2025/08/13 Wed それから数日は、何事もなく過ぎていった。 承太郎は真面目に授業を受け、用もなく準備室を訪れることも、なくなっていた。 教師と生徒。良好に築き上げていたと思われた関係は、あの日を境に失われてしまった。 寂しくないかといえば、嘘になる。ぬるま湯に浸かったような空間は決して悪くなかったし、教師として教え子に慕われるのは、とても心地がよかった。 だけどこれで正解だったのだと、そう思う。承太郎が求めていたのは、信頼できる教師としての花京院ではなく、もっと別の意味だったのだから。このまま彼も自分も、道を踏み外すようなことにならなくて、本当によかった。 花京院はというと、相変わらず頭痛に苛まれる日々を送っていた。もともと細くなっていた食も、さらにぐっと落ち込んで、一日の終わりにようやく、何も食べていなかったことに気がつくという有様だった。 このままではいけない。そう分かってはいるのだが、食事にかける時間があれば、身体を休めたいという欲求ばかりが膨らんでいく。気休めに噛み砕く鎮痛剤は、日に日に大した効果が期待できなくなっていった。 どうにかしなくては。この不健康な生活も、精神状態も、そして妻のことも。 気がつくとそんなことばかりを考えて、ついつい焦燥に駆られてしまう。だから結局、気が休まることなど、ほとんどないのだった。 しかしそんな日々を送っていたある日のこと。恐れていたことが、起こってしまった。 花京院は授業中、酷い眩暈と頭痛に襲われ、ついに倒れてしまったのだ。 +++ ざあざあと叩きつける雨の飛沫を、ワイパーの規則正しい音が切り裂いていた。 花京院はタクシーの後部座席から、煙ったように濡れる街並みを眺めながら、やけに景色がぼやけて見えるのを感じていた。 そういえば、眼鏡はジャケットの内ポケットに入れていたのだと思いだす。 「こりゃあしばらく止みませんねぇ、お客さん」 信号待ちの間、身を乗り出して空を覗き込んでいた運転手が、気さくに話しかけてくる。そうですね、と適当な返事をして、冷えた窓ガラスに頭をもたせかけた。 (情けないな、まったく) 四時間目の授業が始まってすぐ。教科書を音読する生徒の声に耳を傾けていた花京院は、突然ぐらりと視界が回るのを感じた。身体が大きく傾いたとき、きゃあ、という誰かの悲鳴を聞いたような気がする。そこで意識が暗闇に放り出されて、次に目覚めたのは保健室のベッドの上だった。 その頃すでに空はぐずつきはじめていて、今日はもう帰った方がいい、という養護教諭が呼んでくれたタクシーに乗り込む頃、雨は本格的に降りだしていた。 「はい、つきましたよ」 自分の不甲斐なさを呪いながら、見るともなしに景色を眺めていると、気づけばタクシーが自宅前に到着していた。 礼を言って支払いを済ませ、小走りで門をくぐる。雨音に混じって、走り去るタクシーのエンジン音が聞こえた。 今日の授業の遅れだとか、明日からの土日を前に済ませようと思っていた仕事だとか、とにかく今は全て忘れて、まずはしっかり休息をとろうと思った。少し無理をしてでも、なにか腹にものを入れなければと。 そんなことを考えながら玄関の鍵を開けようとして、なぜかすでに開けられていることに気がついた。 「?」 今朝、出かける前に戸締りはしっかり行ったはずだが。 花京院は首を傾げながら、ドアノブを回して中に入った。 玄関に脱ぎ捨ててある靴を見て、心臓が跳ねる。 ――靴は、二足置いてあった。 ひとつは赤いパンプス。そしてもうひとつは、履き古した男性物のウォーキングシューズだった。明らかに、花京院のものではない。 背後でガチャリと閉まった扉の音に、また心臓が跳ねる。 視線を上げれば、長く伸びた廊下の先が、ぽっかりと黒い口を開けているように見えた。遠くに聞こえる雨音にまじって、笑い声のような、すすり泣きのような、高い声が微かに聞こえた気がする。 ――それは妻の声に、とてもよく似ていた。 逃げろ、と頭の中で何かが警告を発している。このまま何も知らないふりをして、黙って家を飛び出せと。 けれど花京院はその警告をあえて無視するように、静かに靴を脱ぐと、冷たい廊下へ一歩、踏み出す。行くな、行くなと、頭の中でもう一人の自分が繰り返し、叫んでいた。 それでも花京院は、まるで何かに取り憑かれたように、音も立てずに廊下の闇を突っ切って、寝室のある二階へ続く階段をのぼりはじめた。 ドクン、ドクン、と頭の中で大きな音がする。雨音はずっとずっと遠くに聞こえて、氷のような静寂のなかに、よく知る笑い声が聞こえた。 やがて辿り着いた寝室のドアを、花京院は寸分の躊躇いもなく捻って、ドアを開けた。 「ッ……!?」 ふたつの肉の塊が、丸く目を見開いて息を飲んだ。 彼らはベッドの上で両腕を絡め合い、静止した時の中にいるように、ぴたりとも動かず、扉の前に佇む花京院を凝視している。やがて、ひとつの塊が動いた。 「あ、あなた、どうして」 それは妻の形をしていた。覆いかぶさるようにしていた男の胸を押し、シーツで裸の胸を隠しながら起き上がり、片足を床に下ろした。 「だ、旦那ァ……? お、おい、マジかよ」 男は花京院よりも、幾らか年若い青年だった。茶髪で、肌が浅黒い。黒いボクサーパンツ一丁で、膝立ちのまま、どうしたらいいか分からないという顔で、妻と花京院を交互に見ている。 妻は――妻は、指輪をしていなかった。 不思議なことに、それらを見てもなんの感情も沸いてこなかった。むしろ自分でも怖いくらい、内側で何かが熱を失っていくのを感じていた。 「あ、あの、違うのよ」 「髪」 「え、え?」 「切ったんだね」 花京院が知る彼女は、ずっと背中の半分ほどまで髪を伸ばしていた。今はそれが、肩につく程度の長さまで、切り揃えられている。まるで、知らない女のようだった。 「今日は体調が優れなくてね。早退させてもらったんだ」 花京院は部屋の中に入り込み、机の上に鞄を置きながらネクタイを外した。脱ぎ捨てたジャケットと一緒に、椅子の背もたれにバサリと掛ける。それから、ふと思いだしたように彼らを見やり、片手を翳すと「ああ、続けて」と、どこか間の抜けたことを言った。 「あ、あなた」 「いや、いいよ。じゃあ、ぼくはこれで」 手を洗わなくては、と思った。うがいをして、顔も洗いたいなと。 ふらふらと寝室を後にして、ぼやけた視界で転ばないように、手摺に手を這わせながら階段を下りる。 どうしてか、やたらと心が凪いでいた。まるで麻痺したように、なにも感じない。ただ少し、寒気がした。 一階へ下りると、花京院の足はどうしてか洗面所へは向かわなかった。そのまま玄関まで行くと靴を履き、扉を開けると雨の降りしきる外の世界へ、踏み出していた。 +++ 勢いを強めた雨が針のように皮膚を刺し、黒光りするアスファルトに際限なく吸い込まれていく。 全身をずぶ濡れにしながら、花京院は目的もなく、ただのろのろと歩道を歩いていた。 どこに行こうとしているのか、自分でもよく分からなかった。 心のなかは空虚なままで、思考することすらままならない。雨音以外、なにも耳に入ってこなかった。 一台の乗用車が、そんな花京院の横を物凄いスピードで通り過ぎようとした。ああ、このままでは泥水をかぶってしまう。 けれど身体が咄嗟に動きそうもなかった。別にいいかと、投げ出しかけたそのとき。 ――何かに強く、腕を引かれた。 「おいあんた」 雨音だけだった空間に、その声は一筋の光のように切り込んできた。頭上を何かに覆われながら、足元ギリギリのところに泥水が波打つのを茫然と見つめる。それから、腕を掴む声の主を見上げた。 「……じょうたろう?」 そこには、黒い傘をさした承太郎の顔があった。どんよりと煙る雨の世界で、鮮やかなエメラルドが物悲しげに揺れているような気がした。 どうして彼がここに。学校はどうしたのだろう。もう終わったのだろうか。時間の感覚が、まるでない。 承太郎は珍しく、どこか焦ったような余裕のない顔で、眉間にぐっと皺を寄せている。花京院は宙に浮かんでいるみたいな心地のまま、ことりと首を傾げた。 「どうして君がこんなところに」 「それはこっちの台詞だぜ……あんた、授業中に倒れて帰ったんじゃあなかったのか」 そういえばそうだったかと、花京院は伏せた睫毛の下で、所在無げに視線を彷徨わせる。腑抜けたような有様を見て、承太郎がひとつ、長い溜息を漏らした。 「倒れたって聞いてすっ飛んで来てみりゃあ、雨のなかをお散歩とはよ……てめー、一体なにしてやがる」 冷えすぎて感覚がなくなっていた皮膚に、ピリリとなにかが突き刺さったような気がした。ふと視線をあげれば、承太郎は押し殺したように食いしばった歯を僅かに覗かせ、目を細めていた。 「――怒ってるのか?」 彼の瞳は、明らかに怒りの色を宿していた。それがどうしてか、無感情でいた花京院の胸に深く突き刺さった。最愛の人の裏切りを目の当たりにしてさえ、何一つ動かなかった胸のうちに、曇天が覆うような不安が立ち込める。なぜこんな気持ちになってしまうのか。自分でも、分からないけれど。 承太郎は僅かに顔を伏せ、目元を学帽の鍔で隠しながら、舌打ちをした。その瞬間、身体を強く引き寄せられる。 ――黒い傘が、音を立てて地面に落ちた。 花京院は、大きな彼の胸板にぴったりと身を寄せて、長い両腕に抱きすくめられていた。 ひゅっと息を飲んで目を見開く花京院の耳元で、承太郎が低く、ほんの少しだけ弱々しく、声を紡ぐ。 「あんたに何かあったら……死んじまうぜ、おれは」 「……ごめん」 どうしてか、咄嗟に謝っていた。 「身体、なんともねえのか」 「うん」 「本当に、なんともねえんだな」 「なんともないよ」 あたたかい、と思った。泣きたくなるくらい、承太郎の腕の中はあたたかい。そして、優しい。 何度も何度も確かめようとする承太郎の声に応えながら、花京院はようやく、バカなことをしているという実感と共に、あらゆる感情が追いついてくるのを感じた。 ――そして今更のように、打ちのめされる。 「……ぼくは」 何か言いかけて、言葉にすることができなかった。何を言いたかったのかも、よく分からない。承太郎はただ黙って、そんな花京院を抱きしめていた。きっと彼の方がずっと、今の花京院の様子を見て戸惑っているだろうに。それなのに承太郎はなにも聞かずに、ただこうして熱を分け与えようとしてくれる。 もしかしたら彼の方がよほど、自分より大人なのかもしれないと、ぼんやり思った。 やがて承太郎は抱きしめていた腕を解くと、自分の学ランを脱いで花京院の肩にかぶせた。それからすぐに傘を拾い――もうどうしようもなく濡れてはいたが――ふたりの頭上に翳した。 自分よりもずっと広い肩幅を、学ランを通して感じながら、本当に大きな男だと、しみじみ感じる。 「帰るぜ。送っていく」 承太郎の申し出に、花京院は咄嗟に首を左右に振っていた。 あそこへは帰れない。帰りたくない。 ――だけどそれ以上に、もう少しこのまま。 俯いたまま何も言わない花京院に、承太郎もまた口を噤んだ。 けれどすぐに大きな手が伸びて来て、肩を抱かれる。 「ちっと歩くぜ」 「……うん」 前を見据えながら短く言った承太郎に、花京院は弱々しく、首を縦に振った。 +++ 承太郎に連れて来られたのは、彼の自宅だった。 噂には聞いていたが、そこは超がつくほど立派な和風邸宅で、承太郎はここで世界中を飛び回る父親の帰りを待ちながら、母親と二人だけで暮らしているらしかった。 その母親も、ここ数日はニューヨークで不動産王と名高い祖父の元へ、里帰りしているという。 通された和室で、花京院は頭からタオルをかぶったまま、座り込んでいた。濡れたワイシャツを肌に張りつけ、承太郎に借りた学ランすら脱がず、膝を抱えて顔を伏せている。 「風呂が沸いたぜ。早く入り――」 そこに姿を現した承太郎が、暗い中でただ背中を丸めている花京院を見て、呆れたように「やれやれ」と肩を竦めた。 「そのまんまじゃあ、風邪をひいちまう」 咎めるようにそう言って、承太郎は傍にしゃがみ込むと、タオル越しにわしわしと頭を撫でてくる。花京院は顔を伏せたまま、ただじっとして目を閉じていた。 「あとは風呂場に行きな。おれのでよけりゃあ、着替えも置いてある」 ある程度のところで手を止めて、承太郎が立ち上がる。 彼の言う通りにしなければと、分かってはいるのに、どうしてか身体が鉛のように重くて、動かなかった。 承太郎はそんな花京院をこれ以上急かすでもなく、ただ静かに見下ろしている。 沈黙だけが落ちるなか、遠くから、泣き崩れるような激しさで雨音が響いていた。 薄暗い室内と、満ちる沈黙。閉め切られた障子の向こうから、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音がしていた。 ――けれど次の瞬間。 それらを掻き消す電子音が、けたたましく唸りを上げた。 花京院のズボンのポケットから、いつの間にか畳の上に転がり落ちていた、携帯電話から発されるものだった。 着信音は十秒経っても、二十秒経っても鳴りやまず、やがて留守番電話に切り替わる。そこで一度途切れ、再び鳴りだした。 「――出ねえのか」 承太郎の声に、花京院はゆらりと顔を上げた。視線だけ、すぐ脇に放り出されている携帯に向ける。点滅する緑色のライトが、視界の端で霞んでいた。 音も、光も、どこか夢のなかの出来事のようだった。電話の向こうにいるはずの相手の顔が、よく思いだせない。 花京院は再び顔を伏せた。 「……先生」 沈みかける意識を繋ぎ止めるのは、ただひとつ、承太郎の声だけのような気がしていた。 (どうしてだろう) 肩を抱かれ、雨の中を一つの傘で歩いている間、承太郎と花京院は一言も声を発さなかった。その無言の空間が、承太郎の温もりがとても心地よくて、大きな安堵に包まれていた。あのときの花京院は、ひどく打ちのめされていたはずなのに。 (そうか、あのときぼくは……) 電子音は止んでいた。以降、かかってくる様子はない。 知らず知らずのうちに詰めていたらしい息を吐き、花京院は顔を上げた。 「……君の、言うとおりだったんだ」 花京院がおもむろに口を開くと、承太郎は黙って隣に胡坐をかいた。 「ぼくの妻は――浮気をしていた」 承太郎が静かに息を飲む。あれだけ自信たっぷりに、核心を突いて来た男が。 「寝室で、男と寝ていたんだ。ぼくよりも幾らか若そうな、茶髪の男だった」 なぜわざわざ話そうと思ったのかは分からない。おまえには関係ないと、そう言って突っぱねたはずの相手に。 「彼女はずっと家を離れていた。でも時々、着替えを取りに戻って来ていたことは知っていたんだ。彼女が戻った日は、必ず家のなかで香水の残り香がしていたから。だけど――だけど、まさか男連れで戻っていたなんて、知らなかったな」 想像すると、笑えてしまった。ああやって花京院がいない間、妻は家に戻ってきては、あの男と寝ていたのだろうか。だとしたら、自分はそれを知らず、毎晩彼らが抱き合った後のベッドで、眠っていたのだ。皮肉でしかない。 「だから全部……君が言い当てた通りだったんだよ」 ふと、久しぶりに会った妻が、指輪をしていなかったことを、思い出す。花京院は左手の薬指から、指輪を抜き取った。それを思い切り、畳の床に投げつける。転がった先で踊るように円を描きながら、指輪はやがて動きを止めた。 (あのとき、ぼくが打ちのめされたのは――) 彼女の不貞を、目の当たりにしたからじゃあ、なかった。 妻を愛していると、準備室で承太郎に言い放ったあのときから。あるいは、そのずっと前から。 (ぼくの心も、とっくに彼女から離れていたからだ) 雨の中、承太郎の腕に抱かれながら。花京院は気がついてしまった。 自分たち夫婦が、もうとっくの昔に終わっていたのだということに。 承太郎は、ただ黙って花京院が吐き出す言葉に耳を傾けていた。けれど何も言うことがなくなって、また雨音だけの空間になると、彼は小さく息を吐きだす。そして言った。 「風呂、とっとと入んな」 もっとなにかあってもよさそうなのにと。花京院は密かに拍子抜けする。しかしもう感覚がないほどに、身体が冷え切っているのは確かだった。それでも花京院は、首を縦には振らなかった。 「……わたしはいい。君もずいぶん冷えただろう。いい大人が、みっともないことに付き合わせてすまなかった」 忘れてくれと付け足しながら、下げた頭を上げたとき、花京院は腑抜けた表情から、教師の顔に戻っていた。 しかし、承太郎の不満そうに眇められた瞳から目を逸らした瞬間、胸倉を掴まれ引き寄せられる。 「ッ!」 「あんまり聞き分けがねえと、風呂場まで担いでってひん剥くぜ」 「なッ、んてこと、言うんだい」 牙をむいたような怒りの表情が、互いの息がかかるほど至近距離にあった。燃えるような深いエメラルドが、花京院を縛りつけて離さない。 (ああ、まただ) ――吸い込まれる。 そう思った瞬間、食らいついてきた唇を、花京院は睫毛を伏せながら、受け止めていた。 承太郎が薄い唇に歯を立てる。ビクン、と大きく跳ねた肩を押さえつけるように抱かれ、そのまま床に雪崩れ込んだ。 舌が潜り込んできたとき、花京院はほとんど無意識に、承太郎の肩に両腕を回していた。 花京院の身体は、拒むことを、拒んでいた。口内を滅茶苦茶に暴かれながら、宥めるように自らも舌を差し出す。 柔らかく濡れた肉同士が、ぬるりと擦れて唾液が溢れる。頭の中まで掻きまわされているような気がして、それしか考えられなくなっていく自分に、恐怖を感じた。 なにをしているのだろう。相手は生徒で、年齢だけならまだ子供といっていい年頃で、自分は教師だ。 だけど今は、今だけは、ただの人と人でありたいと願っている。そう望んでいる。 (もう、いいじゃあないか) ぴったりと肌に張り付くシャツのボタンに、承太郎の指が触れるのを許容しながら、花京院は自分の感情と真に向き合う。 あの雨のなかで。承太郎のエメラルドが怒りの色を浮かべるのを見て、花京院は怖いと思った。どうしてか、不安な気持ちでいっぱいになった。だから抱きしめられたとき、嬉しかった。 心の底から、嬉しかったのだ――。 +++ 何度も何度もキスをしながら、裸で絡み合った。 雨の匂いが染みつく肌は、承太郎に触れられることで少しずつ、赤く色づいていく。 女のように触れられることに、戸惑いを覚えたのは最初のうちだけだった。承太郎の愛撫はどこか不器用で拙く、本当は彼がえらく緊張していることが伝わってくると、ただどうしようもなく、胸が締め付けられるばかりだった。 承太郎は、肩に綺麗な星型の痣を持っていた。女性とは違う、張りのある筋肉が隆起するその肩に、花京院は何度も指先で触れ、キスをした。 「ッ、くぅ、ぁ……!!」 承太郎の武骨な指が、足の付け根を分け入り、閉じている小さな穴に触れた。女性のように濡れるはずがないそこに、少し焦れた様子で潜り込んでくると、花京院はその痛みに身を強張らせる。承太郎は息をのみ、すぐに指を引き抜いてしまう。 「い、いい……やめなくて、いい」 「……痛えんだろ」 「いいから」 ここまできたら、もうやめられない。花京院は四つん這いのような形で覆いかぶさる承太郎の、股間に息づく若い雄に視線をやる。身体の大きさに比例して、そこは見たことがないほど大きく、逞しかった。 すでに血管が浮き上がるほど育ち切っているものを見て、あれを受け止めるには、相当の覚悟が必要だと思った。 承太郎はしばし逡巡したのち、自分の右手の人差し指と中指を口に含み、赤い舌を絡めながら潤わせる。そうして再び尻の谷間に指を這わせて来るのに合わせて、花京院は立てた両膝を大きく開いた。 いくら薄暗いとはいえ、閉め切った障子紙から差し込むほのかな光が、白く花京院の身体を照らし出す。羞恥に身を震わせながら、承太郎の濡れた指先を受け入れた。 「ぅ、う……ア……ッ」 凄まじい異物感。花京院が苦しげに呻いても、承太郎はもう手を止めることをしなかった。ただ時間をかけて、何度も指先を潤わせながらそこを開いていく。 生まれて初めて、身体のなかを他人に暴かれる感覚。承太郎の長い指の、太い関節部分まで、リアルに感じることができる。 けれどそのうち痛みや違和感よりも、何か不思議な熱が疼くのを感じはじめたことに、花京院は気がついた。半起ちだった性器が硬さを増して、先端から先走りが滲みはじめる。 「あぁッ、んっ……!」 押し込まれた指先がある一点に触れ、ズルズルと引き抜かれる瞬間、自分でも信じられないような甘ったるい声が漏れる。 「じょ、たろ、そこ、ぁ……ん、く……ッ」 腰が揺れるのが止まらない。生まれて初めての、その背徳的な快感に、花京院は身悶えながら首を嫌々と振った。 甘えた声と、甘えた仕草。情けないと思うのに、そのなにもかもが、もうどうでもよかった。 「ッ……」 承太郎が小さく舌打ちをした。ずるりと少し乱暴に指が引き抜かれる感触に、内腿がぶるりと震える。 承太郎はいちど膝立ちになると、自身を片手で掴み上げて幾度か扱いた。先走りに濡れて、赤黒い性器の先端から竿にかけてが、いやらしくテカりを帯びている。彼は花京院の膝を掴み、押し上げるように割り開いた。 「ッ、ぅ」 指で散々かき回された穴に、熱い切っ先が宛がわれる。 背筋にぞわりと何かが駆け抜けた。ぐっと、押し込まれた瞬間の衝撃は、きっと一生忘れることができないだろう。 「ヒィッ、ぁ、――ッ」 捻じ込まれた瞬間、肉が千切れたような感覚に頭の中が白くなる。ガチガチと歯の音を鳴らしながら、花京院は目を見開いて酷く震えた。 承太郎は歯を食いしばり、花京院の両膝を自分の体重をかけながら押し上げる。太腿と胸がくっつくほど身体を折り曲げられると、その表情がぐっと近づいて来た。 「じょ、た……ろッ、ぃ――っ」 承太郎の額から伝った汗が、花京院の頬にぽたりと落ちた。 太い首に両腕を回して、その背を掻き抱く。熱い楔が全て肉壺に埋もれる頃には、痛みはただ痺れるような狂暴な熱に変わっていた。腹の中で脈打つ肉の感覚が、あまりにも生々しくて、息ができない。 自分の尻の穴が、教え子の――男の勃起した性器をずっぽりと咥え込んでいることを考えると、花京院は信じがたい衝撃と共に、不思議な興奮を覚える自身に気がついた。 承太郎はそんな花京院に覆いかぶさり、僅かに背を丸めると首筋に強く額を押し付け、手負いの獣のような荒々しい呼吸を繰り返していた。やがて、彼の腰がぶるりと震えて、低い呻きが上がった瞬間、腹の奥で焼けるような何かが、弾けた。 「ッ――!!」 花京院は喉を反らし、声もなく口をぱっくりと開けながら、その熱い放流を受け止めた。挿れただけで耐えきれず、極致に至った承太郎が、射精している。 「ッ、く、そ」 その感覚だけで気をやりそうになっていた花京院の耳元で、承太郎が悔しげな声を漏らす。彼は全て出し終えると、大きく息をついて花京院の上にぐったりと体重をかけてきた。 「じょ、たろ」 「……情けねえ」 同じ男だ。その気持ちは、わかる。けれどそれ以上に、嬉しいと感じていた。 無理な態勢や承太郎の重みで、身体は悲鳴をあげている。受け入れている場所はジリジリと炙られているみたいに痺れるし、腹の中は、苦しい。けれど、承太郎は大きく脈打ったまま、萎えることなく花京院の中にあった。 「――いいよ」 項垂れる頭を抱きしめて、少し癖のある黒髪を撫でた。 承太郎が顔をあげる。鼻先が触れ合う距離で悔しそうに潤むエメラルドを見て、ああ、彼はまだ、ほんの少年なのだと、思い知る。承太郎、と吐息だけで名前を呼んで。 「ぼくをこのまま、滅茶苦茶にしてくれるかい?」 うっとりと呟いた。承太郎は唇を引き結び、喉を詰まらせてから、赤らんだ頬で「やれやれだぜ」と格好つけて見せた。 それから、何度も何度も抱き合った。 夢中で腰を打ち付けながら、片時も花京院を離すことなく、承太郎は掠れた声で「好きだ」と「愛してる」を幾度も繰り返した。花京院は啼きながら、その身体を強く抱き返すだけで、精いっぱいだった。 +++ 雨はいつの間にやんだのか。 花京院が目を覚ますと、障子の向こうは漆黒の闇が広がっていた。和紙に覆われた照明が、枕元で温かな暖色に揺れている。 「右の目元に泣きぼくろがふたつ。斜めに並んだ女が、あんたのカミさんだろ」 ひとつの布団に身を寄せ合い、裸のまま花京院を片腕に抱き込んだ承太郎が、おもむろに口を開いた。 まだ行為の疲労感を十分に引きずったまま、指先ひとつ動かすのも億劫だった花京院は、承太郎の鎖骨の辺りに伏せていた視線をふと、持ち上げる。 「そうだが……なぜそれを?」 「机に伏せてあった写真立て。あんたに呼び出されて、初めて準備室に行った、あんときに見た」 そうか。あの日は確か、遅刻してきた女子生徒に反省文を書かせている間、承太郎をひとり準備室に待たせていたのだ。別に他人から隠すために伏せていたわけではなかったから、花京院は小さくふぅんと息をつくだけだった。 「何回か、駅前の繁華街で見た。あんたより幾らか若そうな野郎と、ふたりで歩いているのをよ」 「繁華街って……そんな人ごみでよく気がついたな」 「視力と記憶力には自信があるんでね」 承太郎が彼女を見かけたのは偶然だった。たまたま擦れ違った女の目元に、特徴的なふたつのほくろを見つけて、妙に気になったのだと。 「あの写真に比べると、ずいぶん雰囲気が違ってたから、最初は他人の空似かと思ったぜ。だけど何回か見かけるうちに、あんたのカミさんだって気がついた」 ふたりはしょっちゅう、夜の街を寄り添って歩いていたという。飲み屋へ入っていくときもあれば、ホテル街に消えて行くこともあったと。どうしてそんな時間に高校生が外をほっつき歩いていたのか、それは今だけ、聞かないでおくことにした。 花京院はその話を聞いても、今更なんとも思わなかった。 ただ、承太郎が妻と別居状態でいることに切り込んで来たのは、見透かしていたわけでも、勘で言っていたわけでもなく、事実を知っていたからだったのだ。 「写真でも撮って、あんたに叩きつけてやるつもりだったけどよ。手間が省けたな」 「写真って……盗撮は犯罪だぞ」 呆れたように言う花京院に、承太郎は悪びれるでもなくただ静かに笑った。 「どのみちおれが、あんたを追い詰める気でいたんだぜ」 「性格が悪いな、君は」 「言っただろ。どんな手を使ってでも、おれはあんたをモノにするって」 恥ずかしいことを言うやつだ。この男にそんなセリフを吐かれたい女子が、一体どれほどいると思っているのか。 「君は顔と頭はいいが、趣味は最悪だと思うぞ。相手なんて選び放題だろうに。君にしてみれば、ぼくは十も歳の離れた、ただのおじさんじゃあないか」 「あんたの顔、高校生でも十分通じそうだぜ」 「……気にしてるんだから、それは言わないでくれ」 だいたい承太郎の方が、高校生のくせに老け顔なのだと、そうは思ったが、言葉にするのはそれこそ子供っぽい気がして、大きめの唇をむっつりと引き結ぶだけにした。 「笑った顔が、死んじまいそうなくらい可愛かったからよ」 承太郎は、鎖骨のあたりに顔を寄せている花京院の、桃色がかった髪の毛に、そっと口元を埋めながら言った。 「それが決め手というやつだぜ」 「わ、わかった。わかったよ、もう」 このままでは、恥ずかしさでこちらの方が死んでしまうと思った。花京院は真っ赤になった顔を見られないように気をつけながら、逃げるように承太郎から離れた。腰が抜けたようになっていて、信じられないような場所に違和感が残っているような気がしたが、それらを押して半身を起こす。 「すまないが、適当に服を貸してくれるか。あと、濡れた服を入れて帰る袋も」 「帰っちまうのか」 「当然だろ」 照れ隠しに少し素っ気なく言って、花京院は投げ出されていた携帯電話を手繰り寄せた。ディスプレイには不在着信が二件と、そして、メールが一件。もちろん、どれも妻からのものだった。 花京院はその一通だけのメールを開いてみることにした。 謝罪の言葉と共に、『誤解を解きたい』という内容の文章が、つらつらと書かれているのを見て、苦笑する。 あれだけ決定的な現場を抑えられながら、一体どんな言い訳をするというのだろう。なにより、先に裏切っていたはずの彼女が、それでもまだ夫婦関係を修復したいと考えていることが、滑稽に思えて仕方がない。 花京院は携帯をいったん枕元に放ると、今度は少し身を乗り出して、打ち捨てられていた銀色のリングを引き寄せた。手の平に乗せ、少しの間じっと見つめてから、ただ握りしめる。この指輪が、花京院の薬指にはまることは、もう二度とないのだ。 承太郎は後頭部で両手の指を組んだ姿勢で、そんな花京院を静かに見守っていた。それからふと、口を開く。 「これ、やっぱ不倫ってことになんのか」 ぼんやりと呟くようなその言葉に、なぜかふっと笑ってしまう。妻の浮気相手よりもずっと年若い、未成年である教え子と――しかも同性だ――身体を重ねてしまった自分の方が、彼女の行いよりも遥かに罪深いような気がした。 「書類上はまだ夫婦だからね。そうなるのかな?」 承太郎の方を振り向いて、おどけて言った。けれど少しだけ、手の中の指輪が重くなったような気がする。 「まるで足枷だぜ」 「皮肉なことを言うね」 永遠を誓ったはずのリングが、今はただ形ばかりの枷になっているなんて。 花京院は僅かに込み上げる感傷に、そっと目を閉じる。 彼女を愛していた。だけど、もう全てが過去だった。ただしがみついていただけの自分は、さっきまでの雨と一緒に、一欠けらも残さず、流れてしまったのだ。 「彼女と、ちゃんと話をするよ」 噛み締めるように紡いだ言葉に、承太郎は何も言わず、ただゆっくりと身を起こした。 「ぼくはもう彼女を愛していないし、向こうが何を考えているのかは分からないが、決着をつけるつもりでいる。だから……だから、それまで少し、待っていてほしい」 隣の承太郎を見つめながら、言った。最初に花京院の胸を捉えて離さなかった美しい瞳が、揺れる暖色の灯りに瞬いた。 承太郎が笑う。そっと身を寄せて、ふたりの唇が重なった。 キスは啄むように一瞬で、だけど互いに離れないまま動かなかった。 花京院はただ承太郎のエメラルドを見つめて、承太郎は花京院のアメジストを、ただ静かに見つめる。先に恥ずかしくなって、目を逸らしてしまったのは花京院の方だった。 頬が熱くなっている。いい歳をして、まるで初恋をしているような気分だった。 「来週は、学校も授業もサボるなよ」 最終的に花京院が逃げ道に選んだのは、教師としての顔だった。それでも耳まで赤くしたままで、どこまで自然体を装えているかは、怪しいのだが。 「居眠りはしちまうかもな」 承太郎は茶化すことなく、花京院の照れ隠しに便乗する。 「なら、説教と反省文だな」 「上等だぜ」 得意げに言う承太郎の高い鼻を、人差し指でつんと突きながら。花京院はあれほど疎ましいと思っていたはずの笑顔を、柔らかく浮かべて見せる。 好きだ、と囁きながら、僅かの隙間もなく抱きしめてくる承太郎の背に、同じだけの思いを込めて、両腕を回す。 どうしようもなく彼に惹かれる自分を許したことで、花京院はようやく、前へ踏み出すことができそうな気がしていた。 なんの根拠もないけれど、相手が彼以外であったなら、こうはならなかったと。そう確信するのは少し、都合がよすぎるだろうか。 だけど、それでも構わない。 全てが片付いたら、ちゃんと言おう。承太郎に、なんの足枷もない姿で、自分の気持ちを伝えよう。 ――それまでは。 愛しているは、まだ言えない。 ←戻る ・ Wavebox👏
承太郎は真面目に授業を受け、用もなく準備室を訪れることも、なくなっていた。
教師と生徒。良好に築き上げていたと思われた関係は、あの日を境に失われてしまった。
寂しくないかといえば、嘘になる。ぬるま湯に浸かったような空間は決して悪くなかったし、教師として教え子に慕われるのは、とても心地がよかった。
だけどこれで正解だったのだと、そう思う。承太郎が求めていたのは、信頼できる教師としての花京院ではなく、もっと別の意味だったのだから。このまま彼も自分も、道を踏み外すようなことにならなくて、本当によかった。
花京院はというと、相変わらず頭痛に苛まれる日々を送っていた。もともと細くなっていた食も、さらにぐっと落ち込んで、一日の終わりにようやく、何も食べていなかったことに気がつくという有様だった。
このままではいけない。そう分かってはいるのだが、食事にかける時間があれば、身体を休めたいという欲求ばかりが膨らんでいく。気休めに噛み砕く鎮痛剤は、日に日に大した効果が期待できなくなっていった。
どうにかしなくては。この不健康な生活も、精神状態も、そして妻のことも。
気がつくとそんなことばかりを考えて、ついつい焦燥に駆られてしまう。だから結局、気が休まることなど、ほとんどないのだった。
しかしそんな日々を送っていたある日のこと。恐れていたことが、起こってしまった。
花京院は授業中、酷い眩暈と頭痛に襲われ、ついに倒れてしまったのだ。
+++
ざあざあと叩きつける雨の飛沫を、ワイパーの規則正しい音が切り裂いていた。
花京院はタクシーの後部座席から、煙ったように濡れる街並みを眺めながら、やけに景色がぼやけて見えるのを感じていた。
そういえば、眼鏡はジャケットの内ポケットに入れていたのだと思いだす。
「こりゃあしばらく止みませんねぇ、お客さん」
信号待ちの間、身を乗り出して空を覗き込んでいた運転手が、気さくに話しかけてくる。そうですね、と適当な返事をして、冷えた窓ガラスに頭をもたせかけた。
(情けないな、まったく)
四時間目の授業が始まってすぐ。教科書を音読する生徒の声に耳を傾けていた花京院は、突然ぐらりと視界が回るのを感じた。身体が大きく傾いたとき、きゃあ、という誰かの悲鳴を聞いたような気がする。そこで意識が暗闇に放り出されて、次に目覚めたのは保健室のベッドの上だった。
その頃すでに空はぐずつきはじめていて、今日はもう帰った方がいい、という養護教諭が呼んでくれたタクシーに乗り込む頃、雨は本格的に降りだしていた。
「はい、つきましたよ」
自分の不甲斐なさを呪いながら、見るともなしに景色を眺めていると、気づけばタクシーが自宅前に到着していた。
礼を言って支払いを済ませ、小走りで門をくぐる。雨音に混じって、走り去るタクシーのエンジン音が聞こえた。
今日の授業の遅れだとか、明日からの土日を前に済ませようと思っていた仕事だとか、とにかく今は全て忘れて、まずはしっかり休息をとろうと思った。少し無理をしてでも、なにか腹にものを入れなければと。
そんなことを考えながら玄関の鍵を開けようとして、なぜかすでに開けられていることに気がついた。
「?」
今朝、出かける前に戸締りはしっかり行ったはずだが。
花京院は首を傾げながら、ドアノブを回して中に入った。
玄関に脱ぎ捨ててある靴を見て、心臓が跳ねる。
――靴は、二足置いてあった。
ひとつは赤いパンプス。そしてもうひとつは、履き古した男性物のウォーキングシューズだった。明らかに、花京院のものではない。
背後でガチャリと閉まった扉の音に、また心臓が跳ねる。
視線を上げれば、長く伸びた廊下の先が、ぽっかりと黒い口を開けているように見えた。遠くに聞こえる雨音にまじって、笑い声のような、すすり泣きのような、高い声が微かに聞こえた気がする。
――それは妻の声に、とてもよく似ていた。
逃げろ、と頭の中で何かが警告を発している。このまま何も知らないふりをして、黙って家を飛び出せと。
けれど花京院はその警告をあえて無視するように、静かに靴を脱ぐと、冷たい廊下へ一歩、踏み出す。行くな、行くなと、頭の中でもう一人の自分が繰り返し、叫んでいた。
それでも花京院は、まるで何かに取り憑かれたように、音も立てずに廊下の闇を突っ切って、寝室のある二階へ続く階段をのぼりはじめた。
ドクン、ドクン、と頭の中で大きな音がする。雨音はずっとずっと遠くに聞こえて、氷のような静寂のなかに、よく知る笑い声が聞こえた。
やがて辿り着いた寝室のドアを、花京院は寸分の躊躇いもなく捻って、ドアを開けた。
「ッ……!?」
ふたつの肉の塊が、丸く目を見開いて息を飲んだ。
彼らはベッドの上で両腕を絡め合い、静止した時の中にいるように、ぴたりとも動かず、扉の前に佇む花京院を凝視している。やがて、ひとつの塊が動いた。
「あ、あなた、どうして」
それは妻の形をしていた。覆いかぶさるようにしていた男の胸を押し、シーツで裸の胸を隠しながら起き上がり、片足を床に下ろした。
「だ、旦那ァ……? お、おい、マジかよ」
男は花京院よりも、幾らか年若い青年だった。茶髪で、肌が浅黒い。黒いボクサーパンツ一丁で、膝立ちのまま、どうしたらいいか分からないという顔で、妻と花京院を交互に見ている。
妻は――妻は、指輪をしていなかった。
不思議なことに、それらを見てもなんの感情も沸いてこなかった。むしろ自分でも怖いくらい、内側で何かが熱を失っていくのを感じていた。
「あ、あの、違うのよ」
「髪」
「え、え?」
「切ったんだね」
花京院が知る彼女は、ずっと背中の半分ほどまで髪を伸ばしていた。今はそれが、肩につく程度の長さまで、切り揃えられている。まるで、知らない女のようだった。
「今日は体調が優れなくてね。早退させてもらったんだ」
花京院は部屋の中に入り込み、机の上に鞄を置きながらネクタイを外した。脱ぎ捨てたジャケットと一緒に、椅子の背もたれにバサリと掛ける。それから、ふと思いだしたように彼らを見やり、片手を翳すと「ああ、続けて」と、どこか間の抜けたことを言った。
「あ、あなた」
「いや、いいよ。じゃあ、ぼくはこれで」
手を洗わなくては、と思った。うがいをして、顔も洗いたいなと。
ふらふらと寝室を後にして、ぼやけた視界で転ばないように、手摺に手を這わせながら階段を下りる。
どうしてか、やたらと心が凪いでいた。まるで麻痺したように、なにも感じない。ただ少し、寒気がした。
一階へ下りると、花京院の足はどうしてか洗面所へは向かわなかった。そのまま玄関まで行くと靴を履き、扉を開けると雨の降りしきる外の世界へ、踏み出していた。
+++
勢いを強めた雨が針のように皮膚を刺し、黒光りするアスファルトに際限なく吸い込まれていく。
全身をずぶ濡れにしながら、花京院は目的もなく、ただのろのろと歩道を歩いていた。
どこに行こうとしているのか、自分でもよく分からなかった。
心のなかは空虚なままで、思考することすらままならない。雨音以外、なにも耳に入ってこなかった。
一台の乗用車が、そんな花京院の横を物凄いスピードで通り過ぎようとした。ああ、このままでは泥水をかぶってしまう。
けれど身体が咄嗟に動きそうもなかった。別にいいかと、投げ出しかけたそのとき。
――何かに強く、腕を引かれた。
「おいあんた」
雨音だけだった空間に、その声は一筋の光のように切り込んできた。頭上を何かに覆われながら、足元ギリギリのところに泥水が波打つのを茫然と見つめる。それから、腕を掴む声の主を見上げた。
「……じょうたろう?」
そこには、黒い傘をさした承太郎の顔があった。どんよりと煙る雨の世界で、鮮やかなエメラルドが物悲しげに揺れているような気がした。
どうして彼がここに。学校はどうしたのだろう。もう終わったのだろうか。時間の感覚が、まるでない。
承太郎は珍しく、どこか焦ったような余裕のない顔で、眉間にぐっと皺を寄せている。花京院は宙に浮かんでいるみたいな心地のまま、ことりと首を傾げた。
「どうして君がこんなところに」
「それはこっちの台詞だぜ……あんた、授業中に倒れて帰ったんじゃあなかったのか」
そういえばそうだったかと、花京院は伏せた睫毛の下で、所在無げに視線を彷徨わせる。腑抜けたような有様を見て、承太郎がひとつ、長い溜息を漏らした。
「倒れたって聞いてすっ飛んで来てみりゃあ、雨のなかをお散歩とはよ……てめー、一体なにしてやがる」
冷えすぎて感覚がなくなっていた皮膚に、ピリリとなにかが突き刺さったような気がした。ふと視線をあげれば、承太郎は押し殺したように食いしばった歯を僅かに覗かせ、目を細めていた。
「――怒ってるのか?」
彼の瞳は、明らかに怒りの色を宿していた。それがどうしてか、無感情でいた花京院の胸に深く突き刺さった。最愛の人の裏切りを目の当たりにしてさえ、何一つ動かなかった胸のうちに、曇天が覆うような不安が立ち込める。なぜこんな気持ちになってしまうのか。自分でも、分からないけれど。
承太郎は僅かに顔を伏せ、目元を学帽の鍔で隠しながら、舌打ちをした。その瞬間、身体を強く引き寄せられる。
――黒い傘が、音を立てて地面に落ちた。
花京院は、大きな彼の胸板にぴったりと身を寄せて、長い両腕に抱きすくめられていた。
ひゅっと息を飲んで目を見開く花京院の耳元で、承太郎が低く、ほんの少しだけ弱々しく、声を紡ぐ。
「あんたに何かあったら……死んじまうぜ、おれは」
「……ごめん」
どうしてか、咄嗟に謝っていた。
「身体、なんともねえのか」
「うん」
「本当に、なんともねえんだな」
「なんともないよ」
あたたかい、と思った。泣きたくなるくらい、承太郎の腕の中はあたたかい。そして、優しい。
何度も何度も確かめようとする承太郎の声に応えながら、花京院はようやく、バカなことをしているという実感と共に、あらゆる感情が追いついてくるのを感じた。
――そして今更のように、打ちのめされる。
「……ぼくは」
何か言いかけて、言葉にすることができなかった。何を言いたかったのかも、よく分からない。承太郎はただ黙って、そんな花京院を抱きしめていた。きっと彼の方がずっと、今の花京院の様子を見て戸惑っているだろうに。それなのに承太郎はなにも聞かずに、ただこうして熱を分け与えようとしてくれる。
もしかしたら彼の方がよほど、自分より大人なのかもしれないと、ぼんやり思った。
やがて承太郎は抱きしめていた腕を解くと、自分の学ランを脱いで花京院の肩にかぶせた。それからすぐに傘を拾い――もうどうしようもなく濡れてはいたが――ふたりの頭上に翳した。
自分よりもずっと広い肩幅を、学ランを通して感じながら、本当に大きな男だと、しみじみ感じる。
「帰るぜ。送っていく」
承太郎の申し出に、花京院は咄嗟に首を左右に振っていた。
あそこへは帰れない。帰りたくない。
――だけどそれ以上に、もう少しこのまま。
俯いたまま何も言わない花京院に、承太郎もまた口を噤んだ。
けれどすぐに大きな手が伸びて来て、肩を抱かれる。
「ちっと歩くぜ」
「……うん」
前を見据えながら短く言った承太郎に、花京院は弱々しく、首を縦に振った。
+++
承太郎に連れて来られたのは、彼の自宅だった。
噂には聞いていたが、そこは超がつくほど立派な和風邸宅で、承太郎はここで世界中を飛び回る父親の帰りを待ちながら、母親と二人だけで暮らしているらしかった。
その母親も、ここ数日はニューヨークで不動産王と名高い祖父の元へ、里帰りしているという。
通された和室で、花京院は頭からタオルをかぶったまま、座り込んでいた。濡れたワイシャツを肌に張りつけ、承太郎に借りた学ランすら脱がず、膝を抱えて顔を伏せている。
「風呂が沸いたぜ。早く入り――」
そこに姿を現した承太郎が、暗い中でただ背中を丸めている花京院を見て、呆れたように「やれやれ」と肩を竦めた。
「そのまんまじゃあ、風邪をひいちまう」
咎めるようにそう言って、承太郎は傍にしゃがみ込むと、タオル越しにわしわしと頭を撫でてくる。花京院は顔を伏せたまま、ただじっとして目を閉じていた。
「あとは風呂場に行きな。おれのでよけりゃあ、着替えも置いてある」
ある程度のところで手を止めて、承太郎が立ち上がる。
彼の言う通りにしなければと、分かってはいるのに、どうしてか身体が鉛のように重くて、動かなかった。
承太郎はそんな花京院をこれ以上急かすでもなく、ただ静かに見下ろしている。
沈黙だけが落ちるなか、遠くから、泣き崩れるような激しさで雨音が響いていた。
薄暗い室内と、満ちる沈黙。閉め切られた障子の向こうから、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音がしていた。
――けれど次の瞬間。
それらを掻き消す電子音が、けたたましく唸りを上げた。
花京院のズボンのポケットから、いつの間にか畳の上に転がり落ちていた、携帯電話から発されるものだった。
着信音は十秒経っても、二十秒経っても鳴りやまず、やがて留守番電話に切り替わる。そこで一度途切れ、再び鳴りだした。
「――出ねえのか」
承太郎の声に、花京院はゆらりと顔を上げた。視線だけ、すぐ脇に放り出されている携帯に向ける。点滅する緑色のライトが、視界の端で霞んでいた。
音も、光も、どこか夢のなかの出来事のようだった。電話の向こうにいるはずの相手の顔が、よく思いだせない。
花京院は再び顔を伏せた。
「……先生」
沈みかける意識を繋ぎ止めるのは、ただひとつ、承太郎の声だけのような気がしていた。
(どうしてだろう)
肩を抱かれ、雨の中を一つの傘で歩いている間、承太郎と花京院は一言も声を発さなかった。その無言の空間が、承太郎の温もりがとても心地よくて、大きな安堵に包まれていた。あのときの花京院は、ひどく打ちのめされていたはずなのに。
(そうか、あのときぼくは……)
電子音は止んでいた。以降、かかってくる様子はない。
知らず知らずのうちに詰めていたらしい息を吐き、花京院は顔を上げた。
「……君の、言うとおりだったんだ」
花京院がおもむろに口を開くと、承太郎は黙って隣に胡坐をかいた。
「ぼくの妻は――浮気をしていた」
承太郎が静かに息を飲む。あれだけ自信たっぷりに、核心を突いて来た男が。
「寝室で、男と寝ていたんだ。ぼくよりも幾らか若そうな、茶髪の男だった」
なぜわざわざ話そうと思ったのかは分からない。おまえには関係ないと、そう言って突っぱねたはずの相手に。
「彼女はずっと家を離れていた。でも時々、着替えを取りに戻って来ていたことは知っていたんだ。彼女が戻った日は、必ず家のなかで香水の残り香がしていたから。だけど――だけど、まさか男連れで戻っていたなんて、知らなかったな」
想像すると、笑えてしまった。ああやって花京院がいない間、妻は家に戻ってきては、あの男と寝ていたのだろうか。だとしたら、自分はそれを知らず、毎晩彼らが抱き合った後のベッドで、眠っていたのだ。皮肉でしかない。
「だから全部……君が言い当てた通りだったんだよ」
ふと、久しぶりに会った妻が、指輪をしていなかったことを、思い出す。花京院は左手の薬指から、指輪を抜き取った。それを思い切り、畳の床に投げつける。転がった先で踊るように円を描きながら、指輪はやがて動きを止めた。
(あのとき、ぼくが打ちのめされたのは――)
彼女の不貞を、目の当たりにしたからじゃあ、なかった。
妻を愛していると、準備室で承太郎に言い放ったあのときから。あるいは、そのずっと前から。
(ぼくの心も、とっくに彼女から離れていたからだ)
雨の中、承太郎の腕に抱かれながら。花京院は気がついてしまった。
自分たち夫婦が、もうとっくの昔に終わっていたのだということに。
承太郎は、ただ黙って花京院が吐き出す言葉に耳を傾けていた。けれど何も言うことがなくなって、また雨音だけの空間になると、彼は小さく息を吐きだす。そして言った。
「風呂、とっとと入んな」
もっとなにかあってもよさそうなのにと。花京院は密かに拍子抜けする。しかしもう感覚がないほどに、身体が冷え切っているのは確かだった。それでも花京院は、首を縦には振らなかった。
「……わたしはいい。君もずいぶん冷えただろう。いい大人が、みっともないことに付き合わせてすまなかった」
忘れてくれと付け足しながら、下げた頭を上げたとき、花京院は腑抜けた表情から、教師の顔に戻っていた。
しかし、承太郎の不満そうに眇められた瞳から目を逸らした瞬間、胸倉を掴まれ引き寄せられる。
「ッ!」
「あんまり聞き分けがねえと、風呂場まで担いでってひん剥くぜ」
「なッ、んてこと、言うんだい」
牙をむいたような怒りの表情が、互いの息がかかるほど至近距離にあった。燃えるような深いエメラルドが、花京院を縛りつけて離さない。
(ああ、まただ)
――吸い込まれる。
そう思った瞬間、食らいついてきた唇を、花京院は睫毛を伏せながら、受け止めていた。
承太郎が薄い唇に歯を立てる。ビクン、と大きく跳ねた肩を押さえつけるように抱かれ、そのまま床に雪崩れ込んだ。
舌が潜り込んできたとき、花京院はほとんど無意識に、承太郎の肩に両腕を回していた。
花京院の身体は、拒むことを、拒んでいた。口内を滅茶苦茶に暴かれながら、宥めるように自らも舌を差し出す。
柔らかく濡れた肉同士が、ぬるりと擦れて唾液が溢れる。頭の中まで掻きまわされているような気がして、それしか考えられなくなっていく自分に、恐怖を感じた。
なにをしているのだろう。相手は生徒で、年齢だけならまだ子供といっていい年頃で、自分は教師だ。
だけど今は、今だけは、ただの人と人でありたいと願っている。そう望んでいる。
(もう、いいじゃあないか)
ぴったりと肌に張り付くシャツのボタンに、承太郎の指が触れるのを許容しながら、花京院は自分の感情と真に向き合う。
あの雨のなかで。承太郎のエメラルドが怒りの色を浮かべるのを見て、花京院は怖いと思った。どうしてか、不安な気持ちでいっぱいになった。だから抱きしめられたとき、嬉しかった。
心の底から、嬉しかったのだ――。
+++
何度も何度もキスをしながら、裸で絡み合った。
雨の匂いが染みつく肌は、承太郎に触れられることで少しずつ、赤く色づいていく。
女のように触れられることに、戸惑いを覚えたのは最初のうちだけだった。承太郎の愛撫はどこか不器用で拙く、本当は彼がえらく緊張していることが伝わってくると、ただどうしようもなく、胸が締め付けられるばかりだった。
承太郎は、肩に綺麗な星型の痣を持っていた。女性とは違う、張りのある筋肉が隆起するその肩に、花京院は何度も指先で触れ、キスをした。
「ッ、くぅ、ぁ……!!」
承太郎の武骨な指が、足の付け根を分け入り、閉じている小さな穴に触れた。女性のように濡れるはずがないそこに、少し焦れた様子で潜り込んでくると、花京院はその痛みに身を強張らせる。承太郎は息をのみ、すぐに指を引き抜いてしまう。
「い、いい……やめなくて、いい」
「……痛えんだろ」
「いいから」
ここまできたら、もうやめられない。花京院は四つん這いのような形で覆いかぶさる承太郎の、股間に息づく若い雄に視線をやる。身体の大きさに比例して、そこは見たことがないほど大きく、逞しかった。
すでに血管が浮き上がるほど育ち切っているものを見て、あれを受け止めるには、相当の覚悟が必要だと思った。
承太郎はしばし逡巡したのち、自分の右手の人差し指と中指を口に含み、赤い舌を絡めながら潤わせる。そうして再び尻の谷間に指を這わせて来るのに合わせて、花京院は立てた両膝を大きく開いた。
いくら薄暗いとはいえ、閉め切った障子紙から差し込むほのかな光が、白く花京院の身体を照らし出す。羞恥に身を震わせながら、承太郎の濡れた指先を受け入れた。
「ぅ、う……ア……ッ」
凄まじい異物感。花京院が苦しげに呻いても、承太郎はもう手を止めることをしなかった。ただ時間をかけて、何度も指先を潤わせながらそこを開いていく。
生まれて初めて、身体のなかを他人に暴かれる感覚。承太郎の長い指の、太い関節部分まで、リアルに感じることができる。
けれどそのうち痛みや違和感よりも、何か不思議な熱が疼くのを感じはじめたことに、花京院は気がついた。半起ちだった性器が硬さを増して、先端から先走りが滲みはじめる。
「あぁッ、んっ……!」
押し込まれた指先がある一点に触れ、ズルズルと引き抜かれる瞬間、自分でも信じられないような甘ったるい声が漏れる。
「じょ、たろ、そこ、ぁ……ん、く……ッ」
腰が揺れるのが止まらない。生まれて初めての、その背徳的な快感に、花京院は身悶えながら首を嫌々と振った。
甘えた声と、甘えた仕草。情けないと思うのに、そのなにもかもが、もうどうでもよかった。
「ッ……」
承太郎が小さく舌打ちをした。ずるりと少し乱暴に指が引き抜かれる感触に、内腿がぶるりと震える。
承太郎はいちど膝立ちになると、自身を片手で掴み上げて幾度か扱いた。先走りに濡れて、赤黒い性器の先端から竿にかけてが、いやらしくテカりを帯びている。彼は花京院の膝を掴み、押し上げるように割り開いた。
「ッ、ぅ」
指で散々かき回された穴に、熱い切っ先が宛がわれる。
背筋にぞわりと何かが駆け抜けた。ぐっと、押し込まれた瞬間の衝撃は、きっと一生忘れることができないだろう。
「ヒィッ、ぁ、――ッ」
捻じ込まれた瞬間、肉が千切れたような感覚に頭の中が白くなる。ガチガチと歯の音を鳴らしながら、花京院は目を見開いて酷く震えた。
承太郎は歯を食いしばり、花京院の両膝を自分の体重をかけながら押し上げる。太腿と胸がくっつくほど身体を折り曲げられると、その表情がぐっと近づいて来た。
「じょ、た……ろッ、ぃ――っ」
承太郎の額から伝った汗が、花京院の頬にぽたりと落ちた。
太い首に両腕を回して、その背を掻き抱く。熱い楔が全て肉壺に埋もれる頃には、痛みはただ痺れるような狂暴な熱に変わっていた。腹の中で脈打つ肉の感覚が、あまりにも生々しくて、息ができない。
自分の尻の穴が、教え子の――男の勃起した性器をずっぽりと咥え込んでいることを考えると、花京院は信じがたい衝撃と共に、不思議な興奮を覚える自身に気がついた。
承太郎はそんな花京院に覆いかぶさり、僅かに背を丸めると首筋に強く額を押し付け、手負いの獣のような荒々しい呼吸を繰り返していた。やがて、彼の腰がぶるりと震えて、低い呻きが上がった瞬間、腹の奥で焼けるような何かが、弾けた。
「ッ――!!」
花京院は喉を反らし、声もなく口をぱっくりと開けながら、その熱い放流を受け止めた。挿れただけで耐えきれず、極致に至った承太郎が、射精している。
「ッ、く、そ」
その感覚だけで気をやりそうになっていた花京院の耳元で、承太郎が悔しげな声を漏らす。彼は全て出し終えると、大きく息をついて花京院の上にぐったりと体重をかけてきた。
「じょ、たろ」
「……情けねえ」
同じ男だ。その気持ちは、わかる。けれどそれ以上に、嬉しいと感じていた。
無理な態勢や承太郎の重みで、身体は悲鳴をあげている。受け入れている場所はジリジリと炙られているみたいに痺れるし、腹の中は、苦しい。けれど、承太郎は大きく脈打ったまま、萎えることなく花京院の中にあった。
「――いいよ」
項垂れる頭を抱きしめて、少し癖のある黒髪を撫でた。
承太郎が顔をあげる。鼻先が触れ合う距離で悔しそうに潤むエメラルドを見て、ああ、彼はまだ、ほんの少年なのだと、思い知る。承太郎、と吐息だけで名前を呼んで。
「ぼくをこのまま、滅茶苦茶にしてくれるかい?」
うっとりと呟いた。承太郎は唇を引き結び、喉を詰まらせてから、赤らんだ頬で「やれやれだぜ」と格好つけて見せた。
それから、何度も何度も抱き合った。
夢中で腰を打ち付けながら、片時も花京院を離すことなく、承太郎は掠れた声で「好きだ」と「愛してる」を幾度も繰り返した。花京院は啼きながら、その身体を強く抱き返すだけで、精いっぱいだった。
+++
雨はいつの間にやんだのか。
花京院が目を覚ますと、障子の向こうは漆黒の闇が広がっていた。和紙に覆われた照明が、枕元で温かな暖色に揺れている。
「右の目元に泣きぼくろがふたつ。斜めに並んだ女が、あんたのカミさんだろ」
ひとつの布団に身を寄せ合い、裸のまま花京院を片腕に抱き込んだ承太郎が、おもむろに口を開いた。
まだ行為の疲労感を十分に引きずったまま、指先ひとつ動かすのも億劫だった花京院は、承太郎の鎖骨の辺りに伏せていた視線をふと、持ち上げる。
「そうだが……なぜそれを?」
「机に伏せてあった写真立て。あんたに呼び出されて、初めて準備室に行った、あんときに見た」
そうか。あの日は確か、遅刻してきた女子生徒に反省文を書かせている間、承太郎をひとり準備室に待たせていたのだ。別に他人から隠すために伏せていたわけではなかったから、花京院は小さくふぅんと息をつくだけだった。
「何回か、駅前の繁華街で見た。あんたより幾らか若そうな野郎と、ふたりで歩いているのをよ」
「繁華街って……そんな人ごみでよく気がついたな」
「視力と記憶力には自信があるんでね」
承太郎が彼女を見かけたのは偶然だった。たまたま擦れ違った女の目元に、特徴的なふたつのほくろを見つけて、妙に気になったのだと。
「あの写真に比べると、ずいぶん雰囲気が違ってたから、最初は他人の空似かと思ったぜ。だけど何回か見かけるうちに、あんたのカミさんだって気がついた」
ふたりはしょっちゅう、夜の街を寄り添って歩いていたという。飲み屋へ入っていくときもあれば、ホテル街に消えて行くこともあったと。どうしてそんな時間に高校生が外をほっつき歩いていたのか、それは今だけ、聞かないでおくことにした。
花京院はその話を聞いても、今更なんとも思わなかった。
ただ、承太郎が妻と別居状態でいることに切り込んで来たのは、見透かしていたわけでも、勘で言っていたわけでもなく、事実を知っていたからだったのだ。
「写真でも撮って、あんたに叩きつけてやるつもりだったけどよ。手間が省けたな」
「写真って……盗撮は犯罪だぞ」
呆れたように言う花京院に、承太郎は悪びれるでもなくただ静かに笑った。
「どのみちおれが、あんたを追い詰める気でいたんだぜ」
「性格が悪いな、君は」
「言っただろ。どんな手を使ってでも、おれはあんたをモノにするって」
恥ずかしいことを言うやつだ。この男にそんなセリフを吐かれたい女子が、一体どれほどいると思っているのか。
「君は顔と頭はいいが、趣味は最悪だと思うぞ。相手なんて選び放題だろうに。君にしてみれば、ぼくは十も歳の離れた、ただのおじさんじゃあないか」
「あんたの顔、高校生でも十分通じそうだぜ」
「……気にしてるんだから、それは言わないでくれ」
だいたい承太郎の方が、高校生のくせに老け顔なのだと、そうは思ったが、言葉にするのはそれこそ子供っぽい気がして、大きめの唇をむっつりと引き結ぶだけにした。
「笑った顔が、死んじまいそうなくらい可愛かったからよ」
承太郎は、鎖骨のあたりに顔を寄せている花京院の、桃色がかった髪の毛に、そっと口元を埋めながら言った。
「それが決め手というやつだぜ」
「わ、わかった。わかったよ、もう」
このままでは、恥ずかしさでこちらの方が死んでしまうと思った。花京院は真っ赤になった顔を見られないように気をつけながら、逃げるように承太郎から離れた。腰が抜けたようになっていて、信じられないような場所に違和感が残っているような気がしたが、それらを押して半身を起こす。
「すまないが、適当に服を貸してくれるか。あと、濡れた服を入れて帰る袋も」
「帰っちまうのか」
「当然だろ」
照れ隠しに少し素っ気なく言って、花京院は投げ出されていた携帯電話を手繰り寄せた。ディスプレイには不在着信が二件と、そして、メールが一件。もちろん、どれも妻からのものだった。
花京院はその一通だけのメールを開いてみることにした。
謝罪の言葉と共に、『誤解を解きたい』という内容の文章が、つらつらと書かれているのを見て、苦笑する。
あれだけ決定的な現場を抑えられながら、一体どんな言い訳をするというのだろう。なにより、先に裏切っていたはずの彼女が、それでもまだ夫婦関係を修復したいと考えていることが、滑稽に思えて仕方がない。
花京院は携帯をいったん枕元に放ると、今度は少し身を乗り出して、打ち捨てられていた銀色のリングを引き寄せた。手の平に乗せ、少しの間じっと見つめてから、ただ握りしめる。この指輪が、花京院の薬指にはまることは、もう二度とないのだ。
承太郎は後頭部で両手の指を組んだ姿勢で、そんな花京院を静かに見守っていた。それからふと、口を開く。
「これ、やっぱ不倫ってことになんのか」
ぼんやりと呟くようなその言葉に、なぜかふっと笑ってしまう。妻の浮気相手よりもずっと年若い、未成年である教え子と――しかも同性だ――身体を重ねてしまった自分の方が、彼女の行いよりも遥かに罪深いような気がした。
「書類上はまだ夫婦だからね。そうなるのかな?」
承太郎の方を振り向いて、おどけて言った。けれど少しだけ、手の中の指輪が重くなったような気がする。
「まるで足枷だぜ」
「皮肉なことを言うね」
永遠を誓ったはずのリングが、今はただ形ばかりの枷になっているなんて。
花京院は僅かに込み上げる感傷に、そっと目を閉じる。
彼女を愛していた。だけど、もう全てが過去だった。ただしがみついていただけの自分は、さっきまでの雨と一緒に、一欠けらも残さず、流れてしまったのだ。
「彼女と、ちゃんと話をするよ」
噛み締めるように紡いだ言葉に、承太郎は何も言わず、ただゆっくりと身を起こした。
「ぼくはもう彼女を愛していないし、向こうが何を考えているのかは分からないが、決着をつけるつもりでいる。だから……だから、それまで少し、待っていてほしい」
隣の承太郎を見つめながら、言った。最初に花京院の胸を捉えて離さなかった美しい瞳が、揺れる暖色の灯りに瞬いた。
承太郎が笑う。そっと身を寄せて、ふたりの唇が重なった。
キスは啄むように一瞬で、だけど互いに離れないまま動かなかった。
花京院はただ承太郎のエメラルドを見つめて、承太郎は花京院のアメジストを、ただ静かに見つめる。先に恥ずかしくなって、目を逸らしてしまったのは花京院の方だった。
頬が熱くなっている。いい歳をして、まるで初恋をしているような気分だった。
「来週は、学校も授業もサボるなよ」
最終的に花京院が逃げ道に選んだのは、教師としての顔だった。それでも耳まで赤くしたままで、どこまで自然体を装えているかは、怪しいのだが。
「居眠りはしちまうかもな」
承太郎は茶化すことなく、花京院の照れ隠しに便乗する。
「なら、説教と反省文だな」
「上等だぜ」
得意げに言う承太郎の高い鼻を、人差し指でつんと突きながら。花京院はあれほど疎ましいと思っていたはずの笑顔を、柔らかく浮かべて見せる。
好きだ、と囁きながら、僅かの隙間もなく抱きしめてくる承太郎の背に、同じだけの思いを込めて、両腕を回す。
どうしようもなく彼に惹かれる自分を許したことで、花京院はようやく、前へ踏み出すことができそうな気がしていた。
なんの根拠もないけれど、相手が彼以外であったなら、こうはならなかったと。そう確信するのは少し、都合がよすぎるだろうか。
だけど、それでも構わない。
全てが片付いたら、ちゃんと言おう。承太郎に、なんの足枷もない姿で、自分の気持ちを伝えよう。
――それまでは。
愛しているは、まだ言えない。
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