「うお!?」
寒さも少しずつ和らいできた、春の訪れ間近の朝。
黒鋼は自宅の洗面所の床板を踏み抜き、低い悲鳴を上げていた。
「やっちまった……」
ちょうど浴室への入り口付近の床。
ここは前々から少しでも重さが加わると軋んだ音を立てていて、踏みつけようものなら微かにしなるほど脆くなっていた。
だから普段は極力踏まないように気をつけていたのだが……踏んでしまった。
「どうすんだよこれ……」
一部分がすっかり折れている床板の側にしゃがみ込み、穴の中を覗きこんでみる。
真っ暗でなにも見えないが、そこからひゅうひゅうと冷たい風が吹き上げて来るのが分かった。
とりあえずここがアパートの下の階でよかった。全身でブチ抜いて落下しようものなら、確実に死ぬ。下の住人が。
これは早急に管理会社に連絡をして修理せねば。だが今はそんな時間もなく、黒鋼はイライラしつつ辺りを見回し、適当に側にあった洗濯籠で床を塞ぐと朝の準備に取り掛かった。
***
「それは災難でしたね」
窓際の席に陣取った黒鋼の目の前に、ナポリタンがどーんと盛られた大皿を置きながらユゥイが苦笑する。
彼は向かいに座ると皿を覗き込み、「これ新作なんですよ」と言った。
「ナポリタンをアレンジして、チリクラブソースを加えてるんですけど、お子様の味覚には合わなかったみたいで」
「味見すんのは別にいいけどよ、流石に多くねぇかこれ」
いつからここはデカ盛りの店になったんだ。
そりゃあこのタッパを見れば分かるように、黒鋼はその気になれば人の倍は食う。だが、この山盛りパスタは軽く5,6人分はありそうだ。
「可愛い弟には贔屓したくなるじゃないですか」
「弟? 誰が?」
眉間に皺を寄せて片目を眇める黒鋼に向かって、ユゥイはスッ……と指を指した。この男は一体なにを気色の悪いことを言っているのだろうか。
「兄の夫になる人なので、ボクの弟ってことです。兄嫁ならぬ兄夫?」
「聞いたことねぇぞそんな単語」
「いやぁ、嬉しいなぁ。ボク弟って憧れてたんですよね」
「……なんか企んでねぇか?」
「ぜんぜん?」
首を傾げてにっこり笑うユゥイは、不思議と目だけは笑っていないような気がして、思い切り胡散臭かった。
そんな人間が差し出してくる食べ物を、みすみす口に入れてしまっていいのだろうか。だが、あからさまに不審そうな顔をする黒鋼を、ユゥイは「冷めないうちに早く」と急かしてくる。
昼時で腹が減っているのは確かで、黒鋼は渋々フォークを手にするとナポリタンを口に入れた。
「思ったほど辛くはねぇな」
「でしょ?」
「いいんじゃねぇか?」
「そうですか。よかった」
じゃあメニュー入り決定ですね、とユゥイが背もたれにゆったりと背を預けたとき、店のドアベルが鳴った。
「たっだいまー! お買い物してきたー! 100円オマケしてもらったー!」
買い物籠にネギを刺したファイが元気に店に飛び込んできた。彼は窓際の席に黒鋼がいるのを見つけて、パッと目を輝かせると、ちょっと転びそうになりながら駆けてくる。
おかえり、と言うユゥイにただいまと返事をしつつ買い物袋を渡し、すぐに黒鋼の首に抱き付いた。
「黒りん来てたのー!? 会いたかったよー!!」
「昨日も会ったろ」
「オレ隣にすーわる!」
そう言って、ファイはわざわざ背後からではなく黒鋼の正面を跨いで隣の席に座ろうとした。なんて迷惑な……と思いつつ、椅子を引きながらぶつからないようにデカ盛りパスタを遠ざける。
椅子に座ったファイは黒鋼の腕にぎゅっとしがみついて、下から顔を覗き込んできた。
「お昼食べに来たのー?」
「まぁな」
「じゃあこれ食べたら会社に戻るのー?」
「午後は会議があるからな」
「そっかぁ……」
ぷぅっと唇を尖らせるファイに苦笑したユゥイが、黒鋼を見て「今夜は?」と聞いてくる。
「夕食はどうします?」
「あぁ……どうだろうな。会議の運び次第だが……今夜は難しいかもな」
「大変ですよねぇ……いちいちここに通うの」
ユゥイはなざかわざとらしく腕を組み、目を閉じてうんうんと唸っている。
「夜遅くまで仕事をして、お腹を空かせたまま誰が待つわけでもない、床が抜けた家に帰る……涙が出そうですよボクは」
「おまえ一体なにが言いてぇんだよ」
「え!? 黒たんおうち壊したの!? 凄いね! どうやって壊したの!?」
「あのな……別に倒壊させたわけじゃねぇんだぞ……」
「オレも黒たんくらい大きくなったらおうち壊せるようになる?」
「壊す必要がそもそもねぇだろ!」
そうなの? と首を傾げるファイに溜息をついて、黒鋼はとりあえずモリモリのナポリタンに再び口をつけながら考える。
今のアパートは学生時代からずっと住み続けていて、当時から相当なボロではあった。確か今年で築年数も25年になるのだったか。
面倒だという理由でずっと住み続けていたが、そろそろもう少しまともなところに引っ越しを考えてもいいのかもしれない。できれば、この近辺とか……。
するとユゥイが、絶妙なタイミングで独り言のような呟きを漏らした。
「上の階……一部屋余ってるんだよなぁ……」
「……あ?」
「物置代わりにしてるけど、なんだかんだで捨ててもいいようなガラクタばかりなんだよなぁ……」
チラリ。
「最近物騒だし、そういえば二件先のお宅に空き巣が入ったって聞いたなぁ。どこかに厳ついヤクザみたいなアル●ックさんがいてくれればなぁ」
チラリ。
「その選択を迫るようなチラ見はなんなんだよ……逆に食いつきにくいぞ」
「前より明らかにここに通う頻度も高くなってるわけですし、この際どうでしょう?」
「どうって……」
確かに引っ越しを考えようと思っていたタイミングではある。
しかもこの近辺であればなおよしだった。だが、流石に直接住み込むなんて頭はなくて、黒鋼はユゥイの申し出にただ戸惑った。
いや、家人がいいと言っているなら問題はないのだが。家探しの手間も省けるし、何より……。
黒鋼は横目で隣のファイを窺った。彼は黒鋼の飲みかけの紅茶のカップに大量の砂糖とミルクを入れて、勝手に飲んでは「ぷはー」と息を吐き出している。
ユゥイは僅かに身を乗り出すとファイの名前を呼んだ。
「ファイも、ここに黒鋼さんが一緒に住んだら嬉しいよね?」
「え? 住む……?」
ファイは目を丸くして黒鋼を見上げた。白い頬が、興奮してサッと赤く染まる。
「黒たん住むの!? 住むの!?」
「いや、それはまだ」
「黒たんここに住むの!? わぁいやったー!!」
「お、おい……」
ファイが思いっきり抱き付いてくるものだから、黒鋼は一瞬ナポリタンの皿をぶちまけそうになった。
当人がまだ戸惑いの最中にいるというのに、家人の一人であるファイは異常なまでのはしゃぎぶりを見せる。
「嬉しいー! じゃあこれからは毎日一緒にご飯食べれるんだねー!!」
「あのな、俺はまだ」
「お風呂も一緒に入ろうねー! 黒たんの背中ゴシゴシしてあげるー!」
「…………風呂、か」
「狭いから一緒に入るのは無理じゃないかな」
こ、このやろう。
悪くねぇなと流されかけていた黒鋼はギリギリと奥歯を噛み締めながらユゥイを睨み付ける。彼はどこ吹く風で「じゃあ決まりですね」と言って笑った。
物凄く強引に話が決まってしまったような気がするが、それよりも黒鋼はユゥイが漏らした安堵の溜息の方が気になった。
「てめぇ、一体なにが目的なんだよ」
「目的だなんて人聞きが悪い」
「吐け」
「…………」
こちらも有無を言わさぬ勢いで凄めば、ユゥイは肩を力なく落として疲れたような表情を見せる。
「狙われてるんですよ……その部屋」
「狙われてる? ……ああ、ひょっとするとあれか」
あの冗談が嫌いな男子高校生のことか。
「おまえらデキてるんじゃねぇのか?」
「まだですよ。いくらなんでも高校生に手を出すほど飢えてません」
まだ、と言い切るあたり、気を持たせるような真似は十分にしているような印象を受けるが。
「と、とにかく。このままだといつ大荷物を抱えて乗り込んでくるか、分からない勢いなんです。だから防犯の意味でもお願いします」
「人をセ●ム扱いすんなよ……」
ついでに将来の恋人候補を犯罪者予備軍扱いするのもやめてやれ……。
てっきり前進したと思っていたら、その場で足踏みをしていただけの少年を多少気の毒に思いつつ、諦めたような息を漏らす黒鋼だったが、次の瞬間、
「黒たん、一緒のベッドに寝ようねー!!」
というファイの無邪気な提案に派手に吹き出した。そんな黒鋼を見たユゥイはどこか冷やかに「ムッツリだなぁ……」と呟くのだった。
***
「黒たん待ってー!!」
特盛ナポリタンをどうにか胃袋に押し込んでから店を出た黒鋼は、商店街の出口付近で呼び止められ、足を止めた。
振り返れば、ファイが懸命に駆けてくる様子が見える。
「なんだ、追いかけてきたのか?」
「はーっ、よかった、間に合ったー!」
僅かに首を傾げる黒鋼に、大きく深呼吸して息を整えたファイは「うん」と頷きながら俯いた。
どうしたのかと彼の言葉を黙って待ち続けていると、ファイは黒いパンツの後ろポケットからあるものを取り出し、黒鋼に差し出してきた。
「これ、あげる」
それは、小さな黒わんの編みぐるみだった。
星空のテラスで思いを通じ合わせてから、ファイが帰り際に黒わんを手渡してくることはなくなっていた。
もう必要ないということは何度も言って聞かせてたし、彼も納得したはずだが。
「あのな、これはもう」
「うぅん違うの。ほら、ちゃんとマフラーしてるでしょ?」
確かに、その黒わんは以前のように裸ではなかった。小さな赤いマフラーをして、吊り上がっていた目も前に比べると少しだけ柔らかな印象を受ける。
黒鋼はそれを受け取ると、再びファイを見やった。
「ちゃんとしたの……一回もあげてなかったから。それ、黒たんにあげる」
「このためにわざわざ?」
「ユゥイがいるとこで渡すの、なんか恥ずかしかったの……」
恥じらうファイに小さく笑って、黒鋼は指で黒わんを優しく包み込む。
「あのね、それ、今までで一番上手にできたの。あとね、その、背中にね……」
「背中?」
うん、と頷くファイの赤い頬を見て、黒鋼はすぐに黒わんを引っくり返した。そこにあるものを見て、黒鋼もつい、顔が熱くなるのを感じる。
黒わんの背中には、ハート型に切り取られた赤いフェルトが縫い付けられていた。
ファイはもじもじと、胸元にぶら下がるオルゴールのペンダントを弄ぶ。それから、恥ずかしそうに上目使いで見上げてきた。
「ハート、もらってくれる……?」
こんちくしょう、と、黒鋼は思う。
赤い顔をして向かい合う二人の横を、シルバーカーを引く老人がゆっくりと横切って行った。遠くから青果店の肝っ玉熟女が客引きをする声が聞こえ、定食屋から出てきた親父が派手にクシャミをする。
豆腐屋のシャッターが開かれる音、蕎麦屋の出前が乗るバイクの排気音。井戸端会議に興じる奥様方の笑い声。
こんな場所じゃあ、抱きしめてキスをすることもできやしない。
「黒たん……?」
「あたりめぇだろ」
そう言って、黒鋼はその華奢な肩を掴んで引き寄せると、耳元に口を寄せる。
「今夜、遅くなっても必ず行く」
「え……?」
「待ってろよ」
ゆっくりと離れた黒鋼に、ファイはどこか潤んだ瞳でふにゃりと笑う。誰よりも眩しくて、誰よりも可愛い、甘い甘い、砂糖菓子のように。
燦々と降り注ぐ陽光。春を目の前に控えた、青い空。
きっと今夜も晴れるから。
「待ってる」
あの満天の星空の下、箱庭のような、小さなテラスで。
END
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寒さも少しずつ和らいできた、春の訪れ間近の朝。
黒鋼は自宅の洗面所の床板を踏み抜き、低い悲鳴を上げていた。
「やっちまった……」
ちょうど浴室への入り口付近の床。
ここは前々から少しでも重さが加わると軋んだ音を立てていて、踏みつけようものなら微かにしなるほど脆くなっていた。
だから普段は極力踏まないように気をつけていたのだが……踏んでしまった。
「どうすんだよこれ……」
一部分がすっかり折れている床板の側にしゃがみ込み、穴の中を覗きこんでみる。
真っ暗でなにも見えないが、そこからひゅうひゅうと冷たい風が吹き上げて来るのが分かった。
とりあえずここがアパートの下の階でよかった。全身でブチ抜いて落下しようものなら、確実に死ぬ。下の住人が。
これは早急に管理会社に連絡をして修理せねば。だが今はそんな時間もなく、黒鋼はイライラしつつ辺りを見回し、適当に側にあった洗濯籠で床を塞ぐと朝の準備に取り掛かった。
***
「それは災難でしたね」
窓際の席に陣取った黒鋼の目の前に、ナポリタンがどーんと盛られた大皿を置きながらユゥイが苦笑する。
彼は向かいに座ると皿を覗き込み、「これ新作なんですよ」と言った。
「ナポリタンをアレンジして、チリクラブソースを加えてるんですけど、お子様の味覚には合わなかったみたいで」
「味見すんのは別にいいけどよ、流石に多くねぇかこれ」
いつからここはデカ盛りの店になったんだ。
そりゃあこのタッパを見れば分かるように、黒鋼はその気になれば人の倍は食う。だが、この山盛りパスタは軽く5,6人分はありそうだ。
「可愛い弟には贔屓したくなるじゃないですか」
「弟? 誰が?」
眉間に皺を寄せて片目を眇める黒鋼に向かって、ユゥイはスッ……と指を指した。この男は一体なにを気色の悪いことを言っているのだろうか。
「兄の夫になる人なので、ボクの弟ってことです。兄嫁ならぬ兄夫?」
「聞いたことねぇぞそんな単語」
「いやぁ、嬉しいなぁ。ボク弟って憧れてたんですよね」
「……なんか企んでねぇか?」
「ぜんぜん?」
首を傾げてにっこり笑うユゥイは、不思議と目だけは笑っていないような気がして、思い切り胡散臭かった。
そんな人間が差し出してくる食べ物を、みすみす口に入れてしまっていいのだろうか。だが、あからさまに不審そうな顔をする黒鋼を、ユゥイは「冷めないうちに早く」と急かしてくる。
昼時で腹が減っているのは確かで、黒鋼は渋々フォークを手にするとナポリタンを口に入れた。
「思ったほど辛くはねぇな」
「でしょ?」
「いいんじゃねぇか?」
「そうですか。よかった」
じゃあメニュー入り決定ですね、とユゥイが背もたれにゆったりと背を預けたとき、店のドアベルが鳴った。
「たっだいまー! お買い物してきたー! 100円オマケしてもらったー!」
買い物籠にネギを刺したファイが元気に店に飛び込んできた。彼は窓際の席に黒鋼がいるのを見つけて、パッと目を輝かせると、ちょっと転びそうになりながら駆けてくる。
おかえり、と言うユゥイにただいまと返事をしつつ買い物袋を渡し、すぐに黒鋼の首に抱き付いた。
「黒りん来てたのー!? 会いたかったよー!!」
「昨日も会ったろ」
「オレ隣にすーわる!」
そう言って、ファイはわざわざ背後からではなく黒鋼の正面を跨いで隣の席に座ろうとした。なんて迷惑な……と思いつつ、椅子を引きながらぶつからないようにデカ盛りパスタを遠ざける。
椅子に座ったファイは黒鋼の腕にぎゅっとしがみついて、下から顔を覗き込んできた。
「お昼食べに来たのー?」
「まぁな」
「じゃあこれ食べたら会社に戻るのー?」
「午後は会議があるからな」
「そっかぁ……」
ぷぅっと唇を尖らせるファイに苦笑したユゥイが、黒鋼を見て「今夜は?」と聞いてくる。
「夕食はどうします?」
「あぁ……どうだろうな。会議の運び次第だが……今夜は難しいかもな」
「大変ですよねぇ……いちいちここに通うの」
ユゥイはなざかわざとらしく腕を組み、目を閉じてうんうんと唸っている。
「夜遅くまで仕事をして、お腹を空かせたまま誰が待つわけでもない、床が抜けた家に帰る……涙が出そうですよボクは」
「おまえ一体なにが言いてぇんだよ」
「え!? 黒たんおうち壊したの!? 凄いね! どうやって壊したの!?」
「あのな……別に倒壊させたわけじゃねぇんだぞ……」
「オレも黒たんくらい大きくなったらおうち壊せるようになる?」
「壊す必要がそもそもねぇだろ!」
そうなの? と首を傾げるファイに溜息をついて、黒鋼はとりあえずモリモリのナポリタンに再び口をつけながら考える。
今のアパートは学生時代からずっと住み続けていて、当時から相当なボロではあった。確か今年で築年数も25年になるのだったか。
面倒だという理由でずっと住み続けていたが、そろそろもう少しまともなところに引っ越しを考えてもいいのかもしれない。できれば、この近辺とか……。
するとユゥイが、絶妙なタイミングで独り言のような呟きを漏らした。
「上の階……一部屋余ってるんだよなぁ……」
「……あ?」
「物置代わりにしてるけど、なんだかんだで捨ててもいいようなガラクタばかりなんだよなぁ……」
チラリ。
「最近物騒だし、そういえば二件先のお宅に空き巣が入ったって聞いたなぁ。どこかに厳ついヤクザみたいなアル●ックさんがいてくれればなぁ」
チラリ。
「その選択を迫るようなチラ見はなんなんだよ……逆に食いつきにくいぞ」
「前より明らかにここに通う頻度も高くなってるわけですし、この際どうでしょう?」
「どうって……」
確かに引っ越しを考えようと思っていたタイミングではある。
しかもこの近辺であればなおよしだった。だが、流石に直接住み込むなんて頭はなくて、黒鋼はユゥイの申し出にただ戸惑った。
いや、家人がいいと言っているなら問題はないのだが。家探しの手間も省けるし、何より……。
黒鋼は横目で隣のファイを窺った。彼は黒鋼の飲みかけの紅茶のカップに大量の砂糖とミルクを入れて、勝手に飲んでは「ぷはー」と息を吐き出している。
ユゥイは僅かに身を乗り出すとファイの名前を呼んだ。
「ファイも、ここに黒鋼さんが一緒に住んだら嬉しいよね?」
「え? 住む……?」
ファイは目を丸くして黒鋼を見上げた。白い頬が、興奮してサッと赤く染まる。
「黒たん住むの!? 住むの!?」
「いや、それはまだ」
「黒たんここに住むの!? わぁいやったー!!」
「お、おい……」
ファイが思いっきり抱き付いてくるものだから、黒鋼は一瞬ナポリタンの皿をぶちまけそうになった。
当人がまだ戸惑いの最中にいるというのに、家人の一人であるファイは異常なまでのはしゃぎぶりを見せる。
「嬉しいー! じゃあこれからは毎日一緒にご飯食べれるんだねー!!」
「あのな、俺はまだ」
「お風呂も一緒に入ろうねー! 黒たんの背中ゴシゴシしてあげるー!」
「…………風呂、か」
「狭いから一緒に入るのは無理じゃないかな」
こ、このやろう。
悪くねぇなと流されかけていた黒鋼はギリギリと奥歯を噛み締めながらユゥイを睨み付ける。彼はどこ吹く風で「じゃあ決まりですね」と言って笑った。
物凄く強引に話が決まってしまったような気がするが、それよりも黒鋼はユゥイが漏らした安堵の溜息の方が気になった。
「てめぇ、一体なにが目的なんだよ」
「目的だなんて人聞きが悪い」
「吐け」
「…………」
こちらも有無を言わさぬ勢いで凄めば、ユゥイは肩を力なく落として疲れたような表情を見せる。
「狙われてるんですよ……その部屋」
「狙われてる? ……ああ、ひょっとするとあれか」
あの冗談が嫌いな男子高校生のことか。
「おまえらデキてるんじゃねぇのか?」
「まだですよ。いくらなんでも高校生に手を出すほど飢えてません」
まだ、と言い切るあたり、気を持たせるような真似は十分にしているような印象を受けるが。
「と、とにかく。このままだといつ大荷物を抱えて乗り込んでくるか、分からない勢いなんです。だから防犯の意味でもお願いします」
「人をセ●ム扱いすんなよ……」
ついでに将来の恋人候補を犯罪者予備軍扱いするのもやめてやれ……。
てっきり前進したと思っていたら、その場で足踏みをしていただけの少年を多少気の毒に思いつつ、諦めたような息を漏らす黒鋼だったが、次の瞬間、
「黒たん、一緒のベッドに寝ようねー!!」
というファイの無邪気な提案に派手に吹き出した。そんな黒鋼を見たユゥイはどこか冷やかに「ムッツリだなぁ……」と呟くのだった。
***
「黒たん待ってー!!」
特盛ナポリタンをどうにか胃袋に押し込んでから店を出た黒鋼は、商店街の出口付近で呼び止められ、足を止めた。
振り返れば、ファイが懸命に駆けてくる様子が見える。
「なんだ、追いかけてきたのか?」
「はーっ、よかった、間に合ったー!」
僅かに首を傾げる黒鋼に、大きく深呼吸して息を整えたファイは「うん」と頷きながら俯いた。
どうしたのかと彼の言葉を黙って待ち続けていると、ファイは黒いパンツの後ろポケットからあるものを取り出し、黒鋼に差し出してきた。
「これ、あげる」
それは、小さな黒わんの編みぐるみだった。
星空のテラスで思いを通じ合わせてから、ファイが帰り際に黒わんを手渡してくることはなくなっていた。
もう必要ないということは何度も言って聞かせてたし、彼も納得したはずだが。
「あのな、これはもう」
「うぅん違うの。ほら、ちゃんとマフラーしてるでしょ?」
確かに、その黒わんは以前のように裸ではなかった。小さな赤いマフラーをして、吊り上がっていた目も前に比べると少しだけ柔らかな印象を受ける。
黒鋼はそれを受け取ると、再びファイを見やった。
「ちゃんとしたの……一回もあげてなかったから。それ、黒たんにあげる」
「このためにわざわざ?」
「ユゥイがいるとこで渡すの、なんか恥ずかしかったの……」
恥じらうファイに小さく笑って、黒鋼は指で黒わんを優しく包み込む。
「あのね、それ、今までで一番上手にできたの。あとね、その、背中にね……」
「背中?」
うん、と頷くファイの赤い頬を見て、黒鋼はすぐに黒わんを引っくり返した。そこにあるものを見て、黒鋼もつい、顔が熱くなるのを感じる。
黒わんの背中には、ハート型に切り取られた赤いフェルトが縫い付けられていた。
ファイはもじもじと、胸元にぶら下がるオルゴールのペンダントを弄ぶ。それから、恥ずかしそうに上目使いで見上げてきた。
「ハート、もらってくれる……?」
こんちくしょう、と、黒鋼は思う。
赤い顔をして向かい合う二人の横を、シルバーカーを引く老人がゆっくりと横切って行った。遠くから青果店の肝っ玉熟女が客引きをする声が聞こえ、定食屋から出てきた親父が派手にクシャミをする。
豆腐屋のシャッターが開かれる音、蕎麦屋の出前が乗るバイクの排気音。井戸端会議に興じる奥様方の笑い声。
こんな場所じゃあ、抱きしめてキスをすることもできやしない。
「黒たん……?」
「あたりめぇだろ」
そう言って、黒鋼はその華奢な肩を掴んで引き寄せると、耳元に口を寄せる。
「今夜、遅くなっても必ず行く」
「え……?」
「待ってろよ」
ゆっくりと離れた黒鋼に、ファイはどこか潤んだ瞳でふにゃりと笑う。誰よりも眩しくて、誰よりも可愛い、甘い甘い、砂糖菓子のように。
燦々と降り注ぐ陽光。春を目の前に控えた、青い空。
きっと今夜も晴れるから。
「待ってる」
あの満天の星空の下、箱庭のような、小さなテラスで。
END
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あれから数日。
どうにか仕事から解放される目途が経った頃、黒鋼はユゥイに連絡を取った。
ファイの体調や、どんな様子でいるのかも知りたかったし、こちらの都合だけで突然店に顔を出せば、また怯えさせるかもしれない。だから次に店に行く日時を伝えるためにも、休憩の合間を見て携帯に電話をかけた。
すると、てっきりユゥイが応じるとばかり思っていた電話に出たのはファイ本人だった。
「具合はどうだ?」
意外に感じつつ送話口に向かって問いかけると、ファイがまだ少し沈んだ様子で「うん」と返事をした。
「無理すんなよ。病院は行ったか?」
『うぅん平気。あのね、オレ病気じゃないの。お医者さんじゃダメなの』
「?」
『くろがねさん』
よく知る声で、名前を呼ばれた。
自分の名前。けれど、まるで赤の他人の名前のように聞こえる。
「今、俺を呼んだのか?」
『……くろがねさん。あのね、お話、したいの』
「……それは構わねぇが」
『今じゃないの。会って話す。大事なことだから』
いつ帰る? という問いかけのあと、ファイは『明日?』とは聞かなかった。
彼にさらなる変化があったことは明白で、それがなんであるか黒鋼には予想もつかない。ただ、ファイが黒鋼の名前を呼んだ。黒わんではなく、黒鋼、と。
(なんだってんだよ……)
嫌な焦りが込み上げる。
いや、喪失感だろうか。自分の名前を正確に呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも重たい気分になるのだろう。
だが、ファイはこの場でその胸のうちを明かす気はないようだった。
「明後日には行く。そのまま行くから夜になるが……」
『わかった。待ってるね』
通話はたったそれだけで終わった。
***
はっきり言ってほとんど仕事にならなかった。
オンとオフの切り替えは極端すぎるほど徹底しているつもりでいたが、気づくとファイとの会話を思い出してはもやもやとした気持ちになった。
とはいえ仕事に私情を挟むなんて真似はできない。雑念を必死で振り払い、全ての仕事を終えた黒鋼は、職場ビルを出たその足ですぐに猫の目に向かった。
数日ぶりに店を訪れたとき、時計の針はちょうど夜の8時を指していた。
「おかえりなさい」
いつものようにカウンターの奥にいるユゥイが、皿を拭きながら顔を上げて笑う。
黒鋼はムッツリとした表情で「おう」と低く応じて、すぐに店内を見回した。
雑貨スペースのある、店の奥。テラスへと続くガラス張りのドアが半分だけ開いていて、ファイはこの寒空の下、いつもの席に座って背中を向けている。
「なにやってんだあいつ」
「あそこで待つって聞かないんですよ。一応コートの下には目一杯カイロを貼ってるんですけどね」
「そこまでして一体なにがあるってんだ」
「さぁーて……あ、ボクちょっと通りの看板下げてきますね」
そう言いながら、ユゥイはなぜか蝶ネクタイと腰のエプロンを外し、ベストを脱ぐとカウンターテーブルに適当に放った。そして、ファイと色違いの黒いコートを羽織って店を出て行こうとする。
「てめぇこら、ちょっと看板下げに行く格好じゃねぇだろ」
「多分また捕まるんで。熟女に」
「……あの双子の兄貴の方がそこの角にいたぞ。デートか」
「あれ、駅で待ち合わせたんだけどなぁ」
こいつらいつの間に……と、ここ数日モヤモヤしながら過ごしていた自分とのギャップに腹が立ってくる。
「じゃ、あとはよろしくお願いします」
そう言って、ユゥイは飄々とした様子で黒鋼に手を振ると、店を出て行ってしまう。あれだけゲンナリしながらあしらわれていたのに、あの小僧(兄)は一体どんな手を使ったんだ……。
確実に前進しているらしい彼らに比べ、後退の気配をひしひしと感じている黒鋼は、テラスに目をやるとなんとなく咳払いをして、それから一歩足を踏み出す。
(思い出すな)
初めて店に来た日のことを。
どんな気難しい人間なのかと身構えながら、黒鋼はこうしてテラスに向かった。
あの頃はこの店自体がえらく居心地が悪くて、自分が住む世界とは遠くかけ離れた空間のように思えた。仕事でもない限り、絶対に来ることはないだろうと。
それがなぜか、あの中身と見た目がまるきり異なる男に懐かれ、いつの間にか絆されていた。あれに好かれることが心地よくなるにつれ、この店そのものが黒鋼にとってかけがえのない場所になっていった。
多分、もう絶対に手放せない。だけど。
今日で何かが変わる。
そんな気がしていた。ファイが黒鋼の名を呼んだときから。あの瞬間から、黒鋼は黒わんとしての役目を終えたのだと思う。
なら、今から彼の前に立つ自分は、どんな姿形をしているのだろうか。
自分に都合のいい想像をするのは簡単だった。だが、心のどこかでは傷つかないための準備もしている。どうせ子供の気まぐれだったのだと、少しの間、付き合ってやっただけなのだと。
それでももしまだ間に合うなら、黒鋼には彼に伝えたい言葉が沢山ある。もしファイにとって自分の存在が不要になったのだとしても、黒鋼には、必要だった。
黒鋼はいつになく緊張している自分に気づいて、ゆっくりと震える息を吐き出した。
そのとき、音が聞こえた。
オルゴールが奏でるその曲は、ファイと初めてあったとき、彼が口ずさんでいたものだった。
黒鋼がテラスへと足を踏み入れた瞬間、飛び込んできた冬の夜空は星で溢れかえっていた。星に願いを込めたことなんかない。それでも、願わずにはいられない。
光が欲しい。ただひとつ、目の前の光が。
「風邪ひくぞ」
そう声をかけると、ファイはビクンと肩を震わせた。
黒鋼は、振り向くことなく俯く彼の隣の椅子に腰かける。店内から漏れる灯りと、満点の星空から降り注ぐ微かな光の中、ファイは首から下げたペンダントをしっかりと握りしめていた。
黒鋼は何も言わずに俯くファイに、「寒いな」と何気ない言葉をかけながら白い息を吐き出した。自分もカイロの一つくらい仕込んでくるべきだったろうか。
ファイは小さく「うん」と頷いた。そして、オルゴールが奏でるメロディだけが辺りに響き渡る。
何をしているんだと、黒鋼は胸の内で自身を叱咤した。ここに来ると言ったのは自分で、話があると言ったのはファイだ。互いがどう切り出せばいいか分からない状況の中、先に動かねばならないのは自分の方だった。
「なぁ」
「あの」
「…………」
「…………」
「なんだ」
「あ……んと……いいよ、オレは、後でも……」
ファイの方が引いたところで、オルゴールが止んだ。彼が切り出そうとした内容は気になるが、黒鋼はまず先に自分の思いを言葉に乗せる。
「悪かった。カレー、食いに来れなくてよ」
「……うぅん」
「俺は……」
おまえに会いたかったのだと、そう伝えようとしたところで、ずっと俯いていたファイが顔を上げる。不安そうに見上げてくる潤んだ瞳に、あの日のような星の瞬きはなかった。
燦々と輝く光の道で、彼はあんなにも煌めいていたのに。
『すごいすごーい! とってもキレイー!』
『黒わんと見れて、すごく嬉しい』
『おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー』
『ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!』
柔らかな声が蘇る。眩しくて、胸が締め付けられるくらいに無邪気な笑顔が。
今、彼の表情をこんな風に曇らせているのは他の誰でもない、黒鋼自身だ。
誰よりも大切にしたいと思った相手に。何よりも愛しいと感じた相手に。そう思わせてくれた存在に。今の今まで、何一つ伝えずにいたなんて。
黒鋼は知らぬ間に力んでいた肩から緊張を解いた。何も難しいことなんか、ないじゃないかと。
「俺は、おまえの笑ってる顔が好きだ」
「……くろ」
「おまえの声も、目も、髪も、すぐ泣いちまうところも」
「…………」
「全部、好きだ」
ファイは大きく目を見開いた。星空の下で、白い頬がほんのりと薄桃に染まる。
黒鋼の言う『好き』を、幼い彼は理解できないかもしれない。だけどそれでもよかった。黒鋼はファイが好きだ。誰よりも大切だ。その感情に嘘偽りがないことだけでも、伝わってほしい。
黒鋼が真っ直ぐにファイの目を見据えていると、彼はどこか落ち着かない様子で幾度か目を泳がせ、俯いた。
「……あ、あのね」
「おう」
「くろがねさん、も……ドキドキする?」
「……?」
「オレ……オレね、くろがねさんといると、ここがドキドキする」
そう言って、ファイはペンダントがぶら下がる自分の胸に手の平を這わせた。
「きゅってなって、苦しくなる……でも、すごく嬉しくて……恥ずかしくて……泣きそうになる……」
だけど、と続けて、ファイは辛そうな顔で再び黒鋼を見上げた。
「くろがねさんが、もし消えちゃったらどうしようって、いなくなっちゃったらどうしようって……もう来てくれなくなったらって……そう考えたら、オレ……」
ファイの頬に涙が伝った。星灯りの下で、それはキラリと小さく煌めく。
胸の中で燻っていた感情が、一気に熱く爆ぜるような気がした。堪らない気持ちになった黒鋼は、ぐっと奥歯を噛み締めると、華奢な身体を思い切り引き寄せる。その拍子に互いの椅子がガタンと音を立てて揺らぎ、体勢を崩す直前で両足で踏ん張ると、彼を抱きすくめるようにしながら立ち上がった。
案の定、椅子は二つとも音を立ててひっくり返る。それでも、黒鋼の意識は腕の中の温もりにだけ、注がれていた。
「く、くろが……ッ」
「おまえ、ちゃんと分かってんだな」
「ぇ……?」
「どうすんだよ。マジで離せなくなっちまった」
ファイの身体が熱い。一体どれほどカイロを仕込んでいるんだと思うと、声を上げて笑いたくなる。
黒鋼は少しだけ二人の間に隙間を作ると、戸惑いがちに肩に這わされていた手を取り、前を開いた状態のジャケットの中にそれを引き込んだ。ワイシャツの上から自分の胸の中心に触れさせて、ファイの瞳を覗き込む。
「どうなってる?」
「ドキドキ、してる……」
「おまえと一緒だな」
「……苦しい?」
「ああ」
息ができないくらいに。
ファイはやっぱり泣いてしまった。金色の睫毛に縁どられた青い瞳から透明な雫を幾つも溢れさせる。
黒鋼は親指でその目元をなぞり、熱い頬の感触を確かめると微かに笑った。
「あんま泣くなよ。ふやけちまうぞ」
「だ、って……だって……もう、嫌われちゃったと、思ってたから……ッ」
「んなわけねぇだろ」
「じゃあ……どこにも行かない……?」
「行かねぇよ」
「急にいなくなったり、しない……?」
「しねぇ」
「オレのこと……」
置いてったりしない?
その言葉を、黒鋼は唇を塞ぐことで飲み込ませた。
何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返していると、腕の中で強張っていた身体からすっかり力が抜ける。
ファイは顔を可哀想なくらい真っ赤にして、くったりと黒鋼の肩に額を預けると「ふわぁ~……」とおかしな声を上げた。
「だからなんなんだよ、その反応は」
「あ、あつくて……ふわふわ、しちゃうんだもん~……」
呼吸の隙は十分に与えていたはずだが、ファイはずっと息を止めていたようだった。ぐったりしながらはかはかと肩を上下させている。
息継ぎのタイミングをこれから教えていかなければと考えつつ、黒鋼はファイの耳元に唇を押し付けた。
「いいか、よく聞いとけよ」
「ん……」
「俺は、俺がおまえに会いてぇからここに来てる。だからもう、約束なんて関係ねぇ」
ファイが泣きながら裸の黒わんを手渡してくる瞬間が好きだった。恥ずかしそうに、新しい黒わんを預けてくる瞬間も。だけど、そんな我儘はもう終わりだ。
正直、叫び出したいほど照れ臭い。だけど恥ずかしがってもいられない。ここまで言ってもまだ不安になるのなら、その度に何度でも言ってやるから。
「ずっと、おまえの側にいる」
ファイは頷いて、何度も「嬉しい」と言った。嬉しくて、苦しいと。黒鋼だって同じだ。愛しくて、狂おしい。
ファイは黒鋼の肩から恥ずかしそうに顔を上げると、しがみついてくる腕の力をいっそう強めた。そして言った。
「くろがねさん、大好き」
その額に唇を押し付けて、黒鋼も囁くような吐息混じりの声で同じ想いを返した。
でもひとつだけ、腑に落ちない点がある。
「その、黒鋼さんってのやめねぇか?」
「どうして?」
「落ち着かねぇっつうかな」
ファイは不思議そうに小首を傾げた。
「だって……くろがねさんは黒わんじゃないよ?」
「まぁ……そうなんだけどな」
彼が理解してくれたのは嬉しい。黒鋼が黒わんの勤めを終えたとき、彼の目に映っていたのは自分という一人の人間だったことは喜ばしいことだ。
だけど落ち着かない。どうも居心地が悪いような、尻の座りが悪いような。
顔を顰める黒鋼に、ファイはパチパチと瞬きを繰り返した。それから、「んー」と視線だけ満天の夜空に向け、すぐに何か思いついたようにパッと表情を明るくする。
「じゃあ、黒たんだ」
「……たん、か」
「黒ぽんの方がいい?」
「どっちもどっちだが……まぁ……」
悪くねぇかと、そう言って笑ってやるとファイはあの黒鋼が大好きな、溶けた砂糖菓子のような情けない笑顔を見せた。
***
月は消えていた。
いつだって強い光で花畑を照らしていたはずの月が。
名も知らぬ白い花が咲き乱れる丘は暗く、風だけが温く吹きぬけていた。
その中央にぽつんと佇んでいるファイは、月さえも消え去ってしまった世界に取り残されている。
「黒わん……」
親友の名を呼ぶ声は、幼く甲高いものではなかった。
ファイは薄ぼんやりとした空間で、僅かに右腕を浮かせる。すらりと伸びたその腕は、華奢ではあるが大人の男のものだった。
まるで自分の身体じゃないような気がした。ここでファイはずっと母親とユゥイと三人で暮らしていた頃と同じ、小さな子供のまま過ごしていたから。大きくなった身体も、低くなった声も、変わってしまったこの世界も。実感が湧かない。
茫然としたままでいるファイは、ふと自分以外の気配を感じて顔を上げる。
後ろからゆっくりと近づくそれは、草を掻き分けるようにして足音を立てていた。
振り返ると、ずっと会いたかった『親友』の姿があった。
「黒わん……!」
ファイは彼に向かって駆け出した。赤いマフラーをした、黒いオオカミのような犬。そのふかふかの身体に、膝をついて両手を伸ばす。
『なんだよおまえ、まだこんなとこにいたのか』
「黒わん……黒わん……会いたかった……!」
ファイは泣きじゃくり、強く黒わんを抱きしめた。黒わんは大きな姿になってもやっぱり泣き虫のままでいるファイの背中を、ポンポンと優しく叩く。
会いたかった。ずっと会いたかった。もう二度と会えないかと思った。
だけど彼はちゃんと戻ってきてくれた。でも。
「黒わんて、こんなにちっちゃかったんだね」
腕の中にすっぽりと納まってしまうくらい、小さな黒わん。同じ目線で過ごしたはずなのに、まるで小さな子供を抱きしめているような気分だった。
黒わんは少しムッとして、吊り上がった目をさらに吊り上げる。
『おれはチビじゃねぇ。おまえがでっかくなったんだ。おれよりちっこかったくせに』
「そんなことないよー。おんなじくらいだったよー」
『いいや、おまえの方がチビだった』
「むー、なんか黒わんイジワルー」
ファイが唇を尖らせると、黒わんが笑った。だからファイも、声を上げて笑った。
「黒鋼さんって名前なんだ」
二人で並んで座り込み、真っ暗な空を見上げながら、ファイは黒わんに黒鋼の話をした。
ファイにとっての黒わんは今こうして隣にいる黒わんだけだから。だからあえて渾名ではなく、『黒鋼』と呼ぶ。
「大きくて、黒いツンツン頭でね、少し怖い顔してるの。黒わんにそっくりだったから、最初は黒わんだーって思っちゃったんだ」
『そんなに似てるのか?』
「うん。そっくり。だって黒わんと同じくらい優しいし、ぎゅってしてくれるもん」
あ、そうだ。そう言って、ファイは首にぶら下がるオルゴールのペンダントを黒わんに見せた。
「これね、音が鳴るんだ」
ネジを巻くと、可愛らしい音色が薄闇の空間に優しく響き渡った。
『ほしにねがいを、だな』
「うん。くれたの。黒鋼さんが」
ファイは木製のペンダントを愛しげに見つめ、その表面をそっと撫でる。
一度は床に投げつけてしまったけれど、どこにも傷がつかなくてよかった。大切にするって、約束したから。
ファイの横顔をじっと見つめて、黒わんは『いいやつだな』と言った。
「うん。いい人だよ」
『とくべつか?』
「うん。特別」
『おまえだけのひとなんだな』
「うん……オレだけの人」
『そうか』
ファイは目を閉じると、音の鳴りやんだペンダントをそっと胸に抱きしめる。
そして黒わんを見るとふわりと笑った。
「君もね」
『…………』
「君も、オレだけの友達だよ。オレの、一番の親友」
ファイは黒わんを抱き寄せると、身を屈めてそのピンと尖った耳にキスをした。そのまま柔らかな毛の感触を頬で確かめる。
胸が痛かった。少しだけ泣きたいような気がした。でも、涙は出なかった。
「どこにも行かないでって、そう言いたいけど。多分、お別れだね」
『ああ。おれの役目は、もうおわったからな』
「ありがとう、黒わん」
ずっと守ってくれた。
悲しいときも、嬉しいときも、いつもここにいてくれた。話を聞いて、優しく抱きしめてくれた。
今のファイは知っている。これはファイの夢の世界。この黒わんは、ただ自分の幼い心を守るためだけに作りだした、幻想だということ。
だけど温かかった。まるで現実のように。だから黒わんはここにいる。確かにいる。ファイだけの、大切な『親友』だ。
寂しいのは、大好きだから。
別れを恐れてはいけない。この温もりを手放してでも、ファイは殻を破らなくてはいけない。怖くても、先へ進まなくてはいけない。たとえどんなに幸せな過去があったとしても。美しい思い出と引き換えにしても。
同じ時間の中で、愛しい人と生きていくことを決めたから。
そのとき、寄り添う二人の頭上が一瞬、光った。揃って見上げた空に、一筋の星が走り抜ける。
「流れ星……?」
ファイは立ち上がると、その場から数歩前に進んだ。そして次から次へと流れる光の筋に目を輝かせる。
「こんなにたくさん……」
やがて空は眩い光に包まれる。星たちは、本当はずっとこの空にあった。月の光があまりにも強すぎて、ただ隠されていただけで。
ずっとずっと、ここにあった。
「黒わん、何かお願いごとしたら、きっと叶うよ!」
振り向くと、そこに黒わんはいなかった。
辺りを見回すと、ファイの数メートル先に佇む黒わんがいる。伸ばしかけた手を、ファイはぐっと堪えることで握りしめた。
「黒わん……」
『おれの願いは、もうかなったからいい』
「何を……お願いしたの?」
『おまえと、おなじだ』
黒わんは空を見上げた。同じように、ファイもキラキラと流れゆく満天の星空を見上げる。
『だれかの願いがかなったから、星がながれるんだ』
星の瞬きがあまりにも綺麗で、ファイは小さく微笑みながら一筋の涙を流した。
願うための光ではなく、願ったからこそ、星が駆け抜ける。一瞬の強い光を放ちながら。
「さよなら、黒わん」
ありがとう。
***
目が覚めて、ゆっくりと起き上がったファイは片方だけ濡れている頬をそっと指先で拭った。
幾度か瞬きをしてから、枕元を見やって行儀よく座っている黒わんのぬいぐるみを手に取る。向かい合うように膝に座らせて、直したばかりの耳をそっと撫でた。
こんなに穏やかな気持ちで目覚めたのは久しぶりだ。昨日までのファイは目が覚めるとただ悲しいばかりで、頬がぐしゃぐしゃになるくらい涙を流していたから。
「おはよ、黒わん」
額にそっとキスをして、ファイは微笑んだ。
まだ少しだけ、腕の中に抱きしめた黒わんの感触が残っているような気がした。たくさんの星が流れる空の下、最後のお別れをするために戻ってきてくれた親友。
彼の願いもファイの願いも、あの星々の中で光り輝いた。
同じ願い。それは、大好きな人とずっと一緒にいること。
だからあれは別れじゃない。
だって黒わんは、こうしてファイの腕の中にいるのだから。
もう話すことはできないし、これからも針と糸を通すことになるけれど。
「ずっとここにいたんだよね、君は」
ファイは黒わんをぎゅっと胸に抱きしめたあと、再びそっと枕元に座らせる。
そして、床に目を向けた。
絨毯の上に敷かれた布団で、どこか窮屈そうに背中を丸めて眠る人。ファイは「ふふふ」と笑うと、ベッドから降りて彼の上に思いっきり乗り上げた。
「おはよー黒たん! 朝だよ起きてー!」
「うお!? な、なんだ、なんだおまえは!」
「朝だよぉ! いつまで寝てるのー!」
「元気だな……」
大きな溜息をついて起き上がった黒鋼は、膝に乗ったままのファイの前髪をくしゃりと撫でた。
昨夜テラスで思いを打ち明け合ったあと、二人は長いことずっと夜空を見上げながら話をしていた。黒鋼が普段どんな仕事をしているのか、どうして時々遠くへ行かなくてはいけないのか、どんな会社で、どんな家に住んでいるのか。ファイは母親が生きていた頃にユゥイと三人で過ごした思い出や、どうやって黒わんと出会ったのか、そしてそのあと、どんなふうに施設で暮らしたのかを話した。
黒鋼は施設での話をすでに知っている様子だった。ユゥイから聞いていたのかもしれない。ずっと苦しそうに目を細め、ファイの手を強く握っていてくれた。
お互いのことを話しているうち、ユゥイが帰って来た。なぜか小龍もいて、そのあと四人で晩御飯を食べた。
そしてあのクリスマスの夜のように、終電を逃した黒鋼はそのままこの部屋に泊まったのだった。
しばらくは黒鋼に髪をわしゃわしゃと撫でられて声を上げて笑っていたファイだったが、その腕を掴んで押し戻しながら唇を尖らせる。
「また黒たんと夜中にお喋りできなかったよー」
「夜は寝るもんだ。しょうがねぇだろ」
「たまには夜更かししたいもん……起こしてくれればいいのに……」
「わざわざ起こすこともねぇだろ……つうか、寝ててもらわねぇと困る」
「なんでー?」
キョトンとした表情で小首を傾げると、なぜか黒鋼はそっぽを向いて咳払いをした。
「黒たん?」
「うるせぇな。ガキはとっとと寝るもんなんだよ」
「オレ、ガキじゃないよ! 大人だよ!」
だから困るんだろうが……と、悪人のような顔で目を逸らす黒鋼に、ファイはむぅーっと頬を膨らませる。黒鋼の言ってることは、まだ自分には難しいことなんだろうか。
「いいよー! あとでユゥイに聞くからー!」
「バカ野郎! それはやめとけ! そんなもん家族に聞いたって気まずくなるだけだぞ!」
「もー! またよく分かんないこと言うー! じゃあちゃんと教えてよー!」
「…………そのうちな」
「そのうちって明日?」
「阿呆」
黒鋼に額をペシッと叩かれて、ファイはますますふくれっ面をした。これは二人のことなのに、黒鋼だけが知っていて自分には分からないなんて、なんだかズルい。
すっかり不貞腐れてしまったファイの顔に、明後日の方向を向いている黒鋼がチラリと視線を寄越す。そして、指先で顎を持ち上げてきた瞬間、尖っていた唇にキスをされた。
「ッ……!」
ファイは一瞬で頬を赤らめる。頭の天辺から湯気が上がりそうだ。胸の内側で心臓がドンドンと忙しなく暴れ出して、息ができなくなる。
「う~~……」
「これで機嫌直せ」
「急にチュウするの、禁止だよぉ……」
熱くて苦しくて、そして恥ずかしくて。
骨抜き状態でくったりと広い胸板に身を預けるファイを、黒鋼は小さく笑うと抱きしめた。
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どうにか仕事から解放される目途が経った頃、黒鋼はユゥイに連絡を取った。
ファイの体調や、どんな様子でいるのかも知りたかったし、こちらの都合だけで突然店に顔を出せば、また怯えさせるかもしれない。だから次に店に行く日時を伝えるためにも、休憩の合間を見て携帯に電話をかけた。
すると、てっきりユゥイが応じるとばかり思っていた電話に出たのはファイ本人だった。
「具合はどうだ?」
意外に感じつつ送話口に向かって問いかけると、ファイがまだ少し沈んだ様子で「うん」と返事をした。
「無理すんなよ。病院は行ったか?」
『うぅん平気。あのね、オレ病気じゃないの。お医者さんじゃダメなの』
「?」
『くろがねさん』
よく知る声で、名前を呼ばれた。
自分の名前。けれど、まるで赤の他人の名前のように聞こえる。
「今、俺を呼んだのか?」
『……くろがねさん。あのね、お話、したいの』
「……それは構わねぇが」
『今じゃないの。会って話す。大事なことだから』
いつ帰る? という問いかけのあと、ファイは『明日?』とは聞かなかった。
彼にさらなる変化があったことは明白で、それがなんであるか黒鋼には予想もつかない。ただ、ファイが黒鋼の名前を呼んだ。黒わんではなく、黒鋼、と。
(なんだってんだよ……)
嫌な焦りが込み上げる。
いや、喪失感だろうか。自分の名前を正確に呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも重たい気分になるのだろう。
だが、ファイはこの場でその胸のうちを明かす気はないようだった。
「明後日には行く。そのまま行くから夜になるが……」
『わかった。待ってるね』
通話はたったそれだけで終わった。
***
はっきり言ってほとんど仕事にならなかった。
オンとオフの切り替えは極端すぎるほど徹底しているつもりでいたが、気づくとファイとの会話を思い出してはもやもやとした気持ちになった。
とはいえ仕事に私情を挟むなんて真似はできない。雑念を必死で振り払い、全ての仕事を終えた黒鋼は、職場ビルを出たその足ですぐに猫の目に向かった。
数日ぶりに店を訪れたとき、時計の針はちょうど夜の8時を指していた。
「おかえりなさい」
いつものようにカウンターの奥にいるユゥイが、皿を拭きながら顔を上げて笑う。
黒鋼はムッツリとした表情で「おう」と低く応じて、すぐに店内を見回した。
雑貨スペースのある、店の奥。テラスへと続くガラス張りのドアが半分だけ開いていて、ファイはこの寒空の下、いつもの席に座って背中を向けている。
「なにやってんだあいつ」
「あそこで待つって聞かないんですよ。一応コートの下には目一杯カイロを貼ってるんですけどね」
「そこまでして一体なにがあるってんだ」
「さぁーて……あ、ボクちょっと通りの看板下げてきますね」
そう言いながら、ユゥイはなぜか蝶ネクタイと腰のエプロンを外し、ベストを脱ぐとカウンターテーブルに適当に放った。そして、ファイと色違いの黒いコートを羽織って店を出て行こうとする。
「てめぇこら、ちょっと看板下げに行く格好じゃねぇだろ」
「多分また捕まるんで。熟女に」
「……あの双子の兄貴の方がそこの角にいたぞ。デートか」
「あれ、駅で待ち合わせたんだけどなぁ」
こいつらいつの間に……と、ここ数日モヤモヤしながら過ごしていた自分とのギャップに腹が立ってくる。
「じゃ、あとはよろしくお願いします」
そう言って、ユゥイは飄々とした様子で黒鋼に手を振ると、店を出て行ってしまう。あれだけゲンナリしながらあしらわれていたのに、あの小僧(兄)は一体どんな手を使ったんだ……。
確実に前進しているらしい彼らに比べ、後退の気配をひしひしと感じている黒鋼は、テラスに目をやるとなんとなく咳払いをして、それから一歩足を踏み出す。
(思い出すな)
初めて店に来た日のことを。
どんな気難しい人間なのかと身構えながら、黒鋼はこうしてテラスに向かった。
あの頃はこの店自体がえらく居心地が悪くて、自分が住む世界とは遠くかけ離れた空間のように思えた。仕事でもない限り、絶対に来ることはないだろうと。
それがなぜか、あの中身と見た目がまるきり異なる男に懐かれ、いつの間にか絆されていた。あれに好かれることが心地よくなるにつれ、この店そのものが黒鋼にとってかけがえのない場所になっていった。
多分、もう絶対に手放せない。だけど。
今日で何かが変わる。
そんな気がしていた。ファイが黒鋼の名を呼んだときから。あの瞬間から、黒鋼は黒わんとしての役目を終えたのだと思う。
なら、今から彼の前に立つ自分は、どんな姿形をしているのだろうか。
自分に都合のいい想像をするのは簡単だった。だが、心のどこかでは傷つかないための準備もしている。どうせ子供の気まぐれだったのだと、少しの間、付き合ってやっただけなのだと。
それでももしまだ間に合うなら、黒鋼には彼に伝えたい言葉が沢山ある。もしファイにとって自分の存在が不要になったのだとしても、黒鋼には、必要だった。
黒鋼はいつになく緊張している自分に気づいて、ゆっくりと震える息を吐き出した。
そのとき、音が聞こえた。
オルゴールが奏でるその曲は、ファイと初めてあったとき、彼が口ずさんでいたものだった。
黒鋼がテラスへと足を踏み入れた瞬間、飛び込んできた冬の夜空は星で溢れかえっていた。星に願いを込めたことなんかない。それでも、願わずにはいられない。
光が欲しい。ただひとつ、目の前の光が。
「風邪ひくぞ」
そう声をかけると、ファイはビクンと肩を震わせた。
黒鋼は、振り向くことなく俯く彼の隣の椅子に腰かける。店内から漏れる灯りと、満点の星空から降り注ぐ微かな光の中、ファイは首から下げたペンダントをしっかりと握りしめていた。
黒鋼は何も言わずに俯くファイに、「寒いな」と何気ない言葉をかけながら白い息を吐き出した。自分もカイロの一つくらい仕込んでくるべきだったろうか。
ファイは小さく「うん」と頷いた。そして、オルゴールが奏でるメロディだけが辺りに響き渡る。
何をしているんだと、黒鋼は胸の内で自身を叱咤した。ここに来ると言ったのは自分で、話があると言ったのはファイだ。互いがどう切り出せばいいか分からない状況の中、先に動かねばならないのは自分の方だった。
「なぁ」
「あの」
「…………」
「…………」
「なんだ」
「あ……んと……いいよ、オレは、後でも……」
ファイの方が引いたところで、オルゴールが止んだ。彼が切り出そうとした内容は気になるが、黒鋼はまず先に自分の思いを言葉に乗せる。
「悪かった。カレー、食いに来れなくてよ」
「……うぅん」
「俺は……」
おまえに会いたかったのだと、そう伝えようとしたところで、ずっと俯いていたファイが顔を上げる。不安そうに見上げてくる潤んだ瞳に、あの日のような星の瞬きはなかった。
燦々と輝く光の道で、彼はあんなにも煌めいていたのに。
『すごいすごーい! とってもキレイー!』
『黒わんと見れて、すごく嬉しい』
『おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー』
『ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!』
柔らかな声が蘇る。眩しくて、胸が締め付けられるくらいに無邪気な笑顔が。
今、彼の表情をこんな風に曇らせているのは他の誰でもない、黒鋼自身だ。
誰よりも大切にしたいと思った相手に。何よりも愛しいと感じた相手に。そう思わせてくれた存在に。今の今まで、何一つ伝えずにいたなんて。
黒鋼は知らぬ間に力んでいた肩から緊張を解いた。何も難しいことなんか、ないじゃないかと。
「俺は、おまえの笑ってる顔が好きだ」
「……くろ」
「おまえの声も、目も、髪も、すぐ泣いちまうところも」
「…………」
「全部、好きだ」
ファイは大きく目を見開いた。星空の下で、白い頬がほんのりと薄桃に染まる。
黒鋼の言う『好き』を、幼い彼は理解できないかもしれない。だけどそれでもよかった。黒鋼はファイが好きだ。誰よりも大切だ。その感情に嘘偽りがないことだけでも、伝わってほしい。
黒鋼が真っ直ぐにファイの目を見据えていると、彼はどこか落ち着かない様子で幾度か目を泳がせ、俯いた。
「……あ、あのね」
「おう」
「くろがねさん、も……ドキドキする?」
「……?」
「オレ……オレね、くろがねさんといると、ここがドキドキする」
そう言って、ファイはペンダントがぶら下がる自分の胸に手の平を這わせた。
「きゅってなって、苦しくなる……でも、すごく嬉しくて……恥ずかしくて……泣きそうになる……」
だけど、と続けて、ファイは辛そうな顔で再び黒鋼を見上げた。
「くろがねさんが、もし消えちゃったらどうしようって、いなくなっちゃったらどうしようって……もう来てくれなくなったらって……そう考えたら、オレ……」
ファイの頬に涙が伝った。星灯りの下で、それはキラリと小さく煌めく。
胸の中で燻っていた感情が、一気に熱く爆ぜるような気がした。堪らない気持ちになった黒鋼は、ぐっと奥歯を噛み締めると、華奢な身体を思い切り引き寄せる。その拍子に互いの椅子がガタンと音を立てて揺らぎ、体勢を崩す直前で両足で踏ん張ると、彼を抱きすくめるようにしながら立ち上がった。
案の定、椅子は二つとも音を立ててひっくり返る。それでも、黒鋼の意識は腕の中の温もりにだけ、注がれていた。
「く、くろが……ッ」
「おまえ、ちゃんと分かってんだな」
「ぇ……?」
「どうすんだよ。マジで離せなくなっちまった」
ファイの身体が熱い。一体どれほどカイロを仕込んでいるんだと思うと、声を上げて笑いたくなる。
黒鋼は少しだけ二人の間に隙間を作ると、戸惑いがちに肩に這わされていた手を取り、前を開いた状態のジャケットの中にそれを引き込んだ。ワイシャツの上から自分の胸の中心に触れさせて、ファイの瞳を覗き込む。
「どうなってる?」
「ドキドキ、してる……」
「おまえと一緒だな」
「……苦しい?」
「ああ」
息ができないくらいに。
ファイはやっぱり泣いてしまった。金色の睫毛に縁どられた青い瞳から透明な雫を幾つも溢れさせる。
黒鋼は親指でその目元をなぞり、熱い頬の感触を確かめると微かに笑った。
「あんま泣くなよ。ふやけちまうぞ」
「だ、って……だって……もう、嫌われちゃったと、思ってたから……ッ」
「んなわけねぇだろ」
「じゃあ……どこにも行かない……?」
「行かねぇよ」
「急にいなくなったり、しない……?」
「しねぇ」
「オレのこと……」
置いてったりしない?
その言葉を、黒鋼は唇を塞ぐことで飲み込ませた。
何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返していると、腕の中で強張っていた身体からすっかり力が抜ける。
ファイは顔を可哀想なくらい真っ赤にして、くったりと黒鋼の肩に額を預けると「ふわぁ~……」とおかしな声を上げた。
「だからなんなんだよ、その反応は」
「あ、あつくて……ふわふわ、しちゃうんだもん~……」
呼吸の隙は十分に与えていたはずだが、ファイはずっと息を止めていたようだった。ぐったりしながらはかはかと肩を上下させている。
息継ぎのタイミングをこれから教えていかなければと考えつつ、黒鋼はファイの耳元に唇を押し付けた。
「いいか、よく聞いとけよ」
「ん……」
「俺は、俺がおまえに会いてぇからここに来てる。だからもう、約束なんて関係ねぇ」
ファイが泣きながら裸の黒わんを手渡してくる瞬間が好きだった。恥ずかしそうに、新しい黒わんを預けてくる瞬間も。だけど、そんな我儘はもう終わりだ。
正直、叫び出したいほど照れ臭い。だけど恥ずかしがってもいられない。ここまで言ってもまだ不安になるのなら、その度に何度でも言ってやるから。
「ずっと、おまえの側にいる」
ファイは頷いて、何度も「嬉しい」と言った。嬉しくて、苦しいと。黒鋼だって同じだ。愛しくて、狂おしい。
ファイは黒鋼の肩から恥ずかしそうに顔を上げると、しがみついてくる腕の力をいっそう強めた。そして言った。
「くろがねさん、大好き」
その額に唇を押し付けて、黒鋼も囁くような吐息混じりの声で同じ想いを返した。
でもひとつだけ、腑に落ちない点がある。
「その、黒鋼さんってのやめねぇか?」
「どうして?」
「落ち着かねぇっつうかな」
ファイは不思議そうに小首を傾げた。
「だって……くろがねさんは黒わんじゃないよ?」
「まぁ……そうなんだけどな」
彼が理解してくれたのは嬉しい。黒鋼が黒わんの勤めを終えたとき、彼の目に映っていたのは自分という一人の人間だったことは喜ばしいことだ。
だけど落ち着かない。どうも居心地が悪いような、尻の座りが悪いような。
顔を顰める黒鋼に、ファイはパチパチと瞬きを繰り返した。それから、「んー」と視線だけ満天の夜空に向け、すぐに何か思いついたようにパッと表情を明るくする。
「じゃあ、黒たんだ」
「……たん、か」
「黒ぽんの方がいい?」
「どっちもどっちだが……まぁ……」
悪くねぇかと、そう言って笑ってやるとファイはあの黒鋼が大好きな、溶けた砂糖菓子のような情けない笑顔を見せた。
***
月は消えていた。
いつだって強い光で花畑を照らしていたはずの月が。
名も知らぬ白い花が咲き乱れる丘は暗く、風だけが温く吹きぬけていた。
その中央にぽつんと佇んでいるファイは、月さえも消え去ってしまった世界に取り残されている。
「黒わん……」
親友の名を呼ぶ声は、幼く甲高いものではなかった。
ファイは薄ぼんやりとした空間で、僅かに右腕を浮かせる。すらりと伸びたその腕は、華奢ではあるが大人の男のものだった。
まるで自分の身体じゃないような気がした。ここでファイはずっと母親とユゥイと三人で暮らしていた頃と同じ、小さな子供のまま過ごしていたから。大きくなった身体も、低くなった声も、変わってしまったこの世界も。実感が湧かない。
茫然としたままでいるファイは、ふと自分以外の気配を感じて顔を上げる。
後ろからゆっくりと近づくそれは、草を掻き分けるようにして足音を立てていた。
振り返ると、ずっと会いたかった『親友』の姿があった。
「黒わん……!」
ファイは彼に向かって駆け出した。赤いマフラーをした、黒いオオカミのような犬。そのふかふかの身体に、膝をついて両手を伸ばす。
『なんだよおまえ、まだこんなとこにいたのか』
「黒わん……黒わん……会いたかった……!」
ファイは泣きじゃくり、強く黒わんを抱きしめた。黒わんは大きな姿になってもやっぱり泣き虫のままでいるファイの背中を、ポンポンと優しく叩く。
会いたかった。ずっと会いたかった。もう二度と会えないかと思った。
だけど彼はちゃんと戻ってきてくれた。でも。
「黒わんて、こんなにちっちゃかったんだね」
腕の中にすっぽりと納まってしまうくらい、小さな黒わん。同じ目線で過ごしたはずなのに、まるで小さな子供を抱きしめているような気分だった。
黒わんは少しムッとして、吊り上がった目をさらに吊り上げる。
『おれはチビじゃねぇ。おまえがでっかくなったんだ。おれよりちっこかったくせに』
「そんなことないよー。おんなじくらいだったよー」
『いいや、おまえの方がチビだった』
「むー、なんか黒わんイジワルー」
ファイが唇を尖らせると、黒わんが笑った。だからファイも、声を上げて笑った。
「黒鋼さんって名前なんだ」
二人で並んで座り込み、真っ暗な空を見上げながら、ファイは黒わんに黒鋼の話をした。
ファイにとっての黒わんは今こうして隣にいる黒わんだけだから。だからあえて渾名ではなく、『黒鋼』と呼ぶ。
「大きくて、黒いツンツン頭でね、少し怖い顔してるの。黒わんにそっくりだったから、最初は黒わんだーって思っちゃったんだ」
『そんなに似てるのか?』
「うん。そっくり。だって黒わんと同じくらい優しいし、ぎゅってしてくれるもん」
あ、そうだ。そう言って、ファイは首にぶら下がるオルゴールのペンダントを黒わんに見せた。
「これね、音が鳴るんだ」
ネジを巻くと、可愛らしい音色が薄闇の空間に優しく響き渡った。
『ほしにねがいを、だな』
「うん。くれたの。黒鋼さんが」
ファイは木製のペンダントを愛しげに見つめ、その表面をそっと撫でる。
一度は床に投げつけてしまったけれど、どこにも傷がつかなくてよかった。大切にするって、約束したから。
ファイの横顔をじっと見つめて、黒わんは『いいやつだな』と言った。
「うん。いい人だよ」
『とくべつか?』
「うん。特別」
『おまえだけのひとなんだな』
「うん……オレだけの人」
『そうか』
ファイは目を閉じると、音の鳴りやんだペンダントをそっと胸に抱きしめる。
そして黒わんを見るとふわりと笑った。
「君もね」
『…………』
「君も、オレだけの友達だよ。オレの、一番の親友」
ファイは黒わんを抱き寄せると、身を屈めてそのピンと尖った耳にキスをした。そのまま柔らかな毛の感触を頬で確かめる。
胸が痛かった。少しだけ泣きたいような気がした。でも、涙は出なかった。
「どこにも行かないでって、そう言いたいけど。多分、お別れだね」
『ああ。おれの役目は、もうおわったからな』
「ありがとう、黒わん」
ずっと守ってくれた。
悲しいときも、嬉しいときも、いつもここにいてくれた。話を聞いて、優しく抱きしめてくれた。
今のファイは知っている。これはファイの夢の世界。この黒わんは、ただ自分の幼い心を守るためだけに作りだした、幻想だということ。
だけど温かかった。まるで現実のように。だから黒わんはここにいる。確かにいる。ファイだけの、大切な『親友』だ。
寂しいのは、大好きだから。
別れを恐れてはいけない。この温もりを手放してでも、ファイは殻を破らなくてはいけない。怖くても、先へ進まなくてはいけない。たとえどんなに幸せな過去があったとしても。美しい思い出と引き換えにしても。
同じ時間の中で、愛しい人と生きていくことを決めたから。
そのとき、寄り添う二人の頭上が一瞬、光った。揃って見上げた空に、一筋の星が走り抜ける。
「流れ星……?」
ファイは立ち上がると、その場から数歩前に進んだ。そして次から次へと流れる光の筋に目を輝かせる。
「こんなにたくさん……」
やがて空は眩い光に包まれる。星たちは、本当はずっとこの空にあった。月の光があまりにも強すぎて、ただ隠されていただけで。
ずっとずっと、ここにあった。
「黒わん、何かお願いごとしたら、きっと叶うよ!」
振り向くと、そこに黒わんはいなかった。
辺りを見回すと、ファイの数メートル先に佇む黒わんがいる。伸ばしかけた手を、ファイはぐっと堪えることで握りしめた。
「黒わん……」
『おれの願いは、もうかなったからいい』
「何を……お願いしたの?」
『おまえと、おなじだ』
黒わんは空を見上げた。同じように、ファイもキラキラと流れゆく満天の星空を見上げる。
『だれかの願いがかなったから、星がながれるんだ』
星の瞬きがあまりにも綺麗で、ファイは小さく微笑みながら一筋の涙を流した。
願うための光ではなく、願ったからこそ、星が駆け抜ける。一瞬の強い光を放ちながら。
「さよなら、黒わん」
ありがとう。
***
目が覚めて、ゆっくりと起き上がったファイは片方だけ濡れている頬をそっと指先で拭った。
幾度か瞬きをしてから、枕元を見やって行儀よく座っている黒わんのぬいぐるみを手に取る。向かい合うように膝に座らせて、直したばかりの耳をそっと撫でた。
こんなに穏やかな気持ちで目覚めたのは久しぶりだ。昨日までのファイは目が覚めるとただ悲しいばかりで、頬がぐしゃぐしゃになるくらい涙を流していたから。
「おはよ、黒わん」
額にそっとキスをして、ファイは微笑んだ。
まだ少しだけ、腕の中に抱きしめた黒わんの感触が残っているような気がした。たくさんの星が流れる空の下、最後のお別れをするために戻ってきてくれた親友。
彼の願いもファイの願いも、あの星々の中で光り輝いた。
同じ願い。それは、大好きな人とずっと一緒にいること。
だからあれは別れじゃない。
だって黒わんは、こうしてファイの腕の中にいるのだから。
もう話すことはできないし、これからも針と糸を通すことになるけれど。
「ずっとここにいたんだよね、君は」
ファイは黒わんをぎゅっと胸に抱きしめたあと、再びそっと枕元に座らせる。
そして、床に目を向けた。
絨毯の上に敷かれた布団で、どこか窮屈そうに背中を丸めて眠る人。ファイは「ふふふ」と笑うと、ベッドから降りて彼の上に思いっきり乗り上げた。
「おはよー黒たん! 朝だよ起きてー!」
「うお!? な、なんだ、なんだおまえは!」
「朝だよぉ! いつまで寝てるのー!」
「元気だな……」
大きな溜息をついて起き上がった黒鋼は、膝に乗ったままのファイの前髪をくしゃりと撫でた。
昨夜テラスで思いを打ち明け合ったあと、二人は長いことずっと夜空を見上げながら話をしていた。黒鋼が普段どんな仕事をしているのか、どうして時々遠くへ行かなくてはいけないのか、どんな会社で、どんな家に住んでいるのか。ファイは母親が生きていた頃にユゥイと三人で過ごした思い出や、どうやって黒わんと出会ったのか、そしてそのあと、どんなふうに施設で暮らしたのかを話した。
黒鋼は施設での話をすでに知っている様子だった。ユゥイから聞いていたのかもしれない。ずっと苦しそうに目を細め、ファイの手を強く握っていてくれた。
お互いのことを話しているうち、ユゥイが帰って来た。なぜか小龍もいて、そのあと四人で晩御飯を食べた。
そしてあのクリスマスの夜のように、終電を逃した黒鋼はそのままこの部屋に泊まったのだった。
しばらくは黒鋼に髪をわしゃわしゃと撫でられて声を上げて笑っていたファイだったが、その腕を掴んで押し戻しながら唇を尖らせる。
「また黒たんと夜中にお喋りできなかったよー」
「夜は寝るもんだ。しょうがねぇだろ」
「たまには夜更かししたいもん……起こしてくれればいいのに……」
「わざわざ起こすこともねぇだろ……つうか、寝ててもらわねぇと困る」
「なんでー?」
キョトンとした表情で小首を傾げると、なぜか黒鋼はそっぽを向いて咳払いをした。
「黒たん?」
「うるせぇな。ガキはとっとと寝るもんなんだよ」
「オレ、ガキじゃないよ! 大人だよ!」
だから困るんだろうが……と、悪人のような顔で目を逸らす黒鋼に、ファイはむぅーっと頬を膨らませる。黒鋼の言ってることは、まだ自分には難しいことなんだろうか。
「いいよー! あとでユゥイに聞くからー!」
「バカ野郎! それはやめとけ! そんなもん家族に聞いたって気まずくなるだけだぞ!」
「もー! またよく分かんないこと言うー! じゃあちゃんと教えてよー!」
「…………そのうちな」
「そのうちって明日?」
「阿呆」
黒鋼に額をペシッと叩かれて、ファイはますますふくれっ面をした。これは二人のことなのに、黒鋼だけが知っていて自分には分からないなんて、なんだかズルい。
すっかり不貞腐れてしまったファイの顔に、明後日の方向を向いている黒鋼がチラリと視線を寄越す。そして、指先で顎を持ち上げてきた瞬間、尖っていた唇にキスをされた。
「ッ……!」
ファイは一瞬で頬を赤らめる。頭の天辺から湯気が上がりそうだ。胸の内側で心臓がドンドンと忙しなく暴れ出して、息ができなくなる。
「う~~……」
「これで機嫌直せ」
「急にチュウするの、禁止だよぉ……」
熱くて苦しくて、そして恥ずかしくて。
骨抜き状態でくったりと広い胸板に身を預けるファイを、黒鋼は小さく笑うと抱きしめた。
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「ファイ、起きてて大丈夫? 今は苦しくない?」
椅子に腰かけてぼんやりとしていたファイは、ホットミルクの入ったカップを持ってやってきたユゥイにゆっくりと顔を上げた。
「無理してお店に出なくてもいいんだよ。はい、これ飲んで」
「ん、ありがと」
「やっぱり少し熱っぽいね。本当に病院、行かなくていいの?」
カップを受け取って指先を温めるファイの額に、ユゥイの優しい手が触れる。ひんやりとして気持ちがよかったが、彼の口から飛び出した『病院』という単語に、慌てて首を左右に振った。
「い、いいよー。平気ー」
「……注射が怖いんでしょ」
「う……」
黒鋼と電話で話したのは三日前。
ファイはあまりにも思いつめたせいか、あれからずっと身体が熱っぽくて頭がぼんやりとしていた。
ユゥイは何度も病院へ行こうと言うが、できれば行きたくなかった。行けば注射をするかもしれない。縫い物をする時の針ですら本当は怖いのに、それよりも太いものが刺さるなんて絶対に嫌だった。痛いし、怖い。
黒わんが壊れる度に針を通すことはできるくせに、いざ自分がとなると身が竦む。こんなだから、黒わんは何も言わずに消えてしまったんだろうか。
それに、起き上がれないほど辛いわけでもなかった。気づくと溜息が漏れて、黒鋼のことを考えないようにしていても考えてしまうから、その度に胸がズキズキと痛むだけで。
今だって思い出してしまったせいで胸が痛い。咄嗟に手を心臓の辺りに押し付けると、いつもしていたはずのペンダントの感触ないことに、また苦しくなった。
「…………」
「……ずっと苦しそうだね。そこ、痛い?」
「……ズキズキする」
「やっぱり念のため病院で診てもらおうよ。何か大きな病気だったら大変だし」
「…………うん」
そうなんだろうか。この痛みは、病院で診てもらえばなくなるんだろうか。
だとしたら、黒鋼とキスをした時に感じたあのドキドキも、やっぱり病気だったということになるのか。
もし治せるなら、治したい。前みたいに何も考えないで、ただ楽しく好きな雑貨を作って過ごしたい。叶うなら、黒鋼と出会う前に戻りたかった。
(嫌いになるって決めたのに……)
どうしてこんなに胸が痛いのか、寂しくて仕方がないのか分からない。早く忘れないと、黒鋼はもうここには来ないのだから。
ファイにはユゥイがいる。サクラや小狼や、小龍がいる。いつも店に遊びに来てくれる友達が沢山いる。夢の中の黒わんは、やっぱりどこを探してもいないけど。
(オレはもう一人じゃないんだ)
だから、もう黒わんがいなくても……。
そのときだった。ドアベルがカラリと音を立てて、扉が開いた。お客さんだろうかと顔を上げると、そこには今いちばん会いたくないはずの人間の姿があった。
彼はいつものようにスーツの上からジャケットを羽織り、赤いマフラーを首から下げて大きな鞄を持っていた。
「!」
「おう、邪魔するぜ」
「黒鋼さん? どうして?」
黒鋼はムッツリと不機嫌そうに顔を顰め、ズカズカと店に入って来る。
「今戻った。会社に戻る前に、ちょっとな」
「出張先からそのまま?」
まぁな、と短く返事をした黒鋼は、険しい表情のままファイの元へ近づこうとした。身体が竦みあがるような思いがして、ファイは思わず席を立つ。その拍子に手の中からホットミルクの入ったカップが落ちて、床に中身をぶちまけながら粉々に砕けた。
「ッ……!!」
「大丈夫!? すぐに離れて、怪我すると危ないから!」
白い液体で汚れた床と、バラバラのカップを見てファイは茫然とした。真っ青な顔をしてピクリとも動けないでいると、右手首を掴まれる。
肩を震わせ、見上げれば黒鋼が怖い顔をして「離れろ」と低く言い、引き寄せようとする。
ファイは、咄嗟にその腕を振り払ってしまった。
「ッ!」
息を飲む黒鋼から慌てて距離を取り、ジリジリと背後に後ずさる。やがて二階へと続く階段がある扉に、背中がぶつかった。
黒鋼は振り払われた手を宙に浮かせたまま、目を見開いていた。けれどすぐに吊り上がった目を細め、大きく息を吐き出した。
「俺がなにかしたか?」
「…………」
「言わなきゃ分かんねぇだろ」
「……どうして、来たの?」
ファイは黒鋼の問いかけには答えず、自らの疑問だけを口にした。
黒鋼は、多分とても怒っている。あんな酷いことを言ったのだから当たり前だ。だからきっと、もう嫌われてしまったに違いない。
なのに、どうしてわざわざ来たんだろう。
「どうして来たって……そんなもん、おまえに……」
「オレ、もう会いたくないって言ったよ」
「……だからその理由を確かめに来たんだろうが」
「オレはもう……黒わんのこと嫌いになるって決めたから!」
「はぁ?」
何を言っているんだこいつは、という表情で、黒鋼はユゥイを見た。ユゥイは困っているとも笑っているともつかない、なんともいえない曖昧な表情を浮かべていた。
ファイは、とにかく黒鋼にこの思いを伝えなくてはと焦りを覚える。
彼がいると苦しい。彼がいなくなってしまったとき、どうしたらいいか分からない。ただ、今よりもっと辛い気持ちになることだけは分かる。だから、その前に。
「黒わんと、もう一緒にいたくない……だから嫌いになる……」
「……俺は、もういらねぇってことか?」
――だけど、おれはもういらないみたいだ。
「……ッ」
あのときと同じだ。寂しそうにそう言って、黒わんは消えた。
ファイが上手に話せなかったから。だから黒わんを傷つけてしまった。黒わんに、嫌われてしまった。
胸が苦しい。痛くて痛くて、息ができない。自分の心を制御できない。
間違っていたんだろうか。何を間違えてしまったんだろうか。
ファイは胸を押さえ、泣き叫びたいのを堪えて背後の扉を開けると、その場から逃げ出してしまった。
***
「ありゃ一体どういうことだ」
カウンターに向かって座り、熱いお茶を飲んで一息ついた黒鋼は、不機嫌オーラ全開で向かいのユゥイを睨み付ける。
彼は床を掃除し、黒鋼にお茶をだしてからというもの、ずっと複雑そうな表情で黙りこくっていた。
「おい、なんとか言え」
「……なんとなく、考えてることは分からなくもないんですけどね」
双子の以心伝心というやつだろうか。
ユゥイは多少なりともファイの考えていることが分かっているようだが、黒鋼にしてみれば雲を掴むような話だ。
彼が何かしら思い悩んでいるらしいことは、あの電話の様子からも明らかだった。
だからこそ、本当ならすぐにでも職場に戻らなければならないところを、こうして足を運んだ。ファイが何を考え、何を思ってあのようなことを言ったのか、ここに来ればハッキリするものとばかり思っていたのに。
考え込む黒鋼に、ユゥイはさらに気になることを口にした。
「体調も優れないようで……ずっと微熱が続いてるんです」
「風邪か? 病院は連れてったのか」
「行きたがらないんですよ。注射が怖いみたいですね」
「そんなもん、ガキじゃねぇんだから……って……」
ガキだったな、と零す黒鋼に、ユゥイが苦笑する。
彼も手を焼いているのかもしれない。ファイはあれでいて、なかなか頑固なところがある。
「夢見もあまりよくないみたいなんですよね。それが原因で精神的に不安定になっているのかもしれません。だから元気づけようと思って、一緒にカレーを作ったのに」
ちらりと目を合わせてくるユゥイの視線に、そこはかとなく棘が含まれている。思いっきり嫌そうに顔を顰めた黒鋼を見て、彼はまた苦笑した。
「分かってますよ。タイミングが悪かっただけだって」
「だったら言うなよ。俺だってな……」
「ファイに会いたくてたまらなかった?」
「…………」
「それ、ちゃんと本人に言いました?」
「……別にわざわざ言わなくたって分かんだろ」
「おかしいですよね」
何が、と目で問えば、彼は腕を組んで僅かに首を傾げた。
「子供が悪いことをすれば、繰り返し言い聞かせるでしょ? 分かるまで、何度でも根気よく」
「……そうだな」
「どうしてその逆はできないんだろう。叱るときは繰り返し同じことを言って聞かせるのに。何度も何度も、愛情を伝えることはしないんだろう」
黒鋼は、何も返すことができなかった。
けれど彼の言う通りだと思う。ファイはいつだって自分を待っていてくれた。帰り際には必ず「ずっと一緒にいたい」と言いながら大粒の涙を流して、裸の黒わんを預けてきた。
もうそんな脅しなど必要ないと、いつかちゃんと教えてやらなくてはと……。
(……いつかってのは、そもそもいつなんだろうな)
ふと、思う。
真っ直ぐに向けられる感情、言葉、笑顔。泣き顔さえも眩しくて、黒鋼はファイに惹かれた。ずっと手を引いて歩きたいと思った。あんなにも誰かを愛しいと感じたことはなかった。
けれどいつの間にか、望まれることばかりが当たり前になってはいなかったか?
それこそわざわざ言わずとも、ファイが黒鋼を心から信用していれば、彼はそんな小さな脅しなどかけ続けずに済んでいたのではないか?
約束がなくても会いに来てくれる。無条件に好意を寄せてくれる。そんな相手に、黒鋼はなれていなかったということではないか……?
会いたいから、会いに来ているのだと。一度でも言葉にしていたら、あんな顔をさせずに済んだかもしれないのに。
――黒わんのこと嫌いになるって決めたから。
(この世の終わりみてぇな顔して言いやがって……)
黒鋼はカウンターに肘をついて項垂れ、頭をガリガリと掻きむしった。苛立ちを含ませた深い溜息が、磨きこまれたテーブルの表面を僅かに曇らせる。
情けなかった。当たり前のことを、当たり前のように伝えていなかった自分の怠慢が、彼を不安にさせてしまったのだとしたら。
苦い錠剤を噛み潰したような気分だ。嫌な感覚がどろりと身体中に広がる。
ああこれは、後悔だ。
いちど口をつけただけのカップに手を伸ばす。指先に血が通い、じんと痺れるほどに熱かったはずのそれが、今はただ冷たく無機質に感じられた。
黒鋼は一度ゆっくりと瞬きをして、それからジャケットのポケットから裸の黒わんを取り出した。吊り上がった目と、真っ黒の身体。不愛想で、可愛げなんて欠片もない。確かに似ているかもしれない。だけど、黒鋼は黒わんではない。
「あいつに言っといてくれねぇか」
冷めたカップの横に、黒わんを座らせる。そして黒鋼は席を立った。
「また来る。そんときゃ逃げずに、ツラ見せろってな」
「いいんですか? それ置いて行って」
「ここに来たら返す約束だからな」
「多分、作ってあると思いますよ。新しい黒わん」
「いらねぇよ」
もう必要ない。
そう言って、黒鋼は後ろ髪を引かれる思いで店を出て行った。
***
黒鋼が店を出てから、ユゥイはすぐに二階へ上がるとファイの部屋をノックした。
返事はなかったが静かに開けて中を覗けば、彼はベッドに両膝をついて窓の外を見下ろし、帰っていく黒鋼の背中を目で追いかけていた。
「ファイ」
しょうがないなと苦笑しながら入り込むと、ベッドまで歩み寄って縁に腰かける。
ファイは窓から離れ、整えられたシーツの中央にペタリと座り込んだ。俯いたまま何も言わない彼の膝に、黒鋼が置いて行った黒わんを置く。
ファイは目を見開き、すぐに縋るような目を向けた。
「ユゥイ……これ……」
「うん。置いて行ったよ」
青い瞳から、一気に涙が噴出した。
黒鋼が何も持たずに店を出ていくのはこれが初めてだ。彼はいつでも裸の黒わんを持ってきて、そして新たに渡されたものを持って帰る。
だけど今日はそれがない。自らが望んだ結果だろうに、ファイは黒わんを握りしめて、目元を擦りながらしくしくと泣き始めた。
やっぱり彼が泣いている姿は胸が痛む。自分より幾分か短い金髪を撫でて、「大丈夫だよ」と何度も繰り返し言い聞かせる。
ユゥイはファイを抱き寄せると、よしよし、と背中を摩りながらその額にキスをした。優しくすればするほど、ファイは酷く泣いてしまう。
自分にできることは、こうして涙と一緒に吐き出させることだった。
「ゆ、ぃ……ッ、オレ……」
「いいよ。ゆっくり話して。ほら、ちゃんと息吐いて」
ん、という声を上げて、ファイは震える息を忙しなく吐き出した。
「オレ、わかんなくって」
「うん」
「嫌いに、なろうとしたの……忘れようとしたの……そしたらもう、寂しくないと思ったから……」
「そっか」
「でも、わかんなかった……いっぱい考えたけど、わかんなかった……」
どうすれば、黒鋼を嫌いになれるのか。
握りしめられた裸の黒わん。ファイはそれをよりいっそう強く握り、口元に押し付けると嗚咽を堪える。
ユゥイはその泣き顔を覗き込みながら、次から次へと溢れる涙を拭ってやる。
「ねぇファイ、黒わんはどこにも行かないよ。だから嫌いになるなんて言わないで」
ファイはひくひくと苦しそうに肩を震わせ、うぅん、と言って首を振った。
「もういない……黒わん、もうどこにもいないの……」
「?」
彼は言う。夢の中でいつも遊んだり、話を聞いてくれていた黒わんが、突然いなくなってしまったのだと。
それはファイだけの世界に存在する、大切な友達だった。
ああそうかと、ユゥイは悟る。ファイにとって夢は逃げ込むための場所だった。おそらく彼は夢の中で黒わんと過ごすことで、自分自身の幼い心を守っていたのではないかと。
「オレ、ホントは寂しかった……ユゥイがいなくなって、一人ぼっちで、毎日こわい人に、酷いこと、いっぱい言われた……いっぱい殴られて、すごく痛かった……」
「……うん」
「オレね、もしかしたら、ユゥイはオレのこと嫌いになったから、だからいなくなっちゃったのかなって、そう思ったの。オレが悪い子だから」
「そんなことないよ……!」
自分でも思っていた以上に大きな声を出してしまったことにハッとするユゥイに、ファイはこくんと頷いた。
「黒わんもね、いつもそう言ってくれてた。ユゥイはファイが大好きだよって。いつも言ってくれたの。そしたら、ユゥイはちゃんとオレのこと、迎えに来てくれた」
だけど。
「黒わんが、いなくなっちゃった……もう会えなくなっちゃった……」
「……だから、あの人もいなくなっちゃうかもしれないって思った?」
「うん……。こっちの黒わんも、いつか消えちゃうかもしれない……オレ、黒わんに嫌われたくない……どこにも行って欲しくない……だから……」
「嫌いになろうとした?」
ファイは頷いた。それから苦しそうに胸元をぎゅっと握った。
彼の考えていることはなんとなく分かっていた。ユゥイも同じだったからだ。ファイのことが大好きで仕方がないのに、寂しさに耐えきれず忘れようとした。そうしなければ心が押し潰されそうだったから。
でも、結局できなかった。忘れたふりはできても、本当に心の中から消すことなんて、決して。
(やっぱりボクらは双子だね。よく似てる)
簡単に逃げ道を探すことはできるのに、振り向かずに進むことはできない。歩き方さえ忘れたように、ただ真っ直ぐに進めばいいだけの一本道で迷子になって、泣いてしまう。
ユゥイはゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じて、そして開く。ファイの両頬を手で包み込んで、真っ直ぐに視線を交えた。
「黒わんもね、ファイとずっと一緒にいたいって思ってるよ。置いて行ったりなんかしない」
「そんなの分かんないよ……だって黒わん、どこにもいないもん……オレのこと、置いてっちゃったもん……」
「……あの人の名前は、黒鋼さん」
「ユゥイ……?」
「黒鋼さんだよ。言ってごらん」
「……くろ、がね、さん」
「そう。似てるけど、黒わんじゃない。本当は、もう気づいてるんじゃないかな?」
「…………」
「ここ」
ユゥイは、指先でファイの胸の中央を軽くつついた。
「痛いって思うとき、側にいるのは誰?」
「…………」
「誰のことを考えると、ここが苦しい?」
「……くろがね、さん」
「どういう風になるのか、もっと教えて」
ファイは真っ赤な顔をして下唇を噛み締めた。
本当は自分で自覚できるのが一番いい。黒鋼が黒わんじゃないこと、ただの友達じゃないこと、彼が突然消えてしまったりなんかしないこと。
だけど、ユゥイは結局ファイに甘かった。それに。
(ちょっとだけ、助けてあげます。貸を作ったままでいるのは癪だから)
黒わんを抜け出せないままでいる、照れ屋で不器用な友人に。彼がいてくれたから、ユゥイは自分の幸せに気づくことができた。屈折したままだった心が、救われた。
ファイはぎゅっと目を閉じて、肩を竦めながら震える息を吐き出す。
「くろがねさんと、いるとね……」
「うん」
「ここ、ドンドンってなる。叩かれてるみたいに、なる」
「胸がドキドキする?」
うん、と、ファイは大きく頷いた。
「息、できなくなって……すごくポカポカして、恥ずかしい気持ちになる……」
「うん」
「でも、嫌われちゃうかもって思ったら……もっと痛くなったの……もっともっと、苦しくなったの……ぜんぜん、あったかくならないの……」
話を聞いているだけで、もどかしい気分になった。
ファイは自分の感情に名前をつけられないでいるだけだ。胸がドキドキするのも、離れたくないという気持ちも、全部。
(分かってたつもりだけど。出る幕なしだなぁ)
自分にできることは何もない。だってファイの真っ赤な顔には、ちゃんと答えが書いてある。
そもそも伊達に双子の片割れをやっているわけじゃない。いつからか、黒鋼を見るファイの目がぬいぐるみを愛でるものとはまるで違っていたことに、ユゥイはちゃんと気がついていた。
兄は、恋をしている。
彼の外見だけを見れば、初恋なんて遅いくらいだ。
けれど幼いままの心で生き続けてきた彼は、誰もが普通に通る道に踏み出せないまま、ここまで来てしまった。
だから抱えきれなくて、不安ばかりが膨らんで、こうして泣いている。
寂しいような気が抜けたような、複雑な気分だったが、生まれて初めての感情に戸惑うファイは不安そうな表情でユゥイを見上げた。
「病院、行ったら治る……? 注射するの我慢したら……くろがねさんのこと、忘れられる?」
ユゥイはふぅっと息を吐き出して、ファイの頭を優しく撫でた。
「忘れる必要なんかない。ボクがファイを大好きなように、ファイも黒鋼さんのこと、好きでいていいんだよ」
「……だけど、それじゃあ……」
「それね、病気じゃないよ」
「……ほんと?」
「そう。だからお医者さんじゃ治せないかな」
「じゃあ……どうしたらいい……?」
そうだなぁ、とユゥイは勿体ぶるように天井を見上げた。
それは恋だよと、教えてやるのは簡単だ。だけど、言ったところできっと今のファイに全てを理解することはできない。
彼にそれを自覚させてやれるのは、この世に一人しかいないのだろうし。
だから余計なお節介はここまでにする。
「ファイ、次に黒鋼さんが来たら、今ボクとした話、できる?」
「……もう来ないよ」
俯くファイに、ユゥイはクスリと笑うと身を屈め、床に手を伸ばす。そして拾い上げたものをベッドの上に置いた。
あ、という小さな声を上げ、ファイは赤い顔をさらに赤くして恥ずかしそうに俯いてしまう。
それは目つきの悪い、オオカミのような黒い犬。マフラーがなくて、少し寒そうだ。
ファイはやっぱり、新しい黒わんを作っていた。
「大丈夫。黒鋼さんはまた来るよ。ちゃんと約束しといたから」
「……来なかったら?」
「そうだねぇ。じゃあ、一緒に嫌いになる方法、考えよっか?」
「ユゥイも考えてくれるの?」
もちろん、と言って笑いかけてやると、ファイはほんの少しだけホッとしたように肩から力を抜いた。
多分、絶対、そんなことにはならないだろうけど。
「だけど約束通り来てくれたときは、恥ずかしくてもちゃんとお話すること。そしたら」
きっと教えてくれるから。
まだ戸惑っている様子のファイの頬に、ユゥイはそっと口づけた。
がんばれ、と、心の中でエールを送りながら。
←戻る ・ 次へ→
椅子に腰かけてぼんやりとしていたファイは、ホットミルクの入ったカップを持ってやってきたユゥイにゆっくりと顔を上げた。
「無理してお店に出なくてもいいんだよ。はい、これ飲んで」
「ん、ありがと」
「やっぱり少し熱っぽいね。本当に病院、行かなくていいの?」
カップを受け取って指先を温めるファイの額に、ユゥイの優しい手が触れる。ひんやりとして気持ちがよかったが、彼の口から飛び出した『病院』という単語に、慌てて首を左右に振った。
「い、いいよー。平気ー」
「……注射が怖いんでしょ」
「う……」
黒鋼と電話で話したのは三日前。
ファイはあまりにも思いつめたせいか、あれからずっと身体が熱っぽくて頭がぼんやりとしていた。
ユゥイは何度も病院へ行こうと言うが、できれば行きたくなかった。行けば注射をするかもしれない。縫い物をする時の針ですら本当は怖いのに、それよりも太いものが刺さるなんて絶対に嫌だった。痛いし、怖い。
黒わんが壊れる度に針を通すことはできるくせに、いざ自分がとなると身が竦む。こんなだから、黒わんは何も言わずに消えてしまったんだろうか。
それに、起き上がれないほど辛いわけでもなかった。気づくと溜息が漏れて、黒鋼のことを考えないようにしていても考えてしまうから、その度に胸がズキズキと痛むだけで。
今だって思い出してしまったせいで胸が痛い。咄嗟に手を心臓の辺りに押し付けると、いつもしていたはずのペンダントの感触ないことに、また苦しくなった。
「…………」
「……ずっと苦しそうだね。そこ、痛い?」
「……ズキズキする」
「やっぱり念のため病院で診てもらおうよ。何か大きな病気だったら大変だし」
「…………うん」
そうなんだろうか。この痛みは、病院で診てもらえばなくなるんだろうか。
だとしたら、黒鋼とキスをした時に感じたあのドキドキも、やっぱり病気だったということになるのか。
もし治せるなら、治したい。前みたいに何も考えないで、ただ楽しく好きな雑貨を作って過ごしたい。叶うなら、黒鋼と出会う前に戻りたかった。
(嫌いになるって決めたのに……)
どうしてこんなに胸が痛いのか、寂しくて仕方がないのか分からない。早く忘れないと、黒鋼はもうここには来ないのだから。
ファイにはユゥイがいる。サクラや小狼や、小龍がいる。いつも店に遊びに来てくれる友達が沢山いる。夢の中の黒わんは、やっぱりどこを探してもいないけど。
(オレはもう一人じゃないんだ)
だから、もう黒わんがいなくても……。
そのときだった。ドアベルがカラリと音を立てて、扉が開いた。お客さんだろうかと顔を上げると、そこには今いちばん会いたくないはずの人間の姿があった。
彼はいつものようにスーツの上からジャケットを羽織り、赤いマフラーを首から下げて大きな鞄を持っていた。
「!」
「おう、邪魔するぜ」
「黒鋼さん? どうして?」
黒鋼はムッツリと不機嫌そうに顔を顰め、ズカズカと店に入って来る。
「今戻った。会社に戻る前に、ちょっとな」
「出張先からそのまま?」
まぁな、と短く返事をした黒鋼は、険しい表情のままファイの元へ近づこうとした。身体が竦みあがるような思いがして、ファイは思わず席を立つ。その拍子に手の中からホットミルクの入ったカップが落ちて、床に中身をぶちまけながら粉々に砕けた。
「ッ……!!」
「大丈夫!? すぐに離れて、怪我すると危ないから!」
白い液体で汚れた床と、バラバラのカップを見てファイは茫然とした。真っ青な顔をしてピクリとも動けないでいると、右手首を掴まれる。
肩を震わせ、見上げれば黒鋼が怖い顔をして「離れろ」と低く言い、引き寄せようとする。
ファイは、咄嗟にその腕を振り払ってしまった。
「ッ!」
息を飲む黒鋼から慌てて距離を取り、ジリジリと背後に後ずさる。やがて二階へと続く階段がある扉に、背中がぶつかった。
黒鋼は振り払われた手を宙に浮かせたまま、目を見開いていた。けれどすぐに吊り上がった目を細め、大きく息を吐き出した。
「俺がなにかしたか?」
「…………」
「言わなきゃ分かんねぇだろ」
「……どうして、来たの?」
ファイは黒鋼の問いかけには答えず、自らの疑問だけを口にした。
黒鋼は、多分とても怒っている。あんな酷いことを言ったのだから当たり前だ。だからきっと、もう嫌われてしまったに違いない。
なのに、どうしてわざわざ来たんだろう。
「どうして来たって……そんなもん、おまえに……」
「オレ、もう会いたくないって言ったよ」
「……だからその理由を確かめに来たんだろうが」
「オレはもう……黒わんのこと嫌いになるって決めたから!」
「はぁ?」
何を言っているんだこいつは、という表情で、黒鋼はユゥイを見た。ユゥイは困っているとも笑っているともつかない、なんともいえない曖昧な表情を浮かべていた。
ファイは、とにかく黒鋼にこの思いを伝えなくてはと焦りを覚える。
彼がいると苦しい。彼がいなくなってしまったとき、どうしたらいいか分からない。ただ、今よりもっと辛い気持ちになることだけは分かる。だから、その前に。
「黒わんと、もう一緒にいたくない……だから嫌いになる……」
「……俺は、もういらねぇってことか?」
――だけど、おれはもういらないみたいだ。
「……ッ」
あのときと同じだ。寂しそうにそう言って、黒わんは消えた。
ファイが上手に話せなかったから。だから黒わんを傷つけてしまった。黒わんに、嫌われてしまった。
胸が苦しい。痛くて痛くて、息ができない。自分の心を制御できない。
間違っていたんだろうか。何を間違えてしまったんだろうか。
ファイは胸を押さえ、泣き叫びたいのを堪えて背後の扉を開けると、その場から逃げ出してしまった。
***
「ありゃ一体どういうことだ」
カウンターに向かって座り、熱いお茶を飲んで一息ついた黒鋼は、不機嫌オーラ全開で向かいのユゥイを睨み付ける。
彼は床を掃除し、黒鋼にお茶をだしてからというもの、ずっと複雑そうな表情で黙りこくっていた。
「おい、なんとか言え」
「……なんとなく、考えてることは分からなくもないんですけどね」
双子の以心伝心というやつだろうか。
ユゥイは多少なりともファイの考えていることが分かっているようだが、黒鋼にしてみれば雲を掴むような話だ。
彼が何かしら思い悩んでいるらしいことは、あの電話の様子からも明らかだった。
だからこそ、本当ならすぐにでも職場に戻らなければならないところを、こうして足を運んだ。ファイが何を考え、何を思ってあのようなことを言ったのか、ここに来ればハッキリするものとばかり思っていたのに。
考え込む黒鋼に、ユゥイはさらに気になることを口にした。
「体調も優れないようで……ずっと微熱が続いてるんです」
「風邪か? 病院は連れてったのか」
「行きたがらないんですよ。注射が怖いみたいですね」
「そんなもん、ガキじゃねぇんだから……って……」
ガキだったな、と零す黒鋼に、ユゥイが苦笑する。
彼も手を焼いているのかもしれない。ファイはあれでいて、なかなか頑固なところがある。
「夢見もあまりよくないみたいなんですよね。それが原因で精神的に不安定になっているのかもしれません。だから元気づけようと思って、一緒にカレーを作ったのに」
ちらりと目を合わせてくるユゥイの視線に、そこはかとなく棘が含まれている。思いっきり嫌そうに顔を顰めた黒鋼を見て、彼はまた苦笑した。
「分かってますよ。タイミングが悪かっただけだって」
「だったら言うなよ。俺だってな……」
「ファイに会いたくてたまらなかった?」
「…………」
「それ、ちゃんと本人に言いました?」
「……別にわざわざ言わなくたって分かんだろ」
「おかしいですよね」
何が、と目で問えば、彼は腕を組んで僅かに首を傾げた。
「子供が悪いことをすれば、繰り返し言い聞かせるでしょ? 分かるまで、何度でも根気よく」
「……そうだな」
「どうしてその逆はできないんだろう。叱るときは繰り返し同じことを言って聞かせるのに。何度も何度も、愛情を伝えることはしないんだろう」
黒鋼は、何も返すことができなかった。
けれど彼の言う通りだと思う。ファイはいつだって自分を待っていてくれた。帰り際には必ず「ずっと一緒にいたい」と言いながら大粒の涙を流して、裸の黒わんを預けてきた。
もうそんな脅しなど必要ないと、いつかちゃんと教えてやらなくてはと……。
(……いつかってのは、そもそもいつなんだろうな)
ふと、思う。
真っ直ぐに向けられる感情、言葉、笑顔。泣き顔さえも眩しくて、黒鋼はファイに惹かれた。ずっと手を引いて歩きたいと思った。あんなにも誰かを愛しいと感じたことはなかった。
けれどいつの間にか、望まれることばかりが当たり前になってはいなかったか?
それこそわざわざ言わずとも、ファイが黒鋼を心から信用していれば、彼はそんな小さな脅しなどかけ続けずに済んでいたのではないか?
約束がなくても会いに来てくれる。無条件に好意を寄せてくれる。そんな相手に、黒鋼はなれていなかったということではないか……?
会いたいから、会いに来ているのだと。一度でも言葉にしていたら、あんな顔をさせずに済んだかもしれないのに。
――黒わんのこと嫌いになるって決めたから。
(この世の終わりみてぇな顔して言いやがって……)
黒鋼はカウンターに肘をついて項垂れ、頭をガリガリと掻きむしった。苛立ちを含ませた深い溜息が、磨きこまれたテーブルの表面を僅かに曇らせる。
情けなかった。当たり前のことを、当たり前のように伝えていなかった自分の怠慢が、彼を不安にさせてしまったのだとしたら。
苦い錠剤を噛み潰したような気分だ。嫌な感覚がどろりと身体中に広がる。
ああこれは、後悔だ。
いちど口をつけただけのカップに手を伸ばす。指先に血が通い、じんと痺れるほどに熱かったはずのそれが、今はただ冷たく無機質に感じられた。
黒鋼は一度ゆっくりと瞬きをして、それからジャケットのポケットから裸の黒わんを取り出した。吊り上がった目と、真っ黒の身体。不愛想で、可愛げなんて欠片もない。確かに似ているかもしれない。だけど、黒鋼は黒わんではない。
「あいつに言っといてくれねぇか」
冷めたカップの横に、黒わんを座らせる。そして黒鋼は席を立った。
「また来る。そんときゃ逃げずに、ツラ見せろってな」
「いいんですか? それ置いて行って」
「ここに来たら返す約束だからな」
「多分、作ってあると思いますよ。新しい黒わん」
「いらねぇよ」
もう必要ない。
そう言って、黒鋼は後ろ髪を引かれる思いで店を出て行った。
***
黒鋼が店を出てから、ユゥイはすぐに二階へ上がるとファイの部屋をノックした。
返事はなかったが静かに開けて中を覗けば、彼はベッドに両膝をついて窓の外を見下ろし、帰っていく黒鋼の背中を目で追いかけていた。
「ファイ」
しょうがないなと苦笑しながら入り込むと、ベッドまで歩み寄って縁に腰かける。
ファイは窓から離れ、整えられたシーツの中央にペタリと座り込んだ。俯いたまま何も言わない彼の膝に、黒鋼が置いて行った黒わんを置く。
ファイは目を見開き、すぐに縋るような目を向けた。
「ユゥイ……これ……」
「うん。置いて行ったよ」
青い瞳から、一気に涙が噴出した。
黒鋼が何も持たずに店を出ていくのはこれが初めてだ。彼はいつでも裸の黒わんを持ってきて、そして新たに渡されたものを持って帰る。
だけど今日はそれがない。自らが望んだ結果だろうに、ファイは黒わんを握りしめて、目元を擦りながらしくしくと泣き始めた。
やっぱり彼が泣いている姿は胸が痛む。自分より幾分か短い金髪を撫でて、「大丈夫だよ」と何度も繰り返し言い聞かせる。
ユゥイはファイを抱き寄せると、よしよし、と背中を摩りながらその額にキスをした。優しくすればするほど、ファイは酷く泣いてしまう。
自分にできることは、こうして涙と一緒に吐き出させることだった。
「ゆ、ぃ……ッ、オレ……」
「いいよ。ゆっくり話して。ほら、ちゃんと息吐いて」
ん、という声を上げて、ファイは震える息を忙しなく吐き出した。
「オレ、わかんなくって」
「うん」
「嫌いに、なろうとしたの……忘れようとしたの……そしたらもう、寂しくないと思ったから……」
「そっか」
「でも、わかんなかった……いっぱい考えたけど、わかんなかった……」
どうすれば、黒鋼を嫌いになれるのか。
握りしめられた裸の黒わん。ファイはそれをよりいっそう強く握り、口元に押し付けると嗚咽を堪える。
ユゥイはその泣き顔を覗き込みながら、次から次へと溢れる涙を拭ってやる。
「ねぇファイ、黒わんはどこにも行かないよ。だから嫌いになるなんて言わないで」
ファイはひくひくと苦しそうに肩を震わせ、うぅん、と言って首を振った。
「もういない……黒わん、もうどこにもいないの……」
「?」
彼は言う。夢の中でいつも遊んだり、話を聞いてくれていた黒わんが、突然いなくなってしまったのだと。
それはファイだけの世界に存在する、大切な友達だった。
ああそうかと、ユゥイは悟る。ファイにとって夢は逃げ込むための場所だった。おそらく彼は夢の中で黒わんと過ごすことで、自分自身の幼い心を守っていたのではないかと。
「オレ、ホントは寂しかった……ユゥイがいなくなって、一人ぼっちで、毎日こわい人に、酷いこと、いっぱい言われた……いっぱい殴られて、すごく痛かった……」
「……うん」
「オレね、もしかしたら、ユゥイはオレのこと嫌いになったから、だからいなくなっちゃったのかなって、そう思ったの。オレが悪い子だから」
「そんなことないよ……!」
自分でも思っていた以上に大きな声を出してしまったことにハッとするユゥイに、ファイはこくんと頷いた。
「黒わんもね、いつもそう言ってくれてた。ユゥイはファイが大好きだよって。いつも言ってくれたの。そしたら、ユゥイはちゃんとオレのこと、迎えに来てくれた」
だけど。
「黒わんが、いなくなっちゃった……もう会えなくなっちゃった……」
「……だから、あの人もいなくなっちゃうかもしれないって思った?」
「うん……。こっちの黒わんも、いつか消えちゃうかもしれない……オレ、黒わんに嫌われたくない……どこにも行って欲しくない……だから……」
「嫌いになろうとした?」
ファイは頷いた。それから苦しそうに胸元をぎゅっと握った。
彼の考えていることはなんとなく分かっていた。ユゥイも同じだったからだ。ファイのことが大好きで仕方がないのに、寂しさに耐えきれず忘れようとした。そうしなければ心が押し潰されそうだったから。
でも、結局できなかった。忘れたふりはできても、本当に心の中から消すことなんて、決して。
(やっぱりボクらは双子だね。よく似てる)
簡単に逃げ道を探すことはできるのに、振り向かずに進むことはできない。歩き方さえ忘れたように、ただ真っ直ぐに進めばいいだけの一本道で迷子になって、泣いてしまう。
ユゥイはゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じて、そして開く。ファイの両頬を手で包み込んで、真っ直ぐに視線を交えた。
「黒わんもね、ファイとずっと一緒にいたいって思ってるよ。置いて行ったりなんかしない」
「そんなの分かんないよ……だって黒わん、どこにもいないもん……オレのこと、置いてっちゃったもん……」
「……あの人の名前は、黒鋼さん」
「ユゥイ……?」
「黒鋼さんだよ。言ってごらん」
「……くろ、がね、さん」
「そう。似てるけど、黒わんじゃない。本当は、もう気づいてるんじゃないかな?」
「…………」
「ここ」
ユゥイは、指先でファイの胸の中央を軽くつついた。
「痛いって思うとき、側にいるのは誰?」
「…………」
「誰のことを考えると、ここが苦しい?」
「……くろがね、さん」
「どういう風になるのか、もっと教えて」
ファイは真っ赤な顔をして下唇を噛み締めた。
本当は自分で自覚できるのが一番いい。黒鋼が黒わんじゃないこと、ただの友達じゃないこと、彼が突然消えてしまったりなんかしないこと。
だけど、ユゥイは結局ファイに甘かった。それに。
(ちょっとだけ、助けてあげます。貸を作ったままでいるのは癪だから)
黒わんを抜け出せないままでいる、照れ屋で不器用な友人に。彼がいてくれたから、ユゥイは自分の幸せに気づくことができた。屈折したままだった心が、救われた。
ファイはぎゅっと目を閉じて、肩を竦めながら震える息を吐き出す。
「くろがねさんと、いるとね……」
「うん」
「ここ、ドンドンってなる。叩かれてるみたいに、なる」
「胸がドキドキする?」
うん、と、ファイは大きく頷いた。
「息、できなくなって……すごくポカポカして、恥ずかしい気持ちになる……」
「うん」
「でも、嫌われちゃうかもって思ったら……もっと痛くなったの……もっともっと、苦しくなったの……ぜんぜん、あったかくならないの……」
話を聞いているだけで、もどかしい気分になった。
ファイは自分の感情に名前をつけられないでいるだけだ。胸がドキドキするのも、離れたくないという気持ちも、全部。
(分かってたつもりだけど。出る幕なしだなぁ)
自分にできることは何もない。だってファイの真っ赤な顔には、ちゃんと答えが書いてある。
そもそも伊達に双子の片割れをやっているわけじゃない。いつからか、黒鋼を見るファイの目がぬいぐるみを愛でるものとはまるで違っていたことに、ユゥイはちゃんと気がついていた。
兄は、恋をしている。
彼の外見だけを見れば、初恋なんて遅いくらいだ。
けれど幼いままの心で生き続けてきた彼は、誰もが普通に通る道に踏み出せないまま、ここまで来てしまった。
だから抱えきれなくて、不安ばかりが膨らんで、こうして泣いている。
寂しいような気が抜けたような、複雑な気分だったが、生まれて初めての感情に戸惑うファイは不安そうな表情でユゥイを見上げた。
「病院、行ったら治る……? 注射するの我慢したら……くろがねさんのこと、忘れられる?」
ユゥイはふぅっと息を吐き出して、ファイの頭を優しく撫でた。
「忘れる必要なんかない。ボクがファイを大好きなように、ファイも黒鋼さんのこと、好きでいていいんだよ」
「……だけど、それじゃあ……」
「それね、病気じゃないよ」
「……ほんと?」
「そう。だからお医者さんじゃ治せないかな」
「じゃあ……どうしたらいい……?」
そうだなぁ、とユゥイは勿体ぶるように天井を見上げた。
それは恋だよと、教えてやるのは簡単だ。だけど、言ったところできっと今のファイに全てを理解することはできない。
彼にそれを自覚させてやれるのは、この世に一人しかいないのだろうし。
だから余計なお節介はここまでにする。
「ファイ、次に黒鋼さんが来たら、今ボクとした話、できる?」
「……もう来ないよ」
俯くファイに、ユゥイはクスリと笑うと身を屈め、床に手を伸ばす。そして拾い上げたものをベッドの上に置いた。
あ、という小さな声を上げ、ファイは赤い顔をさらに赤くして恥ずかしそうに俯いてしまう。
それは目つきの悪い、オオカミのような黒い犬。マフラーがなくて、少し寒そうだ。
ファイはやっぱり、新しい黒わんを作っていた。
「大丈夫。黒鋼さんはまた来るよ。ちゃんと約束しといたから」
「……来なかったら?」
「そうだねぇ。じゃあ、一緒に嫌いになる方法、考えよっか?」
「ユゥイも考えてくれるの?」
もちろん、と言って笑いかけてやると、ファイはほんの少しだけホッとしたように肩から力を抜いた。
多分、絶対、そんなことにはならないだろうけど。
「だけど約束通り来てくれたときは、恥ずかしくてもちゃんとお話すること。そしたら」
きっと教えてくれるから。
まだ戸惑っている様子のファイの頬に、ユゥイはそっと口づけた。
がんばれ、と、心の中でエールを送りながら。
←戻る ・ 次へ→
『なにその目?』
壁の隅に追いやられ、冷たい床に座り込んでしまったファイを、冷やかな目をした中年女性が仁王立ちで見下ろしている。
『アンタ分かってるの? アンタのために躾けてやってんだよこっちは!!』
夕飯時。他の子供たちより、ほんの一瞬だけテーブルにつくのが遅かったという理由で、ファイは爪が食い込むほど強く二の腕を掴まれ、部屋の隅に引きずられた。
壁に叩きつけられる形で床にへたり込んだファイは、ただ怯えた表情で女を見上げただけだった。その目が、彼女は気に食わなかったらしい。
汚れたスリッパの足裏で思い切りファイの裸足の足を踏み、それから何度もドンドンと踏みつけた。
『反抗ばっかりして! アンタね、そんなだから弟に捨てられちまったんだよ!!』
『ッ、ち、ちが……』
『はぁ!? なに!? 違うって!? アンタが聞き分けのないクソガキだから! 弟はアンタを置いて行っちまったんだよ!! そんなことも分からないなんて、本当に頭の悪いガキだね!!』
違う違うと、何度も首を振って否定した。前髪を掴まれて引きずらそうになったが、それでも力の限り抵抗し続ける。
この人が言っていることは嘘だ。全部嘘なんだ。だってユゥイは言ってくれた。一緒がいいと言って、あんなに泣いてくれた。
本当はファイだって離れたくなかった。だけど、ここには怖い大人ばかりがいる。自分だけの力ではユゥイを守ってやれない。
寂しくて悲しくて、とても怖かったけど、それでもユゥイが大切で、大好きだったから。ファイはお兄ちゃんだったから、だから我慢した。
でも、本当は違ったんだろうか。
毎日毎日、こんな風に言われ続ける度に。
もしかしたら、ユゥイは本当に自分のことが嫌いで、一緒にいるのが嫌になったから、一人で行ってしまったんだろうかと。
暴力に屈するしかない幼いファイは、そう感じるようになっていた。
(ユゥイ、オレ……いっしょにいちゃダメだったの……?)
本当は嫌いだったの?
だから一人で行っちゃったの?
今、君は幸せ?
『泣けば済むと思って!! だったら一生メソメソ泣いてな!! 死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!』
――だけどね。
「それでもよかったんだー」
月の丘で、幼い姿をしたファイは小さな両手を後ろにやって、白い花の中をブラブラと歩いていた。
風が金色の髪を揺らして、その度に頬をくすぐられているようで肩を竦める。
「オレはユゥイが大好きだもん。ユゥイが幸せだったらいいやって思ったの。もしオレのことが嫌いで、だから一緒にいられなくなったなら……よかったんだよ、これで」
辛かったし、悲しかった。
だけどファイには大切な思い出があった。愛された記憶があった。
父親はいなかったけど、母親とユゥイと三人で小さな家に暮らしていた頃。たった一枚のクッキーですらユゥイと半分こして、二人せぇので口に放り込んだ。そうすると甘いクッキーが一段と甘く感じられて、お腹いっぱいにはならなかったけど、とても嬉しかった。ユゥイと笑い合ったことを思い出すだけで、胸が温かくなる。
だけどそれと同じくらい、あの頃に戻りたいと強く願ってもいた。あのときのまま、ずっと変わらずにいたかった。
「でもいいの。だって、今はこうして黒わんがいてくれるから」
そうだよね?
「……黒わん?」
クルリと振り向いたファイは、そこに誰もいないことに茫然とした。
月の光にほんのりと光る白い花畑。どこまでも続く美しい光景の中に、黒い犬の姿はなかった。
「どうして……?」
ずっと一緒にいてくれたのに。
寂しい夜は抱きしめてくれた。二人だけの世界にいてくれた。温かくて優しかった風が、今はこんなにも冷たい。
胸の真ん中に大きな穴が開いたみたいで、寒くて寒くて仕方がなかった。ファイは可憐な花を押し潰しながら、力なく地に膝をついた。
涙がぽろりと頬を滑り落ちる。そして堰を切ったように溢れて止まらなくなった。
我慢していたのに。黒わんが側にいてくれたから、ずっと笑っていられたのに。
本当は、ぜんぶ嘘だった。
「さみしい……」
ぜんぶぜんぶ、嘘ばかり。
「さみしいよぉ……」
ユゥイと一緒に行きたかった。離れたくなかった。寂しい。寂しい。怖い。痛い。
ここには、もう誰もいない。
「ひとりは、やだよぉ……」
黒わんも、オレを置いていくんだね。
***
カーテンの隙間から朝の光が射していた。
また夢を見ていたんだと、ファイはのろのろと起き上がりながら濡れた頬を手の甲で拭う。
今日は、施設にいた頃の夢も一緒に見たような気がする。そしてあの月の丘には、やっぱり黒わんはいなかった。
あれからずっと。クリスマスの夜に見た夢を最後に、どんなに探しても見つけ出すことができない。
ファイはベッドの枕元を忙しなく見回した。寝る間際まで抱きしめていたはずの黒わんのぬいぐるみがない。
必死で探して、ベッドの下を覗き込んでみたら、そこに黒わんが落ちていた。
いつの間に手放していたんだろう。慌てて拾い上げ、胸に抱きしめる。
「ごめんね黒わん……」
黒わんは、初めてユゥイと一緒に施設に預けられたとき、宛がわれた部屋に置き去りにされていたものだった。
誰の持ち物か分からなかったが、一目で気に入ってしまったファイは、それからずっと黒わんを宝物のように側に置いた。
黒わんが夢に出てくるようになったのは、ユゥイがいなくなってしばらく経ってからだった。
本当は寂しくて仕方がなかったファイは嬉しくて、夢の中だけが安らぎの場所になった。そこでは、ファイはいつまで経っても子供のままだった。
鏡を見る度に少しずつ大きくなっていく現実の自分とは違って、黒わんとあの月の丘で過ごすファイは小さいまま。
いつしかどちらが本当の自分なのか、ファイには分からなくなっていた。
「どうすればいいのかな……」
どうすれば、黒わんは帰ってきてくれるんだろう。
ユゥイは戻ってきてくれた。また一緒に暮らそうと言ってくれて、それからずっと側にいてくれる。悪いことをして叱られると、またお別れしなくちゃいけないような気がして悲しくなるけれど、最後には必ず抱きしめて、大好きだよと言ってくれる。
何度も何度も、愛していると言ってくれる。
だから黒わんにも戻ってきてほしい。もし怒らせてしまったなら、ちゃんとごめんなさいを言いたいから。
ファイは抱きしめていた黒わんから少しだけ身体を離して、その顔を見下ろす。頭を撫でようとしたところで、異変に気付いた。
「あ……」
よく見ると、右の耳の裏側から微かに綿が飛び出していた。
***
「ユゥイ……」
ファイが黒わんを胸に抱いて下に降りると、ユゥイはすでに着替えを終えて朝食の支度をしていた。
「おはようファイ。顔は洗った? 今パンが焼けるから……どうしたの?」
カウンター奥のキッチンでスープを温めていたユゥイは、赤い目をしてしょんぼりと俯くファイを見て表情を曇らせた。
コンロの火を止め、立ち尽くしたままのファイの側までやってきたユゥイの肩に、顔を埋める。
「怖い夢でも見たのかな? 泣いちゃった?」
「ユゥイ……黒わんが……」
「ん? なぁに?」
「黒わん、壊れた……」
ユゥイはファイが抱いている黒わんを見て、「ああ、本当だ」と言った。
「すぐに直してあげないと。これじゃ可哀想だね」
「でも……黒わん、もうボロボロだよ……」
ずっと昔から一緒にいた黒わんは、今までも何度も目や鼻や尻尾が取れかけたり、背中が破れて綿が飛び出したりして、その度に縫っては直してを繰り返してきた。
黒い糸を使っているから分かりにくいが、よく見れば彼の身体はつぎはぎだらけだ。耳が取れかけたのだってこれが初めてではない。
そんな黒わんの身体に、また針と糸を通さなくてはならないと思うと、ファイの胸は締め付けられるように痛むのだった。
「わかった。じゃあ、ボクがやっておいてあげる。それでいいかな?」
「……うん」
結局は同じことだと分かってはいても、ファイはユゥイに黒わんを預けることにした。彼はひとまず受け取ったそれをカウンターテーブルの隅に座らせて、それからファイに笑いかけると「ご飯にしよう」と言った。
でも、本当はあまり食欲がない。俯いたままのファイに、ユゥイは小さく首を傾げると顔を覗き込んでくる。
「元気ないね。そんなんじゃ黒わんが悲しむよ」
「……うん」
「それにほら、今日はおっきい黒わんも遊びに来るって言ってたよ。そんな顔してたら心配させちゃう」
「黒わん、来るの?」
「来るよ。お仕事が終わったらって言ってたから、夜ご飯は一緒に食べられるんじゃないかな?」
起きてからずっと悲しかった気分が、少しずつ温かいものに包まれていくような気がした。黒鋼が来る。嬉しさが込み上げて、空っぽだった胸をゆっくりと満たす。
ファイは頬がカイロを押し当てたみたいに温かくなるのを感じた。それはだんだん熱いくらいになってきて、火傷しそうなほどになってくると、どうしてか胸が苦しくなる。太鼓が鳴るように忙しなく音を刻みはじめる。
黒鋼とクリスマスの夜にキスをしてから、彼のことを考えたり、一緒にいたりするといつもこうだ。どうしてなのか分からないし、胸がきゅうっとなるのは苦しいけど、だけど嬉しい。
ユゥイはファイが表情を明るくしたことに安堵して笑うと、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。
「ファイ、おっきい黒わんのために、一緒にカレー作って待ってようか?」
「!」
「そうだなぁ、カボチャがいっぱい入った野菜カレーなんてどう?」
「作る! 今度はちゃんと成功させるよ!」
「よし、じゃあ後でお使い頼んじゃおうかな? お野菜一人でも買いに行ける?」
「行ける! 任せてー!!」
ファイの心の中は、ユゥイと一緒にカレーを作ることと、それを黒鋼と食べることでいっぱいになった。
このあいだは勝手なことをして大失敗してしまったけれど、ユゥイはあのとき約束したことを覚えていてくれた。
「じゃあその前に早く朝ご飯食べちゃお」
「わかったー!」
そうと決まればまずは洗顔と歯磨きを済まそうと、ファイは元気に二階へと続く階段に向かって駆け出そうとした。けれどふと足を止めて、カウンターテーブルの上に座る耳の解れた黒わんを見る。
(やっぱり……ちゃんと自分でやろ……)
黒わんの一番の友達はファイだから。
ちゃんと綺麗に耳を直すことができたら、戻ってきてくれるかもしれない。
また少し不安な気持ちがぶり返しそうになるのを押しやって、ファイは階段を力いっぱい駆け上がった。
***
「そうですか……じゃあ今日は……」
夕方、ユゥイの携帯が鳴った。
それに応じた彼の声がどんどん沈んでいくのを聞いて、ファイはカウンター席で黒わんの耳を縫う手を止め、顔を上げる。
「あぁ、いえ……今日はファイと一緒にカレーを作ったんです。美味しくできたので、食べてほしかったんですが……」
バツの悪そうな視線を送って来るユゥイに、ファイは咄嗟に席を立った。
相手はきっと黒鋼だ。この様子からすると、もしかしたら。
「ユゥイ……? 黒わん、来ないの……?」
「ちょっと待ってくださいね。今ファイに変わりますから」
「ねぇユゥイ、黒わん来ない……?」
「お仕事でね、急に遠くへ行かなくちゃいけないんだって……。ほら、お話して」
「遠くに……?」
差し出された携帯を青ざめた表情で見つめて、ファイは首を左右に振った。
「やだ」
「どうして? ほら、そんなこと言わないで」
「やだったらやだ! 話したくない!」
「……いま話しておかないと、次に来れるのは来週だって」
「来週って……」
明日?
いつものように聞くことはできなかった。
黒鋼は来ない。朝から楽しみにしていのに。一人でちゃんと野菜を買いに行ったのに。ユゥイに教えてもらいながら、ひとつも怪我をしないで上手にカレーを作ることができたのに。
なのに、黒鋼は来ない。
(遠くに行くって、言ってた……)
ユゥイに促すように名前を呼ばれ、ファイは震える指先で携帯電話を受け取った。心臓が苦しい。いつもみたいにポカポカするような感じではなく、思い切り叩きつけられるみたいに、鋭く痛む。
「……黒わん」
恐る恐る耳に当てた携帯に向かって、ファイは黒鋼の名前を呼んだ。
『悪い……急に出張が入っちまった』
「お仕事……?」
『ああ。だから今日は』
「黒わん、ほんとに……ほんとにお仕事……?」
いつもならすぐに信じられる。
あのクリスマスの夜だって、黒鋼はちゃんと約束を守ってくれた。本当は泣いてしまいそうだったけど、あのときのファイは真っ直ぐに黒鋼を信じることができた。
それは彼が裸の黒わんを持っていたからだ。黒わんが風邪をひかないようにと、そうお願いすれば黒鋼は必ず店に来てくれる。
もちろん今だってそうだ。最後に会ったとき、ファイはいつものようにマフラーをしていない黒わんを彼に渡しているのだから。
なのに、不安で仕方がない。あのときと今とでは、何も変わらないはずなのに。
まるで何かに背を追われているようだ。焦りばかりが膨らんで、四肢が凍ったように動かない。
そのとき頭の中で声がした。ファイを蹴りつけながら、怖い顔をして怒鳴り散らしていた、あの女の人の声。
――死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!
彼女は言った。ファイが頭の悪い子供だから、弟はお前を捨てたんだと。ずっと一生、一人で泣いていればいいと。それがお似合いだと。
ファイは本当は知っている。この世界には、楽しいことや嬉しいことよりも、悲しいことの方がずっと多い。
いつかはまたユゥイとも離れ離れになってしまうかもしれない。あの月の丘で消えてしまった黒わんのように。黒鋼も、いなくなってしまうような気がした。
「黒わん……オレのこと、嫌いになった……?」
言葉にした途端、足元から崩れ落ちそうな気分になった。
黒鋼はもう来てくれないのではないか。ずっと遠くへ行ったまま、もう会えないのではないか。
「黒わん言って……嫌いになったなら、ちゃんと言って……」
電話の向こうで、黒鋼は溜息をつきながら「そんなわけねぇだろ」と言った。
『機嫌なおせ。俺だって、おまえに……』
黒鋼は、なぜか言いにくそうにその先を続けることをやめた。その沈黙がファイの不安をいっそう煽る。どうして何も言ってくれないんだろう。今、受話器の向こうで黒鋼はどんな顔をしているんだろう。
もちろんファイは黒鋼を信じている。いや、信じたいと思っている。
でも、怖い。信じるのが怖い。嫌われるのが怖い。あるとき突然、彼が消えてしまったら。
黒鋼は必ずまた来ると言っている。彼は嘘をついたことがない。いつだって優しいし、綺麗なオルゴールのペンダントもくれた。だからファイは黒鋼のことが好きで、大好きで。
大好きだから。
「もう、いい」
だから、こんなこと言いたくないけど。
ファイは気づいてしまった。辛くならずに済む方法。楽になる方法が、一つだけあることに。
「黒わん、もういいよ。もう……会いたくない……」
言った瞬間、楽になった。思った通り。心臓の痛みが、すぅっと治まっていくような気がする。
ユゥイが顔を顰め、慌ててファイの手から受話器を奪った。
「すみません……今日はちょっと様子がおかしいみたいで。いえ、いじけてるだけだと思いますから……ええ、そうですね。待ってます。じゃあ、また……」
通話を終えたユゥイは、ゆっくりと静かに息を吐き出してファイを見た。咎めるような視線に、目を合わせることができない。
「どうしてあんなこと言ったの?」
「…………嫌いになったから」
「嘘はよくないよ」
「嘘じゃないよ」
「ファイ……」
ファイは縫いかけの黒わんを掴むと、まだ何か言おうとしているユゥイに背を向け、部屋へ戻った。
***
どうしてか、部屋に戻ると治まっていたはずの心臓の痛みが蘇った。
針と糸がついたままの黒わんを机に置いて、ファイは胸を押さえながら床に崩れ落ちる。
「う……ッ、ぅ……」
呻きはすぐに嗚咽に変わった。悲しくて、心がバラバラになりそうだった。
ファイは首から下げている革紐を引っ張り、シャツの中からペンダントを取り出した。そしてそれを首から外し、思い切り床に投げつける。
一度だけ大きくバウンドしたそれは、滑るようにベッドの下に入り込んだ。
どうしてこんなに胸が痛いのか、ファイにはさっぱり分からない。
黒鋼のことを思うと心が熱くなった。お湯の中に浸かっているみたいに温かくて、そのうちだんだんのぼせたようになってきて、苦しくなった。
だけどファイはその感覚がとても好きだった。なぜか恥ずかしいような気持ちになってしまうけど、黒鋼に触れられると嬉しくて、側にいると楽しくて、会えない時間も彼を思うだけで幸せだった。
黒鋼はまた来ると言った。その言葉にきっと嘘はない。
でも怖い。あの黒わんのように、いつか何も言わずに消えてしまうのかもしれない。ファイを一人残して、遠くへ行ってしまうのかもしれない。
そうしたら、今よりもっと辛くて苦しくて、悲しい。
(だったらその前に、オレの方から嫌いになればいいんだ)
寂しいのは、大好きだから。
だけどその相手を嫌いになってしまえば、もう寂しくない。
会いたいと思うのをやめてしまえば、側にいたいと思うのをやめてしまえば。
(寂しくなくなるんだ)
嫌われる前に。置いていかれる前に。消えてしまう前に。
(なのに、どうして……)
こんなに胸が痛いんだろう。
***
「……なんだってんだよ」
タクシーの後部座席で、黒鋼は携帯のディスプレイを見つめたまま低く吐き捨てた。
ユゥイも言っていた通り、ファイの様子は明らかにおかしかった。
ここ最近の彼は以前よりも少し落ち着いていて、黒鋼の仕事へも理解を示すようになっていた。それがどうして。
(特にタイミングが悪かったのかもな……)
順調に進行していたはずの企画が先方との交渉決裂により白紙に戻り、埋め合わせとして組まれた特集のため、黒鋼は早々に地方へ飛ぶことになってしまった。
とるものもとりあえずタクシーを捕まえ、新幹線に乗るために駅へ向かう道中、ユゥイに断りの連絡を入れた結果がこれだ。まさか例のカレーのリベンジが今日だったなんて。
黒鋼は携帯をスーツのジャケットの内ポケットにしまい込むと、腕を組んで窓の外を睨み付けた。流れゆく夜の街並みを視界に収めながら、ファイの感情を押し殺したような声が頭から離れない。
『もう……会いたくない……』
どういうことだろう。
黒鋼は小さく舌打ちをする。あんなことを言われて、心穏やかでいられるはずがない。こんな気持ちの悪さを残したまま、遠い地へ赴かねばならないなんて。
やらなければならないことは山ほどある。これから向かう駅でカメラマンと合流して、新幹線に乗って、急きょ手配した安ホテルへ向かって。
突然の依頼にも快く取材を引き受けてくれた店のオーナーについて、明日は早朝から市場での取材も行われる予定になっている。
帰ったら帰ったでおそらく数日は身動きがとれない。それほどまでに、今回の企画のお蔵入りは突然で、手痛いものだった。
ついてない。そうとしか言いようがない。
「くそ……」
何がファイを追い詰めているのだろう。
そればかりが気になって、今すぐにでも運転手に行先の変更を告げてしまいたい衝動をぐっと堪えることに、黒鋼はただひたすら集中するしかなかった。
←戻る ・ 次へ→
壁の隅に追いやられ、冷たい床に座り込んでしまったファイを、冷やかな目をした中年女性が仁王立ちで見下ろしている。
『アンタ分かってるの? アンタのために躾けてやってんだよこっちは!!』
夕飯時。他の子供たちより、ほんの一瞬だけテーブルにつくのが遅かったという理由で、ファイは爪が食い込むほど強く二の腕を掴まれ、部屋の隅に引きずられた。
壁に叩きつけられる形で床にへたり込んだファイは、ただ怯えた表情で女を見上げただけだった。その目が、彼女は気に食わなかったらしい。
汚れたスリッパの足裏で思い切りファイの裸足の足を踏み、それから何度もドンドンと踏みつけた。
『反抗ばっかりして! アンタね、そんなだから弟に捨てられちまったんだよ!!』
『ッ、ち、ちが……』
『はぁ!? なに!? 違うって!? アンタが聞き分けのないクソガキだから! 弟はアンタを置いて行っちまったんだよ!! そんなことも分からないなんて、本当に頭の悪いガキだね!!』
違う違うと、何度も首を振って否定した。前髪を掴まれて引きずらそうになったが、それでも力の限り抵抗し続ける。
この人が言っていることは嘘だ。全部嘘なんだ。だってユゥイは言ってくれた。一緒がいいと言って、あんなに泣いてくれた。
本当はファイだって離れたくなかった。だけど、ここには怖い大人ばかりがいる。自分だけの力ではユゥイを守ってやれない。
寂しくて悲しくて、とても怖かったけど、それでもユゥイが大切で、大好きだったから。ファイはお兄ちゃんだったから、だから我慢した。
でも、本当は違ったんだろうか。
毎日毎日、こんな風に言われ続ける度に。
もしかしたら、ユゥイは本当に自分のことが嫌いで、一緒にいるのが嫌になったから、一人で行ってしまったんだろうかと。
暴力に屈するしかない幼いファイは、そう感じるようになっていた。
(ユゥイ、オレ……いっしょにいちゃダメだったの……?)
本当は嫌いだったの?
だから一人で行っちゃったの?
今、君は幸せ?
『泣けば済むと思って!! だったら一生メソメソ泣いてな!! 死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!』
――だけどね。
「それでもよかったんだー」
月の丘で、幼い姿をしたファイは小さな両手を後ろにやって、白い花の中をブラブラと歩いていた。
風が金色の髪を揺らして、その度に頬をくすぐられているようで肩を竦める。
「オレはユゥイが大好きだもん。ユゥイが幸せだったらいいやって思ったの。もしオレのことが嫌いで、だから一緒にいられなくなったなら……よかったんだよ、これで」
辛かったし、悲しかった。
だけどファイには大切な思い出があった。愛された記憶があった。
父親はいなかったけど、母親とユゥイと三人で小さな家に暮らしていた頃。たった一枚のクッキーですらユゥイと半分こして、二人せぇので口に放り込んだ。そうすると甘いクッキーが一段と甘く感じられて、お腹いっぱいにはならなかったけど、とても嬉しかった。ユゥイと笑い合ったことを思い出すだけで、胸が温かくなる。
だけどそれと同じくらい、あの頃に戻りたいと強く願ってもいた。あのときのまま、ずっと変わらずにいたかった。
「でもいいの。だって、今はこうして黒わんがいてくれるから」
そうだよね?
「……黒わん?」
クルリと振り向いたファイは、そこに誰もいないことに茫然とした。
月の光にほんのりと光る白い花畑。どこまでも続く美しい光景の中に、黒い犬の姿はなかった。
「どうして……?」
ずっと一緒にいてくれたのに。
寂しい夜は抱きしめてくれた。二人だけの世界にいてくれた。温かくて優しかった風が、今はこんなにも冷たい。
胸の真ん中に大きな穴が開いたみたいで、寒くて寒くて仕方がなかった。ファイは可憐な花を押し潰しながら、力なく地に膝をついた。
涙がぽろりと頬を滑り落ちる。そして堰を切ったように溢れて止まらなくなった。
我慢していたのに。黒わんが側にいてくれたから、ずっと笑っていられたのに。
本当は、ぜんぶ嘘だった。
「さみしい……」
ぜんぶぜんぶ、嘘ばかり。
「さみしいよぉ……」
ユゥイと一緒に行きたかった。離れたくなかった。寂しい。寂しい。怖い。痛い。
ここには、もう誰もいない。
「ひとりは、やだよぉ……」
黒わんも、オレを置いていくんだね。
***
カーテンの隙間から朝の光が射していた。
また夢を見ていたんだと、ファイはのろのろと起き上がりながら濡れた頬を手の甲で拭う。
今日は、施設にいた頃の夢も一緒に見たような気がする。そしてあの月の丘には、やっぱり黒わんはいなかった。
あれからずっと。クリスマスの夜に見た夢を最後に、どんなに探しても見つけ出すことができない。
ファイはベッドの枕元を忙しなく見回した。寝る間際まで抱きしめていたはずの黒わんのぬいぐるみがない。
必死で探して、ベッドの下を覗き込んでみたら、そこに黒わんが落ちていた。
いつの間に手放していたんだろう。慌てて拾い上げ、胸に抱きしめる。
「ごめんね黒わん……」
黒わんは、初めてユゥイと一緒に施設に預けられたとき、宛がわれた部屋に置き去りにされていたものだった。
誰の持ち物か分からなかったが、一目で気に入ってしまったファイは、それからずっと黒わんを宝物のように側に置いた。
黒わんが夢に出てくるようになったのは、ユゥイがいなくなってしばらく経ってからだった。
本当は寂しくて仕方がなかったファイは嬉しくて、夢の中だけが安らぎの場所になった。そこでは、ファイはいつまで経っても子供のままだった。
鏡を見る度に少しずつ大きくなっていく現実の自分とは違って、黒わんとあの月の丘で過ごすファイは小さいまま。
いつしかどちらが本当の自分なのか、ファイには分からなくなっていた。
「どうすればいいのかな……」
どうすれば、黒わんは帰ってきてくれるんだろう。
ユゥイは戻ってきてくれた。また一緒に暮らそうと言ってくれて、それからずっと側にいてくれる。悪いことをして叱られると、またお別れしなくちゃいけないような気がして悲しくなるけれど、最後には必ず抱きしめて、大好きだよと言ってくれる。
何度も何度も、愛していると言ってくれる。
だから黒わんにも戻ってきてほしい。もし怒らせてしまったなら、ちゃんとごめんなさいを言いたいから。
ファイは抱きしめていた黒わんから少しだけ身体を離して、その顔を見下ろす。頭を撫でようとしたところで、異変に気付いた。
「あ……」
よく見ると、右の耳の裏側から微かに綿が飛び出していた。
***
「ユゥイ……」
ファイが黒わんを胸に抱いて下に降りると、ユゥイはすでに着替えを終えて朝食の支度をしていた。
「おはようファイ。顔は洗った? 今パンが焼けるから……どうしたの?」
カウンター奥のキッチンでスープを温めていたユゥイは、赤い目をしてしょんぼりと俯くファイを見て表情を曇らせた。
コンロの火を止め、立ち尽くしたままのファイの側までやってきたユゥイの肩に、顔を埋める。
「怖い夢でも見たのかな? 泣いちゃった?」
「ユゥイ……黒わんが……」
「ん? なぁに?」
「黒わん、壊れた……」
ユゥイはファイが抱いている黒わんを見て、「ああ、本当だ」と言った。
「すぐに直してあげないと。これじゃ可哀想だね」
「でも……黒わん、もうボロボロだよ……」
ずっと昔から一緒にいた黒わんは、今までも何度も目や鼻や尻尾が取れかけたり、背中が破れて綿が飛び出したりして、その度に縫っては直してを繰り返してきた。
黒い糸を使っているから分かりにくいが、よく見れば彼の身体はつぎはぎだらけだ。耳が取れかけたのだってこれが初めてではない。
そんな黒わんの身体に、また針と糸を通さなくてはならないと思うと、ファイの胸は締め付けられるように痛むのだった。
「わかった。じゃあ、ボクがやっておいてあげる。それでいいかな?」
「……うん」
結局は同じことだと分かってはいても、ファイはユゥイに黒わんを預けることにした。彼はひとまず受け取ったそれをカウンターテーブルの隅に座らせて、それからファイに笑いかけると「ご飯にしよう」と言った。
でも、本当はあまり食欲がない。俯いたままのファイに、ユゥイは小さく首を傾げると顔を覗き込んでくる。
「元気ないね。そんなんじゃ黒わんが悲しむよ」
「……うん」
「それにほら、今日はおっきい黒わんも遊びに来るって言ってたよ。そんな顔してたら心配させちゃう」
「黒わん、来るの?」
「来るよ。お仕事が終わったらって言ってたから、夜ご飯は一緒に食べられるんじゃないかな?」
起きてからずっと悲しかった気分が、少しずつ温かいものに包まれていくような気がした。黒鋼が来る。嬉しさが込み上げて、空っぽだった胸をゆっくりと満たす。
ファイは頬がカイロを押し当てたみたいに温かくなるのを感じた。それはだんだん熱いくらいになってきて、火傷しそうなほどになってくると、どうしてか胸が苦しくなる。太鼓が鳴るように忙しなく音を刻みはじめる。
黒鋼とクリスマスの夜にキスをしてから、彼のことを考えたり、一緒にいたりするといつもこうだ。どうしてなのか分からないし、胸がきゅうっとなるのは苦しいけど、だけど嬉しい。
ユゥイはファイが表情を明るくしたことに安堵して笑うと、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。
「ファイ、おっきい黒わんのために、一緒にカレー作って待ってようか?」
「!」
「そうだなぁ、カボチャがいっぱい入った野菜カレーなんてどう?」
「作る! 今度はちゃんと成功させるよ!」
「よし、じゃあ後でお使い頼んじゃおうかな? お野菜一人でも買いに行ける?」
「行ける! 任せてー!!」
ファイの心の中は、ユゥイと一緒にカレーを作ることと、それを黒鋼と食べることでいっぱいになった。
このあいだは勝手なことをして大失敗してしまったけれど、ユゥイはあのとき約束したことを覚えていてくれた。
「じゃあその前に早く朝ご飯食べちゃお」
「わかったー!」
そうと決まればまずは洗顔と歯磨きを済まそうと、ファイは元気に二階へと続く階段に向かって駆け出そうとした。けれどふと足を止めて、カウンターテーブルの上に座る耳の解れた黒わんを見る。
(やっぱり……ちゃんと自分でやろ……)
黒わんの一番の友達はファイだから。
ちゃんと綺麗に耳を直すことができたら、戻ってきてくれるかもしれない。
また少し不安な気持ちがぶり返しそうになるのを押しやって、ファイは階段を力いっぱい駆け上がった。
***
「そうですか……じゃあ今日は……」
夕方、ユゥイの携帯が鳴った。
それに応じた彼の声がどんどん沈んでいくのを聞いて、ファイはカウンター席で黒わんの耳を縫う手を止め、顔を上げる。
「あぁ、いえ……今日はファイと一緒にカレーを作ったんです。美味しくできたので、食べてほしかったんですが……」
バツの悪そうな視線を送って来るユゥイに、ファイは咄嗟に席を立った。
相手はきっと黒鋼だ。この様子からすると、もしかしたら。
「ユゥイ……? 黒わん、来ないの……?」
「ちょっと待ってくださいね。今ファイに変わりますから」
「ねぇユゥイ、黒わん来ない……?」
「お仕事でね、急に遠くへ行かなくちゃいけないんだって……。ほら、お話して」
「遠くに……?」
差し出された携帯を青ざめた表情で見つめて、ファイは首を左右に振った。
「やだ」
「どうして? ほら、そんなこと言わないで」
「やだったらやだ! 話したくない!」
「……いま話しておかないと、次に来れるのは来週だって」
「来週って……」
明日?
いつものように聞くことはできなかった。
黒鋼は来ない。朝から楽しみにしていのに。一人でちゃんと野菜を買いに行ったのに。ユゥイに教えてもらいながら、ひとつも怪我をしないで上手にカレーを作ることができたのに。
なのに、黒鋼は来ない。
(遠くに行くって、言ってた……)
ユゥイに促すように名前を呼ばれ、ファイは震える指先で携帯電話を受け取った。心臓が苦しい。いつもみたいにポカポカするような感じではなく、思い切り叩きつけられるみたいに、鋭く痛む。
「……黒わん」
恐る恐る耳に当てた携帯に向かって、ファイは黒鋼の名前を呼んだ。
『悪い……急に出張が入っちまった』
「お仕事……?」
『ああ。だから今日は』
「黒わん、ほんとに……ほんとにお仕事……?」
いつもならすぐに信じられる。
あのクリスマスの夜だって、黒鋼はちゃんと約束を守ってくれた。本当は泣いてしまいそうだったけど、あのときのファイは真っ直ぐに黒鋼を信じることができた。
それは彼が裸の黒わんを持っていたからだ。黒わんが風邪をひかないようにと、そうお願いすれば黒鋼は必ず店に来てくれる。
もちろん今だってそうだ。最後に会ったとき、ファイはいつものようにマフラーをしていない黒わんを彼に渡しているのだから。
なのに、不安で仕方がない。あのときと今とでは、何も変わらないはずなのに。
まるで何かに背を追われているようだ。焦りばかりが膨らんで、四肢が凍ったように動かない。
そのとき頭の中で声がした。ファイを蹴りつけながら、怖い顔をして怒鳴り散らしていた、あの女の人の声。
――死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!
彼女は言った。ファイが頭の悪い子供だから、弟はお前を捨てたんだと。ずっと一生、一人で泣いていればいいと。それがお似合いだと。
ファイは本当は知っている。この世界には、楽しいことや嬉しいことよりも、悲しいことの方がずっと多い。
いつかはまたユゥイとも離れ離れになってしまうかもしれない。あの月の丘で消えてしまった黒わんのように。黒鋼も、いなくなってしまうような気がした。
「黒わん……オレのこと、嫌いになった……?」
言葉にした途端、足元から崩れ落ちそうな気分になった。
黒鋼はもう来てくれないのではないか。ずっと遠くへ行ったまま、もう会えないのではないか。
「黒わん言って……嫌いになったなら、ちゃんと言って……」
電話の向こうで、黒鋼は溜息をつきながら「そんなわけねぇだろ」と言った。
『機嫌なおせ。俺だって、おまえに……』
黒鋼は、なぜか言いにくそうにその先を続けることをやめた。その沈黙がファイの不安をいっそう煽る。どうして何も言ってくれないんだろう。今、受話器の向こうで黒鋼はどんな顔をしているんだろう。
もちろんファイは黒鋼を信じている。いや、信じたいと思っている。
でも、怖い。信じるのが怖い。嫌われるのが怖い。あるとき突然、彼が消えてしまったら。
黒鋼は必ずまた来ると言っている。彼は嘘をついたことがない。いつだって優しいし、綺麗なオルゴールのペンダントもくれた。だからファイは黒鋼のことが好きで、大好きで。
大好きだから。
「もう、いい」
だから、こんなこと言いたくないけど。
ファイは気づいてしまった。辛くならずに済む方法。楽になる方法が、一つだけあることに。
「黒わん、もういいよ。もう……会いたくない……」
言った瞬間、楽になった。思った通り。心臓の痛みが、すぅっと治まっていくような気がする。
ユゥイが顔を顰め、慌ててファイの手から受話器を奪った。
「すみません……今日はちょっと様子がおかしいみたいで。いえ、いじけてるだけだと思いますから……ええ、そうですね。待ってます。じゃあ、また……」
通話を終えたユゥイは、ゆっくりと静かに息を吐き出してファイを見た。咎めるような視線に、目を合わせることができない。
「どうしてあんなこと言ったの?」
「…………嫌いになったから」
「嘘はよくないよ」
「嘘じゃないよ」
「ファイ……」
ファイは縫いかけの黒わんを掴むと、まだ何か言おうとしているユゥイに背を向け、部屋へ戻った。
***
どうしてか、部屋に戻ると治まっていたはずの心臓の痛みが蘇った。
針と糸がついたままの黒わんを机に置いて、ファイは胸を押さえながら床に崩れ落ちる。
「う……ッ、ぅ……」
呻きはすぐに嗚咽に変わった。悲しくて、心がバラバラになりそうだった。
ファイは首から下げている革紐を引っ張り、シャツの中からペンダントを取り出した。そしてそれを首から外し、思い切り床に投げつける。
一度だけ大きくバウンドしたそれは、滑るようにベッドの下に入り込んだ。
どうしてこんなに胸が痛いのか、ファイにはさっぱり分からない。
黒鋼のことを思うと心が熱くなった。お湯の中に浸かっているみたいに温かくて、そのうちだんだんのぼせたようになってきて、苦しくなった。
だけどファイはその感覚がとても好きだった。なぜか恥ずかしいような気持ちになってしまうけど、黒鋼に触れられると嬉しくて、側にいると楽しくて、会えない時間も彼を思うだけで幸せだった。
黒鋼はまた来ると言った。その言葉にきっと嘘はない。
でも怖い。あの黒わんのように、いつか何も言わずに消えてしまうのかもしれない。ファイを一人残して、遠くへ行ってしまうのかもしれない。
そうしたら、今よりもっと辛くて苦しくて、悲しい。
(だったらその前に、オレの方から嫌いになればいいんだ)
寂しいのは、大好きだから。
だけどその相手を嫌いになってしまえば、もう寂しくない。
会いたいと思うのをやめてしまえば、側にいたいと思うのをやめてしまえば。
(寂しくなくなるんだ)
嫌われる前に。置いていかれる前に。消えてしまう前に。
(なのに、どうして……)
こんなに胸が痛いんだろう。
***
「……なんだってんだよ」
タクシーの後部座席で、黒鋼は携帯のディスプレイを見つめたまま低く吐き捨てた。
ユゥイも言っていた通り、ファイの様子は明らかにおかしかった。
ここ最近の彼は以前よりも少し落ち着いていて、黒鋼の仕事へも理解を示すようになっていた。それがどうして。
(特にタイミングが悪かったのかもな……)
順調に進行していたはずの企画が先方との交渉決裂により白紙に戻り、埋め合わせとして組まれた特集のため、黒鋼は早々に地方へ飛ぶことになってしまった。
とるものもとりあえずタクシーを捕まえ、新幹線に乗るために駅へ向かう道中、ユゥイに断りの連絡を入れた結果がこれだ。まさか例のカレーのリベンジが今日だったなんて。
黒鋼は携帯をスーツのジャケットの内ポケットにしまい込むと、腕を組んで窓の外を睨み付けた。流れゆく夜の街並みを視界に収めながら、ファイの感情を押し殺したような声が頭から離れない。
『もう……会いたくない……』
どういうことだろう。
黒鋼は小さく舌打ちをする。あんなことを言われて、心穏やかでいられるはずがない。こんな気持ちの悪さを残したまま、遠い地へ赴かねばならないなんて。
やらなければならないことは山ほどある。これから向かう駅でカメラマンと合流して、新幹線に乗って、急きょ手配した安ホテルへ向かって。
突然の依頼にも快く取材を引き受けてくれた店のオーナーについて、明日は早朝から市場での取材も行われる予定になっている。
帰ったら帰ったでおそらく数日は身動きがとれない。それほどまでに、今回の企画のお蔵入りは突然で、手痛いものだった。
ついてない。そうとしか言いようがない。
「くそ……」
何がファイを追い詰めているのだろう。
そればかりが気になって、今すぐにでも運転手に行先の変更を告げてしまいたい衝動をぐっと堪えることに、黒鋼はただひたすら集中するしかなかった。
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正月明けの、ある寒い日のことだった。
「それじゃあ行ってきまーす!」
白いコートに青いマフラー、さらにベージュの耳当てと手袋までして完全防備のファイが、買い物籠を腕に引っ掛けて元気よく店を飛び出して行った。
ユゥイはカウンターの奥から手を振って、扉が完全に閉まりきってから携帯電話を取り出し、電話をかけはじめる。
「……ボクです。目標、出発しました。よろしくお願いします」
『了解。目標を確認した。追跡する』
双方が手短に会話を切り上げて、場面は寒空の下。
黒鋼はいつもの黒ジャケットに赤マフラー、そしてマスクとサングラスを装備し、あからさまに不審者丸出しで電柱の陰に佇んでいた。
通話を終えた携帯をポケットにねじ込み、商店街の通りへ入ってゆくファイの背を、一定の間隔を保ちながら尾行する。
(なにやってんだ俺は……)
もちろん黒鋼は正気である。
だからこそこれが正気の沙汰じゃないことは理解していた。
だが、一度走り出してしまった運命の歯車は止まらない……そう、これは決して失敗の許されない、命がけのミッションなのである。
……というのはかなり大袈裟だが、今日はファイの晴れの舞台だ。
見た目は大人、頭脳は子供の彼は今日、人生初のお使いに挑戦している。
保護者であるユゥイは言った。
『今まではあまりにも過保護に接し過ぎていた。だからあの子には少し冒険させて、この広い世界を知ってほしい』
遅くね?
と思いはしたが、最近すっかり笑顔も明るくなって、ほんのちょっとだけバイトで入っている男子高校生(双子・兄)に対して優しくなったユゥイは、彼なりに兄離れしようと前向きになることが出来たようだった。
黒鋼にその壮絶な過去を語り、儚く笑う姿は見るからに長生きしなさそうな幸薄オーラを纏っていたが、そんな彼がこうしてファイを一人前として扱おうとする姿は、友人として感慨深いものがある。
今日はその第一歩。こうして逐一連絡を取り合える体勢で、鞄にカメラを仕込むスタッフよろしく監視をつけようというのだから、まだまだ十分すぎるほど過保護なのだが……。
もちろん、それに全面的に協力している黒鋼も大概だ。
しかもただそこにいるだけでも目立つ自分に、こっそり隠れて様子を窺うなんて真似が、果たしてできるのか。不安と疑問ばかりが膨らむ中、とにかく黒鋼は店でヤキモキしながら待つユゥイに変わり、隠密行動を余儀なくてされている。
そうこうしているうちに、まずは最初のミッションである豆腐屋に到着した。
ここで買うものは豆腐二丁。今夜はみんなで鍋をしようという口実のもと、ユゥイがウッカリ(わざと)買い漏らしてしまったものを補填するというのがファイの使命だ。
ちなみに買い物メモは以下である。
『かいものリスト
・おとうふ二丁(とうふ屋)
・はくさい1/2(青果店)
・ポテトチップス(スーパー)』
最後のポテトチップスはもちろん鍋の具材ではなく、ファイのおやつである。
ルート的にはまずは近場の商店街で豆腐と白菜を購入し、そのあと駅前の銀杏並木の並びにあるスーパーで目当てのものを買ってから帰宅、ということになるだろう。
黒鋼は魚屋の真横に立ててある『不審者を見かけたら110番』という看板にしゃがんで身を隠し、順調に豆腐屋に到着したファイの姿を確認すると、報告のために携帯を取り出した。
が、なぜかファイは豆腐屋を素通りした。
(おい、どうした? 豆腐だ、まずは豆腐を買え!)
必死でココロ通信を試みるが、もちろんファイには届いていない。
彼は豆腐屋を通り過ぎ、白菜を買うはずの青果店すらスルーすると、商店街を出て駅前の通りに出た。
ヒヨコのような金髪頭を追いかけて、黒鋼も広い通りへ足を向ける。彼は裸の銀杏の枝を見上げ、「キラキラしてないねー」と呟きながらスーパーの手前の喫茶店に入った。
(喫茶店!? なんでだ!? おまえんち喫茶店だろ!! なんでわざわざ入るんだ!? しかもこんな近場に!! もう疲れたのか!?)
訳が分からないながらも、ファイが窓際の席につくのを確認してから黒鋼も店内に入る。ファイがメニュー表に夢中になっている隙をついて、植物が並ぶ仕切りを挟んだ隣の通路に席を陣取ると、念のため仕込んであった新聞紙を開いて顔を隠しながら(すでにマスクとグラサンはしているが)横目でファイを窺った。
「お客様、メニューはお決まりですか?」
ファイの元に、ユゥイと似たようなギャルソン服の男がやって来る。なかなかイケメンだ。なぜか黒鋼の眉間の皺が深くなった。
「うーんと、この、バナナにチョコとクリームいっぱいのやつは」
「ショコラバナナのフレンチトーストでございますね」
「ちょこらばななの」
「ショコラバナナでございます」
「はれんちとーすと」
「フレンチトーストでございます、お客様」
(ああくそ! 別にいいだろ! ちょっと噛んじまったぐれぇでゴチャゴチャ言うな! 可愛いじゃねぇか!!)
「あの、お客様」
(だいたいチョコラでもいいだろうが! チョコかかってんだからチョコラでも別にいいだろ細けぇな!)
「お客様、メニューはお決まりでしょうか……?」
(まぁでもはれんちってのは不味かったな、そいつは仕方ねぇな)
「お客様ー!」
「うるせぇ!! 黙って水持ってこい!!」
一瞬、店内が静まり返った。
しまった、と思ったが、ファイは何度かキョロキョロと視線を彷徨わせ、「なんかおっきい声がしたー」と言うだけですぐにまたメニュー表に夢中になった。
危なかった……。
黒鋼は震えあがっているウエイトレスの女に、声を潜めて「なんでもいいから茶ぁ持ってこい」とだけ言って下がらせる。(水はすでに置いてあったので)
その間もファイとイケメンの攻防、いや、口防は続いていた。
「ちょこ……ショコラバナナのやつの、かろりーはなんキロですかー?」
「620キロカロリーとなっております」
「うーむむ……じゃあこっちの赤いシロップのは」
「フランボワーズソースのフレンチトーストでございますね。そちらは588キロカロリーでございます」
「うーん……かろりーが高いですねー」
(なんだ……? あいつダイエットでもしてんのか? 必要ねぇだろ)
ファイはやたらとカロリーを気にして、次から次へとスイーツを指さしては店員に尋ねている。
「お客様、カロリーが気になるようでしたら、こちらのモンブランはいかがでしょう? 当店のスイーツでは最もカロリーの低い、235キロカロリーとなっておりますが」
「んー……うん、じゃあそれにしようかなー」
「かしこまりました」
ようやく解放された店員は、少しゲッソリした面持ちで店の奥へ引っ込んで行った。
やがて運ばれてきたモンブランを食べて、ファイは「ユゥイのが美味しいー」と失礼なことを言っている。
黒鋼は彼が食べるのをある程度見届けたあと、まったく口をつけずに冷め切ってしまった紅茶と、店員に言ってファイのテーブルの分の会計を済ませて店を出た。(どんな人間が支払ったかは絶対に言うなと口止めしといた)
そしてまた電柱の陰に身を寄せて、ファイが店から出てくるのを確認する。
「このお店ってタダなんだー凄いなー」
ファイは呑気に言うと、また通りを歩きはじめる。ちょうどスーパーがあるのはこの先だ。もしかしたら重量的に軽いものから先に済ませる作戦なのかもしれない。
どうせ同じだけ距離を歩くなら、白菜や豆腐を持って移動するより確かに効率がいい。意外と考えてるんだな……と感心する黒鋼だったが、なぜかスーパーをスルーしてのこのこと歩いて行くファイに衝撃を受けた。
(お、おい! スーパー通り過ぎてんぞ! おまえの好きなポテトチップスはそこだ! そこだぞ!!)
彼は一体どこへ向かおうとしているのか、黒鋼はそれを追いかけながらポケットから携帯を取り出し、ユゥイの番号にかける。
『ちょっと、いつまで待たせるんですか。あんまり遅いから豆腐屋まで見に行っちゃったじゃないですか』
「うるせぇ! おまえの兄貴は一体なにを考えてやがるんだ!」
どういうことかと不審そうなオーラを出すユゥイに、黒鋼はたった今起こった喫茶店での出来事を簡潔に伝えた。
するとユゥイは「あぁ~」と納得したような声を上げる。
「なんだ? どういうことだ?」
『サクラちゃんが最近カロリーを気にし始めたんですよ。女の子ですよねぇ。で、うちのメニューは全体的にカロリーが高いから、少しレシピを見直そうってことになって』
女性のお客さんが圧倒的ですからね、と言うユゥイに黒鋼も納得する。
つまりあれはちょっとした敵情視察だったというわけだ。
そんなことを話しているうちに、ファイがコンビニに入るのを見て、黒鋼はひとまず通話を切った。
流石にコンビニは店内が狭すぎて中に入れないでいると、すぐに出てきたファイはなぜか手に巨大なコッペパンを手にしていた。
「これこれー! このおっきいパンはここじゃないとないんだよねー!」
一体なんのつもりだろうか。さきほど喫茶店でモンブランを食べていたはずだが、腹でも減っているのか。
再び歩き出したファイの後をつけながら首を傾げていると、彼はひょいっと横道にそれて姿を消した。
少し小走りで追いかければ、そこは大きな公園だった。
公園で優雅にコッペパンを食うつもりなのか、とにかく茂みや太い木が多くある空間はまぁまぁ身を隠しやすい。
曲がりくねった道を鼻歌を歌いながら歩くファイから僅かに距離を取り、茂みの向こうを腰を屈めて移動する。
平日の昼間、公園内はあまり人がいなかった。季節的にこの寒さではOLやサラリーマンも外で弁当をつつく気にはなれないのかもしれない。
「ふー、けっこう歩いたなー」
やがてファイと尾行中の黒鋼がたどり着いたのは公園の中央だった。開けた空間の真ん中に噴水があり、その周りを丸く縁取るように等間隔に設置されたベンチにファイが腰かける。
黒鋼はそのベンチから3メートルほど離れた背後の木に身を隠した。思いっきりはみ出ているが、とりあえず気合いで気配を殺す。
今からコッペパンタイムが始まるのだろうか。ひとまずユゥイに状況メールでもするかと携帯を取り出しかけたところで、ファイの足元に一匹の鳩がやってくる。
「あ、いたいたー! 鳩先輩、パン買ってきましたー!」
おまえはヤンキーのパシリか……。
目を見張る黒鋼の視界の先で、ファイは千切ったパンを鳩に与える。気配を察知した他の鳩たちがどんどん集まり、彼の周りに群がり始めた。
「うふふ、慌てなくてもいっぱいあるからねー」
ポッポポッポと忙しない鳩たちにパンを撒きながら、ファイが楽しそうに笑っている。あれは鳩用のパンだったということか。
全てのパンを千切り終えても、鳩たちはファイの側を離れなかった。腕にしがみついたり、肩に乗ったり、膝の上でくつろぎだす鳩も現れだして、すっかり手懐けている。
「鳩先輩も寒いんだねー。くっついてるとあったかいー? あ、そうだ」
ファイは首に巻いているマフラーの中に手を突っ込むと、そこからズルリと何かを取り出す。それは黒鋼がクリスマスの夜に贈った、木製のオルゴールペンダントだった。
「いいもの見せてあげるー。これね、可愛い音が鳴るんだよー」
黒わんにもらったの、と言って笑いながらネジを巻く姿に、黒鋼はジン……とした。ああやっていつも身に着けているのか。ゆったりとした公園の風景に、オルゴールの可憐なメロディが溶けるように馴染む。鳩たちは首を傾げ、ファイはのんびりと身体を左右に揺らして曲に聞き入っていた。
(ほっといても大丈夫なのかもしれねぇな……)
もしかしたら、普段ほとんど一人で外に出してもらえなかったファイは、散歩気分で初めてのお使いを満喫しているのかもしれない。
黒鋼は肩から力が抜けるのを感じて小さく笑った。
晴れ舞台だなんだと、黒鋼やユゥイがこうして気を張らずとも、彼は自分の思う通り、気ままに一人の時間を過ごしている。
黒鋼がそっとこの場を去ったとしても、ファイはちゃんとメモの通りに必要なものを購入して、無事に帰って来るに違いない。
ならば先に店に戻って、ファイを驚かせよう。彼は黒鋼が来るのは晩飯時だと思っているはずだ。だからこんな早い時間に来ている姿を見たら、きっと喜んでくれるに違いない。
そうと決まればとっとと帰ろうと、黒鋼が身を隠していた木から離れかけたとき、遠くから数人の男がファイに向かって歩いてくるのが見えた。
(なんだ……?)
彼らは鳩まみれのファイを見ると、「オー」とか「イエー」なんて浮かれた声を上げて笑顔を浮かべる。全員外人だ。
旅行者と思しきその外人たちは、大きなリュックを背負って地図を手にファイに話しかけた。驚いた鳩が一斉に飛び去ってゆく。
「Excuse me, I want to go to the station, where should I go?」
※すんません、駅に行きたいんですけど、どっちに行ったらいいですかね?
「わぁ……! が、ガイジンさんだぁ……どうしよー!」
明らかに驚いているファイは、咄嗟に立ち上がると不安そうな表情を浮かべる。
いや、おまえも見た目は外人だぞ、と思いはしたがファイもユゥイも日本育ちのはずだ。日本語すら拙いファイが外人を相手にできるはずもなく、しかもその中の一人が思い切りファイの肩を抱き寄せるので、黒鋼は額に青筋を立てると木陰からベンチに向かって一歩踏み出した。そのとき。
「In order to go to a station, please come out of this park and turn to the left immediately!」
※駅に行くためには、この公園を出てすぐに左へ行けばいいですよー!
ズサァッと音を立てて黒鋼は派手にこけた。その拍子にサングラスとマスクが思いっきりズレる。
「喋れんのかよ!! しかも流暢だなおい!!」
「あれー? 黒わんどうしてこんなところにー?」
突然ツッコミと共に姿を現した(しかも地面に膝をついている)黒鋼に、ファイは青い瞳を丸く見開いて驚いた。
駅の方向を教えられた外人は、またしても「オー、イエー」と声を上げるとファイに向かって手の平を翳す。
「イエーイ!」
ファイは笑顔で彼らとハイタッチして、去ってゆく姿に手を振ったあと、改めて黒鋼の方を向いて瞬きを繰り返した。
「黒わん、そんなとこにお膝ついたら汚いよー」
「くそ……」
「転んじゃったのー?」
黒鋼の苦労など知りもしない彼は、ベンチを迂回して側までやってくると、「はい」と手を差し出してくる。
一瞬叩き落としたいような気もしたが、素直に手を取り立ち上がる。
「きぐうだねー! オレもね、いまお買い物のついでにお散歩してたのー! 黒わんは? お仕事お休みだったのー?」
ずっとおまえをストーキングしていたんだとは、口が裂けても言えなかった。
こうなったらもう変装(?)も意味がない。ズレているサングラスとぶら下がっているだけになってしまったマスクを取り去り、ポケットに押し込めた。
「お、おう……俺も散歩だ。おまえんとこに行くついでにな」
「あれー? でも今日は夜じゃないと来れないって……」
「……急に時間が開いた」
「そうだったんだー!」
ファイは嬉しそうに黒鋼の胸に飛び込むと、ぎゅうっとしがみついてきた。
結局、作戦は失敗に終わってしまったが、彼が一人でも十分やって行けるくらいには逞しいということが分かっただけでも、きっとユゥイも安心するだろう。
それにしても、やっぱり自分には隠密行動は無理だったなと、黒鋼は苦笑しながらファイの頭をグリグリと撫でた。
「立派だな、おまえは」
「りっぱー? えらいってことー?」
「そうだ。おまえはえらい」
「えへへー」
ファイは一体なにを褒められているのか分からない様子だったが、頬を赤らめて照れ笑いを浮かべた。
そしてその後、黒鋼とファイは一緒に買い物をしながら、結局揃って店に帰ることになったのだった。
←戻る ・ 次へ→
「それじゃあ行ってきまーす!」
白いコートに青いマフラー、さらにベージュの耳当てと手袋までして完全防備のファイが、買い物籠を腕に引っ掛けて元気よく店を飛び出して行った。
ユゥイはカウンターの奥から手を振って、扉が完全に閉まりきってから携帯電話を取り出し、電話をかけはじめる。
「……ボクです。目標、出発しました。よろしくお願いします」
『了解。目標を確認した。追跡する』
双方が手短に会話を切り上げて、場面は寒空の下。
黒鋼はいつもの黒ジャケットに赤マフラー、そしてマスクとサングラスを装備し、あからさまに不審者丸出しで電柱の陰に佇んでいた。
通話を終えた携帯をポケットにねじ込み、商店街の通りへ入ってゆくファイの背を、一定の間隔を保ちながら尾行する。
(なにやってんだ俺は……)
もちろん黒鋼は正気である。
だからこそこれが正気の沙汰じゃないことは理解していた。
だが、一度走り出してしまった運命の歯車は止まらない……そう、これは決して失敗の許されない、命がけのミッションなのである。
……というのはかなり大袈裟だが、今日はファイの晴れの舞台だ。
見た目は大人、頭脳は子供の彼は今日、人生初のお使いに挑戦している。
保護者であるユゥイは言った。
『今まではあまりにも過保護に接し過ぎていた。だからあの子には少し冒険させて、この広い世界を知ってほしい』
遅くね?
と思いはしたが、最近すっかり笑顔も明るくなって、ほんのちょっとだけバイトで入っている男子高校生(双子・兄)に対して優しくなったユゥイは、彼なりに兄離れしようと前向きになることが出来たようだった。
黒鋼にその壮絶な過去を語り、儚く笑う姿は見るからに長生きしなさそうな幸薄オーラを纏っていたが、そんな彼がこうしてファイを一人前として扱おうとする姿は、友人として感慨深いものがある。
今日はその第一歩。こうして逐一連絡を取り合える体勢で、鞄にカメラを仕込むスタッフよろしく監視をつけようというのだから、まだまだ十分すぎるほど過保護なのだが……。
もちろん、それに全面的に協力している黒鋼も大概だ。
しかもただそこにいるだけでも目立つ自分に、こっそり隠れて様子を窺うなんて真似が、果たしてできるのか。不安と疑問ばかりが膨らむ中、とにかく黒鋼は店でヤキモキしながら待つユゥイに変わり、隠密行動を余儀なくてされている。
そうこうしているうちに、まずは最初のミッションである豆腐屋に到着した。
ここで買うものは豆腐二丁。今夜はみんなで鍋をしようという口実のもと、ユゥイがウッカリ(わざと)買い漏らしてしまったものを補填するというのがファイの使命だ。
ちなみに買い物メモは以下である。
『かいものリスト
・おとうふ二丁(とうふ屋)
・はくさい1/2(青果店)
・ポテトチップス(スーパー)』
最後のポテトチップスはもちろん鍋の具材ではなく、ファイのおやつである。
ルート的にはまずは近場の商店街で豆腐と白菜を購入し、そのあと駅前の銀杏並木の並びにあるスーパーで目当てのものを買ってから帰宅、ということになるだろう。
黒鋼は魚屋の真横に立ててある『不審者を見かけたら110番』という看板にしゃがんで身を隠し、順調に豆腐屋に到着したファイの姿を確認すると、報告のために携帯を取り出した。
が、なぜかファイは豆腐屋を素通りした。
(おい、どうした? 豆腐だ、まずは豆腐を買え!)
必死でココロ通信を試みるが、もちろんファイには届いていない。
彼は豆腐屋を通り過ぎ、白菜を買うはずの青果店すらスルーすると、商店街を出て駅前の通りに出た。
ヒヨコのような金髪頭を追いかけて、黒鋼も広い通りへ足を向ける。彼は裸の銀杏の枝を見上げ、「キラキラしてないねー」と呟きながらスーパーの手前の喫茶店に入った。
(喫茶店!? なんでだ!? おまえんち喫茶店だろ!! なんでわざわざ入るんだ!? しかもこんな近場に!! もう疲れたのか!?)
訳が分からないながらも、ファイが窓際の席につくのを確認してから黒鋼も店内に入る。ファイがメニュー表に夢中になっている隙をついて、植物が並ぶ仕切りを挟んだ隣の通路に席を陣取ると、念のため仕込んであった新聞紙を開いて顔を隠しながら(すでにマスクとグラサンはしているが)横目でファイを窺った。
「お客様、メニューはお決まりですか?」
ファイの元に、ユゥイと似たようなギャルソン服の男がやって来る。なかなかイケメンだ。なぜか黒鋼の眉間の皺が深くなった。
「うーんと、この、バナナにチョコとクリームいっぱいのやつは」
「ショコラバナナのフレンチトーストでございますね」
「ちょこらばななの」
「ショコラバナナでございます」
「はれんちとーすと」
「フレンチトーストでございます、お客様」
(ああくそ! 別にいいだろ! ちょっと噛んじまったぐれぇでゴチャゴチャ言うな! 可愛いじゃねぇか!!)
「あの、お客様」
(だいたいチョコラでもいいだろうが! チョコかかってんだからチョコラでも別にいいだろ細けぇな!)
「お客様、メニューはお決まりでしょうか……?」
(まぁでもはれんちってのは不味かったな、そいつは仕方ねぇな)
「お客様ー!」
「うるせぇ!! 黙って水持ってこい!!」
一瞬、店内が静まり返った。
しまった、と思ったが、ファイは何度かキョロキョロと視線を彷徨わせ、「なんかおっきい声がしたー」と言うだけですぐにまたメニュー表に夢中になった。
危なかった……。
黒鋼は震えあがっているウエイトレスの女に、声を潜めて「なんでもいいから茶ぁ持ってこい」とだけ言って下がらせる。(水はすでに置いてあったので)
その間もファイとイケメンの攻防、いや、口防は続いていた。
「ちょこ……ショコラバナナのやつの、かろりーはなんキロですかー?」
「620キロカロリーとなっております」
「うーむむ……じゃあこっちの赤いシロップのは」
「フランボワーズソースのフレンチトーストでございますね。そちらは588キロカロリーでございます」
「うーん……かろりーが高いですねー」
(なんだ……? あいつダイエットでもしてんのか? 必要ねぇだろ)
ファイはやたらとカロリーを気にして、次から次へとスイーツを指さしては店員に尋ねている。
「お客様、カロリーが気になるようでしたら、こちらのモンブランはいかがでしょう? 当店のスイーツでは最もカロリーの低い、235キロカロリーとなっておりますが」
「んー……うん、じゃあそれにしようかなー」
「かしこまりました」
ようやく解放された店員は、少しゲッソリした面持ちで店の奥へ引っ込んで行った。
やがて運ばれてきたモンブランを食べて、ファイは「ユゥイのが美味しいー」と失礼なことを言っている。
黒鋼は彼が食べるのをある程度見届けたあと、まったく口をつけずに冷め切ってしまった紅茶と、店員に言ってファイのテーブルの分の会計を済ませて店を出た。(どんな人間が支払ったかは絶対に言うなと口止めしといた)
そしてまた電柱の陰に身を寄せて、ファイが店から出てくるのを確認する。
「このお店ってタダなんだー凄いなー」
ファイは呑気に言うと、また通りを歩きはじめる。ちょうどスーパーがあるのはこの先だ。もしかしたら重量的に軽いものから先に済ませる作戦なのかもしれない。
どうせ同じだけ距離を歩くなら、白菜や豆腐を持って移動するより確かに効率がいい。意外と考えてるんだな……と感心する黒鋼だったが、なぜかスーパーをスルーしてのこのこと歩いて行くファイに衝撃を受けた。
(お、おい! スーパー通り過ぎてんぞ! おまえの好きなポテトチップスはそこだ! そこだぞ!!)
彼は一体どこへ向かおうとしているのか、黒鋼はそれを追いかけながらポケットから携帯を取り出し、ユゥイの番号にかける。
『ちょっと、いつまで待たせるんですか。あんまり遅いから豆腐屋まで見に行っちゃったじゃないですか』
「うるせぇ! おまえの兄貴は一体なにを考えてやがるんだ!」
どういうことかと不審そうなオーラを出すユゥイに、黒鋼はたった今起こった喫茶店での出来事を簡潔に伝えた。
するとユゥイは「あぁ~」と納得したような声を上げる。
「なんだ? どういうことだ?」
『サクラちゃんが最近カロリーを気にし始めたんですよ。女の子ですよねぇ。で、うちのメニューは全体的にカロリーが高いから、少しレシピを見直そうってことになって』
女性のお客さんが圧倒的ですからね、と言うユゥイに黒鋼も納得する。
つまりあれはちょっとした敵情視察だったというわけだ。
そんなことを話しているうちに、ファイがコンビニに入るのを見て、黒鋼はひとまず通話を切った。
流石にコンビニは店内が狭すぎて中に入れないでいると、すぐに出てきたファイはなぜか手に巨大なコッペパンを手にしていた。
「これこれー! このおっきいパンはここじゃないとないんだよねー!」
一体なんのつもりだろうか。さきほど喫茶店でモンブランを食べていたはずだが、腹でも減っているのか。
再び歩き出したファイの後をつけながら首を傾げていると、彼はひょいっと横道にそれて姿を消した。
少し小走りで追いかければ、そこは大きな公園だった。
公園で優雅にコッペパンを食うつもりなのか、とにかく茂みや太い木が多くある空間はまぁまぁ身を隠しやすい。
曲がりくねった道を鼻歌を歌いながら歩くファイから僅かに距離を取り、茂みの向こうを腰を屈めて移動する。
平日の昼間、公園内はあまり人がいなかった。季節的にこの寒さではOLやサラリーマンも外で弁当をつつく気にはなれないのかもしれない。
「ふー、けっこう歩いたなー」
やがてファイと尾行中の黒鋼がたどり着いたのは公園の中央だった。開けた空間の真ん中に噴水があり、その周りを丸く縁取るように等間隔に設置されたベンチにファイが腰かける。
黒鋼はそのベンチから3メートルほど離れた背後の木に身を隠した。思いっきりはみ出ているが、とりあえず気合いで気配を殺す。
今からコッペパンタイムが始まるのだろうか。ひとまずユゥイに状況メールでもするかと携帯を取り出しかけたところで、ファイの足元に一匹の鳩がやってくる。
「あ、いたいたー! 鳩先輩、パン買ってきましたー!」
おまえはヤンキーのパシリか……。
目を見張る黒鋼の視界の先で、ファイは千切ったパンを鳩に与える。気配を察知した他の鳩たちがどんどん集まり、彼の周りに群がり始めた。
「うふふ、慌てなくてもいっぱいあるからねー」
ポッポポッポと忙しない鳩たちにパンを撒きながら、ファイが楽しそうに笑っている。あれは鳩用のパンだったということか。
全てのパンを千切り終えても、鳩たちはファイの側を離れなかった。腕にしがみついたり、肩に乗ったり、膝の上でくつろぎだす鳩も現れだして、すっかり手懐けている。
「鳩先輩も寒いんだねー。くっついてるとあったかいー? あ、そうだ」
ファイは首に巻いているマフラーの中に手を突っ込むと、そこからズルリと何かを取り出す。それは黒鋼がクリスマスの夜に贈った、木製のオルゴールペンダントだった。
「いいもの見せてあげるー。これね、可愛い音が鳴るんだよー」
黒わんにもらったの、と言って笑いながらネジを巻く姿に、黒鋼はジン……とした。ああやっていつも身に着けているのか。ゆったりとした公園の風景に、オルゴールの可憐なメロディが溶けるように馴染む。鳩たちは首を傾げ、ファイはのんびりと身体を左右に揺らして曲に聞き入っていた。
(ほっといても大丈夫なのかもしれねぇな……)
もしかしたら、普段ほとんど一人で外に出してもらえなかったファイは、散歩気分で初めてのお使いを満喫しているのかもしれない。
黒鋼は肩から力が抜けるのを感じて小さく笑った。
晴れ舞台だなんだと、黒鋼やユゥイがこうして気を張らずとも、彼は自分の思う通り、気ままに一人の時間を過ごしている。
黒鋼がそっとこの場を去ったとしても、ファイはちゃんとメモの通りに必要なものを購入して、無事に帰って来るに違いない。
ならば先に店に戻って、ファイを驚かせよう。彼は黒鋼が来るのは晩飯時だと思っているはずだ。だからこんな早い時間に来ている姿を見たら、きっと喜んでくれるに違いない。
そうと決まればとっとと帰ろうと、黒鋼が身を隠していた木から離れかけたとき、遠くから数人の男がファイに向かって歩いてくるのが見えた。
(なんだ……?)
彼らは鳩まみれのファイを見ると、「オー」とか「イエー」なんて浮かれた声を上げて笑顔を浮かべる。全員外人だ。
旅行者と思しきその外人たちは、大きなリュックを背負って地図を手にファイに話しかけた。驚いた鳩が一斉に飛び去ってゆく。
「Excuse me, I want to go to the station, where should I go?」
※すんません、駅に行きたいんですけど、どっちに行ったらいいですかね?
「わぁ……! が、ガイジンさんだぁ……どうしよー!」
明らかに驚いているファイは、咄嗟に立ち上がると不安そうな表情を浮かべる。
いや、おまえも見た目は外人だぞ、と思いはしたがファイもユゥイも日本育ちのはずだ。日本語すら拙いファイが外人を相手にできるはずもなく、しかもその中の一人が思い切りファイの肩を抱き寄せるので、黒鋼は額に青筋を立てると木陰からベンチに向かって一歩踏み出した。そのとき。
「In order to go to a station, please come out of this park and turn to the left immediately!」
※駅に行くためには、この公園を出てすぐに左へ行けばいいですよー!
ズサァッと音を立てて黒鋼は派手にこけた。その拍子にサングラスとマスクが思いっきりズレる。
「喋れんのかよ!! しかも流暢だなおい!!」
「あれー? 黒わんどうしてこんなところにー?」
突然ツッコミと共に姿を現した(しかも地面に膝をついている)黒鋼に、ファイは青い瞳を丸く見開いて驚いた。
駅の方向を教えられた外人は、またしても「オー、イエー」と声を上げるとファイに向かって手の平を翳す。
「イエーイ!」
ファイは笑顔で彼らとハイタッチして、去ってゆく姿に手を振ったあと、改めて黒鋼の方を向いて瞬きを繰り返した。
「黒わん、そんなとこにお膝ついたら汚いよー」
「くそ……」
「転んじゃったのー?」
黒鋼の苦労など知りもしない彼は、ベンチを迂回して側までやってくると、「はい」と手を差し出してくる。
一瞬叩き落としたいような気もしたが、素直に手を取り立ち上がる。
「きぐうだねー! オレもね、いまお買い物のついでにお散歩してたのー! 黒わんは? お仕事お休みだったのー?」
ずっとおまえをストーキングしていたんだとは、口が裂けても言えなかった。
こうなったらもう変装(?)も意味がない。ズレているサングラスとぶら下がっているだけになってしまったマスクを取り去り、ポケットに押し込めた。
「お、おう……俺も散歩だ。おまえんとこに行くついでにな」
「あれー? でも今日は夜じゃないと来れないって……」
「……急に時間が開いた」
「そうだったんだー!」
ファイは嬉しそうに黒鋼の胸に飛び込むと、ぎゅうっとしがみついてきた。
結局、作戦は失敗に終わってしまったが、彼が一人でも十分やって行けるくらいには逞しいということが分かっただけでも、きっとユゥイも安心するだろう。
それにしても、やっぱり自分には隠密行動は無理だったなと、黒鋼は苦笑しながらファイの頭をグリグリと撫でた。
「立派だな、おまえは」
「りっぱー? えらいってことー?」
「そうだ。おまえはえらい」
「えへへー」
ファイは一体なにを褒められているのか分からない様子だったが、頬を赤らめて照れ笑いを浮かべた。
そしてその後、黒鋼とファイは一緒に買い物をしながら、結局揃って店に帰ることになったのだった。
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アニメや絵本の中に出てくるような、大きな丸い月が真っ黒の空にぽっかりと浮かんでいた。
優しい風が吹く丘には白い花畑がどこまでも広がって、甘い香りで溢れかえっている。
幼い少年の姿をしたファイは一人、丘の真ん中にこじんまりとしゃがみ込んで、揺れる花々を見つめていた。
『またひとりぼっちか?』
頭の上で声がして、ファイは顔を上げた。
そこには目つきの悪い、黒い犬が佇んでいる。月明かりの下、赤いマフラーが風に吹かれてふわふわと踊っていた。
「黒わん」
立ち上がったファイは、自分と同じくらいの大きさの黒い犬にぎゅっと抱き付いた。黒わんは、こうしてファイが一人ぼっちでいると必ず現れる。
吊り上がった目は少しだけ怖いけど、黒い毛は柔らかくて温かい。
ずっとずっと昔から、黒わんはファイの友達だった。
「あのね、今日はクリスマスだったんだー」
ファイと黒わんは、丘の上で隣り合って座ると膝を抱え、丸い月を見上げた。
いつもこうしてその日あったことを報告する時間が、ファイにとってかけがえのないものだった。
「キラキラの木、すっごくキレイだったよー」
黒わんはファイの話をただ静かに聞いて、そうかそうかと何度も頷く。
「あのね、オルゴールもらったの。首から下げられるの」
『ペンダントか?』
「うん、そうー。ぺんだんと」
『よかったな』
「うん、嬉しかった……あとね」
ファイは子供らしい、丸みのある頬をほんのりと桃色に染めて俯いた。
幼い指先で、ちょん、と唇に触れて、少し迷う。誰にも言わないと約束したけれど、黒わんになら、話してもいいだろうか。
もじもじしながら唇を尖らせたり噛み締めたりしていると、黒わんが不思議そうに首を傾げて顔を覗き込んでくる。
「えと……それでね……そのあとね、黒わんがね」
『おれのことか?』
「あ、えっと……うぅん、違うの。黒わんじゃないの」
『おれのことじゃないのか?』
「うー、あのね、黒わんだけど、黒わんじゃなくて……んー……もっと、おっきいの」
ファイは上手く話せないことにだんだん焦りを覚え始めた。
今こうして一緒にいてくれる黒わんは、ファイの大切な友達だった。だけど、ファイが話したいのはもっと大きくて、もっと怖い顔をしている方の黒わんだった。
けれど今すぐ隣にいる黒わんは、どこか寂しそうだった。
『おれは、おまえの黒わんじゃないのか?』
「黒わんは、黒わんだよ……オレの大事なしんゆーだよ」
『だけど、おれはもういらないみたいだ』
「そんなことないよ!」
ファイが大きな声を出すと、白い花びらが空に舞い上がった。
風が強く吹いて、ぎゅっと目を閉じてからゆっくり目を開けると、そこにはもう黒わんの姿はなかった。
「黒わん……? 黒わんどこ……?」
ファイは立ち上がって黒わんを探した。月の丘を、黒わんの名前を呼びながら一生懸命探した。だけど、見つからなかった。どこまで行っても、ほんのりと淡い光を放つ花畑が広がっているだけだった。
一瞬でいなくなってしまった『しんゆー』の姿を懸命に探しながらも、ふと、この世界は一体どこまで続いているのだろうかという疑問が浮かび上がった。
広い広い世界にたった一人で取り残されてしまったのかと思うと、途端に膝から下がガクガクと震えだした。
「黒わん……どうして……」
どこにもいないんだろう。
いつだって話を聞いてくれた。寂しいときも、悲しいときも、嬉しいときも。
黒わんは静かに、ファイの隣にいてくれた。
なのに、もういない。どこにもいない。嫌われてしまったのだろうか。ファイはただ、話がしたかっただけなのに。
大好きな『黒わん』との思い出を、聞いてほしかっただけなのに。
***
目元に温かなものが触れていることに気が付いて、ファイはゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きをして、温もりの正体を目で追った。それは黒鋼の指で、彼は少し困ったように眉間の皺を深くしながら、ファイの顔を覗き込んでいた。
「なに泣いてんだよ」
「……黒わん?」
ファイは慌てて身を起こすとベッドの縁に腰かけていた黒鋼の胸にしがみつく。胸がズキズキと痛んでいた。悲しくて、寂しくて、涙が止まらない。
黒鋼は驚いていたようだが、すぐにファイを抱き返した。大きな腕の中に包まれていると、なぜかもっと泣きたくなった。
「黒わん……どこにも行かないで……遠くに行かないで……」
「なんだ、おっかねぇ夢でも見たか?」
黒鋼はファイの金色の頭に鼻先を押し付けて、小さく笑った。優しく背中を撫でられているうちに、ゆっくりと心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
引き攣るように息苦しかった呼吸が、黒鋼の温もりや匂いを感じるだけでどんどん楽になる。ほぅ、と息を吐き出して、ファイはひとつ鼻をすすった。
「黒わんが、いなくなっちゃう夢、見たの」
「俺が?」
「うぅん……黒わんだけど、黒わんじゃなくて……」
(あ……)
これは、あの月の丘でした会話と同じだ。
ファイが上手く話すことができなかったから、黒わんは消えてしまった。
「どうした?」
「ッ、あ、あの……なんでもない……」
「そうか」
黒鋼は長い指でファイの前髪をくしゃりと乱した。微かに持ち上がった口角を見ていると、昨日の夜のことを思い出す。
キラキラと輝くイルミネーションの中で、ファイは黒鋼とキスをした。
それは寝る前にユゥイとするものとは何かが違うような気がした。ユゥイとするのはお互いの頬っぺただったし、唇のキスはぬいぐるみとしかしたことがなかった。
黒鋼としたキスは、そのどれとも異なっていた。胸がぎゅっと締め付けられるような感じがして、身体の中に小さな火がついたみたいに、熱かった。
ファイはあのときと同じように顔が赤くなっていくのを感じながら俯いた。心臓のあたりが苦しくなってきて、胸元を強く握った。
落ち着かない気分で視線を泳がせれば、ぬいぐるみの方の黒わんが枕元に座っているのが視界の隅を掠めた。昔は耳や尻尾が取れかけていたが、ちゃんと直したから今は綺麗になっている。
夢の中に出てくる黒わんは、不思議なことにファイと大きさが変わらない。だけど枕元にあるものはすっぽりと膝に乗る程度の無難なサイズだ。
「おい、どっか痛ぇのか?」
そんなファイに気が付いて、黒鋼はファイの肩を掴むと少しだけ引き離す。だけどファイは顔を上げられなかった。いま黒鋼の顔を見たら、なぜかまた泣いてしまいそうだった。どうしてこんな気持ちになるのか、さっぱり分からない。自分が自分じゃないみたいだった。
黒鋼はファイの額に手を当てて、「少し熱っぽいか」と呟いた。
「寒いなか歩いちまったからな……薬、の前に飯がいいか。待ってろ、いま弟呼んでくる」
そう言って離れようとする黒鋼のシャツの袖を咄嗟に掴んで、ファイは首を傾げる。
そういえば、どうしてここに彼がいるんだろう。
昨夜は外から戻って、すぐに店の長椅子に腰かけた気がするのだが、そこから記憶がない。いつの間に眠って、しかも自分の部屋に戻ってきたのか、まるで思い出せなかった。
「黒わん、なんでここにいるの?」
「ああ、おまえ何も覚えてねぇのか」
「?」
「ゆうべは遅かっただろ。面倒だったから泊まらせてもらった」
黒鋼が指を指すので、ファイはベッドの下に視線をやった。雑貨を作るための毛糸や小物が溢れかえる部屋の中央に、折りたたまれた毛布とクッションが置いてある。
これで寝ていたということか。だとしたら、朝までずっと一緒にいたということだ。
「な、なんで起こしてくれなかったのー!」
「あ? なんで起こす必要があるんだよ」
「だって、だって、黒わんともっとお喋りしたかった!」
「今だってできんだろ」
「むぅー……黒わん分かってないー……」
いつもはせっかく遊びに来ても時間が来ると帰ってしまう黒鋼が、夜の間ずっと側にいた。
彼には彼の家があって、仕事もある。ユゥイに何度そう教えられても、頭では分かっているのにどうしても寂しくて。
それでも我慢していたご褒美を、神様がくれたのかもしれない。なのに、眠気に負けて気づいたら朝になっていたなんて。
いつもよりもっとたくさん遊んだり、話したりするチャンスだったのに。
でも、とファイは思う。悲しい夢を見たあとに、近くにいてくれたのが黒鋼でよかった。真っ先に彼の顔を見れてよかった。
普段は絶対に会えない時間に、黒鋼がいる。夜の間も側にいたんだと思うと、残念な気持ちもあったけど、嬉しかった。
「そっかぁ、黒わん、ずっと一緒だったんだぁ~」
ふにゃん、と笑うと黒鋼の頬が一瞬だけ赤くなったような気がした。彼は大きく咳払いをしたあと、部屋の出入り口をチラリと見て、それからファイに手を伸ばす。
顎に指先が触れたと思った次の瞬間、上向かされたのと同時に黒鋼の顔が驚くほど間近にあった。唇に押し付けられた熱に、呼吸が止まる。
(黒わん、まつ毛長い……)
側にいる間はずっとくっついているのに、昨日だってこういうキスをしたのに、今初めて気が付いた。
また胸が苦しくなってくる。唇が離れても、なんだか頭がぼんやりして、身体がふわふわした。風船みたいに飛んで行ってしまいそうだ。こんな感覚は、生まれて初めてだった。
「ふわあぁ~……」
「おまえそれどういう反応だよ」
気が抜けたようにおかしな声を上げたファイに、黒鋼は苦笑した。
そんな彼の表情を見るのが恥ずかしくて、ファイは枕元の黒わんを咄嗟に掴んで抱きしめると、赤い顔を思いっきり押し付けた。
「弟はもう下か」
黒鋼は立ち上がってそう呟くと、黒わんに顔を埋めたままのファイの頭をくしゃりと撫でて、部屋から出て行った。
その足音と扉が閉まる音を聞きながら、ファイはふと不安になる。
(なんでこんなにドキドキしちゃうのかなぁ……オレ、病気なのかなぁ……)
黒鋼は風邪かもしれないと言ったが、風邪をひいた時とは少し違うような気がした。
きゅうきゅうと締め付けられるみたいな心臓の痛みを覚えて、ファイはいっそう黒わんを強く抱きしめると、熱っぽい息を漏らした。
←戻る ・ 次へ→
優しい風が吹く丘には白い花畑がどこまでも広がって、甘い香りで溢れかえっている。
幼い少年の姿をしたファイは一人、丘の真ん中にこじんまりとしゃがみ込んで、揺れる花々を見つめていた。
『またひとりぼっちか?』
頭の上で声がして、ファイは顔を上げた。
そこには目つきの悪い、黒い犬が佇んでいる。月明かりの下、赤いマフラーが風に吹かれてふわふわと踊っていた。
「黒わん」
立ち上がったファイは、自分と同じくらいの大きさの黒い犬にぎゅっと抱き付いた。黒わんは、こうしてファイが一人ぼっちでいると必ず現れる。
吊り上がった目は少しだけ怖いけど、黒い毛は柔らかくて温かい。
ずっとずっと昔から、黒わんはファイの友達だった。
「あのね、今日はクリスマスだったんだー」
ファイと黒わんは、丘の上で隣り合って座ると膝を抱え、丸い月を見上げた。
いつもこうしてその日あったことを報告する時間が、ファイにとってかけがえのないものだった。
「キラキラの木、すっごくキレイだったよー」
黒わんはファイの話をただ静かに聞いて、そうかそうかと何度も頷く。
「あのね、オルゴールもらったの。首から下げられるの」
『ペンダントか?』
「うん、そうー。ぺんだんと」
『よかったな』
「うん、嬉しかった……あとね」
ファイは子供らしい、丸みのある頬をほんのりと桃色に染めて俯いた。
幼い指先で、ちょん、と唇に触れて、少し迷う。誰にも言わないと約束したけれど、黒わんになら、話してもいいだろうか。
もじもじしながら唇を尖らせたり噛み締めたりしていると、黒わんが不思議そうに首を傾げて顔を覗き込んでくる。
「えと……それでね……そのあとね、黒わんがね」
『おれのことか?』
「あ、えっと……うぅん、違うの。黒わんじゃないの」
『おれのことじゃないのか?』
「うー、あのね、黒わんだけど、黒わんじゃなくて……んー……もっと、おっきいの」
ファイは上手く話せないことにだんだん焦りを覚え始めた。
今こうして一緒にいてくれる黒わんは、ファイの大切な友達だった。だけど、ファイが話したいのはもっと大きくて、もっと怖い顔をしている方の黒わんだった。
けれど今すぐ隣にいる黒わんは、どこか寂しそうだった。
『おれは、おまえの黒わんじゃないのか?』
「黒わんは、黒わんだよ……オレの大事なしんゆーだよ」
『だけど、おれはもういらないみたいだ』
「そんなことないよ!」
ファイが大きな声を出すと、白い花びらが空に舞い上がった。
風が強く吹いて、ぎゅっと目を閉じてからゆっくり目を開けると、そこにはもう黒わんの姿はなかった。
「黒わん……? 黒わんどこ……?」
ファイは立ち上がって黒わんを探した。月の丘を、黒わんの名前を呼びながら一生懸命探した。だけど、見つからなかった。どこまで行っても、ほんのりと淡い光を放つ花畑が広がっているだけだった。
一瞬でいなくなってしまった『しんゆー』の姿を懸命に探しながらも、ふと、この世界は一体どこまで続いているのだろうかという疑問が浮かび上がった。
広い広い世界にたった一人で取り残されてしまったのかと思うと、途端に膝から下がガクガクと震えだした。
「黒わん……どうして……」
どこにもいないんだろう。
いつだって話を聞いてくれた。寂しいときも、悲しいときも、嬉しいときも。
黒わんは静かに、ファイの隣にいてくれた。
なのに、もういない。どこにもいない。嫌われてしまったのだろうか。ファイはただ、話がしたかっただけなのに。
大好きな『黒わん』との思い出を、聞いてほしかっただけなのに。
***
目元に温かなものが触れていることに気が付いて、ファイはゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きをして、温もりの正体を目で追った。それは黒鋼の指で、彼は少し困ったように眉間の皺を深くしながら、ファイの顔を覗き込んでいた。
「なに泣いてんだよ」
「……黒わん?」
ファイは慌てて身を起こすとベッドの縁に腰かけていた黒鋼の胸にしがみつく。胸がズキズキと痛んでいた。悲しくて、寂しくて、涙が止まらない。
黒鋼は驚いていたようだが、すぐにファイを抱き返した。大きな腕の中に包まれていると、なぜかもっと泣きたくなった。
「黒わん……どこにも行かないで……遠くに行かないで……」
「なんだ、おっかねぇ夢でも見たか?」
黒鋼はファイの金色の頭に鼻先を押し付けて、小さく笑った。優しく背中を撫でられているうちに、ゆっくりと心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
引き攣るように息苦しかった呼吸が、黒鋼の温もりや匂いを感じるだけでどんどん楽になる。ほぅ、と息を吐き出して、ファイはひとつ鼻をすすった。
「黒わんが、いなくなっちゃう夢、見たの」
「俺が?」
「うぅん……黒わんだけど、黒わんじゃなくて……」
(あ……)
これは、あの月の丘でした会話と同じだ。
ファイが上手く話すことができなかったから、黒わんは消えてしまった。
「どうした?」
「ッ、あ、あの……なんでもない……」
「そうか」
黒鋼は長い指でファイの前髪をくしゃりと乱した。微かに持ち上がった口角を見ていると、昨日の夜のことを思い出す。
キラキラと輝くイルミネーションの中で、ファイは黒鋼とキスをした。
それは寝る前にユゥイとするものとは何かが違うような気がした。ユゥイとするのはお互いの頬っぺただったし、唇のキスはぬいぐるみとしかしたことがなかった。
黒鋼としたキスは、そのどれとも異なっていた。胸がぎゅっと締め付けられるような感じがして、身体の中に小さな火がついたみたいに、熱かった。
ファイはあのときと同じように顔が赤くなっていくのを感じながら俯いた。心臓のあたりが苦しくなってきて、胸元を強く握った。
落ち着かない気分で視線を泳がせれば、ぬいぐるみの方の黒わんが枕元に座っているのが視界の隅を掠めた。昔は耳や尻尾が取れかけていたが、ちゃんと直したから今は綺麗になっている。
夢の中に出てくる黒わんは、不思議なことにファイと大きさが変わらない。だけど枕元にあるものはすっぽりと膝に乗る程度の無難なサイズだ。
「おい、どっか痛ぇのか?」
そんなファイに気が付いて、黒鋼はファイの肩を掴むと少しだけ引き離す。だけどファイは顔を上げられなかった。いま黒鋼の顔を見たら、なぜかまた泣いてしまいそうだった。どうしてこんな気持ちになるのか、さっぱり分からない。自分が自分じゃないみたいだった。
黒鋼はファイの額に手を当てて、「少し熱っぽいか」と呟いた。
「寒いなか歩いちまったからな……薬、の前に飯がいいか。待ってろ、いま弟呼んでくる」
そう言って離れようとする黒鋼のシャツの袖を咄嗟に掴んで、ファイは首を傾げる。
そういえば、どうしてここに彼がいるんだろう。
昨夜は外から戻って、すぐに店の長椅子に腰かけた気がするのだが、そこから記憶がない。いつの間に眠って、しかも自分の部屋に戻ってきたのか、まるで思い出せなかった。
「黒わん、なんでここにいるの?」
「ああ、おまえ何も覚えてねぇのか」
「?」
「ゆうべは遅かっただろ。面倒だったから泊まらせてもらった」
黒鋼が指を指すので、ファイはベッドの下に視線をやった。雑貨を作るための毛糸や小物が溢れかえる部屋の中央に、折りたたまれた毛布とクッションが置いてある。
これで寝ていたということか。だとしたら、朝までずっと一緒にいたということだ。
「な、なんで起こしてくれなかったのー!」
「あ? なんで起こす必要があるんだよ」
「だって、だって、黒わんともっとお喋りしたかった!」
「今だってできんだろ」
「むぅー……黒わん分かってないー……」
いつもはせっかく遊びに来ても時間が来ると帰ってしまう黒鋼が、夜の間ずっと側にいた。
彼には彼の家があって、仕事もある。ユゥイに何度そう教えられても、頭では分かっているのにどうしても寂しくて。
それでも我慢していたご褒美を、神様がくれたのかもしれない。なのに、眠気に負けて気づいたら朝になっていたなんて。
いつもよりもっとたくさん遊んだり、話したりするチャンスだったのに。
でも、とファイは思う。悲しい夢を見たあとに、近くにいてくれたのが黒鋼でよかった。真っ先に彼の顔を見れてよかった。
普段は絶対に会えない時間に、黒鋼がいる。夜の間も側にいたんだと思うと、残念な気持ちもあったけど、嬉しかった。
「そっかぁ、黒わん、ずっと一緒だったんだぁ~」
ふにゃん、と笑うと黒鋼の頬が一瞬だけ赤くなったような気がした。彼は大きく咳払いをしたあと、部屋の出入り口をチラリと見て、それからファイに手を伸ばす。
顎に指先が触れたと思った次の瞬間、上向かされたのと同時に黒鋼の顔が驚くほど間近にあった。唇に押し付けられた熱に、呼吸が止まる。
(黒わん、まつ毛長い……)
側にいる間はずっとくっついているのに、昨日だってこういうキスをしたのに、今初めて気が付いた。
また胸が苦しくなってくる。唇が離れても、なんだか頭がぼんやりして、身体がふわふわした。風船みたいに飛んで行ってしまいそうだ。こんな感覚は、生まれて初めてだった。
「ふわあぁ~……」
「おまえそれどういう反応だよ」
気が抜けたようにおかしな声を上げたファイに、黒鋼は苦笑した。
そんな彼の表情を見るのが恥ずかしくて、ファイは枕元の黒わんを咄嗟に掴んで抱きしめると、赤い顔を思いっきり押し付けた。
「弟はもう下か」
黒鋼は立ち上がってそう呟くと、黒わんに顔を埋めたままのファイの頭をくしゃりと撫でて、部屋から出て行った。
その足音と扉が閉まる音を聞きながら、ファイはふと不安になる。
(なんでこんなにドキドキしちゃうのかなぁ……オレ、病気なのかなぁ……)
黒鋼は風邪かもしれないと言ったが、風邪をひいた時とは少し違うような気がした。
きゅうきゅうと締め付けられるみたいな心臓の痛みを覚えて、ファイはいっそう黒わんを強く抱きしめると、熱っぽい息を漏らした。
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長かった!でもすごく懐かしかったです。いろんなジャンルでいっぱい書いてきたんだなぁと、振り返りながら作業するのも楽しかったです。
黒ファイと甲操はとにかく活動していた期間が長くて作品いっぱいありました✌️
これからも気ままにやっていこう~。
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