ……? もしかしてあの子って……」 鷲色の癖毛の子供。けれど小狼か小龍かは判断がつかない。だが、さらにすぐ側に全く同じ顔をした少年とサクラと思しき少女が見えた。 「じゃあ、あれは小龍君の方だ」 緑のランドセルを背負った小龍は、ユゥイと手を繋いで歩いていた。 「やだー……ちょっと……いい感じ……?」 なかなか微笑ましい光景である。 だが同時に複雑な心境にも駆られてしまう。 まさか娘が幼いながらにボーイフレンドがいるとは、しかも手なんて繋いで歩いているとは……最近の子供はなかなか……などと生温かい笑顔を浮かべながら顎をジョリジョリした。(生えてないけど) (まぁでも結構お似合いかもなぁ) 小狼も勿論いい子だが、小龍の方がどちらかと言えばどっしりと構えていてしっかりしている。 ちょっと腹黒そうなところなど、案外ユゥイと合うかもしれない。 「面白そうだから、いっそ現実でもフラグ立っちゃえばいいのに……」 夢の中だけでなく、現実世界の弟に対しても野暮な親心を抱くファイだった。 * 「ふー……結構疲れるー……」 遅刻ギリギリで保育園に滑り込むと、迎えてくれた泣きぼくろがセクシーな女の先生に鋼丸を預けた。(ちなみに保育園の名前はよもぎ保育園だった) そしてようやく帰宅すると、ファイは茶の間のテーブルに突っ伏した。 「夢なのに……この疲労感……」 ふとテレビでもつけようかとリモコンを探して、テレビがとんでもなく時代錯誤なものだということに気がつく。 「うわ、めんどー」 今時ロータリー式のテレビもどうかと思うし、これでは地デジが見られないではないか……という心配をしつつ、結局テレビは断念した。 すると室内がシーンと静まり返っているのがやけに気になる。 ファイの認識としては、世間一般の主婦というものは、夫も子供達も送り出した後は一人の時間を堪能するのだとばかり思っていた。 けれど実際のところファイは働き盛りの男性であり、通常この時間は授業を行っているはずだった。 時々窓から同じく授業中の黒鋼を盗み見たり、生徒達と冗談を言い合ったり。 基本的に受け持ちは違っても、黒鋼もユゥイもいつも同じ校舎内にいるはずなのに。 それがこの世界では何もかもが違う。夫も子供達もみな、今はそれぞれ別の場所でやるべきことをやっている。 ふと溜息をつく。 そう、暇なのだ。そして寂しい。 ならば自分で仕事を見つけよう……夫のいない家を守り気持ちよく帰ってきてもらうために美しく保つのも妻の役目と、掃除や洗濯をするべく立ちあがろうとした瞬間だった。 また、場面が変わった。 「あり……?」 ファイは薄暗い部屋の中で横向きに寝転がっていた。 ここが子供部屋で、今が夜だということは子供用の机の上にあるライトが仄かな明かりを放っているのを見たからだった。 腕の中には鋼丸がいた。その隣の布団ではユゥイがすでに寝息を立てている。 どうやら子供を寝かしつけている最中に飛んだらしい。 鋼丸もまた、大きな目が薄目になり、うとうとしはじめていた。 ファイは少し長い時間をかけて息を吐きだした。自然と優しい笑みが浮かんで、盛り上がった布団をそっと撫でる。 やがて鋼丸が完全に眠りに落ちると、ファイは待ってましたとばかりにその丸い頬を指先でぷにぷにした。 「やぁらか~い……」 小さくて可愛い鋼丸。これがあと少しすれば、もっと自我のようなものが目覚めてどんどんヤンチャになっていくに違いなかった。 「将来は、体育の先生になるかもね」 黒鋼が子供の頃も、きっとこんなだったのだろうと思うと愛しさがひとしおだった。 そういえば、現実の世界であまり彼の子供時代の話を聞いたことがない。 目覚めたら聞いてみようか。かと言って素直に教えてくれるとは思えなかったけれど、それでも聞いてみたいと思った。 「いい夢見てねー」 鋼丸の額にそっとキスをしてから身体を起こして、ユゥイの側へも行くと同じようにキスをした。 +++ 「寝たか?」 子供部屋と廊下を挟んで向かい合っている寝室へ向かうと、寝巻(黒ジャージ)を着こんだ黒鋼が布団の上で胡坐をかき、何か書類に目を通していた。 「うん。二人ともよく寝てるよー」 「そうか」 ふっと口元を緩めた黒鋼が、手にしていた書類を文机の上に放った。 手が空いたのを確認して、すかさず隣に腰を下ろすとぴったりと寄り添ってみる。 「なんだよ。寒いのか?」 「んーん。ずーっとちっちゃいの相手してたからー」 自分より大きな存在に寄りかかるのが、やけに久しぶりで新鮮なことのように思えた。 ようやく身体から力が抜けたような気がして、ファイはほっと息を吐いた。 肩を抱かれて、先刻ファイがしたような額へのキスを逆にされてしまう。 不思議な感じがした。 抱きしめてキスをして、愛情をいっぱい注ぐ母親という立場から、こうして二人きりになった瞬間、全く違う一人の人間になるような、そんな気がした。 むず痒いような、照れ臭いような、今まで経験したことのない感覚だった。 「甘えたくなったか?」 「えへへ。うん」 現実の世界でも、黒鋼はよくファイのことを『甘ったれ』と言う。 今まであまり自覚はなかったけれど、実際そうなのだと思った。 逞しい肩に額を押し付けるようにして預けながら、ファイはこの温もりも全てが夢だと思うと少し寂しい気がした。 「オレ、黒たんは絶対にいいパパになるって思ってたよ」 「そうか」 「うん。いつか可愛いお嫁さんもらって、可愛い子供が生まれるのかなって」 「実際そうなったろ?」 「! ……うん」 頬が熱くなった。 何も言えないでもごもごしていると、黒鋼がぽつりと零し始める。 「最初はな」 「うん」 「まだしばらくは俺とおまえの二人でいいんじゃねぇかって思った」 「そうなんだ……」 「籍入れてすぐデキちまったろ?」 そ、そうなの……? という言葉はひとまず飲み込む。 「その、なんだ。多少はな、複雑だった」 もしかして……とファイは思った。 新婚生活もままならないうちに妊娠をして、そして出産という流れに彼は多少の寂しさを感じていたのだろうか。 この男は、実は意外と独占欲が強いということをファイは知っていた。 思わず「ふふふ」と笑ってしまった。 「なんだよ」 「うぅん。黒たん、おっきい子供みたいだなって」 「……うるせぇな」 顔に似合わず照れ臭そうにそっぽを向いた黒鋼に横目で睨まれた。 ファイはなんだか嬉しくて、今にも踊りだしたいような気持ちになった。 夢だけど。 幸せだから、まだもう少しいいか、なんて。 「子供……可愛い?」 悪戯っ子のような上目づかいで問いかけた。黒鋼はむっとしていた口元をまた少し緩める。 「当たり前のこと聞くな」 「うん」 「てめぇん中から出て来たガキ、可愛くねぇわけねぇだろ」 もっと他に言い方はないのかと、やっぱり声を出して笑ってしまう。 うるさいと言わんばかりにその唇を塞がれた。 一瞬で離れてしまったけれど、ファイを黙らせるには十分な威力を発揮した。 夢だろうが現実だろうが、こうして黒鋼と触れあうのはいつまで経っても心臓が慣れない。 ドキドキと高鳴って、熱にうかされたように頬が熱くなる。 見つめあったあと、再び顔を寄せてくる黒鋼に目を閉じた。 黒鋼の首に腕を回して、引き寄せる。 物音ひとつ立てればすぐに子供達が起きだしてしまうかもしれないのに。 だが火がついてしまったものは仕方がない。 ここからは夫婦であり、そして大人の時間が幕を…… 開けなかった。 +++ 「……えっ」 めまぐるしいにも程がある。 どうやら場面は再び朝のようだった。 ファイは夫と子供達と四人で食卓を囲んでいた。 そこには卵焼きやソーセージ、サラダや納豆、漬物などが並べられていた。 (あとちょっと頑張れなかったのオレー!?) あと少し……あと少しであるいは3人目が出来ていたかもしれない、めくるめく一大イベントの幕開けだったというのに……。 ガックーンと項垂れるファイを余所に、年代を感じさせるテレビでは運勢占いが流れていて、画面右上にはしっかりと『アナログ』の余計な文字。 あらかた食べ終えて新聞を読んでいるシャツとネクタイ姿の黒鋼と、箸を咥えたまま占いに夢中のユゥイ。子供用のフォークを使って一生懸命トマトを刺そうとしている鋼丸。 その頬にはご飯粒がくっついていて、ファイは苦笑しながらそれを指先で取ってやった。 きっとどこにでもある、ごく普通の朝の風景。 けれど少し違う気がした。身体がどこかふわふわとしていることに気がつく。 これはファイ自身が見ている夢の世界。最初はうまく状況が飲み込めず、戸惑うことばかりだったけれど、今は慣れてきたのか、少し感じる。 (もうすぐ……起きちゃうんだ……) 思い思いに食事をしながら朝の団欒を過ごしている家族達をざっと見回す。 短い間だったけれど、とても長い夢。 もうすぐ終わるのだと思うと、少ししんみりした。 「かあちゃん、させた」 鋼丸が、小さな手で掴んだフォークの先を見せてくる。しっかりとトマトが刺さっていて、ファイはそれを見て少しだけ涙ぐんだ。 「上手だねー鋼丸。そのうちすぐにお箸も使えるようになるんだろうなー」 その成長を自分は見ることが出来るだろうか。再びこの夢の続きを。 「あーん! 今日の恋愛運サイテーだよー!」 占いの結果を見てがっかりするユゥイ。ピンクと黒のボーダー柄のボアチュニックが今日も可愛い。 「恋愛運だぁ? そんなもんおまえにゃまだ早い」 「早くないもん! ボクだってもう大人のオンナなんだから!」 「10年早ぇ。いや、100年だ」 「そんなに待ってたらシワシワ通り越して死んじゃうよ! パパのいじわる!」 「おう上等だ……!」 『何処の馬の骨とも知れぬ輩に娘はやれん』精神丸出しの黒鋼が、大人げなく青筋を立てながら娘に突っかかっている。 お父さん……娘にはもう立派なボーイフレンドが……と言いたかったが、ちゃぶ台をひっくり返しかねないので黙っておいた。 (賑やかだなぁ……) そうしているうちにどんどん意識がふわふわとしてきて、ファイは慌てて立ちあがると片付けを始めた。 「ケンカしてないでもう時間だよ! 黒たん新聞ナイナイして!」 「おっと……おい、この続きは夜だ夜。いいな」 「ふんだ!」 新聞を畳みつつ同じく立ちあがる黒鋼。ツンとそっぽを向くユゥイ。いまだトマトをもぐもぐしている鋼丸。 子供達はまだ多少の余裕があるからいいとして、まずは夫を送り出さなければ。 じきに覚めるとわかっているから、せめて今この瞬間の務めを最後まで果たしたい。 どうかユゥイを送り出して、鋼丸を保育園に送り届けるまでは。 ハンガーにかかっていたジャケットを取って、先に玄関先へ行ってしまった黒鋼を追いかける。 「お弁当持ったよねー?」 「おう」 後ろから着せてやると、黒鋼はすぐに振り返って手を伸ばしてきた。 行ってきますのチューだ。 けれどファイはそれをやんわりと制した。 「どうした?」 「うぅん。ますます名残惜しくなっちゃうから……」 「仕事行くだけだろ」 苦笑する黒鋼に、ファイは笑いながら首を振った。 「起きたら、してもらうね?」 「?」 「行ってらっしゃい、あなた」 「……おう、行ってくる」 不思議そうに首を傾げながらも、黒鋼は引き戸を開けると出て行った。 しばらく見えなくなった背をその場で見つめて、ファイは「よし!」と気合を入れる。 すぐに茶の間へ向かって、いまだテレビと食事に齧りついている子供達に声をかけた。 「ほらユゥイ、もうテレビ終わり! 遅刻しちゃうよー! 鋼丸も、保育園用のジャージに着替えちゃお……ッ、あ……」 その瞬間、ふわりと足元が揺らぐ。子供達の姿が白く霞んでいった。 (やだ……もうちょっとなのに……!) 「ねぇママー。この俳優さん、ちょっとパパに似てない?」 つい今しがたまでケンカしていたくせに、何事もなかったかのように父の話題を出すユゥイ。 同じようにテレビを見て答えてやりたいのに、ファイの目にはもうゆっくりと世界に滲んでゆく子供たちしか見えない。 「あはは! でもパパの方がかっこいい」 (うん……うん……。君達のパパは誰よりもかっこいいよ) 「目つきだってパパの方が悪いよねー」 (でも、凄く優しい目なんだよ。いつだって見守ってくれてる) 「かあちゃん」 鋼丸だけが、まるで今のファイの状況を理解しているかのように真っすぐにこちらを見ていた。 (鋼丸……?) 「おれたちは、ずっとここにいる」 (鋼丸……) 「ここはげんじゅつのセカイじゃないけど……でも、いつもいる。かあちゃんのなかに、いつも」 動かない身体で必死に腕を伸ばそうと足掻いた。 どうかせめてもう一度。 この子たちは現実の世界へ帰ってももう会えない。 小さな黒鋼はいない。女の子のユゥイもいない。 ならばせめて、せめてもう一度だけ、抱きしめたいのに。 鋼丸が、そこで初めて笑顔を見せた。 前歯が一本だけ抜けている、幼い笑顔だった。 「いってらっしゃい」 +++ 「ぁ……」 小さな呻きを自分の声だと認識した瞬間、ファイは自分が完全に覚醒したことを知った。 天井に向けて伸ばしている手が、微かに震えている。 涙が幾筋も流れて、頬を濡らしていた。 「おいおまえ……どうした?」 そのまま動けないでいたファイは、ついさっきまで聞いていたはずの懐かしい声に目を向けた。 空を彷徨っていた手が、大きな手に掴まれる。 「黒たん……せんせぇ?」 「おう」 沈み込んでいた身体を起こす。 どうやらここは正真正銘現実の、黒鋼の部屋らしい。 「おまえな……戻ってきた途端に人のベッドで不貞寝しはじめたと思ったら……」 温かな指先がファイの目尻を拭った。 彼は怒っているとも困っているともつかない、あるいはその両方が混ざったような複雑な顔をしている。 「泣いてんじゃねぇよ」 ああそうだ。 今日は日曜日で、昼間から二人で買い出しへ行った。 公園で紅茶を飲みながら、キャッチボールをする親子を見て。 一方的に怒って一人先に帰宅したファイは、けれどいつのもように黒鋼の部屋に入った。 怒ったら少し疲れてしまって、こうなったら昼寝してやるとベッドに寝そべったのだ。 少し遅れて帰って来た黒鋼は、買ったものをユゥイに届けてから戻って来たらしい。 「おっかねぇ夢でも見たか?」 何も答えないままぼんやりしているファイを心配してか、珍しく声のトーンが優しかった。 それによってまた少し涙腺が緩んだファイは、ぎゅっと目を閉じるとぶんぶんと首を振る。 そして、勢いよく起き上ると黒鋼の首に抱きついた。 「……一体なんだってんだよ……」 口ではそんなことを言いながら、どうやら泣くほど怖い夢を見たと思っているらしい黒鋼は、ファイの背中に腕を回すと、あやす様にそっと撫でる。 ファイはそんな黒鋼の肩口に熱い目元をぐっと押しつけた。 「オレ……オレさ……」 「なんだ」 「オレ、可愛いお嫁さんにもなれないし……男だから……子供も産めないけど……」 ずびっと鼻を啜ってから、顔を上げた。 相当酷い顔になっているだろうなと思いはしたけれど、今は夢から覚めた自分の想いを伝えることで精いっぱいだった。 「ずっと……死ぬまで一緒にいてもいい……?」 繋ぎとめるものが自分に一切ないと思い知ったとき、いつか彼の気持ちがどこか余所へ行ったとしても、縋りつくだけの力はないと思った。 一緒にいても人並みの幸せも与えてやれない。それでも離れるのが嫌で、考えるのも嫌で、怖くてたまらなくて、そんな自分はきっと一時的だとわかっていても眠りの中に逃げ場を求めてしまったのかもしれない。 黒鋼が僅かに目を見開いた。それから、目線だけ上へ向けて大きな溜息を零した。 「重てぇんだよ、てめぇはいちいち」 「……ごめん」 「聞くな。このアホ」 あやすような優しさで包みこんでいたはずの腕に、ぐっと力が込められた。 一ミリの隙間もないほど強く抱きしめられて、ファイは再びその肩口に顔を埋めた。 この腕の強さこそが彼の答えだと、本当はずっと知っていたのに。 そのとき、胸の中に小さな炎が灯った気がした。 よく知るその感覚は、いつもは当たり前すぎて気がつかないもの。 黒鋼を愛しいと、こうして抱き合っていることが嬉しいと、そう感じたときにいつだって灯っている炎。 『かあちゃんのなかに、いつも』 最後の鋼丸の言葉を思い出した。 そして理解する。 (そっか……これがあの子たちの正体なんだ) 今もここにいる。 もしもの世界の小さな家で、愛しい子供達は夢を見ている。 母と、そして父の姿を。 会うことはもう決して叶わないのだと思っていた。 こうして黒鋼と愛し合ったとしても、何も生まれないのだとも。 嬉しさと、ほんの少しの切なさに結局ファイの涙は止まらなかった。 なんだかんだでファイの涙に弱いらしい黒鋼は、どうしたものかと迷ったのちに僅かに身体を離すと、ファイの頬にキスをした。 (オレたちは、こうやって愛を育てているんだね) 長くて短い幸せな夢は、大切なものをファイの胸に確かに刻んだ。 ←戻る ・ Wavebox👏
黒鋼を見送って腰砕けになっている場合ではない。
ユゥイや鋼丸は今どうしているのかと慌てて立ちあがると、すぐ背後に黒ジャージを着たままの鋼丸がぽつんと裸足で佇んでいた。
「鋼丸! まだパジャマ着てたの!?」
両脇に手を差し込んでぶらーんと持ち上げられた鋼丸はぶんぶんと首を振った。
「ダメだよー! ちゃんとお洋服着ないと保育園行けないでしょー?」
ぶんぶん。再び首を振る鋼丸。
「鋼丸はパジャマもお洋服も黒ジャージでしょ?」
するとそこにピンク色のランドセルを背負って黄色の通学帽をかぶったユゥイが顔を出した。
「へ……?」
黒いレースがあしらわれた赤のチェックワンピースを着用し、彼女はすでに出かける準備が整っているらしい。
子供もこのくらい大きくなると、ある程度は手がかからないものなのか……とファイは感心する。なにより、いでたちがなんとも可愛らしい。
思わず鋼丸を片腕に抱えたまま屈んでユゥイをぎゅっと抱きしめた。
「可愛い!! 可愛いよユゥイハァハァ! 流石はオレの生き写し!!」
「ちょ、ちょっと……! やめてよー! 遅れちゃうでしょ!」
「はぁ……女の子いいなぁ女の子可愛いよオレも女体化して可愛いお洋服着たいー!」
「なんか最近ママ変ー!」
照れ臭いのか、ユゥイは顔を真っ赤にしながらファイの腕の中から抜け出した。
玄関に一度腰かけて、慌ててブーツをはいてしまうと「いってきます!」とこちらも見ずに行ってしまった。
ファイの目が、思わず三日月のようになる。
「うふふ……な~んかお年頃って感じ~……照れ臭いのかなぁ~?」
時間も忘れてニヤニヤしていると、抱っこしていた鋼丸がもぞもぞと妙な動きを見せ始めた。
「あれ? どうかした?」
至近距離で見る小さな息子の顔は無表情だった。だが、少し眉間に皺が寄って心なしか涙目だった。
「……しっこ」
「!?」
ズザァッと青褪めたファイは、廊下をスピードスケート選手のように光速で滑走しながらトイレへと向かった。
+++
鋼丸を保育園へと送り届けるために、ファイはこの夢の世界で初めて外へ出た。
てっきりサ●エさんの世界のように昭和の情景が広がっているのかと思いきや、現代風のごく普通の街並みがそこにはあった。
一瞬お隣の家を覗きこもうかと思ったものの、辺りの建物は全てアパートやマンションばかりだった。
こじんまりとした木造平屋の磯●家はどこか浮いて見える。
黄色の帽子をかぶり、黒いジャージの上から水色のスモックを着た鋼丸がトテトテと自転車の方へ向かうのでついていく。
後部座席に子供用の座席が固定してある自転車を見て、どうやら毎日これで通っているらしいことを察する。
ちなみに鋼丸の黒ジャージなのだが、子供部屋の引き出しを開けて見たらみっちりとそればかりが詰まっていた。
パジャマ用、保育園用、その他お出かけ用と、彼なりの拘りがあるらしい……。
+++
鋼丸を乗せて、自転車で颯爽と走り出したファイだったが、ふと保育園はどこにあるのだろうかと考えた。
が、そこはさすが夢の中である。
なぜかファイは知らないはずの道のりをすいすいと目的地へ向かって順調に走っていた。
「いや~、いいなぁ夢の中ってー。なんでもご都合的でー」
自転車に乗るというのも久しぶりで、真正面から風を受けて走るのがまた心地いい。
上機嫌で独り言を呟いていると、腰にぎゅっと掴まっていた鋼丸が少し大きな声を出した。
「かあちゃん……ゆめってなに!」
どうやら耳元を吹き抜ける風に声が掻き消されないよう、頑張って声を張っているらしい。
「夢だよー夢! 鋼丸も見るでしょー?」
そう答えたものの、この子はファイの見る夢の中の住人なのだから果たして夢を見る、などという概念はあるのか。
けれど鋼丸はすぐに「うん」と返事をした。
「ゆめ、いつもみる」
「へー? ちゃんと見るんだー。どんな夢見るのー?」
「かあちゃんと、とうちゃんのゆめ、みる」
「オレとパパの夢ー?」
「うん」
それは興味深い。夢の中の息子は、一体自分達のどんな夢を見ているのだろうか。
鋼丸はそのまま続けた。
「ゆめのなか、かあちゃんがふたり、いる」
「え?」
思わず自転車を止めた。そして背後を振り返る。
「オレが二人?」
「うん。いる」
「ユゥイじゃなくて?」
「ねえちゃんじゃない。だっておおきいもん」
見上げてくる鋼丸の瞳は父親そっくりの赤い色。けれど父親のそれよりもまだ丸くて大きくて、無垢そのものだった。
「かあちゃん、どっちもしろいおようふくきてる。とうちゃんは、いつもくろいジャージ、きてる」
もしかして、とファイは思った。
「ねぇ、その夢の中にいるオレって、片っぽは髪長い?」
「うん。ながい。むすんでる。とうちゃんは、ながいきのぼう、もってる」
「長生きの棒? ……あ、長い木の棒?」
竹刀だ。白い服というのはおそらくファイの白衣と、ユゥイのコック服ではないか。
やっぱり、と確信した。
「ねぇ、それってきっと現実の世界だよ」
「げんじゅつ?」
「そっか。鋼丸はオレと逆のものを見てるんだね」
「?」
小さな頭に手を乗せて、優しく撫でた。
夢の中だけれど、不思議と感覚がある。これもきっと脳が勘違いでもしているせいだ。
「現実のオレはまだ起きてくれないみたい。でも、今もすっごく幸せだから、まだいいんだ」
「ぜんぶ、ゆめなの?」
「うん。ごめんね」
別に隠すようなことではないと思った。
きっと言ってもわからないことだし、これは夢の中の話だから。
案の定、鋼丸はぼんやりとしながら「ふぅん」と言っただけだった。
それからすぐに遠くを指さして「あ」と言った。
「ん?」
振り向けば、広い道路の反対側に学校がある。
『友枝小学校』と書かれた大きな表札があって、今まさに門をくぐろうとしているピンクのランドセルが見えた。
「ねえちゃんだ」
「ほんとだー! ユゥイー! おーい!」
手をぶんぶんと振って声をかけるけれど、道行く自動車が声を掻き消してしまう。
ダメかー、と手を下ろしつつ、ファイは娘の隣に見覚えのある子供がいることに気がついた。
「あれ……? もしかしてあの子って……」
鷲色の癖毛の子供。けれど小狼か小龍かは判断がつかない。だが、さらにすぐ側に全く同じ顔をした少年とサクラと思しき少女が見えた。
「じゃあ、あれは小龍君の方だ」
緑のランドセルを背負った小龍は、ユゥイと手を繋いで歩いていた。
「やだー……ちょっと……いい感じ……?」
なかなか微笑ましい光景である。
だが同時に複雑な心境にも駆られてしまう。
まさか娘が幼いながらにボーイフレンドがいるとは、しかも手なんて繋いで歩いているとは……最近の子供はなかなか……などと生温かい笑顔を浮かべながら顎をジョリジョリした。(生えてないけど)
(まぁでも結構お似合いかもなぁ)
小狼も勿論いい子だが、小龍の方がどちらかと言えばどっしりと構えていてしっかりしている。
ちょっと腹黒そうなところなど、案外ユゥイと合うかもしれない。
「面白そうだから、いっそ現実でもフラグ立っちゃえばいいのに……」
夢の中だけでなく、現実世界の弟に対しても野暮な親心を抱くファイだった。
*
「ふー……結構疲れるー……」
遅刻ギリギリで保育園に滑り込むと、迎えてくれた泣きぼくろがセクシーな女の先生に鋼丸を預けた。(ちなみに保育園の名前はよもぎ保育園だった)
そしてようやく帰宅すると、ファイは茶の間のテーブルに突っ伏した。
「夢なのに……この疲労感……」
ふとテレビでもつけようかとリモコンを探して、テレビがとんでもなく時代錯誤なものだということに気がつく。
「うわ、めんどー」
今時ロータリー式のテレビもどうかと思うし、これでは地デジが見られないではないか……という心配をしつつ、結局テレビは断念した。
すると室内がシーンと静まり返っているのがやけに気になる。
ファイの認識としては、世間一般の主婦というものは、夫も子供達も送り出した後は一人の時間を堪能するのだとばかり思っていた。
けれど実際のところファイは働き盛りの男性であり、通常この時間は授業を行っているはずだった。
時々窓から同じく授業中の黒鋼を盗み見たり、生徒達と冗談を言い合ったり。
基本的に受け持ちは違っても、黒鋼もユゥイもいつも同じ校舎内にいるはずなのに。
それがこの世界では何もかもが違う。夫も子供達もみな、今はそれぞれ別の場所でやるべきことをやっている。
ふと溜息をつく。
そう、暇なのだ。そして寂しい。
ならば自分で仕事を見つけよう……夫のいない家を守り気持ちよく帰ってきてもらうために美しく保つのも妻の役目と、掃除や洗濯をするべく立ちあがろうとした瞬間だった。
また、場面が変わった。
「あり……?」
ファイは薄暗い部屋の中で横向きに寝転がっていた。
ここが子供部屋で、今が夜だということは子供用の机の上にあるライトが仄かな明かりを放っているのを見たからだった。
腕の中には鋼丸がいた。その隣の布団ではユゥイがすでに寝息を立てている。
どうやら子供を寝かしつけている最中に飛んだらしい。
鋼丸もまた、大きな目が薄目になり、うとうとしはじめていた。
ファイは少し長い時間をかけて息を吐きだした。自然と優しい笑みが浮かんで、盛り上がった布団をそっと撫でる。
やがて鋼丸が完全に眠りに落ちると、ファイは待ってましたとばかりにその丸い頬を指先でぷにぷにした。
「やぁらか~い……」
小さくて可愛い鋼丸。これがあと少しすれば、もっと自我のようなものが目覚めてどんどんヤンチャになっていくに違いなかった。
「将来は、体育の先生になるかもね」
黒鋼が子供の頃も、きっとこんなだったのだろうと思うと愛しさがひとしおだった。
そういえば、現実の世界であまり彼の子供時代の話を聞いたことがない。
目覚めたら聞いてみようか。かと言って素直に教えてくれるとは思えなかったけれど、それでも聞いてみたいと思った。
「いい夢見てねー」
鋼丸の額にそっとキスをしてから身体を起こして、ユゥイの側へも行くと同じようにキスをした。
+++
「寝たか?」
子供部屋と廊下を挟んで向かい合っている寝室へ向かうと、寝巻(黒ジャージ)を着こんだ黒鋼が布団の上で胡坐をかき、何か書類に目を通していた。
「うん。二人ともよく寝てるよー」
「そうか」
ふっと口元を緩めた黒鋼が、手にしていた書類を文机の上に放った。
手が空いたのを確認して、すかさず隣に腰を下ろすとぴったりと寄り添ってみる。
「なんだよ。寒いのか?」
「んーん。ずーっとちっちゃいの相手してたからー」
自分より大きな存在に寄りかかるのが、やけに久しぶりで新鮮なことのように思えた。
ようやく身体から力が抜けたような気がして、ファイはほっと息を吐いた。
肩を抱かれて、先刻ファイがしたような額へのキスを逆にされてしまう。
不思議な感じがした。
抱きしめてキスをして、愛情をいっぱい注ぐ母親という立場から、こうして二人きりになった瞬間、全く違う一人の人間になるような、そんな気がした。
むず痒いような、照れ臭いような、今まで経験したことのない感覚だった。
「甘えたくなったか?」
「えへへ。うん」
現実の世界でも、黒鋼はよくファイのことを『甘ったれ』と言う。
今まであまり自覚はなかったけれど、実際そうなのだと思った。
逞しい肩に額を押し付けるようにして預けながら、ファイはこの温もりも全てが夢だと思うと少し寂しい気がした。
「オレ、黒たんは絶対にいいパパになるって思ってたよ」
「そうか」
「うん。いつか可愛いお嫁さんもらって、可愛い子供が生まれるのかなって」
「実際そうなったろ?」
「! ……うん」
頬が熱くなった。
何も言えないでもごもごしていると、黒鋼がぽつりと零し始める。
「最初はな」
「うん」
「まだしばらくは俺とおまえの二人でいいんじゃねぇかって思った」
「そうなんだ……」
「籍入れてすぐデキちまったろ?」
そ、そうなの……? という言葉はひとまず飲み込む。
「その、なんだ。多少はな、複雑だった」
もしかして……とファイは思った。
新婚生活もままならないうちに妊娠をして、そして出産という流れに彼は多少の寂しさを感じていたのだろうか。
この男は、実は意外と独占欲が強いということをファイは知っていた。
思わず「ふふふ」と笑ってしまった。
「なんだよ」
「うぅん。黒たん、おっきい子供みたいだなって」
「……うるせぇな」
顔に似合わず照れ臭そうにそっぽを向いた黒鋼に横目で睨まれた。
ファイはなんだか嬉しくて、今にも踊りだしたいような気持ちになった。
夢だけど。
幸せだから、まだもう少しいいか、なんて。
「子供……可愛い?」
悪戯っ子のような上目づかいで問いかけた。黒鋼はむっとしていた口元をまた少し緩める。
「当たり前のこと聞くな」
「うん」
「てめぇん中から出て来たガキ、可愛くねぇわけねぇだろ」
もっと他に言い方はないのかと、やっぱり声を出して笑ってしまう。
うるさいと言わんばかりにその唇を塞がれた。
一瞬で離れてしまったけれど、ファイを黙らせるには十分な威力を発揮した。
夢だろうが現実だろうが、こうして黒鋼と触れあうのはいつまで経っても心臓が慣れない。
ドキドキと高鳴って、熱にうかされたように頬が熱くなる。
見つめあったあと、再び顔を寄せてくる黒鋼に目を閉じた。
黒鋼の首に腕を回して、引き寄せる。
物音ひとつ立てればすぐに子供達が起きだしてしまうかもしれないのに。
だが火がついてしまったものは仕方がない。
ここからは夫婦であり、そして大人の時間が幕を……
開けなかった。
+++
「……えっ」
めまぐるしいにも程がある。
どうやら場面は再び朝のようだった。
ファイは夫と子供達と四人で食卓を囲んでいた。
そこには卵焼きやソーセージ、サラダや納豆、漬物などが並べられていた。
(あとちょっと頑張れなかったのオレー!?)
あと少し……あと少しであるいは3人目が出来ていたかもしれない、めくるめく一大イベントの幕開けだったというのに……。
ガックーンと項垂れるファイを余所に、年代を感じさせるテレビでは運勢占いが流れていて、画面右上にはしっかりと『アナログ』の余計な文字。
あらかた食べ終えて新聞を読んでいるシャツとネクタイ姿の黒鋼と、箸を咥えたまま占いに夢中のユゥイ。子供用のフォークを使って一生懸命トマトを刺そうとしている鋼丸。
その頬にはご飯粒がくっついていて、ファイは苦笑しながらそれを指先で取ってやった。
きっとどこにでもある、ごく普通の朝の風景。
けれど少し違う気がした。身体がどこかふわふわとしていることに気がつく。
これはファイ自身が見ている夢の世界。最初はうまく状況が飲み込めず、戸惑うことばかりだったけれど、今は慣れてきたのか、少し感じる。
(もうすぐ……起きちゃうんだ……)
思い思いに食事をしながら朝の団欒を過ごしている家族達をざっと見回す。
短い間だったけれど、とても長い夢。
もうすぐ終わるのだと思うと、少ししんみりした。
「かあちゃん、させた」
鋼丸が、小さな手で掴んだフォークの先を見せてくる。しっかりとトマトが刺さっていて、ファイはそれを見て少しだけ涙ぐんだ。
「上手だねー鋼丸。そのうちすぐにお箸も使えるようになるんだろうなー」
その成長を自分は見ることが出来るだろうか。再びこの夢の続きを。
「あーん! 今日の恋愛運サイテーだよー!」
占いの結果を見てがっかりするユゥイ。ピンクと黒のボーダー柄のボアチュニックが今日も可愛い。
「恋愛運だぁ? そんなもんおまえにゃまだ早い」
「早くないもん! ボクだってもう大人のオンナなんだから!」
「10年早ぇ。いや、100年だ」
「そんなに待ってたらシワシワ通り越して死んじゃうよ! パパのいじわる!」
「おう上等だ……!」
『何処の馬の骨とも知れぬ輩に娘はやれん』精神丸出しの黒鋼が、大人げなく青筋を立てながら娘に突っかかっている。
お父さん……娘にはもう立派なボーイフレンドが……と言いたかったが、ちゃぶ台をひっくり返しかねないので黙っておいた。
(賑やかだなぁ……)
そうしているうちにどんどん意識がふわふわとしてきて、ファイは慌てて立ちあがると片付けを始めた。
「ケンカしてないでもう時間だよ! 黒たん新聞ナイナイして!」
「おっと……おい、この続きは夜だ夜。いいな」
「ふんだ!」
新聞を畳みつつ同じく立ちあがる黒鋼。ツンとそっぽを向くユゥイ。いまだトマトをもぐもぐしている鋼丸。
子供達はまだ多少の余裕があるからいいとして、まずは夫を送り出さなければ。
じきに覚めるとわかっているから、せめて今この瞬間の務めを最後まで果たしたい。
どうかユゥイを送り出して、鋼丸を保育園に送り届けるまでは。
ハンガーにかかっていたジャケットを取って、先に玄関先へ行ってしまった黒鋼を追いかける。
「お弁当持ったよねー?」
「おう」
後ろから着せてやると、黒鋼はすぐに振り返って手を伸ばしてきた。
行ってきますのチューだ。
けれどファイはそれをやんわりと制した。
「どうした?」
「うぅん。ますます名残惜しくなっちゃうから……」
「仕事行くだけだろ」
苦笑する黒鋼に、ファイは笑いながら首を振った。
「起きたら、してもらうね?」
「?」
「行ってらっしゃい、あなた」
「……おう、行ってくる」
不思議そうに首を傾げながらも、黒鋼は引き戸を開けると出て行った。
しばらく見えなくなった背をその場で見つめて、ファイは「よし!」と気合を入れる。
すぐに茶の間へ向かって、いまだテレビと食事に齧りついている子供達に声をかけた。
「ほらユゥイ、もうテレビ終わり! 遅刻しちゃうよー! 鋼丸も、保育園用のジャージに着替えちゃお……ッ、あ……」
その瞬間、ふわりと足元が揺らぐ。子供達の姿が白く霞んでいった。
(やだ……もうちょっとなのに……!)
「ねぇママー。この俳優さん、ちょっとパパに似てない?」
つい今しがたまでケンカしていたくせに、何事もなかったかのように父の話題を出すユゥイ。
同じようにテレビを見て答えてやりたいのに、ファイの目にはもうゆっくりと世界に滲んでゆく子供たちしか見えない。
「あはは! でもパパの方がかっこいい」
(うん……うん……。君達のパパは誰よりもかっこいいよ)
「目つきだってパパの方が悪いよねー」
(でも、凄く優しい目なんだよ。いつだって見守ってくれてる)
「かあちゃん」
鋼丸だけが、まるで今のファイの状況を理解しているかのように真っすぐにこちらを見ていた。
(鋼丸……?)
「おれたちは、ずっとここにいる」
(鋼丸……)
「ここはげんじゅつのセカイじゃないけど……でも、いつもいる。かあちゃんのなかに、いつも」
動かない身体で必死に腕を伸ばそうと足掻いた。
どうかせめてもう一度。
この子たちは現実の世界へ帰ってももう会えない。
小さな黒鋼はいない。女の子のユゥイもいない。
ならばせめて、せめてもう一度だけ、抱きしめたいのに。
鋼丸が、そこで初めて笑顔を見せた。
前歯が一本だけ抜けている、幼い笑顔だった。
「いってらっしゃい」
+++
「ぁ……」
小さな呻きを自分の声だと認識した瞬間、ファイは自分が完全に覚醒したことを知った。
天井に向けて伸ばしている手が、微かに震えている。
涙が幾筋も流れて、頬を濡らしていた。
「おいおまえ……どうした?」
そのまま動けないでいたファイは、ついさっきまで聞いていたはずの懐かしい声に目を向けた。
空を彷徨っていた手が、大きな手に掴まれる。
「黒たん……せんせぇ?」
「おう」
沈み込んでいた身体を起こす。
どうやらここは正真正銘現実の、黒鋼の部屋らしい。
「おまえな……戻ってきた途端に人のベッドで不貞寝しはじめたと思ったら……」
温かな指先がファイの目尻を拭った。
彼は怒っているとも困っているともつかない、あるいはその両方が混ざったような複雑な顔をしている。
「泣いてんじゃねぇよ」
ああそうだ。
今日は日曜日で、昼間から二人で買い出しへ行った。
公園で紅茶を飲みながら、キャッチボールをする親子を見て。
一方的に怒って一人先に帰宅したファイは、けれどいつのもように黒鋼の部屋に入った。
怒ったら少し疲れてしまって、こうなったら昼寝してやるとベッドに寝そべったのだ。
少し遅れて帰って来た黒鋼は、買ったものをユゥイに届けてから戻って来たらしい。
「おっかねぇ夢でも見たか?」
何も答えないままぼんやりしているファイを心配してか、珍しく声のトーンが優しかった。
それによってまた少し涙腺が緩んだファイは、ぎゅっと目を閉じるとぶんぶんと首を振る。
そして、勢いよく起き上ると黒鋼の首に抱きついた。
「……一体なんだってんだよ……」
口ではそんなことを言いながら、どうやら泣くほど怖い夢を見たと思っているらしい黒鋼は、ファイの背中に腕を回すと、あやす様にそっと撫でる。
ファイはそんな黒鋼の肩口に熱い目元をぐっと押しつけた。
「オレ……オレさ……」
「なんだ」
「オレ、可愛いお嫁さんにもなれないし……男だから……子供も産めないけど……」
ずびっと鼻を啜ってから、顔を上げた。
相当酷い顔になっているだろうなと思いはしたけれど、今は夢から覚めた自分の想いを伝えることで精いっぱいだった。
「ずっと……死ぬまで一緒にいてもいい……?」
繋ぎとめるものが自分に一切ないと思い知ったとき、いつか彼の気持ちがどこか余所へ行ったとしても、縋りつくだけの力はないと思った。
一緒にいても人並みの幸せも与えてやれない。それでも離れるのが嫌で、考えるのも嫌で、怖くてたまらなくて、そんな自分はきっと一時的だとわかっていても眠りの中に逃げ場を求めてしまったのかもしれない。
黒鋼が僅かに目を見開いた。それから、目線だけ上へ向けて大きな溜息を零した。
「重てぇんだよ、てめぇはいちいち」
「……ごめん」
「聞くな。このアホ」
あやすような優しさで包みこんでいたはずの腕に、ぐっと力が込められた。
一ミリの隙間もないほど強く抱きしめられて、ファイは再びその肩口に顔を埋めた。
この腕の強さこそが彼の答えだと、本当はずっと知っていたのに。
そのとき、胸の中に小さな炎が灯った気がした。
よく知るその感覚は、いつもは当たり前すぎて気がつかないもの。
黒鋼を愛しいと、こうして抱き合っていることが嬉しいと、そう感じたときにいつだって灯っている炎。
『かあちゃんのなかに、いつも』
最後の鋼丸の言葉を思い出した。
そして理解する。
(そっか……これがあの子たちの正体なんだ)
今もここにいる。
もしもの世界の小さな家で、愛しい子供達は夢を見ている。
母と、そして父の姿を。
会うことはもう決して叶わないのだと思っていた。
こうして黒鋼と愛し合ったとしても、何も生まれないのだとも。
嬉しさと、ほんの少しの切なさに結局ファイの涙は止まらなかった。
なんだかんだでファイの涙に弱いらしい黒鋼は、どうしたものかと迷ったのちに僅かに身体を離すと、ファイの頬にキスをした。
(オレたちは、こうやって愛を育てているんだね)
長くて短い幸せな夢は、大切なものをファイの胸に確かに刻んだ。
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