~前回までのあらすじ~
心霊スポットで肝試し動画を撮影することになった、動画クリエイター集団エレメント。
オバケ、ダメ、絶対主義の総士と、体調不良を訴える一騎を残し、甲洋と操のふたりはイチャコラ(?)しながら山奥の廃神社へと向かう。
そこで甲洋はこの肝試し企画が操(黒幕)と総士(仕掛け人)による、心霊ドッキリであったことを知らされる。しかも廃神社は偽の心霊スポットだった。
ようやく帰れると思った矢先、一行は総士の提案で今度こそ本物の心霊スポットへと向かうことになったのであった──。
*
「総士、一騎はなんて?」
やはりどうしても心配だったらしく、出発前に少し離れた位置で一騎に連絡を入れていた総士が戻ってきた。
「ああ、だいぶ楽になったとは言っていた。だが、大事をとって一騎はこのまま休ませる」
「そっか。じゃあ早く行って帰ってこようよ!」
「そうしよう」
なんやかんやで時刻は午前1時をとうに過ぎていた。今から行動を開始して件の旧トンネルとやらに到着するころには、ちょうど丑三つ時にさしかかっていることだろう。まさにうってつけのナイスタイミングといえる。
ハンディカメラ(ライト付き)は総士が、懐中電灯は甲洋が持ち、三人は廃神社の脇から伸びる小道へと足を踏み入れた。
「本物の心霊スポット、か。楽しみだな。ドキドキするよ!」
「来主、足元注意して。転ぶよ」
甲洋はドッキリにハメられたことが尾を引いているのか、かなりお疲れの様子だった。来たときよりも顔色が優れない。
ノリノリで企画を考えたのは自分だが、流石に悪いような気がしないでもないような気がしてきて、操は甲洋の手をとるとぎゅうと握りしめた。
「……カメラ回ってるよ」
「えへへー。甲洋が怖くないように、おれがずっとこうしててあげるね」
「怖くない」
「うっそだー。うわ! って悲鳴あげて尻もちついたくせにさ」
「あんなの誰だって驚くだろ」
ジロリと横目で睨まれる。けれどその頬には、ほんのりと赤みがさしていた。本人は情けない姿を撮られて消沈していたようだが、その普段なら絶対に見られない一面を見ることができて、操としては大満足だ。
あれが上手いこと編集されて、完成した動画を見るのが今から楽しみで仕方ない。サイトにアップロードされれば、きっと多くの視聴者が──
(……あれ?)
ふと引っかかりを覚えて、操は小さく首をかしげた。
普段はほぼ動じることのない甲洋が、ちょっとビクビクしていたり、驚いて尻もちをついたり。そんな意外な反応をそばで見ることができて、操の期待と好奇心は想像していた以上に満たされたはずだった。
だからこそ面白い動画が撮れたと思うし、早くたくさんの人に見てほしいとも思っている、はずなのだが。
(他のひとに見せるの、ちょっと嫌だな……)
なぜだか急に、そんなことを思ってしまう自分に気がついてしまった。
画面の向こう側には応援してくれる人たちが大勢いて、とりわけ甲洋は女性人気が圧倒的だ。中には少々困ったファンもいて、ストーカー騒ぎで警察沙汰になったなんてこともある。けれど今まで操が彼のファン層について深く意識することはなかったし、ましてやこんな気持ちになるのも初めてだった。
それは一度でいいからケーキをワンホール食べてみたいとか、一騎カレーを鍋ごと食べてみたいとか、そういった欲張りな感情にどこか似ているような気がした。要は子供っぽい独占欲だ。
「来主? 急に黙り込んでどうかした?」
「え? なに? なにか言った?」
物思いにふけっていた操の顔を、甲洋が物珍しそうに覗き込んでくる。
「眠くなった? いつもならもう寝てる時間だしね」
「ぜんぜん! だってここからが本番じゃん!」
「今までを刺し身のつま扱いされるのも、それはそれで複雑なんだけど?」
ムッとした表情で、またしても横目で睨まれる。おかしいなぁと操は思った。どうしてか、今日はいちいち甲洋が可愛く感じられてしまう。胸をくすぐられるとでも言えばいいのだろうか。
謎の母性に目覚めつつある操だったが、当の本人としてはまだまだ理解しがたい感情である。
「甲洋は可愛いね」
「もういいってその話は」
なんとも複雑な感情をひとまず押しやり、目を三日月にしてからかっていると、なにやら小さな物体が頬にコツンとぶつかってきた。
「ぴぇっ!? ま、またなんかぶつかってきたぁ!」
咄嗟に悲鳴をあげ、甲洋の腕にしがみつく。
「虫だよ虫。お前のほうがよっぽど怖がりなんじゃない?」
「だってビックリするじゃん!」
「はいはい、可愛いね来主は」
「うわ~、意地悪だぁ……」
甲洋の腕に抱きついたまま唇を尖らせていると、ずっと口を噤んでカメラを回すことに専念していた総士が、
「お前たち、いい加減イチャつくのはやめろ! ずっとカメラ越しに見てなきゃいけない僕の身にもなれ!!」
──と、キレはじめた。
彼は額に青筋を浮かべている。さらに「本来なら僕だって」と、小さく零しているのを耳ざとく聞きつけ、甲洋が「あー」と納得したような声をあげた。
「さっき言ってた予定が狂うっていうのは、そういう……?」
「(ギクッ)」
「なに? なんのこと?」
小首を傾げた操に、甲洋が生温かく微笑んだ。
「一騎がいないと寂しいってこと」
「そっか! わかるよ総士。おれも一騎がいないと寂しいよ」
「い、いいからさっさと歩け! のんびりしてたら夜が明けるぞ!」
ザ・男心である。甲洋がそこはかとなく自慢気にドヤって見えるのは気のせいだろうか。
「それより総士、これから行くトンネルには、どんないわくが?」
甲洋が投じた質問によって、なんとかピリピリしていた場の空気が正常に戻る。総士は緊張した面持ちで「ああ」と頷いた。
「工事中の落石で、何人かが犠牲になる事故があったらしいな。夜な夜な助けを求める声が聞こえるとか、他にも女のすすり泣きや、赤ん坊を抱いた老婆が出るなんて統一性のない噂まである」
「いろんな尾ひれがつくからね、そういう場所には」
「眉唾だ。どうせ風が吹き抜ける音を聞き間違えたとか、野生動物を見間違えたとか、その程度のオチだろう」
「えー? でも、実際そこでいっぱい人が死んでるんでしょ?」
「だから立つんだよ。その手の噂がね」
「ふぅん」
こうも冷静に分析されてしまうと、なんだか寂しいものがある。せっかくの心霊気分を台無しにされたような気分だった。
しかし、自分たちは今まさにそれを確かめるために向かっているのだ。もしかしたら説明がつかないような不思議な何かが、この先には待ち受けているかもしれない。想像するだけでワクワクとした期待に胸が膨らむ。
──タス……ケテ……
「ん?」
そのときだった。どこからか声が聞こえたような気がして、操は甲洋を見上げた。
「甲洋、いまなにか言った?」
「いや?」
「総士は?」
背後でカメラを回す総士を振り返ってみるが、彼は首を左右に振るだけだった。操の頭上にクエスチョンマークが飛び交った。
気のせいだったのだろうか。あたりにゆるゆると流れる風が、草木を揺らして不規則に音を立てている。さっきの話じゃないが、それを聞き間違えただけなのかもしれない。
──タス、ケテ……タス、ケ、テ……
「ッ!? 待って! やっぱり聞こえる!」
操は足を止めると、甲洋の手から懐中電灯を奪ってそこいらじゅうを照らしてみた。気のせいなどではない。確かに聞こえた。地の底から響いてくるような、重く沈んだ声だった。
「来主?」
「聞こえるでしょ? 助けてって言ってる!」
甲洋が戸惑った表情を浮かべ、総士に視線をやった。総士も甲洋と全く同じ顔をしながら首を傾げている。
「来主、お前はさっきからなにを言っている?」
──タスケ、テ……タス、ケ……
「なにって、ふたりには聞こえてないの!?」
「ドッキリの続き? さすがにもうお腹いっぱいだよ」
「そんなんじゃないって! 嘘でしょ? なんで聞こえないの!?」
その間も、どこからか助けを求める声がずっと聞こえていた。ときどき嗚咽のようなものも混ざっている。さっき総士の話にあった、女のすすり泣きというのはこれのことなのかもしれない。
甲洋と総士は顔を見合わせ、操の様子に困惑している。
(この声、おれにしか聞こえてないんだ……!)
ぞわりと背筋に寒気が走った。全身に毛虫が這うような感覚を覚え、皮膚が粟立つ。
──タスケテ……ううぅ……タス、ケ、テ……
「む、無理無理! もうやだ! ねぇ帰ろうよ!」
あれほど不思議現象を期待していたはずが、いざとなったら急に怖くなってしまった。なにせ共有できる人間がいないのだ。自分だけが、目に見えない何らかの干渉を受けている。それがなにより不気味で、恐ろしかった。
操は甲洋の腕を思いきり引っ張った。もうここにはいたくない。けれど甲洋も総士も、ただ不審そうに顔をしかめて見せるだけだ。
「なんだかよく分からないが、心霊スポットに行きたがっていたのはお前だろう。旧トンネルはもうすぐそこだ。このまま進むぞ」
「だってさ。話はあとで聞くから、まずは行ってみよう?」
「ふたりにはあれが聞こえてないから、そんなことが言えるんだ……」
涙目の操は、すっかり萎縮してしまった。今すぐにでも逃げだしてしまいたいが、甲洋と総士は聞き入れてくれそうにない。かといって一人で帰る勇気もないし、このまま行くしかなさそうだった。
操はグスンと鼻を鳴らすと、甲洋の腕にしがみついた。
*
トンネルに到着する頃には、あの不可解な声は消えていた。それでも操は甲洋の腕を離すことができず、ずっとしがみついたままだった。
山の斜面にぽっかりと開いた石積みのアーチ環には、苔がびっしりと生い茂っている。トンネルの先は真っ暗で、何かが大きな口を開けて獲物を待ち受けているかのようだった。
ゆるく吹き抜けていたはずの風はぴたりと止み、かすかな虫の鳴き声だけがそこかしこから聞こえてくる。
「ねぇ、本当に行くの?」
「一体どうしたのさ。行きは遠足気分ではしゃいでたのに」
確かに、さっきまでとはまるで立場が逆になっていた。
甲洋と総士のふたりは、操のようにはしゃぐとまではいかないが、やけに落ち着いてケロリとした顔をしている。
「なんでふたりは平気なの……あんなに怖がってたくせに……」
「何度も言わせるな。怖くないと言ってるだろう。深夜の山奥。古びたトンネル。過去に起こった凄惨な事故。心霊スポットなんてものは他者が勝手にそれらを紐付け、心象的に定義しているだけに過ぎないんだからな」
「シミュラクラ現象と同じようなものかもしれないな。人間の脳は、点が三つ集まった図形が顔に見えてしまうようにプログラムされている。心霊現象だって、所詮は五感で受け取った刺激を脳が勝手に解釈しているだけの話だよ」
「もー! なんでここに来て急に冷静になっちゃうのぉ!? 中に入ったらゾンビやクリーチャーが追いかけてきて、おれたち食べられちゃうかもしれないんだよ!?」
ほぼ泣きべそに近い声をあげた操を、総士が「ふん」と鼻でせせら笑った。
「物理攻撃か。望むところだ」
「拳で対話が可能なら、むしろ話は簡単だよ」
射影機よりも、バールのようなものを持たせることでイキイキするタイプであるらしい。非言語コミュニケーション能力の高さをうかがわせる戦士のような眼差しを見て、謎の心強さが込み上げてくる。
「うーん、なんか大丈夫そうな気がしてきたよ」
「せいぜい彼氏に守ってもらうんだな」
「総士、カメラが回ってるところでその発言は……ちょっと困るな」
「今更なんだ。その満更でもない顔を今すぐやめろ」
総士がまたピリピリしはじめたので、一行はさっさと中に入ることにした。
「うわ、変な臭い……」
トンネルに一歩踏み込んだ途端、じめついた湿気臭さが鼻をつく。ライトで照らした先には、延々と闇が口を開けているだけだった。側面には苔や湿気で黒々としたシミが広がり、ときどき落ちてくる水滴が不気味な水音を立てている。三人分の足音が、やけに大きくこだました。
「かなり長いトンネルのようだな。先が全く見通せない」
「ねぇ甲洋、なんか寒くない……?」
「そう? おかげさまで俺は暑いよ」
操は甲洋にひっついたまま、その腕を離すことができないでいる。離したが最後、闇にのまれてそのままはぐれてしまうような気がしていた。
見透かすかのようにからかわれて、操は頬を膨らませながら涙目で甲洋を睨み上げる。彼は肩をすくめてふっと笑った。
「大丈夫。一人になんかしないよ。そのまま捕まってな」
「甲洋……うん、ありがと……」
「チッ」
総士が舌打ちをしていたので、「総士もくっつく?」と提案すると、彼は忌々しそうに「結構だ!」と声を荒げた。やっぱり一騎がいないと情緒不安定になるのかなぁと、操は思った。
「見ろ、出口が見えてきたぞ」
しばらく進むと、総士がカメラを構えていない方の手で前方を指差した。うっすらとライトに照らされて、トンネルの出口が見えてくる。
操はホッと息をついた。ここまで何事もなく来ることができた。あそこに辿りつきさえすれば、あとは来た道を引き返すだけだ。例の声も聞こえないし、ゾンビやクリーチャーが現れる気配もない。
(よかった……もうすぐ帰れる……)
まだ折り返しではあるものの、安堵から気持ちが緩んだ。するとだんだん、さっきの声もなにかの間違いだったのではないかという気になってくる。
(そうだよね。だっておれにしか聞こえないなんて、そんなの絶対あるはずないし)
操がわずかに肩から力を抜いた、そのときだった。
『──けて』
(え……?)
声、のようなものが聞こえた気がして、操はギクリと肩を強張らせる。
『助け、て……』
「っ!?」
やっぱりそうだ。さっきと同じ、いや、むしろさっきよりもずっと明瞭に声が聞こえた。
甲洋でもない。総士でもない。悲しそうに上ずった声が、トンネルの内部に反響している。助けて、助けて──と。そればかりを、繰り返し。
凍りついたように足を止めると、引っ張られるようにして歩みを止めた甲洋が不思議そうに見下ろしてくる。
「来主?」
「なんだ? 急にどうした」
「総士……甲洋……あれ……」
背筋を氷でなぞられたように身を震わせながら、操は前方を指差した。
トンネルの先に、白くぼんやりとしたものが揺れている。
(なに、あれ……?)
ゆっくりと、ゆっくりと、それはこちらに向かって近づいてきているようだった。頼りないライトの光によって、その姿が徐々に明らかになっていく。
揺れていたのは、白いワンピースの裾だった。腰まである長い黒髪に、顔はすっかり覆い隠されている。女だ。丈の長い、白のワンピースを着た、痩せた女。ダラリとさせた両手をさまよわせるようにしながら、どんどん歩みを進めてくる。
「なにも見えないけど。誰かいるの?」
甲洋がトンネルの出口に向かって目を細める。総士もその方向へと熱心にカメラを向けているが、これといって反応を示すことはなかった。
「ふたりには、あれが見えてないの……?」
ガタガタと身を震わせながら呆然と問いかけた操を、甲洋と総士が不思議そうに見つめてきた。
さっきと同じだ。しかし今度は声だけじゃない。操にはその姿かたちがハッキリと見えている。それなのに、甲洋と総士の目には映っていないのだ。
「う、嘘でしょ? だって、あんなにハッキリ……!」
「お前はさっきから何を寝言ばかり言っているんだ」
「なんで!? なんでおれにしか見えてないのぉ!?」
様式美にのっとったかのような、いかにもといった姿の女が、ゆらゆらと身体を揺らしながらすぐ目の前まで迫ってきている。一歩、また一歩と近づくたびに、白い裸足がヒタヒタと湿った音を立てている。
『ううぅぅ……助け、てぇ……』
「うわー!? オバケ! オバケ来ちゃう! 早く逃げなきゃ!!」
操は甲洋と総士の腕をそれぞれ掴んで引き返そうとしたが、状況がまるで理解できていないふたりは、ただお互いに顔を見合わせるだけだった。むしろ今にも走り出そうとする操の腕を、甲洋が掴んで引き止める。
「待ちなって来主。俺たちにも分かるように説明して」
「そんな暇ないよ! わっ、わっ!? 来る! 来るってばぁ!」
女はもう目の前だった。息遣いすら聞こえそうなほどの距離まで迫り、真っ白い両手を操に向かって伸ばしてくる。
「ヒッ、い、いやだ! 来ないでぇっ!!」
『助けてぇぇ~~!』
「やだぁ~~ッ!!」
女の両腕が首に巻きついた瞬間、操の意識はブラックアウトした。
*
「──す、来主」
何度かゆるく頬を叩かれ、ふわりと意識が浮上する。
「う~ん……ぅ、あれ……?」
一体なにが起こったのだったか。膜が張ったようにぼんやりとした思考で瞬きを繰り返すと、徐々に見えてきたのは心配そうな甲洋の表情だった。
「ッ!? お、オバケ! オバケはどこ!?」
慌てて半身を起こすと、そこは元いた廃神社のそばだった。地面に置かれた懐中電灯の光で、周囲が薄ぼんやりと照らされている。藪に覆われた偽地蔵が、変わらずズラリと並んでいるのが見えた。
「あれ……おれたち、いつのまに戻ってきたの? トンネルは? オバケは?」
操は地面にあぐらをかいた甲洋の腕の中で、横抱きにされた状態で今までずっと気を失っていたらしかった。甲洋は状況が理解できずに目を瞬かせる操に、ホッと安堵の笑みを浮かべている。
「やっとお目覚めか」
片手にカメラを回す総士が、甲洋の頭上からひょっこりと顔を覗かせる。その足元にちょこんと正座している人物を見て、操はこぼれんばかりに瞳を大きく見開いた。
「まさか失神するなんて。ごめんな、来主」
「一騎!? なんで一騎がここにいるの!?」
一騎は調子が優れず、車の中で休んでいたはずだ。それがどうしてか目の前で眉をハの字にさせ、申し訳無さそうに肩をすくめている。
よく見れば、彼は真っ白のワンピースを身にまとっていた。しかもその膝の上には黒い毛むくじゃらが丸めて置かれている。見覚えがありすぎるそれらに、操はますます混乱した。
「な、なにそれ? どういうこと?」
「実はさ……」
スッ、と一騎がなにかを持ち上げた。それは『ドッキリ大成功』と書かれた看板で、本日二度目の登場だった。
「これ、全部ドッキリなんだ」
「ふぁッ!?」
「デッデレー、なんちゃって」
照れくさそうに言った一騎にあんぐりと口を開いた操を見て、堪えきれずに総士が顔を背けながら小さく噴きだした。そのまま肩を揺らし、クツクツと笑っている。
「っ、!? ぇ、え!?」
咄嗟に甲洋を見ると、彼もまた総士と同じように顔を背けて肩を震わせていた。
「な、なに!? なんなのこれ!? ぜんぜん意味がわかんないよ!?」
涙目で混乱する操に、総士が「つまり逆ドッキリだ」と笑いを噛み殺しながら言い放った。
「逆、ドッキリぃ……?」
「ごめん来主。ターゲットは俺でも一騎でもなく、最初からお前だったんだよ」
「その通り。お前以外の全員が、この企画の仕掛け人だ」
「はぁ~!?」
操にドッキリ企画を持ちかけられた総士は、話に乗るふりをしてこの逆ドッキリ計画を思いついた。そして密かに甲洋と一騎と三人で打ち合わせをし、表向きは操発案の心霊ドッキリとして事を進めることにしたのだ。
一騎が到着して早々に体調を崩したのも、もちろん仕込みである。彼は操と甲洋を総士が待機している廃神社へと向かわせたあと、すぐにこの山の裏側へ全力ダッシュした。甲洋を偽のターゲットとした一連の茶番は、一騎が例の旧トンネルに到着して女の幽霊に変装し、待機が完了するまでの時間稼ぎだったというわけだ。
トンネルへ向かう前に総士が一騎に入れていた連絡は、本番スタートの合図を送るためのものだった。
「そ、そんなぁ……みんな酷いよぉ……」
「もともと一騎と甲洋をハメようとしていたのはお前の方だぞ」
「そうだけど! そうだけどぉ! 怖かったよぉ!」
ピィピィと泣きだした操の頭を、甲洋が「よしよし」と言って優しく撫でる。
「俺は止めたんだよ。だけど総士がどうしてもって」
「優しい彼氏像を守ることに必死か。息をするように嘘をつくんじゃない」
「甲洋、見たことないくらい目がキラキラしてたよな……」
「もう誰も信じられないよ! 鬼! 悪魔!」
最初から騙されていたのは自分の方だったなんて、生きている人間が一番怖いというのは本当だったんだ……と、操は思った。特に甲洋はエグい。さっさと役者にでも転身するべきである。あの怯えたり驚いたりしている姿を、ちょっとでも可愛いと思ってしまった自分が憎い。
しかしあれが全て嘘だったと知って、心から安堵しているのも事実だった。心霊体験なんて二度とごめんだ。あんな恐ろしい思いをするくらいなら、ふんどし一丁でローションまみれになりながらポロリする方が、何倍もマシだった。
「これに懲りて、もう二度と心霊スポットに行きたいなんて言いだすのはやめるんだな」
片手を腰に当てた総士が、ふんぞり返って笑みを浮かべている。
「トンネルが心霊スポットっていうのも嘘なわけ……?」
「そりゃあ、総士はオバケが出るようなところに、わざわざ行きたがらないもんな」
「う、うるさいぞ一騎」
ふふふと笑っている一騎と、バツが悪そうにしている総士に頬を膨らませていた操だが、ふと思いだして甲洋を見た。
「ねぇ、じゃああの声はなんだったの? あれも一騎が?」
「あの声って?」
「行く途中で聞こえた声だよ。あのとき、一騎はもうトンネルの奥にいたんでしょ?」
あらかじめ録音した音声でも流していたのだろうか。操が首を傾げていると、甲洋と総士が不思議そうに顔を見合わせる。一騎も訳がわからないといった様子でキョトンとしていた。
「声ってなんのことだ? 俺はトンネルの奥で待ってただけで、他にも仕込みがあるなんて聞かされてないぞ?」
「そんなはずないよ! 総士、カメラ貸して! 見てみれば分かるんだから!」
「……ちょっと待て」
総士が膝をつき、硬い表情でいったんカメラを止めた。そしてすぐにテープチェックをしはじめる。全員がその手元にある画面を覗き込んだ。そこには総士が回し続けていたカメラの映像が、鮮明に映し出されている。
『甲洋、いまなにか言った?』
『いや?』
『総士は?』
──タス、ケテ……タス、ケ、テ……
『ッ!? 待って! やっぱり聞こえる!』
『来主?』
『聞こえるでしょ? 助けてって言ってる!』
『来主、お前はさっきからなにを言っている?』
──タスケ、テ……タス、ケ……
『なにって、ふたりには聞こえてないの!?』
『ドッキリの続き? さすがにもうお腹いっぱいだよ』
『そんなんじゃないって! 嘘でしょ? なんで聞こえないの!?』
──タスケテ……ううぅ……タス、ケ、テ……
「ほらぁ! ちゃんと入って……あれ? でも、これよく聞いたら一騎の声じゃないね」
トンネル内部で聞いた偽幽霊の声は、一騎が裏声を駆使して出していたものだった。あのときは混乱のあまり気づかなかったが、今にして思えば確かに彼のものだったことが分かる。けれど、この声はトンネルで聞いたものとはまるで違っていた。低く、それでいて濡れた声音は女性のものにしか聞こえない。
甲洋と総士を見ると、ふたりは完全に押し黙った状態で硬直していた。一騎が目を白黒させながら戸惑っている。
「おい総士、甲洋……これ、一体どういうことなんだ……?」
一騎の問いに答えるものはいなかった。沈黙が重い。蒸し暑いはずの湿った夜気が、ぐっと冷たくなったような気がする。操も一騎もなにも言えなくなってしまった。
空気を読まない(読めない)ことに定評のある操ですら、察するに余りある嫌な空気が流れている。早く納得のいく説明をしてほしいのに、この場にはそれができる人間がいないのだ。
「……帰ろう、今すぐ」
おもむろに、甲洋が言った。その顔面はまさに蒼白である。まったく同じ顔色で、総士がカメラの電源を落としながら頷いた。
「撤収だ」
「え、ちょっと? ねぇ?」
「いいからすぐに撤収だ!!」
鬼気迫る顔の総士に怒鳴られてしまった。ちょっと涙目で黙々と偽地蔵を回収しているふたりの姿を見て、「あ、これマジなやつだ」と、操と一騎は同時に思った。
*
その後、五体の偽地蔵(発泡スチロール製)を抱えた四人は一切の言葉を交わすことなく山を降り、車に乗り込むと楽園に戻った。
そしてその夜は誰ひとりとして自宅へ帰ろうとするものはおらず、全員でぴったり身を寄せ合い、川の字で眠った。(特に甲洋と総士はずっとプルプルしていた)
ちなみに一連の大掛かりな逆ドッキリ動画は、甲洋も総士も揃って編集作業を嫌がったためお蔵入りが決定し、偽地蔵にかかったウン十万だけが赤字として残ってしまった。
あの声がなんだったのかは未だに謎のまま、エレメント内では禁句になっている。だが、結果的に『ガチで怯える甲洋』という珍しいものを見ることができたので、操だけはちょっぴり得した気分になったのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
心霊スポットで肝試し動画を撮影することになった、動画クリエイター集団エレメント。
オバケ、ダメ、絶対主義の総士と、体調不良を訴える一騎を残し、甲洋と操のふたりはイチャコラ(?)しながら山奥の廃神社へと向かう。
そこで甲洋はこの肝試し企画が操(黒幕)と総士(仕掛け人)による、心霊ドッキリであったことを知らされる。しかも廃神社は偽の心霊スポットだった。
ようやく帰れると思った矢先、一行は総士の提案で今度こそ本物の心霊スポットへと向かうことになったのであった──。
*
「総士、一騎はなんて?」
やはりどうしても心配だったらしく、出発前に少し離れた位置で一騎に連絡を入れていた総士が戻ってきた。
「ああ、だいぶ楽になったとは言っていた。だが、大事をとって一騎はこのまま休ませる」
「そっか。じゃあ早く行って帰ってこようよ!」
「そうしよう」
なんやかんやで時刻は午前1時をとうに過ぎていた。今から行動を開始して件の旧トンネルとやらに到着するころには、ちょうど丑三つ時にさしかかっていることだろう。まさにうってつけのナイスタイミングといえる。
ハンディカメラ(ライト付き)は総士が、懐中電灯は甲洋が持ち、三人は廃神社の脇から伸びる小道へと足を踏み入れた。
「本物の心霊スポット、か。楽しみだな。ドキドキするよ!」
「来主、足元注意して。転ぶよ」
甲洋はドッキリにハメられたことが尾を引いているのか、かなりお疲れの様子だった。来たときよりも顔色が優れない。
ノリノリで企画を考えたのは自分だが、流石に悪いような気がしないでもないような気がしてきて、操は甲洋の手をとるとぎゅうと握りしめた。
「……カメラ回ってるよ」
「えへへー。甲洋が怖くないように、おれがずっとこうしててあげるね」
「怖くない」
「うっそだー。うわ! って悲鳴あげて尻もちついたくせにさ」
「あんなの誰だって驚くだろ」
ジロリと横目で睨まれる。けれどその頬には、ほんのりと赤みがさしていた。本人は情けない姿を撮られて消沈していたようだが、その普段なら絶対に見られない一面を見ることができて、操としては大満足だ。
あれが上手いこと編集されて、完成した動画を見るのが今から楽しみで仕方ない。サイトにアップロードされれば、きっと多くの視聴者が──
(……あれ?)
ふと引っかかりを覚えて、操は小さく首をかしげた。
普段はほぼ動じることのない甲洋が、ちょっとビクビクしていたり、驚いて尻もちをついたり。そんな意外な反応をそばで見ることができて、操の期待と好奇心は想像していた以上に満たされたはずだった。
だからこそ面白い動画が撮れたと思うし、早くたくさんの人に見てほしいとも思っている、はずなのだが。
(他のひとに見せるの、ちょっと嫌だな……)
なぜだか急に、そんなことを思ってしまう自分に気がついてしまった。
画面の向こう側には応援してくれる人たちが大勢いて、とりわけ甲洋は女性人気が圧倒的だ。中には少々困ったファンもいて、ストーカー騒ぎで警察沙汰になったなんてこともある。けれど今まで操が彼のファン層について深く意識することはなかったし、ましてやこんな気持ちになるのも初めてだった。
それは一度でいいからケーキをワンホール食べてみたいとか、一騎カレーを鍋ごと食べてみたいとか、そういった欲張りな感情にどこか似ているような気がした。要は子供っぽい独占欲だ。
「来主? 急に黙り込んでどうかした?」
「え? なに? なにか言った?」
物思いにふけっていた操の顔を、甲洋が物珍しそうに覗き込んでくる。
「眠くなった? いつもならもう寝てる時間だしね」
「ぜんぜん! だってここからが本番じゃん!」
「今までを刺し身のつま扱いされるのも、それはそれで複雑なんだけど?」
ムッとした表情で、またしても横目で睨まれる。おかしいなぁと操は思った。どうしてか、今日はいちいち甲洋が可愛く感じられてしまう。胸をくすぐられるとでも言えばいいのだろうか。
謎の母性に目覚めつつある操だったが、当の本人としてはまだまだ理解しがたい感情である。
「甲洋は可愛いね」
「もういいってその話は」
なんとも複雑な感情をひとまず押しやり、目を三日月にしてからかっていると、なにやら小さな物体が頬にコツンとぶつかってきた。
「ぴぇっ!? ま、またなんかぶつかってきたぁ!」
咄嗟に悲鳴をあげ、甲洋の腕にしがみつく。
「虫だよ虫。お前のほうがよっぽど怖がりなんじゃない?」
「だってビックリするじゃん!」
「はいはい、可愛いね来主は」
「うわ~、意地悪だぁ……」
甲洋の腕に抱きついたまま唇を尖らせていると、ずっと口を噤んでカメラを回すことに専念していた総士が、
「お前たち、いい加減イチャつくのはやめろ! ずっとカメラ越しに見てなきゃいけない僕の身にもなれ!!」
──と、キレはじめた。
彼は額に青筋を浮かべている。さらに「本来なら僕だって」と、小さく零しているのを耳ざとく聞きつけ、甲洋が「あー」と納得したような声をあげた。
「さっき言ってた予定が狂うっていうのは、そういう……?」
「(ギクッ)」
「なに? なんのこと?」
小首を傾げた操に、甲洋が生温かく微笑んだ。
「一騎がいないと寂しいってこと」
「そっか! わかるよ総士。おれも一騎がいないと寂しいよ」
「い、いいからさっさと歩け! のんびりしてたら夜が明けるぞ!」
ザ・男心である。甲洋がそこはかとなく自慢気にドヤって見えるのは気のせいだろうか。
「それより総士、これから行くトンネルには、どんないわくが?」
甲洋が投じた質問によって、なんとかピリピリしていた場の空気が正常に戻る。総士は緊張した面持ちで「ああ」と頷いた。
「工事中の落石で、何人かが犠牲になる事故があったらしいな。夜な夜な助けを求める声が聞こえるとか、他にも女のすすり泣きや、赤ん坊を抱いた老婆が出るなんて統一性のない噂まである」
「いろんな尾ひれがつくからね、そういう場所には」
「眉唾だ。どうせ風が吹き抜ける音を聞き間違えたとか、野生動物を見間違えたとか、その程度のオチだろう」
「えー? でも、実際そこでいっぱい人が死んでるんでしょ?」
「だから立つんだよ。その手の噂がね」
「ふぅん」
こうも冷静に分析されてしまうと、なんだか寂しいものがある。せっかくの心霊気分を台無しにされたような気分だった。
しかし、自分たちは今まさにそれを確かめるために向かっているのだ。もしかしたら説明がつかないような不思議な何かが、この先には待ち受けているかもしれない。想像するだけでワクワクとした期待に胸が膨らむ。
──タス……ケテ……
「ん?」
そのときだった。どこからか声が聞こえたような気がして、操は甲洋を見上げた。
「甲洋、いまなにか言った?」
「いや?」
「総士は?」
背後でカメラを回す総士を振り返ってみるが、彼は首を左右に振るだけだった。操の頭上にクエスチョンマークが飛び交った。
気のせいだったのだろうか。あたりにゆるゆると流れる風が、草木を揺らして不規則に音を立てている。さっきの話じゃないが、それを聞き間違えただけなのかもしれない。
──タス、ケテ……タス、ケ、テ……
「ッ!? 待って! やっぱり聞こえる!」
操は足を止めると、甲洋の手から懐中電灯を奪ってそこいらじゅうを照らしてみた。気のせいなどではない。確かに聞こえた。地の底から響いてくるような、重く沈んだ声だった。
「来主?」
「聞こえるでしょ? 助けてって言ってる!」
甲洋が戸惑った表情を浮かべ、総士に視線をやった。総士も甲洋と全く同じ顔をしながら首を傾げている。
「来主、お前はさっきからなにを言っている?」
──タスケ、テ……タス、ケ……
「なにって、ふたりには聞こえてないの!?」
「ドッキリの続き? さすがにもうお腹いっぱいだよ」
「そんなんじゃないって! 嘘でしょ? なんで聞こえないの!?」
その間も、どこからか助けを求める声がずっと聞こえていた。ときどき嗚咽のようなものも混ざっている。さっき総士の話にあった、女のすすり泣きというのはこれのことなのかもしれない。
甲洋と総士は顔を見合わせ、操の様子に困惑している。
(この声、おれにしか聞こえてないんだ……!)
ぞわりと背筋に寒気が走った。全身に毛虫が這うような感覚を覚え、皮膚が粟立つ。
──タスケテ……ううぅ……タス、ケ、テ……
「む、無理無理! もうやだ! ねぇ帰ろうよ!」
あれほど不思議現象を期待していたはずが、いざとなったら急に怖くなってしまった。なにせ共有できる人間がいないのだ。自分だけが、目に見えない何らかの干渉を受けている。それがなにより不気味で、恐ろしかった。
操は甲洋の腕を思いきり引っ張った。もうここにはいたくない。けれど甲洋も総士も、ただ不審そうに顔をしかめて見せるだけだ。
「なんだかよく分からないが、心霊スポットに行きたがっていたのはお前だろう。旧トンネルはもうすぐそこだ。このまま進むぞ」
「だってさ。話はあとで聞くから、まずは行ってみよう?」
「ふたりにはあれが聞こえてないから、そんなことが言えるんだ……」
涙目の操は、すっかり萎縮してしまった。今すぐにでも逃げだしてしまいたいが、甲洋と総士は聞き入れてくれそうにない。かといって一人で帰る勇気もないし、このまま行くしかなさそうだった。
操はグスンと鼻を鳴らすと、甲洋の腕にしがみついた。
*
トンネルに到着する頃には、あの不可解な声は消えていた。それでも操は甲洋の腕を離すことができず、ずっとしがみついたままだった。
山の斜面にぽっかりと開いた石積みのアーチ環には、苔がびっしりと生い茂っている。トンネルの先は真っ暗で、何かが大きな口を開けて獲物を待ち受けているかのようだった。
ゆるく吹き抜けていたはずの風はぴたりと止み、かすかな虫の鳴き声だけがそこかしこから聞こえてくる。
「ねぇ、本当に行くの?」
「一体どうしたのさ。行きは遠足気分ではしゃいでたのに」
確かに、さっきまでとはまるで立場が逆になっていた。
甲洋と総士のふたりは、操のようにはしゃぐとまではいかないが、やけに落ち着いてケロリとした顔をしている。
「なんでふたりは平気なの……あんなに怖がってたくせに……」
「何度も言わせるな。怖くないと言ってるだろう。深夜の山奥。古びたトンネル。過去に起こった凄惨な事故。心霊スポットなんてものは他者が勝手にそれらを紐付け、心象的に定義しているだけに過ぎないんだからな」
「シミュラクラ現象と同じようなものかもしれないな。人間の脳は、点が三つ集まった図形が顔に見えてしまうようにプログラムされている。心霊現象だって、所詮は五感で受け取った刺激を脳が勝手に解釈しているだけの話だよ」
「もー! なんでここに来て急に冷静になっちゃうのぉ!? 中に入ったらゾンビやクリーチャーが追いかけてきて、おれたち食べられちゃうかもしれないんだよ!?」
ほぼ泣きべそに近い声をあげた操を、総士が「ふん」と鼻でせせら笑った。
「物理攻撃か。望むところだ」
「拳で対話が可能なら、むしろ話は簡単だよ」
射影機よりも、バールのようなものを持たせることでイキイキするタイプであるらしい。非言語コミュニケーション能力の高さをうかがわせる戦士のような眼差しを見て、謎の心強さが込み上げてくる。
「うーん、なんか大丈夫そうな気がしてきたよ」
「せいぜい彼氏に守ってもらうんだな」
「総士、カメラが回ってるところでその発言は……ちょっと困るな」
「今更なんだ。その満更でもない顔を今すぐやめろ」
総士がまたピリピリしはじめたので、一行はさっさと中に入ることにした。
「うわ、変な臭い……」
トンネルに一歩踏み込んだ途端、じめついた湿気臭さが鼻をつく。ライトで照らした先には、延々と闇が口を開けているだけだった。側面には苔や湿気で黒々としたシミが広がり、ときどき落ちてくる水滴が不気味な水音を立てている。三人分の足音が、やけに大きくこだました。
「かなり長いトンネルのようだな。先が全く見通せない」
「ねぇ甲洋、なんか寒くない……?」
「そう? おかげさまで俺は暑いよ」
操は甲洋にひっついたまま、その腕を離すことができないでいる。離したが最後、闇にのまれてそのままはぐれてしまうような気がしていた。
見透かすかのようにからかわれて、操は頬を膨らませながら涙目で甲洋を睨み上げる。彼は肩をすくめてふっと笑った。
「大丈夫。一人になんかしないよ。そのまま捕まってな」
「甲洋……うん、ありがと……」
「チッ」
総士が舌打ちをしていたので、「総士もくっつく?」と提案すると、彼は忌々しそうに「結構だ!」と声を荒げた。やっぱり一騎がいないと情緒不安定になるのかなぁと、操は思った。
「見ろ、出口が見えてきたぞ」
しばらく進むと、総士がカメラを構えていない方の手で前方を指差した。うっすらとライトに照らされて、トンネルの出口が見えてくる。
操はホッと息をついた。ここまで何事もなく来ることができた。あそこに辿りつきさえすれば、あとは来た道を引き返すだけだ。例の声も聞こえないし、ゾンビやクリーチャーが現れる気配もない。
(よかった……もうすぐ帰れる……)
まだ折り返しではあるものの、安堵から気持ちが緩んだ。するとだんだん、さっきの声もなにかの間違いだったのではないかという気になってくる。
(そうだよね。だっておれにしか聞こえないなんて、そんなの絶対あるはずないし)
操がわずかに肩から力を抜いた、そのときだった。
『──けて』
(え……?)
声、のようなものが聞こえた気がして、操はギクリと肩を強張らせる。
『助け、て……』
「っ!?」
やっぱりそうだ。さっきと同じ、いや、むしろさっきよりもずっと明瞭に声が聞こえた。
甲洋でもない。総士でもない。悲しそうに上ずった声が、トンネルの内部に反響している。助けて、助けて──と。そればかりを、繰り返し。
凍りついたように足を止めると、引っ張られるようにして歩みを止めた甲洋が不思議そうに見下ろしてくる。
「来主?」
「なんだ? 急にどうした」
「総士……甲洋……あれ……」
背筋を氷でなぞられたように身を震わせながら、操は前方を指差した。
トンネルの先に、白くぼんやりとしたものが揺れている。
(なに、あれ……?)
ゆっくりと、ゆっくりと、それはこちらに向かって近づいてきているようだった。頼りないライトの光によって、その姿が徐々に明らかになっていく。
揺れていたのは、白いワンピースの裾だった。腰まである長い黒髪に、顔はすっかり覆い隠されている。女だ。丈の長い、白のワンピースを着た、痩せた女。ダラリとさせた両手をさまよわせるようにしながら、どんどん歩みを進めてくる。
「なにも見えないけど。誰かいるの?」
甲洋がトンネルの出口に向かって目を細める。総士もその方向へと熱心にカメラを向けているが、これといって反応を示すことはなかった。
「ふたりには、あれが見えてないの……?」
ガタガタと身を震わせながら呆然と問いかけた操を、甲洋と総士が不思議そうに見つめてきた。
さっきと同じだ。しかし今度は声だけじゃない。操にはその姿かたちがハッキリと見えている。それなのに、甲洋と総士の目には映っていないのだ。
「う、嘘でしょ? だって、あんなにハッキリ……!」
「お前はさっきから何を寝言ばかり言っているんだ」
「なんで!? なんでおれにしか見えてないのぉ!?」
様式美にのっとったかのような、いかにもといった姿の女が、ゆらゆらと身体を揺らしながらすぐ目の前まで迫ってきている。一歩、また一歩と近づくたびに、白い裸足がヒタヒタと湿った音を立てている。
『ううぅぅ……助け、てぇ……』
「うわー!? オバケ! オバケ来ちゃう! 早く逃げなきゃ!!」
操は甲洋と総士の腕をそれぞれ掴んで引き返そうとしたが、状況がまるで理解できていないふたりは、ただお互いに顔を見合わせるだけだった。むしろ今にも走り出そうとする操の腕を、甲洋が掴んで引き止める。
「待ちなって来主。俺たちにも分かるように説明して」
「そんな暇ないよ! わっ、わっ!? 来る! 来るってばぁ!」
女はもう目の前だった。息遣いすら聞こえそうなほどの距離まで迫り、真っ白い両手を操に向かって伸ばしてくる。
「ヒッ、い、いやだ! 来ないでぇっ!!」
『助けてぇぇ~~!』
「やだぁ~~ッ!!」
女の両腕が首に巻きついた瞬間、操の意識はブラックアウトした。
*
「──す、来主」
何度かゆるく頬を叩かれ、ふわりと意識が浮上する。
「う~ん……ぅ、あれ……?」
一体なにが起こったのだったか。膜が張ったようにぼんやりとした思考で瞬きを繰り返すと、徐々に見えてきたのは心配そうな甲洋の表情だった。
「ッ!? お、オバケ! オバケはどこ!?」
慌てて半身を起こすと、そこは元いた廃神社のそばだった。地面に置かれた懐中電灯の光で、周囲が薄ぼんやりと照らされている。藪に覆われた偽地蔵が、変わらずズラリと並んでいるのが見えた。
「あれ……おれたち、いつのまに戻ってきたの? トンネルは? オバケは?」
操は地面にあぐらをかいた甲洋の腕の中で、横抱きにされた状態で今までずっと気を失っていたらしかった。甲洋は状況が理解できずに目を瞬かせる操に、ホッと安堵の笑みを浮かべている。
「やっとお目覚めか」
片手にカメラを回す総士が、甲洋の頭上からひょっこりと顔を覗かせる。その足元にちょこんと正座している人物を見て、操はこぼれんばかりに瞳を大きく見開いた。
「まさか失神するなんて。ごめんな、来主」
「一騎!? なんで一騎がここにいるの!?」
一騎は調子が優れず、車の中で休んでいたはずだ。それがどうしてか目の前で眉をハの字にさせ、申し訳無さそうに肩をすくめている。
よく見れば、彼は真っ白のワンピースを身にまとっていた。しかもその膝の上には黒い毛むくじゃらが丸めて置かれている。見覚えがありすぎるそれらに、操はますます混乱した。
「な、なにそれ? どういうこと?」
「実はさ……」
スッ、と一騎がなにかを持ち上げた。それは『ドッキリ大成功』と書かれた看板で、本日二度目の登場だった。
「これ、全部ドッキリなんだ」
「ふぁッ!?」
「デッデレー、なんちゃって」
照れくさそうに言った一騎にあんぐりと口を開いた操を見て、堪えきれずに総士が顔を背けながら小さく噴きだした。そのまま肩を揺らし、クツクツと笑っている。
「っ、!? ぇ、え!?」
咄嗟に甲洋を見ると、彼もまた総士と同じように顔を背けて肩を震わせていた。
「な、なに!? なんなのこれ!? ぜんぜん意味がわかんないよ!?」
涙目で混乱する操に、総士が「つまり逆ドッキリだ」と笑いを噛み殺しながら言い放った。
「逆、ドッキリぃ……?」
「ごめん来主。ターゲットは俺でも一騎でもなく、最初からお前だったんだよ」
「その通り。お前以外の全員が、この企画の仕掛け人だ」
「はぁ~!?」
操にドッキリ企画を持ちかけられた総士は、話に乗るふりをしてこの逆ドッキリ計画を思いついた。そして密かに甲洋と一騎と三人で打ち合わせをし、表向きは操発案の心霊ドッキリとして事を進めることにしたのだ。
一騎が到着して早々に体調を崩したのも、もちろん仕込みである。彼は操と甲洋を総士が待機している廃神社へと向かわせたあと、すぐにこの山の裏側へ全力ダッシュした。甲洋を偽のターゲットとした一連の茶番は、一騎が例の旧トンネルに到着して女の幽霊に変装し、待機が完了するまでの時間稼ぎだったというわけだ。
トンネルへ向かう前に総士が一騎に入れていた連絡は、本番スタートの合図を送るためのものだった。
「そ、そんなぁ……みんな酷いよぉ……」
「もともと一騎と甲洋をハメようとしていたのはお前の方だぞ」
「そうだけど! そうだけどぉ! 怖かったよぉ!」
ピィピィと泣きだした操の頭を、甲洋が「よしよし」と言って優しく撫でる。
「俺は止めたんだよ。だけど総士がどうしてもって」
「優しい彼氏像を守ることに必死か。息をするように嘘をつくんじゃない」
「甲洋、見たことないくらい目がキラキラしてたよな……」
「もう誰も信じられないよ! 鬼! 悪魔!」
最初から騙されていたのは自分の方だったなんて、生きている人間が一番怖いというのは本当だったんだ……と、操は思った。特に甲洋はエグい。さっさと役者にでも転身するべきである。あの怯えたり驚いたりしている姿を、ちょっとでも可愛いと思ってしまった自分が憎い。
しかしあれが全て嘘だったと知って、心から安堵しているのも事実だった。心霊体験なんて二度とごめんだ。あんな恐ろしい思いをするくらいなら、ふんどし一丁でローションまみれになりながらポロリする方が、何倍もマシだった。
「これに懲りて、もう二度と心霊スポットに行きたいなんて言いだすのはやめるんだな」
片手を腰に当てた総士が、ふんぞり返って笑みを浮かべている。
「トンネルが心霊スポットっていうのも嘘なわけ……?」
「そりゃあ、総士はオバケが出るようなところに、わざわざ行きたがらないもんな」
「う、うるさいぞ一騎」
ふふふと笑っている一騎と、バツが悪そうにしている総士に頬を膨らませていた操だが、ふと思いだして甲洋を見た。
「ねぇ、じゃああの声はなんだったの? あれも一騎が?」
「あの声って?」
「行く途中で聞こえた声だよ。あのとき、一騎はもうトンネルの奥にいたんでしょ?」
あらかじめ録音した音声でも流していたのだろうか。操が首を傾げていると、甲洋と総士が不思議そうに顔を見合わせる。一騎も訳がわからないといった様子でキョトンとしていた。
「声ってなんのことだ? 俺はトンネルの奥で待ってただけで、他にも仕込みがあるなんて聞かされてないぞ?」
「そんなはずないよ! 総士、カメラ貸して! 見てみれば分かるんだから!」
「……ちょっと待て」
総士が膝をつき、硬い表情でいったんカメラを止めた。そしてすぐにテープチェックをしはじめる。全員がその手元にある画面を覗き込んだ。そこには総士が回し続けていたカメラの映像が、鮮明に映し出されている。
『甲洋、いまなにか言った?』
『いや?』
『総士は?』
──タス、ケテ……タス、ケ、テ……
『ッ!? 待って! やっぱり聞こえる!』
『来主?』
『聞こえるでしょ? 助けてって言ってる!』
『来主、お前はさっきからなにを言っている?』
──タスケ、テ……タス、ケ……
『なにって、ふたりには聞こえてないの!?』
『ドッキリの続き? さすがにもうお腹いっぱいだよ』
『そんなんじゃないって! 嘘でしょ? なんで聞こえないの!?』
──タスケテ……ううぅ……タス、ケ、テ……
「ほらぁ! ちゃんと入って……あれ? でも、これよく聞いたら一騎の声じゃないね」
トンネル内部で聞いた偽幽霊の声は、一騎が裏声を駆使して出していたものだった。あのときは混乱のあまり気づかなかったが、今にして思えば確かに彼のものだったことが分かる。けれど、この声はトンネルで聞いたものとはまるで違っていた。低く、それでいて濡れた声音は女性のものにしか聞こえない。
甲洋と総士を見ると、ふたりは完全に押し黙った状態で硬直していた。一騎が目を白黒させながら戸惑っている。
「おい総士、甲洋……これ、一体どういうことなんだ……?」
一騎の問いに答えるものはいなかった。沈黙が重い。蒸し暑いはずの湿った夜気が、ぐっと冷たくなったような気がする。操も一騎もなにも言えなくなってしまった。
空気を読まない(読めない)ことに定評のある操ですら、察するに余りある嫌な空気が流れている。早く納得のいく説明をしてほしいのに、この場にはそれができる人間がいないのだ。
「……帰ろう、今すぐ」
おもむろに、甲洋が言った。その顔面はまさに蒼白である。まったく同じ顔色で、総士がカメラの電源を落としながら頷いた。
「撤収だ」
「え、ちょっと? ねぇ?」
「いいからすぐに撤収だ!!」
鬼気迫る顔の総士に怒鳴られてしまった。ちょっと涙目で黙々と偽地蔵を回収しているふたりの姿を見て、「あ、これマジなやつだ」と、操と一騎は同時に思った。
*
その後、五体の偽地蔵(発泡スチロール製)を抱えた四人は一切の言葉を交わすことなく山を降り、車に乗り込むと楽園に戻った。
そしてその夜は誰ひとりとして自宅へ帰ろうとするものはおらず、全員でぴったり身を寄せ合い、川の字で眠った。(特に甲洋と総士はずっとプルプルしていた)
ちなみに一連の大掛かりな逆ドッキリ動画は、甲洋も総士も揃って編集作業を嫌がったためお蔵入りが決定し、偽地蔵にかかったウン十万だけが赤字として残ってしまった。
あの声がなんだったのかは未だに謎のまま、エレメント内では禁句になっている。だが、結果的に『ガチで怯える甲洋』という珍しいものを見ることができたので、操だけはちょっぴり得した気分になったのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
FafTuberとは、世界最大の動画共有サービス『FafTube』上に、独自制作した動画を公開し続けるクリエイターを指す名称である。
近年、日本でも爆発的なブームが到来し、子供たちのなりたい職業ランキングでは上位に入るほど、世間一般にも認知される存在になっていた。
FafTube上において数多のチャンネルが混在するなか、ひときわ人気を博しているFafTuber集団がいる。その名も『珪素チャンネル・エレメント』だ。
もともとはチート級の知能指数を誇る大学生、皆城総士と春日井甲洋が気まぐれで開設した科学実験チャンネルだった。
そこにふたりの幼馴染である真壁一騎がふらりと加入したことにより、一時期ほのぼのお料理チャンネルへとシフトチェンジ。その後、高校を卒業したあとフラフラしていた来主操──総士の従兄弟だ──が気まぐれ電撃加入を果たし、大食い、ゲーム実況、メントスジンジャーエールにハバネロ風呂などなど、なんでもありのカオスな悪ふざけチャンネルへと進化──総士に言わせると退化らしい──した。
揃いも揃って顔面偏差値が高いことから女子人気が絶大で、凄まじい勢いでチャンネル登録者数を増やし、日本人で初となるダイヤモンドの盾の獲得も間近とされている。
CDデビューもしており、デビューシングルはオリコン1位を獲得。M●テ出演も果たし、一気に国民的アイドルFafTuberへと上りつめた。
ちなみに甲洋と操は一時期不仲説が浮上していたが、ある検証動画をきっかけに二人の距離が急激に縮まったことから、視聴者たちの間にあらゆる意味で衝撃が走り、もともとは一騎と総士の二人によって占められていた『とある市場』を、より拡大させる結果となった。
『【検証】不仲説のあるふたりで釣りキャンプに出かけてみた』という動画は、珪素チャンネル内で最多の再生数を誇っている。
*
「夏だしさ、今年は心霊スポット凸しようよ!」
8月某日。
甲洋の実家である元・喫茶楽園──現在は閉店し、四人の活動拠点になっている──で企画会議中、ずっとスイカの種を飛ばして遊んでいた操がとつぜん声を上げた。
「おい甲洋。来主がまたしょーもないことを言いだしたぞ。止めろ。速やかに」
その提案に真っ先に難色を示したのは総士だった。彼は眼鏡の奥でその瞳を険しく細めている。
なんで俺がと思いつつ、操がふっ飛ばしたスイカの種を片付けていた甲洋は、今ではすっかり操の保護者兼、世話係に任命されていた。(なんだかんだで異存はないが)
「来主、総士が心霊系NGなのは知ってるだろ?」
「えー? だって夏だよ? 夏といったらオバケじゃないのぉ?」
「まぁ風物詩ではあるけどさ」
操がプッと吐き出したスイカの種を素早くキャッチしながら、甲洋は総士に視線を向けた。彼は形の良い眉を鋭利な角度に吊り上げているが、その顔色はうっすら青くなっている。
珪素チャンネルでは、これまで心霊系の動画を扱ったことがない。それもこれも、全て総士が却下してきたからだ。科学的根拠のない有象無象を扱うことは、当チャンネルの理念に反する、とかなんとかそれっぽいことを言ってはいるが、今やなんでもありのカオスなチャンネルにおいて、理念といえば『炎上しない』くらいのものである。
要するに、彼はシンプルにオバケが怖いのだ。一騎も甲洋もそれを知っているが、あえて突っ込まずに彼の言い分を尊重してきた。が、操は空気を読まない子だった。
「ねぇ総士、科学的根拠がないってことは、総士にとってオバケはいないってことなんでしょ? だったら怖がる必要なんかないじゃん。いないんだから」
あーぁ、言っちゃった……と呆れながらおしぼりで手に付着したスイカ汁を拭いていると、案の定
「ッ! 怖くなどない! 僕をみくびるな!」
と、総士が顔を真っ赤にしてテーブルを叩きながら否定した。
「なら平気だよね! 今夜さっそく行こうよ! はい決定! プッ」
「来主、いい加減スイカの種飛ばすのはやめな……」
甲洋がキャッチしそこねたスイカの種が、操の真向かいにいる総士の眼鏡にくっついた。いったい口の中に幾つ種をストックしているのだろうか。操の目の前の皿には食べ終わったスイカの皮が山のようになっている。
エレメントはAlvisという名のマネジメント会社に所属するクリエイター集団だ。そこに毎日のようにファンから手紙をはじめ、なにかしらのプレゼントが送られてくる。
夏真っ盛りということもあって、Alvis経由で送られてきたのは大量の高級スイカだった。とても食べ切れる量ではなかったが、底なしの胃袋を持つ操がせっせと食べて消費してくれている。
「冗談じゃない。僕は絶対に行かないぞ。言っておくが、怖いからじゃない。撮りためてある動画の編集作業が、山のごとく残っているからだ。それもこれもお前と一騎の編集技術がいつまで経っても向上しないからであって、そのしわ寄せが僕と甲洋に」
「安心して総士。なにかあっても大丈夫なように、除霊スプレーを買っておいたから」
「聞け! というか、なんだ除霊スプレーって!?」
「ジャーン! これだよ。セール特価で三万円だったよ」
「さ ん ま ん え ん !? 明らかに悪徳商法じゃないのか!? 甲洋! 今すぐ国民生活センターに連絡しろ!」
ダァーンと、総士がまたテーブルを叩いた。その拍子に眼鏡がズレて、付着したままだったスイカの種がポロッと落ちる。
操が自信満々でどこからか取り出した除霊スプレーとやらは、見たところなんの変哲もないアロマスプレーのように見えた。透明なプラスチック容器に、白いラベルが貼ってある。その表面には達筆な字で『悪霊退散』と書いてあり、どこからどう見ても胡散臭い代物だった。
甲洋はテーブルの上に置かれたそれを興味本位から手に取ると、細かな字で記載された説明書きに目を通した。そこには
『自称陰陽師監修のもと作られた、邪気祓い、除霊用のミストです。霊媒体質・憑依体質の方、または生霊対策にもうっすら効果的。
ハーブの香りで蚊やヒルなどの害虫を寄せ付けません。ところでタピオカの次に流行るものって結局なんなん?』
と書かれていた。甲洋はふっと息をつく。
「……来主」
「ん? なに?」
「本当にこれを三万円も出して買ったの?」
「買ったよ! 送料込みで三万五百円したよ!」
「そう……次から買い物するときは、俺に一言相談できる?」
「甲洋に? んー、わかった! 次は甲洋に言ってから買うね!」
「素直でいいな、来主は」
「叱れ甲洋!! 釣りキャンプ以来様子がおかしいぞお前!!」
『ちょっと意地悪な気になるあいつ』から、『優しいゲロ甘彼ぴっぴ』へとクラスチェンジを果たしている甲洋を、総士が信じられないものを見るような目で見ている。
確かにいいカモにされちゃったなこの子……と呆れてはいるが、操は曇りなき眼で除霊スプレーが本物であると信じ込んでいるようだった。こんなおふざけグッズに三万円もの大金を出すその神経は、狂気の沙汰としか思えない。しかしそういう頭が弱い──いや、ピュアなところにハマってしまったのも事実だったので、甲洋は生暖かく微笑みながら黙っておくことにした。
「と、とにかく、僕は行かないったら行かない。行くならお前達だけで行くんだな」
「来主、諦めたほうがいい。実際に編集作業が押してるのは事実だよ」
「ちぇー、わかったよ。おれと甲洋と一騎だけで行ってくるよ」
「待て。一騎は了承しているのか? 本人に断りもなく勝手に頭数に入れているのなら、この僕が許さないぞ」
それを言ったら甲洋だって了承した覚えはない。だが強制参加扱いになっている。
甲洋だって、可能なら心霊スポットになどわざわざ行きたくはなかった。どちらかと言えば否定派だし、そもそもそういった場所に面白半分で行くべきではないからだ。
しかし操は行く気まんまんになっている。放っておくと何をしでかすか分からない彼は、最悪ひとりでも行くと言いだしかねない。夜道をひとりで歩かせるのも嫌なのに、心霊スポットなんてもっての外である。
「俺なら大丈夫だよ、総士」
そこに、黒いエプロン姿の一騎がやってきた。彼は三人が会議をしている間、カウンター席の向こう側にあるキッチンでせっせとスイーツ作りに励んでいた。
次から次へとテーブルの上にスイカを使ったデザートが並べられていく。スイカゼリーにスイカジェラート、スイカケーキにスイカのミルクドリンクなどなど。その豊富なスイーツの数々に、いっそ一騎をシェフに楽園の営業を再開させたほうが、ずっと堅実に暮らしていけるのではないかと甲洋は思った。
「わー! 凄いや一騎! これ全部スイカを使って作ったの?」
「ああ。皮は漬物と酢の物にして冷蔵庫で冷やしてあるから、夕飯で食べよう」
「やったー! スイカって捨てるとこないんだね!」
一騎と操がキャイキャイしている傍らで、総士がテーブルの上のスイーツをスマホで撮影しまくっている。あとでSNSに投稿するつもりなのだ。今夜もバズってしまうのか。一騎はすでに料理のレシピ本も数冊発行しており、ベストセラーになっている。
「一騎、キッチンでカメラは回したか?」
「固定してずっと回してたから、多分ちゃんと撮れてると思う」
「よし、他をお蔵にしてでも最優先で編集しよう」
「え? ぬるぬるローション尻相撲が先じゃないの? おれたち昨日、砂浜で死にそうになりながら褌でがんばったのに。甲洋なんかポロリもしたのに」
「そんなものは後でいい。モザイク処理が面倒だ」
熱中症ギリギリ命がけの撮影 < 一騎のお料理動画である。確かに男4人が褌一丁でローションまみれになっている絵面よりも、癒やし系のイケメンがスイーツ作りをしている動画の方がメンタルに負荷がかからないのは明白──しかも一人はポロリという名の大事故を起こしている──だ。頬肉ゆるゆるにしながら編集するんだろうなぁと思ったが、黙っておいた。っていうか、ポロリシーンはお願いだからカットしてほしい。
その後、四人はほんのいっとき心霊スポットの件を忘れて、仲良くスイーツを食べる動画を撮影しながら、ほのぼのとした時を過ごしたのだった。
*
時刻は午後10時過ぎ。
夕飯を食べたあと、総士は自宅でじっくり編集作業をするというので帰っていった。
残りの三人は車に乗り込み、心霊スポットに向かって走りだしていた。
「こんばんは! 珪素チャンネルです! 今夜はおれと甲洋と一騎で心霊スポットに行くよ! 総士は怖いからってお留守番です!」
「怒られるよ来主……」
ダッシュボードにライトつきのカメラを設置し、車を走らせながらオープニングの撮影を行う。運転は甲洋、助手席に操、後部座席には一騎が座っている。
「心霊スポットなんて初めてだよな。どこに行くんだ?」
一騎が甲洋の背後からひょっこり顔を出しながら首を傾げる。今夜の企画は完全に操主導のもと行われているため、他二人は行き先すら知らされていなかった。
「よくぞ聞いてくれたね一騎! 今おれたちが向かってるのは、ナナシの神社っていう知る人ぞ知るスポットなんだよ」
ちょうど赤信号で停車したところで、甲洋が操に視線を送りながら口を開く。
「ナナシの神社? 聞いたことないな」
「そこでむかし殺人事件があって、今は廃神社になってるんだって。殺された女の霊が出るとか、どこかに首なし地蔵があって、それを見ると呪われて死ぬとか噂があるらしいよ」
「えっ、それって大丈夫なのか? 俺たち無事に帰れるのか?」
「それを確かめるために行くんじゃん!」
「ありがちというかなんというか……」
「甲洋もっとテンション上げてよぉ。あ、次の信号を右に曲がって」
適当なところでオープニングを切り上げ、操のナビで車をひたすら走らせる。徐々にコンビニや民家の明かりが減っていき、やがて山道へと入っていった。
操がダッシュボードからカメラを取り、レンズを進行方向へと向ける。
「雰囲気でてきたね! いい感じー!」
行き先が行き先なだけに、ただでさえ不穏に感じられる曲がりくねった山道が、ほんのりと立ち込める霧によってさらに薄気味悪さを増している。街灯のない二車線の道を車のライトだけが照らしだし、鬱蒼とした木々をぼんやりと浮かびあがらせていた。
完全に口数が潰えた甲洋と一騎とは対照的に、操だけがまるで遠足のテンションではしゃいでいる。
「流石にちょっと不気味だな。来主、まだつかないの?」
「もうすぐだよ。ほらあそこ!」
操の指示のもと、道の脇にちょうどよく空いていた停車スペースに車を停める。するとずっと黙り込んでいた一騎が「ごめん、ちょっと」と弱々しい声をあげた。
「一騎?」
操がライト付きのカメラを後部座席に向ける。一騎は額にうっすらと汗を滲ませ、胸のあたりを手の平で押さえていた。
「どうしたの一騎! 顔色悪いよ!?」
「ここについた途端、急に胸が……」
「苦しいの!?」
「悪い……俺はここ、ダメかもしれない」
「えっ」
まさかの事態に、操までどんどん顔色をなくしていく。
「ど、どうしよう甲洋……これってオバケのせい……?」
「まさか……」
しかし、場所が場所だけに否定はしきれない。ここに来て急に体調を崩すというのは、不吉以外のなにものでもなかった。一騎に霊感があるなんて話は聞いたことがなかったが、なんらかの警告を受けているとでもいうのだろうか。
一騎は胸を押さえたまま大きく息をついた。そして不安そうにしている操を、安心させるように笑顔を浮かべて見せる。
「ここで休んでれば大丈夫だよ。俺に構わず、お前たちだけでも行ってくれ」
「で、でも」
「初めての心霊スポット、来主は楽しみにしてたんだろ?」
「そうだけど……」
一騎が青白い顔をしながら甲洋に目配せしてくる。
正直なところ、この流れは動画的にかなり美味しいのだ。心霊スポットに来てメンバーの一人が急に体調を崩すなんて、滑りだしの掴みとしては完璧すぎる。この先もなにかしらの異変をカメラに収めることができたら、さらに御の字だった。
本音を言えば引き返したいところだが、一騎の意図を汲み取り、甲洋は頷いた。
「来主、行こう。ここで引けば、総士の反対を押し切ってまで来た意味がなくなるよ」
「うん……わかった……」
さっきまでの遠足気分はどこへやら、一騎の身を案じる操は冴えない表情をしながらも頷いた。
*
一騎のことは心配だが、甲洋と操は気持ちを切り替えると廃神社を目指して山の麓から獣道へと分け入った。
かろうじて人が通れる程度の険しい道を進んでいくと、わずかに開けた空間に出る。
その先は長い石段が続いているものの、すっかり荒れ果てて雑草に埋もれていた。
「うわぁ、不気味だね。ぜんぜん先が見えないよ」
操が懐中電灯で石段の先を照らす。甲洋も片手に構えたカメラをその方向へ向けた。
相当に長い階段のようで、頂上になにがあるのかは全く見えない。左右には木々が生い茂り、ぽっかりと空いた黒い穴へと向かって石段が続いている。
この先に例の廃神社とやらがあるのだろうが、こころなしか湿った風が流れこんできているような気がした。ゆるく、ぬるく、けれど確実に、なんらかの力によって拒まれている。そんな気にさせられる程度には、場の空気に飲まれつつあった。
「甲洋、ひょっとして怖い?」
「別に」
間髪入れずに早口で否定したことで、逆に肯定してしまったかのようになってしまう。とはいえ、本音を言えば今すぐ猛烈に引き返したいくらいには、背筋が冷たくなっていた。怖い。めちゃくちゃ怖い。無表情で取り繕ってはいるが、実はちょっぴり涙目だった。
今にも石段の先から髪の長い女が這いずってくるのではないか。首なし地蔵とやらの呪いが、理不尽に降りかかってくるのではないか。事前に聞かされた情報から嫌な想像が膨らみ、ぷつぷつと鳥肌がたってくる。
しかしそんな素振りを見せるのは、甲洋の男としてのプライドが許さない。操は手を口元にちょこんと当てて、にんまりとした笑みを浮かべながらこちらを見ている。いっそ清々しいくらいの憎らしさを覚えてしまった。
「ふーん、甲洋って実はこういうの苦t」
「違うっつってんだろ」
「食い気味に否定するのやめない? っていうか、なんか口悪くなってない!?」
「気のせいじゃないかな」
「そっかぁ。ならいいんだけど……あ、そうだ! 除霊スプレー使ってみようよ! なにかあっても、きっとこれが守ってくれるよ!」
言いながら、操がさっそく例のインチキスプレーを吹きかけてくる。爽やかなハーブの香りが辺りにふわりと広がった。少なくとも、蚊に食われることだけはなさそうだ。
「あとね、お清めの塩と、魔除けの御札も持ってきてあるんだ」
「塩と御札?」
てっきり除霊スプレーにばかり依存しているのかと思っていたら、案外まともそうなアイテムを所持していることに驚いた。
操は誇らしげに「えへへー」と笑いながら、懐中電灯をいったん足元に置くとポケットのなかを探りはじめる。そして出てきたアイテムを、ライトつきのカメラに向かって突き出して見せた。
「ジャーン! これさえあれば大丈夫!」
それを見た瞬間、甲洋の目からすぅっと光が消えた。一瞬でも期待した自分が恥ずかしい。ライトのもとにさらされたのは、キッチンでよく見る青いキャップの『アジシオ』と、邪気退散と書かれた遊●王カードだった……。
「……本気?」
「なにが?」
「今日一番ゾッとしたよ(こんなアホの子を好きになってしまった自分に)」
虫除けスプレー、アジシオ、遊●王カード……いざ霊現象が起こったさい、何ひとつとして役に立たない三種の神器が揃ってしまった。
操は「これ甲洋にあげるね!」と言って、胸ポケットに遊●王カードをねじ込んでくる。それ、そもそも俺のデッキから盗んだカードじゃない? と思ったが、ここに来てとつぜん凄まじい疲労感に襲われたせいで口を開くのが面倒だった。これも霊障の類だろうか。(珪素チャンネルではよくカードゲーム実況もしています)
「よーし! 甲洋から恐怖心が消えたところで、さっそく廃神社へ出発進行!」
「だから、俺は別に怖がってなんかないってば」
厳密には、どうでもよくなったというほうが正しかった。
操のブレない天然ぶりは、ある意味ちょっとした救いになっているのかもしれない。
こちらまで危機感が薄れはじめたことに逆に危機感を覚えつつ、アジシオを振りまきながら石段を前進していく背中をカメラに収める。なんだかとても勇ましい。
が、何段か進んだところで操がとつぜん「ぴゃんっ!?」とおかしな悲鳴をあげた。
「え、なにその悲鳴? 可愛いな? ……じゃなくて、どうかした?」
「ここ、甲洋~!」
なぜか涙目になった操が、数段遅れて背後にいた甲洋に思いきり抱きついてくる。
「なんか顔にぶつかってきたぁ! 気持ち悪いぃ!」
十中八九、虫だろうなぁと思ったが、このときを待っていたとばかりに甲洋の胸は血湧き肉躍っていた。そうそう、これこれ……この感じ。世の男子が女子をお化け屋敷や心霊スポットに連れて来たがるのは、ほぼ100%こういったスキンシップを期待してのことだと言っても過言ではない。少なくとも甲洋はそういうベタなシチュエーションが大好物で、ずっと夢を馳せていた。念願叶って──甲洋の方が連れてこられた側だが──おのずとテンションが上がってくる。
「さっきまでの勢いはどうしたの? この程度で泣いてたら、先になんか進めないよ」
が、むっつりスケベであるがゆえのツンを発動し、甲洋は気合いで表情筋を引き締めると、あえて呆れた表情をしながら操を揶揄する。
「だってぇ……ねぇ甲洋、ここからは先に行ってよ。カメラはおれが持つから」
「それじゃくっついて歩けないだろ」
「え?」
「ごめん、なんでもない」
つい目的を見失いかけていたが、自分たちはここに撮影のため訪れたのである。決してイチャイチャするためではない。口惜しさを感じつつ、甲洋は操にカメラを渡すと代わりに懐中電灯を受け取った。ちゃっかりアジシオも渡されたので、そっと尻ポケットにしまった。
「じゃ、気を取り直して行ってみよう!」
勢いを取り戻した操がカメラを構える。どこかでイチャつくタイミングはないだろうかと思案しながら、今度は甲洋が先になって歩きだした。
*
長い石段を登り切ると、そこには石造りの鳥居と小さな拝殿があった。
どれほど長いあいだ放置されているのか、黒く変色した木造の拝殿は建物全体が傾いて、ぶら下がる紅白の麻縄だけが信仰への残滓を残している。賽銭箱は横倒しで半壊しており、その先の格子扉もひしゃげたように崩れかかっていた。
「わぁ……すごいボロボロだね……」
「昔は立派な神社だったんだろうけど……見る影もないな……」
山奥に捨て置かれたようにひっそりと沈む廃神社。最盛期には多くの参拝客が訪れていたのだろうが、今はその面影すら見つけることはできなかった。物悲しさすら込み上げて、しばしのあいだ言葉を失くす。
「あっ! 甲洋、あれ見て!」
とつぜん操が声をあげ、カメラを向けた先を指差した。甲洋もそちらに視線を走らせ、懐中電灯を向ける。するとそこには、藪に覆われた五体の地蔵がズラリと並べられていた。
物憂さに薄れかけていた『心霊スポットに来ている』という意識が、一瞬で蘇ってくる。絡みつく藪によって埋もれているものもあるが、この中には例の首なし地蔵があるかもしれないのだ。見ると死ぬ、なんて根も葉もない噂を本気で信じているわけではないが、わざわざ藪をつつく必要もな
「わーい! 探してみよーっと!」
「ほんっとアホ! アホだよお前は!」
タタターッと駆けていこうとする操の首根っこを捕まえ、キャラも忘れて罵倒する。
「やだー! 離してよ! 首なし地蔵探すんだぁ!」
「探してどうすんのさ!? なにかあったらどうする気!?」
「え? 甲洋、君……まさか死ぬなんて噂を信じてるわけじゃないよね?(スンッ)」
「急にチベットスナギツネみたいな顔するのやめてくれない!?」
そんな甲洋はさっきからずっとしわしわピ●チュウのような顔になっている。エレメント一のイケメンとうたわれる顔面が、残念なことになっていた。
「へぇー、そっかぁ。甲洋、やっぱり怖いんだ。君がこんなに可愛いやつだったなんて知らなかったよ。ぷぷぷ~っ」
「腹立つなお前」
なんでこんなクソガキを好きになってしまったのだろうか。人生どう転がるか分からないものである。
「あーぁ、でも残念だな。甲洋がそんなに臆病だったなんて……ファンの子たちはガッカリすると思うよ」
「それで煽ってるつもり? 再三言ってるけど、俺は別に怖がってるわけじゃないよ。ただ万が一の危険性を考慮して」
「おれの百年の恋も冷めちゃいそう」
「待ってな来主。今すぐ首なし地蔵を探してくるから」
即落ちだった。
「やったー! 甲洋のそういうチョロいとこ大好き!」
「覚えてろよ……(帰ったら絶対泣かす)」
完全に弱みにつけこまれる形で、首なし地蔵探索をすることになってしまった。返す返すもどうしてこんな奴を好きになってしまったのだろうかとウンザリしながら、甲洋はごくりと固唾をのんだ。
目の前に鎮座するのは五体の地蔵だ。一体一体ライトで照らしながら確認すると、そのうち三体は完全に藪に埋もれており、残り二体はしっかり顔が覗いている。つまり、確認が必要なのは三体のみということだ。
「甲洋、がんばって!」
操が背後からカメラを回しながらエールを送ってくる。甲洋は深く息を吐きだしながら気合いを入れた。首なし地蔵そのものが、あるかどうかも分からないただの噂に過ぎない。さっさと確認してしまえば済むことなのだ。
甲洋は顔が見えない地蔵にそっと手を伸ばした。絡みつく蔦や葉っぱを掻き分けて、そこにちゃんと頭部が存在していることを確かめる。一体、二体と確認し、そのたびにホッと息をついた。そして残すは三体目だ。
(これが最後……あってくれ、地蔵の首……!)
一番左端に佇む最後の地蔵に、震える指先を伸ばした。そのとき──
パァンッ!!
という、なにかが爆ぜる音がした。
「──ッ!?」
甲洋は声なき悲鳴をあげ、とっさに体勢を崩して片膝をついてしまった。その拍子に懐中電灯が地面に転がり落ちる。
音は藪の向こう側から聞こえたような気がした。ほんのりと火薬の匂いがするのは気のせいだろうか。
「な、なに!? いま何か変な音がしたけど!?」
「来主は来なくていい! そこでじっとしてて!」
「わ、わかった!」
藪の向こうでは何かが蠢く気配がしていた。ガサリガサリと微かな音が鳴っている。
甲洋は目を凝らし、その音と気配の正体に全神経を傾けた。得体の知れないなにかが、そこに存在している。霊的な力によるものなのか、あるいは野生動物の類なのか。
いずれにしろ手が届きそうなほどの距離に、その『なにか』がいるのだ。甲洋は手探りで懐中電灯を拾い上げ、体勢を立て直すと息を殺しながら藪を照らした。
するとその瞬間、
「わっ!!」
という声をあげながら、目の前からなにかが飛び出してきた。
「うわッ!?」
甲洋は驚きのあまり尻もちをついてしまった。尻ポケットにねじ込んでいたアジシオの瓶が地味に痛い。だが今はそれどころではなかった。
汗がドッと噴き出して、瞬きすらできないまま硬直する。目を見開いた甲洋の視界の先には、ここにはいないはずの人物がひょっこりと顔を出していた。
「ッ、? ぇ……ッ、え? そ、総士……?」
そこにあったのは今ごろ自宅で一騎のスイーツ動画を編集しているはずの、皆城総士の姿だった。彼は藪の向こう側に佇み、手には糸引きクラッカーを持っている。さっきの破裂音はこれだったのだ。
「そうだ。僕だ。そしてこれはつまり、こういうことだ」
スッ……と、総士がなにやら看板を掲げて見せた。そこには『ドッキリ大成功』という文字がデカデカと書かれており、甲洋は開いた口が塞がらなかった。
未だに何が起こったのか、頭のネジが吹っ飛んだようにうまいこと処理が追いつかない。心臓がバクバクと高鳴っていて、悪い夢でも見ているようだった。
「やったー! ドッキリ大成功! デッデレー!」
操が大はしゃぎで甲洋に駆け寄り、呆然とする表情をドアップで撮影している。
「ど……ドッキリ……?」
「あはは! 甲洋ってば尻もちついちゃって可愛いー!」
「ま、待って、説明して……」
「最初からおれと総士は仕掛け人だったんだよ! このお地蔵さんも本物っぽく作られた偽物! 実はぜーんぶ発泡スチロールで作られてるんだ! ちなみに一体につき●●万円の特注品だよ!」
「ッ……! ば、バカなんじゃないの!?」
ようやく甲洋の頭が回りはじめる。同時に凄まじい脱力感に襲われた。
最初から全て仕組まれていたことだったのだ。昼間、楽園で企画会議をしていたときから、それはすでに始まっていた。ドラマのオファーが来てもうまいこと対応できそうだなぁ、なんて感心している場合ではない。
先に帰るなんていうのは真っ赤な嘘で、総士は自宅へは帰らず一足先にこの廃神社までやってきて、偽地蔵の設置を行っていたのだ。そして藪の裏手に隠れると、ずっと甲洋たちが来るのを待っていた。
「総士は心霊スポットが怖いんじゃなかったのか?」
「バカを言うな甲洋。僕はそもそも、霊だのなんだのといった非科学的なものは信じない。よって一切合切、怖くなどない」
「実はねここ、心霊スポットでもなんでもないんだよ。本当にただの廃神社なの。だから総士もノリノリでおれの企画に乗ってくれたんだよ」
「だから怖くないと言ってるだろう!」
総士が藪の向こうから這い出しながら声を荒げる。
「いや、だって……じゃあ殺人事件とか首なし地蔵の話は……」
「作り話に決まってるでしょ!」
「あぁー……くそ……」
もはや項垂れるしかなかった。全く怪しむことなく、まんまと引っかかってしまったというわけだ。
いくら心霊スポットではないといっても、夜の山中に一人で待機しているなんて、どうかしてるとしか思えない。これがプロ根性とでも言えばいいのだろうか。しかもウン十万もする地蔵をオーダーメイドで五体も用意するあたり、FafTuberすぐ金に物を言わせる……と呆れ返るより他になかった。
「えへへー。うまくいってよかった。ごめんね甲洋、でもすっごくいい絵が撮れたよ」
できればお蔵にしてほしい……と心の底から願いつつ、操が差し出してくれた手をとり、立ち上がる。するとクラッカーから飛び散ったテープなどをせっせと拾い集めていた総士が、怪訝そうな顔をしながら「ところで一騎はどうした?」と問いかけてきた。
「あいつもグルじゃないの?」
「違うよ。本当は甲洋と一騎の二人がターゲットの企画だったんだもん」
「じゃあ体調不良はたまたまってこと? 逆にラッキーだなあいつ……」
「雰囲気に飲まれちゃったのかも。一騎も可愛いとこあるね」
「体調不良だと?」
総士が顔色を変える。けれどすぐに腕を組み、なにか考え込んでいる素振りを見せた。そして「予定は狂うが……仕方ない」と小声で呟いた。
「総士? どうかしたの? 早く戻ってあげないと、一騎が一人ぼっちで可哀想だよ」
「そうしたいのは山々だが、実はひとつ提案がある」
「提案?」
甲洋と操は同時に首を傾げた。
「この先の道をしばらく進んだところに、今では使われていない古びたトンネルがある。何を隠そう、そこは正真正銘の心霊スポットだ」
「え!? それほんとなの総士!?」
途端に目を輝かせた操に、総士が深く頷いた。
「僕としてはいささか不本意だが、ここまで来て見過ごすことはプロのFafTuberとしての沽券に関わる。つまり乗りかかった船だ」
マジか、と甲洋は思った。この流れはよろしくない。
しかしプロ魂に火がついている総士は、目だけで「おうちに帰して」と訴える甲洋に気づかずガッツポーズをして見せた。
「これより、第一次珪素チャンネル『真』心霊スポット凸企画を開始する!」
「やっぱりまだ帰れないんだな、俺たち……」
すでに疲労困憊の甲洋は、「やったー!」と万歳をしている操を死んだ魚のような目で見つめながら、盛大に溜息を漏らした。
←戻る ・ Wavebox👏
近年、日本でも爆発的なブームが到来し、子供たちのなりたい職業ランキングでは上位に入るほど、世間一般にも認知される存在になっていた。
FafTube上において数多のチャンネルが混在するなか、ひときわ人気を博しているFafTuber集団がいる。その名も『珪素チャンネル・エレメント』だ。
もともとはチート級の知能指数を誇る大学生、皆城総士と春日井甲洋が気まぐれで開設した科学実験チャンネルだった。
そこにふたりの幼馴染である真壁一騎がふらりと加入したことにより、一時期ほのぼのお料理チャンネルへとシフトチェンジ。その後、高校を卒業したあとフラフラしていた来主操──総士の従兄弟だ──が気まぐれ電撃加入を果たし、大食い、ゲーム実況、メントスジンジャーエールにハバネロ風呂などなど、なんでもありのカオスな悪ふざけチャンネルへと進化──総士に言わせると退化らしい──した。
揃いも揃って顔面偏差値が高いことから女子人気が絶大で、凄まじい勢いでチャンネル登録者数を増やし、日本人で初となるダイヤモンドの盾の獲得も間近とされている。
CDデビューもしており、デビューシングルはオリコン1位を獲得。M●テ出演も果たし、一気に国民的アイドルFafTuberへと上りつめた。
ちなみに甲洋と操は一時期不仲説が浮上していたが、ある検証動画をきっかけに二人の距離が急激に縮まったことから、視聴者たちの間にあらゆる意味で衝撃が走り、もともとは一騎と総士の二人によって占められていた『とある市場』を、より拡大させる結果となった。
『【検証】不仲説のあるふたりで釣りキャンプに出かけてみた』という動画は、珪素チャンネル内で最多の再生数を誇っている。
*
「夏だしさ、今年は心霊スポット凸しようよ!」
8月某日。
甲洋の実家である元・喫茶楽園──現在は閉店し、四人の活動拠点になっている──で企画会議中、ずっとスイカの種を飛ばして遊んでいた操がとつぜん声を上げた。
「おい甲洋。来主がまたしょーもないことを言いだしたぞ。止めろ。速やかに」
その提案に真っ先に難色を示したのは総士だった。彼は眼鏡の奥でその瞳を険しく細めている。
なんで俺がと思いつつ、操がふっ飛ばしたスイカの種を片付けていた甲洋は、今ではすっかり操の保護者兼、世話係に任命されていた。(なんだかんだで異存はないが)
「来主、総士が心霊系NGなのは知ってるだろ?」
「えー? だって夏だよ? 夏といったらオバケじゃないのぉ?」
「まぁ風物詩ではあるけどさ」
操がプッと吐き出したスイカの種を素早くキャッチしながら、甲洋は総士に視線を向けた。彼は形の良い眉を鋭利な角度に吊り上げているが、その顔色はうっすら青くなっている。
珪素チャンネルでは、これまで心霊系の動画を扱ったことがない。それもこれも、全て総士が却下してきたからだ。科学的根拠のない有象無象を扱うことは、当チャンネルの理念に反する、とかなんとかそれっぽいことを言ってはいるが、今やなんでもありのカオスなチャンネルにおいて、理念といえば『炎上しない』くらいのものである。
要するに、彼はシンプルにオバケが怖いのだ。一騎も甲洋もそれを知っているが、あえて突っ込まずに彼の言い分を尊重してきた。が、操は空気を読まない子だった。
「ねぇ総士、科学的根拠がないってことは、総士にとってオバケはいないってことなんでしょ? だったら怖がる必要なんかないじゃん。いないんだから」
あーぁ、言っちゃった……と呆れながらおしぼりで手に付着したスイカ汁を拭いていると、案の定
「ッ! 怖くなどない! 僕をみくびるな!」
と、総士が顔を真っ赤にしてテーブルを叩きながら否定した。
「なら平気だよね! 今夜さっそく行こうよ! はい決定! プッ」
「来主、いい加減スイカの種飛ばすのはやめな……」
甲洋がキャッチしそこねたスイカの種が、操の真向かいにいる総士の眼鏡にくっついた。いったい口の中に幾つ種をストックしているのだろうか。操の目の前の皿には食べ終わったスイカの皮が山のようになっている。
エレメントはAlvisという名のマネジメント会社に所属するクリエイター集団だ。そこに毎日のようにファンから手紙をはじめ、なにかしらのプレゼントが送られてくる。
夏真っ盛りということもあって、Alvis経由で送られてきたのは大量の高級スイカだった。とても食べ切れる量ではなかったが、底なしの胃袋を持つ操がせっせと食べて消費してくれている。
「冗談じゃない。僕は絶対に行かないぞ。言っておくが、怖いからじゃない。撮りためてある動画の編集作業が、山のごとく残っているからだ。それもこれもお前と一騎の編集技術がいつまで経っても向上しないからであって、そのしわ寄せが僕と甲洋に」
「安心して総士。なにかあっても大丈夫なように、除霊スプレーを買っておいたから」
「聞け! というか、なんだ除霊スプレーって!?」
「ジャーン! これだよ。セール特価で三万円だったよ」
「さ ん ま ん え ん !? 明らかに悪徳商法じゃないのか!? 甲洋! 今すぐ国民生活センターに連絡しろ!」
ダァーンと、総士がまたテーブルを叩いた。その拍子に眼鏡がズレて、付着したままだったスイカの種がポロッと落ちる。
操が自信満々でどこからか取り出した除霊スプレーとやらは、見たところなんの変哲もないアロマスプレーのように見えた。透明なプラスチック容器に、白いラベルが貼ってある。その表面には達筆な字で『悪霊退散』と書いてあり、どこからどう見ても胡散臭い代物だった。
甲洋はテーブルの上に置かれたそれを興味本位から手に取ると、細かな字で記載された説明書きに目を通した。そこには
『自称陰陽師監修のもと作られた、邪気祓い、除霊用のミストです。霊媒体質・憑依体質の方、または生霊対策にもうっすら効果的。
ハーブの香りで蚊やヒルなどの害虫を寄せ付けません。ところでタピオカの次に流行るものって結局なんなん?』
と書かれていた。甲洋はふっと息をつく。
「……来主」
「ん? なに?」
「本当にこれを三万円も出して買ったの?」
「買ったよ! 送料込みで三万五百円したよ!」
「そう……次から買い物するときは、俺に一言相談できる?」
「甲洋に? んー、わかった! 次は甲洋に言ってから買うね!」
「素直でいいな、来主は」
「叱れ甲洋!! 釣りキャンプ以来様子がおかしいぞお前!!」
『ちょっと意地悪な気になるあいつ』から、『優しいゲロ甘彼ぴっぴ』へとクラスチェンジを果たしている甲洋を、総士が信じられないものを見るような目で見ている。
確かにいいカモにされちゃったなこの子……と呆れてはいるが、操は曇りなき眼で除霊スプレーが本物であると信じ込んでいるようだった。こんなおふざけグッズに三万円もの大金を出すその神経は、狂気の沙汰としか思えない。しかしそういう頭が弱い──いや、ピュアなところにハマってしまったのも事実だったので、甲洋は生暖かく微笑みながら黙っておくことにした。
「と、とにかく、僕は行かないったら行かない。行くならお前達だけで行くんだな」
「来主、諦めたほうがいい。実際に編集作業が押してるのは事実だよ」
「ちぇー、わかったよ。おれと甲洋と一騎だけで行ってくるよ」
「待て。一騎は了承しているのか? 本人に断りもなく勝手に頭数に入れているのなら、この僕が許さないぞ」
それを言ったら甲洋だって了承した覚えはない。だが強制参加扱いになっている。
甲洋だって、可能なら心霊スポットになどわざわざ行きたくはなかった。どちらかと言えば否定派だし、そもそもそういった場所に面白半分で行くべきではないからだ。
しかし操は行く気まんまんになっている。放っておくと何をしでかすか分からない彼は、最悪ひとりでも行くと言いだしかねない。夜道をひとりで歩かせるのも嫌なのに、心霊スポットなんてもっての外である。
「俺なら大丈夫だよ、総士」
そこに、黒いエプロン姿の一騎がやってきた。彼は三人が会議をしている間、カウンター席の向こう側にあるキッチンでせっせとスイーツ作りに励んでいた。
次から次へとテーブルの上にスイカを使ったデザートが並べられていく。スイカゼリーにスイカジェラート、スイカケーキにスイカのミルクドリンクなどなど。その豊富なスイーツの数々に、いっそ一騎をシェフに楽園の営業を再開させたほうが、ずっと堅実に暮らしていけるのではないかと甲洋は思った。
「わー! 凄いや一騎! これ全部スイカを使って作ったの?」
「ああ。皮は漬物と酢の物にして冷蔵庫で冷やしてあるから、夕飯で食べよう」
「やったー! スイカって捨てるとこないんだね!」
一騎と操がキャイキャイしている傍らで、総士がテーブルの上のスイーツをスマホで撮影しまくっている。あとでSNSに投稿するつもりなのだ。今夜もバズってしまうのか。一騎はすでに料理のレシピ本も数冊発行しており、ベストセラーになっている。
「一騎、キッチンでカメラは回したか?」
「固定してずっと回してたから、多分ちゃんと撮れてると思う」
「よし、他をお蔵にしてでも最優先で編集しよう」
「え? ぬるぬるローション尻相撲が先じゃないの? おれたち昨日、砂浜で死にそうになりながら褌でがんばったのに。甲洋なんかポロリもしたのに」
「そんなものは後でいい。モザイク処理が面倒だ」
熱中症ギリギリ命がけの撮影 < 一騎のお料理動画である。確かに男4人が褌一丁でローションまみれになっている絵面よりも、癒やし系のイケメンがスイーツ作りをしている動画の方がメンタルに負荷がかからないのは明白──しかも一人はポロリという名の大事故を起こしている──だ。頬肉ゆるゆるにしながら編集するんだろうなぁと思ったが、黙っておいた。っていうか、ポロリシーンはお願いだからカットしてほしい。
その後、四人はほんのいっとき心霊スポットの件を忘れて、仲良くスイーツを食べる動画を撮影しながら、ほのぼのとした時を過ごしたのだった。
*
時刻は午後10時過ぎ。
夕飯を食べたあと、総士は自宅でじっくり編集作業をするというので帰っていった。
残りの三人は車に乗り込み、心霊スポットに向かって走りだしていた。
「こんばんは! 珪素チャンネルです! 今夜はおれと甲洋と一騎で心霊スポットに行くよ! 総士は怖いからってお留守番です!」
「怒られるよ来主……」
ダッシュボードにライトつきのカメラを設置し、車を走らせながらオープニングの撮影を行う。運転は甲洋、助手席に操、後部座席には一騎が座っている。
「心霊スポットなんて初めてだよな。どこに行くんだ?」
一騎が甲洋の背後からひょっこり顔を出しながら首を傾げる。今夜の企画は完全に操主導のもと行われているため、他二人は行き先すら知らされていなかった。
「よくぞ聞いてくれたね一騎! 今おれたちが向かってるのは、ナナシの神社っていう知る人ぞ知るスポットなんだよ」
ちょうど赤信号で停車したところで、甲洋が操に視線を送りながら口を開く。
「ナナシの神社? 聞いたことないな」
「そこでむかし殺人事件があって、今は廃神社になってるんだって。殺された女の霊が出るとか、どこかに首なし地蔵があって、それを見ると呪われて死ぬとか噂があるらしいよ」
「えっ、それって大丈夫なのか? 俺たち無事に帰れるのか?」
「それを確かめるために行くんじゃん!」
「ありがちというかなんというか……」
「甲洋もっとテンション上げてよぉ。あ、次の信号を右に曲がって」
適当なところでオープニングを切り上げ、操のナビで車をひたすら走らせる。徐々にコンビニや民家の明かりが減っていき、やがて山道へと入っていった。
操がダッシュボードからカメラを取り、レンズを進行方向へと向ける。
「雰囲気でてきたね! いい感じー!」
行き先が行き先なだけに、ただでさえ不穏に感じられる曲がりくねった山道が、ほんのりと立ち込める霧によってさらに薄気味悪さを増している。街灯のない二車線の道を車のライトだけが照らしだし、鬱蒼とした木々をぼんやりと浮かびあがらせていた。
完全に口数が潰えた甲洋と一騎とは対照的に、操だけがまるで遠足のテンションではしゃいでいる。
「流石にちょっと不気味だな。来主、まだつかないの?」
「もうすぐだよ。ほらあそこ!」
操の指示のもと、道の脇にちょうどよく空いていた停車スペースに車を停める。するとずっと黙り込んでいた一騎が「ごめん、ちょっと」と弱々しい声をあげた。
「一騎?」
操がライト付きのカメラを後部座席に向ける。一騎は額にうっすらと汗を滲ませ、胸のあたりを手の平で押さえていた。
「どうしたの一騎! 顔色悪いよ!?」
「ここについた途端、急に胸が……」
「苦しいの!?」
「悪い……俺はここ、ダメかもしれない」
「えっ」
まさかの事態に、操までどんどん顔色をなくしていく。
「ど、どうしよう甲洋……これってオバケのせい……?」
「まさか……」
しかし、場所が場所だけに否定はしきれない。ここに来て急に体調を崩すというのは、不吉以外のなにものでもなかった。一騎に霊感があるなんて話は聞いたことがなかったが、なんらかの警告を受けているとでもいうのだろうか。
一騎は胸を押さえたまま大きく息をついた。そして不安そうにしている操を、安心させるように笑顔を浮かべて見せる。
「ここで休んでれば大丈夫だよ。俺に構わず、お前たちだけでも行ってくれ」
「で、でも」
「初めての心霊スポット、来主は楽しみにしてたんだろ?」
「そうだけど……」
一騎が青白い顔をしながら甲洋に目配せしてくる。
正直なところ、この流れは動画的にかなり美味しいのだ。心霊スポットに来てメンバーの一人が急に体調を崩すなんて、滑りだしの掴みとしては完璧すぎる。この先もなにかしらの異変をカメラに収めることができたら、さらに御の字だった。
本音を言えば引き返したいところだが、一騎の意図を汲み取り、甲洋は頷いた。
「来主、行こう。ここで引けば、総士の反対を押し切ってまで来た意味がなくなるよ」
「うん……わかった……」
さっきまでの遠足気分はどこへやら、一騎の身を案じる操は冴えない表情をしながらも頷いた。
*
一騎のことは心配だが、甲洋と操は気持ちを切り替えると廃神社を目指して山の麓から獣道へと分け入った。
かろうじて人が通れる程度の険しい道を進んでいくと、わずかに開けた空間に出る。
その先は長い石段が続いているものの、すっかり荒れ果てて雑草に埋もれていた。
「うわぁ、不気味だね。ぜんぜん先が見えないよ」
操が懐中電灯で石段の先を照らす。甲洋も片手に構えたカメラをその方向へ向けた。
相当に長い階段のようで、頂上になにがあるのかは全く見えない。左右には木々が生い茂り、ぽっかりと空いた黒い穴へと向かって石段が続いている。
この先に例の廃神社とやらがあるのだろうが、こころなしか湿った風が流れこんできているような気がした。ゆるく、ぬるく、けれど確実に、なんらかの力によって拒まれている。そんな気にさせられる程度には、場の空気に飲まれつつあった。
「甲洋、ひょっとして怖い?」
「別に」
間髪入れずに早口で否定したことで、逆に肯定してしまったかのようになってしまう。とはいえ、本音を言えば今すぐ猛烈に引き返したいくらいには、背筋が冷たくなっていた。怖い。めちゃくちゃ怖い。無表情で取り繕ってはいるが、実はちょっぴり涙目だった。
今にも石段の先から髪の長い女が這いずってくるのではないか。首なし地蔵とやらの呪いが、理不尽に降りかかってくるのではないか。事前に聞かされた情報から嫌な想像が膨らみ、ぷつぷつと鳥肌がたってくる。
しかしそんな素振りを見せるのは、甲洋の男としてのプライドが許さない。操は手を口元にちょこんと当てて、にんまりとした笑みを浮かべながらこちらを見ている。いっそ清々しいくらいの憎らしさを覚えてしまった。
「ふーん、甲洋って実はこういうの苦t」
「違うっつってんだろ」
「食い気味に否定するのやめない? っていうか、なんか口悪くなってない!?」
「気のせいじゃないかな」
「そっかぁ。ならいいんだけど……あ、そうだ! 除霊スプレー使ってみようよ! なにかあっても、きっとこれが守ってくれるよ!」
言いながら、操がさっそく例のインチキスプレーを吹きかけてくる。爽やかなハーブの香りが辺りにふわりと広がった。少なくとも、蚊に食われることだけはなさそうだ。
「あとね、お清めの塩と、魔除けの御札も持ってきてあるんだ」
「塩と御札?」
てっきり除霊スプレーにばかり依存しているのかと思っていたら、案外まともそうなアイテムを所持していることに驚いた。
操は誇らしげに「えへへー」と笑いながら、懐中電灯をいったん足元に置くとポケットのなかを探りはじめる。そして出てきたアイテムを、ライトつきのカメラに向かって突き出して見せた。
「ジャーン! これさえあれば大丈夫!」
それを見た瞬間、甲洋の目からすぅっと光が消えた。一瞬でも期待した自分が恥ずかしい。ライトのもとにさらされたのは、キッチンでよく見る青いキャップの『アジシオ』と、邪気退散と書かれた遊●王カードだった……。
「……本気?」
「なにが?」
「今日一番ゾッとしたよ(こんなアホの子を好きになってしまった自分に)」
虫除けスプレー、アジシオ、遊●王カード……いざ霊現象が起こったさい、何ひとつとして役に立たない三種の神器が揃ってしまった。
操は「これ甲洋にあげるね!」と言って、胸ポケットに遊●王カードをねじ込んでくる。それ、そもそも俺のデッキから盗んだカードじゃない? と思ったが、ここに来てとつぜん凄まじい疲労感に襲われたせいで口を開くのが面倒だった。これも霊障の類だろうか。(珪素チャンネルではよくカードゲーム実況もしています)
「よーし! 甲洋から恐怖心が消えたところで、さっそく廃神社へ出発進行!」
「だから、俺は別に怖がってなんかないってば」
厳密には、どうでもよくなったというほうが正しかった。
操のブレない天然ぶりは、ある意味ちょっとした救いになっているのかもしれない。
こちらまで危機感が薄れはじめたことに逆に危機感を覚えつつ、アジシオを振りまきながら石段を前進していく背中をカメラに収める。なんだかとても勇ましい。
が、何段か進んだところで操がとつぜん「ぴゃんっ!?」とおかしな悲鳴をあげた。
「え、なにその悲鳴? 可愛いな? ……じゃなくて、どうかした?」
「ここ、甲洋~!」
なぜか涙目になった操が、数段遅れて背後にいた甲洋に思いきり抱きついてくる。
「なんか顔にぶつかってきたぁ! 気持ち悪いぃ!」
十中八九、虫だろうなぁと思ったが、このときを待っていたとばかりに甲洋の胸は血湧き肉躍っていた。そうそう、これこれ……この感じ。世の男子が女子をお化け屋敷や心霊スポットに連れて来たがるのは、ほぼ100%こういったスキンシップを期待してのことだと言っても過言ではない。少なくとも甲洋はそういうベタなシチュエーションが大好物で、ずっと夢を馳せていた。念願叶って──甲洋の方が連れてこられた側だが──おのずとテンションが上がってくる。
「さっきまでの勢いはどうしたの? この程度で泣いてたら、先になんか進めないよ」
が、むっつりスケベであるがゆえのツンを発動し、甲洋は気合いで表情筋を引き締めると、あえて呆れた表情をしながら操を揶揄する。
「だってぇ……ねぇ甲洋、ここからは先に行ってよ。カメラはおれが持つから」
「それじゃくっついて歩けないだろ」
「え?」
「ごめん、なんでもない」
つい目的を見失いかけていたが、自分たちはここに撮影のため訪れたのである。決してイチャイチャするためではない。口惜しさを感じつつ、甲洋は操にカメラを渡すと代わりに懐中電灯を受け取った。ちゃっかりアジシオも渡されたので、そっと尻ポケットにしまった。
「じゃ、気を取り直して行ってみよう!」
勢いを取り戻した操がカメラを構える。どこかでイチャつくタイミングはないだろうかと思案しながら、今度は甲洋が先になって歩きだした。
*
長い石段を登り切ると、そこには石造りの鳥居と小さな拝殿があった。
どれほど長いあいだ放置されているのか、黒く変色した木造の拝殿は建物全体が傾いて、ぶら下がる紅白の麻縄だけが信仰への残滓を残している。賽銭箱は横倒しで半壊しており、その先の格子扉もひしゃげたように崩れかかっていた。
「わぁ……すごいボロボロだね……」
「昔は立派な神社だったんだろうけど……見る影もないな……」
山奥に捨て置かれたようにひっそりと沈む廃神社。最盛期には多くの参拝客が訪れていたのだろうが、今はその面影すら見つけることはできなかった。物悲しさすら込み上げて、しばしのあいだ言葉を失くす。
「あっ! 甲洋、あれ見て!」
とつぜん操が声をあげ、カメラを向けた先を指差した。甲洋もそちらに視線を走らせ、懐中電灯を向ける。するとそこには、藪に覆われた五体の地蔵がズラリと並べられていた。
物憂さに薄れかけていた『心霊スポットに来ている』という意識が、一瞬で蘇ってくる。絡みつく藪によって埋もれているものもあるが、この中には例の首なし地蔵があるかもしれないのだ。見ると死ぬ、なんて根も葉もない噂を本気で信じているわけではないが、わざわざ藪をつつく必要もな
「わーい! 探してみよーっと!」
「ほんっとアホ! アホだよお前は!」
タタターッと駆けていこうとする操の首根っこを捕まえ、キャラも忘れて罵倒する。
「やだー! 離してよ! 首なし地蔵探すんだぁ!」
「探してどうすんのさ!? なにかあったらどうする気!?」
「え? 甲洋、君……まさか死ぬなんて噂を信じてるわけじゃないよね?(スンッ)」
「急にチベットスナギツネみたいな顔するのやめてくれない!?」
そんな甲洋はさっきからずっとしわしわピ●チュウのような顔になっている。エレメント一のイケメンとうたわれる顔面が、残念なことになっていた。
「へぇー、そっかぁ。甲洋、やっぱり怖いんだ。君がこんなに可愛いやつだったなんて知らなかったよ。ぷぷぷ~っ」
「腹立つなお前」
なんでこんなクソガキを好きになってしまったのだろうか。人生どう転がるか分からないものである。
「あーぁ、でも残念だな。甲洋がそんなに臆病だったなんて……ファンの子たちはガッカリすると思うよ」
「それで煽ってるつもり? 再三言ってるけど、俺は別に怖がってるわけじゃないよ。ただ万が一の危険性を考慮して」
「おれの百年の恋も冷めちゃいそう」
「待ってな来主。今すぐ首なし地蔵を探してくるから」
即落ちだった。
「やったー! 甲洋のそういうチョロいとこ大好き!」
「覚えてろよ……(帰ったら絶対泣かす)」
完全に弱みにつけこまれる形で、首なし地蔵探索をすることになってしまった。返す返すもどうしてこんな奴を好きになってしまったのだろうかとウンザリしながら、甲洋はごくりと固唾をのんだ。
目の前に鎮座するのは五体の地蔵だ。一体一体ライトで照らしながら確認すると、そのうち三体は完全に藪に埋もれており、残り二体はしっかり顔が覗いている。つまり、確認が必要なのは三体のみということだ。
「甲洋、がんばって!」
操が背後からカメラを回しながらエールを送ってくる。甲洋は深く息を吐きだしながら気合いを入れた。首なし地蔵そのものが、あるかどうかも分からないただの噂に過ぎない。さっさと確認してしまえば済むことなのだ。
甲洋は顔が見えない地蔵にそっと手を伸ばした。絡みつく蔦や葉っぱを掻き分けて、そこにちゃんと頭部が存在していることを確かめる。一体、二体と確認し、そのたびにホッと息をついた。そして残すは三体目だ。
(これが最後……あってくれ、地蔵の首……!)
一番左端に佇む最後の地蔵に、震える指先を伸ばした。そのとき──
パァンッ!!
という、なにかが爆ぜる音がした。
「──ッ!?」
甲洋は声なき悲鳴をあげ、とっさに体勢を崩して片膝をついてしまった。その拍子に懐中電灯が地面に転がり落ちる。
音は藪の向こう側から聞こえたような気がした。ほんのりと火薬の匂いがするのは気のせいだろうか。
「な、なに!? いま何か変な音がしたけど!?」
「来主は来なくていい! そこでじっとしてて!」
「わ、わかった!」
藪の向こうでは何かが蠢く気配がしていた。ガサリガサリと微かな音が鳴っている。
甲洋は目を凝らし、その音と気配の正体に全神経を傾けた。得体の知れないなにかが、そこに存在している。霊的な力によるものなのか、あるいは野生動物の類なのか。
いずれにしろ手が届きそうなほどの距離に、その『なにか』がいるのだ。甲洋は手探りで懐中電灯を拾い上げ、体勢を立て直すと息を殺しながら藪を照らした。
するとその瞬間、
「わっ!!」
という声をあげながら、目の前からなにかが飛び出してきた。
「うわッ!?」
甲洋は驚きのあまり尻もちをついてしまった。尻ポケットにねじ込んでいたアジシオの瓶が地味に痛い。だが今はそれどころではなかった。
汗がドッと噴き出して、瞬きすらできないまま硬直する。目を見開いた甲洋の視界の先には、ここにはいないはずの人物がひょっこりと顔を出していた。
「ッ、? ぇ……ッ、え? そ、総士……?」
そこにあったのは今ごろ自宅で一騎のスイーツ動画を編集しているはずの、皆城総士の姿だった。彼は藪の向こう側に佇み、手には糸引きクラッカーを持っている。さっきの破裂音はこれだったのだ。
「そうだ。僕だ。そしてこれはつまり、こういうことだ」
スッ……と、総士がなにやら看板を掲げて見せた。そこには『ドッキリ大成功』という文字がデカデカと書かれており、甲洋は開いた口が塞がらなかった。
未だに何が起こったのか、頭のネジが吹っ飛んだようにうまいこと処理が追いつかない。心臓がバクバクと高鳴っていて、悪い夢でも見ているようだった。
「やったー! ドッキリ大成功! デッデレー!」
操が大はしゃぎで甲洋に駆け寄り、呆然とする表情をドアップで撮影している。
「ど……ドッキリ……?」
「あはは! 甲洋ってば尻もちついちゃって可愛いー!」
「ま、待って、説明して……」
「最初からおれと総士は仕掛け人だったんだよ! このお地蔵さんも本物っぽく作られた偽物! 実はぜーんぶ発泡スチロールで作られてるんだ! ちなみに一体につき●●万円の特注品だよ!」
「ッ……! ば、バカなんじゃないの!?」
ようやく甲洋の頭が回りはじめる。同時に凄まじい脱力感に襲われた。
最初から全て仕組まれていたことだったのだ。昼間、楽園で企画会議をしていたときから、それはすでに始まっていた。ドラマのオファーが来てもうまいこと対応できそうだなぁ、なんて感心している場合ではない。
先に帰るなんていうのは真っ赤な嘘で、総士は自宅へは帰らず一足先にこの廃神社までやってきて、偽地蔵の設置を行っていたのだ。そして藪の裏手に隠れると、ずっと甲洋たちが来るのを待っていた。
「総士は心霊スポットが怖いんじゃなかったのか?」
「バカを言うな甲洋。僕はそもそも、霊だのなんだのといった非科学的なものは信じない。よって一切合切、怖くなどない」
「実はねここ、心霊スポットでもなんでもないんだよ。本当にただの廃神社なの。だから総士もノリノリでおれの企画に乗ってくれたんだよ」
「だから怖くないと言ってるだろう!」
総士が藪の向こうから這い出しながら声を荒げる。
「いや、だって……じゃあ殺人事件とか首なし地蔵の話は……」
「作り話に決まってるでしょ!」
「あぁー……くそ……」
もはや項垂れるしかなかった。全く怪しむことなく、まんまと引っかかってしまったというわけだ。
いくら心霊スポットではないといっても、夜の山中に一人で待機しているなんて、どうかしてるとしか思えない。これがプロ根性とでも言えばいいのだろうか。しかもウン十万もする地蔵をオーダーメイドで五体も用意するあたり、FafTuberすぐ金に物を言わせる……と呆れ返るより他になかった。
「えへへー。うまくいってよかった。ごめんね甲洋、でもすっごくいい絵が撮れたよ」
できればお蔵にしてほしい……と心の底から願いつつ、操が差し出してくれた手をとり、立ち上がる。するとクラッカーから飛び散ったテープなどをせっせと拾い集めていた総士が、怪訝そうな顔をしながら「ところで一騎はどうした?」と問いかけてきた。
「あいつもグルじゃないの?」
「違うよ。本当は甲洋と一騎の二人がターゲットの企画だったんだもん」
「じゃあ体調不良はたまたまってこと? 逆にラッキーだなあいつ……」
「雰囲気に飲まれちゃったのかも。一騎も可愛いとこあるね」
「体調不良だと?」
総士が顔色を変える。けれどすぐに腕を組み、なにか考え込んでいる素振りを見せた。そして「予定は狂うが……仕方ない」と小声で呟いた。
「総士? どうかしたの? 早く戻ってあげないと、一騎が一人ぼっちで可哀想だよ」
「そうしたいのは山々だが、実はひとつ提案がある」
「提案?」
甲洋と操は同時に首を傾げた。
「この先の道をしばらく進んだところに、今では使われていない古びたトンネルがある。何を隠そう、そこは正真正銘の心霊スポットだ」
「え!? それほんとなの総士!?」
途端に目を輝かせた操に、総士が深く頷いた。
「僕としてはいささか不本意だが、ここまで来て見過ごすことはプロのFafTuberとしての沽券に関わる。つまり乗りかかった船だ」
マジか、と甲洋は思った。この流れはよろしくない。
しかしプロ魂に火がついている総士は、目だけで「おうちに帰して」と訴える甲洋に気づかずガッツポーズをして見せた。
「これより、第一次珪素チャンネル『真』心霊スポット凸企画を開始する!」
「やっぱりまだ帰れないんだな、俺たち……」
すでに疲労困憊の甲洋は、「やったー!」と万歳をしている操を死んだ魚のような目で見つめながら、盛大に溜息を漏らした。
←戻る ・ Wavebox👏
*ほんのりドラクエ3っぽい世界観。
*元ネタを知らなくてもふわっと読み流せる内容だと思います(多分)
*甲洋くんのスケベ度が酷いです。
*スライム×操あり。
それは甲洋が二十歳になる誕生日のことであった。
「起きなさい、起きなさい私の可愛い甲洋や」
早朝、母・諒子に起こされた甲洋は何事かとベッドから飛び起きた。
母がわざわざ起こしにくるなんて珍しい。しかも普段は冷ややかな態度で接してくるはずの彼女が、今日はニコニコ顔の猫なで声で「可愛い甲洋」なんてありえないことを口走っている。
「……おはよう、母さん」
「おはよう甲洋。今日はとっても大切な日よ。早く王様のところへ行って、旅立ちの報告をしていらっしゃい」
「おお! 起きたか甲洋! 調子はどうだ?」
そこに母と同じく上機嫌の父・正浩が部屋に入ってきた。
「父さん、おはよう」
「王様を待たせては失礼だぞ? 今日という日のために、息子のお前を手塩にかけて育ててきたんだからな!」
父と母は楽しげにアハハウフフと笑い合っている。自分に関することで、両親がこれほどの笑顔を見せるのは初めてのことだった。
(分かりやすいな、ふたりとも……)
思わず力ない笑みがこぼれる。
彼らの言う通り、二十歳の誕生日を迎えた今日という日は、甲洋にとって旅立ちの日でもあった。
現在、世界は数百年も昔に封印されたはずの魔王・マレスペロの復活により、邪悪な闇に閉ざされようとしていた。
そしてここ『竜宮の町』は、かつて魔王を封印したとされる伝説の勇者が興したとして知られる町であった。再び魔王が復活した今、竜宮の町では素質を見いだされた子供は成人を迎えたその日に、戦いのための旅に出るというしきりたりになっている。
再び魔王を封印して勇者となったものには、王家より莫大な金銀財宝が与えられる確約がなされていた。父と母はそのためだけに、拾い子である甲洋を手元に置き続けてきたのだ。
塩対応を受けた記憶はあっても、手塩にかけられた覚えはない──が、拾ってもらったという恩はある。なにより、子供の頃から早く町を出たいと思っていた甲洋に、旅立つことへの異存はなかった。
「さぁさぁ! 早く旅支度をなさい!」
パンパンと手を叩く母に急かされ、甲洋は慌ただしく旅の準備をさせられた。
ヘッドバンドにグローブ、アンダーシャツとパンツの上から丈の長いオーバーシャツを着せられ、ブーツを履いて最後に紫のマントを羽織らされると、いかにも『ザ・勇者』なコスプレの完成だ。
まんまやないか……と、黄色いピタピタのインナー上下に真っ青なオーバーシャツを見下ろしながら、甲洋は思った。
「お前は俺たちの自慢の息子だ。しっかりやってくるんだぞ!」
そう言って、父は調子よく高笑いしながら甲洋の背中をバンバン叩いた。
*
急かされるままに城へ行き、王様との謁見を済ませた甲洋の手には、小さな布袋が握られていた。中には50ゴールドが入っている。なかなかしょっぺぇ……いや、貴重な旅の軍資金である。
道中魔物を倒しながら地道に稼いでいこうと考えながら、甲洋は町外れにある酒場へと足を向けた。
そこは各地から旅人が集い、仲間を得るための場所になっている。
ここで戦士や魔法使いなどといった職業につく人材を探し、強力な旅の仲間として同行を要請するのだ。
さっそく登録所になっている受付カウンターに向かうと、そこでは受付嬢の美魔女こと羽佐間容子が優しく微笑みかけてくれた。
「いらっしゃい、甲洋くん」
「こんにちは、羽佐間さん」
「その格好……そう、ついに旅に出るのね」
甲洋のザ・勇者なコスプレを見た容子は、心配そうな顔をした。けれどすぐに表情を引き締めると、
「さぁ、これが現在登録されている仲間のリストよ。きっとあなたの旅を助けてくれるわ」
と言って、カウンターの上に分厚い帳面を開いて見せた。
覗き込めば、そこにはズラリと同行が可能な仲間の一覧が表示されている──はずだったのだが。
「……打ち消し線だらけ?」
いるにはいるが、全員の名前の上に横線が引かれていた。
「ごめんなさいね……いまちょうど人手不足なのよ……でもほら、ここにひとり──」
申し訳なさそうに眉をさげた容子が指差した場所に、一人だけ横線が引かれていない者の名前があった。助かった、と思った甲洋だったが
「来主操……遊び人、か」
職業『遊び人』という記載を見て、ガックリと肩を落とした。
遊び人といえば、数ある中でもっとも使い物にならない職業である。戦闘中の指示には従わず、変顔をしたり踊りだしたりという問題行動ばかりをとる、とんだごく潰しなのだ。遊び人と言い切っている時点で職業ですらないはずなのに、なぜこうも堂々と記載されているのだろうか。
攻守のバランスを考え、無難に戦士、魔法使い、僧侶というパーティ構成を考えていたのだが、さっそく壁にぶち当たってしまった。
「ま、待って甲洋くん。遊び人と一口に言っても、言うことをきかないのは最初のうちだけなのよ。根気よくレベル20まで育てれば、賢者に転職することが可能になるの」
「はぁ……」
「それにね、この子はやればできる子なの。やらないだけで、やろうと思えばできるとってもいい子なのよ! そうよ、やれるわ……やれるはずだわ……!」
必死のフォローが痛々しかった。最後の方は甲洋にというより、自分に言い聞かせているかのようだったのは気のせいだろうか。
見たところ、遊び人として登録されているのはこの来主操だけのようだった。
おそらく他の旅人たちも、職業だけを見て判断したのだろう。強力な回復・補助・攻撃魔法まで、幅広く網羅する賢者という将来性には惹かれるが、そこまでの道のりがいささか遠い。
同じくレベル1でしかない初心者の甲洋にとって、遊び人の面倒を見ながらの旅は極めてハイリスクである。
だがしかし──。
どうやってこの状況を回避しようかと思案していた甲洋の脳裏に、ふとある考えが浮かんだ。
(来主操……みさお……女の子、かな?)
名前から察するに、おそらく女子。
そして遊び人の女子といえば、金髪ボンッキュッボン♡のハイレグ網タイツなバニーちゃんコス♡と、ファミコン版からSwitch配信版の昨今にいたるまで相場が決まっている。
「……なるほど」
可愛いバニーちゃん♡とのふたり旅。苦難の道のりの中、ちょっとしたロマンスだとか、ぱふぱふイベントだとか、そういったものがあるかもしれない。
いや、決してそんな浮ついた思考で魔王を倒そうだなんて、ナメたことを考えているわけではない。断じてないのだが、旅にTo LOVEるは付き物だから仕方がないと、甲洋は物事を柔軟に考えることにした。何事も頭でっかちはよろしくない。(性格:むっつりスケベ)
「分かりました。じゃあ、この子でお願いします」
「あらそう? よかった。甲洋くんになら安心して任せられるもの」
果たしてそうだろうか……。
「ぼくっ子とおれっ子で選べるけれど、どちらがいいかしら?」
「え? あ、あ~、そういう?」
男言葉属性とは予想外だった。が、そういう趣向もいいかもしれない。
しかし『おれ』となると女傑のイメージが強いような気がする。豪快で男勝りな女性も魅力的だが、どちらかといえば守ってやりたくなるようなタイプが好みだったので、とりあえず『ぼく』を選んでみた。
容子は頷き、さっそくカウンター裏の控室に向かって「操ー! ご指名よー!」と、声をかけた。
「はぁい!」
その元気のいい返事に、女の子にしては少し低め……いや、ハスキーボイスかな? イイネ! と思いつつ、胸をドキドキと高鳴らせた。
しかし控室の扉から飛び出してきて、目の前まで軽やかにやってきた人物を見るやいなや、甲洋の頭に思い描かれていた『ムフフなぱふぱふ旅』への希望は打ち砕かれた。
「ぼくの名前は来主操! よろしくね!」
ボンッキュッボンッでぼくっ子属性のバニーちゃん♡は、そこにはいなかった。目の前にいる人物はどこからどう見ても『ピエロ』の格好をしていて、ハスキーボイスどころかガッツリCV.木村良平の少年だったのだ。
「えぇ……?」
甲洋は戸惑った。
黄色のポンポンがついた三角帽と、白の襞襟がついているツナギのような道化衣装は、ピンクと紫のストライプ柄。かろうじて白塗りメイクはしていないものの、アホみたいな格好であることに代わりはない。まさしくピエロ。バニーちゃん♡とは掠りもしていなかった。
とはいえ顔は可愛い。が、そのぱふぱふ不可能な絶壁の胸を見て、甲洋のテンションは今日イチで盛り下がっていた。
「……チェンジで」
「不可能よ」
バッサリと切り捨てられた。
容子はカウンターから抜け出し、操の隣に立つとその肩を抱いて微笑みを浮かべる。
「操は箱入り息子なの。外の世界のことはなにも知らないから、いろいろと教えてあげてね、甲洋くん」
「ねぇおかーさぁん。クーも一緒に連れてっていい?」
「駄目よ。クーは老猫なんだから。ロイヤルカナン(健康的なカリカリご飯)だって、旅の途中じゃ手に入らないかもしれないでしょう?」
「クーは元気だから大丈夫だよ。草だって食べるもん」
「それだけじゃ栄養が偏ってしまうわ」
「ちぇー」
あ、親子なんだ……と枯れたススキのようなメンタルになっている甲洋は思ったが、操は旅立つことそのものには前向き──猫を連れてこられるのは困るが──な姿勢を見せている。
まったくやる気がないよりはマシかもしれないと、無理やりプラス思考に持っていかないことには、とてもやっていけそうになかった。
むしろやる気がなくなったのは甲洋の方かもしれないが。
*
「あっ、見て! クレープ屋さんがある! 買っていこうよ!」
晴れて(?)仲間をゲットした甲洋は、王様からもらった資金で旅の道具を揃えに向かっていた。しかしその途中、操がグイグイと腕を引っ張ってきて道端のワゴンショップを指差し、しつこくおねだり攻撃をしてくる。
「ダメだ。無駄遣いはできない」
「ねぇほら! タピオカミルクティーもある! 買ってぇ~買ってよぉ~」
「だからダメなんだって」
「なんでぇ!? ぼくお腹すいた! 喉も乾いた!」
「この50ゴールドで、君の装備と薬草を買うだけで精一杯だ」
「ぼく貧乏は嫌いだな……」
お前ふざけんなよと心が荒んだが、容子から頼まれている大事な息子さんなのでぐっと堪えた。操はその後も駄菓子屋に行こうだのCoCo壱でカレーを食べようだのとワガママを言い続けていたが、甲洋はどうにかスルーした。
そして武器屋で『ひのきのぼう』(安い)を買って、操に装備させた。
「なにこの棒きれ? ルガーランス買ってよぉ」
「お前……じゃなくて、君の今のステータスじゃ、そのくらいしか装備することは不可能だ。まともな武器が欲しいなら、目的地へつくまでにレベルを上げればいい。魔物を倒せばお金にもなる」
「えぇ~? なにそれだるーい」
同じレベル1でも、甲洋と操ではステータスの初期値にかなりの開きがある。
操の場合、下手をすればそのへんのモブ男性の方がよっぽど力があるかもしれない。甲洋は初期装備として『どうのつるぎ』を装備しているが、今の彼の腕力では棒きれがせいぜいだった。
その後、道具屋へ行くと残りの所持金を全て薬草に費やした。操はここでも「アップルグミの方が美味しいのに」と不満を漏らしていたが、このお話はドラクエパロなのでグミでは回復しないのである。
「いいから行くよ」
なんやかんやで時刻はもう昼時をわずかに過ぎていた。
最初の目的地である『海神村』には、徒歩でおよそ半日はかかる計算だ。途中で魔物とエンカウントすることを考えれば、到着する頃には夜になっているだろう。
魔王の城がどこにあるかも定かでない今、まずは各地を巡って地道に情報を集めていく必要があった。
町の出入り口には仲のいい友人たちや、よく世話になっていた近所の人たちが見送りに来てくれていた。
声援に手を振って答えながら、その中に両親の姿を探すが見当たらない。
すっかりセレブ気分で、今ごろ酒でも飲んでダジャレのひとつでも言っているんだろうなぁ……と少し虚しい気持ちになっていると、見送りの中に羽佐間容子の姿があることに気がついた。
「あ、お母さんだ!」
「ふたりとも、ちょっと待ってちょうだい」
容子はそう言ってふたりのもとへ駆け寄ってくると、甲洋と操にそれぞれ綺麗な風呂敷包みを手渡した。
「羽佐間さん、これは?」
「お弁当よ。急いで作ったから大したものじゃないけれど……」
「お母さんのお弁当!? やったー! 嬉しい! ありがとう!」
「羽佐間さん……ありがとう」
風呂敷包みはズッシリと重く、そしてまだあたたかい。
両親が見送りに来ていないことに一抹の寂しさを覚えていた甲洋だったが、そのぬくもりに笑みがこぼれた。
「いってらっしゃい。ふたりとも、必ず無事に帰ってくるのよ」
町の人たちと容子の優しい瞳に見送られ、甲洋と操の旅がはじまった。
*
竜宮の町を出てしばらく歩くと、いよいよ腹を減らした操が騒ぎだした。
仕方なく、甲洋は小高い丘の大木の根元を休憩地として座り込むと、操と一緒に容子が持たせてくれた弁当を食べることにした。
風呂敷包みの中には大きなおむすびがそれぞれ3つも入っており、とても一度では食べきれそうにないボリュームだった。が、操はニコニコ顔でそれらを全てぺろりと平らげ、水筒の中身まで飲み干す勢いだった。
(よく食うなこいつ)
いつ魔物が襲ってくるか分からない状況で、緊張感もクソもない呑気な食べっぷりには呆れてしまう。同時に、食べざかりの遊び人の面倒を見ながら旅をしていくことに、改めて不安を覚えた。
「ごちそうさまでした! お腹いっぱい。おやすみ」
「昼寝してる暇はないよ、来主」
操は道具袋を枕にして、完全に昼寝の体勢に入っていた。
巨大おむすびをひとつ平らげただけで満腹の甲洋は、憂い顔で溜息をつく。
(先が思いやられるよ……)
とはいえ食後すぐに動くのもよくないかと、少しだけ妥協して景色を眺める。
どこまでも続く広大な草原には風と共に雲の影がゆるゆると流れ、この世界が魔王に支配されようとしているなんて信じられないくらい、のどかな時間が過ぎていく。
しかし、そんなひとときは長くは続かなかった。
スライムがあらわれた!
「!?」
草むらから3体のスライムが、突如として姿を現したのだ。
青い半透明の身体をぷるぷるとさせながら、こちらの様子をうかがっている。
「来主! スライムだ!」
「むにゃ~? なに? もう食べられないよ~」
操はごろ寝したまま、赤ん坊のように両目をこすっている。
ダメだこいつと早々に見切りをつけ、甲洋は立ち上がると剣を構えた。
こうようの こうげき!
スライムAに 12のダメージ!
スライムAを たおした!
(よし! いける!)
1匹目のスライムを倒したことにより活路を見出した甲洋だったが、一瞬の隙をついて残りのスライムが同時に攻撃をしかけてきた。
スライムBの こうげき!
こうようは 7のダメージをうけた!
スライムCの こうげき!
こうようは 8のダメージをうけた!
「くっ……!」
地味に痛い。腹部と頭部にスライムアタックを食らった甲洋は、その衝撃で地面に尻もちをついてしまう。さすがはレベル1だ。まともな仲間さえ揃っていれば、初陣とはいえこれほど苦戦することもなかったろうに。
スライムBCはそんな甲洋を嘲笑うかのように、楽しげにビヨンビヨンと跳ねて様子をうかがっている。
「来主! 袋の中から薬草を……!」
どうにか膝をついて体勢を整えた甲洋が、寝転がっている操に視線を走らせた──が、そこに操の姿はなかった。
彼は今いる場所から少し離れた場所にしゃがみ込み、買ったばかりの『ひのきのぼう』の先っちょで
「つんつん、つんつん」
と、う◯ちを突いて遊んでいた……。
「お前はアラレちゃんか!!」
操は職業:遊び人の本領を発揮している。ずっと気を使って『君』呼びだったが、バカバカしくなったので『お前』呼びを解禁した。すっかりキレた甲洋は、こみ上げる怒りをスライム2匹にぶつけるべく斬りかかっていく。
こうようの こうげき!
スライムBに 100のダメージ!
スライムBを たおした!
スライムCの こうげき!
こうようは すばやく みをかわした!
こうようの こうげき!
スライムCに 150のダメージ!
スライムCを たおした!
スライムたちを やっつけた!
現在のステータス値ではありえないダメージ数を叩き出し、甲洋は無事にスライムの群れを倒すことに成功した。しかもレベルが2に上がり、スライムたちがいた場所にチャリーンと6ゴールドが落ちてきた。
「なんとかなったか……」
ふっと息をついた甲洋だったが、安堵したのも束の間「うわー!」という悲鳴が聞こえて息をのむ。
素早く視線を走らせれば、う◯ちを突いて遊んでいたはずの操が、他のスライムの群れに襲われている姿が目に飛び込んできた。
「やだやだ! なにこれ!? 助けて甲洋ー!」
「来主!!」
スライムの群れは先ほどよりも数が多く、AからFまで6匹もいた。あれに一斉にタックルでもキメられれば、一発で教会行きになってしまう。まだ旅立って間もないというのに、棺桶を引きずって町に引き返すのは御免である。
慌てて駆け寄ろうとした甲洋の前に、6匹のうち2匹のスライムがビヨンビヨンと飛び跳ねながら立ちふさがった。
「どけ!」
即座に斬りかかったが、俊敏な動作で避けられてしまう。
そうしている間にも、残りのスライムが操に襲いかかっている。しかし、その攻撃方法はさきほどのスライムたちとは違っているようだった。
「やだやだー! 助けてぇ!」
「く、来主!?」
スライムたちはぐにゃりと蕩けたようにその形を変え、操の身体に張りついていた。みるみるうちにピエロの衣装が溶かされて、あどけない少年の肌が露わになっていく。
「!?」
三角帽がポロリと地面に落ちている。もがくことに夢中の操は、ひのきのぼうすら手放していた。衣装はかろうじて腕や両足首に絡みつき、そして身体の中心の大事な場所だけを残して、あとは無残に溶かされている。
(ピンクだ……)
と、呆然と立ち尽くしながら甲洋は思った。
ぱふぱふ不可能な絶壁の胸。だがそのいただきにある2つの点が、ツンと尖って桃色に染まっている。男にしては少しばかり乳輪が大きめで、正視しがたいほどに扇情的だ。胸が薄いからこそ、主張が激しい。
甲洋はぽっかりと口を開け、その光景から目が離せなくなっていた。
「やっ、ぁ、やだぁ……ッ、きもちわる、あっ、うぅ……っ!」
ゲル状になったスライムたちが、白い皮膚の表面を蠢いている。タコのような形状で幾本もの触手を伸ばし、太もも、腰、首筋、そして胸の上を這っていた。
操は必死でそれを引き剥がそうとしているが、恐怖とそのおぞましい感覚にひどく身を震わせ、大きな瞳から涙をぽろぽろと零している。
「ヒッ、ぁ、ダメ! おっぱい、ぼくのおっぱい、いじめないでぇ……!」
胸の上で、半透明のスライムが乳首をそれぞれきゅうっと引っ張って伸ばしているのが分かる。操は腰をビクビクと跳ねさせ、ついに地面に尻をついてしまった。内ももに巻き付いているスライムが、両足をMの字に開かせる。
そしてついに、身体の中心へとその触手を伸ばしていった。かろうじてまとわりついている布がどんどん溶かされ、まともに毛も生え揃っていない恥部を今にも露わにしようとしていた。
「そこやだ、やだぁ! 助けて甲洋、助けてぇ……っ」
「ッ!!」
そこでようやく、甲洋は我に返った。
(み、見入ってる場合か!!)
甲洋はデレ~ッとした顔で操の痴態を見つめていた2匹のスライムを、一瞬で撃破した。そして操に駆け寄ると、全身に張りついているスライムたちを一心不乱に毟り取る。バラバラに千切れたスライムは動かなくなったが、徐々に寄り集まって元のツルリとした形状に戻り、容赦なく甲洋に襲いかかってきた。
それを斬ったり蹴ったりボコボコにしてやると、またレベルが上がった。(ついでに12ゴールド手に入れた)
「大丈夫か!? 来主!」
操はすっかり身体を丸めて泣いていた。すぐそばで膝をついた甲洋の顔を潤んだ瞳で見上げ、思い切り首に抱きついてくる。
「怖かったよぉ! おっぱい千切れるかと思った!」
胸にすがりついてピーピー泣いている操の身体に、甲洋は脱いだマントを巻きつけてやった。そしてその背中をポンポンと叩き、深く安堵の息をつく。
だいぶショックは受けたようだが、怪我がないようで安心した。が、どちらかといえば甲洋の方が身動きが取れない状態になっていた。
「来主、悪いけど……ちょっと離れて」
「ぐすんっ……ん、なんでぇ?」
「あの、ほんとに今ちょっと……愚息が……」
「?」
首を傾げる操の両肩を軽く掴んで引き剥がした。そして地面にドカリと尻を落ち着けると、両膝を緩く立てて猫背になる。膝頭にそれぞれ両肘を置き、深く溜息を漏らした。
「はぁ~……」
「甲洋?」
身体に紫色のマントを巻きつけた操が、心配そうに目を瞬かせていた。
彼には分かるまい。旅の扉をくぐる前に、新しい性癖の扉を開けてしまった甲洋の気持ちなど。股間の息子はそりゃあもう大変なことになっていて、しばらくは動けそうになかった。
(嘘だろ……来主は男だぞ……)
ボンッキュッボンッなバニーちゃん♡ならいざ知らず。
スライムに陵辱される姿に興奮してしまいましたなんて、甲洋を信じて預けてくれた羽佐間容子に、なんと詫びればいいのだろうか。
それもこれも、こいつのピンクなちっぱいが悪い。胸では不可能でも、太ももならぱふぱふ可能と思えるほど、柔らかそうな尻から腿にかけてのラインが悪い……。
自らの節操なしなドスケベを棚にあげ、甲洋は横目で操を睨んだ。すると操はまだほんの少しだけ涙を浮かべた瞳で、にっこりと笑みを浮かべる。
「ッ!」
その笑顔を見て、甲洋はぐっと喉を詰まらせた。
可愛い顔をしているとは思っていた。思ってはいたのだが──
(こんなに、可愛かったっけ……)
胸がドキドキしてきて、顔に血液が集中していくのを感じた。
おかしい。こんなのはおかしい。あんな光景を目の当たりにしたからって、急に意識してしまうなんてどうかしている。
けれど胸の高鳴りは増すばかりで、気のせいでは片付けられないほど大きくなっていた。
「甲洋!」
落ち着かなければと脳内で念仏を唱えはじめる甲洋の腕に、操がぎゅっと抱きついてくる。
「ッ、ちょ……な、なに」
押しつけられる真っ平らな胸ですら、今はそうやすやすと触れてはいけないもののような気がしている。上ずりそうになる声を抑え、あえてそっけなく返す甲洋の肩に、操は猫のような動作で頬を擦り寄せた。
「助けてくれてありがとう。カッコよかったよ、すごく」
「そ、そう」
「これからも守ってね、ぼくのこと」
いやお前も戦えよ──とは、言えなかった。
多分、ついさっきまでなら平然と言えたはずなのだ。面倒を見るつもりで諦めてはいたが、別に甘やかそうなんてこれっぽっちも思っていなかった。
さっさとレベル上げをして、賢者に転職させるまでの辛抱なのだと。
だけどすっかり顔を赤らめている甲洋は、ついつい素直に「うん」と言って頷いていた。
スライムを倒してレベルが上がったのは甲洋だけではない。
戦いに参加していなくても、経験値は同じパーティにいる操にもしっかりと振り分けられていた。つまり甲洋が敵を倒せば、そのぶん操もレベルが上がるのだ。
(しょうがないよな、また変な襲われ方しても困るし)
どこか言い訳めいたことを心の中で呟きながら、甲洋は潤んだ操の瞳にふっと小さく微笑み返した。
二十歳の誕生日と、生きて戻れるかすら分からない旅立ちと。
なんて日だと思っていた気持ちが、ほんのちょっぴり薄らいでいる。
少なくとも今まで生きてきたなかでは、最も悪くない誕生日になったかもしれない。不思議と、そんな気さえしはじめていた。
甲洋と操の旅は、まだ始まったばかりだ。
その後、宿屋に泊まった翌朝には必ず「ゆうべはお楽しみでしたね」などと言われてしまうまでにふたりの関係は発展していくのだが、そんなラブラブでぱふぱふな未来が訪れるのは、まだほんの少しだけ先のことである。
←戻る ・ Wavebox👏
*元ネタを知らなくてもふわっと読み流せる内容だと思います(多分)
*甲洋くんのスケベ度が酷いです。
*スライム×操あり。
それは甲洋が二十歳になる誕生日のことであった。
「起きなさい、起きなさい私の可愛い甲洋や」
早朝、母・諒子に起こされた甲洋は何事かとベッドから飛び起きた。
母がわざわざ起こしにくるなんて珍しい。しかも普段は冷ややかな態度で接してくるはずの彼女が、今日はニコニコ顔の猫なで声で「可愛い甲洋」なんてありえないことを口走っている。
「……おはよう、母さん」
「おはよう甲洋。今日はとっても大切な日よ。早く王様のところへ行って、旅立ちの報告をしていらっしゃい」
「おお! 起きたか甲洋! 調子はどうだ?」
そこに母と同じく上機嫌の父・正浩が部屋に入ってきた。
「父さん、おはよう」
「王様を待たせては失礼だぞ? 今日という日のために、息子のお前を手塩にかけて育ててきたんだからな!」
父と母は楽しげにアハハウフフと笑い合っている。自分に関することで、両親がこれほどの笑顔を見せるのは初めてのことだった。
(分かりやすいな、ふたりとも……)
思わず力ない笑みがこぼれる。
彼らの言う通り、二十歳の誕生日を迎えた今日という日は、甲洋にとって旅立ちの日でもあった。
現在、世界は数百年も昔に封印されたはずの魔王・マレスペロの復活により、邪悪な闇に閉ざされようとしていた。
そしてここ『竜宮の町』は、かつて魔王を封印したとされる伝説の勇者が興したとして知られる町であった。再び魔王が復活した今、竜宮の町では素質を見いだされた子供は成人を迎えたその日に、戦いのための旅に出るというしきりたりになっている。
再び魔王を封印して勇者となったものには、王家より莫大な金銀財宝が与えられる確約がなされていた。父と母はそのためだけに、拾い子である甲洋を手元に置き続けてきたのだ。
塩対応を受けた記憶はあっても、手塩にかけられた覚えはない──が、拾ってもらったという恩はある。なにより、子供の頃から早く町を出たいと思っていた甲洋に、旅立つことへの異存はなかった。
「さぁさぁ! 早く旅支度をなさい!」
パンパンと手を叩く母に急かされ、甲洋は慌ただしく旅の準備をさせられた。
ヘッドバンドにグローブ、アンダーシャツとパンツの上から丈の長いオーバーシャツを着せられ、ブーツを履いて最後に紫のマントを羽織らされると、いかにも『ザ・勇者』なコスプレの完成だ。
まんまやないか……と、黄色いピタピタのインナー上下に真っ青なオーバーシャツを見下ろしながら、甲洋は思った。
「お前は俺たちの自慢の息子だ。しっかりやってくるんだぞ!」
そう言って、父は調子よく高笑いしながら甲洋の背中をバンバン叩いた。
*
急かされるままに城へ行き、王様との謁見を済ませた甲洋の手には、小さな布袋が握られていた。中には50ゴールドが入っている。なかなかしょっぺぇ……いや、貴重な旅の軍資金である。
道中魔物を倒しながら地道に稼いでいこうと考えながら、甲洋は町外れにある酒場へと足を向けた。
そこは各地から旅人が集い、仲間を得るための場所になっている。
ここで戦士や魔法使いなどといった職業につく人材を探し、強力な旅の仲間として同行を要請するのだ。
さっそく登録所になっている受付カウンターに向かうと、そこでは受付嬢の美魔女こと羽佐間容子が優しく微笑みかけてくれた。
「いらっしゃい、甲洋くん」
「こんにちは、羽佐間さん」
「その格好……そう、ついに旅に出るのね」
甲洋のザ・勇者なコスプレを見た容子は、心配そうな顔をした。けれどすぐに表情を引き締めると、
「さぁ、これが現在登録されている仲間のリストよ。きっとあなたの旅を助けてくれるわ」
と言って、カウンターの上に分厚い帳面を開いて見せた。
覗き込めば、そこにはズラリと同行が可能な仲間の一覧が表示されている──はずだったのだが。
「……打ち消し線だらけ?」
いるにはいるが、全員の名前の上に横線が引かれていた。
「ごめんなさいね……いまちょうど人手不足なのよ……でもほら、ここにひとり──」
申し訳なさそうに眉をさげた容子が指差した場所に、一人だけ横線が引かれていない者の名前があった。助かった、と思った甲洋だったが
「来主操……遊び人、か」
職業『遊び人』という記載を見て、ガックリと肩を落とした。
遊び人といえば、数ある中でもっとも使い物にならない職業である。戦闘中の指示には従わず、変顔をしたり踊りだしたりという問題行動ばかりをとる、とんだごく潰しなのだ。遊び人と言い切っている時点で職業ですらないはずなのに、なぜこうも堂々と記載されているのだろうか。
攻守のバランスを考え、無難に戦士、魔法使い、僧侶というパーティ構成を考えていたのだが、さっそく壁にぶち当たってしまった。
「ま、待って甲洋くん。遊び人と一口に言っても、言うことをきかないのは最初のうちだけなのよ。根気よくレベル20まで育てれば、賢者に転職することが可能になるの」
「はぁ……」
「それにね、この子はやればできる子なの。やらないだけで、やろうと思えばできるとってもいい子なのよ! そうよ、やれるわ……やれるはずだわ……!」
必死のフォローが痛々しかった。最後の方は甲洋にというより、自分に言い聞かせているかのようだったのは気のせいだろうか。
見たところ、遊び人として登録されているのはこの来主操だけのようだった。
おそらく他の旅人たちも、職業だけを見て判断したのだろう。強力な回復・補助・攻撃魔法まで、幅広く網羅する賢者という将来性には惹かれるが、そこまでの道のりがいささか遠い。
同じくレベル1でしかない初心者の甲洋にとって、遊び人の面倒を見ながらの旅は極めてハイリスクである。
だがしかし──。
どうやってこの状況を回避しようかと思案していた甲洋の脳裏に、ふとある考えが浮かんだ。
(来主操……みさお……女の子、かな?)
名前から察するに、おそらく女子。
そして遊び人の女子といえば、金髪ボンッキュッボン♡のハイレグ網タイツなバニーちゃんコス♡と、ファミコン版からSwitch配信版の昨今にいたるまで相場が決まっている。
「……なるほど」
可愛いバニーちゃん♡とのふたり旅。苦難の道のりの中、ちょっとしたロマンスだとか、ぱふぱふイベントだとか、そういったものがあるかもしれない。
いや、決してそんな浮ついた思考で魔王を倒そうだなんて、ナメたことを考えているわけではない。断じてないのだが、旅にTo LOVEるは付き物だから仕方がないと、甲洋は物事を柔軟に考えることにした。何事も頭でっかちはよろしくない。(性格:むっつりスケベ)
「分かりました。じゃあ、この子でお願いします」
「あらそう? よかった。甲洋くんになら安心して任せられるもの」
果たしてそうだろうか……。
「ぼくっ子とおれっ子で選べるけれど、どちらがいいかしら?」
「え? あ、あ~、そういう?」
男言葉属性とは予想外だった。が、そういう趣向もいいかもしれない。
しかし『おれ』となると女傑のイメージが強いような気がする。豪快で男勝りな女性も魅力的だが、どちらかといえば守ってやりたくなるようなタイプが好みだったので、とりあえず『ぼく』を選んでみた。
容子は頷き、さっそくカウンター裏の控室に向かって「操ー! ご指名よー!」と、声をかけた。
「はぁい!」
その元気のいい返事に、女の子にしては少し低め……いや、ハスキーボイスかな? イイネ! と思いつつ、胸をドキドキと高鳴らせた。
しかし控室の扉から飛び出してきて、目の前まで軽やかにやってきた人物を見るやいなや、甲洋の頭に思い描かれていた『ムフフなぱふぱふ旅』への希望は打ち砕かれた。
「ぼくの名前は来主操! よろしくね!」
ボンッキュッボンッでぼくっ子属性のバニーちゃん♡は、そこにはいなかった。目の前にいる人物はどこからどう見ても『ピエロ』の格好をしていて、ハスキーボイスどころかガッツリCV.木村良平の少年だったのだ。
「えぇ……?」
甲洋は戸惑った。
黄色のポンポンがついた三角帽と、白の襞襟がついているツナギのような道化衣装は、ピンクと紫のストライプ柄。かろうじて白塗りメイクはしていないものの、アホみたいな格好であることに代わりはない。まさしくピエロ。バニーちゃん♡とは掠りもしていなかった。
とはいえ顔は可愛い。が、そのぱふぱふ不可能な絶壁の胸を見て、甲洋のテンションは今日イチで盛り下がっていた。
「……チェンジで」
「不可能よ」
バッサリと切り捨てられた。
容子はカウンターから抜け出し、操の隣に立つとその肩を抱いて微笑みを浮かべる。
「操は箱入り息子なの。外の世界のことはなにも知らないから、いろいろと教えてあげてね、甲洋くん」
「ねぇおかーさぁん。クーも一緒に連れてっていい?」
「駄目よ。クーは老猫なんだから。ロイヤルカナン(健康的なカリカリご飯)だって、旅の途中じゃ手に入らないかもしれないでしょう?」
「クーは元気だから大丈夫だよ。草だって食べるもん」
「それだけじゃ栄養が偏ってしまうわ」
「ちぇー」
あ、親子なんだ……と枯れたススキのようなメンタルになっている甲洋は思ったが、操は旅立つことそのものには前向き──猫を連れてこられるのは困るが──な姿勢を見せている。
まったくやる気がないよりはマシかもしれないと、無理やりプラス思考に持っていかないことには、とてもやっていけそうになかった。
むしろやる気がなくなったのは甲洋の方かもしれないが。
*
「あっ、見て! クレープ屋さんがある! 買っていこうよ!」
晴れて(?)仲間をゲットした甲洋は、王様からもらった資金で旅の道具を揃えに向かっていた。しかしその途中、操がグイグイと腕を引っ張ってきて道端のワゴンショップを指差し、しつこくおねだり攻撃をしてくる。
「ダメだ。無駄遣いはできない」
「ねぇほら! タピオカミルクティーもある! 買ってぇ~買ってよぉ~」
「だからダメなんだって」
「なんでぇ!? ぼくお腹すいた! 喉も乾いた!」
「この50ゴールドで、君の装備と薬草を買うだけで精一杯だ」
「ぼく貧乏は嫌いだな……」
お前ふざけんなよと心が荒んだが、容子から頼まれている大事な息子さんなのでぐっと堪えた。操はその後も駄菓子屋に行こうだのCoCo壱でカレーを食べようだのとワガママを言い続けていたが、甲洋はどうにかスルーした。
そして武器屋で『ひのきのぼう』(安い)を買って、操に装備させた。
「なにこの棒きれ? ルガーランス買ってよぉ」
「お前……じゃなくて、君の今のステータスじゃ、そのくらいしか装備することは不可能だ。まともな武器が欲しいなら、目的地へつくまでにレベルを上げればいい。魔物を倒せばお金にもなる」
「えぇ~? なにそれだるーい」
同じレベル1でも、甲洋と操ではステータスの初期値にかなりの開きがある。
操の場合、下手をすればそのへんのモブ男性の方がよっぽど力があるかもしれない。甲洋は初期装備として『どうのつるぎ』を装備しているが、今の彼の腕力では棒きれがせいぜいだった。
その後、道具屋へ行くと残りの所持金を全て薬草に費やした。操はここでも「アップルグミの方が美味しいのに」と不満を漏らしていたが、このお話はドラクエパロなのでグミでは回復しないのである。
「いいから行くよ」
なんやかんやで時刻はもう昼時をわずかに過ぎていた。
最初の目的地である『海神村』には、徒歩でおよそ半日はかかる計算だ。途中で魔物とエンカウントすることを考えれば、到着する頃には夜になっているだろう。
魔王の城がどこにあるかも定かでない今、まずは各地を巡って地道に情報を集めていく必要があった。
町の出入り口には仲のいい友人たちや、よく世話になっていた近所の人たちが見送りに来てくれていた。
声援に手を振って答えながら、その中に両親の姿を探すが見当たらない。
すっかりセレブ気分で、今ごろ酒でも飲んでダジャレのひとつでも言っているんだろうなぁ……と少し虚しい気持ちになっていると、見送りの中に羽佐間容子の姿があることに気がついた。
「あ、お母さんだ!」
「ふたりとも、ちょっと待ってちょうだい」
容子はそう言ってふたりのもとへ駆け寄ってくると、甲洋と操にそれぞれ綺麗な風呂敷包みを手渡した。
「羽佐間さん、これは?」
「お弁当よ。急いで作ったから大したものじゃないけれど……」
「お母さんのお弁当!? やったー! 嬉しい! ありがとう!」
「羽佐間さん……ありがとう」
風呂敷包みはズッシリと重く、そしてまだあたたかい。
両親が見送りに来ていないことに一抹の寂しさを覚えていた甲洋だったが、そのぬくもりに笑みがこぼれた。
「いってらっしゃい。ふたりとも、必ず無事に帰ってくるのよ」
町の人たちと容子の優しい瞳に見送られ、甲洋と操の旅がはじまった。
*
竜宮の町を出てしばらく歩くと、いよいよ腹を減らした操が騒ぎだした。
仕方なく、甲洋は小高い丘の大木の根元を休憩地として座り込むと、操と一緒に容子が持たせてくれた弁当を食べることにした。
風呂敷包みの中には大きなおむすびがそれぞれ3つも入っており、とても一度では食べきれそうにないボリュームだった。が、操はニコニコ顔でそれらを全てぺろりと平らげ、水筒の中身まで飲み干す勢いだった。
(よく食うなこいつ)
いつ魔物が襲ってくるか分からない状況で、緊張感もクソもない呑気な食べっぷりには呆れてしまう。同時に、食べざかりの遊び人の面倒を見ながら旅をしていくことに、改めて不安を覚えた。
「ごちそうさまでした! お腹いっぱい。おやすみ」
「昼寝してる暇はないよ、来主」
操は道具袋を枕にして、完全に昼寝の体勢に入っていた。
巨大おむすびをひとつ平らげただけで満腹の甲洋は、憂い顔で溜息をつく。
(先が思いやられるよ……)
とはいえ食後すぐに動くのもよくないかと、少しだけ妥協して景色を眺める。
どこまでも続く広大な草原には風と共に雲の影がゆるゆると流れ、この世界が魔王に支配されようとしているなんて信じられないくらい、のどかな時間が過ぎていく。
しかし、そんなひとときは長くは続かなかった。
スライムがあらわれた!
「!?」
草むらから3体のスライムが、突如として姿を現したのだ。
青い半透明の身体をぷるぷるとさせながら、こちらの様子をうかがっている。
「来主! スライムだ!」
「むにゃ~? なに? もう食べられないよ~」
操はごろ寝したまま、赤ん坊のように両目をこすっている。
ダメだこいつと早々に見切りをつけ、甲洋は立ち上がると剣を構えた。
こうようの こうげき!
スライムAに 12のダメージ!
スライムAを たおした!
(よし! いける!)
1匹目のスライムを倒したことにより活路を見出した甲洋だったが、一瞬の隙をついて残りのスライムが同時に攻撃をしかけてきた。
スライムBの こうげき!
こうようは 7のダメージをうけた!
スライムCの こうげき!
こうようは 8のダメージをうけた!
「くっ……!」
地味に痛い。腹部と頭部にスライムアタックを食らった甲洋は、その衝撃で地面に尻もちをついてしまう。さすがはレベル1だ。まともな仲間さえ揃っていれば、初陣とはいえこれほど苦戦することもなかったろうに。
スライムBCはそんな甲洋を嘲笑うかのように、楽しげにビヨンビヨンと跳ねて様子をうかがっている。
「来主! 袋の中から薬草を……!」
どうにか膝をついて体勢を整えた甲洋が、寝転がっている操に視線を走らせた──が、そこに操の姿はなかった。
彼は今いる場所から少し離れた場所にしゃがみ込み、買ったばかりの『ひのきのぼう』の先っちょで
「つんつん、つんつん」
と、う◯ちを突いて遊んでいた……。
「お前はアラレちゃんか!!」
操は職業:遊び人の本領を発揮している。ずっと気を使って『君』呼びだったが、バカバカしくなったので『お前』呼びを解禁した。すっかりキレた甲洋は、こみ上げる怒りをスライム2匹にぶつけるべく斬りかかっていく。
こうようの こうげき!
スライムBに 100のダメージ!
スライムBを たおした!
スライムCの こうげき!
こうようは すばやく みをかわした!
こうようの こうげき!
スライムCに 150のダメージ!
スライムCを たおした!
スライムたちを やっつけた!
現在のステータス値ではありえないダメージ数を叩き出し、甲洋は無事にスライムの群れを倒すことに成功した。しかもレベルが2に上がり、スライムたちがいた場所にチャリーンと6ゴールドが落ちてきた。
「なんとかなったか……」
ふっと息をついた甲洋だったが、安堵したのも束の間「うわー!」という悲鳴が聞こえて息をのむ。
素早く視線を走らせれば、う◯ちを突いて遊んでいたはずの操が、他のスライムの群れに襲われている姿が目に飛び込んできた。
「やだやだ! なにこれ!? 助けて甲洋ー!」
「来主!!」
スライムの群れは先ほどよりも数が多く、AからFまで6匹もいた。あれに一斉にタックルでもキメられれば、一発で教会行きになってしまう。まだ旅立って間もないというのに、棺桶を引きずって町に引き返すのは御免である。
慌てて駆け寄ろうとした甲洋の前に、6匹のうち2匹のスライムがビヨンビヨンと飛び跳ねながら立ちふさがった。
「どけ!」
即座に斬りかかったが、俊敏な動作で避けられてしまう。
そうしている間にも、残りのスライムが操に襲いかかっている。しかし、その攻撃方法はさきほどのスライムたちとは違っているようだった。
「やだやだー! 助けてぇ!」
「く、来主!?」
スライムたちはぐにゃりと蕩けたようにその形を変え、操の身体に張りついていた。みるみるうちにピエロの衣装が溶かされて、あどけない少年の肌が露わになっていく。
「!?」
三角帽がポロリと地面に落ちている。もがくことに夢中の操は、ひのきのぼうすら手放していた。衣装はかろうじて腕や両足首に絡みつき、そして身体の中心の大事な場所だけを残して、あとは無残に溶かされている。
(ピンクだ……)
と、呆然と立ち尽くしながら甲洋は思った。
ぱふぱふ不可能な絶壁の胸。だがそのいただきにある2つの点が、ツンと尖って桃色に染まっている。男にしては少しばかり乳輪が大きめで、正視しがたいほどに扇情的だ。胸が薄いからこそ、主張が激しい。
甲洋はぽっかりと口を開け、その光景から目が離せなくなっていた。
「やっ、ぁ、やだぁ……ッ、きもちわる、あっ、うぅ……っ!」
ゲル状になったスライムたちが、白い皮膚の表面を蠢いている。タコのような形状で幾本もの触手を伸ばし、太もも、腰、首筋、そして胸の上を這っていた。
操は必死でそれを引き剥がそうとしているが、恐怖とそのおぞましい感覚にひどく身を震わせ、大きな瞳から涙をぽろぽろと零している。
「ヒッ、ぁ、ダメ! おっぱい、ぼくのおっぱい、いじめないでぇ……!」
胸の上で、半透明のスライムが乳首をそれぞれきゅうっと引っ張って伸ばしているのが分かる。操は腰をビクビクと跳ねさせ、ついに地面に尻をついてしまった。内ももに巻き付いているスライムが、両足をMの字に開かせる。
そしてついに、身体の中心へとその触手を伸ばしていった。かろうじてまとわりついている布がどんどん溶かされ、まともに毛も生え揃っていない恥部を今にも露わにしようとしていた。
「そこやだ、やだぁ! 助けて甲洋、助けてぇ……っ」
「ッ!!」
そこでようやく、甲洋は我に返った。
(み、見入ってる場合か!!)
甲洋はデレ~ッとした顔で操の痴態を見つめていた2匹のスライムを、一瞬で撃破した。そして操に駆け寄ると、全身に張りついているスライムたちを一心不乱に毟り取る。バラバラに千切れたスライムは動かなくなったが、徐々に寄り集まって元のツルリとした形状に戻り、容赦なく甲洋に襲いかかってきた。
それを斬ったり蹴ったりボコボコにしてやると、またレベルが上がった。(ついでに12ゴールド手に入れた)
「大丈夫か!? 来主!」
操はすっかり身体を丸めて泣いていた。すぐそばで膝をついた甲洋の顔を潤んだ瞳で見上げ、思い切り首に抱きついてくる。
「怖かったよぉ! おっぱい千切れるかと思った!」
胸にすがりついてピーピー泣いている操の身体に、甲洋は脱いだマントを巻きつけてやった。そしてその背中をポンポンと叩き、深く安堵の息をつく。
だいぶショックは受けたようだが、怪我がないようで安心した。が、どちらかといえば甲洋の方が身動きが取れない状態になっていた。
「来主、悪いけど……ちょっと離れて」
「ぐすんっ……ん、なんでぇ?」
「あの、ほんとに今ちょっと……愚息が……」
「?」
首を傾げる操の両肩を軽く掴んで引き剥がした。そして地面にドカリと尻を落ち着けると、両膝を緩く立てて猫背になる。膝頭にそれぞれ両肘を置き、深く溜息を漏らした。
「はぁ~……」
「甲洋?」
身体に紫色のマントを巻きつけた操が、心配そうに目を瞬かせていた。
彼には分かるまい。旅の扉をくぐる前に、新しい性癖の扉を開けてしまった甲洋の気持ちなど。股間の息子はそりゃあもう大変なことになっていて、しばらくは動けそうになかった。
(嘘だろ……来主は男だぞ……)
ボンッキュッボンッなバニーちゃん♡ならいざ知らず。
スライムに陵辱される姿に興奮してしまいましたなんて、甲洋を信じて預けてくれた羽佐間容子に、なんと詫びればいいのだろうか。
それもこれも、こいつのピンクなちっぱいが悪い。胸では不可能でも、太ももならぱふぱふ可能と思えるほど、柔らかそうな尻から腿にかけてのラインが悪い……。
自らの節操なしなドスケベを棚にあげ、甲洋は横目で操を睨んだ。すると操はまだほんの少しだけ涙を浮かべた瞳で、にっこりと笑みを浮かべる。
「ッ!」
その笑顔を見て、甲洋はぐっと喉を詰まらせた。
可愛い顔をしているとは思っていた。思ってはいたのだが──
(こんなに、可愛かったっけ……)
胸がドキドキしてきて、顔に血液が集中していくのを感じた。
おかしい。こんなのはおかしい。あんな光景を目の当たりにしたからって、急に意識してしまうなんてどうかしている。
けれど胸の高鳴りは増すばかりで、気のせいでは片付けられないほど大きくなっていた。
「甲洋!」
落ち着かなければと脳内で念仏を唱えはじめる甲洋の腕に、操がぎゅっと抱きついてくる。
「ッ、ちょ……な、なに」
押しつけられる真っ平らな胸ですら、今はそうやすやすと触れてはいけないもののような気がしている。上ずりそうになる声を抑え、あえてそっけなく返す甲洋の肩に、操は猫のような動作で頬を擦り寄せた。
「助けてくれてありがとう。カッコよかったよ、すごく」
「そ、そう」
「これからも守ってね、ぼくのこと」
いやお前も戦えよ──とは、言えなかった。
多分、ついさっきまでなら平然と言えたはずなのだ。面倒を見るつもりで諦めてはいたが、別に甘やかそうなんてこれっぽっちも思っていなかった。
さっさとレベル上げをして、賢者に転職させるまでの辛抱なのだと。
だけどすっかり顔を赤らめている甲洋は、ついつい素直に「うん」と言って頷いていた。
スライムを倒してレベルが上がったのは甲洋だけではない。
戦いに参加していなくても、経験値は同じパーティにいる操にもしっかりと振り分けられていた。つまり甲洋が敵を倒せば、そのぶん操もレベルが上がるのだ。
(しょうがないよな、また変な襲われ方しても困るし)
どこか言い訳めいたことを心の中で呟きながら、甲洋は潤んだ操の瞳にふっと小さく微笑み返した。
二十歳の誕生日と、生きて戻れるかすら分からない旅立ちと。
なんて日だと思っていた気持ちが、ほんのちょっぴり薄らいでいる。
少なくとも今まで生きてきたなかでは、最も悪くない誕生日になったかもしれない。不思議と、そんな気さえしはじめていた。
甲洋と操の旅は、まだ始まったばかりだ。
その後、宿屋に泊まった翌朝には必ず「ゆうべはお楽しみでしたね」などと言われてしまうまでにふたりの関係は発展していくのだが、そんなラブラブでぱふぱふな未来が訪れるのは、まだほんの少しだけ先のことである。
←戻る ・ Wavebox👏
海神島の楽園二号店は、昼時の喧騒の中にあった。
「操ちゃん! コーヒーのおかわりもらえるかい?」
「はぁーい!」
「あ、こっちも頼むよ! ついでにナポリタン大盛り追加で!」
「わかった! ちょっと待ってて!」
「おーい操ちゃん、一騎カレーまだ来てないよ~」
「あっ、忘れてたー!」
店内を賑わせているのは、主にタンクトップの角刈り集団だった。お洒落でレトロな洋風喫茶が、おかげでラグビー部の部室のようになっている。
そんなむさ苦しい集団のなかを、真っ赤なシャツにエプロン姿で動き回っている操は、まるで花から花……いや、筋肉から筋肉へと飛び回る蝶のようだった。
「操ちゃんは元気だねぇ。いつもニコニコして可愛いし」
誰かがぽつりとこぼした言葉を聞いて、みな一様に頷いている。女性店員がいないこともあってか、幼く中性的な顔立ちの操は野郎どものアイドル的存在になっていた。
店を構えた当初はテーブルを磨くことさえ満足にできなかった彼だが、今ではだいぶ慣れて接客を任せられるほどになっている。まだそそっかしいところはあるものの、操はすっかり人々の中に溶け込んでいた。
(来主……)
甲洋はパタパタと動き回っている操のことを、カウンターでグラスを磨きながら目を細めて見つめていた。
男たちに話しかけられては無邪気に笑い、楽しそうに言葉を交わすその姿に、胸の表面を覆う膜が乾いた音を立てながらひび割れていくような感覚を覚える。
それは郷愁と共に懐かしい痛みを甲洋の中に呼び覚ました。ただ一途に想い焦がれて、叶わぬままに終わりを告げた恋慕の記憶を。
「操ちゃん、背中に猫の毛がついてるよ」
「え? うそ、どこどこ?」
「ほらここ」
そのとき男の一人が操の背に手を伸ばし、指先で猫毛を摘みとった。目を丸くしながら首をひねってそれを見ていた操は、「ほんとだぁ」と言って照れたような笑みを浮かべる。
「駄目だろ、飲食店なんだからさ」
「ちゃんとコロコロかけたと思ったのにな。ありがと、おじさん!」
「……ッ」
甲洋は奥歯を噛み締め、逸した視線を静かに伏せた。拭いていたグラスをそっと置き、張り裂けそうな胸の上に強く握った拳を押し当てる。
まるで愛されるためだけに生まれてきたような可憐な笑顔。甘えた声。他の男たちに平然と振りまかれるその無邪気さに、吐き気をもよおすほどの暗い炎が噴き上がる。それは沸き立つ熱泉のように、甲洋の内側を目まぐるしく掻き立てた。
(来主、お前が好きだ。誰かがお前に触れること……誰かに笑いかけることすら、今の俺には耐えられない……お前のすべては、俺だけの……)
気安く触れた男の指先。それを許したあの子の笑顔。多くの視線が、甲洋だけの可愛い小鳥に注がれている。今すぐ隠してしまえたら、どんなにいいだろう。彼の心を捕らえようとするあらゆる外的要因、接触と影響。それらすべてを排除して、誰の目にも触れないように、どこにも飛んでいけないように、狭い箱の中に押し込めて。
その世界を、甲洋のためだけに閉ざしてしまえたら──。
(……ああ、そうか)
願うだけでは叶わないことを、甲洋は知っている。欲しいものには手を伸ばさなければ。ましてやそれが己のものであるならば、他の誰かに盗られる前に、いっそのこと。
(お前をこの手で──)
その目を、喉を、そして四肢を。すべてもぎ取ってしまえばいい。何度も何度も繰り返し、あの子の心が壊れてしまうまで。そうすればもう、操は誰にも笑いかけることができなくなる。誰もその瞳に映せなくなる。声さえも、甲洋だけのもn
「今だ! アバドンカンチョー!」
「ッ──!?」
そのときだった。景気よく病もうとしていた甲洋の臀部の中心に、ドスゥッというありえない衝撃が駆け抜けた。
おいおい待て待て。大丈夫か? ちょっと入ったんじゃないか今? どこに何がとは言わないが、ほんのちょっぴり入っちゃったんじゃないか? ちょっとジンジンしてるんだが?
「く、来主……おま、一体なにを……?」
あまりのショックから中腰になり、カウンターに手をついた甲洋は声を震わせながら背後を振り返った。するとその真後ろで、しゃがみこんだ操が両の人差し指だけを立てた状態で合わせた両手を握りしめている。

「後ろがガラ空きだったからさ!」
「そういうことを聞いてるんじゃない。お前には右ポジ(受)としての自覚はないのか?」
「ポジ? なにそれちんポジのこと? ズレたの? トイレいく?」
「違うから!」
カンチョーなんて今までのイケメン人生で初の体験である。小学生レベルの悪戯が大成功して、操は「わーい!」とバンザイしながらピョーンと跳ねて立ち上がった。誰だ、こいつを小鳥だなんて表現したのは。俺か。こいつはただのクソガキだと、甲洋は考えを改めた。
しかもアバドンカンチョーとかなんとか言ってなかったか。奈落の王を指す自身の機体名(めっちゃ気に入っている)を台無しにされ、甲洋はただただ不愉快な気持ちにさせられた。どうせなら自分の機体名でやれ。
なんにせよ、彼には左右という概念がないのだ。ここはしっかり言い聞かせねば、今後にも大きく関わってくる。
甲洋は屈めていた背をぴしゃりと正し、操と正面から向き合った。
「来主、今の悪戯だけは駄目だ。あと、そのネーミングセンスも駄目だ」
「なんで?」
「誰も望まないからだ」
甲洋の尻はいわば禁断の扉だ。少なくともこの世界線においては、針一本通してはならない禁猟区である。しかし操はふっと生温かい笑みを浮かべて、甲洋の肩をポンと叩くと諭すように言った。
「大丈夫。需要はあるよ、甲洋」
「ないよ。そういうのは別の世界線の有志に任せておけばいい(※逆カプのお姉さんたち)」
「ちぇー、つまんないのー」
操は両手を頭の後ろで組むと、不満そうにぷぅと唇を尖らせる。
まさか下剋上でも狙っているのか? っていうかこの感じだと、さてはこいつ左右の概念ちゃんとあるな? と、危機感と不信感を同時に募らせていると、実は最初からずっと反対側で黙々と調理に徹していた一騎が、心底呆れた顔でふたりに横目を向けてきた。
「ふたりとも、遊んでないでちゃんと仕事してくれないか……特に甲洋、あまり物騒なこと考えるなよ」
「あ、ごめん」
そういえばここの従業員は全員もれなく心が読めるのである。普段から思考通信をしまくっているせいもあり、うっかりチャンネルを開放したままだった。ダダ漏れだったことに穴があったら入れたい入りたい気持ちになりながら、甲洋は真面目に接客に励むことにした。
*
その夜──。
閉店後、店のカウンターで本を読んでいた甲洋は、ふと壁掛け時計に目を向けた。
「もうこんな時間か」
時刻は夜の10時を過ぎている。そろそろ操を送っていかなければ、今ごろ羽佐間容子が心配しているだろう。操は人間が太刀打ちできる相手ではないし、対来主操専用モブフェストゥムでも現れない限り、そうそう危険に晒される心配はない。
しかし容子はすっかり人間の子供を育てている感覚でいるし、まだまだ人間心理に疎い操が、口達者なモブおじさんに懐柔された結果、後日NTRビデオが郵送されてくる──なんて男性向けエロ展開になりでもしたら、甲洋は確実に闇落ちするだろう。
と、いうわけで過保護な甲洋は、毎晩しっかり操を家まで送り届けているのだった。ワープすれば済む話だが、操がいつも歩いて帰ろうとするので付き合っている。毎晩のんびりお散歩感覚で操と歩く時間が、甲洋の生活には欠かせないものになっていた。
「来主、そろそろ帰るよ」
店の外に出ると、月明かりの下で階段に腰かけた操は野良猫まみれになっていた。肩やら膝やら足元に猫たちを纏わりつかせ、遊んでいるというよりは遊ばれている。
「あ、甲洋。官能小説は読み終わったの?」
「なぜそれを知っ……あ、いや、そんなことよりもう帰る時間だよ」
「待って、まだもうちょっと」
「羽佐間さんが心配するぞ」
「んー、でもぉ」
毎晩のように遊んでいるくせに、操は猫たちとの別れを惜しんでいるようだった。甲洋はしょうがないなと溜息を漏らすと、「ちょっとだけだよ」と言って操の横に腰をおろす。
操は猫を両手で抱き上げて正面から顔を合わせると、鼻と鼻をくっつけて嬉しそうに笑った。
「あはは、可愛い。猫は面白いね。ふわふわでもちもちで、食べたら美味しそう」
「食べるなよ」
操にとっての食べるとは、つまり同化のことである。この子なら興味本位でやりかねない気もして、甲洋は少し呆れた顔をした。すると操は「食べないよぅ」と言って、尖らせた唇を向けてくる。
「ヒトはよく可愛いものを見ると目に入れても痛くないとか、食べちゃいたいとか言うでしょ? だけど実際に食べようとする人間はいないんだ。だからぼくもしない」
ねー、と猫に同意を求めるように笑いかけ、操は腕のなかのふわふわに頬ずりをした。甲洋はその微笑ましい光景に目を細め、足元に擦り寄ってきた猫の頭を指先で撫でる。かすかに聞こえてきたゴロゴロという音を聞きながら、甲洋は無意識に喉を鳴らした。
少年の形をした無垢な身体。手を伸ばせばすぐに触れることができる距離。月の光に照らされる操の肌は、白く透き通るようにみずみずしい。その息遣いにすら、狂おしいまでの渇望を覚える。
病的なまでの熱情は刹那の欲求を呼び覚まし、胸郭の中で心臓がドクンと大きく脈を打った。
(この子と、ひとつになりたい)
例えば彼が望むなら。いっそこの身を捧げたって構わないと。
穢れなき純然たる肉体の一部となって、己という毒で侵すことができたなら──
(来主……お前を愛している。どうか俺を受け入れて……お前という清廉な器の中で、永久に続く安寧を)
「はい甲洋、あ~ん」
「あ~ん」
激重モノローグの最中であるにも関わらず、甲洋は伸びてきた操の手と可愛い「あ~ん」に促されるまま、ぱっくりと口を開けていた。
ガッ、と口の中になにかつぶつぶとした小さな固形物が大量に押し込まれる。
「むぐ!?」
「はい駄目! いちど口に入れたものは出さない! 噛んで! ハイ噛んで! そして飲み込んで! ぼくのエクスカリバー!!」
「ッ……!?」
操が両手で甲洋の頭部と口を結構な力で押さえつけている。甲洋は口の中に押し込まれた謎の物体を噛み砕いた。そして
「ブッフォ!?」
噴いた。
ビックリした猫たちが、ミギャーと声をあげながら散り散りに逃げていく。
「アーッ! 甲洋! なんてことすんのさ!? 勿体ない! ってか手についた! ばっちい~!!」
操がペイペイッと汚れた手を振り払っている間、甲洋は激しく咳込んでいた。口の中には魚介の生臭さがいっぱいに広がっている。さらには噛み砕いて粉々になったものが、おかしな器官に入り込んでいるせいで咳が止まらず呼吸困難になっていた。
操はそんな甲洋の服の裾で手をふきふきしながら、「も~、駄目じゃん甲洋」と困り顔を浮かべている。
「勿体ないなぁ」
「ゲッホゴホッ、く、くる……ッ、こ、これ、なに?」
「猫ちゃんのカリカリご飯だよ」

「ゲッホゲホゴホァッ……!?」
さらに激しく咽る甲洋に、操はどこから取り出したのか猫用ドライフードの小袋をヒョイと持ち上げて見せる。
そこには『三ツ●グルメ~贅沢素材のお魚レシピ~』と書いてあった。
ぼくのエクスカリバーとかなんとか訳のわからないことを言いながら、操は甲洋の口にこれを大量に突っ込んだのである。
「お前は一体なんのつもりでこんなことを!?」
どうにかこうにか咳がおさまった甲洋は、涙目になりながら問いかける。操は「えへへ」と頭を掻きながら
「猫たちがいっつも美味しそうに食べてるから、どんな味がするのかなと思ってさ。ねぇねぇ、どうだった? 美味しかった?」
と、悪びれもせずに言う。
「美味いも不味いもあるか! 自分で試せ!」
「だってこれ猫のご飯だよ!? ぼくが食べてもしお腹壊したらどうすんの!?」
「お前どうせ食ったものぜんぶ同化されるだろ!!」
帰還後これほどの大声を上げたことがあっただろうかというほど声を荒げる甲洋に、さすがの操もビックリしたのか「なんでそんなに怒るのぉ!?」と涙目になっている。
「泣きたいのはこっちだバカ!」
「バカって言った方がバカだもん! 甲洋のバカ! やっぱり好きじゃないー!!」
「結構だバカ!!」
わあぁん、という操の泣き声が、煌めく月夜に響き渡った。
*
ケンカしつつも操を羽佐間家に送り届けた甲洋は、帰りはワープで楽園に戻った。
容子にお茶でもと誘われたが、口の中が猛烈にキャットフードだったので、早く帰って歯を磨きたいという思いから断った。
「はぁ……」
シャワーを浴びて歯を磨き、部屋着に着替えた甲洋は自室のベッドに横たわって深い息を漏らした。今日はいつになく疲れている。
フェストゥムである甲洋の肉体は、戦闘で疲弊しない限り基本的に眠りを必要としない。しかし人間であったころの習慣から、夜はとりあえずベッドに入って身体を休めるようにしている。眠ろうと思えば眠れるので、今日はこのまま寝てしまおうと思った。不貞寝である。
しかしどうにもモヤモヤして、上手く思考のスイッチを切り落とせない。
あんなことさえなければ、今日こそはキスのひとつもできていたかもしれないのに。
さんざん激重感情で病みかけておいてなんだが、甲洋は未だに操とキスすらできていないのである。いつもあの天真爛漫さにペースを乱され、思うようにいった試しがない。
間接照明に薄ぼんやりと照らされた天井を眺め、また息をつく。
甲洋は片方の手を持ち上げると、自分の手のひらをじっと見つめた。この手で操に触れて、強く抱きしめることができる日は果たして訪れるのだろうか。
欲ばかりが先急ぐ感覚。気づけば奪うことばかりを考えている。そばにいることが当たり前になればなるほど、焼けるような焦燥に胸が軋む。あの純粋で柔らかな魂に触れることが許されているのは、どうかこの手であってほしいと。
いつか他の誰かのものになる前に、他の誰かに、あの子の心が向く前に。
それはまっさらな雪の大地を、誰よりも先に最初の一歩で踏み荒らしたいという願望に似ている。大切にしたいと思う気持ちの裏側に、ひどく傷つけてやりたいという残酷な欲が同居しているのだ。
あの無邪気な瞳を、自分という欲望で濁らせてその肌を犯し尽くしたい。膨らんでいくばかりの想望を、一滴も残さずあの幼い身体に注ぎ込みたい。
彼はどんな顔をするだろう。怯えるだろうか。泣くだろうか。そこから溢れ出す血は何色だろう。啜れば甘い味がするのだろうか。操の泣き顔。その涙。
黒くいやしい雄の欲望に犯されて、どんな悲鳴をあげるだろう──
「こぉ~よぉ~」
「っ!?」
そのときである。突如として、部屋の中央に操がワープで現れた。
要約するとただのスケベ調教ルートに進みかけていた甲洋は、地味にビックリしてベッドから落ちかけた。
「ッ、な、なに……?」
かろうじて体勢を整え、怪訝な表情で身を起こす。
操はさっき送り届けたままの格好で、手になにやら薄桃色をした包みを持って立ち尽くしていた。その表情は不貞腐れているが、目は少し潤んでいる。
「さっきのこと、お母さんに言ったら怒られた。ちゃんと謝れって言われたから……来た」
「そんなことか……別に明日でもよかったのに」
とりあえず一発ソロ活(スラング)でもして寝るか……などと考えていただけに、ちょっといたたまれない。時間も遅いし、と続けた甲洋に、操はぶぅっと唇を尖らせる。
「だぁって甲洋、怒ってたし……ごめん」
猛烈に不服そうではあるが、操なりに一応は気にしているらしい。その態度や表情があまりにも子供っぽいものだから、毒気を抜かれた甲洋は思わず笑ってしまった。
「もういいよ。怒ってない」
「本当?」
潤んだ瞳が上目遣いに向けられる。ちくしょう可愛いなぁと思いつつ頷くと、操は花が咲いたようにパッと笑った。
「よかった! あっ、あのね、夜ってなにか食べたくなるでしょ? ぼくお菓子作って持ってきたんだ!」
お詫びの品のつもりだろうか。操はベッドまで駆けてくると縁に腰かけ、ずっと大事そうに持っていた包みを甲洋にズイッと差し出した。
「お菓子? 来主が作ったのか?」
包みを受け取りながら目を丸くする。
「うん! 前にね、一騎に作り方を教えてもらったんだ。ホットケーキミックスで作ったドーナツ。ぼく一人で作ったんだよ!」
操は自慢げに鼻の穴を膨らませて胸を張っている。甲洋はずっしりとした重みを手の中に感じながら胸を打たれていた。あの操が、わざわざ自分のためにお菓子を持ってきてくれた。しかも容子に手伝ってもらうでもなく、ひとりで作ったというのだ。
嬉しさがこみ上げ、カンチョーもキャットフードも一瞬でチャラになった。
「ありがとう、来主」
「えへへー! うん! ねぇ、早く食べてみてよ!」
甲洋は微笑みながら頷いて、ハンカチの包装を解いていく。中身は黒猫の顔がドーンと大きく描かれた、赤い楕円形の弁当箱だった。
ワクワクした様子の操に見守られ、弁当箱の蓋を開ける。そして、首を傾げた。
「これは……」
確か操はドーナツと言っていた気がするが、そこには弁当箱に隙間なくミッチリと詰められた、焦げ茶色の巨大な塊が入っている。それを見た甲洋は思わず
「象の糞?」

と、感想を漏らしていた。すると操が眉を吊り上げて怒りだす。
「は!? なにそれ!? どっからどう見てもドーナツじゃん!」
「いやしかし……この色にこの形状はどう見ても……」
「違うもん! ドーナツだもん! ちょっと焦げちゃっただけだもん! 象のウ●チなんてひどいよ!」
「だってお前、この見た目……果たしてこれは許せるかどうか……」
「許してよぉ!!」
焦げ茶色をした楕円形の巨大なブツは、どう見ても象の糞にしか見えなかった。しかし操はこれをドーナツと言って聞かない。早く作ろうと急くあまり、彼はボウルの中のホットケーキミックスを熱した油の中に一気にポーンしてしまったのだ。
そしてそれを、事もあろうに楕円形の弁当箱に無理やり詰め込んでしまった。その結果がこのビジュアル崩壊である。
「わかった。わかったから。俺が悪かった」
わっ、と泣きべそをかきはじめた操の頭をくしゃくしゃと撫で、どうにか宥める。すると操はすんっと鼻を鳴らしながら、涙目で甲洋を見上げた。
「じゃあ、食べてくれる?」
「食べるよ。いただきます」
あまりにも素直な感想を漏らしてしまったせいで、若干嫌なイメージはついてしまったものの、甘い匂いは間違いなくドーナツだ。
甲洋は弁当箱を引っくり返すようにしながら中身をゴロリと取り出すと、それを一口大に千切って(めっちゃ固い)口に運ぶ。ほんの少しだけ焦げた風味が鼻を抜け、それからふわりとした甘さが広がった。
「美味しい?」
操の期待に満ちた胸の高鳴りが伝わって、甲洋は目を細めて笑うと頷いて見せる。操は「やったー!」と万歳をすると、自分もドーナツに手を伸ばす。大きな塊をむしり取ると、口いっぱいに頬張った。
「んー、おいひい! これは大成功だね!」
見た目の大切さも理解させないとなぁと思いつつ、またケンカになってはいけないので「そうだね」と言って肯定した。口の周りにドーナツのカスをつけながら頬を膨らませる操に、やれやれと息をつきながら少しずつ食べ進める。
「ねぇ甲洋ぉ、ぼくね」
「ん?」
一緒に半分ほど食べ終えたところで手を止めた操が、甲洋を見上げる。目を合わせると、彼はふにゃ~っとまるでふやけたような笑顔を見せた。
「楽しい」
間接照明の薄明かりに照らされて、操の頬がちょっぴりだけ赤くなっているように見えるのは、ただの都合のいい解釈でしかないのかもしれない。
それでも甲洋は胸がジーンと熱くなる。かじかんだ指先をぬるま湯に浸したみたいに、身体が芯から満たされていくのを感じた。
甘えた声、甘えた笑顔。無警戒に寄せられる子供のような体温。今だけは、うぬぼれてもいいだろうか。
「俺もだよ」
唇の端についているドーナツのカスを指先でくすぐるように取り払ってやりながら、甲洋は目を細めて優しく笑った。
*
翌日の楽園は朝から賑わいを見せていた。
「はぁ……ここのオーナーさん、いつ見ても素敵……」
「あぁん今日もカッコいい……春日井さん……」
「お休みの日はなにしてるのかしら……誘ってみようかな……」
「ちょっとズルいわよ! 抜け駆けする気?」
たまにタンクトップ集団が占拠する以外、店は基本的に若い女性客が多い。今日もほとんどの席が女性たちで埋まっていて、そのほとんどが甲洋にハートマークを向けている。
ひそひそと囁かれる声と熱い視線のなか、甲洋は注文品を運ぶなど接客に追われていた。ひとつ終わればまたその次と、ひっきりなしに黄色い声に呼び止められる。
(女の子って、どうしてみんな甲洋のことあんなに好きなのかなぁ)
平然と接客に勤しんでいた甲洋のなかに、カウンターで皿拭きをしている操の呟きが流れ込んできた。
(甲洋は次の休みはぼくと釣りに行くんだもん。ぼくと遊ぶんだもん。でも、あの子達と遊びに行くって言われたら……嫌だな)
その声に、甲洋は「おや」といささか呆気にとられる。
(やな感じ。モヤモヤしてつまんない。変なの)
「あ、あの、春日井さん! よかったらここにサインもらえませんか?」
そのとき、近くの席の女性客に呼び止められた。甲洋はひとまず笑顔でその席に向かい、「俺の?」とわざと驚いたような表情を浮かべて小首を傾げた。
二人がけの席に向かい合って座っている二人連れの女性客が、それぞれ手帳のメモ欄を開いて頷いている。頬が真っ赤で、瞳が蕩けそうに潤んでいた。
「いいですよ」
甲洋が了承すると、ふたりは顔を見合わせて「きゃ~」と歓声をあげた。受け取ったペンでそれぞれの手帳に『春日井甲洋』とシンプルなサインを書く。するとまた操の声が聞こえてきた。
(甲洋のこと食べちゃおうかな……そしたら、このモヤモヤなくなるのかな……?)
甲洋は思わず小さく噴き出した。
「店長さん! あの、こっちもお願いします!」
そのとき、別のテーブルの女性客に呼ばれた。甲洋はそちらに目を向け、軽く手をあげると「少々お待ち下さい」と言って遮る。
それどころじゃないと、甲洋は思った。今すぐ店を閉めてしまおうかとすら本気で考えながら、カウンターへと足を向ける。
操はそれに気づいていながら、ムッと唇を尖らせて皿磨きに集中するふりをした。その額に手を伸ばし、テーブル越しに指先で軽く小突いてやる。
「ふわっ!? な、なに!?」
ビックリした操が、大きな瞳をまんまるにした。後をたたない愛おしさと可笑しさに、満悦の甲洋はふっと息を吐きだすように小さく笑う。
「バカだな、来主は」
「もー、なに!? ぼくちゃんと仕事してるじゃん!」
「お前が病むなよ」
くすぐったさに肩を揺らしながら、今夜こそ絶対にキスしてやろうと、甲洋はその胸を風船のように浮き立たせるのだった。
素材:いらすとや
←戻る ・ Wavebox👏
「操ちゃん! コーヒーのおかわりもらえるかい?」
「はぁーい!」
「あ、こっちも頼むよ! ついでにナポリタン大盛り追加で!」
「わかった! ちょっと待ってて!」
「おーい操ちゃん、一騎カレーまだ来てないよ~」
「あっ、忘れてたー!」
店内を賑わせているのは、主にタンクトップの角刈り集団だった。お洒落でレトロな洋風喫茶が、おかげでラグビー部の部室のようになっている。
そんなむさ苦しい集団のなかを、真っ赤なシャツにエプロン姿で動き回っている操は、まるで花から花……いや、筋肉から筋肉へと飛び回る蝶のようだった。
「操ちゃんは元気だねぇ。いつもニコニコして可愛いし」
誰かがぽつりとこぼした言葉を聞いて、みな一様に頷いている。女性店員がいないこともあってか、幼く中性的な顔立ちの操は野郎どものアイドル的存在になっていた。
店を構えた当初はテーブルを磨くことさえ満足にできなかった彼だが、今ではだいぶ慣れて接客を任せられるほどになっている。まだそそっかしいところはあるものの、操はすっかり人々の中に溶け込んでいた。
(来主……)
甲洋はパタパタと動き回っている操のことを、カウンターでグラスを磨きながら目を細めて見つめていた。
男たちに話しかけられては無邪気に笑い、楽しそうに言葉を交わすその姿に、胸の表面を覆う膜が乾いた音を立てながらひび割れていくような感覚を覚える。
それは郷愁と共に懐かしい痛みを甲洋の中に呼び覚ました。ただ一途に想い焦がれて、叶わぬままに終わりを告げた恋慕の記憶を。
「操ちゃん、背中に猫の毛がついてるよ」
「え? うそ、どこどこ?」
「ほらここ」
そのとき男の一人が操の背に手を伸ばし、指先で猫毛を摘みとった。目を丸くしながら首をひねってそれを見ていた操は、「ほんとだぁ」と言って照れたような笑みを浮かべる。
「駄目だろ、飲食店なんだからさ」
「ちゃんとコロコロかけたと思ったのにな。ありがと、おじさん!」
「……ッ」
甲洋は奥歯を噛み締め、逸した視線を静かに伏せた。拭いていたグラスをそっと置き、張り裂けそうな胸の上に強く握った拳を押し当てる。
まるで愛されるためだけに生まれてきたような可憐な笑顔。甘えた声。他の男たちに平然と振りまかれるその無邪気さに、吐き気をもよおすほどの暗い炎が噴き上がる。それは沸き立つ熱泉のように、甲洋の内側を目まぐるしく掻き立てた。
(来主、お前が好きだ。誰かがお前に触れること……誰かに笑いかけることすら、今の俺には耐えられない……お前のすべては、俺だけの……)
気安く触れた男の指先。それを許したあの子の笑顔。多くの視線が、甲洋だけの可愛い小鳥に注がれている。今すぐ隠してしまえたら、どんなにいいだろう。彼の心を捕らえようとするあらゆる外的要因、接触と影響。それらすべてを排除して、誰の目にも触れないように、どこにも飛んでいけないように、狭い箱の中に押し込めて。
その世界を、甲洋のためだけに閉ざしてしまえたら──。
(……ああ、そうか)
願うだけでは叶わないことを、甲洋は知っている。欲しいものには手を伸ばさなければ。ましてやそれが己のものであるならば、他の誰かに盗られる前に、いっそのこと。
(お前をこの手で──)
その目を、喉を、そして四肢を。すべてもぎ取ってしまえばいい。何度も何度も繰り返し、あの子の心が壊れてしまうまで。そうすればもう、操は誰にも笑いかけることができなくなる。誰もその瞳に映せなくなる。声さえも、甲洋だけのもn
「今だ! アバドンカンチョー!」
「ッ──!?」
そのときだった。景気よく病もうとしていた甲洋の臀部の中心に、ドスゥッというありえない衝撃が駆け抜けた。
おいおい待て待て。大丈夫か? ちょっと入ったんじゃないか今? どこに何がとは言わないが、ほんのちょっぴり入っちゃったんじゃないか? ちょっとジンジンしてるんだが?
「く、来主……おま、一体なにを……?」
あまりのショックから中腰になり、カウンターに手をついた甲洋は声を震わせながら背後を振り返った。するとその真後ろで、しゃがみこんだ操が両の人差し指だけを立てた状態で合わせた両手を握りしめている。

「後ろがガラ空きだったからさ!」
「そういうことを聞いてるんじゃない。お前には右ポジ(受)としての自覚はないのか?」
「ポジ? なにそれちんポジのこと? ズレたの? トイレいく?」
「違うから!」
カンチョーなんて今までのイケメン人生で初の体験である。小学生レベルの悪戯が大成功して、操は「わーい!」とバンザイしながらピョーンと跳ねて立ち上がった。誰だ、こいつを小鳥だなんて表現したのは。俺か。こいつはただのクソガキだと、甲洋は考えを改めた。
しかもアバドンカンチョーとかなんとか言ってなかったか。奈落の王を指す自身の機体名(めっちゃ気に入っている)を台無しにされ、甲洋はただただ不愉快な気持ちにさせられた。どうせなら自分の機体名でやれ。
なんにせよ、彼には左右という概念がないのだ。ここはしっかり言い聞かせねば、今後にも大きく関わってくる。
甲洋は屈めていた背をぴしゃりと正し、操と正面から向き合った。
「来主、今の悪戯だけは駄目だ。あと、そのネーミングセンスも駄目だ」
「なんで?」
「誰も望まないからだ」
甲洋の尻はいわば禁断の扉だ。少なくともこの世界線においては、針一本通してはならない禁猟区である。しかし操はふっと生温かい笑みを浮かべて、甲洋の肩をポンと叩くと諭すように言った。
「大丈夫。需要はあるよ、甲洋」
「ないよ。そういうのは別の世界線の有志に任せておけばいい(※逆カプのお姉さんたち)」
「ちぇー、つまんないのー」
操は両手を頭の後ろで組むと、不満そうにぷぅと唇を尖らせる。
まさか下剋上でも狙っているのか? っていうかこの感じだと、さてはこいつ左右の概念ちゃんとあるな? と、危機感と不信感を同時に募らせていると、実は最初からずっと反対側で黙々と調理に徹していた一騎が、心底呆れた顔でふたりに横目を向けてきた。
「ふたりとも、遊んでないでちゃんと仕事してくれないか……特に甲洋、あまり物騒なこと考えるなよ」
「あ、ごめん」
そういえばここの従業員は全員もれなく心が読めるのである。普段から思考通信をしまくっているせいもあり、うっかりチャンネルを開放したままだった。ダダ漏れだったことに穴があったら
*
その夜──。
閉店後、店のカウンターで本を読んでいた甲洋は、ふと壁掛け時計に目を向けた。
「もうこんな時間か」
時刻は夜の10時を過ぎている。そろそろ操を送っていかなければ、今ごろ羽佐間容子が心配しているだろう。操は人間が太刀打ちできる相手ではないし、対来主操専用モブフェストゥムでも現れない限り、そうそう危険に晒される心配はない。
しかし容子はすっかり人間の子供を育てている感覚でいるし、まだまだ人間心理に疎い操が、口達者なモブおじさんに懐柔された結果、後日NTRビデオが郵送されてくる──なんて男性向けエロ展開になりでもしたら、甲洋は確実に闇落ちするだろう。
と、いうわけで過保護な甲洋は、毎晩しっかり操を家まで送り届けているのだった。ワープすれば済む話だが、操がいつも歩いて帰ろうとするので付き合っている。毎晩のんびりお散歩感覚で操と歩く時間が、甲洋の生活には欠かせないものになっていた。
「来主、そろそろ帰るよ」
店の外に出ると、月明かりの下で階段に腰かけた操は野良猫まみれになっていた。肩やら膝やら足元に猫たちを纏わりつかせ、遊んでいるというよりは遊ばれている。
「あ、甲洋。官能小説は読み終わったの?」
「なぜそれを知っ……あ、いや、そんなことよりもう帰る時間だよ」
「待って、まだもうちょっと」
「羽佐間さんが心配するぞ」
「んー、でもぉ」
毎晩のように遊んでいるくせに、操は猫たちとの別れを惜しんでいるようだった。甲洋はしょうがないなと溜息を漏らすと、「ちょっとだけだよ」と言って操の横に腰をおろす。
操は猫を両手で抱き上げて正面から顔を合わせると、鼻と鼻をくっつけて嬉しそうに笑った。
「あはは、可愛い。猫は面白いね。ふわふわでもちもちで、食べたら美味しそう」
「食べるなよ」
操にとっての食べるとは、つまり同化のことである。この子なら興味本位でやりかねない気もして、甲洋は少し呆れた顔をした。すると操は「食べないよぅ」と言って、尖らせた唇を向けてくる。
「ヒトはよく可愛いものを見ると目に入れても痛くないとか、食べちゃいたいとか言うでしょ? だけど実際に食べようとする人間はいないんだ。だからぼくもしない」
ねー、と猫に同意を求めるように笑いかけ、操は腕のなかのふわふわに頬ずりをした。甲洋はその微笑ましい光景に目を細め、足元に擦り寄ってきた猫の頭を指先で撫でる。かすかに聞こえてきたゴロゴロという音を聞きながら、甲洋は無意識に喉を鳴らした。
少年の形をした無垢な身体。手を伸ばせばすぐに触れることができる距離。月の光に照らされる操の肌は、白く透き通るようにみずみずしい。その息遣いにすら、狂おしいまでの渇望を覚える。
病的なまでの熱情は刹那の欲求を呼び覚まし、胸郭の中で心臓がドクンと大きく脈を打った。
(この子と、ひとつになりたい)
例えば彼が望むなら。いっそこの身を捧げたって構わないと。
穢れなき純然たる肉体の一部となって、己という毒で侵すことができたなら──
(来主……お前を愛している。どうか俺を受け入れて……お前という清廉な器の中で、永久に続く安寧を)
「はい甲洋、あ~ん」
「あ~ん」
激重モノローグの最中であるにも関わらず、甲洋は伸びてきた操の手と可愛い「あ~ん」に促されるまま、ぱっくりと口を開けていた。
ガッ、と口の中になにかつぶつぶとした小さな固形物が大量に押し込まれる。
「むぐ!?」
「はい駄目! いちど口に入れたものは出さない! 噛んで! ハイ噛んで! そして飲み込んで! ぼくのエクスカリバー!!」
「ッ……!?」
操が両手で甲洋の頭部と口を結構な力で押さえつけている。甲洋は口の中に押し込まれた謎の物体を噛み砕いた。そして
「ブッフォ!?」
噴いた。
ビックリした猫たちが、ミギャーと声をあげながら散り散りに逃げていく。
「アーッ! 甲洋! なんてことすんのさ!? 勿体ない! ってか手についた! ばっちい~!!」
操がペイペイッと汚れた手を振り払っている間、甲洋は激しく咳込んでいた。口の中には魚介の生臭さがいっぱいに広がっている。さらには噛み砕いて粉々になったものが、おかしな器官に入り込んでいるせいで咳が止まらず呼吸困難になっていた。
操はそんな甲洋の服の裾で手をふきふきしながら、「も~、駄目じゃん甲洋」と困り顔を浮かべている。
「勿体ないなぁ」
「ゲッホゴホッ、く、くる……ッ、こ、これ、なに?」
「猫ちゃんのカリカリご飯だよ」

「ゲッホゲホゴホァッ……!?」
さらに激しく咽る甲洋に、操はどこから取り出したのか猫用ドライフードの小袋をヒョイと持ち上げて見せる。
そこには『三ツ●グルメ~贅沢素材のお魚レシピ~』と書いてあった。
ぼくのエクスカリバーとかなんとか訳のわからないことを言いながら、操は甲洋の口にこれを大量に突っ込んだのである。
「お前は一体なんのつもりでこんなことを!?」
どうにかこうにか咳がおさまった甲洋は、涙目になりながら問いかける。操は「えへへ」と頭を掻きながら
「猫たちがいっつも美味しそうに食べてるから、どんな味がするのかなと思ってさ。ねぇねぇ、どうだった? 美味しかった?」
と、悪びれもせずに言う。
「美味いも不味いもあるか! 自分で試せ!」
「だってこれ猫のご飯だよ!? ぼくが食べてもしお腹壊したらどうすんの!?」
「お前どうせ食ったものぜんぶ同化されるだろ!!」
帰還後これほどの大声を上げたことがあっただろうかというほど声を荒げる甲洋に、さすがの操もビックリしたのか「なんでそんなに怒るのぉ!?」と涙目になっている。
「泣きたいのはこっちだバカ!」
「バカって言った方がバカだもん! 甲洋のバカ! やっぱり好きじゃないー!!」
「結構だバカ!!」
わあぁん、という操の泣き声が、煌めく月夜に響き渡った。
*
ケンカしつつも操を羽佐間家に送り届けた甲洋は、帰りはワープで楽園に戻った。
容子にお茶でもと誘われたが、口の中が猛烈にキャットフードだったので、早く帰って歯を磨きたいという思いから断った。
「はぁ……」
シャワーを浴びて歯を磨き、部屋着に着替えた甲洋は自室のベッドに横たわって深い息を漏らした。今日はいつになく疲れている。
フェストゥムである甲洋の肉体は、戦闘で疲弊しない限り基本的に眠りを必要としない。しかし人間であったころの習慣から、夜はとりあえずベッドに入って身体を休めるようにしている。眠ろうと思えば眠れるので、今日はこのまま寝てしまおうと思った。不貞寝である。
しかしどうにもモヤモヤして、上手く思考のスイッチを切り落とせない。
あんなことさえなければ、今日こそはキスのひとつもできていたかもしれないのに。
さんざん激重感情で病みかけておいてなんだが、甲洋は未だに操とキスすらできていないのである。いつもあの天真爛漫さにペースを乱され、思うようにいった試しがない。
間接照明に薄ぼんやりと照らされた天井を眺め、また息をつく。
甲洋は片方の手を持ち上げると、自分の手のひらをじっと見つめた。この手で操に触れて、強く抱きしめることができる日は果たして訪れるのだろうか。
欲ばかりが先急ぐ感覚。気づけば奪うことばかりを考えている。そばにいることが当たり前になればなるほど、焼けるような焦燥に胸が軋む。あの純粋で柔らかな魂に触れることが許されているのは、どうかこの手であってほしいと。
いつか他の誰かのものになる前に、他の誰かに、あの子の心が向く前に。
それはまっさらな雪の大地を、誰よりも先に最初の一歩で踏み荒らしたいという願望に似ている。大切にしたいと思う気持ちの裏側に、ひどく傷つけてやりたいという残酷な欲が同居しているのだ。
あの無邪気な瞳を、自分という欲望で濁らせてその肌を犯し尽くしたい。膨らんでいくばかりの想望を、一滴も残さずあの幼い身体に注ぎ込みたい。
彼はどんな顔をするだろう。怯えるだろうか。泣くだろうか。そこから溢れ出す血は何色だろう。啜れば甘い味がするのだろうか。操の泣き顔。その涙。
黒くいやしい雄の欲望に犯されて、どんな悲鳴をあげるだろう──
「こぉ~よぉ~」
「っ!?」
そのときである。突如として、部屋の中央に操がワープで現れた。
要約するとただのスケベ調教ルートに進みかけていた甲洋は、地味にビックリしてベッドから落ちかけた。
「ッ、な、なに……?」
かろうじて体勢を整え、怪訝な表情で身を起こす。
操はさっき送り届けたままの格好で、手になにやら薄桃色をした包みを持って立ち尽くしていた。その表情は不貞腐れているが、目は少し潤んでいる。
「さっきのこと、お母さんに言ったら怒られた。ちゃんと謝れって言われたから……来た」
「そんなことか……別に明日でもよかったのに」
とりあえず一発ソロ活(スラング)でもして寝るか……などと考えていただけに、ちょっといたたまれない。時間も遅いし、と続けた甲洋に、操はぶぅっと唇を尖らせる。
「だぁって甲洋、怒ってたし……ごめん」
猛烈に不服そうではあるが、操なりに一応は気にしているらしい。その態度や表情があまりにも子供っぽいものだから、毒気を抜かれた甲洋は思わず笑ってしまった。
「もういいよ。怒ってない」
「本当?」
潤んだ瞳が上目遣いに向けられる。ちくしょう可愛いなぁと思いつつ頷くと、操は花が咲いたようにパッと笑った。
「よかった! あっ、あのね、夜ってなにか食べたくなるでしょ? ぼくお菓子作って持ってきたんだ!」
お詫びの品のつもりだろうか。操はベッドまで駆けてくると縁に腰かけ、ずっと大事そうに持っていた包みを甲洋にズイッと差し出した。
「お菓子? 来主が作ったのか?」
包みを受け取りながら目を丸くする。
「うん! 前にね、一騎に作り方を教えてもらったんだ。ホットケーキミックスで作ったドーナツ。ぼく一人で作ったんだよ!」
操は自慢げに鼻の穴を膨らませて胸を張っている。甲洋はずっしりとした重みを手の中に感じながら胸を打たれていた。あの操が、わざわざ自分のためにお菓子を持ってきてくれた。しかも容子に手伝ってもらうでもなく、ひとりで作ったというのだ。
嬉しさがこみ上げ、カンチョーもキャットフードも一瞬でチャラになった。
「ありがとう、来主」
「えへへー! うん! ねぇ、早く食べてみてよ!」
甲洋は微笑みながら頷いて、ハンカチの包装を解いていく。中身は黒猫の顔がドーンと大きく描かれた、赤い楕円形の弁当箱だった。
ワクワクした様子の操に見守られ、弁当箱の蓋を開ける。そして、首を傾げた。
「これは……」
確か操はドーナツと言っていた気がするが、そこには弁当箱に隙間なくミッチリと詰められた、焦げ茶色の巨大な塊が入っている。それを見た甲洋は思わず
「象の糞?」

と、感想を漏らしていた。すると操が眉を吊り上げて怒りだす。
「は!? なにそれ!? どっからどう見てもドーナツじゃん!」
「いやしかし……この色にこの形状はどう見ても……」
「違うもん! ドーナツだもん! ちょっと焦げちゃっただけだもん! 象のウ●チなんてひどいよ!」
「だってお前、この見た目……果たしてこれは許せるかどうか……」
「許してよぉ!!」
焦げ茶色をした楕円形の巨大なブツは、どう見ても象の糞にしか見えなかった。しかし操はこれをドーナツと言って聞かない。早く作ろうと急くあまり、彼はボウルの中のホットケーキミックスを熱した油の中に一気にポーンしてしまったのだ。
そしてそれを、事もあろうに楕円形の弁当箱に無理やり詰め込んでしまった。その結果がこのビジュアル崩壊である。
「わかった。わかったから。俺が悪かった」
わっ、と泣きべそをかきはじめた操の頭をくしゃくしゃと撫で、どうにか宥める。すると操はすんっと鼻を鳴らしながら、涙目で甲洋を見上げた。
「じゃあ、食べてくれる?」
「食べるよ。いただきます」
あまりにも素直な感想を漏らしてしまったせいで、若干嫌なイメージはついてしまったものの、甘い匂いは間違いなくドーナツだ。
甲洋は弁当箱を引っくり返すようにしながら中身をゴロリと取り出すと、それを一口大に千切って(めっちゃ固い)口に運ぶ。ほんの少しだけ焦げた風味が鼻を抜け、それからふわりとした甘さが広がった。
「美味しい?」
操の期待に満ちた胸の高鳴りが伝わって、甲洋は目を細めて笑うと頷いて見せる。操は「やったー!」と万歳をすると、自分もドーナツに手を伸ばす。大きな塊をむしり取ると、口いっぱいに頬張った。
「んー、おいひい! これは大成功だね!」
見た目の大切さも理解させないとなぁと思いつつ、またケンカになってはいけないので「そうだね」と言って肯定した。口の周りにドーナツのカスをつけながら頬を膨らませる操に、やれやれと息をつきながら少しずつ食べ進める。
「ねぇ甲洋ぉ、ぼくね」
「ん?」
一緒に半分ほど食べ終えたところで手を止めた操が、甲洋を見上げる。目を合わせると、彼はふにゃ~っとまるでふやけたような笑顔を見せた。
「楽しい」
間接照明の薄明かりに照らされて、操の頬がちょっぴりだけ赤くなっているように見えるのは、ただの都合のいい解釈でしかないのかもしれない。
それでも甲洋は胸がジーンと熱くなる。かじかんだ指先をぬるま湯に浸したみたいに、身体が芯から満たされていくのを感じた。
甘えた声、甘えた笑顔。無警戒に寄せられる子供のような体温。今だけは、うぬぼれてもいいだろうか。
「俺もだよ」
唇の端についているドーナツのカスを指先でくすぐるように取り払ってやりながら、甲洋は目を細めて優しく笑った。
*
翌日の楽園は朝から賑わいを見せていた。
「はぁ……ここのオーナーさん、いつ見ても素敵……」
「あぁん今日もカッコいい……春日井さん……」
「お休みの日はなにしてるのかしら……誘ってみようかな……」
「ちょっとズルいわよ! 抜け駆けする気?」
たまにタンクトップ集団が占拠する以外、店は基本的に若い女性客が多い。今日もほとんどの席が女性たちで埋まっていて、そのほとんどが甲洋にハートマークを向けている。
ひそひそと囁かれる声と熱い視線のなか、甲洋は注文品を運ぶなど接客に追われていた。ひとつ終わればまたその次と、ひっきりなしに黄色い声に呼び止められる。
(女の子って、どうしてみんな甲洋のことあんなに好きなのかなぁ)
平然と接客に勤しんでいた甲洋のなかに、カウンターで皿拭きをしている操の呟きが流れ込んできた。
(甲洋は次の休みはぼくと釣りに行くんだもん。ぼくと遊ぶんだもん。でも、あの子達と遊びに行くって言われたら……嫌だな)
その声に、甲洋は「おや」といささか呆気にとられる。
(やな感じ。モヤモヤしてつまんない。変なの)
「あ、あの、春日井さん! よかったらここにサインもらえませんか?」
そのとき、近くの席の女性客に呼び止められた。甲洋はひとまず笑顔でその席に向かい、「俺の?」とわざと驚いたような表情を浮かべて小首を傾げた。
二人がけの席に向かい合って座っている二人連れの女性客が、それぞれ手帳のメモ欄を開いて頷いている。頬が真っ赤で、瞳が蕩けそうに潤んでいた。
「いいですよ」
甲洋が了承すると、ふたりは顔を見合わせて「きゃ~」と歓声をあげた。受け取ったペンでそれぞれの手帳に『春日井甲洋』とシンプルなサインを書く。するとまた操の声が聞こえてきた。
(甲洋のこと食べちゃおうかな……そしたら、このモヤモヤなくなるのかな……?)
甲洋は思わず小さく噴き出した。
「店長さん! あの、こっちもお願いします!」
そのとき、別のテーブルの女性客に呼ばれた。甲洋はそちらに目を向け、軽く手をあげると「少々お待ち下さい」と言って遮る。
それどころじゃないと、甲洋は思った。今すぐ店を閉めてしまおうかとすら本気で考えながら、カウンターへと足を向ける。
操はそれに気づいていながら、ムッと唇を尖らせて皿磨きに集中するふりをした。その額に手を伸ばし、テーブル越しに指先で軽く小突いてやる。
「ふわっ!? な、なに!?」
ビックリした操が、大きな瞳をまんまるにした。後をたたない愛おしさと可笑しさに、満悦の甲洋はふっと息を吐きだすように小さく笑う。
「バカだな、来主は」
「もー、なに!? ぼくちゃんと仕事してるじゃん!」
「お前が病むなよ」
くすぐったさに肩を揺らしながら、今夜こそ絶対にキスしてやろうと、甲洋はその胸を風船のように浮き立たせるのだった。
素材:いらすとや
←戻る ・ Wavebox👏
*Oh My kitten!から二年後のお話です。まずはそちらからご覧ください。
操の様子がおかしくなったのは、彼が18歳の誕生日を迎える半月ほど前からだ。無邪気にくっついてくることがなくなり、二人きりでいるときの口数も極端に減った。
手を繋いだり、キスをしそうな空気を察すると、わざとらしく口笛をふいて顔を逸し、一定の距離を保とうとする。どうかしたのかと訊ねても、目を泳がせながら「別にぃ」と言って誤魔化すばかりだった。
そのあからさまな態度を、気にするなというほうが難しい。機嫌を損ねるようなことをした覚えもないし、操の明け透けな性格を考えれば、不満があるならとっくに漏らしているはずだ。
けれど避けられていることだけは明白で、原因はなんだろうかと考えたとき、思い当たるものが一つだけあった。それは二年前に交わした、あの約束だ。
まだ16歳だった操は、なんの進展もない自分たちの関係に焦りを覚えて、無理やり身体を繋げようとした。しかしろくな知識も準備もなしに上手くいくはずがなく、行きあたりばったりの行為は失敗に終わった。
そのとき甲洋は落ち込む操と約束を交わしたのだ。二年後、操が18歳になったときには、キスより先のこともしようと。そしていよいよその日が目前まで近づいている。
彼の急な態度の変化は、そのこととなにか関係しているのではないか。むしろ他に思い当たるものがなかった。
例えばの話──考えたくはないけれど、なんらかの理由で操の気持ちが甲洋から離れ、約束をなかったことにしたいと考えているのなら、あの避けるような態度にも納得がいく。他に好きな相手ができたとか、これといった理由もなく冷めてしまったとか。それらの可能性は、決してないとは言い切れない。
本人に確かめもしないうちから、甲洋はマイナスの思考に囚われていった。ただの思い過ごしであってほしいと、そう願う気持ちだけをささやかな希望にして。
そうやってズルズルと日数が経過して、操の誕生日当日がやってきた。
その日は午後から店を貸し切りにして、バースデーパーティーが開かれた。綺麗に飾りつけられた店内で、集まった人たちに囲まれながら豪華な料理とケーキを前にした操は、顔を赤くしながら嬉しそうにはしゃいでいた。
けれど甲洋の内心は気が気じゃない。本当ならもっと浮かれていてもいいはずなのに。
操の子供っぽさは相変わらずで、背は幾らか伸びたが、長身の甲洋との差は縮まらなかった。それでも甲洋はこのときを辛抱強く待っていたし、ほんの少し前までは操も待ち遠しそうに「まだかなぁ」なんて言いながら指折り数えていた。
だからもし甲洋の不安がただの杞憂であれば、今夜は自然とそういう流れになるのではないかと、そう思っていた。この際セックスするとかしないとかは後回しだ。ただ操の気持ちが知りたかった。
そして日が沈む頃にパーティーがお開きになり、みなが家に帰っていくのと一緒に、操まで帰宅してしまったことに甲洋は愕然とした。
彼は「食べすぎて眠い」などと言いながら、こちらには目もくれずそそくさと帰ってしまったのである。
決まりだ。そこまでされたら、嫌でも思い知る。
操の気持ちは、もうとっくに自分から離れてしまっているのだと。
*
閉店後の店内はやけに静かで、操が床にほうきを走らせる音だけが響いている。
レジ締めの作業を終えた甲洋は、無人のホールをせっせと掃き掃除しているその背を見つめ、鼻から小さな息を漏らした。
店のシェフである真壁一騎は、所用で一足先に上がってしまった。ふたりっきりの店内には一切の会話がなく、寒々しい空気だけが流れている。
操の誕生日から三日。彼は相変わらず甲洋と距離をとり続けていた。むしろ今まで以上に態度がよそよそしくなっている。一騎とは普段通り接するが、甲洋とは意地でも目を合わせようとしない。そのわざとらしさは、まるで悪戯がバレるのを恐れる子供のように甲洋の目に映った。
「……来主」
甲洋は少し迷ったが、操の背中に声をかけた。彼が自分から口を開くまで待つことも考えたが、そろそろこの状態も限界だ。
「な、なに?」
操は肩をギクリとさせて、どこかバツが悪そうにおずおずと振り返る。
「お前、なにか俺に言うことがあるんじゃないの?」
「……別にないよ?」
「理由もなく避けられる意味が分からない。なにかあるなら」
「だからなにもないってば!」
操は苛立った声をあげ、また甲洋に背を向けた。
「本当になんでもない……ぼくのことはほっといて」
「来主」
「今日から一人で帰るから。もう送ってくれなくていいよ」
そう言って、操はほうきを片付けにバックヤードへ消えていこうとした。それを「待って」と引き止めると、また肩をギクリとさせて歩みを止める。
「話そう、来主」
引き下がらない甲洋に、操は渋々といった様子でほうきを壁に立て掛けた。
甲洋がカウンターの一席に腰掛けると、隣にちょこんと腰を落ち着ける。彼はうつむき、やっぱりこちらを見ようとしない。その沈んだ横顔に、否が応でも終わりを突きつけられた気がする。
「顔も見たくないなら、そのままでいいから。来主の気持ちを、聞かせてほしい」
ズルズルとここまで引き伸ばしてしまったが、ケジメくらいはつけておくべきだと思う。お互いにとっても、その方がいいはずだ。
こうなったからといって、操を責めるつもりはない。自分にはこの子を繋ぎ止めておくだけのものが足りなかった。きっとそれだけの話なのだと、必死で諦めようとしている。けれどどこかではひどく責め立て、問いつめてしまいたい自分もいた。だからそうなる前に、最後くらいはちゃんとトドメを刺してほしい。
「冷めたなら、そう言って」
傷つく覚悟をした上で切り出したはずだった。けれど甲洋の言葉を受けて、操は「は?」の形にポカンと口を開きながらこちらを見た。
「冷めたって、なにが?」
「なにがって……来主は俺との関係を終わりにしたいんだろ?」
「終わり……? 終わりってなに?」
「?」
「え? 待って? もしかしてこれ別れ話!?」
「……うん?」
「嘘!? 甲洋、ぼくたち終わりなの!?」
「えぇ……?」
予想外の風向きだ。むしろこちらがそれを聞きたいところだったのだが……。
「やだやだやだぁ! 終わりなんてやだ! そんなのやだよぉ!!」
青褪めていた操はいよいよ泣きだし、握りしめた両手でグシグシと顔を拭っている。これは一体どういうことだろう。全く意味が分からない。
「ひどいよ! なんで急にそんなこと言うのぉ!?」
「急にって……いや、だって来主が先に冷めたんじゃないの?」
「そんなことないもぉん!!」
「はぁ? じゃあ、なんでずっと避けて……?」
「そ、それは……」
真っ赤になっている操の鼻からピュッと鼻水が垂れてきたので、甲洋は困惑しながらも尻ポケットからとっさに取りだしたハンカチでサッと拭き取ってやった。
「その……あの……」
操はよほど言いにくいことがあるのか、うつむいて唇をまごつかせている。けれど根気よく待ち続けていると、やがておずおずと顔を上げてこう言った。
「だってぼく、病気になっちゃったんだもん!!」
わっ、と声をあげ、操がカウンターに突っ伏して大泣きしはじめた。
*
「とりあえず落ち着こう。お互い」
甲洋は厨房でコーヒーとココアを淹れると、カウンター席に戻った。それぞれカップを手にして口をつけると、同時に「ふぅ」と息をつく。
「それで……病気っていうのは一体……?」
見たところ、操が身体に変調をきたしているようにはまったく見えない。甲洋と距離を置いている以外では、これといった変化も特には見られなかったはずだが。
けれどそれはあくまでも表向きの話だ。操は言いだせないほどのなにかを抱え込んでいる。それほどまでに重たい病に侵されているということなのだろうか。
「ずっと誰にも言えなかったんだけど……」
たった今コーヒーで潤したはずの喉がカラカラに乾くのを感じる。甲洋は顔を強張らせ、緊張しながら操の声に耳を傾けた。
「だって、自分がこんなことになるなんて思ってなかったから、すごく怖くて……」
なにかが込み上げてきたかのように、操はそこで言葉を切ると吐く息を震わせる。甲洋はとっさにテーブルの上にあった小さな手を握りしめた。悲しそうに伏せられた横顔に歯噛みする。この子がこんな顔をするなんて。ずっと一人で思い悩んでいたのだろう。自分を避けていたのは、心配をかけたくなかったからなのかもしれない。
そう思うと、甲洋の胸に引き裂かれたような痛みが走った。
「来主。たとえどんなことでも受け止めるよ。俺がずっとそばにいる」
「甲洋……」
「話してほしい。少しずつで構わないから」
甲洋の瞳を見つめ、操は泣きそうにくしゃりと表情を歪めた。唇をきゅっと噛み締めて、こくりと頷く。そしてゆっくりと口を開いた。
「ぼくね、おっぱいからお乳が出るようになっちゃったんだ」
「……ん?」
「甲洋と上手にエッチできるように、自分でお尻を拡張してたんだけど……そしたら急にお乳がぴゅーって」
「待って」
「え?」
「ごめん、ちょっと待って。お前はなんの話をしているの?」
「なにって、病気の経緯を」
「いやいやいやいや……」
待て待て待て。深刻な空気に飲まれかけていたが、彼はなにを言っているのだろうか。お乳とか拡張とか、とんでもワードが聞こえたような気がするのだが。
「ちょ、どっ、まっ……来主、落ち着いて。まずは落ちゅち……落ち着くんだ」
「落ち着いたほうがいいのは甲洋の方だと思うよ。噛んでるし」
冷静に突っ込まれてしまったが、さっきからずっと気持ちが追いつかない状態に陥っている。決死の覚悟で別れ話を切り出したと思えば、次の瞬間には妻のガン宣告を聞く夫のような気持ちになり、最終的な着地点が母乳とセルフ拡張だった。自分でも過去にこれほど取り乱したことがあっただろうかと、だいぶ戸惑っているところである。
しかし話はまだ途中だ。甲洋は今度こそ話の腰を折らないよう、とりあえず最後まで操の話を聞くことにした。
「前は失敗しちゃったでしょ? だから今度はちゃんと上手にできるように、自分でお尻の穴を触って特訓してたの。そしたらね、最近ちょっとずつ気持ちよくなってきて……それでね、その頃から、なぜかおっぱいからお乳が出てくるようになったの……」
「ッ……!?」
操は膝をモジモジとすり合わせ、顔を赤くしながら涙目になっている。話を聞いているだけで、甲洋は全身の血液が沸騰しそうだった。まさか操が、夜な夜なそんな真似をしていたなんて。ついつい前かがみになってしまいそうだった。
「もうすぐ誕生日だなって思ったら、考えるだけで出てくるようになっちゃって……甲洋とキスすると、もっと出ちゃうから……」
「だから避けていた……?」
こくん、と操がうなずいた。
「だって、こんなの絶対ヘンだもん……ぼく男なのに、赤ちゃんができたわけでもないのに、お乳が出るなんて……知られたら、嫌われると思って……」
だから操はどうにかしてこの病気が治るまでは、甲洋に近づかないようにしようと決めた。けれど理由も分からず、治し方も分からない。誰にも相談できないまま、ずっと一人で抱え込んでいたのだ。
確かに言いにくいことだろう。18歳になったとはいえ、操はまだまだ多感な年頃だ。ましてや母乳が出るなんて、深く思いつめてしまうのも無理はない。
「お母さんにも言えないし、病院も怖くて行けないし……ぼく、ずっとこのままなのかなぁ……」
ポロポロと涙を流す操を見て、申し訳ないが気が抜けた。内容は衝撃的だったが、考えていたような最悪な展開にはいたらなかった。ここ最近はずっと、これからどうやって生きていこうかと途方に暮れながら過ごしていたほどだ。それほどまでに甲洋は操のことが大切で、愛しくて、離れられない存在だった。
「嫌いになんかならないよ」
安堵の息を漏らしながら、甲洋は操の肩に手を置いた。
「……本当?」
「本当。来主、それは体質の問題だ。男にだって乳腺はある。お乳が出たからって、なにも変な話じゃないよ」
「そうなの? じゃあこれ、病気じゃないの?」
「不安なら一緒に病院に行こう。俺がついて行くから。それなら少しは安心だろ?」
「甲洋……!」
操の泣き顔が、花がほころぶような笑顔に変わった。抱きついてくるのを受け止めて、しっかりと腕に閉じ込める。すっぽりと収まってしまう体温に、安堵と喜び込み上げた。
もう半月以上もこうして触れることができなかったのだ。手を伸ばせば当たり前のようにあるぬくもりが、こんなにも大切なものであることを改めて思い知らされる。
「あのね、甲洋」
存分に抱きしめて堪能していると、操の身体がもぞりと動く。彼は顔をあげ、恥ずかしそうに上目遣いで甲洋を見た。
「ぼくのおっぱい、見ても本当に変だって思わない?」
「思わないよ」
「じゃあ……見て」
「!」
「病院に行くよりも、甲洋に見てほしいの……」
甲洋は衝撃に打たれたが、なにもおかしな話ではない。操はまだ少しだけ不安そうだ。自分の身体に起こった変化を、信頼できる相手と共有することで、より深く安心感を得たいのかもしれない。その気持ちを無下にするわけにはいかなかった。
「わかった。じゃあ、部屋に行こう」
頷いた操の手を引いて、甲洋は胸を高鳴らせながら二階へ続く階段へと足を向けた。
*
部屋に入ると、互いの方に軽く身体を向け合う形でベッドの縁に腰かけた。
甲洋の目の前で、操がシャツのボタンを上からひとつひとつ外していく。その手元をじっと見つめながら、腫れ物に触るようにソワソワとして落ち着かない。鼓動が忙しなく胸の内側を叩き続けて、今にも突き破ってきそうだった。
シャツのボタンを全て外し終えると、操がカーテンを開けるように両手で前をはだけさせた。そこで目を引くのは、乳首の上にそれぞれ貼りつけられた絆創膏だ。ふいに出てしまったときに服を汚さないための対策なのだろうが、これはこれで非常に煽情的な光景である。
よくよく見ると、絆創膏には中央の部分にうっすらと滲むようなシミが確認できた。
「さっきぎゅってされたとき、ちょっと出ちゃった」
クスンと鼻を鳴らしながら言った操に、甲洋はぐっと生唾を飲み下す。
「……直に見るよ。いい?」
「ん」
熱っぽく息を漏らして操が頷くのを合図に、震えそうになる指先で端っこの部分に軽く爪を引っ掛ける。すっかり湿っている絆創膏はほとんど粘着力を失っており、それだけでペロンと剥がれ落ちてしまった。もう片方も同じようにして剥がしてしまうと、淡桃の乳首がツンと頭を尖らせていた。
その先端から、ぷくんと小さな白い粒が滲みでる。それは限界まで膨らんでから、涙のように皮膚を伝い落ちていった。
「や、ん……ど、しよ……見られてるだけで、おちちでちゃうよぉ」
恥ずかしそうに、操が尻をモジモジとさせた。それらの光景は想像を絶する破壊力で、一気に天辺まで達した興奮に思考が白く染まりかける。が、ここで目を開けたまま気絶するわけにもいかず、どうにか気を取り直した甲洋は予想を確信に変えた。下で話を聞いていたときから、そうじゃないかとは思っていたが──。
「来主はいやらしい気持ちになると、ここからミルクが出るんじゃない?」
再び小さな雫を盛り上がらせている乳首の片方に指をやり、中心には触れずに乳輪だけをクルリとなぞってみた。白い涙がポロリとこぼれて、甲洋の指を伝っていく。
「あっ、んッ……! ぁ……う、ん……」
操は唇をきゅっと噛み締めながら、素直にこくんと頷いた。
「やらしいこと、考えないように我慢しなきゃって思ったの……でも、ダメって思うともっと考えちゃって、甲洋とするときのこと、いっぱい、考えちゃって……」
「……だから一人で触ってた? お尻の穴も、気持ちよくなってくるくらい?」
「あ、ぁ、や……出ちゃうからぁ……エッチなこと、言わないでぇ……!」
言葉で少し煽るだけで、操は乳首からさらに涙を滲ませた。悩ましげな表情を浮かべ、潤んだ瞳を甲洋に向けてくる。
グンと欲を突き上げられたような気がして、いよいよ我慢の限界を感じた。こんなものを見せつけられて、正気でいられる男がいるならその顔を拝んでみたい。
胸から目が離せずに凝視する甲洋を、操が潤んだ瞳で物欲しそうに見つめている。
その肌に刺さるような視線に囚われながら、甲洋はある種の感慨を覚えずにはいられなかった。直球でぶつかってくるしか脳がなかった、あの操がだ。悩みを打ち明け、共有したいというていで、さりげなさを装いながらここまで甲洋を誘導した。
まんまと乗ったのは、甲洋にもあわよくばという下心があったからだ。むしろこうなるのはごく自然な流れで、そのいじらしい変化に胸を掻きむしられるような思いがする。
「ふぁっ、ァッ! こ、こうよ……!」
すっかり固くなっている乳頭を、躊躇なくそれぞれ指の腹で押しつぶした。操の身体がビクンと跳ねるのも構わずに、爪の先で軽く弾いたり、きゅっとつまんで絞るように刺激する。そのたびに操は甲高い声をあげて身をくねらせ、乳首からはじわじわと液体を滲ませた。
またひとつ生唾を飲み込んで、甲洋は操の腰に腕を回すと、泣いてばかりいる乳首の片方にキスをした。
「ひゃぁっ、ん! あっ、ふあぁ……っ!」
ちゅっと吸い上げて、舌で丹念に粒を転がす。滲みでる母乳の味が、口の中に広がった。柔らかくて、胸をくすぐるような甘ったるさ。これが操の味だと思うだけで、狂おしいほどの愛しさが溢れてとまらなくなる。
何度も何度も吸い上げては舌で転がし、右も左も空いている方は指先でコリコリと扱いたり、潰したりしながら休みなくのめり込んでいく。
「あんっ、あ、ァッ、甲洋、きもちい……っ、おっぱい、きもちぃの……!」
執拗に舐めしゃぶられて、淡桃だった乳首が赤く腫れたように色味を濃くする。
蕩けきった表情で、操が甲洋の頭を掻き抱いた。しばらくはあられもなく悶えていたが、やがてくしゃくしゃと乱していた髪を優しく梳かすように撫ではじめる。
「はぁ、ぁ、んっ、ふふ……っ、赤ちゃんみたい……甲洋、かわいい」
思いもよらない言葉に面食らい、しかめた顔で見上げると、潤んだ瞳を細めながら操がコトンと首をかしげた。
「ぼくのおちち、おいしい?」
髪を梳きながら問いかけるその仕草が、なんだか母親めいている。母親に愛される感覚なんて、体験したことがないから分からない。だから想像でしかないのだけれど。
それにしたって10も歳下の少年を捕まえて、一体なにを考えているのだろう。まるで赤子のように心がふやけそうになっている自分に戸惑う一方で、この薄い胸にすべてを委ねてしまいたいような、縋りついて泣いてしまいたいような、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「……ん。おいしい」
だからだろうか。つい素直な感想を漏らすと、操が嬉しそうにまた「かわいい」と言う。
この子もこの子だ。いい歳をした男を相手に、そんな感想を抱くなんて。まるで母性にでも目覚めたみたいに──。
(……これ以上は、考えないほうがよさそうだ)
ここを深く突き詰めてしまうと、お互いに不味い方向に進みかねない気がする。それはちょっと怖いような、だけど興味深いような。おかしな気分になりながらも、甲洋は可愛いのはお前だよとばかりにその唇を奪ってやった。
「んんっ……」
やっとのことで初めての夜を迎えているのに、まだキスをしていなかった。
二年前と同じで、今の甲洋には余裕がない。だけどもはや制約もない。あの夜はただ拙いキスに振り回されて、座枠を握りしめるだけだった。危うい場面はありつつも、よくぞ耐えられたものだと自分で自分を褒めてやりたい。
操を腕に閉じ込めて、ちゅ、ちゅ、と音を立てて吸い上げる。小さくて柔らかな唇が、はぁ、と短く息を吐く隙間を縫って舌を潜り込ませた。あのときのように一方的な性急さもなく、お互いがゆっくりと丁寧に、とろとろになって唾液が溢れるまで舌を絡めあった。
頭の中がぼうっとのぼせていくような感覚。多幸感が胸の奥底から湧き上がる。背中にかけてがじんわりと熱くなり、溶けてしまいそうなほど気持ちがいい。
「ぁ、ふ……なんか、あまい……?」
糸を引きながら離れた唇から、操が熱のこもった息を漏らした。
「来主の味だよ」
「えぇー? ぼくは甲洋の味だと思う」
「どっちだっていいさ」
ふっと笑って、すっかり前がはだけているシャツを脱がせてしまう。それから自分も上を適当に脱ぎ捨てると、もう一度ちゅっと音を立てて唇を重ねた。そのまま肩を軽く押し、操の身体を押し倒す。シーツの上に柔らかな髪がふわりと広がり、波を描いた。
心臓が高鳴る音が騒がしい。操の胸に右手を押し当てると、彼の鼓動も大きく跳ねていることが分かる。
「好きだよ、来主」
「ん、ぼくも」
亜麻色の前髪を掻き分けて、額にそっとキスを落とした。そのまま顔中にキスの雨を降らせながら、押し当てていた手を胸の片方に滑らせる。しっとりと濡れた胸はぺたんこで、薄い肉が申し訳程度に乗っているだけだ。
甲洋はそれを手のひら全体を使ってゆるゆると揉みしだいた。ときおり親指で乳首を引っかくと、操が上ずった可愛い声をあげる。
「ぁ、はぅっ、ん……っ」
反らされた喉には、ささやかな喉仏がぷくんと盛り上がっていた。そうと分からないくらいの小さな膨らみにキスを落とすと、軽く吸いつく。
鎖骨の窪みにも口づけて、そのまま唇を這わせていった。じわじわと蜜をこぼす乳首を舐めて、またちゅっと吸い上げる。
「くぅっ、ん! ぁ、ふ……っ」
操の両手が、甲洋の髪をきゅうと引っ張る。固くしこる乳首の弾力と、バネのようにしなる身体の反応から、彼が得ている快感が伝わってくるようだった。
じっくりと愛撫をほどこしながら、甲洋は操のウエストにそっと片手を忍ばせる。前をくつろげ、下着ごと徐々に脱がせていくと、そこには勃ちあがった性器があって、先走りで濡れていた。小さく震えている様を見て、甲洋の口から熱いため息が漏れる。
あの夜は、あと少しというところで触れさせてもらえなかった。辛抱したぶん、ぐっと込み上げてくるものがある。感動すら覚えながら、まだ十分に拙さを残す屹立をすっぽりと手に包み込んだ。
「アッ、ぁん……っ!」
上ずった悲鳴を心地よく聞き流しながら、ゆるゆると優しく扱いていく。止めどなく透明な蜜を溢れさせ、操は泣きそうにも見える表情で身体をビクビクと踊らせた。
「んっ、ぁ、こう、よ……手、おっき、おっきい、んッ、ぼくの大事なとこ、さわって、る……っ」
「うん……ずっと触りたかった。来主のここ」
「ァッ、ん! うれ、し……ぼくも、ずっとさわってほしかったの……っ」
あまりにも素直な言葉と反応が可愛すぎて、脳が茹だって煙を上げてしまいそうな気がした。甲洋はとっさに声を詰まらせながらも、忙しくなく上下する胸の片方に飽きもせず唇を寄せた。頭を左右に揺らすようにして吸いつきながら、触れている操の陰茎をさらに扱いていく。舌の先に感じる粒の弾力に、たまらず軽く歯を立てると、操がいっそう高い悲鳴をあげてシーツから浮き上がるほど背を反らした。
「ヒァッ、や! だめ、あっ! で、出ちゃ、いっ、ぁくッ、んうぅ……──ッ!」
その瞬間、プシュッと音を立てて操の両胸と性器から飛沫があがった。ぶるりと腰が揺れ、弾けた白濁が甲洋の手を濡らす。抱え込むように腕を腰にしっかりと回して、それでもなお甲洋は乳首を吸い続けた。
こくんと喉を鳴らして飲み下すあいだも、操は絶頂の名残から嫌々と首を振って小刻みな痙攣を繰り返す。もう片方の乳首からも、線香花火の残り滓のようにささやかな飛沫が漏れていた。いやらしく潮を吹いては伝い落ち、母乳がシーツを濡らしていく。
「やぁぁッ、くっ、うぅ、んッ! ぁ、だめ、も……吸っちゃ、やぁ、ぁ──……ッ」
操が掻き抱いている甲洋の頭皮に爪を立てる。焦げ茶の癖毛を引っ張り、乱し、引き剥がそうとしたかと思えば強く引き寄せ、引き伸ばされる余韻と快感に身悶えていた。
白濁で濡れる手も胸に這わせて、甲洋はややしばらくのあいだずっとそこに執着し続けた。
「こ、よ……ァ、ぁー、あ……っ、おっぱい、おっぱいもうやだぁ……」
すっかり乳首に取り憑かれていた甲洋は、弱りきった悲鳴に気づいてようやく顔をあげた。没頭しすぎて周りが見えなくなっていたことに、自分で驚く。
操はのぼせたように顔を真っ赤にして、すっかりクタクタになっている。やっとのことで胸への刺激から開放され、ホッと大きく息をついた。
「こよ、おっぱい好きすぎだよぉ」
「……ごめん、つい」
「ほんとに赤ちゃんになっちゃったのかと思ったよ」
さすがに申し開きのしようがない。
甲洋の頬に両手を這わせながら、操が困り顔で小首を傾げている。まるで小さな子供に言い聞かせるような表情にも見えてしまい、なんとも言えない気持ちになった。赤子扱いにはやっぱり戸惑うが、どこかで悪い気がしていない自分がいることに、尻のあたりがむず痒くなってしまう。
「……赤ちゃんはこんなことしないだろ?」
「わっ!?」
操の腕を引いて起き上がらせると、その身体をうつ伏せにひっくり返した。四つん這いの体勢をとらせ、つるりとした丸い尻に手を這わせる。やわやわと軽く揉みしだくと、その手つきのいやらしさに操がケラケラと笑い声をあげた。
「あふっ、あははっ! それやだぁ! 甲洋のエッチ!」
「そうだよ。知らなかった?」
「ふふ、ん~? うん、知ってた」
「だろ?」
つられて笑いながら、ベッド脇のチェストに腕を伸ばすと引き出しからローションとゴムの箱を取り出した。このときのためにずっと以前から準備しておいたものだ。本当なら操の誕生日の夜に活躍する予定だったが、無駄にならずに済んでよかった。
シーツの上にポンと置かれたそれらを見て、操が「わぁ」と目を輝かせている。
「凄いや。準備万端だぁ」
「そりゃあね」
二年も待ったあげく、今さら同じ失敗を繰り返すなんて冗談じゃない。
甲洋はローションの蓋を開けると少しずつ中身を出して、体温と馴染ませながら念入りに指を潤わしていく。猫のようなポーズで首を捻っている操が、緊張したように喉を鳴らした。
「触るよ」
「う、うん。いいよ」
白桃のような尻の肉を割り開き、濡れた指をそっと這わせる。窄まった表面をマッサージするようにくるくると撫でて探ると、操が肩をすくめて「んぅ」と小さな呻きを漏らした。
もどかしさにヒクつく孔は、ほんの少し圧をかけただけでたやすく人差し指を飲み込んでいく。より深く求めるように、内壁が熱くうごめいていた。
「はぁ、ん! ぁ、ァ……っ、ゆび、はいった……ぁっ」
「すごいよ来主。こんなにあっさり……」
自身で拡張していたとは聞いたが、ここまですんなりいくとは思わなかった。すると操が背後を振り向きながら、腰を左右にモジモジとよじって見せる。
「だってぇ、練習したもん。いっぱい」
「ッ、!」
「ねぇこうよぉ、ぼくの身体、んッ……ちゃんと大人に、なったでしょ? これなら、ァっ、ちゃんとエッチ、できるでしょお?」
指を咥えこんだまま尻を振り、胸からはポタポタと白い蜜を滴らせ、切実に向けられる瞳はその揺らめきと光の反射で、いっそハートマークが浮かんでいるかのようにも見えてしまう。ガツンと頭部を引っ叩かれたような衝撃に、甲洋はカァっと顔を赤くした。
「……そういうの、一体どこで覚えてくるんですか」
「なんで敬語になってんのぉ?」
どこまでやらしけりゃ気が済むんだと半ば呆然としている甲洋に、操は訳がわからないといった表情で首を傾げている。
そのあいだも、熱い肉壁は甲洋の指をキュンキュンと食いしめて離さない。思わず喉の奥で唸りそうになりながら、ナカを指の腹で軽く擦り上げてみる。
「アッ、くぅっ……! は、あぅん……っ」
甘ったるい声と一緒に、きゅっとまたナカが締まった。その卑猥さに獣じみた欲を募らせながら、慎重に抜き差しを繰り返す指を二本に増やした。ローションもさらに継ぎ足して、よりいっそうナカを蕩かしていく。
「んぁっ、ァッ、や……! ふと、いッ、甲洋の指、ぼくのより太くて、長くてぇ……!」
「平気? 痛くない?」
「んんッ、ぅ……っ、うん……ッ、たく、ない……あぁッ、ん……きもち、ぃ……っ」
操は上半身をすっかりシーツに沈ませて、尻だけを高く掲げた姿勢になっていた。濡れた孔から泡立ちながら伝い落ちた雫が、内腿を伝って落ちていく。ぐぷ、ぐぷ、と水音を立てながら、実に美味そうに甲洋の指をしゃぶっていた。
すっかり仕上がっている状態を見て、できることならここまで育てるのは自分でありたかったという口惜しさが込み上げる。けれど同時に押し寄せるのは、この熟した身体は自分に食べられるためだけにあるのだという、喜びと実感だった。
「俺のために、こんなになるまで……」
「だって、だってぇ……っ! こよと、上手にしたかったんだもん……ちゃんと一緒に、きもちく、なりたかったんだもん……っ」
「……どんなふうにしてた? 指だけ? 他にもなにか使ったの?」
シーツに額を擦りつけ、操が首を左右に振った。
「ゆ、ゆびッ、指だけ……! お尻、いっぱい……指で、くちゅくちゅって……おちんちん、触りながら、して、たッ」
その言葉にホッとした。操のここは、まだ何ものにも犯されてはいないということだ。たとえそれが無機物であったとしても嫉妬の対象にしてしまう自分に呆れながらも、余計なものに先を越されていなかったことに安堵する。
「ならよかった」
「アッ、あっ、ひぅぅ……っ!」
頃合いを見て、三本に増やした指をナカに沈ませる。孔は完全にシワを無くすまで広がりきって、濃桃の花びらのように色づいていた。
「あぅ、あうぅッ、ぁ゛……ッ、指、いっぱいで……くる、し……っ」
ガクガクと身を震わせて、操がシーツを掻きむしる。その声は少しつらそうだったが、中心で震える性器がツンと勃ちあがっていた。抜き差しするたびに先端からダラダラとよだれをこぼし、開放を求めて張りつめている。
尻たぶを割り開いていた方の手を前へと滑らせ、軽く握り込んでやると、桃色に発情する身体がギクリと強ばるのが分かった。
「あぁイッ、く! イキそ、やあぁダメ……ッ、指、もう抜いてぇ……っ!」
「いいよ、イッても」
「やだぁッ! 甲洋の、甲洋のでイクのっ! 甲洋のおちんちん、早く挿れたいよぉ……!」
悲鳴じみた懇願に、首の後ろが燃えるように熱くなる。甲洋は迷う間もなく指をナカから引き抜くと、軋むベッドに両膝を立て、手早く前をくつろげた。下着ごとズリ下げた途端に勢いよく飛び出した肉棒は、限界までそそり勃って脈打っている。
首を捻ってそれを見ていた操が、赤らんだ頬をより赤く染めて深い息を漏らした。
「こ、よ」
「少し、待って」
甲洋は手早くゴムの箱を開け、取り出した中身の封を切って性器にかぶせた。いざというとき手間取らないよう、事前に練習していたことはここだけの秘密だ。その甲斐あって、ものの数秒とかからなかった。
「そんなの別にしなくていいのにぃ!」
急いている操はそれを見て不満そうだ。甲洋はローションの中身を手の平に出し、なじませるように軽く自身を扱きながら苦笑した。急いているのは同じだし、そりゃあ本音を言えばナマでしたいのは山々なのだが。
「エチケットだから」
「えー、でも漫画ではさぁ~」
「漫画を教科書にするのはやめなって……」
というか、まだ読んでいたのか。BL図書を。この分だとセルフ拡張も、そこから影響を受けた可能性が極めて高い。あながち役に立たないとも言い切れない気がして、ほんの少しだけ感心してしまう。
操はまだ納得がいかない様子で口をごにょごにょとさせていたが、甲洋の両手が尻に触れると「ぁっ」と焦ったような声を漏らした。
「待って、このままするの?」
「そのつもりだけど?」
「それじゃ甲洋の顔が見えないからやだ」
操は四つん這いの姿勢から起き上がり、すっかりこちらに身体を向けると甲洋の肩を押して座らせた。そしてそのまま膝立ちでまたがってくる。
ちょうど二年前にもこれと似た光景を見たっけなと、満足そうな顔を見上げて懐かしさが込み上げた。甲洋の肩に手をついたまま、元気よくそそり勃つ男根に視線を落とし、操は嬉しそうにニンマリ笑う。
「甲洋の大人ちんちん、久しぶりに見た」
「そりゃあ、二年ぶりだからね」
「えへへー。今日こそぼくが食べちゃうぞ!」
待ちきれないといった様子で、細い両腕が首に巻きついた。ちゅうっと音を立てて吸いついてくる唇を受け止めて、操の腰に片手を添えると、反対の手を自身に添える。狙いを定め、張り詰めた先端を窄まりにあてがえば、「あっ」と短く喘ぎを漏らす操の乳首から、母乳がジワリと浮き出した。
「来主、そのままゆっくり……できる?」
「ん、できる」
操がこくんと頷いた。けれどその意気込みとは裏腹に、あのときの痛みを覚えている身体が無意識にすくんでしまうようだった。もちろん緊張もあるのだろう。
安心させるように背中を幾度かさすってやると、彼は甲洋にしがみついて「平気だもん」と強がった。それから軽く深呼吸をして、少しずつ腰を落としていく。
「んぅ、ぁ、は……っ」
「ッ、ぅ……ッ」
「ぁ、いけ、そ……ぁっ、はいっちゃ、う、甲洋の……っ、ぁ、あッ……!」
次の瞬間ぬかるんだ孔をこじ開けて、ズン、と太いカリ部分が潜り込んだ。下から破られた衝撃に、操が喉を反らして悲鳴をあげる。
「ぃッ──! ヒッ、あぅぅ……っ!」
「ッ、く……ッ」
熱い媚肛が、ヒクつきながら限界まで広がっているのが分かる。先端に感じる締めつけに腰をわななかせながら、達しそうになるのを歯を食いしばってどうに耐えた。
「う……ッ、く、ぁっ……おっき、ぃ……っ、ぁ、くぅぅ……っ」
指とはまったく異なる質量に、操は苦しそうに切れ切れな喘ぎを漏らす。それでもなお腰を落としにかかり、自重によってジワリジワリと肉根が体内へと飲み込まれていった。
けれどあと少しで根本に達するというところで、操の動きがピタリと止まる。見上げると、彼は甲洋よりもよほど汗だくになっていた。怒らせた肩を硬直させ、カタカタと内腿を震わせている。
「平気、か?」
「ぁ、う……へい、き……まだ、いける……」
明らかに無理をしているのが伝わってきて、甲洋は汗が伝う背をあやすようにポンポンと叩いてやった。
「本当は?」
「ぅ……」
操が数秒のあいだ押し黙る。けれどやがて観念したように、おずおずと口を開いた。
「……奥、ちょっと、怖い」
蚊の鳴くような声。すっかり涙目になって悔しそうに下唇を噛みしめる表情に、吐息だけでふっと笑って目を細めた。以前の操だったら、このまま無茶をして強行していたかもしれないなと、甲洋は思う。
今の操は無理をすればいいというわけではないことを、ちゃんと理解していた。二年たっても体格差はほとんど縮まらなかったけれど、それだけでも待った意味があったのだと、しみじみ感じる。
「十分だよ来主。今日はここまででいいから」
「それって、今日はもう終わりってこと……?」
「まさか」
ベッドのスプリングの力を借りて、ナカを少しだけ擦り上げてみる。操が「ひゃぅっ」と高く鳴きながら、ブルリと身を震わせた。
「こ、よぉ……っ」
「奥は、これからゆっくり。ね?」
むしろ一緒に育てていける部分が、まだ残されていることが嬉しかった。多分きっと、操にはそういう場所がまだまだ隠されているはずだ。怖い場所も痛い場所も、気持ちがいいと感じる場所も。これから少しずつ見つけて、攻略していけることに期待が膨らむ。
甲洋は操の腰骨を両手でしっかり掴んで固定すると、下から幾度か揺さぶった。彼が怖がるラインは決して超えないように、けれど確実に律動を進めていく。
「やっ、あぅ、ぁっ、待っ……、あ、あ、はぁん……っ!」
結合部から漏れる泡立つ音と、操の嬌声が混じり合う。突くたびに乳首からぷくぷくと大粒の母乳が溢れだし、振動に揺れる屹立からも先走りの液が漏れている。
「くぅっ、あ……っ、きも、ち……ぁっ、おしり、そんなにズンズン、されたらぁ……っ!」
「ッ、は……さっきより、いっぱい出てるよ」
「はっ、はぁん……っ、ぁっ! だってッ、だってきもちくて、ぁ、とまんない……ッ、おちち出ちゃうの、とまんないよぉ……っ」
恍惚とした表情で、操がグンと背を反らした。突き出された胸の片方にむしゃぶりつくと、少し強く吸い上げる。「いやぁッ!」と泣き叫ぶくせに、甲洋の頭を抱きしめる腕はもっとしてとねだっているようにしか思えない。
口の中いっぱいに広がる母乳の味が、煮詰めた砂糖のように脳を蕩かしていく。
「こうよ、甲洋……ッ、アッ、ぁ、ぼく、セックス、してる……っ!」
「ん……できてるよ、ちゃんと」
「うれ、し……ッ、ぁ、アッ、嬉しい……甲洋、好き、大好き……っ!」
「ッ、俺も……俺も好きだよ、来主……っ」
突けば突くほど濡れた媚肉が絡みつき、熱くうねっては射精を促す。待った分だけもっと味わっていたいのに、終わりは確実に近づいていた。ナカでまた一回り大きくなった男根に、操が声にならない悲鳴をあげながらまた母乳を散らす。
弓なりにカーブした背が後方へ崩れ落ちていくのに合わせて、今度は甲洋が両膝をシーツに立てた。押し倒す形になると、両足を抱えあげて最後の追い込みをかけていく。
「あうぅ……っ、やぁ、きちゃう……っ! きちゃっ、あっ、あっあぁ──……ッ!!」
プシュウ、と大きな飛沫をあげて、操の母乳が吹き出した。同時に、ほったらかしだった屹立からも熱い白濁を飛び散らせる。チロチロと出続ける母乳を舐め取りながら、甲洋も身を震わせた。頭が白く染まるような快感に低く唸って、ゴム越しに操の体内で射精する。
脆弱な呼吸に喉を震わせる操は、半ば意識が飛んでいた。彼の身体が断続的にピクンッと跳ねると、母乳の残滓が思いだしたように小さく吹き出す。その光景にまた男茎が反応しそうになるのを感じながらも、ナカからズルリと引き抜いた。
「ふぁ……こ、よ……」
朦朧としながら焦点をさまよわせていた操が、弱々しく両腕を伸ばしてくるのに誘われて、折り重なるようにその身を預けた。身体もシーツもぐちゃぐちゃだ。けれど今は痺れるような余韻から指一本動かせい。
言葉もなくふたり一緒に放心しながら、胸を満たすのは余りあるほどの幸福な充足感だった。
*
操はそのまま眠ってしまった。
それぞれの身体を軽く清めて、起こさないように少しずつ移動させながらシーツを取り替えるのには苦労したが、操はよほど深く眠り込んでいるらしく、まったく起きる気配がなかった。
あらかた終えるとベッド脇に腰掛けて、操の寝顔を見下ろした。どこか子供っぽさを感じさせる寝息にふっと微笑み、軽く前髪を撫でてやる。
「ありがとう、来主」
ごく自然に出てきた感謝の言葉に、操が「ん」と小さな呻きをあげた。目を覚ましたのかと思ったが、彼はまだ眠ったままだ。
可愛い寝顔にまたひとつ微笑むと、甲洋はふとベッド脇のチェストに目を向ける。小さな間接照明が置かれたその横には、赤いベルベットのリングケースが置かれていた。
最初からずっとここに置いてあったのだが、操はまったく気がつかなかったようだ。
ケースに手を伸ばし、蓋を開ける。そこにはなんの飾り気もないシルバーリングが収まっていた。本当なら操の誕生日に渡すつもりでいたものだ。操の態度が急変したあとは、本気でもうダメなのかもしれないと打ちひしがれていたけれど。
ゴムやローション以上に、甲洋にとってなによりも無用にならずに済んだのは、この指輪の存在だった。この子が18歳になったとき、プロポーズをしようと思っていたから。
結婚してください、なんて。そんなことを言ったら、少し重たいかもしれないけれど。
「んー……」
そのとき、シーツの中で操が呻いた。モゾモゾと身じろぎながら、仰向けの姿勢からこちらに向けて寝返りを打つ。今度こそ起きたかと思ったけれど、やっぱりまだ夢の中にいるらしい。
「なにこれおいしぃ~……甲洋も食べてみてぇ……」
「なに食ってんのさ」
ムニャムニャと口を動かして、寝言を言いながら操が笑う。思わず声を出して笑いそうになるのをどうにか堪え、甲洋は再びケースの中身に視線を落とした。照明を弾いて輝くリングに目を細め、彼が目を覚ましたときのことを想像する。
果たして喜んでくれるだろうか。なにをするにも邪魔にならないよう、首から下げられるように別途でチェーンも用意してある。いつだって身につけていられるように。
「愛してるよ、操」
そっとケースの蓋を閉じ、操の寝顔に目を向ける。告白と一緒に、普段は照れくさくて呼べない下の名前を呼びながら。この後に続くのは、「だから俺と結婚してください」だ。
この子が目を覚ましたら、思い切り真面目な顔をして言ってやろう。きっと笑いだすに違いない。「また敬語になってる!」なんて、どうでもいいところにツッコミを入れながら。
ひとしきりケラケラと笑ったあと、赤い顔ではにかんで、「いいよ」と言ってくれたらいい。
そう切に願いながら、身を屈めるとふにふにの頬にキスをした。やっぱり甘い。操はどこもかしこも、砂糖みたいに──。
←戻る ・ Wavebox👏
操の様子がおかしくなったのは、彼が18歳の誕生日を迎える半月ほど前からだ。無邪気にくっついてくることがなくなり、二人きりでいるときの口数も極端に減った。
手を繋いだり、キスをしそうな空気を察すると、わざとらしく口笛をふいて顔を逸し、一定の距離を保とうとする。どうかしたのかと訊ねても、目を泳がせながら「別にぃ」と言って誤魔化すばかりだった。
そのあからさまな態度を、気にするなというほうが難しい。機嫌を損ねるようなことをした覚えもないし、操の明け透けな性格を考えれば、不満があるならとっくに漏らしているはずだ。
けれど避けられていることだけは明白で、原因はなんだろうかと考えたとき、思い当たるものが一つだけあった。それは二年前に交わした、あの約束だ。
まだ16歳だった操は、なんの進展もない自分たちの関係に焦りを覚えて、無理やり身体を繋げようとした。しかしろくな知識も準備もなしに上手くいくはずがなく、行きあたりばったりの行為は失敗に終わった。
そのとき甲洋は落ち込む操と約束を交わしたのだ。二年後、操が18歳になったときには、キスより先のこともしようと。そしていよいよその日が目前まで近づいている。
彼の急な態度の変化は、そのこととなにか関係しているのではないか。むしろ他に思い当たるものがなかった。
例えばの話──考えたくはないけれど、なんらかの理由で操の気持ちが甲洋から離れ、約束をなかったことにしたいと考えているのなら、あの避けるような態度にも納得がいく。他に好きな相手ができたとか、これといった理由もなく冷めてしまったとか。それらの可能性は、決してないとは言い切れない。
本人に確かめもしないうちから、甲洋はマイナスの思考に囚われていった。ただの思い過ごしであってほしいと、そう願う気持ちだけをささやかな希望にして。
そうやってズルズルと日数が経過して、操の誕生日当日がやってきた。
その日は午後から店を貸し切りにして、バースデーパーティーが開かれた。綺麗に飾りつけられた店内で、集まった人たちに囲まれながら豪華な料理とケーキを前にした操は、顔を赤くしながら嬉しそうにはしゃいでいた。
けれど甲洋の内心は気が気じゃない。本当ならもっと浮かれていてもいいはずなのに。
操の子供っぽさは相変わらずで、背は幾らか伸びたが、長身の甲洋との差は縮まらなかった。それでも甲洋はこのときを辛抱強く待っていたし、ほんの少し前までは操も待ち遠しそうに「まだかなぁ」なんて言いながら指折り数えていた。
だからもし甲洋の不安がただの杞憂であれば、今夜は自然とそういう流れになるのではないかと、そう思っていた。この際セックスするとかしないとかは後回しだ。ただ操の気持ちが知りたかった。
そして日が沈む頃にパーティーがお開きになり、みなが家に帰っていくのと一緒に、操まで帰宅してしまったことに甲洋は愕然とした。
彼は「食べすぎて眠い」などと言いながら、こちらには目もくれずそそくさと帰ってしまったのである。
決まりだ。そこまでされたら、嫌でも思い知る。
操の気持ちは、もうとっくに自分から離れてしまっているのだと。
*
閉店後の店内はやけに静かで、操が床にほうきを走らせる音だけが響いている。
レジ締めの作業を終えた甲洋は、無人のホールをせっせと掃き掃除しているその背を見つめ、鼻から小さな息を漏らした。
店のシェフである真壁一騎は、所用で一足先に上がってしまった。ふたりっきりの店内には一切の会話がなく、寒々しい空気だけが流れている。
操の誕生日から三日。彼は相変わらず甲洋と距離をとり続けていた。むしろ今まで以上に態度がよそよそしくなっている。一騎とは普段通り接するが、甲洋とは意地でも目を合わせようとしない。そのわざとらしさは、まるで悪戯がバレるのを恐れる子供のように甲洋の目に映った。
「……来主」
甲洋は少し迷ったが、操の背中に声をかけた。彼が自分から口を開くまで待つことも考えたが、そろそろこの状態も限界だ。
「な、なに?」
操は肩をギクリとさせて、どこかバツが悪そうにおずおずと振り返る。
「お前、なにか俺に言うことがあるんじゃないの?」
「……別にないよ?」
「理由もなく避けられる意味が分からない。なにかあるなら」
「だからなにもないってば!」
操は苛立った声をあげ、また甲洋に背を向けた。
「本当になんでもない……ぼくのことはほっといて」
「来主」
「今日から一人で帰るから。もう送ってくれなくていいよ」
そう言って、操はほうきを片付けにバックヤードへ消えていこうとした。それを「待って」と引き止めると、また肩をギクリとさせて歩みを止める。
「話そう、来主」
引き下がらない甲洋に、操は渋々といった様子でほうきを壁に立て掛けた。
甲洋がカウンターの一席に腰掛けると、隣にちょこんと腰を落ち着ける。彼はうつむき、やっぱりこちらを見ようとしない。その沈んだ横顔に、否が応でも終わりを突きつけられた気がする。
「顔も見たくないなら、そのままでいいから。来主の気持ちを、聞かせてほしい」
ズルズルとここまで引き伸ばしてしまったが、ケジメくらいはつけておくべきだと思う。お互いにとっても、その方がいいはずだ。
こうなったからといって、操を責めるつもりはない。自分にはこの子を繋ぎ止めておくだけのものが足りなかった。きっとそれだけの話なのだと、必死で諦めようとしている。けれどどこかではひどく責め立て、問いつめてしまいたい自分もいた。だからそうなる前に、最後くらいはちゃんとトドメを刺してほしい。
「冷めたなら、そう言って」
傷つく覚悟をした上で切り出したはずだった。けれど甲洋の言葉を受けて、操は「は?」の形にポカンと口を開きながらこちらを見た。
「冷めたって、なにが?」
「なにがって……来主は俺との関係を終わりにしたいんだろ?」
「終わり……? 終わりってなに?」
「?」
「え? 待って? もしかしてこれ別れ話!?」
「……うん?」
「嘘!? 甲洋、ぼくたち終わりなの!?」
「えぇ……?」
予想外の風向きだ。むしろこちらがそれを聞きたいところだったのだが……。
「やだやだやだぁ! 終わりなんてやだ! そんなのやだよぉ!!」
青褪めていた操はいよいよ泣きだし、握りしめた両手でグシグシと顔を拭っている。これは一体どういうことだろう。全く意味が分からない。
「ひどいよ! なんで急にそんなこと言うのぉ!?」
「急にって……いや、だって来主が先に冷めたんじゃないの?」
「そんなことないもぉん!!」
「はぁ? じゃあ、なんでずっと避けて……?」
「そ、それは……」
真っ赤になっている操の鼻からピュッと鼻水が垂れてきたので、甲洋は困惑しながらも尻ポケットからとっさに取りだしたハンカチでサッと拭き取ってやった。
「その……あの……」
操はよほど言いにくいことがあるのか、うつむいて唇をまごつかせている。けれど根気よく待ち続けていると、やがておずおずと顔を上げてこう言った。
「だってぼく、病気になっちゃったんだもん!!」
わっ、と声をあげ、操がカウンターに突っ伏して大泣きしはじめた。
*
「とりあえず落ち着こう。お互い」
甲洋は厨房でコーヒーとココアを淹れると、カウンター席に戻った。それぞれカップを手にして口をつけると、同時に「ふぅ」と息をつく。
「それで……病気っていうのは一体……?」
見たところ、操が身体に変調をきたしているようにはまったく見えない。甲洋と距離を置いている以外では、これといった変化も特には見られなかったはずだが。
けれどそれはあくまでも表向きの話だ。操は言いだせないほどのなにかを抱え込んでいる。それほどまでに重たい病に侵されているということなのだろうか。
「ずっと誰にも言えなかったんだけど……」
たった今コーヒーで潤したはずの喉がカラカラに乾くのを感じる。甲洋は顔を強張らせ、緊張しながら操の声に耳を傾けた。
「だって、自分がこんなことになるなんて思ってなかったから、すごく怖くて……」
なにかが込み上げてきたかのように、操はそこで言葉を切ると吐く息を震わせる。甲洋はとっさにテーブルの上にあった小さな手を握りしめた。悲しそうに伏せられた横顔に歯噛みする。この子がこんな顔をするなんて。ずっと一人で思い悩んでいたのだろう。自分を避けていたのは、心配をかけたくなかったからなのかもしれない。
そう思うと、甲洋の胸に引き裂かれたような痛みが走った。
「来主。たとえどんなことでも受け止めるよ。俺がずっとそばにいる」
「甲洋……」
「話してほしい。少しずつで構わないから」
甲洋の瞳を見つめ、操は泣きそうにくしゃりと表情を歪めた。唇をきゅっと噛み締めて、こくりと頷く。そしてゆっくりと口を開いた。
「ぼくね、おっぱいからお乳が出るようになっちゃったんだ」
「……ん?」
「甲洋と上手にエッチできるように、自分でお尻を拡張してたんだけど……そしたら急にお乳がぴゅーって」
「待って」
「え?」
「ごめん、ちょっと待って。お前はなんの話をしているの?」
「なにって、病気の経緯を」
「いやいやいやいや……」
待て待て待て。深刻な空気に飲まれかけていたが、彼はなにを言っているのだろうか。お乳とか拡張とか、とんでもワードが聞こえたような気がするのだが。
「ちょ、どっ、まっ……来主、落ち着いて。まずは落ちゅち……落ち着くんだ」
「落ち着いたほうがいいのは甲洋の方だと思うよ。噛んでるし」
冷静に突っ込まれてしまったが、さっきからずっと気持ちが追いつかない状態に陥っている。決死の覚悟で別れ話を切り出したと思えば、次の瞬間には妻のガン宣告を聞く夫のような気持ちになり、最終的な着地点が母乳とセルフ拡張だった。自分でも過去にこれほど取り乱したことがあっただろうかと、だいぶ戸惑っているところである。
しかし話はまだ途中だ。甲洋は今度こそ話の腰を折らないよう、とりあえず最後まで操の話を聞くことにした。
「前は失敗しちゃったでしょ? だから今度はちゃんと上手にできるように、自分でお尻の穴を触って特訓してたの。そしたらね、最近ちょっとずつ気持ちよくなってきて……それでね、その頃から、なぜかおっぱいからお乳が出てくるようになったの……」
「ッ……!?」
操は膝をモジモジとすり合わせ、顔を赤くしながら涙目になっている。話を聞いているだけで、甲洋は全身の血液が沸騰しそうだった。まさか操が、夜な夜なそんな真似をしていたなんて。ついつい前かがみになってしまいそうだった。
「もうすぐ誕生日だなって思ったら、考えるだけで出てくるようになっちゃって……甲洋とキスすると、もっと出ちゃうから……」
「だから避けていた……?」
こくん、と操がうなずいた。
「だって、こんなの絶対ヘンだもん……ぼく男なのに、赤ちゃんができたわけでもないのに、お乳が出るなんて……知られたら、嫌われると思って……」
だから操はどうにかしてこの病気が治るまでは、甲洋に近づかないようにしようと決めた。けれど理由も分からず、治し方も分からない。誰にも相談できないまま、ずっと一人で抱え込んでいたのだ。
確かに言いにくいことだろう。18歳になったとはいえ、操はまだまだ多感な年頃だ。ましてや母乳が出るなんて、深く思いつめてしまうのも無理はない。
「お母さんにも言えないし、病院も怖くて行けないし……ぼく、ずっとこのままなのかなぁ……」
ポロポロと涙を流す操を見て、申し訳ないが気が抜けた。内容は衝撃的だったが、考えていたような最悪な展開にはいたらなかった。ここ最近はずっと、これからどうやって生きていこうかと途方に暮れながら過ごしていたほどだ。それほどまでに甲洋は操のことが大切で、愛しくて、離れられない存在だった。
「嫌いになんかならないよ」
安堵の息を漏らしながら、甲洋は操の肩に手を置いた。
「……本当?」
「本当。来主、それは体質の問題だ。男にだって乳腺はある。お乳が出たからって、なにも変な話じゃないよ」
「そうなの? じゃあこれ、病気じゃないの?」
「不安なら一緒に病院に行こう。俺がついて行くから。それなら少しは安心だろ?」
「甲洋……!」
操の泣き顔が、花がほころぶような笑顔に変わった。抱きついてくるのを受け止めて、しっかりと腕に閉じ込める。すっぽりと収まってしまう体温に、安堵と喜び込み上げた。
もう半月以上もこうして触れることができなかったのだ。手を伸ばせば当たり前のようにあるぬくもりが、こんなにも大切なものであることを改めて思い知らされる。
「あのね、甲洋」
存分に抱きしめて堪能していると、操の身体がもぞりと動く。彼は顔をあげ、恥ずかしそうに上目遣いで甲洋を見た。
「ぼくのおっぱい、見ても本当に変だって思わない?」
「思わないよ」
「じゃあ……見て」
「!」
「病院に行くよりも、甲洋に見てほしいの……」
甲洋は衝撃に打たれたが、なにもおかしな話ではない。操はまだ少しだけ不安そうだ。自分の身体に起こった変化を、信頼できる相手と共有することで、より深く安心感を得たいのかもしれない。その気持ちを無下にするわけにはいかなかった。
「わかった。じゃあ、部屋に行こう」
頷いた操の手を引いて、甲洋は胸を高鳴らせながら二階へ続く階段へと足を向けた。
*
部屋に入ると、互いの方に軽く身体を向け合う形でベッドの縁に腰かけた。
甲洋の目の前で、操がシャツのボタンを上からひとつひとつ外していく。その手元をじっと見つめながら、腫れ物に触るようにソワソワとして落ち着かない。鼓動が忙しなく胸の内側を叩き続けて、今にも突き破ってきそうだった。
シャツのボタンを全て外し終えると、操がカーテンを開けるように両手で前をはだけさせた。そこで目を引くのは、乳首の上にそれぞれ貼りつけられた絆創膏だ。ふいに出てしまったときに服を汚さないための対策なのだろうが、これはこれで非常に煽情的な光景である。
よくよく見ると、絆創膏には中央の部分にうっすらと滲むようなシミが確認できた。
「さっきぎゅってされたとき、ちょっと出ちゃった」
クスンと鼻を鳴らしながら言った操に、甲洋はぐっと生唾を飲み下す。
「……直に見るよ。いい?」
「ん」
熱っぽく息を漏らして操が頷くのを合図に、震えそうになる指先で端っこの部分に軽く爪を引っ掛ける。すっかり湿っている絆創膏はほとんど粘着力を失っており、それだけでペロンと剥がれ落ちてしまった。もう片方も同じようにして剥がしてしまうと、淡桃の乳首がツンと頭を尖らせていた。
その先端から、ぷくんと小さな白い粒が滲みでる。それは限界まで膨らんでから、涙のように皮膚を伝い落ちていった。
「や、ん……ど、しよ……見られてるだけで、おちちでちゃうよぉ」
恥ずかしそうに、操が尻をモジモジとさせた。それらの光景は想像を絶する破壊力で、一気に天辺まで達した興奮に思考が白く染まりかける。が、ここで目を開けたまま気絶するわけにもいかず、どうにか気を取り直した甲洋は予想を確信に変えた。下で話を聞いていたときから、そうじゃないかとは思っていたが──。
「来主はいやらしい気持ちになると、ここからミルクが出るんじゃない?」
再び小さな雫を盛り上がらせている乳首の片方に指をやり、中心には触れずに乳輪だけをクルリとなぞってみた。白い涙がポロリとこぼれて、甲洋の指を伝っていく。
「あっ、んッ……! ぁ……う、ん……」
操は唇をきゅっと噛み締めながら、素直にこくんと頷いた。
「やらしいこと、考えないように我慢しなきゃって思ったの……でも、ダメって思うともっと考えちゃって、甲洋とするときのこと、いっぱい、考えちゃって……」
「……だから一人で触ってた? お尻の穴も、気持ちよくなってくるくらい?」
「あ、ぁ、や……出ちゃうからぁ……エッチなこと、言わないでぇ……!」
言葉で少し煽るだけで、操は乳首からさらに涙を滲ませた。悩ましげな表情を浮かべ、潤んだ瞳を甲洋に向けてくる。
グンと欲を突き上げられたような気がして、いよいよ我慢の限界を感じた。こんなものを見せつけられて、正気でいられる男がいるならその顔を拝んでみたい。
胸から目が離せずに凝視する甲洋を、操が潤んだ瞳で物欲しそうに見つめている。
その肌に刺さるような視線に囚われながら、甲洋はある種の感慨を覚えずにはいられなかった。直球でぶつかってくるしか脳がなかった、あの操がだ。悩みを打ち明け、共有したいというていで、さりげなさを装いながらここまで甲洋を誘導した。
まんまと乗ったのは、甲洋にもあわよくばという下心があったからだ。むしろこうなるのはごく自然な流れで、そのいじらしい変化に胸を掻きむしられるような思いがする。
「ふぁっ、ァッ! こ、こうよ……!」
すっかり固くなっている乳頭を、躊躇なくそれぞれ指の腹で押しつぶした。操の身体がビクンと跳ねるのも構わずに、爪の先で軽く弾いたり、きゅっとつまんで絞るように刺激する。そのたびに操は甲高い声をあげて身をくねらせ、乳首からはじわじわと液体を滲ませた。
またひとつ生唾を飲み込んで、甲洋は操の腰に腕を回すと、泣いてばかりいる乳首の片方にキスをした。
「ひゃぁっ、ん! あっ、ふあぁ……っ!」
ちゅっと吸い上げて、舌で丹念に粒を転がす。滲みでる母乳の味が、口の中に広がった。柔らかくて、胸をくすぐるような甘ったるさ。これが操の味だと思うだけで、狂おしいほどの愛しさが溢れてとまらなくなる。
何度も何度も吸い上げては舌で転がし、右も左も空いている方は指先でコリコリと扱いたり、潰したりしながら休みなくのめり込んでいく。
「あんっ、あ、ァッ、甲洋、きもちい……っ、おっぱい、きもちぃの……!」
執拗に舐めしゃぶられて、淡桃だった乳首が赤く腫れたように色味を濃くする。
蕩けきった表情で、操が甲洋の頭を掻き抱いた。しばらくはあられもなく悶えていたが、やがてくしゃくしゃと乱していた髪を優しく梳かすように撫ではじめる。
「はぁ、ぁ、んっ、ふふ……っ、赤ちゃんみたい……甲洋、かわいい」
思いもよらない言葉に面食らい、しかめた顔で見上げると、潤んだ瞳を細めながら操がコトンと首をかしげた。
「ぼくのおちち、おいしい?」
髪を梳きながら問いかけるその仕草が、なんだか母親めいている。母親に愛される感覚なんて、体験したことがないから分からない。だから想像でしかないのだけれど。
それにしたって10も歳下の少年を捕まえて、一体なにを考えているのだろう。まるで赤子のように心がふやけそうになっている自分に戸惑う一方で、この薄い胸にすべてを委ねてしまいたいような、縋りついて泣いてしまいたいような、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「……ん。おいしい」
だからだろうか。つい素直な感想を漏らすと、操が嬉しそうにまた「かわいい」と言う。
この子もこの子だ。いい歳をした男を相手に、そんな感想を抱くなんて。まるで母性にでも目覚めたみたいに──。
(……これ以上は、考えないほうがよさそうだ)
ここを深く突き詰めてしまうと、お互いに不味い方向に進みかねない気がする。それはちょっと怖いような、だけど興味深いような。おかしな気分になりながらも、甲洋は可愛いのはお前だよとばかりにその唇を奪ってやった。
「んんっ……」
やっとのことで初めての夜を迎えているのに、まだキスをしていなかった。
二年前と同じで、今の甲洋には余裕がない。だけどもはや制約もない。あの夜はただ拙いキスに振り回されて、座枠を握りしめるだけだった。危うい場面はありつつも、よくぞ耐えられたものだと自分で自分を褒めてやりたい。
操を腕に閉じ込めて、ちゅ、ちゅ、と音を立てて吸い上げる。小さくて柔らかな唇が、はぁ、と短く息を吐く隙間を縫って舌を潜り込ませた。あのときのように一方的な性急さもなく、お互いがゆっくりと丁寧に、とろとろになって唾液が溢れるまで舌を絡めあった。
頭の中がぼうっとのぼせていくような感覚。多幸感が胸の奥底から湧き上がる。背中にかけてがじんわりと熱くなり、溶けてしまいそうなほど気持ちがいい。
「ぁ、ふ……なんか、あまい……?」
糸を引きながら離れた唇から、操が熱のこもった息を漏らした。
「来主の味だよ」
「えぇー? ぼくは甲洋の味だと思う」
「どっちだっていいさ」
ふっと笑って、すっかり前がはだけているシャツを脱がせてしまう。それから自分も上を適当に脱ぎ捨てると、もう一度ちゅっと音を立てて唇を重ねた。そのまま肩を軽く押し、操の身体を押し倒す。シーツの上に柔らかな髪がふわりと広がり、波を描いた。
心臓が高鳴る音が騒がしい。操の胸に右手を押し当てると、彼の鼓動も大きく跳ねていることが分かる。
「好きだよ、来主」
「ん、ぼくも」
亜麻色の前髪を掻き分けて、額にそっとキスを落とした。そのまま顔中にキスの雨を降らせながら、押し当てていた手を胸の片方に滑らせる。しっとりと濡れた胸はぺたんこで、薄い肉が申し訳程度に乗っているだけだ。
甲洋はそれを手のひら全体を使ってゆるゆると揉みしだいた。ときおり親指で乳首を引っかくと、操が上ずった可愛い声をあげる。
「ぁ、はぅっ、ん……っ」
反らされた喉には、ささやかな喉仏がぷくんと盛り上がっていた。そうと分からないくらいの小さな膨らみにキスを落とすと、軽く吸いつく。
鎖骨の窪みにも口づけて、そのまま唇を這わせていった。じわじわと蜜をこぼす乳首を舐めて、またちゅっと吸い上げる。
「くぅっ、ん! ぁ、ふ……っ」
操の両手が、甲洋の髪をきゅうと引っ張る。固くしこる乳首の弾力と、バネのようにしなる身体の反応から、彼が得ている快感が伝わってくるようだった。
じっくりと愛撫をほどこしながら、甲洋は操のウエストにそっと片手を忍ばせる。前をくつろげ、下着ごと徐々に脱がせていくと、そこには勃ちあがった性器があって、先走りで濡れていた。小さく震えている様を見て、甲洋の口から熱いため息が漏れる。
あの夜は、あと少しというところで触れさせてもらえなかった。辛抱したぶん、ぐっと込み上げてくるものがある。感動すら覚えながら、まだ十分に拙さを残す屹立をすっぽりと手に包み込んだ。
「アッ、ぁん……っ!」
上ずった悲鳴を心地よく聞き流しながら、ゆるゆると優しく扱いていく。止めどなく透明な蜜を溢れさせ、操は泣きそうにも見える表情で身体をビクビクと踊らせた。
「んっ、ぁ、こう、よ……手、おっき、おっきい、んッ、ぼくの大事なとこ、さわって、る……っ」
「うん……ずっと触りたかった。来主のここ」
「ァッ、ん! うれ、し……ぼくも、ずっとさわってほしかったの……っ」
あまりにも素直な言葉と反応が可愛すぎて、脳が茹だって煙を上げてしまいそうな気がした。甲洋はとっさに声を詰まらせながらも、忙しくなく上下する胸の片方に飽きもせず唇を寄せた。頭を左右に揺らすようにして吸いつきながら、触れている操の陰茎をさらに扱いていく。舌の先に感じる粒の弾力に、たまらず軽く歯を立てると、操がいっそう高い悲鳴をあげてシーツから浮き上がるほど背を反らした。
「ヒァッ、や! だめ、あっ! で、出ちゃ、いっ、ぁくッ、んうぅ……──ッ!」
その瞬間、プシュッと音を立てて操の両胸と性器から飛沫があがった。ぶるりと腰が揺れ、弾けた白濁が甲洋の手を濡らす。抱え込むように腕を腰にしっかりと回して、それでもなお甲洋は乳首を吸い続けた。
こくんと喉を鳴らして飲み下すあいだも、操は絶頂の名残から嫌々と首を振って小刻みな痙攣を繰り返す。もう片方の乳首からも、線香花火の残り滓のようにささやかな飛沫が漏れていた。いやらしく潮を吹いては伝い落ち、母乳がシーツを濡らしていく。
「やぁぁッ、くっ、うぅ、んッ! ぁ、だめ、も……吸っちゃ、やぁ、ぁ──……ッ」
操が掻き抱いている甲洋の頭皮に爪を立てる。焦げ茶の癖毛を引っ張り、乱し、引き剥がそうとしたかと思えば強く引き寄せ、引き伸ばされる余韻と快感に身悶えていた。
白濁で濡れる手も胸に這わせて、甲洋はややしばらくのあいだずっとそこに執着し続けた。
「こ、よ……ァ、ぁー、あ……っ、おっぱい、おっぱいもうやだぁ……」
すっかり乳首に取り憑かれていた甲洋は、弱りきった悲鳴に気づいてようやく顔をあげた。没頭しすぎて周りが見えなくなっていたことに、自分で驚く。
操はのぼせたように顔を真っ赤にして、すっかりクタクタになっている。やっとのことで胸への刺激から開放され、ホッと大きく息をついた。
「こよ、おっぱい好きすぎだよぉ」
「……ごめん、つい」
「ほんとに赤ちゃんになっちゃったのかと思ったよ」
さすがに申し開きのしようがない。
甲洋の頬に両手を這わせながら、操が困り顔で小首を傾げている。まるで小さな子供に言い聞かせるような表情にも見えてしまい、なんとも言えない気持ちになった。赤子扱いにはやっぱり戸惑うが、どこかで悪い気がしていない自分がいることに、尻のあたりがむず痒くなってしまう。
「……赤ちゃんはこんなことしないだろ?」
「わっ!?」
操の腕を引いて起き上がらせると、その身体をうつ伏せにひっくり返した。四つん這いの体勢をとらせ、つるりとした丸い尻に手を這わせる。やわやわと軽く揉みしだくと、その手つきのいやらしさに操がケラケラと笑い声をあげた。
「あふっ、あははっ! それやだぁ! 甲洋のエッチ!」
「そうだよ。知らなかった?」
「ふふ、ん~? うん、知ってた」
「だろ?」
つられて笑いながら、ベッド脇のチェストに腕を伸ばすと引き出しからローションとゴムの箱を取り出した。このときのためにずっと以前から準備しておいたものだ。本当なら操の誕生日の夜に活躍する予定だったが、無駄にならずに済んでよかった。
シーツの上にポンと置かれたそれらを見て、操が「わぁ」と目を輝かせている。
「凄いや。準備万端だぁ」
「そりゃあね」
二年も待ったあげく、今さら同じ失敗を繰り返すなんて冗談じゃない。
甲洋はローションの蓋を開けると少しずつ中身を出して、体温と馴染ませながら念入りに指を潤わしていく。猫のようなポーズで首を捻っている操が、緊張したように喉を鳴らした。
「触るよ」
「う、うん。いいよ」
白桃のような尻の肉を割り開き、濡れた指をそっと這わせる。窄まった表面をマッサージするようにくるくると撫でて探ると、操が肩をすくめて「んぅ」と小さな呻きを漏らした。
もどかしさにヒクつく孔は、ほんの少し圧をかけただけでたやすく人差し指を飲み込んでいく。より深く求めるように、内壁が熱くうごめいていた。
「はぁ、ん! ぁ、ァ……っ、ゆび、はいった……ぁっ」
「すごいよ来主。こんなにあっさり……」
自身で拡張していたとは聞いたが、ここまですんなりいくとは思わなかった。すると操が背後を振り向きながら、腰を左右にモジモジとよじって見せる。
「だってぇ、練習したもん。いっぱい」
「ッ、!」
「ねぇこうよぉ、ぼくの身体、んッ……ちゃんと大人に、なったでしょ? これなら、ァっ、ちゃんとエッチ、できるでしょお?」
指を咥えこんだまま尻を振り、胸からはポタポタと白い蜜を滴らせ、切実に向けられる瞳はその揺らめきと光の反射で、いっそハートマークが浮かんでいるかのようにも見えてしまう。ガツンと頭部を引っ叩かれたような衝撃に、甲洋はカァっと顔を赤くした。
「……そういうの、一体どこで覚えてくるんですか」
「なんで敬語になってんのぉ?」
どこまでやらしけりゃ気が済むんだと半ば呆然としている甲洋に、操は訳がわからないといった表情で首を傾げている。
そのあいだも、熱い肉壁は甲洋の指をキュンキュンと食いしめて離さない。思わず喉の奥で唸りそうになりながら、ナカを指の腹で軽く擦り上げてみる。
「アッ、くぅっ……! は、あぅん……っ」
甘ったるい声と一緒に、きゅっとまたナカが締まった。その卑猥さに獣じみた欲を募らせながら、慎重に抜き差しを繰り返す指を二本に増やした。ローションもさらに継ぎ足して、よりいっそうナカを蕩かしていく。
「んぁっ、ァッ、や……! ふと、いッ、甲洋の指、ぼくのより太くて、長くてぇ……!」
「平気? 痛くない?」
「んんッ、ぅ……っ、うん……ッ、たく、ない……あぁッ、ん……きもち、ぃ……っ」
操は上半身をすっかりシーツに沈ませて、尻だけを高く掲げた姿勢になっていた。濡れた孔から泡立ちながら伝い落ちた雫が、内腿を伝って落ちていく。ぐぷ、ぐぷ、と水音を立てながら、実に美味そうに甲洋の指をしゃぶっていた。
すっかり仕上がっている状態を見て、できることならここまで育てるのは自分でありたかったという口惜しさが込み上げる。けれど同時に押し寄せるのは、この熟した身体は自分に食べられるためだけにあるのだという、喜びと実感だった。
「俺のために、こんなになるまで……」
「だって、だってぇ……っ! こよと、上手にしたかったんだもん……ちゃんと一緒に、きもちく、なりたかったんだもん……っ」
「……どんなふうにしてた? 指だけ? 他にもなにか使ったの?」
シーツに額を擦りつけ、操が首を左右に振った。
「ゆ、ゆびッ、指だけ……! お尻、いっぱい……指で、くちゅくちゅって……おちんちん、触りながら、して、たッ」
その言葉にホッとした。操のここは、まだ何ものにも犯されてはいないということだ。たとえそれが無機物であったとしても嫉妬の対象にしてしまう自分に呆れながらも、余計なものに先を越されていなかったことに安堵する。
「ならよかった」
「アッ、あっ、ひぅぅ……っ!」
頃合いを見て、三本に増やした指をナカに沈ませる。孔は完全にシワを無くすまで広がりきって、濃桃の花びらのように色づいていた。
「あぅ、あうぅッ、ぁ゛……ッ、指、いっぱいで……くる、し……っ」
ガクガクと身を震わせて、操がシーツを掻きむしる。その声は少しつらそうだったが、中心で震える性器がツンと勃ちあがっていた。抜き差しするたびに先端からダラダラとよだれをこぼし、開放を求めて張りつめている。
尻たぶを割り開いていた方の手を前へと滑らせ、軽く握り込んでやると、桃色に発情する身体がギクリと強ばるのが分かった。
「あぁイッ、く! イキそ、やあぁダメ……ッ、指、もう抜いてぇ……っ!」
「いいよ、イッても」
「やだぁッ! 甲洋の、甲洋のでイクのっ! 甲洋のおちんちん、早く挿れたいよぉ……!」
悲鳴じみた懇願に、首の後ろが燃えるように熱くなる。甲洋は迷う間もなく指をナカから引き抜くと、軋むベッドに両膝を立て、手早く前をくつろげた。下着ごとズリ下げた途端に勢いよく飛び出した肉棒は、限界までそそり勃って脈打っている。
首を捻ってそれを見ていた操が、赤らんだ頬をより赤く染めて深い息を漏らした。
「こ、よ」
「少し、待って」
甲洋は手早くゴムの箱を開け、取り出した中身の封を切って性器にかぶせた。いざというとき手間取らないよう、事前に練習していたことはここだけの秘密だ。その甲斐あって、ものの数秒とかからなかった。
「そんなの別にしなくていいのにぃ!」
急いている操はそれを見て不満そうだ。甲洋はローションの中身を手の平に出し、なじませるように軽く自身を扱きながら苦笑した。急いているのは同じだし、そりゃあ本音を言えばナマでしたいのは山々なのだが。
「エチケットだから」
「えー、でも漫画ではさぁ~」
「漫画を教科書にするのはやめなって……」
というか、まだ読んでいたのか。BL図書を。この分だとセルフ拡張も、そこから影響を受けた可能性が極めて高い。あながち役に立たないとも言い切れない気がして、ほんの少しだけ感心してしまう。
操はまだ納得がいかない様子で口をごにょごにょとさせていたが、甲洋の両手が尻に触れると「ぁっ」と焦ったような声を漏らした。
「待って、このままするの?」
「そのつもりだけど?」
「それじゃ甲洋の顔が見えないからやだ」
操は四つん這いの姿勢から起き上がり、すっかりこちらに身体を向けると甲洋の肩を押して座らせた。そしてそのまま膝立ちでまたがってくる。
ちょうど二年前にもこれと似た光景を見たっけなと、満足そうな顔を見上げて懐かしさが込み上げた。甲洋の肩に手をついたまま、元気よくそそり勃つ男根に視線を落とし、操は嬉しそうにニンマリ笑う。
「甲洋の大人ちんちん、久しぶりに見た」
「そりゃあ、二年ぶりだからね」
「えへへー。今日こそぼくが食べちゃうぞ!」
待ちきれないといった様子で、細い両腕が首に巻きついた。ちゅうっと音を立てて吸いついてくる唇を受け止めて、操の腰に片手を添えると、反対の手を自身に添える。狙いを定め、張り詰めた先端を窄まりにあてがえば、「あっ」と短く喘ぎを漏らす操の乳首から、母乳がジワリと浮き出した。
「来主、そのままゆっくり……できる?」
「ん、できる」
操がこくんと頷いた。けれどその意気込みとは裏腹に、あのときの痛みを覚えている身体が無意識にすくんでしまうようだった。もちろん緊張もあるのだろう。
安心させるように背中を幾度かさすってやると、彼は甲洋にしがみついて「平気だもん」と強がった。それから軽く深呼吸をして、少しずつ腰を落としていく。
「んぅ、ぁ、は……っ」
「ッ、ぅ……ッ」
「ぁ、いけ、そ……ぁっ、はいっちゃ、う、甲洋の……っ、ぁ、あッ……!」
次の瞬間ぬかるんだ孔をこじ開けて、ズン、と太いカリ部分が潜り込んだ。下から破られた衝撃に、操が喉を反らして悲鳴をあげる。
「ぃッ──! ヒッ、あぅぅ……っ!」
「ッ、く……ッ」
熱い媚肛が、ヒクつきながら限界まで広がっているのが分かる。先端に感じる締めつけに腰をわななかせながら、達しそうになるのを歯を食いしばってどうに耐えた。
「う……ッ、く、ぁっ……おっき、ぃ……っ、ぁ、くぅぅ……っ」
指とはまったく異なる質量に、操は苦しそうに切れ切れな喘ぎを漏らす。それでもなお腰を落としにかかり、自重によってジワリジワリと肉根が体内へと飲み込まれていった。
けれどあと少しで根本に達するというところで、操の動きがピタリと止まる。見上げると、彼は甲洋よりもよほど汗だくになっていた。怒らせた肩を硬直させ、カタカタと内腿を震わせている。
「平気、か?」
「ぁ、う……へい、き……まだ、いける……」
明らかに無理をしているのが伝わってきて、甲洋は汗が伝う背をあやすようにポンポンと叩いてやった。
「本当は?」
「ぅ……」
操が数秒のあいだ押し黙る。けれどやがて観念したように、おずおずと口を開いた。
「……奥、ちょっと、怖い」
蚊の鳴くような声。すっかり涙目になって悔しそうに下唇を噛みしめる表情に、吐息だけでふっと笑って目を細めた。以前の操だったら、このまま無茶をして強行していたかもしれないなと、甲洋は思う。
今の操は無理をすればいいというわけではないことを、ちゃんと理解していた。二年たっても体格差はほとんど縮まらなかったけれど、それだけでも待った意味があったのだと、しみじみ感じる。
「十分だよ来主。今日はここまででいいから」
「それって、今日はもう終わりってこと……?」
「まさか」
ベッドのスプリングの力を借りて、ナカを少しだけ擦り上げてみる。操が「ひゃぅっ」と高く鳴きながら、ブルリと身を震わせた。
「こ、よぉ……っ」
「奥は、これからゆっくり。ね?」
むしろ一緒に育てていける部分が、まだ残されていることが嬉しかった。多分きっと、操にはそういう場所がまだまだ隠されているはずだ。怖い場所も痛い場所も、気持ちがいいと感じる場所も。これから少しずつ見つけて、攻略していけることに期待が膨らむ。
甲洋は操の腰骨を両手でしっかり掴んで固定すると、下から幾度か揺さぶった。彼が怖がるラインは決して超えないように、けれど確実に律動を進めていく。
「やっ、あぅ、ぁっ、待っ……、あ、あ、はぁん……っ!」
結合部から漏れる泡立つ音と、操の嬌声が混じり合う。突くたびに乳首からぷくぷくと大粒の母乳が溢れだし、振動に揺れる屹立からも先走りの液が漏れている。
「くぅっ、あ……っ、きも、ち……ぁっ、おしり、そんなにズンズン、されたらぁ……っ!」
「ッ、は……さっきより、いっぱい出てるよ」
「はっ、はぁん……っ、ぁっ! だってッ、だってきもちくて、ぁ、とまんない……ッ、おちち出ちゃうの、とまんないよぉ……っ」
恍惚とした表情で、操がグンと背を反らした。突き出された胸の片方にむしゃぶりつくと、少し強く吸い上げる。「いやぁッ!」と泣き叫ぶくせに、甲洋の頭を抱きしめる腕はもっとしてとねだっているようにしか思えない。
口の中いっぱいに広がる母乳の味が、煮詰めた砂糖のように脳を蕩かしていく。
「こうよ、甲洋……ッ、アッ、ぁ、ぼく、セックス、してる……っ!」
「ん……できてるよ、ちゃんと」
「うれ、し……ッ、ぁ、アッ、嬉しい……甲洋、好き、大好き……っ!」
「ッ、俺も……俺も好きだよ、来主……っ」
突けば突くほど濡れた媚肉が絡みつき、熱くうねっては射精を促す。待った分だけもっと味わっていたいのに、終わりは確実に近づいていた。ナカでまた一回り大きくなった男根に、操が声にならない悲鳴をあげながらまた母乳を散らす。
弓なりにカーブした背が後方へ崩れ落ちていくのに合わせて、今度は甲洋が両膝をシーツに立てた。押し倒す形になると、両足を抱えあげて最後の追い込みをかけていく。
「あうぅ……っ、やぁ、きちゃう……っ! きちゃっ、あっ、あっあぁ──……ッ!!」
プシュウ、と大きな飛沫をあげて、操の母乳が吹き出した。同時に、ほったらかしだった屹立からも熱い白濁を飛び散らせる。チロチロと出続ける母乳を舐め取りながら、甲洋も身を震わせた。頭が白く染まるような快感に低く唸って、ゴム越しに操の体内で射精する。
脆弱な呼吸に喉を震わせる操は、半ば意識が飛んでいた。彼の身体が断続的にピクンッと跳ねると、母乳の残滓が思いだしたように小さく吹き出す。その光景にまた男茎が反応しそうになるのを感じながらも、ナカからズルリと引き抜いた。
「ふぁ……こ、よ……」
朦朧としながら焦点をさまよわせていた操が、弱々しく両腕を伸ばしてくるのに誘われて、折り重なるようにその身を預けた。身体もシーツもぐちゃぐちゃだ。けれど今は痺れるような余韻から指一本動かせい。
言葉もなくふたり一緒に放心しながら、胸を満たすのは余りあるほどの幸福な充足感だった。
*
操はそのまま眠ってしまった。
それぞれの身体を軽く清めて、起こさないように少しずつ移動させながらシーツを取り替えるのには苦労したが、操はよほど深く眠り込んでいるらしく、まったく起きる気配がなかった。
あらかた終えるとベッド脇に腰掛けて、操の寝顔を見下ろした。どこか子供っぽさを感じさせる寝息にふっと微笑み、軽く前髪を撫でてやる。
「ありがとう、来主」
ごく自然に出てきた感謝の言葉に、操が「ん」と小さな呻きをあげた。目を覚ましたのかと思ったが、彼はまだ眠ったままだ。
可愛い寝顔にまたひとつ微笑むと、甲洋はふとベッド脇のチェストに目を向ける。小さな間接照明が置かれたその横には、赤いベルベットのリングケースが置かれていた。
最初からずっとここに置いてあったのだが、操はまったく気がつかなかったようだ。
ケースに手を伸ばし、蓋を開ける。そこにはなんの飾り気もないシルバーリングが収まっていた。本当なら操の誕生日に渡すつもりでいたものだ。操の態度が急変したあとは、本気でもうダメなのかもしれないと打ちひしがれていたけれど。
ゴムやローション以上に、甲洋にとってなによりも無用にならずに済んだのは、この指輪の存在だった。この子が18歳になったとき、プロポーズをしようと思っていたから。
結婚してください、なんて。そんなことを言ったら、少し重たいかもしれないけれど。
「んー……」
そのとき、シーツの中で操が呻いた。モゾモゾと身じろぎながら、仰向けの姿勢からこちらに向けて寝返りを打つ。今度こそ起きたかと思ったけれど、やっぱりまだ夢の中にいるらしい。
「なにこれおいしぃ~……甲洋も食べてみてぇ……」
「なに食ってんのさ」
ムニャムニャと口を動かして、寝言を言いながら操が笑う。思わず声を出して笑いそうになるのをどうにか堪え、甲洋は再びケースの中身に視線を落とした。照明を弾いて輝くリングに目を細め、彼が目を覚ましたときのことを想像する。
果たして喜んでくれるだろうか。なにをするにも邪魔にならないよう、首から下げられるように別途でチェーンも用意してある。いつだって身につけていられるように。
「愛してるよ、操」
そっとケースの蓋を閉じ、操の寝顔に目を向ける。告白と一緒に、普段は照れくさくて呼べない下の名前を呼びながら。この後に続くのは、「だから俺と結婚してください」だ。
この子が目を覚ましたら、思い切り真面目な顔をして言ってやろう。きっと笑いだすに違いない。「また敬語になってる!」なんて、どうでもいいところにツッコミを入れながら。
ひとしきりケラケラと笑ったあと、赤い顔ではにかんで、「いいよ」と言ってくれたらいい。
そう切に願いながら、身を屈めるとふにふにの頬にキスをした。やっぱり甘い。操はどこもかしこも、砂糖みたいに──。
←戻る ・ Wavebox👏
カウンターのペンダントライトだけが灯された店内に、湿った息遣いが響いている。小さな唇が立てるかすかな水音を聞きながら、甲洋は無意識に喉を鳴らした。
「んぅ、ぅっ、ぷは……! はぁー、あご疲れたぁ」
床にぺたんと座り込み、椅子に腰かけている甲洋の股間にすっかり顔を埋めて性器を口に収めていた操が、大きく息をつきながら上向いた。暖色の緩い照明を弾いて、濡れた唇がてらてらと妖しく光っている。
「……もうやめない?」
その卑猥さから目を逸し、声を上ずらせながら言った甲洋に、操は「やぁだよ」と言って猫のように瞳を細め、得意げな笑みを浮かべた。
「君はただ座ってればいいんだから、楽なもんでしょ? ぼくがちゃーんと気持ちよくしてあげるから、おとなしくしててよね」
無邪気で生意気な少年の笑顔と、やっていることのギャップに目眩がする。
彼が言う通り、今の甲洋はただこうしておとなしく座っていることしかできない。絶対に手を出してはいけないという『決まり』の上に、この特殊な状況は成り立っていた。つまり生殺しも同然だ。天国と地獄を一度に味わわされている気分になりながら、行き場のない両手が身体の両脇でそれぞれ椅子の座枠を握りしめている。
「ッ、ぅ……!」
先走りに濡れた柔らかな手の平にじわじわと扱かれ、甲洋は食いしばった歯の隙間から小さな呻きを漏らした。
「あは、なんかまた大きくなった! ビクビクしてるし……ねぇ、気持ちいい?」
幼い瞳がキラキラと輝きながら甲洋を見上げた。
素直に答えてやるのは癪に障る。自分のほうがずっと年上であるというプライドが、快楽を享受することを躊躇わせていた。それと、罪悪感。
しかし股間のブツは誤魔化しようがないほど隆々と勃起している。幼く頼りない指先が、血管の浮き立ったグロテスクな肉の竿に添えられている光景は、毒以外のなにものでもなかった。先端がまた、じわりと先走りを滲ませる。
「もっといっぱいよくしてあげるね。ぼくがもう子供じゃないってこと、ちゃんと教えてあげなくちゃ」
性にけぶる思考で、甲洋はまたひとつ後悔とも期待ともつかない息を飲み込んだ。
*
操は甲洋がオーナーを務める珈琲喫茶・楽園でバイトをしている、16歳になったばかりの高校一年生だった。ふたりはかくかくしかじか(割愛)で、現在交際中の恋人同士でもある。
しかしキス以上のことはまだしていない。今のところはするつもりもなかった。
なにせ相手は10も年下の高校生だ。キスをするのですら後ろめたさが拭いきれないというのに、スケベなことなどもってのほかである。
閉店後の人気のない店内で、あるいは操を家に送り届ける途中で。タイミングを見計らい、軽く口づけを交わし合う。今はそれだけで充分に幸せだと思えるし、決して発育がいいとはいえない身体に欲望をぶつけるほど、甲洋の理性は緩んじゃいない。
モテる割になんやかんやで色恋とは縁がなかった甲洋にとって、操は人生で初めてできた恋人だった。大切にしようと心に決め、せめて彼が18歳になるまでは死んでも手を出すまいと、己を律する日々を送っていた。
──が、しかし。そんなある夜、珍事は起こった。
閉店後の片付けをあらかた終えて一息つくと、操が甲洋のシャツの袖をちょこんと摘んで何度か軽く引っ張ってきた。こういう仕草いいよなぁなんて男心をくすぐられながらも、目線だけで「なに?」と問いかける。すると彼は上目遣いで驚くべきことを口にした。
「ねぇ甲洋、エッチしよー」
それはお茶でもしよう、くらいの気軽なトーンだった。
「……今なんて?」
なにかの聞き間違いだろうかと耳を疑う甲洋のシャツの袖を、操がブラブラと揺さぶりながらにっこり笑う。
「エッチしようよ。ぼく甲洋としてみたい」
「っ、は?」
「だってぼくたちまだキスしかしてないじゃん。付き合ってる同士はそれ以上のこともするでしょ? だからぼくたちもしようよ」
聞き間違いではなかった。どストレートなお誘いに、甲洋のなかに稲妻のような衝撃が走る。
「どっ……なん、な……急に、なん……?」
滑らかに言葉を発したつもりが、激しい動揺に舌がもつれてしまった。
こいつは急になにを言いだすのだろう。操の口からダイレクトに「エッチ」なんて言葉が飛びだすとは思いもしなかった。夢を見すぎな気もするが、操に性行為という概念があったことに大きな衝撃を受けている。それほどまでに、甲洋は彼のことをまだ無知な子供だと認識していたのだ。
しかし考えてもみれば、今の操はもっともそういったことに興味津々な年頃と言えるだろう。むしろこの年齢ならごく自然なことである。相手がいるならなおのこと、してみたいと思うのはなにもおかしな話ではない。
動揺とは別にある種の感慨を覚えながらも、甲洋はこほんと軽く咳払いをした。
「来主にはまだ早い」
「早いってなに? ぼくもう子供じゃないよ」
「俺からすればまだ子供だ。なんの準備もなしにおいそれとできることでもないしね」
手慣れた者同士なら別だろうが、自分たちはまったくの初心者なのだ。勢いだけでどうにかなるものではないだろうし、ましてや操はまだ発育途中で身体が出来上がっているとはとても言えない。
いざその時が来たら、甲洋は当たり前のように自分が抱く側だと思っている。つまりそれは、操の身体に大きな負担をかけるということだ。心も身体もまだ幼い彼に、それが耐えられるとは思えない。
けれど操はそんな甲洋の気遣いも知らず、不満そうに顔をしかめた。
「いいじゃん別に。学校の子たちはとっくにしてるよ。ぼくだけダメなんて、そんなのズルいよ」
「うちはうち、よそはよそだ。他人と張り合う必要はない」
大方、友人間でその手の話題でも上がったのだろう。高校生ともなればすでに経験済の者がいたっておかしくはないし、それを武勇伝のように語りたがるヤツも必ずいるものだ。気持ちは分かるがすっかり感化されているらしい様子に、甲洋はささやかな嘆声を漏らす。
すると操は不服そうに吊り上げていた瞳に、じわじわと涙を浮かべはじめた。
「ぼくとはしたくないってこと?」
「……は?」
「ぼくとするのが嫌だから、君はそんなこと言うの? ぼくのこと好きじゃないの?」
唇を噛み締めながらうつむく操に、そういうところが子供なのだと呆れてしまう。
心から好きな子が目の前にいて、したくない男などいるものか。甲洋はエフェボフィリア──成人男性による思春期の男女に向かう性的嗜好──ではないが、操に限って言えばこの小さな身体を組み敷いて、すみずみまで触れてみたいという欲求が確かに存在している。だけどそれを抑え込んででも大事にしたいと、心から思っているのだ。その気持ちを疑われるのは心外でしかない。
甲洋は操と向き合い、悔しそうにすくめられた両肩にそれぞれ手を置いた。わずかに身を屈め、小首をかしげるようにしながら顔を覗き込むと、彼が理解できるように飾らず素直な言葉を選んでいく。
「来主、それは誤解だ。嫌だなんて思わないし、好きじゃなきゃキスだってしない。俺だって……本当はしたいよ。お前と、もっと先のこと」
「ほんと!?」
操が潤んだ瞳を丸くしながら顔をあげた。しっかりと頷いて見せると、彼は期待に満ちた笑顔を浮かべた。
「だったらっ」
「でもまだダメだ」
「えぇ!? なんでぇ!?」
「そういうことは焦ってするものじゃないし、男同士でするのは来主が考えてるほど簡単じゃない。俺はお前を傷つけるようなことはしたくないんだ」
甲洋の気持ちが伝わったのか、操はぐっと黙り込んでしまった。そしてまた下唇を噛みながらうつむいてしまう。甲洋はふっと笑って、その亜麻色の柔らかな髪をくしゃりと撫でた。
「大人になるのなんてあっという間だよ。それに俺が今のお前にホイホイ手なんか出したら、犯罪になっちゃうだろ?」
少しでも空気を変えられればと、最後は少しおどけてみたつもりだった。しかし操はまだ納得しきれない様子でいじけた顔をしている。
「そんなの黙ってれば分かんないのに」
「俺が罪の意識に耐えられない」
「甲洋の意気地なし」
「なんとでも言えばいいさ」
操は「ちぇー」と言って、つまらなそうに両手を頭の後ろにやって指を組んだ。
ひとまずこの場は収まりそうだと安堵したのもつかの間、操は急になにか思いついたように「そっかぁ!」と声をあげながら両手を叩いた。
「わかった! それならぼく、いいこと思いついたよ!」
「?」
「こっち来て!」
操は甲洋の手を取ると、テーブル席のひとつへ強引に引っ張った。すでに椅子はすべて逆さに伏せられていたが、その一脚を持ち上げると引っくり返して床に置く。
「ここに座って!」
「なに?」
「いいから早く!」
促されるままひとまず椅子に腰掛けた。すると一体なんのつもりだと怪訝な顔をする甲洋の膝に、操が勢いよく馬乗りになってくる。
「ちょっと、なに?」
なにやら不穏なものを感じながら上体を引き気味にする甲洋に、操は「へへー」と笑うと首に両腕を回してくる。そして次の瞬間、ぐっと顔を近づけると唇に吸いついてきた。
「んっ!?」
咄嗟に目を見開きながら、甲洋が驚いた理由は他にもあった。合わさった唇に濡れた感触が触れたと思ったら、そのまま強引に口内に侵入してきたのだ。
それが舌であると理解した瞬間、甲洋は操の両肩を掴んで引き剥がしていた。
「ばっ……な、なにしてるんだお前!?」
「なにって、ちゅうだよ?」
ケロリとした顔で言われて唖然とする。舌を入れるようなキスなんて、今まで一度もしたことがない。いつもは唇同士を軽く触れ合わせるだけで精一杯なのだ。
顔を赤くして絶句する甲洋に、操は悪戯小僧のような表情でふふっと笑った。
「今からぼくがすることに、君は絶対に手を出さないで。ただ座ってればいいよ」
「なに言って……?」
「ぼくはぼくがやりたいことを好きにやるから、君は黙ってなにもせず知らんぷりしてればいいんだ。それなら別に構わないでしょ? だってぼくが勝手にしてることだもん」
「そういう問題じゃないだろ。見て見ぬ振りなんてできるわけ」
「甲洋」
操の顔から笑顔が消えるのと、頬を両手で包み込まれるのは同時だった。彼は見たこともないほど真剣で切ない表情をしている。そこにはどこか切羽詰まったような気迫すらこもっていて、甲洋は咄嗟に言葉を失ってしまう。
「ぼくはもう何も知らない子供じゃないよ」
「来主……」
「ちゃんとやり方も知ってるし、君が思ってるほど脆くもない」
じんわりと潤んだ瞳が揺れている。そこに浮かぶ情欲の色を見て、甲洋は無意識に生唾を飲み込んでいた。うっすらと上気したまろい頬は、少女のような幼さに反して特有のあだっぽさがある。
これは不味いぞと、甲洋は思った。しっかりと蓋をして鍵をかけていたはずの欲求が、目の前の小さな火に煽られて疼きはじめている。しかしこのまま流されるわけにはいかないと、開きかけた口が熱っぽい唇によって一瞬だけ塞がれた。
「ッ、!」
「甲洋、好き。ぼくのこと、ちゃんと君の恋人にして」
そのいじらしくもある告白に、心が折れるような感覚を覚えた。相手にここまで言わせてなお拒めるほど、堅固な理性など持ち合わせてはいない。
三度重なってきた唇を黙って受け入れ、差し込まれた薄い舌の感覚に目眩を起こす。その背を抱き返して思うまま貪りたいのを必死で堪えながら、甲洋は腰かけている座面の縁を軋むほど握りしめた。
「んっ、ふ……」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて何度も唇に吸いつかれ、小さな舌が闇雲に口内を動き回るのをただ受け止めながら、その拙さに胸を掻き毟られる。
いい具合に舌同士が擦れると、膝の上で操の身体がぴくんと跳ねた。それが癖になったのか、彼はしきりに痩せた舌を擦りつけてくる。そのたびに鼻から抜けるか細い声に、異様なほど興奮させられた。
「は、ぁ……なん、か、頭のなかとろとろして……気持ちぃ、ね」
口の周りを唾液で濡らしながら、操は熱に浮かされた表情で深い息を漏らす。
手どころか舌すら出せなかった甲洋は、不完全燃焼ながらも蒸したように頭がぼうっとするのを感じていた。一方的な拙いキスでこんなに熱くなってしまうのだから、いざというときどれほど気持ちよくなってしまうのだろう。予行演習にすらならないこの状況に、未来への期待が積み立てられていくようだった。
操は甲洋の肩に手をつきながら膝から下りると、床に両膝をついた。軽く開かれた両足の間に身体を割り込ませ、両手でズボンの前を寛げようとする。頭が留守になっていた甲洋は、次に起こる出来事を察して咄嗟に肩を跳ねさせた。
「く、くるす」
「ダメ。手出ししないで」
「……っ」
自分より一回り以上も小さな相手に、ひどく威圧されているような気分だった。やろうと思えば簡単に退けられるはずなのに、縄で縛られたように身体が動かない。しかし、焦りだけはバカみたいに膨らんでいた。なにせ甲洋はもはやすっかり──
「わぁ……すごいや甲洋! もうこんなになってる!」
意外にも器用に手早く前を寛げ、下着の中から甲洋のモノを引きずり出した操が、嬉しそうに目を輝かせた。それはすっかり勃起して、ぐんと天を仰ぎ見ている。
年上とはいえ、甲洋だってまだ若い雄であることに変わりはない。それでも堪え性のない愚息に深い嘆息を漏らし、思わず片手で顔を覆った。
ここまで己を律してきたことに、一体なんの意味があったのだろう。あまりにも素直に形を変えた息子は、待ってましたと言わんばかりに元気よく脈を打っていた。
「こんなふうになってる大人ちんちん、初めて見たよ!」
「頼むから、あまり見るな……」
操が嬉しそうにすればするほど、羞恥と自責の念にいっそ消えていなくなりたい気分になった。
そんな甲洋の気も知らず、操は興味深そうに瞳をくるくるとさせながら、反るようにして勃起した性器の頭を人差し指の先で軽くつついた。
「ッ、あっ!」
思わず漏らしてしまった甘く上ずった声に、操がポカンとした顔で甲洋を見上げた。しまったと思いながら片手で口を抑えると、彼は頬を興奮で赤く染めながら顔いっぱいに喜色を広げる。
「今のなに!? すっごく可愛い! 君ってそんな声出すんだ!」
「い、今のは、ちが」
「ねぇ、もっと聞かせてよ!」
「~~ッ!」
本気で消えてしまいたい。かつてこれほどの羞恥に苛まれたことがあっただろうか。
「ここをたくさん可愛がってあげたら、さっきみたいな声いっぱい出るかな?」
「ちょっ、待っ……ぁ!」
もっともっとと強請るように脈打つ竿をむんずと掴まれ、今にも逃げ出したい思いで甲洋は内心頭を抱えてしまった。
*
そして話は冒頭に戻るというわけだ。
操は歯を食いしばる甲洋をどうにかして鳴かせようと躍起になり、あの手この手で性器を刺激し続けている。しかしここでおめおめと声を出すなんて、そんなことはプライドが許さない。
小さな口にぱっくりと咥えられると秒でイキかけたが、頬肉の内側を血がにじみそうなほど噛んでギリギリ堪えてみせた。さっきからその繰り返し。甲洋にはいつしかイッたら負けという、謎の対抗心まで芽生えはじめていた。
「こんなにピクピクして固くなってるのに……なんで? 気持ちよくないの?」
「ッ、……さぁ?」
額に脂汗を滲ませながらも、平静を装って目を逸らす。
自分でもよくぞここまで耐えていると思うが、不慣れな操はしょっちゅう力の加減を間違えるし、歯を立てられるなどして痛みが走ることもしばしばあった。
おそらくこの子は、まともに自慰もしたことがないのだろう。同じ男だからこそ分かるはずの扱い方や匙加減を、彼は全く知らない様子だ。
それでも甲洋自身が元気なままでいるのは、この特殊な状況や視覚的なものによるところが極めて大きい。
小さな両手を添えながら、チロチロと子猫のように這わされる赤い舌だとか、喉奥まで押し込もうとして苦しげに歪められる表情だとか、くぐもった声だとか。自慰では決して得られない興奮に、まるで脳が揺れているかのようだった。
「さっきみたいな声もっと聞きたいのにぃ」
操は手の中の竿をきゅっと握りながら唇を尖らせた。ここで諦めてくれさえすれば、後はトイレにでも駆け込んでどうとでも処理してしまうことができる。どことなく終わりの空気を感じた甲洋は、幾らか気を抜きながら深い息をついた。
「もういいだろ。時間も遅いし、今日はこのくらいに」
「やだね」
しかし操は眉を吊り上げ、引こうとしない。
「だってこのままじゃ悔しいし。それに、最後までしなきゃ意味ないじゃん」
「最後までって……」
まだ言ってるのかと呆れる甲洋を他所に、操は立ち上がると自分のウエストに手をかけた。ズボンの前をすっかり緩めると下着ごと勢いよく下ろして、下半身を丸出しにしてしまう。
「!?」
惜しげもなく晒された白い半身に、甲洋は息がつまるほど驚いた。声すら失って硬直していると、操は裾を踵から引き抜く際に靴まで一緒に脱ぎ捨てて、ポイッと床に放ってしまう。そして意気揚々と、再び甲洋の膝に跨ってくる。
その身体の中心では拙い性器がゆるく勃ちあがっていた。甲洋に奉仕しながら、彼もまた興奮していたという事実に目が眩みそうになる。
「あは、ぼくのおちんちんも、甲洋のと同じになってる」
操はまるで見せつけるかのように自分の右手を自身に触れさせ、ゆるく握り込むと軽く扱いた。
「あっ、ぁん、ぁ……っ、は……これ、きもち、ぃ」
「くる、す……っ」
かぶさった皮の切れ目から、桃色の先端がほんの少しだけ頭を覗かせている。そこからじわじわと滲みだす先走りが、擦り上げる手の動きに馴染んでちくちくと卑猥な音を奏でていた。
呆然としながら幼い屹立とその痴態に見入っていた甲洋に、操がふっと微笑んだ。
「触りたい?」
「……ッ!」
「でも、ダメ。だってそんなことしたら、君は悪い大人の仲間入りだもん」
憎らしさと口惜しさを同時に覚え、甲洋はぐっと奥歯を噛み締める。ギリギリまで張り詰めている理性の糸が、今にも音を立てて千切れてしまいそうだった。
細い腕の片方が甲洋の首にまわり、もう片方の手がそっと頬に触れてくる。軽く上向かされると、操がすぅっと目を細めた。
「ぼくはそれでもいいけどね。君が悪い大人でもちゃんと好きだし、誰にも言わない。お母さんにだって言わないよ。ぼくらだけの秘密にしててあげるから」
今の甲洋にとって、それは蜜より甘い誘惑だった。ずっと何も知らない子供だと思っていたはずの操が、妖艶な笑みすら浮かべて年上の男をそそのかしている。ほのかな喪失感と共に、脳が揺れるほどの興奮が再び甲洋を襲った。
「来主……」
見えない糸で操られているかのように、甲洋は震える両手を操の太腿に這わせていた。あのよく知る無邪気な笑顔が、くすぐったそうに笑い声をあげる。
ああ、触れてしまった。決して手出しはすまいと必死で堪えていたのに。操の肌は瑞々しくて、誘うように手の平に吸いついてくる。じわじわと足の付根に向かって撫でていきながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。
指先が今にも濡れた幼茎に届こうとしたとき、操の両手がそれぞれ甲洋の手の甲にかぶさった。緩く掴まれたと思ったら、彼はその手を自分の脇腹へと移動させてしまう。
「来主……っ」
なぜ触れさせてくれないのかと、甲洋は切なく瞳を細めて操を見つめる。彼はどこか意地悪そうに微笑むと、吐息だけで「悪いひと」と囁いて甲洋の額にキスをした。
煽ったと思えば焦らしてくる。一体どこで覚えてきたんだと問い詰めたい思いに駆られながらも、年下の恋人に弄ばれていることに興奮させられた。このまま最後まで委ねてしまえば、その先にどんな快楽があるのだろう。どうしても知りたくて、待てと命じられたまま放っておかれる犬のような感覚にすら、気持ちが高ぶる。
意識が桃色の霧に覆われたようになりながら、甲洋はただぼうっとした顔で操の動きを見守った。彼は片手と片足を甲洋の肩と床につけて身体を傾け、もう片方の手を下へと伸ばす。先走りと唾液で根元まで濡れている甲洋の肉筒に指を添えると、細腰が位置を調節するように蠢いた。
甲洋はおとなしく操の脇腹に手を添えて、一連の動きを支える。先端が、窄まったなにかにそっと押し当てられた。
「言ったでしょ? ちゃんとやり方知ってるって」
ごくりと喉を鳴らした甲洋に、操は得意げな顔でそう言った。意識はとっくに霧に飲まれて、甲洋にはもうまともな思考などできやしない。最高潮まで達した期待に肌が粟立ち、ただ貪欲に息を震わせることしかできなかった。
バカになっていたのだ。場の空気と激しい渇望に飲まれて、それはもう完全に。だから操が躊躇なく全体重をかけて腰を落とした瞬間、
「いっ……たぁ~~~い!!」
──と上がった甲高い悲鳴に、風船が割れたような衝撃を覚えた。
「ッ!?」
「あうぅ、痛いぃっ! なにこれ!? こんなの無理じゃん! 裂けちゃうよぉ!」
操は片足の爪先だけ床につけた状態で、ぎゃんぎゃんと喚き散らしている。その様子にハッと我に返った甲洋は、慌ててその両肩を掴むと引き離そうとした。
「まっ、待って! やだ! まだ先っちょしか入ってないー!」
「だからまだ早いって言っただろ! うぁッ、ちょっ、俺も痛いから暴れるな!」
乾いた孔に先端だけ中途半端にめり込んでいるという状態は、操だけでなく甲洋にも甚大な痛みをもたらしている。なにせ最も敏感な場所だ。このまま押し切れば、お互いただじゃ済まないだろう。
痛いだの無理だのと言ってギャン泣きするくせに、どうあっても強行するつもりでいる操の意味不明な頑固さに痺れを切らし、甲洋はその両脇にそれぞれ手を差し込むと、強く引き上げて位置をずらすことに成功した。
共に激痛から開放されてホッと息をつくと、操が泣きながら胸にもたれかかってくる。
「うぅ~ぐやじい~」
「これで分かっただろ……」
盛大に溜息をつき、その背をポンポンと叩いてあやしてやる。操も甲洋もすっかり萎えて、その勢いを失っていた。
「俺たちがこういうことをしようと思ったら、ちゃんと時間をかけて慣らさなきゃ無理なんだ。そういうふうには身体が作られてないんだよ。男なんだから」
「だぁってぇ! 漫画で読んだときは簡単そうだったんだもぉん!」
「漫画だって?」
唖然とするしかない甲洋に、操は真っ赤な鼻をズビッとすすった。
「ちゃんと見て勉強したもん……男同士でエッチなことしてる本」
「どこで見たんだ、そんなもの」
魂まで一緒に抜けてしまいそうなほどの溜息をつきながら問いかけた甲洋に、操は「学校」と不貞腐れた声で吐き捨てる。
それは友達の一人が、面白半分で持参してきたものだった。いわゆるボーイズラブ漫画というやつだ。姉の本棚からこっそり拝借してきたらしい。やめてさしあげろと、甲洋は思った。
漫画の中では男同士がいともたやすく行為に及んでいて、男女がするのとまるで変わらない描写がなされていた。操はそれをまるっと鵜呑みにしてしまったというわけだ。
「お前はフィクションとノンフィクションの区別もつかないのか……」
呆れを通り越して、情けなさが込み上げる。かめはめ波が撃てると信じて必死に練習するチビっ子と同レベルだ。尻の穴が自然と濡れるのはそりゃあ漫画の世界だからであって、所詮はファンタジーでしかない。
「だから子供だっていうんだよ」
「もう! 甲洋まで子供扱いするのいい加減にしてよ! なんでみんなしてぼくのことバカにするのぉ!?」
すっかり癇癪を起こして叫ぶ操に、甲洋はほとほと困り果てながら首を傾げた。目線だけでどういうことだと問いかけると、操は何度も鼻をすすりながら事の経緯を話しはじめた。
さっきの話にはまだ続きがあったのだ。友人たちは例の漫画をひとしきり読んでひやかしたあと、「やっぱり付き合うなら女の子じゃないとな」と口々に騒ぎはじめた。
そこから発展して下品な下ネタが飛び交いだして、その間も漫画を熟読し続けていた操は取り残された。
するとすでに経験済みだという友人の一人が、そんな操に気づいて「来主はおこちゃまだからなぁ」などと言ってからかってきた。どうせ意味なんか分からないだろう、と。確かに操はその手の話題に疎くはあったが、賛同した他の友人たちにまで笑われて、思わずムッとしてしまった。
だから言ってやったのだ。自分にだってそういう相手くらいいるのだと。
「そういう相手って……男の?」
「そこまでは聞かれてないから言ってない。年上の人と付き合ってるって言っただけ」
「それで?」
「みんなすごくビックリして興奮してたよ。年が上ってだけでエロいんだってさ」
「なるほどね」
年頃の男子高校生たちのなかで、自分は年上のエッチなお姉さんと認識されてしまったわけだ。実際は年上のスケベなお兄さんなわけだが……。
「でも、まだエッチなことはしてないって言ったら、またバカにされた」
一瞬で全員の操を見る目が変わったものの、キスしかしてないと知った途端に、またバカにされてしまった。
「それはぼくが子供だから、相手の人はからかって遊んでるだけだって。恋人としてじゃなくて、子犬とか子猫を可愛がってるのと同じだって」
「……だから不安になった?」
悔し涙を流しながら頷いた操に、なぜ彼がああも切羽詰まった様子で迫ってきたのかが、ようやく理解できた。
操はただ単純に子供扱いされたから腹を立てていたのではなく、他者から甲洋との関係を否定されたことに傷ついたのだ。だから不安になって、焦りを覚えた。
「エッチすれば、ちゃんと大人だって認めてもらえるんでしょ? 遊びじゃなくて、ちゃんと恋人になれるんでしょ?」
赤くなった瞳で問いつめてくる操に、甲洋はふっと笑いかけてその目尻の涙を優しく拭ってやった。
「遊びじゃないよ、来主」
「甲洋……?」
「俺は遊びで付き合ってるつもりなんかない。来主のこと、ちゃんと恋人だと思ってる」
「……ほんと?」
まんまるの瞳をじっと見つめて、うんと頷く。
「だから大事にしたい。焦らないで、ゆっくりでいいから」
甲洋は操の身体を胸に引き寄せ、すっぽりと腕の中に閉じ込めた。高めの体温に愛しさが込み上げ、柔らかな髪にそっと頬を擦りつける。嬉しかった。呆れもしたが、操が自分のことでこんなにも不安に駆られ、焦って空回りしてしまうくらい想ってくれていたことが。
だからこそ、失敗してよかったと思う。あのまま無理にでも続けていたら、今ごろ立ち直れないくらい後悔することになっていた。
「あと2年、待って」
「え?」
おとなしく甲洋の腕に抱かれていた操が、軽く身じろいで顔をあげる。
「俺も待つから。お前がもう少し大きくなったら、次はちゃんとふたりでしよう。そうしたら……今度は泣いてもやめないよ」
操は瞳を瞬かせて、それからきゅっと唇を噛み締めながら頬を赤らめる。一方的にせがむばかりだったのと、行為が失敗に終わったことですっかり諦めていたところに示された甲洋の積極性に、珍しく面食らった様子だった。
「ほ、ほんとに? 今度はもう、ダメって言わない?」
「言わないよ。言うわけない」
どれだけ我慢していると思っているのだ。大人になるなんてあっという間だなんて言っておいて、きっと途方もなく長い2年になるだろうと確信している。
それでも操は嬉しそうに、ようやく明るい笑顔を見せた。
「わかった! ちゃんと待つから、約束だよ!」
そう言って、甲洋の首に抱きついてきた。浮かれた様子で、甲洋に跨ったまま宙に浮いている両足をブラブラと揺らしては、喜びを表現している。
その背を抱き返しながら、すっかりいつも通りの操に戻っていることに安堵する。艶っぽい笑みに翻弄されるのも悪くはなかったが、やっぱり甲洋は無邪気で子供っぽい彼のことが好きなのだ。
(それにしても……)
ふと、さっきまでの操の様子を思いだしながら甲洋は思う。あのやけになまめかしい色香のある仕草や表情も、例の漫画から仕入れた知識だったのだろうか。もしあれが素でやっていたことなんだとしたら、なんて末恐ろしいのだろう。
思いだすだけで胸をドギマギとさせる甲洋の唇に、ちゅうっと音を立てながら操が幼いキスをする。んっ、と声を上げながら受け止めて、甲洋は考えるのをやめた。
今すぐ確かめるのは簡単だけれど、どうやら自分は焦らされるのが嫌いじゃないらしい。それが分かってしまったから、楽しみは2年後にとっておくことにした。
←戻る ・ Wavebox👏
「んぅ、ぅっ、ぷは……! はぁー、あご疲れたぁ」
床にぺたんと座り込み、椅子に腰かけている甲洋の股間にすっかり顔を埋めて性器を口に収めていた操が、大きく息をつきながら上向いた。暖色の緩い照明を弾いて、濡れた唇がてらてらと妖しく光っている。
「……もうやめない?」
その卑猥さから目を逸し、声を上ずらせながら言った甲洋に、操は「やぁだよ」と言って猫のように瞳を細め、得意げな笑みを浮かべた。
「君はただ座ってればいいんだから、楽なもんでしょ? ぼくがちゃーんと気持ちよくしてあげるから、おとなしくしててよね」
無邪気で生意気な少年の笑顔と、やっていることのギャップに目眩がする。
彼が言う通り、今の甲洋はただこうしておとなしく座っていることしかできない。絶対に手を出してはいけないという『決まり』の上に、この特殊な状況は成り立っていた。つまり生殺しも同然だ。天国と地獄を一度に味わわされている気分になりながら、行き場のない両手が身体の両脇でそれぞれ椅子の座枠を握りしめている。
「ッ、ぅ……!」
先走りに濡れた柔らかな手の平にじわじわと扱かれ、甲洋は食いしばった歯の隙間から小さな呻きを漏らした。
「あは、なんかまた大きくなった! ビクビクしてるし……ねぇ、気持ちいい?」
幼い瞳がキラキラと輝きながら甲洋を見上げた。
素直に答えてやるのは癪に障る。自分のほうがずっと年上であるというプライドが、快楽を享受することを躊躇わせていた。それと、罪悪感。
しかし股間のブツは誤魔化しようがないほど隆々と勃起している。幼く頼りない指先が、血管の浮き立ったグロテスクな肉の竿に添えられている光景は、毒以外のなにものでもなかった。先端がまた、じわりと先走りを滲ませる。
「もっといっぱいよくしてあげるね。ぼくがもう子供じゃないってこと、ちゃんと教えてあげなくちゃ」
性にけぶる思考で、甲洋はまたひとつ後悔とも期待ともつかない息を飲み込んだ。
*
操は甲洋がオーナーを務める珈琲喫茶・楽園でバイトをしている、16歳になったばかりの高校一年生だった。ふたりはかくかくしかじか(割愛)で、現在交際中の恋人同士でもある。
しかしキス以上のことはまだしていない。今のところはするつもりもなかった。
なにせ相手は10も年下の高校生だ。キスをするのですら後ろめたさが拭いきれないというのに、スケベなことなどもってのほかである。
閉店後の人気のない店内で、あるいは操を家に送り届ける途中で。タイミングを見計らい、軽く口づけを交わし合う。今はそれだけで充分に幸せだと思えるし、決して発育がいいとはいえない身体に欲望をぶつけるほど、甲洋の理性は緩んじゃいない。
モテる割になんやかんやで色恋とは縁がなかった甲洋にとって、操は人生で初めてできた恋人だった。大切にしようと心に決め、せめて彼が18歳になるまでは死んでも手を出すまいと、己を律する日々を送っていた。
──が、しかし。そんなある夜、珍事は起こった。
閉店後の片付けをあらかた終えて一息つくと、操が甲洋のシャツの袖をちょこんと摘んで何度か軽く引っ張ってきた。こういう仕草いいよなぁなんて男心をくすぐられながらも、目線だけで「なに?」と問いかける。すると彼は上目遣いで驚くべきことを口にした。
「ねぇ甲洋、エッチしよー」
それはお茶でもしよう、くらいの気軽なトーンだった。
「……今なんて?」
なにかの聞き間違いだろうかと耳を疑う甲洋のシャツの袖を、操がブラブラと揺さぶりながらにっこり笑う。
「エッチしようよ。ぼく甲洋としてみたい」
「っ、は?」
「だってぼくたちまだキスしかしてないじゃん。付き合ってる同士はそれ以上のこともするでしょ? だからぼくたちもしようよ」
聞き間違いではなかった。どストレートなお誘いに、甲洋のなかに稲妻のような衝撃が走る。
「どっ……なん、な……急に、なん……?」
滑らかに言葉を発したつもりが、激しい動揺に舌がもつれてしまった。
こいつは急になにを言いだすのだろう。操の口からダイレクトに「エッチ」なんて言葉が飛びだすとは思いもしなかった。夢を見すぎな気もするが、操に性行為という概念があったことに大きな衝撃を受けている。それほどまでに、甲洋は彼のことをまだ無知な子供だと認識していたのだ。
しかし考えてもみれば、今の操はもっともそういったことに興味津々な年頃と言えるだろう。むしろこの年齢ならごく自然なことである。相手がいるならなおのこと、してみたいと思うのはなにもおかしな話ではない。
動揺とは別にある種の感慨を覚えながらも、甲洋はこほんと軽く咳払いをした。
「来主にはまだ早い」
「早いってなに? ぼくもう子供じゃないよ」
「俺からすればまだ子供だ。なんの準備もなしにおいそれとできることでもないしね」
手慣れた者同士なら別だろうが、自分たちはまったくの初心者なのだ。勢いだけでどうにかなるものではないだろうし、ましてや操はまだ発育途中で身体が出来上がっているとはとても言えない。
いざその時が来たら、甲洋は当たり前のように自分が抱く側だと思っている。つまりそれは、操の身体に大きな負担をかけるということだ。心も身体もまだ幼い彼に、それが耐えられるとは思えない。
けれど操はそんな甲洋の気遣いも知らず、不満そうに顔をしかめた。
「いいじゃん別に。学校の子たちはとっくにしてるよ。ぼくだけダメなんて、そんなのズルいよ」
「うちはうち、よそはよそだ。他人と張り合う必要はない」
大方、友人間でその手の話題でも上がったのだろう。高校生ともなればすでに経験済の者がいたっておかしくはないし、それを武勇伝のように語りたがるヤツも必ずいるものだ。気持ちは分かるがすっかり感化されているらしい様子に、甲洋はささやかな嘆声を漏らす。
すると操は不服そうに吊り上げていた瞳に、じわじわと涙を浮かべはじめた。
「ぼくとはしたくないってこと?」
「……は?」
「ぼくとするのが嫌だから、君はそんなこと言うの? ぼくのこと好きじゃないの?」
唇を噛み締めながらうつむく操に、そういうところが子供なのだと呆れてしまう。
心から好きな子が目の前にいて、したくない男などいるものか。甲洋はエフェボフィリア──成人男性による思春期の男女に向かう性的嗜好──ではないが、操に限って言えばこの小さな身体を組み敷いて、すみずみまで触れてみたいという欲求が確かに存在している。だけどそれを抑え込んででも大事にしたいと、心から思っているのだ。その気持ちを疑われるのは心外でしかない。
甲洋は操と向き合い、悔しそうにすくめられた両肩にそれぞれ手を置いた。わずかに身を屈め、小首をかしげるようにしながら顔を覗き込むと、彼が理解できるように飾らず素直な言葉を選んでいく。
「来主、それは誤解だ。嫌だなんて思わないし、好きじゃなきゃキスだってしない。俺だって……本当はしたいよ。お前と、もっと先のこと」
「ほんと!?」
操が潤んだ瞳を丸くしながら顔をあげた。しっかりと頷いて見せると、彼は期待に満ちた笑顔を浮かべた。
「だったらっ」
「でもまだダメだ」
「えぇ!? なんでぇ!?」
「そういうことは焦ってするものじゃないし、男同士でするのは来主が考えてるほど簡単じゃない。俺はお前を傷つけるようなことはしたくないんだ」
甲洋の気持ちが伝わったのか、操はぐっと黙り込んでしまった。そしてまた下唇を噛みながらうつむいてしまう。甲洋はふっと笑って、その亜麻色の柔らかな髪をくしゃりと撫でた。
「大人になるのなんてあっという間だよ。それに俺が今のお前にホイホイ手なんか出したら、犯罪になっちゃうだろ?」
少しでも空気を変えられればと、最後は少しおどけてみたつもりだった。しかし操はまだ納得しきれない様子でいじけた顔をしている。
「そんなの黙ってれば分かんないのに」
「俺が罪の意識に耐えられない」
「甲洋の意気地なし」
「なんとでも言えばいいさ」
操は「ちぇー」と言って、つまらなそうに両手を頭の後ろにやって指を組んだ。
ひとまずこの場は収まりそうだと安堵したのもつかの間、操は急になにか思いついたように「そっかぁ!」と声をあげながら両手を叩いた。
「わかった! それならぼく、いいこと思いついたよ!」
「?」
「こっち来て!」
操は甲洋の手を取ると、テーブル席のひとつへ強引に引っ張った。すでに椅子はすべて逆さに伏せられていたが、その一脚を持ち上げると引っくり返して床に置く。
「ここに座って!」
「なに?」
「いいから早く!」
促されるままひとまず椅子に腰掛けた。すると一体なんのつもりだと怪訝な顔をする甲洋の膝に、操が勢いよく馬乗りになってくる。
「ちょっと、なに?」
なにやら不穏なものを感じながら上体を引き気味にする甲洋に、操は「へへー」と笑うと首に両腕を回してくる。そして次の瞬間、ぐっと顔を近づけると唇に吸いついてきた。
「んっ!?」
咄嗟に目を見開きながら、甲洋が驚いた理由は他にもあった。合わさった唇に濡れた感触が触れたと思ったら、そのまま強引に口内に侵入してきたのだ。
それが舌であると理解した瞬間、甲洋は操の両肩を掴んで引き剥がしていた。
「ばっ……な、なにしてるんだお前!?」
「なにって、ちゅうだよ?」
ケロリとした顔で言われて唖然とする。舌を入れるようなキスなんて、今まで一度もしたことがない。いつもは唇同士を軽く触れ合わせるだけで精一杯なのだ。
顔を赤くして絶句する甲洋に、操は悪戯小僧のような表情でふふっと笑った。
「今からぼくがすることに、君は絶対に手を出さないで。ただ座ってればいいよ」
「なに言って……?」
「ぼくはぼくがやりたいことを好きにやるから、君は黙ってなにもせず知らんぷりしてればいいんだ。それなら別に構わないでしょ? だってぼくが勝手にしてることだもん」
「そういう問題じゃないだろ。見て見ぬ振りなんてできるわけ」
「甲洋」
操の顔から笑顔が消えるのと、頬を両手で包み込まれるのは同時だった。彼は見たこともないほど真剣で切ない表情をしている。そこにはどこか切羽詰まったような気迫すらこもっていて、甲洋は咄嗟に言葉を失ってしまう。
「ぼくはもう何も知らない子供じゃないよ」
「来主……」
「ちゃんとやり方も知ってるし、君が思ってるほど脆くもない」
じんわりと潤んだ瞳が揺れている。そこに浮かぶ情欲の色を見て、甲洋は無意識に生唾を飲み込んでいた。うっすらと上気したまろい頬は、少女のような幼さに反して特有のあだっぽさがある。
これは不味いぞと、甲洋は思った。しっかりと蓋をして鍵をかけていたはずの欲求が、目の前の小さな火に煽られて疼きはじめている。しかしこのまま流されるわけにはいかないと、開きかけた口が熱っぽい唇によって一瞬だけ塞がれた。
「ッ、!」
「甲洋、好き。ぼくのこと、ちゃんと君の恋人にして」
そのいじらしくもある告白に、心が折れるような感覚を覚えた。相手にここまで言わせてなお拒めるほど、堅固な理性など持ち合わせてはいない。
三度重なってきた唇を黙って受け入れ、差し込まれた薄い舌の感覚に目眩を起こす。その背を抱き返して思うまま貪りたいのを必死で堪えながら、甲洋は腰かけている座面の縁を軋むほど握りしめた。
「んっ、ふ……」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて何度も唇に吸いつかれ、小さな舌が闇雲に口内を動き回るのをただ受け止めながら、その拙さに胸を掻き毟られる。
いい具合に舌同士が擦れると、膝の上で操の身体がぴくんと跳ねた。それが癖になったのか、彼はしきりに痩せた舌を擦りつけてくる。そのたびに鼻から抜けるか細い声に、異様なほど興奮させられた。
「は、ぁ……なん、か、頭のなかとろとろして……気持ちぃ、ね」
口の周りを唾液で濡らしながら、操は熱に浮かされた表情で深い息を漏らす。
手どころか舌すら出せなかった甲洋は、不完全燃焼ながらも蒸したように頭がぼうっとするのを感じていた。一方的な拙いキスでこんなに熱くなってしまうのだから、いざというときどれほど気持ちよくなってしまうのだろう。予行演習にすらならないこの状況に、未来への期待が積み立てられていくようだった。
操は甲洋の肩に手をつきながら膝から下りると、床に両膝をついた。軽く開かれた両足の間に身体を割り込ませ、両手でズボンの前を寛げようとする。頭が留守になっていた甲洋は、次に起こる出来事を察して咄嗟に肩を跳ねさせた。
「く、くるす」
「ダメ。手出ししないで」
「……っ」
自分より一回り以上も小さな相手に、ひどく威圧されているような気分だった。やろうと思えば簡単に退けられるはずなのに、縄で縛られたように身体が動かない。しかし、焦りだけはバカみたいに膨らんでいた。なにせ甲洋はもはやすっかり──
「わぁ……すごいや甲洋! もうこんなになってる!」
意外にも器用に手早く前を寛げ、下着の中から甲洋のモノを引きずり出した操が、嬉しそうに目を輝かせた。それはすっかり勃起して、ぐんと天を仰ぎ見ている。
年上とはいえ、甲洋だってまだ若い雄であることに変わりはない。それでも堪え性のない愚息に深い嘆息を漏らし、思わず片手で顔を覆った。
ここまで己を律してきたことに、一体なんの意味があったのだろう。あまりにも素直に形を変えた息子は、待ってましたと言わんばかりに元気よく脈を打っていた。
「こんなふうになってる大人ちんちん、初めて見たよ!」
「頼むから、あまり見るな……」
操が嬉しそうにすればするほど、羞恥と自責の念にいっそ消えていなくなりたい気分になった。
そんな甲洋の気も知らず、操は興味深そうに瞳をくるくるとさせながら、反るようにして勃起した性器の頭を人差し指の先で軽くつついた。
「ッ、あっ!」
思わず漏らしてしまった甘く上ずった声に、操がポカンとした顔で甲洋を見上げた。しまったと思いながら片手で口を抑えると、彼は頬を興奮で赤く染めながら顔いっぱいに喜色を広げる。
「今のなに!? すっごく可愛い! 君ってそんな声出すんだ!」
「い、今のは、ちが」
「ねぇ、もっと聞かせてよ!」
「~~ッ!」
本気で消えてしまいたい。かつてこれほどの羞恥に苛まれたことがあっただろうか。
「ここをたくさん可愛がってあげたら、さっきみたいな声いっぱい出るかな?」
「ちょっ、待っ……ぁ!」
もっともっとと強請るように脈打つ竿をむんずと掴まれ、今にも逃げ出したい思いで甲洋は内心頭を抱えてしまった。
*
そして話は冒頭に戻るというわけだ。
操は歯を食いしばる甲洋をどうにかして鳴かせようと躍起になり、あの手この手で性器を刺激し続けている。しかしここでおめおめと声を出すなんて、そんなことはプライドが許さない。
小さな口にぱっくりと咥えられると秒でイキかけたが、頬肉の内側を血がにじみそうなほど噛んでギリギリ堪えてみせた。さっきからその繰り返し。甲洋にはいつしかイッたら負けという、謎の対抗心まで芽生えはじめていた。
「こんなにピクピクして固くなってるのに……なんで? 気持ちよくないの?」
「ッ、……さぁ?」
額に脂汗を滲ませながらも、平静を装って目を逸らす。
自分でもよくぞここまで耐えていると思うが、不慣れな操はしょっちゅう力の加減を間違えるし、歯を立てられるなどして痛みが走ることもしばしばあった。
おそらくこの子は、まともに自慰もしたことがないのだろう。同じ男だからこそ分かるはずの扱い方や匙加減を、彼は全く知らない様子だ。
それでも甲洋自身が元気なままでいるのは、この特殊な状況や視覚的なものによるところが極めて大きい。
小さな両手を添えながら、チロチロと子猫のように這わされる赤い舌だとか、喉奥まで押し込もうとして苦しげに歪められる表情だとか、くぐもった声だとか。自慰では決して得られない興奮に、まるで脳が揺れているかのようだった。
「さっきみたいな声もっと聞きたいのにぃ」
操は手の中の竿をきゅっと握りながら唇を尖らせた。ここで諦めてくれさえすれば、後はトイレにでも駆け込んでどうとでも処理してしまうことができる。どことなく終わりの空気を感じた甲洋は、幾らか気を抜きながら深い息をついた。
「もういいだろ。時間も遅いし、今日はこのくらいに」
「やだね」
しかし操は眉を吊り上げ、引こうとしない。
「だってこのままじゃ悔しいし。それに、最後までしなきゃ意味ないじゃん」
「最後までって……」
まだ言ってるのかと呆れる甲洋を他所に、操は立ち上がると自分のウエストに手をかけた。ズボンの前をすっかり緩めると下着ごと勢いよく下ろして、下半身を丸出しにしてしまう。
「!?」
惜しげもなく晒された白い半身に、甲洋は息がつまるほど驚いた。声すら失って硬直していると、操は裾を踵から引き抜く際に靴まで一緒に脱ぎ捨てて、ポイッと床に放ってしまう。そして意気揚々と、再び甲洋の膝に跨ってくる。
その身体の中心では拙い性器がゆるく勃ちあがっていた。甲洋に奉仕しながら、彼もまた興奮していたという事実に目が眩みそうになる。
「あは、ぼくのおちんちんも、甲洋のと同じになってる」
操はまるで見せつけるかのように自分の右手を自身に触れさせ、ゆるく握り込むと軽く扱いた。
「あっ、ぁん、ぁ……っ、は……これ、きもち、ぃ」
「くる、す……っ」
かぶさった皮の切れ目から、桃色の先端がほんの少しだけ頭を覗かせている。そこからじわじわと滲みだす先走りが、擦り上げる手の動きに馴染んでちくちくと卑猥な音を奏でていた。
呆然としながら幼い屹立とその痴態に見入っていた甲洋に、操がふっと微笑んだ。
「触りたい?」
「……ッ!」
「でも、ダメ。だってそんなことしたら、君は悪い大人の仲間入りだもん」
憎らしさと口惜しさを同時に覚え、甲洋はぐっと奥歯を噛み締める。ギリギリまで張り詰めている理性の糸が、今にも音を立てて千切れてしまいそうだった。
細い腕の片方が甲洋の首にまわり、もう片方の手がそっと頬に触れてくる。軽く上向かされると、操がすぅっと目を細めた。
「ぼくはそれでもいいけどね。君が悪い大人でもちゃんと好きだし、誰にも言わない。お母さんにだって言わないよ。ぼくらだけの秘密にしててあげるから」
今の甲洋にとって、それは蜜より甘い誘惑だった。ずっと何も知らない子供だと思っていたはずの操が、妖艶な笑みすら浮かべて年上の男をそそのかしている。ほのかな喪失感と共に、脳が揺れるほどの興奮が再び甲洋を襲った。
「来主……」
見えない糸で操られているかのように、甲洋は震える両手を操の太腿に這わせていた。あのよく知る無邪気な笑顔が、くすぐったそうに笑い声をあげる。
ああ、触れてしまった。決して手出しはすまいと必死で堪えていたのに。操の肌は瑞々しくて、誘うように手の平に吸いついてくる。じわじわと足の付根に向かって撫でていきながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。
指先が今にも濡れた幼茎に届こうとしたとき、操の両手がそれぞれ甲洋の手の甲にかぶさった。緩く掴まれたと思ったら、彼はその手を自分の脇腹へと移動させてしまう。
「来主……っ」
なぜ触れさせてくれないのかと、甲洋は切なく瞳を細めて操を見つめる。彼はどこか意地悪そうに微笑むと、吐息だけで「悪いひと」と囁いて甲洋の額にキスをした。
煽ったと思えば焦らしてくる。一体どこで覚えてきたんだと問い詰めたい思いに駆られながらも、年下の恋人に弄ばれていることに興奮させられた。このまま最後まで委ねてしまえば、その先にどんな快楽があるのだろう。どうしても知りたくて、待てと命じられたまま放っておかれる犬のような感覚にすら、気持ちが高ぶる。
意識が桃色の霧に覆われたようになりながら、甲洋はただぼうっとした顔で操の動きを見守った。彼は片手と片足を甲洋の肩と床につけて身体を傾け、もう片方の手を下へと伸ばす。先走りと唾液で根元まで濡れている甲洋の肉筒に指を添えると、細腰が位置を調節するように蠢いた。
甲洋はおとなしく操の脇腹に手を添えて、一連の動きを支える。先端が、窄まったなにかにそっと押し当てられた。
「言ったでしょ? ちゃんとやり方知ってるって」
ごくりと喉を鳴らした甲洋に、操は得意げな顔でそう言った。意識はとっくに霧に飲まれて、甲洋にはもうまともな思考などできやしない。最高潮まで達した期待に肌が粟立ち、ただ貪欲に息を震わせることしかできなかった。
バカになっていたのだ。場の空気と激しい渇望に飲まれて、それはもう完全に。だから操が躊躇なく全体重をかけて腰を落とした瞬間、
「いっ……たぁ~~~い!!」
──と上がった甲高い悲鳴に、風船が割れたような衝撃を覚えた。
「ッ!?」
「あうぅ、痛いぃっ! なにこれ!? こんなの無理じゃん! 裂けちゃうよぉ!」
操は片足の爪先だけ床につけた状態で、ぎゃんぎゃんと喚き散らしている。その様子にハッと我に返った甲洋は、慌ててその両肩を掴むと引き離そうとした。
「まっ、待って! やだ! まだ先っちょしか入ってないー!」
「だからまだ早いって言っただろ! うぁッ、ちょっ、俺も痛いから暴れるな!」
乾いた孔に先端だけ中途半端にめり込んでいるという状態は、操だけでなく甲洋にも甚大な痛みをもたらしている。なにせ最も敏感な場所だ。このまま押し切れば、お互いただじゃ済まないだろう。
痛いだの無理だのと言ってギャン泣きするくせに、どうあっても強行するつもりでいる操の意味不明な頑固さに痺れを切らし、甲洋はその両脇にそれぞれ手を差し込むと、強く引き上げて位置をずらすことに成功した。
共に激痛から開放されてホッと息をつくと、操が泣きながら胸にもたれかかってくる。
「うぅ~ぐやじい~」
「これで分かっただろ……」
盛大に溜息をつき、その背をポンポンと叩いてあやしてやる。操も甲洋もすっかり萎えて、その勢いを失っていた。
「俺たちがこういうことをしようと思ったら、ちゃんと時間をかけて慣らさなきゃ無理なんだ。そういうふうには身体が作られてないんだよ。男なんだから」
「だぁってぇ! 漫画で読んだときは簡単そうだったんだもぉん!」
「漫画だって?」
唖然とするしかない甲洋に、操は真っ赤な鼻をズビッとすすった。
「ちゃんと見て勉強したもん……男同士でエッチなことしてる本」
「どこで見たんだ、そんなもの」
魂まで一緒に抜けてしまいそうなほどの溜息をつきながら問いかけた甲洋に、操は「学校」と不貞腐れた声で吐き捨てる。
それは友達の一人が、面白半分で持参してきたものだった。いわゆるボーイズラブ漫画というやつだ。姉の本棚からこっそり拝借してきたらしい。やめてさしあげろと、甲洋は思った。
漫画の中では男同士がいともたやすく行為に及んでいて、男女がするのとまるで変わらない描写がなされていた。操はそれをまるっと鵜呑みにしてしまったというわけだ。
「お前はフィクションとノンフィクションの区別もつかないのか……」
呆れを通り越して、情けなさが込み上げる。かめはめ波が撃てると信じて必死に練習するチビっ子と同レベルだ。尻の穴が自然と濡れるのはそりゃあ漫画の世界だからであって、所詮はファンタジーでしかない。
「だから子供だっていうんだよ」
「もう! 甲洋まで子供扱いするのいい加減にしてよ! なんでみんなしてぼくのことバカにするのぉ!?」
すっかり癇癪を起こして叫ぶ操に、甲洋はほとほと困り果てながら首を傾げた。目線だけでどういうことだと問いかけると、操は何度も鼻をすすりながら事の経緯を話しはじめた。
さっきの話にはまだ続きがあったのだ。友人たちは例の漫画をひとしきり読んでひやかしたあと、「やっぱり付き合うなら女の子じゃないとな」と口々に騒ぎはじめた。
そこから発展して下品な下ネタが飛び交いだして、その間も漫画を熟読し続けていた操は取り残された。
するとすでに経験済みだという友人の一人が、そんな操に気づいて「来主はおこちゃまだからなぁ」などと言ってからかってきた。どうせ意味なんか分からないだろう、と。確かに操はその手の話題に疎くはあったが、賛同した他の友人たちにまで笑われて、思わずムッとしてしまった。
だから言ってやったのだ。自分にだってそういう相手くらいいるのだと。
「そういう相手って……男の?」
「そこまでは聞かれてないから言ってない。年上の人と付き合ってるって言っただけ」
「それで?」
「みんなすごくビックリして興奮してたよ。年が上ってだけでエロいんだってさ」
「なるほどね」
年頃の男子高校生たちのなかで、自分は年上のエッチなお姉さんと認識されてしまったわけだ。実際は年上のスケベなお兄さんなわけだが……。
「でも、まだエッチなことはしてないって言ったら、またバカにされた」
一瞬で全員の操を見る目が変わったものの、キスしかしてないと知った途端に、またバカにされてしまった。
「それはぼくが子供だから、相手の人はからかって遊んでるだけだって。恋人としてじゃなくて、子犬とか子猫を可愛がってるのと同じだって」
「……だから不安になった?」
悔し涙を流しながら頷いた操に、なぜ彼がああも切羽詰まった様子で迫ってきたのかが、ようやく理解できた。
操はただ単純に子供扱いされたから腹を立てていたのではなく、他者から甲洋との関係を否定されたことに傷ついたのだ。だから不安になって、焦りを覚えた。
「エッチすれば、ちゃんと大人だって認めてもらえるんでしょ? 遊びじゃなくて、ちゃんと恋人になれるんでしょ?」
赤くなった瞳で問いつめてくる操に、甲洋はふっと笑いかけてその目尻の涙を優しく拭ってやった。
「遊びじゃないよ、来主」
「甲洋……?」
「俺は遊びで付き合ってるつもりなんかない。来主のこと、ちゃんと恋人だと思ってる」
「……ほんと?」
まんまるの瞳をじっと見つめて、うんと頷く。
「だから大事にしたい。焦らないで、ゆっくりでいいから」
甲洋は操の身体を胸に引き寄せ、すっぽりと腕の中に閉じ込めた。高めの体温に愛しさが込み上げ、柔らかな髪にそっと頬を擦りつける。嬉しかった。呆れもしたが、操が自分のことでこんなにも不安に駆られ、焦って空回りしてしまうくらい想ってくれていたことが。
だからこそ、失敗してよかったと思う。あのまま無理にでも続けていたら、今ごろ立ち直れないくらい後悔することになっていた。
「あと2年、待って」
「え?」
おとなしく甲洋の腕に抱かれていた操が、軽く身じろいで顔をあげる。
「俺も待つから。お前がもう少し大きくなったら、次はちゃんとふたりでしよう。そうしたら……今度は泣いてもやめないよ」
操は瞳を瞬かせて、それからきゅっと唇を噛み締めながら頬を赤らめる。一方的にせがむばかりだったのと、行為が失敗に終わったことですっかり諦めていたところに示された甲洋の積極性に、珍しく面食らった様子だった。
「ほ、ほんとに? 今度はもう、ダメって言わない?」
「言わないよ。言うわけない」
どれだけ我慢していると思っているのだ。大人になるなんてあっという間だなんて言っておいて、きっと途方もなく長い2年になるだろうと確信している。
それでも操は嬉しそうに、ようやく明るい笑顔を見せた。
「わかった! ちゃんと待つから、約束だよ!」
そう言って、甲洋の首に抱きついてきた。浮かれた様子で、甲洋に跨ったまま宙に浮いている両足をブラブラと揺らしては、喜びを表現している。
その背を抱き返しながら、すっかりいつも通りの操に戻っていることに安堵する。艶っぽい笑みに翻弄されるのも悪くはなかったが、やっぱり甲洋は無邪気で子供っぽい彼のことが好きなのだ。
(それにしても……)
ふと、さっきまでの操の様子を思いだしながら甲洋は思う。あのやけになまめかしい色香のある仕草や表情も、例の漫画から仕入れた知識だったのだろうか。もしあれが素でやっていたことなんだとしたら、なんて末恐ろしいのだろう。
思いだすだけで胸をドギマギとさせる甲洋の唇に、ちゅうっと音を立てながら操が幼いキスをする。んっ、と声を上げながら受け止めて、甲洋は考えるのをやめた。
今すぐ確かめるのは簡単だけれど、どうやら自分は焦らされるのが嫌いじゃないらしい。それが分かってしまったから、楽しみは2年後にとっておくことにした。
←戻る ・ Wavebox👏
未だにショコラに苦手意識をもつ操は渋い顔をするが、楽園から羽佐間家はここのところ寝ていることが多くなってきたショコラをのんびり散歩させるのにも、ちょうどいい距離だった。
羽佐間家ではそのまま夕食に誘われることがほとんどだった。
その日も容子の厚意をありがたく受けた甲洋は、お喋りな操と声を立てて笑う容子のふたりを見守りながら、まるで本当の家族のような団欒を楽しんだ。
「操、今日から入浴剤を新しくしたのよ。お風呂、今夜は早めに入っちゃったら?」
食後、床に寝転んで白猫のクーと戯れていた操に、風呂の支度を済ませて戻ってきた容子が優しく声をかけた。
腹の上にクーを乗せ、その背中の毛をわしゃわしゃと逆撫でていた操は起き上がり、ニッコリ笑って「はぁい」と元気に返事をする。ようやく子守から開放されたクーは「ニャー」とひと鳴きし、ソファへ移動すると毛づくろいをしはじめた。
「新しい入浴剤ってなに? お母さん」
「昨日までは薔薇の香りだったでしょ? 今度は柚子にしてみたの」
「ふぅん。お湯の色も変わった?」
「見てみれば分かるわよ」
「わかった! じゃあ行ってくるね!」
ウキウキとした様子で操がリビングを飛び出していく。
「肩までしっかりあったまるのよ」
「はぁい!」
テーブルで食後のコーヒーをご馳走になっていた甲洋は、微笑ましい親子の会話に目を細めて笑うと席を立つ。一緒にご飯をもらったあと、足元で寝そべっていたショコラがスッと顔を上げた。
「それじゃあ、俺はそろそろ」
「あ、待って甲洋くん」
すると容子は少し焦った様子で甲洋を引き止めた。
なにごとかと目を軽く瞬かせると、彼女は眉をハの字にして肩をすくめる。
「ちょっとね、相談したいことがあって」
「相談?」
「ええ……コーヒー、もう一杯どうかしら?」
「じゃあ、いただきます」
容子は甲洋の返事にホッとした表情を浮かべると、テーブルの上から空のカップを手に取った。
操のことだろうなと察しつつ、再び椅子に腰掛けようとした──そのとき
「お母さぁん!」
と、声を張り上げながら、眉を吊り上げた操がドタバタと戻ってきた。全裸で。
「!?」
「あら、どうしたの?」
「ぼくのパンツ、これじゃないのがいいっていつも言ってるじゃん!」
操はプリプリと怒りながら、手に掴んでいるパンツを高く持ち上げた。それはいかにもキッズな白ブリーフに、ポップなクマちゃんの顔がプリントされたものだった。
容子チョイスのお子様パンツにも目を剥いたが、いくら親子という肩書があるとはいえ、女性の前で全裸をさらす姿にいたたまれなくなった甲洋は、即座に脱衣所にワープして、タオルを手にとるとまたワープで戻った。そしてそのタオルを操の腰に手早く巻きつけ、ふぅ……と息をつく。(この間およそ3秒)
その間も、親子の会話は平然と続いていた。
「いいじゃないの。いったいなにが不満なの?」
「こんなパンツは嫌だよ! そうしがはいてるのと一緒じゃん!」
流石にこれはなぁと、甲洋も心の中で操の意見に同意した。中身は幼子も同然だが、見た目は年頃の少年である。普段大人に囲まれて労働だってしているし、よちよち歩きの域を出ない総士と同じ扱いというのも、確かに複雑だ。クマちゃんプリントのキッズパンツには、いくらなんでも抵抗があるだろう。
「困ったわね……じゃあどんなパンツがいいの?」
「黒の紐パンがいいんだってば! こないだから言ってるでしょ!」
「!?」
え、待ってお前そういうの好きなの? 背伸びしすぎでは……っていうかそれ本当にはく気? う、嘘ぉ……と、甲洋は内心激しく動揺したが、死んでも顔には出さないよう頬肉をピクピクさせながら必死で堪えた。気を抜くと想像してしまいそうでヤバい。(むっつり)
「それはあなたにはまだ早いわ。刺激が強すぎるもの。ねぇ甲洋くん?」
「なぜ俺に同意を求めるのか」
「あのねお母さん、甲洋は白いフリフリパンツの方が好きなんだって」
「あらそうなの? でも、確かにそんな感じよねぇ」
「今月の給料は0だよ、来主」
「えぇ!? なんでぇ!? 本当のこと言っただけなのに!」
癖(へき)を読まれたあげくにバラされて、ちょっと泣きたくなってしまった甲洋だったが、気を取り直すように軽く咳払いをすると容子を見た。
「無難に無地とか、チェックのトランクスでいいのでは?」
すると容子に「甲洋くんはそれでいいの?」と、なぜかとても心配された。
いやあの、いざってときにクマちゃんプリントも複雑すぎますお義母さん……と思ったが、深く突っ込んでいると話が終わりそうにないので、甲洋は操を見ると『さっさと風呂に入りな』と心通信を送った。操は甲洋に向かってベーッと舌を出し、「ふんだ!」と言って廊下へ消えていく。
容子はそんな操にすっかり困り顔で、右手を頬にあてながら小さな息を漏らした。
「男の子を育てるって大変ね……」
そういう問題じゃねぇと、ここに御門零央がいれば格好よく言ってくれたかもしれないなぁと、甲洋は思った。
*
その夜。
午前零時を少し過ぎたころ、甲洋は再び羽佐間家を訪れていた。
心を無にし、完全に閉ざした状態で木陰に身を隠す。するとキィッと音を立て、玄関の扉が開かれた。
操だ。彼はTシャツにベストとハーフパンツという姿で、辺りをキョロキョロと窺っては静かに家を抜け出した。
(なるほど)
容子の言っていた通りだ。
あのあと、ようやく静かになったリビングで彼女から受けた相談内容は、操が深夜にこっそり家を抜け出してなにかしているらしい、というものだった。
帰りはいつも朝方近くで、どこへ行っているのか尋ねても「秘密」としか言わないらしい。
心当たりはないかと問われたが、甲洋は首を左右に振ることしかできなかった。
なにか母親には相談しにくいことがあるのかもしれない。このままそっとしておくべきかどうかと、容子は頭を悩ませていた。
甲洋はそんな彼女を少しでも安心させることができるならと、操の動向を探ってみることにした。
実際、甲洋としてもちょっと気になっているのは確かである。
(まさかとは思うけど、彼女とか──?)
あるいは彼氏、とか。
(……そんなわけ)
しかしである。子供パンツを嫌だと言ったり、紐パンなんて破廉恥なものを穿きたがったり、それはもしかしてもしかしなくても、彼が色気づいているということの証拠ではないだろうか。
気合が入った下着を欲しがるということは、それを見せたい相手がいるということで──
「待て来主!!」
一体どこのスケベ野郎だろうかそれは。娘は絶対嫁にやらんぞと目を血走らせる父親がごとく、血相を変えた甲洋は操がタタターッと駆けていった方向に全力疾走した。
*
たどり着いたのは『新・鈴村神社』だった。
真夜中、そして神社の境内といえば、やりたい盛りの田舎の高校生カップルが逢引する場所と決まっている。(偏見)
甲洋は石段を駆け上ると操の姿を探した。すると境内の一角にある手水舎のそばに、ちょこんとしゃがみこんでいる姿を捉えることができた。
他に人がいる様子はなく、甲洋はひとまずホッと息をつきながら静かに手水舎へと足を向ける。
「も~、待ってよ。順番だよ」
「ニャー! ウニャニャー!」
「わかったってば! ちゃんとみんなの分のちゅ~るあるから!」
「ウミャミャミャミャーイ!」
「そんなに美味しいんだ? ぼくも食べてみようかな」
そこには数匹の猫に囲まれた操の姿があった。
「……なにしてんのさ」
「わっ!?」
半ば呆れた気分で声をかけた甲洋に、猫まっしぐらになっていた操が肩を跳ねさせた。ちゅ~るをもらっていたらしい猫たちも、驚いて散り散りに逃げていく。
「なぁんだ君か……ビックリさせないでよ。あーぁ、みんな怖がって逃げちゃった」
「お前はここでなにをしてるの」
「見てわかんない? 猫集会だよ」
「猫集会って……」
「あ、また集まってきた」
猫は十匹近くいた。黒や白やブチや、様々な柄の猫たちが操と甲洋を囲むようにしてぐるりと円を描いて座りはじめる。
猫集会、というのはあれか。深夜に人知れず行われているという、野良猫たちの社交場のことか。そこで餌場などの情報交換を行っているとか、連携強化をしているとか様々な説があるらしいが、なぜそこに操が参加しているのだろう。
「ぼくもお呼ばれしてるんだ。ちゅ~るを持ってくる決まりだからね」
「ヤンキーの上下関係みたいになってない……?」
「お母さんには言わないで。誰にも言っちゃダメなんだ」
「はぁ……」
仮にもボレアリオスミールのコアである彼が、あの巨大空母の主であるエレメントが、野良猫たちに「焼きそばパン買ってこいよ」のノリでちゅ~るをカツアゲされているというのか。
それよりなにより、彼はいつの間に猫語をマスターしたのだろう。ショコラとは未だに和解できずにいるというのに、操は謎の能力を開花させているようだった。
「ゴロニャ~ゴ! ニャニャニャ~ゴ!」
するといかにもボスといった貫禄ある黒猫が、操に向かってなにやら声をあげはじめた。
「え~? うん、そう? え? ん~、別にいいけど」
「……この子はなんて?」
「君は犬の匂いがするから危険な存在だって。でも、モンプチを持ってくるなら次から参加してもいいってさ」
「俺までパシリにする気か……」
エレメント<<<<<越えられない壁<<<<<<野良猫の図が完成していた。
甲洋はやるせない気持ちになりながら溜息を漏らし、操の横にしゃがみ込む。懐っこい白黒のブチが、操の膝にスリスリと身を寄せて甘える光景を横目で見やった。
「ンニャ~? ンニャニャオ~ン?」
「え~? なにそれ?」
「ニャニャニャ~ン。ニャニャニャ~ゴ」
「ッ! ち、違うよ! ぼく甲洋のこと、別に好きじゃないし!」
「ンニャニャニャ~! ニャオォ~ンニャニャニャ~」
「本当だってば! そんなの知らない!」
一体なにを話しているのだろうか。
けれど珍しく頬を赤らめて焦っている操を見て、なにやら自分との関係性を冷やかされているらしいことは察することができた。必死で否定している様子に可笑しさを覚え、甲洋はあえて会話の内容を聞かず、思考を繋げることもしなかった。断ち切ったまま、こちらも悟らせないようにする。
「容子さんが心配してる。ほどほどにしておきな」
そう言って操の頭をくしゃりと撫でて立ち上がる。操はぶぅっと頬を膨らませ、それでも「わかってるよ」と言って同じく立ち上がった。
*
「ねぇ甲洋、ラブラブってなに?」
帰り道、羽佐間家の正面で立ち止まった操は、どこか解せないといった顔つきで甲洋を上目使いに見上げた。
「なに、急に」
「ぼくと君ってラブラブなの?」
「さっきの子がそう言ってた?」
うん、と操が頷いた。
ませた猫だなぁと感心しながら、甲洋は操を見つめるとそっと静かに目を閉じる。
「俺も、来主のことは好きじゃない」
「え!?」
おもむろに言い放った甲洋に、操は肩をビクーンと跳ねさせながら目を見開いた。そしてみるみるうちに表情を歪め、唇を噛み締めながらうつむいてしまう。
「嘘だよ」
「ほんと!?」
小さく笑いながら頷くと、今度はあからさまにホッとしたような顔をした。その百面相ぶりに込み上げる笑いを堪える。
操は「驚かさないでよ」と言いながら、右手で胸のあたりを押さえつけた。それからなにやら考え込み、眉間にシワを寄せて甲洋を見上げる。
「ねぇ、これってなに? 一瞬ここがぎゅっとしたんだけど……これがラブってこと?」
「お前がそう思うなら、そうかもね」
「ふぅん」
操はやっぱりまだ納得がいかない様子だった。
彼にはまだ分からないだろうなと、甲洋は思う。分かってほしくないような気もするし、だけど同時にもどかしさのようなものも覚えている。甲洋自身、きっとまだ持て余している最中なのだ。
その甘酸っぱさを、甲洋は知っている。だけどそのどこか宙に浮いた覚束ない感情が、今は心地いいとすら感じていた。
「……俺も聞いていい?」
しかしながら、どうしても気になっていることがある。
少し迷いながら切り出した甲洋に、操が目をくるりとさせながら首を傾げた。
「なに?」
「下着さ……黒の」
言いよどむ甲洋に、操は「紐パン?」とケロリとした顔で言った。
「……そう、それ」
「だってあれカッコよくない? お母さんだってときどきはいてるし」
「!?」
え、ちょ待っ、容子さ……え、う、嘘ぉぉ……と、知る必要のない事実を知らされてしまった甲洋は、心臓をバクバクとさせながら思わず塀に手をついた。今すぐ誰かに眠らせてほしい。そして都合よく記憶を消してほしい。
「なに? どうかした?」
「……来主、女の人がつけている下着の話は、誰彼構わずしていいものじゃない。覚えておいて」
「? うん、わかった! じゃあぼくもう帰るね!」
また明日! と元気に言って、操は家の中に入っていく。
残された甲洋はどっと押し寄せる疲労感に項垂れると、ワープして家に帰った。
~その後~
猫集会はなぜか神社から場所を楽園前に移し、甲洋は夜毎せっせとモンプチを準備させられることになった。
猫と操の謎会話を聞きながらカウンターで読書をしつつ、目の届く範囲にいてくれるならまぁいいかと妥協している。
約束通り猫集会のことは伏せつつ、なにも心配するようなことはないと伝えると、容子も安心したようだった。
そうして海神島での夜はニャーニャーと騒がしく、そして穏やかに過ぎていくのである。
←戻る ・ Wavebox👏