2025/09/19 Fri 「ファイ、起きてて大丈夫? 今は苦しくない?」 椅子に腰かけてぼんやりとしていたファイは、ホットミルクの入ったカップを持ってやってきたユゥイにゆっくりと顔を上げた。 「無理してお店に出なくてもいいんだよ。はい、これ飲んで」 「ん、ありがと」 「やっぱり少し熱っぽいね。本当に病院、行かなくていいの?」 カップを受け取って指先を温めるファイの額に、ユゥイの優しい手が触れる。ひんやりとして気持ちがよかったが、彼の口から飛び出した『病院』という単語に、慌てて首を左右に振った。 「い、いいよー。平気ー」 「……注射が怖いんでしょ」 「う……」 黒鋼と電話で話したのは三日前。 ファイはあまりにも思いつめたせいか、あれからずっと身体が熱っぽくて頭がぼんやりとしていた。 ユゥイは何度も病院へ行こうと言うが、できれば行きたくなかった。行けば注射をするかもしれない。縫い物をする時の針ですら本当は怖いのに、それよりも太いものが刺さるなんて絶対に嫌だった。痛いし、怖い。 黒わんが壊れる度に針を通すことはできるくせに、いざ自分がとなると身が竦む。こんなだから、黒わんは何も言わずに消えてしまったんだろうか。 それに、起き上がれないほど辛いわけでもなかった。気づくと溜息が漏れて、黒鋼のことを考えないようにしていても考えてしまうから、その度に胸がズキズキと痛むだけで。 今だって思い出してしまったせいで胸が痛い。咄嗟に手を心臓の辺りに押し付けると、いつもしていたはずのペンダントの感触ないことに、また苦しくなった。 「…………」 「……ずっと苦しそうだね。そこ、痛い?」 「……ズキズキする」 「やっぱり念のため病院で診てもらおうよ。何か大きな病気だったら大変だし」 「…………うん」 そうなんだろうか。この痛みは、病院で診てもらえばなくなるんだろうか。 だとしたら、黒鋼とキスをした時に感じたあのドキドキも、やっぱり病気だったということになるのか。 もし治せるなら、治したい。前みたいに何も考えないで、ただ楽しく好きな雑貨を作って過ごしたい。叶うなら、黒鋼と出会う前に戻りたかった。 (嫌いになるって決めたのに……) どうしてこんなに胸が痛いのか、寂しくて仕方がないのか分からない。早く忘れないと、黒鋼はもうここには来ないのだから。 ファイにはユゥイがいる。サクラや小狼や、小龍がいる。いつも店に遊びに来てくれる友達が沢山いる。夢の中の黒わんは、やっぱりどこを探してもいないけど。 (オレはもう一人じゃないんだ) だから、もう黒わんがいなくても……。 そのときだった。ドアベルがカラリと音を立てて、扉が開いた。お客さんだろうかと顔を上げると、そこには今いちばん会いたくないはずの人間の姿があった。 彼はいつものようにスーツの上からジャケットを羽織り、赤いマフラーを首から下げて大きな鞄を持っていた。 「!」 「おう、邪魔するぜ」 「黒鋼さん? どうして?」 黒鋼はムッツリと不機嫌そうに顔を顰め、ズカズカと店に入って来る。 「今戻った。会社に戻る前に、ちょっとな」 「出張先からそのまま?」 まぁな、と短く返事をした黒鋼は、険しい表情のままファイの元へ近づこうとした。身体が竦みあがるような思いがして、ファイは思わず席を立つ。その拍子に手の中からホットミルクの入ったカップが落ちて、床に中身をぶちまけながら粉々に砕けた。 「ッ……!!」 「大丈夫!? すぐに離れて、怪我すると危ないから!」 白い液体で汚れた床と、バラバラのカップを見てファイは茫然とした。真っ青な顔をしてピクリとも動けないでいると、右手首を掴まれる。 肩を震わせ、見上げれば黒鋼が怖い顔をして「離れろ」と低く言い、引き寄せようとする。 ファイは、咄嗟にその腕を振り払ってしまった。 「ッ!」 息を飲む黒鋼から慌てて距離を取り、ジリジリと背後に後ずさる。やがて二階へと続く階段がある扉に、背中がぶつかった。 黒鋼は振り払われた手を宙に浮かせたまま、目を見開いていた。けれどすぐに吊り上がった目を細め、大きく息を吐き出した。 「俺がなにかしたか?」 「…………」 「言わなきゃ分かんねぇだろ」 「……どうして、来たの?」 ファイは黒鋼の問いかけには答えず、自らの疑問だけを口にした。 黒鋼は、多分とても怒っている。あんな酷いことを言ったのだから当たり前だ。だからきっと、もう嫌われてしまったに違いない。 なのに、どうしてわざわざ来たんだろう。 「どうして来たって……そんなもん、おまえに……」 「オレ、もう会いたくないって言ったよ」 「……だからその理由を確かめに来たんだろうが」 「オレはもう……黒わんのこと嫌いになるって決めたから!」 「はぁ?」 何を言っているんだこいつは、という表情で、黒鋼はユゥイを見た。ユゥイは困っているとも笑っているともつかない、なんともいえない曖昧な表情を浮かべていた。 ファイは、とにかく黒鋼にこの思いを伝えなくてはと焦りを覚える。 彼がいると苦しい。彼がいなくなってしまったとき、どうしたらいいか分からない。ただ、今よりもっと辛い気持ちになることだけは分かる。だから、その前に。 「黒わんと、もう一緒にいたくない……だから嫌いになる……」 「……俺は、もういらねぇってことか?」 ――だけど、おれはもういらないみたいだ。 「……ッ」 あのときと同じだ。寂しそうにそう言って、黒わんは消えた。 ファイが上手に話せなかったから。だから黒わんを傷つけてしまった。黒わんに、嫌われてしまった。 胸が苦しい。痛くて痛くて、息ができない。自分の心を制御できない。 間違っていたんだろうか。何を間違えてしまったんだろうか。 ファイは胸を押さえ、泣き叫びたいのを堪えて背後の扉を開けると、その場から逃げ出してしまった。 *** 「ありゃ一体どういうことだ」 カウンターに向かって座り、熱いお茶を飲んで一息ついた黒鋼は、不機嫌オーラ全開で向かいのユゥイを睨み付ける。 彼は床を掃除し、黒鋼にお茶をだしてからというもの、ずっと複雑そうな表情で黙りこくっていた。 「おい、なんとか言え」 「……なんとなく、考えてることは分からなくもないんですけどね」 双子の以心伝心というやつだろうか。 ユゥイは多少なりともファイの考えていることが分かっているようだが、黒鋼にしてみれば雲を掴むような話だ。 彼が何かしら思い悩んでいるらしいことは、あの電話の様子からも明らかだった。 だからこそ、本当ならすぐにでも職場に戻らなければならないところを、こうして足を運んだ。ファイが何を考え、何を思ってあのようなことを言ったのか、ここに来ればハッキリするものとばかり思っていたのに。 考え込む黒鋼に、ユゥイはさらに気になることを口にした。 「体調も優れないようで……ずっと微熱が続いてるんです」 「風邪か? 病院は連れてったのか」 「行きたがらないんですよ。注射が怖いみたいですね」 「そんなもん、ガキじゃねぇんだから……って……」 ガキだったな、と零す黒鋼に、ユゥイが苦笑する。 彼も手を焼いているのかもしれない。ファイはあれでいて、なかなか頑固なところがある。 「夢見もあまりよくないみたいなんですよね。それが原因で精神的に不安定になっているのかもしれません。だから元気づけようと思って、一緒にカレーを作ったのに」 ちらりと目を合わせてくるユゥイの視線に、そこはかとなく棘が含まれている。思いっきり嫌そうに顔を顰めた黒鋼を見て、彼はまた苦笑した。 「分かってますよ。タイミングが悪かっただけだって」 「だったら言うなよ。俺だってな……」 「ファイに会いたくてたまらなかった?」 「…………」 「それ、ちゃんと本人に言いました?」 「……別にわざわざ言わなくたって分かんだろ」 「おかしいですよね」 何が、と目で問えば、彼は腕を組んで僅かに首を傾げた。 「子供が悪いことをすれば、繰り返し言い聞かせるでしょ? 分かるまで、何度でも根気よく」 「……そうだな」 「どうしてその逆はできないんだろう。叱るときは繰り返し同じことを言って聞かせるのに。何度も何度も、愛情を伝えることはしないんだろう」 黒鋼は、何も返すことができなかった。 けれど彼の言う通りだと思う。ファイはいつだって自分を待っていてくれた。帰り際には必ず「ずっと一緒にいたい」と言いながら大粒の涙を流して、裸の黒わんを預けてきた。 もうそんな脅しなど必要ないと、いつかちゃんと教えてやらなくてはと……。 (……いつかってのは、そもそもいつなんだろうな) ふと、思う。 真っ直ぐに向けられる感情、言葉、笑顔。泣き顔さえも眩しくて、黒鋼はファイに惹かれた。ずっと手を引いて歩きたいと思った。あんなにも誰かを愛しいと感じたことはなかった。 けれどいつの間にか、望まれることばかりが当たり前になってはいなかったか? それこそわざわざ言わずとも、ファイが黒鋼を心から信用していれば、彼はそんな小さな脅しなどかけ続けずに済んでいたのではないか? 約束がなくても会いに来てくれる。無条件に好意を寄せてくれる。そんな相手に、黒鋼はなれていなかったということではないか……? 会いたいから、会いに来ているのだと。一度でも言葉にしていたら、あんな顔をさせずに済んだかもしれないのに。 ――黒わんのこと嫌いになるって決めたから。 (この世の終わりみてぇな顔して言いやがって……) 黒鋼はカウンターに肘をついて項垂れ、頭をガリガリと掻きむしった。苛立ちを含ませた深い溜息が、磨きこまれたテーブルの表面を僅かに曇らせる。 情けなかった。当たり前のことを、当たり前のように伝えていなかった自分の怠慢が、彼を不安にさせてしまったのだとしたら。 苦い錠剤を噛み潰したような気分だ。嫌な感覚がどろりと身体中に広がる。 ああこれは、後悔だ。 いちど口をつけただけのカップに手を伸ばす。指先に血が通い、じんと痺れるほどに熱かったはずのそれが、今はただ冷たく無機質に感じられた。 黒鋼は一度ゆっくりと瞬きをして、それからジャケットのポケットから裸の黒わんを取り出した。吊り上がった目と、真っ黒の身体。不愛想で、可愛げなんて欠片もない。確かに似ているかもしれない。だけど、黒鋼は黒わんではない。 「あいつに言っといてくれねぇか」 冷めたカップの横に、黒わんを座らせる。そして黒鋼は席を立った。 「また来る。そんときゃ逃げずに、ツラ見せろってな」 「いいんですか? それ置いて行って」 「ここに来たら返す約束だからな」 「多分、作ってあると思いますよ。新しい黒わん」 「いらねぇよ」 もう必要ない。 そう言って、黒鋼は後ろ髪を引かれる思いで店を出て行った。 *** 黒鋼が店を出てから、ユゥイはすぐに二階へ上がるとファイの部屋をノックした。 返事はなかったが静かに開けて中を覗けば、彼はベッドに両膝をついて窓の外を見下ろし、帰っていく黒鋼の背中を目で追いかけていた。 「ファイ」 しょうがないなと苦笑しながら入り込むと、ベッドまで歩み寄って縁に腰かける。 ファイは窓から離れ、整えられたシーツの中央にペタリと座り込んだ。俯いたまま何も言わない彼の膝に、黒鋼が置いて行った黒わんを置く。 ファイは目を見開き、すぐに縋るような目を向けた。 「ユゥイ……これ……」 「うん。置いて行ったよ」 青い瞳から、一気に涙が噴出した。 黒鋼が何も持たずに店を出ていくのはこれが初めてだ。彼はいつでも裸の黒わんを持ってきて、そして新たに渡されたものを持って帰る。 だけど今日はそれがない。自らが望んだ結果だろうに、ファイは黒わんを握りしめて、目元を擦りながらしくしくと泣き始めた。 やっぱり彼が泣いている姿は胸が痛む。自分より幾分か短い金髪を撫でて、「大丈夫だよ」と何度も繰り返し言い聞かせる。 ユゥイはファイを抱き寄せると、よしよし、と背中を摩りながらその額にキスをした。優しくすればするほど、ファイは酷く泣いてしまう。 自分にできることは、こうして涙と一緒に吐き出させることだった。 「ゆ、ぃ……ッ、オレ……」 「いいよ。ゆっくり話して。ほら、ちゃんと息吐いて」 ん、という声を上げて、ファイは震える息を忙しなく吐き出した。 「オレ、わかんなくって」 「うん」 「嫌いに、なろうとしたの……忘れようとしたの……そしたらもう、寂しくないと思ったから……」 「そっか」 「でも、わかんなかった……いっぱい考えたけど、わかんなかった……」 どうすれば、黒鋼を嫌いになれるのか。 握りしめられた裸の黒わん。ファイはそれをよりいっそう強く握り、口元に押し付けると嗚咽を堪える。 ユゥイはその泣き顔を覗き込みながら、次から次へと溢れる涙を拭ってやる。 「ねぇファイ、黒わんはどこにも行かないよ。だから嫌いになるなんて言わないで」 ファイはひくひくと苦しそうに肩を震わせ、うぅん、と言って首を振った。 「もういない……黒わん、もうどこにもいないの……」 「?」 彼は言う。夢の中でいつも遊んだり、話を聞いてくれていた黒わんが、突然いなくなってしまったのだと。 それはファイだけの世界に存在する、大切な友達だった。 ああそうかと、ユゥイは悟る。ファイにとって夢は逃げ込むための場所だった。おそらく彼は夢の中で黒わんと過ごすことで、自分自身の幼い心を守っていたのではないかと。 「オレ、ホントは寂しかった……ユゥイがいなくなって、一人ぼっちで、毎日こわい人に、酷いこと、いっぱい言われた……いっぱい殴られて、すごく痛かった……」 「……うん」 「オレね、もしかしたら、ユゥイはオレのこと嫌いになったから、だからいなくなっちゃったのかなって、そう思ったの。オレが悪い子だから」 「そんなことないよ……!」 自分でも思っていた以上に大きな声を出してしまったことにハッとするユゥイに、ファイはこくんと頷いた。 「黒わんもね、いつもそう言ってくれてた。ユゥイはファイが大好きだよって。いつも言ってくれたの。そしたら、ユゥイはちゃんとオレのこと、迎えに来てくれた」 だけど。 「黒わんが、いなくなっちゃった……もう会えなくなっちゃった……」 「……だから、あの人もいなくなっちゃうかもしれないって思った?」 「うん……。こっちの黒わんも、いつか消えちゃうかもしれない……オレ、黒わんに嫌われたくない……どこにも行って欲しくない……だから……」 「嫌いになろうとした?」 ファイは頷いた。それから苦しそうに胸元をぎゅっと握った。 彼の考えていることはなんとなく分かっていた。ユゥイも同じだったからだ。ファイのことが大好きで仕方がないのに、寂しさに耐えきれず忘れようとした。そうしなければ心が押し潰されそうだったから。 でも、結局できなかった。忘れたふりはできても、本当に心の中から消すことなんて、決して。 (やっぱりボクらは双子だね。よく似てる) 簡単に逃げ道を探すことはできるのに、振り向かずに進むことはできない。歩き方さえ忘れたように、ただ真っ直ぐに進めばいいだけの一本道で迷子になって、泣いてしまう。 ユゥイはゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じて、そして開く。ファイの両頬を手で包み込んで、真っ直ぐに視線を交えた。 「黒わんもね、ファイとずっと一緒にいたいって思ってるよ。置いて行ったりなんかしない」 「そんなの分かんないよ……だって黒わん、どこにもいないもん……オレのこと、置いてっちゃったもん……」 「……あの人の名前は、黒鋼さん」 「ユゥイ……?」 「黒鋼さんだよ。言ってごらん」 「……くろ、がね、さん」 「そう。似てるけど、黒わんじゃない。本当は、もう気づいてるんじゃないかな?」 「…………」 「ここ」 ユゥイは、指先でファイの胸の中央を軽くつついた。 「痛いって思うとき、側にいるのは誰?」 「…………」 「誰のことを考えると、ここが苦しい?」 「……くろがね、さん」 「どういう風になるのか、もっと教えて」 ファイは真っ赤な顔をして下唇を噛み締めた。 本当は自分で自覚できるのが一番いい。黒鋼が黒わんじゃないこと、ただの友達じゃないこと、彼が突然消えてしまったりなんかしないこと。 だけど、ユゥイは結局ファイに甘かった。それに。 (ちょっとだけ、助けてあげます。貸を作ったままでいるのは癪だから) 黒わんを抜け出せないままでいる、照れ屋で不器用な友人に。彼がいてくれたから、ユゥイは自分の幸せに気づくことができた。屈折したままだった心が、救われた。 ファイはぎゅっと目を閉じて、肩を竦めながら震える息を吐き出す。 「くろがねさんと、いるとね……」 「うん」 「ここ、ドンドンってなる。叩かれてるみたいに、なる」 「胸がドキドキする?」 うん、と、ファイは大きく頷いた。 「息、できなくなって……すごくポカポカして、恥ずかしい気持ちになる……」 「うん」 「でも、嫌われちゃうかもって思ったら……もっと痛くなったの……もっともっと、苦しくなったの……ぜんぜん、あったかくならないの……」 話を聞いているだけで、もどかしい気分になった。 ファイは自分の感情に名前をつけられないでいるだけだ。胸がドキドキするのも、離れたくないという気持ちも、全部。 (分かってたつもりだけど。出る幕なしだなぁ) 自分にできることは何もない。だってファイの真っ赤な顔には、ちゃんと答えが書いてある。 そもそも伊達に双子の片割れをやっているわけじゃない。いつからか、黒鋼を見るファイの目がぬいぐるみを愛でるものとはまるで違っていたことに、ユゥイはちゃんと気がついていた。 兄は、恋をしている。 彼の外見だけを見れば、初恋なんて遅いくらいだ。 けれど幼いままの心で生き続けてきた彼は、誰もが普通に通る道に踏み出せないまま、ここまで来てしまった。 だから抱えきれなくて、不安ばかりが膨らんで、こうして泣いている。 寂しいような気が抜けたような、複雑な気分だったが、生まれて初めての感情に戸惑うファイは不安そうな表情でユゥイを見上げた。 「病院、行ったら治る……? 注射するの我慢したら……くろがねさんのこと、忘れられる?」 ユゥイはふぅっと息を吐き出して、ファイの頭を優しく撫でた。 「忘れる必要なんかない。ボクがファイを大好きなように、ファイも黒鋼さんのこと、好きでいていいんだよ」 「……だけど、それじゃあ……」 「それね、病気じゃないよ」 「……ほんと?」 「そう。だからお医者さんじゃ治せないかな」 「じゃあ……どうしたらいい……?」 そうだなぁ、とユゥイは勿体ぶるように天井を見上げた。 それは恋だよと、教えてやるのは簡単だ。だけど、言ったところできっと今のファイに全てを理解することはできない。 彼にそれを自覚させてやれるのは、この世に一人しかいないのだろうし。 だから余計なお節介はここまでにする。 「ファイ、次に黒鋼さんが来たら、今ボクとした話、できる?」 「……もう来ないよ」 俯くファイに、ユゥイはクスリと笑うと身を屈め、床に手を伸ばす。そして拾い上げたものをベッドの上に置いた。 あ、という小さな声を上げ、ファイは赤い顔をさらに赤くして恥ずかしそうに俯いてしまう。 それは目つきの悪い、オオカミのような黒い犬。マフラーがなくて、少し寒そうだ。 ファイはやっぱり、新しい黒わんを作っていた。 「大丈夫。黒鋼さんはまた来るよ。ちゃんと約束しといたから」 「……来なかったら?」 「そうだねぇ。じゃあ、一緒に嫌いになる方法、考えよっか?」 「ユゥイも考えてくれるの?」 もちろん、と言って笑いかけてやると、ファイはほんの少しだけホッとしたように肩から力を抜いた。 多分、絶対、そんなことにはならないだろうけど。 「だけど約束通り来てくれたときは、恥ずかしくてもちゃんとお話すること。そしたら」 きっと教えてくれるから。 まだ戸惑っている様子のファイの頬に、ユゥイはそっと口づけた。 がんばれ、と、心の中でエールを送りながら。 ←戻る ・ 次へ→
椅子に腰かけてぼんやりとしていたファイは、ホットミルクの入ったカップを持ってやってきたユゥイにゆっくりと顔を上げた。
「無理してお店に出なくてもいいんだよ。はい、これ飲んで」
「ん、ありがと」
「やっぱり少し熱っぽいね。本当に病院、行かなくていいの?」
カップを受け取って指先を温めるファイの額に、ユゥイの優しい手が触れる。ひんやりとして気持ちがよかったが、彼の口から飛び出した『病院』という単語に、慌てて首を左右に振った。
「い、いいよー。平気ー」
「……注射が怖いんでしょ」
「う……」
黒鋼と電話で話したのは三日前。
ファイはあまりにも思いつめたせいか、あれからずっと身体が熱っぽくて頭がぼんやりとしていた。
ユゥイは何度も病院へ行こうと言うが、できれば行きたくなかった。行けば注射をするかもしれない。縫い物をする時の針ですら本当は怖いのに、それよりも太いものが刺さるなんて絶対に嫌だった。痛いし、怖い。
黒わんが壊れる度に針を通すことはできるくせに、いざ自分がとなると身が竦む。こんなだから、黒わんは何も言わずに消えてしまったんだろうか。
それに、起き上がれないほど辛いわけでもなかった。気づくと溜息が漏れて、黒鋼のことを考えないようにしていても考えてしまうから、その度に胸がズキズキと痛むだけで。
今だって思い出してしまったせいで胸が痛い。咄嗟に手を心臓の辺りに押し付けると、いつもしていたはずのペンダントの感触ないことに、また苦しくなった。
「…………」
「……ずっと苦しそうだね。そこ、痛い?」
「……ズキズキする」
「やっぱり念のため病院で診てもらおうよ。何か大きな病気だったら大変だし」
「…………うん」
そうなんだろうか。この痛みは、病院で診てもらえばなくなるんだろうか。
だとしたら、黒鋼とキスをした時に感じたあのドキドキも、やっぱり病気だったということになるのか。
もし治せるなら、治したい。前みたいに何も考えないで、ただ楽しく好きな雑貨を作って過ごしたい。叶うなら、黒鋼と出会う前に戻りたかった。
(嫌いになるって決めたのに……)
どうしてこんなに胸が痛いのか、寂しくて仕方がないのか分からない。早く忘れないと、黒鋼はもうここには来ないのだから。
ファイにはユゥイがいる。サクラや小狼や、小龍がいる。いつも店に遊びに来てくれる友達が沢山いる。夢の中の黒わんは、やっぱりどこを探してもいないけど。
(オレはもう一人じゃないんだ)
だから、もう黒わんがいなくても……。
そのときだった。ドアベルがカラリと音を立てて、扉が開いた。お客さんだろうかと顔を上げると、そこには今いちばん会いたくないはずの人間の姿があった。
彼はいつものようにスーツの上からジャケットを羽織り、赤いマフラーを首から下げて大きな鞄を持っていた。
「!」
「おう、邪魔するぜ」
「黒鋼さん? どうして?」
黒鋼はムッツリと不機嫌そうに顔を顰め、ズカズカと店に入って来る。
「今戻った。会社に戻る前に、ちょっとな」
「出張先からそのまま?」
まぁな、と短く返事をした黒鋼は、険しい表情のままファイの元へ近づこうとした。身体が竦みあがるような思いがして、ファイは思わず席を立つ。その拍子に手の中からホットミルクの入ったカップが落ちて、床に中身をぶちまけながら粉々に砕けた。
「ッ……!!」
「大丈夫!? すぐに離れて、怪我すると危ないから!」
白い液体で汚れた床と、バラバラのカップを見てファイは茫然とした。真っ青な顔をしてピクリとも動けないでいると、右手首を掴まれる。
肩を震わせ、見上げれば黒鋼が怖い顔をして「離れろ」と低く言い、引き寄せようとする。
ファイは、咄嗟にその腕を振り払ってしまった。
「ッ!」
息を飲む黒鋼から慌てて距離を取り、ジリジリと背後に後ずさる。やがて二階へと続く階段がある扉に、背中がぶつかった。
黒鋼は振り払われた手を宙に浮かせたまま、目を見開いていた。けれどすぐに吊り上がった目を細め、大きく息を吐き出した。
「俺がなにかしたか?」
「…………」
「言わなきゃ分かんねぇだろ」
「……どうして、来たの?」
ファイは黒鋼の問いかけには答えず、自らの疑問だけを口にした。
黒鋼は、多分とても怒っている。あんな酷いことを言ったのだから当たり前だ。だからきっと、もう嫌われてしまったに違いない。
なのに、どうしてわざわざ来たんだろう。
「どうして来たって……そんなもん、おまえに……」
「オレ、もう会いたくないって言ったよ」
「……だからその理由を確かめに来たんだろうが」
「オレはもう……黒わんのこと嫌いになるって決めたから!」
「はぁ?」
何を言っているんだこいつは、という表情で、黒鋼はユゥイを見た。ユゥイは困っているとも笑っているともつかない、なんともいえない曖昧な表情を浮かべていた。
ファイは、とにかく黒鋼にこの思いを伝えなくてはと焦りを覚える。
彼がいると苦しい。彼がいなくなってしまったとき、どうしたらいいか分からない。ただ、今よりもっと辛い気持ちになることだけは分かる。だから、その前に。
「黒わんと、もう一緒にいたくない……だから嫌いになる……」
「……俺は、もういらねぇってことか?」
――だけど、おれはもういらないみたいだ。
「……ッ」
あのときと同じだ。寂しそうにそう言って、黒わんは消えた。
ファイが上手に話せなかったから。だから黒わんを傷つけてしまった。黒わんに、嫌われてしまった。
胸が苦しい。痛くて痛くて、息ができない。自分の心を制御できない。
間違っていたんだろうか。何を間違えてしまったんだろうか。
ファイは胸を押さえ、泣き叫びたいのを堪えて背後の扉を開けると、その場から逃げ出してしまった。
***
「ありゃ一体どういうことだ」
カウンターに向かって座り、熱いお茶を飲んで一息ついた黒鋼は、不機嫌オーラ全開で向かいのユゥイを睨み付ける。
彼は床を掃除し、黒鋼にお茶をだしてからというもの、ずっと複雑そうな表情で黙りこくっていた。
「おい、なんとか言え」
「……なんとなく、考えてることは分からなくもないんですけどね」
双子の以心伝心というやつだろうか。
ユゥイは多少なりともファイの考えていることが分かっているようだが、黒鋼にしてみれば雲を掴むような話だ。
彼が何かしら思い悩んでいるらしいことは、あの電話の様子からも明らかだった。
だからこそ、本当ならすぐにでも職場に戻らなければならないところを、こうして足を運んだ。ファイが何を考え、何を思ってあのようなことを言ったのか、ここに来ればハッキリするものとばかり思っていたのに。
考え込む黒鋼に、ユゥイはさらに気になることを口にした。
「体調も優れないようで……ずっと微熱が続いてるんです」
「風邪か? 病院は連れてったのか」
「行きたがらないんですよ。注射が怖いみたいですね」
「そんなもん、ガキじゃねぇんだから……って……」
ガキだったな、と零す黒鋼に、ユゥイが苦笑する。
彼も手を焼いているのかもしれない。ファイはあれでいて、なかなか頑固なところがある。
「夢見もあまりよくないみたいなんですよね。それが原因で精神的に不安定になっているのかもしれません。だから元気づけようと思って、一緒にカレーを作ったのに」
ちらりと目を合わせてくるユゥイの視線に、そこはかとなく棘が含まれている。思いっきり嫌そうに顔を顰めた黒鋼を見て、彼はまた苦笑した。
「分かってますよ。タイミングが悪かっただけだって」
「だったら言うなよ。俺だってな……」
「ファイに会いたくてたまらなかった?」
「…………」
「それ、ちゃんと本人に言いました?」
「……別にわざわざ言わなくたって分かんだろ」
「おかしいですよね」
何が、と目で問えば、彼は腕を組んで僅かに首を傾げた。
「子供が悪いことをすれば、繰り返し言い聞かせるでしょ? 分かるまで、何度でも根気よく」
「……そうだな」
「どうしてその逆はできないんだろう。叱るときは繰り返し同じことを言って聞かせるのに。何度も何度も、愛情を伝えることはしないんだろう」
黒鋼は、何も返すことができなかった。
けれど彼の言う通りだと思う。ファイはいつだって自分を待っていてくれた。帰り際には必ず「ずっと一緒にいたい」と言いながら大粒の涙を流して、裸の黒わんを預けてきた。
もうそんな脅しなど必要ないと、いつかちゃんと教えてやらなくてはと……。
(……いつかってのは、そもそもいつなんだろうな)
ふと、思う。
真っ直ぐに向けられる感情、言葉、笑顔。泣き顔さえも眩しくて、黒鋼はファイに惹かれた。ずっと手を引いて歩きたいと思った。あんなにも誰かを愛しいと感じたことはなかった。
けれどいつの間にか、望まれることばかりが当たり前になってはいなかったか?
それこそわざわざ言わずとも、ファイが黒鋼を心から信用していれば、彼はそんな小さな脅しなどかけ続けずに済んでいたのではないか?
約束がなくても会いに来てくれる。無条件に好意を寄せてくれる。そんな相手に、黒鋼はなれていなかったということではないか……?
会いたいから、会いに来ているのだと。一度でも言葉にしていたら、あんな顔をさせずに済んだかもしれないのに。
――黒わんのこと嫌いになるって決めたから。
(この世の終わりみてぇな顔して言いやがって……)
黒鋼はカウンターに肘をついて項垂れ、頭をガリガリと掻きむしった。苛立ちを含ませた深い溜息が、磨きこまれたテーブルの表面を僅かに曇らせる。
情けなかった。当たり前のことを、当たり前のように伝えていなかった自分の怠慢が、彼を不安にさせてしまったのだとしたら。
苦い錠剤を噛み潰したような気分だ。嫌な感覚がどろりと身体中に広がる。
ああこれは、後悔だ。
いちど口をつけただけのカップに手を伸ばす。指先に血が通い、じんと痺れるほどに熱かったはずのそれが、今はただ冷たく無機質に感じられた。
黒鋼は一度ゆっくりと瞬きをして、それからジャケットのポケットから裸の黒わんを取り出した。吊り上がった目と、真っ黒の身体。不愛想で、可愛げなんて欠片もない。確かに似ているかもしれない。だけど、黒鋼は黒わんではない。
「あいつに言っといてくれねぇか」
冷めたカップの横に、黒わんを座らせる。そして黒鋼は席を立った。
「また来る。そんときゃ逃げずに、ツラ見せろってな」
「いいんですか? それ置いて行って」
「ここに来たら返す約束だからな」
「多分、作ってあると思いますよ。新しい黒わん」
「いらねぇよ」
もう必要ない。
そう言って、黒鋼は後ろ髪を引かれる思いで店を出て行った。
***
黒鋼が店を出てから、ユゥイはすぐに二階へ上がるとファイの部屋をノックした。
返事はなかったが静かに開けて中を覗けば、彼はベッドに両膝をついて窓の外を見下ろし、帰っていく黒鋼の背中を目で追いかけていた。
「ファイ」
しょうがないなと苦笑しながら入り込むと、ベッドまで歩み寄って縁に腰かける。
ファイは窓から離れ、整えられたシーツの中央にペタリと座り込んだ。俯いたまま何も言わない彼の膝に、黒鋼が置いて行った黒わんを置く。
ファイは目を見開き、すぐに縋るような目を向けた。
「ユゥイ……これ……」
「うん。置いて行ったよ」
青い瞳から、一気に涙が噴出した。
黒鋼が何も持たずに店を出ていくのはこれが初めてだ。彼はいつでも裸の黒わんを持ってきて、そして新たに渡されたものを持って帰る。
だけど今日はそれがない。自らが望んだ結果だろうに、ファイは黒わんを握りしめて、目元を擦りながらしくしくと泣き始めた。
やっぱり彼が泣いている姿は胸が痛む。自分より幾分か短い金髪を撫でて、「大丈夫だよ」と何度も繰り返し言い聞かせる。
ユゥイはファイを抱き寄せると、よしよし、と背中を摩りながらその額にキスをした。優しくすればするほど、ファイは酷く泣いてしまう。
自分にできることは、こうして涙と一緒に吐き出させることだった。
「ゆ、ぃ……ッ、オレ……」
「いいよ。ゆっくり話して。ほら、ちゃんと息吐いて」
ん、という声を上げて、ファイは震える息を忙しなく吐き出した。
「オレ、わかんなくって」
「うん」
「嫌いに、なろうとしたの……忘れようとしたの……そしたらもう、寂しくないと思ったから……」
「そっか」
「でも、わかんなかった……いっぱい考えたけど、わかんなかった……」
どうすれば、黒鋼を嫌いになれるのか。
握りしめられた裸の黒わん。ファイはそれをよりいっそう強く握り、口元に押し付けると嗚咽を堪える。
ユゥイはその泣き顔を覗き込みながら、次から次へと溢れる涙を拭ってやる。
「ねぇファイ、黒わんはどこにも行かないよ。だから嫌いになるなんて言わないで」
ファイはひくひくと苦しそうに肩を震わせ、うぅん、と言って首を振った。
「もういない……黒わん、もうどこにもいないの……」
「?」
彼は言う。夢の中でいつも遊んだり、話を聞いてくれていた黒わんが、突然いなくなってしまったのだと。
それはファイだけの世界に存在する、大切な友達だった。
ああそうかと、ユゥイは悟る。ファイにとって夢は逃げ込むための場所だった。おそらく彼は夢の中で黒わんと過ごすことで、自分自身の幼い心を守っていたのではないかと。
「オレ、ホントは寂しかった……ユゥイがいなくなって、一人ぼっちで、毎日こわい人に、酷いこと、いっぱい言われた……いっぱい殴られて、すごく痛かった……」
「……うん」
「オレね、もしかしたら、ユゥイはオレのこと嫌いになったから、だからいなくなっちゃったのかなって、そう思ったの。オレが悪い子だから」
「そんなことないよ……!」
自分でも思っていた以上に大きな声を出してしまったことにハッとするユゥイに、ファイはこくんと頷いた。
「黒わんもね、いつもそう言ってくれてた。ユゥイはファイが大好きだよって。いつも言ってくれたの。そしたら、ユゥイはちゃんとオレのこと、迎えに来てくれた」
だけど。
「黒わんが、いなくなっちゃった……もう会えなくなっちゃった……」
「……だから、あの人もいなくなっちゃうかもしれないって思った?」
「うん……。こっちの黒わんも、いつか消えちゃうかもしれない……オレ、黒わんに嫌われたくない……どこにも行って欲しくない……だから……」
「嫌いになろうとした?」
ファイは頷いた。それから苦しそうに胸元をぎゅっと握った。
彼の考えていることはなんとなく分かっていた。ユゥイも同じだったからだ。ファイのことが大好きで仕方がないのに、寂しさに耐えきれず忘れようとした。そうしなければ心が押し潰されそうだったから。
でも、結局できなかった。忘れたふりはできても、本当に心の中から消すことなんて、決して。
(やっぱりボクらは双子だね。よく似てる)
簡単に逃げ道を探すことはできるのに、振り向かずに進むことはできない。歩き方さえ忘れたように、ただ真っ直ぐに進めばいいだけの一本道で迷子になって、泣いてしまう。
ユゥイはゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じて、そして開く。ファイの両頬を手で包み込んで、真っ直ぐに視線を交えた。
「黒わんもね、ファイとずっと一緒にいたいって思ってるよ。置いて行ったりなんかしない」
「そんなの分かんないよ……だって黒わん、どこにもいないもん……オレのこと、置いてっちゃったもん……」
「……あの人の名前は、黒鋼さん」
「ユゥイ……?」
「黒鋼さんだよ。言ってごらん」
「……くろ、がね、さん」
「そう。似てるけど、黒わんじゃない。本当は、もう気づいてるんじゃないかな?」
「…………」
「ここ」
ユゥイは、指先でファイの胸の中央を軽くつついた。
「痛いって思うとき、側にいるのは誰?」
「…………」
「誰のことを考えると、ここが苦しい?」
「……くろがね、さん」
「どういう風になるのか、もっと教えて」
ファイは真っ赤な顔をして下唇を噛み締めた。
本当は自分で自覚できるのが一番いい。黒鋼が黒わんじゃないこと、ただの友達じゃないこと、彼が突然消えてしまったりなんかしないこと。
だけど、ユゥイは結局ファイに甘かった。それに。
(ちょっとだけ、助けてあげます。貸を作ったままでいるのは癪だから)
黒わんを抜け出せないままでいる、照れ屋で不器用な友人に。彼がいてくれたから、ユゥイは自分の幸せに気づくことができた。屈折したままだった心が、救われた。
ファイはぎゅっと目を閉じて、肩を竦めながら震える息を吐き出す。
「くろがねさんと、いるとね……」
「うん」
「ここ、ドンドンってなる。叩かれてるみたいに、なる」
「胸がドキドキする?」
うん、と、ファイは大きく頷いた。
「息、できなくなって……すごくポカポカして、恥ずかしい気持ちになる……」
「うん」
「でも、嫌われちゃうかもって思ったら……もっと痛くなったの……もっともっと、苦しくなったの……ぜんぜん、あったかくならないの……」
話を聞いているだけで、もどかしい気分になった。
ファイは自分の感情に名前をつけられないでいるだけだ。胸がドキドキするのも、離れたくないという気持ちも、全部。
(分かってたつもりだけど。出る幕なしだなぁ)
自分にできることは何もない。だってファイの真っ赤な顔には、ちゃんと答えが書いてある。
そもそも伊達に双子の片割れをやっているわけじゃない。いつからか、黒鋼を見るファイの目がぬいぐるみを愛でるものとはまるで違っていたことに、ユゥイはちゃんと気がついていた。
兄は、恋をしている。
彼の外見だけを見れば、初恋なんて遅いくらいだ。
けれど幼いままの心で生き続けてきた彼は、誰もが普通に通る道に踏み出せないまま、ここまで来てしまった。
だから抱えきれなくて、不安ばかりが膨らんで、こうして泣いている。
寂しいような気が抜けたような、複雑な気分だったが、生まれて初めての感情に戸惑うファイは不安そうな表情でユゥイを見上げた。
「病院、行ったら治る……? 注射するの我慢したら……くろがねさんのこと、忘れられる?」
ユゥイはふぅっと息を吐き出して、ファイの頭を優しく撫でた。
「忘れる必要なんかない。ボクがファイを大好きなように、ファイも黒鋼さんのこと、好きでいていいんだよ」
「……だけど、それじゃあ……」
「それね、病気じゃないよ」
「……ほんと?」
「そう。だからお医者さんじゃ治せないかな」
「じゃあ……どうしたらいい……?」
そうだなぁ、とユゥイは勿体ぶるように天井を見上げた。
それは恋だよと、教えてやるのは簡単だ。だけど、言ったところできっと今のファイに全てを理解することはできない。
彼にそれを自覚させてやれるのは、この世に一人しかいないのだろうし。
だから余計なお節介はここまでにする。
「ファイ、次に黒鋼さんが来たら、今ボクとした話、できる?」
「……もう来ないよ」
俯くファイに、ユゥイはクスリと笑うと身を屈め、床に手を伸ばす。そして拾い上げたものをベッドの上に置いた。
あ、という小さな声を上げ、ファイは赤い顔をさらに赤くして恥ずかしそうに俯いてしまう。
それは目つきの悪い、オオカミのような黒い犬。マフラーがなくて、少し寒そうだ。
ファイはやっぱり、新しい黒わんを作っていた。
「大丈夫。黒鋼さんはまた来るよ。ちゃんと約束しといたから」
「……来なかったら?」
「そうだねぇ。じゃあ、一緒に嫌いになる方法、考えよっか?」
「ユゥイも考えてくれるの?」
もちろん、と言って笑いかけてやると、ファイはほんの少しだけホッとしたように肩から力を抜いた。
多分、絶対、そんなことにはならないだろうけど。
「だけど約束通り来てくれたときは、恥ずかしくてもちゃんとお話すること。そしたら」
きっと教えてくれるから。
まだ戸惑っている様子のファイの頬に、ユゥイはそっと口づけた。
がんばれ、と、心の中でエールを送りながら。
←戻る ・ 次へ→