「好きだ。付き合ってくれ」
昼休み。五月初旬の、晴れた空の下。
クラスメイトの男子生徒に体育館裏に呼び出された花京院は、その告白に目を瞬かせた。
男子生徒は深く頭を下げ、右手を差し出している。それを見つめて、悟られぬように思わずこっそりと溜息を漏らした。
「相手を間違えているんじゃあないか? ぼくは男だぞ」
「そ、それは分かってる。オレだって、自分で驚いてるんだよ。男なんか好きになるなんて……」
だけどさ、と真っ赤な顔をしながら、男子生徒が言い訳でもするように先を続けた。
「なんつーか、その……花京院ってさ、男なんだけど、こう……最近女子より色っぽく見えるっていうか……お前ならオレ、イケるんじゃないかって、その、女じゃなくても」
一体なにを訳の分からないことを。やれやれと、花京院は内心うんざりしながら肩をすくめた。最悪な気分ではあったが、顔には出さずにやんわりとした笑みを浮かべる。
「君のそれは、一時の気の迷いというやつじゃあないかな」
「き、気の迷い……?」
「そう。だからほら、顔を上げて」
言われた通り頭を上げた男子は、まだどこか腑に落ちない様子ではあったが、強張っていた肩からふっと力を抜いた。自分に言い聞かせるように「そうだよな」と、安堵したように呟く。
「これってやっぱ気の迷い、だよな……確かに、そんな気がしてきた」
「それはよかった」
「あのさ、このこと……他のやつには……」
「もちろん言わないさ。ぼくにとっても、これは不名誉なことだからね」
「さ、サンキューな!」
少しホッとした様子で、彼は手を振り走り去った。花京院も小さく手を振り返し、その背中が見えなくなると、息をつく。そして、視界の端に映るものへ視線だけを走らせた。
「煙草臭いぞ、承太郎。そろそろ出てきたらどうだ」
そこにはすでに跡形もなく花が散り、青々とした葉を茂らせる桜の大木があった。あの男子生徒はよほど余裕がなかったのか、気づいていなかったようだが、花京院は微かに鼻につくその匂いに、最初から気がついていた。
じっとりとした目で見ていると、木陰から大きな身体がヌッと姿を現す。黒い学帽と長ラン姿で、咥え煙草の承太郎が、どこか楽しげに目を細めている。
「よう、モテる男は辛いな」
そう言って、承太郎はフィルターギリギリまで燃え尽きている煙草を地面に落とした。黒い革靴の先で、グリグリと土も一緒に踏みしめながら火を消している。花京院はムッとしながら唇を引き結び、そんな彼へ近づくと、ポケットティッシュを取り出して数枚引き抜いた。
すっかり潰れて虫の死骸のようになった吸い殻を、ティッシュを被せて拾い上げると、ポケットに捻じ込んでしまう。
「君が言うと嫌味にしか聞こえない。あと、学校では煙草を吸うなと言ったはずだぞ」
「偶然恋人の浮気現場を目撃しちまったもんでな。気持ちを落ち着かせようと思っただけだぜ」
「バッ、う、浮気って、君なあ!」
腕を組んで大木に背を預ける承太郎が、クツクツと肩を揺らしながら笑った。ついカッとなりかけたが、花京院はどこか諦めたように、その性質の悪い冗談を流してやることにした。鼻からふすっと息を吐いて、自分も並んで大木に背中を預ける。
そのままほんの僅かな沈黙が、緩やかな五月の風と共に吹き抜けた。
「隙が多いぜ、最近のてめーは」
承太郎がぽつりと吐きだした。そんなつもりはないよと小さく反論して、足先で地面を軽く蹴る。
そもそも隙、というのは、なんだろう。ごく普通に日々の生活を送っているつもりだし、仮にその隙とやらを本当に見せてしまっているのだとしたら、それがなぜ男子生徒からの告白に繋がるのだろうか。
「冗談じゃない。さっき言われたことも、全く意味がわからないよ。どうしてぼくに女性のような――あるいは、それ以上の色気があるっていうんだい」
「自覚がねえのか。今だっておれをこんなにムラムラさせておいてよ」
「む、ムラ……なんだか、今日の君は笑えない冗談ばかり言うんだな」
「心配しているんだぜ。今月だけで二人目じゃあねーか」
同性から、告白されるのは。
「前回は一年のガキだったか」
「……二人じゃなくて、三人だ」
「なんだと?」
承太郎の眉間に皺が寄り、大木から僅かに背を離す。じっと見下ろされて、花京院は少しだけ、正直に言ってしまったことを後悔した。口を噤んだまま誤魔化してしまおうかと思ったけれど、痛いほど注がれる視線に耐えきれず、肩をすくめた。
「君の言う通り。こないだは一年生の男子生徒から告白されたよ。だけどその前に、実はもう一人いたんだ」
「どこのどいつだ」
「この学校の人間じゃあないよ。よく行くコンビニの店員。父親くらいの歳の男性だ」
チッ、と、承太郎が舌打ちをしながらまた大木に背を預ける。そして吐き捨てるように「そのコンビニにはもう行くな」と言うので、花京院は即座に反論する。
「行くさ。近場にはそこしかないんだ」
これだけ一度に同性から告白されておいてなんだが、まるでか弱い女性にでも注意を促すような物言いは、いくら承太郎といえども不愉快だった。色気がどうとか、隙がどうとか、そんな訳が分からないことで気軽に近所のコンビニへも行けないなんて、それこそ冗談じゃないと思う。
「君は少し心配性が過ぎる。ぼくがそう簡単に手籠めにされるとでも思っているのか?」
そりゃあ、承太郎ほど身体が大きければ、自分なんてひ弱に見えても仕方がないのかもしれない。だけどこれでもクラスでは一番背が高いし、そういう風に思われるのが嫌だから、身体だってそれなりに鍛えている。これでも努力しているんだと、不満も露わに睨み付ければ、承太郎は学帽の鍔を少しだけ引き下げて「やれやれ」と溜息をついた。
「無意識に垂れ流しちまってるってことだけは、覚えておきな」
「……なにを?」
怪訝そうな顔をする花京院から目を逸らし、承太郎は一瞬なにかに気がついたように校舎の方へと視線をやった。それからすぐにくるりと身体を大木へ向ける。ちょうど花京院を挟むような形だ。頭上に承太郎の前腕が置かれ、至近距離で見下ろされた。まるで校舎から隠すみたいに、花京院の身体はその大きな影にすっぽりと覆われる。
「な、なんだい?」
このままキスでもされるんじゃあないかと、僅かに身を強張らせる。学校では、こういうことは一切しない約束のはずだ。この距離やシチュエーションですら、十分に際どい。誰かに見られでもしたら、どうするつもりなのだろう。見ようによっては、不良の先輩に脅される後輩、という図に見えなくもないが。
承太郎は内心ドギマギとしている花京院をじっと見つめ、そしておもむろに片手を脇腹から腰へと滑らせてきた。
「う、うわッ、じょ、承太郎ッ!」
「肩と、腰のライン」
「はあ!?」
「最近、ちょっぴり丸くなった。気づいてねーだろ」
「失礼な……太ったとでもいうつもりか」
そうじゃあねえ、と低く言った承太郎の手が、今度は顎に触れた。くいと持ち上げられ、ぐっと顔を寄せてくる。慌てて押し返そうとその胸に両手をついて、どうしてか力が入らなかった。心臓がバカみたいに騒ぎ始める。この顔に、これだけ近い距離で見つめられて、抗える人間がいるならお目にかかってみたい。
けれど承太郎はそれ以上顔を近づけてはこなかった。それをなぜか残念に思う自分を、心のなかで叱りつける。彼は花京院のすみれ色の瞳を覗き込みながら、肉厚な唇をゆっくりと開いた。
「おれとやることやっちまってるから、かもな」
「……はい?」
「わからねえのか?」
ふっと笑われて、花京院は必死で考える。
自分では、自分の身体の些細な変化になど気づきようがない。けれど多分、承太郎は花京院以上に、この身体のことを知っているのだ。
自分たちは恋人同士で、とっくに一線も越えていて、花京院が自分で触れたことすらない場所に、彼はもう何度も触れていた。
(い、色気……色気って……まさか……)
承太郎に、女のように抱かれているから。無意識に雄を寄せ付けるようなフェロモンでも振りまいていると、そう言いたいのか。知らないうちに、身体すら作りかえられているのだと。
頭の天辺から湯気が出そうだった。なんて恥ずかしいことを言うのだろう。あまりの羞恥に堪え切れず、それでも花京院は平静を装いながら、承太郎の胸を押し返した。
「ば、バカを言わないでください」
僅かな隙をついて、そこから逃げ出す。大木から数歩離れると、承太郎は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、両手をポケットに捻じ込んだ。
「あんまり無自覚でいると、妙な虫がつくぜ。案外、もうついちまってるかもしれねえが」
「ッ!」
承太郎の言葉に、少しドキリとさせられた。が、すぐにグッと眉間に皺を寄せる。
「それって君のことじゃあないのか?」
憎まれ口を叩きながら唇を尖らせた花京院に、承太郎は「かもな」と言って背を向けた。片手を上げて、ヒラヒラと振りながら去っていく背中を、赤く染まった顔で黙って見つめる。
すっかりその背が見えなくなると、花京院は自分の肩に目をやった。それから両手を腰に当て、そのラインを見下ろしてみる。やっぱり分からなかった。確かに肩幅に比べると、少し腰は細すぎるかもしれないが、だからといって女性的な身体つきとは思えない。
(バカバカしい。そんなわけあるもんか)
確かに花京院は承太郎に心も身体も許しているし、セックスは完全に受け身である。
けれど、かといって男としての矜持を失くしてしまったとは思わないし、花京院が許すのはあくまで承太郎だけだ。承太郎以外の男だったら、触れられることすら我慢ならない。女性のように扱われたり、そういう目で見られたりするのも絶対に嫌だった。
花京院はさっきまで承太郎と背を預けていた、桜の大木に目を向ける。一年前、彼と初めて言葉を交わしたのも、ちょうどこの体育館裏だった。
出会ってまだ、たったの一年。ふと、さっきのクラスメイトの言葉を思いだす。
『オレだって、自分で驚いてるんだよ』
全くだと、花京院は思った。
その点に関してだけは、彼の気持ちがよく分かる。
「ぼくも、こんなに好きになるとは思わなかった」
仄かに頬を染めながらぽつりと零し、花京院は次の授業を知らせるチャイムが鳴る前に、その場を後にした。
*
承太郎の存在を知ったのは、花京院がこの高校に入学してすぐのことだった。
JOJOという渾名で呼ばれ、派手に荒れている二年生がいることは、当然すぐに耳に入った。けれどその不良はまともに登校すること自体が稀であったし、せいぜい彼のファンだという女子生徒たちの絶叫を、遠くに聞く程度のものだった。
札付きの悪に加えて、女子人気が絶大。家柄がよく、サボってばかりのくせに成績は優秀。花京院にとっては、アニメや漫画の主人公みたいだな、程度の情報と認識しかなかった。おそらく関わりを持つことはないだろうと。
しかしその認識が、ある日を境にガラリと変わる事件が起きた。
一年生の間では承太郎を筆頭に、柄の悪い先輩に決して目をつけられないよう、目立った行動は避けるべきという意識が広がっていた。
そんな中、花京院だけは平然とお気に入りのピアスをつけていたし、制服だって自分の好みに合わせた色形のものを、堂々と着用していた。加えて桃色がかった赤い地毛が、完全に悪目立ちしていたらしい。
結果、入学して一ヶ月も経たないうちに、花京院は三年生の不良グループに目をつけられ、体育館裏に呼び出されてしまった。
「てめーか~~、一年の花京院ってのはよ~」
体育館の閉め切られた鉄製の引き戸に背を預ける花京院は、五~六人ほどの厳ついリーゼントに囲まれ、斜め下からねめつけられていた。
「ええ、そうですが、何か?」
全員がポケットに両手を突っ込み、猫背で身体を揺らしながらたった一人を取り囲んでいるという状況に、花京院はいっそ可笑しさこそ覚えたが、背筋をピンと伸ばしたまま冷静に応じる。
物怖じしないその態度は、端から気に入らない一年生であることに加えて、不良たちの怒りにあっという間に油を注いだ。
「一年坊主がイキがってんじゃねーぞッ! なんだぁ? このピアスに、ふざけた髪の色はよお?」
「何か問題でも? この程度、先輩方に迷惑をかけるほどのことではないでしょうし、髪は地毛です」
「嘘ぶっこいてんじゃあねーぞゴラァッ!! 今すぐその頭、マジもんの坊主にしてやるぜ!!」
そう言って、不良集団の一人が花京院の頭に掴みかかろうとした。が、一歩身体を横にずらしただけで、鉄の扉に全身をしたたか打ち付ける。
ぐえっ、という不様な悲鳴があがり、花京院はつい、口元に手を当てて笑ってしまった。
「てんめぇ~~~~」
強打した顔面を真っ赤にしながら、不良が怒りに肩を震わせた。その場にいた全員が殺気を放ち、いつ一斉に飛びかかって来てもおかしくない状況が出来上がる。
面倒だなと、花京院は思った。子供の頃からこの神経質そうな顔立ちや白い肌が災いして、女性的に見られがちだった。この手のタイプに舐められて、妙な因縁をつけられたことが幾度あったか知れない。元から人に媚びるくらいなら死んだ方がマシ、というプライドの持ち主でもあった花京院は、そんな連中に負けないためにも、それなりの護身術は身につけていた。
だから腕っぷしには自信があるのだ。多勢に無勢であったとしても、決して負ける気はしない。面倒なのは確かだが、とっとと片付けてしまおう。そういえば、今日は毎月欠かさず購読しているゲーム雑誌の発売日だった。コンビニに寄って、ついでに肉まんでも買って帰ろうか。
頭の片隅で呑気に考えていると、さっそく一人が飛びかかってきた。まずは適当にかわそうかと思っていた、その瞬間――。
「ぐぅえッ!!」
また、汚い呻きが上がった。
一瞬のことに、花京院は瞳を大きく見開く。
目の前で、さっきまで威勢よく吠えていたはずのリーゼントが、首吊り状態に陥っていた。
「げっ……JOJO……」
その場にいた誰かが言った。声を震わせながら。ぽかんとしている花京院の眼前で、見上げるほど大きな男が、不良男子の首根っこを掴んで持ち上げていた。
黒い学帽。前を開いた長ランに、金色の鎖。ああ、彼が噂の――。
承太郎は凄まじい怪力で、釣り上げていた不良を後方に投げ捨てた。吹っ飛んだ身体は三メートルほど離れた位置にある、まだ幾らか花を残す桜の大木に激突する。また汚い悲鳴が短くあがり、がっくりと項垂れて動かなくなった。
「こ、このやろう……ッ!」
残りの連中の殺気が増した。ピリピリとした狂暴な空気を放つ彼らだが、それとは逆に少しばかり腰が引けて見える。承太郎が学帽の鍔に隠れていた視線をゆらりと上げると、彼らは肩をビクリと跳ねさせた。
少し青みがかった緑色。長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳を見て、花京院は心臓をぐっと握り込まれたように、密かに息を詰める。
周りの不良たちは、もはや花京院に目もくれなかった。一帯を包み込む空気だけでも、すでに勝敗は明らかだ。しかしそこは学年が一つ上というプライドが、彼らに負けを認めさせなかった。
一人が制服のポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。凶器を手にした仲間がいるというだけで、彼らは途端に威勢を取り戻す。
「ついでだぜ、JOJO……このナマイキな一年坊主の前に、まずはてめーから始末してやるッ!!」
そこからは、何もかもが一瞬だった。
一斉に飛びかかった不良たちは、ものの数分もしないうちに鼻や口から血を流し、地面で身体を丸めながらのたうち回っていた。
(つ、強い)
承太郎は寸分の無駄もない動きで、あっという間に不良たちをのしてしまったのだ。憎らしいことに、両手をポケットに突っ込んだまま、である。
花京院の目に、嫌味なほど長い足から繰り出される蹴りと、その動きに合わせて翻る、黒い長ランの裾が未だに残像だけを残していた。
「ち、ちくしょう……ッ! 覚えてやがれぇ~~ッ!!」
全員が足を引きずるようにして逃げ去ってしまうと、承太郎は帽子の鍔を指先で引き下げながら「やれやれ」と言った。そして、そのまま花京院に目もくれず立ち去ろうとしたので、慌てて引き止める。
「あ、あの!」
「……なんだ」
「助けてくださって、ありがとうございます」
軽く頭を下げて礼を述べると、承太郎はこちらを振り向いて花京院をじっと見つめてきた。宝石のように美しい瞳だと思った。そして改めてその顔立ちを見て、女子人気が高いことにも納得する。気を抜くと、性別も忘れてうっかり見惚れてしまいそうだ。
「助けが必要だったわけじゃあ、なかったようだがな」
承太郎は興味なさげに小さく鼻から息をつくと、背後にある桜の大木へ軽く顎をしゃくって見せる。
「おれは昼寝の邪魔をされるとムカつくだけだ」
花京院は彼が示した桜の木へと目を向ける。昼寝というにはだいぶ時間が遅い気がするが、承太郎はあの大木の幹に腰を下ろし、背を預けて居眠りをしていたようだった。ちょうどこの方向だと死角になるため、自分を含めて誰も彼の存在に気がつかなかったというわけだ。
「それは失礼しました」
再び頭を下げた花京院に、承太郎は何も言わずに背を向ける。けれど咄嗟に「待って」と言って、また引き止めた。彼は振り向かず、ただ首だけを軽く捻ってこちらに横顔を見せる。
花京院はポケットから緑色の刺繍が入った白いハンカチを取り出し、承太郎へ近づいた。
「ナイフを持っていたのは、一人だけではなかったようですね」
小首を傾げて柔らかく微笑みながら、ハンカチを差し出した。あの一瞬の乱闘の際、どさくさに紛れてナイフを取り出した不良が、もう一人いたのだ。そのナイフは承太郎の太腿をほんの僅かに掠っただけではあったが、切れ味だけは抜群だったらしい。制服のズボンに切れ目が入り、そこから覗く肌に少量の血が滲んでいる。
承太郎は面食らったように瞳を見開き、すぐにふっと小さく鼻で笑った。そして短く「ありがとうよ」と言って、ハンカチを受け取った。
「名前は?」
その何気ない問いに、どうしてか心臓が小さく跳ねた。あの有名な不良が、決して関わることはないだろうと思っていたはずの男が、この自分に一瞬でも興味と意識を向けている。そのことがえらく特別なことのように思えて、すぐにでも逸らされかねない視線に、奇妙な焦燥を覚えた。花京院は咄嗟に、ただ短く「花京院典明」とだけ、声を発した。
「花京院、な。覚えておくぜ」
今度こそ背を向けて、軽く上げた片手をヒラヒラと振りながら去っていく後姿から、花京院はいつまでも目を逸らすことができなかった。
――それがいわゆる、承太郎との馴れ初めだった。
ハンカチを渡した後日、驚いたことに彼は一年生の教室までやって来た。洗濯をしてアイロンまでかけたハンカチを、わざわざ花京院へ返しに来たのだ。
もはや右に出る者がいないのではとまで言われる不良の、その意外な律儀さにはえらく驚かされた。
以来、なんとなくふたりは行動を共にすることが多くなった。昼休みには人気のない場所で昼食をとり、登下校のタイミングがかぶれば、肩を並べて歩く。それが偶然ではなく、互いに自然と待ち合わせをするようになるのに、時間はかからなかった。
承太郎はごちゃごちゃとしたやかましい音や声、環境があまり好きではないようだった。それは花京院も同じで、ふたりきりでいてもそれほど会話は多くなかった。けれど、沈黙が全く苦にならない。むしろ心地よいとすら思えて、なおのこと互いが互いを傍に置くことが、当然のことになっていった。
そしてなにもかもが、あまりにもごく自然に。
意識し合ったのがいつからだったのか、それすら分からないくらい、ふたりはごく当たり前のように、お互いの距離を0まで縮めた。息をするように、利き手でペンを走らせるように、通いなれた道を、いつも通り家路をたどるように、惹かれあっていた。
男同士。少しくらい葛藤があったってよかったんじゃあないかと、自分自身、呆れている。
けれど手が触れ合ったときも、唇が重なったときも、自分の中でひとつも違和感がなかった。初めて身体を繋げたときですら、最初からこうなることが分かっていたみたいに、疑問すら抱かなかったのだ。
そうして季節が廻り、花京院は二年生に、承太郎が三年生になった今も、ふたりの関係は続いている。
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昼休み。五月初旬の、晴れた空の下。
クラスメイトの男子生徒に体育館裏に呼び出された花京院は、その告白に目を瞬かせた。
男子生徒は深く頭を下げ、右手を差し出している。それを見つめて、悟られぬように思わずこっそりと溜息を漏らした。
「相手を間違えているんじゃあないか? ぼくは男だぞ」
「そ、それは分かってる。オレだって、自分で驚いてるんだよ。男なんか好きになるなんて……」
だけどさ、と真っ赤な顔をしながら、男子生徒が言い訳でもするように先を続けた。
「なんつーか、その……花京院ってさ、男なんだけど、こう……最近女子より色っぽく見えるっていうか……お前ならオレ、イケるんじゃないかって、その、女じゃなくても」
一体なにを訳の分からないことを。やれやれと、花京院は内心うんざりしながら肩をすくめた。最悪な気分ではあったが、顔には出さずにやんわりとした笑みを浮かべる。
「君のそれは、一時の気の迷いというやつじゃあないかな」
「き、気の迷い……?」
「そう。だからほら、顔を上げて」
言われた通り頭を上げた男子は、まだどこか腑に落ちない様子ではあったが、強張っていた肩からふっと力を抜いた。自分に言い聞かせるように「そうだよな」と、安堵したように呟く。
「これってやっぱ気の迷い、だよな……確かに、そんな気がしてきた」
「それはよかった」
「あのさ、このこと……他のやつには……」
「もちろん言わないさ。ぼくにとっても、これは不名誉なことだからね」
「さ、サンキューな!」
少しホッとした様子で、彼は手を振り走り去った。花京院も小さく手を振り返し、その背中が見えなくなると、息をつく。そして、視界の端に映るものへ視線だけを走らせた。
「煙草臭いぞ、承太郎。そろそろ出てきたらどうだ」
そこにはすでに跡形もなく花が散り、青々とした葉を茂らせる桜の大木があった。あの男子生徒はよほど余裕がなかったのか、気づいていなかったようだが、花京院は微かに鼻につくその匂いに、最初から気がついていた。
じっとりとした目で見ていると、木陰から大きな身体がヌッと姿を現す。黒い学帽と長ラン姿で、咥え煙草の承太郎が、どこか楽しげに目を細めている。
「よう、モテる男は辛いな」
そう言って、承太郎はフィルターギリギリまで燃え尽きている煙草を地面に落とした。黒い革靴の先で、グリグリと土も一緒に踏みしめながら火を消している。花京院はムッとしながら唇を引き結び、そんな彼へ近づくと、ポケットティッシュを取り出して数枚引き抜いた。
すっかり潰れて虫の死骸のようになった吸い殻を、ティッシュを被せて拾い上げると、ポケットに捻じ込んでしまう。
「君が言うと嫌味にしか聞こえない。あと、学校では煙草を吸うなと言ったはずだぞ」
「偶然恋人の浮気現場を目撃しちまったもんでな。気持ちを落ち着かせようと思っただけだぜ」
「バッ、う、浮気って、君なあ!」
腕を組んで大木に背を預ける承太郎が、クツクツと肩を揺らしながら笑った。ついカッとなりかけたが、花京院はどこか諦めたように、その性質の悪い冗談を流してやることにした。鼻からふすっと息を吐いて、自分も並んで大木に背中を預ける。
そのままほんの僅かな沈黙が、緩やかな五月の風と共に吹き抜けた。
「隙が多いぜ、最近のてめーは」
承太郎がぽつりと吐きだした。そんなつもりはないよと小さく反論して、足先で地面を軽く蹴る。
そもそも隙、というのは、なんだろう。ごく普通に日々の生活を送っているつもりだし、仮にその隙とやらを本当に見せてしまっているのだとしたら、それがなぜ男子生徒からの告白に繋がるのだろうか。
「冗談じゃない。さっき言われたことも、全く意味がわからないよ。どうしてぼくに女性のような――あるいは、それ以上の色気があるっていうんだい」
「自覚がねえのか。今だっておれをこんなにムラムラさせておいてよ」
「む、ムラ……なんだか、今日の君は笑えない冗談ばかり言うんだな」
「心配しているんだぜ。今月だけで二人目じゃあねーか」
同性から、告白されるのは。
「前回は一年のガキだったか」
「……二人じゃなくて、三人だ」
「なんだと?」
承太郎の眉間に皺が寄り、大木から僅かに背を離す。じっと見下ろされて、花京院は少しだけ、正直に言ってしまったことを後悔した。口を噤んだまま誤魔化してしまおうかと思ったけれど、痛いほど注がれる視線に耐えきれず、肩をすくめた。
「君の言う通り。こないだは一年生の男子生徒から告白されたよ。だけどその前に、実はもう一人いたんだ」
「どこのどいつだ」
「この学校の人間じゃあないよ。よく行くコンビニの店員。父親くらいの歳の男性だ」
チッ、と、承太郎が舌打ちをしながらまた大木に背を預ける。そして吐き捨てるように「そのコンビニにはもう行くな」と言うので、花京院は即座に反論する。
「行くさ。近場にはそこしかないんだ」
これだけ一度に同性から告白されておいてなんだが、まるでか弱い女性にでも注意を促すような物言いは、いくら承太郎といえども不愉快だった。色気がどうとか、隙がどうとか、そんな訳が分からないことで気軽に近所のコンビニへも行けないなんて、それこそ冗談じゃないと思う。
「君は少し心配性が過ぎる。ぼくがそう簡単に手籠めにされるとでも思っているのか?」
そりゃあ、承太郎ほど身体が大きければ、自分なんてひ弱に見えても仕方がないのかもしれない。だけどこれでもクラスでは一番背が高いし、そういう風に思われるのが嫌だから、身体だってそれなりに鍛えている。これでも努力しているんだと、不満も露わに睨み付ければ、承太郎は学帽の鍔を少しだけ引き下げて「やれやれ」と溜息をついた。
「無意識に垂れ流しちまってるってことだけは、覚えておきな」
「……なにを?」
怪訝そうな顔をする花京院から目を逸らし、承太郎は一瞬なにかに気がついたように校舎の方へと視線をやった。それからすぐにくるりと身体を大木へ向ける。ちょうど花京院を挟むような形だ。頭上に承太郎の前腕が置かれ、至近距離で見下ろされた。まるで校舎から隠すみたいに、花京院の身体はその大きな影にすっぽりと覆われる。
「な、なんだい?」
このままキスでもされるんじゃあないかと、僅かに身を強張らせる。学校では、こういうことは一切しない約束のはずだ。この距離やシチュエーションですら、十分に際どい。誰かに見られでもしたら、どうするつもりなのだろう。見ようによっては、不良の先輩に脅される後輩、という図に見えなくもないが。
承太郎は内心ドギマギとしている花京院をじっと見つめ、そしておもむろに片手を脇腹から腰へと滑らせてきた。
「う、うわッ、じょ、承太郎ッ!」
「肩と、腰のライン」
「はあ!?」
「最近、ちょっぴり丸くなった。気づいてねーだろ」
「失礼な……太ったとでもいうつもりか」
そうじゃあねえ、と低く言った承太郎の手が、今度は顎に触れた。くいと持ち上げられ、ぐっと顔を寄せてくる。慌てて押し返そうとその胸に両手をついて、どうしてか力が入らなかった。心臓がバカみたいに騒ぎ始める。この顔に、これだけ近い距離で見つめられて、抗える人間がいるならお目にかかってみたい。
けれど承太郎はそれ以上顔を近づけてはこなかった。それをなぜか残念に思う自分を、心のなかで叱りつける。彼は花京院のすみれ色の瞳を覗き込みながら、肉厚な唇をゆっくりと開いた。
「おれとやることやっちまってるから、かもな」
「……はい?」
「わからねえのか?」
ふっと笑われて、花京院は必死で考える。
自分では、自分の身体の些細な変化になど気づきようがない。けれど多分、承太郎は花京院以上に、この身体のことを知っているのだ。
自分たちは恋人同士で、とっくに一線も越えていて、花京院が自分で触れたことすらない場所に、彼はもう何度も触れていた。
(い、色気……色気って……まさか……)
承太郎に、女のように抱かれているから。無意識に雄を寄せ付けるようなフェロモンでも振りまいていると、そう言いたいのか。知らないうちに、身体すら作りかえられているのだと。
頭の天辺から湯気が出そうだった。なんて恥ずかしいことを言うのだろう。あまりの羞恥に堪え切れず、それでも花京院は平静を装いながら、承太郎の胸を押し返した。
「ば、バカを言わないでください」
僅かな隙をついて、そこから逃げ出す。大木から数歩離れると、承太郎は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、両手をポケットに捻じ込んだ。
「あんまり無自覚でいると、妙な虫がつくぜ。案外、もうついちまってるかもしれねえが」
「ッ!」
承太郎の言葉に、少しドキリとさせられた。が、すぐにグッと眉間に皺を寄せる。
「それって君のことじゃあないのか?」
憎まれ口を叩きながら唇を尖らせた花京院に、承太郎は「かもな」と言って背を向けた。片手を上げて、ヒラヒラと振りながら去っていく背中を、赤く染まった顔で黙って見つめる。
すっかりその背が見えなくなると、花京院は自分の肩に目をやった。それから両手を腰に当て、そのラインを見下ろしてみる。やっぱり分からなかった。確かに肩幅に比べると、少し腰は細すぎるかもしれないが、だからといって女性的な身体つきとは思えない。
(バカバカしい。そんなわけあるもんか)
確かに花京院は承太郎に心も身体も許しているし、セックスは完全に受け身である。
けれど、かといって男としての矜持を失くしてしまったとは思わないし、花京院が許すのはあくまで承太郎だけだ。承太郎以外の男だったら、触れられることすら我慢ならない。女性のように扱われたり、そういう目で見られたりするのも絶対に嫌だった。
花京院はさっきまで承太郎と背を預けていた、桜の大木に目を向ける。一年前、彼と初めて言葉を交わしたのも、ちょうどこの体育館裏だった。
出会ってまだ、たったの一年。ふと、さっきのクラスメイトの言葉を思いだす。
『オレだって、自分で驚いてるんだよ』
全くだと、花京院は思った。
その点に関してだけは、彼の気持ちがよく分かる。
「ぼくも、こんなに好きになるとは思わなかった」
仄かに頬を染めながらぽつりと零し、花京院は次の授業を知らせるチャイムが鳴る前に、その場を後にした。
*
承太郎の存在を知ったのは、花京院がこの高校に入学してすぐのことだった。
JOJOという渾名で呼ばれ、派手に荒れている二年生がいることは、当然すぐに耳に入った。けれどその不良はまともに登校すること自体が稀であったし、せいぜい彼のファンだという女子生徒たちの絶叫を、遠くに聞く程度のものだった。
札付きの悪に加えて、女子人気が絶大。家柄がよく、サボってばかりのくせに成績は優秀。花京院にとっては、アニメや漫画の主人公みたいだな、程度の情報と認識しかなかった。おそらく関わりを持つことはないだろうと。
しかしその認識が、ある日を境にガラリと変わる事件が起きた。
一年生の間では承太郎を筆頭に、柄の悪い先輩に決して目をつけられないよう、目立った行動は避けるべきという意識が広がっていた。
そんな中、花京院だけは平然とお気に入りのピアスをつけていたし、制服だって自分の好みに合わせた色形のものを、堂々と着用していた。加えて桃色がかった赤い地毛が、完全に悪目立ちしていたらしい。
結果、入学して一ヶ月も経たないうちに、花京院は三年生の不良グループに目をつけられ、体育館裏に呼び出されてしまった。
「てめーか~~、一年の花京院ってのはよ~」
体育館の閉め切られた鉄製の引き戸に背を預ける花京院は、五~六人ほどの厳ついリーゼントに囲まれ、斜め下からねめつけられていた。
「ええ、そうですが、何か?」
全員がポケットに両手を突っ込み、猫背で身体を揺らしながらたった一人を取り囲んでいるという状況に、花京院はいっそ可笑しさこそ覚えたが、背筋をピンと伸ばしたまま冷静に応じる。
物怖じしないその態度は、端から気に入らない一年生であることに加えて、不良たちの怒りにあっという間に油を注いだ。
「一年坊主がイキがってんじゃねーぞッ! なんだぁ? このピアスに、ふざけた髪の色はよお?」
「何か問題でも? この程度、先輩方に迷惑をかけるほどのことではないでしょうし、髪は地毛です」
「嘘ぶっこいてんじゃあねーぞゴラァッ!! 今すぐその頭、マジもんの坊主にしてやるぜ!!」
そう言って、不良集団の一人が花京院の頭に掴みかかろうとした。が、一歩身体を横にずらしただけで、鉄の扉に全身をしたたか打ち付ける。
ぐえっ、という不様な悲鳴があがり、花京院はつい、口元に手を当てて笑ってしまった。
「てんめぇ~~~~」
強打した顔面を真っ赤にしながら、不良が怒りに肩を震わせた。その場にいた全員が殺気を放ち、いつ一斉に飛びかかって来てもおかしくない状況が出来上がる。
面倒だなと、花京院は思った。子供の頃からこの神経質そうな顔立ちや白い肌が災いして、女性的に見られがちだった。この手のタイプに舐められて、妙な因縁をつけられたことが幾度あったか知れない。元から人に媚びるくらいなら死んだ方がマシ、というプライドの持ち主でもあった花京院は、そんな連中に負けないためにも、それなりの護身術は身につけていた。
だから腕っぷしには自信があるのだ。多勢に無勢であったとしても、決して負ける気はしない。面倒なのは確かだが、とっとと片付けてしまおう。そういえば、今日は毎月欠かさず購読しているゲーム雑誌の発売日だった。コンビニに寄って、ついでに肉まんでも買って帰ろうか。
頭の片隅で呑気に考えていると、さっそく一人が飛びかかってきた。まずは適当にかわそうかと思っていた、その瞬間――。
「ぐぅえッ!!」
また、汚い呻きが上がった。
一瞬のことに、花京院は瞳を大きく見開く。
目の前で、さっきまで威勢よく吠えていたはずのリーゼントが、首吊り状態に陥っていた。
「げっ……JOJO……」
その場にいた誰かが言った。声を震わせながら。ぽかんとしている花京院の眼前で、見上げるほど大きな男が、不良男子の首根っこを掴んで持ち上げていた。
黒い学帽。前を開いた長ランに、金色の鎖。ああ、彼が噂の――。
承太郎は凄まじい怪力で、釣り上げていた不良を後方に投げ捨てた。吹っ飛んだ身体は三メートルほど離れた位置にある、まだ幾らか花を残す桜の大木に激突する。また汚い悲鳴が短くあがり、がっくりと項垂れて動かなくなった。
「こ、このやろう……ッ!」
残りの連中の殺気が増した。ピリピリとした狂暴な空気を放つ彼らだが、それとは逆に少しばかり腰が引けて見える。承太郎が学帽の鍔に隠れていた視線をゆらりと上げると、彼らは肩をビクリと跳ねさせた。
少し青みがかった緑色。長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳を見て、花京院は心臓をぐっと握り込まれたように、密かに息を詰める。
周りの不良たちは、もはや花京院に目もくれなかった。一帯を包み込む空気だけでも、すでに勝敗は明らかだ。しかしそこは学年が一つ上というプライドが、彼らに負けを認めさせなかった。
一人が制服のポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。凶器を手にした仲間がいるというだけで、彼らは途端に威勢を取り戻す。
「ついでだぜ、JOJO……このナマイキな一年坊主の前に、まずはてめーから始末してやるッ!!」
そこからは、何もかもが一瞬だった。
一斉に飛びかかった不良たちは、ものの数分もしないうちに鼻や口から血を流し、地面で身体を丸めながらのたうち回っていた。
(つ、強い)
承太郎は寸分の無駄もない動きで、あっという間に不良たちをのしてしまったのだ。憎らしいことに、両手をポケットに突っ込んだまま、である。
花京院の目に、嫌味なほど長い足から繰り出される蹴りと、その動きに合わせて翻る、黒い長ランの裾が未だに残像だけを残していた。
「ち、ちくしょう……ッ! 覚えてやがれぇ~~ッ!!」
全員が足を引きずるようにして逃げ去ってしまうと、承太郎は帽子の鍔を指先で引き下げながら「やれやれ」と言った。そして、そのまま花京院に目もくれず立ち去ろうとしたので、慌てて引き止める。
「あ、あの!」
「……なんだ」
「助けてくださって、ありがとうございます」
軽く頭を下げて礼を述べると、承太郎はこちらを振り向いて花京院をじっと見つめてきた。宝石のように美しい瞳だと思った。そして改めてその顔立ちを見て、女子人気が高いことにも納得する。気を抜くと、性別も忘れてうっかり見惚れてしまいそうだ。
「助けが必要だったわけじゃあ、なかったようだがな」
承太郎は興味なさげに小さく鼻から息をつくと、背後にある桜の大木へ軽く顎をしゃくって見せる。
「おれは昼寝の邪魔をされるとムカつくだけだ」
花京院は彼が示した桜の木へと目を向ける。昼寝というにはだいぶ時間が遅い気がするが、承太郎はあの大木の幹に腰を下ろし、背を預けて居眠りをしていたようだった。ちょうどこの方向だと死角になるため、自分を含めて誰も彼の存在に気がつかなかったというわけだ。
「それは失礼しました」
再び頭を下げた花京院に、承太郎は何も言わずに背を向ける。けれど咄嗟に「待って」と言って、また引き止めた。彼は振り向かず、ただ首だけを軽く捻ってこちらに横顔を見せる。
花京院はポケットから緑色の刺繍が入った白いハンカチを取り出し、承太郎へ近づいた。
「ナイフを持っていたのは、一人だけではなかったようですね」
小首を傾げて柔らかく微笑みながら、ハンカチを差し出した。あの一瞬の乱闘の際、どさくさに紛れてナイフを取り出した不良が、もう一人いたのだ。そのナイフは承太郎の太腿をほんの僅かに掠っただけではあったが、切れ味だけは抜群だったらしい。制服のズボンに切れ目が入り、そこから覗く肌に少量の血が滲んでいる。
承太郎は面食らったように瞳を見開き、すぐにふっと小さく鼻で笑った。そして短く「ありがとうよ」と言って、ハンカチを受け取った。
「名前は?」
その何気ない問いに、どうしてか心臓が小さく跳ねた。あの有名な不良が、決して関わることはないだろうと思っていたはずの男が、この自分に一瞬でも興味と意識を向けている。そのことがえらく特別なことのように思えて、すぐにでも逸らされかねない視線に、奇妙な焦燥を覚えた。花京院は咄嗟に、ただ短く「花京院典明」とだけ、声を発した。
「花京院、な。覚えておくぜ」
今度こそ背を向けて、軽く上げた片手をヒラヒラと振りながら去っていく後姿から、花京院はいつまでも目を逸らすことができなかった。
――それがいわゆる、承太郎との馴れ初めだった。
ハンカチを渡した後日、驚いたことに彼は一年生の教室までやって来た。洗濯をしてアイロンまでかけたハンカチを、わざわざ花京院へ返しに来たのだ。
もはや右に出る者がいないのではとまで言われる不良の、その意外な律儀さにはえらく驚かされた。
以来、なんとなくふたりは行動を共にすることが多くなった。昼休みには人気のない場所で昼食をとり、登下校のタイミングがかぶれば、肩を並べて歩く。それが偶然ではなく、互いに自然と待ち合わせをするようになるのに、時間はかからなかった。
承太郎はごちゃごちゃとしたやかましい音や声、環境があまり好きではないようだった。それは花京院も同じで、ふたりきりでいてもそれほど会話は多くなかった。けれど、沈黙が全く苦にならない。むしろ心地よいとすら思えて、なおのこと互いが互いを傍に置くことが、当然のことになっていった。
そしてなにもかもが、あまりにもごく自然に。
意識し合ったのがいつからだったのか、それすら分からないくらい、ふたりはごく当たり前のように、お互いの距離を0まで縮めた。息をするように、利き手でペンを走らせるように、通いなれた道を、いつも通り家路をたどるように、惹かれあっていた。
男同士。少しくらい葛藤があったってよかったんじゃあないかと、自分自身、呆れている。
けれど手が触れ合ったときも、唇が重なったときも、自分の中でひとつも違和感がなかった。初めて身体を繋げたときですら、最初からこうなることが分かっていたみたいに、疑問すら抱かなかったのだ。
そうして季節が廻り、花京院は二年生に、承太郎が三年生になった今も、ふたりの関係は続いている。
←戻る ・ 次へ→
――花京院くん。
花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん。
「かきょういんのりあきくん」
唇だけを動かして、何度も何度も名前を呼んだ。
そのたびに、心も身体も甘く蕩けてしまいそうだった。
「花京院くん……花京院、典明くん、の、のり……典明」
僕は一枚の写真を手にすると、それをテープで壁に貼り付けた。
小さなデスクライトだけに照らされた狭い部屋は、彼の写真で溢れかえっている。
天井も窓も、扉でさえも、その爽やかな笑顔に埋め尽くされていた。
この部屋にいると、まるで彼の優しい腕に包み込まれているようだ。
典明、典明、典明。かきょういんのりあき。
ああ、なんて麗しい響きだろう。
この世の綺麗なものを全て詰め込んだら、きっと彼のような人間ができあがる。
誰よりも美しくて、可愛くて、心優しい男の子。
彼は僕の全てで、僕の天使だ。神様が遣わしてくれた、僕だけの天使。
僕は彼を心から愛しているし、彼も、僕を深く愛してくれる。
「もうすぐの辛抱だからね。すぐに一緒になれるから」
僕はまだまだたくさんある写真の束から、一枚を取り出すと彼の笑顔に口づけた。
「愛してるよ、僕の典明」
*
花京院典明との出会いは、小林がこの高校に国語科の非常勤講師として勤務して、間もなくのことだった。
「うわ、なんか変な臭いすると思ったら、小林じゃん」
休み時間、次の授業で使う教材やプリントを抱えて廊下を歩いていると、擦れ違いざまに女子生徒の吐き捨てる声が聞こえた。
「ほんとだ、なにあの七三……今日もテッカテカじゃん。薄いし?」
「あのベージュのスーツ、いっつも着てない? よれよれだし、変な臭いするし」
「前の先生の方がよかったなー。なんでよりによって、あんな豚みたいなダサ男が来ちゃうのよ」
「しょーがないじゃん、産休だもん。だからってあんなのマジ勘弁だけどさぁ」
身を寄せ合い、こそこそと耳打ちし合っているようでいて、その声は全く潜められていない。小林はそれらを、背中を丸めるだけで聞こえないふりをした。
こんなことにいちいち反応するのはバカげているし、臭いだのなんだの、そんないわれなき中傷を受けることには慣れている。確かに自宅では給湯器がだいぶ前に壊れてしまったせいで、入浴は週に一度か二度、近場の銭湯で済ませる程度だった。だからわざわざ気を使って、休み時間の度にこれでもかというほど制汗剤を噴きかけているのだ。
(頭の悪い人間というのは、鼻の機能までおかしくなっているんだ。そうに決まってる。臭くて小汚い豚はお前らの方だ)
「ッ、と! あぶねーな! 前見て歩けよこのグズ!」
「!!」
そのとき、柄の悪い男子生徒が小林の肩にぶつかってきた。女子生徒たちの言葉に気を取られていた小林は、その衝撃で派手に転倒してしまう。身体を床に打ち付け、腕に抱えていたものを全て、散乱させてしまった。
「うぇ……ッ」
小林は呻きながらも慌てて身を起こし、膝立ちになると、散らばってしまったものへ手を伸ばす。けれど廊下を行き交う生徒たちが、プリントや教材を平然と踏みつけていくのを見て、硬直した。
次から次へと踏みつけられ、やがて白かったはずのプリントは、薄汚れた紙屑になる。
まるで今の自分を見ているような気分。けれど、それを認められるほど小林のプライドは低くない。
「見ろよあれ。どんくさ」
石のように動けないでいる小林に、幾つもの視線と囁き声が浴びせられた。この場にいる全員が、自分をバカにした目で見て、ケラケラと笑っている。
小林は込み上げる憎しみに、奥歯を強く噛み締めた。どっと汗が噴きだして、鼻息が荒くなっていくのを感じる。下膨れたような顔が赤く染まり、縁のない眼鏡が、どんどん曇った。
今すぐここにいる連中を殴り倒し、引きずりまわしてやれたらどんなに気が晴れるだろう。だけどそれをしないのは、自分が教師であり、大人だからだ。集団に向かっていくのが怖いわけでは決してない。自分が本気を出せば、こんな奴ら……。
けれどそんな小林の目の前に、『天使』は突然、舞い降りた。
「大丈夫ですか?」
澄んだ朝の空気のように、凛とした美しい声がかけられる。
床に固定されていた小林の視界に、白く繊細な手が滑り込んできて、靴跡だらけの教材やプリントを拾い上げた。やがて元通り一つにまとめられた束が、目の前に差し出される。
ゆらゆらと顔をあげた小林は、そのすみれ色に輝く宝石のような瞳に魅入られた。
(天使……?)
そこには桃色がかった赤い髪をふわりと揺らし、少し困ったように眉を下げた天使が、優しく微笑んでいた。ゴミばかりが集まる吹き溜まりのような世界で、彼だけが色鮮やかに小林の視界を彩る。
「花京院くんって、優しいしイケメンだよね」
「うんうん、紳士的で、王子様って感じがする♡」
「あんな豚にまで親切だなんて、ほんと超ステキ~!」
周りの声など、もう小林には遥か遠くの雑音にしか聞こえない。目の前の天使にぼうっと見惚れたまま、のろのろと立ちあがって差し出されたものを受け取った。一瞬だけ触れ合った指先から、熱いものがじわじわと広がっていく。
「では、ぼくはこれで」
ありがとう、の言葉さえ、喉奥に何かが詰まったように音にならず、ただの低い呻きになってしまう。それでも天使はにこりと笑って、軽く頭を下げると教室へ消えて行った。
気がつくとチャイムが鳴り、小林は静まり返った廊下にぽつんと佇んでいた。すみれ色の瞳と間近で目を合わせた、あの瞬間のまま時が止まったようだった。
(天使が現れた……あれは、神様からの贈り物に違いない……僕だけの、天使だ)
小林は確信した。
きっと彼も自分と目を合わせた瞬間、恋に落ちただろう。なぜなら自分たちが出会い、惹かれることは、神がさだめた運命だから。絶対そうに違いないと。
*
その日から、小林の人生はガラリと変わった。
なにせ36年間も生きてきて、初めての『恋人』を得たのだから。色褪せた毎日が、まるで薔薇色の輝きを帯びたように煌めいて見えた。花京院のことを思うだけで胸が甘く締め付けられて、空を飛んでいるようなふわふわとした気分になる。そして、愛し愛されているという充足感が、小林を包み込んだ。
けれど浮かれてばかりもいられないのが現実でもあった。自分たちの恋には、障害が多すぎる。花京院はまだ17歳で、子供の域をでないばかりか、小林にとっては教え子である。
学校で彼だけを特別扱いするわけにはいかないし、自分たちの関係を周りに知られるのは、ちょっと不味い。非常勤とはいえ、ようやくありつけた今の立場を失うわけにもいかないのだ。
彼もそれを理解しているのか、学校で顔を合わせても礼儀正しく挨拶をしてよこすだけで、不満を顔に出すことすらしなかった。
なんていじらしいのだろう。本当は片時も離れず、自分の傍にいたいだろうに。健気な天使を思うたび、小林の胸は熱く震えた。だからせめて、その寂しさを少しでも埋められるようにと、彼の自宅に花束や手紙を送った。差出人を書かずとも、彼ならすぐに分かってくれるはず。
それでも小林の中で罪の意識が消えることはなかった。こんなものでは足りない。自分の心遣いが、むしろ花京院を切なくさせているに違いなかった。
だからこっそりと、授業のあいだ席につく彼のひと房だけ長い前髪を、通りすがりにスルリと撫でてやった。柔らかな癖毛が羽根のように掌を掠める瞬間、彼はビクリと肩を震わせ、何事もなかったかのように通り過ぎる小林に、物言いたげな視線を向けてくる。
そうやって彼があまりにも喜ぶものだから、授業中はいつも他の生徒の目を盗んで、ささやかなスキンシップをはかってやることにした。
花京院への思いは、日増しに強くなっていった。
いつでも自然体の彼を感じていたくて、小林は暇さえあれば学校中で花京院の姿を探し、こっそりと小型カメラにおさめた。休み時間の何気ない一コマや、体育の時間など。
彼は誰にでも分け隔てなく親切で、いつも柔らかく微笑みながら接していた。その度に、小林の胸は引き裂かれるように痛むのだ。
本当ならあの笑顔も、優しさも、全てこの自分にだけ向けられるべきもののはず。花京院もまた、それを望んでいるに違いないのに。早く時が過ぎればいいのにと思った。ふたりだけの世界で、互いだけを見つめて、たっぷりと愛し合いたい。
けれど今は耐えるときだ。花京院が高校を卒業して、教師と生徒という関係から解放されるまでは。
しかし小林には、ひとつだけ気がかりなことがあった。
それは花京院の交友関係についてだ。
誰に対しても温和に接する彼だが、クラスや同じ学年に特別親しい人間はいないようだった。だがそれはいい。小林がどうしても気になって仕方がないのは、花京院がよく休み時間や学校の登下校を共にしている、ひとつ上の学年に在籍する生徒の存在だった。
空条承太郎。
JOJOという渾名で呼ばれる彼は、教師ですら手に負えないほどの不良として、あまりにも有名だった。聞けば一時期はケンカ相手を病院送りにしたり、気に入らない店では平気で無銭飲食をするなどして、警察沙汰に発展するまでの騒ぎを起こしていたという。
花京院はこのJOJOという札付きの悪に、すっかり目をつけられている様子だった。
こいつはやたらと勘が冴えているようで、小林が遠目からカメラを構えると、必ず察知したように辺りを見回す。そしてさりげなく花京院を、その大きな身体の影に隠してしまうのだ。
おそらく、花京院はあの不良になにか弱みでも握られているに違いない。でなければ、あの品行方正な麗しの天使が、あんな人間のクズと行動を共にするはずがないのだから。きっと誰も見ていないところで金銭を要求されたり、最悪もっと酷い目に遭っている可能性だってある。
どうにかしなければと考えた小林は、比較的話しやすそうな男性教諭にさりげなく近づいて――こいつは生徒からの評判があまりよくない――承太郎と花京院について訊ねてみた。すると、返ってきたのは意外な答えだった。
「ああ、JOJOですか。あれはとんだ不良でしたよ。入学早々、上の学年と派手にやらかしましてね。それで箔がついたのか、めきめき頭角を現してあっという間に番長ですよ。だけどねえ、今じゃあ大人しいもんです。ありゃあ花京院の影響じゃないかってね、教師連中みんな言ってますよ。いつの間に仲良くなったか知りませんがね、花京院とつるむようになって、学校をサボることもほとんどなくなりましたからなぁ。このまま卒業してくれるなら、こっちとしては大助かりですよ」
悪さはしなくなったが、番長として未だに名を馳せているため、それが逆にいい意味で抑止力になっている。だから下手に騒ぎを起こす不良もおらず、そして他校の生徒も手を出してこない。花京院様様です、などと言って笑う教師に、小林は媚びた愛想笑いを浮かべながら、腸が煮えくり返っていた。
それではまるで生贄ではないか。脅されて、仕方なく傍にいるに違いないのに、なぜ誰も気がつかないのだろう。
絶対に許せないと思った。そして、彼を守れるのはこの自分だけだとも。
気持ちだけは、今すぐあの不良に掴みかかり、花京院を救いだしてやりたかった。しかし、あの二メートル近い大男とやり合って、万が一自分に何かあれば、花京院を悲しませることになってしまう。それだけは絶対に避けて通りたかった。
別にあの不良が怖いわけではない。図体ばかりが無駄にデカいというだけで、どうせ見掛け倒しに決まっている。しかし今は体罰がどうとか、何かと面倒な世の中でもあるし……。
とにかく、何かできることはあるはずだ。小林は考えた。そして決断した。この自分になら、その辛さを少しでも和らげてやることができるはずだと。
以来、小林は放課後、何かにつけて花京院を準備室へ呼び出し、翌日の授業の準備に加え、本や書類の整理を手伝わせる機会を設けた。花京院は嫌な顔ひとつせず、むしろ待ちわびていたかのように小林の目には映った。
自分の立場を十分に理解している花京院は、必要以上に口をきいたり、傍に近寄ることはしなかった。言われた通りの作業を迅速にこなし、全てが済むと足早に帰っていく。
彼もいっぱいいっぱいなのだ。愛する男とふたりきりで、いともたやすく触れ合える距離にいるのに、我慢を強いられているのだから。けれどその時間だけは、あの厄介な不良のことも忘れられるはず。
今の小林にできるのは、少しでも彼の不安を取り除き、安らげるひと時を与えることだった。その時間が、小林にとっても至福のときだった。
花京院からは、いつも清潔そうな石鹸の香りがした。さりげなく近づくと微かに身を強張らせるところも、彼の身の清らかさを表しているようだった。
花京院が帰っていくと、小林は彼が触れたもの全てに触れ、時には舌を這わせた。堪らず自慰に耽ることもあった。花京院が座っていた椅子、机、本、紙屑ですら。彼への愛を囁きながら、自身を慰める行為に没頭した。穢れなき天使を、密かに冒涜するような行為。それがむしろ堪らなく興奮して、まだ誰も触れてないあの身体をこの手で愛する日に、思いを馳せるのだった。
←戻る ・ 次へ→
花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん。
「かきょういんのりあきくん」
唇だけを動かして、何度も何度も名前を呼んだ。
そのたびに、心も身体も甘く蕩けてしまいそうだった。
「花京院くん……花京院、典明くん、の、のり……典明」
僕は一枚の写真を手にすると、それをテープで壁に貼り付けた。
小さなデスクライトだけに照らされた狭い部屋は、彼の写真で溢れかえっている。
天井も窓も、扉でさえも、その爽やかな笑顔に埋め尽くされていた。
この部屋にいると、まるで彼の優しい腕に包み込まれているようだ。
典明、典明、典明。かきょういんのりあき。
ああ、なんて麗しい響きだろう。
この世の綺麗なものを全て詰め込んだら、きっと彼のような人間ができあがる。
誰よりも美しくて、可愛くて、心優しい男の子。
彼は僕の全てで、僕の天使だ。神様が遣わしてくれた、僕だけの天使。
僕は彼を心から愛しているし、彼も、僕を深く愛してくれる。
「もうすぐの辛抱だからね。すぐに一緒になれるから」
僕はまだまだたくさんある写真の束から、一枚を取り出すと彼の笑顔に口づけた。
「愛してるよ、僕の典明」
*
花京院典明との出会いは、小林がこの高校に国語科の非常勤講師として勤務して、間もなくのことだった。
「うわ、なんか変な臭いすると思ったら、小林じゃん」
休み時間、次の授業で使う教材やプリントを抱えて廊下を歩いていると、擦れ違いざまに女子生徒の吐き捨てる声が聞こえた。
「ほんとだ、なにあの七三……今日もテッカテカじゃん。薄いし?」
「あのベージュのスーツ、いっつも着てない? よれよれだし、変な臭いするし」
「前の先生の方がよかったなー。なんでよりによって、あんな豚みたいなダサ男が来ちゃうのよ」
「しょーがないじゃん、産休だもん。だからってあんなのマジ勘弁だけどさぁ」
身を寄せ合い、こそこそと耳打ちし合っているようでいて、その声は全く潜められていない。小林はそれらを、背中を丸めるだけで聞こえないふりをした。
こんなことにいちいち反応するのはバカげているし、臭いだのなんだの、そんないわれなき中傷を受けることには慣れている。確かに自宅では給湯器がだいぶ前に壊れてしまったせいで、入浴は週に一度か二度、近場の銭湯で済ませる程度だった。だからわざわざ気を使って、休み時間の度にこれでもかというほど制汗剤を噴きかけているのだ。
(頭の悪い人間というのは、鼻の機能までおかしくなっているんだ。そうに決まってる。臭くて小汚い豚はお前らの方だ)
「ッ、と! あぶねーな! 前見て歩けよこのグズ!」
「!!」
そのとき、柄の悪い男子生徒が小林の肩にぶつかってきた。女子生徒たちの言葉に気を取られていた小林は、その衝撃で派手に転倒してしまう。身体を床に打ち付け、腕に抱えていたものを全て、散乱させてしまった。
「うぇ……ッ」
小林は呻きながらも慌てて身を起こし、膝立ちになると、散らばってしまったものへ手を伸ばす。けれど廊下を行き交う生徒たちが、プリントや教材を平然と踏みつけていくのを見て、硬直した。
次から次へと踏みつけられ、やがて白かったはずのプリントは、薄汚れた紙屑になる。
まるで今の自分を見ているような気分。けれど、それを認められるほど小林のプライドは低くない。
「見ろよあれ。どんくさ」
石のように動けないでいる小林に、幾つもの視線と囁き声が浴びせられた。この場にいる全員が、自分をバカにした目で見て、ケラケラと笑っている。
小林は込み上げる憎しみに、奥歯を強く噛み締めた。どっと汗が噴きだして、鼻息が荒くなっていくのを感じる。下膨れたような顔が赤く染まり、縁のない眼鏡が、どんどん曇った。
今すぐここにいる連中を殴り倒し、引きずりまわしてやれたらどんなに気が晴れるだろう。だけどそれをしないのは、自分が教師であり、大人だからだ。集団に向かっていくのが怖いわけでは決してない。自分が本気を出せば、こんな奴ら……。
けれどそんな小林の目の前に、『天使』は突然、舞い降りた。
「大丈夫ですか?」
澄んだ朝の空気のように、凛とした美しい声がかけられる。
床に固定されていた小林の視界に、白く繊細な手が滑り込んできて、靴跡だらけの教材やプリントを拾い上げた。やがて元通り一つにまとめられた束が、目の前に差し出される。
ゆらゆらと顔をあげた小林は、そのすみれ色に輝く宝石のような瞳に魅入られた。
(天使……?)
そこには桃色がかった赤い髪をふわりと揺らし、少し困ったように眉を下げた天使が、優しく微笑んでいた。ゴミばかりが集まる吹き溜まりのような世界で、彼だけが色鮮やかに小林の視界を彩る。
「花京院くんって、優しいしイケメンだよね」
「うんうん、紳士的で、王子様って感じがする♡」
「あんな豚にまで親切だなんて、ほんと超ステキ~!」
周りの声など、もう小林には遥か遠くの雑音にしか聞こえない。目の前の天使にぼうっと見惚れたまま、のろのろと立ちあがって差し出されたものを受け取った。一瞬だけ触れ合った指先から、熱いものがじわじわと広がっていく。
「では、ぼくはこれで」
ありがとう、の言葉さえ、喉奥に何かが詰まったように音にならず、ただの低い呻きになってしまう。それでも天使はにこりと笑って、軽く頭を下げると教室へ消えて行った。
気がつくとチャイムが鳴り、小林は静まり返った廊下にぽつんと佇んでいた。すみれ色の瞳と間近で目を合わせた、あの瞬間のまま時が止まったようだった。
(天使が現れた……あれは、神様からの贈り物に違いない……僕だけの、天使だ)
小林は確信した。
きっと彼も自分と目を合わせた瞬間、恋に落ちただろう。なぜなら自分たちが出会い、惹かれることは、神がさだめた運命だから。絶対そうに違いないと。
*
その日から、小林の人生はガラリと変わった。
なにせ36年間も生きてきて、初めての『恋人』を得たのだから。色褪せた毎日が、まるで薔薇色の輝きを帯びたように煌めいて見えた。花京院のことを思うだけで胸が甘く締め付けられて、空を飛んでいるようなふわふわとした気分になる。そして、愛し愛されているという充足感が、小林を包み込んだ。
けれど浮かれてばかりもいられないのが現実でもあった。自分たちの恋には、障害が多すぎる。花京院はまだ17歳で、子供の域をでないばかりか、小林にとっては教え子である。
学校で彼だけを特別扱いするわけにはいかないし、自分たちの関係を周りに知られるのは、ちょっと不味い。非常勤とはいえ、ようやくありつけた今の立場を失うわけにもいかないのだ。
彼もそれを理解しているのか、学校で顔を合わせても礼儀正しく挨拶をしてよこすだけで、不満を顔に出すことすらしなかった。
なんていじらしいのだろう。本当は片時も離れず、自分の傍にいたいだろうに。健気な天使を思うたび、小林の胸は熱く震えた。だからせめて、その寂しさを少しでも埋められるようにと、彼の自宅に花束や手紙を送った。差出人を書かずとも、彼ならすぐに分かってくれるはず。
それでも小林の中で罪の意識が消えることはなかった。こんなものでは足りない。自分の心遣いが、むしろ花京院を切なくさせているに違いなかった。
だからこっそりと、授業のあいだ席につく彼のひと房だけ長い前髪を、通りすがりにスルリと撫でてやった。柔らかな癖毛が羽根のように掌を掠める瞬間、彼はビクリと肩を震わせ、何事もなかったかのように通り過ぎる小林に、物言いたげな視線を向けてくる。
そうやって彼があまりにも喜ぶものだから、授業中はいつも他の生徒の目を盗んで、ささやかなスキンシップをはかってやることにした。
花京院への思いは、日増しに強くなっていった。
いつでも自然体の彼を感じていたくて、小林は暇さえあれば学校中で花京院の姿を探し、こっそりと小型カメラにおさめた。休み時間の何気ない一コマや、体育の時間など。
彼は誰にでも分け隔てなく親切で、いつも柔らかく微笑みながら接していた。その度に、小林の胸は引き裂かれるように痛むのだ。
本当ならあの笑顔も、優しさも、全てこの自分にだけ向けられるべきもののはず。花京院もまた、それを望んでいるに違いないのに。早く時が過ぎればいいのにと思った。ふたりだけの世界で、互いだけを見つめて、たっぷりと愛し合いたい。
けれど今は耐えるときだ。花京院が高校を卒業して、教師と生徒という関係から解放されるまでは。
しかし小林には、ひとつだけ気がかりなことがあった。
それは花京院の交友関係についてだ。
誰に対しても温和に接する彼だが、クラスや同じ学年に特別親しい人間はいないようだった。だがそれはいい。小林がどうしても気になって仕方がないのは、花京院がよく休み時間や学校の登下校を共にしている、ひとつ上の学年に在籍する生徒の存在だった。
空条承太郎。
JOJOという渾名で呼ばれる彼は、教師ですら手に負えないほどの不良として、あまりにも有名だった。聞けば一時期はケンカ相手を病院送りにしたり、気に入らない店では平気で無銭飲食をするなどして、警察沙汰に発展するまでの騒ぎを起こしていたという。
花京院はこのJOJOという札付きの悪に、すっかり目をつけられている様子だった。
こいつはやたらと勘が冴えているようで、小林が遠目からカメラを構えると、必ず察知したように辺りを見回す。そしてさりげなく花京院を、その大きな身体の影に隠してしまうのだ。
おそらく、花京院はあの不良になにか弱みでも握られているに違いない。でなければ、あの品行方正な麗しの天使が、あんな人間のクズと行動を共にするはずがないのだから。きっと誰も見ていないところで金銭を要求されたり、最悪もっと酷い目に遭っている可能性だってある。
どうにかしなければと考えた小林は、比較的話しやすそうな男性教諭にさりげなく近づいて――こいつは生徒からの評判があまりよくない――承太郎と花京院について訊ねてみた。すると、返ってきたのは意外な答えだった。
「ああ、JOJOですか。あれはとんだ不良でしたよ。入学早々、上の学年と派手にやらかしましてね。それで箔がついたのか、めきめき頭角を現してあっという間に番長ですよ。だけどねえ、今じゃあ大人しいもんです。ありゃあ花京院の影響じゃないかってね、教師連中みんな言ってますよ。いつの間に仲良くなったか知りませんがね、花京院とつるむようになって、学校をサボることもほとんどなくなりましたからなぁ。このまま卒業してくれるなら、こっちとしては大助かりですよ」
悪さはしなくなったが、番長として未だに名を馳せているため、それが逆にいい意味で抑止力になっている。だから下手に騒ぎを起こす不良もおらず、そして他校の生徒も手を出してこない。花京院様様です、などと言って笑う教師に、小林は媚びた愛想笑いを浮かべながら、腸が煮えくり返っていた。
それではまるで生贄ではないか。脅されて、仕方なく傍にいるに違いないのに、なぜ誰も気がつかないのだろう。
絶対に許せないと思った。そして、彼を守れるのはこの自分だけだとも。
気持ちだけは、今すぐあの不良に掴みかかり、花京院を救いだしてやりたかった。しかし、あの二メートル近い大男とやり合って、万が一自分に何かあれば、花京院を悲しませることになってしまう。それだけは絶対に避けて通りたかった。
別にあの不良が怖いわけではない。図体ばかりが無駄にデカいというだけで、どうせ見掛け倒しに決まっている。しかし今は体罰がどうとか、何かと面倒な世の中でもあるし……。
とにかく、何かできることはあるはずだ。小林は考えた。そして決断した。この自分になら、その辛さを少しでも和らげてやることができるはずだと。
以来、小林は放課後、何かにつけて花京院を準備室へ呼び出し、翌日の授業の準備に加え、本や書類の整理を手伝わせる機会を設けた。花京院は嫌な顔ひとつせず、むしろ待ちわびていたかのように小林の目には映った。
自分の立場を十分に理解している花京院は、必要以上に口をきいたり、傍に近寄ることはしなかった。言われた通りの作業を迅速にこなし、全てが済むと足早に帰っていく。
彼もいっぱいいっぱいなのだ。愛する男とふたりきりで、いともたやすく触れ合える距離にいるのに、我慢を強いられているのだから。けれどその時間だけは、あの厄介な不良のことも忘れられるはず。
今の小林にできるのは、少しでも彼の不安を取り除き、安らげるひと時を与えることだった。その時間が、小林にとっても至福のときだった。
花京院からは、いつも清潔そうな石鹸の香りがした。さりげなく近づくと微かに身を強張らせるところも、彼の身の清らかさを表しているようだった。
花京院が帰っていくと、小林は彼が触れたもの全てに触れ、時には舌を這わせた。堪らず自慰に耽ることもあった。花京院が座っていた椅子、机、本、紙屑ですら。彼への愛を囁きながら、自身を慰める行為に没頭した。穢れなき天使を、密かに冒涜するような行為。それがむしろ堪らなく興奮して、まだ誰も触れてないあの身体をこの手で愛する日に、思いを馳せるのだった。
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それから数日は、何事もなく過ぎていった。
承太郎は真面目に授業を受け、用もなく準備室を訪れることも、なくなっていた。
教師と生徒。良好に築き上げていたと思われた関係は、あの日を境に失われてしまった。
寂しくないかといえば、嘘になる。ぬるま湯に浸かったような空間は決して悪くなかったし、教師として教え子に慕われるのは、とても心地がよかった。
だけどこれで正解だったのだと、そう思う。承太郎が求めていたのは、信頼できる教師としての花京院ではなく、もっと別の意味だったのだから。このまま彼も自分も、道を踏み外すようなことにならなくて、本当によかった。
花京院はというと、相変わらず頭痛に苛まれる日々を送っていた。もともと細くなっていた食も、さらにぐっと落ち込んで、一日の終わりにようやく、何も食べていなかったことに気がつくという有様だった。
このままではいけない。そう分かってはいるのだが、食事にかける時間があれば、身体を休めたいという欲求ばかりが膨らんでいく。気休めに噛み砕く鎮痛剤は、日に日に大した効果が期待できなくなっていった。
どうにかしなくては。この不健康な生活も、精神状態も、そして妻のことも。
気がつくとそんなことばかりを考えて、ついつい焦燥に駆られてしまう。だから結局、気が休まることなど、ほとんどないのだった。
しかしそんな日々を送っていたある日のこと。恐れていたことが、起こってしまった。
花京院は授業中、酷い眩暈と頭痛に襲われ、ついに倒れてしまったのだ。
+++
ざあざあと叩きつける雨の飛沫を、ワイパーの規則正しい音が切り裂いていた。
花京院はタクシーの後部座席から、煙ったように濡れる街並みを眺めながら、やけに景色がぼやけて見えるのを感じていた。
そういえば、眼鏡はジャケットの内ポケットに入れていたのだと思いだす。
「こりゃあしばらく止みませんねぇ、お客さん」
信号待ちの間、身を乗り出して空を覗き込んでいた運転手が、気さくに話しかけてくる。そうですね、と適当な返事をして、冷えた窓ガラスに頭をもたせかけた。
(情けないな、まったく)
四時間目の授業が始まってすぐ。教科書を音読する生徒の声に耳を傾けていた花京院は、突然ぐらりと視界が回るのを感じた。身体が大きく傾いたとき、きゃあ、という誰かの悲鳴を聞いたような気がする。そこで意識が暗闇に放り出されて、次に目覚めたのは保健室のベッドの上だった。
その頃すでに空はぐずつきはじめていて、今日はもう帰った方がいい、という養護教諭が呼んでくれたタクシーに乗り込む頃、雨は本格的に降りだしていた。
「はい、つきましたよ」
自分の不甲斐なさを呪いながら、見るともなしに景色を眺めていると、気づけばタクシーが自宅前に到着していた。
礼を言って支払いを済ませ、小走りで門をくぐる。雨音に混じって、走り去るタクシーのエンジン音が聞こえた。
今日の授業の遅れだとか、明日からの土日を前に済ませようと思っていた仕事だとか、とにかく今は全て忘れて、まずはしっかり休息をとろうと思った。少し無理をしてでも、なにか腹にものを入れなければと。
そんなことを考えながら玄関の鍵を開けようとして、なぜかすでに開けられていることに気がついた。
「?」
今朝、出かける前に戸締りはしっかり行ったはずだが。
花京院は首を傾げながら、ドアノブを回して中に入った。
玄関に脱ぎ捨ててある靴を見て、心臓が跳ねる。
――靴は、二足置いてあった。
ひとつは赤いパンプス。そしてもうひとつは、履き古した男性物のウォーキングシューズだった。明らかに、花京院のものではない。
背後でガチャリと閉まった扉の音に、また心臓が跳ねる。
視線を上げれば、長く伸びた廊下の先が、ぽっかりと黒い口を開けているように見えた。遠くに聞こえる雨音にまじって、笑い声のような、すすり泣きのような、高い声が微かに聞こえた気がする。
――それは妻の声に、とてもよく似ていた。
逃げろ、と頭の中で何かが警告を発している。このまま何も知らないふりをして、黙って家を飛び出せと。
けれど花京院はその警告をあえて無視するように、静かに靴を脱ぐと、冷たい廊下へ一歩、踏み出す。行くな、行くなと、頭の中でもう一人の自分が繰り返し、叫んでいた。
それでも花京院は、まるで何かに取り憑かれたように、音も立てずに廊下の闇を突っ切って、寝室のある二階へ続く階段をのぼりはじめた。
ドクン、ドクン、と頭の中で大きな音がする。雨音はずっとずっと遠くに聞こえて、氷のような静寂のなかに、よく知る笑い声が聞こえた。
やがて辿り着いた寝室のドアを、花京院は寸分の躊躇いもなく捻って、ドアを開けた。
「ッ……!?」
ふたつの肉の塊が、丸く目を見開いて息を飲んだ。
彼らはベッドの上で両腕を絡め合い、静止した時の中にいるように、ぴたりとも動かず、扉の前に佇む花京院を凝視している。やがて、ひとつの塊が動いた。
「あ、あなた、どうして」
それは妻の形をしていた。覆いかぶさるようにしていた男の胸を押し、シーツで裸の胸を隠しながら起き上がり、片足を床に下ろした。
「だ、旦那ァ……? お、おい、マジかよ」
男は花京院よりも、幾らか年若い青年だった。茶髪で、肌が浅黒い。黒いボクサーパンツ一丁で、膝立ちのまま、どうしたらいいか分からないという顔で、妻と花京院を交互に見ている。
妻は――妻は、指輪をしていなかった。
不思議なことに、それらを見てもなんの感情も沸いてこなかった。むしろ自分でも怖いくらい、内側で何かが熱を失っていくのを感じていた。
「あ、あの、違うのよ」
「髪」
「え、え?」
「切ったんだね」
花京院が知る彼女は、ずっと背中の半分ほどまで髪を伸ばしていた。今はそれが、肩につく程度の長さまで、切り揃えられている。まるで、知らない女のようだった。
「今日は体調が優れなくてね。早退させてもらったんだ」
花京院は部屋の中に入り込み、机の上に鞄を置きながらネクタイを外した。脱ぎ捨てたジャケットと一緒に、椅子の背もたれにバサリと掛ける。それから、ふと思いだしたように彼らを見やり、片手を翳すと「ああ、続けて」と、どこか間の抜けたことを言った。
「あ、あなた」
「いや、いいよ。じゃあ、ぼくはこれで」
手を洗わなくては、と思った。うがいをして、顔も洗いたいなと。
ふらふらと寝室を後にして、ぼやけた視界で転ばないように、手摺に手を這わせながら階段を下りる。
どうしてか、やたらと心が凪いでいた。まるで麻痺したように、なにも感じない。ただ少し、寒気がした。
一階へ下りると、花京院の足はどうしてか洗面所へは向かわなかった。そのまま玄関まで行くと靴を履き、扉を開けると雨の降りしきる外の世界へ、踏み出していた。
+++
勢いを強めた雨が針のように皮膚を刺し、黒光りするアスファルトに際限なく吸い込まれていく。
全身をずぶ濡れにしながら、花京院は目的もなく、ただのろのろと歩道を歩いていた。
どこに行こうとしているのか、自分でもよく分からなかった。
心のなかは空虚なままで、思考することすらままならない。雨音以外、なにも耳に入ってこなかった。
一台の乗用車が、そんな花京院の横を物凄いスピードで通り過ぎようとした。ああ、このままでは泥水をかぶってしまう。
けれど身体が咄嗟に動きそうもなかった。別にいいかと、投げ出しかけたそのとき。
――何かに強く、腕を引かれた。
「おいあんた」
雨音だけだった空間に、その声は一筋の光のように切り込んできた。頭上を何かに覆われながら、足元ギリギリのところに泥水が波打つのを茫然と見つめる。それから、腕を掴む声の主を見上げた。
「……じょうたろう?」
そこには、黒い傘をさした承太郎の顔があった。どんよりと煙る雨の世界で、鮮やかなエメラルドが物悲しげに揺れているような気がした。
どうして彼がここに。学校はどうしたのだろう。もう終わったのだろうか。時間の感覚が、まるでない。
承太郎は珍しく、どこか焦ったような余裕のない顔で、眉間にぐっと皺を寄せている。花京院は宙に浮かんでいるみたいな心地のまま、ことりと首を傾げた。
「どうして君がこんなところに」
「それはこっちの台詞だぜ……あんた、授業中に倒れて帰ったんじゃあなかったのか」
そういえばそうだったかと、花京院は伏せた睫毛の下で、所在無げに視線を彷徨わせる。腑抜けたような有様を見て、承太郎がひとつ、長い溜息を漏らした。
「倒れたって聞いてすっ飛んで来てみりゃあ、雨のなかをお散歩とはよ……てめー、一体なにしてやがる」
冷えすぎて感覚がなくなっていた皮膚に、ピリリとなにかが突き刺さったような気がした。ふと視線をあげれば、承太郎は押し殺したように食いしばった歯を僅かに覗かせ、目を細めていた。
「――怒ってるのか?」
彼の瞳は、明らかに怒りの色を宿していた。それがどうしてか、無感情でいた花京院の胸に深く突き刺さった。最愛の人の裏切りを目の当たりにしてさえ、何一つ動かなかった胸のうちに、曇天が覆うような不安が立ち込める。なぜこんな気持ちになってしまうのか。自分でも、分からないけれど。
承太郎は僅かに顔を伏せ、目元を学帽の鍔で隠しながら、舌打ちをした。その瞬間、身体を強く引き寄せられる。
――黒い傘が、音を立てて地面に落ちた。
花京院は、大きな彼の胸板にぴったりと身を寄せて、長い両腕に抱きすくめられていた。
ひゅっと息を飲んで目を見開く花京院の耳元で、承太郎が低く、ほんの少しだけ弱々しく、声を紡ぐ。
「あんたに何かあったら……死んじまうぜ、おれは」
「……ごめん」
どうしてか、咄嗟に謝っていた。
「身体、なんともねえのか」
「うん」
「本当に、なんともねえんだな」
「なんともないよ」
あたたかい、と思った。泣きたくなるくらい、承太郎の腕の中はあたたかい。そして、優しい。
何度も何度も確かめようとする承太郎の声に応えながら、花京院はようやく、バカなことをしているという実感と共に、あらゆる感情が追いついてくるのを感じた。
――そして今更のように、打ちのめされる。
「……ぼくは」
何か言いかけて、言葉にすることができなかった。何を言いたかったのかも、よく分からない。承太郎はただ黙って、そんな花京院を抱きしめていた。きっと彼の方がずっと、今の花京院の様子を見て戸惑っているだろうに。それなのに承太郎はなにも聞かずに、ただこうして熱を分け与えようとしてくれる。
もしかしたら彼の方がよほど、自分より大人なのかもしれないと、ぼんやり思った。
やがて承太郎は抱きしめていた腕を解くと、自分の学ランを脱いで花京院の肩にかぶせた。それからすぐに傘を拾い――もうどうしようもなく濡れてはいたが――ふたりの頭上に翳した。
自分よりもずっと広い肩幅を、学ランを通して感じながら、本当に大きな男だと、しみじみ感じる。
「帰るぜ。送っていく」
承太郎の申し出に、花京院は咄嗟に首を左右に振っていた。
あそこへは帰れない。帰りたくない。
――だけどそれ以上に、もう少しこのまま。
俯いたまま何も言わない花京院に、承太郎もまた口を噤んだ。
けれどすぐに大きな手が伸びて来て、肩を抱かれる。
「ちっと歩くぜ」
「……うん」
前を見据えながら短く言った承太郎に、花京院は弱々しく、首を縦に振った。
+++
承太郎に連れて来られたのは、彼の自宅だった。
噂には聞いていたが、そこは超がつくほど立派な和風邸宅で、承太郎はここで世界中を飛び回る父親の帰りを待ちながら、母親と二人だけで暮らしているらしかった。
その母親も、ここ数日はニューヨークで不動産王と名高い祖父の元へ、里帰りしているという。
通された和室で、花京院は頭からタオルをかぶったまま、座り込んでいた。濡れたワイシャツを肌に張りつけ、承太郎に借りた学ランすら脱がず、膝を抱えて顔を伏せている。
「風呂が沸いたぜ。早く入り――」
そこに姿を現した承太郎が、暗い中でただ背中を丸めている花京院を見て、呆れたように「やれやれ」と肩を竦めた。
「そのまんまじゃあ、風邪をひいちまう」
咎めるようにそう言って、承太郎は傍にしゃがみ込むと、タオル越しにわしわしと頭を撫でてくる。花京院は顔を伏せたまま、ただじっとして目を閉じていた。
「あとは風呂場に行きな。おれのでよけりゃあ、着替えも置いてある」
ある程度のところで手を止めて、承太郎が立ち上がる。
彼の言う通りにしなければと、分かってはいるのに、どうしてか身体が鉛のように重くて、動かなかった。
承太郎はそんな花京院をこれ以上急かすでもなく、ただ静かに見下ろしている。
沈黙だけが落ちるなか、遠くから、泣き崩れるような激しさで雨音が響いていた。
薄暗い室内と、満ちる沈黙。閉め切られた障子の向こうから、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音がしていた。
――けれど次の瞬間。
それらを掻き消す電子音が、けたたましく唸りを上げた。
花京院のズボンのポケットから、いつの間にか畳の上に転がり落ちていた、携帯電話から発されるものだった。
着信音は十秒経っても、二十秒経っても鳴りやまず、やがて留守番電話に切り替わる。そこで一度途切れ、再び鳴りだした。
「――出ねえのか」
承太郎の声に、花京院はゆらりと顔を上げた。視線だけ、すぐ脇に放り出されている携帯に向ける。点滅する緑色のライトが、視界の端で霞んでいた。
音も、光も、どこか夢のなかの出来事のようだった。電話の向こうにいるはずの相手の顔が、よく思いだせない。
花京院は再び顔を伏せた。
「……先生」
沈みかける意識を繋ぎ止めるのは、ただひとつ、承太郎の声だけのような気がしていた。
(どうしてだろう)
肩を抱かれ、雨の中を一つの傘で歩いている間、承太郎と花京院は一言も声を発さなかった。その無言の空間が、承太郎の温もりがとても心地よくて、大きな安堵に包まれていた。あのときの花京院は、ひどく打ちのめされていたはずなのに。
(そうか、あのときぼくは……)
電子音は止んでいた。以降、かかってくる様子はない。
知らず知らずのうちに詰めていたらしい息を吐き、花京院は顔を上げた。
「……君の、言うとおりだったんだ」
花京院がおもむろに口を開くと、承太郎は黙って隣に胡坐をかいた。
「ぼくの妻は――浮気をしていた」
承太郎が静かに息を飲む。あれだけ自信たっぷりに、核心を突いて来た男が。
「寝室で、男と寝ていたんだ。ぼくよりも幾らか若そうな、茶髪の男だった」
なぜわざわざ話そうと思ったのかは分からない。おまえには関係ないと、そう言って突っぱねたはずの相手に。
「彼女はずっと家を離れていた。でも時々、着替えを取りに戻って来ていたことは知っていたんだ。彼女が戻った日は、必ず家のなかで香水の残り香がしていたから。だけど――だけど、まさか男連れで戻っていたなんて、知らなかったな」
想像すると、笑えてしまった。ああやって花京院がいない間、妻は家に戻ってきては、あの男と寝ていたのだろうか。だとしたら、自分はそれを知らず、毎晩彼らが抱き合った後のベッドで、眠っていたのだ。皮肉でしかない。
「だから全部……君が言い当てた通りだったんだよ」
ふと、久しぶりに会った妻が、指輪をしていなかったことを、思い出す。花京院は左手の薬指から、指輪を抜き取った。それを思い切り、畳の床に投げつける。転がった先で踊るように円を描きながら、指輪はやがて動きを止めた。
(あのとき、ぼくが打ちのめされたのは――)
彼女の不貞を、目の当たりにしたからじゃあ、なかった。
妻を愛していると、準備室で承太郎に言い放ったあのときから。あるいは、そのずっと前から。
(ぼくの心も、とっくに彼女から離れていたからだ)
雨の中、承太郎の腕に抱かれながら。花京院は気がついてしまった。
自分たち夫婦が、もうとっくの昔に終わっていたのだということに。
承太郎は、ただ黙って花京院が吐き出す言葉に耳を傾けていた。けれど何も言うことがなくなって、また雨音だけの空間になると、彼は小さく息を吐きだす。そして言った。
「風呂、とっとと入んな」
もっとなにかあってもよさそうなのにと。花京院は密かに拍子抜けする。しかしもう感覚がないほどに、身体が冷え切っているのは確かだった。それでも花京院は、首を縦には振らなかった。
「……わたしはいい。君もずいぶん冷えただろう。いい大人が、みっともないことに付き合わせてすまなかった」
忘れてくれと付け足しながら、下げた頭を上げたとき、花京院は腑抜けた表情から、教師の顔に戻っていた。
しかし、承太郎の不満そうに眇められた瞳から目を逸らした瞬間、胸倉を掴まれ引き寄せられる。
「ッ!」
「あんまり聞き分けがねえと、風呂場まで担いでってひん剥くぜ」
「なッ、んてこと、言うんだい」
牙をむいたような怒りの表情が、互いの息がかかるほど至近距離にあった。燃えるような深いエメラルドが、花京院を縛りつけて離さない。
(ああ、まただ)
――吸い込まれる。
そう思った瞬間、食らいついてきた唇を、花京院は睫毛を伏せながら、受け止めていた。
承太郎が薄い唇に歯を立てる。ビクン、と大きく跳ねた肩を押さえつけるように抱かれ、そのまま床に雪崩れ込んだ。
舌が潜り込んできたとき、花京院はほとんど無意識に、承太郎の肩に両腕を回していた。
花京院の身体は、拒むことを、拒んでいた。口内を滅茶苦茶に暴かれながら、宥めるように自らも舌を差し出す。
柔らかく濡れた肉同士が、ぬるりと擦れて唾液が溢れる。頭の中まで掻きまわされているような気がして、それしか考えられなくなっていく自分に、恐怖を感じた。
なにをしているのだろう。相手は生徒で、年齢だけならまだ子供といっていい年頃で、自分は教師だ。
だけど今は、今だけは、ただの人と人でありたいと願っている。そう望んでいる。
(もう、いいじゃあないか)
ぴったりと肌に張り付くシャツのボタンに、承太郎の指が触れるのを許容しながら、花京院は自分の感情と真に向き合う。
あの雨のなかで。承太郎のエメラルドが怒りの色を浮かべるのを見て、花京院は怖いと思った。どうしてか、不安な気持ちでいっぱいになった。だから抱きしめられたとき、嬉しかった。
心の底から、嬉しかったのだ――。
+++
何度も何度もキスをしながら、裸で絡み合った。
雨の匂いが染みつく肌は、承太郎に触れられることで少しずつ、赤く色づいていく。
女のように触れられることに、戸惑いを覚えたのは最初のうちだけだった。承太郎の愛撫はどこか不器用で拙く、本当は彼がえらく緊張していることが伝わってくると、ただどうしようもなく、胸が締め付けられるばかりだった。
承太郎は、肩に綺麗な星型の痣を持っていた。女性とは違う、張りのある筋肉が隆起するその肩に、花京院は何度も指先で触れ、キスをした。
「ッ、くぅ、ぁ……!!」
承太郎の武骨な指が、足の付け根を分け入り、閉じている小さな穴に触れた。女性のように濡れるはずがないそこに、少し焦れた様子で潜り込んでくると、花京院はその痛みに身を強張らせる。承太郎は息をのみ、すぐに指を引き抜いてしまう。
「い、いい……やめなくて、いい」
「……痛えんだろ」
「いいから」
ここまできたら、もうやめられない。花京院は四つん這いのような形で覆いかぶさる承太郎の、股間に息づく若い雄に視線をやる。身体の大きさに比例して、そこは見たことがないほど大きく、逞しかった。
すでに血管が浮き上がるほど育ち切っているものを見て、あれを受け止めるには、相当の覚悟が必要だと思った。
承太郎はしばし逡巡したのち、自分の右手の人差し指と中指を口に含み、赤い舌を絡めながら潤わせる。そうして再び尻の谷間に指を這わせて来るのに合わせて、花京院は立てた両膝を大きく開いた。
いくら薄暗いとはいえ、閉め切った障子紙から差し込むほのかな光が、白く花京院の身体を照らし出す。羞恥に身を震わせながら、承太郎の濡れた指先を受け入れた。
「ぅ、う……ア……ッ」
凄まじい異物感。花京院が苦しげに呻いても、承太郎はもう手を止めることをしなかった。ただ時間をかけて、何度も指先を潤わせながらそこを開いていく。
生まれて初めて、身体のなかを他人に暴かれる感覚。承太郎の長い指の、太い関節部分まで、リアルに感じることができる。
けれどそのうち痛みや違和感よりも、何か不思議な熱が疼くのを感じはじめたことに、花京院は気がついた。半起ちだった性器が硬さを増して、先端から先走りが滲みはじめる。
「あぁッ、んっ……!」
押し込まれた指先がある一点に触れ、ズルズルと引き抜かれる瞬間、自分でも信じられないような甘ったるい声が漏れる。
「じょ、たろ、そこ、ぁ……ん、く……ッ」
腰が揺れるのが止まらない。生まれて初めての、その背徳的な快感に、花京院は身悶えながら首を嫌々と振った。
甘えた声と、甘えた仕草。情けないと思うのに、そのなにもかもが、もうどうでもよかった。
「ッ……」
承太郎が小さく舌打ちをした。ずるりと少し乱暴に指が引き抜かれる感触に、内腿がぶるりと震える。
承太郎はいちど膝立ちになると、自身を片手で掴み上げて幾度か扱いた。先走りに濡れて、赤黒い性器の先端から竿にかけてが、いやらしくテカりを帯びている。彼は花京院の膝を掴み、押し上げるように割り開いた。
「ッ、ぅ」
指で散々かき回された穴に、熱い切っ先が宛がわれる。
背筋にぞわりと何かが駆け抜けた。ぐっと、押し込まれた瞬間の衝撃は、きっと一生忘れることができないだろう。
「ヒィッ、ぁ、――ッ」
捻じ込まれた瞬間、肉が千切れたような感覚に頭の中が白くなる。ガチガチと歯の音を鳴らしながら、花京院は目を見開いて酷く震えた。
承太郎は歯を食いしばり、花京院の両膝を自分の体重をかけながら押し上げる。太腿と胸がくっつくほど身体を折り曲げられると、その表情がぐっと近づいて来た。
「じょ、た……ろッ、ぃ――っ」
承太郎の額から伝った汗が、花京院の頬にぽたりと落ちた。
太い首に両腕を回して、その背を掻き抱く。熱い楔が全て肉壺に埋もれる頃には、痛みはただ痺れるような狂暴な熱に変わっていた。腹の中で脈打つ肉の感覚が、あまりにも生々しくて、息ができない。
自分の尻の穴が、教え子の――男の勃起した性器をずっぽりと咥え込んでいることを考えると、花京院は信じがたい衝撃と共に、不思議な興奮を覚える自身に気がついた。
承太郎はそんな花京院に覆いかぶさり、僅かに背を丸めると首筋に強く額を押し付け、手負いの獣のような荒々しい呼吸を繰り返していた。やがて、彼の腰がぶるりと震えて、低い呻きが上がった瞬間、腹の奥で焼けるような何かが、弾けた。
「ッ――!!」
花京院は喉を反らし、声もなく口をぱっくりと開けながら、その熱い放流を受け止めた。挿れただけで耐えきれず、極致に至った承太郎が、射精している。
「ッ、く、そ」
その感覚だけで気をやりそうになっていた花京院の耳元で、承太郎が悔しげな声を漏らす。彼は全て出し終えると、大きく息をついて花京院の上にぐったりと体重をかけてきた。
「じょ、たろ」
「……情けねえ」
同じ男だ。その気持ちは、わかる。けれどそれ以上に、嬉しいと感じていた。
無理な態勢や承太郎の重みで、身体は悲鳴をあげている。受け入れている場所はジリジリと炙られているみたいに痺れるし、腹の中は、苦しい。けれど、承太郎は大きく脈打ったまま、萎えることなく花京院の中にあった。
「――いいよ」
項垂れる頭を抱きしめて、少し癖のある黒髪を撫でた。
承太郎が顔をあげる。鼻先が触れ合う距離で悔しそうに潤むエメラルドを見て、ああ、彼はまだ、ほんの少年なのだと、思い知る。承太郎、と吐息だけで名前を呼んで。
「ぼくをこのまま、滅茶苦茶にしてくれるかい?」
うっとりと呟いた。承太郎は唇を引き結び、喉を詰まらせてから、赤らんだ頬で「やれやれだぜ」と格好つけて見せた。
それから、何度も何度も抱き合った。
夢中で腰を打ち付けながら、片時も花京院を離すことなく、承太郎は掠れた声で「好きだ」と「愛してる」を幾度も繰り返した。花京院は啼きながら、その身体を強く抱き返すだけで、精いっぱいだった。
+++
雨はいつの間にやんだのか。
花京院が目を覚ますと、障子の向こうは漆黒の闇が広がっていた。和紙に覆われた照明が、枕元で温かな暖色に揺れている。
「右の目元に泣きぼくろがふたつ。斜めに並んだ女が、あんたのカミさんだろ」
ひとつの布団に身を寄せ合い、裸のまま花京院を片腕に抱き込んだ承太郎が、おもむろに口を開いた。
まだ行為の疲労感を十分に引きずったまま、指先ひとつ動かすのも億劫だった花京院は、承太郎の鎖骨の辺りに伏せていた視線をふと、持ち上げる。
「そうだが……なぜそれを?」
「机に伏せてあった写真立て。あんたに呼び出されて、初めて準備室に行った、あんときに見た」
そうか。あの日は確か、遅刻してきた女子生徒に反省文を書かせている間、承太郎をひとり準備室に待たせていたのだ。別に他人から隠すために伏せていたわけではなかったから、花京院は小さくふぅんと息をつくだけだった。
「何回か、駅前の繁華街で見た。あんたより幾らか若そうな野郎と、ふたりで歩いているのをよ」
「繁華街って……そんな人ごみでよく気がついたな」
「視力と記憶力には自信があるんでね」
承太郎が彼女を見かけたのは偶然だった。たまたま擦れ違った女の目元に、特徴的なふたつのほくろを見つけて、妙に気になったのだと。
「あの写真に比べると、ずいぶん雰囲気が違ってたから、最初は他人の空似かと思ったぜ。だけど何回か見かけるうちに、あんたのカミさんだって気がついた」
ふたりはしょっちゅう、夜の街を寄り添って歩いていたという。飲み屋へ入っていくときもあれば、ホテル街に消えて行くこともあったと。どうしてそんな時間に高校生が外をほっつき歩いていたのか、それは今だけ、聞かないでおくことにした。
花京院はその話を聞いても、今更なんとも思わなかった。
ただ、承太郎が妻と別居状態でいることに切り込んで来たのは、見透かしていたわけでも、勘で言っていたわけでもなく、事実を知っていたからだったのだ。
「写真でも撮って、あんたに叩きつけてやるつもりだったけどよ。手間が省けたな」
「写真って……盗撮は犯罪だぞ」
呆れたように言う花京院に、承太郎は悪びれるでもなくただ静かに笑った。
「どのみちおれが、あんたを追い詰める気でいたんだぜ」
「性格が悪いな、君は」
「言っただろ。どんな手を使ってでも、おれはあんたをモノにするって」
恥ずかしいことを言うやつだ。この男にそんなセリフを吐かれたい女子が、一体どれほどいると思っているのか。
「君は顔と頭はいいが、趣味は最悪だと思うぞ。相手なんて選び放題だろうに。君にしてみれば、ぼくは十も歳の離れた、ただのおじさんじゃあないか」
「あんたの顔、高校生でも十分通じそうだぜ」
「……気にしてるんだから、それは言わないでくれ」
だいたい承太郎の方が、高校生のくせに老け顔なのだと、そうは思ったが、言葉にするのはそれこそ子供っぽい気がして、大きめの唇をむっつりと引き結ぶだけにした。
「笑った顔が、死んじまいそうなくらい可愛かったからよ」
承太郎は、鎖骨のあたりに顔を寄せている花京院の、桃色がかった髪の毛に、そっと口元を埋めながら言った。
「それが決め手というやつだぜ」
「わ、わかった。わかったよ、もう」
このままでは、恥ずかしさでこちらの方が死んでしまうと思った。花京院は真っ赤になった顔を見られないように気をつけながら、逃げるように承太郎から離れた。腰が抜けたようになっていて、信じられないような場所に違和感が残っているような気がしたが、それらを押して半身を起こす。
「すまないが、適当に服を貸してくれるか。あと、濡れた服を入れて帰る袋も」
「帰っちまうのか」
「当然だろ」
照れ隠しに少し素っ気なく言って、花京院は投げ出されていた携帯電話を手繰り寄せた。ディスプレイには不在着信が二件と、そして、メールが一件。もちろん、どれも妻からのものだった。
花京院はその一通だけのメールを開いてみることにした。
謝罪の言葉と共に、『誤解を解きたい』という内容の文章が、つらつらと書かれているのを見て、苦笑する。
あれだけ決定的な現場を抑えられながら、一体どんな言い訳をするというのだろう。なにより、先に裏切っていたはずの彼女が、それでもまだ夫婦関係を修復したいと考えていることが、滑稽に思えて仕方がない。
花京院は携帯をいったん枕元に放ると、今度は少し身を乗り出して、打ち捨てられていた銀色のリングを引き寄せた。手の平に乗せ、少しの間じっと見つめてから、ただ握りしめる。この指輪が、花京院の薬指にはまることは、もう二度とないのだ。
承太郎は後頭部で両手の指を組んだ姿勢で、そんな花京院を静かに見守っていた。それからふと、口を開く。
「これ、やっぱ不倫ってことになんのか」
ぼんやりと呟くようなその言葉に、なぜかふっと笑ってしまう。妻の浮気相手よりもずっと年若い、未成年である教え子と――しかも同性だ――身体を重ねてしまった自分の方が、彼女の行いよりも遥かに罪深いような気がした。
「書類上はまだ夫婦だからね。そうなるのかな?」
承太郎の方を振り向いて、おどけて言った。けれど少しだけ、手の中の指輪が重くなったような気がする。
「まるで足枷だぜ」
「皮肉なことを言うね」
永遠を誓ったはずのリングが、今はただ形ばかりの枷になっているなんて。
花京院は僅かに込み上げる感傷に、そっと目を閉じる。
彼女を愛していた。だけど、もう全てが過去だった。ただしがみついていただけの自分は、さっきまでの雨と一緒に、一欠けらも残さず、流れてしまったのだ。
「彼女と、ちゃんと話をするよ」
噛み締めるように紡いだ言葉に、承太郎は何も言わず、ただゆっくりと身を起こした。
「ぼくはもう彼女を愛していないし、向こうが何を考えているのかは分からないが、決着をつけるつもりでいる。だから……だから、それまで少し、待っていてほしい」
隣の承太郎を見つめながら、言った。最初に花京院の胸を捉えて離さなかった美しい瞳が、揺れる暖色の灯りに瞬いた。
承太郎が笑う。そっと身を寄せて、ふたりの唇が重なった。
キスは啄むように一瞬で、だけど互いに離れないまま動かなかった。
花京院はただ承太郎のエメラルドを見つめて、承太郎は花京院のアメジストを、ただ静かに見つめる。先に恥ずかしくなって、目を逸らしてしまったのは花京院の方だった。
頬が熱くなっている。いい歳をして、まるで初恋をしているような気分だった。
「来週は、学校も授業もサボるなよ」
最終的に花京院が逃げ道に選んだのは、教師としての顔だった。それでも耳まで赤くしたままで、どこまで自然体を装えているかは、怪しいのだが。
「居眠りはしちまうかもな」
承太郎は茶化すことなく、花京院の照れ隠しに便乗する。
「なら、説教と反省文だな」
「上等だぜ」
得意げに言う承太郎の高い鼻を、人差し指でつんと突きながら。花京院はあれほど疎ましいと思っていたはずの笑顔を、柔らかく浮かべて見せる。
好きだ、と囁きながら、僅かの隙間もなく抱きしめてくる承太郎の背に、同じだけの思いを込めて、両腕を回す。
どうしようもなく彼に惹かれる自分を許したことで、花京院はようやく、前へ踏み出すことができそうな気がしていた。
なんの根拠もないけれど、相手が彼以外であったなら、こうはならなかったと。そう確信するのは少し、都合がよすぎるだろうか。
だけど、それでも構わない。
全てが片付いたら、ちゃんと言おう。承太郎に、なんの足枷もない姿で、自分の気持ちを伝えよう。
――それまでは。
愛しているは、まだ言えない。
←戻る ・ Wavebox👏
承太郎は真面目に授業を受け、用もなく準備室を訪れることも、なくなっていた。
教師と生徒。良好に築き上げていたと思われた関係は、あの日を境に失われてしまった。
寂しくないかといえば、嘘になる。ぬるま湯に浸かったような空間は決して悪くなかったし、教師として教え子に慕われるのは、とても心地がよかった。
だけどこれで正解だったのだと、そう思う。承太郎が求めていたのは、信頼できる教師としての花京院ではなく、もっと別の意味だったのだから。このまま彼も自分も、道を踏み外すようなことにならなくて、本当によかった。
花京院はというと、相変わらず頭痛に苛まれる日々を送っていた。もともと細くなっていた食も、さらにぐっと落ち込んで、一日の終わりにようやく、何も食べていなかったことに気がつくという有様だった。
このままではいけない。そう分かってはいるのだが、食事にかける時間があれば、身体を休めたいという欲求ばかりが膨らんでいく。気休めに噛み砕く鎮痛剤は、日に日に大した効果が期待できなくなっていった。
どうにかしなくては。この不健康な生活も、精神状態も、そして妻のことも。
気がつくとそんなことばかりを考えて、ついつい焦燥に駆られてしまう。だから結局、気が休まることなど、ほとんどないのだった。
しかしそんな日々を送っていたある日のこと。恐れていたことが、起こってしまった。
花京院は授業中、酷い眩暈と頭痛に襲われ、ついに倒れてしまったのだ。
+++
ざあざあと叩きつける雨の飛沫を、ワイパーの規則正しい音が切り裂いていた。
花京院はタクシーの後部座席から、煙ったように濡れる街並みを眺めながら、やけに景色がぼやけて見えるのを感じていた。
そういえば、眼鏡はジャケットの内ポケットに入れていたのだと思いだす。
「こりゃあしばらく止みませんねぇ、お客さん」
信号待ちの間、身を乗り出して空を覗き込んでいた運転手が、気さくに話しかけてくる。そうですね、と適当な返事をして、冷えた窓ガラスに頭をもたせかけた。
(情けないな、まったく)
四時間目の授業が始まってすぐ。教科書を音読する生徒の声に耳を傾けていた花京院は、突然ぐらりと視界が回るのを感じた。身体が大きく傾いたとき、きゃあ、という誰かの悲鳴を聞いたような気がする。そこで意識が暗闇に放り出されて、次に目覚めたのは保健室のベッドの上だった。
その頃すでに空はぐずつきはじめていて、今日はもう帰った方がいい、という養護教諭が呼んでくれたタクシーに乗り込む頃、雨は本格的に降りだしていた。
「はい、つきましたよ」
自分の不甲斐なさを呪いながら、見るともなしに景色を眺めていると、気づけばタクシーが自宅前に到着していた。
礼を言って支払いを済ませ、小走りで門をくぐる。雨音に混じって、走り去るタクシーのエンジン音が聞こえた。
今日の授業の遅れだとか、明日からの土日を前に済ませようと思っていた仕事だとか、とにかく今は全て忘れて、まずはしっかり休息をとろうと思った。少し無理をしてでも、なにか腹にものを入れなければと。
そんなことを考えながら玄関の鍵を開けようとして、なぜかすでに開けられていることに気がついた。
「?」
今朝、出かける前に戸締りはしっかり行ったはずだが。
花京院は首を傾げながら、ドアノブを回して中に入った。
玄関に脱ぎ捨ててある靴を見て、心臓が跳ねる。
――靴は、二足置いてあった。
ひとつは赤いパンプス。そしてもうひとつは、履き古した男性物のウォーキングシューズだった。明らかに、花京院のものではない。
背後でガチャリと閉まった扉の音に、また心臓が跳ねる。
視線を上げれば、長く伸びた廊下の先が、ぽっかりと黒い口を開けているように見えた。遠くに聞こえる雨音にまじって、笑い声のような、すすり泣きのような、高い声が微かに聞こえた気がする。
――それは妻の声に、とてもよく似ていた。
逃げろ、と頭の中で何かが警告を発している。このまま何も知らないふりをして、黙って家を飛び出せと。
けれど花京院はその警告をあえて無視するように、静かに靴を脱ぐと、冷たい廊下へ一歩、踏み出す。行くな、行くなと、頭の中でもう一人の自分が繰り返し、叫んでいた。
それでも花京院は、まるで何かに取り憑かれたように、音も立てずに廊下の闇を突っ切って、寝室のある二階へ続く階段をのぼりはじめた。
ドクン、ドクン、と頭の中で大きな音がする。雨音はずっとずっと遠くに聞こえて、氷のような静寂のなかに、よく知る笑い声が聞こえた。
やがて辿り着いた寝室のドアを、花京院は寸分の躊躇いもなく捻って、ドアを開けた。
「ッ……!?」
ふたつの肉の塊が、丸く目を見開いて息を飲んだ。
彼らはベッドの上で両腕を絡め合い、静止した時の中にいるように、ぴたりとも動かず、扉の前に佇む花京院を凝視している。やがて、ひとつの塊が動いた。
「あ、あなた、どうして」
それは妻の形をしていた。覆いかぶさるようにしていた男の胸を押し、シーツで裸の胸を隠しながら起き上がり、片足を床に下ろした。
「だ、旦那ァ……? お、おい、マジかよ」
男は花京院よりも、幾らか年若い青年だった。茶髪で、肌が浅黒い。黒いボクサーパンツ一丁で、膝立ちのまま、どうしたらいいか分からないという顔で、妻と花京院を交互に見ている。
妻は――妻は、指輪をしていなかった。
不思議なことに、それらを見てもなんの感情も沸いてこなかった。むしろ自分でも怖いくらい、内側で何かが熱を失っていくのを感じていた。
「あ、あの、違うのよ」
「髪」
「え、え?」
「切ったんだね」
花京院が知る彼女は、ずっと背中の半分ほどまで髪を伸ばしていた。今はそれが、肩につく程度の長さまで、切り揃えられている。まるで、知らない女のようだった。
「今日は体調が優れなくてね。早退させてもらったんだ」
花京院は部屋の中に入り込み、机の上に鞄を置きながらネクタイを外した。脱ぎ捨てたジャケットと一緒に、椅子の背もたれにバサリと掛ける。それから、ふと思いだしたように彼らを見やり、片手を翳すと「ああ、続けて」と、どこか間の抜けたことを言った。
「あ、あなた」
「いや、いいよ。じゃあ、ぼくはこれで」
手を洗わなくては、と思った。うがいをして、顔も洗いたいなと。
ふらふらと寝室を後にして、ぼやけた視界で転ばないように、手摺に手を這わせながら階段を下りる。
どうしてか、やたらと心が凪いでいた。まるで麻痺したように、なにも感じない。ただ少し、寒気がした。
一階へ下りると、花京院の足はどうしてか洗面所へは向かわなかった。そのまま玄関まで行くと靴を履き、扉を開けると雨の降りしきる外の世界へ、踏み出していた。
+++
勢いを強めた雨が針のように皮膚を刺し、黒光りするアスファルトに際限なく吸い込まれていく。
全身をずぶ濡れにしながら、花京院は目的もなく、ただのろのろと歩道を歩いていた。
どこに行こうとしているのか、自分でもよく分からなかった。
心のなかは空虚なままで、思考することすらままならない。雨音以外、なにも耳に入ってこなかった。
一台の乗用車が、そんな花京院の横を物凄いスピードで通り過ぎようとした。ああ、このままでは泥水をかぶってしまう。
けれど身体が咄嗟に動きそうもなかった。別にいいかと、投げ出しかけたそのとき。
――何かに強く、腕を引かれた。
「おいあんた」
雨音だけだった空間に、その声は一筋の光のように切り込んできた。頭上を何かに覆われながら、足元ギリギリのところに泥水が波打つのを茫然と見つめる。それから、腕を掴む声の主を見上げた。
「……じょうたろう?」
そこには、黒い傘をさした承太郎の顔があった。どんよりと煙る雨の世界で、鮮やかなエメラルドが物悲しげに揺れているような気がした。
どうして彼がここに。学校はどうしたのだろう。もう終わったのだろうか。時間の感覚が、まるでない。
承太郎は珍しく、どこか焦ったような余裕のない顔で、眉間にぐっと皺を寄せている。花京院は宙に浮かんでいるみたいな心地のまま、ことりと首を傾げた。
「どうして君がこんなところに」
「それはこっちの台詞だぜ……あんた、授業中に倒れて帰ったんじゃあなかったのか」
そういえばそうだったかと、花京院は伏せた睫毛の下で、所在無げに視線を彷徨わせる。腑抜けたような有様を見て、承太郎がひとつ、長い溜息を漏らした。
「倒れたって聞いてすっ飛んで来てみりゃあ、雨のなかをお散歩とはよ……てめー、一体なにしてやがる」
冷えすぎて感覚がなくなっていた皮膚に、ピリリとなにかが突き刺さったような気がした。ふと視線をあげれば、承太郎は押し殺したように食いしばった歯を僅かに覗かせ、目を細めていた。
「――怒ってるのか?」
彼の瞳は、明らかに怒りの色を宿していた。それがどうしてか、無感情でいた花京院の胸に深く突き刺さった。最愛の人の裏切りを目の当たりにしてさえ、何一つ動かなかった胸のうちに、曇天が覆うような不安が立ち込める。なぜこんな気持ちになってしまうのか。自分でも、分からないけれど。
承太郎は僅かに顔を伏せ、目元を学帽の鍔で隠しながら、舌打ちをした。その瞬間、身体を強く引き寄せられる。
――黒い傘が、音を立てて地面に落ちた。
花京院は、大きな彼の胸板にぴったりと身を寄せて、長い両腕に抱きすくめられていた。
ひゅっと息を飲んで目を見開く花京院の耳元で、承太郎が低く、ほんの少しだけ弱々しく、声を紡ぐ。
「あんたに何かあったら……死んじまうぜ、おれは」
「……ごめん」
どうしてか、咄嗟に謝っていた。
「身体、なんともねえのか」
「うん」
「本当に、なんともねえんだな」
「なんともないよ」
あたたかい、と思った。泣きたくなるくらい、承太郎の腕の中はあたたかい。そして、優しい。
何度も何度も確かめようとする承太郎の声に応えながら、花京院はようやく、バカなことをしているという実感と共に、あらゆる感情が追いついてくるのを感じた。
――そして今更のように、打ちのめされる。
「……ぼくは」
何か言いかけて、言葉にすることができなかった。何を言いたかったのかも、よく分からない。承太郎はただ黙って、そんな花京院を抱きしめていた。きっと彼の方がずっと、今の花京院の様子を見て戸惑っているだろうに。それなのに承太郎はなにも聞かずに、ただこうして熱を分け与えようとしてくれる。
もしかしたら彼の方がよほど、自分より大人なのかもしれないと、ぼんやり思った。
やがて承太郎は抱きしめていた腕を解くと、自分の学ランを脱いで花京院の肩にかぶせた。それからすぐに傘を拾い――もうどうしようもなく濡れてはいたが――ふたりの頭上に翳した。
自分よりもずっと広い肩幅を、学ランを通して感じながら、本当に大きな男だと、しみじみ感じる。
「帰るぜ。送っていく」
承太郎の申し出に、花京院は咄嗟に首を左右に振っていた。
あそこへは帰れない。帰りたくない。
――だけどそれ以上に、もう少しこのまま。
俯いたまま何も言わない花京院に、承太郎もまた口を噤んだ。
けれどすぐに大きな手が伸びて来て、肩を抱かれる。
「ちっと歩くぜ」
「……うん」
前を見据えながら短く言った承太郎に、花京院は弱々しく、首を縦に振った。
+++
承太郎に連れて来られたのは、彼の自宅だった。
噂には聞いていたが、そこは超がつくほど立派な和風邸宅で、承太郎はここで世界中を飛び回る父親の帰りを待ちながら、母親と二人だけで暮らしているらしかった。
その母親も、ここ数日はニューヨークで不動産王と名高い祖父の元へ、里帰りしているという。
通された和室で、花京院は頭からタオルをかぶったまま、座り込んでいた。濡れたワイシャツを肌に張りつけ、承太郎に借りた学ランすら脱がず、膝を抱えて顔を伏せている。
「風呂が沸いたぜ。早く入り――」
そこに姿を現した承太郎が、暗い中でただ背中を丸めている花京院を見て、呆れたように「やれやれ」と肩を竦めた。
「そのまんまじゃあ、風邪をひいちまう」
咎めるようにそう言って、承太郎は傍にしゃがみ込むと、タオル越しにわしわしと頭を撫でてくる。花京院は顔を伏せたまま、ただじっとして目を閉じていた。
「あとは風呂場に行きな。おれのでよけりゃあ、着替えも置いてある」
ある程度のところで手を止めて、承太郎が立ち上がる。
彼の言う通りにしなければと、分かってはいるのに、どうしてか身体が鉛のように重くて、動かなかった。
承太郎はそんな花京院をこれ以上急かすでもなく、ただ静かに見下ろしている。
沈黙だけが落ちるなか、遠くから、泣き崩れるような激しさで雨音が響いていた。
薄暗い室内と、満ちる沈黙。閉め切られた障子の向こうから、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音がしていた。
――けれど次の瞬間。
それらを掻き消す電子音が、けたたましく唸りを上げた。
花京院のズボンのポケットから、いつの間にか畳の上に転がり落ちていた、携帯電話から発されるものだった。
着信音は十秒経っても、二十秒経っても鳴りやまず、やがて留守番電話に切り替わる。そこで一度途切れ、再び鳴りだした。
「――出ねえのか」
承太郎の声に、花京院はゆらりと顔を上げた。視線だけ、すぐ脇に放り出されている携帯に向ける。点滅する緑色のライトが、視界の端で霞んでいた。
音も、光も、どこか夢のなかの出来事のようだった。電話の向こうにいるはずの相手の顔が、よく思いだせない。
花京院は再び顔を伏せた。
「……先生」
沈みかける意識を繋ぎ止めるのは、ただひとつ、承太郎の声だけのような気がしていた。
(どうしてだろう)
肩を抱かれ、雨の中を一つの傘で歩いている間、承太郎と花京院は一言も声を発さなかった。その無言の空間が、承太郎の温もりがとても心地よくて、大きな安堵に包まれていた。あのときの花京院は、ひどく打ちのめされていたはずなのに。
(そうか、あのときぼくは……)
電子音は止んでいた。以降、かかってくる様子はない。
知らず知らずのうちに詰めていたらしい息を吐き、花京院は顔を上げた。
「……君の、言うとおりだったんだ」
花京院がおもむろに口を開くと、承太郎は黙って隣に胡坐をかいた。
「ぼくの妻は――浮気をしていた」
承太郎が静かに息を飲む。あれだけ自信たっぷりに、核心を突いて来た男が。
「寝室で、男と寝ていたんだ。ぼくよりも幾らか若そうな、茶髪の男だった」
なぜわざわざ話そうと思ったのかは分からない。おまえには関係ないと、そう言って突っぱねたはずの相手に。
「彼女はずっと家を離れていた。でも時々、着替えを取りに戻って来ていたことは知っていたんだ。彼女が戻った日は、必ず家のなかで香水の残り香がしていたから。だけど――だけど、まさか男連れで戻っていたなんて、知らなかったな」
想像すると、笑えてしまった。ああやって花京院がいない間、妻は家に戻ってきては、あの男と寝ていたのだろうか。だとしたら、自分はそれを知らず、毎晩彼らが抱き合った後のベッドで、眠っていたのだ。皮肉でしかない。
「だから全部……君が言い当てた通りだったんだよ」
ふと、久しぶりに会った妻が、指輪をしていなかったことを、思い出す。花京院は左手の薬指から、指輪を抜き取った。それを思い切り、畳の床に投げつける。転がった先で踊るように円を描きながら、指輪はやがて動きを止めた。
(あのとき、ぼくが打ちのめされたのは――)
彼女の不貞を、目の当たりにしたからじゃあ、なかった。
妻を愛していると、準備室で承太郎に言い放ったあのときから。あるいは、そのずっと前から。
(ぼくの心も、とっくに彼女から離れていたからだ)
雨の中、承太郎の腕に抱かれながら。花京院は気がついてしまった。
自分たち夫婦が、もうとっくの昔に終わっていたのだということに。
承太郎は、ただ黙って花京院が吐き出す言葉に耳を傾けていた。けれど何も言うことがなくなって、また雨音だけの空間になると、彼は小さく息を吐きだす。そして言った。
「風呂、とっとと入んな」
もっとなにかあってもよさそうなのにと。花京院は密かに拍子抜けする。しかしもう感覚がないほどに、身体が冷え切っているのは確かだった。それでも花京院は、首を縦には振らなかった。
「……わたしはいい。君もずいぶん冷えただろう。いい大人が、みっともないことに付き合わせてすまなかった」
忘れてくれと付け足しながら、下げた頭を上げたとき、花京院は腑抜けた表情から、教師の顔に戻っていた。
しかし、承太郎の不満そうに眇められた瞳から目を逸らした瞬間、胸倉を掴まれ引き寄せられる。
「ッ!」
「あんまり聞き分けがねえと、風呂場まで担いでってひん剥くぜ」
「なッ、んてこと、言うんだい」
牙をむいたような怒りの表情が、互いの息がかかるほど至近距離にあった。燃えるような深いエメラルドが、花京院を縛りつけて離さない。
(ああ、まただ)
――吸い込まれる。
そう思った瞬間、食らいついてきた唇を、花京院は睫毛を伏せながら、受け止めていた。
承太郎が薄い唇に歯を立てる。ビクン、と大きく跳ねた肩を押さえつけるように抱かれ、そのまま床に雪崩れ込んだ。
舌が潜り込んできたとき、花京院はほとんど無意識に、承太郎の肩に両腕を回していた。
花京院の身体は、拒むことを、拒んでいた。口内を滅茶苦茶に暴かれながら、宥めるように自らも舌を差し出す。
柔らかく濡れた肉同士が、ぬるりと擦れて唾液が溢れる。頭の中まで掻きまわされているような気がして、それしか考えられなくなっていく自分に、恐怖を感じた。
なにをしているのだろう。相手は生徒で、年齢だけならまだ子供といっていい年頃で、自分は教師だ。
だけど今は、今だけは、ただの人と人でありたいと願っている。そう望んでいる。
(もう、いいじゃあないか)
ぴったりと肌に張り付くシャツのボタンに、承太郎の指が触れるのを許容しながら、花京院は自分の感情と真に向き合う。
あの雨のなかで。承太郎のエメラルドが怒りの色を浮かべるのを見て、花京院は怖いと思った。どうしてか、不安な気持ちでいっぱいになった。だから抱きしめられたとき、嬉しかった。
心の底から、嬉しかったのだ――。
+++
何度も何度もキスをしながら、裸で絡み合った。
雨の匂いが染みつく肌は、承太郎に触れられることで少しずつ、赤く色づいていく。
女のように触れられることに、戸惑いを覚えたのは最初のうちだけだった。承太郎の愛撫はどこか不器用で拙く、本当は彼がえらく緊張していることが伝わってくると、ただどうしようもなく、胸が締め付けられるばかりだった。
承太郎は、肩に綺麗な星型の痣を持っていた。女性とは違う、張りのある筋肉が隆起するその肩に、花京院は何度も指先で触れ、キスをした。
「ッ、くぅ、ぁ……!!」
承太郎の武骨な指が、足の付け根を分け入り、閉じている小さな穴に触れた。女性のように濡れるはずがないそこに、少し焦れた様子で潜り込んでくると、花京院はその痛みに身を強張らせる。承太郎は息をのみ、すぐに指を引き抜いてしまう。
「い、いい……やめなくて、いい」
「……痛えんだろ」
「いいから」
ここまできたら、もうやめられない。花京院は四つん這いのような形で覆いかぶさる承太郎の、股間に息づく若い雄に視線をやる。身体の大きさに比例して、そこは見たことがないほど大きく、逞しかった。
すでに血管が浮き上がるほど育ち切っているものを見て、あれを受け止めるには、相当の覚悟が必要だと思った。
承太郎はしばし逡巡したのち、自分の右手の人差し指と中指を口に含み、赤い舌を絡めながら潤わせる。そうして再び尻の谷間に指を這わせて来るのに合わせて、花京院は立てた両膝を大きく開いた。
いくら薄暗いとはいえ、閉め切った障子紙から差し込むほのかな光が、白く花京院の身体を照らし出す。羞恥に身を震わせながら、承太郎の濡れた指先を受け入れた。
「ぅ、う……ア……ッ」
凄まじい異物感。花京院が苦しげに呻いても、承太郎はもう手を止めることをしなかった。ただ時間をかけて、何度も指先を潤わせながらそこを開いていく。
生まれて初めて、身体のなかを他人に暴かれる感覚。承太郎の長い指の、太い関節部分まで、リアルに感じることができる。
けれどそのうち痛みや違和感よりも、何か不思議な熱が疼くのを感じはじめたことに、花京院は気がついた。半起ちだった性器が硬さを増して、先端から先走りが滲みはじめる。
「あぁッ、んっ……!」
押し込まれた指先がある一点に触れ、ズルズルと引き抜かれる瞬間、自分でも信じられないような甘ったるい声が漏れる。
「じょ、たろ、そこ、ぁ……ん、く……ッ」
腰が揺れるのが止まらない。生まれて初めての、その背徳的な快感に、花京院は身悶えながら首を嫌々と振った。
甘えた声と、甘えた仕草。情けないと思うのに、そのなにもかもが、もうどうでもよかった。
「ッ……」
承太郎が小さく舌打ちをした。ずるりと少し乱暴に指が引き抜かれる感触に、内腿がぶるりと震える。
承太郎はいちど膝立ちになると、自身を片手で掴み上げて幾度か扱いた。先走りに濡れて、赤黒い性器の先端から竿にかけてが、いやらしくテカりを帯びている。彼は花京院の膝を掴み、押し上げるように割り開いた。
「ッ、ぅ」
指で散々かき回された穴に、熱い切っ先が宛がわれる。
背筋にぞわりと何かが駆け抜けた。ぐっと、押し込まれた瞬間の衝撃は、きっと一生忘れることができないだろう。
「ヒィッ、ぁ、――ッ」
捻じ込まれた瞬間、肉が千切れたような感覚に頭の中が白くなる。ガチガチと歯の音を鳴らしながら、花京院は目を見開いて酷く震えた。
承太郎は歯を食いしばり、花京院の両膝を自分の体重をかけながら押し上げる。太腿と胸がくっつくほど身体を折り曲げられると、その表情がぐっと近づいて来た。
「じょ、た……ろッ、ぃ――っ」
承太郎の額から伝った汗が、花京院の頬にぽたりと落ちた。
太い首に両腕を回して、その背を掻き抱く。熱い楔が全て肉壺に埋もれる頃には、痛みはただ痺れるような狂暴な熱に変わっていた。腹の中で脈打つ肉の感覚が、あまりにも生々しくて、息ができない。
自分の尻の穴が、教え子の――男の勃起した性器をずっぽりと咥え込んでいることを考えると、花京院は信じがたい衝撃と共に、不思議な興奮を覚える自身に気がついた。
承太郎はそんな花京院に覆いかぶさり、僅かに背を丸めると首筋に強く額を押し付け、手負いの獣のような荒々しい呼吸を繰り返していた。やがて、彼の腰がぶるりと震えて、低い呻きが上がった瞬間、腹の奥で焼けるような何かが、弾けた。
「ッ――!!」
花京院は喉を反らし、声もなく口をぱっくりと開けながら、その熱い放流を受け止めた。挿れただけで耐えきれず、極致に至った承太郎が、射精している。
「ッ、く、そ」
その感覚だけで気をやりそうになっていた花京院の耳元で、承太郎が悔しげな声を漏らす。彼は全て出し終えると、大きく息をついて花京院の上にぐったりと体重をかけてきた。
「じょ、たろ」
「……情けねえ」
同じ男だ。その気持ちは、わかる。けれどそれ以上に、嬉しいと感じていた。
無理な態勢や承太郎の重みで、身体は悲鳴をあげている。受け入れている場所はジリジリと炙られているみたいに痺れるし、腹の中は、苦しい。けれど、承太郎は大きく脈打ったまま、萎えることなく花京院の中にあった。
「――いいよ」
項垂れる頭を抱きしめて、少し癖のある黒髪を撫でた。
承太郎が顔をあげる。鼻先が触れ合う距離で悔しそうに潤むエメラルドを見て、ああ、彼はまだ、ほんの少年なのだと、思い知る。承太郎、と吐息だけで名前を呼んで。
「ぼくをこのまま、滅茶苦茶にしてくれるかい?」
うっとりと呟いた。承太郎は唇を引き結び、喉を詰まらせてから、赤らんだ頬で「やれやれだぜ」と格好つけて見せた。
それから、何度も何度も抱き合った。
夢中で腰を打ち付けながら、片時も花京院を離すことなく、承太郎は掠れた声で「好きだ」と「愛してる」を幾度も繰り返した。花京院は啼きながら、その身体を強く抱き返すだけで、精いっぱいだった。
+++
雨はいつの間にやんだのか。
花京院が目を覚ますと、障子の向こうは漆黒の闇が広がっていた。和紙に覆われた照明が、枕元で温かな暖色に揺れている。
「右の目元に泣きぼくろがふたつ。斜めに並んだ女が、あんたのカミさんだろ」
ひとつの布団に身を寄せ合い、裸のまま花京院を片腕に抱き込んだ承太郎が、おもむろに口を開いた。
まだ行為の疲労感を十分に引きずったまま、指先ひとつ動かすのも億劫だった花京院は、承太郎の鎖骨の辺りに伏せていた視線をふと、持ち上げる。
「そうだが……なぜそれを?」
「机に伏せてあった写真立て。あんたに呼び出されて、初めて準備室に行った、あんときに見た」
そうか。あの日は確か、遅刻してきた女子生徒に反省文を書かせている間、承太郎をひとり準備室に待たせていたのだ。別に他人から隠すために伏せていたわけではなかったから、花京院は小さくふぅんと息をつくだけだった。
「何回か、駅前の繁華街で見た。あんたより幾らか若そうな野郎と、ふたりで歩いているのをよ」
「繁華街って……そんな人ごみでよく気がついたな」
「視力と記憶力には自信があるんでね」
承太郎が彼女を見かけたのは偶然だった。たまたま擦れ違った女の目元に、特徴的なふたつのほくろを見つけて、妙に気になったのだと。
「あの写真に比べると、ずいぶん雰囲気が違ってたから、最初は他人の空似かと思ったぜ。だけど何回か見かけるうちに、あんたのカミさんだって気がついた」
ふたりはしょっちゅう、夜の街を寄り添って歩いていたという。飲み屋へ入っていくときもあれば、ホテル街に消えて行くこともあったと。どうしてそんな時間に高校生が外をほっつき歩いていたのか、それは今だけ、聞かないでおくことにした。
花京院はその話を聞いても、今更なんとも思わなかった。
ただ、承太郎が妻と別居状態でいることに切り込んで来たのは、見透かしていたわけでも、勘で言っていたわけでもなく、事実を知っていたからだったのだ。
「写真でも撮って、あんたに叩きつけてやるつもりだったけどよ。手間が省けたな」
「写真って……盗撮は犯罪だぞ」
呆れたように言う花京院に、承太郎は悪びれるでもなくただ静かに笑った。
「どのみちおれが、あんたを追い詰める気でいたんだぜ」
「性格が悪いな、君は」
「言っただろ。どんな手を使ってでも、おれはあんたをモノにするって」
恥ずかしいことを言うやつだ。この男にそんなセリフを吐かれたい女子が、一体どれほどいると思っているのか。
「君は顔と頭はいいが、趣味は最悪だと思うぞ。相手なんて選び放題だろうに。君にしてみれば、ぼくは十も歳の離れた、ただのおじさんじゃあないか」
「あんたの顔、高校生でも十分通じそうだぜ」
「……気にしてるんだから、それは言わないでくれ」
だいたい承太郎の方が、高校生のくせに老け顔なのだと、そうは思ったが、言葉にするのはそれこそ子供っぽい気がして、大きめの唇をむっつりと引き結ぶだけにした。
「笑った顔が、死んじまいそうなくらい可愛かったからよ」
承太郎は、鎖骨のあたりに顔を寄せている花京院の、桃色がかった髪の毛に、そっと口元を埋めながら言った。
「それが決め手というやつだぜ」
「わ、わかった。わかったよ、もう」
このままでは、恥ずかしさでこちらの方が死んでしまうと思った。花京院は真っ赤になった顔を見られないように気をつけながら、逃げるように承太郎から離れた。腰が抜けたようになっていて、信じられないような場所に違和感が残っているような気がしたが、それらを押して半身を起こす。
「すまないが、適当に服を貸してくれるか。あと、濡れた服を入れて帰る袋も」
「帰っちまうのか」
「当然だろ」
照れ隠しに少し素っ気なく言って、花京院は投げ出されていた携帯電話を手繰り寄せた。ディスプレイには不在着信が二件と、そして、メールが一件。もちろん、どれも妻からのものだった。
花京院はその一通だけのメールを開いてみることにした。
謝罪の言葉と共に、『誤解を解きたい』という内容の文章が、つらつらと書かれているのを見て、苦笑する。
あれだけ決定的な現場を抑えられながら、一体どんな言い訳をするというのだろう。なにより、先に裏切っていたはずの彼女が、それでもまだ夫婦関係を修復したいと考えていることが、滑稽に思えて仕方がない。
花京院は携帯をいったん枕元に放ると、今度は少し身を乗り出して、打ち捨てられていた銀色のリングを引き寄せた。手の平に乗せ、少しの間じっと見つめてから、ただ握りしめる。この指輪が、花京院の薬指にはまることは、もう二度とないのだ。
承太郎は後頭部で両手の指を組んだ姿勢で、そんな花京院を静かに見守っていた。それからふと、口を開く。
「これ、やっぱ不倫ってことになんのか」
ぼんやりと呟くようなその言葉に、なぜかふっと笑ってしまう。妻の浮気相手よりもずっと年若い、未成年である教え子と――しかも同性だ――身体を重ねてしまった自分の方が、彼女の行いよりも遥かに罪深いような気がした。
「書類上はまだ夫婦だからね。そうなるのかな?」
承太郎の方を振り向いて、おどけて言った。けれど少しだけ、手の中の指輪が重くなったような気がする。
「まるで足枷だぜ」
「皮肉なことを言うね」
永遠を誓ったはずのリングが、今はただ形ばかりの枷になっているなんて。
花京院は僅かに込み上げる感傷に、そっと目を閉じる。
彼女を愛していた。だけど、もう全てが過去だった。ただしがみついていただけの自分は、さっきまでの雨と一緒に、一欠けらも残さず、流れてしまったのだ。
「彼女と、ちゃんと話をするよ」
噛み締めるように紡いだ言葉に、承太郎は何も言わず、ただゆっくりと身を起こした。
「ぼくはもう彼女を愛していないし、向こうが何を考えているのかは分からないが、決着をつけるつもりでいる。だから……だから、それまで少し、待っていてほしい」
隣の承太郎を見つめながら、言った。最初に花京院の胸を捉えて離さなかった美しい瞳が、揺れる暖色の灯りに瞬いた。
承太郎が笑う。そっと身を寄せて、ふたりの唇が重なった。
キスは啄むように一瞬で、だけど互いに離れないまま動かなかった。
花京院はただ承太郎のエメラルドを見つめて、承太郎は花京院のアメジストを、ただ静かに見つめる。先に恥ずかしくなって、目を逸らしてしまったのは花京院の方だった。
頬が熱くなっている。いい歳をして、まるで初恋をしているような気分だった。
「来週は、学校も授業もサボるなよ」
最終的に花京院が逃げ道に選んだのは、教師としての顔だった。それでも耳まで赤くしたままで、どこまで自然体を装えているかは、怪しいのだが。
「居眠りはしちまうかもな」
承太郎は茶化すことなく、花京院の照れ隠しに便乗する。
「なら、説教と反省文だな」
「上等だぜ」
得意げに言う承太郎の高い鼻を、人差し指でつんと突きながら。花京院はあれほど疎ましいと思っていたはずの笑顔を、柔らかく浮かべて見せる。
好きだ、と囁きながら、僅かの隙間もなく抱きしめてくる承太郎の背に、同じだけの思いを込めて、両腕を回す。
どうしようもなく彼に惹かれる自分を許したことで、花京院はようやく、前へ踏み出すことができそうな気がしていた。
なんの根拠もないけれど、相手が彼以外であったなら、こうはならなかったと。そう確信するのは少し、都合がよすぎるだろうか。
だけど、それでも構わない。
全てが片付いたら、ちゃんと言おう。承太郎に、なんの足枷もない姿で、自分の気持ちを伝えよう。
――それまでは。
愛しているは、まだ言えない。
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妻とは同じ大学のゼミで知り合った。
長く艶やかな黒髪をひとつにまとめ、最低限の化粧だけをした彼女は、目元にふたつ並ぶ泣きぼくろが印象的な、清楚で可愛らしい女性だった。
元々あまり人付き合いが得意な方ではない花京院だったが、物静かな彼女とは波長が合ったのか、ぽつぽつと当たり障りのない会話をしているうちに、少しずつ趣味の話をするようになって、お互いを知り、やがて恋に落ちた。
結婚したのは二十五のとき。今から二年前のことだ。
それぞれ仕事をもち、忙しい日々を送っていたが、結婚生活はそれなりに順調だったと思う。
だけどいつからか、仕事にかまけて擦れ違うことが多くなっていった。よくある話。
黒く美しかったはずの髪が緩やかなウェーブを描き、蜂蜜のような色に変わったことに気がついたのは、いつだったろう。
薄くリップを引くだけだった唇が、艶やかに色づきはじめたのは。香水の香りが、寝具に沁みつきはじめたのは――。
やがて妻は、家に帰らない日が多くなっていった。実家の母親が体調を崩したからと、父も高齢で、まるで家事ができない人だからと、そう言っては徐々に、離れていった。
時おり着替えは取りに戻って来ていたが、今では形跡があるだけで、顔を合わせる機会は皆無に等しい。
花京院にとって、彼女の両親は自分にとっても大事な人たちだ。だから時間を作って見舞いに行くと言っても、どうしてか妻はそれを頑なに拒否するのだ。迷惑をかけたくないという、一点張りだった。
そうしてほぼ別居状態の暮らしが、かれこれ半年近くになっているだろうか。
花京院だってバカじゃあない。本心では彼女が自分に隠し事をしていることには、気がついている。だけど同時に、疑うこともしたくはなかった。
なぜなら、妻を愛しているから。これからもずっと、愛し続けていけるはずだから。
――本当は真実を知るのが怖いだけ。傷つくことを、恐れているだけ。
それさえも、気がついているのだけれど。
+++
それから数日後。
花京院の運命を狂わせる発端となった出来事は、この日の午前中に起こってしまった。
「承太郎、ここは君の隠れみのじゃあないんだぞ?」
爽やかな日差しで溢れる準備室。この時間、ちょうど授業がなかった花京院が戻ってみると、そこにはあの空条承太郎の姿があった。
先日と同じように、二人は机を挟んで向かい合う形で椅子に座っている。
「君、今は体育の時間だろう。今日は確か――マラソンの授業だったはずだ。それがどうして体操着にすら着替えず、用もないのにこんなところにいるんだい」
花京院は眉間に皺を寄せ、険しい表情で腕組みをしていた。
いくら不良という札をぶら下げていようが、生徒は決められた時間割の中で、授業に取り組む義務がある。
「おれだって真面目に参加する気でいたんだぜ」
「よくもまあぬけぬけと。いいから、今からでも着替えて校庭に行きなさい」
承太郎は渋面を作って、組んでいた足を組みかえると、うんざりしたような息を漏らした。
「おれがいると、逆に授業の邪魔なんだがな」
「は?」
それは一体どういうことだと問いかけるより先に、開け放った窓の向こうから、秋風と共になにやら騒がしい声が流れ込んでくる。
『JOJO! JOJOはどこ!?』
『男子はマラソンなんでしょ!? JOJOがいないんじゃ、見る価値ないじゃないッ!』
『やぁ~ん、走ってるとこ写メりたいのにィ~』
「……はぁ」
花京院はそれらの甲高い声に頭痛を覚え、溜息を漏らしながら額を押さえると、立ち上がった。カラカラと音を立てて窓を閉め切れば、小うるさい声は幾らか遠のく。
JOJO、というのは、彼の渾名だ。空条承太郎――だから、JOJO。ほとんどの人間から、そう呼ばれている。
「やれやれだぜ」
「君の言い分は、まぁ百歩譲って一理あると言えなくもないが」
この日本人離れした長身の美丈夫を、世の女性が放っておくはずはない。常に女子の群れに纏わりつかれ、「やかましい」と怒鳴り上げる光景は、誰もが見慣れた光景になっている。そんな状況が授業中ですら展開されるというのは、確かに迷惑この上ないことではあるのだが。それとこれとは、話が違う。
花京院は再び椅子に掛け、承太郎を見据えると言った。
「君は学生だ。学生の本分は勉学に励むこと。怪我や病気でもない限り、授業には出席するのが道理じゃあないか?」
いくら女子生徒が暴走しようとも、それを律する役目は教師の仕事だ。なにも彼が気を使う必要など、どこにもない。
それに、ここで油を売られるのも困るのだ。花京院だって暇ではない。次の授業の準備だってしなければならないし、少しくらいは、肩の力を抜く時間だって欲しい。
最近では、定期的に薬を飲んでおかなければ不安になるほど、頭痛の頻度も増している。
しかし、承太郎は聞いているのかいないのか、ただじっと花京院の顔を見つめているだけだった。午前中の白い光の中で見るエメラルドは、夕暮れ時に見るのとはまた、印象がガラリと変わる。南国に凪ぐ海を思わせる煌めきに、意識が波にさらわれそうになるのを感じた。
(……このあいだから、ぼくはどうかしている)
いくら誰もが振り返るほどの美貌を持つ相手とはいえ、男に――しかも生徒に見惚れるなんて、あってはならないことだ。
なにか話をすり替えなくては。妙な焦燥に駆られた花京院は、承太郎から視線だけを僅かに逸らして、息をついた。
「だいたい君は、しょっちゅう学校自体をサボっているだろう。このままでは進路に響くぞ。そもそも、ちゃんと将来のことを考えているのか?」
花京院の説教じみた――実際、説教でしかないのだが――問いかけに、承太郎は一瞬、視線をゆらりと彷徨わせた。
花京院はその瞳の動きを、注意深く観察する。なにか言いたげに、けれどむっと引き結ばれた唇が、幾分か彼を年相応に見せているような気がするのは、気のせいだろうか。
「……言ってもいいけどよ」
「ああ」
「あんた、笑うぜ」
「それは聞いてみなければ分からないな。よほど非現実的な内容でない限り、生徒の希望を笑い飛ばす教師なんかいやしないさ」
その言葉を聞いて、承太郎は逸らしていた視線を花京院へ戻すと、ふぅんと微かに唸る。その後しばしの沈黙を経て、ぼそりと何かが吐き出された。
「……がくしゃ」
「なんだって?」
「学者だよ。学者。海洋生物学者」
彼の口から飛び出した、実に意外な希望を聞いて、花京院は思わず目を丸くした。しょっちゅう学校や授業をサボり、他校の生徒とケンカをし、問題ばかりを起こすような不良が、学者志望だなんて。一体だれが想像できるだろう。
承太郎は普段のクールな二枚目が嘘のように、少しだけ頬を赤らめて、唇を尖らせている。ふいっと背けられた顔を見て、彼がひどく照れているのだと気がついた花京院は、思わず肩を揺らして笑ってしまった。
「ふっ、ふふ……ノォホッ」
「……やっぱり笑いやがった」
「違う違う。ふふ、君の将来の夢を笑ったんじゃあない」
花京院は口元に添えていた手を、承太郎に向けてヒラヒラと振ってみせた。
「確かに意外には思ったけれど、君がそんな顔をするなんて……まるで不貞腐れた子供のような顔だったぞ」
あの空条承太郎が、だ。なかなか可愛いところもあるじゃあないかと、つい堪えきれずに笑ってしまったのだ。
「恥じることなどなにもないさ。立派な進路じゃあないか。わたしは君を応援しよう」
実際、彼は生活態度を除いて成績にはなんら問題はないのだ。
少々解せないが、むしろ優秀といえる生徒だった。
承太郎は思い切り舌打ちをして、赤らんだ顔を隠すように帽子の鍔を引き下げた。けれど視線だけは持ち上げて、笑みを浮かべる花京院をじっと見つめる。そして言った。
「――あんた、やっぱり笑うと可愛いな」
「ッ……!?」
「眼鏡がなけりゃあ、もっといいと思うぜ」
しまった、と、花京院は思う。そして今更のように、愕然とした。
(……嘘、だろ?)
――笑った。笑ってしまった。
驚くほどごく自然に。いつ以来なのか分からないくらい、久しぶりに。
咄嗟に片手で口元を覆った。ずっと人前では笑わないよう、仮面をつけていたはずだし、それ以前に、笑い方なんて忘れてしまっていたはずなのに。
しかも、可愛いとはなんだ。二十七の男を捕まえて、たかが十七かそこらの男子高校生が。そんな風に言われるのが嫌だから、ずっと隠していたというのに。
さっきの承太郎の非ではない。今度は花京院が顔を赤らめる番だった。いっそ耳まで熱くなるのを感じながら、動揺を抑えきれないでいると、承太郎が瞳の奥を光らせる。
「――決めたぜ」
なにを、という疑問は、声にならなかった。
「あんたをおれのものにする」
「ッ、はあ?」
素っ頓狂な声をあげた花京院に、承太郎がぬっと腕を伸ばしてきた。既視感を覚えて、思わず腰が引ける。けれど承太郎の手は眼鏡には触れず、花京院の胸倉をネクタイの結び目ごと掴むと、一気にぐいと引き上げた。
「!?」
気づけば椅子から尻が離れて、すっかり立ち上がっていた。
透明なレンズ越しに、豊かに生い茂る長い睫毛が見える。信じられないくらい、近い距離に。そして唇には、生温かく柔らかな感触。これは――。
――男に、生徒に、キスを、されている……?
認識した瞬間、停止していた頭の中が、白く弾けたような気がした。力の限り、承太郎の胸を突き飛ばす。
「な、にをッ、しているんだおまえはッ!!」
声は情けなく引っくり返っていた。力いっぱい突き飛ばされたはずの承太郎よりも、花京院の方が背後によろけて、背中を窓に打ち付ける。かつてない動揺に震える手で、唇を思い切り拭った。
「なにって、キスだぜ」
これだけあからさまに拒絶されてなお、承太郎はケロリとした表情で言ってのける。花京院の脳内は、ただ悪戯に混乱するばかりだった。落ち着け、落ち着けと心のなかで念じながら、ばくばくと跳ね上がる心臓を、胸の上から押さえつける。
「どういうつもりでこんなふざけた真似をしたのか、説明してもらおう」
冷静を装い、押し殺した声で問う。承太郎が、不敵に笑った。
「あんたに惚れたということだぜ。だから、おれのものにすると決めた」
ぽかんと口を開けて、また思考が停止した。ついでに時間も止まったような気がする。こいつは何を言っているのだろうか。
――惚れた? おれのものにする?
つまり。それって。
「ぼっ、わ、わたしは、既婚者だッ!!」
瞬間的に、声を荒げていた。冗談じゃあない。寝言は寝てから言うものだ。しかも花京院にそっちの趣味はない。
どこまで本気で言っているのか、あるいは完全におちょくっているのか知らないが、そもそも相手が生徒であるという時点で、まずありえないことだ。
「これが見えないのか」
花京院は承太郎に向かって左手の甲を向けると、薬指にはまる指輪を見せつける。それでもなお、承太郎が顔色を変えることはなかった。それどころかよりいっそう不敵に、ふんと鼻で笑って見せる。そして次の瞬間、彼が放った一言に、花京院は一瞬で凍り付くことになる。
「あんた、奥さんとうまくいってねえんだろ」
「――ッ!?」
ガン、と頭部を打ち付けられたような衝撃を受ける。彼は今なんと言った? 妻と別居状態であることは、周りの人間はおろか、両親にすら話していない。それをなぜ、この男が知っているのだろうか。背中を冷たい汗が伝う。
沈黙は肯定だ。咄嗟に否定できなかったことに現実を突きつけられたような気に苛まれて、けれどこのまま認めるなんてことも、したくはなかった。
「バカなことを言うな。何を根拠に、そんなくだらないことを……そもそも、君には関係のない話だ」
花京院の憤然とした面持ちを受け、承太郎は眉だけを微かに動かした。
「ふぅん。まあいいぜ。どっちにしろ奪っちまえば同じことだ。どんな手を使ってでもよ」
「だからッ、さっきからなにをふざけてるんだ君は!」
「言われた通り、今からでも授業に顔をだすとするぜ」
承太郎はポケットに両手を突っ込むと、くるりとこちらに背を向けた。
「お、おい、承太郎ッ!」
呼びかけに一切答えず、大きな黒い背中が準備室の引き戸の向こうへ消えて行く。花京院はただ茫然としたまま、しばらくその場から動くことができなかった。
+++
それからというもの。
承太郎は日に一度は、花京院がいるタイミングを見計らい、「顔を見に来た」と言って準備室を訪れるようになった。
用もないのに来るんじゃないと、何度言っても聞きやしない。
極力ふたりきりになるのを避けたい花京院は、やむなく職員室で仕事をすることが多くなっていった。
すると今度は、授業にわざと遅れて来たり、開始早々居眠りをしたりという問題行動にではじめた。そうなると他の生徒たちの手前、見過ごすわけにもいかず、結局は放課後に呼び出して、補習や指導を行わなければならない。
かといって真面目に授業を聞いているかと思えば、その視線は教科書や黒板ではなく、花京院を捉えていた。熱視線、とでもいえばいいのか。あの宝石のような瞳にじっと見つめられると、何もかも見透かされているようで、心が落ち着かない。目が合って、肉感的な唇が笑みを形作ろうものなら、不意打ちで食らった唇の感触を思い出して、胸がドキマギとするのを感じてしまう。そしてそんな自分に、何よりも嫌悪感が沸いた。
ふたりきりで準備室にいなくてはならない時間なんて、花京院にとっては地獄に等しかった。またキスでもされては堪らないと、身を固くして警戒を怠らない花京院を、承太郎はむしろ、楽しんでいる様子だった。それがまた憎らしくて、腹が立った。
けれどあれ以来、承太郎が花京院に手を出してくることは、一度もなかった。あのキスも告白も、まるで嘘のようにごく普通に補習や説教を受けて、または例の進路に関する相談をして、ある程度のところで退散していく。そのうち花京院も、あの一件はやっぱり性質の悪い冗談だったのかと、そう思うようになっていった。
授業中の視線だって、もしかしたら自分の自意識過剰がそう勘違いさせているだけ、なのかもしれないと。
承太郎は花京院の話に熱心に耳を傾けるし、海洋学を学びたいのだと話す姿は、彼がまだ少年の域をでない、未来ある若者であることを思い出させた。
正直、これまで生徒に慕われたことがなかった花京院は、承太郎と接する一時を、満更でもないと思いはじめるようになっていた。居眠りや遅刻は感心できないが、そうまでして教師としての自分を必要としてくれているのだとしたら、冥利に尽きるというものだ。だからまた徐々に、空き時間や放課後は準備室で仕事をするようになっていった。
たったそれだけで、毎日が以前よりも少し、充実したものに変化したような気さえする。最近は、以前のように妻からの連絡を待ちわびることも、少なくなったように思う。
けれど、だからといってこのままでいいというわけではない。
一度はちゃんと、彼女の顔を見て話をしなくてはならないことは、分かっていた。
+++
「そろそろちょっとくらいはその気になったか」
ある日の放課後。
ひょっこり顔を出した承太郎に、暇なら勉強でもしろと、適当にコピーした英文の読解問題を解かせながら事務作業にあたっていた花京院の背中に、その質問はおもむろに投じられた。
「なんの話だ?」
書類の改正箇所へ、新たに打ち直したものを切っては貼り付けるというアナログな作業をしていた花京院は、作業する手を止めることなくそれに応じる。
「そろそろおれのものになる気になったか、と聞いているんだぜ」
「――はあ?」
花京院は大きめの口をぱっくりと開け、眉を顰めながら上半身だけ軽く捻ると、室内の中央に一組だけ置かれたデスクセットについている承太郎を見やった。
彼はいつもの両手をポケットに捻じ込んだまま足を組むというスタイルで、花京院をじっと見つめている。
「またつまらない冗談か。あの一回きりで飽きたんじゃあなかったのか?」
「冗談でも遊びでもねえし、おれはしつこいぜ。花京院」
「はいはい、いいからそんなことより、問題は解き終わったのか? やるからには中途半端では帰らせないぞ。あと、教師を呼び捨てにするな」
全く取り合う気のない花京院は、再び自分の机に向かって手先を動かし始める。大方、問題集を解くのに飽きてしまって、手持ち無沙汰にでもなっているのだろう。勉強や進路についての相談ならいくらでも乗るが、退屈しのぎに付き合ってやるほど、こちとら暇ではない。
「これ以上しつこいと、今後は遅刻や居眠りをする度に反省文も書いてもらうからな」
「つまり、それだけあんたといられる時間が伸びるってことか」
「あのなあ……」
大きな溜息をつきながら、がくりと項垂れる。最近の高校生の間では、教師を口説くという遊びでも流行っているのだろうか。だとしたら、なんて性質が悪いのだろう。
花京院はこれ以上まともに取り合うのもバカバカしいと、肩を竦めて椅子から立ち上がった。重ねられている書類の束を両手で持ち、トントンと叩きつけて端を揃える。ホチキスはどこだったろうかと机の上をざっと見渡して、ふと、伏せられたままの写真立てで視線を止めた。
(――メールは、ちゃんと見てくれただろうか)
妻に連絡を入れたのは、昨夜のことだ。久しぶりに、一緒に夕食でもどうかと。返事は、まだない。
もし会って、話ができたら。以前と変わりない彼女の声を聞いて、その笑顔を見ることができたなら。きっとこの左手の薬指にはまる指輪を見る度に、重い溜息をつくことも、なくなるような気がした。
(きっと、戻れるさ)
写真立てに、そっと手を伸ばす。もうずっと伏せたままの小さな枠に指先で触れ、元の通りに立て直そうとした。
ゆっくりと、僅かに持ち上げたところで。
「ッ――!!」
背後から、抱きすくめられた。
心臓が止まるかと思うほどの驚きに、声も出ない。
写真立ては結局、パタリと音を立てながら、伏せられたままになってしまった。
「な……ッ」
自分よりも一回り大きな身体が、花京院の背中をすっぽりと包み込んでいた。長く、太い両腕が前にまわって、強く強く、抱きしめられる。
一体いつの間に。物思いに耽るあまり、承太郎が席から離れて背後に忍び寄っていたことに、気づくことができなかった。
「じょ、承太郎ッ、これは一体、なんのつもりだ!」
咄嗟に身を捩り、抵抗しようと試みた。けれど彼の逞しい両腕はそれを許さず、唇が耳元にぐっと押し付けられる。
「花京院」
低く、そして切ないほどに、甘い声。吐息のように吹き込まれたそれに、花京院はギクリとして息を飲む。
瞬間、胸の内側からカァッと熱くなって、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
「奥さんとは、うまくいってんのか」
承太郎の声が、じわりと鼓膜を震わせる。不覚にも身体が跳ねてしまったことを恥じながら、花京院は「当たり前だ」と、精いっぱい声を絞り出した。
「もういいだろう? わたしは、こういう冗談は、嫌いだ」
背中から、承太郎の熱と鼓動がダイレクトに伝わって来る。
胸を押し上げられているかのように、息をすることもままならなかった。
「あんたの腰、細すぎだ。折っちまいそうだぜ」
「は、話を聞け……ッ」
「ちゃんと食ってるか? ゆうべは? 今朝は? なにを食った?」
「承太郎ッ! もう本当に、いい加減にしないと――」
「作ってくれるはずの誰かさん、あんたんとこに帰ってねえだろ」
一瞬で、凍り付く。身体中の血液が、サァッと足元まで引いていき、そのまま床に流れ出してしまったみたいに、花京院は全身が冷たくなっていくのを感じた。
――図星。
この男はなぜこうも見透かしたように、核心を突いてくるのだろう。それは花京院にとって屈辱でしかなかった。
「おまえには関係ないッ!!」
力の限り声を張り上げ、承太郎の両腕を引き剥がすようにしながら、思い切り身を捩った。とにかく、ここから早く脱出しなくては。今はそれしか考えられなかった。
花京院には、築き上げてきた秩序というものがある。それがどんなに危ういものであったとしても、こんなところで壊されたのでは、堪らない。
承太郎は、一度は花京院の抵抗を許したかに見えた。けれどその両手は決して逃がさないとでもいうかのように、今度は花京院の肩を正面から抱き込み、そして長い襟足を掴む。
「ッ、ぅ、んッ!?」
全てが一瞬のことだった。ガツン、と歯と歯がぶつかって、頭の中がクラッとする。肉厚な唇の感触に、またキスをされているのだと気がついて、承太郎の肩に爪を立てながら、滅茶苦茶に暴れようとした。けれどその前に、ぬるりと口内に舌が潜り込んできて、戦慄する。
(こ、こいつ……ッ!)
本気かと、花京院は承太郎の正気を疑った。悪ふざけでここまでするのかと。同時に、これは本当に悪ふざけなのだろうかと。混乱の隙間をぬって、疑問が首をもたげる。
潜り込んできた舌は、花京院の口内を暴れまわっていた。
歯列をなぞり、口蓋を舐め上げ、奥で萎縮する舌を強引に捕えては、乱暴に絡みついた。
「はッ、んぐ、ぅ――や、め」
そして、聞き分けのなさを咎めるように、歯を立てる。
奪いつくすようなキスは、ただただ傲慢で、労りがない。どうにかして引き剥がそうともがいてみても、呼吸すら奪われた状態では、悪戯に体力を消耗するだけだった。そのうち、酸欠に脳内がぼうっとしてくる。
(なん、て)
我儘で、ガキ臭いキスをするのだろう。
だけど、必死さだけは伝わった。欲しいものが手に入らずに、泣き喚く子供のようなキス。だから花京院には、嫌でも分かってしまった。
――彼は、本気なのだと。
冗談でも、からかっているのでもなく、この男は真剣なのだ。
惚れたと言ったあの言葉は、嘘でもなんでもなく。
(どうして、ぼくは)
それが分かった瞬間、承太郎の肩に爪を立てるだけだった手が、縋るようなものに変わってしまった。
ただただ必死な拙い口付けに、胸をうたれている自分を自覚する。身体が、自分の戸惑いを置き去りにして、承太郎を受け入れる態勢に入っていた。
こんな風に、誰かに激しく求められるのは。思いだせないくらい、久しぶりのことだった。あるいは、初めてだったのかもしれない。これほどまでの情熱を、花京院は知らなかった。
奥深い場所から、不思議な熱が込み上げてくる。
「あんたが欲しい」
くったりと力を失くした花京院の身体を、強く抱きしめて承太郎が言った。熱っぽく掠れた、吐息のような声に、皮膚を内側から焼かれているような気にさせられる。
「あんたが、先生が……好きだ」
――ああ。
こんなにも真っ直ぐに。まるで体当たりでもするみたいに。
愛情をぶつけられたことが、あっただろうか。
いっそ自分の立場も、彼が未成年であり、教え子であることも忘れて、このまま身を委ねてしまえたら。どんなに楽だろう。
どんなに、幸福なことだろう。誰だってただ求めるばかりでいるよりも、求められた方が、ずっと――。
ゆらりと顔を上げれば、レンズ越しに承太郎と視線がぶつかった。いま自分は一体、どんな惚けた顔をしているのだろうか。
けれどそれ以上に、承太郎のエメラルドが、まるで泣きだしそうに潤んでいるから。
――承太郎、と。
甘ったるい声で、名前を呼びそうになって。
しかし次の瞬間、どこからか発される無機質なバイブ音に、冷水をかぶったように肩を跳ねさせ、目を見開いた。
「ッ……!?」
息を飲んだのは、多分、同時だ。一瞬で正気に戻った花京院は、承太郎の身体を突き飛ばしていた。
どこか呆然とした表情でいる承太郎から距離を取る。バイブ音は、花京院のポケットから響き渡り、やがて消えた。
「……わたしは、既婚者だ」
いつかも言った台詞。あのときよりも、声が震えている。
「君のような子供と、どうこうなるつもりはない」
承太郎のほんのり濡れた唇が、ぐっと引き結ばれた。
「わたしは妻を――愛している」
まるで自分に言い聞かせるように、花京院は一言一言、噛み締めるように言葉を紡いだ。
「二度と、こんな真似をしたら許さない」
冷たく言い捨てて、花京院は承太郎から顔を背けると、準備室を後にした。
+++
心臓が暴れる音を聞きながら、廊下を速足で歩く。
承太郎の唇の感触や、力強い腕の温もりが、まだ身体中にこびりついているようだった。
(忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ)
どうかしていただけだ。柄にもなく、絆されかけただけ。
こんなことは、絶対にあってはならないことなのだ。
「痛ッ……!」
ドクドクという血液の流れが、そのまま脳内で頭痛を引き起こす。もうじき校舎の突き当りという階段手前で、花京院は足を止めると壁に手をついた。そのままずるずると、膝をつく。
――離れない。承太郎の熱が、唇が、声が。
どうやっても、離れていってくれない。
藁にも縋る思いで、花京院はスーツのポケットに手を捻じ込んだ。携帯を取り出し、妻からメールが来ていることを確認する。少しだけ、ホッとした。
震える指先で、ぎこちなく画面を操作する。
『返事が遅れてごめんなさい。
仕事も忙しいし、まだしばらく帰れそうにないわ。
余裕ができたら、私の方から連絡するから。
せっかくだけど、ごめんなさい』
――普通なら。
普通の夫なら、とっくに問い詰めていたのだろうか。
妻の化粧や、髪の色や、香水の匂いに気づいた時点で、何か声をかけていたのだろうか。少しずつ家から足が遠のく妻を、ここまで放っておくものだろうか。
(本当は、ちゃんと分かっていた)
妻は嘘をついている。彼女の気持ちは、おそらくもうこちらに向いてはいないのだろう。
だけど、それを確かめるのが怖かった。真実を知るのが怖かった。妻を信じ続ける夫でありたかった。
それなのに、妻を愛しているのだと承太郎に言い放った瞬間、奇妙な後ろめたさを覚えたのは、なぜだろう。
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長く艶やかな黒髪をひとつにまとめ、最低限の化粧だけをした彼女は、目元にふたつ並ぶ泣きぼくろが印象的な、清楚で可愛らしい女性だった。
元々あまり人付き合いが得意な方ではない花京院だったが、物静かな彼女とは波長が合ったのか、ぽつぽつと当たり障りのない会話をしているうちに、少しずつ趣味の話をするようになって、お互いを知り、やがて恋に落ちた。
結婚したのは二十五のとき。今から二年前のことだ。
それぞれ仕事をもち、忙しい日々を送っていたが、結婚生活はそれなりに順調だったと思う。
だけどいつからか、仕事にかまけて擦れ違うことが多くなっていった。よくある話。
黒く美しかったはずの髪が緩やかなウェーブを描き、蜂蜜のような色に変わったことに気がついたのは、いつだったろう。
薄くリップを引くだけだった唇が、艶やかに色づきはじめたのは。香水の香りが、寝具に沁みつきはじめたのは――。
やがて妻は、家に帰らない日が多くなっていった。実家の母親が体調を崩したからと、父も高齢で、まるで家事ができない人だからと、そう言っては徐々に、離れていった。
時おり着替えは取りに戻って来ていたが、今では形跡があるだけで、顔を合わせる機会は皆無に等しい。
花京院にとって、彼女の両親は自分にとっても大事な人たちだ。だから時間を作って見舞いに行くと言っても、どうしてか妻はそれを頑なに拒否するのだ。迷惑をかけたくないという、一点張りだった。
そうしてほぼ別居状態の暮らしが、かれこれ半年近くになっているだろうか。
花京院だってバカじゃあない。本心では彼女が自分に隠し事をしていることには、気がついている。だけど同時に、疑うこともしたくはなかった。
なぜなら、妻を愛しているから。これからもずっと、愛し続けていけるはずだから。
――本当は真実を知るのが怖いだけ。傷つくことを、恐れているだけ。
それさえも、気がついているのだけれど。
+++
それから数日後。
花京院の運命を狂わせる発端となった出来事は、この日の午前中に起こってしまった。
「承太郎、ここは君の隠れみのじゃあないんだぞ?」
爽やかな日差しで溢れる準備室。この時間、ちょうど授業がなかった花京院が戻ってみると、そこにはあの空条承太郎の姿があった。
先日と同じように、二人は机を挟んで向かい合う形で椅子に座っている。
「君、今は体育の時間だろう。今日は確か――マラソンの授業だったはずだ。それがどうして体操着にすら着替えず、用もないのにこんなところにいるんだい」
花京院は眉間に皺を寄せ、険しい表情で腕組みをしていた。
いくら不良という札をぶら下げていようが、生徒は決められた時間割の中で、授業に取り組む義務がある。
「おれだって真面目に参加する気でいたんだぜ」
「よくもまあぬけぬけと。いいから、今からでも着替えて校庭に行きなさい」
承太郎は渋面を作って、組んでいた足を組みかえると、うんざりしたような息を漏らした。
「おれがいると、逆に授業の邪魔なんだがな」
「は?」
それは一体どういうことだと問いかけるより先に、開け放った窓の向こうから、秋風と共になにやら騒がしい声が流れ込んでくる。
『JOJO! JOJOはどこ!?』
『男子はマラソンなんでしょ!? JOJOがいないんじゃ、見る価値ないじゃないッ!』
『やぁ~ん、走ってるとこ写メりたいのにィ~』
「……はぁ」
花京院はそれらの甲高い声に頭痛を覚え、溜息を漏らしながら額を押さえると、立ち上がった。カラカラと音を立てて窓を閉め切れば、小うるさい声は幾らか遠のく。
JOJO、というのは、彼の渾名だ。空条承太郎――だから、JOJO。ほとんどの人間から、そう呼ばれている。
「やれやれだぜ」
「君の言い分は、まぁ百歩譲って一理あると言えなくもないが」
この日本人離れした長身の美丈夫を、世の女性が放っておくはずはない。常に女子の群れに纏わりつかれ、「やかましい」と怒鳴り上げる光景は、誰もが見慣れた光景になっている。そんな状況が授業中ですら展開されるというのは、確かに迷惑この上ないことではあるのだが。それとこれとは、話が違う。
花京院は再び椅子に掛け、承太郎を見据えると言った。
「君は学生だ。学生の本分は勉学に励むこと。怪我や病気でもない限り、授業には出席するのが道理じゃあないか?」
いくら女子生徒が暴走しようとも、それを律する役目は教師の仕事だ。なにも彼が気を使う必要など、どこにもない。
それに、ここで油を売られるのも困るのだ。花京院だって暇ではない。次の授業の準備だってしなければならないし、少しくらいは、肩の力を抜く時間だって欲しい。
最近では、定期的に薬を飲んでおかなければ不安になるほど、頭痛の頻度も増している。
しかし、承太郎は聞いているのかいないのか、ただじっと花京院の顔を見つめているだけだった。午前中の白い光の中で見るエメラルドは、夕暮れ時に見るのとはまた、印象がガラリと変わる。南国に凪ぐ海を思わせる煌めきに、意識が波にさらわれそうになるのを感じた。
(……このあいだから、ぼくはどうかしている)
いくら誰もが振り返るほどの美貌を持つ相手とはいえ、男に――しかも生徒に見惚れるなんて、あってはならないことだ。
なにか話をすり替えなくては。妙な焦燥に駆られた花京院は、承太郎から視線だけを僅かに逸らして、息をついた。
「だいたい君は、しょっちゅう学校自体をサボっているだろう。このままでは進路に響くぞ。そもそも、ちゃんと将来のことを考えているのか?」
花京院の説教じみた――実際、説教でしかないのだが――問いかけに、承太郎は一瞬、視線をゆらりと彷徨わせた。
花京院はその瞳の動きを、注意深く観察する。なにか言いたげに、けれどむっと引き結ばれた唇が、幾分か彼を年相応に見せているような気がするのは、気のせいだろうか。
「……言ってもいいけどよ」
「ああ」
「あんた、笑うぜ」
「それは聞いてみなければ分からないな。よほど非現実的な内容でない限り、生徒の希望を笑い飛ばす教師なんかいやしないさ」
その言葉を聞いて、承太郎は逸らしていた視線を花京院へ戻すと、ふぅんと微かに唸る。その後しばしの沈黙を経て、ぼそりと何かが吐き出された。
「……がくしゃ」
「なんだって?」
「学者だよ。学者。海洋生物学者」
彼の口から飛び出した、実に意外な希望を聞いて、花京院は思わず目を丸くした。しょっちゅう学校や授業をサボり、他校の生徒とケンカをし、問題ばかりを起こすような不良が、学者志望だなんて。一体だれが想像できるだろう。
承太郎は普段のクールな二枚目が嘘のように、少しだけ頬を赤らめて、唇を尖らせている。ふいっと背けられた顔を見て、彼がひどく照れているのだと気がついた花京院は、思わず肩を揺らして笑ってしまった。
「ふっ、ふふ……ノォホッ」
「……やっぱり笑いやがった」
「違う違う。ふふ、君の将来の夢を笑ったんじゃあない」
花京院は口元に添えていた手を、承太郎に向けてヒラヒラと振ってみせた。
「確かに意外には思ったけれど、君がそんな顔をするなんて……まるで不貞腐れた子供のような顔だったぞ」
あの空条承太郎が、だ。なかなか可愛いところもあるじゃあないかと、つい堪えきれずに笑ってしまったのだ。
「恥じることなどなにもないさ。立派な進路じゃあないか。わたしは君を応援しよう」
実際、彼は生活態度を除いて成績にはなんら問題はないのだ。
少々解せないが、むしろ優秀といえる生徒だった。
承太郎は思い切り舌打ちをして、赤らんだ顔を隠すように帽子の鍔を引き下げた。けれど視線だけは持ち上げて、笑みを浮かべる花京院をじっと見つめる。そして言った。
「――あんた、やっぱり笑うと可愛いな」
「ッ……!?」
「眼鏡がなけりゃあ、もっといいと思うぜ」
しまった、と、花京院は思う。そして今更のように、愕然とした。
(……嘘、だろ?)
――笑った。笑ってしまった。
驚くほどごく自然に。いつ以来なのか分からないくらい、久しぶりに。
咄嗟に片手で口元を覆った。ずっと人前では笑わないよう、仮面をつけていたはずだし、それ以前に、笑い方なんて忘れてしまっていたはずなのに。
しかも、可愛いとはなんだ。二十七の男を捕まえて、たかが十七かそこらの男子高校生が。そんな風に言われるのが嫌だから、ずっと隠していたというのに。
さっきの承太郎の非ではない。今度は花京院が顔を赤らめる番だった。いっそ耳まで熱くなるのを感じながら、動揺を抑えきれないでいると、承太郎が瞳の奥を光らせる。
「――決めたぜ」
なにを、という疑問は、声にならなかった。
「あんたをおれのものにする」
「ッ、はあ?」
素っ頓狂な声をあげた花京院に、承太郎がぬっと腕を伸ばしてきた。既視感を覚えて、思わず腰が引ける。けれど承太郎の手は眼鏡には触れず、花京院の胸倉をネクタイの結び目ごと掴むと、一気にぐいと引き上げた。
「!?」
気づけば椅子から尻が離れて、すっかり立ち上がっていた。
透明なレンズ越しに、豊かに生い茂る長い睫毛が見える。信じられないくらい、近い距離に。そして唇には、生温かく柔らかな感触。これは――。
――男に、生徒に、キスを、されている……?
認識した瞬間、停止していた頭の中が、白く弾けたような気がした。力の限り、承太郎の胸を突き飛ばす。
「な、にをッ、しているんだおまえはッ!!」
声は情けなく引っくり返っていた。力いっぱい突き飛ばされたはずの承太郎よりも、花京院の方が背後によろけて、背中を窓に打ち付ける。かつてない動揺に震える手で、唇を思い切り拭った。
「なにって、キスだぜ」
これだけあからさまに拒絶されてなお、承太郎はケロリとした表情で言ってのける。花京院の脳内は、ただ悪戯に混乱するばかりだった。落ち着け、落ち着けと心のなかで念じながら、ばくばくと跳ね上がる心臓を、胸の上から押さえつける。
「どういうつもりでこんなふざけた真似をしたのか、説明してもらおう」
冷静を装い、押し殺した声で問う。承太郎が、不敵に笑った。
「あんたに惚れたということだぜ。だから、おれのものにすると決めた」
ぽかんと口を開けて、また思考が停止した。ついでに時間も止まったような気がする。こいつは何を言っているのだろうか。
――惚れた? おれのものにする?
つまり。それって。
「ぼっ、わ、わたしは、既婚者だッ!!」
瞬間的に、声を荒げていた。冗談じゃあない。寝言は寝てから言うものだ。しかも花京院にそっちの趣味はない。
どこまで本気で言っているのか、あるいは完全におちょくっているのか知らないが、そもそも相手が生徒であるという時点で、まずありえないことだ。
「これが見えないのか」
花京院は承太郎に向かって左手の甲を向けると、薬指にはまる指輪を見せつける。それでもなお、承太郎が顔色を変えることはなかった。それどころかよりいっそう不敵に、ふんと鼻で笑って見せる。そして次の瞬間、彼が放った一言に、花京院は一瞬で凍り付くことになる。
「あんた、奥さんとうまくいってねえんだろ」
「――ッ!?」
ガン、と頭部を打ち付けられたような衝撃を受ける。彼は今なんと言った? 妻と別居状態であることは、周りの人間はおろか、両親にすら話していない。それをなぜ、この男が知っているのだろうか。背中を冷たい汗が伝う。
沈黙は肯定だ。咄嗟に否定できなかったことに現実を突きつけられたような気に苛まれて、けれどこのまま認めるなんてことも、したくはなかった。
「バカなことを言うな。何を根拠に、そんなくだらないことを……そもそも、君には関係のない話だ」
花京院の憤然とした面持ちを受け、承太郎は眉だけを微かに動かした。
「ふぅん。まあいいぜ。どっちにしろ奪っちまえば同じことだ。どんな手を使ってでもよ」
「だからッ、さっきからなにをふざけてるんだ君は!」
「言われた通り、今からでも授業に顔をだすとするぜ」
承太郎はポケットに両手を突っ込むと、くるりとこちらに背を向けた。
「お、おい、承太郎ッ!」
呼びかけに一切答えず、大きな黒い背中が準備室の引き戸の向こうへ消えて行く。花京院はただ茫然としたまま、しばらくその場から動くことができなかった。
+++
それからというもの。
承太郎は日に一度は、花京院がいるタイミングを見計らい、「顔を見に来た」と言って準備室を訪れるようになった。
用もないのに来るんじゃないと、何度言っても聞きやしない。
極力ふたりきりになるのを避けたい花京院は、やむなく職員室で仕事をすることが多くなっていった。
すると今度は、授業にわざと遅れて来たり、開始早々居眠りをしたりという問題行動にではじめた。そうなると他の生徒たちの手前、見過ごすわけにもいかず、結局は放課後に呼び出して、補習や指導を行わなければならない。
かといって真面目に授業を聞いているかと思えば、その視線は教科書や黒板ではなく、花京院を捉えていた。熱視線、とでもいえばいいのか。あの宝石のような瞳にじっと見つめられると、何もかも見透かされているようで、心が落ち着かない。目が合って、肉感的な唇が笑みを形作ろうものなら、不意打ちで食らった唇の感触を思い出して、胸がドキマギとするのを感じてしまう。そしてそんな自分に、何よりも嫌悪感が沸いた。
ふたりきりで準備室にいなくてはならない時間なんて、花京院にとっては地獄に等しかった。またキスでもされては堪らないと、身を固くして警戒を怠らない花京院を、承太郎はむしろ、楽しんでいる様子だった。それがまた憎らしくて、腹が立った。
けれどあれ以来、承太郎が花京院に手を出してくることは、一度もなかった。あのキスも告白も、まるで嘘のようにごく普通に補習や説教を受けて、または例の進路に関する相談をして、ある程度のところで退散していく。そのうち花京院も、あの一件はやっぱり性質の悪い冗談だったのかと、そう思うようになっていった。
授業中の視線だって、もしかしたら自分の自意識過剰がそう勘違いさせているだけ、なのかもしれないと。
承太郎は花京院の話に熱心に耳を傾けるし、海洋学を学びたいのだと話す姿は、彼がまだ少年の域をでない、未来ある若者であることを思い出させた。
正直、これまで生徒に慕われたことがなかった花京院は、承太郎と接する一時を、満更でもないと思いはじめるようになっていた。居眠りや遅刻は感心できないが、そうまでして教師としての自分を必要としてくれているのだとしたら、冥利に尽きるというものだ。だからまた徐々に、空き時間や放課後は準備室で仕事をするようになっていった。
たったそれだけで、毎日が以前よりも少し、充実したものに変化したような気さえする。最近は、以前のように妻からの連絡を待ちわびることも、少なくなったように思う。
けれど、だからといってこのままでいいというわけではない。
一度はちゃんと、彼女の顔を見て話をしなくてはならないことは、分かっていた。
+++
「そろそろちょっとくらいはその気になったか」
ある日の放課後。
ひょっこり顔を出した承太郎に、暇なら勉強でもしろと、適当にコピーした英文の読解問題を解かせながら事務作業にあたっていた花京院の背中に、その質問はおもむろに投じられた。
「なんの話だ?」
書類の改正箇所へ、新たに打ち直したものを切っては貼り付けるというアナログな作業をしていた花京院は、作業する手を止めることなくそれに応じる。
「そろそろおれのものになる気になったか、と聞いているんだぜ」
「――はあ?」
花京院は大きめの口をぱっくりと開け、眉を顰めながら上半身だけ軽く捻ると、室内の中央に一組だけ置かれたデスクセットについている承太郎を見やった。
彼はいつもの両手をポケットに捻じ込んだまま足を組むというスタイルで、花京院をじっと見つめている。
「またつまらない冗談か。あの一回きりで飽きたんじゃあなかったのか?」
「冗談でも遊びでもねえし、おれはしつこいぜ。花京院」
「はいはい、いいからそんなことより、問題は解き終わったのか? やるからには中途半端では帰らせないぞ。あと、教師を呼び捨てにするな」
全く取り合う気のない花京院は、再び自分の机に向かって手先を動かし始める。大方、問題集を解くのに飽きてしまって、手持ち無沙汰にでもなっているのだろう。勉強や進路についての相談ならいくらでも乗るが、退屈しのぎに付き合ってやるほど、こちとら暇ではない。
「これ以上しつこいと、今後は遅刻や居眠りをする度に反省文も書いてもらうからな」
「つまり、それだけあんたといられる時間が伸びるってことか」
「あのなあ……」
大きな溜息をつきながら、がくりと項垂れる。最近の高校生の間では、教師を口説くという遊びでも流行っているのだろうか。だとしたら、なんて性質が悪いのだろう。
花京院はこれ以上まともに取り合うのもバカバカしいと、肩を竦めて椅子から立ち上がった。重ねられている書類の束を両手で持ち、トントンと叩きつけて端を揃える。ホチキスはどこだったろうかと机の上をざっと見渡して、ふと、伏せられたままの写真立てで視線を止めた。
(――メールは、ちゃんと見てくれただろうか)
妻に連絡を入れたのは、昨夜のことだ。久しぶりに、一緒に夕食でもどうかと。返事は、まだない。
もし会って、話ができたら。以前と変わりない彼女の声を聞いて、その笑顔を見ることができたなら。きっとこの左手の薬指にはまる指輪を見る度に、重い溜息をつくことも、なくなるような気がした。
(きっと、戻れるさ)
写真立てに、そっと手を伸ばす。もうずっと伏せたままの小さな枠に指先で触れ、元の通りに立て直そうとした。
ゆっくりと、僅かに持ち上げたところで。
「ッ――!!」
背後から、抱きすくめられた。
心臓が止まるかと思うほどの驚きに、声も出ない。
写真立ては結局、パタリと音を立てながら、伏せられたままになってしまった。
「な……ッ」
自分よりも一回り大きな身体が、花京院の背中をすっぽりと包み込んでいた。長く、太い両腕が前にまわって、強く強く、抱きしめられる。
一体いつの間に。物思いに耽るあまり、承太郎が席から離れて背後に忍び寄っていたことに、気づくことができなかった。
「じょ、承太郎ッ、これは一体、なんのつもりだ!」
咄嗟に身を捩り、抵抗しようと試みた。けれど彼の逞しい両腕はそれを許さず、唇が耳元にぐっと押し付けられる。
「花京院」
低く、そして切ないほどに、甘い声。吐息のように吹き込まれたそれに、花京院はギクリとして息を飲む。
瞬間、胸の内側からカァッと熱くなって、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
「奥さんとは、うまくいってんのか」
承太郎の声が、じわりと鼓膜を震わせる。不覚にも身体が跳ねてしまったことを恥じながら、花京院は「当たり前だ」と、精いっぱい声を絞り出した。
「もういいだろう? わたしは、こういう冗談は、嫌いだ」
背中から、承太郎の熱と鼓動がダイレクトに伝わって来る。
胸を押し上げられているかのように、息をすることもままならなかった。
「あんたの腰、細すぎだ。折っちまいそうだぜ」
「は、話を聞け……ッ」
「ちゃんと食ってるか? ゆうべは? 今朝は? なにを食った?」
「承太郎ッ! もう本当に、いい加減にしないと――」
「作ってくれるはずの誰かさん、あんたんとこに帰ってねえだろ」
一瞬で、凍り付く。身体中の血液が、サァッと足元まで引いていき、そのまま床に流れ出してしまったみたいに、花京院は全身が冷たくなっていくのを感じた。
――図星。
この男はなぜこうも見透かしたように、核心を突いてくるのだろう。それは花京院にとって屈辱でしかなかった。
「おまえには関係ないッ!!」
力の限り声を張り上げ、承太郎の両腕を引き剥がすようにしながら、思い切り身を捩った。とにかく、ここから早く脱出しなくては。今はそれしか考えられなかった。
花京院には、築き上げてきた秩序というものがある。それがどんなに危ういものであったとしても、こんなところで壊されたのでは、堪らない。
承太郎は、一度は花京院の抵抗を許したかに見えた。けれどその両手は決して逃がさないとでもいうかのように、今度は花京院の肩を正面から抱き込み、そして長い襟足を掴む。
「ッ、ぅ、んッ!?」
全てが一瞬のことだった。ガツン、と歯と歯がぶつかって、頭の中がクラッとする。肉厚な唇の感触に、またキスをされているのだと気がついて、承太郎の肩に爪を立てながら、滅茶苦茶に暴れようとした。けれどその前に、ぬるりと口内に舌が潜り込んできて、戦慄する。
(こ、こいつ……ッ!)
本気かと、花京院は承太郎の正気を疑った。悪ふざけでここまでするのかと。同時に、これは本当に悪ふざけなのだろうかと。混乱の隙間をぬって、疑問が首をもたげる。
潜り込んできた舌は、花京院の口内を暴れまわっていた。
歯列をなぞり、口蓋を舐め上げ、奥で萎縮する舌を強引に捕えては、乱暴に絡みついた。
「はッ、んぐ、ぅ――や、め」
そして、聞き分けのなさを咎めるように、歯を立てる。
奪いつくすようなキスは、ただただ傲慢で、労りがない。どうにかして引き剥がそうともがいてみても、呼吸すら奪われた状態では、悪戯に体力を消耗するだけだった。そのうち、酸欠に脳内がぼうっとしてくる。
(なん、て)
我儘で、ガキ臭いキスをするのだろう。
だけど、必死さだけは伝わった。欲しいものが手に入らずに、泣き喚く子供のようなキス。だから花京院には、嫌でも分かってしまった。
――彼は、本気なのだと。
冗談でも、からかっているのでもなく、この男は真剣なのだ。
惚れたと言ったあの言葉は、嘘でもなんでもなく。
(どうして、ぼくは)
それが分かった瞬間、承太郎の肩に爪を立てるだけだった手が、縋るようなものに変わってしまった。
ただただ必死な拙い口付けに、胸をうたれている自分を自覚する。身体が、自分の戸惑いを置き去りにして、承太郎を受け入れる態勢に入っていた。
こんな風に、誰かに激しく求められるのは。思いだせないくらい、久しぶりのことだった。あるいは、初めてだったのかもしれない。これほどまでの情熱を、花京院は知らなかった。
奥深い場所から、不思議な熱が込み上げてくる。
「あんたが欲しい」
くったりと力を失くした花京院の身体を、強く抱きしめて承太郎が言った。熱っぽく掠れた、吐息のような声に、皮膚を内側から焼かれているような気にさせられる。
「あんたが、先生が……好きだ」
――ああ。
こんなにも真っ直ぐに。まるで体当たりでもするみたいに。
愛情をぶつけられたことが、あっただろうか。
いっそ自分の立場も、彼が未成年であり、教え子であることも忘れて、このまま身を委ねてしまえたら。どんなに楽だろう。
どんなに、幸福なことだろう。誰だってただ求めるばかりでいるよりも、求められた方が、ずっと――。
ゆらりと顔を上げれば、レンズ越しに承太郎と視線がぶつかった。いま自分は一体、どんな惚けた顔をしているのだろうか。
けれどそれ以上に、承太郎のエメラルドが、まるで泣きだしそうに潤んでいるから。
――承太郎、と。
甘ったるい声で、名前を呼びそうになって。
しかし次の瞬間、どこからか発される無機質なバイブ音に、冷水をかぶったように肩を跳ねさせ、目を見開いた。
「ッ……!?」
息を飲んだのは、多分、同時だ。一瞬で正気に戻った花京院は、承太郎の身体を突き飛ばしていた。
どこか呆然とした表情でいる承太郎から距離を取る。バイブ音は、花京院のポケットから響き渡り、やがて消えた。
「……わたしは、既婚者だ」
いつかも言った台詞。あのときよりも、声が震えている。
「君のような子供と、どうこうなるつもりはない」
承太郎のほんのり濡れた唇が、ぐっと引き結ばれた。
「わたしは妻を――愛している」
まるで自分に言い聞かせるように、花京院は一言一言、噛み締めるように言葉を紡いだ。
「二度と、こんな真似をしたら許さない」
冷たく言い捨てて、花京院は承太郎から顔を背けると、準備室を後にした。
+++
心臓が暴れる音を聞きながら、廊下を速足で歩く。
承太郎の唇の感触や、力強い腕の温もりが、まだ身体中にこびりついているようだった。
(忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ)
どうかしていただけだ。柄にもなく、絆されかけただけ。
こんなことは、絶対にあってはならないことなのだ。
「痛ッ……!」
ドクドクという血液の流れが、そのまま脳内で頭痛を引き起こす。もうじき校舎の突き当りという階段手前で、花京院は足を止めると壁に手をついた。そのままずるずると、膝をつく。
――離れない。承太郎の熱が、唇が、声が。
どうやっても、離れていってくれない。
藁にも縋る思いで、花京院はスーツのポケットに手を捻じ込んだ。携帯を取り出し、妻からメールが来ていることを確認する。少しだけ、ホッとした。
震える指先で、ぎこちなく画面を操作する。
『返事が遅れてごめんなさい。
仕事も忙しいし、まだしばらく帰れそうにないわ。
余裕ができたら、私の方から連絡するから。
せっかくだけど、ごめんなさい』
――普通なら。
普通の夫なら、とっくに問い詰めていたのだろうか。
妻の化粧や、髪の色や、香水の匂いに気づいた時点で、何か声をかけていたのだろうか。少しずつ家から足が遠のく妻を、ここまで放っておくものだろうか。
(本当は、ちゃんと分かっていた)
妻は嘘をついている。彼女の気持ちは、おそらくもうこちらに向いてはいないのだろう。
だけど、それを確かめるのが怖かった。真実を知るのが怖かった。妻を信じ続ける夫でありたかった。
それなのに、妻を愛しているのだと承太郎に言い放った瞬間、奇妙な後ろめたさを覚えたのは、なぜだろう。
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泣き崩れるような激しさで、雨音が響いていた。
薄暗い室内。閉め切られた障子。
物憂げに落ちる冷えた空気と、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音。
それらを切り裂くようなけたたましさで悲鳴を上げたのは、畳の上に投げ出されていた携帯電話だった。
「――出ねえのか」
低く、染み入るようなバリトンに問いかけられ、花京院は抱え込んでいた膝に伏せていた顔を、ゆるりとあげた。
雨の音も、着信を告げる電子音も、どこか遠い世界の出来事のように、まるで現実味がない。いつもはピンと張りつめたように伸ばしている背を丸めて、花京院は再び膝頭に顔を埋めた。
「……先生」
急かしているのか、それとも、憐れんでいるのだろうか。
ただ今はその声だけが、自分の意識をここに繋ぎ止めているような気がして、それを自分自身、どう受け止めたらいいのか分からなくて、花京院は微かに肩を震わせる。
やがて騒々しい着信音が止み、雨音だけが室内を満たすまで。
花京院は冷えた四肢を動かすことが、できなかった。
+++
白みがかった淡い水色が、秋の空一面に広がる朝。
セーラー服を着た二人の女子生徒は、全速力で正門をくぐり抜けると、そこで力尽きたように足を止めた。
「セーフッ!」
「あたしもセーフ! 間に合ったーッ!」
乱れた息を整えながら、二人はホッと胸を撫で下ろす。
あとはホームルームが始まる前に、教室に滑り込めばいいだけだ。目を見合わせて笑いあい、再び一歩踏み出そうとした、そのとき。
「――残念ながら、一分遅刻だ」
二人は同時に息を飲み、声がした方に視線を走らせる。
そこには背の高い、ダークグレーのスーツを纏う赤い髪の男が一人、佇んでいた。
「げ、今日の立ち番って花京院……?」
花京院、と呼ばれた男は、この高校に赴任する英語教師だった。いかにも神経質そうなスクエア型の黒縁眼鏡と、ほとんど動きのない表情が、寸分のズレもないネイビーのタイと相まって、ひどく無機質な印象を与える。
「君は確か、遅刻をするのは今月で三度目だったな。放課後、指導室まで来なさい。反省文を書いてもらう」
淡々と告げる濁りのない声に、指導室行きを宣告された女子が不満を露わに食ってかかった。
「ちょっと待ってよ! ほとんどセーフじゃん! 大体、まだチャイム鳴ってないんですけど!?」
「予鈴が鳴る五分前には、登校していなくてはならない。それがこの高校の規則だよ」
「ねぇお願い! もう絶対に遅刻なんてしないから! ね!」
腰を低くした女子生徒が、両手を合わせて拝むポーズをして見せても、花京院の顔色は冷淡なまま、変化がなかった。
「早く行きなさい。ホームルームまで遅刻する気か?」
なおも食い下がろうと前のめりになった肩を、もうひとりの女子生徒が掴んで「もう行こうよ」と耳打ちする。
「相手が花京院じゃムリだって……こいつマジで融通きかないんだから」
「……ムカつく」
ふたりは悔しげに表情を歪め、時おり花京院をチラリと振り返っては睨みつけながら、正面玄関へ歩き出した。
「あたし、アイツほんっと嫌い! 偉そうに気取っちゃって、アンタ一体何様ってカンジ!!」
「授業もつまんないんだよねー。冗談のひとつも言わないし、そういえば笑った顔なんて一回も見たことなくない?」
「ないない、鉄仮面? あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね」
わざとらしく、聞こえよがしに不満の声を垂れ流す二人の背中が、どんどん小さくなって遠のいていくのを、当の花京院は人形のように感情のない瞳で、ただじっと見つめるだけだった。
+++
(――まったく、余計なお世話だ)
デスクチェアに深く腰かけ天井を仰ぎ見ながら、花京院典明はささやかな溜息を漏らした。まるで連動するように、開いた窓から吹きこむ緩い秋風が、カーテンを揺らす。
視線を僅かにさげると、南校舎の二階にあるこの英語準備室からは、澄みきった高い空がよく見えた。
(鉄仮面、ね)
別に気にしているわけでも、腹を立てているわけでもないけれど。それがこの学校の生徒たちの、自分に抱くイメージであることは、わざわざ言われるまでもなく自覚していた。
花京院は生徒たちと冗談を言って笑ったり、立場を意識せず友達感覚でコミュニケーションをとる、といった接し方をする教師ではなかった。
神経質そうでとっつきにくい。融通が利かず、真面目で、お高くとまっている。そして冷淡。生徒たちからの評判がすこぶる悪いのは知っているが、かといって困るようなこともない。
教師と生徒。大人と子供。立場を弁えることは、彼らにとっても必要な社会勉強のひとつではないか。花京院はそう考えている。
――だけどひとつだけ。
ひとつだけ、朝の女子生徒たちの会話で、なんとなく耳から離れないでいるものがある。
『あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね』
ああ、本当に。なんて余計なお世話だろう。
花京院は見るともなしに眺めていた窓の外から、視線を外す。
晴れた空を見つめすぎたせいか、目の奥からずしりと重たいものが込み上げて、頭が鋭く痛んだ。眼鏡を外し、指でこめかみを強く摘まみながら、目を閉じる。
まただ。最近、ほんのちょっとのキッカケで、すぐにこうして酷い頭痛に苛まれる。
しばらくそうやって痛みをやり過ごし、どうにか落ち着いてきた頃に目を開けた。ふと、ノートパソコンを開いたままの机に置かれた、写真立てが目に入る。
そこに写り込む人物の笑顔を見て、花京院はすみれ色の瞳をどんよりと曇らせた。また、溜息が漏れる。
写真立てへと伸ばした左手の、薬指にはまる指輪が、どこか虚ろな光を放っていた。
花京院は目を閉じると、力なく首を振る。そのまま写真立てをパタリと伏せて、眼鏡をかけ直すと席を立った。
+++
放課後。
今朝の女子生徒への指導を終えて準備室に戻ると、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「ああ、待たせてすまない」
声をかけると、室内の中央に一組だけ置かれた、生徒用デスクセットの椅子に掛けた男子生徒が、どこか気だるげにチラリと視線だけを寄越した。
――空条承太郎。
ボロボロの学帽に、鎖のついた黒い長ラン。学校一の不良と呼ばれる、手のつけられない問題児。
彼はポケットに両手を捻じ込み、浅く腰かけながらも背凭れに背を預けている。悠々と長い足を組む姿勢は不遜で、二メートルに手が届きそうなほどの長身とガタイのよさが、これでもかというほどの威圧感を放っていた。
その傲然とした態度に密かに眉根を寄せながら、花京院は窓際にある自分の机から椅子を引き寄せ、机を挟んで向かい合う形で腰かける。
「空条」
その名を呼びながら、机に両方の前腕を乗せ、指を組んだ。
「どうして君がここに呼び出されたのか、心当たりは?」
「――あるぜ」
思いのほかあっさりと答えが返ってきたことを、少し意外に感じる。
「なら話は早い」
承太郎は今週だけでもすでに二度、花京院の授業中に居眠りをしている。しかも堂々と、彼の身体にはいささか小さすぎる机に、思い切り突っ伏して。
「わたしの授業はさぞかし退屈だろう。だが、居眠りは感心できないな」
彼はアメリカ人の母親をもつハーフだそうだし、父親は世界をまたにかけるミュージシャンだ。高校レベルの英語の授業が、彼にとって実りあるものとは到底思えない。
しかし、だからといって見逃せる問題ではないのだ。
承太郎は鼻から小さく息をつき、ひょいと小さく肩を竦めた。
「起こしてくれりゃあいいのによ」
「起こしたとも。何度もね。君はいちど寝てしまうと、よほど眠りが深いと見える」
冷たく見据える花京院の視線を正面から受け止めて、承太郎は幾度かゆっくりと瞬きをした。そして微かに背を丸め、何が可笑しいのか、くつくつと肩を揺らしながら笑いはじめる。この態度には、流石の花京院も少しばかり腹が立つ。
「君は教師をバカにしているのか?」
低く押し殺した声で問えば、承太郎はふっと息をつきながら「とんでもない」と言った。
「むしろ尊敬しているぜ。あんたのことは」
やはりバカにしているのではないか。この不良は、教師ですら恐れてまともに指導できないのをいいことに、傲岸不遜な態度をとり続けているのだ。だが自分は違う。他の教師たちと一緒にされるのは、プライドが許さない。
「空条、君は」
「あんたの授業は好きだぜ、花京院先生」
「……は?」
花京院の言葉を遮り、承太郎が言う。
「丁寧で無駄がない。くだらねえ雑談で脇道にそれる教師とは大違いだし、なにより、声がいい」
これはもしかして、もしかしなくても、褒められているのだろうか。承太郎の顔からはさっきまでの笑みが消え、決して冗談を言っているようには見えなかった。だからこそ、どう受け止めればいいか、咄嗟に判断ができない。生徒から否定されることはあっても、肯定されるのは初めてのことだった。しかも校内屈指の不良に、だ。
「だからつい、心地が良くって眠っちまう」
「そんなものは」
――理由になんてならない。
そう返す、つもりだったのに。
窓から差し込む夕焼けが、承太郎のエメラルドの瞳に吸い込まれて、淡く透明な輝きを放っている。
どこまでも吸い込まれてしまいそうな気がして、花京院は一度、小さく唇を震わせただけで言葉を失くした。
――なんて美しい瞳だろう。
そして、顔立ちだろうか。高く通った鼻梁と、誘い込もうとでもしているかのような、肉感的な唇と。エメラルドを縁取る長い睫毛が、もはや少年らしさを感じさせない削げた頬に、ゆらゆらと影を落としている。
――まるで計算しつくされているかのようだ。
彼の圧倒的な存在感は、なにも身体の大きさだけではないのだ。この鬼のような美貌にとらわれてしまえば、こうして喉を絞られたように声も出せなくなってしまうのは、仕方がないことなのかもしれない。
このとき花京院は、自分は他とは違うと思う反面、その美しさに見惚れていた。
承太郎はただじっとそんな花京院を見つめ、やがて背凭れから背を放すと、おもむろに片手を伸ばしてくる。ゆっくりと、緩慢な動作で近づいてきた手は、やがて花京院の眼鏡のブリッジに触れ、指先を引っ掻けた。
「――あッ」
するりと眼鏡を奪われて、花京院は声をあげた。手の中で眼鏡を折りたたみ、承太郎は片眉をひょいと持ち上げながら、楽しげに言う。
「へえ、眼鏡がないと、ずいぶん雰囲気が変わるもんだな」
「こ、こらッ! 返さないかッ!」
弾かれたように正気に戻り、花京院は頬が赤らむのを感じながら、勢いよく立ち上がった。手を伸ばし、承太郎から眼鏡を取り返そうとするが、寸でのところで遠ざけられてしまう。
「おい空条ッ! 一体なんのつもりだ!」
「これ、ない方がよかねえか」
「余計なお世話だ。大人をからかうんじゃあない!」
眉を吊り上げ、ピシャリと言い捨てると、承太郎は肩を竦めて、うんともふんともつかない息を漏らす。それから、肉厚な唇の端を持ち上げ、ふっと笑いながら言った。
「承太郎」
「は?」
「承太郎って呼びな。そうすりゃ返してやる」
なんなのだ、この上からの態度は。けれどここで目くじらを立ててばかりでは大人げないし、何より花京院にとって、眼鏡を奪われることは大問題だった。腹は立つが、ぐっと堪えながら手を差し出した。
「――承太郎。眼鏡を、返せ」
「あいよ」
たったそれだけで、承太郎は素直に眼鏡を放り投げた。
慌てて両手でキャッチして、ホッと息をつきながら元通りかけなおす。
それを黙ってただ眺めていた承太郎は、眩しそうに目を細めると、言った。
「あんた、笑ったら可愛いだろうな」
+++
コンプレックスと、はっきり断言してもいい。
花京院が人前で眼鏡を外さないのは、何も生徒たちが言うように冷たい印象を持たせたいからとか、気取っているなんてくだらない理由からではなかった。
単純に、自分の素顔が好きではないのだ。少し困り気味に下がった眉も、横に大きめの薄い唇も。花京院としてはこの愛嬌のある顔立ちが、どうも気に入らなくて仕方ない。見るものに幼い印象を与えてしまうように感じられるからだ。とりわけ、笑顔が。
十代のうちは、まだよかったのかもしれない。けれど二十代を後半に差し掛かった今もなお、顔付きは高校時代とほとんど変わっていないように思える。男性らしい精悍さも、年齢を重ねることによる渋みも、全くと言っていいほど皆無だった。
だから人前では常に表情を引き締めているし、絶対に笑わない。眼鏡をかけるのは、もちろん視力のせいもあるけれど、この愛嬌を隠すのにはもってこいのアイテムだからだ。
――それなのに。
「あの悪ガキ……」
夜。帰宅後、すぐにスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイと眼鏡を外した姿で洗面所の鏡に向かいながら、花京院はひとりごちる。
思いだすだけで、顔から火を噴きそうだ。絶対に素顔を見られないように、準備室に一人きりでいる以外で、眼鏡を外したことなどなかったのに。
花京院は鏡に映る自分の素顔を、憎々しげに睨み付ける。
けれどそうやって肩を怒らせているのもだんだん疲れてきて、深い溜息をつきながら力を抜いた。
下がり気味の眉の下で目をじっとりとさせ、大きめの唇を不満げに引き結んでいる表情は、やっぱりどこか子供臭い。思わず片手を顎に添え、あらゆる角度で自分の顔を見てみても、やはり気に入らないものはどうしようもなかった。
――それでもただ一人。
そういう顔だからいいのだと、好きなのだと、そう言ってくれた人がいた。多分まだ、過去ではないと思いたい。
顔に添えていた手は左手だった。薬指にはまる指輪が、鏡越しに洗面所の白いライトを弾いている。その輝きから目を逸らし、花京院は切なげに睫毛を伏せると、その場を後にした。
一日の疲れがどっと押し寄せてきたかのように、怠さを抱えた身体でリビングへ移動した。そこは隣接するダイニングキッチンの照明だけが頼りの、ぼんやりと薄暗い空間だった。
しん、と冷たく静まり返るなか、キッチンへ向かって冷蔵庫を開ける。中は空っぽに等しかった。
最近は外で済ませるなり、出来合いのものを買ってくることが多かったが、今日はどのみち、あまり食欲がない。
結局ただ開けただけですぐに扉を閉め、花京院はのろのろとリビングのソファに足を向けた。脱力したようにどっかりと深く腰を下ろし、背凭れに身を預ける。薄ぼんやりとした天井を虚ろに眺め、深い深い、溜息を漏らした。
「ッ……!」
気を抜いたせいだろうか。またキリキリと頭痛がしはじめて、目頭を押さえる。幾らか楽になるまで目を閉じて、重い瞼を抉じ開けた。
ふと、ポケットの中に手を忍ばせると携帯を取り出す。メールの受信を知らせるライトの点滅に、ハッとして背筋を正した。
――メールは、妻からのものだった。
『あなた、ごめんなさい。
お母さんの具合がちっともよくならないの。
今夜は戻ろうと思ったのだけれど、できそうもないわ。
また連絡するわね。おやすみなさい。』
内容に目を通し終わると、花京院は再び背凭れに背を埋めた。
がくんと腕を投げ出せば、持っていたはずの携帯が床に落ちて音を立てる。何度目かになる溜息を漏らして、ふと、放課後の準備室であの不良に言われた言葉を思い出した。
(笑えば可愛い、だとさ)
ふざけるのも大概にしてほしい。
「笑えるわけがないだろう?」
本当は意図してのことではない。笑わないのではなくて、笑い方を、忘れてしまっただけだ。
←戻る ・ 次へ→
薄暗い室内。閉め切られた障子。
物憂げに落ちる冷えた空気と、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音。
それらを切り裂くようなけたたましさで悲鳴を上げたのは、畳の上に投げ出されていた携帯電話だった。
「――出ねえのか」
低く、染み入るようなバリトンに問いかけられ、花京院は抱え込んでいた膝に伏せていた顔を、ゆるりとあげた。
雨の音も、着信を告げる電子音も、どこか遠い世界の出来事のように、まるで現実味がない。いつもはピンと張りつめたように伸ばしている背を丸めて、花京院は再び膝頭に顔を埋めた。
「……先生」
急かしているのか、それとも、憐れんでいるのだろうか。
ただ今はその声だけが、自分の意識をここに繋ぎ止めているような気がして、それを自分自身、どう受け止めたらいいのか分からなくて、花京院は微かに肩を震わせる。
やがて騒々しい着信音が止み、雨音だけが室内を満たすまで。
花京院は冷えた四肢を動かすことが、できなかった。
+++
白みがかった淡い水色が、秋の空一面に広がる朝。
セーラー服を着た二人の女子生徒は、全速力で正門をくぐり抜けると、そこで力尽きたように足を止めた。
「セーフッ!」
「あたしもセーフ! 間に合ったーッ!」
乱れた息を整えながら、二人はホッと胸を撫で下ろす。
あとはホームルームが始まる前に、教室に滑り込めばいいだけだ。目を見合わせて笑いあい、再び一歩踏み出そうとした、そのとき。
「――残念ながら、一分遅刻だ」
二人は同時に息を飲み、声がした方に視線を走らせる。
そこには背の高い、ダークグレーのスーツを纏う赤い髪の男が一人、佇んでいた。
「げ、今日の立ち番って花京院……?」
花京院、と呼ばれた男は、この高校に赴任する英語教師だった。いかにも神経質そうなスクエア型の黒縁眼鏡と、ほとんど動きのない表情が、寸分のズレもないネイビーのタイと相まって、ひどく無機質な印象を与える。
「君は確か、遅刻をするのは今月で三度目だったな。放課後、指導室まで来なさい。反省文を書いてもらう」
淡々と告げる濁りのない声に、指導室行きを宣告された女子が不満を露わに食ってかかった。
「ちょっと待ってよ! ほとんどセーフじゃん! 大体、まだチャイム鳴ってないんですけど!?」
「予鈴が鳴る五分前には、登校していなくてはならない。それがこの高校の規則だよ」
「ねぇお願い! もう絶対に遅刻なんてしないから! ね!」
腰を低くした女子生徒が、両手を合わせて拝むポーズをして見せても、花京院の顔色は冷淡なまま、変化がなかった。
「早く行きなさい。ホームルームまで遅刻する気か?」
なおも食い下がろうと前のめりになった肩を、もうひとりの女子生徒が掴んで「もう行こうよ」と耳打ちする。
「相手が花京院じゃムリだって……こいつマジで融通きかないんだから」
「……ムカつく」
ふたりは悔しげに表情を歪め、時おり花京院をチラリと振り返っては睨みつけながら、正面玄関へ歩き出した。
「あたし、アイツほんっと嫌い! 偉そうに気取っちゃって、アンタ一体何様ってカンジ!!」
「授業もつまんないんだよねー。冗談のひとつも言わないし、そういえば笑った顔なんて一回も見たことなくない?」
「ないない、鉄仮面? あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね」
わざとらしく、聞こえよがしに不満の声を垂れ流す二人の背中が、どんどん小さくなって遠のいていくのを、当の花京院は人形のように感情のない瞳で、ただじっと見つめるだけだった。
+++
(――まったく、余計なお世話だ)
デスクチェアに深く腰かけ天井を仰ぎ見ながら、花京院典明はささやかな溜息を漏らした。まるで連動するように、開いた窓から吹きこむ緩い秋風が、カーテンを揺らす。
視線を僅かにさげると、南校舎の二階にあるこの英語準備室からは、澄みきった高い空がよく見えた。
(鉄仮面、ね)
別に気にしているわけでも、腹を立てているわけでもないけれど。それがこの学校の生徒たちの、自分に抱くイメージであることは、わざわざ言われるまでもなく自覚していた。
花京院は生徒たちと冗談を言って笑ったり、立場を意識せず友達感覚でコミュニケーションをとる、といった接し方をする教師ではなかった。
神経質そうでとっつきにくい。融通が利かず、真面目で、お高くとまっている。そして冷淡。生徒たちからの評判がすこぶる悪いのは知っているが、かといって困るようなこともない。
教師と生徒。大人と子供。立場を弁えることは、彼らにとっても必要な社会勉強のひとつではないか。花京院はそう考えている。
――だけどひとつだけ。
ひとつだけ、朝の女子生徒たちの会話で、なんとなく耳から離れないでいるものがある。
『あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね』
ああ、本当に。なんて余計なお世話だろう。
花京院は見るともなしに眺めていた窓の外から、視線を外す。
晴れた空を見つめすぎたせいか、目の奥からずしりと重たいものが込み上げて、頭が鋭く痛んだ。眼鏡を外し、指でこめかみを強く摘まみながら、目を閉じる。
まただ。最近、ほんのちょっとのキッカケで、すぐにこうして酷い頭痛に苛まれる。
しばらくそうやって痛みをやり過ごし、どうにか落ち着いてきた頃に目を開けた。ふと、ノートパソコンを開いたままの机に置かれた、写真立てが目に入る。
そこに写り込む人物の笑顔を見て、花京院はすみれ色の瞳をどんよりと曇らせた。また、溜息が漏れる。
写真立てへと伸ばした左手の、薬指にはまる指輪が、どこか虚ろな光を放っていた。
花京院は目を閉じると、力なく首を振る。そのまま写真立てをパタリと伏せて、眼鏡をかけ直すと席を立った。
+++
放課後。
今朝の女子生徒への指導を終えて準備室に戻ると、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「ああ、待たせてすまない」
声をかけると、室内の中央に一組だけ置かれた、生徒用デスクセットの椅子に掛けた男子生徒が、どこか気だるげにチラリと視線だけを寄越した。
――空条承太郎。
ボロボロの学帽に、鎖のついた黒い長ラン。学校一の不良と呼ばれる、手のつけられない問題児。
彼はポケットに両手を捻じ込み、浅く腰かけながらも背凭れに背を預けている。悠々と長い足を組む姿勢は不遜で、二メートルに手が届きそうなほどの長身とガタイのよさが、これでもかというほどの威圧感を放っていた。
その傲然とした態度に密かに眉根を寄せながら、花京院は窓際にある自分の机から椅子を引き寄せ、机を挟んで向かい合う形で腰かける。
「空条」
その名を呼びながら、机に両方の前腕を乗せ、指を組んだ。
「どうして君がここに呼び出されたのか、心当たりは?」
「――あるぜ」
思いのほかあっさりと答えが返ってきたことを、少し意外に感じる。
「なら話は早い」
承太郎は今週だけでもすでに二度、花京院の授業中に居眠りをしている。しかも堂々と、彼の身体にはいささか小さすぎる机に、思い切り突っ伏して。
「わたしの授業はさぞかし退屈だろう。だが、居眠りは感心できないな」
彼はアメリカ人の母親をもつハーフだそうだし、父親は世界をまたにかけるミュージシャンだ。高校レベルの英語の授業が、彼にとって実りあるものとは到底思えない。
しかし、だからといって見逃せる問題ではないのだ。
承太郎は鼻から小さく息をつき、ひょいと小さく肩を竦めた。
「起こしてくれりゃあいいのによ」
「起こしたとも。何度もね。君はいちど寝てしまうと、よほど眠りが深いと見える」
冷たく見据える花京院の視線を正面から受け止めて、承太郎は幾度かゆっくりと瞬きをした。そして微かに背を丸め、何が可笑しいのか、くつくつと肩を揺らしながら笑いはじめる。この態度には、流石の花京院も少しばかり腹が立つ。
「君は教師をバカにしているのか?」
低く押し殺した声で問えば、承太郎はふっと息をつきながら「とんでもない」と言った。
「むしろ尊敬しているぜ。あんたのことは」
やはりバカにしているのではないか。この不良は、教師ですら恐れてまともに指導できないのをいいことに、傲岸不遜な態度をとり続けているのだ。だが自分は違う。他の教師たちと一緒にされるのは、プライドが許さない。
「空条、君は」
「あんたの授業は好きだぜ、花京院先生」
「……は?」
花京院の言葉を遮り、承太郎が言う。
「丁寧で無駄がない。くだらねえ雑談で脇道にそれる教師とは大違いだし、なにより、声がいい」
これはもしかして、もしかしなくても、褒められているのだろうか。承太郎の顔からはさっきまでの笑みが消え、決して冗談を言っているようには見えなかった。だからこそ、どう受け止めればいいか、咄嗟に判断ができない。生徒から否定されることはあっても、肯定されるのは初めてのことだった。しかも校内屈指の不良に、だ。
「だからつい、心地が良くって眠っちまう」
「そんなものは」
――理由になんてならない。
そう返す、つもりだったのに。
窓から差し込む夕焼けが、承太郎のエメラルドの瞳に吸い込まれて、淡く透明な輝きを放っている。
どこまでも吸い込まれてしまいそうな気がして、花京院は一度、小さく唇を震わせただけで言葉を失くした。
――なんて美しい瞳だろう。
そして、顔立ちだろうか。高く通った鼻梁と、誘い込もうとでもしているかのような、肉感的な唇と。エメラルドを縁取る長い睫毛が、もはや少年らしさを感じさせない削げた頬に、ゆらゆらと影を落としている。
――まるで計算しつくされているかのようだ。
彼の圧倒的な存在感は、なにも身体の大きさだけではないのだ。この鬼のような美貌にとらわれてしまえば、こうして喉を絞られたように声も出せなくなってしまうのは、仕方がないことなのかもしれない。
このとき花京院は、自分は他とは違うと思う反面、その美しさに見惚れていた。
承太郎はただじっとそんな花京院を見つめ、やがて背凭れから背を放すと、おもむろに片手を伸ばしてくる。ゆっくりと、緩慢な動作で近づいてきた手は、やがて花京院の眼鏡のブリッジに触れ、指先を引っ掻けた。
「――あッ」
するりと眼鏡を奪われて、花京院は声をあげた。手の中で眼鏡を折りたたみ、承太郎は片眉をひょいと持ち上げながら、楽しげに言う。
「へえ、眼鏡がないと、ずいぶん雰囲気が変わるもんだな」
「こ、こらッ! 返さないかッ!」
弾かれたように正気に戻り、花京院は頬が赤らむのを感じながら、勢いよく立ち上がった。手を伸ばし、承太郎から眼鏡を取り返そうとするが、寸でのところで遠ざけられてしまう。
「おい空条ッ! 一体なんのつもりだ!」
「これ、ない方がよかねえか」
「余計なお世話だ。大人をからかうんじゃあない!」
眉を吊り上げ、ピシャリと言い捨てると、承太郎は肩を竦めて、うんともふんともつかない息を漏らす。それから、肉厚な唇の端を持ち上げ、ふっと笑いながら言った。
「承太郎」
「は?」
「承太郎って呼びな。そうすりゃ返してやる」
なんなのだ、この上からの態度は。けれどここで目くじらを立ててばかりでは大人げないし、何より花京院にとって、眼鏡を奪われることは大問題だった。腹は立つが、ぐっと堪えながら手を差し出した。
「――承太郎。眼鏡を、返せ」
「あいよ」
たったそれだけで、承太郎は素直に眼鏡を放り投げた。
慌てて両手でキャッチして、ホッと息をつきながら元通りかけなおす。
それを黙ってただ眺めていた承太郎は、眩しそうに目を細めると、言った。
「あんた、笑ったら可愛いだろうな」
+++
コンプレックスと、はっきり断言してもいい。
花京院が人前で眼鏡を外さないのは、何も生徒たちが言うように冷たい印象を持たせたいからとか、気取っているなんてくだらない理由からではなかった。
単純に、自分の素顔が好きではないのだ。少し困り気味に下がった眉も、横に大きめの薄い唇も。花京院としてはこの愛嬌のある顔立ちが、どうも気に入らなくて仕方ない。見るものに幼い印象を与えてしまうように感じられるからだ。とりわけ、笑顔が。
十代のうちは、まだよかったのかもしれない。けれど二十代を後半に差し掛かった今もなお、顔付きは高校時代とほとんど変わっていないように思える。男性らしい精悍さも、年齢を重ねることによる渋みも、全くと言っていいほど皆無だった。
だから人前では常に表情を引き締めているし、絶対に笑わない。眼鏡をかけるのは、もちろん視力のせいもあるけれど、この愛嬌を隠すのにはもってこいのアイテムだからだ。
――それなのに。
「あの悪ガキ……」
夜。帰宅後、すぐにスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイと眼鏡を外した姿で洗面所の鏡に向かいながら、花京院はひとりごちる。
思いだすだけで、顔から火を噴きそうだ。絶対に素顔を見られないように、準備室に一人きりでいる以外で、眼鏡を外したことなどなかったのに。
花京院は鏡に映る自分の素顔を、憎々しげに睨み付ける。
けれどそうやって肩を怒らせているのもだんだん疲れてきて、深い溜息をつきながら力を抜いた。
下がり気味の眉の下で目をじっとりとさせ、大きめの唇を不満げに引き結んでいる表情は、やっぱりどこか子供臭い。思わず片手を顎に添え、あらゆる角度で自分の顔を見てみても、やはり気に入らないものはどうしようもなかった。
――それでもただ一人。
そういう顔だからいいのだと、好きなのだと、そう言ってくれた人がいた。多分まだ、過去ではないと思いたい。
顔に添えていた手は左手だった。薬指にはまる指輪が、鏡越しに洗面所の白いライトを弾いている。その輝きから目を逸らし、花京院は切なげに睫毛を伏せると、その場を後にした。
一日の疲れがどっと押し寄せてきたかのように、怠さを抱えた身体でリビングへ移動した。そこは隣接するダイニングキッチンの照明だけが頼りの、ぼんやりと薄暗い空間だった。
しん、と冷たく静まり返るなか、キッチンへ向かって冷蔵庫を開ける。中は空っぽに等しかった。
最近は外で済ませるなり、出来合いのものを買ってくることが多かったが、今日はどのみち、あまり食欲がない。
結局ただ開けただけですぐに扉を閉め、花京院はのろのろとリビングのソファに足を向けた。脱力したようにどっかりと深く腰を下ろし、背凭れに身を預ける。薄ぼんやりとした天井を虚ろに眺め、深い深い、溜息を漏らした。
「ッ……!」
気を抜いたせいだろうか。またキリキリと頭痛がしはじめて、目頭を押さえる。幾らか楽になるまで目を閉じて、重い瞼を抉じ開けた。
ふと、ポケットの中に手を忍ばせると携帯を取り出す。メールの受信を知らせるライトの点滅に、ハッとして背筋を正した。
――メールは、妻からのものだった。
『あなた、ごめんなさい。
お母さんの具合がちっともよくならないの。
今夜は戻ろうと思ったのだけれど、できそうもないわ。
また連絡するわね。おやすみなさい。』
内容に目を通し終わると、花京院は再び背凭れに背を埋めた。
がくんと腕を投げ出せば、持っていたはずの携帯が床に落ちて音を立てる。何度目かになる溜息を漏らして、ふと、放課後の準備室であの不良に言われた言葉を思い出した。
(笑えば可愛い、だとさ)
ふざけるのも大概にしてほしい。
「笑えるわけがないだろう?」
本当は意図してのことではない。笑わないのではなくて、笑い方を、忘れてしまっただけだ。
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赤ん坊を泣かせてしまったことがある。
あれはまだ小学校に上がる前だったから、花京院が五つかそこらの頃だ。親戚夫婦が生まれたばかりの乳児を抱いて、家に遊びにやってきた。
その子は母親の腕の中で、静かな寝息をたてていた。桜色の肌がお餅のように柔らかそうで、ふんわりとした甘いミルクの匂いがしたのを覚えている。
触ってもいいと言われ、花京院はドキドキと胸を跳ねさせながら、その小さな生き物に幼い指先を伸ばしてみた。恐る恐る、起こさないように、優しく、優しく。丸い頬に、そっと。けれど触れる寸前、目を覚ました赤ん坊が、急にぐずりはじめてしまった。
その顔はみるみるうちに真っ赤になった。鼻の頭に皺を寄せ、いよいよ甲高い声をあげて泣きだしてしまう。花京院はその光景にショックを受けて、石のように固まって動けなくなった。
赤ちゃんが泣いてしまったのは、ぼくがほっぺたに触ろうとしたからだ。せっかく気持ちよく眠っていたのに、邪魔をしようとしたから。きっと嫌われてしまったのだと、そう思うと怖くて悲しくて、とても悪いことをしてしまったのだと感じた。
以来、花京院は自分よりも小さな子供と触れ合うことに、どうしても不安を覚えるようになってしまった。決して忘れられない、心の傷が残ってしまったのだ。
*
(ああ、またホリィさんがいらしてるのか)
十二月の初め頃。学校から帰宅すると、廊下の向こうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。玄関には母のものとは異なる女性用の靴があり、その横には、小学生くらいの男児用スニーカーも置かれている。綺麗に揃えられた二足の靴を見て、花京院はひとつ、重たい溜息を漏らした。
ホリィとは半年ほど前、母が通い始めた料理教室で知り合ったという女性の名だ。今では頻繁に互いの家を行き来してお茶を飲むほど、親しい間柄になっている。アメリカ人だが流暢な日本語を話し、朗らかによく笑う可愛らしい人だった。
ホリィには承太郎という名の、小学二年生の息子がいた。目鼻立ちが息を飲むほど整った、エメラルドの大きな瞳を持つ美少年だ。物静かで行儀のいい承太郎のことを、母がえらく気に入っていて、よくホリィに連れられて家へ遊びにやってくるのだが。
(ホリィさんだけなら、大歓迎なんだけどな)
子供はどうしても苦手だ。幼い頃のトラウマは、高校生になった今でも薄れることなく、花京院の中に爪痕を残していた。
失礼だとは思うが、今は顔を出さずに部屋へあがることにして、帰宅するタイミングを見計らって軽く挨拶をしよう。そうと決めてしまうと、花京院は足音を立てないよう、静かに自室がある二階への階段をのぼった。
*
自室に入ると、机に置いた鞄の中から教科書やノートを取り出す。ホリィたちが帰るまではまだ時間もあるだろうし、軽く明日の予習でもしようと考えたからだ。すると一緒くたになって一冊の雑誌が飛び出し、絨毯張りの床に落下した。
「あ」
花京院は小さく声をあげ、それから辟易とした息を漏らした。表紙がよれよれになっているそれは、いわゆるエロ雑誌というものだ。もちろん、花京院の所有物ではない。クラスの男子たちが回し読みしたものを、たまたま近くの席にいたというだけで、強引に押し付けられてしまったのだ。
正直、花京院はこの手のものに、あまり興味がなかった。手に取ろうと思ったことすらない。ましてや複数の男子生徒が回し読みをしたものなんて、不潔に思えて触れることすら躊躇われる。
しかし放置しておくこともできず、花京院は溜息をつきながら雑誌を拾った。見たくもない表紙が、嫌でも目につく。そこには水着姿の女性が、尻を突きだすようにしながら座り込んでいる姿が写っていた。
「うわ」
思わず顔を赤らめ、慌てて目を逸らす。こんなものは目の毒だ。破廉恥すぎる。だいたい、まだ十七歳の高校生が見ていいものではない。男子って最低。よく女子が口にする言葉の中に、自分が含まれているかもしれないと思うだけで、嫌な気分だ。
(早く捨てよう。こんなもの)
けれどその内心の声とは裏腹に、花京院は横目でチラリと、再びいかがわしい表紙を視界に入れる。なぜかさっきからずっと顔が熱かった。心臓もドキドキと高鳴っているし、落ち着かない気分だ。ダメだダメだと思いつつ、そのままパラパラと雑誌をめくってみる。が、すぐにいたたまれなくなって目を逸らし、机に放り投げた。やっぱり無理だ。こんなもの、自分にはまだ早すぎる。
けれど十七歳の身体は、肌色成分に対してあまりにも純粋で、あまりにも素直な構造になっていた。
「ッ……!?」
気がつくと、身体の中心に違和感を覚えていた。やけに熱くて、窮屈だ。花京院は自分の身体に起こった変化に青褪め、それから、茹蛸のように真っ赤になった。
(ど、どうしよう……なんてことだ……)
呆然とした顔で、ベッドの縁に腰を沈める。身体を丸めるようにしながら頭を抱えた。
自慰の経験は、ほとんどない。普段、あまりしたいとも思わなかった。なのに今はこの有様で、花京院は焦りを覚えながらも、怖々と自分の股間に指先を這わせた。
どうせこの部屋には、自分一人だ。こんな状態でいるよりは、事務的にでもさっさと鎮めてしまった方がいいに決まっている。自分に言い訳をしながら、ベルトを緩めて前を寛げた。必要最低限、触れる機会のない熱の塊を取り出して、そっと握り込んでみる。
「ッ、ぁ」
慣れない感覚が、そこからじわりと這い上がる。おかしな声が漏れてしまう唇を片手の甲で塞ぎ、顔を背けながら目を閉じた。ぎこちない手つきで、自身を慰める。
「んっく、ふ……ぁッ」
頭がぼうっとして、息があがる。これが快感であるかどうかの判断はまるでつかなかった。けれど、やけに熱くて甘い痺れがじんわりと這い上がって、溢れでてくる。
(ああ、ぼくはなんてはしたない真似を……)
意識の片隅で自分を責める。これはとても悪いことだと。性器からは先走りの密が滲みはじめ、鈍い水音まで響きだすと、いよいよ罪悪感から涙が滲んだ。
(下にはお客さんがいるっていうのに!)
こんなのは自分じゃない。早く。早く、終わらせないと。
声がしたのは、そのときだった――。
「なにやってんの?」
「ッ?」
瞬間、花京院は竿を握りしめたまま、ピタリと凍り付いた。
(……へ?)
声。気のせいだろうか。いま、確かに誰かの声が……。
「なあってば、聞いてんの?」
ギ、ギ、ギ、と、錆びたネジを回すように首を動かし、声のした方へ視線を巡らせる。そこにはベッドの下から俯せた上半身を覗かせ、頬杖をついた子供が、こちらを見上げる姿があった――。
「う、うわあああああッ!?」
花京院は咄嗟に悲鳴をあげていた。頭から水を浴びたような感覚に、当然、熱は冷めて萎んでしまう。一瞬でベッドの端まで移動して、壁に身を寄せる花京院を、下から這い出した少年のつぶらな瞳が、不思議そうに見つめていた。
「な、なんっ、なんでッ、き、きみ、ここ、ここにッ!?」
あまりの出来事に、上手く言葉が出ない。なぜここに彼が――承太郎がいるのだろう。一体いつから、見ていたのだろうか。頭の中はすっかりパニックを起こしていた。彼は青いパーカーにジーンズ姿で、ベッドの縁を両手で掴み、シーツにちょこんと顎を乗せながら口を開いた。
「おばさんが、ヒマなら上の部屋で遊んでていいって」
「おばっ、お、おばさ、か、母さん、が?」
「うん。だから、かくれんぼして遊んでたんだぜ」
まだ少女のような高い声が、平然と言う。なら承太郎は、最初からこの部屋の、ベッドの下に潜んでいたということか。
花京院はショックのあまり青褪めて、ただ身体を震わせるしかできなかった。よりにもよって、なんて姿を見られてしまったのだろう。穴があったら入りたい。いっそのこと消えてしまえたら、どんなにいいか。
承太郎がベッドの上によじ登ってきた。思わず横向きに身体を丸め、これでもかというほど壁に身を寄せる花京院の目の前に、ぺたりと座る。小学二年生というだけあって、小さな身体だと思った。驚くほど長い睫毛がくるんとカールして、宝石のような丸い瞳が、星のように瞬いている。
「今の、もしかしてすごくワルイこと?」
「ッ……!」
「ちんちんさわって、ヘンなこえ出してた」
「いいい、言わないでッ! 頼むから、いま見たことは誰にも言わないでくれッ!!」
思わず頭を抱え、叫んでいた。どっと汗を噴きだし、すっかり小さく丸まってしまった花京院を見て、承太郎は「ふぅん」と微かに唸る。そしてすぐに「いいよ」と言った。
「ほ、本当に!?」
承太郎は頷き、それからにんまりと意地の悪そうな笑顔を浮かべた。とてつもなく嫌な感じがする。花京院は目を見張り、緊張から喉を鳴らして承太郎を見た。彼は胡坐をかき、腕を組むと、まるで見下すように顎を突きだして踏ん反り返った。そして、こう言ったのだ。
「おれのいうことをなんでもきく、召使いになるって約束するならな」
*
悪夢の一件から、一ヶ月ほどが経過した。
その間、花京院は承太郎の召使いとしての生活を、余儀なくされていた。
馬になれと言われれば四つん這いになり、背中に乗られながらひたすら部屋中を這いつくばる。手綱代わりに髪を引っ張られることもあったし、お菓子やジュースを買いに行けと言われれば、大急ぎで近所のコンビニやスーパーに駆けこまなくてはならなかった。それはもちろん花京院のポケットマネーから出す決まりになっていて、回を重ねるごとに財布事情が圧迫される。おかげで、子供の頃からコツコツと貯めてきたお年玉などの貯金を、切り崩す羽目になっていた。
承太郎はホリィ抜きでも家に遊びに来るようになったし、花京院を自宅に呼びつけるようにもなった。平日も休日もお構いなしに駆り出され、時には宿題までやらされる。少しでも嫌な顔すると、すぐに「あのことバラすぜ」なんて冷やかな目で言われ、その度に花京院はゾッと青褪めた。
腹が立つのは、承太郎の二重人格ともいえる態度だ。花京院の母や、ホリィの前では絵に描いたように素直で従順なふるまいを見せるし、笑顔は天使そのものだった。それに比べて、花京院にはぶっきらぼうで偉そうな態度しか見せない。正直、憎たらしくて仕方がなかった。
一体いつまでこんな日々が続くのだろう。小学生に脅され、いいように顎で使われているなんて。ただでさえ子供は苦手で、関わり合いを持つのは嫌だというのに。
*
その日も学校から帰宅すると、母から承太郎が遊びに来ていることを告げられた。げんなりする息子を他所に、母はウキウキとした様子で「裏庭で遊んでると思うわ」と言い、お茶とお菓子の準備をしていた。
花京院は嫌々ながらも、その足で裏庭へ向かった。すると寒空のしたで、承太郎が柿の木にしがみつきながら、頭上を見上げる姿があった。
「承太郎くん、こんにちは」
黒いダッフルコートに青いマフラーをして、すっかり着ぶくれしている承太郎は、花京院の声にハッとして振り向いた。
「おそいぞ、花京院」
ムッとした顔で睨み上げてくる少年に、花京院は「はいはい申し訳ありませんでした」と言いながら、溜息を漏らす。母親たちの前では「典明お兄ちゃん」なのに、ふたりきりになるとこれである。
「それよりどうしたんだい、熱心に柿の木なんて見上げて」
庭の片隅にある柿の木は、花京院の祖父が子供の頃に植えたというもので、それは大きくて立派なものだった。毎年、秋になるとたわわに果実を実らせるが、真冬の今となっては裸ん坊で、葉っぱひとつない寂しいものだった。承太郎が難しい顔をして、幹にしがみついたまま天辺を見上げるので、花京院もその視線を追いかける。するとそこには――。
「あれは……子猫?」
黒くて小さな塊が、そこから動けず枝にしがみついているのが見える。ミィミィという不安そうな鳴き声が聞こえた。
「あいつ、おりられなくてさっきから泣いてる。すぐに助けてやらないと……」
真冬の冷たい風が吹く度に、子猫は不安定に揺れる枝に小さな爪を立てて震えていた。
「ちょっと待ってて。いま物置から脚立を」
「あッ! おちるッ!!」
承太郎が真っ青な顔をして、大きな声を上げる。子猫が枝から後ろ足を滑らせ、宙づりの状態になっていた。これでは落下するのも時間の問題だ。
花京院の家の裏側は、ちょうど細長く続くコンクリート水路の堀に面している。子猫がぶら下がっている枝は、運悪く掘り側に張り出している部分に近かった。
「承太郎くん、危ないから下がってて」
「で、でも」
「いいから!」
危険だが、一刻を争う事態にのんびりとはしていられない。花京院は承太郎がおずおずと後退していくのを横目に、柿の木に手をかけ、大きく枝分かれしている部分に足をかけた。何度か強度を確かめて、素早く一気によじ登っていく。承太郎が両手を胸元で握りしめながら、不安そうに見守っていた。
「大丈夫だよ、ほら、いい子だね」
花京院はある程度の位置まで登ると、ぶら下がって甲高い声を上げる子猫に片手を伸ばした。暴れられたら終わりだと思ったが、子猫は大人しくその丸々とした腹を、花京院の掌に掴ませる。枝から剥がすようにして、胸に引き寄せた。しかしホッとしたのも束の間、次の瞬間。
「ッ……!」
「花京院ッ!!」
足を引っかけていた枝が、体重に耐えきれなくなって派手に折れてしまった。承太郎が悲鳴じみた声を張り上げて、花京院を呼ぶ。それを遠くに聞きながら、子猫を抱いたまま一気に飛び降りて、着地した。
「ふぅ、危なかった」
一瞬ヒヤリとしたが、子猫も自分も無事だった。青い顔をしたまま立ち尽くしている承太郎にふと笑いかけ、傍に歩み寄ると子猫を差し出す。
「ほら、もう平気だよ」
承太郎の腕に抱かれると、子猫は大きな金色の瞳で小首を傾げ「ミィ」と可愛らしい声でひと鳴きした。
「柿の木は、枝が脆くてとても折れやすいんだ。だからこういうときは、自分でなんとかしようとしないで、必ず誰か大人の人を呼ばなくちゃあいけないよ」
承太郎はおそらく、あのまま花京院が来なかったら、自分で木に登るつもりだった。運よく間に合ったからいいものの、あと少し遅ければ、子猫と一緒に堀に落ちていたかもしれない。そんな承太郎は柿の木の脆さを初めて知ったようで、青褪めていた顔を真っ白にしながら、小さく震えだした。
「ケガ、は」
「ん?」
「ケガは……?」
「ああ、大丈夫。ほら、子猫なら」
「ちがう。こねこじゃなくて」
「……え? ぼく?」
承太郎は両手で子猫を抱きしめながら、こくりと頷いた。その表情を見て、花京院は驚きに目を見開く。大きなエメラルドの瞳が、みるみるうちに透明な膜に覆われ、雫が目尻に溜まっていった。薄紅の下唇が噛み締められるのを見て、心臓がドキリと跳ねる。子猫が鳴いた。幼い頃に聞いた赤ん坊の泣き声が、その声と重なって焦りと不安が込み上げる。
「じょ、承太郎くん」
花京院は思わず承太郎の頬に手を伸ばした。指先があと少しで触れるというところで、戸惑う。あの赤ん坊は、自分が触れようとしたら泣いてしまった。だけどこの子は、いま自分が触れなければ、泣いてしまう。
(本当はこんなに、優しい子だったんだ)
てっきり嫌われているものとばかり思っていた。猫かぶりで、生意気な子供だと。けれどこの少年は今、一歩間違えれば怪我をしていたかもしれない花京院のために、こんなにもか細く身を震わせている。
雫が零れ落ちる寸前、花京院は人差し指の甲でその目尻を拭った。さらに膝をつき、向かい合うと真っ赤になった頬を両手で包み、親指で何度も何度も目尻を拭う。
(触れた)
承太郎は花京院の手を拒まなかった。すんと鼻を鳴らして、濡れた瞳で真っ直ぐに見つめてくる。あのときも、こんなふうに触れたかったのだ。自分よりも小さな存在に、ただ愛しさを覚えただけだった。泣かせたくなんか、なかった。
(……可愛い)
純粋に、そう思った。掌に感じる高い体温に、胸が締め付けられる。赤くなった頬がリンゴのようで、餅のようにすべすべとして、柔らかかった。
「ぼくも平気さ。どこもケガなんかしてない」
「……ほんとに?」
承太郎の涙が引いていくのと一緒に、花京院の中にあり続けた氷柱のようなトラウマが、少しずつ溶けていく。自然と綻ぶような笑顔が浮かんで、瞬きと一緒に頷いて見せた。
「ほんとに。嘘なんかつかないよ。だから泣かないで」
そう言うと、承太郎は赤かった頬をさらに赤くして、ムッとした表情を浮かべ「泣いてない」と強がった。それがまたどうしようもなく可愛らしく思えて、花京院はついクスリと笑ってしまう。承太郎が、いよいよ耳まで赤くなった。
「め、召使いのくせに、なまいきだぞ!」
「ノォホホ、ごめんよご主人様」
そのとき、ずっと承太郎の腕に抱かれていた子猫が、勢いよく飛び出して地面に着地した。あ、と揃って声をあげるふたりを振り向きもせずに、どこかへ走り去ってしまう。
「ねこ、迷子にならない?」
承太郎が、不安そうにその方向を見つめる。
「大丈夫。きっとお母さん猫のところへ帰ったんだよ」
花京院の言葉に、承太郎は「そっか」と呟きながら、ホッとしたように白い息を漏らした。
「さあ、ぼくらも家に戻ろう。風邪をひかないうちに」
そう言って立ちあがり、ごく自然に差し出した手に、承太郎の小さくて温かな手が触れた。そっと握りしめてやりながら、花京院は自分でも驚くほど優しい気持ちになっていることに気がついた。なんとなく、これからこの少年とはもっと仲良くなれるような、そんな予感に胸を弾ませながら。
*
二月ももうじき中旬というころ、花京院と承太郎の関係は大きく変化を遂げていた。
きっかけは、やはりあの柿の木と子猫の一件だった。あれ以来、承太郎は花京院に対して無邪気で明るい笑顔を見せるようになった。馬にされることはあっても髪は引っ張られないし、威張り散らしたような態度もなりを潜め、脅迫されることもなくなった。
一緒にゲームをして遊んだり、相撲中継を見たり、肩を並べて宿題をしたり。以前はパシリのような扱いを受けていたが、最近ではスーパーやコンビニに、手を繋いで一緒に買い物に行くようにもなった。
そんなふたりの姿を見て、あるときホリィは嬉しそうに、こんなことを言った。
『花京院くんが一緒に遊んでくれるようになって、承太郎ったら毎日とっても楽しそうなの。きっとお兄ちゃんができたみたいで、嬉しいのね』
それを聞いて、確かに兄弟がいたらこんな感じ、なのかもしれないと思った。少し歳の離れた、小さな弟。するとなんだかいっそう承太郎が可愛く思えてきて、前は嫌々だった時間が、日々の楽しみになっていった。全ての始まりである、あの悪夢のような出来事が、まるで夢だったかのように感じられるほど。
*
そんなある日。事件はバレンタインデーに起こった。
「好きです! 付き合ってください!」
学校帰りの道の途中、花京院は顔も知らない女子生徒に呼び止められ、告白を受けていた。
「え?」
あまりにも突然のことに、思わず目を丸くする。差し出されている、赤い包装紙にピンク色のリボンがかけられた箱と、女子生徒の顔を交互に見た。
「ずっと好きだったんです、先輩のこと」
彼女は耳まで赤くして、俯きながら言った。先輩、というワードから、一年生であることが知れる。
困ったな、と、花京院は思った。女子から告白されるのは、本日これが三度目だ。もちろん嬉しいとは思うし、光栄だとも思う。けれどその気もないのに付き合うなんて、そんな無責任で軽率な真似ができるはずもなく、前の二人も当然、丁重にお断りした。元から色恋への関心が薄い、ということもあるのだが……。
(承太郎くん、今日も学校帰りに遊びに来るんだったな)
真っ先に浮かぶのは、承太郎の顔だった。きっと今ごろとっくに来て、花京院の帰りを待っているに違いない。今の花京院にとって、あの少年と過ごす時間は何よりも楽しくて、大切なものになっていた。仮に自分に恋人と呼べるような相手ができてしまったら、今みたいに承太郎と遊ぶ時間がなくなってしまうかもしれない。それは考えられないことだった。
「すまないが……気持ちだけ、受け取らせていただくよ」
そう言うと、彼女は少し泣きそうな顔をしながらも「じゃあ、せめてチョコだけでも」と言って、笑顔を見せた。
*
帰宅すると、やはり承太郎はすでに遊びに来ていた。母から二階にいることを聞くと、すぐに部屋へあがる。
「いらっしゃい、承太郎くん」
承太郎は花京院の部屋で、ベッドの縁に腰かけて本を読んでいた。床に投げ出された黒いランドセルと、黄色い通学帽にふっと笑って、花京院はその隣に歩み寄ると腰かけた。
「なにを読んでいるんだい?」
鞄と、さっき受け取ったチョコレートの箱を足元に置きながら、問いかける。おそらく学校の図書室から借りてきたと思しき児童書。よくこうして一緒に本を読むこともあるから、ごく自然な動作で覗き込む。けれど承太郎はなにも答えず、花京院から隠すように本を閉じて、脇に放り投げてしまった。
(あれ?)
背けられた顔に、きょとんとする。最近は顔を合わせれば笑顔を見せてくれるようになっていたはずが、なぜか承太郎は不機嫌そうに顔を顰めて、なにも言おうとしない。
「承太郎くん、どうかした?」
問いかけても、返答は得られなかった。花京院は首を傾げ、何か彼の気に障るようなことをしてしまっただろうかと、思案する。しかし、これといって思い当たるものはなかった。なんと声をかけるべきか迷っていると、沈黙を経てようやく承太郎が口を開いた。
「花京院、そこに座れ」
「え? あ、はい」
小さな手が床を指さすので、花京院は戸惑いながらもベッドから下り、正座をして正面から承太郎を見上げる。彼は眉間に皺を寄せ、ぽってりとした唇をへの字に曲げていた。
「だれだ、あのアマ」
「あま?」
不思議そうに瞬きをして見せる花京院に、承太郎は眉間の皺をいっそう深くしながら睨み付けてくる。もしや、と、花京院は思った。
「君が言うアマっていうのは、ひょっとしてさっきの子のことを言っているのか?」
つい先ほど、道端で花京院に告白をしてきた一年の女子生徒。もしかして、承太郎はどこかであの光景を見ていたのだろうか。すると案の定、彼は「そうだ」と言った。
「てめーがなかなか帰ってこねえから、わざわざむかえに行ってやったのに」
承太郎は忌々しげに、足元に置かれた赤い箱を横目で睨み付ける。花京院は指先で頬を掻きながら苦笑した。
「そうだったのか。あれは、ほら……バレンタインだからね、今日は」
それよりも、迎えに来てくれていたのなら、どうして声もかけずに先に戻ってしまったのだろう。しかも承太郎がこうして不機嫌でいる理由も、さっぱり分からなかった。彼はさらにムッとした表情で、ベッドの縁から立ちあがった。
「あのアマと、こいびとになるのか」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声をあげた。承太郎は幼いながらに迫力のある凄んだ表情で、威圧感たっぷりに見下ろしてくる。
恋人もなにも、花京院はあの女子生徒からの告白を、きっぱりと断ったのだ。いま目の前にいる少年との時間を、何よりも優先させるために。しかしそれを言おうと口を開きかけるよりも先に、承太郎が言った。
「召使いのくせに、なまいきだぜ」
冷やかな視線と共に降ってきた台詞に、流石の花京院も少しばかり腹が立った。
「そ、そんな言い方ってないだろ? それに、いつまでも人を召使い呼ばわりするなんて」
「くちごたえすんな!」
承太郎は顔を赤らめ、肩を怒らせながら声を張り上げた。
「おれの言うことなんでもきくって、はじめに約束したはずだぜ。じゃなきゃ、おまえがここでしてたこと、ぜんぶバラす。母さんにも、おばさんにも!」
「ッ!」
思わずぐっと喉を詰まらせる。承太郎はおそらく、あのとき花京院がしていた行為の意味なんか知らないはずだ。けれどあれは、決して人の目に触れていい行いではなかった。今でも思いだすだけで死んでしまいたくなるから、なるべく考えないようにしていたのに。
みるみるうちに顔を青くする花京院に、気持ちが治まらない様子の承太郎は、なおも言った。
「おしおきだぜ、花京院」
「お、お仕置き、って……?」
無意識に声を震わせ、おずおずと視線をあげる。小さな身体で仁王立ちする少年は、大きなエメラルドの瞳を猫のように細めた。
「あのときしてたこと、今ここでやって見せな」
「……は?」
言っている意味が、わからなかった。
「ちんちんだして、やって見せろって言ってんだぜ」
「なッ……!?」
本気で言っているのだろうか。今ここで、承太郎がいる目の前で、自慰をして見せろなんて。花京院は大きく目を見開いたまま、身動きひとつすることができなかった。承太郎は蒼白な顔で肩を震わせる花京院に向かって「はやくしろ」と苛立った声で命じてくる。
(嘘だろ……そんなこと、できるわけ……)
自分よりもずっと小さな存在が、やけに恐ろしく感じられた。それは自分たちの関係が、どこまで行っても主と召使いでしかないことを知らしめているようで、ショックを受ける。
けれどここで言うことを聞かなければ、この少年は本当に誰かにあのことを言ってしまうかもしれない。母にも、ホリィにも。そんなことになったら、きっともう生きていけない。
有無を言わさぬ圧力をかけてくる承太郎に、花京院は下唇を噛み締めながら、震える指先をベルトにかける。
(ちゃんと、しないと……)
全部、バラされてしまう。だけど。
(……できない。できるわけ、ない)
花京院はそのまま、指先ひとつ動かすことができなかった。悲しいという気持ちが、胸いっぱいに溢れだす。
考えてもみてほしい。承太郎より十も長く生きているとはいえ、花京院だって、まだたったの一七歳の、未完成な少年でしかないのだ。
「ッ、ぅ」
気がついたときには、目尻から涙が溢れて頬を伝い落ちていた。何もかもが限界だ。あんな恥ずかしい場面を見られてしまったことも、それをネタに脅されることも。花京院にはもう、受け止められなくなってしまった。承太郎が、ハッと息を飲む音が聞こえる。
「お、おい……花京院?」
「どうして、こんな酷いことを……せっかく、せっかく」
仲良くなれたと思ったのに。少し我儘なところはあるけれど、優しくて可愛い、本当の弟のようだと思っていたのに。承太郎にとって花京院は、ただ自分のためだけに動く駒でしかなかったのだ。もしかしたら、それが何よりもショックで、辛いことだったかもしれない。
手の甲でしきりに涙を拭いながら、何度も肩を跳ねさせてしくしくと泣く花京院に、承太郎は驚きを隠せない様子だった。彼にしてみれば、花京院は自分よりもずっと大人で、そんな相手が子供のように泣いている姿は、あまりにも衝撃的なものだったに違いない。彼はわなわなと小刻みに震えだし、やがて見開いていた瞳を潤ませた。大粒の涙が溢れだし、花京院よりもずっと大きく、しゃくりを上げはじめる。
「うっ、うぅ……ふえ……」
「なん、で、なんで、承太郎くんが、泣くんだよぉ」
「だ、て、だって……泣くから、花京院が、泣くからぁ」
「承太郎くん、が、酷いことばっかり、言う、からッ」
ついに承太郎が声をあげて泣きだした。
「うわぁぁん! 花京院のバカ! バカやろおッ! なんで泣くんだよぉ、なんで、泣いちゃうんだよぉ!」
承太郎は口を大きく開けて、天井を見上げるようにして泣いている。よく見ると片方の八重歯が抜けて、小さな永久歯が顔を覗かせていた。花京院はそれを見て、なんて可愛いんだろうと思った。可愛くて、だけど悲しくて、なぜかもっともっと、涙がでてくる。花京院は混乱していた。承太郎も、混乱していた。
「う、うぅッ、ひ、ひっく、泣くなよ、泣くなってば、かきょ、花京院、泣いたら、ひっ、く、うえぇ」
「ぼくだって、うぅ、ヒック、承太郎くん、ぼくだって……泣かせたく、なんか、う、うう、ぅッ」
わっ、と、ふたりして声をあげて泣いた。なにがなんだか、もうさっぱり訳が分からないまま。
*
枕元を照らす暖色系のライトが、緩やかな波型の線を描く煙を、室内に浮き上がらせていた。
「君って、好きな子はイジメたいタイプだったんだなあ」
花京院は裸体を俯せに横たえ、シーツの海に溺れながら気だるげに前髪を掻き上げた。散々啼かされた後だけに、声が少しばかり掠れている。
「なんだよ急に」
ベッドの背もたれに背を預け、片足を立てている男もまた、一糸纏わぬ姿をしていた。なだらかに隆起する逞しい筋肉が、頼りない照明にくっきりと影を刻んで、嫌味なほど美しく浮きあがって見える。
「思いだしていたんだよ。君が小学生だった頃のことをさ」
ふっと笑った肉厚な唇から、煙草の煙が吐きだされた。その大人びた仕草に、思わずドキリとさせられる。
(あれから十年、か)
その歳月は花京院を二十七歳という、いい歳をした大人の男に変えていた。大学を出て、それなりに名の知れた企業に勤め、仕事に追われながらも充実した日々を送っている。
花京院は怠い身を起こし、承太郎の肩にもたれながら、長い指に挟まれた吸いかけの煙草を取り上げた。
「あんなに小さかった君が、今では立派な高校生だ。来年の春には大学生になる。とはいえ、まだこんなものを吸っていい歳じゃあないがね」
腕を伸ばし、サイドテーブルの上に置かれた灰皿に、煙草を押し付ける。承太郎は少年らしい丸みを失った頬で小さく笑うと、低い声で「やれやれ」と言った。
「おれもいっぱいいっぱいだったんだぜ。大好きな典明お兄ちゃんを独り占めしたくてよ」
「ノォホホ! その大きななりと低い声で言われてもなあ」
つい可笑しくて肩を震わせながら笑うと、身体の奥のあらぬ場所に違和感を覚えた。さっきまで承太郎の熱を咥え込んでいたそこは、その味を忘れられずに熱を持ったままだった。
「ぼくらはすっかり爛れてしまったみたいだ」
「これでも純愛を貫き通してるつもりなんだぜ」
「素っ裸でよく言うよ」
最初は信じられなかった。承太郎が、高校生だった花京院にそんな感情を抱いていたなんて。
「初恋なんてよ、あの頃はそんな自覚なんかなかったぜ。ただてめーの気を引きたくて、必死だった」
今でもよく覚えている。バレンタインにヤキモチを妬いた承太郎と、ふたりでバカみたいに泣き喚いた、あの時のこと。
「ぼくは小学生の男の子に、まんまと振り回されていたというわけだ。まさか君が、ぼくに恋をしていたなんてなあ」
「第一印象から決めてたぜ」
「ぼくは弟のように思っていたよ」
「それが今では?」
承太郎の長い腕が、花京院の肩を抱いて引き寄せる。花京院は答えの代わりに、その頬に音を立ててキスをした。
高校二年生までは順調に伸びていたはずの身長がパタリと止まり、承太郎にすっかり越されてしまったのは、いつだったろう。その頃に気持ちを打ち明けられて、ずっと頑なに拒んでいたはずが、気づいたら絆されたように恋に落ちていた。
今はなんの疑問も抱くことなく、この腕に全てを委ねてしまっている。主と召使いの関係から、恋人同士に。
「花京院」
低い声に名前を呼ばれると、あの少女のように甲高かった幼い声が、記憶の中で輪郭を失くす。大きくてまん丸だった瞳も、リンゴのようだった赤い頬も。可愛くてどうしようもなかったはずなのに、今はその面影だけを残して、花京院の胸を熱く焦がすものへと、変わってしまった。
花京院が微笑みながらその首に腕を回すと、逞しい両腕が腰に回って抱き返される。あんなに小さな身体だったはずなのに、今ではこうしてしがみつくのがやっとだった。
(とても不思議な気分だ。だけど)
あの頃となにひとつ変わらないものもまた、花京院の中には確かに存在している。それは。
「ずっと君が一番だよ、承太郎。今も、昔も」
深く唇を重ね合わせながら。冬空のした、柿の木の根元で生えかけの歯を覗かせた小さな王様が、笑顔で手を振る姿が見えたような気がした。
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あれはまだ小学校に上がる前だったから、花京院が五つかそこらの頃だ。親戚夫婦が生まれたばかりの乳児を抱いて、家に遊びにやってきた。
その子は母親の腕の中で、静かな寝息をたてていた。桜色の肌がお餅のように柔らかそうで、ふんわりとした甘いミルクの匂いがしたのを覚えている。
触ってもいいと言われ、花京院はドキドキと胸を跳ねさせながら、その小さな生き物に幼い指先を伸ばしてみた。恐る恐る、起こさないように、優しく、優しく。丸い頬に、そっと。けれど触れる寸前、目を覚ました赤ん坊が、急にぐずりはじめてしまった。
その顔はみるみるうちに真っ赤になった。鼻の頭に皺を寄せ、いよいよ甲高い声をあげて泣きだしてしまう。花京院はその光景にショックを受けて、石のように固まって動けなくなった。
赤ちゃんが泣いてしまったのは、ぼくがほっぺたに触ろうとしたからだ。せっかく気持ちよく眠っていたのに、邪魔をしようとしたから。きっと嫌われてしまったのだと、そう思うと怖くて悲しくて、とても悪いことをしてしまったのだと感じた。
以来、花京院は自分よりも小さな子供と触れ合うことに、どうしても不安を覚えるようになってしまった。決して忘れられない、心の傷が残ってしまったのだ。
*
(ああ、またホリィさんがいらしてるのか)
十二月の初め頃。学校から帰宅すると、廊下の向こうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。玄関には母のものとは異なる女性用の靴があり、その横には、小学生くらいの男児用スニーカーも置かれている。綺麗に揃えられた二足の靴を見て、花京院はひとつ、重たい溜息を漏らした。
ホリィとは半年ほど前、母が通い始めた料理教室で知り合ったという女性の名だ。今では頻繁に互いの家を行き来してお茶を飲むほど、親しい間柄になっている。アメリカ人だが流暢な日本語を話し、朗らかによく笑う可愛らしい人だった。
ホリィには承太郎という名の、小学二年生の息子がいた。目鼻立ちが息を飲むほど整った、エメラルドの大きな瞳を持つ美少年だ。物静かで行儀のいい承太郎のことを、母がえらく気に入っていて、よくホリィに連れられて家へ遊びにやってくるのだが。
(ホリィさんだけなら、大歓迎なんだけどな)
子供はどうしても苦手だ。幼い頃のトラウマは、高校生になった今でも薄れることなく、花京院の中に爪痕を残していた。
失礼だとは思うが、今は顔を出さずに部屋へあがることにして、帰宅するタイミングを見計らって軽く挨拶をしよう。そうと決めてしまうと、花京院は足音を立てないよう、静かに自室がある二階への階段をのぼった。
*
自室に入ると、机に置いた鞄の中から教科書やノートを取り出す。ホリィたちが帰るまではまだ時間もあるだろうし、軽く明日の予習でもしようと考えたからだ。すると一緒くたになって一冊の雑誌が飛び出し、絨毯張りの床に落下した。
「あ」
花京院は小さく声をあげ、それから辟易とした息を漏らした。表紙がよれよれになっているそれは、いわゆるエロ雑誌というものだ。もちろん、花京院の所有物ではない。クラスの男子たちが回し読みしたものを、たまたま近くの席にいたというだけで、強引に押し付けられてしまったのだ。
正直、花京院はこの手のものに、あまり興味がなかった。手に取ろうと思ったことすらない。ましてや複数の男子生徒が回し読みをしたものなんて、不潔に思えて触れることすら躊躇われる。
しかし放置しておくこともできず、花京院は溜息をつきながら雑誌を拾った。見たくもない表紙が、嫌でも目につく。そこには水着姿の女性が、尻を突きだすようにしながら座り込んでいる姿が写っていた。
「うわ」
思わず顔を赤らめ、慌てて目を逸らす。こんなものは目の毒だ。破廉恥すぎる。だいたい、まだ十七歳の高校生が見ていいものではない。男子って最低。よく女子が口にする言葉の中に、自分が含まれているかもしれないと思うだけで、嫌な気分だ。
(早く捨てよう。こんなもの)
けれどその内心の声とは裏腹に、花京院は横目でチラリと、再びいかがわしい表紙を視界に入れる。なぜかさっきからずっと顔が熱かった。心臓もドキドキと高鳴っているし、落ち着かない気分だ。ダメだダメだと思いつつ、そのままパラパラと雑誌をめくってみる。が、すぐにいたたまれなくなって目を逸らし、机に放り投げた。やっぱり無理だ。こんなもの、自分にはまだ早すぎる。
けれど十七歳の身体は、肌色成分に対してあまりにも純粋で、あまりにも素直な構造になっていた。
「ッ……!?」
気がつくと、身体の中心に違和感を覚えていた。やけに熱くて、窮屈だ。花京院は自分の身体に起こった変化に青褪め、それから、茹蛸のように真っ赤になった。
(ど、どうしよう……なんてことだ……)
呆然とした顔で、ベッドの縁に腰を沈める。身体を丸めるようにしながら頭を抱えた。
自慰の経験は、ほとんどない。普段、あまりしたいとも思わなかった。なのに今はこの有様で、花京院は焦りを覚えながらも、怖々と自分の股間に指先を這わせた。
どうせこの部屋には、自分一人だ。こんな状態でいるよりは、事務的にでもさっさと鎮めてしまった方がいいに決まっている。自分に言い訳をしながら、ベルトを緩めて前を寛げた。必要最低限、触れる機会のない熱の塊を取り出して、そっと握り込んでみる。
「ッ、ぁ」
慣れない感覚が、そこからじわりと這い上がる。おかしな声が漏れてしまう唇を片手の甲で塞ぎ、顔を背けながら目を閉じた。ぎこちない手つきで、自身を慰める。
「んっく、ふ……ぁッ」
頭がぼうっとして、息があがる。これが快感であるかどうかの判断はまるでつかなかった。けれど、やけに熱くて甘い痺れがじんわりと這い上がって、溢れでてくる。
(ああ、ぼくはなんてはしたない真似を……)
意識の片隅で自分を責める。これはとても悪いことだと。性器からは先走りの密が滲みはじめ、鈍い水音まで響きだすと、いよいよ罪悪感から涙が滲んだ。
(下にはお客さんがいるっていうのに!)
こんなのは自分じゃない。早く。早く、終わらせないと。
声がしたのは、そのときだった――。
「なにやってんの?」
「ッ?」
瞬間、花京院は竿を握りしめたまま、ピタリと凍り付いた。
(……へ?)
声。気のせいだろうか。いま、確かに誰かの声が……。
「なあってば、聞いてんの?」
ギ、ギ、ギ、と、錆びたネジを回すように首を動かし、声のした方へ視線を巡らせる。そこにはベッドの下から俯せた上半身を覗かせ、頬杖をついた子供が、こちらを見上げる姿があった――。
「う、うわあああああッ!?」
花京院は咄嗟に悲鳴をあげていた。頭から水を浴びたような感覚に、当然、熱は冷めて萎んでしまう。一瞬でベッドの端まで移動して、壁に身を寄せる花京院を、下から這い出した少年のつぶらな瞳が、不思議そうに見つめていた。
「な、なんっ、なんでッ、き、きみ、ここ、ここにッ!?」
あまりの出来事に、上手く言葉が出ない。なぜここに彼が――承太郎がいるのだろう。一体いつから、見ていたのだろうか。頭の中はすっかりパニックを起こしていた。彼は青いパーカーにジーンズ姿で、ベッドの縁を両手で掴み、シーツにちょこんと顎を乗せながら口を開いた。
「おばさんが、ヒマなら上の部屋で遊んでていいって」
「おばっ、お、おばさ、か、母さん、が?」
「うん。だから、かくれんぼして遊んでたんだぜ」
まだ少女のような高い声が、平然と言う。なら承太郎は、最初からこの部屋の、ベッドの下に潜んでいたということか。
花京院はショックのあまり青褪めて、ただ身体を震わせるしかできなかった。よりにもよって、なんて姿を見られてしまったのだろう。穴があったら入りたい。いっそのこと消えてしまえたら、どんなにいいか。
承太郎がベッドの上によじ登ってきた。思わず横向きに身体を丸め、これでもかというほど壁に身を寄せる花京院の目の前に、ぺたりと座る。小学二年生というだけあって、小さな身体だと思った。驚くほど長い睫毛がくるんとカールして、宝石のような丸い瞳が、星のように瞬いている。
「今の、もしかしてすごくワルイこと?」
「ッ……!」
「ちんちんさわって、ヘンなこえ出してた」
「いいい、言わないでッ! 頼むから、いま見たことは誰にも言わないでくれッ!!」
思わず頭を抱え、叫んでいた。どっと汗を噴きだし、すっかり小さく丸まってしまった花京院を見て、承太郎は「ふぅん」と微かに唸る。そしてすぐに「いいよ」と言った。
「ほ、本当に!?」
承太郎は頷き、それからにんまりと意地の悪そうな笑顔を浮かべた。とてつもなく嫌な感じがする。花京院は目を見張り、緊張から喉を鳴らして承太郎を見た。彼は胡坐をかき、腕を組むと、まるで見下すように顎を突きだして踏ん反り返った。そして、こう言ったのだ。
「おれのいうことをなんでもきく、召使いになるって約束するならな」
*
悪夢の一件から、一ヶ月ほどが経過した。
その間、花京院は承太郎の召使いとしての生活を、余儀なくされていた。
馬になれと言われれば四つん這いになり、背中に乗られながらひたすら部屋中を這いつくばる。手綱代わりに髪を引っ張られることもあったし、お菓子やジュースを買いに行けと言われれば、大急ぎで近所のコンビニやスーパーに駆けこまなくてはならなかった。それはもちろん花京院のポケットマネーから出す決まりになっていて、回を重ねるごとに財布事情が圧迫される。おかげで、子供の頃からコツコツと貯めてきたお年玉などの貯金を、切り崩す羽目になっていた。
承太郎はホリィ抜きでも家に遊びに来るようになったし、花京院を自宅に呼びつけるようにもなった。平日も休日もお構いなしに駆り出され、時には宿題までやらされる。少しでも嫌な顔すると、すぐに「あのことバラすぜ」なんて冷やかな目で言われ、その度に花京院はゾッと青褪めた。
腹が立つのは、承太郎の二重人格ともいえる態度だ。花京院の母や、ホリィの前では絵に描いたように素直で従順なふるまいを見せるし、笑顔は天使そのものだった。それに比べて、花京院にはぶっきらぼうで偉そうな態度しか見せない。正直、憎たらしくて仕方がなかった。
一体いつまでこんな日々が続くのだろう。小学生に脅され、いいように顎で使われているなんて。ただでさえ子供は苦手で、関わり合いを持つのは嫌だというのに。
*
その日も学校から帰宅すると、母から承太郎が遊びに来ていることを告げられた。げんなりする息子を他所に、母はウキウキとした様子で「裏庭で遊んでると思うわ」と言い、お茶とお菓子の準備をしていた。
花京院は嫌々ながらも、その足で裏庭へ向かった。すると寒空のしたで、承太郎が柿の木にしがみつきながら、頭上を見上げる姿があった。
「承太郎くん、こんにちは」
黒いダッフルコートに青いマフラーをして、すっかり着ぶくれしている承太郎は、花京院の声にハッとして振り向いた。
「おそいぞ、花京院」
ムッとした顔で睨み上げてくる少年に、花京院は「はいはい申し訳ありませんでした」と言いながら、溜息を漏らす。母親たちの前では「典明お兄ちゃん」なのに、ふたりきりになるとこれである。
「それよりどうしたんだい、熱心に柿の木なんて見上げて」
庭の片隅にある柿の木は、花京院の祖父が子供の頃に植えたというもので、それは大きくて立派なものだった。毎年、秋になるとたわわに果実を実らせるが、真冬の今となっては裸ん坊で、葉っぱひとつない寂しいものだった。承太郎が難しい顔をして、幹にしがみついたまま天辺を見上げるので、花京院もその視線を追いかける。するとそこには――。
「あれは……子猫?」
黒くて小さな塊が、そこから動けず枝にしがみついているのが見える。ミィミィという不安そうな鳴き声が聞こえた。
「あいつ、おりられなくてさっきから泣いてる。すぐに助けてやらないと……」
真冬の冷たい風が吹く度に、子猫は不安定に揺れる枝に小さな爪を立てて震えていた。
「ちょっと待ってて。いま物置から脚立を」
「あッ! おちるッ!!」
承太郎が真っ青な顔をして、大きな声を上げる。子猫が枝から後ろ足を滑らせ、宙づりの状態になっていた。これでは落下するのも時間の問題だ。
花京院の家の裏側は、ちょうど細長く続くコンクリート水路の堀に面している。子猫がぶら下がっている枝は、運悪く掘り側に張り出している部分に近かった。
「承太郎くん、危ないから下がってて」
「で、でも」
「いいから!」
危険だが、一刻を争う事態にのんびりとはしていられない。花京院は承太郎がおずおずと後退していくのを横目に、柿の木に手をかけ、大きく枝分かれしている部分に足をかけた。何度か強度を確かめて、素早く一気によじ登っていく。承太郎が両手を胸元で握りしめながら、不安そうに見守っていた。
「大丈夫だよ、ほら、いい子だね」
花京院はある程度の位置まで登ると、ぶら下がって甲高い声を上げる子猫に片手を伸ばした。暴れられたら終わりだと思ったが、子猫は大人しくその丸々とした腹を、花京院の掌に掴ませる。枝から剥がすようにして、胸に引き寄せた。しかしホッとしたのも束の間、次の瞬間。
「ッ……!」
「花京院ッ!!」
足を引っかけていた枝が、体重に耐えきれなくなって派手に折れてしまった。承太郎が悲鳴じみた声を張り上げて、花京院を呼ぶ。それを遠くに聞きながら、子猫を抱いたまま一気に飛び降りて、着地した。
「ふぅ、危なかった」
一瞬ヒヤリとしたが、子猫も自分も無事だった。青い顔をしたまま立ち尽くしている承太郎にふと笑いかけ、傍に歩み寄ると子猫を差し出す。
「ほら、もう平気だよ」
承太郎の腕に抱かれると、子猫は大きな金色の瞳で小首を傾げ「ミィ」と可愛らしい声でひと鳴きした。
「柿の木は、枝が脆くてとても折れやすいんだ。だからこういうときは、自分でなんとかしようとしないで、必ず誰か大人の人を呼ばなくちゃあいけないよ」
承太郎はおそらく、あのまま花京院が来なかったら、自分で木に登るつもりだった。運よく間に合ったからいいものの、あと少し遅ければ、子猫と一緒に堀に落ちていたかもしれない。そんな承太郎は柿の木の脆さを初めて知ったようで、青褪めていた顔を真っ白にしながら、小さく震えだした。
「ケガ、は」
「ん?」
「ケガは……?」
「ああ、大丈夫。ほら、子猫なら」
「ちがう。こねこじゃなくて」
「……え? ぼく?」
承太郎は両手で子猫を抱きしめながら、こくりと頷いた。その表情を見て、花京院は驚きに目を見開く。大きなエメラルドの瞳が、みるみるうちに透明な膜に覆われ、雫が目尻に溜まっていった。薄紅の下唇が噛み締められるのを見て、心臓がドキリと跳ねる。子猫が鳴いた。幼い頃に聞いた赤ん坊の泣き声が、その声と重なって焦りと不安が込み上げる。
「じょ、承太郎くん」
花京院は思わず承太郎の頬に手を伸ばした。指先があと少しで触れるというところで、戸惑う。あの赤ん坊は、自分が触れようとしたら泣いてしまった。だけどこの子は、いま自分が触れなければ、泣いてしまう。
(本当はこんなに、優しい子だったんだ)
てっきり嫌われているものとばかり思っていた。猫かぶりで、生意気な子供だと。けれどこの少年は今、一歩間違えれば怪我をしていたかもしれない花京院のために、こんなにもか細く身を震わせている。
雫が零れ落ちる寸前、花京院は人差し指の甲でその目尻を拭った。さらに膝をつき、向かい合うと真っ赤になった頬を両手で包み、親指で何度も何度も目尻を拭う。
(触れた)
承太郎は花京院の手を拒まなかった。すんと鼻を鳴らして、濡れた瞳で真っ直ぐに見つめてくる。あのときも、こんなふうに触れたかったのだ。自分よりも小さな存在に、ただ愛しさを覚えただけだった。泣かせたくなんか、なかった。
(……可愛い)
純粋に、そう思った。掌に感じる高い体温に、胸が締め付けられる。赤くなった頬がリンゴのようで、餅のようにすべすべとして、柔らかかった。
「ぼくも平気さ。どこもケガなんかしてない」
「……ほんとに?」
承太郎の涙が引いていくのと一緒に、花京院の中にあり続けた氷柱のようなトラウマが、少しずつ溶けていく。自然と綻ぶような笑顔が浮かんで、瞬きと一緒に頷いて見せた。
「ほんとに。嘘なんかつかないよ。だから泣かないで」
そう言うと、承太郎は赤かった頬をさらに赤くして、ムッとした表情を浮かべ「泣いてない」と強がった。それがまたどうしようもなく可愛らしく思えて、花京院はついクスリと笑ってしまう。承太郎が、いよいよ耳まで赤くなった。
「め、召使いのくせに、なまいきだぞ!」
「ノォホホ、ごめんよご主人様」
そのとき、ずっと承太郎の腕に抱かれていた子猫が、勢いよく飛び出して地面に着地した。あ、と揃って声をあげるふたりを振り向きもせずに、どこかへ走り去ってしまう。
「ねこ、迷子にならない?」
承太郎が、不安そうにその方向を見つめる。
「大丈夫。きっとお母さん猫のところへ帰ったんだよ」
花京院の言葉に、承太郎は「そっか」と呟きながら、ホッとしたように白い息を漏らした。
「さあ、ぼくらも家に戻ろう。風邪をひかないうちに」
そう言って立ちあがり、ごく自然に差し出した手に、承太郎の小さくて温かな手が触れた。そっと握りしめてやりながら、花京院は自分でも驚くほど優しい気持ちになっていることに気がついた。なんとなく、これからこの少年とはもっと仲良くなれるような、そんな予感に胸を弾ませながら。
*
二月ももうじき中旬というころ、花京院と承太郎の関係は大きく変化を遂げていた。
きっかけは、やはりあの柿の木と子猫の一件だった。あれ以来、承太郎は花京院に対して無邪気で明るい笑顔を見せるようになった。馬にされることはあっても髪は引っ張られないし、威張り散らしたような態度もなりを潜め、脅迫されることもなくなった。
一緒にゲームをして遊んだり、相撲中継を見たり、肩を並べて宿題をしたり。以前はパシリのような扱いを受けていたが、最近ではスーパーやコンビニに、手を繋いで一緒に買い物に行くようにもなった。
そんなふたりの姿を見て、あるときホリィは嬉しそうに、こんなことを言った。
『花京院くんが一緒に遊んでくれるようになって、承太郎ったら毎日とっても楽しそうなの。きっとお兄ちゃんができたみたいで、嬉しいのね』
それを聞いて、確かに兄弟がいたらこんな感じ、なのかもしれないと思った。少し歳の離れた、小さな弟。するとなんだかいっそう承太郎が可愛く思えてきて、前は嫌々だった時間が、日々の楽しみになっていった。全ての始まりである、あの悪夢のような出来事が、まるで夢だったかのように感じられるほど。
*
そんなある日。事件はバレンタインデーに起こった。
「好きです! 付き合ってください!」
学校帰りの道の途中、花京院は顔も知らない女子生徒に呼び止められ、告白を受けていた。
「え?」
あまりにも突然のことに、思わず目を丸くする。差し出されている、赤い包装紙にピンク色のリボンがかけられた箱と、女子生徒の顔を交互に見た。
「ずっと好きだったんです、先輩のこと」
彼女は耳まで赤くして、俯きながら言った。先輩、というワードから、一年生であることが知れる。
困ったな、と、花京院は思った。女子から告白されるのは、本日これが三度目だ。もちろん嬉しいとは思うし、光栄だとも思う。けれどその気もないのに付き合うなんて、そんな無責任で軽率な真似ができるはずもなく、前の二人も当然、丁重にお断りした。元から色恋への関心が薄い、ということもあるのだが……。
(承太郎くん、今日も学校帰りに遊びに来るんだったな)
真っ先に浮かぶのは、承太郎の顔だった。きっと今ごろとっくに来て、花京院の帰りを待っているに違いない。今の花京院にとって、あの少年と過ごす時間は何よりも楽しくて、大切なものになっていた。仮に自分に恋人と呼べるような相手ができてしまったら、今みたいに承太郎と遊ぶ時間がなくなってしまうかもしれない。それは考えられないことだった。
「すまないが……気持ちだけ、受け取らせていただくよ」
そう言うと、彼女は少し泣きそうな顔をしながらも「じゃあ、せめてチョコだけでも」と言って、笑顔を見せた。
*
帰宅すると、やはり承太郎はすでに遊びに来ていた。母から二階にいることを聞くと、すぐに部屋へあがる。
「いらっしゃい、承太郎くん」
承太郎は花京院の部屋で、ベッドの縁に腰かけて本を読んでいた。床に投げ出された黒いランドセルと、黄色い通学帽にふっと笑って、花京院はその隣に歩み寄ると腰かけた。
「なにを読んでいるんだい?」
鞄と、さっき受け取ったチョコレートの箱を足元に置きながら、問いかける。おそらく学校の図書室から借りてきたと思しき児童書。よくこうして一緒に本を読むこともあるから、ごく自然な動作で覗き込む。けれど承太郎はなにも答えず、花京院から隠すように本を閉じて、脇に放り投げてしまった。
(あれ?)
背けられた顔に、きょとんとする。最近は顔を合わせれば笑顔を見せてくれるようになっていたはずが、なぜか承太郎は不機嫌そうに顔を顰めて、なにも言おうとしない。
「承太郎くん、どうかした?」
問いかけても、返答は得られなかった。花京院は首を傾げ、何か彼の気に障るようなことをしてしまっただろうかと、思案する。しかし、これといって思い当たるものはなかった。なんと声をかけるべきか迷っていると、沈黙を経てようやく承太郎が口を開いた。
「花京院、そこに座れ」
「え? あ、はい」
小さな手が床を指さすので、花京院は戸惑いながらもベッドから下り、正座をして正面から承太郎を見上げる。彼は眉間に皺を寄せ、ぽってりとした唇をへの字に曲げていた。
「だれだ、あのアマ」
「あま?」
不思議そうに瞬きをして見せる花京院に、承太郎は眉間の皺をいっそう深くしながら睨み付けてくる。もしや、と、花京院は思った。
「君が言うアマっていうのは、ひょっとしてさっきの子のことを言っているのか?」
つい先ほど、道端で花京院に告白をしてきた一年の女子生徒。もしかして、承太郎はどこかであの光景を見ていたのだろうか。すると案の定、彼は「そうだ」と言った。
「てめーがなかなか帰ってこねえから、わざわざむかえに行ってやったのに」
承太郎は忌々しげに、足元に置かれた赤い箱を横目で睨み付ける。花京院は指先で頬を掻きながら苦笑した。
「そうだったのか。あれは、ほら……バレンタインだからね、今日は」
それよりも、迎えに来てくれていたのなら、どうして声もかけずに先に戻ってしまったのだろう。しかも承太郎がこうして不機嫌でいる理由も、さっぱり分からなかった。彼はさらにムッとした表情で、ベッドの縁から立ちあがった。
「あのアマと、こいびとになるのか」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声をあげた。承太郎は幼いながらに迫力のある凄んだ表情で、威圧感たっぷりに見下ろしてくる。
恋人もなにも、花京院はあの女子生徒からの告白を、きっぱりと断ったのだ。いま目の前にいる少年との時間を、何よりも優先させるために。しかしそれを言おうと口を開きかけるよりも先に、承太郎が言った。
「召使いのくせに、なまいきだぜ」
冷やかな視線と共に降ってきた台詞に、流石の花京院も少しばかり腹が立った。
「そ、そんな言い方ってないだろ? それに、いつまでも人を召使い呼ばわりするなんて」
「くちごたえすんな!」
承太郎は顔を赤らめ、肩を怒らせながら声を張り上げた。
「おれの言うことなんでもきくって、はじめに約束したはずだぜ。じゃなきゃ、おまえがここでしてたこと、ぜんぶバラす。母さんにも、おばさんにも!」
「ッ!」
思わずぐっと喉を詰まらせる。承太郎はおそらく、あのとき花京院がしていた行為の意味なんか知らないはずだ。けれどあれは、決して人の目に触れていい行いではなかった。今でも思いだすだけで死んでしまいたくなるから、なるべく考えないようにしていたのに。
みるみるうちに顔を青くする花京院に、気持ちが治まらない様子の承太郎は、なおも言った。
「おしおきだぜ、花京院」
「お、お仕置き、って……?」
無意識に声を震わせ、おずおずと視線をあげる。小さな身体で仁王立ちする少年は、大きなエメラルドの瞳を猫のように細めた。
「あのときしてたこと、今ここでやって見せな」
「……は?」
言っている意味が、わからなかった。
「ちんちんだして、やって見せろって言ってんだぜ」
「なッ……!?」
本気で言っているのだろうか。今ここで、承太郎がいる目の前で、自慰をして見せろなんて。花京院は大きく目を見開いたまま、身動きひとつすることができなかった。承太郎は蒼白な顔で肩を震わせる花京院に向かって「はやくしろ」と苛立った声で命じてくる。
(嘘だろ……そんなこと、できるわけ……)
自分よりもずっと小さな存在が、やけに恐ろしく感じられた。それは自分たちの関係が、どこまで行っても主と召使いでしかないことを知らしめているようで、ショックを受ける。
けれどここで言うことを聞かなければ、この少年は本当に誰かにあのことを言ってしまうかもしれない。母にも、ホリィにも。そんなことになったら、きっともう生きていけない。
有無を言わさぬ圧力をかけてくる承太郎に、花京院は下唇を噛み締めながら、震える指先をベルトにかける。
(ちゃんと、しないと……)
全部、バラされてしまう。だけど。
(……できない。できるわけ、ない)
花京院はそのまま、指先ひとつ動かすことができなかった。悲しいという気持ちが、胸いっぱいに溢れだす。
考えてもみてほしい。承太郎より十も長く生きているとはいえ、花京院だって、まだたったの一七歳の、未完成な少年でしかないのだ。
「ッ、ぅ」
気がついたときには、目尻から涙が溢れて頬を伝い落ちていた。何もかもが限界だ。あんな恥ずかしい場面を見られてしまったことも、それをネタに脅されることも。花京院にはもう、受け止められなくなってしまった。承太郎が、ハッと息を飲む音が聞こえる。
「お、おい……花京院?」
「どうして、こんな酷いことを……せっかく、せっかく」
仲良くなれたと思ったのに。少し我儘なところはあるけれど、優しくて可愛い、本当の弟のようだと思っていたのに。承太郎にとって花京院は、ただ自分のためだけに動く駒でしかなかったのだ。もしかしたら、それが何よりもショックで、辛いことだったかもしれない。
手の甲でしきりに涙を拭いながら、何度も肩を跳ねさせてしくしくと泣く花京院に、承太郎は驚きを隠せない様子だった。彼にしてみれば、花京院は自分よりもずっと大人で、そんな相手が子供のように泣いている姿は、あまりにも衝撃的なものだったに違いない。彼はわなわなと小刻みに震えだし、やがて見開いていた瞳を潤ませた。大粒の涙が溢れだし、花京院よりもずっと大きく、しゃくりを上げはじめる。
「うっ、うぅ……ふえ……」
「なん、で、なんで、承太郎くんが、泣くんだよぉ」
「だ、て、だって……泣くから、花京院が、泣くからぁ」
「承太郎くん、が、酷いことばっかり、言う、からッ」
ついに承太郎が声をあげて泣きだした。
「うわぁぁん! 花京院のバカ! バカやろおッ! なんで泣くんだよぉ、なんで、泣いちゃうんだよぉ!」
承太郎は口を大きく開けて、天井を見上げるようにして泣いている。よく見ると片方の八重歯が抜けて、小さな永久歯が顔を覗かせていた。花京院はそれを見て、なんて可愛いんだろうと思った。可愛くて、だけど悲しくて、なぜかもっともっと、涙がでてくる。花京院は混乱していた。承太郎も、混乱していた。
「う、うぅッ、ひ、ひっく、泣くなよ、泣くなってば、かきょ、花京院、泣いたら、ひっ、く、うえぇ」
「ぼくだって、うぅ、ヒック、承太郎くん、ぼくだって……泣かせたく、なんか、う、うう、ぅッ」
わっ、と、ふたりして声をあげて泣いた。なにがなんだか、もうさっぱり訳が分からないまま。
*
枕元を照らす暖色系のライトが、緩やかな波型の線を描く煙を、室内に浮き上がらせていた。
「君って、好きな子はイジメたいタイプだったんだなあ」
花京院は裸体を俯せに横たえ、シーツの海に溺れながら気だるげに前髪を掻き上げた。散々啼かされた後だけに、声が少しばかり掠れている。
「なんだよ急に」
ベッドの背もたれに背を預け、片足を立てている男もまた、一糸纏わぬ姿をしていた。なだらかに隆起する逞しい筋肉が、頼りない照明にくっきりと影を刻んで、嫌味なほど美しく浮きあがって見える。
「思いだしていたんだよ。君が小学生だった頃のことをさ」
ふっと笑った肉厚な唇から、煙草の煙が吐きだされた。その大人びた仕草に、思わずドキリとさせられる。
(あれから十年、か)
その歳月は花京院を二十七歳という、いい歳をした大人の男に変えていた。大学を出て、それなりに名の知れた企業に勤め、仕事に追われながらも充実した日々を送っている。
花京院は怠い身を起こし、承太郎の肩にもたれながら、長い指に挟まれた吸いかけの煙草を取り上げた。
「あんなに小さかった君が、今では立派な高校生だ。来年の春には大学生になる。とはいえ、まだこんなものを吸っていい歳じゃあないがね」
腕を伸ばし、サイドテーブルの上に置かれた灰皿に、煙草を押し付ける。承太郎は少年らしい丸みを失った頬で小さく笑うと、低い声で「やれやれ」と言った。
「おれもいっぱいいっぱいだったんだぜ。大好きな典明お兄ちゃんを独り占めしたくてよ」
「ノォホホ! その大きななりと低い声で言われてもなあ」
つい可笑しくて肩を震わせながら笑うと、身体の奥のあらぬ場所に違和感を覚えた。さっきまで承太郎の熱を咥え込んでいたそこは、その味を忘れられずに熱を持ったままだった。
「ぼくらはすっかり爛れてしまったみたいだ」
「これでも純愛を貫き通してるつもりなんだぜ」
「素っ裸でよく言うよ」
最初は信じられなかった。承太郎が、高校生だった花京院にそんな感情を抱いていたなんて。
「初恋なんてよ、あの頃はそんな自覚なんかなかったぜ。ただてめーの気を引きたくて、必死だった」
今でもよく覚えている。バレンタインにヤキモチを妬いた承太郎と、ふたりでバカみたいに泣き喚いた、あの時のこと。
「ぼくは小学生の男の子に、まんまと振り回されていたというわけだ。まさか君が、ぼくに恋をしていたなんてなあ」
「第一印象から決めてたぜ」
「ぼくは弟のように思っていたよ」
「それが今では?」
承太郎の長い腕が、花京院の肩を抱いて引き寄せる。花京院は答えの代わりに、その頬に音を立ててキスをした。
高校二年生までは順調に伸びていたはずの身長がパタリと止まり、承太郎にすっかり越されてしまったのは、いつだったろう。その頃に気持ちを打ち明けられて、ずっと頑なに拒んでいたはずが、気づいたら絆されたように恋に落ちていた。
今はなんの疑問も抱くことなく、この腕に全てを委ねてしまっている。主と召使いの関係から、恋人同士に。
「花京院」
低い声に名前を呼ばれると、あの少女のように甲高かった幼い声が、記憶の中で輪郭を失くす。大きくてまん丸だった瞳も、リンゴのようだった赤い頬も。可愛くてどうしようもなかったはずなのに、今はその面影だけを残して、花京院の胸を熱く焦がすものへと、変わってしまった。
花京院が微笑みながらその首に腕を回すと、逞しい両腕が腰に回って抱き返される。あんなに小さな身体だったはずなのに、今ではこうしてしがみつくのがやっとだった。
(とても不思議な気分だ。だけど)
あの頃となにひとつ変わらないものもまた、花京院の中には確かに存在している。それは。
「ずっと君が一番だよ、承太郎。今も、昔も」
深く唇を重ね合わせながら。冬空のした、柿の木の根元で生えかけの歯を覗かせた小さな王様が、笑顔で手を振る姿が見えたような気がした。
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教室の窓際の列。その中腹に花京院の席はある。
頬杖をついてぼんやりと窓の外へ目を向けると、鉛色の雲に覆われた空がどこまでも続いていた。さっきから時おりパラついては、窓ガラスに小さな痕跡を残すだけの中途半端な雨模様に、気持ちまで愚図ついてくるのを感じてしまう。授業中のしんと静まり返った教室に響かない程度に、細長く溜息を漏らした。
この日。登校した花京院の靴箱に、あるはずの上履きがなかった。
空っぽの有様から、誰かが間違えて履いて行ったというわけではなさそうだった。もちろん、自分で持ち帰ったわけでもない。
となると、隠されてしまったと考えるのが普通だ。靴隠しなんて、小学生のイジメのようなイタズラをする輩に、花京院は心当たりがなかった。しかし人間、どこで恨みを買っているか分からないものだ。最近ではめっきりなくなったが、承太郎と行動を共にするようになった初めの頃、よく金魚の糞などと言われては、しょうもない不良に絡まれることが多々あった。その度に、承太郎の手を煩わすでもなく適当に対処していたものだが。
いわれなき誹りであったとしても、真っ向から来られる方がずっとマシだし、決着をつけるのも簡単だった。それに比べて顔の見えない悪意というものは、ただひたすらに性質が悪い。
おかげで朝っぱらから職員室へ行き、事情を話してスリッパを借りる羽目になった。家には予備の上履きがあるため、明日からの心配はないのだが、やはり気分はよくない。
物憂げな表情で窓の外を見つめる花京院の前髪に、何かが触れたのはその時だ。
「ッ!」
ギクリとして顔を上げるのと、ひと房だけ長い前髪を緩く包み込むようにスルリと撫でた指先が遠のくのは、同時だった。制服の下で、肌がざわつく。
そうだ、今はこの男の授業中だったのだ。何事もなかったかのように去っていく、ずんぐりとした猫背を見つめながら、花京院の中で不愉快な感情に拍車がかかる。
教壇へと戻っていく教師が正面を向く前に、花京院は机の上に広げられた小テストの答案へ視線を落とした。問題は、すでに解き終わっている。くぐもったかすれ声が「あと5分」と言うのを聞いて、また、嫌な気持ちになった。
この小林という名の国語教師。彼はどういうわけかここ最近になって、よく花京院の肩であったり、背中であったり、前髪に触れてくるようになった。
やたらと同性から告白されることよりも、悪戯なラブレターよりも、花京院にとっては小林の行動の方が、よほど気味が悪く感じられる。しかしそれはなにも、この男だから不快というわけではない。元から髪の手入れに余念がないが、承太郎と付き合うようになって、彼の手の感触を覚えてからは、誰であろうと他人に触られるのが嫌でしょうがないのだった。
時おりチラリと向けられる視線から目を逸らしながら、花京院はただひたすらこの時が過ぎるのを待ち続ける。できれば一分でも一秒でも早く、トイレにでも駆け込んで鏡の前で髪を整えたくて、仕方がなかった。
*
一階の図書室と隣接する国語準備室は、せいぜい四畳半程度の狭い部屋だった。褪せたレースのカーテン越しに、どんよりとした薄暗い光が室内を浮き上がらせている。
花京院は放課後、ここで古くなった教科書や参考書などの整理を、黙々と行っていた。壁沿いに並ぶ鉄製の突っ張り棚には、色褪せたファイルや本が雑多に詰め込まれている。少しほこりっぽいそれらの中から該当するものを探し当て、腕に抱えながら重い息を吐きだした。
(今日は厄日だな)
朝からずっと安っぽいスリッパを履くことになってしまったし、天気は相変わらずハッキリしない。授業中の不愉快なスキンシップに加えて、さらには当の小林から、こうして面倒事を頼まれてしまった。
彼には随分と気に入られているらしく、よくこうして放課後の準備室に呼び出されては、ちょっとした雑務を手伝わされるのだ。
どうして自分がと思わなくもないのだが、なんとなく、分からないでもない。春からこの学校に非常勤として赴任したばかりの小林は、生徒たちからの評判がすこぶる悪かった。とりわけ、女子から。全体的に清潔感のない容貌に加え、丸々とした身体を猫背にして歩く姿は、確かに生徒受けしなさそうだ。特に女性が生理的に引いてしまう要素を、小林という男は全て兼ね備えているように思う。
それに比べて花京院は同性だし、他の生徒と比べて露骨に顔や態度に出したりはしない。だから何かと、頼み事もしやすいのだろう。
それでも今日は。
できればすんなり帰りたかった。
少しばかり気が滅入ってしまう嫌な日だったから、承太郎さえよければ、どこか寄り道して帰れたら、なんて。ゲームセンターでもいいし、適当な喫茶店だっていい。とにかくどこでもいいから気分転換ができたらと。
そしてもしも許されるなら、人目につかないところでほんの少しだけでも、彼に触れることができたらなんて、そんなことを考えていた。
教室を出たところで小林に用を頼まれたとき、本当は断ってしまおうと思った。だけど寸でのところで思いとどまったのは、まるで甘えるみたいに承太郎に寄りかかって、気持ちを晴らそうとしていた自分を、情けなく感じたからだった。
だから承太郎には、この準備室に来る前に先に帰るようにと告げたのだ。
「いつも手伝ってもらって悪いね、花京院くん」
やたらとくぐもった声と共に、図書室側の扉から小林が姿を現したのは、その時だった。
少しぼんやりとしていた花京院は、教科書等の束を両手に抱えると姿勢を正し、彼の方を向いて愛想笑いを浮かべる。
「いえ、どうということはありませんよ」
「花京院くん、今日はあまり顔色がよくないね。それに、う、上履きは、どうしたのかな」
「ああ、いえ……これは、ちょっと」
言葉を濁す花京院に、猫背の身体を左右に揺らしながら小林が近づいてくる。その気遣わし気な表情に、苦笑しながら少しだけ身を強張らせた。
「なんでもありませんよ。お気になさらず」
「そ、そう……? 何かあったら、すぐに僕に言って。ち、力になるから」
「ありがとうございます、先生」
軽く頭を下げた花京院に、小林は嬉しそうな笑みを浮かべながら手を伸ばしてきた。浅黒く肉厚な手の甲や指に、太く縮れたような体毛がやたらと目立っている。爪は、歯で噛み切っているのが分かるほどギザギザと歪な形をしていた。花京院は咄嗟に肩を震わせ、一歩背後に後退する。
本音を言えば、花京院だって他の生徒たちの例外ではなかった。清潔感のない人間は、例え目上の者であっても生理的に受け付けない。狭い室内で、時おりふと鼻先を掠める妙な臭いは、あきらかに小林から発されるものだった。魚の干物に似たそれに、おそらく制汗剤か何かが過剰に混ざり合った臭い。吐き気がしそうだった。
「あの、今日はもうこのくらいでいいでしょうか? そろそろ雨も本格的に降りだしそうですし」
「ああ、そ、そう、だね。遅くまでありがとう」
誤魔化すように言った花京院に、小林は気にする風でもなく空を彷徨っていた手を下ろすと薄笑いを浮かべた。
ようやく解放されると安堵しながら、彼の脇を通り抜けて教科書などの束を事務机の上に置く。そして頭を下げ、準備室から出ようとした花京院だったが、小林の「ちょっと待って」という一言に、足を止めた。
「まだ、何か?」
「う、うん。実は、前から言おうと思っていたんだけど」
「ええ、どうぞ」
「三年の、空条くんのことなんだけど、ね」
小林の伏せられた視線が、左右に忙しなく動き始めた。その口から発せられた名前に、花京院は眉を微かに動かす。
「ああいう人間とは、その……あまり、親しくしない方がいいと思うよ」
「……はい?」
「き、君には、ふさわしくないんじゃ、ないかなって」
今日は、ただでさえ虫の居所がよくないというのに。
小林の言葉は、一瞬にして花京院の不快感を増長させた。沸々と沸き起こる苛立ちに、愛想笑いすら消え失せて、猫のように目を細める。
「お言葉ですが、ぼくの交友関係について、先生にとやかく言われる筋合いはありません」
「か、か、花京院くん、僕は、君を心配して」
「彼に関しては、誤解するなと言うほうが難しいでしょうけどね。ですが、よく知りもしない人間に、余計な口出しはされたくありません。不愉快です」
全身からドッと汗を噴きだして、小林は何度もつばを飲み込みながら「あ」とか「う」などといった呻きをあげた。花京院はそれを冷ややかに見つめ、やがて薄い頭が項垂れるのを見たあと、礼をして準備室を後にした。
*
腹が立つったらない。
一階の図書室から二階の教室へ戻る階段を、花京院はもはや校舎に人気がないのをいいことに、荒々しく駆けのぼった。
なにがふさわしくないだ。なにが心配だ。その全てが余計なお世話でしかない。相手が教師であろうがなんであろうが、そう簡単に受け流せるものではなかった。よく知りもしないで侮辱の言葉を吐きだす小林を、殴りつけなかっただけまだ冷静だったと思いたい。
確かに承太郎は花京院がこの高校に入学した頃から、超が幾つついても足りないほどの不良だった。今はだいぶおとなしくなったが、その悪名の高さは未だ健在だ。教師の中には、彼を好ましく思わない者の方が多いことは分かっている。
けれど、花京院は知っていた。承太郎がどれほど生真面目で、本当は熱い男であるかを。自分の中にある正義を貫く、真っ直ぐな男だということを。そして、触れる指先の優しい温もりを、知っていた。
(くそ、やっぱり断ればよかった!)
断って、承太郎と一緒に帰ればよかった。変なところで自分の気持ちに素直になれない、可愛げのなさを恨めしく感じる。
無人の教室は薄暗く、ずっと愚図ついていた空がついに泣き声を上げていた。窓ガラスを叩く雨音の煩わしさに、花京院は苛立った息を大きく吐きだす。とっとと家に帰って、少しゆっくり休もう。そう思いながら窓際の自分の机にかけてある学生鞄に手を伸ばそうとして、ふと、手を止めた。
「……ない」
持ち帰るつもりで学生鞄と一緒に下げていた、体操着を入れた袋が消えていた。机の中や周辺を見渡してみたが、やはり見つけ出すことはできなかった。
また隠されたのか。あるいは、今度こそ誰かが間違えて持ち帰ってしまったとでもいうのか。どちらにしろ、タイミングは最悪だ。
(一体なんだって言うんだよ、今日はッ!)
形が乱れるのも構わず、前髪をくしゃりと掴む。次から次へと起こる好ましくない事態に、考えるのも億劫になってしまう。もうなんでもいいような気分になって、花京院は学生鞄だけを手にすると教室の出入り口に身体を向けた。が、そのとき――。
「よう、遅かったな」
声がして、俯きがちだった視線をあげる。そこには。
「承太郎?」
茫然と見開いた視線の先に、ドア枠に背を預けて腕を組んでいる、承太郎の姿があった。
なぜ彼がここにいるのだろう。もうとっくに帰っているとばかり思っていたのに。
「ど、どうして? 先に帰るように言ったのに」
思わず小走りで駆け寄った。嫌なことばかりが重なって、青く静まり返っていた気持ちが、驚きと共に容易く浮上するのを感じた。近い距離でその顔を見上げた瞬間、ささくれが取り払われたように自然と笑顔が浮かんだ。その明るい笑みに、承太郎もまた微笑を返す。
「一人で帰るってのは、どうも味気なくてよ」
「だからって……早く帰っていれば、雨が本降りになる前には家についていたでしょうに」
本当は、嬉しくて仕方がない。なのに感情とは裏腹な物言いをした花京院に、承太郎は「傘ならあるぜ」と、得意気に言ってみせるから。自分が犬じゃなくてよかったと、そんな馬鹿げたことを本気で思ってしまう。もし今の花京院に尻尾がついていたのなら、きっと物凄い早さで左右に振られているに違いないだろうから。それはもう、言葉よりも雄弁に。
「風邪をひいても知りませんよ。君、忘れているようだが今年は受験生なんだぞ」
「うつせば治るんだろ? 口移しでプレゼントするぜ」
「ノォホ! そんなのちっとも嬉しくないですよ!」
つい、声をあげて笑ってしまった。ずっと嫌な溜息ばかりついていたのが、まるで嘘のようだった。自分で思っていた以上に、承太郎の顔を見て、声が聞きたくて堪らなかったのだと思い知る。本当は、もっと傍で触れ合いたいという気持ちを遠くに押しやって、花京院は小さく咳払いをした。
「さあ、帰りましょう。暗くならないうち、に……ッ!?」
言い終わらぬうちに、強い力が花京院の腕を掴んで、引き寄せた。突然のことに、持っていた鞄が床に落ちて鈍い音を立てる。人気のない空間に、それがいやに大きく響いた。あっと声を出す間もなく、花京院の腰に承太郎の太い右腕が回って、正面から身体が密着する体勢になっていた。
「こ、こら承太郎! 一体なんのつもりだッ!」
大慌てでその胸や肩に手をやって、引き剥がそうとした。けれど力で敵うはずがなく、承太郎はビクともしないままに花京院の顎を指でクイと持ち上げ、上向かせる。
覗き込んでくる翡翠の瞳が、薄暗い中で夜の海のように揺らめいていた。
「顔色、あんまよくねーな」
「……そんなこと、ないよ」
どうしてか、悪戯がバレないよう必死で言い訳を考える子供のような気分になる。
承太郎の息遣いすら感じる距離で、花京院はそのエメラルドと目を合わせることができなかった。顔は逸らさず、目線だけを伏せるように泳がせる。それでも痛いほど注がれる視線から、逃れることはできそうになかった。
「靴、どうした?」
「別にどうも……それより、離してくれないか」
「嫌だね」
いい加減にしないかと、声を荒げようとした唇が、寸でのところで塞がれる。承太郎の肉厚なそれによって呼吸ごと奪われ、大きく目を見開いた。
「ちょッ、と……ッ、や、んぅ……!」
顔を背けようとしても決して許されない。花京院が身を捩り、抗おうとするほどに拘束する腕の力は増し、奪うような口付けが角度を変えながら深くなった。
(今は、ダメだ……ッ!)
いくら人気のない放課後とはいえ、ここは学校だ。生徒は帰宅していても、職員はまだ多く居残っているのだ。こんなところを見られでもしたらと考えるだけで、肝が冷える。だけどそれは、あくまでも建前でしかなかった。
(ああもう! 喜んでる場合か……!)
花京院は、承太郎に触れたくて仕方がなかったから。今日はどうしようもなく気が滅入っていたから。だけど、そんな甘えたことを考える自分が嫌だった。だから先に帰れと言ったのに。やりたくもない仕事を引き受けて、一人で帰ろうと思っていたのに。
「んッ、ふ……ッ、ぁ」
もっと本気で抗えと、頭の中で自分の声がするのとは裏腹に、花京院の身体は流されることを選び取ってしまった。唇の隙間から押し入ってきた舌は強引で、蕩けそうなほどの熱に眩暈がする。
承太郎の舌は厚くて、大きくて、花京院の口の中を唾液と共に満たしてしまう。胸が震えて、熱くて熱くて、堪らない。
(ぼくは、ぼくはちゃんと、抵抗したぞ……だけど、承太郎が強引だから……ッ)
頭の中で響いていたはずの己を律する言葉は、やがてその責任を全て承太郎になすりつける、言い訳めいたものに変わっていた。そうだ。ぜんぶ承太郎が悪いのだ。会いたいときに、こうして顔を見せるから。触れたいときに、こんなふうに抱き寄せてキスなんかするから。
無意識なのか、それとも見透かされているのか。どちらにしても、求めていたものを当たり前のように与えて寄越す、承太郎が悪い。
口腔をどれほど逃げ回っても、濡れた感触は擦れあい、やがて蔦のように絡まりあう。引き剥がそうとしていたはずの両手が、今はただ承太郎の制服に深い皺を刻むだけになっていた。
(煙草の、味……頭、ジンジンする……)
ふぅっと、意識が頭の天辺から抜けてしまうような感覚に陥って、花京院は小刻みに躍らせていた膝を折りかけた。
「っと」
腰に回っていた承太郎の腕が、いとも容易く花京院の身体を支えた。その拍子に糸を引きながら離れた唇に、ひどい喪失感を覚える。名残惜しげにぼうっとしながら見上げた花京院に、承太郎がえらく優しい目をして笑いかけるから。一瞬で、我に返った。
「……なッ、なにを考えてッ、こ、ここは学校なんだぞ!?」
濡れた唇を手の甲で拭い、真っ赤な顔で裏返った声を発した。片手をその厚い胸板につき、突っぱねるようにしながら上半身を仰け反らせる。けれど相変わらず腰はがっちりと抱きこまれているから、それ以上の身動きは取れなかった。
承太郎はふんと鼻から面白そうに息をつき、舌なめずりをして見せる。
「して欲しそうな顔してたぜ。オラ、ここによ」
「そ、そんなわけ、アッ、いッ!?」
承太郎の長い指が、花京院の左頬を摘まんで引っ張った。
「キスしてぇって、書いてあった」
「ひょんなわけあるかぁ!」
「このほっぺた、餅みてーによく伸びるな」
「もお、いひゃいっへばッ!」
両手でその手首を掴み、強引に引き剥がすと、腰に回り込んでいた腕も一緒に離れていった。もう何が原因で赤くなっているのか分からない頬を押さえて睨み付けると、承太郎は両手をポケットに押し込んで、僅かに身を屈めながらクツクツと笑う。
悪びれない様子に腹が立ち、何か言ってやろうと花京院が口を開くより先に、腹筋の震えを押し込めた承太郎が言った。
「安心しな。誰も見ちゃいねーよ。だが……」
承太郎はいちど言葉を切って、ふと視線だけを教室の外へ泳がせると、すぐにまた花京院へと目を向けた。
「とっとと帰るとするか」
「言われなくたって帰りますよ。もう付き合いきれないからな」
ぷいと顔を背け、床に落ちていた鞄を拾いあげる。そのつんけんとした態度に、承太郎が満足そうに笑った。
「顔色、たいぶ戻ったぜ」
「……君は、意地悪だ」
そんな男のことが呆れるほどに好きすぎて。いっそもう、嫌になるくらい。
今日の出来事を綺麗さっぱり忘れ去り、ただひたすら甘ったるい感情に胸を浸す自分に、花京院は小さく咳払いをした。
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