一月も半ばに差し掛かり、正月ムードもすっかり落ち着いてきたある夜。
ファイは黒鋼の部屋でダラリとくつろいでいた。
「お正月が終わるとー、なんか寂しい気持ちになるよねー」
「……」
「クリスマスくらいに戻りたいなーって思っちゃうー」
「……」
「年末ってバタバタして忙しいけどー、そわそわウキウキしちゃうよねー」
「……」
「クリスマスはー、いっぱいお酒飲むでしょー? ケーキも食べるしー、ご馳走いっぱいでしょー」
「……」
「お正月もお酒飲むでしょー、お餅美味しいでしょー、あ、かまぼこもーって、黒様先生ってば無視しないでー」
「うるせぇな……今忙しいんだよ」
黒鋼は先刻からずっとミカンの皮を剥いていた。
近所のスーパーで箱買いしたミカンは一つ一つが大ぶりだったが、彼の手の中では不思議と小ぶりに見える。
身体を丸めてコタツから頭だけ出していたファイは、もぞもぞと芋虫のように這い出して座りなおすと、向かいにいた黒鋼の横に四つん這いで近づいた。
「わー、キレイ」
隣に座ってコタツに入りなおすファイの唇に向かって、綺麗に薄皮まで剥かれたミカンが差し出されたので、黙って口をアーンと開ける。
「あまぁい」
噛みしめた途端に弾けた甘さに、ファイはニコニコと笑った。
それを見て黒鋼が舌打ちをする。
「てめぇで剥きやがれ。薄皮まで剥かせやがって」
「だってー、薄皮って舌触りが悪いし、剥いていると手が汚れるんだもーん」
「甘えやがって。ガキか」
「へへー」
ぐちぐちと文句を言いつつ、次々とミカンが口元に運ばれてくる。
ファイは顔がにやけるのを止められない。剥いてと頼んだ時は無言でやりはじめたのに、剥き終ってから文句を言うのが面白い。
しかもここまでしてくれなんて頼んでいないのに、わざわざ食べさせてくれるところが可愛いと思った。
「黒たん先生ってー、丸くなったよねー」
「あ? 別に体重に変わりはねぇぞ」
「そういう意味じゃなくてー。中身の話だよー」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないよー。だって初対面でゲンコツしてくる狂犬だったしー」
そんな覚えはないとばかりにムッと顔を顰める黒鋼。忘れているとは何事だろうか。
ファイにとってはあまりにも衝撃的だった、あの初めて出会った時のことを。
だがすぐに、黒鋼はハッと思い出したように目を見開くと、すぐに手を額に当てて脱力した。
「まさかおまえ、あの時のこと言ってんじゃねぇだろうな……」
「そのまさかだよー! 記念すべき運命の出会いの時のことー!」
「それ以上言うんじゃねぇ……黒歴史の蓋開けやがって……思い出すだけで軽く殺意が湧くぜ」
「軽くって……おつまみ感覚で恋人に殺意抱かないでよー」
「それこそ思い出してもみやがれ! そもそも初対面の人間にゲンコツ食らうような自分の行いを!!」
「えー?」
なんだっけなぁ……と、ファイは視線を天井へ向けて記憶を呼び覚ます。
「そうだね……あの日は確か生憎の雨だった……。オレは一人異国の地をさすらう旅人で……」
「カッコつけてんじゃねぇ。ただの外国人観光客だろ。あと雨も降ってなかったぜ」
「ちょ、雰囲気でないから突っこみ入れないで」
黒鋼が、忌々しげに「けっ」と小さな声を上げた。
そう、あの時ファイはまだ学生で、休暇を利用して日本の某観光地に一人で訪れていた。
当時はまだ故郷であるイタリアに暮らしていたが、子供の頃に興味を持って以来、日本は一度は訪れたい憧れの国だった。
ユゥイを強制的に巻き込んで、一緒に会話をしながらある程度の日本語もマスターしていた。
「最初は順調だったんだよねー。ガイドブック片手に神社とかお寺巡りしたり、和菓子食べたり……」
だが、すぐに問題が発生した。
ユゥイへのお土産にと購入したお守りが入った紙袋を、紛失してしまったのだ。
それに気付いたのは、宿泊中の旅館へ戻る途中の駅の構内だった。
「今でも忘れられないなぁ……あのお守りを黒たん先生が拾ってくれた時のこと……」
「あんときアレに気付かなけりゃ……あんな悲劇は起こらなかったのにな……」
以下、当時の回想シーン↓
ユゥイのお守りを無くしてしまったファイは、多くの観光客が行き交う駅構内で困り果てていた。
確かに鞄に入れたと思っていたのだが、どこかで財布を取り出す時にでも落としたのだろうか。
明日にでも買い直せばいいかとも思ったが、探しもしないで諦めたのでは罰が当たる気がする。
だから慌てて引き返そうとしたその時だった。
「おい、そこの外人」
どこか不機嫌そうな声を背中に受けて、咄嗟に振り向いた。
そこには背の高い、若い日本人男性がこちらを真っすぐに見ていた。
今にも噛みつかれそうなほど鋭い目つきと、漆黒の髪。見上げるほどの長身に、服の上からでもわかるほど立派な体格を持つ若者だった。
日本人だ、と思った。
日本に観光に来て、周りも日本人だらけなのだから当たり前なのだが、ファイは彼を見てしみじみそう感じた。
それほどまでに彼が持つ『黒』は魅力的で、それを持たぬファイは強く惹きつけられた。
そして何より、そのときファイはなんとも言えない不思議な感覚にとらわれていた。
目が合ったその一瞬で、心臓を何かに掴まれたような気がしたのだ。
「これ、落としただろ」
一歩二歩と近づいてきた若者が、大きな手をこちらに向けてくる。
その手の中には白い小さな紙袋があった。
「あ! これ!」
「気をつけろよ」
「うわー! ありがとー!」
紙袋を受け取り、すぐにまた声をかけようとして顔を上げた。
だが、彼はすでにこちらに背を向けている。
「ぁ……」
このままでは行ってしまうと思ったとき、ファイは即座に男の肩を掴んでいた。
「ま、待って!」
「なんだよ」
「あ、あの……オレ、イタリアから今日初めて日本に来たんだけど」
「そうか」
「君も観光?」
上目使いに問うと、彼は短く「ああ」と答えた。
顔は恐ろしいが、親切な男だ。だがどうやらあまり社交的ではないらしい。けれど、すぐに立ち去る素振りもない。お互い、なぜかじっと見つめ合っていた。
不思議な沈黙が流れる中、ファイはこの青年を引きとめるための口実を、必死で考えていた。
初めて会った、ただ落し物を拾ってくれただけの相手。
それなのにどうしてか、このまま別れたくない。なんでもいいから、話題を……。
「あ、あのね、よければ教えてほしいことがあって……」
「……なんだよ」
「あの……一人……?」
「?」
「一人で、旅行してるの?」
男は何かを察したようだった。
「一人だが」
「ほんと?」
「おう」
「じゃ、じゃあ……、ぁ!」
パッと目を輝かせたファイは、ふいに強い力に腰を抱かれて息を詰まらせた。
「俺から誘うつもりだったんだが」
「え……」
至近距離に男の燃えるような紅蓮の瞳がある。ファイは瞬きさえ許されないような気がした。
頬が熱くなり、ドクドクと音を立てながら全身に血液が回る。
「右も左もわからねぇ外国人を、一人で歩かせるわけにはいかねぇだろ?」
腰に男の腕が回っていなければ、今にも膝から崩れ落ちていたかもしれない。
胸がときめいて、じんわりと瞳が潤んでしまうのを抑えられなかった。
男はその低い声で、ファイの耳元に甘く囁いた。
「なんなら教えてやるよ……日本式の、夜の営みってやつも……な 」
「す……素敵……!」
そうして異国の地で出会った名も知らぬ男に、ファイは身も心も奪わr
「待てぇえぇぇい!!!」
テーブルをバンと叩く音と共に、黒鋼の怒声が室内に響き渡った。
うっとりと当時の回想に耽っていたファイは、思いっきり不満そうに唇を尖らせる。
「いきなり大声出さないでよー。これから本番シーンの回想に入るとこだったのにー」
「事実にねぇことを回想すんな!! おまえ頭おかしいぞ! いいか!? よく聞け! おまえは、頭が、おかしい!!」
「二回も言うことないでしょー!?」
「大事なことだからに決まってんだろ!!」
「もー! どこが不満なのかさっぱりわかんない! この方がドラマがあってロマンティックが止まらないじゃん!」
「止まれ! やり直しを要求する!!」
「えー……どの辺からー?」
「よければ教えてほしいことがあって、からだ!!」
「むー……」
テイク2↓
「あ、あのね、よければ教えてほしいことがあって……」
「あ?」
男が怪訝そうな顔をする。その表情にはハッキリと『面倒』の二文字が浮き上がっていた気がするが、ファイはあえて空気を読まなかった。
他の観光客は年配の方ばかりだったので、年齢が近いと思しき日本人に対して親近感もあった。しかも顔は恐ろしいが親切な人のようだし、思い切って聞いてみることにした。
ガシッと両肩を掴んで男と向き合うと、真剣な表情で口を開いた。
「日本男児ってことは、君ってサムライだよね!?」
「……は?」
「サムライスピリッツだよね!?」
「そんな古めかしいタイトルは知らねぇな」
「違うの!? じゃあどこ!? 日本に降り立ってからずっと探してるんだけど、チョンマゲもカタナも見当たらないんだ!!」
「おまえ、いくら外国人だからって、ベタの王道行きすぎだぞ」
「じゃあ百歩譲ってニンジャはどこに!?」
「いねぇよそんなもん!!」
「そんなの嘘だー!!」
他の観光客が、二人を思いっきり避けて通っていく。
男はあからさまに「面倒くせぇのに捕まっちまった……」という空気を放っていた。
しかしファイはそんなこと知ったこっちゃなかった。
ユゥイにだって約束したのだ。侍や忍者に会ったら、サインをもらってくると。きっと今頃楽しみに待っているに違いない。
ならせめて、とファイは思った。
日本に来たら、どうしても見てみたいものがもう一つあったのだ。
「俺はもう行くぞ。じゃあな」
男がファイの手を振り払い、再び背を向けて歩き始めた。
その瞬間を狙って、一気に飛びかかる。
「そぉい!!」
掛け声と共に、ファイの両手が男のウエスト部分にかかり、見つけた引っかかりに指をかけて思いっきり体重をかけた。
「!?」
その瞬間、男のジーンズがズルッと中途半端に下げられた。
「て、てめぇなんのつもりだこらぁ!?」
「中のもの見せて!! このままじゃオレ帰れない!!」
「意味わかんねぇ何だこの変態外人!!」
男は必死でジーンズのウエスト部分を死守しながら、前へと前進する。
ファイは掴んだそれを離すまいと、そのままズルズルと引きずられた。
観光客のマダム達から悲鳴が上がる。やがて騒ぎを聞きつけた駅員まで駆けつけて、辺りは騒然とした。
そしてついに、男の臀部が半分だけ顔を覗かせたところで、ファイは人生初のゲンコツを食らった。
テイク2終了
「…………」
「…………」
重々しい沈黙が流れた。
若気の至りとは恐ろしいもので、流石のファイも当時の自分の奇行を振り返って遠い目をした。
「……ふんどしをね」
「…………」
「日本の男の人は、ふんどしを履いてるんだと思って……」
どうしてもそれが見てみたかった。
日本人はシャイだから、見せてくれと言っても見せてはくれないだろうと思った。
普通に考えればどこの国の人間だろうが、いきなり下着を見せてくれと頼まれて了承する者はいないだろう。
あの時の自分は一体どういう思考回路をしていたのか。初めての日本で浮かれ切っていたのだろうが、いくらなんでもあれはない。
しかも何もあの場で躍起にならずとも、どうせ旅館の大浴場にでも行けば、他の客でいくらでも確認のしようはあったはずだ。
「何が悲しくて旅先で半ケツさらして、大恥かかなきゃならなかったんだ……」
「デスヨネ」
ギロっと視線だけで人が殺せそうな目を向けられて、ファイは思いっきり背中を丸めて小さくなった。
当時の怒りと羞恥が蘇った黒鋼は、ブルブルと身を震わせていた。
マズい。これはおつまみ感覚など、とっくに通り越しているマジなやつだ……。
「ほ、ホントにごめん黒たん……。黒たんのこと、すっごく親切な人だなって思ったから……あ、ほら、旅は道連れ世はナスビって言葉もあるし……」
「情けだアホ」
「あのね、仲良くなるキッカケにもなるかな~って……」
「なるかアホ。もういい……。てめぇの人知を超える奇行は今もたいして変わらねぇからな……」
それは一体どういうことですか、しかもアホって二回も言いましたよね、と言いたかったが、今は余計なことは口にしないでおこうと思った。
それに仲良くなりたかったというのも嘘ではない。
だが、あの時あんなにも焦ることはなかった。当時の黒鋼にしては不幸以外の何物でもなかったろうが、なんと宿泊先の旅館も同じだったのだ。
男湯の入り口で再会してしまったときは、旅館中を追い回されて本気で殺されかけた。
それなのに、また会えたことに喜びを感じてしまったのだから、おそらく初めて目が合った瞬間から、ファイはこの男に落ちていたのだと思う。
そう、あの心臓を強く掴まれて、揺さぶられたような感覚。
呼び止められて、振り返って、その姿を瞳に捉えたあの時、直感的に感じたものがある。
「オレさ、黒たんと初めてあったときにね、思ったことがあるんだ」
「なんだよ」
再びミカンを剥き始めた黒鋼の手元を見つめる。
あんな出会い方をしたのに、今では当たり前のように傍にいる人。
「あー、オレこの人と死ぬまで一緒にいるんだなーって」
なんの根拠もなかったけれど。
言葉や理屈で片づけられるものではなくて、まるで息をするかのようにごく自然にそう思えた。
不思議だけど、不思議じゃない。
日本で教師になろうと決めて、その夢を叶えた途端に、名前すら聞けなかったこの人と再び出会った。
直感は確信に変わった。彼こそが、この先ずっと並んで歩いていく人だ、と。
黒鋼はミカンを剥く手を止めた。それから、大きな溜息をつくのと一緒に、一言、こう言った。
「そいつは奇遇だな」
全てを諦めたような言い方をするくせに、どこか満足気な表情を浮かべている黒鋼に、ファイは頬を染めてはにかんだ。
ちなにみファイの双子の弟、ユゥイは当時のことについてこう語る。
「ああ、あのボロボロの袋に入ってたお守りね。今も大事に持ってますよ。捨てられませんよ。祈願されても成就することはないでしょうけどね。生物学的に」
ファイのお土産のお守りには『安産祈願』と書かれていたという……。
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ファイは黒鋼の部屋でダラリとくつろいでいた。
「お正月が終わるとー、なんか寂しい気持ちになるよねー」
「……」
「クリスマスくらいに戻りたいなーって思っちゃうー」
「……」
「年末ってバタバタして忙しいけどー、そわそわウキウキしちゃうよねー」
「……」
「クリスマスはー、いっぱいお酒飲むでしょー? ケーキも食べるしー、ご馳走いっぱいでしょー」
「……」
「お正月もお酒飲むでしょー、お餅美味しいでしょー、あ、かまぼこもーって、黒様先生ってば無視しないでー」
「うるせぇな……今忙しいんだよ」
黒鋼は先刻からずっとミカンの皮を剥いていた。
近所のスーパーで箱買いしたミカンは一つ一つが大ぶりだったが、彼の手の中では不思議と小ぶりに見える。
身体を丸めてコタツから頭だけ出していたファイは、もぞもぞと芋虫のように這い出して座りなおすと、向かいにいた黒鋼の横に四つん這いで近づいた。
「わー、キレイ」
隣に座ってコタツに入りなおすファイの唇に向かって、綺麗に薄皮まで剥かれたミカンが差し出されたので、黙って口をアーンと開ける。
「あまぁい」
噛みしめた途端に弾けた甘さに、ファイはニコニコと笑った。
それを見て黒鋼が舌打ちをする。
「てめぇで剥きやがれ。薄皮まで剥かせやがって」
「だってー、薄皮って舌触りが悪いし、剥いていると手が汚れるんだもーん」
「甘えやがって。ガキか」
「へへー」
ぐちぐちと文句を言いつつ、次々とミカンが口元に運ばれてくる。
ファイは顔がにやけるのを止められない。剥いてと頼んだ時は無言でやりはじめたのに、剥き終ってから文句を言うのが面白い。
しかもここまでしてくれなんて頼んでいないのに、わざわざ食べさせてくれるところが可愛いと思った。
「黒たん先生ってー、丸くなったよねー」
「あ? 別に体重に変わりはねぇぞ」
「そういう意味じゃなくてー。中身の話だよー」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないよー。だって初対面でゲンコツしてくる狂犬だったしー」
そんな覚えはないとばかりにムッと顔を顰める黒鋼。忘れているとは何事だろうか。
ファイにとってはあまりにも衝撃的だった、あの初めて出会った時のことを。
だがすぐに、黒鋼はハッと思い出したように目を見開くと、すぐに手を額に当てて脱力した。
「まさかおまえ、あの時のこと言ってんじゃねぇだろうな……」
「そのまさかだよー! 記念すべき運命の出会いの時のことー!」
「それ以上言うんじゃねぇ……黒歴史の蓋開けやがって……思い出すだけで軽く殺意が湧くぜ」
「軽くって……おつまみ感覚で恋人に殺意抱かないでよー」
「それこそ思い出してもみやがれ! そもそも初対面の人間にゲンコツ食らうような自分の行いを!!」
「えー?」
なんだっけなぁ……と、ファイは視線を天井へ向けて記憶を呼び覚ます。
「そうだね……あの日は確か生憎の雨だった……。オレは一人異国の地をさすらう旅人で……」
「カッコつけてんじゃねぇ。ただの外国人観光客だろ。あと雨も降ってなかったぜ」
「ちょ、雰囲気でないから突っこみ入れないで」
黒鋼が、忌々しげに「けっ」と小さな声を上げた。
そう、あの時ファイはまだ学生で、休暇を利用して日本の某観光地に一人で訪れていた。
当時はまだ故郷であるイタリアに暮らしていたが、子供の頃に興味を持って以来、日本は一度は訪れたい憧れの国だった。
ユゥイを強制的に巻き込んで、一緒に会話をしながらある程度の日本語もマスターしていた。
「最初は順調だったんだよねー。ガイドブック片手に神社とかお寺巡りしたり、和菓子食べたり……」
だが、すぐに問題が発生した。
ユゥイへのお土産にと購入したお守りが入った紙袋を、紛失してしまったのだ。
それに気付いたのは、宿泊中の旅館へ戻る途中の駅の構内だった。
「今でも忘れられないなぁ……あのお守りを黒たん先生が拾ってくれた時のこと……」
「あんときアレに気付かなけりゃ……あんな悲劇は起こらなかったのにな……」
以下、当時の回想シーン↓
ユゥイのお守りを無くしてしまったファイは、多くの観光客が行き交う駅構内で困り果てていた。
確かに鞄に入れたと思っていたのだが、どこかで財布を取り出す時にでも落としたのだろうか。
明日にでも買い直せばいいかとも思ったが、探しもしないで諦めたのでは罰が当たる気がする。
だから慌てて引き返そうとしたその時だった。
「おい、そこの外人」
どこか不機嫌そうな声を背中に受けて、咄嗟に振り向いた。
そこには背の高い、若い日本人男性がこちらを真っすぐに見ていた。
今にも噛みつかれそうなほど鋭い目つきと、漆黒の髪。見上げるほどの長身に、服の上からでもわかるほど立派な体格を持つ若者だった。
日本人だ、と思った。
日本に観光に来て、周りも日本人だらけなのだから当たり前なのだが、ファイは彼を見てしみじみそう感じた。
それほどまでに彼が持つ『黒』は魅力的で、それを持たぬファイは強く惹きつけられた。
そして何より、そのときファイはなんとも言えない不思議な感覚にとらわれていた。
目が合ったその一瞬で、心臓を何かに掴まれたような気がしたのだ。
「これ、落としただろ」
一歩二歩と近づいてきた若者が、大きな手をこちらに向けてくる。
その手の中には白い小さな紙袋があった。
「あ! これ!」
「気をつけろよ」
「うわー! ありがとー!」
紙袋を受け取り、すぐにまた声をかけようとして顔を上げた。
だが、彼はすでにこちらに背を向けている。
「ぁ……」
このままでは行ってしまうと思ったとき、ファイは即座に男の肩を掴んでいた。
「ま、待って!」
「なんだよ」
「あ、あの……オレ、イタリアから今日初めて日本に来たんだけど」
「そうか」
「君も観光?」
上目使いに問うと、彼は短く「ああ」と答えた。
顔は恐ろしいが、親切な男だ。だがどうやらあまり社交的ではないらしい。けれど、すぐに立ち去る素振りもない。お互い、なぜかじっと見つめ合っていた。
不思議な沈黙が流れる中、ファイはこの青年を引きとめるための口実を、必死で考えていた。
初めて会った、ただ落し物を拾ってくれただけの相手。
それなのにどうしてか、このまま別れたくない。なんでもいいから、話題を……。
「あ、あのね、よければ教えてほしいことがあって……」
「……なんだよ」
「あの……一人……?」
「?」
「一人で、旅行してるの?」
男は何かを察したようだった。
「一人だが」
「ほんと?」
「おう」
「じゃ、じゃあ……、ぁ!」
パッと目を輝かせたファイは、ふいに強い力に腰を抱かれて息を詰まらせた。
「俺から誘うつもりだったんだが」
「え……」
至近距離に男の燃えるような紅蓮の瞳がある。ファイは瞬きさえ許されないような気がした。
頬が熱くなり、ドクドクと音を立てながら全身に血液が回る。
「右も左もわからねぇ外国人を、一人で歩かせるわけにはいかねぇだろ?」
腰に男の腕が回っていなければ、今にも膝から崩れ落ちていたかもしれない。
胸がときめいて、じんわりと瞳が潤んでしまうのを抑えられなかった。
男はその低い声で、ファイの耳元に甘く囁いた。
「なんなら教えてやるよ……日本式の、夜の営みってやつも……な 」
「す……素敵……!」
そうして異国の地で出会った名も知らぬ男に、ファイは身も心も奪わr
「待てぇえぇぇい!!!」
テーブルをバンと叩く音と共に、黒鋼の怒声が室内に響き渡った。
うっとりと当時の回想に耽っていたファイは、思いっきり不満そうに唇を尖らせる。
「いきなり大声出さないでよー。これから本番シーンの回想に入るとこだったのにー」
「事実にねぇことを回想すんな!! おまえ頭おかしいぞ! いいか!? よく聞け! おまえは、頭が、おかしい!!」
「二回も言うことないでしょー!?」
「大事なことだからに決まってんだろ!!」
「もー! どこが不満なのかさっぱりわかんない! この方がドラマがあってロマンティックが止まらないじゃん!」
「止まれ! やり直しを要求する!!」
「えー……どの辺からー?」
「よければ教えてほしいことがあって、からだ!!」
「むー……」
テイク2↓
「あ、あのね、よければ教えてほしいことがあって……」
「あ?」
男が怪訝そうな顔をする。その表情にはハッキリと『面倒』の二文字が浮き上がっていた気がするが、ファイはあえて空気を読まなかった。
他の観光客は年配の方ばかりだったので、年齢が近いと思しき日本人に対して親近感もあった。しかも顔は恐ろしいが親切な人のようだし、思い切って聞いてみることにした。
ガシッと両肩を掴んで男と向き合うと、真剣な表情で口を開いた。
「日本男児ってことは、君ってサムライだよね!?」
「……は?」
「サムライスピリッツだよね!?」
「そんな古めかしいタイトルは知らねぇな」
「違うの!? じゃあどこ!? 日本に降り立ってからずっと探してるんだけど、チョンマゲもカタナも見当たらないんだ!!」
「おまえ、いくら外国人だからって、ベタの王道行きすぎだぞ」
「じゃあ百歩譲ってニンジャはどこに!?」
「いねぇよそんなもん!!」
「そんなの嘘だー!!」
他の観光客が、二人を思いっきり避けて通っていく。
男はあからさまに「面倒くせぇのに捕まっちまった……」という空気を放っていた。
しかしファイはそんなこと知ったこっちゃなかった。
ユゥイにだって約束したのだ。侍や忍者に会ったら、サインをもらってくると。きっと今頃楽しみに待っているに違いない。
ならせめて、とファイは思った。
日本に来たら、どうしても見てみたいものがもう一つあったのだ。
「俺はもう行くぞ。じゃあな」
男がファイの手を振り払い、再び背を向けて歩き始めた。
その瞬間を狙って、一気に飛びかかる。
「そぉい!!」
掛け声と共に、ファイの両手が男のウエスト部分にかかり、見つけた引っかかりに指をかけて思いっきり体重をかけた。
「!?」
その瞬間、男のジーンズがズルッと中途半端に下げられた。
「て、てめぇなんのつもりだこらぁ!?」
「中のもの見せて!! このままじゃオレ帰れない!!」
「意味わかんねぇ何だこの変態外人!!」
男は必死でジーンズのウエスト部分を死守しながら、前へと前進する。
ファイは掴んだそれを離すまいと、そのままズルズルと引きずられた。
観光客のマダム達から悲鳴が上がる。やがて騒ぎを聞きつけた駅員まで駆けつけて、辺りは騒然とした。
そしてついに、男の臀部が半分だけ顔を覗かせたところで、ファイは人生初のゲンコツを食らった。
テイク2終了
「…………」
「…………」
重々しい沈黙が流れた。
若気の至りとは恐ろしいもので、流石のファイも当時の自分の奇行を振り返って遠い目をした。
「……ふんどしをね」
「…………」
「日本の男の人は、ふんどしを履いてるんだと思って……」
どうしてもそれが見てみたかった。
日本人はシャイだから、見せてくれと言っても見せてはくれないだろうと思った。
普通に考えればどこの国の人間だろうが、いきなり下着を見せてくれと頼まれて了承する者はいないだろう。
あの時の自分は一体どういう思考回路をしていたのか。初めての日本で浮かれ切っていたのだろうが、いくらなんでもあれはない。
しかも何もあの場で躍起にならずとも、どうせ旅館の大浴場にでも行けば、他の客でいくらでも確認のしようはあったはずだ。
「何が悲しくて旅先で半ケツさらして、大恥かかなきゃならなかったんだ……」
「デスヨネ」
ギロっと視線だけで人が殺せそうな目を向けられて、ファイは思いっきり背中を丸めて小さくなった。
当時の怒りと羞恥が蘇った黒鋼は、ブルブルと身を震わせていた。
マズい。これはおつまみ感覚など、とっくに通り越しているマジなやつだ……。
「ほ、ホントにごめん黒たん……。黒たんのこと、すっごく親切な人だなって思ったから……あ、ほら、旅は道連れ世はナスビって言葉もあるし……」
「情けだアホ」
「あのね、仲良くなるキッカケにもなるかな~って……」
「なるかアホ。もういい……。てめぇの人知を超える奇行は今もたいして変わらねぇからな……」
それは一体どういうことですか、しかもアホって二回も言いましたよね、と言いたかったが、今は余計なことは口にしないでおこうと思った。
それに仲良くなりたかったというのも嘘ではない。
だが、あの時あんなにも焦ることはなかった。当時の黒鋼にしては不幸以外の何物でもなかったろうが、なんと宿泊先の旅館も同じだったのだ。
男湯の入り口で再会してしまったときは、旅館中を追い回されて本気で殺されかけた。
それなのに、また会えたことに喜びを感じてしまったのだから、おそらく初めて目が合った瞬間から、ファイはこの男に落ちていたのだと思う。
そう、あの心臓を強く掴まれて、揺さぶられたような感覚。
呼び止められて、振り返って、その姿を瞳に捉えたあの時、直感的に感じたものがある。
「オレさ、黒たんと初めてあったときにね、思ったことがあるんだ」
「なんだよ」
再びミカンを剥き始めた黒鋼の手元を見つめる。
あんな出会い方をしたのに、今では当たり前のように傍にいる人。
「あー、オレこの人と死ぬまで一緒にいるんだなーって」
なんの根拠もなかったけれど。
言葉や理屈で片づけられるものではなくて、まるで息をするかのようにごく自然にそう思えた。
不思議だけど、不思議じゃない。
日本で教師になろうと決めて、その夢を叶えた途端に、名前すら聞けなかったこの人と再び出会った。
直感は確信に変わった。彼こそが、この先ずっと並んで歩いていく人だ、と。
黒鋼はミカンを剥く手を止めた。それから、大きな溜息をつくのと一緒に、一言、こう言った。
「そいつは奇遇だな」
全てを諦めたような言い方をするくせに、どこか満足気な表情を浮かべている黒鋼に、ファイは頬を染めてはにかんだ。
ちなにみファイの双子の弟、ユゥイは当時のことについてこう語る。
「ああ、あのボロボロの袋に入ってたお守りね。今も大事に持ってますよ。捨てられませんよ。祈願されても成就することはないでしょうけどね。生物学的に」
ファイのお土産のお守りには『安産祈願』と書かれていたという……。
←戻る ・ Wavebox👏
一月も半ばを過ぎたある日の夜。
いつものように黒鋼の部屋で炬燵に入ってだらだらしていたファイは、つけっぱなしだったテレビを消して、うーんと背伸びをした。
「テレビつまんなーい。眠たくなってきちゃったよー」
黒鋼は風呂に行ってしまったため、ファイの呟きはただの独り言で終わってしまう。
室内には浴室から漏れ聞こえるシャワーの音だけが、微かに響いていた。
ぼんやりとそれに耳を傾けていると、温かな炬燵と石油ストーブ(節電のため)に、だんだん頭がぼうっとして眠気に襲われる。
このまま寝転がってしまっても構わないのだが、明日はせっかくの休日だ。ここで睡魔に負けて、気付いたら朝でしたなんてオチになっては、悔やんでも悔やみきれない。
こと黒鋼に関して、ファイは万年発情期である。
いっそ思い切って風呂場に突撃してしまおうかとも考えるけれど、場合によっては殴られるのでおとなしく待っている方が得策だ。
一体どっちが受けなのやら……。
「なーんか暇つぶしになるようなのないかなー」
ファイはもぞもぞと炬燵から抜け出すと、四つん這いで部屋の隅の本棚へ近づいた。
黒鋼は普段あまり読書をしないが、それでも一応マガニャンだけは毎週欠かさず読んでいた。
ある程度たまったら紐でくくって、資源ごみに出している。なかなか律儀だ。
ちょうど本棚の脇に何冊か重ねてあるのが見えたので、それでも見て眠気を覚まそうと思った。
が、手に取ろうとしたところでふと、本棚の中身が気になった。
教材の類が目立つ中に、一冊だけ毛色の違う黒い背表紙がある。分厚い皮製のそれは、どうやらアルバムらしかった。
途端にファイの興味はそちらに移り、手をやるとそれを引き抜いた。
*
ひとっぷろ浴びて戻って来た黒鋼は、いつもなら飛びついてくるはずの化学教師がただ静かに炬燵に入って座っているのを見て、首を傾げた。
「なんだ?」
「……黒様先生、ちょっとそこに座りなさい」
「あ?」
俯きがちなファイはその様子もさることながら、声まで低く沈みきっている。
確か風呂に入る直前までは「10秒で上がってきてね!」なんて無茶なことを尻尾を振らん勢いでのたまっていたはずが、この30分足らずの間に何があったのか。
黒いオーラに押されて、仕方なく向かい合わせにあぐらをかくと、テーブルの上のアルバムに気付いて顔を顰める。
「てめぇ勝手に」
「これはどういうことなのかな?」
「?」
ファイは手に持っていたらしい一枚の写真を、テーブルの上にするりと出して見せた。
そこには黒のスーツ姿の黒鋼と、薄い桃色の着物を着た女性が、寄り添うように写り込んでいる。
「こりゃまた随分と懐かしいもんを」
「この女のひとは、今どこにいるんだろう」
「は?」
「ちょっと居場所を教えてもらえると仕事がしやすいんだけど」
何の仕事だ。
その疑問がどうやら顔に出たらしく、ずっと伏し目がちだったファイは据わりきった目を向けて来る。
「だからこのメスブタを×××で×××して×××したあとに×××って来るから、居場所を教えてって言ってるんだけど
」
「要約すると血祭りにあげるってことじゃねぇか! てめぇはすぐそうやって人を手にかけようとする思考をいい加減改めろ!! つうかこれはお袋だアホ!!」
錆びた肉切り包丁で素振りをしはじめるファイに「え、それどっから取り出したの?」と疑問に思うより早く、即座に取り上げる。(怪我したら危ないので)
ファイは「え!?」と間抜けな声を上げながら再び写真を手に取り、まじまじと見つめた。
「う、うっそー!? こんな若くてキレイで可愛い顔で、一度も人を殺めたことなさそうな美女が黒様先生のお母さん!?」
「俺だって殺めたことなんざねぇよ!」
「ひゃー! うっかり未来のお義母さんを卑しく薄汚い盛りのついたメスブタ扱いしちゃったよー!」
「てめぇにだけはお義母さんなんて呼ばせたくねぇわ心底!!」
ガツンとテーブルに拳を叩きつけた黒鋼(包丁はひとまず座布団の下にナイナイした)だったが、ファイは臆することなく「てへへ」と笑った。
「だって元カノかなーって思っちゃったんだもーん」
「だからって殺す算段つけるやつがあるか!」
「しょうがないよ……この世に例え一人であろうと黒様の寵愛を受けたことのある人間が存在すると思うとオレは……オレは……」
「わかった……わかったから犯罪に手ぇ染めて人生を棒に振るような真似はよせ……」
おまえのことを心配して言ってやってるんだぞ感を出すと、ファイは機嫌を取り戻したのか「うんわかったー」と言って笑った。
今年もすこぶる愛が重い。そして血生臭い。
まだ年も明けて間もないというのに、どっと疲れが押し寄せた。
ファイは黒鋼が内心げっそりしているとも知らず、楽しげにアルバムを開き、問題の写真をしまっている。
「ねぇねぇもしかしてこれ、入学式かなんか?」
「……成人式だ」
「へー、今と変わらないねー黒たん先生」
そのままパラパラとアルバムをめくっていたファイだったが、ふと手を止めてじっと見つめてきた。
「なんだよ。まだなんかあんのか」
「いやー? 実際のところ、どんな子と付き合ってたのかなーって」
「関係ねぇだろ」
「言わない場合、黒様はオレと知り合うまで童貞だったって設定にして侑子先生に」
「割りと大人しめの女が多かったな」
「わー、やっぱ侑子先生は武器になるなー」
イラッとしたが、あえて余計なことは言わないでおくことにした。
確かにあの女理事長はなにかと厄介だが、本当にそれを言いかねない化学教師も極めて面倒くさい生き物だった。
「ふーん。黒様は黙って三歩下がってついてくるような女のひとが好きなんだー」
ファイはテーブルの上にだらーんと両手を投げ出すようにしながら、面白くなさそうに唇を尖らせた。
どうせ自分はそういうタイプじゃないとか、どうでもいいようなくだらないことを考えて拗ねているに違いない。
こいつは本当に面倒くさい男だ。
確かに振り返ってみれば、ファイが言うように極端に古風ではないにしろ、精神的に成熟した、落ち着きのある相手を自然と選んでいたかもしれない。
(それが今じゃどうだ……)
はっきり言ってこの男は、黒鋼の好みの対極にいるような人間だ。
三歩下がるどころか、紐で繋いでいなければどこまでも突っ走って、挙句すっ転んでピーピー泣くような騒々しい人間である。
よく『好き』と『嫌い』や『愛』と『憎しみ』は紙一重だなんて言われるが、可愛さが余って憎さになるように、憎さも余れば真逆の感情を生み出すのだろうか。
自分のことは、案外自分が一番わからないのかもしれない。
ただ、こいつといると一生退屈しなさそうだな、とは思う。馬鹿みたいにはしゃいですっ転んで、泣いてるこの男の腕を引っ張り上げてやれるのは、この世に自分しかいないのではないか、なんてちょっと自惚れてもいた。
(好きものってのは俺みたいなのをいうのかもな)
諦めと悟りの境地で溜息をつくと、なんともいえない顔(こんな→ρ(-ε- ))でテーブルを指でグリグリしているファイに手招きをした。
「んー? なぁーにー?」
「いいから拗ねてねぇで来い」
「むー」
妙な声で唸るファイは、唇を数字の3の形にしたままノロノロとこたつから這いだした。
四つん這いでにじり寄って来る手を掴んで引っ張り上げて、炬燵を僅かに押すと胡坐をかいた中心に導いて座らせる。
するとちょうどファイの背中を黒鋼がすっぽり包み込むような体勢になった。
両腕で抱き締めて、その後頭部に顎を乗せるとちょうどいい塩梅で、黒鋼が鼻から息を漏らすとファイは笑った。
「顎乗せにされたー」
「なかなかの置き心地だぜ」
「おもーい!」
「黙っとけ」
たったこれだけで機嫌が直ったらしいファイは、キャッキャと笑いながら肩を揺らす。振動が顎に伝わって、ちょっと響く。
「黒ぽん先生はー、オレのご機嫌取りが上手だなー」
「鬱陶しいやつはこうしてやるのが一番だからな」
「んー、でもさー」
すっかり全身から力を抜いたファイの体重が、胸いっぱいにのしかかる。
風呂上がりの体温に身を預けるのがよほど心地いいのか、彼はふわーとひとつ欠伸をした。
「こんなふうにされるとー」
「ん」
「オレ寝ちゃいそうー」
「寝ればいいじゃねぇか」
「寝たら朝まで起きないよー?」
「いいことだな。静かで」
「意地悪ー!」
顎乗せがするっと遠のく。
身体をよじって見上げて来る表情は、やっぱり唇が3の形になっていて少し笑えた。
*
「ジャパニーズこたつがかり……」
ファイの起き抜け第一声がそれだった。
昨夜はあのままこたつで一戦交えてしまった。その後はベッドに移って二戦、三戦と交えた気がするが、途中で飛んでしまったのか記憶が曖昧だ。
ファイは狭いベッドで半身を起こし、少しの間ぼんやりとしていたが、すぐに隣に視線を落とす。
黒鋼はこちらに身体を向けて横になっているが、じっと眼を閉じたまま動かない。
そういえば彼はあまり寝息を立てないような気がする。起きているのかいないのか、よく分からない時があるのだが。
「ぐぅ」
……たまに思い出したようにいびきをかく。
こういう時はよほどリラックスしている時で、思わず噴き出してしまった。
面白いのでちょっと悪戯心が顔を出し、その鼻をきゅっと摘まんだ。
すると、すっかり痕になっている眉間の皺が深くなり「うがっ」という奇声を上げながら、黒鋼が目を覚ました。
「おはよー! 朝だよー!」
「てめぇ……殺す気か」
機嫌の悪そうな顔で同じく半身を起こした黒鋼は、苛立った様子で頭をガリガリと掻いて睨みつけてきた。
「いびきかいてたよー。無呼吸症候群だったら大変だと思ってー」
「対処法がおかしいだろ」
いまいち突っ込みにキレがない黒鋼は、まだ少し眠いのか欠伸を噛み殺していた。
意外に長い睫毛がじんわりと湿るのを見て、可愛いなぁなんて思いながら、ファイはふと昨夜の会話を思い出した。
「ねぇ、昔の恋人の話だけどさー」
「あんだよ。まだ続くのか」
「オレにも聞いてよー。オレばっかヤキモチと殺意を募らせるのはフェアじゃないよー」
「おまえな……」
「あ、おまえの過去はどうでもいいーとかはナシねー。そういうの原作だけでお腹いっぱいだからねー」
「……なんの話だ?」
何を言ってるのか分からないといった様子の黒鋼だったが、それでもこちらの過去の相手に関して聞くつもりはないようで、「風呂入って飯にするか」とベッドを抜け出そうとするのでムッとした。
「気にならないんだー。オレの元カノとか、元カレとかー」
ぼそりと呟くと、ベッドから片足だけ床についていた黒鋼がピタリと止まる。
「なんつった?」
「えー? だからー、黒様と付き合う前に、イイ仲だった女の子とか」
「そのあと」
「そのあと? ああ、彼氏? やだなそれは冗談……え、あれ? 黒様? え?」
どういうわけか、次の瞬間ファイは黒鋼によってベッドに押し倒されていた。
圧し掛かる黒鋼は、どこか据わった目をして「よし」 と低く言う。
なにが「よし」 なのか分からないまま、ファイはただパチパチと瞬きを繰り返す。
「あの、オレもう起きるよ?」
「しょうがねぇから聞いてやるよ」
「な、なにを?」
「てめぇの元カレ話ってのを、じっくり聞かせてもらおうじゃねぇか。身体に」
「ちょ!? 冗談だってば! それにオレもうゆうべで出し尽くしたっていうか体力的に無理っていうか!」
「売られた喧嘩は買ってやらねぇとな」
「売ってないよぉー!!」
あくまで気を引くための冗談だったつもりが、今更どう取り繕ったところで後の祭りだった。
黒鋼は気合いたっぷりの様子で舌舐めずりをして、ファイはゾクゾクしながらも冷や汗をかく。
もしかしたら、この男もこの男でとてつもなく愛が重いのではないか?
結果、変なところで冗談の通じない相手によって、ファイは丸一日ベッドで泣き続けることになってしまった……。
←戻る ・ Wavebox👏
いつものように黒鋼の部屋で炬燵に入ってだらだらしていたファイは、つけっぱなしだったテレビを消して、うーんと背伸びをした。
「テレビつまんなーい。眠たくなってきちゃったよー」
黒鋼は風呂に行ってしまったため、ファイの呟きはただの独り言で終わってしまう。
室内には浴室から漏れ聞こえるシャワーの音だけが、微かに響いていた。
ぼんやりとそれに耳を傾けていると、温かな炬燵と石油ストーブ(節電のため)に、だんだん頭がぼうっとして眠気に襲われる。
このまま寝転がってしまっても構わないのだが、明日はせっかくの休日だ。ここで睡魔に負けて、気付いたら朝でしたなんてオチになっては、悔やんでも悔やみきれない。
こと黒鋼に関して、ファイは万年発情期である。
いっそ思い切って風呂場に突撃してしまおうかとも考えるけれど、場合によっては殴られるのでおとなしく待っている方が得策だ。
一体どっちが受けなのやら……。
「なーんか暇つぶしになるようなのないかなー」
ファイはもぞもぞと炬燵から抜け出すと、四つん這いで部屋の隅の本棚へ近づいた。
黒鋼は普段あまり読書をしないが、それでも一応マガニャンだけは毎週欠かさず読んでいた。
ある程度たまったら紐でくくって、資源ごみに出している。なかなか律儀だ。
ちょうど本棚の脇に何冊か重ねてあるのが見えたので、それでも見て眠気を覚まそうと思った。
が、手に取ろうとしたところでふと、本棚の中身が気になった。
教材の類が目立つ中に、一冊だけ毛色の違う黒い背表紙がある。分厚い皮製のそれは、どうやらアルバムらしかった。
途端にファイの興味はそちらに移り、手をやるとそれを引き抜いた。
*
ひとっぷろ浴びて戻って来た黒鋼は、いつもなら飛びついてくるはずの化学教師がただ静かに炬燵に入って座っているのを見て、首を傾げた。
「なんだ?」
「……黒様先生、ちょっとそこに座りなさい」
「あ?」
俯きがちなファイはその様子もさることながら、声まで低く沈みきっている。
確か風呂に入る直前までは「10秒で上がってきてね!」なんて無茶なことを尻尾を振らん勢いでのたまっていたはずが、この30分足らずの間に何があったのか。
黒いオーラに押されて、仕方なく向かい合わせにあぐらをかくと、テーブルの上のアルバムに気付いて顔を顰める。
「てめぇ勝手に」
「これはどういうことなのかな?」
「?」
ファイは手に持っていたらしい一枚の写真を、テーブルの上にするりと出して見せた。
そこには黒のスーツ姿の黒鋼と、薄い桃色の着物を着た女性が、寄り添うように写り込んでいる。
「こりゃまた随分と懐かしいもんを」
「この女のひとは、今どこにいるんだろう」
「は?」
「ちょっと居場所を教えてもらえると仕事がしやすいんだけど」
何の仕事だ。
その疑問がどうやら顔に出たらしく、ずっと伏し目がちだったファイは据わりきった目を向けて来る。
「だからこのメスブタを×××で×××して×××したあとに×××って来るから、居場所を教えてって言ってるんだけど
「要約すると血祭りにあげるってことじゃねぇか! てめぇはすぐそうやって人を手にかけようとする思考をいい加減改めろ!! つうかこれはお袋だアホ!!」
錆びた肉切り包丁で素振りをしはじめるファイに「え、それどっから取り出したの?」と疑問に思うより早く、即座に取り上げる。(怪我したら危ないので)
ファイは「え!?」と間抜けな声を上げながら再び写真を手に取り、まじまじと見つめた。
「う、うっそー!? こんな若くてキレイで可愛い顔で、一度も人を殺めたことなさそうな美女が黒様先生のお母さん!?」
「俺だって殺めたことなんざねぇよ!」
「ひゃー! うっかり未来のお義母さんを卑しく薄汚い盛りのついたメスブタ扱いしちゃったよー!」
「てめぇにだけはお義母さんなんて呼ばせたくねぇわ心底!!」
ガツンとテーブルに拳を叩きつけた黒鋼(包丁はひとまず座布団の下にナイナイした)だったが、ファイは臆することなく「てへへ」と笑った。
「だって元カノかなーって思っちゃったんだもーん」
「だからって殺す算段つけるやつがあるか!」
「しょうがないよ……この世に例え一人であろうと黒様の寵愛を受けたことのある人間が存在すると思うとオレは……オレは……」
「わかった……わかったから犯罪に手ぇ染めて人生を棒に振るような真似はよせ……」
おまえのことを心配して言ってやってるんだぞ感を出すと、ファイは機嫌を取り戻したのか「うんわかったー」と言って笑った。
今年もすこぶる愛が重い。そして血生臭い。
まだ年も明けて間もないというのに、どっと疲れが押し寄せた。
ファイは黒鋼が内心げっそりしているとも知らず、楽しげにアルバムを開き、問題の写真をしまっている。
「ねぇねぇもしかしてこれ、入学式かなんか?」
「……成人式だ」
「へー、今と変わらないねー黒たん先生」
そのままパラパラとアルバムをめくっていたファイだったが、ふと手を止めてじっと見つめてきた。
「なんだよ。まだなんかあんのか」
「いやー? 実際のところ、どんな子と付き合ってたのかなーって」
「関係ねぇだろ」
「言わない場合、黒様はオレと知り合うまで童貞だったって設定にして侑子先生に」
「割りと大人しめの女が多かったな」
「わー、やっぱ侑子先生は武器になるなー」
イラッとしたが、あえて余計なことは言わないでおくことにした。
確かにあの女理事長はなにかと厄介だが、本当にそれを言いかねない化学教師も極めて面倒くさい生き物だった。
「ふーん。黒様は黙って三歩下がってついてくるような女のひとが好きなんだー」
ファイはテーブルの上にだらーんと両手を投げ出すようにしながら、面白くなさそうに唇を尖らせた。
どうせ自分はそういうタイプじゃないとか、どうでもいいようなくだらないことを考えて拗ねているに違いない。
こいつは本当に面倒くさい男だ。
確かに振り返ってみれば、ファイが言うように極端に古風ではないにしろ、精神的に成熟した、落ち着きのある相手を自然と選んでいたかもしれない。
(それが今じゃどうだ……)
はっきり言ってこの男は、黒鋼の好みの対極にいるような人間だ。
三歩下がるどころか、紐で繋いでいなければどこまでも突っ走って、挙句すっ転んでピーピー泣くような騒々しい人間である。
よく『好き』と『嫌い』や『愛』と『憎しみ』は紙一重だなんて言われるが、可愛さが余って憎さになるように、憎さも余れば真逆の感情を生み出すのだろうか。
自分のことは、案外自分が一番わからないのかもしれない。
ただ、こいつといると一生退屈しなさそうだな、とは思う。馬鹿みたいにはしゃいですっ転んで、泣いてるこの男の腕を引っ張り上げてやれるのは、この世に自分しかいないのではないか、なんてちょっと自惚れてもいた。
(好きものってのは俺みたいなのをいうのかもな)
諦めと悟りの境地で溜息をつくと、なんともいえない顔(こんな→ρ(-ε- ))でテーブルを指でグリグリしているファイに手招きをした。
「んー? なぁーにー?」
「いいから拗ねてねぇで来い」
「むー」
妙な声で唸るファイは、唇を数字の3の形にしたままノロノロとこたつから這いだした。
四つん這いでにじり寄って来る手を掴んで引っ張り上げて、炬燵を僅かに押すと胡坐をかいた中心に導いて座らせる。
するとちょうどファイの背中を黒鋼がすっぽり包み込むような体勢になった。
両腕で抱き締めて、その後頭部に顎を乗せるとちょうどいい塩梅で、黒鋼が鼻から息を漏らすとファイは笑った。
「顎乗せにされたー」
「なかなかの置き心地だぜ」
「おもーい!」
「黙っとけ」
たったこれだけで機嫌が直ったらしいファイは、キャッキャと笑いながら肩を揺らす。振動が顎に伝わって、ちょっと響く。
「黒ぽん先生はー、オレのご機嫌取りが上手だなー」
「鬱陶しいやつはこうしてやるのが一番だからな」
「んー、でもさー」
すっかり全身から力を抜いたファイの体重が、胸いっぱいにのしかかる。
風呂上がりの体温に身を預けるのがよほど心地いいのか、彼はふわーとひとつ欠伸をした。
「こんなふうにされるとー」
「ん」
「オレ寝ちゃいそうー」
「寝ればいいじゃねぇか」
「寝たら朝まで起きないよー?」
「いいことだな。静かで」
「意地悪ー!」
顎乗せがするっと遠のく。
身体をよじって見上げて来る表情は、やっぱり唇が3の形になっていて少し笑えた。
*
「ジャパニーズこたつがかり……」
ファイの起き抜け第一声がそれだった。
昨夜はあのままこたつで一戦交えてしまった。その後はベッドに移って二戦、三戦と交えた気がするが、途中で飛んでしまったのか記憶が曖昧だ。
ファイは狭いベッドで半身を起こし、少しの間ぼんやりとしていたが、すぐに隣に視線を落とす。
黒鋼はこちらに身体を向けて横になっているが、じっと眼を閉じたまま動かない。
そういえば彼はあまり寝息を立てないような気がする。起きているのかいないのか、よく分からない時があるのだが。
「ぐぅ」
……たまに思い出したようにいびきをかく。
こういう時はよほどリラックスしている時で、思わず噴き出してしまった。
面白いのでちょっと悪戯心が顔を出し、その鼻をきゅっと摘まんだ。
すると、すっかり痕になっている眉間の皺が深くなり「うがっ」という奇声を上げながら、黒鋼が目を覚ました。
「おはよー! 朝だよー!」
「てめぇ……殺す気か」
機嫌の悪そうな顔で同じく半身を起こした黒鋼は、苛立った様子で頭をガリガリと掻いて睨みつけてきた。
「いびきかいてたよー。無呼吸症候群だったら大変だと思ってー」
「対処法がおかしいだろ」
いまいち突っ込みにキレがない黒鋼は、まだ少し眠いのか欠伸を噛み殺していた。
意外に長い睫毛がじんわりと湿るのを見て、可愛いなぁなんて思いながら、ファイはふと昨夜の会話を思い出した。
「ねぇ、昔の恋人の話だけどさー」
「あんだよ。まだ続くのか」
「オレにも聞いてよー。オレばっかヤキモチと殺意を募らせるのはフェアじゃないよー」
「おまえな……」
「あ、おまえの過去はどうでもいいーとかはナシねー。そういうの原作だけでお腹いっぱいだからねー」
「……なんの話だ?」
何を言ってるのか分からないといった様子の黒鋼だったが、それでもこちらの過去の相手に関して聞くつもりはないようで、「風呂入って飯にするか」とベッドを抜け出そうとするのでムッとした。
「気にならないんだー。オレの元カノとか、元カレとかー」
ぼそりと呟くと、ベッドから片足だけ床についていた黒鋼がピタリと止まる。
「なんつった?」
「えー? だからー、黒様と付き合う前に、イイ仲だった女の子とか」
「そのあと」
「そのあと? ああ、彼氏? やだなそれは冗談……え、あれ? 黒様? え?」
どういうわけか、次の瞬間ファイは黒鋼によってベッドに押し倒されていた。
圧し掛かる黒鋼は、どこか据わった目をして「よし」 と低く言う。
なにが「よし」 なのか分からないまま、ファイはただパチパチと瞬きを繰り返す。
「あの、オレもう起きるよ?」
「しょうがねぇから聞いてやるよ」
「な、なにを?」
「てめぇの元カレ話ってのを、じっくり聞かせてもらおうじゃねぇか。身体に」
「ちょ!? 冗談だってば! それにオレもうゆうべで出し尽くしたっていうか体力的に無理っていうか!」
「売られた喧嘩は買ってやらねぇとな」
「売ってないよぉー!!」
あくまで気を引くための冗談だったつもりが、今更どう取り繕ったところで後の祭りだった。
黒鋼は気合いたっぷりの様子で舌舐めずりをして、ファイはゾクゾクしながらも冷や汗をかく。
もしかしたら、この男もこの男でとてつもなく愛が重いのではないか?
結果、変なところで冗談の通じない相手によって、ファイは丸一日ベッドで泣き続けることになってしまった……。
←戻る ・ Wavebox👏
「あー! 黒様先生おかえりー!」
日曜日の昼過ぎ。
朝の部活指導から宿舎に戻ると、自室前の廊下でファイに出迎えられた。
ドーンと正面から衝突する勢いで抱き付いてこようとするのをヒラリとかわした黒鋼は、「おう」と短く返事をしながらも小首を傾げる。
「こんなところで何してんだ」
結構な勢いで飛びつこうとしたのを避けられてしまったファイは、前につんのめって転倒しかけたが、ギリギリで態勢を立て直すとすぐに笑顔を見せる。
いつもなら多少なりとも臍を曲げるはずの男が、今日はやけに機嫌がいい。
「えへへー! 黒たん先生が帰ってくるの待ちきれなくて、廊下を不審者さながらにウロウロしてたんだー」
「本人に自覚がありすぎてツッコミの余地がねぇな」
「ねーねー、それよりもうお昼だしー、黒たんお腹ぺこぺこでしょー?」
そう言って、ファイは黒鋼を手を取るとグイグイ引っ張ってくる。どうやら自室に引きずり込もうとしているらしい。
確かにもう昼も過ぎているし、朝から何も腹に入れていない黒鋼は空腹だった。
「今日のお昼はご馳走なんだよー! 早く来てー!」
「ご馳走……って。確かおまえの弟は今日は用事があるとかでいねぇんだろ?」
「うん。いないよー」
黒鋼の手を引きながら、ファイは部屋の扉を開けた。
ユゥイが作ったのではないとなると、スーパーで出来合の惣菜でも買い込んだのか。それとも寿司か何かを取ったのだろうか。
とりあえず引かれるまま扉をくぐった黒鋼は、一瞬で鼻をつく嫌な臭いに顔を顰めた。
「おい、臭ぇぞ……おまえ、まさかとは思うが……」
「今日はオレが作ったんだー! 大丈夫! 散らかさなかったし、お料理も失敗しなかったからー!」
嘘だ。
じゃなきゃこの異常な焦げ臭さや、何かが腐っているような酸っぱいような、すえた臭いの説明がつかない。
こいつは絶対に何かしらやらかしている。この先に想像を絶する恐ろしいものが待ち構えているに違いない。
さらに言えば、こいつの弟は料理人だ。彼にとってキッチンは聖域である。汚したり傷つけたり、ましてや食材を無駄にするような真似をしたと知れたら……。
黒鋼は玄関先で、靴を脱ぐ前に咄嗟に腹を押さえた。
「急 に 腹 が」(棒読み)
「え? なに? お腹が空きすぎて力が出ない?」
「悪いが、俺は部屋に帰らせてもらう」
「お腹いっぱい食べればすぐに元気になるからねー!」
「聞け! 俺はこの先に進みたくねぇんだ!!」
「だからって急にお腹痛いとか、夏休み明けの小学生みたいなこと言わないでよー!!」
ファイはすでに黒鋼が何かを察していることに気がついていた。
部屋を出て行こうとドアノブに手をかける黒鋼の腹に両腕を回し、がっちりとホールドしてくる。
「うるせぇ! 俺まで共犯扱いされてあの弟にどつかれるは勘弁だ!!」
「ユゥイはそんなことしないよ! たまにちょっと嫌なことがあった日の真夜中にキッチンで包丁研いでることはあるけど、あの子はとっても優しい子なんだ……優しい子なんだ!!」
「自分に言い聞かせるみてぇに2回も言うな!!」
とにかく、そのよく研ぎ澄まされた包丁の錆になるのだけは回避したかった。
が、しがみついてくるファイがベソをかきだしたので、とりあえずは動きを止める。
「うっ、グス……酷いよ黒様ぁ……オレが料理したからって、百発百中失敗したとは限らないのにぃ……」
「成功した臭いじゃねぇぞこれ……」
「だって……だって……」
なんだかんだで惚れたオンナ……いや、オトコの涙に弱い黒鋼は、溜息を吐くとファイと向き合った。鼻水をすすり、手の甲で目元をゴシゴシと擦って泣いている姿を見て、頭を乱暴に掻いた。
「あー、わかった。泣くんじゃねぇ……」
「だってぇ~……ズビッ」
「だからわかったっつってんだろ……。本当に失敗しなかったんだな?」
ファイは赤い目元を擦りながらもこくんと大きく頷いた。
あれだけ料理はするなと厳重に注意されていたにも関わらず料理をして、それでもこうして躊躇いなく頷いて見せるのだから、今回はマシな出来なのかもしれない。
ハンバーグをボロボロの金だわしのように焼き上げたりした過去を持つ男は以前、黒鋼の部屋のキッチンを油まみれにしてくれたこともある。
きっとあれ以上の悲劇は起こらないだろう……と、黒鋼は自分に言い聞かせた。
*
「あのねあのね、絶対に失敗しないように、ネットで動画を見ながらその通りに作ったんだー。分量とか時間とかもキッチリ守ったし、油もこぼさなかったよー」
胡坐をかいて座る黒鋼の正面に料理の乗った皿を置きながら、ファイは誇らしげに言い放った。
テーブルの上に置かれたそれを見て、黒鋼は首を傾げる。
「ねー? ぜんぜん失敗してないでしょー?」
「……これは、揚げ焼きそばか?」
「え……?」
そのとき、ファイの表情が凍り付いた。
何かおかしなことを言ってしまっただろうか。黒鋼はテーブルの上の揚げ焼きそばと、ファイの顔を交互に見やる。
皿の上のものは、見るからにパリパリとした小麦色の麺に、なにやら黒いあんがかかった、あんかけ揚げ焼きそば……ではないのか?
まぁ、確かにかかっているあんの黒さは気になるものの、百歩譲って麺自体は見栄えもよく美味そうに見えなくもない。
戸惑う黒鋼に、俯いたファイが言った。
「黒様先生……それ……ミートソーススパゲティなんだけど……」
!?
黒鋼は絶句した。
目の前の謎の料理は、明らかに自分が知っているミートソーススパゲティとは違う代物だった。
「いや、だが……こいつは見るからに……」
「スパゲティだよー! ゆで時間もしっかり計ってアルデンテに仕上げたんだよー!」
「嘘だろ!? 茹で時間しっかり守って茹でたんなら、なんだってこんな見るからにパリンパリンの麺に仕上がるんだ!? ありえねぇだろ!?」
黒鋼がその麺を指でつついてみると、それはゴリッと音を立てて鈍く崩れた。
「やっぱり揚げ焼きそばだぞこれ!!」
「スパゲティだもぉん!!」
「湯切りの段階で気づけ!! いや、そもそも湯切り自体できたのかこいつは!? あとこの上にかかってるドス黒いのはイカ墨じゃねぇのか!?」
「缶詰に入ってるやつ温めてかけただけだよ! イカ墨じゃないよ!」
ファイは半泣きでキッチンへ向かうと、ごみ袋の中から空の缶を取り出した。
その缶には確かに『ミートソース』とデカデカと書かれていて、蓋の裏側には赤い液体が付着している。
「どうして温めただけで真っ黒になるんだ!? 焦がしたのか!?」
「焦がしてないってば! 何回も言うけど、ちゃんとタイマーでキッチリ計ってやったんだから!」
「だとしたら奇跡だろ!! おまえ呪われてんじゃねぇのか!?」
スパゲティを茹でれば揚げ焼きそばになる。缶詰を温めただけで中がイカ墨になる。
ここまでくると、ちょっとしたミスというよりは霊障の類なのではないかと思えてしまう。
あるいはどこかの悪い魔法使いにクソ面倒臭い呪いをかけられて、一生料理ができない身体にされてしまったとか、こいつならありえるような気さえしてきた。
「もういいよー! そんなに文句言うなら食べなくてもいいですー!」
料理は他にあるんだからと、ファイはプリプリと怒りながらテーブルの上の皿をキッチンへ戻し、新たな物体を運んできた。
そして、再び黒鋼の前に置きながら少しだけ項垂れた。
「あの……これはちょっと失敗しちゃったんだけど……」
「……これは?」
「焼き鳥……これが普通ので、こっちがネギマでー」
「いや、説明されても原型がねぇしな……」
確かにこれは、一目で失敗と分かる出来栄えだった。
全体的に黒こげで、しかもほぼ燃え尽きてしまっているため、串の先端にかろうじて肉と思しき物体が突き刺さっているだけだ。
「モズの早贄みてぇになってんぞ……」
※モズのはやにえ:モズ(鳥)が虫などの捕えた獲物を木の枝に突き刺しておく行為。
流石にこれは自分でも失敗と認めているだけに、ファイはおとなしくそれを引っ込めた。そしてまた新たな物体……いや、刺客を運んでくる。
おそらく次のものも食えたもんじゃないだろう。黒鋼はすっかり諦めきっていたが、テーブルの上に置かれたものを見て、正直驚いた。
それは、ご飯茶碗に盛られた炊き込みご飯だった。
スパゲティに焼き鳥ときて炊き込みご飯というのは、食い合わせ的にどうなんだろうかという疑問はこの際どうでもいい。
ただ、黒鋼が見る限り、目の前の食べ物からは何の禍々しさも感じられなかった。
言ってしまえば普通。一粒一粒が飴色に輝く米はふっくらとした炊き上がりで、ニンジンやシイタケ、タケノコなどの具もたっぷり入っている。はっきり言って美味そうだ。
前の二つを見た直後なだけに、同じ人間の仕事とは到底思えないレベルの高さに、黒鋼は言葉が出なかった。もしかしたら、これが本当の奇跡というやつか。
「これは自信あるんだ。見た目もまぁまぁだし、味付けも黒様先生好みにしたつもりだし……きっと口に合うと思うよー」
黒鋼は感動した。
呪われし料理テクニックを持つファイが、ここまで見目麗しい炊き込みご飯を作り上げることができて、しかも自分好みの味付けまで意識してくれたというところに、いじらしささえ感じる。
突っ立ったまま胸元で両手を擦り合わせているファイに、黒鋼は微かな笑みを見せた。
「やるじゃねぇか。よく出来たな」
「! ……うん!」
ずっと不安そうだった表情が、明るい笑顔へと変わった。
ようやく褒められたことがよほど嬉しかったのか、ファイは頬をほんのりと上気させながら黒鋼の隣にちょこんと座った。
青い目を輝かせながら期待に満ちた表情で「食べて」と訴えかけてくる。
黒鋼は素直に頷くと箸を取り、茶碗を持った。
が、そのときふと、鼻先を予想外の強い香りがツンと掠めていった。
「?」
「どしたのー? 早く召し上がれー」
「……なぁ、これ……酒臭くねぇか?」
黒鋼は不信感をありありと滲ませた表情で茶碗に顔を寄せると、くんくんと鼻を鳴らす。
やはり間違いない。醤油や具材の香りとはほど遠い、アルコールの香りを思いっきり吸い込みすぎて、ちょっと咽た。
「ッ、ゲホッ! お、おい! 炊き込みご飯の匂いじゃねぇぞこれ!!」
咄嗟に茶碗をテーブルに戻してファイを見れば、彼はきょとんとした顔をしたあと、ニッコリと笑った。
「だから黒様好みの味付けにしたって言ったじゃーん。騙されたと思って食べてごらんよー」
「し、しかしな……」
黒鋼には、どうしても先の展開に光を見出すことができなかった。嫌な予感しかしないのだ。出来れば今すぐに何事もなかったかのように自室へ帰りたい。
せめて前の二つがもう少し食えたものであったなら、もう腹がいっぱいで入らない……くらいの軽い言い訳ができたものを。
うっかり見た目だけで褒めてしまったせいか、ファイは味に対する自信も大きく膨らませてしまったようだ。その笑顔にはハッキリと『さぁ早く食べて、もっと褒めて』と書かれているのが見える。
下手に持ち上げてしまった後だけに、落とそうものなら面倒臭いことになるに違いなかった。まず確実に泣くだろう。まぁベッドの中で見る泣き顔は最高だけどな……なんてむっつりスケベを発揮している場合でもない。
考えてもみれば、呪いだなんだと言いたい放題言ったものの、彼に悪意はないのだ。
不得意なジャンルでも挑戦してみようという前向きさは評価に値するし、ちょっと失敗の規模が自然の摂理を超越しているというだけで、彼が心を込めて手を尽くしたことに変わりはない。
この炊き込みご飯に関しては見栄えだけは確かにいいのだし、ちょっと酒臭いくらい、可愛いものじゃないか。(黒鋼の感覚もたいぶ麻痺してきている証拠)
黒鋼はうっすらと嫌な汗をかきながら、ファイに知られぬよう小さく震える息を吐いた。
一度は遠ざけた茶碗を再び手に取り、箸も持ち直した。
愛情がこもっている料理が、必ずしも美味いわけじゃない。だが、愛情をもってすれば食えないこともない。死にはしないさ、と腹を括り、黒鋼はその酒臭い謎の炊き込みご飯を口に入れた。
そのとき。
「ブフォッ!!」
吹いた。いや、噴いた。
ひとくち放り込んだだけで、ド派手に噴き出してしまった。
「わああ!? 黒様先生が口から大量の茶色い米をキャッチ&リリースさせたー!!」
「ぅげっほゲホゲホ!! て、てめっ、こ、こりゃ一体どういう味付けだ!? 食えたもんじゃねぇぞ!!」
「えー? なんでー? そんなことないよ! 絶対に口に合うはずだよー!」
「現に合わねぇから噴きだしちまったんだろ!!」
ファイは不満げな表情をしつつ、「おかしいなぁ」と首を傾げている。
そしておもむろに立ち上がるとキッチンへ向かい、何やら琥珀色の液体が入ったガラス瓶を持って戻ってきた。
「黒たん先生お酒好きだから、うまくいくと思ったんだけどなー」
彼の手の中にあるのは、ウィスキーの瓶だった。
黒鋼はそれを見て唖然とする。こいつはバカだ。どうしようもないアホだ。長い付き合いでそれは分かっているはずだった。
だが、確かめずにはいられなかった。
「まさかとは思うが……おまえ、それで……」
「そうだよー! だし汁の代わりにウィスキーをたーっぷり注ぎ込んで炊き込んだんだー」
「馬鹿か!? なぁ!? それでどうなるか想像できなかったのか!?」
「なんでそんなに怒るのー!? 飲んだくれの黒たん好みの味付けを考えて考えて、その結果この方法に辿り着いたんだよー!!」
「着地点をもっと考えろ!!」
口の中には嫌なアルコール臭と味が残っている。確かに黒鋼は酒豪だが、酒好きにだって選ぶ権利くらいあるのではないか。酒は酒として楽しむものであって、酒味の炊き込みご飯なんて気色の悪いものを食わされるなんて冗談じゃない。
が、褒められてやっぱり落とされたファイは納得がいかないらしい。
「そんなに怒ることないのに! オレの愛情たっぷりなのに! 黒様だって愛があるなら多少は我慢して全部食べてくれるのが優しさじゃないの!? 黒たんは顔はイケメンだけど心はブサメンだよ!!」
「不細工上等だ!! 愛情の押し売りで苦行を強いるんじゃねぇ!! だいたいそんなに文句言うなら自分も食ってみろ!!」
激おこ……いや、逆ギレぷんぷん丸状態のファイに炊き込みご飯のよそわれた茶碗を押し付ける。引くに引けないのか、あるいは彼も酒好きなので味に自信があるのか、ぶん取るように受け取ると黒鋼が投げ出していた箸を掴み、ファイは豪快にそれを口に入れた。
「ブフォッ!!」
そして噴いた。
「まず! なにこれまず! これは人間の食べ物じゃないよ!!」
「これでよく分かっただろう!! 一つ利口になっただろう!!」
「うぅ……」
ファイは案の定、目に涙を浮かべだした。
そして床に崩れ落ちると、その鬼のように不味い飯をチマチマと食べ始めた。
「お、おい……」
「ぅ、うぇっぷ……」
「馬鹿、やめとけ……死ぬぞ」
「だって……食べ物は粗末にできないもん……ちゃんと責任とるよ……」
ファイは飲み込む都度、ぎゅっと目を閉じて懸命に不味い酒飯を食べ続ける。今にも全て吐き出すのではないかとハラハラする黒鋼に、それでも彼は弱々しく笑って見せた。
「ごめんね黒様……お腹すいてるのに、オレ、やっぱりセンスないみたい……」
「…………」
「あ、そうだ。黒たん先生はどこかで美味しいご飯でも食べておいでよー」
「はぁ……」
黒鋼は溜息と同時に、キッチンの方を見た。調味料などが綺麗に並べられた背の低い棚の上に、炊飯器が置かれている。それをしばらく見つめたあと、ファイに視線を戻した。
「どんだけ作った?」
「……10合ほど」
「一升かよ……絶望的だな……」
キリキリと痛み出すこめかみに耐えながら、黒鋼は立ち上がるとキッチンへ向かった。
そして炊飯器を抱え、さらに新たな茶碗と箸を持ってファイの隣にどっかりと座り込む。
「黒様……?」
「腐ってるとか虫がわいてるってんじゃねぇからな……」
言いながら、炊飯器の蓋を開けた。もわぁん……と、いっそ目に染みるような壮絶な酒の臭いに胸やけを起こしながら、茶碗に山盛りよそった。
「だ、ダメだよ……黒たんはもう食べなくていいって!」
「うるせぇな……てめぇ一人じゃ食いきれねぇだろ。あの弟が帰ってくる前に平らげるぞ」
「うぅ……うえぇ……ブサメンとか言っちゃってごめん~……」
「泣くのは完食してからにしろ……うぇっぷ」
それから二人、黙々とウィスキーご飯を食べ続けた。
*
正直、一升という米の量を二人は侮っていた。
ファイは見た目こそ華奢だが、決して小食ではない。大食いとまではいかないが、食べる時はそれなりの量をぺろりと食べる。そして黒鋼はその見た目通り、結構な大食漢だった。
そんな二人がタッグを組んでも酒飯は一向に減らず、せめてもう少しマシな味なら違ったのかもしれないが、やっとの思いで平らげた頃、外はすっかり暗くなっていた。
「黒様どうしよう……オレ妊娠したかも……ぅっぷ」
両足を投げ出して座るファイは、シャツの上からもよく分かるほど腹がぽっこり出ていた。それを手で摩っている姿は確かに妊婦に見えないこともないのだが、それは黒鋼も同じだった。
だがもはや突っ込むだけの気力もない。気を抜くと必死で食べたもの全てが口から飛び出してきそうだった。
そもそも半分近くはどうにか二人で食ったものの、真っ青な表情をしたファイが瞬きもせずに硬直しはじめたので、それ以降は全て黒鋼が平らげるはめになった。かと言って責める気力も勿論ない。
二人の間には空になった炊飯器と、茶碗と箸が置かれている。ついでに言えば揃って噴きだしてしまった米がテーブルの上に散乱している。
こうしてる間にも弟が帰ってくるかもしれないため、早いところ片付けをしなければならないのだが。流石にすぐには動けそうもなかった。
「黒たん……」
「……なんだ」
「オレ、やっぱり料理は諦めるね……」
それがいい。そうするべきだ。
即座にそう返そうと思ったが、黒鋼はゲップを押さえながら問いかける。
「なんだって急に料理なんか」
「……だって」
ファイは俯くと一度きゅっと唇を噛み締める。
「ずっとこのままってわけじゃないでしょ?」
「あ?」
「だから、今はこうして二人とも寮で暮らしてるけど……死ぬまで先生やってられるわけじゃないし、いつかはさ……どこか小さくてもいいからオレ達だけのおうちを建てて、おじいちゃんになるまで一緒にいられたらいいなって」
「……まぁ、そうだな」
「そうなってまでユゥイにご飯作ってもらうわけにはいかないよ。ユゥイだっていつかは結婚とか……年下ドラゴンとか捕まえてねんごろになるかもだし」
「ねんごろって久しぶりに聞いたぞ」
とにかく、とファイは続ける。
「ユゥイにばっかり甘えてるわけにもいかないなーって思ったのー! だいたいよく言うじゃん! 好きな男はまず胃袋から掴めって! オレ掴んでないじゃん! 黒様の胃袋掴んでんのユゥイじゃん!!」
本音はそっちか。
「あのなぁ……人を餌付けされてるみてぇに言うなよ」
「実際そうじゃん! いつか黒たんがユゥイの方がいいって思うようなことになったら……そう思うと夜も眠れなくて、そろそろ手持ちの五寸釘が尽きそうなんだよー!!」
「その五寸釘とやらの用途はあえて聞かねぇぞ俺は!!」
一方は真夜中に包丁を研ぎ、一方は丑の刻参りとは。やっぱり双子は中身もどこかしら似るものなのかな、なんて和んでいられる内容じゃないので、これ以上は触れないでおこう。
「とにかく、誰しも得手不得手ってもんがあんだよ。俺はよく知らねぇが、おまえの弟にだってダメなもんくらいあんじゃねぇか? 完璧な人間なんかいねぇだろ」
「それは……そうかもだけど……」
「てめぇの言い分は確かだ。今はすっかり弟に飯の世話を任せちゃいるが……だけどな、おまえ知ってるか?」
「なにを?」
「世の中にはな、電子レンジって優れもんがあるんだぜ?」
「……老後はコンビニ弁当でいいってハッキリ言ってくれた方がマシだなぁ」
「まぁいいじゃねぇか。無理するこたねぇんだ。人間にはそれぞれ役割ってもんがある。てめぇにしかできねぇことだってあんだろ」
そう言ってやると、ファイは少し考え込んだあと上目使いでこちらを見上げてきた。
「……例えば?」
「そりゃあ」
黒鋼は考える。そして思う。
これは正直、たんに惚れた弱みや贔屓目で見た話に過ぎないのかもしれないが。
例えばどんなに疲れて帰ってきたって、こいつのふにふにの情けない笑顔を見れば一瞬で吹っ飛んでしまうし、こんな馬鹿をやらかしたって結局は許してしまう。
図々しく甘えてくるかと思えば変なところで遠慮して、無理をしようとするところだって可愛いと思う。何がどうというよりは、存在してくれているだけで黒鋼にとっては十分だった。
さらに言うと、夜だって愛しくて堪らない。泣き顔はもちろん、必死で縋りついてくる姿は健気でどうしようもなくて、途中で気を失ってしまうことも多いが、黒鋼的には十分すぎるほど満足している。もちろん、身体の具合も申し分なくいい。
が、こんなことを恥ずかしげもなくつらつらと言えるほど黒鋼は振り切れてはいない。ついでに言うと、どこか期待に満ちた目をキラキラとさせているファイに、ちょっとイラッとこないこともない。
照れ屋で意地っ張りなところのある黒鋼は、ゴホンっと咳払いをする。そしてちょっと赤らんだ耳たぶをカリカリと掻きながら、精一杯言った。
ただ、ちょっと言い方が悪かった……。
「……まぁ、色々だ。俺の性欲処理とかよ」
次の瞬間、バコンという音がして視界いっぱいに星が飛び散った。
「ッ――!?」
遅れて頬に激痛が走る。咄嗟のことに横倒しに崩れた黒鋼は、何が起こったのか分からずただ目を見開いてファイを見やった。
そこには、怒りの表情を浮かべた涙目のファイが、握った拳を震わせる姿があった。どうやら右ストレートを食らったらしい。
「て、てめぇこらいきなり何す」
「黒たん、最ッッ低ー!!」
「あぁ!? なんだこら!? 褒めてやってんじゃねぇか!!」
「どこが!? 性欲処理とか!! オレは君のオナホかって話だよ!!」
「ばっ!? なんつうことを言いやがる!?」
「それはこっちのセリフだよ! もう知らない!! 馬鹿!! 大っ嫌いー!!」
顔を真っ赤にして激怒するファイは、そんな捨て台詞を残して部屋から飛び出して行った。
馬鹿に馬鹿と言わしめた黒鋼は、ただ茫然とその場から動けないまま、ふと思う。
「なかなか珍しいオチ方だな……」
いつもなら拳でガツンとやるのは自分の役割だ。
たまにはこういうケースがあってもいいのかもな、なんて思いつつ、つい照れ臭くなってあんなことを言ってしまったが、次からはもう少し言葉のチョイスに気をつけよう……と反省する黒鋼だった。
←戻る ・ Wavebox👏
日曜日の昼過ぎ。
朝の部活指導から宿舎に戻ると、自室前の廊下でファイに出迎えられた。
ドーンと正面から衝突する勢いで抱き付いてこようとするのをヒラリとかわした黒鋼は、「おう」と短く返事をしながらも小首を傾げる。
「こんなところで何してんだ」
結構な勢いで飛びつこうとしたのを避けられてしまったファイは、前につんのめって転倒しかけたが、ギリギリで態勢を立て直すとすぐに笑顔を見せる。
いつもなら多少なりとも臍を曲げるはずの男が、今日はやけに機嫌がいい。
「えへへー! 黒たん先生が帰ってくるの待ちきれなくて、廊下を不審者さながらにウロウロしてたんだー」
「本人に自覚がありすぎてツッコミの余地がねぇな」
「ねーねー、それよりもうお昼だしー、黒たんお腹ぺこぺこでしょー?」
そう言って、ファイは黒鋼を手を取るとグイグイ引っ張ってくる。どうやら自室に引きずり込もうとしているらしい。
確かにもう昼も過ぎているし、朝から何も腹に入れていない黒鋼は空腹だった。
「今日のお昼はご馳走なんだよー! 早く来てー!」
「ご馳走……って。確かおまえの弟は今日は用事があるとかでいねぇんだろ?」
「うん。いないよー」
黒鋼の手を引きながら、ファイは部屋の扉を開けた。
ユゥイが作ったのではないとなると、スーパーで出来合の惣菜でも買い込んだのか。それとも寿司か何かを取ったのだろうか。
とりあえず引かれるまま扉をくぐった黒鋼は、一瞬で鼻をつく嫌な臭いに顔を顰めた。
「おい、臭ぇぞ……おまえ、まさかとは思うが……」
「今日はオレが作ったんだー! 大丈夫! 散らかさなかったし、お料理も失敗しなかったからー!」
嘘だ。
じゃなきゃこの異常な焦げ臭さや、何かが腐っているような酸っぱいような、すえた臭いの説明がつかない。
こいつは絶対に何かしらやらかしている。この先に想像を絶する恐ろしいものが待ち構えているに違いない。
さらに言えば、こいつの弟は料理人だ。彼にとってキッチンは聖域である。汚したり傷つけたり、ましてや食材を無駄にするような真似をしたと知れたら……。
黒鋼は玄関先で、靴を脱ぐ前に咄嗟に腹を押さえた。
「急 に 腹 が」(棒読み)
「え? なに? お腹が空きすぎて力が出ない?」
「悪いが、俺は部屋に帰らせてもらう」
「お腹いっぱい食べればすぐに元気になるからねー!」
「聞け! 俺はこの先に進みたくねぇんだ!!」
「だからって急にお腹痛いとか、夏休み明けの小学生みたいなこと言わないでよー!!」
ファイはすでに黒鋼が何かを察していることに気がついていた。
部屋を出て行こうとドアノブに手をかける黒鋼の腹に両腕を回し、がっちりとホールドしてくる。
「うるせぇ! 俺まで共犯扱いされてあの弟にどつかれるは勘弁だ!!」
「ユゥイはそんなことしないよ! たまにちょっと嫌なことがあった日の真夜中にキッチンで包丁研いでることはあるけど、あの子はとっても優しい子なんだ……優しい子なんだ!!」
「自分に言い聞かせるみてぇに2回も言うな!!」
とにかく、そのよく研ぎ澄まされた包丁の錆になるのだけは回避したかった。
が、しがみついてくるファイがベソをかきだしたので、とりあえずは動きを止める。
「うっ、グス……酷いよ黒様ぁ……オレが料理したからって、百発百中失敗したとは限らないのにぃ……」
「成功した臭いじゃねぇぞこれ……」
「だって……だって……」
なんだかんだで惚れたオンナ……いや、オトコの涙に弱い黒鋼は、溜息を吐くとファイと向き合った。鼻水をすすり、手の甲で目元をゴシゴシと擦って泣いている姿を見て、頭を乱暴に掻いた。
「あー、わかった。泣くんじゃねぇ……」
「だってぇ~……ズビッ」
「だからわかったっつってんだろ……。本当に失敗しなかったんだな?」
ファイは赤い目元を擦りながらもこくんと大きく頷いた。
あれだけ料理はするなと厳重に注意されていたにも関わらず料理をして、それでもこうして躊躇いなく頷いて見せるのだから、今回はマシな出来なのかもしれない。
ハンバーグをボロボロの金だわしのように焼き上げたりした過去を持つ男は以前、黒鋼の部屋のキッチンを油まみれにしてくれたこともある。
きっとあれ以上の悲劇は起こらないだろう……と、黒鋼は自分に言い聞かせた。
*
「あのねあのね、絶対に失敗しないように、ネットで動画を見ながらその通りに作ったんだー。分量とか時間とかもキッチリ守ったし、油もこぼさなかったよー」
胡坐をかいて座る黒鋼の正面に料理の乗った皿を置きながら、ファイは誇らしげに言い放った。
テーブルの上に置かれたそれを見て、黒鋼は首を傾げる。
「ねー? ぜんぜん失敗してないでしょー?」
「……これは、揚げ焼きそばか?」
「え……?」
そのとき、ファイの表情が凍り付いた。
何かおかしなことを言ってしまっただろうか。黒鋼はテーブルの上の揚げ焼きそばと、ファイの顔を交互に見やる。
皿の上のものは、見るからにパリパリとした小麦色の麺に、なにやら黒いあんがかかった、あんかけ揚げ焼きそば……ではないのか?
まぁ、確かにかかっているあんの黒さは気になるものの、百歩譲って麺自体は見栄えもよく美味そうに見えなくもない。
戸惑う黒鋼に、俯いたファイが言った。
「黒様先生……それ……ミートソーススパゲティなんだけど……」
!?
黒鋼は絶句した。
目の前の謎の料理は、明らかに自分が知っているミートソーススパゲティとは違う代物だった。
「いや、だが……こいつは見るからに……」
「スパゲティだよー! ゆで時間もしっかり計ってアルデンテに仕上げたんだよー!」
「嘘だろ!? 茹で時間しっかり守って茹でたんなら、なんだってこんな見るからにパリンパリンの麺に仕上がるんだ!? ありえねぇだろ!?」
黒鋼がその麺を指でつついてみると、それはゴリッと音を立てて鈍く崩れた。
「やっぱり揚げ焼きそばだぞこれ!!」
「スパゲティだもぉん!!」
「湯切りの段階で気づけ!! いや、そもそも湯切り自体できたのかこいつは!? あとこの上にかかってるドス黒いのはイカ墨じゃねぇのか!?」
「缶詰に入ってるやつ温めてかけただけだよ! イカ墨じゃないよ!」
ファイは半泣きでキッチンへ向かうと、ごみ袋の中から空の缶を取り出した。
その缶には確かに『ミートソース』とデカデカと書かれていて、蓋の裏側には赤い液体が付着している。
「どうして温めただけで真っ黒になるんだ!? 焦がしたのか!?」
「焦がしてないってば! 何回も言うけど、ちゃんとタイマーでキッチリ計ってやったんだから!」
「だとしたら奇跡だろ!! おまえ呪われてんじゃねぇのか!?」
スパゲティを茹でれば揚げ焼きそばになる。缶詰を温めただけで中がイカ墨になる。
ここまでくると、ちょっとしたミスというよりは霊障の類なのではないかと思えてしまう。
あるいはどこかの悪い魔法使いにクソ面倒臭い呪いをかけられて、一生料理ができない身体にされてしまったとか、こいつならありえるような気さえしてきた。
「もういいよー! そんなに文句言うなら食べなくてもいいですー!」
料理は他にあるんだからと、ファイはプリプリと怒りながらテーブルの上の皿をキッチンへ戻し、新たな物体を運んできた。
そして、再び黒鋼の前に置きながら少しだけ項垂れた。
「あの……これはちょっと失敗しちゃったんだけど……」
「……これは?」
「焼き鳥……これが普通ので、こっちがネギマでー」
「いや、説明されても原型がねぇしな……」
確かにこれは、一目で失敗と分かる出来栄えだった。
全体的に黒こげで、しかもほぼ燃え尽きてしまっているため、串の先端にかろうじて肉と思しき物体が突き刺さっているだけだ。
「モズの早贄みてぇになってんぞ……」
※モズのはやにえ:モズ(鳥)が虫などの捕えた獲物を木の枝に突き刺しておく行為。
流石にこれは自分でも失敗と認めているだけに、ファイはおとなしくそれを引っ込めた。そしてまた新たな物体……いや、刺客を運んでくる。
おそらく次のものも食えたもんじゃないだろう。黒鋼はすっかり諦めきっていたが、テーブルの上に置かれたものを見て、正直驚いた。
それは、ご飯茶碗に盛られた炊き込みご飯だった。
スパゲティに焼き鳥ときて炊き込みご飯というのは、食い合わせ的にどうなんだろうかという疑問はこの際どうでもいい。
ただ、黒鋼が見る限り、目の前の食べ物からは何の禍々しさも感じられなかった。
言ってしまえば普通。一粒一粒が飴色に輝く米はふっくらとした炊き上がりで、ニンジンやシイタケ、タケノコなどの具もたっぷり入っている。はっきり言って美味そうだ。
前の二つを見た直後なだけに、同じ人間の仕事とは到底思えないレベルの高さに、黒鋼は言葉が出なかった。もしかしたら、これが本当の奇跡というやつか。
「これは自信あるんだ。見た目もまぁまぁだし、味付けも黒様先生好みにしたつもりだし……きっと口に合うと思うよー」
黒鋼は感動した。
呪われし料理テクニックを持つファイが、ここまで見目麗しい炊き込みご飯を作り上げることができて、しかも自分好みの味付けまで意識してくれたというところに、いじらしささえ感じる。
突っ立ったまま胸元で両手を擦り合わせているファイに、黒鋼は微かな笑みを見せた。
「やるじゃねぇか。よく出来たな」
「! ……うん!」
ずっと不安そうだった表情が、明るい笑顔へと変わった。
ようやく褒められたことがよほど嬉しかったのか、ファイは頬をほんのりと上気させながら黒鋼の隣にちょこんと座った。
青い目を輝かせながら期待に満ちた表情で「食べて」と訴えかけてくる。
黒鋼は素直に頷くと箸を取り、茶碗を持った。
が、そのときふと、鼻先を予想外の強い香りがツンと掠めていった。
「?」
「どしたのー? 早く召し上がれー」
「……なぁ、これ……酒臭くねぇか?」
黒鋼は不信感をありありと滲ませた表情で茶碗に顔を寄せると、くんくんと鼻を鳴らす。
やはり間違いない。醤油や具材の香りとはほど遠い、アルコールの香りを思いっきり吸い込みすぎて、ちょっと咽た。
「ッ、ゲホッ! お、おい! 炊き込みご飯の匂いじゃねぇぞこれ!!」
咄嗟に茶碗をテーブルに戻してファイを見れば、彼はきょとんとした顔をしたあと、ニッコリと笑った。
「だから黒様好みの味付けにしたって言ったじゃーん。騙されたと思って食べてごらんよー」
「し、しかしな……」
黒鋼には、どうしても先の展開に光を見出すことができなかった。嫌な予感しかしないのだ。出来れば今すぐに何事もなかったかのように自室へ帰りたい。
せめて前の二つがもう少し食えたものであったなら、もう腹がいっぱいで入らない……くらいの軽い言い訳ができたものを。
うっかり見た目だけで褒めてしまったせいか、ファイは味に対する自信も大きく膨らませてしまったようだ。その笑顔にはハッキリと『さぁ早く食べて、もっと褒めて』と書かれているのが見える。
下手に持ち上げてしまった後だけに、落とそうものなら面倒臭いことになるに違いなかった。まず確実に泣くだろう。まぁベッドの中で見る泣き顔は最高だけどな……なんてむっつりスケベを発揮している場合でもない。
考えてもみれば、呪いだなんだと言いたい放題言ったものの、彼に悪意はないのだ。
不得意なジャンルでも挑戦してみようという前向きさは評価に値するし、ちょっと失敗の規模が自然の摂理を超越しているというだけで、彼が心を込めて手を尽くしたことに変わりはない。
この炊き込みご飯に関しては見栄えだけは確かにいいのだし、ちょっと酒臭いくらい、可愛いものじゃないか。(黒鋼の感覚もたいぶ麻痺してきている証拠)
黒鋼はうっすらと嫌な汗をかきながら、ファイに知られぬよう小さく震える息を吐いた。
一度は遠ざけた茶碗を再び手に取り、箸も持ち直した。
愛情がこもっている料理が、必ずしも美味いわけじゃない。だが、愛情をもってすれば食えないこともない。死にはしないさ、と腹を括り、黒鋼はその酒臭い謎の炊き込みご飯を口に入れた。
そのとき。
「ブフォッ!!」
吹いた。いや、噴いた。
ひとくち放り込んだだけで、ド派手に噴き出してしまった。
「わああ!? 黒様先生が口から大量の茶色い米をキャッチ&リリースさせたー!!」
「ぅげっほゲホゲホ!! て、てめっ、こ、こりゃ一体どういう味付けだ!? 食えたもんじゃねぇぞ!!」
「えー? なんでー? そんなことないよ! 絶対に口に合うはずだよー!」
「現に合わねぇから噴きだしちまったんだろ!!」
ファイは不満げな表情をしつつ、「おかしいなぁ」と首を傾げている。
そしておもむろに立ち上がるとキッチンへ向かい、何やら琥珀色の液体が入ったガラス瓶を持って戻ってきた。
「黒たん先生お酒好きだから、うまくいくと思ったんだけどなー」
彼の手の中にあるのは、ウィスキーの瓶だった。
黒鋼はそれを見て唖然とする。こいつはバカだ。どうしようもないアホだ。長い付き合いでそれは分かっているはずだった。
だが、確かめずにはいられなかった。
「まさかとは思うが……おまえ、それで……」
「そうだよー! だし汁の代わりにウィスキーをたーっぷり注ぎ込んで炊き込んだんだー」
「馬鹿か!? なぁ!? それでどうなるか想像できなかったのか!?」
「なんでそんなに怒るのー!? 飲んだくれの黒たん好みの味付けを考えて考えて、その結果この方法に辿り着いたんだよー!!」
「着地点をもっと考えろ!!」
口の中には嫌なアルコール臭と味が残っている。確かに黒鋼は酒豪だが、酒好きにだって選ぶ権利くらいあるのではないか。酒は酒として楽しむものであって、酒味の炊き込みご飯なんて気色の悪いものを食わされるなんて冗談じゃない。
が、褒められてやっぱり落とされたファイは納得がいかないらしい。
「そんなに怒ることないのに! オレの愛情たっぷりなのに! 黒様だって愛があるなら多少は我慢して全部食べてくれるのが優しさじゃないの!? 黒たんは顔はイケメンだけど心はブサメンだよ!!」
「不細工上等だ!! 愛情の押し売りで苦行を強いるんじゃねぇ!! だいたいそんなに文句言うなら自分も食ってみろ!!」
激おこ……いや、逆ギレぷんぷん丸状態のファイに炊き込みご飯のよそわれた茶碗を押し付ける。引くに引けないのか、あるいは彼も酒好きなので味に自信があるのか、ぶん取るように受け取ると黒鋼が投げ出していた箸を掴み、ファイは豪快にそれを口に入れた。
「ブフォッ!!」
そして噴いた。
「まず! なにこれまず! これは人間の食べ物じゃないよ!!」
「これでよく分かっただろう!! 一つ利口になっただろう!!」
「うぅ……」
ファイは案の定、目に涙を浮かべだした。
そして床に崩れ落ちると、その鬼のように不味い飯をチマチマと食べ始めた。
「お、おい……」
「ぅ、うぇっぷ……」
「馬鹿、やめとけ……死ぬぞ」
「だって……食べ物は粗末にできないもん……ちゃんと責任とるよ……」
ファイは飲み込む都度、ぎゅっと目を閉じて懸命に不味い酒飯を食べ続ける。今にも全て吐き出すのではないかとハラハラする黒鋼に、それでも彼は弱々しく笑って見せた。
「ごめんね黒様……お腹すいてるのに、オレ、やっぱりセンスないみたい……」
「…………」
「あ、そうだ。黒たん先生はどこかで美味しいご飯でも食べておいでよー」
「はぁ……」
黒鋼は溜息と同時に、キッチンの方を見た。調味料などが綺麗に並べられた背の低い棚の上に、炊飯器が置かれている。それをしばらく見つめたあと、ファイに視線を戻した。
「どんだけ作った?」
「……10合ほど」
「一升かよ……絶望的だな……」
キリキリと痛み出すこめかみに耐えながら、黒鋼は立ち上がるとキッチンへ向かった。
そして炊飯器を抱え、さらに新たな茶碗と箸を持ってファイの隣にどっかりと座り込む。
「黒様……?」
「腐ってるとか虫がわいてるってんじゃねぇからな……」
言いながら、炊飯器の蓋を開けた。もわぁん……と、いっそ目に染みるような壮絶な酒の臭いに胸やけを起こしながら、茶碗に山盛りよそった。
「だ、ダメだよ……黒たんはもう食べなくていいって!」
「うるせぇな……てめぇ一人じゃ食いきれねぇだろ。あの弟が帰ってくる前に平らげるぞ」
「うぅ……うえぇ……ブサメンとか言っちゃってごめん~……」
「泣くのは完食してからにしろ……うぇっぷ」
それから二人、黙々とウィスキーご飯を食べ続けた。
*
正直、一升という米の量を二人は侮っていた。
ファイは見た目こそ華奢だが、決して小食ではない。大食いとまではいかないが、食べる時はそれなりの量をぺろりと食べる。そして黒鋼はその見た目通り、結構な大食漢だった。
そんな二人がタッグを組んでも酒飯は一向に減らず、せめてもう少しマシな味なら違ったのかもしれないが、やっとの思いで平らげた頃、外はすっかり暗くなっていた。
「黒様どうしよう……オレ妊娠したかも……ぅっぷ」
両足を投げ出して座るファイは、シャツの上からもよく分かるほど腹がぽっこり出ていた。それを手で摩っている姿は確かに妊婦に見えないこともないのだが、それは黒鋼も同じだった。
だがもはや突っ込むだけの気力もない。気を抜くと必死で食べたもの全てが口から飛び出してきそうだった。
そもそも半分近くはどうにか二人で食ったものの、真っ青な表情をしたファイが瞬きもせずに硬直しはじめたので、それ以降は全て黒鋼が平らげるはめになった。かと言って責める気力も勿論ない。
二人の間には空になった炊飯器と、茶碗と箸が置かれている。ついでに言えば揃って噴きだしてしまった米がテーブルの上に散乱している。
こうしてる間にも弟が帰ってくるかもしれないため、早いところ片付けをしなければならないのだが。流石にすぐには動けそうもなかった。
「黒たん……」
「……なんだ」
「オレ、やっぱり料理は諦めるね……」
それがいい。そうするべきだ。
即座にそう返そうと思ったが、黒鋼はゲップを押さえながら問いかける。
「なんだって急に料理なんか」
「……だって」
ファイは俯くと一度きゅっと唇を噛み締める。
「ずっとこのままってわけじゃないでしょ?」
「あ?」
「だから、今はこうして二人とも寮で暮らしてるけど……死ぬまで先生やってられるわけじゃないし、いつかはさ……どこか小さくてもいいからオレ達だけのおうちを建てて、おじいちゃんになるまで一緒にいられたらいいなって」
「……まぁ、そうだな」
「そうなってまでユゥイにご飯作ってもらうわけにはいかないよ。ユゥイだっていつかは結婚とか……年下ドラゴンとか捕まえてねんごろになるかもだし」
「ねんごろって久しぶりに聞いたぞ」
とにかく、とファイは続ける。
「ユゥイにばっかり甘えてるわけにもいかないなーって思ったのー! だいたいよく言うじゃん! 好きな男はまず胃袋から掴めって! オレ掴んでないじゃん! 黒様の胃袋掴んでんのユゥイじゃん!!」
本音はそっちか。
「あのなぁ……人を餌付けされてるみてぇに言うなよ」
「実際そうじゃん! いつか黒たんがユゥイの方がいいって思うようなことになったら……そう思うと夜も眠れなくて、そろそろ手持ちの五寸釘が尽きそうなんだよー!!」
「その五寸釘とやらの用途はあえて聞かねぇぞ俺は!!」
一方は真夜中に包丁を研ぎ、一方は丑の刻参りとは。やっぱり双子は中身もどこかしら似るものなのかな、なんて和んでいられる内容じゃないので、これ以上は触れないでおこう。
「とにかく、誰しも得手不得手ってもんがあんだよ。俺はよく知らねぇが、おまえの弟にだってダメなもんくらいあんじゃねぇか? 完璧な人間なんかいねぇだろ」
「それは……そうかもだけど……」
「てめぇの言い分は確かだ。今はすっかり弟に飯の世話を任せちゃいるが……だけどな、おまえ知ってるか?」
「なにを?」
「世の中にはな、電子レンジって優れもんがあるんだぜ?」
「……老後はコンビニ弁当でいいってハッキリ言ってくれた方がマシだなぁ」
「まぁいいじゃねぇか。無理するこたねぇんだ。人間にはそれぞれ役割ってもんがある。てめぇにしかできねぇことだってあんだろ」
そう言ってやると、ファイは少し考え込んだあと上目使いでこちらを見上げてきた。
「……例えば?」
「そりゃあ」
黒鋼は考える。そして思う。
これは正直、たんに惚れた弱みや贔屓目で見た話に過ぎないのかもしれないが。
例えばどんなに疲れて帰ってきたって、こいつのふにふにの情けない笑顔を見れば一瞬で吹っ飛んでしまうし、こんな馬鹿をやらかしたって結局は許してしまう。
図々しく甘えてくるかと思えば変なところで遠慮して、無理をしようとするところだって可愛いと思う。何がどうというよりは、存在してくれているだけで黒鋼にとっては十分だった。
さらに言うと、夜だって愛しくて堪らない。泣き顔はもちろん、必死で縋りついてくる姿は健気でどうしようもなくて、途中で気を失ってしまうことも多いが、黒鋼的には十分すぎるほど満足している。もちろん、身体の具合も申し分なくいい。
が、こんなことを恥ずかしげもなくつらつらと言えるほど黒鋼は振り切れてはいない。ついでに言うと、どこか期待に満ちた目をキラキラとさせているファイに、ちょっとイラッとこないこともない。
照れ屋で意地っ張りなところのある黒鋼は、ゴホンっと咳払いをする。そしてちょっと赤らんだ耳たぶをカリカリと掻きながら、精一杯言った。
ただ、ちょっと言い方が悪かった……。
「……まぁ、色々だ。俺の性欲処理とかよ」
次の瞬間、バコンという音がして視界いっぱいに星が飛び散った。
「ッ――!?」
遅れて頬に激痛が走る。咄嗟のことに横倒しに崩れた黒鋼は、何が起こったのか分からずただ目を見開いてファイを見やった。
そこには、怒りの表情を浮かべた涙目のファイが、握った拳を震わせる姿があった。どうやら右ストレートを食らったらしい。
「て、てめぇこらいきなり何す」
「黒たん、最ッッ低ー!!」
「あぁ!? なんだこら!? 褒めてやってんじゃねぇか!!」
「どこが!? 性欲処理とか!! オレは君のオナホかって話だよ!!」
「ばっ!? なんつうことを言いやがる!?」
「それはこっちのセリフだよ! もう知らない!! 馬鹿!! 大っ嫌いー!!」
顔を真っ赤にして激怒するファイは、そんな捨て台詞を残して部屋から飛び出して行った。
馬鹿に馬鹿と言わしめた黒鋼は、ただ茫然とその場から動けないまま、ふと思う。
「なかなか珍しいオチ方だな……」
いつもなら拳でガツンとやるのは自分の役割だ。
たまにはこういうケースがあってもいいのかもな、なんて思いつつ、つい照れ臭くなってあんなことを言ってしまったが、次からはもう少し言葉のチョイスに気をつけよう……と反省する黒鋼だった。
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朝は一分一秒が戦争である。
黒鋼を見送って腰砕けになっている場合ではない。
ユゥイや鋼丸は今どうしているのかと慌てて立ちあがると、すぐ背後に黒ジャージを着たままの鋼丸がぽつんと裸足で佇んでいた。
「鋼丸! まだパジャマ着てたの!?」
両脇に手を差し込んでぶらーんと持ち上げられた鋼丸はぶんぶんと首を振った。
「ダメだよー! ちゃんとお洋服着ないと保育園行けないでしょー?」
ぶんぶん。再び首を振る鋼丸。
「鋼丸はパジャマもお洋服も黒ジャージでしょ?」
するとそこにピンク色のランドセルを背負って黄色の通学帽をかぶったユゥイが顔を出した。
「へ……?」
黒いレースがあしらわれた赤のチェックワンピースを着用し、彼女はすでに出かける準備が整っているらしい。
子供もこのくらい大きくなると、ある程度は手がかからないものなのか……とファイは感心する。なにより、いでたちがなんとも可愛らしい。
思わず鋼丸を片腕に抱えたまま屈んでユゥイをぎゅっと抱きしめた。
「可愛い!! 可愛いよユゥイハァハァ! 流石はオレの生き写し!!」
「ちょ、ちょっと……! やめてよー! 遅れちゃうでしょ!」
「はぁ……女の子いいなぁ女の子可愛いよオレも女体化して可愛いお洋服着たいー!」
「なんか最近ママ変ー!」
照れ臭いのか、ユゥイは顔を真っ赤にしながらファイの腕の中から抜け出した。
玄関に一度腰かけて、慌ててブーツをはいてしまうと「いってきます!」とこちらも見ずに行ってしまった。
ファイの目が、思わず三日月のようになる。
「うふふ……な~んかお年頃って感じ~……照れ臭いのかなぁ~?」
時間も忘れてニヤニヤしていると、抱っこしていた鋼丸がもぞもぞと妙な動きを見せ始めた。
「あれ? どうかした?」
至近距離で見る小さな息子の顔は無表情だった。だが、少し眉間に皺が寄って心なしか涙目だった。
「……しっこ」
「!?」
ズザァッと青褪めたファイは、廊下をスピードスケート選手のように光速で滑走しながらトイレへと向かった。
+++
鋼丸を保育園へと送り届けるために、ファイはこの夢の世界で初めて外へ出た。
てっきりサ●エさんの世界のように昭和の情景が広がっているのかと思いきや、現代風のごく普通の街並みがそこにはあった。
一瞬お隣の家を覗きこもうかと思ったものの、辺りの建物は全てアパートやマンションばかりだった。
こじんまりとした木造平屋の磯●家はどこか浮いて見える。
黄色の帽子をかぶり、黒いジャージの上から水色のスモックを着た鋼丸がトテトテと自転車の方へ向かうのでついていく。
後部座席に子供用の座席が固定してある自転車を見て、どうやら毎日これで通っているらしいことを察する。
ちなみに鋼丸の黒ジャージなのだが、子供部屋の引き出しを開けて見たらみっちりとそればかりが詰まっていた。
パジャマ用、保育園用、その他お出かけ用と、彼なりの拘りがあるらしい……。
+++
鋼丸を乗せて、自転車で颯爽と走り出したファイだったが、ふと保育園はどこにあるのだろうかと考えた。
が、そこはさすが夢の中である。
なぜかファイは知らないはずの道のりをすいすいと目的地へ向かって順調に走っていた。
「いや~、いいなぁ夢の中ってー。なんでもご都合的でー」
自転車に乗るというのも久しぶりで、真正面から風を受けて走るのがまた心地いい。
上機嫌で独り言を呟いていると、腰にぎゅっと掴まっていた鋼丸が少し大きな声を出した。
「かあちゃん……ゆめってなに!」
どうやら耳元を吹き抜ける風に声が掻き消されないよう、頑張って声を張っているらしい。
「夢だよー夢! 鋼丸も見るでしょー?」
そう答えたものの、この子はファイの見る夢の中の住人なのだから果たして夢を見る、などという概念はあるのか。
けれど鋼丸はすぐに「うん」と返事をした。
「ゆめ、いつもみる」
「へー? ちゃんと見るんだー。どんな夢見るのー?」
「かあちゃんと、とうちゃんのゆめ、みる」
「オレとパパの夢ー?」
「うん」
それは興味深い。夢の中の息子は、一体自分達のどんな夢を見ているのだろうか。
鋼丸はそのまま続けた。
「ゆめのなか、かあちゃんがふたり、いる」
「え?」
思わず自転車を止めた。そして背後を振り返る。
「オレが二人?」
「うん。いる」
「ユゥイじゃなくて?」
「ねえちゃんじゃない。だっておおきいもん」
見上げてくる鋼丸の瞳は父親そっくりの赤い色。けれど父親のそれよりもまだ丸くて大きくて、無垢そのものだった。
「かあちゃん、どっちもしろいおようふくきてる。とうちゃんは、いつもくろいジャージ、きてる」
もしかして、とファイは思った。
「ねぇ、その夢の中にいるオレって、片っぽは髪長い?」
「うん。ながい。むすんでる。とうちゃんは、ながいきのぼう、もってる」
「長生きの棒? ……あ、長い木の棒?」
竹刀だ。白い服というのはおそらくファイの白衣と、ユゥイのコック服ではないか。
やっぱり、と確信した。
「ねぇ、それってきっと現実の世界だよ」
「げんじゅつ?」
「そっか。鋼丸はオレと逆のものを見てるんだね」
「?」
小さな頭に手を乗せて、優しく撫でた。
夢の中だけれど、不思議と感覚がある。これもきっと脳が勘違いでもしているせいだ。
「現実のオレはまだ起きてくれないみたい。でも、今もすっごく幸せだから、まだいいんだ」
「ぜんぶ、ゆめなの?」
「うん。ごめんね」
別に隠すようなことではないと思った。
きっと言ってもわからないことだし、これは夢の中の話だから。
案の定、鋼丸はぼんやりとしながら「ふぅん」と言っただけだった。
それからすぐに遠くを指さして「あ」と言った。
「ん?」
振り向けば、広い道路の反対側に学校がある。
『友枝小学校』と書かれた大きな表札があって、今まさに門をくぐろうとしているピンクのランドセルが見えた。
「ねえちゃんだ」
「ほんとだー! ユゥイー! おーい!」
手をぶんぶんと振って声をかけるけれど、道行く自動車が声を掻き消してしまう。
ダメかー、と手を下ろしつつ、ファイは娘の隣に見覚えのある子供がいることに気がついた。
「あれ……? もしかしてあの子って……」
鷲色の癖毛の子供。けれど小狼か小龍かは判断がつかない。だが、さらにすぐ側に全く同じ顔をした少年とサクラと思しき少女が見えた。
「じゃあ、あれは小龍君の方だ」
緑のランドセルを背負った小龍は、ユゥイと手を繋いで歩いていた。
「やだー……ちょっと……いい感じ……?」
なかなか微笑ましい光景である。
だが同時に複雑な心境にも駆られてしまう。
まさか娘が幼いながらにボーイフレンドがいるとは、しかも手なんて繋いで歩いているとは……最近の子供はなかなか……などと生温かい笑顔を浮かべながら顎をジョリジョリした。(生えてないけど)
(まぁでも結構お似合いかもなぁ)
小狼も勿論いい子だが、小龍の方がどちらかと言えばどっしりと構えていてしっかりしている。
ちょっと腹黒そうなところなど、案外ユゥイと合うかもしれない。
「面白そうだから、いっそ現実でもフラグ立っちゃえばいいのに……」
夢の中だけでなく、現実世界の弟に対しても野暮な親心を抱くファイだった。
*
「ふー……結構疲れるー……」
遅刻ギリギリで保育園に滑り込むと、迎えてくれた泣きぼくろがセクシーな女の先生に鋼丸を預けた。(ちなみに保育園の名前はよもぎ保育園だった)
そしてようやく帰宅すると、ファイは茶の間のテーブルに突っ伏した。
「夢なのに……この疲労感……」
ふとテレビでもつけようかとリモコンを探して、テレビがとんでもなく時代錯誤なものだということに気がつく。
「うわ、めんどー」
今時ロータリー式のテレビもどうかと思うし、これでは地デジが見られないではないか……という心配をしつつ、結局テレビは断念した。
すると室内がシーンと静まり返っているのがやけに気になる。
ファイの認識としては、世間一般の主婦というものは、夫も子供達も送り出した後は一人の時間を堪能するのだとばかり思っていた。
けれど実際のところファイは働き盛りの男性であり、通常この時間は授業を行っているはずだった。
時々窓から同じく授業中の黒鋼を盗み見たり、生徒達と冗談を言い合ったり。
基本的に受け持ちは違っても、黒鋼もユゥイもいつも同じ校舎内にいるはずなのに。
それがこの世界では何もかもが違う。夫も子供達もみな、今はそれぞれ別の場所でやるべきことをやっている。
ふと溜息をつく。
そう、暇なのだ。そして寂しい。
ならば自分で仕事を見つけよう……夫のいない家を守り気持ちよく帰ってきてもらうために美しく保つのも妻の役目と、掃除や洗濯をするべく立ちあがろうとした瞬間だった。
また、場面が変わった。
「あり……?」
ファイは薄暗い部屋の中で横向きに寝転がっていた。
ここが子供部屋で、今が夜だということは子供用の机の上にあるライトが仄かな明かりを放っているのを見たからだった。
腕の中には鋼丸がいた。その隣の布団ではユゥイがすでに寝息を立てている。
どうやら子供を寝かしつけている最中に飛んだらしい。
鋼丸もまた、大きな目が薄目になり、うとうとしはじめていた。
ファイは少し長い時間をかけて息を吐きだした。自然と優しい笑みが浮かんで、盛り上がった布団をそっと撫でる。
やがて鋼丸が完全に眠りに落ちると、ファイは待ってましたとばかりにその丸い頬を指先でぷにぷにした。
「やぁらか~い……」
小さくて可愛い鋼丸。これがあと少しすれば、もっと自我のようなものが目覚めてどんどんヤンチャになっていくに違いなかった。
「将来は、体育の先生になるかもね」
黒鋼が子供の頃も、きっとこんなだったのだろうと思うと愛しさがひとしおだった。
そういえば、現実の世界であまり彼の子供時代の話を聞いたことがない。
目覚めたら聞いてみようか。かと言って素直に教えてくれるとは思えなかったけれど、それでも聞いてみたいと思った。
「いい夢見てねー」
鋼丸の額にそっとキスをしてから身体を起こして、ユゥイの側へも行くと同じようにキスをした。
+++
「寝たか?」
子供部屋と廊下を挟んで向かい合っている寝室へ向かうと、寝巻(黒ジャージ)を着こんだ黒鋼が布団の上で胡坐をかき、何か書類に目を通していた。
「うん。二人ともよく寝てるよー」
「そうか」
ふっと口元を緩めた黒鋼が、手にしていた書類を文机の上に放った。
手が空いたのを確認して、すかさず隣に腰を下ろすとぴったりと寄り添ってみる。
「なんだよ。寒いのか?」
「んーん。ずーっとちっちゃいの相手してたからー」
自分より大きな存在に寄りかかるのが、やけに久しぶりで新鮮なことのように思えた。
ようやく身体から力が抜けたような気がして、ファイはほっと息を吐いた。
肩を抱かれて、先刻ファイがしたような額へのキスを逆にされてしまう。
不思議な感じがした。
抱きしめてキスをして、愛情をいっぱい注ぐ母親という立場から、こうして二人きりになった瞬間、全く違う一人の人間になるような、そんな気がした。
むず痒いような、照れ臭いような、今まで経験したことのない感覚だった。
「甘えたくなったか?」
「えへへ。うん」
現実の世界でも、黒鋼はよくファイのことを『甘ったれ』と言う。
今まであまり自覚はなかったけれど、実際そうなのだと思った。
逞しい肩に額を押し付けるようにして預けながら、ファイはこの温もりも全てが夢だと思うと少し寂しい気がした。
「オレ、黒たんは絶対にいいパパになるって思ってたよ」
「そうか」
「うん。いつか可愛いお嫁さんもらって、可愛い子供が生まれるのかなって」
「実際そうなったろ?」
「! ……うん」
頬が熱くなった。
何も言えないでもごもごしていると、黒鋼がぽつりと零し始める。
「最初はな」
「うん」
「まだしばらくは俺とおまえの二人でいいんじゃねぇかって思った」
「そうなんだ……」
「籍入れてすぐデキちまったろ?」
そ、そうなの……? という言葉はひとまず飲み込む。
「その、なんだ。多少はな、複雑だった」
もしかして……とファイは思った。
新婚生活もままならないうちに妊娠をして、そして出産という流れに彼は多少の寂しさを感じていたのだろうか。
この男は、実は意外と独占欲が強いということをファイは知っていた。
思わず「ふふふ」と笑ってしまった。
「なんだよ」
「うぅん。黒たん、おっきい子供みたいだなって」
「……うるせぇな」
顔に似合わず照れ臭そうにそっぽを向いた黒鋼に横目で睨まれた。
ファイはなんだか嬉しくて、今にも踊りだしたいような気持ちになった。
夢だけど。
幸せだから、まだもう少しいいか、なんて。
「子供……可愛い?」
悪戯っ子のような上目づかいで問いかけた。黒鋼はむっとしていた口元をまた少し緩める。
「当たり前のこと聞くな」
「うん」
「てめぇん中から出て来たガキ、可愛くねぇわけねぇだろ」
もっと他に言い方はないのかと、やっぱり声を出して笑ってしまう。
うるさいと言わんばかりにその唇を塞がれた。
一瞬で離れてしまったけれど、ファイを黙らせるには十分な威力を発揮した。
夢だろうが現実だろうが、こうして黒鋼と触れあうのはいつまで経っても心臓が慣れない。
ドキドキと高鳴って、熱にうかされたように頬が熱くなる。
見つめあったあと、再び顔を寄せてくる黒鋼に目を閉じた。
黒鋼の首に腕を回して、引き寄せる。
物音ひとつ立てればすぐに子供達が起きだしてしまうかもしれないのに。
だが火がついてしまったものは仕方がない。
ここからは夫婦であり、そして大人の時間が幕を……
開けなかった。
+++
「……えっ」
めまぐるしいにも程がある。
どうやら場面は再び朝のようだった。
ファイは夫と子供達と四人で食卓を囲んでいた。
そこには卵焼きやソーセージ、サラダや納豆、漬物などが並べられていた。
(あとちょっと頑張れなかったのオレー!?)
あと少し……あと少しであるいは3人目が出来ていたかもしれない、めくるめく一大イベントの幕開けだったというのに……。
ガックーンと項垂れるファイを余所に、年代を感じさせるテレビでは運勢占いが流れていて、画面右上にはしっかりと『アナログ』の余計な文字。
あらかた食べ終えて新聞を読んでいるシャツとネクタイ姿の黒鋼と、箸を咥えたまま占いに夢中のユゥイ。子供用のフォークを使って一生懸命トマトを刺そうとしている鋼丸。
その頬にはご飯粒がくっついていて、ファイは苦笑しながらそれを指先で取ってやった。
きっとどこにでもある、ごく普通の朝の風景。
けれど少し違う気がした。身体がどこかふわふわとしていることに気がつく。
これはファイ自身が見ている夢の世界。最初はうまく状況が飲み込めず、戸惑うことばかりだったけれど、今は慣れてきたのか、少し感じる。
(もうすぐ……起きちゃうんだ……)
思い思いに食事をしながら朝の団欒を過ごしている家族達をざっと見回す。
短い間だったけれど、とても長い夢。
もうすぐ終わるのだと思うと、少ししんみりした。
「かあちゃん、させた」
鋼丸が、小さな手で掴んだフォークの先を見せてくる。しっかりとトマトが刺さっていて、ファイはそれを見て少しだけ涙ぐんだ。
「上手だねー鋼丸。そのうちすぐにお箸も使えるようになるんだろうなー」
その成長を自分は見ることが出来るだろうか。再びこの夢の続きを。
「あーん! 今日の恋愛運サイテーだよー!」
占いの結果を見てがっかりするユゥイ。ピンクと黒のボーダー柄のボアチュニックが今日も可愛い。
「恋愛運だぁ? そんなもんおまえにゃまだ早い」
「早くないもん! ボクだってもう大人のオンナなんだから!」
「10年早ぇ。いや、100年だ」
「そんなに待ってたらシワシワ通り越して死んじゃうよ! パパのいじわる!」
「おう上等だ……!」
『何処の馬の骨とも知れぬ輩に娘はやれん』精神丸出しの黒鋼が、大人げなく青筋を立てながら娘に突っかかっている。
お父さん……娘にはもう立派なボーイフレンドが……と言いたかったが、ちゃぶ台をひっくり返しかねないので黙っておいた。
(賑やかだなぁ……)
そうしているうちにどんどん意識がふわふわとしてきて、ファイは慌てて立ちあがると片付けを始めた。
「ケンカしてないでもう時間だよ! 黒たん新聞ナイナイして!」
「おっと……おい、この続きは夜だ夜。いいな」
「ふんだ!」
新聞を畳みつつ同じく立ちあがる黒鋼。ツンとそっぽを向くユゥイ。いまだトマトをもぐもぐしている鋼丸。
子供達はまだ多少の余裕があるからいいとして、まずは夫を送り出さなければ。
じきに覚めるとわかっているから、せめて今この瞬間の務めを最後まで果たしたい。
どうかユゥイを送り出して、鋼丸を保育園に送り届けるまでは。
ハンガーにかかっていたジャケットを取って、先に玄関先へ行ってしまった黒鋼を追いかける。
「お弁当持ったよねー?」
「おう」
後ろから着せてやると、黒鋼はすぐに振り返って手を伸ばしてきた。
行ってきますのチューだ。
けれどファイはそれをやんわりと制した。
「どうした?」
「うぅん。ますます名残惜しくなっちゃうから……」
「仕事行くだけだろ」
苦笑する黒鋼に、ファイは笑いながら首を振った。
「起きたら、してもらうね?」
「?」
「行ってらっしゃい、あなた」
「……おう、行ってくる」
不思議そうに首を傾げながらも、黒鋼は引き戸を開けると出て行った。
しばらく見えなくなった背をその場で見つめて、ファイは「よし!」と気合を入れる。
すぐに茶の間へ向かって、いまだテレビと食事に齧りついている子供達に声をかけた。
「ほらユゥイ、もうテレビ終わり! 遅刻しちゃうよー! 鋼丸も、保育園用のジャージに着替えちゃお……ッ、あ……」
その瞬間、ふわりと足元が揺らぐ。子供達の姿が白く霞んでいった。
(やだ……もうちょっとなのに……!)
「ねぇママー。この俳優さん、ちょっとパパに似てない?」
つい今しがたまでケンカしていたくせに、何事もなかったかのように父の話題を出すユゥイ。
同じようにテレビを見て答えてやりたいのに、ファイの目にはもうゆっくりと世界に滲んでゆく子供たちしか見えない。
「あはは! でもパパの方がかっこいい」
(うん……うん……。君達のパパは誰よりもかっこいいよ)
「目つきだってパパの方が悪いよねー」
(でも、凄く優しい目なんだよ。いつだって見守ってくれてる)
「かあちゃん」
鋼丸だけが、まるで今のファイの状況を理解しているかのように真っすぐにこちらを見ていた。
(鋼丸……?)
「おれたちは、ずっとここにいる」
(鋼丸……)
「ここはげんじゅつのセカイじゃないけど……でも、いつもいる。かあちゃんのなかに、いつも」
動かない身体で必死に腕を伸ばそうと足掻いた。
どうかせめてもう一度。
この子たちは現実の世界へ帰ってももう会えない。
小さな黒鋼はいない。女の子のユゥイもいない。
ならばせめて、せめてもう一度だけ、抱きしめたいのに。
鋼丸が、そこで初めて笑顔を見せた。
前歯が一本だけ抜けている、幼い笑顔だった。
「いってらっしゃい」
+++
「ぁ……」
小さな呻きを自分の声だと認識した瞬間、ファイは自分が完全に覚醒したことを知った。
天井に向けて伸ばしている手が、微かに震えている。
涙が幾筋も流れて、頬を濡らしていた。
「おいおまえ……どうした?」
そのまま動けないでいたファイは、ついさっきまで聞いていたはずの懐かしい声に目を向けた。
空を彷徨っていた手が、大きな手に掴まれる。
「黒たん……せんせぇ?」
「おう」
沈み込んでいた身体を起こす。
どうやらここは正真正銘現実の、黒鋼の部屋らしい。
「おまえな……戻ってきた途端に人のベッドで不貞寝しはじめたと思ったら……」
温かな指先がファイの目尻を拭った。
彼は怒っているとも困っているともつかない、あるいはその両方が混ざったような複雑な顔をしている。
「泣いてんじゃねぇよ」
ああそうだ。
今日は日曜日で、昼間から二人で買い出しへ行った。
公園で紅茶を飲みながら、キャッチボールをする親子を見て。
一方的に怒って一人先に帰宅したファイは、けれどいつのもように黒鋼の部屋に入った。
怒ったら少し疲れてしまって、こうなったら昼寝してやるとベッドに寝そべったのだ。
少し遅れて帰って来た黒鋼は、買ったものをユゥイに届けてから戻って来たらしい。
「おっかねぇ夢でも見たか?」
何も答えないままぼんやりしているファイを心配してか、珍しく声のトーンが優しかった。
それによってまた少し涙腺が緩んだファイは、ぎゅっと目を閉じるとぶんぶんと首を振る。
そして、勢いよく起き上ると黒鋼の首に抱きついた。
「……一体なんだってんだよ……」
口ではそんなことを言いながら、どうやら泣くほど怖い夢を見たと思っているらしい黒鋼は、ファイの背中に腕を回すと、あやす様にそっと撫でる。
ファイはそんな黒鋼の肩口に熱い目元をぐっと押しつけた。
「オレ……オレさ……」
「なんだ」
「オレ、可愛いお嫁さんにもなれないし……男だから……子供も産めないけど……」
ずびっと鼻を啜ってから、顔を上げた。
相当酷い顔になっているだろうなと思いはしたけれど、今は夢から覚めた自分の想いを伝えることで精いっぱいだった。
「ずっと……死ぬまで一緒にいてもいい……?」
繋ぎとめるものが自分に一切ないと思い知ったとき、いつか彼の気持ちがどこか余所へ行ったとしても、縋りつくだけの力はないと思った。
一緒にいても人並みの幸せも与えてやれない。それでも離れるのが嫌で、考えるのも嫌で、怖くてたまらなくて、そんな自分はきっと一時的だとわかっていても眠りの中に逃げ場を求めてしまったのかもしれない。
黒鋼が僅かに目を見開いた。それから、目線だけ上へ向けて大きな溜息を零した。
「重てぇんだよ、てめぇはいちいち」
「……ごめん」
「聞くな。このアホ」
あやすような優しさで包みこんでいたはずの腕に、ぐっと力が込められた。
一ミリの隙間もないほど強く抱きしめられて、ファイは再びその肩口に顔を埋めた。
この腕の強さこそが彼の答えだと、本当はずっと知っていたのに。
そのとき、胸の中に小さな炎が灯った気がした。
よく知るその感覚は、いつもは当たり前すぎて気がつかないもの。
黒鋼を愛しいと、こうして抱き合っていることが嬉しいと、そう感じたときにいつだって灯っている炎。
『かあちゃんのなかに、いつも』
最後の鋼丸の言葉を思い出した。
そして理解する。
(そっか……これがあの子たちの正体なんだ)
今もここにいる。
もしもの世界の小さな家で、愛しい子供達は夢を見ている。
母と、そして父の姿を。
会うことはもう決して叶わないのだと思っていた。
こうして黒鋼と愛し合ったとしても、何も生まれないのだとも。
嬉しさと、ほんの少しの切なさに結局ファイの涙は止まらなかった。
なんだかんだでファイの涙に弱いらしい黒鋼は、どうしたものかと迷ったのちに僅かに身体を離すと、ファイの頬にキスをした。
(オレたちは、こうやって愛を育てているんだね)
長くて短い幸せな夢は、大切なものをファイの胸に確かに刻んだ。
←戻る ・ Wavebox👏
黒鋼を見送って腰砕けになっている場合ではない。
ユゥイや鋼丸は今どうしているのかと慌てて立ちあがると、すぐ背後に黒ジャージを着たままの鋼丸がぽつんと裸足で佇んでいた。
「鋼丸! まだパジャマ着てたの!?」
両脇に手を差し込んでぶらーんと持ち上げられた鋼丸はぶんぶんと首を振った。
「ダメだよー! ちゃんとお洋服着ないと保育園行けないでしょー?」
ぶんぶん。再び首を振る鋼丸。
「鋼丸はパジャマもお洋服も黒ジャージでしょ?」
するとそこにピンク色のランドセルを背負って黄色の通学帽をかぶったユゥイが顔を出した。
「へ……?」
黒いレースがあしらわれた赤のチェックワンピースを着用し、彼女はすでに出かける準備が整っているらしい。
子供もこのくらい大きくなると、ある程度は手がかからないものなのか……とファイは感心する。なにより、いでたちがなんとも可愛らしい。
思わず鋼丸を片腕に抱えたまま屈んでユゥイをぎゅっと抱きしめた。
「可愛い!! 可愛いよユゥイハァハァ! 流石はオレの生き写し!!」
「ちょ、ちょっと……! やめてよー! 遅れちゃうでしょ!」
「はぁ……女の子いいなぁ女の子可愛いよオレも女体化して可愛いお洋服着たいー!」
「なんか最近ママ変ー!」
照れ臭いのか、ユゥイは顔を真っ赤にしながらファイの腕の中から抜け出した。
玄関に一度腰かけて、慌ててブーツをはいてしまうと「いってきます!」とこちらも見ずに行ってしまった。
ファイの目が、思わず三日月のようになる。
「うふふ……な~んかお年頃って感じ~……照れ臭いのかなぁ~?」
時間も忘れてニヤニヤしていると、抱っこしていた鋼丸がもぞもぞと妙な動きを見せ始めた。
「あれ? どうかした?」
至近距離で見る小さな息子の顔は無表情だった。だが、少し眉間に皺が寄って心なしか涙目だった。
「……しっこ」
「!?」
ズザァッと青褪めたファイは、廊下をスピードスケート選手のように光速で滑走しながらトイレへと向かった。
+++
鋼丸を保育園へと送り届けるために、ファイはこの夢の世界で初めて外へ出た。
てっきりサ●エさんの世界のように昭和の情景が広がっているのかと思いきや、現代風のごく普通の街並みがそこにはあった。
一瞬お隣の家を覗きこもうかと思ったものの、辺りの建物は全てアパートやマンションばかりだった。
こじんまりとした木造平屋の磯●家はどこか浮いて見える。
黄色の帽子をかぶり、黒いジャージの上から水色のスモックを着た鋼丸がトテトテと自転車の方へ向かうのでついていく。
後部座席に子供用の座席が固定してある自転車を見て、どうやら毎日これで通っているらしいことを察する。
ちなみに鋼丸の黒ジャージなのだが、子供部屋の引き出しを開けて見たらみっちりとそればかりが詰まっていた。
パジャマ用、保育園用、その他お出かけ用と、彼なりの拘りがあるらしい……。
+++
鋼丸を乗せて、自転車で颯爽と走り出したファイだったが、ふと保育園はどこにあるのだろうかと考えた。
が、そこはさすが夢の中である。
なぜかファイは知らないはずの道のりをすいすいと目的地へ向かって順調に走っていた。
「いや~、いいなぁ夢の中ってー。なんでもご都合的でー」
自転車に乗るというのも久しぶりで、真正面から風を受けて走るのがまた心地いい。
上機嫌で独り言を呟いていると、腰にぎゅっと掴まっていた鋼丸が少し大きな声を出した。
「かあちゃん……ゆめってなに!」
どうやら耳元を吹き抜ける風に声が掻き消されないよう、頑張って声を張っているらしい。
「夢だよー夢! 鋼丸も見るでしょー?」
そう答えたものの、この子はファイの見る夢の中の住人なのだから果たして夢を見る、などという概念はあるのか。
けれど鋼丸はすぐに「うん」と返事をした。
「ゆめ、いつもみる」
「へー? ちゃんと見るんだー。どんな夢見るのー?」
「かあちゃんと、とうちゃんのゆめ、みる」
「オレとパパの夢ー?」
「うん」
それは興味深い。夢の中の息子は、一体自分達のどんな夢を見ているのだろうか。
鋼丸はそのまま続けた。
「ゆめのなか、かあちゃんがふたり、いる」
「え?」
思わず自転車を止めた。そして背後を振り返る。
「オレが二人?」
「うん。いる」
「ユゥイじゃなくて?」
「ねえちゃんじゃない。だっておおきいもん」
見上げてくる鋼丸の瞳は父親そっくりの赤い色。けれど父親のそれよりもまだ丸くて大きくて、無垢そのものだった。
「かあちゃん、どっちもしろいおようふくきてる。とうちゃんは、いつもくろいジャージ、きてる」
もしかして、とファイは思った。
「ねぇ、その夢の中にいるオレって、片っぽは髪長い?」
「うん。ながい。むすんでる。とうちゃんは、ながいきのぼう、もってる」
「長生きの棒? ……あ、長い木の棒?」
竹刀だ。白い服というのはおそらくファイの白衣と、ユゥイのコック服ではないか。
やっぱり、と確信した。
「ねぇ、それってきっと現実の世界だよ」
「げんじゅつ?」
「そっか。鋼丸はオレと逆のものを見てるんだね」
「?」
小さな頭に手を乗せて、優しく撫でた。
夢の中だけれど、不思議と感覚がある。これもきっと脳が勘違いでもしているせいだ。
「現実のオレはまだ起きてくれないみたい。でも、今もすっごく幸せだから、まだいいんだ」
「ぜんぶ、ゆめなの?」
「うん。ごめんね」
別に隠すようなことではないと思った。
きっと言ってもわからないことだし、これは夢の中の話だから。
案の定、鋼丸はぼんやりとしながら「ふぅん」と言っただけだった。
それからすぐに遠くを指さして「あ」と言った。
「ん?」
振り向けば、広い道路の反対側に学校がある。
『友枝小学校』と書かれた大きな表札があって、今まさに門をくぐろうとしているピンクのランドセルが見えた。
「ねえちゃんだ」
「ほんとだー! ユゥイー! おーい!」
手をぶんぶんと振って声をかけるけれど、道行く自動車が声を掻き消してしまう。
ダメかー、と手を下ろしつつ、ファイは娘の隣に見覚えのある子供がいることに気がついた。
「あれ……? もしかしてあの子って……」
鷲色の癖毛の子供。けれど小狼か小龍かは判断がつかない。だが、さらにすぐ側に全く同じ顔をした少年とサクラと思しき少女が見えた。
「じゃあ、あれは小龍君の方だ」
緑のランドセルを背負った小龍は、ユゥイと手を繋いで歩いていた。
「やだー……ちょっと……いい感じ……?」
なかなか微笑ましい光景である。
だが同時に複雑な心境にも駆られてしまう。
まさか娘が幼いながらにボーイフレンドがいるとは、しかも手なんて繋いで歩いているとは……最近の子供はなかなか……などと生温かい笑顔を浮かべながら顎をジョリジョリした。(生えてないけど)
(まぁでも結構お似合いかもなぁ)
小狼も勿論いい子だが、小龍の方がどちらかと言えばどっしりと構えていてしっかりしている。
ちょっと腹黒そうなところなど、案外ユゥイと合うかもしれない。
「面白そうだから、いっそ現実でもフラグ立っちゃえばいいのに……」
夢の中だけでなく、現実世界の弟に対しても野暮な親心を抱くファイだった。
*
「ふー……結構疲れるー……」
遅刻ギリギリで保育園に滑り込むと、迎えてくれた泣きぼくろがセクシーな女の先生に鋼丸を預けた。(ちなみに保育園の名前はよもぎ保育園だった)
そしてようやく帰宅すると、ファイは茶の間のテーブルに突っ伏した。
「夢なのに……この疲労感……」
ふとテレビでもつけようかとリモコンを探して、テレビがとんでもなく時代錯誤なものだということに気がつく。
「うわ、めんどー」
今時ロータリー式のテレビもどうかと思うし、これでは地デジが見られないではないか……という心配をしつつ、結局テレビは断念した。
すると室内がシーンと静まり返っているのがやけに気になる。
ファイの認識としては、世間一般の主婦というものは、夫も子供達も送り出した後は一人の時間を堪能するのだとばかり思っていた。
けれど実際のところファイは働き盛りの男性であり、通常この時間は授業を行っているはずだった。
時々窓から同じく授業中の黒鋼を盗み見たり、生徒達と冗談を言い合ったり。
基本的に受け持ちは違っても、黒鋼もユゥイもいつも同じ校舎内にいるはずなのに。
それがこの世界では何もかもが違う。夫も子供達もみな、今はそれぞれ別の場所でやるべきことをやっている。
ふと溜息をつく。
そう、暇なのだ。そして寂しい。
ならば自分で仕事を見つけよう……夫のいない家を守り気持ちよく帰ってきてもらうために美しく保つのも妻の役目と、掃除や洗濯をするべく立ちあがろうとした瞬間だった。
また、場面が変わった。
「あり……?」
ファイは薄暗い部屋の中で横向きに寝転がっていた。
ここが子供部屋で、今が夜だということは子供用の机の上にあるライトが仄かな明かりを放っているのを見たからだった。
腕の中には鋼丸がいた。その隣の布団ではユゥイがすでに寝息を立てている。
どうやら子供を寝かしつけている最中に飛んだらしい。
鋼丸もまた、大きな目が薄目になり、うとうとしはじめていた。
ファイは少し長い時間をかけて息を吐きだした。自然と優しい笑みが浮かんで、盛り上がった布団をそっと撫でる。
やがて鋼丸が完全に眠りに落ちると、ファイは待ってましたとばかりにその丸い頬を指先でぷにぷにした。
「やぁらか~い……」
小さくて可愛い鋼丸。これがあと少しすれば、もっと自我のようなものが目覚めてどんどんヤンチャになっていくに違いなかった。
「将来は、体育の先生になるかもね」
黒鋼が子供の頃も、きっとこんなだったのだろうと思うと愛しさがひとしおだった。
そういえば、現実の世界であまり彼の子供時代の話を聞いたことがない。
目覚めたら聞いてみようか。かと言って素直に教えてくれるとは思えなかったけれど、それでも聞いてみたいと思った。
「いい夢見てねー」
鋼丸の額にそっとキスをしてから身体を起こして、ユゥイの側へも行くと同じようにキスをした。
+++
「寝たか?」
子供部屋と廊下を挟んで向かい合っている寝室へ向かうと、寝巻(黒ジャージ)を着こんだ黒鋼が布団の上で胡坐をかき、何か書類に目を通していた。
「うん。二人ともよく寝てるよー」
「そうか」
ふっと口元を緩めた黒鋼が、手にしていた書類を文机の上に放った。
手が空いたのを確認して、すかさず隣に腰を下ろすとぴったりと寄り添ってみる。
「なんだよ。寒いのか?」
「んーん。ずーっとちっちゃいの相手してたからー」
自分より大きな存在に寄りかかるのが、やけに久しぶりで新鮮なことのように思えた。
ようやく身体から力が抜けたような気がして、ファイはほっと息を吐いた。
肩を抱かれて、先刻ファイがしたような額へのキスを逆にされてしまう。
不思議な感じがした。
抱きしめてキスをして、愛情をいっぱい注ぐ母親という立場から、こうして二人きりになった瞬間、全く違う一人の人間になるような、そんな気がした。
むず痒いような、照れ臭いような、今まで経験したことのない感覚だった。
「甘えたくなったか?」
「えへへ。うん」
現実の世界でも、黒鋼はよくファイのことを『甘ったれ』と言う。
今まであまり自覚はなかったけれど、実際そうなのだと思った。
逞しい肩に額を押し付けるようにして預けながら、ファイはこの温もりも全てが夢だと思うと少し寂しい気がした。
「オレ、黒たんは絶対にいいパパになるって思ってたよ」
「そうか」
「うん。いつか可愛いお嫁さんもらって、可愛い子供が生まれるのかなって」
「実際そうなったろ?」
「! ……うん」
頬が熱くなった。
何も言えないでもごもごしていると、黒鋼がぽつりと零し始める。
「最初はな」
「うん」
「まだしばらくは俺とおまえの二人でいいんじゃねぇかって思った」
「そうなんだ……」
「籍入れてすぐデキちまったろ?」
そ、そうなの……? という言葉はひとまず飲み込む。
「その、なんだ。多少はな、複雑だった」
もしかして……とファイは思った。
新婚生活もままならないうちに妊娠をして、そして出産という流れに彼は多少の寂しさを感じていたのだろうか。
この男は、実は意外と独占欲が強いということをファイは知っていた。
思わず「ふふふ」と笑ってしまった。
「なんだよ」
「うぅん。黒たん、おっきい子供みたいだなって」
「……うるせぇな」
顔に似合わず照れ臭そうにそっぽを向いた黒鋼に横目で睨まれた。
ファイはなんだか嬉しくて、今にも踊りだしたいような気持ちになった。
夢だけど。
幸せだから、まだもう少しいいか、なんて。
「子供……可愛い?」
悪戯っ子のような上目づかいで問いかけた。黒鋼はむっとしていた口元をまた少し緩める。
「当たり前のこと聞くな」
「うん」
「てめぇん中から出て来たガキ、可愛くねぇわけねぇだろ」
もっと他に言い方はないのかと、やっぱり声を出して笑ってしまう。
うるさいと言わんばかりにその唇を塞がれた。
一瞬で離れてしまったけれど、ファイを黙らせるには十分な威力を発揮した。
夢だろうが現実だろうが、こうして黒鋼と触れあうのはいつまで経っても心臓が慣れない。
ドキドキと高鳴って、熱にうかされたように頬が熱くなる。
見つめあったあと、再び顔を寄せてくる黒鋼に目を閉じた。
黒鋼の首に腕を回して、引き寄せる。
物音ひとつ立てればすぐに子供達が起きだしてしまうかもしれないのに。
だが火がついてしまったものは仕方がない。
ここからは夫婦であり、そして大人の時間が幕を……
開けなかった。
+++
「……えっ」
めまぐるしいにも程がある。
どうやら場面は再び朝のようだった。
ファイは夫と子供達と四人で食卓を囲んでいた。
そこには卵焼きやソーセージ、サラダや納豆、漬物などが並べられていた。
(あとちょっと頑張れなかったのオレー!?)
あと少し……あと少しであるいは3人目が出来ていたかもしれない、めくるめく一大イベントの幕開けだったというのに……。
ガックーンと項垂れるファイを余所に、年代を感じさせるテレビでは運勢占いが流れていて、画面右上にはしっかりと『アナログ』の余計な文字。
あらかた食べ終えて新聞を読んでいるシャツとネクタイ姿の黒鋼と、箸を咥えたまま占いに夢中のユゥイ。子供用のフォークを使って一生懸命トマトを刺そうとしている鋼丸。
その頬にはご飯粒がくっついていて、ファイは苦笑しながらそれを指先で取ってやった。
きっとどこにでもある、ごく普通の朝の風景。
けれど少し違う気がした。身体がどこかふわふわとしていることに気がつく。
これはファイ自身が見ている夢の世界。最初はうまく状況が飲み込めず、戸惑うことばかりだったけれど、今は慣れてきたのか、少し感じる。
(もうすぐ……起きちゃうんだ……)
思い思いに食事をしながら朝の団欒を過ごしている家族達をざっと見回す。
短い間だったけれど、とても長い夢。
もうすぐ終わるのだと思うと、少ししんみりした。
「かあちゃん、させた」
鋼丸が、小さな手で掴んだフォークの先を見せてくる。しっかりとトマトが刺さっていて、ファイはそれを見て少しだけ涙ぐんだ。
「上手だねー鋼丸。そのうちすぐにお箸も使えるようになるんだろうなー」
その成長を自分は見ることが出来るだろうか。再びこの夢の続きを。
「あーん! 今日の恋愛運サイテーだよー!」
占いの結果を見てがっかりするユゥイ。ピンクと黒のボーダー柄のボアチュニックが今日も可愛い。
「恋愛運だぁ? そんなもんおまえにゃまだ早い」
「早くないもん! ボクだってもう大人のオンナなんだから!」
「10年早ぇ。いや、100年だ」
「そんなに待ってたらシワシワ通り越して死んじゃうよ! パパのいじわる!」
「おう上等だ……!」
『何処の馬の骨とも知れぬ輩に娘はやれん』精神丸出しの黒鋼が、大人げなく青筋を立てながら娘に突っかかっている。
お父さん……娘にはもう立派なボーイフレンドが……と言いたかったが、ちゃぶ台をひっくり返しかねないので黙っておいた。
(賑やかだなぁ……)
そうしているうちにどんどん意識がふわふわとしてきて、ファイは慌てて立ちあがると片付けを始めた。
「ケンカしてないでもう時間だよ! 黒たん新聞ナイナイして!」
「おっと……おい、この続きは夜だ夜。いいな」
「ふんだ!」
新聞を畳みつつ同じく立ちあがる黒鋼。ツンとそっぽを向くユゥイ。いまだトマトをもぐもぐしている鋼丸。
子供達はまだ多少の余裕があるからいいとして、まずは夫を送り出さなければ。
じきに覚めるとわかっているから、せめて今この瞬間の務めを最後まで果たしたい。
どうかユゥイを送り出して、鋼丸を保育園に送り届けるまでは。
ハンガーにかかっていたジャケットを取って、先に玄関先へ行ってしまった黒鋼を追いかける。
「お弁当持ったよねー?」
「おう」
後ろから着せてやると、黒鋼はすぐに振り返って手を伸ばしてきた。
行ってきますのチューだ。
けれどファイはそれをやんわりと制した。
「どうした?」
「うぅん。ますます名残惜しくなっちゃうから……」
「仕事行くだけだろ」
苦笑する黒鋼に、ファイは笑いながら首を振った。
「起きたら、してもらうね?」
「?」
「行ってらっしゃい、あなた」
「……おう、行ってくる」
不思議そうに首を傾げながらも、黒鋼は引き戸を開けると出て行った。
しばらく見えなくなった背をその場で見つめて、ファイは「よし!」と気合を入れる。
すぐに茶の間へ向かって、いまだテレビと食事に齧りついている子供達に声をかけた。
「ほらユゥイ、もうテレビ終わり! 遅刻しちゃうよー! 鋼丸も、保育園用のジャージに着替えちゃお……ッ、あ……」
その瞬間、ふわりと足元が揺らぐ。子供達の姿が白く霞んでいった。
(やだ……もうちょっとなのに……!)
「ねぇママー。この俳優さん、ちょっとパパに似てない?」
つい今しがたまでケンカしていたくせに、何事もなかったかのように父の話題を出すユゥイ。
同じようにテレビを見て答えてやりたいのに、ファイの目にはもうゆっくりと世界に滲んでゆく子供たちしか見えない。
「あはは! でもパパの方がかっこいい」
(うん……うん……。君達のパパは誰よりもかっこいいよ)
「目つきだってパパの方が悪いよねー」
(でも、凄く優しい目なんだよ。いつだって見守ってくれてる)
「かあちゃん」
鋼丸だけが、まるで今のファイの状況を理解しているかのように真っすぐにこちらを見ていた。
(鋼丸……?)
「おれたちは、ずっとここにいる」
(鋼丸……)
「ここはげんじゅつのセカイじゃないけど……でも、いつもいる。かあちゃんのなかに、いつも」
動かない身体で必死に腕を伸ばそうと足掻いた。
どうかせめてもう一度。
この子たちは現実の世界へ帰ってももう会えない。
小さな黒鋼はいない。女の子のユゥイもいない。
ならばせめて、せめてもう一度だけ、抱きしめたいのに。
鋼丸が、そこで初めて笑顔を見せた。
前歯が一本だけ抜けている、幼い笑顔だった。
「いってらっしゃい」
+++
「ぁ……」
小さな呻きを自分の声だと認識した瞬間、ファイは自分が完全に覚醒したことを知った。
天井に向けて伸ばしている手が、微かに震えている。
涙が幾筋も流れて、頬を濡らしていた。
「おいおまえ……どうした?」
そのまま動けないでいたファイは、ついさっきまで聞いていたはずの懐かしい声に目を向けた。
空を彷徨っていた手が、大きな手に掴まれる。
「黒たん……せんせぇ?」
「おう」
沈み込んでいた身体を起こす。
どうやらここは正真正銘現実の、黒鋼の部屋らしい。
「おまえな……戻ってきた途端に人のベッドで不貞寝しはじめたと思ったら……」
温かな指先がファイの目尻を拭った。
彼は怒っているとも困っているともつかない、あるいはその両方が混ざったような複雑な顔をしている。
「泣いてんじゃねぇよ」
ああそうだ。
今日は日曜日で、昼間から二人で買い出しへ行った。
公園で紅茶を飲みながら、キャッチボールをする親子を見て。
一方的に怒って一人先に帰宅したファイは、けれどいつのもように黒鋼の部屋に入った。
怒ったら少し疲れてしまって、こうなったら昼寝してやるとベッドに寝そべったのだ。
少し遅れて帰って来た黒鋼は、買ったものをユゥイに届けてから戻って来たらしい。
「おっかねぇ夢でも見たか?」
何も答えないままぼんやりしているファイを心配してか、珍しく声のトーンが優しかった。
それによってまた少し涙腺が緩んだファイは、ぎゅっと目を閉じるとぶんぶんと首を振る。
そして、勢いよく起き上ると黒鋼の首に抱きついた。
「……一体なんだってんだよ……」
口ではそんなことを言いながら、どうやら泣くほど怖い夢を見たと思っているらしい黒鋼は、ファイの背中に腕を回すと、あやす様にそっと撫でる。
ファイはそんな黒鋼の肩口に熱い目元をぐっと押しつけた。
「オレ……オレさ……」
「なんだ」
「オレ、可愛いお嫁さんにもなれないし……男だから……子供も産めないけど……」
ずびっと鼻を啜ってから、顔を上げた。
相当酷い顔になっているだろうなと思いはしたけれど、今は夢から覚めた自分の想いを伝えることで精いっぱいだった。
「ずっと……死ぬまで一緒にいてもいい……?」
繋ぎとめるものが自分に一切ないと思い知ったとき、いつか彼の気持ちがどこか余所へ行ったとしても、縋りつくだけの力はないと思った。
一緒にいても人並みの幸せも与えてやれない。それでも離れるのが嫌で、考えるのも嫌で、怖くてたまらなくて、そんな自分はきっと一時的だとわかっていても眠りの中に逃げ場を求めてしまったのかもしれない。
黒鋼が僅かに目を見開いた。それから、目線だけ上へ向けて大きな溜息を零した。
「重てぇんだよ、てめぇはいちいち」
「……ごめん」
「聞くな。このアホ」
あやすような優しさで包みこんでいたはずの腕に、ぐっと力が込められた。
一ミリの隙間もないほど強く抱きしめられて、ファイは再びその肩口に顔を埋めた。
この腕の強さこそが彼の答えだと、本当はずっと知っていたのに。
そのとき、胸の中に小さな炎が灯った気がした。
よく知るその感覚は、いつもは当たり前すぎて気がつかないもの。
黒鋼を愛しいと、こうして抱き合っていることが嬉しいと、そう感じたときにいつだって灯っている炎。
『かあちゃんのなかに、いつも』
最後の鋼丸の言葉を思い出した。
そして理解する。
(そっか……これがあの子たちの正体なんだ)
今もここにいる。
もしもの世界の小さな家で、愛しい子供達は夢を見ている。
母と、そして父の姿を。
会うことはもう決して叶わないのだと思っていた。
こうして黒鋼と愛し合ったとしても、何も生まれないのだとも。
嬉しさと、ほんの少しの切なさに結局ファイの涙は止まらなかった。
なんだかんだでファイの涙に弱いらしい黒鋼は、どうしたものかと迷ったのちに僅かに身体を離すと、ファイの頬にキスをした。
(オレたちは、こうやって愛を育てているんだね)
長くて短い幸せな夢は、大切なものをファイの胸に確かに刻んだ。
←戻る ・ Wavebox👏
●●県、××市にお住まいの山田太郎さん、花子さん夫婦。
二人は今からおよそ10年前に結婚し、ほぼ同時期に子宝にも恵まれた。
幸せ絶頂の夫婦だったが、なんと妊娠5ヶ月目にして流産してしまう。
悲劇の事態に悲しみに暮れる夫婦だったが、医師から告げられた新たな事実によってさらに打ちのめされる。
妻花子さんは元々妊娠するのが困難な体質であったことが判明したのである。
もう二度と子供は望めないのか……一時期は絶望に暮れ、全てに対して自暴自棄になってしまった花子さん。
しかし夫の献身的な愛情と励ましを受け、不妊治療に踏み切る。
夫婦は共に支え、励まし合い、辛く長い治療の日々を乗り越えて来た。
やがて10年近くに及ぶ歳月を経て、ようやく花子さんが妊娠。
授かった命の重み、そして一度も産声を上げることなく失われた我が子への想いを胸に、夫婦の悲願がようやく叶った。
産まれたのは3000グラムの元気な男の子。
夫の太郎さんは、「息子が大きくなったら、一緒にキャッチボールがしたい」と満面の笑みで語っている。
+++
「グス……ッ」
晩御飯も入浴も済ませ、あとは寝るだけ……という頃、ファイは床にクッションを抱えてうつ伏せながら、とあるドキュメンタリー番組を見ていた。
流産、不妊治療、そして苦労の末、再びの妊娠、出産。
夫婦の深い愛情が生んだその奇跡のドラマに、見終わったあとファイは涙ぐんで鼻をすすった。
愛し合って結ばれた夫婦が子供を授かり、無事に出産し、子育てに励む……。そういった流れは自然の摂理であり、ごく当たり前のことだと思っていた。
けれどこういった番組を見たり話を聞いたりすると、決して当たり前のことではないのかもしれない、とファイは思う。
「女の人だからって、簡単に赤ちゃんが授かるわけじゃないんだなぁ……」
ファイにはどう引っくり返っても一生経験できない喜びもあれば、辛さもある。
テレビ番組の尺で綺麗に収まりがつくほど、簡単な道のりではなかったに違いない。
想像で推し量ることさえおこがましく感じつつも、女性は本当に凄い……とにかく凄い……そして夫も偉い……グッジョブ……とファイは感動していたのだった。
そのときは、本当にただそれだけだった。
+++
翌日、日曜日のことである。
ここ数日はずっと鉛色の雲が空を覆い、肌寒い日々が続いていた。
だが、今日は久しぶりに雲間から太陽が姿を見せ、暖かな気温が春の訪れを告げているようで気持ちがよかった。
そんな中、ファイと黒鋼はユゥイから預かったメモを片手に近所のスーパーへ買い出しへと訪れていた。
今はその帰り道。
「買い漏らしないよねー? ユゥイ今日は何作ってくれるんだろー?」
「さぁな。和食じゃねぇのか」
「黒様先生が食べたいだけじゃーん」
「いいだろ。俺は基本そっち派なんだ」
そんなの知ってるよ、と言ってファイは笑う。
ユゥイは最近ずっと和食にハマっている。いよいよ創作料理なども作り出し、そのうち本場日本で料理店でも出すのかと思うほどだった。
教員宿舎からスーパーまでの道のりなど、せいぜい歩いても10分かかるかかからないかの些細なもので、そんな短い距離だとしてもまるでデートでもしているみたいな気分だった。
鼻先を時折掠める春の香りは『これ』と明確に表現できるものではなく、ただ心がふんわりと軽くなるような、どこか懐かしさを感じさせる微かなもので、訳もなくただ幸せだと思えた。
(もうちょっとだけ……こうしていたいなぁ……)
ファイは横目でチラリと真っすぐに前を見て歩く黒鋼の横顔を盗み見た。
そしてほぼ同時に、道が公園前にまで差し掛かっていることに気がつく。
「ねーねーせんせー」
「なんだ」
「天気いいしさ、ちょっと日向ぼっこしていかない?」
そう言いながら公園を指さす。
ブランコや滑り台などの基本的な遊具はもちろん、噴水や芝生もある、そこそこ広い公園だった。
「しょうがねぇな……」
黒鋼はそう返事すると、即座に公園へと方向を変えた。
ファイははしゃいで「バンザーイ」と言いながら、うっかり腕に抱きつきそうになるのを我慢する。
ここで羽目を外しすぎるといつものゲンコツルートだ。
ファイは慣れっこだが、日曜日で家族連れや子供もそこそこ目につく中そんなことになれば、黒鋼の鬼の形相を見た子供が泣く。さらにトラウマになる。
子供達の健やかな成長と未来を守ることも化学教師の務めなのだ……とファイは涙を呑む。
途中、設置してあった自販機で温かな紅茶を買って、二人は芝生側の小道沿いにあるベンチに座った。
野菜や調味料などが入ったビニール袋を脇に置いた黒鋼がペットボトルの蓋を捻ってファイに差し出してくる。
「わ、ありがとー」
「そっち寄こせ」
「はーい」
おもむろに差し出されたそれを受け取って、自分が持っていた未開封のものを手渡す。
すぐにそれも蓋を開けて飲み始める黒鋼を見て、ファイは急に照れ臭くなると頬を赤らめた。
変なところでさりげなく甘やかしてくる……いつもは鋭い突っ込みに徹するくせに、素でこういうことをしてくるあたりこの男は天然だ。
そして幸せを噛みしめながらいつまで経ってもドキドキしてしまうファイは……乙女である。
ほかほかのペットボトルに口をつけて飲み込むと、有無を言わさず無糖のはずのそれが妙に甘く感じた。
二人はそのまま暫くの間、ほっこりとしながら過ごした。
真上にある太陽が燦々と輝き、心地よい風がゆったりと吹きぬけてゆく。
手を繋いで歩く若いカップル達や、木陰で仲良く弁当を食べている家族連れ。遊具で遊ぶ子供たちの元気な声と、噴きあげる噴水の水音が遠くに聞こえる。
もっと暖かくなったら、ユゥイや四月一日にお弁当を作ってもらって、皆で遊びに来れたらいいな、なんてことを考えた。
そんなときだった。
前方の少し離れた場所で、親子がキャッチボールをしているのが目に入る。
日曜日の公園という場所柄、いっそベタとも思えるありきたりな光景。けれどなんとなく胸が温まる。
父親と思しき男が手加減丸出しでボールを投げる。
まだ小さな息子は真剣な表情で必死にそれを取ろうとして、結局グローブから転げ落ちてしまった。
だがすぐに拾い上げ、全力で父に投げ返す。
最初のうちはすんなりキャッチできなかったボールも、回数を重ねるうちにどんどん上手に受け止めることが出来るようになってきて、いつしか余裕の笑顔を見せていた父親も本気を出し始めた。
物凄くハートフルな光景だった。
(いいなぁ……あーゆうの)
見ているこちらまで幸せな気持ちになってきて、ふとファイは何気なく隣を見やった。
黒鋼もまた、ファイと同じ光景をじっと見つめていた。
その横顔に、ドキリとした。
もともと精悍な顔つきが、熱心さを帯びている。
彼の受け持ちは体育であるから、二人の親子のやり取りがもどかしいのかもしれない。
けれど、それにしては妙に張りつめているような、何かを熟考しながらいるような、そんな印象を受けた。
(……もしかして)
ふと、ファイは昨夜見たテレビ番組を思い出した。
ようやくの思いで生まれた息子。
父親は、いつかキャッチボールがしたいと、そう遠くない未来を幸せそうに語っていた……。
途端に、ファイは胸が締めつけられるのを感じた。
黒鋼もまた、そんな未来を夢見ているのだろうかと。
そうだとすれば、ファイにはその夢を叶えてやれる力はない。
ファイも黒鋼も同性で、どんなに愛し合ったとしてもそこには何も生まれない。
本当は考えたくもないけれど、もし……もし黒鋼が自分以外の誰かを、可愛いお嫁さんを見つけて、いつか子供が授かって、その子供が少しずつ大きくなったら、あんな風に公園やマイホームの庭なんかでキャッチボールをするのだろう。
子供は男の子なら父親に瓜二つの可愛いヤンチャ坊主で、黒鋼は厳しいけれど強くてかっこよくて、優しいパパになる。
(どうしよう……やだな……。ちょっと泣きそう……)
たった今まではちょっとしたデート気分を味わって、ほのぼのとした光景を見ながら幸せな気分だったのに。
いつだってのんびりお気楽でいたいのに、黒鋼に案外天然な部分があるのと同じように、ファイには一度ハマりこむと抜け出せないネガティブな一面があった。
途端に俯いてキャッチボール親子から目を背ける。
それでも仲のいい掛け合いは微かに聞こえてきて、ファイは唇を噛みしめた。
「どうした?」
それに気付いた黒鋼が、こちらに顔を向けた。
「腹でも減ったか?」
なんて呑気な問いかけを投げて寄こすものだから、ファイは慌てて顔を上げると笑顔を作った。
「なんでもないよー?」
「うそつけ」
即座に返された。
少し不機嫌そうに顔を顰められて、少し焦った。
「ホントのホントだよ?」
「…………」
「う……」
そのまま、怖い顔でじーっと見つめられて、思わず目を泳がせた。
どうして隠せないのだろう。黒鋼にはいつも見透かされてしまう。
そのくせ言葉で執拗に問いかけてこないぶん、こうしてじっと目で責めるように訴えてくる。
ファイは右へ左へと視線を彷徨わせたあと、温くなってしまった紅茶に口をつけた。
ちびりと少ない量を飲み込んでから、改めて黒鋼をおずおずと上目づかいで見やる。
「あのねー……」
「おう」
「黒たん先生も……やっぱりいつかは子供とか……欲しいよね……?」
「あ?」
「黒たん、きっといいパパになるんだろうなーって」
「何言ってんだおまえは?」
何、と言われても。そのまんま、思ったことを言ってみただけだった。
呆れたような顔をした黒鋼は、至極当然のことを口にした。
「俺とおまえとでどうやってガキなんざ作るんだ?」
「だ、だから聞いたのにー……」
情けない声を出したファイを相変わらず呆れ顔で見つめる黒鋼。
どうせ言っても仕方ないことで悩んでますよ……と思わず俯く。
「もういいよー……バカ……」
沈黙のあと、黒鋼の溜息が聞こえた。
そうだ、どうせくだらないことを考えている。勝手に想像して、勝手に落ち込んでしまっただけだ。
仮にここで黒鋼が肯定していたとして、さらに落ち込むだけでどうせファイは黒鋼から離れられない。
今までもこれからも、オジサンになっておじいちゃんになって、そして死ぬまでずっと離れられない。
いっそ死んでからも一緒にいたい……。
我ながら重たすぎると自分に呆れかえるほどだった。
「いらねぇよ。ガキなんざ」
「え……?」
地の底まで落ちこまん勢いだったファイは、思わず勢いよく顔を上げた。
「どどど、どうして?」
「そんなもん……」
目をキラキラとさせて続きを待つファイに、黒鋼は思いっきり眉間に皺を寄せて人相をさらに悪くしながら言った。
「てめぇみてぇなのがもう一人増えるかと思ったらぞっとするぜ……」
「んなー!?」
スパーンと何か見えない力に後頭部をぶたれたかのように、ファイはズコーッと前のめりになった。
ここは優しく微笑んで「バカだな……俺はおまえというこの混沌とした地上に咲き誇る一輪の花が側にいれば……他には何もいらないぜ……」と甘く囁く場面ではないのか。
と、思ったがいつものようにそれを口にすればやっぱりゲンコツフラグなので口を噤む。
ああーああー、どうせそうでしょうよ……とファイはぐすんと鼻をすすった。
悩んでいたのがバカのように感じる。
「もういいよー! オレ帰る!」
勢いよく立ちあがって、まだベンチに腰掛けている黒鋼に背を向けると先にズンズンと大股で歩き出した。
人の気も知らないで。こうなったら置いてきぼりにしてやる。
すっかり臍を曲げてしまったファイに、取り残されながら「やれやれ」と頭を掻く黒鋼。
「ったく……アホだなあいつは……」
ファイの悩みなどちゃっかりお見通しだった黒鋼の呟きは、もちろんファイの耳に届くことはなかった。
ちなみに。
別に親子のキャッチボールを見つめていたわけではなく、ただぼんやりと一点を見つめていただけの黒鋼は頭の中で、
(たこ焼きが食いてぇな……)
と考えていただけだったそうな……。
+++
「ママ! ママってばー!」
(……もう……なぁに~?)
「かあちゃん、おきて、かあちゃん」
(子供~? なんで子供の声が……)
甲高い子供の声がすぐ側でして、そして何かぷにぷにとした柔らかいものに頬をぺチぺチと叩かれる感触にファイは目を覚ました。
ぼんやりと視線の先に意識を向ければ、木の年輪が緩やかに波を描く天井が見える。
幾度か瞬きを繰り返していると、視界の隅からひょっこりと二つの頭が顔を出した。
「ママったら……いくら日曜日だからって寝すぎだよ」
「……へ」
一瞬にしてまだぼやけている思考が固まった。フリーズ状態である。
ファイは仰向けで横たわったまま石のように硬い首をギギギ……と動かして二人の子供たちを見やった。
まず一人目。
ペタンと女の子のように畳みの上に座り込んで、こちらを困った顔で見つめながら小首を傾げている子供。
金色の髪に青い目。白い肌。少し垂れた目元と薄い唇。
それはどこかで見たことのある顔だった。
「……君……名前は……?」
掠れる声で恐る恐る訪ねてみる。
子供は「はぁ?」と大きく口を開けた。
「ママ! まだ寝ぼけてる! ボクのこと忘れたの?」
「ボ……ボク……?」
「ユゥイだよ!」
……?
「…………あー、なるほど」
見覚えがあるのはそのはず。目の前の子供は自分自身にそっくりなのだ。
そこでファイはようやく合点がついた。
(これ、夢だ……)
それにしても妙な夢である。
ファイはユゥイと名乗る小さな子供をさらにじっくりと眺めた。
歳の頃は10歳前後といったところか。
水色に赤い小さなハートが水玉模様のように散りばめられたパーカーに、可愛らしいデニムのミニスカートを穿いている。
そしてふと、そこまで認識してファイはまたフリーズしかけた。
スカート……?
スカートというのは……あのスカートで、このスカート……?
「スカートぉ!?」
大きな声を発しながらガバッと起き上ったファイに、チビッ子二人がビクリと跳ねた。
「な、なぁにママ……スカートがどうかしたの?」
「す、す、すか……ゆ、ユゥイ……え、ど、どうして、え?」
たどたどしく口走りながら、ファイは震える手をそっと彼……いや、彼女? の太股辺りに伸ばした。
そして、恐る恐る裾を摘むと、ひょいっとまくってみた。
そこには白いリボンのついた、水色のしましまパンツが……。
「きゃあ……!」
「!?」
きゃあ……だと……?
慌てて両手でスカートの裾を押さえつける可憐な少女は、真っ赤な頬で怒った表情を浮かべ、泣きそうな顔で睨みつけて来た。
これは確かに大問題である。
いい歳をした大人の男が、事もあろうか唐突に幼女のスカートをめくり上げたということになるのだから。
一瞬で犯罪の香りが漂う事態にファイは真っ青になった。
「あ、あ、ご、ごめ……け、決してそんな趣味は……」
わなわなとしながら震えるファイに、幼女……ユゥイはまた小首を傾げた。
「変なママ。ボクのお洋服は全部ママが選んでくれたんじゃない」
「え……へ……へぇ……ああ、そうか……そう、だね……」
混乱のゲージが振りきれた状態のファイは適当に話を合わせてしまった。
そういえばさっきから当たり前のように『ママ』などと呼ばれている気がするのだが、気のせいだろうか。そうだ。きっと気のせいだ。
少し落ち着こう……という意味も含めてファイは一つ咳払いをした。
それから、ファイとユゥイのやりとりをぽーっと指を銜えて見ているもう一人の子供に目を向ける。
そして次の瞬間、ファイはカッと目を見開いた。
「――ッ!?!?」
二人目の子供。
歳の頃はおそらくまだ4~5歳程度か。
真っ黒のジャージを着て、真っ黒の短髪をツンツンにさせて、少し吊り上がった赤い目にキリっとした眉。
まだ眉間に皺は刻まれていないが、明らかに見たことがあるその子供は……。
「く……く……黒たぁん!?」
全身にビビビ、と鳥肌が立った。
小さな身体で両足を真っすぐ投げ出すように座って、チビ黒鋼が「ぽわ~」っと不思議そうな眼でファイを見上げてくる。
その頬はふっくらとしていて、少し赤みもさしていた。
ファイがよく知る鋭く精悍でヤクザのような雰囲気はまったくなく、どこかぼんやりとした癒しオーラを纏っていた。
「な……な……な……」
なにこれかわいい……!!!
「ひぎゃーーっ!!」
ファイはもしここに黒鋼(大)がいれば、どっから声出してんだ、という突っ込みが確実に入るであろう奇声を発すると、黒鋼(小)を思いっきり抱きしめた。
そのままグリグリと光速で頬ずりをする。
「いやーっ! なにこれいやーっ! かわいいかわいいかわいいぐぁんわいぃ~~~っ!!」
思った通り高い体温、ぷにっぷにの頬、ファイの腕の中にすっぽりと収まるミニサイズ。
小宇宙を大爆発させたファイは「すはーすはー」と匂いまで嗅ぎ出す。
「ハァー……ハァー……ハァー……」 ※彼は右側ポジの人です。
「……かあちゃん……くるちい……」
「……へんたい」
その様子を死んだような覇気のない目で見ていたユゥイが冷やかな呟きを零す。
「ああっ! ご、ごめんねごめんね? だってチビ黒たん可愛すぎるんだもんママうっかり危険なリビドーを迸らせるところだったよぉ」
一度身体を離すと、小さな身体の両脇に手を差し入れてひょいっと持ち上げ、膝の上に向かい合うようにして乗せた。
軽い。軽すぎる。そしてやっぱり体温が高い。可愛い。
そして何気にこの自分が母であるということを一瞬にして受け入れはじめたファイ。
「それ、とうちゃんのなまえ。おれ、ちがう」
「へ?」
「そうだよ! 黒たんはパパの名前でしょママ」
「おれ、はがねまる」
「え? え? パパ? はがねまる?」
これは黒鋼ではない……。そして黒鋼がパパ……?
考えてみればファイにそっくりな子供と黒鋼にそっくりな子供が、こちらを母と呼ぶのだから、誰との子供かは考えるまでもなく……。
「おい。さっきからぎゃーぎゃーうるせぇぞ。近所迷惑考えろ」
そのときである。
襖を開けて、チビ黒……いや、はがねまると全く同じデザインの黒ジャージを着た黒鋼が姿を現した。
「あ、パパー!」
ユゥイがミニスカートを翻しながら立ち上がると、黒鋼に正面からタックルして抱きついた。
黒鋼はそれを軽く受け止めてやりながらも側までやってくる。
「ったく……また鋼丸ばっか猫可愛がりしてんのかてめぇは」
「え……ま、また……って……? えーと……黒様先生……だよねぇ?」
「なんだよ先生ってのは」
「???」
先生……という単語を否定した黒鋼は、「まだ寝ぼけてんのか」と呆れた溜息を零す。
「えっと……えっと、つまり、要するに……」
この小さな子供達はファイを母と呼び、そして黒鋼を父と呼ぶ。
おそらくこの世界は夢の中であるから、自分と黒鋼は夫婦ということになって……。
「す、すみません……聞いてもいいかな」
黒鋼はファイの膝の上からよちよちと抜け出してやってきた鋼丸と、腰に抱きついていたユゥイを、それぞれひょいと抱き上げた。
「なんだよ」
「……その子たちって……やっぱりその……オレと……その、君の……」
「? おまえ……寝ぼけてるにしたって妙だぞ。こいつらは俺とてめぇの子供だろうが」
子供達は背が高く逞しい父親に抱っこされて、近くなった天井との距離にキャッキャとはしゃいでいる。
「てめぇが腹痛めて生んだガキのこと忘れてんじゃねぇぞ」
さぁ飯だ飯、と言いながら二人の子供を抱いたまま、黒鋼は背を向けると襖の向こうの廊下へと消えてしまった。
ぽつん……と残されたファイはぽかーんと口を開けたまましばらくの間身動きができないでいた。
そして、「ピン!」と何かが閃いた。
バッと自分の胸に触る。
「……ぺしゃんこ」
ガッと自分の股間に触る。
「……ついて……る」
ユゥイが女体化してるならあるいは自分も……と思ったのだが、アテが外れた。
「どうやって産んだの……オレ……」
夢の中は……ハチャメチャである。
*
夢と分かっていても、やはり飲み込むのに少し時間がかかった。
いっそこのまま適当に待っていれば、現実世界の自分が目を覚まして起きだすだろう……とは思ったが、どうやらまだその兆しはない。
ファイは仕方なく布団から立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回しながら部屋から出てみた。
ひやりと冷たい廊下に出ると、正面にも襖。右側を見ると玄関へ続いている。
木製の棚の上にある電話はレトロ感たっぷりの黒電話だった。
左を見ると廊下が続いていて、その向こうから子供達の楽しそうな声が微かに聞こえた。
それに引き寄せられるように進んで行くと、突き当りの襖へ手を伸ばす。
するりと開ければ、そこはどうやら茶の間のようだった。
丸い木製のちゃぶ台、これまた年代を感じさせるスイッチを捻るタイプのアナログテレビ。
なぜだろう。全体的に、この家の中はどこかで見たことがあるような気がするのだが……。
「ママー。台所すごいことになってるよ?」
すでに席についているユゥイが、隣にいる鋼丸とあっちむいてホイをして遊んでいた。
「だ、台所……?」
戸惑いつつも視線を走らせると、台所は茶の間のすぐ隣にあるらしい。
なぜかコソ泥のように抜き足差し足で子供達の後ろを通り抜け、ファイは台所に足を踏み入れた。
するとそこはまさに地獄と呼ぶにふさわしい光景が繰り広げられていた……。
「な、なにこれー!?」
流しスペースやコンロ付近など、ここにユゥイ(大)がいたら頭から角を生やすであろう酷い汚れっぷりだった。
ちなみにどうもこの台所も見たことがあるような気がした。
そしてそこに似合わないピンクのふりふりエプロンを装着(黒鋼がつけると妙にエプロンが小さく見える)した黒鋼が、むっと顔を顰めながらフライパンとフライ返しをそれぞれ両手に持って佇んでいた。
「うっせぇな……慣れねぇんだから仕方ねぇだろ」
「もしかして黒たんお料理してたの……?」
「悪ぃか」
「わ、悪くは……ないんだけど……」
銀製のボールも何かクリーム色のドロドロしたものが溢れて汚らしくなっているし、そのドロドロは至る所に飛び散っていた。
「な、何作ってたの……?」
「ホットケーキ」
「ホッ!?」
黒鋼とホットケーキ……この似合わなさは人知を超えるような気がした。
だがすぐに「ガキどものリクエストだ」という返答が返って来て納得する。
それにしてもホットケーキを作るのにここまで酷い状態にするというのも……いや、ファイも人のことは言えない。
だが人のやらかすことというのは客観的に見られるもので、この有様を見ていると普段の現実世界でいかに自分が迷惑をかけてきたかを痛感させられる思いだった。
「悪かったな……」
現実世界の自分に対して打ちひしがれていたファイだったのだが、それを見て黒鋼は珍しく少しヘコんでいる。
その様子にハッとして、ファイは慌てて首を振った。
「い、いいよー! 誰にでも不得意なことはあるし、オレだって……」
とは思ったが、どうやらこの世界の黒鋼は現実世界に比べると少し……いや、かなり不器用なのではないかと感じてしまう。
ファイのよく知る黒鋼といえば案外几帳面で、もちろんユゥイほどではないがこのくらいなら手際よくこなしてしまうように思う。
「せっかくの日曜だったからな……少しはてめぇを休ませてやりたかったんだが……」
「……へ」
「これじゃあ仕事を増やしただけだな……」
汚れきった台所を見渡す黒鋼の横顔をまじまじと見る。
そうか……きっとこの黒鋼は休日を利用して家族サービスをしてくれたのだ。
じーん……と胸に込み上げてくるものがある。
「黒様……うぅんアナタ……!」
溢れ出る愛しさに身を任せてその胸に飛び込もうと両手を広げた瞬間だった。
バーンと勝手口が開いた。
「ちわー! 三河屋でーす!!」
「!?」
瞬間、我が目を疑う。
黄色のケースを両手に抱えて登場したのは……。
「さ、さ、さ…………サ●ちゃーーーん!?」
主に日曜の夜によく見かける青年は、『三河屋の●ブちゃん』その人だった……。
この場においてあきらかに彼だけ顔の作りや容姿が単純である。
そこでファイはこの空間についてようやく思い出すことができた。
どこか見覚えがあるような間取り、電化製品や家具などなど。
そうここは、あの有名な磯●家そのものではないか……!
「すすす、凄い……! 本物!?」
いや、夢の中なのだから本物も糞もない上にそもそも架空の人物なのだが、まさかの有名人登場にファイは光の速さで近づくと右手を差し出した。
「ファン……ってわけではないけど握手してくださいー!」
熱狂的な勢いにサ●ちゃんは「はぁ?」と目を丸く……いや、もともと丸いというか黒い点のような目なのだが、とにかくそれを気持ち丸くした。そして黒鋼を見やる。
「奥さんどうしたんですか?」
「いや……こいつはちょっと寝ぼけてるだけだ。いつも悪いな」
「まいどー! ケースここに置いときまーす!」
●ブちゃんはファイに若干の戸惑いを見せたものの、ビール瓶の詰まった黄色のケースを置くと爽やかに去って行った。
+++
ファイはホットケーキを焼きながらこれまでのことを改めて整理することにした。
周辺では黒鋼がせっせと自分が汚しきってしまった部分を雑巾でゴシゴシしている。
(これはオレの夢の中。んで、オレと黒たん先生は……その、夫婦……)
そこまで考えて、ふとファイは自分の左手の薬指に指輪がはまっていることに気がついた。
「!?」
ぎょっとする。今まで気がつかなかったのか、それとも状況をまとめる中で突如として出現したのか。
そして隣でゴシゴシ作業をしている黒鋼の左手にも……同じものがはまっていることを確かめると今更のようにボンッと顔を赤らめる。
ジタバタしてキャッキャとはしゃぎたいのを堪えて、さらに整理する。
(どこをどうして産んだかは考えないとして、二人の子供がいて、それはオレにそっくりな子と黒様にそっくりな子……。そんでもってこの家は磯●さんちの間取り、サブちゃんも出てくる)
もしかして隣のお宅にはいさ●か先生がいたりするのだろうか……み、見たい……と思ったところで、ふいに焦げた臭いがした。
「おい、焦げてんぞ?」
「あっ!? ああ~! やっちゃったー……」
慌ててすぐ横に置いてあった皿へと移したが、時すでに遅し。表側は上手く焼けたのに、裏側は真っ黒になっていた。
しょんぼりするファイの側に黒鋼が寄り添って、焦げたホットケーキを見て言った。
「珍しいな。おまえが失敗するなんて」
「……え?」
珍しい、とはどういうことだろう。
いっそホットケーキをスムーズに引っくり返せたことさえ奇跡に等しいというのに。
ファイは目をパチクリとさせる。
「オレ、いっつもこんなだよ……? むしろこれは大成功の部類かも……」
「なに言ってんだ」
黒鋼はふっと小さく口元を緩ませると、ファイの腰を抱き寄せた。
「え、わ、わ……」
あの……それ雑巾持ってた手……と思わなくもなかったが、胸のドキドキがそれを凌いだ。
「おまえはいつもよくやってる。謙遜する必要はねぇよ」
「で、で、でも……お、オレ、いつも失敗ばっかで……」
「失敗? おまえが?」
黒鋼は少し目を丸くした。その不思議そうな反応に違和感を覚える。
彼は世辞など言える人間ではないし、そもそも側にいながらファイに料理など、絶対にさせてくれない。
(あ、そっか……これって夢だから……)
「おまえがしっかりしてるから、俺は安心してこの家やガキ共を任せていられるんじゃねぇか。もっと自信を持て」
「く、黒様……!」
思わずジンとして、涙が出そうになった。
どうやら夢の中で自分はよき妻であり、家事や料理、子育てに至るまで万能であるという設定らしい。
ぎゅっと抱きつこうとして、けれどそれは甲高い声に遮られた。
「あー! パパとママまたイチャイチャしてる! ズルイ! ボクもー!」
どうやら腹の虫が限界に達したらしいユゥイが、鋼丸の手を引いて台所にやってきた。
ぶぅっと口を尖らせて黒鋼とファイの間に飛び込んできた。
「うるせぇぞこら。もうちょっと待ってろ」
口では咎めるようなことを言いながら、黒鋼の目は優しい。飛び込んできたユゥイの頭をグリグリと撫でている。
ファイは胸に温かなものが込み上げてくるのを感じた。
黒鋼は、きっといいパパになる。その予想が今、目の前で的中している。
「はらへった……」
どこかぽわっとした鋼丸が、ファイの指をきゅっと掴んだ。
それに気付いて目線を落として笑いながら、ファイは決心する。
(それならオレも、いいママにならなくちゃ!)
ようやくこの状況に幸せを感じるだけの余裕が出て来た瞬間だった。
+++
そこで場面は一転した。
それに気がついたのは、台所が嘘のようにピカピカな状態になっていることと、側にいたはずの黒鋼や子供達の姿が忽然と消えていたからだった。
「あれ? あれ?」
辺りを見回し、それから視線を落とす。
そこにはたった今詰めたばかりのお弁当箱が二つ、並べられていた。
卵焼きやからあげ、ポテトサラダなどがみっしり詰まった大きな弁当箱、トマトやらハムやらミニハンバーグやらでキャラデコされた小さな弁当箱。
そしてファイの右手には菜箸が握られていた。
「こ、これ……オレが作ったの……?」
その見事な出来栄えに瞬きも忘れて見入る。
するとそこにかっちりとスーツを着込んだ黒鋼が顔を出した。
「おい、行くぞ」
「へ!? え!? あ、はい!」
ファイは瞬間的に弁当の蓋をし、ハンカチで包むとそれを手に廊下へと消えて行った黒鋼を追いかける。
「ま、待って! お弁当!」
「おう」
玄関で靴をはいていた黒鋼が顔を上げ、それを受け取った。
そこでファイは改めてスーツ姿の黒鋼を見つめる。
(か、かっこよすぎる……)
普段はジャージ姿がほとんどで、こんなかっちりした姿を見ることは滅多にない。
黒のストライプスーツに身を包む彼はどこに出しても恥ずかしくない、どこからどう見ても立派なヤクz……いや、出来る男風のサラリーマンだった。
その見慣れない姿に胸がキュンキュンのムラムラ状態で、頬に血が上る。
黒鋼が「先生」という言葉を否定したこととこの様子から察するに、どうやら夢の中の黒鋼は教師ではなく、どこぞの企業に勤めるサラリーマンという設定らしい。
同僚に穴●君がいたり……するのだろうか……。
「行ってくる」
真っ赤になってときめいているファイに黒鋼が何気なく手を伸ばした。項の辺りに添えられた手に引き寄せられて、頬に一瞬だけ何かが押し当てられた。
「!?」
それが何だったのか、フリーズしてしまったファイが気付いたときには玄関の引き戸が閉められていた。
へなへなと足元から崩れ落ちる。ペタリと座り込んで、ファイは熱くなっている頬に指先で触れる。
「ご……ご武運を~……」
この世界……凄すぎる……。
←戻る ・ 後編へ→
二人は今からおよそ10年前に結婚し、ほぼ同時期に子宝にも恵まれた。
幸せ絶頂の夫婦だったが、なんと妊娠5ヶ月目にして流産してしまう。
悲劇の事態に悲しみに暮れる夫婦だったが、医師から告げられた新たな事実によってさらに打ちのめされる。
妻花子さんは元々妊娠するのが困難な体質であったことが判明したのである。
もう二度と子供は望めないのか……一時期は絶望に暮れ、全てに対して自暴自棄になってしまった花子さん。
しかし夫の献身的な愛情と励ましを受け、不妊治療に踏み切る。
夫婦は共に支え、励まし合い、辛く長い治療の日々を乗り越えて来た。
やがて10年近くに及ぶ歳月を経て、ようやく花子さんが妊娠。
授かった命の重み、そして一度も産声を上げることなく失われた我が子への想いを胸に、夫婦の悲願がようやく叶った。
産まれたのは3000グラムの元気な男の子。
夫の太郎さんは、「息子が大きくなったら、一緒にキャッチボールがしたい」と満面の笑みで語っている。
+++
「グス……ッ」
晩御飯も入浴も済ませ、あとは寝るだけ……という頃、ファイは床にクッションを抱えてうつ伏せながら、とあるドキュメンタリー番組を見ていた。
流産、不妊治療、そして苦労の末、再びの妊娠、出産。
夫婦の深い愛情が生んだその奇跡のドラマに、見終わったあとファイは涙ぐんで鼻をすすった。
愛し合って結ばれた夫婦が子供を授かり、無事に出産し、子育てに励む……。そういった流れは自然の摂理であり、ごく当たり前のことだと思っていた。
けれどこういった番組を見たり話を聞いたりすると、決して当たり前のことではないのかもしれない、とファイは思う。
「女の人だからって、簡単に赤ちゃんが授かるわけじゃないんだなぁ……」
ファイにはどう引っくり返っても一生経験できない喜びもあれば、辛さもある。
テレビ番組の尺で綺麗に収まりがつくほど、簡単な道のりではなかったに違いない。
想像で推し量ることさえおこがましく感じつつも、女性は本当に凄い……とにかく凄い……そして夫も偉い……グッジョブ……とファイは感動していたのだった。
そのときは、本当にただそれだけだった。
+++
翌日、日曜日のことである。
ここ数日はずっと鉛色の雲が空を覆い、肌寒い日々が続いていた。
だが、今日は久しぶりに雲間から太陽が姿を見せ、暖かな気温が春の訪れを告げているようで気持ちがよかった。
そんな中、ファイと黒鋼はユゥイから預かったメモを片手に近所のスーパーへ買い出しへと訪れていた。
今はその帰り道。
「買い漏らしないよねー? ユゥイ今日は何作ってくれるんだろー?」
「さぁな。和食じゃねぇのか」
「黒様先生が食べたいだけじゃーん」
「いいだろ。俺は基本そっち派なんだ」
そんなの知ってるよ、と言ってファイは笑う。
ユゥイは最近ずっと和食にハマっている。いよいよ創作料理なども作り出し、そのうち本場日本で料理店でも出すのかと思うほどだった。
教員宿舎からスーパーまでの道のりなど、せいぜい歩いても10分かかるかかからないかの些細なもので、そんな短い距離だとしてもまるでデートでもしているみたいな気分だった。
鼻先を時折掠める春の香りは『これ』と明確に表現できるものではなく、ただ心がふんわりと軽くなるような、どこか懐かしさを感じさせる微かなもので、訳もなくただ幸せだと思えた。
(もうちょっとだけ……こうしていたいなぁ……)
ファイは横目でチラリと真っすぐに前を見て歩く黒鋼の横顔を盗み見た。
そしてほぼ同時に、道が公園前にまで差し掛かっていることに気がつく。
「ねーねーせんせー」
「なんだ」
「天気いいしさ、ちょっと日向ぼっこしていかない?」
そう言いながら公園を指さす。
ブランコや滑り台などの基本的な遊具はもちろん、噴水や芝生もある、そこそこ広い公園だった。
「しょうがねぇな……」
黒鋼はそう返事すると、即座に公園へと方向を変えた。
ファイははしゃいで「バンザーイ」と言いながら、うっかり腕に抱きつきそうになるのを我慢する。
ここで羽目を外しすぎるといつものゲンコツルートだ。
ファイは慣れっこだが、日曜日で家族連れや子供もそこそこ目につく中そんなことになれば、黒鋼の鬼の形相を見た子供が泣く。さらにトラウマになる。
子供達の健やかな成長と未来を守ることも化学教師の務めなのだ……とファイは涙を呑む。
途中、設置してあった自販機で温かな紅茶を買って、二人は芝生側の小道沿いにあるベンチに座った。
野菜や調味料などが入ったビニール袋を脇に置いた黒鋼がペットボトルの蓋を捻ってファイに差し出してくる。
「わ、ありがとー」
「そっち寄こせ」
「はーい」
おもむろに差し出されたそれを受け取って、自分が持っていた未開封のものを手渡す。
すぐにそれも蓋を開けて飲み始める黒鋼を見て、ファイは急に照れ臭くなると頬を赤らめた。
変なところでさりげなく甘やかしてくる……いつもは鋭い突っ込みに徹するくせに、素でこういうことをしてくるあたりこの男は天然だ。
そして幸せを噛みしめながらいつまで経ってもドキドキしてしまうファイは……乙女である。
ほかほかのペットボトルに口をつけて飲み込むと、有無を言わさず無糖のはずのそれが妙に甘く感じた。
二人はそのまま暫くの間、ほっこりとしながら過ごした。
真上にある太陽が燦々と輝き、心地よい風がゆったりと吹きぬけてゆく。
手を繋いで歩く若いカップル達や、木陰で仲良く弁当を食べている家族連れ。遊具で遊ぶ子供たちの元気な声と、噴きあげる噴水の水音が遠くに聞こえる。
もっと暖かくなったら、ユゥイや四月一日にお弁当を作ってもらって、皆で遊びに来れたらいいな、なんてことを考えた。
そんなときだった。
前方の少し離れた場所で、親子がキャッチボールをしているのが目に入る。
日曜日の公園という場所柄、いっそベタとも思えるありきたりな光景。けれどなんとなく胸が温まる。
父親と思しき男が手加減丸出しでボールを投げる。
まだ小さな息子は真剣な表情で必死にそれを取ろうとして、結局グローブから転げ落ちてしまった。
だがすぐに拾い上げ、全力で父に投げ返す。
最初のうちはすんなりキャッチできなかったボールも、回数を重ねるうちにどんどん上手に受け止めることが出来るようになってきて、いつしか余裕の笑顔を見せていた父親も本気を出し始めた。
物凄くハートフルな光景だった。
(いいなぁ……あーゆうの)
見ているこちらまで幸せな気持ちになってきて、ふとファイは何気なく隣を見やった。
黒鋼もまた、ファイと同じ光景をじっと見つめていた。
その横顔に、ドキリとした。
もともと精悍な顔つきが、熱心さを帯びている。
彼の受け持ちは体育であるから、二人の親子のやり取りがもどかしいのかもしれない。
けれど、それにしては妙に張りつめているような、何かを熟考しながらいるような、そんな印象を受けた。
(……もしかして)
ふと、ファイは昨夜見たテレビ番組を思い出した。
ようやくの思いで生まれた息子。
父親は、いつかキャッチボールがしたいと、そう遠くない未来を幸せそうに語っていた……。
途端に、ファイは胸が締めつけられるのを感じた。
黒鋼もまた、そんな未来を夢見ているのだろうかと。
そうだとすれば、ファイにはその夢を叶えてやれる力はない。
ファイも黒鋼も同性で、どんなに愛し合ったとしてもそこには何も生まれない。
本当は考えたくもないけれど、もし……もし黒鋼が自分以外の誰かを、可愛いお嫁さんを見つけて、いつか子供が授かって、その子供が少しずつ大きくなったら、あんな風に公園やマイホームの庭なんかでキャッチボールをするのだろう。
子供は男の子なら父親に瓜二つの可愛いヤンチャ坊主で、黒鋼は厳しいけれど強くてかっこよくて、優しいパパになる。
(どうしよう……やだな……。ちょっと泣きそう……)
たった今まではちょっとしたデート気分を味わって、ほのぼのとした光景を見ながら幸せな気分だったのに。
いつだってのんびりお気楽でいたいのに、黒鋼に案外天然な部分があるのと同じように、ファイには一度ハマりこむと抜け出せないネガティブな一面があった。
途端に俯いてキャッチボール親子から目を背ける。
それでも仲のいい掛け合いは微かに聞こえてきて、ファイは唇を噛みしめた。
「どうした?」
それに気付いた黒鋼が、こちらに顔を向けた。
「腹でも減ったか?」
なんて呑気な問いかけを投げて寄こすものだから、ファイは慌てて顔を上げると笑顔を作った。
「なんでもないよー?」
「うそつけ」
即座に返された。
少し不機嫌そうに顔を顰められて、少し焦った。
「ホントのホントだよ?」
「…………」
「う……」
そのまま、怖い顔でじーっと見つめられて、思わず目を泳がせた。
どうして隠せないのだろう。黒鋼にはいつも見透かされてしまう。
そのくせ言葉で執拗に問いかけてこないぶん、こうしてじっと目で責めるように訴えてくる。
ファイは右へ左へと視線を彷徨わせたあと、温くなってしまった紅茶に口をつけた。
ちびりと少ない量を飲み込んでから、改めて黒鋼をおずおずと上目づかいで見やる。
「あのねー……」
「おう」
「黒たん先生も……やっぱりいつかは子供とか……欲しいよね……?」
「あ?」
「黒たん、きっといいパパになるんだろうなーって」
「何言ってんだおまえは?」
何、と言われても。そのまんま、思ったことを言ってみただけだった。
呆れたような顔をした黒鋼は、至極当然のことを口にした。
「俺とおまえとでどうやってガキなんざ作るんだ?」
「だ、だから聞いたのにー……」
情けない声を出したファイを相変わらず呆れ顔で見つめる黒鋼。
どうせ言っても仕方ないことで悩んでますよ……と思わず俯く。
「もういいよー……バカ……」
沈黙のあと、黒鋼の溜息が聞こえた。
そうだ、どうせくだらないことを考えている。勝手に想像して、勝手に落ち込んでしまっただけだ。
仮にここで黒鋼が肯定していたとして、さらに落ち込むだけでどうせファイは黒鋼から離れられない。
今までもこれからも、オジサンになっておじいちゃんになって、そして死ぬまでずっと離れられない。
いっそ死んでからも一緒にいたい……。
我ながら重たすぎると自分に呆れかえるほどだった。
「いらねぇよ。ガキなんざ」
「え……?」
地の底まで落ちこまん勢いだったファイは、思わず勢いよく顔を上げた。
「どどど、どうして?」
「そんなもん……」
目をキラキラとさせて続きを待つファイに、黒鋼は思いっきり眉間に皺を寄せて人相をさらに悪くしながら言った。
「てめぇみてぇなのがもう一人増えるかと思ったらぞっとするぜ……」
「んなー!?」
スパーンと何か見えない力に後頭部をぶたれたかのように、ファイはズコーッと前のめりになった。
ここは優しく微笑んで「バカだな……俺はおまえというこの混沌とした地上に咲き誇る一輪の花が側にいれば……他には何もいらないぜ……」と甘く囁く場面ではないのか。
と、思ったがいつものようにそれを口にすればやっぱりゲンコツフラグなので口を噤む。
ああーああー、どうせそうでしょうよ……とファイはぐすんと鼻をすすった。
悩んでいたのがバカのように感じる。
「もういいよー! オレ帰る!」
勢いよく立ちあがって、まだベンチに腰掛けている黒鋼に背を向けると先にズンズンと大股で歩き出した。
人の気も知らないで。こうなったら置いてきぼりにしてやる。
すっかり臍を曲げてしまったファイに、取り残されながら「やれやれ」と頭を掻く黒鋼。
「ったく……アホだなあいつは……」
ファイの悩みなどちゃっかりお見通しだった黒鋼の呟きは、もちろんファイの耳に届くことはなかった。
ちなみに。
別に親子のキャッチボールを見つめていたわけではなく、ただぼんやりと一点を見つめていただけの黒鋼は頭の中で、
(たこ焼きが食いてぇな……)
と考えていただけだったそうな……。
+++
「ママ! ママってばー!」
(……もう……なぁに~?)
「かあちゃん、おきて、かあちゃん」
(子供~? なんで子供の声が……)
甲高い子供の声がすぐ側でして、そして何かぷにぷにとした柔らかいものに頬をぺチぺチと叩かれる感触にファイは目を覚ました。
ぼんやりと視線の先に意識を向ければ、木の年輪が緩やかに波を描く天井が見える。
幾度か瞬きを繰り返していると、視界の隅からひょっこりと二つの頭が顔を出した。
「ママったら……いくら日曜日だからって寝すぎだよ」
「……へ」
一瞬にしてまだぼやけている思考が固まった。フリーズ状態である。
ファイは仰向けで横たわったまま石のように硬い首をギギギ……と動かして二人の子供たちを見やった。
まず一人目。
ペタンと女の子のように畳みの上に座り込んで、こちらを困った顔で見つめながら小首を傾げている子供。
金色の髪に青い目。白い肌。少し垂れた目元と薄い唇。
それはどこかで見たことのある顔だった。
「……君……名前は……?」
掠れる声で恐る恐る訪ねてみる。
子供は「はぁ?」と大きく口を開けた。
「ママ! まだ寝ぼけてる! ボクのこと忘れたの?」
「ボ……ボク……?」
「ユゥイだよ!」
……?
「…………あー、なるほど」
見覚えがあるのはそのはず。目の前の子供は自分自身にそっくりなのだ。
そこでファイはようやく合点がついた。
(これ、夢だ……)
それにしても妙な夢である。
ファイはユゥイと名乗る小さな子供をさらにじっくりと眺めた。
歳の頃は10歳前後といったところか。
水色に赤い小さなハートが水玉模様のように散りばめられたパーカーに、可愛らしいデニムのミニスカートを穿いている。
そしてふと、そこまで認識してファイはまたフリーズしかけた。
スカート……?
スカートというのは……あのスカートで、このスカート……?
「スカートぉ!?」
大きな声を発しながらガバッと起き上ったファイに、チビッ子二人がビクリと跳ねた。
「な、なぁにママ……スカートがどうかしたの?」
「す、す、すか……ゆ、ユゥイ……え、ど、どうして、え?」
たどたどしく口走りながら、ファイは震える手をそっと彼……いや、彼女? の太股辺りに伸ばした。
そして、恐る恐る裾を摘むと、ひょいっとまくってみた。
そこには白いリボンのついた、水色のしましまパンツが……。
「きゃあ……!」
「!?」
きゃあ……だと……?
慌てて両手でスカートの裾を押さえつける可憐な少女は、真っ赤な頬で怒った表情を浮かべ、泣きそうな顔で睨みつけて来た。
これは確かに大問題である。
いい歳をした大人の男が、事もあろうか唐突に幼女のスカートをめくり上げたということになるのだから。
一瞬で犯罪の香りが漂う事態にファイは真っ青になった。
「あ、あ、ご、ごめ……け、決してそんな趣味は……」
わなわなとしながら震えるファイに、幼女……ユゥイはまた小首を傾げた。
「変なママ。ボクのお洋服は全部ママが選んでくれたんじゃない」
「え……へ……へぇ……ああ、そうか……そう、だね……」
混乱のゲージが振りきれた状態のファイは適当に話を合わせてしまった。
そういえばさっきから当たり前のように『ママ』などと呼ばれている気がするのだが、気のせいだろうか。そうだ。きっと気のせいだ。
少し落ち着こう……という意味も含めてファイは一つ咳払いをした。
それから、ファイとユゥイのやりとりをぽーっと指を銜えて見ているもう一人の子供に目を向ける。
そして次の瞬間、ファイはカッと目を見開いた。
「――ッ!?!?」
二人目の子供。
歳の頃はおそらくまだ4~5歳程度か。
真っ黒のジャージを着て、真っ黒の短髪をツンツンにさせて、少し吊り上がった赤い目にキリっとした眉。
まだ眉間に皺は刻まれていないが、明らかに見たことがあるその子供は……。
「く……く……黒たぁん!?」
全身にビビビ、と鳥肌が立った。
小さな身体で両足を真っすぐ投げ出すように座って、チビ黒鋼が「ぽわ~」っと不思議そうな眼でファイを見上げてくる。
その頬はふっくらとしていて、少し赤みもさしていた。
ファイがよく知る鋭く精悍でヤクザのような雰囲気はまったくなく、どこかぼんやりとした癒しオーラを纏っていた。
「な……な……な……」
なにこれかわいい……!!!
「ひぎゃーーっ!!」
ファイはもしここに黒鋼(大)がいれば、どっから声出してんだ、という突っ込みが確実に入るであろう奇声を発すると、黒鋼(小)を思いっきり抱きしめた。
そのままグリグリと光速で頬ずりをする。
「いやーっ! なにこれいやーっ! かわいいかわいいかわいいぐぁんわいぃ~~~っ!!」
思った通り高い体温、ぷにっぷにの頬、ファイの腕の中にすっぽりと収まるミニサイズ。
小宇宙を大爆発させたファイは「すはーすはー」と匂いまで嗅ぎ出す。
「ハァー……ハァー……ハァー……」 ※彼は右側ポジの人です。
「……かあちゃん……くるちい……」
「……へんたい」
その様子を死んだような覇気のない目で見ていたユゥイが冷やかな呟きを零す。
「ああっ! ご、ごめんねごめんね? だってチビ黒たん可愛すぎるんだもんママうっかり危険なリビドーを迸らせるところだったよぉ」
一度身体を離すと、小さな身体の両脇に手を差し入れてひょいっと持ち上げ、膝の上に向かい合うようにして乗せた。
軽い。軽すぎる。そしてやっぱり体温が高い。可愛い。
そして何気にこの自分が母であるということを一瞬にして受け入れはじめたファイ。
「それ、とうちゃんのなまえ。おれ、ちがう」
「へ?」
「そうだよ! 黒たんはパパの名前でしょママ」
「おれ、はがねまる」
「え? え? パパ? はがねまる?」
これは黒鋼ではない……。そして黒鋼がパパ……?
考えてみればファイにそっくりな子供と黒鋼にそっくりな子供が、こちらを母と呼ぶのだから、誰との子供かは考えるまでもなく……。
「おい。さっきからぎゃーぎゃーうるせぇぞ。近所迷惑考えろ」
そのときである。
襖を開けて、チビ黒……いや、はがねまると全く同じデザインの黒ジャージを着た黒鋼が姿を現した。
「あ、パパー!」
ユゥイがミニスカートを翻しながら立ち上がると、黒鋼に正面からタックルして抱きついた。
黒鋼はそれを軽く受け止めてやりながらも側までやってくる。
「ったく……また鋼丸ばっか猫可愛がりしてんのかてめぇは」
「え……ま、また……って……? えーと……黒様先生……だよねぇ?」
「なんだよ先生ってのは」
「???」
先生……という単語を否定した黒鋼は、「まだ寝ぼけてんのか」と呆れた溜息を零す。
「えっと……えっと、つまり、要するに……」
この小さな子供達はファイを母と呼び、そして黒鋼を父と呼ぶ。
おそらくこの世界は夢の中であるから、自分と黒鋼は夫婦ということになって……。
「す、すみません……聞いてもいいかな」
黒鋼はファイの膝の上からよちよちと抜け出してやってきた鋼丸と、腰に抱きついていたユゥイを、それぞれひょいと抱き上げた。
「なんだよ」
「……その子たちって……やっぱりその……オレと……その、君の……」
「? おまえ……寝ぼけてるにしたって妙だぞ。こいつらは俺とてめぇの子供だろうが」
子供達は背が高く逞しい父親に抱っこされて、近くなった天井との距離にキャッキャとはしゃいでいる。
「てめぇが腹痛めて生んだガキのこと忘れてんじゃねぇぞ」
さぁ飯だ飯、と言いながら二人の子供を抱いたまま、黒鋼は背を向けると襖の向こうの廊下へと消えてしまった。
ぽつん……と残されたファイはぽかーんと口を開けたまましばらくの間身動きができないでいた。
そして、「ピン!」と何かが閃いた。
バッと自分の胸に触る。
「……ぺしゃんこ」
ガッと自分の股間に触る。
「……ついて……る」
ユゥイが女体化してるならあるいは自分も……と思ったのだが、アテが外れた。
「どうやって産んだの……オレ……」
夢の中は……ハチャメチャである。
*
夢と分かっていても、やはり飲み込むのに少し時間がかかった。
いっそこのまま適当に待っていれば、現実世界の自分が目を覚まして起きだすだろう……とは思ったが、どうやらまだその兆しはない。
ファイは仕方なく布団から立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回しながら部屋から出てみた。
ひやりと冷たい廊下に出ると、正面にも襖。右側を見ると玄関へ続いている。
木製の棚の上にある電話はレトロ感たっぷりの黒電話だった。
左を見ると廊下が続いていて、その向こうから子供達の楽しそうな声が微かに聞こえた。
それに引き寄せられるように進んで行くと、突き当りの襖へ手を伸ばす。
するりと開ければ、そこはどうやら茶の間のようだった。
丸い木製のちゃぶ台、これまた年代を感じさせるスイッチを捻るタイプのアナログテレビ。
なぜだろう。全体的に、この家の中はどこかで見たことがあるような気がするのだが……。
「ママー。台所すごいことになってるよ?」
すでに席についているユゥイが、隣にいる鋼丸とあっちむいてホイをして遊んでいた。
「だ、台所……?」
戸惑いつつも視線を走らせると、台所は茶の間のすぐ隣にあるらしい。
なぜかコソ泥のように抜き足差し足で子供達の後ろを通り抜け、ファイは台所に足を踏み入れた。
するとそこはまさに地獄と呼ぶにふさわしい光景が繰り広げられていた……。
「な、なにこれー!?」
流しスペースやコンロ付近など、ここにユゥイ(大)がいたら頭から角を生やすであろう酷い汚れっぷりだった。
ちなみにどうもこの台所も見たことがあるような気がした。
そしてそこに似合わないピンクのふりふりエプロンを装着(黒鋼がつけると妙にエプロンが小さく見える)した黒鋼が、むっと顔を顰めながらフライパンとフライ返しをそれぞれ両手に持って佇んでいた。
「うっせぇな……慣れねぇんだから仕方ねぇだろ」
「もしかして黒たんお料理してたの……?」
「悪ぃか」
「わ、悪くは……ないんだけど……」
銀製のボールも何かクリーム色のドロドロしたものが溢れて汚らしくなっているし、そのドロドロは至る所に飛び散っていた。
「な、何作ってたの……?」
「ホットケーキ」
「ホッ!?」
黒鋼とホットケーキ……この似合わなさは人知を超えるような気がした。
だがすぐに「ガキどものリクエストだ」という返答が返って来て納得する。
それにしてもホットケーキを作るのにここまで酷い状態にするというのも……いや、ファイも人のことは言えない。
だが人のやらかすことというのは客観的に見られるもので、この有様を見ていると普段の現実世界でいかに自分が迷惑をかけてきたかを痛感させられる思いだった。
「悪かったな……」
現実世界の自分に対して打ちひしがれていたファイだったのだが、それを見て黒鋼は珍しく少しヘコんでいる。
その様子にハッとして、ファイは慌てて首を振った。
「い、いいよー! 誰にでも不得意なことはあるし、オレだって……」
とは思ったが、どうやらこの世界の黒鋼は現実世界に比べると少し……いや、かなり不器用なのではないかと感じてしまう。
ファイのよく知る黒鋼といえば案外几帳面で、もちろんユゥイほどではないがこのくらいなら手際よくこなしてしまうように思う。
「せっかくの日曜だったからな……少しはてめぇを休ませてやりたかったんだが……」
「……へ」
「これじゃあ仕事を増やしただけだな……」
汚れきった台所を見渡す黒鋼の横顔をまじまじと見る。
そうか……きっとこの黒鋼は休日を利用して家族サービスをしてくれたのだ。
じーん……と胸に込み上げてくるものがある。
「黒様……うぅんアナタ……!」
溢れ出る愛しさに身を任せてその胸に飛び込もうと両手を広げた瞬間だった。
バーンと勝手口が開いた。
「ちわー! 三河屋でーす!!」
「!?」
瞬間、我が目を疑う。
黄色のケースを両手に抱えて登場したのは……。
「さ、さ、さ…………サ●ちゃーーーん!?」
主に日曜の夜によく見かける青年は、『三河屋の●ブちゃん』その人だった……。
この場においてあきらかに彼だけ顔の作りや容姿が単純である。
そこでファイはこの空間についてようやく思い出すことができた。
どこか見覚えがあるような間取り、電化製品や家具などなど。
そうここは、あの有名な磯●家そのものではないか……!
「すすす、凄い……! 本物!?」
いや、夢の中なのだから本物も糞もない上にそもそも架空の人物なのだが、まさかの有名人登場にファイは光の速さで近づくと右手を差し出した。
「ファン……ってわけではないけど握手してくださいー!」
熱狂的な勢いにサ●ちゃんは「はぁ?」と目を丸く……いや、もともと丸いというか黒い点のような目なのだが、とにかくそれを気持ち丸くした。そして黒鋼を見やる。
「奥さんどうしたんですか?」
「いや……こいつはちょっと寝ぼけてるだけだ。いつも悪いな」
「まいどー! ケースここに置いときまーす!」
●ブちゃんはファイに若干の戸惑いを見せたものの、ビール瓶の詰まった黄色のケースを置くと爽やかに去って行った。
+++
ファイはホットケーキを焼きながらこれまでのことを改めて整理することにした。
周辺では黒鋼がせっせと自分が汚しきってしまった部分を雑巾でゴシゴシしている。
(これはオレの夢の中。んで、オレと黒たん先生は……その、夫婦……)
そこまで考えて、ふとファイは自分の左手の薬指に指輪がはまっていることに気がついた。
「!?」
ぎょっとする。今まで気がつかなかったのか、それとも状況をまとめる中で突如として出現したのか。
そして隣でゴシゴシ作業をしている黒鋼の左手にも……同じものがはまっていることを確かめると今更のようにボンッと顔を赤らめる。
ジタバタしてキャッキャとはしゃぎたいのを堪えて、さらに整理する。
(どこをどうして産んだかは考えないとして、二人の子供がいて、それはオレにそっくりな子と黒様にそっくりな子……。そんでもってこの家は磯●さんちの間取り、サブちゃんも出てくる)
もしかして隣のお宅にはいさ●か先生がいたりするのだろうか……み、見たい……と思ったところで、ふいに焦げた臭いがした。
「おい、焦げてんぞ?」
「あっ!? ああ~! やっちゃったー……」
慌ててすぐ横に置いてあった皿へと移したが、時すでに遅し。表側は上手く焼けたのに、裏側は真っ黒になっていた。
しょんぼりするファイの側に黒鋼が寄り添って、焦げたホットケーキを見て言った。
「珍しいな。おまえが失敗するなんて」
「……え?」
珍しい、とはどういうことだろう。
いっそホットケーキをスムーズに引っくり返せたことさえ奇跡に等しいというのに。
ファイは目をパチクリとさせる。
「オレ、いっつもこんなだよ……? むしろこれは大成功の部類かも……」
「なに言ってんだ」
黒鋼はふっと小さく口元を緩ませると、ファイの腰を抱き寄せた。
「え、わ、わ……」
あの……それ雑巾持ってた手……と思わなくもなかったが、胸のドキドキがそれを凌いだ。
「おまえはいつもよくやってる。謙遜する必要はねぇよ」
「で、で、でも……お、オレ、いつも失敗ばっかで……」
「失敗? おまえが?」
黒鋼は少し目を丸くした。その不思議そうな反応に違和感を覚える。
彼は世辞など言える人間ではないし、そもそも側にいながらファイに料理など、絶対にさせてくれない。
(あ、そっか……これって夢だから……)
「おまえがしっかりしてるから、俺は安心してこの家やガキ共を任せていられるんじゃねぇか。もっと自信を持て」
「く、黒様……!」
思わずジンとして、涙が出そうになった。
どうやら夢の中で自分はよき妻であり、家事や料理、子育てに至るまで万能であるという設定らしい。
ぎゅっと抱きつこうとして、けれどそれは甲高い声に遮られた。
「あー! パパとママまたイチャイチャしてる! ズルイ! ボクもー!」
どうやら腹の虫が限界に達したらしいユゥイが、鋼丸の手を引いて台所にやってきた。
ぶぅっと口を尖らせて黒鋼とファイの間に飛び込んできた。
「うるせぇぞこら。もうちょっと待ってろ」
口では咎めるようなことを言いながら、黒鋼の目は優しい。飛び込んできたユゥイの頭をグリグリと撫でている。
ファイは胸に温かなものが込み上げてくるのを感じた。
黒鋼は、きっといいパパになる。その予想が今、目の前で的中している。
「はらへった……」
どこかぽわっとした鋼丸が、ファイの指をきゅっと掴んだ。
それに気付いて目線を落として笑いながら、ファイは決心する。
(それならオレも、いいママにならなくちゃ!)
ようやくこの状況に幸せを感じるだけの余裕が出て来た瞬間だった。
+++
そこで場面は一転した。
それに気がついたのは、台所が嘘のようにピカピカな状態になっていることと、側にいたはずの黒鋼や子供達の姿が忽然と消えていたからだった。
「あれ? あれ?」
辺りを見回し、それから視線を落とす。
そこにはたった今詰めたばかりのお弁当箱が二つ、並べられていた。
卵焼きやからあげ、ポテトサラダなどがみっしり詰まった大きな弁当箱、トマトやらハムやらミニハンバーグやらでキャラデコされた小さな弁当箱。
そしてファイの右手には菜箸が握られていた。
「こ、これ……オレが作ったの……?」
その見事な出来栄えに瞬きも忘れて見入る。
するとそこにかっちりとスーツを着込んだ黒鋼が顔を出した。
「おい、行くぞ」
「へ!? え!? あ、はい!」
ファイは瞬間的に弁当の蓋をし、ハンカチで包むとそれを手に廊下へと消えて行った黒鋼を追いかける。
「ま、待って! お弁当!」
「おう」
玄関で靴をはいていた黒鋼が顔を上げ、それを受け取った。
そこでファイは改めてスーツ姿の黒鋼を見つめる。
(か、かっこよすぎる……)
普段はジャージ姿がほとんどで、こんなかっちりした姿を見ることは滅多にない。
黒のストライプスーツに身を包む彼はどこに出しても恥ずかしくない、どこからどう見ても立派なヤクz……いや、出来る男風のサラリーマンだった。
その見慣れない姿に胸がキュンキュンのムラムラ状態で、頬に血が上る。
黒鋼が「先生」という言葉を否定したこととこの様子から察するに、どうやら夢の中の黒鋼は教師ではなく、どこぞの企業に勤めるサラリーマンという設定らしい。
同僚に穴●君がいたり……するのだろうか……。
「行ってくる」
真っ赤になってときめいているファイに黒鋼が何気なく手を伸ばした。項の辺りに添えられた手に引き寄せられて、頬に一瞬だけ何かが押し当てられた。
「!?」
それが何だったのか、フリーズしてしまったファイが気付いたときには玄関の引き戸が閉められていた。
へなへなと足元から崩れ落ちる。ペタリと座り込んで、ファイは熱くなっている頬に指先で触れる。
「ご……ご武運を~……」
この世界……凄すぎる……。
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週末、雨の夜。
繁華街の一角にあるゲームセンターは人もまばらで、閑散としていた。
(あんま人いないなぁ……雨だからかな?)
白衣の代わりに黒のトレンチコートを纏ったファイは、肌寒さからポケットに両手を突っ込むと肩をすくめる。
キョロキョロと辺りを見回しつつ店内を歩くと、レースゲームに夢中になる若いサラリーマン風の男や、UFOキャッチャーではしゃいでいるカップルがちらほらと見てとれるが、他に客の姿は見えなかった。
ゲーム機が奏でるBGMや効果音だけがやたらと騒々しい中、一見賑やかに見えて閑散としている店内は、妙に虚しさをそそる。
見知った顔もなければ、ましてや彼らの中に教え子たちの姿はない。ファイは少しほっとして息をついた。
(仕事じゃなければ遊んで帰ってもいいんだけどなー。あ、あのぬいぐるみ可愛い……)
ついつい景品に目が行きそうになりつつ、自分の立場と出がけに体育教師から言われた言葉を思い出して、我慢する。
(早く帰って来いって言われてるんだった)
可愛いぬいぐるみよりも、厳つい恋人の方が優先なのは当り前のことだった。
ここは確か二階も同様にゲームセンターになっているはずだ。そこさえ覗けばあとは帰れる。
組んでいたはずの補導員とはなぜかはぐれてしまったが、どうせこの近辺にしかいないのだし、念のためにと交換し合った携帯番号にかければ連絡もすぐつくだろう。
とっとと終わらせるかと、ファイは幾つも並ぶプリクラの機械の裏側にある通路へと足を向けた。
そもそもなぜファイがこんな場所へ、わざわざ出向いているかというと。
この学園都市内にある繁華街で夜、大学の院生数人が酒を飲んで口論となり、騒ぎを起こしたという話が職員会議で持ち出された。
現場に居合わせた人間から、高等部の生徒と思しき者も複数見かけた、という証言があったものの、特定は難しく、ホームルームでの厳重注意を徹底すること、夜は補導員と共に、当面は繁華街の見回りを行うということになった。
せっかくの週末ではあるが、割り当てられたものは仕方が無いと腹を括って来てみたものの、何事もなく終われそうで安堵する。
だが薄暗い階段通路へ足を踏み入れ、二階へ上がろうと一段目に足をかけたとき、前方の踊り場に何者かがいることに気がついた。
2Fという表示の下、壁と向き合って男が立っている。ベージュのよれたコートを着たその男はファイの存在に気が付き、ふと首だけ振り返ったが、すぐにまた壁を向いた。
(……なにしてんだろ。壁がお友達? 怪しいなぁ)
薄明かりの下、このような人気のない場所で、しかも壁と仲良しなんて、はっきり言って気味が悪い。
いきなりナイフでも取り出してこられたらどうしようか、なんて物騒な想像が頭の中にぽっかりと浮かぶ。
少々肉付きのいい後ろ姿は丸まっていて、こころなしかもぞもぞと揺れている気がした。
明らかに不審者丸出し。念のため通報するべき物件かもしれないが……。
(春先は変なのがわくんだよねぇ……)
嫌な予感をひしひしと感じつつ階段を上り、狭い踊り場まで到着した、そのときだった。
男が今度は身体ごと、急に振り返った。
「!」
うっかりビクンと肩を震わせ、足を止めてしまったのが不味かったのかもしれない。
ファイよりも幾分か背の低い小太りな男は、コートの前を両手で厳重に抑えて、どこかギラついた目でファイをじっと見上げて来た。
黒い、というよりはただ単に不潔さを漂わせる荒れた肌。髭の剃り残しが、まるで汚れのように付着しているように見えた。
咄嗟に身構えてしまったファイだったが、その手にナイフがないことにひとまずほっとする。
とはいえ、もしかしたらコートの中に隠し持っているかもしれない。当然、気を抜くことはできなかった。
男はファイを値踏みするかのようにねっとりと見つめながら、何かブツブツとしきりに呟いていた。この距離であってもよくは聞き取れない。
どう見ても気色が悪く、関わり合いになるべきでないことは明白だった。
とりあえずここは無視して階段を駆け上がろうと身じろいだとき、聞き取れなかった男の声がはっきりと聞こえた。
「いいか……可愛いし……」
男は確かにそう言った。
なんのこと? と思った瞬間、男はしっかりと両手を交差させるようにして合わせていたコートを、勢いよく左右に開いた。
「!?」
一瞬、頭が真っ白になった。
これは何かの見間違いだろうか。
凍りついたファイの視線の先には、どういうわけか本来こういった公共の場で開いていてはいけない窓を全開にして、これ見よがしに己の性器を曝している男がいる。
その無駄に天を仰ぐイチモツを見て、ファイは即座に思った。
どうしろと……?
――と。
半ば呆れた心境で股間から男の顔へ視線を移すと、彼はニヤニヤと笑ってこちらの反応を伺っている。
(うわぁ……こういう変質者ってまだいるんだー)
いきなり女性の前に現れてコートを開き、局部を露出させるという正に王道パターン。
近年の変質者事情というものは知らないが、いっそ悲しいほどベタに思えて、ファイは肩透かしを食らったような気分だった。
ナイフが出てくるよりはずっとマシかもしれないが、ある意味、凶器と言えなくもない。
(キャーとかイヤーって言って逃げ出したら満足なのかな)
それにしたって自分はか弱い女性ではない。
確かに上背だけ高く、必要最低限の筋肉しかついてくれない身体は、あの体育教師に言わせれば『軟弱』そのもので、舐めてかかられても仕方が無いかもしれないが。
もしかしてもしかしなくても、目ぼしい女性が通りかからないものだから、運悪くターゲットにされてしまったのだろうか。
(まぁオレが可愛いのは認めるけどー)
「あのー……風邪引きますよー? 主に局部が」
「!」
凍りついた表情に気をよくしていたはずの男の口元が、ピリリと引き攣る。
今や生温かい笑顔を浮かべるファイに、それでも負けじと屹立した性器を揺らして、一歩前へ踏み出してきた。
こう言ってはなんだが、精一杯の主張をしているらしい性器は、ファイにしてみればお粗末なものでしかなかった。
いっそ哀れにさえ思えてきて、ファイは極力優しい声で言った。
「ごめんね、オレもっと立派なのしょっちゅう見てるんだー。可哀想だから早くしまってもらえるかなぁ」
あははと笑って頭を掻くと、男はみるみるうちに顔を赤くして、額に汗の粒を浮き上がらせた。
そして、鼻息を荒くしつつ、また口の中でブツブツと呟きながら、一目散に階段を駆け下りて行ってしまった。
残されたファイは大きな溜息をついて肩を落とす。やはりとっ捕まえて警察にでも差し出すべきだったか、と思ったがもう遅い。
おそらく元々の体臭と汗と、あと何か嫌な残り香が鼻先を掠めたような気がして、顔を顰める。
なんて無駄な時間を浪費してしまったのだろう。そういったことが相まって、今更のように少し腹が立ってくる。
「もう! バカみたい!」
一刻も早く二階を見回って、一応不審者の報告だけはして宿舎へ帰ろう。
なんとなくまだあの不愉快な視線が体中に纏わりついているように感じられて、背筋を震わせると階段を素早く駆けあがった。
+++
「って、いうことがあってねー、オレすっごい怖かったのー」
自室へ帰宅する、と見せかけて、ファイは真っ先に隣室の黒鋼の元へと駆けこんでいた。
コートも脱がずにほんのりと肌寒い夜気を纏わせて、ベッドの上で胡坐をかいてマガニャンを読んでいる黒鋼に、ぎゅうと抱きつく。
とりあえず一気に捲し立てるように先刻の出来事を話きってしまうと、期待に満ちた瞳で黒鋼を見上げる。
本から目を離さないまま一連の話を聞いていた彼は、そんなあからさまな表情をするファイを鼻で笑った。
「モノ好きもいるもんだ」
「ちょぉー……話聞いてたー? オレすっごい怖くてー、今も震えが止まらないんだけどー! ここは普通、物凄い剣幕で変態への怒りを露わにする場面じゃないー? あるいはさ、何もされてないか確かめるために大人のボディチェックを開始する場面だと思うんだけどー!」
「そんだけアホみてぇに喋ってられんなら平気だろ」
「んもー! 違う! オレが期待してた反応とぜんっぜん違うー!!」
「うるせぇな今いいことだ」
「マンガ優先ー!?」
不愉快極まりない事件ではあったが、これをネタに今夜は思いっきり黒鋼に甘えて慰めてもらう算段をつけていたというのに。
まったくもってアテが外れてしまった。
(もうちょっと脚色すればよかったかなぁ……いっそ襲われて酷いことされちゃったー、とか……?)
だがあのニヤニヤとした顔や、何かを呟き続ける乾いた口元を思い出して、即座にゾッとした。
「おい、どうした」
がっしりとした腕にしがみついたまま、ブルリと大きく震えたファイの少し青くなった顔を、黒鋼が覗きこんでくる。
「んー? 別にー?」
慌てて笑顔を繕う。一瞬でもそんなふざけたことを考えてしまった自分が嫌になった。
冗談じゃない。脚色するにしたって性質が悪すぎる。
だいたいまるで消去法のようにターゲットにされたことも腹立たしいが、あんな形でしか欲求を満たせない人間は、最低で最悪だ。
見るのも嫌なのに、触れられて、ましてや暴行されるなんて、想像するだけで吐き気がする。
「さーて、シャワーでも浴びて来ようかなー」
とりあえず熱い湯でも浴びて、綺麗さっぱり洗い流してしまおう。
大人しくベッドを下りたファイに、黒鋼が鋭い視線で問いかける。
「飯は」
「んーん。いいや」
「……おまえ、一応は聞いといてやるがな」
「ん?」
「それ以上のことは何もなかったんだな?」
「!」
思わずビクンと肩を揺らしながら、ファイは顔が真っ赤になるのを感じた。
一応、というのは不要だが、それこそ一応は、気にしてくれているらしい。
途端に気恥しくなって、ファイは両手の人差し指を胸の前でぐりぐりと擦り合わせた。
「な、ないよぅ。あるわけないじゃん。オレ、黒様以外は絶対やだもん」
「そうか」
無表情のまま、黒鋼は再び手元のマンガ本に視線を落とした。
「とっとと浴びて来い」
まるで興味なさげな台詞に聞こえるけれど、その響きはむしろこの後の展開がさも当然と言っているようで、胸が浮き立つのを感じる。
はぁい、と返事をしてクルリとベッドに背を向けたファイの中から、あの薄ら寒い不快感は消えていた。
+++
勝手に黒鋼の部屋のシャワーを浴びて、勝手に引っ張り出したシャツとジャージの下を身につけて戻れば、彼はキッチンで缶ビールに口をつけているところだった。
サイズが大きく、だぼつく裾を微妙に引きずりながら側まで行くと、黒鋼は片眉をひょいと上げた。
それに少し笑ってから、ファイは冷蔵庫に手を伸ばす。これまた勝手にミネラルウォーターを取りだして、喉を潤すためだった。
だが、ファイの手が冷蔵庫のドアにかかるより先に、その手を掴まれる。
反応する間もなく強く引き寄せられて、あっという間に腰を抱かれた。
「くろさ……っ」
ま、と言い終わらぬうちに顎をすくわれて、上向かされたファイの唇が塞がれる。
心臓が大きく跳ねるのと同時に、口の中に液体が流し込まれた。
「んんっ……!?」
炭酸の微かな刺激と共に、吐き出すことを許さないとでもいうように押し込まれた冷たい舌に、口蓋をぬるりと舐められて肩が大きく震える。
流しこまれたアルコールが喉の奥を通過していくのを感じて、その瞬間、少し咽た。
「ッ、げほっ……、い、いきなり……ッ」
「喉乾いたんだろ?」
「だからって!」
腰を抱かれたまま、顔を真っ赤にしながらがっしりとした肩に幾度か拳を叩きつける。
だからって、風呂上がりにリラックス状態のところをいきなり来られては、心臓に悪い。
黒鋼は人の悪い笑みを浮かべて鼻で笑う。
「つれねぇこと言うなよ」
「絶対わざとでしょ……こんなときばっか!」
いつだってつれないのは黒鋼の方だ。
だからこんな風に不意打ちをしかけられることに、ファイが慣れていないのを知っている。
そして何より、空っぽの胃にアルコールを流し込んでくる辺り、この男は実はとてつもなくいやらしいのかもしれない。むっつりなのだ。
「あー、もう……効いてきた……黒たんせんせぇのバカぁ」
激しい眩暈を感じて、ファイは黒鋼の肩に縋ると首筋に額を擦りつける。
口づけられた瞬間からすでに酔ったように頬が熱くて仕方がないのに、胃が入り込んできたそれを認識した瞬間、焼けるような熱さが広がる。
普段無駄にザルなだけに、こんな酔わされ方は理不尽だと感じた。
せっかくの週末の夜。時間はたっぷりあるのに、今すぐにでも欲しくなる。
ファイは片手を移動させて、黒鋼の顎から頬のラインを撫でると、耳の裏側に音を立てて口づけた。そのまま夢中で耳朶を食み、吸いつく。
「なに一人で盛ってんだよ」
子猫がミルクを舐めるような水音がくすぐったかったのか、黒鋼が微かに笑った。
からかうような意地悪な台詞にさえ鼓膜を犯されているような気がして、腰を支えるだけで動こうとしない男に苛立つ。
「さかってなんか、ないよ……」
「じゃあこの手はなんだ」
ファイの右手は黒鋼のウエスト辺りをゆるゆると移動していた。指先を侵入させて下着の中に潜り込もうとしたところで、手首を掴まれる。
「やだ、邪魔しないで」
嫌々と首を振り、強引に中へと忍ばせた。
指先が触れたそこは熱くて、ほんの僅かだが硬度が増していることに安堵する。
(これだけで……もう大きい……)
太くて長くていやらしいそれが、どんな風にすればもっと大きく育つかは熟知していた。
黒鋼の首筋に舌を這わせながらさらに身体を密着させると、触れているそれの根元に指を絡めた。
「おもちゃじゃねぇぞ」
咎めるような口調に、微かに吐息めいたものが混ざっていた。ゾクゾクする。
「知ってるよ……でもこれ、オレのだもん」
甘えた声を出しながら、ファイは指先の動きを大胆なものにしていく。
半分ほど勃起しかけている性器の亀頭を優しく撫でる。窪みをツンツンと悪戯に刺激すれば、また少し硬くなった。
「ふふ、ね? これ、もっと遊んでいい?」
「おまえのなんだろ」
見上げて問えば、好きにしろと暗に言う彼の瞳に、はっきりと情欲の色が浮かんでいる気がして嬉しくなる。
ゆっくりと腰を落として、床に膝をついた。
その過程で黒鋼のジャージの下を、下着ごと少しだけ下げる。弾力のある性器がバネのようにしなるのを見て、思わずごくりと息を飲み込んだ。
(やっぱ、凄い)
赤黒いそれを、熟れた果実を扱うような優しさで、根元から先端までそっと撫でる。
浮き上がる血管が時々小さく脈打ち、ファイはほぅと甘い息をついて目を潤ませた。
(これならいつも見ていたいのに)
両手を添えて、先端に幾つものキスの雨を降らせると、何の躊躇いもなく亀頭を口に含んだ。
ゆっくりと頭を左右に動かして軽い刺激を与えながら、その頃にはもう完全に勃ちあがっている性器を、徐々に飲み込んでいった。
黒鋼の手がファイの頭に触れる。労わるように撫でられると、くすぐったくて少し身体が跳ねた。
大きく怒張したそれを根元まで納めることは難しく、それでも一度喉の奥まで押し込めてしまうと、息苦しさを緩和したくて鼻から息を吐く。
そして舌を平にし、上手く添えるように絡めてしゃぶった。
空の胃袋に流れ込んだ僅かなアルコールよりも、今ファイを酷く酔わせているのは、口いっぱいに溢れて満ちる雄の香りだった。
(これ、好き……大好き……)
そう、あんな薄汚い、粗末なものではファイは一切反応しない。
決して同性が好きなわけではないのだ。恋をしてしまった相手が、たまたま男性だったというだけで。
「いつになくがっついてんな、おまえ」
「うん、ん、んっ」
ほんのりと水気を含む髪を幾度も梳かすように撫でられる。太い指先が頭皮を滑る感覚にさえ、身体が痺れた。
がっつきたくもなる。当たり前だと、ファイは思った。
あの変質者と遭遇したとき、もちろん多少の恐怖はあった。
だがそれ以上に、ファイの中の真っ黒な部分が、優越感を覚えていたことも確かだった。
我ながらバカバカしいとは思うけれど。
夢中でしゃぶり、扱き続けていると、黒鋼の手がファイの髪を掴んだ。口の中では、膨らみ切ったものが破裂しそうになっている。
このまま、全て飲み込んでしまいたい。先走りと唾液が顎を伝う。それでも構わずいっそう強く舌を絡め、激しく水音を立てながら顔を動かして射精を促した。
「ッ……!」
低い呻きと共に、黒鋼の腰が一度大きく揺らいだ。
どっぷりと溢れ出る精液を次々と飲み込んで、口を離してもなお手で扱き続ける。最後の一滴まで腹に納めないと気が済まず、緩く出続けるそれを舐め取った。
「おいこら、離せ」
放っておけば再びぱくりと咥え込もうとするファイを、僅かに乱れた呼吸で黒鋼の声が制した。
前髪を掴まれて遠ざけられると、思わずむっとして上目づかいに睨みつける。
「オレのって言ったー!」
「わかったからそんな顔すんな」
呆れた様子で言いながら、ジャージの袖で口元をぐいぐいと拭かれて、さらにムッとする。まだちっとも足りない。
今日はとことん可愛がってあげたい気分だったのに。
一度出しきったにも関わらず萎える様子のない性器を、唇を尖らせながら名残惜しげに撫で続けるファイの額が、黒鋼の指先にコツンと弾かれた。
「あーん」
「おまえまさか、例の変質者のブツを見て、実は興奮したんじゃねぇだろうな」
むっつりとした顔には、明らかにがっついているファイを咎める色が浮かんでいる。
思わず小さく噴き出した。
「そりゃあそうだよ。これの半分もない可哀想なの見たらさ」
懲りずに手を伸ばし、先端にキスをしながらにんまりと笑う。
「あれじゃ満足できないだろうなって、ね」
「アホ」
「だーってー! こっちの方がよっぽど衝撃的だと思わない? 見て、これ、うわー、立派だなぁ」
「もう黙れ」
「わっ」
二の腕を掴まれ、引っ張り上げられるようにして首根っこまで掴まれた。
「だったら満足させてやる」
続きはベッドの上で、ということらしい。
低い呟きに、もはや腰が砕けそうなファイは赤い顔で、期待に全身を粟立たせた。
+++
「ぅ、あ……ッ! あぁ……っ、ぅ、ん……ッ!」
人肌に蕩け切ったローションが、ファイの高く掲げた尻の谷間を伝って、内腿を滑り落ちていく。
ぐちぐちと狭い穴を2本の指で解されながら、まるで粗相をしているような感覚と必死で戦う。
ミント系のローションの爽やかな香りの中に、汗や体液のそれが混じる。
清涼感溢れるものとは対照的だからこそ、妙に興奮して、ファイは元は美しく整えられていたはずのシーツを両手で掻きむしった。
「い、あっ、ぁ、だ、め、もう、だめ……ッ、それ、やだ……っ!」
嫌々と首を振り、シーツに額を擦りつけながら涙を流す。
互いに生まれたままの姿になって始まった行為は、前戯もおざなりに性急に求めたのは自分の方だけれど、結局ここで時間をかけられては、生殺しも同然だった。
「やだ、じゃねぇだろ。欲しいならちったぁ我慢しろ」
「し、た……! もう、いっぱい、我慢したから……っ、ねぇ……ッ」
すっぽりと咥え込んでいる長く太い指が、ぐるりと内壁を擦りあげる。もうそれだけで堪らず腰を捩った。
まだ一度も達していない性器は赤く膨れ上がり、先走りがシーツにだらしなく零れ続けている。
熱く太いものに穿たれる快感をすでに知り尽くしている身体では、この程度では到底足りなかった。十分すぎるほど濡れて、解れていることを知っているくせに、黒鋼はまだファイの欲しいものを与えようとはしない。
「足りねぇなら増やすか? 指」
そんなことをわざと聞いてくるから、思わずカッとなった。
「バカ! 嫌い……!」
本当は大好きだけど。
無理に首を捻って潤んだ瞳で睨みつけても、そんな言葉の裏などお見通しの黒鋼は、意地悪そうに口元を歪めているだけだった。
(自分だって今すぐ入れたいくせに……っ)
いつもはつれないくせに、羽目を外せばすぐに拳で物を言うくせに、こんなときばかりとことん意地悪で、いやらしい。
けれどそれもまた、ファイの中にある自虐心を揺さぶる。苛められているのだと思えば思うほど、もっともっとと貪欲に熱を上げる。
だがそんな心とは裏腹に堪え性のない身体は、これ以上は待てないと呆気なく男の術中にはまっていく。
黒鋼はただ、そうやって落ちていくファイを見て笑っていた。
本当は自分の泣き濡れた喘ぎ声は好きじゃない。それがどんな風に相手の耳に届いているのか、想像も出来ない。
(でも……でももう……!)
「はっ、は、ぁ……! おね、がい……ッ」
嫌いと言ったその口で、ファイは腰を揺らしながら懇願する。
体重を支える肩が痛むのも構わずに、両手を後方へ伸ばして突きだした尻の肉を、自ら割り開いた。
「指じゃないの、入れて……ッ! 黒たんのおっきいの、ここに入れてよぉ……!」
黒鋼が、ふっと息を吐いた。
「見せつけてくれるじゃねぇか。随分と」
「は、はや、く! ね、おねが……ア……ッ!」
自らの尻に伸ばしているそれぞれの手首を掴まれた。折りたたむようにして背中で一纏めに掴まれて、そこに黒鋼の体重がかかる。
肩や胸がシーツに強く押し付けられ、ファイはその苦しさにぎゅっと目を閉じた。必死に立てている膝に力を込めれば、さらに高く尻を突き出す形になって、募る羞恥に涙が溢れる。
黒鋼は、ファイの内腿を濡らすローションをもう片方の手で撫で上げるようにして掬うと、自身の屹立した性器にまぶす様に塗りつけた。
そしてぐずぐずに溶け切って赤く染まっている中心の穴に、ぐっと押しつける。
「んんんっ……!」
全身に戦慄が走る。どんなに慣らされ、濡らされても、穿たれる瞬間の本能的な恐怖は消えない。
その分すぐに快感が上塗りされることを知っているだけに、期待もまた膨らんだ。
入って来る。肉を抉るように掻きわけて、あの恐ろしく大きなものが、中へ。
「ひっ、ん、くっ、ぁ……ッ、あ、すご、い、ぃ……ッ、ゆっく、り……っ」
「ッ、わかってる」
襞をギリギリまで伸ばされる感覚。スブスブと音を立てて、どこまでも潜り込んでくるそれに、頭の天辺まで貫かれるのではないかと思う。
ゆっくりと、時間をかけて。
奥まで、来た。そう思った。だがいつだってその考えの甘さに泣かされる。
「ヒ、ぃッ……!?」
「まだだ。知ってるだろ?」
喉を必死で反らし、瞳を見開くファイの腰が片腕に強く抱きこまれた。
拘束された腕と腰では、逃げることさえ叶わないのに、無意識に立てた膝を引きずる。それはただベッドを重く軋ませ、シーツの皺を深いものにするだけで終わった。
「うあぁ……ッ! 深いっ、駄目っ、ふかすぎる……!」
「おら、あと少しふんばれ……ッ」
「――ッ!!」
ズン、という音が聞こえた気がした。腹の中を突き破られたのではないかとさえ思う。
自分でも知らないような身体の奥深くに、黒鋼の先端が触れている。
苦しさはあるが痛みはない。文字通り、隅々まで犯されてしまったような、そんな気分だった。
口だけでは根元まで飲み込み切れなかったものを、それよりもっと狭い穴が全て飲み込んでいる。
はぁ、と、黒鋼が吐き出した熱い息が背中にかかった。
挿入だけで汗だくのファイは小刻みに震えて、はかはかと浅く呼吸を繰り返す。
「よくまぁ入るもんだ。こんなちっこいケツに」
「ひ、ぁ、まっ、て……まだ、うごかな……っ」
「俺にしてみりゃ、こっちの方が衝撃的だぜ」
「ああぁっ、んぅ……!」
ひとつ腰をズンと突き動かされ、本当に突き破る気かと思う。
だが、それでもよかった。
ファイの甘ったるい声に拒絶の色がないことを確かめて、黒鋼は徐々に動きを開始した。
どろどろの粘液が纏わりつく肉の棒が、限界まで広がった内壁をきつく擦りあげる。
突かれる度にガクガクと震える身体の中心で、張りつめた性器が同時に揺れていた。パタパタと先走りが零れ落ちる水音がやけに大きく響く。
「あぅっ、アッ、あッ! いっくっ、もう、いっちゃう……ッ!!」
先刻から目を開けていてさえバチバチと飛び散る火花が見えていた。
そういえばまだ一度も達していないのだ。いっそ挿入途中に果てなかったことは奇跡に等しい。
だがもう限界だった。ただでさえ大きな彼のものは、中で一々『いい場所』に当たる。
ファイの身体の痙攣が激しいものになったことに気がついた黒鋼の手が、中心に触れた。
「ああぁだめっ! い、く、ぅ……!!」
「駄目だ。まだ早ぇ」
「――ッ!?」
一瞬、背筋が凍るような感覚を味わった。それはすぐに爆発しそうなほどの残酷な熱として、体内に籠る。
黒鋼の指が、絶頂を迎える瞬間だったファイの性器の根元を押さえつけていた。湧きあがって来るのは大きな絶望だった。
(殺される……死んじゃう……死んじゃう……)
大粒の涙がとめどなく零れ、ファイは後ろ手に拘束されている手を必死で振り解こうと身を捩る。
「やだぁ……っ! いくっ、いくのっ、いかせてぇ……!!」
だが纏めて背中に縫いつけられている両腕が軋むように痛むだけで、前の戒めは外れない。
容赦なく再開された抽挿の激しさに、ファイはいっそ死んだ方がマシだと思った。
絶頂に最も近い場所まで中途半端に上り詰めた感覚が、その場から上がることも下がることも出来ないまま焼かれ続ける。堪え性のない身体にはあまりにも負荷が大きく、強すぎる快感はむしろ拷問に等しかった。
頬をシーツに押し付けて、ファイは虚ろに開かれた瞳から涙を零し続けた。揺さぶられる度に舌を噛みそうになる。
「ぶっ壊れちまったか? あ? 答えろよ」
「ふぇ、ぁっ、こわ、れ……ッ、へ、ぁ……っ、ぁ……ッ」
「来い」
「ッ!?」
拘束された両腕をぐいと引かれる。
ずっとシーツに突っ伏したままだった視界が開けた。
そのまま胡坐をかいた黒鋼の足の中心に尻を収め、ぴったりと背中を包みこまれる体勢になる。
「ぅあっ……!!」
それによって自分の体重が全て一点に集中することになった。
片足を腹につくほど折りたたまれて、動けないように膝裏をぐっと掴まれることで、それは一層増した。
性器への戒めはそのままに、ファイが新たな体位に慣れるのも待たず、黒鋼が腰を揺さぶった。
「ああぁ待って……っ、まっ、ぁひ、う、あぁッ!」
「まだまだ満足できねぇだろ? なぁ?」
その言葉を受けて、ファイは必死で首を左右に振った。
パタパタと頬に当たる金糸の感覚がくすぐったかったのか、黒鋼は耳元で小さく笑ったかと思うと、先刻のお返しとばかりにファイの耳朶に吸いつく。
性的な水音が鼓膜を震わせ、堪らず喉を反らして甲高い悲鳴を上げる。
中を掻きまわす肉棒が最も弱い個所を執拗に擦るから、ファイは自由になった手で性器を拘束する黒鋼の手首を強く掴んだ。
「これ離して……っ! もう無理、したから、満足したからぁ……!」
「見え透いた嘘つくんじゃねぇよ」
黒鋼がファイの身体を揺さぶる度に、ベッドが軋んで悲鳴を上げた。
密着する結合部がぐじゅぐじゅと音を立てて、彼の弾む息が肌にかかる。全身に駆け抜ける電流に、肌が鳥肌を立てる。そして。
(ぁ……)
ぶっつりと、何かが焼き切れる音が脳内に響いた気がした。
――壊れた。
内腿の痙攣が止まらない。
抱え上げられた片足の先が、攣りそうなほどぐんと伸びる。
閉じることを忘れた唇から、だらしなく唾液が零れて胸に伝った。
そうだ、まだ満足なんて出来ない。
もっともっと苛めて、焦らして、そこにある一番大きな快楽へ導いてほしい。
「っ、……、てめぇ、まだ締めつけるってのか」
黒鋼の声音から余裕が消えた。ファイは締まりのない口元に笑みを浮かべる。
「あはっ、あぁッ、もっと、もっといじめてっ、おしり、もっとしてぇ……!!」
それに応えるかのように、中で大きなものがさらに膨らんだ。激しく脈打っている。愛しい。嬉しい。全部、自分だけのものだ。
かろうじて地についている方の足で身体を支えながら、彼の動きに合わせて腰を振った。
黒鋼の手が戒めていた性器を痛いくらに擦りあげる。
「壊して……っ、こわして……ッ、いやっ、あぁっ、きもちいぃ……!」
いざとなると終わるのが微かに切ない。だが、終わらなければ先が続けられない。
「いけよ。おら、いっちまえ……ッ」
もっともっと、何度でも壊れたいから。
ファイはその拷問のような快楽を、促されるまま甘んじて受け入れる。
「ひぐっ、あっ、アッ、あぁ――ッッ!!」
我ながら、酷い声。
痛み切った喉から、よくぞこんな絶叫が飛び出すものだと、全身を引き攣らせて射精しながら、ファイは脳裏の奥底で思った。
耳元に押し付けられた黒鋼の唇から、低い呻きが吐き出される。彼の身体も大きく強張り、奥に熱いものが注がれるのを感じて戦慄いた。
止まらない。震えも、快感も、新しく生まれる欲求も。
かろうじて意識を飛ばすことなく吐精を終えたファイは、ぐったりと黒鋼の胸に背を預けて、その頬に涙に濡れた頬を擦りつけた。
射精した後は、甘えたくて仕方が無い。心地いい脱力感と、ドカドカと胸の内側から叩く心臓の音と、そして継続する断続的な痙攣を、優しく慰めてほしかった。
ファイの片足を解放した黒鋼が、両腕でぎゅうと抱きしめてくる。
その腕に両手を這わせ、さらに頬ずりをすれば唇に同じ温もりが触れた。
「ぁ、ん……は、ふ……ッ」
緩く舌を絡め合って、唾液の交換をし終えると、糸を引きながらそれは離れた。
それからしばし、うっとりと見つめ合う。
「ねぇ、このまま……」
「ん」
抜かないで、今度は前からしてと、言わずとも相手には伝わっていた。
今度は優しく、労わるように、黒鋼はゆっくりとファイの身体を返してシーツへ押し倒す。
「何べんやったら満足するんだ、おまえは」
「黒様先生こそ……あのねー、オレこれでもまだ一回しかイッてないんだからね」
中に挿れたままのものをきゅっと締めつけて、ファイはその首に両腕を回した。
驚いたことに、すでに十分な硬さを取り戻しつつあるそれに、もしかしたらこの身には少々余る代物かもしれない、なんて弱気なことを思った。
(だからって絶対に誰にもあげないけど)
「こら、なに力んでんだ」
「あ、ごめん」
「……」
掠れた声で「えへへ」と照れ笑いをするファイの顔を至近距離で見つめて、黒鋼はほんの僅かに眉間の皺を深くする。
「おまえ、まだ比べてんじゃねぇだろうな」
「ん? なにを?」
「忘れてんならいい」
「うん。ねぇ早く」
ふん、と鼻から小さく息を吐いた黒鋼の頭をぎゅっと抱いて、逞しい腰に両足を絡める。
何を言われたのかなんて本当は分かっていたけれど、いざ身体をぶつけてみれば、それがちゃんちゃら可笑しいことであることに気がついた。
(比べようないよねー。ほんとバカ)
オレも、あの変質者さんも。ね。
←戻る ・ Wavebox👏
繁華街の一角にあるゲームセンターは人もまばらで、閑散としていた。
(あんま人いないなぁ……雨だからかな?)
白衣の代わりに黒のトレンチコートを纏ったファイは、肌寒さからポケットに両手を突っ込むと肩をすくめる。
キョロキョロと辺りを見回しつつ店内を歩くと、レースゲームに夢中になる若いサラリーマン風の男や、UFOキャッチャーではしゃいでいるカップルがちらほらと見てとれるが、他に客の姿は見えなかった。
ゲーム機が奏でるBGMや効果音だけがやたらと騒々しい中、一見賑やかに見えて閑散としている店内は、妙に虚しさをそそる。
見知った顔もなければ、ましてや彼らの中に教え子たちの姿はない。ファイは少しほっとして息をついた。
(仕事じゃなければ遊んで帰ってもいいんだけどなー。あ、あのぬいぐるみ可愛い……)
ついつい景品に目が行きそうになりつつ、自分の立場と出がけに体育教師から言われた言葉を思い出して、我慢する。
(早く帰って来いって言われてるんだった)
可愛いぬいぐるみよりも、厳つい恋人の方が優先なのは当り前のことだった。
ここは確か二階も同様にゲームセンターになっているはずだ。そこさえ覗けばあとは帰れる。
組んでいたはずの補導員とはなぜかはぐれてしまったが、どうせこの近辺にしかいないのだし、念のためにと交換し合った携帯番号にかければ連絡もすぐつくだろう。
とっとと終わらせるかと、ファイは幾つも並ぶプリクラの機械の裏側にある通路へと足を向けた。
そもそもなぜファイがこんな場所へ、わざわざ出向いているかというと。
この学園都市内にある繁華街で夜、大学の院生数人が酒を飲んで口論となり、騒ぎを起こしたという話が職員会議で持ち出された。
現場に居合わせた人間から、高等部の生徒と思しき者も複数見かけた、という証言があったものの、特定は難しく、ホームルームでの厳重注意を徹底すること、夜は補導員と共に、当面は繁華街の見回りを行うということになった。
せっかくの週末ではあるが、割り当てられたものは仕方が無いと腹を括って来てみたものの、何事もなく終われそうで安堵する。
だが薄暗い階段通路へ足を踏み入れ、二階へ上がろうと一段目に足をかけたとき、前方の踊り場に何者かがいることに気がついた。
2Fという表示の下、壁と向き合って男が立っている。ベージュのよれたコートを着たその男はファイの存在に気が付き、ふと首だけ振り返ったが、すぐにまた壁を向いた。
(……なにしてんだろ。壁がお友達? 怪しいなぁ)
薄明かりの下、このような人気のない場所で、しかも壁と仲良しなんて、はっきり言って気味が悪い。
いきなりナイフでも取り出してこられたらどうしようか、なんて物騒な想像が頭の中にぽっかりと浮かぶ。
少々肉付きのいい後ろ姿は丸まっていて、こころなしかもぞもぞと揺れている気がした。
明らかに不審者丸出し。念のため通報するべき物件かもしれないが……。
(春先は変なのがわくんだよねぇ……)
嫌な予感をひしひしと感じつつ階段を上り、狭い踊り場まで到着した、そのときだった。
男が今度は身体ごと、急に振り返った。
「!」
うっかりビクンと肩を震わせ、足を止めてしまったのが不味かったのかもしれない。
ファイよりも幾分か背の低い小太りな男は、コートの前を両手で厳重に抑えて、どこかギラついた目でファイをじっと見上げて来た。
黒い、というよりはただ単に不潔さを漂わせる荒れた肌。髭の剃り残しが、まるで汚れのように付着しているように見えた。
咄嗟に身構えてしまったファイだったが、その手にナイフがないことにひとまずほっとする。
とはいえ、もしかしたらコートの中に隠し持っているかもしれない。当然、気を抜くことはできなかった。
男はファイを値踏みするかのようにねっとりと見つめながら、何かブツブツとしきりに呟いていた。この距離であってもよくは聞き取れない。
どう見ても気色が悪く、関わり合いになるべきでないことは明白だった。
とりあえずここは無視して階段を駆け上がろうと身じろいだとき、聞き取れなかった男の声がはっきりと聞こえた。
「いいか……可愛いし……」
男は確かにそう言った。
なんのこと? と思った瞬間、男はしっかりと両手を交差させるようにして合わせていたコートを、勢いよく左右に開いた。
「!?」
一瞬、頭が真っ白になった。
これは何かの見間違いだろうか。
凍りついたファイの視線の先には、どういうわけか本来こういった公共の場で開いていてはいけない窓を全開にして、これ見よがしに己の性器を曝している男がいる。
その無駄に天を仰ぐイチモツを見て、ファイは即座に思った。
どうしろと……?
――と。
半ば呆れた心境で股間から男の顔へ視線を移すと、彼はニヤニヤと笑ってこちらの反応を伺っている。
(うわぁ……こういう変質者ってまだいるんだー)
いきなり女性の前に現れてコートを開き、局部を露出させるという正に王道パターン。
近年の変質者事情というものは知らないが、いっそ悲しいほどベタに思えて、ファイは肩透かしを食らったような気分だった。
ナイフが出てくるよりはずっとマシかもしれないが、ある意味、凶器と言えなくもない。
(キャーとかイヤーって言って逃げ出したら満足なのかな)
それにしたって自分はか弱い女性ではない。
確かに上背だけ高く、必要最低限の筋肉しかついてくれない身体は、あの体育教師に言わせれば『軟弱』そのもので、舐めてかかられても仕方が無いかもしれないが。
もしかしてもしかしなくても、目ぼしい女性が通りかからないものだから、運悪くターゲットにされてしまったのだろうか。
(まぁオレが可愛いのは認めるけどー)
「あのー……風邪引きますよー? 主に局部が」
「!」
凍りついた表情に気をよくしていたはずの男の口元が、ピリリと引き攣る。
今や生温かい笑顔を浮かべるファイに、それでも負けじと屹立した性器を揺らして、一歩前へ踏み出してきた。
こう言ってはなんだが、精一杯の主張をしているらしい性器は、ファイにしてみればお粗末なものでしかなかった。
いっそ哀れにさえ思えてきて、ファイは極力優しい声で言った。
「ごめんね、オレもっと立派なのしょっちゅう見てるんだー。可哀想だから早くしまってもらえるかなぁ」
あははと笑って頭を掻くと、男はみるみるうちに顔を赤くして、額に汗の粒を浮き上がらせた。
そして、鼻息を荒くしつつ、また口の中でブツブツと呟きながら、一目散に階段を駆け下りて行ってしまった。
残されたファイは大きな溜息をついて肩を落とす。やはりとっ捕まえて警察にでも差し出すべきだったか、と思ったがもう遅い。
おそらく元々の体臭と汗と、あと何か嫌な残り香が鼻先を掠めたような気がして、顔を顰める。
なんて無駄な時間を浪費してしまったのだろう。そういったことが相まって、今更のように少し腹が立ってくる。
「もう! バカみたい!」
一刻も早く二階を見回って、一応不審者の報告だけはして宿舎へ帰ろう。
なんとなくまだあの不愉快な視線が体中に纏わりついているように感じられて、背筋を震わせると階段を素早く駆けあがった。
+++
「って、いうことがあってねー、オレすっごい怖かったのー」
自室へ帰宅する、と見せかけて、ファイは真っ先に隣室の黒鋼の元へと駆けこんでいた。
コートも脱がずにほんのりと肌寒い夜気を纏わせて、ベッドの上で胡坐をかいてマガニャンを読んでいる黒鋼に、ぎゅうと抱きつく。
とりあえず一気に捲し立てるように先刻の出来事を話きってしまうと、期待に満ちた瞳で黒鋼を見上げる。
本から目を離さないまま一連の話を聞いていた彼は、そんなあからさまな表情をするファイを鼻で笑った。
「モノ好きもいるもんだ」
「ちょぉー……話聞いてたー? オレすっごい怖くてー、今も震えが止まらないんだけどー! ここは普通、物凄い剣幕で変態への怒りを露わにする場面じゃないー? あるいはさ、何もされてないか確かめるために大人のボディチェックを開始する場面だと思うんだけどー!」
「そんだけアホみてぇに喋ってられんなら平気だろ」
「んもー! 違う! オレが期待してた反応とぜんっぜん違うー!!」
「うるせぇな今いいことだ」
「マンガ優先ー!?」
不愉快極まりない事件ではあったが、これをネタに今夜は思いっきり黒鋼に甘えて慰めてもらう算段をつけていたというのに。
まったくもってアテが外れてしまった。
(もうちょっと脚色すればよかったかなぁ……いっそ襲われて酷いことされちゃったー、とか……?)
だがあのニヤニヤとした顔や、何かを呟き続ける乾いた口元を思い出して、即座にゾッとした。
「おい、どうした」
がっしりとした腕にしがみついたまま、ブルリと大きく震えたファイの少し青くなった顔を、黒鋼が覗きこんでくる。
「んー? 別にー?」
慌てて笑顔を繕う。一瞬でもそんなふざけたことを考えてしまった自分が嫌になった。
冗談じゃない。脚色するにしたって性質が悪すぎる。
だいたいまるで消去法のようにターゲットにされたことも腹立たしいが、あんな形でしか欲求を満たせない人間は、最低で最悪だ。
見るのも嫌なのに、触れられて、ましてや暴行されるなんて、想像するだけで吐き気がする。
「さーて、シャワーでも浴びて来ようかなー」
とりあえず熱い湯でも浴びて、綺麗さっぱり洗い流してしまおう。
大人しくベッドを下りたファイに、黒鋼が鋭い視線で問いかける。
「飯は」
「んーん。いいや」
「……おまえ、一応は聞いといてやるがな」
「ん?」
「それ以上のことは何もなかったんだな?」
「!」
思わずビクンと肩を揺らしながら、ファイは顔が真っ赤になるのを感じた。
一応、というのは不要だが、それこそ一応は、気にしてくれているらしい。
途端に気恥しくなって、ファイは両手の人差し指を胸の前でぐりぐりと擦り合わせた。
「な、ないよぅ。あるわけないじゃん。オレ、黒様以外は絶対やだもん」
「そうか」
無表情のまま、黒鋼は再び手元のマンガ本に視線を落とした。
「とっとと浴びて来い」
まるで興味なさげな台詞に聞こえるけれど、その響きはむしろこの後の展開がさも当然と言っているようで、胸が浮き立つのを感じる。
はぁい、と返事をしてクルリとベッドに背を向けたファイの中から、あの薄ら寒い不快感は消えていた。
+++
勝手に黒鋼の部屋のシャワーを浴びて、勝手に引っ張り出したシャツとジャージの下を身につけて戻れば、彼はキッチンで缶ビールに口をつけているところだった。
サイズが大きく、だぼつく裾を微妙に引きずりながら側まで行くと、黒鋼は片眉をひょいと上げた。
それに少し笑ってから、ファイは冷蔵庫に手を伸ばす。これまた勝手にミネラルウォーターを取りだして、喉を潤すためだった。
だが、ファイの手が冷蔵庫のドアにかかるより先に、その手を掴まれる。
反応する間もなく強く引き寄せられて、あっという間に腰を抱かれた。
「くろさ……っ」
ま、と言い終わらぬうちに顎をすくわれて、上向かされたファイの唇が塞がれる。
心臓が大きく跳ねるのと同時に、口の中に液体が流し込まれた。
「んんっ……!?」
炭酸の微かな刺激と共に、吐き出すことを許さないとでもいうように押し込まれた冷たい舌に、口蓋をぬるりと舐められて肩が大きく震える。
流しこまれたアルコールが喉の奥を通過していくのを感じて、その瞬間、少し咽た。
「ッ、げほっ……、い、いきなり……ッ」
「喉乾いたんだろ?」
「だからって!」
腰を抱かれたまま、顔を真っ赤にしながらがっしりとした肩に幾度か拳を叩きつける。
だからって、風呂上がりにリラックス状態のところをいきなり来られては、心臓に悪い。
黒鋼は人の悪い笑みを浮かべて鼻で笑う。
「つれねぇこと言うなよ」
「絶対わざとでしょ……こんなときばっか!」
いつだってつれないのは黒鋼の方だ。
だからこんな風に不意打ちをしかけられることに、ファイが慣れていないのを知っている。
そして何より、空っぽの胃にアルコールを流し込んでくる辺り、この男は実はとてつもなくいやらしいのかもしれない。むっつりなのだ。
「あー、もう……効いてきた……黒たんせんせぇのバカぁ」
激しい眩暈を感じて、ファイは黒鋼の肩に縋ると首筋に額を擦りつける。
口づけられた瞬間からすでに酔ったように頬が熱くて仕方がないのに、胃が入り込んできたそれを認識した瞬間、焼けるような熱さが広がる。
普段無駄にザルなだけに、こんな酔わされ方は理不尽だと感じた。
せっかくの週末の夜。時間はたっぷりあるのに、今すぐにでも欲しくなる。
ファイは片手を移動させて、黒鋼の顎から頬のラインを撫でると、耳の裏側に音を立てて口づけた。そのまま夢中で耳朶を食み、吸いつく。
「なに一人で盛ってんだよ」
子猫がミルクを舐めるような水音がくすぐったかったのか、黒鋼が微かに笑った。
からかうような意地悪な台詞にさえ鼓膜を犯されているような気がして、腰を支えるだけで動こうとしない男に苛立つ。
「さかってなんか、ないよ……」
「じゃあこの手はなんだ」
ファイの右手は黒鋼のウエスト辺りをゆるゆると移動していた。指先を侵入させて下着の中に潜り込もうとしたところで、手首を掴まれる。
「やだ、邪魔しないで」
嫌々と首を振り、強引に中へと忍ばせた。
指先が触れたそこは熱くて、ほんの僅かだが硬度が増していることに安堵する。
(これだけで……もう大きい……)
太くて長くていやらしいそれが、どんな風にすればもっと大きく育つかは熟知していた。
黒鋼の首筋に舌を這わせながらさらに身体を密着させると、触れているそれの根元に指を絡めた。
「おもちゃじゃねぇぞ」
咎めるような口調に、微かに吐息めいたものが混ざっていた。ゾクゾクする。
「知ってるよ……でもこれ、オレのだもん」
甘えた声を出しながら、ファイは指先の動きを大胆なものにしていく。
半分ほど勃起しかけている性器の亀頭を優しく撫でる。窪みをツンツンと悪戯に刺激すれば、また少し硬くなった。
「ふふ、ね? これ、もっと遊んでいい?」
「おまえのなんだろ」
見上げて問えば、好きにしろと暗に言う彼の瞳に、はっきりと情欲の色が浮かんでいる気がして嬉しくなる。
ゆっくりと腰を落として、床に膝をついた。
その過程で黒鋼のジャージの下を、下着ごと少しだけ下げる。弾力のある性器がバネのようにしなるのを見て、思わずごくりと息を飲み込んだ。
(やっぱ、凄い)
赤黒いそれを、熟れた果実を扱うような優しさで、根元から先端までそっと撫でる。
浮き上がる血管が時々小さく脈打ち、ファイはほぅと甘い息をついて目を潤ませた。
(これならいつも見ていたいのに)
両手を添えて、先端に幾つものキスの雨を降らせると、何の躊躇いもなく亀頭を口に含んだ。
ゆっくりと頭を左右に動かして軽い刺激を与えながら、その頃にはもう完全に勃ちあがっている性器を、徐々に飲み込んでいった。
黒鋼の手がファイの頭に触れる。労わるように撫でられると、くすぐったくて少し身体が跳ねた。
大きく怒張したそれを根元まで納めることは難しく、それでも一度喉の奥まで押し込めてしまうと、息苦しさを緩和したくて鼻から息を吐く。
そして舌を平にし、上手く添えるように絡めてしゃぶった。
空の胃袋に流れ込んだ僅かなアルコールよりも、今ファイを酷く酔わせているのは、口いっぱいに溢れて満ちる雄の香りだった。
(これ、好き……大好き……)
そう、あんな薄汚い、粗末なものではファイは一切反応しない。
決して同性が好きなわけではないのだ。恋をしてしまった相手が、たまたま男性だったというだけで。
「いつになくがっついてんな、おまえ」
「うん、ん、んっ」
ほんのりと水気を含む髪を幾度も梳かすように撫でられる。太い指先が頭皮を滑る感覚にさえ、身体が痺れた。
がっつきたくもなる。当たり前だと、ファイは思った。
あの変質者と遭遇したとき、もちろん多少の恐怖はあった。
だがそれ以上に、ファイの中の真っ黒な部分が、優越感を覚えていたことも確かだった。
我ながらバカバカしいとは思うけれど。
夢中でしゃぶり、扱き続けていると、黒鋼の手がファイの髪を掴んだ。口の中では、膨らみ切ったものが破裂しそうになっている。
このまま、全て飲み込んでしまいたい。先走りと唾液が顎を伝う。それでも構わずいっそう強く舌を絡め、激しく水音を立てながら顔を動かして射精を促した。
「ッ……!」
低い呻きと共に、黒鋼の腰が一度大きく揺らいだ。
どっぷりと溢れ出る精液を次々と飲み込んで、口を離してもなお手で扱き続ける。最後の一滴まで腹に納めないと気が済まず、緩く出続けるそれを舐め取った。
「おいこら、離せ」
放っておけば再びぱくりと咥え込もうとするファイを、僅かに乱れた呼吸で黒鋼の声が制した。
前髪を掴まれて遠ざけられると、思わずむっとして上目づかいに睨みつける。
「オレのって言ったー!」
「わかったからそんな顔すんな」
呆れた様子で言いながら、ジャージの袖で口元をぐいぐいと拭かれて、さらにムッとする。まだちっとも足りない。
今日はとことん可愛がってあげたい気分だったのに。
一度出しきったにも関わらず萎える様子のない性器を、唇を尖らせながら名残惜しげに撫で続けるファイの額が、黒鋼の指先にコツンと弾かれた。
「あーん」
「おまえまさか、例の変質者のブツを見て、実は興奮したんじゃねぇだろうな」
むっつりとした顔には、明らかにがっついているファイを咎める色が浮かんでいる。
思わず小さく噴き出した。
「そりゃあそうだよ。これの半分もない可哀想なの見たらさ」
懲りずに手を伸ばし、先端にキスをしながらにんまりと笑う。
「あれじゃ満足できないだろうなって、ね」
「アホ」
「だーってー! こっちの方がよっぽど衝撃的だと思わない? 見て、これ、うわー、立派だなぁ」
「もう黙れ」
「わっ」
二の腕を掴まれ、引っ張り上げられるようにして首根っこまで掴まれた。
「だったら満足させてやる」
続きはベッドの上で、ということらしい。
低い呟きに、もはや腰が砕けそうなファイは赤い顔で、期待に全身を粟立たせた。
+++
「ぅ、あ……ッ! あぁ……っ、ぅ、ん……ッ!」
人肌に蕩け切ったローションが、ファイの高く掲げた尻の谷間を伝って、内腿を滑り落ちていく。
ぐちぐちと狭い穴を2本の指で解されながら、まるで粗相をしているような感覚と必死で戦う。
ミント系のローションの爽やかな香りの中に、汗や体液のそれが混じる。
清涼感溢れるものとは対照的だからこそ、妙に興奮して、ファイは元は美しく整えられていたはずのシーツを両手で掻きむしった。
「い、あっ、ぁ、だ、め、もう、だめ……ッ、それ、やだ……っ!」
嫌々と首を振り、シーツに額を擦りつけながら涙を流す。
互いに生まれたままの姿になって始まった行為は、前戯もおざなりに性急に求めたのは自分の方だけれど、結局ここで時間をかけられては、生殺しも同然だった。
「やだ、じゃねぇだろ。欲しいならちったぁ我慢しろ」
「し、た……! もう、いっぱい、我慢したから……っ、ねぇ……ッ」
すっぽりと咥え込んでいる長く太い指が、ぐるりと内壁を擦りあげる。もうそれだけで堪らず腰を捩った。
まだ一度も達していない性器は赤く膨れ上がり、先走りがシーツにだらしなく零れ続けている。
熱く太いものに穿たれる快感をすでに知り尽くしている身体では、この程度では到底足りなかった。十分すぎるほど濡れて、解れていることを知っているくせに、黒鋼はまだファイの欲しいものを与えようとはしない。
「足りねぇなら増やすか? 指」
そんなことをわざと聞いてくるから、思わずカッとなった。
「バカ! 嫌い……!」
本当は大好きだけど。
無理に首を捻って潤んだ瞳で睨みつけても、そんな言葉の裏などお見通しの黒鋼は、意地悪そうに口元を歪めているだけだった。
(自分だって今すぐ入れたいくせに……っ)
いつもはつれないくせに、羽目を外せばすぐに拳で物を言うくせに、こんなときばかりとことん意地悪で、いやらしい。
けれどそれもまた、ファイの中にある自虐心を揺さぶる。苛められているのだと思えば思うほど、もっともっとと貪欲に熱を上げる。
だがそんな心とは裏腹に堪え性のない身体は、これ以上は待てないと呆気なく男の術中にはまっていく。
黒鋼はただ、そうやって落ちていくファイを見て笑っていた。
本当は自分の泣き濡れた喘ぎ声は好きじゃない。それがどんな風に相手の耳に届いているのか、想像も出来ない。
(でも……でももう……!)
「はっ、は、ぁ……! おね、がい……ッ」
嫌いと言ったその口で、ファイは腰を揺らしながら懇願する。
体重を支える肩が痛むのも構わずに、両手を後方へ伸ばして突きだした尻の肉を、自ら割り開いた。
「指じゃないの、入れて……ッ! 黒たんのおっきいの、ここに入れてよぉ……!」
黒鋼が、ふっと息を吐いた。
「見せつけてくれるじゃねぇか。随分と」
「は、はや、く! ね、おねが……ア……ッ!」
自らの尻に伸ばしているそれぞれの手首を掴まれた。折りたたむようにして背中で一纏めに掴まれて、そこに黒鋼の体重がかかる。
肩や胸がシーツに強く押し付けられ、ファイはその苦しさにぎゅっと目を閉じた。必死に立てている膝に力を込めれば、さらに高く尻を突き出す形になって、募る羞恥に涙が溢れる。
黒鋼は、ファイの内腿を濡らすローションをもう片方の手で撫で上げるようにして掬うと、自身の屹立した性器にまぶす様に塗りつけた。
そしてぐずぐずに溶け切って赤く染まっている中心の穴に、ぐっと押しつける。
「んんんっ……!」
全身に戦慄が走る。どんなに慣らされ、濡らされても、穿たれる瞬間の本能的な恐怖は消えない。
その分すぐに快感が上塗りされることを知っているだけに、期待もまた膨らんだ。
入って来る。肉を抉るように掻きわけて、あの恐ろしく大きなものが、中へ。
「ひっ、ん、くっ、ぁ……ッ、あ、すご、い、ぃ……ッ、ゆっく、り……っ」
「ッ、わかってる」
襞をギリギリまで伸ばされる感覚。スブスブと音を立てて、どこまでも潜り込んでくるそれに、頭の天辺まで貫かれるのではないかと思う。
ゆっくりと、時間をかけて。
奥まで、来た。そう思った。だがいつだってその考えの甘さに泣かされる。
「ヒ、ぃッ……!?」
「まだだ。知ってるだろ?」
喉を必死で反らし、瞳を見開くファイの腰が片腕に強く抱きこまれた。
拘束された腕と腰では、逃げることさえ叶わないのに、無意識に立てた膝を引きずる。それはただベッドを重く軋ませ、シーツの皺を深いものにするだけで終わった。
「うあぁ……ッ! 深いっ、駄目っ、ふかすぎる……!」
「おら、あと少しふんばれ……ッ」
「――ッ!!」
ズン、という音が聞こえた気がした。腹の中を突き破られたのではないかとさえ思う。
自分でも知らないような身体の奥深くに、黒鋼の先端が触れている。
苦しさはあるが痛みはない。文字通り、隅々まで犯されてしまったような、そんな気分だった。
口だけでは根元まで飲み込み切れなかったものを、それよりもっと狭い穴が全て飲み込んでいる。
はぁ、と、黒鋼が吐き出した熱い息が背中にかかった。
挿入だけで汗だくのファイは小刻みに震えて、はかはかと浅く呼吸を繰り返す。
「よくまぁ入るもんだ。こんなちっこいケツに」
「ひ、ぁ、まっ、て……まだ、うごかな……っ」
「俺にしてみりゃ、こっちの方が衝撃的だぜ」
「ああぁっ、んぅ……!」
ひとつ腰をズンと突き動かされ、本当に突き破る気かと思う。
だが、それでもよかった。
ファイの甘ったるい声に拒絶の色がないことを確かめて、黒鋼は徐々に動きを開始した。
どろどろの粘液が纏わりつく肉の棒が、限界まで広がった内壁をきつく擦りあげる。
突かれる度にガクガクと震える身体の中心で、張りつめた性器が同時に揺れていた。パタパタと先走りが零れ落ちる水音がやけに大きく響く。
「あぅっ、アッ、あッ! いっくっ、もう、いっちゃう……ッ!!」
先刻から目を開けていてさえバチバチと飛び散る火花が見えていた。
そういえばまだ一度も達していないのだ。いっそ挿入途中に果てなかったことは奇跡に等しい。
だがもう限界だった。ただでさえ大きな彼のものは、中で一々『いい場所』に当たる。
ファイの身体の痙攣が激しいものになったことに気がついた黒鋼の手が、中心に触れた。
「ああぁだめっ! い、く、ぅ……!!」
「駄目だ。まだ早ぇ」
「――ッ!?」
一瞬、背筋が凍るような感覚を味わった。それはすぐに爆発しそうなほどの残酷な熱として、体内に籠る。
黒鋼の指が、絶頂を迎える瞬間だったファイの性器の根元を押さえつけていた。湧きあがって来るのは大きな絶望だった。
(殺される……死んじゃう……死んじゃう……)
大粒の涙がとめどなく零れ、ファイは後ろ手に拘束されている手を必死で振り解こうと身を捩る。
「やだぁ……っ! いくっ、いくのっ、いかせてぇ……!!」
だが纏めて背中に縫いつけられている両腕が軋むように痛むだけで、前の戒めは外れない。
容赦なく再開された抽挿の激しさに、ファイはいっそ死んだ方がマシだと思った。
絶頂に最も近い場所まで中途半端に上り詰めた感覚が、その場から上がることも下がることも出来ないまま焼かれ続ける。堪え性のない身体にはあまりにも負荷が大きく、強すぎる快感はむしろ拷問に等しかった。
頬をシーツに押し付けて、ファイは虚ろに開かれた瞳から涙を零し続けた。揺さぶられる度に舌を噛みそうになる。
「ぶっ壊れちまったか? あ? 答えろよ」
「ふぇ、ぁっ、こわ、れ……ッ、へ、ぁ……っ、ぁ……ッ」
「来い」
「ッ!?」
拘束された両腕をぐいと引かれる。
ずっとシーツに突っ伏したままだった視界が開けた。
そのまま胡坐をかいた黒鋼の足の中心に尻を収め、ぴったりと背中を包みこまれる体勢になる。
「ぅあっ……!!」
それによって自分の体重が全て一点に集中することになった。
片足を腹につくほど折りたたまれて、動けないように膝裏をぐっと掴まれることで、それは一層増した。
性器への戒めはそのままに、ファイが新たな体位に慣れるのも待たず、黒鋼が腰を揺さぶった。
「ああぁ待って……っ、まっ、ぁひ、う、あぁッ!」
「まだまだ満足できねぇだろ? なぁ?」
その言葉を受けて、ファイは必死で首を左右に振った。
パタパタと頬に当たる金糸の感覚がくすぐったかったのか、黒鋼は耳元で小さく笑ったかと思うと、先刻のお返しとばかりにファイの耳朶に吸いつく。
性的な水音が鼓膜を震わせ、堪らず喉を反らして甲高い悲鳴を上げる。
中を掻きまわす肉棒が最も弱い個所を執拗に擦るから、ファイは自由になった手で性器を拘束する黒鋼の手首を強く掴んだ。
「これ離して……っ! もう無理、したから、満足したからぁ……!」
「見え透いた嘘つくんじゃねぇよ」
黒鋼がファイの身体を揺さぶる度に、ベッドが軋んで悲鳴を上げた。
密着する結合部がぐじゅぐじゅと音を立てて、彼の弾む息が肌にかかる。全身に駆け抜ける電流に、肌が鳥肌を立てる。そして。
(ぁ……)
ぶっつりと、何かが焼き切れる音が脳内に響いた気がした。
――壊れた。
内腿の痙攣が止まらない。
抱え上げられた片足の先が、攣りそうなほどぐんと伸びる。
閉じることを忘れた唇から、だらしなく唾液が零れて胸に伝った。
そうだ、まだ満足なんて出来ない。
もっともっと苛めて、焦らして、そこにある一番大きな快楽へ導いてほしい。
「っ、……、てめぇ、まだ締めつけるってのか」
黒鋼の声音から余裕が消えた。ファイは締まりのない口元に笑みを浮かべる。
「あはっ、あぁッ、もっと、もっといじめてっ、おしり、もっとしてぇ……!!」
それに応えるかのように、中で大きなものがさらに膨らんだ。激しく脈打っている。愛しい。嬉しい。全部、自分だけのものだ。
かろうじて地についている方の足で身体を支えながら、彼の動きに合わせて腰を振った。
黒鋼の手が戒めていた性器を痛いくらに擦りあげる。
「壊して……っ、こわして……ッ、いやっ、あぁっ、きもちいぃ……!」
いざとなると終わるのが微かに切ない。だが、終わらなければ先が続けられない。
「いけよ。おら、いっちまえ……ッ」
もっともっと、何度でも壊れたいから。
ファイはその拷問のような快楽を、促されるまま甘んじて受け入れる。
「ひぐっ、あっ、アッ、あぁ――ッッ!!」
我ながら、酷い声。
痛み切った喉から、よくぞこんな絶叫が飛び出すものだと、全身を引き攣らせて射精しながら、ファイは脳裏の奥底で思った。
耳元に押し付けられた黒鋼の唇から、低い呻きが吐き出される。彼の身体も大きく強張り、奥に熱いものが注がれるのを感じて戦慄いた。
止まらない。震えも、快感も、新しく生まれる欲求も。
かろうじて意識を飛ばすことなく吐精を終えたファイは、ぐったりと黒鋼の胸に背を預けて、その頬に涙に濡れた頬を擦りつけた。
射精した後は、甘えたくて仕方が無い。心地いい脱力感と、ドカドカと胸の内側から叩く心臓の音と、そして継続する断続的な痙攣を、優しく慰めてほしかった。
ファイの片足を解放した黒鋼が、両腕でぎゅうと抱きしめてくる。
その腕に両手を這わせ、さらに頬ずりをすれば唇に同じ温もりが触れた。
「ぁ、ん……は、ふ……ッ」
緩く舌を絡め合って、唾液の交換をし終えると、糸を引きながらそれは離れた。
それからしばし、うっとりと見つめ合う。
「ねぇ、このまま……」
「ん」
抜かないで、今度は前からしてと、言わずとも相手には伝わっていた。
今度は優しく、労わるように、黒鋼はゆっくりとファイの身体を返してシーツへ押し倒す。
「何べんやったら満足するんだ、おまえは」
「黒様先生こそ……あのねー、オレこれでもまだ一回しかイッてないんだからね」
中に挿れたままのものをきゅっと締めつけて、ファイはその首に両腕を回した。
驚いたことに、すでに十分な硬さを取り戻しつつあるそれに、もしかしたらこの身には少々余る代物かもしれない、なんて弱気なことを思った。
(だからって絶対に誰にもあげないけど)
「こら、なに力んでんだ」
「あ、ごめん」
「……」
掠れた声で「えへへ」と照れ笑いをするファイの顔を至近距離で見つめて、黒鋼はほんの僅かに眉間の皺を深くする。
「おまえ、まだ比べてんじゃねぇだろうな」
「ん? なにを?」
「忘れてんならいい」
「うん。ねぇ早く」
ふん、と鼻から小さく息を吐いた黒鋼の頭をぎゅっと抱いて、逞しい腰に両足を絡める。
何を言われたのかなんて本当は分かっていたけれど、いざ身体をぶつけてみれば、それがちゃんちゃら可笑しいことであることに気がついた。
(比べようないよねー。ほんとバカ)
オレも、あの変質者さんも。ね。
←戻る ・ Wavebox👏
化学準備室から、校庭の桜の木々がよく見えた。
「わー、今年も満開だー!」
開け放った窓のサンに両手をついて、ファイは身を乗り出すと春の香りをいっぱいに吸い込んだ。真下から見る桜の花もいいが、こうして少し高い位置から眺める景色も絶景だ。
「美味しいお酒が飲みたくなっちゃうなー」
しかし、今はあいにく平日の昼間。
このあと立て続けに授業が控えているため、間違っても酒なんか飲めない。
どうせ今週末には花見大会があるし、とりあえず我慢しておこう。酒気帯び授業なんかやらかしたら、きっとの体育教師の刀(ゲンコツ)の錆になってしまう。
新入生も入ってきていっそう賑やかになった、この春真っ盛りの時期に頭蓋骨を陥没させているわけにもいなかい。
「ほんと、DV夫だよ黒たん先生は」
そういえば、とファイは思う。
こうして満開の桜を眺める度に、ふと思い出すことがある。
それは、この学園に来て最初に黒鋼と顔を合わせたときのことだ。あれからもうずいぶん時間が経ったが、あの記憶は決して色褪せることがない。
「懐かしいなぁ」
温かな春風にそっと瞼を伏せながら、ファイは教師になって最初の春のことに思いを馳せた。
以下、回想シーン↓
「やっぱり日本の春って凄いなー!」
校庭を取り囲むように、幾本もの桜の大木が鮮やかに咲き乱れていた。
ファイはその木の一本に片手をついて、空を仰ぐように美しい花を見上げる。朝の清んだ空気に春の香りが色濃く滲み、新しい生活への期待に胸が膨らむ。
今日からファイはこの学園の教師になる。
学生時代、休みを利用して訪れた憧れの国。ちょっと酷い目には遭ったが、直にその空気や人に触れ、ファイは日本への憧れを強めた。
そういえばあのとき出会った青年は、今頃どうしているのだろうか。
彼も観光客だったらしいが、名前すら聞けなかった。旅は一期一会。こうして日本に根を下ろしても、彼とはきっともう出会うことはない。
でも、どうしてだろう。彼のことが忘れられなかった。あのときからずっと、胸の中にあり続ける不思議な存在。
そのときだった。
土を踏みしめる音がして、ファイは上へ固定したままだった視線を戻し、音のする方向へ向けた。
自分と同じようにスーツを着た男が一人、桜の木々を見上げながらこちらへ歩いてくる。
ファイは大きく目を見開いた。
それはたった今、脳裏に思い描いていた青年の姿だった。
漆黒の髪と紅蓮の瞳、日本人離れした長身と、逞しい身体。ファイは、全身に鳥肌が立つような感覚を覚える。
息をするのも忘れて見つめていると、彼はその視線に気づいたのか、桜の木からこちらに顔を向けた。
「君は、あのときの……!」
ファイを見た彼は、僅かに目を見開いた。
時間が止まったような気がした。旅先で出会った青年。どうして彼がここに……。
二人はそのまましばらくの間、見つめ合ったまま動けなかった。
偶然の再会。けれど、強い力で結びつけられたような運命を感じる。
先に一歩を踏み出したのはどちらだったのか。引き合うようにファイと青年は歩み寄っていた。
手を伸ばし合い、交差するその両腕が互いをきつく抱きしめ合う。
「また会えるなんて……信じられない!」
「おまえを忘れたことはなかったぜ」
「ッ、オレも……オレも忘れたことなかったよ……!」
会いたかった。
ファイは溢れる涙を堪えることができなかった。憧れの地で、憧れの職について。
全てが新しく始まるまさにその日、運命の人と再会した。
「もう離さねぇ……俺たちの旅はこれからだ……」
「恋のチケットは……永遠にソウルドアウトだね……!」
そして二人は桜の木の下で、熱烈な再会のキs
「待てぇえぇぇい!!!」
そのとき、化学準備室のドアがスパーンと開いた。
「あ、黒様先生だ」
「あ、黒様先生だ、じゃねぇ!! てめぇはまた記憶を都合よく改竄してんのか!!」
校舎が揺れん勢いの足音を立てて、肩を怒らせた黒鋼が鬼の形相でやってくると、胸倉を掴まれる。
「改竄なんかしてないもん! オレの脳内の黒様メモリアルにはちゃんとそう書いてるもん!」
「脳ミソすり潰すか!? おまえはどこまでも頭がおかしい! 完膚なきまでにおかしいぞ!! おかしい!!」
「わざわざ3回も言うなんて酷すぎるぅー!!」
「何べんでも言うぞ俺は!! 何が俺たちの旅だ! 何が恋のチケットだ! あぁ!?」
「もー! 何がそんなに不満なの! こんな薄汚れた現実の世界より、妄想の世界の方が住みやすいんだから、それでいいじゃない!」
「仮にも教師のセリフかそれが!?」
とにかく、と、掴んでいた胸倉を乱暴に離した黒鋼は、側にあった椅子を引き寄せて座ると、腕を組んで言った。
「やりなおしだ! やりなおし! 現実と向き合え!」
「えー……どっからだっけなぁ……キスのあと?」
「君はあのときの! からだ!!」
テイク2
「君は、あのときの……!」
ファイの姿を見るやいなや、青年は『ゲッ』という顔をした。
なんだろうか。このあからさまにもう二度と会いたくないと思っていたはずの人間と、運悪く遭遇しちゃいました的な反応は。
だが、ファイは持前のポジティブさでその表情を華麗にスルーすると、懐かしさに両手を広げた。
「君ってあのときのふんどし忍者くんだよねー!? うわー! ひっさしぶりー!」
「ふんどしじゃねぇし忍者でもねぇ!! なんでてめぇがここにいる!?」
「あの時はどうもありがとー! おかげでちゃーんとお土産のお守り持って帰って渡せたよー!」
「質問に答えろこの変態外人!!」
相手は明らかにこちらに牙を剥き、威嚇している様子だった。
ずっと野生のライオンに育てられていた人間が、初めて人の世界に保護された時ってこんな感じの反応なのかなー、とファイは思った。
今にも唸りだしそうな恐ろしい表情も、奇跡的な出会いの中ではただただ感動を生む。
お互い旅の途中ですれ違った程度の間柄だし、もう二度と会うことはないだろうと思っていたので、なおのこと。
「もー! 昔のことは水に流してー、再会を喜び合おうよー!」
万歳のポーズで走り寄ろうとすると、彼は今度は声に出して「うげっ」と言った。
「来んな! 近寄んじゃねぇ変態!!」
「再会のハグー!」
青年は慌てて逃げ出そうと、ファイに背を向けた。
逃げられると追いかけたくなる本能に基づき、ファイは容赦なく追跡する。えいっと飛びかかり、力いっぱいタックルすると、走り去ろうとしていた青年はその勢いで態勢を崩し、思い切り前のめりになった。
「わあぁ!!」
ドテーンという音が重なり、土埃が立ち込める中で、二人はうつ伏せに地面に崩れ落ちた。
一瞬ファイは痛みに顔を歪めたが、すぐに自分の両手が何かを掴んでいることに気付く。その場所を見て「あ」と短く声を発した。
なんだか凄く懐かしい感じがする。ファイは彼のスーツのズボンのウエストに、指を引っかけるようにして手をかけていた。
ちょうどベルトに掴まるような形で掴んでいたせいで、半分だけずり下がっている。黒い下着に覆われた半ケツ状態の尻が目の前にあった。
「……なぁんだやっぱふんどしじゃないんだねー」
以前、同じようにズボンに手をかけたときは、すかさず抵抗されて中身は見られなかった。と、いうより、あの時はおそらく下着ごと下げてしまったので、文字通り割れ目くっきりの半ケツだったのだ。(公衆の面前)
宿泊先の風呂で再会した時も、彼が服を脱ぐ場面を見る前に追いかけまわされてしまった。結局ファイはふんどしへの心残りを残して帰国する羽目になったのだが。
「なーんかガッカリー。これってボクサー?」
ファイは中途半端な状態の尻に指をやると、下着を少しだけ摘み上げてテントを作った。どこにでもあるような素材の、男性用下着だ。
「せめてTバックとか履いててくれたらネタになったのにー。つまんなーい」
「…………す」
「それにしてもお尻のお肉カチカチだねー。引き締まってるー!」
「…………ろすぞ」
「ん? なぁに? あー、大丈夫ー、あの時と違って誰も見てな……ん?」
言いかけて、ファイはどこからか視線を感じた。
辺りを見回すと、遠くの校舎の窓に人影が。
「あそこって……確か理事長室? だっけ?」
そこから顔を覗かせているのは、長い黒髪の女性だった。
確か彼女はこの学園の理事長だったはず。彼女は赤い口紅を引いた唇を、にやりと笑みの形に歪めてサッと消えた。
「…………ごめん忍者くん……バッチリ見られてたみたい……」
「殺すぞ」
「!?」
その瞬間、後ろ手に手を伸ばした青年に片方の手首を掴まれた。
そして彼は膝をついて身体を起こすと同時に、ファイを一本背負いした……。
「ぴぎゃあああ!!!」
ファイは奇妙な悲鳴を上げながら、背中を地面にしたたか打ち付ける。
とてつもない衝撃に、一瞬本当に息が止まった。背面に激痛が走ってのたうつ。
「いったぁ~い~! ゲホッ ひ、酷いよー!」
「覚 悟 は で き て る な ?」
「え?」
仰向けの状態で制止したファイが視線を上へ走らせると、そこには指をバキバキと鳴らしながら仁王立ちしている男の姿があった。
テイク2終了
「いやー、あのあとはまさに地獄絵図だったよねー。黒様ったらどこまでも追いかけてくるし、生きるか死ぬかのリアル鬼ごっこだったなー」
ファイは腕を組んでしみじみと唸った。
「今でこそ黒たん先生のパンツなんか、見たければいつでも見れるような間柄だけどー、ここまでくるのには苦労させられたよー」
「おい」
「黒様ったらあれ以来しばらく口利いてくれなかったしー、でもそれも今ではいい思い出……ん? なに? どうかした?」
「回想シーンの合間にさりげなく人の膝に乗ってんじゃねぇよ!」
ファイは黒鋼の首に両腕を回しながら唇を尖らせ「えー、いいじゃーん」と言った。が、どうやらよくなかったらしい。黒鋼は当時の記憶と相まって、ただでさえ目つきの悪い両目をさらに吊り上げて内震えている。
「なんかこの姿勢……対面座位って感じでエッチだね……ハァハァ」
「どけこの変態教師!! てめぇのせいで俺は初日からあの女理事長に揺すりのネタを提供しちまったんだ! てめぇのアホのせいで俺のお茶汲み人生が始まったようなもんだ!!」
「プリプリしないでー。終わりよければ総て無駄って言葉もあるしー」
「あってたまるか!!」
黒鋼が必死で引き離しにかかってくるので、ファイは意地でも退くものかと両手両足でしがみついた。
どうやらファイにとって春という季節がいい思い出でも、彼にとってはトラウマをフラッシュバックさせる、暗黒の季節であるらしい……。
「やー! 今オレは黒様先生のお膝の上にいたい気分なのー!」
「生憎俺はそういう気分じゃねぇんだよ!!」
「もう許してよー。今夜もとっておきの中のとっておきなお酒持っていくからー。あ、夜桜見物でもしよっかー?」
「てめぇは一体どんだけのとっておきを隠し持ってんだ……」
地の底まで響きそうな深い溜息をついて、黒鋼は諦めたように脱力した。
やっぱりファイの『とっておき作戦』は効果覿面だ。彼も彼で、どこかで気持ちを静める材料が欲しかったのだろう。
もはや抱き付いてスリスリと頬ずりしても、何も言わなくなってしまった。
本当に丸くなったというか、なんというか。
「ねぇ、マイナスからスタートした方が、プラスになった時の気持ちって大きくなると思わない?」
今だって実はさりげなく腰に回される太い腕とか、もっと本気で抵抗すれば、とっくに開いているはずの二人の距離とか。
物凄く面白くなさそうな顔をしてるくせに、黒鋼は否定の言葉を口しない。
自覚があるのはいいことだ。
(オレの中では最初からプラスの感情しかなかったけどねー)
その感情は、マイナスから始まるものに負けないくらい、今も大きく成長し続けているのだが。
ここまで辿り着くまでの道のりを思い出すのは、また今度にしよう。
そう思いながら、怒られるんだろうなと知りつつも、ファイは黒鋼のむっつりと引き結ばれる唇に、音を立ててキスをした。
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