楽園(二号店)での業務を終えると、甲洋はショコラを連れて操を羽佐間容子が待つ家に送り届ける。
未だにショコラに苦手意識をもつ操は渋い顔をするが、楽園から羽佐間家はここのところ寝ていることが多くなってきたショコラをのんびり散歩させるのにも、ちょうどいい距離だった。
羽佐間家ではそのまま夕食に誘われることがほとんどだった。
その日も容子の厚意をありがたく受けた甲洋は、お喋りな操と声を立てて笑う容子のふたりを見守りながら、まるで本当の家族のような団欒を楽しんだ。
「操、今日から入浴剤を新しくしたのよ。お風呂、今夜は早めに入っちゃったら?」
食後、床に寝転んで白猫のクーと戯れていた操に、風呂の支度を済ませて戻ってきた容子が優しく声をかけた。
腹の上にクーを乗せ、その背中の毛をわしゃわしゃと逆撫でていた操は起き上がり、ニッコリ笑って「はぁい」と元気に返事をする。ようやく子守から開放されたクーは「ニャー」とひと鳴きし、ソファへ移動すると毛づくろいをしはじめた。
「新しい入浴剤ってなに? お母さん」
「昨日までは薔薇の香りだったでしょ? 今度は柚子にしてみたの」
「ふぅん。お湯の色も変わった?」
「見てみれば分かるわよ」
「わかった! じゃあ行ってくるね!」
ウキウキとした様子で操がリビングを飛び出していく。
「肩までしっかりあったまるのよ」
「はぁい!」
テーブルで食後のコーヒーをご馳走になっていた甲洋は、微笑ましい親子の会話に目を細めて笑うと席を立つ。一緒にご飯をもらったあと、足元で寝そべっていたショコラがスッと顔を上げた。
「それじゃあ、俺はそろそろ」
「あ、待って甲洋くん」
すると容子は少し焦った様子で甲洋を引き止めた。
なにごとかと目を軽く瞬かせると、彼女は眉をハの字にして肩をすくめる。
「ちょっとね、相談したいことがあって」
「相談?」
「ええ……コーヒー、もう一杯どうかしら?」
「じゃあ、いただきます」
容子は甲洋の返事にホッとした表情を浮かべると、テーブルの上から空のカップを手に取った。
操のことだろうなと察しつつ、再び椅子に腰掛けようとした──そのとき
「お母さぁん!」
と、声を張り上げながら、眉を吊り上げた操がドタバタと戻ってきた。全裸で。
「!?」
「あら、どうしたの?」
「ぼくのパンツ、これじゃないのがいいっていつも言ってるじゃん!」
操はプリプリと怒りながら、手に掴んでいるパンツを高く持ち上げた。それはいかにもキッズな白ブリーフに、ポップなクマちゃんの顔がプリントされたものだった。
容子チョイスのお子様パンツにも目を剥いたが、いくら親子という肩書があるとはいえ、女性の前で全裸をさらす姿にいたたまれなくなった甲洋は、即座に脱衣所にワープして、タオルを手にとるとまたワープで戻った。そしてそのタオルを操の腰に手早く巻きつけ、ふぅ……と息をつく。(この間およそ3秒)
その間も、親子の会話は平然と続いていた。
「いいじゃないの。いったいなにが不満なの?」
「こんなパンツは嫌だよ! そうしがはいてるのと一緒じゃん!」
流石にこれはなぁと、甲洋も心の中で操の意見に同意した。中身は幼子も同然だが、見た目は年頃の少年である。普段大人に囲まれて労働だってしているし、よちよち歩きの域を出ない総士と同じ扱いというのも、確かに複雑だ。クマちゃんプリントのキッズパンツには、いくらなんでも抵抗があるだろう。
「困ったわね……じゃあどんなパンツがいいの?」
「黒の紐パンがいいんだってば! こないだから言ってるでしょ!」
「!?」
え、待ってお前そういうの好きなの? 背伸びしすぎでは……っていうかそれ本当にはく気? う、嘘ぉ……と、甲洋は内心激しく動揺したが、死んでも顔には出さないよう頬肉をピクピクさせながら必死で堪えた。気を抜くと想像してしまいそうでヤバい。(むっつり)
「それはあなたにはまだ早いわ。刺激が強すぎるもの。ねぇ甲洋くん?」
「なぜ俺に同意を求めるのか」
「あのねお母さん、甲洋は白いフリフリパンツの方が好きなんだって」
「あらそうなの? でも、確かにそんな感じよねぇ」
「今月の給料は0だよ、来主」
「えぇ!? なんでぇ!? 本当のこと言っただけなのに!」
癖(へき)を読まれたあげくにバラされて、ちょっと泣きたくなってしまった甲洋だったが、気を取り直すように軽く咳払いをすると容子を見た。
「無難に無地とか、チェックのトランクスでいいのでは?」
すると容子に「甲洋くんはそれでいいの?」と、なぜかとても心配された。
いやあの、いざってときにクマちゃんプリントも複雑すぎますお義母さん……と思ったが、深く突っ込んでいると話が終わりそうにないので、甲洋は操を見ると『さっさと風呂に入りな』と心通信を送った。操は甲洋に向かってベーッと舌を出し、「ふんだ!」と言って廊下へ消えていく。
容子はそんな操にすっかり困り顔で、右手を頬にあてながら小さな息を漏らした。
「男の子を育てるって大変ね……」
そういう問題じゃねぇと、ここに御門零央がいれば格好よく言ってくれたかもしれないなぁと、甲洋は思った。
*
その夜。
午前零時を少し過ぎたころ、甲洋は再び羽佐間家を訪れていた。
心を無にし、完全に閉ざした状態で木陰に身を隠す。するとキィッと音を立て、玄関の扉が開かれた。
操だ。彼はTシャツにベストとハーフパンツという姿で、辺りをキョロキョロと窺っては静かに家を抜け出した。
(なるほど)
容子の言っていた通りだ。
あのあと、ようやく静かになったリビングで彼女から受けた相談内容は、操が深夜にこっそり家を抜け出してなにかしているらしい、というものだった。
帰りはいつも朝方近くで、どこへ行っているのか尋ねても「秘密」としか言わないらしい。
心当たりはないかと問われたが、甲洋は首を左右に振ることしかできなかった。
なにか母親には相談しにくいことがあるのかもしれない。このままそっとしておくべきかどうかと、容子は頭を悩ませていた。
甲洋はそんな彼女を少しでも安心させることができるならと、操の動向を探ってみることにした。
実際、甲洋としてもちょっと気になっているのは確かである。
(まさかとは思うけど、彼女とか──?)
あるいは彼氏、とか。
(……そんなわけ)
しかしである。子供パンツを嫌だと言ったり、紐パンなんて破廉恥なものを穿きたがったり、それはもしかしてもしかしなくても、彼が色気づいているということの証拠ではないだろうか。
気合が入った下着を欲しがるということは、それを見せたい相手がいるということで──
「待て来主!!」
一体どこのスケベ野郎だろうかそれは。娘は絶対嫁にやらんぞと目を血走らせる父親がごとく、血相を変えた甲洋は操がタタターッと駆けていった方向に全力疾走した。
*
たどり着いたのは『新・鈴村神社』だった。
真夜中、そして神社の境内といえば、やりたい盛りの田舎の高校生カップルが逢引する場所と決まっている。(偏見)
甲洋は石段を駆け上ると操の姿を探した。すると境内の一角にある手水舎のそばに、ちょこんとしゃがみこんでいる姿を捉えることができた。
他に人がいる様子はなく、甲洋はひとまずホッと息をつきながら静かに手水舎へと足を向ける。
「も~、待ってよ。順番だよ」
「ニャー! ウニャニャー!」
「わかったってば! ちゃんとみんなの分のちゅ~るあるから!」
「ウミャミャミャミャーイ!」
「そんなに美味しいんだ? ぼくも食べてみようかな」
そこには数匹の猫に囲まれた操の姿があった。
「……なにしてんのさ」
「わっ!?」
半ば呆れた気分で声をかけた甲洋に、猫まっしぐらになっていた操が肩を跳ねさせた。ちゅ~るをもらっていたらしい猫たちも、驚いて散り散りに逃げていく。
「なぁんだ君か……ビックリさせないでよ。あーぁ、みんな怖がって逃げちゃった」
「お前はここでなにをしてるの」
「見てわかんない? 猫集会だよ」
「猫集会って……」
「あ、また集まってきた」
猫は十匹近くいた。黒や白やブチや、様々な柄の猫たちが操と甲洋を囲むようにしてぐるりと円を描いて座りはじめる。
猫集会、というのはあれか。深夜に人知れず行われているという、野良猫たちの社交場のことか。そこで餌場などの情報交換を行っているとか、連携強化をしているとか様々な説があるらしいが、なぜそこに操が参加しているのだろう。
「ぼくもお呼ばれしてるんだ。ちゅ~るを持ってくる決まりだからね」
「ヤンキーの上下関係みたいになってない……?」
「お母さんには言わないで。誰にも言っちゃダメなんだ」
「はぁ……」
仮にもボレアリオスミールのコアである彼が、あの巨大空母の主であるエレメントが、野良猫たちに「焼きそばパン買ってこいよ」のノリでちゅ~るをカツアゲされているというのか。
それよりなにより、彼はいつの間に猫語をマスターしたのだろう。ショコラとは未だに和解できずにいるというのに、操は謎の能力を開花させているようだった。
「ゴロニャ~ゴ! ニャニャニャ~ゴ!」
するといかにもボスといった貫禄ある黒猫が、操に向かってなにやら声をあげはじめた。
「え~? うん、そう? え? ん~、別にいいけど」
「……この子はなんて?」
「君は犬の匂いがするから危険な存在だって。でも、モンプチを持ってくるなら次から参加してもいいってさ」
「俺までパシリにする気か……」
エレメント<<<<<越えられない壁<<<<<<野良猫の図が完成していた。
甲洋はやるせない気持ちになりながら溜息を漏らし、操の横にしゃがみ込む。懐っこい白黒のブチが、操の膝にスリスリと身を寄せて甘える光景を横目で見やった。
「ンニャ~? ンニャニャオ~ン?」
「え~? なにそれ?」
「ニャニャニャ~ン。ニャニャニャ~ゴ」
「ッ! ち、違うよ! ぼく甲洋のこと、別に好きじゃないし!」
「ンニャニャニャ~! ニャオォ~ンニャニャニャ~」
「本当だってば! そんなの知らない!」
一体なにを話しているのだろうか。
けれど珍しく頬を赤らめて焦っている操を見て、なにやら自分との関係性を冷やかされているらしいことは察することができた。必死で否定している様子に可笑しさを覚え、甲洋はあえて会話の内容を聞かず、思考を繋げることもしなかった。断ち切ったまま、こちらも悟らせないようにする。
「容子さんが心配してる。ほどほどにしておきな」
そう言って操の頭をくしゃりと撫でて立ち上がる。操はぶぅっと頬を膨らませ、それでも「わかってるよ」と言って同じく立ち上がった。
*
「ねぇ甲洋、ラブラブってなに?」
帰り道、羽佐間家の正面で立ち止まった操は、どこか解せないといった顔つきで甲洋を上目使いに見上げた。
「なに、急に」
「ぼくと君ってラブラブなの?」
「さっきの子がそう言ってた?」
うん、と操が頷いた。
ませた猫だなぁと感心しながら、甲洋は操を見つめるとそっと静かに目を閉じる。
「俺も、来主のことは好きじゃない」
「え!?」
おもむろに言い放った甲洋に、操は肩をビクーンと跳ねさせながら目を見開いた。そしてみるみるうちに表情を歪め、唇を噛み締めながらうつむいてしまう。
「嘘だよ」
「ほんと!?」
小さく笑いながら頷くと、今度はあからさまにホッとしたような顔をした。その百面相ぶりに込み上げる笑いを堪える。
操は「驚かさないでよ」と言いながら、右手で胸のあたりを押さえつけた。それからなにやら考え込み、眉間にシワを寄せて甲洋を見上げる。
「ねぇ、これってなに? 一瞬ここがぎゅっとしたんだけど……これがラブってこと?」
「お前がそう思うなら、そうかもね」
「ふぅん」
操はやっぱりまだ納得がいかない様子だった。
彼にはまだ分からないだろうなと、甲洋は思う。分かってほしくないような気もするし、だけど同時にもどかしさのようなものも覚えている。甲洋自身、きっとまだ持て余している最中なのだ。
その甘酸っぱさを、甲洋は知っている。だけどそのどこか宙に浮いた覚束ない感情が、今は心地いいとすら感じていた。
「……俺も聞いていい?」
しかしながら、どうしても気になっていることがある。
少し迷いながら切り出した甲洋に、操が目をくるりとさせながら首を傾げた。
「なに?」
「下着さ……黒の」
言いよどむ甲洋に、操は「紐パン?」とケロリとした顔で言った。
「……そう、それ」
「だってあれカッコよくない? お母さんだってときどきはいてるし」
「!?」
え、ちょ待っ、容子さ……え、う、嘘ぉぉ……と、知る必要のない事実を知らされてしまった甲洋は、心臓をバクバクとさせながら思わず塀に手をついた。今すぐ誰かに眠らせてほしい。そして都合よく記憶を消してほしい。
「なに? どうかした?」
「……来主、女の人がつけている下着の話は、誰彼構わずしていいものじゃない。覚えておいて」
「? うん、わかった! じゃあぼくもう帰るね!」
また明日! と元気に言って、操は家の中に入っていく。
残された甲洋はどっと押し寄せる疲労感に項垂れると、ワープして家に帰った。
~その後~
猫集会はなぜか神社から場所を楽園前に移し、甲洋は夜毎せっせとモンプチを準備させられることになった。
猫と操の謎会話を聞きながらカウンターで読書をしつつ、目の届く範囲にいてくれるならまぁいいかと妥協している。
約束通り猫集会のことは伏せつつ、なにも心配するようなことはないと伝えると、容子も安心したようだった。
そうして海神島での夜はニャーニャーと騒がしく、そして穏やかに過ぎていくのである。
←戻る ・ Wavebox👏
未だにショコラに苦手意識をもつ操は渋い顔をするが、楽園から羽佐間家はここのところ寝ていることが多くなってきたショコラをのんびり散歩させるのにも、ちょうどいい距離だった。
羽佐間家ではそのまま夕食に誘われることがほとんどだった。
その日も容子の厚意をありがたく受けた甲洋は、お喋りな操と声を立てて笑う容子のふたりを見守りながら、まるで本当の家族のような団欒を楽しんだ。
「操、今日から入浴剤を新しくしたのよ。お風呂、今夜は早めに入っちゃったら?」
食後、床に寝転んで白猫のクーと戯れていた操に、風呂の支度を済ませて戻ってきた容子が優しく声をかけた。
腹の上にクーを乗せ、その背中の毛をわしゃわしゃと逆撫でていた操は起き上がり、ニッコリ笑って「はぁい」と元気に返事をする。ようやく子守から開放されたクーは「ニャー」とひと鳴きし、ソファへ移動すると毛づくろいをしはじめた。
「新しい入浴剤ってなに? お母さん」
「昨日までは薔薇の香りだったでしょ? 今度は柚子にしてみたの」
「ふぅん。お湯の色も変わった?」
「見てみれば分かるわよ」
「わかった! じゃあ行ってくるね!」
ウキウキとした様子で操がリビングを飛び出していく。
「肩までしっかりあったまるのよ」
「はぁい!」
テーブルで食後のコーヒーをご馳走になっていた甲洋は、微笑ましい親子の会話に目を細めて笑うと席を立つ。一緒にご飯をもらったあと、足元で寝そべっていたショコラがスッと顔を上げた。
「それじゃあ、俺はそろそろ」
「あ、待って甲洋くん」
すると容子は少し焦った様子で甲洋を引き止めた。
なにごとかと目を軽く瞬かせると、彼女は眉をハの字にして肩をすくめる。
「ちょっとね、相談したいことがあって」
「相談?」
「ええ……コーヒー、もう一杯どうかしら?」
「じゃあ、いただきます」
容子は甲洋の返事にホッとした表情を浮かべると、テーブルの上から空のカップを手に取った。
操のことだろうなと察しつつ、再び椅子に腰掛けようとした──そのとき
「お母さぁん!」
と、声を張り上げながら、眉を吊り上げた操がドタバタと戻ってきた。全裸で。
「!?」
「あら、どうしたの?」
「ぼくのパンツ、これじゃないのがいいっていつも言ってるじゃん!」
操はプリプリと怒りながら、手に掴んでいるパンツを高く持ち上げた。それはいかにもキッズな白ブリーフに、ポップなクマちゃんの顔がプリントされたものだった。
容子チョイスのお子様パンツにも目を剥いたが、いくら親子という肩書があるとはいえ、女性の前で全裸をさらす姿にいたたまれなくなった甲洋は、即座に脱衣所にワープして、タオルを手にとるとまたワープで戻った。そしてそのタオルを操の腰に手早く巻きつけ、ふぅ……と息をつく。(この間およそ3秒)
その間も、親子の会話は平然と続いていた。
「いいじゃないの。いったいなにが不満なの?」
「こんなパンツは嫌だよ! そうしがはいてるのと一緒じゃん!」
流石にこれはなぁと、甲洋も心の中で操の意見に同意した。中身は幼子も同然だが、見た目は年頃の少年である。普段大人に囲まれて労働だってしているし、よちよち歩きの域を出ない総士と同じ扱いというのも、確かに複雑だ。クマちゃんプリントのキッズパンツには、いくらなんでも抵抗があるだろう。
「困ったわね……じゃあどんなパンツがいいの?」
「黒の紐パンがいいんだってば! こないだから言ってるでしょ!」
「!?」
え、待ってお前そういうの好きなの? 背伸びしすぎでは……っていうかそれ本当にはく気? う、嘘ぉ……と、甲洋は内心激しく動揺したが、死んでも顔には出さないよう頬肉をピクピクさせながら必死で堪えた。気を抜くと想像してしまいそうでヤバい。(むっつり)
「それはあなたにはまだ早いわ。刺激が強すぎるもの。ねぇ甲洋くん?」
「なぜ俺に同意を求めるのか」
「あのねお母さん、甲洋は白いフリフリパンツの方が好きなんだって」
「あらそうなの? でも、確かにそんな感じよねぇ」
「今月の給料は0だよ、来主」
「えぇ!? なんでぇ!? 本当のこと言っただけなのに!」
癖(へき)を読まれたあげくにバラされて、ちょっと泣きたくなってしまった甲洋だったが、気を取り直すように軽く咳払いをすると容子を見た。
「無難に無地とか、チェックのトランクスでいいのでは?」
すると容子に「甲洋くんはそれでいいの?」と、なぜかとても心配された。
いやあの、いざってときにクマちゃんプリントも複雑すぎますお義母さん……と思ったが、深く突っ込んでいると話が終わりそうにないので、甲洋は操を見ると『さっさと風呂に入りな』と心通信を送った。操は甲洋に向かってベーッと舌を出し、「ふんだ!」と言って廊下へ消えていく。
容子はそんな操にすっかり困り顔で、右手を頬にあてながら小さな息を漏らした。
「男の子を育てるって大変ね……」
そういう問題じゃねぇと、ここに御門零央がいれば格好よく言ってくれたかもしれないなぁと、甲洋は思った。
*
その夜。
午前零時を少し過ぎたころ、甲洋は再び羽佐間家を訪れていた。
心を無にし、完全に閉ざした状態で木陰に身を隠す。するとキィッと音を立て、玄関の扉が開かれた。
操だ。彼はTシャツにベストとハーフパンツという姿で、辺りをキョロキョロと窺っては静かに家を抜け出した。
(なるほど)
容子の言っていた通りだ。
あのあと、ようやく静かになったリビングで彼女から受けた相談内容は、操が深夜にこっそり家を抜け出してなにかしているらしい、というものだった。
帰りはいつも朝方近くで、どこへ行っているのか尋ねても「秘密」としか言わないらしい。
心当たりはないかと問われたが、甲洋は首を左右に振ることしかできなかった。
なにか母親には相談しにくいことがあるのかもしれない。このままそっとしておくべきかどうかと、容子は頭を悩ませていた。
甲洋はそんな彼女を少しでも安心させることができるならと、操の動向を探ってみることにした。
実際、甲洋としてもちょっと気になっているのは確かである。
(まさかとは思うけど、彼女とか──?)
あるいは彼氏、とか。
(……そんなわけ)
しかしである。子供パンツを嫌だと言ったり、紐パンなんて破廉恥なものを穿きたがったり、それはもしかしてもしかしなくても、彼が色気づいているということの証拠ではないだろうか。
気合が入った下着を欲しがるということは、それを見せたい相手がいるということで──
「待て来主!!」
一体どこのスケベ野郎だろうかそれは。娘は絶対嫁にやらんぞと目を血走らせる父親がごとく、血相を変えた甲洋は操がタタターッと駆けていった方向に全力疾走した。
*
たどり着いたのは『新・鈴村神社』だった。
真夜中、そして神社の境内といえば、やりたい盛りの田舎の高校生カップルが逢引する場所と決まっている。(偏見)
甲洋は石段を駆け上ると操の姿を探した。すると境内の一角にある手水舎のそばに、ちょこんとしゃがみこんでいる姿を捉えることができた。
他に人がいる様子はなく、甲洋はひとまずホッと息をつきながら静かに手水舎へと足を向ける。
「も~、待ってよ。順番だよ」
「ニャー! ウニャニャー!」
「わかったってば! ちゃんとみんなの分のちゅ~るあるから!」
「ウミャミャミャミャーイ!」
「そんなに美味しいんだ? ぼくも食べてみようかな」
そこには数匹の猫に囲まれた操の姿があった。
「……なにしてんのさ」
「わっ!?」
半ば呆れた気分で声をかけた甲洋に、猫まっしぐらになっていた操が肩を跳ねさせた。ちゅ~るをもらっていたらしい猫たちも、驚いて散り散りに逃げていく。
「なぁんだ君か……ビックリさせないでよ。あーぁ、みんな怖がって逃げちゃった」
「お前はここでなにをしてるの」
「見てわかんない? 猫集会だよ」
「猫集会って……」
「あ、また集まってきた」
猫は十匹近くいた。黒や白やブチや、様々な柄の猫たちが操と甲洋を囲むようにしてぐるりと円を描いて座りはじめる。
猫集会、というのはあれか。深夜に人知れず行われているという、野良猫たちの社交場のことか。そこで餌場などの情報交換を行っているとか、連携強化をしているとか様々な説があるらしいが、なぜそこに操が参加しているのだろう。
「ぼくもお呼ばれしてるんだ。ちゅ~るを持ってくる決まりだからね」
「ヤンキーの上下関係みたいになってない……?」
「お母さんには言わないで。誰にも言っちゃダメなんだ」
「はぁ……」
仮にもボレアリオスミールのコアである彼が、あの巨大空母の主であるエレメントが、野良猫たちに「焼きそばパン買ってこいよ」のノリでちゅ~るをカツアゲされているというのか。
それよりなにより、彼はいつの間に猫語をマスターしたのだろう。ショコラとは未だに和解できずにいるというのに、操は謎の能力を開花させているようだった。
「ゴロニャ~ゴ! ニャニャニャ~ゴ!」
するといかにもボスといった貫禄ある黒猫が、操に向かってなにやら声をあげはじめた。
「え~? うん、そう? え? ん~、別にいいけど」
「……この子はなんて?」
「君は犬の匂いがするから危険な存在だって。でも、モンプチを持ってくるなら次から参加してもいいってさ」
「俺までパシリにする気か……」
エレメント<<<<<越えられない壁<<<<<<野良猫の図が完成していた。
甲洋はやるせない気持ちになりながら溜息を漏らし、操の横にしゃがみ込む。懐っこい白黒のブチが、操の膝にスリスリと身を寄せて甘える光景を横目で見やった。
「ンニャ~? ンニャニャオ~ン?」
「え~? なにそれ?」
「ニャニャニャ~ン。ニャニャニャ~ゴ」
「ッ! ち、違うよ! ぼく甲洋のこと、別に好きじゃないし!」
「ンニャニャニャ~! ニャオォ~ンニャニャニャ~」
「本当だってば! そんなの知らない!」
一体なにを話しているのだろうか。
けれど珍しく頬を赤らめて焦っている操を見て、なにやら自分との関係性を冷やかされているらしいことは察することができた。必死で否定している様子に可笑しさを覚え、甲洋はあえて会話の内容を聞かず、思考を繋げることもしなかった。断ち切ったまま、こちらも悟らせないようにする。
「容子さんが心配してる。ほどほどにしておきな」
そう言って操の頭をくしゃりと撫でて立ち上がる。操はぶぅっと頬を膨らませ、それでも「わかってるよ」と言って同じく立ち上がった。
*
「ねぇ甲洋、ラブラブってなに?」
帰り道、羽佐間家の正面で立ち止まった操は、どこか解せないといった顔つきで甲洋を上目使いに見上げた。
「なに、急に」
「ぼくと君ってラブラブなの?」
「さっきの子がそう言ってた?」
うん、と操が頷いた。
ませた猫だなぁと感心しながら、甲洋は操を見つめるとそっと静かに目を閉じる。
「俺も、来主のことは好きじゃない」
「え!?」
おもむろに言い放った甲洋に、操は肩をビクーンと跳ねさせながら目を見開いた。そしてみるみるうちに表情を歪め、唇を噛み締めながらうつむいてしまう。
「嘘だよ」
「ほんと!?」
小さく笑いながら頷くと、今度はあからさまにホッとしたような顔をした。その百面相ぶりに込み上げる笑いを堪える。
操は「驚かさないでよ」と言いながら、右手で胸のあたりを押さえつけた。それからなにやら考え込み、眉間にシワを寄せて甲洋を見上げる。
「ねぇ、これってなに? 一瞬ここがぎゅっとしたんだけど……これがラブってこと?」
「お前がそう思うなら、そうかもね」
「ふぅん」
操はやっぱりまだ納得がいかない様子だった。
彼にはまだ分からないだろうなと、甲洋は思う。分かってほしくないような気もするし、だけど同時にもどかしさのようなものも覚えている。甲洋自身、きっとまだ持て余している最中なのだ。
その甘酸っぱさを、甲洋は知っている。だけどそのどこか宙に浮いた覚束ない感情が、今は心地いいとすら感じていた。
「……俺も聞いていい?」
しかしながら、どうしても気になっていることがある。
少し迷いながら切り出した甲洋に、操が目をくるりとさせながら首を傾げた。
「なに?」
「下着さ……黒の」
言いよどむ甲洋に、操は「紐パン?」とケロリとした顔で言った。
「……そう、それ」
「だってあれカッコよくない? お母さんだってときどきはいてるし」
「!?」
え、ちょ待っ、容子さ……え、う、嘘ぉぉ……と、知る必要のない事実を知らされてしまった甲洋は、心臓をバクバクとさせながら思わず塀に手をついた。今すぐ誰かに眠らせてほしい。そして都合よく記憶を消してほしい。
「なに? どうかした?」
「……来主、女の人がつけている下着の話は、誰彼構わずしていいものじゃない。覚えておいて」
「? うん、わかった! じゃあぼくもう帰るね!」
また明日! と元気に言って、操は家の中に入っていく。
残された甲洋はどっと押し寄せる疲労感に項垂れると、ワープして家に帰った。
~その後~
猫集会はなぜか神社から場所を楽園前に移し、甲洋は夜毎せっせとモンプチを準備させられることになった。
猫と操の謎会話を聞きながらカウンターで読書をしつつ、目の届く範囲にいてくれるならまぁいいかと妥協している。
約束通り猫集会のことは伏せつつ、なにも心配するようなことはないと伝えると、容子も安心したようだった。
そうして海神島での夜はニャーニャーと騒がしく、そして穏やかに過ぎていくのである。
←戻る ・ Wavebox👏
~前回までのあらすじ~
心霊スポットで肝試し動画を撮影することになった、動画クリエイター集団エレメント。
オバケ、ダメ、絶対主義の総士と、体調不良を訴える一騎を残し、甲洋と操のふたりはイチャコラ(?)しながら山奥の廃神社へと向かう。
そこで甲洋はこの肝試し企画が操(黒幕)と総士(仕掛け人)による、心霊ドッキリであったことを知らされる。しかも廃神社は偽の心霊スポットだった。
ようやく帰れると思った矢先、一行は総士の提案で今度こそ本物の心霊スポットへと向かうことになったのであった──。
*
「総士、一騎はなんて?」
やはりどうしても心配だったらしく、出発前に少し離れた位置で一騎に連絡を入れていた総士が戻ってきた。
「ああ、だいぶ楽になったとは言っていた。だが、大事をとって一騎はこのまま休ませる」
「そっか。じゃあ早く行って帰ってこようよ!」
「そうしよう」
なんやかんやで時刻は午前1時をとうに過ぎていた。今から行動を開始して件の旧トンネルとやらに到着するころには、ちょうど丑三つ時にさしかかっていることだろう。まさにうってつけのナイスタイミングといえる。
ハンディカメラ(ライト付き)は総士が、懐中電灯は甲洋が持ち、三人は廃神社の脇から伸びる小道へと足を踏み入れた。
「本物の心霊スポット、か。楽しみだな。ドキドキするよ!」
「来主、足元注意して。転ぶよ」
甲洋はドッキリにハメられたことが尾を引いているのか、かなりお疲れの様子だった。来たときよりも顔色が優れない。
ノリノリで企画を考えたのは自分だが、流石に悪いような気がしないでもないような気がしてきて、操は甲洋の手をとるとぎゅうと握りしめた。
「……カメラ回ってるよ」
「えへへー。甲洋が怖くないように、おれがずっとこうしててあげるね」
「怖くない」
「うっそだー。うわ! って悲鳴あげて尻もちついたくせにさ」
「あんなの誰だって驚くだろ」
ジロリと横目で睨まれる。けれどその頬には、ほんのりと赤みがさしていた。本人は情けない姿を撮られて消沈していたようだが、その普段なら絶対に見られない一面を見ることができて、操としては大満足だ。
あれが上手いこと編集されて、完成した動画を見るのが今から楽しみで仕方ない。サイトにアップロードされれば、きっと多くの視聴者が──
(……あれ?)
ふと引っかかりを覚えて、操は小さく首をかしげた。
普段はほぼ動じることのない甲洋が、ちょっとビクビクしていたり、驚いて尻もちをついたり。そんな意外な反応をそばで見ることができて、操の期待と好奇心は想像していた以上に満たされたはずだった。
だからこそ面白い動画が撮れたと思うし、早くたくさんの人に見てほしいとも思っている、はずなのだが。
(他のひとに見せるの、ちょっと嫌だな……)
なぜだか急に、そんなことを思ってしまう自分に気がついてしまった。
画面の向こう側には応援してくれる人たちが大勢いて、とりわけ甲洋は女性人気が圧倒的だ。中には少々困ったファンもいて、ストーカー騒ぎで警察沙汰になったなんてこともある。けれど今まで操が彼のファン層について深く意識することはなかったし、ましてやこんな気持ちになるのも初めてだった。
それは一度でいいからケーキをワンホール食べてみたいとか、一騎カレーを鍋ごと食べてみたいとか、そういった欲張りな感情にどこか似ているような気がした。要は子供っぽい独占欲だ。
「来主? 急に黙り込んでどうかした?」
「え? なに? なにか言った?」
物思いにふけっていた操の顔を、甲洋が物珍しそうに覗き込んでくる。
「眠くなった? いつもならもう寝てる時間だしね」
「ぜんぜん! だってここからが本番じゃん!」
「今までを刺し身のつま扱いされるのも、それはそれで複雑なんだけど?」
ムッとした表情で、またしても横目で睨まれる。おかしいなぁと操は思った。どうしてか、今日はいちいち甲洋が可愛く感じられてしまう。胸をくすぐられるとでも言えばいいのだろうか。
謎の母性に目覚めつつある操だったが、当の本人としてはまだまだ理解しがたい感情である。
「甲洋は可愛いね」
「もういいってその話は」
なんとも複雑な感情をひとまず押しやり、目を三日月にしてからかっていると、なにやら小さな物体が頬にコツンとぶつかってきた。
「ぴぇっ!? ま、またなんかぶつかってきたぁ!」
咄嗟に悲鳴をあげ、甲洋の腕にしがみつく。
「虫だよ虫。お前のほうがよっぽど怖がりなんじゃない?」
「だってビックリするじゃん!」
「はいはい、可愛いね来主は」
「うわ~、意地悪だぁ……」
甲洋の腕に抱きついたまま唇を尖らせていると、ずっと口を噤んでカメラを回すことに専念していた総士が、
「お前たち、いい加減イチャつくのはやめろ! ずっとカメラ越しに見てなきゃいけない僕の身にもなれ!!」
──と、キレはじめた。
彼は額に青筋を浮かべている。さらに「本来なら僕だって」と、小さく零しているのを耳ざとく聞きつけ、甲洋が「あー」と納得したような声をあげた。
「さっき言ってた予定が狂うっていうのは、そういう……?」
「(ギクッ)」
「なに? なんのこと?」
小首を傾げた操に、甲洋が生温かく微笑んだ。
「一騎がいないと寂しいってこと」
「そっか! わかるよ総士。おれも一騎がいないと寂しいよ」
「い、いいからさっさと歩け! のんびりしてたら夜が明けるぞ!」
ザ・男心である。甲洋がそこはかとなく自慢気にドヤって見えるのは気のせいだろうか。
「それより総士、これから行くトンネルには、どんないわくが?」
甲洋が投じた質問によって、なんとかピリピリしていた場の空気が正常に戻る。総士は緊張した面持ちで「ああ」と頷いた。
「工事中の落石で、何人かが犠牲になる事故があったらしいな。夜な夜な助けを求める声が聞こえるとか、他にも女のすすり泣きや、赤ん坊を抱いた老婆が出るなんて統一性のない噂まである」
「いろんな尾ひれがつくからね、そういう場所には」
「眉唾だ。どうせ風が吹き抜ける音を聞き間違えたとか、野生動物を見間違えたとか、その程度のオチだろう」
「えー? でも、実際そこでいっぱい人が死んでるんでしょ?」
「だから立つんだよ。その手の噂がね」
「ふぅん」
こうも冷静に分析されてしまうと、なんだか寂しいものがある。せっかくの心霊気分を台無しにされたような気分だった。
しかし、自分たちは今まさにそれを確かめるために向かっているのだ。もしかしたら説明がつかないような不思議な何かが、この先には待ち受けているかもしれない。想像するだけでワクワクとした期待に胸が膨らむ。
──タス……ケテ……
「ん?」
そのときだった。どこからか声が聞こえたような気がして、操は甲洋を見上げた。
「甲洋、いまなにか言った?」
「いや?」
「総士は?」
背後でカメラを回す総士を振り返ってみるが、彼は首を左右に振るだけだった。操の頭上にクエスチョンマークが飛び交った。
気のせいだったのだろうか。あたりにゆるゆると流れる風が、草木を揺らして不規則に音を立てている。さっきの話じゃないが、それを聞き間違えただけなのかもしれない。
──タス、ケテ……タス、ケ、テ……
「ッ!? 待って! やっぱり聞こえる!」
操は足を止めると、甲洋の手から懐中電灯を奪ってそこいらじゅうを照らしてみた。気のせいなどではない。確かに聞こえた。地の底から響いてくるような、重く沈んだ声だった。
「来主?」
「聞こえるでしょ? 助けてって言ってる!」
甲洋が戸惑った表情を浮かべ、総士に視線をやった。総士も甲洋と全く同じ顔をしながら首を傾げている。
「来主、お前はさっきからなにを言っている?」
──タスケ、テ……タス、ケ……
「なにって、ふたりには聞こえてないの!?」
「ドッキリの続き? さすがにもうお腹いっぱいだよ」
「そんなんじゃないって! 嘘でしょ? なんで聞こえないの!?」
その間も、どこからか助けを求める声がずっと聞こえていた。ときどき嗚咽のようなものも混ざっている。さっき総士の話にあった、女のすすり泣きというのはこれのことなのかもしれない。
甲洋と総士は顔を見合わせ、操の様子に困惑している。
(この声、おれにしか聞こえてないんだ……!)
ぞわりと背筋に寒気が走った。全身に毛虫が這うような感覚を覚え、皮膚が粟立つ。
──タスケテ……ううぅ……タス、ケ、テ……
「む、無理無理! もうやだ! ねぇ帰ろうよ!」
あれほど不思議現象を期待していたはずが、いざとなったら急に怖くなってしまった。なにせ共有できる人間がいないのだ。自分だけが、目に見えない何らかの干渉を受けている。それがなにより不気味で、恐ろしかった。
操は甲洋の腕を思いきり引っ張った。もうここにはいたくない。けれど甲洋も総士も、ただ不審そうに顔をしかめて見せるだけだ。
「なんだかよく分からないが、心霊スポットに行きたがっていたのはお前だろう。旧トンネルはもうすぐそこだ。このまま進むぞ」
「だってさ。話はあとで聞くから、まずは行ってみよう?」
「ふたりにはあれが聞こえてないから、そんなことが言えるんだ……」
涙目の操は、すっかり萎縮してしまった。今すぐにでも逃げだしてしまいたいが、甲洋と総士は聞き入れてくれそうにない。かといって一人で帰る勇気もないし、このまま行くしかなさそうだった。
操はグスンと鼻を鳴らすと、甲洋の腕にしがみついた。
*
トンネルに到着する頃には、あの不可解な声は消えていた。それでも操は甲洋の腕を離すことができず、ずっとしがみついたままだった。
山の斜面にぽっかりと開いた石積みのアーチ環には、苔がびっしりと生い茂っている。トンネルの先は真っ暗で、何かが大きな口を開けて獲物を待ち受けているかのようだった。
ゆるく吹き抜けていたはずの風はぴたりと止み、かすかな虫の鳴き声だけがそこかしこから聞こえてくる。
「ねぇ、本当に行くの?」
「一体どうしたのさ。行きは遠足気分ではしゃいでたのに」
確かに、さっきまでとはまるで立場が逆になっていた。
甲洋と総士のふたりは、操のようにはしゃぐとまではいかないが、やけに落ち着いてケロリとした顔をしている。
「なんでふたりは平気なの……あんなに怖がってたくせに……」
「何度も言わせるな。怖くないと言ってるだろう。深夜の山奥。古びたトンネル。過去に起こった凄惨な事故。心霊スポットなんてものは他者が勝手にそれらを紐付け、心象的に定義しているだけに過ぎないんだからな」
「シミュラクラ現象と同じようなものかもしれないな。人間の脳は、点が三つ集まった図形が顔に見えてしまうようにプログラムされている。心霊現象だって、所詮は五感で受け取った刺激を脳が勝手に解釈しているだけの話だよ」
「もー! なんでここに来て急に冷静になっちゃうのぉ!? 中に入ったらゾンビやクリーチャーが追いかけてきて、おれたち食べられちゃうかもしれないんだよ!?」
ほぼ泣きべそに近い声をあげた操を、総士が「ふん」と鼻でせせら笑った。
「物理攻撃か。望むところだ」
「拳で対話が可能なら、むしろ話は簡単だよ」
射影機よりも、バールのようなものを持たせることでイキイキするタイプであるらしい。非言語コミュニケーション能力の高さをうかがわせる戦士のような眼差しを見て、謎の心強さが込み上げてくる。
「うーん、なんか大丈夫そうな気がしてきたよ」
「せいぜい彼氏に守ってもらうんだな」
「総士、カメラが回ってるところでその発言は……ちょっと困るな」
「今更なんだ。その満更でもない顔を今すぐやめろ」
総士がまたピリピリしはじめたので、一行はさっさと中に入ることにした。
「うわ、変な臭い……」
トンネルに一歩踏み込んだ途端、じめついた湿気臭さが鼻をつく。ライトで照らした先には、延々と闇が口を開けているだけだった。側面には苔や湿気で黒々としたシミが広がり、ときどき落ちてくる水滴が不気味な水音を立てている。三人分の足音が、やけに大きくこだました。
「かなり長いトンネルのようだな。先が全く見通せない」
「ねぇ甲洋、なんか寒くない……?」
「そう? おかげさまで俺は暑いよ」
操は甲洋にひっついたまま、その腕を離すことができないでいる。離したが最後、闇にのまれてそのままはぐれてしまうような気がしていた。
見透かすかのようにからかわれて、操は頬を膨らませながら涙目で甲洋を睨み上げる。彼は肩をすくめてふっと笑った。
「大丈夫。一人になんかしないよ。そのまま捕まってな」
「甲洋……うん、ありがと……」
「チッ」
総士が舌打ちをしていたので、「総士もくっつく?」と提案すると、彼は忌々しそうに「結構だ!」と声を荒げた。やっぱり一騎がいないと情緒不安定になるのかなぁと、操は思った。
「見ろ、出口が見えてきたぞ」
しばらく進むと、総士がカメラを構えていない方の手で前方を指差した。うっすらとライトに照らされて、トンネルの出口が見えてくる。
操はホッと息をついた。ここまで何事もなく来ることができた。あそこに辿りつきさえすれば、あとは来た道を引き返すだけだ。例の声も聞こえないし、ゾンビやクリーチャーが現れる気配もない。
(よかった……もうすぐ帰れる……)
まだ折り返しではあるものの、安堵から気持ちが緩んだ。するとだんだん、さっきの声もなにかの間違いだったのではないかという気になってくる。
(そうだよね。だっておれにしか聞こえないなんて、そんなの絶対あるはずないし)
操がわずかに肩から力を抜いた、そのときだった。
『──けて』
(え……?)
声、のようなものが聞こえた気がして、操はギクリと肩を強張らせる。
『助け、て……』
「っ!?」
やっぱりそうだ。さっきと同じ、いや、むしろさっきよりもずっと明瞭に声が聞こえた。
甲洋でもない。総士でもない。悲しそうに上ずった声が、トンネルの内部に反響している。助けて、助けて──と。そればかりを、繰り返し。
凍りついたように足を止めると、引っ張られるようにして歩みを止めた甲洋が不思議そうに見下ろしてくる。
「来主?」
「なんだ? 急にどうした」
「総士……甲洋……あれ……」
背筋を氷でなぞられたように身を震わせながら、操は前方を指差した。
トンネルの先に、白くぼんやりとしたものが揺れている。
(なに、あれ……?)
ゆっくりと、ゆっくりと、それはこちらに向かって近づいてきているようだった。頼りないライトの光によって、その姿が徐々に明らかになっていく。
揺れていたのは、白いワンピースの裾だった。腰まである長い黒髪に、顔はすっかり覆い隠されている。女だ。丈の長い、白のワンピースを着た、痩せた女。ダラリとさせた両手をさまよわせるようにしながら、どんどん歩みを進めてくる。
「なにも見えないけど。誰かいるの?」
甲洋がトンネルの出口に向かって目を細める。総士もその方向へと熱心にカメラを向けているが、これといって反応を示すことはなかった。
「ふたりには、あれが見えてないの……?」
ガタガタと身を震わせながら呆然と問いかけた操を、甲洋と総士が不思議そうに見つめてきた。
さっきと同じだ。しかし今度は声だけじゃない。操にはその姿かたちがハッキリと見えている。それなのに、甲洋と総士の目には映っていないのだ。
「う、嘘でしょ? だって、あんなにハッキリ……!」
「お前はさっきから何を寝言ばかり言っているんだ」
「なんで!? なんでおれにしか見えてないのぉ!?」
様式美にのっとったかのような、いかにもといった姿の女が、ゆらゆらと身体を揺らしながらすぐ目の前まで迫ってきている。一歩、また一歩と近づくたびに、白い裸足がヒタヒタと湿った音を立てている。
『ううぅぅ……助け、てぇ……』
「うわー!? オバケ! オバケ来ちゃう! 早く逃げなきゃ!!」
操は甲洋と総士の腕をそれぞれ掴んで引き返そうとしたが、状況がまるで理解できていないふたりは、ただお互いに顔を見合わせるだけだった。むしろ今にも走り出そうとする操の腕を、甲洋が掴んで引き止める。
「待ちなって来主。俺たちにも分かるように説明して」
「そんな暇ないよ! わっ、わっ!? 来る! 来るってばぁ!」
女はもう目の前だった。息遣いすら聞こえそうなほどの距離まで迫り、真っ白い両手を操に向かって伸ばしてくる。
「ヒッ、い、いやだ! 来ないでぇっ!!」
『助けてぇぇ~~!』
「やだぁ~~ッ!!」
女の両腕が首に巻きついた瞬間、操の意識はブラックアウトした。
*
「──す、来主」
何度かゆるく頬を叩かれ、ふわりと意識が浮上する。
「う~ん……ぅ、あれ……?」
一体なにが起こったのだったか。膜が張ったようにぼんやりとした思考で瞬きを繰り返すと、徐々に見えてきたのは心配そうな甲洋の表情だった。
「ッ!? お、オバケ! オバケはどこ!?」
慌てて半身を起こすと、そこは元いた廃神社のそばだった。地面に置かれた懐中電灯の光で、周囲が薄ぼんやりと照らされている。藪に覆われた偽地蔵が、変わらずズラリと並んでいるのが見えた。
「あれ……おれたち、いつのまに戻ってきたの? トンネルは? オバケは?」
操は地面にあぐらをかいた甲洋の腕の中で、横抱きにされた状態で今までずっと気を失っていたらしかった。甲洋は状況が理解できずに目を瞬かせる操に、ホッと安堵の笑みを浮かべている。
「やっとお目覚めか」
片手にカメラを回す総士が、甲洋の頭上からひょっこりと顔を覗かせる。その足元にちょこんと正座している人物を見て、操はこぼれんばかりに瞳を大きく見開いた。
「まさか失神するなんて。ごめんな、来主」
「一騎!? なんで一騎がここにいるの!?」
一騎は調子が優れず、車の中で休んでいたはずだ。それがどうしてか目の前で眉をハの字にさせ、申し訳無さそうに肩をすくめている。
よく見れば、彼は真っ白のワンピースを身にまとっていた。しかもその膝の上には黒い毛むくじゃらが丸めて置かれている。見覚えがありすぎるそれらに、操はますます混乱した。
「な、なにそれ? どういうこと?」
「実はさ……」
スッ、と一騎がなにかを持ち上げた。それは『ドッキリ大成功』と書かれた看板で、本日二度目の登場だった。
「これ、全部ドッキリなんだ」
「ふぁッ!?」
「デッデレー、なんちゃって」
照れくさそうに言った一騎にあんぐりと口を開いた操を見て、堪えきれずに総士が顔を背けながら小さく噴きだした。そのまま肩を揺らし、クツクツと笑っている。
「っ、!? ぇ、え!?」
咄嗟に甲洋を見ると、彼もまた総士と同じように顔を背けて肩を震わせていた。
「な、なに!? なんなのこれ!? ぜんぜん意味がわかんないよ!?」
涙目で混乱する操に、総士が「つまり逆ドッキリだ」と笑いを噛み殺しながら言い放った。
「逆、ドッキリぃ……?」
「ごめん来主。ターゲットは俺でも一騎でもなく、最初からお前だったんだよ」
「その通り。お前以外の全員が、この企画の仕掛け人だ」
「はぁ~!?」
操にドッキリ企画を持ちかけられた総士は、話に乗るふりをしてこの逆ドッキリ計画を思いついた。そして密かに甲洋と一騎と三人で打ち合わせをし、表向きは操発案の心霊ドッキリとして事を進めることにしたのだ。
一騎が到着して早々に体調を崩したのも、もちろん仕込みである。彼は操と甲洋を総士が待機している廃神社へと向かわせたあと、すぐにこの山の裏側へ全力ダッシュした。甲洋を偽のターゲットとした一連の茶番は、一騎が例の旧トンネルに到着して女の幽霊に変装し、待機が完了するまでの時間稼ぎだったというわけだ。
トンネルへ向かう前に総士が一騎に入れていた連絡は、本番スタートの合図を送るためのものだった。
「そ、そんなぁ……みんな酷いよぉ……」
「もともと一騎と甲洋をハメようとしていたのはお前の方だぞ」
「そうだけど! そうだけどぉ! 怖かったよぉ!」
ピィピィと泣きだした操の頭を、甲洋が「よしよし」と言って優しく撫でる。
「俺は止めたんだよ。だけど総士がどうしてもって」
「優しい彼氏像を守ることに必死か。息をするように嘘をつくんじゃない」
「甲洋、見たことないくらい目がキラキラしてたよな……」
「もう誰も信じられないよ! 鬼! 悪魔!」
最初から騙されていたのは自分の方だったなんて、生きている人間が一番怖いというのは本当だったんだ……と、操は思った。特に甲洋はエグい。さっさと役者にでも転身するべきである。あの怯えたり驚いたりしている姿を、ちょっとでも可愛いと思ってしまった自分が憎い。
しかしあれが全て嘘だったと知って、心から安堵しているのも事実だった。心霊体験なんて二度とごめんだ。あんな恐ろしい思いをするくらいなら、ふんどし一丁でローションまみれになりながらポロリする方が、何倍もマシだった。
「これに懲りて、もう二度と心霊スポットに行きたいなんて言いだすのはやめるんだな」
片手を腰に当てた総士が、ふんぞり返って笑みを浮かべている。
「トンネルが心霊スポットっていうのも嘘なわけ……?」
「そりゃあ、総士はオバケが出るようなところに、わざわざ行きたがらないもんな」
「う、うるさいぞ一騎」
ふふふと笑っている一騎と、バツが悪そうにしている総士に頬を膨らませていた操だが、ふと思いだして甲洋を見た。
「ねぇ、じゃああの声はなんだったの? あれも一騎が?」
「あの声って?」
「行く途中で聞こえた声だよ。あのとき、一騎はもうトンネルの奥にいたんでしょ?」
あらかじめ録音した音声でも流していたのだろうか。操が首を傾げていると、甲洋と総士が不思議そうに顔を見合わせる。一騎も訳がわからないといった様子でキョトンとしていた。
「声ってなんのことだ? 俺はトンネルの奥で待ってただけで、他にも仕込みがあるなんて聞かされてないぞ?」
「そんなはずないよ! 総士、カメラ貸して! 見てみれば分かるんだから!」
「……ちょっと待て」
総士が膝をつき、硬い表情でいったんカメラを止めた。そしてすぐにテープチェックをしはじめる。全員がその手元にある画面を覗き込んだ。そこには総士が回し続けていたカメラの映像が、鮮明に映し出されている。
『甲洋、いまなにか言った?』
『いや?』
『総士は?』
──タス、ケテ……タス、ケ、テ……
『ッ!? 待って! やっぱり聞こえる!』
『来主?』
『聞こえるでしょ? 助けてって言ってる!』
『来主、お前はさっきからなにを言っている?』
──タスケ、テ……タス、ケ……
『なにって、ふたりには聞こえてないの!?』
『ドッキリの続き? さすがにもうお腹いっぱいだよ』
『そんなんじゃないって! 嘘でしょ? なんで聞こえないの!?』
──タスケテ……ううぅ……タス、ケ、テ……
「ほらぁ! ちゃんと入って……あれ? でも、これよく聞いたら一騎の声じゃないね」
トンネル内部で聞いた偽幽霊の声は、一騎が裏声を駆使して出していたものだった。あのときは混乱のあまり気づかなかったが、今にして思えば確かに彼のものだったことが分かる。けれど、この声はトンネルで聞いたものとはまるで違っていた。低く、それでいて濡れた声音は女性のものにしか聞こえない。
甲洋と総士を見ると、ふたりは完全に押し黙った状態で硬直していた。一騎が目を白黒させながら戸惑っている。
「おい総士、甲洋……これ、一体どういうことなんだ……?」
一騎の問いに答えるものはいなかった。沈黙が重い。蒸し暑いはずの湿った夜気が、ぐっと冷たくなったような気がする。操も一騎もなにも言えなくなってしまった。
空気を読まない(読めない)ことに定評のある操ですら、察するに余りある嫌な空気が流れている。早く納得のいく説明をしてほしいのに、この場にはそれができる人間がいないのだ。
「……帰ろう、今すぐ」
おもむろに、甲洋が言った。その顔面はまさに蒼白である。まったく同じ顔色で、総士がカメラの電源を落としながら頷いた。
「撤収だ」
「え、ちょっと? ねぇ?」
「いいからすぐに撤収だ!!」
鬼気迫る顔の総士に怒鳴られてしまった。ちょっと涙目で黙々と偽地蔵を回収しているふたりの姿を見て、「あ、これマジなやつだ」と、操と一騎は同時に思った。
*
その後、五体の偽地蔵(発泡スチロール製)を抱えた四人は一切の言葉を交わすことなく山を降り、車に乗り込むと楽園に戻った。
そしてその夜は誰ひとりとして自宅へ帰ろうとするものはおらず、全員でぴったり身を寄せ合い、川の字で眠った。(特に甲洋と総士はずっとプルプルしていた)
ちなみに一連の大掛かりな逆ドッキリ動画は、甲洋も総士も揃って編集作業を嫌がったためお蔵入りが決定し、偽地蔵にかかったウン十万だけが赤字として残ってしまった。
あの声がなんだったのかは未だに謎のまま、エレメント内では禁句になっている。だが、結果的に『ガチで怯える甲洋』という珍しいものを見ることができたので、操だけはちょっぴり得した気分になったのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
心霊スポットで肝試し動画を撮影することになった、動画クリエイター集団エレメント。
オバケ、ダメ、絶対主義の総士と、体調不良を訴える一騎を残し、甲洋と操のふたりはイチャコラ(?)しながら山奥の廃神社へと向かう。
そこで甲洋はこの肝試し企画が操(黒幕)と総士(仕掛け人)による、心霊ドッキリであったことを知らされる。しかも廃神社は偽の心霊スポットだった。
ようやく帰れると思った矢先、一行は総士の提案で今度こそ本物の心霊スポットへと向かうことになったのであった──。
*
「総士、一騎はなんて?」
やはりどうしても心配だったらしく、出発前に少し離れた位置で一騎に連絡を入れていた総士が戻ってきた。
「ああ、だいぶ楽になったとは言っていた。だが、大事をとって一騎はこのまま休ませる」
「そっか。じゃあ早く行って帰ってこようよ!」
「そうしよう」
なんやかんやで時刻は午前1時をとうに過ぎていた。今から行動を開始して件の旧トンネルとやらに到着するころには、ちょうど丑三つ時にさしかかっていることだろう。まさにうってつけのナイスタイミングといえる。
ハンディカメラ(ライト付き)は総士が、懐中電灯は甲洋が持ち、三人は廃神社の脇から伸びる小道へと足を踏み入れた。
「本物の心霊スポット、か。楽しみだな。ドキドキするよ!」
「来主、足元注意して。転ぶよ」
甲洋はドッキリにハメられたことが尾を引いているのか、かなりお疲れの様子だった。来たときよりも顔色が優れない。
ノリノリで企画を考えたのは自分だが、流石に悪いような気がしないでもないような気がしてきて、操は甲洋の手をとるとぎゅうと握りしめた。
「……カメラ回ってるよ」
「えへへー。甲洋が怖くないように、おれがずっとこうしててあげるね」
「怖くない」
「うっそだー。うわ! って悲鳴あげて尻もちついたくせにさ」
「あんなの誰だって驚くだろ」
ジロリと横目で睨まれる。けれどその頬には、ほんのりと赤みがさしていた。本人は情けない姿を撮られて消沈していたようだが、その普段なら絶対に見られない一面を見ることができて、操としては大満足だ。
あれが上手いこと編集されて、完成した動画を見るのが今から楽しみで仕方ない。サイトにアップロードされれば、きっと多くの視聴者が──
(……あれ?)
ふと引っかかりを覚えて、操は小さく首をかしげた。
普段はほぼ動じることのない甲洋が、ちょっとビクビクしていたり、驚いて尻もちをついたり。そんな意外な反応をそばで見ることができて、操の期待と好奇心は想像していた以上に満たされたはずだった。
だからこそ面白い動画が撮れたと思うし、早くたくさんの人に見てほしいとも思っている、はずなのだが。
(他のひとに見せるの、ちょっと嫌だな……)
なぜだか急に、そんなことを思ってしまう自分に気がついてしまった。
画面の向こう側には応援してくれる人たちが大勢いて、とりわけ甲洋は女性人気が圧倒的だ。中には少々困ったファンもいて、ストーカー騒ぎで警察沙汰になったなんてこともある。けれど今まで操が彼のファン層について深く意識することはなかったし、ましてやこんな気持ちになるのも初めてだった。
それは一度でいいからケーキをワンホール食べてみたいとか、一騎カレーを鍋ごと食べてみたいとか、そういった欲張りな感情にどこか似ているような気がした。要は子供っぽい独占欲だ。
「来主? 急に黙り込んでどうかした?」
「え? なに? なにか言った?」
物思いにふけっていた操の顔を、甲洋が物珍しそうに覗き込んでくる。
「眠くなった? いつもならもう寝てる時間だしね」
「ぜんぜん! だってここからが本番じゃん!」
「今までを刺し身のつま扱いされるのも、それはそれで複雑なんだけど?」
ムッとした表情で、またしても横目で睨まれる。おかしいなぁと操は思った。どうしてか、今日はいちいち甲洋が可愛く感じられてしまう。胸をくすぐられるとでも言えばいいのだろうか。
謎の母性に目覚めつつある操だったが、当の本人としてはまだまだ理解しがたい感情である。
「甲洋は可愛いね」
「もういいってその話は」
なんとも複雑な感情をひとまず押しやり、目を三日月にしてからかっていると、なにやら小さな物体が頬にコツンとぶつかってきた。
「ぴぇっ!? ま、またなんかぶつかってきたぁ!」
咄嗟に悲鳴をあげ、甲洋の腕にしがみつく。
「虫だよ虫。お前のほうがよっぽど怖がりなんじゃない?」
「だってビックリするじゃん!」
「はいはい、可愛いね来主は」
「うわ~、意地悪だぁ……」
甲洋の腕に抱きついたまま唇を尖らせていると、ずっと口を噤んでカメラを回すことに専念していた総士が、
「お前たち、いい加減イチャつくのはやめろ! ずっとカメラ越しに見てなきゃいけない僕の身にもなれ!!」
──と、キレはじめた。
彼は額に青筋を浮かべている。さらに「本来なら僕だって」と、小さく零しているのを耳ざとく聞きつけ、甲洋が「あー」と納得したような声をあげた。
「さっき言ってた予定が狂うっていうのは、そういう……?」
「(ギクッ)」
「なに? なんのこと?」
小首を傾げた操に、甲洋が生温かく微笑んだ。
「一騎がいないと寂しいってこと」
「そっか! わかるよ総士。おれも一騎がいないと寂しいよ」
「い、いいからさっさと歩け! のんびりしてたら夜が明けるぞ!」
ザ・男心である。甲洋がそこはかとなく自慢気にドヤって見えるのは気のせいだろうか。
「それより総士、これから行くトンネルには、どんないわくが?」
甲洋が投じた質問によって、なんとかピリピリしていた場の空気が正常に戻る。総士は緊張した面持ちで「ああ」と頷いた。
「工事中の落石で、何人かが犠牲になる事故があったらしいな。夜な夜な助けを求める声が聞こえるとか、他にも女のすすり泣きや、赤ん坊を抱いた老婆が出るなんて統一性のない噂まである」
「いろんな尾ひれがつくからね、そういう場所には」
「眉唾だ。どうせ風が吹き抜ける音を聞き間違えたとか、野生動物を見間違えたとか、その程度のオチだろう」
「えー? でも、実際そこでいっぱい人が死んでるんでしょ?」
「だから立つんだよ。その手の噂がね」
「ふぅん」
こうも冷静に分析されてしまうと、なんだか寂しいものがある。せっかくの心霊気分を台無しにされたような気分だった。
しかし、自分たちは今まさにそれを確かめるために向かっているのだ。もしかしたら説明がつかないような不思議な何かが、この先には待ち受けているかもしれない。想像するだけでワクワクとした期待に胸が膨らむ。
──タス……ケテ……
「ん?」
そのときだった。どこからか声が聞こえたような気がして、操は甲洋を見上げた。
「甲洋、いまなにか言った?」
「いや?」
「総士は?」
背後でカメラを回す総士を振り返ってみるが、彼は首を左右に振るだけだった。操の頭上にクエスチョンマークが飛び交った。
気のせいだったのだろうか。あたりにゆるゆると流れる風が、草木を揺らして不規則に音を立てている。さっきの話じゃないが、それを聞き間違えただけなのかもしれない。
──タス、ケテ……タス、ケ、テ……
「ッ!? 待って! やっぱり聞こえる!」
操は足を止めると、甲洋の手から懐中電灯を奪ってそこいらじゅうを照らしてみた。気のせいなどではない。確かに聞こえた。地の底から響いてくるような、重く沈んだ声だった。
「来主?」
「聞こえるでしょ? 助けてって言ってる!」
甲洋が戸惑った表情を浮かべ、総士に視線をやった。総士も甲洋と全く同じ顔をしながら首を傾げている。
「来主、お前はさっきからなにを言っている?」
──タスケ、テ……タス、ケ……
「なにって、ふたりには聞こえてないの!?」
「ドッキリの続き? さすがにもうお腹いっぱいだよ」
「そんなんじゃないって! 嘘でしょ? なんで聞こえないの!?」
その間も、どこからか助けを求める声がずっと聞こえていた。ときどき嗚咽のようなものも混ざっている。さっき総士の話にあった、女のすすり泣きというのはこれのことなのかもしれない。
甲洋と総士は顔を見合わせ、操の様子に困惑している。
(この声、おれにしか聞こえてないんだ……!)
ぞわりと背筋に寒気が走った。全身に毛虫が這うような感覚を覚え、皮膚が粟立つ。
──タスケテ……ううぅ……タス、ケ、テ……
「む、無理無理! もうやだ! ねぇ帰ろうよ!」
あれほど不思議現象を期待していたはずが、いざとなったら急に怖くなってしまった。なにせ共有できる人間がいないのだ。自分だけが、目に見えない何らかの干渉を受けている。それがなにより不気味で、恐ろしかった。
操は甲洋の腕を思いきり引っ張った。もうここにはいたくない。けれど甲洋も総士も、ただ不審そうに顔をしかめて見せるだけだ。
「なんだかよく分からないが、心霊スポットに行きたがっていたのはお前だろう。旧トンネルはもうすぐそこだ。このまま進むぞ」
「だってさ。話はあとで聞くから、まずは行ってみよう?」
「ふたりにはあれが聞こえてないから、そんなことが言えるんだ……」
涙目の操は、すっかり萎縮してしまった。今すぐにでも逃げだしてしまいたいが、甲洋と総士は聞き入れてくれそうにない。かといって一人で帰る勇気もないし、このまま行くしかなさそうだった。
操はグスンと鼻を鳴らすと、甲洋の腕にしがみついた。
*
トンネルに到着する頃には、あの不可解な声は消えていた。それでも操は甲洋の腕を離すことができず、ずっとしがみついたままだった。
山の斜面にぽっかりと開いた石積みのアーチ環には、苔がびっしりと生い茂っている。トンネルの先は真っ暗で、何かが大きな口を開けて獲物を待ち受けているかのようだった。
ゆるく吹き抜けていたはずの風はぴたりと止み、かすかな虫の鳴き声だけがそこかしこから聞こえてくる。
「ねぇ、本当に行くの?」
「一体どうしたのさ。行きは遠足気分ではしゃいでたのに」
確かに、さっきまでとはまるで立場が逆になっていた。
甲洋と総士のふたりは、操のようにはしゃぐとまではいかないが、やけに落ち着いてケロリとした顔をしている。
「なんでふたりは平気なの……あんなに怖がってたくせに……」
「何度も言わせるな。怖くないと言ってるだろう。深夜の山奥。古びたトンネル。過去に起こった凄惨な事故。心霊スポットなんてものは他者が勝手にそれらを紐付け、心象的に定義しているだけに過ぎないんだからな」
「シミュラクラ現象と同じようなものかもしれないな。人間の脳は、点が三つ集まった図形が顔に見えてしまうようにプログラムされている。心霊現象だって、所詮は五感で受け取った刺激を脳が勝手に解釈しているだけの話だよ」
「もー! なんでここに来て急に冷静になっちゃうのぉ!? 中に入ったらゾンビやクリーチャーが追いかけてきて、おれたち食べられちゃうかもしれないんだよ!?」
ほぼ泣きべそに近い声をあげた操を、総士が「ふん」と鼻でせせら笑った。
「物理攻撃か。望むところだ」
「拳で対話が可能なら、むしろ話は簡単だよ」
射影機よりも、バールのようなものを持たせることでイキイキするタイプであるらしい。非言語コミュニケーション能力の高さをうかがわせる戦士のような眼差しを見て、謎の心強さが込み上げてくる。
「うーん、なんか大丈夫そうな気がしてきたよ」
「せいぜい彼氏に守ってもらうんだな」
「総士、カメラが回ってるところでその発言は……ちょっと困るな」
「今更なんだ。その満更でもない顔を今すぐやめろ」
総士がまたピリピリしはじめたので、一行はさっさと中に入ることにした。
「うわ、変な臭い……」
トンネルに一歩踏み込んだ途端、じめついた湿気臭さが鼻をつく。ライトで照らした先には、延々と闇が口を開けているだけだった。側面には苔や湿気で黒々としたシミが広がり、ときどき落ちてくる水滴が不気味な水音を立てている。三人分の足音が、やけに大きくこだました。
「かなり長いトンネルのようだな。先が全く見通せない」
「ねぇ甲洋、なんか寒くない……?」
「そう? おかげさまで俺は暑いよ」
操は甲洋にひっついたまま、その腕を離すことができないでいる。離したが最後、闇にのまれてそのままはぐれてしまうような気がしていた。
見透かすかのようにからかわれて、操は頬を膨らませながら涙目で甲洋を睨み上げる。彼は肩をすくめてふっと笑った。
「大丈夫。一人になんかしないよ。そのまま捕まってな」
「甲洋……うん、ありがと……」
「チッ」
総士が舌打ちをしていたので、「総士もくっつく?」と提案すると、彼は忌々しそうに「結構だ!」と声を荒げた。やっぱり一騎がいないと情緒不安定になるのかなぁと、操は思った。
「見ろ、出口が見えてきたぞ」
しばらく進むと、総士がカメラを構えていない方の手で前方を指差した。うっすらとライトに照らされて、トンネルの出口が見えてくる。
操はホッと息をついた。ここまで何事もなく来ることができた。あそこに辿りつきさえすれば、あとは来た道を引き返すだけだ。例の声も聞こえないし、ゾンビやクリーチャーが現れる気配もない。
(よかった……もうすぐ帰れる……)
まだ折り返しではあるものの、安堵から気持ちが緩んだ。するとだんだん、さっきの声もなにかの間違いだったのではないかという気になってくる。
(そうだよね。だっておれにしか聞こえないなんて、そんなの絶対あるはずないし)
操がわずかに肩から力を抜いた、そのときだった。
『──けて』
(え……?)
声、のようなものが聞こえた気がして、操はギクリと肩を強張らせる。
『助け、て……』
「っ!?」
やっぱりそうだ。さっきと同じ、いや、むしろさっきよりもずっと明瞭に声が聞こえた。
甲洋でもない。総士でもない。悲しそうに上ずった声が、トンネルの内部に反響している。助けて、助けて──と。そればかりを、繰り返し。
凍りついたように足を止めると、引っ張られるようにして歩みを止めた甲洋が不思議そうに見下ろしてくる。
「来主?」
「なんだ? 急にどうした」
「総士……甲洋……あれ……」
背筋を氷でなぞられたように身を震わせながら、操は前方を指差した。
トンネルの先に、白くぼんやりとしたものが揺れている。
(なに、あれ……?)
ゆっくりと、ゆっくりと、それはこちらに向かって近づいてきているようだった。頼りないライトの光によって、その姿が徐々に明らかになっていく。
揺れていたのは、白いワンピースの裾だった。腰まである長い黒髪に、顔はすっかり覆い隠されている。女だ。丈の長い、白のワンピースを着た、痩せた女。ダラリとさせた両手をさまよわせるようにしながら、どんどん歩みを進めてくる。
「なにも見えないけど。誰かいるの?」
甲洋がトンネルの出口に向かって目を細める。総士もその方向へと熱心にカメラを向けているが、これといって反応を示すことはなかった。
「ふたりには、あれが見えてないの……?」
ガタガタと身を震わせながら呆然と問いかけた操を、甲洋と総士が不思議そうに見つめてきた。
さっきと同じだ。しかし今度は声だけじゃない。操にはその姿かたちがハッキリと見えている。それなのに、甲洋と総士の目には映っていないのだ。
「う、嘘でしょ? だって、あんなにハッキリ……!」
「お前はさっきから何を寝言ばかり言っているんだ」
「なんで!? なんでおれにしか見えてないのぉ!?」
様式美にのっとったかのような、いかにもといった姿の女が、ゆらゆらと身体を揺らしながらすぐ目の前まで迫ってきている。一歩、また一歩と近づくたびに、白い裸足がヒタヒタと湿った音を立てている。
『ううぅぅ……助け、てぇ……』
「うわー!? オバケ! オバケ来ちゃう! 早く逃げなきゃ!!」
操は甲洋と総士の腕をそれぞれ掴んで引き返そうとしたが、状況がまるで理解できていないふたりは、ただお互いに顔を見合わせるだけだった。むしろ今にも走り出そうとする操の腕を、甲洋が掴んで引き止める。
「待ちなって来主。俺たちにも分かるように説明して」
「そんな暇ないよ! わっ、わっ!? 来る! 来るってばぁ!」
女はもう目の前だった。息遣いすら聞こえそうなほどの距離まで迫り、真っ白い両手を操に向かって伸ばしてくる。
「ヒッ、い、いやだ! 来ないでぇっ!!」
『助けてぇぇ~~!』
「やだぁ~~ッ!!」
女の両腕が首に巻きついた瞬間、操の意識はブラックアウトした。
*
「──す、来主」
何度かゆるく頬を叩かれ、ふわりと意識が浮上する。
「う~ん……ぅ、あれ……?」
一体なにが起こったのだったか。膜が張ったようにぼんやりとした思考で瞬きを繰り返すと、徐々に見えてきたのは心配そうな甲洋の表情だった。
「ッ!? お、オバケ! オバケはどこ!?」
慌てて半身を起こすと、そこは元いた廃神社のそばだった。地面に置かれた懐中電灯の光で、周囲が薄ぼんやりと照らされている。藪に覆われた偽地蔵が、変わらずズラリと並んでいるのが見えた。
「あれ……おれたち、いつのまに戻ってきたの? トンネルは? オバケは?」
操は地面にあぐらをかいた甲洋の腕の中で、横抱きにされた状態で今までずっと気を失っていたらしかった。甲洋は状況が理解できずに目を瞬かせる操に、ホッと安堵の笑みを浮かべている。
「やっとお目覚めか」
片手にカメラを回す総士が、甲洋の頭上からひょっこりと顔を覗かせる。その足元にちょこんと正座している人物を見て、操はこぼれんばかりに瞳を大きく見開いた。
「まさか失神するなんて。ごめんな、来主」
「一騎!? なんで一騎がここにいるの!?」
一騎は調子が優れず、車の中で休んでいたはずだ。それがどうしてか目の前で眉をハの字にさせ、申し訳無さそうに肩をすくめている。
よく見れば、彼は真っ白のワンピースを身にまとっていた。しかもその膝の上には黒い毛むくじゃらが丸めて置かれている。見覚えがありすぎるそれらに、操はますます混乱した。
「な、なにそれ? どういうこと?」
「実はさ……」
スッ、と一騎がなにかを持ち上げた。それは『ドッキリ大成功』と書かれた看板で、本日二度目の登場だった。
「これ、全部ドッキリなんだ」
「ふぁッ!?」
「デッデレー、なんちゃって」
照れくさそうに言った一騎にあんぐりと口を開いた操を見て、堪えきれずに総士が顔を背けながら小さく噴きだした。そのまま肩を揺らし、クツクツと笑っている。
「っ、!? ぇ、え!?」
咄嗟に甲洋を見ると、彼もまた総士と同じように顔を背けて肩を震わせていた。
「な、なに!? なんなのこれ!? ぜんぜん意味がわかんないよ!?」
涙目で混乱する操に、総士が「つまり逆ドッキリだ」と笑いを噛み殺しながら言い放った。
「逆、ドッキリぃ……?」
「ごめん来主。ターゲットは俺でも一騎でもなく、最初からお前だったんだよ」
「その通り。お前以外の全員が、この企画の仕掛け人だ」
「はぁ~!?」
操にドッキリ企画を持ちかけられた総士は、話に乗るふりをしてこの逆ドッキリ計画を思いついた。そして密かに甲洋と一騎と三人で打ち合わせをし、表向きは操発案の心霊ドッキリとして事を進めることにしたのだ。
一騎が到着して早々に体調を崩したのも、もちろん仕込みである。彼は操と甲洋を総士が待機している廃神社へと向かわせたあと、すぐにこの山の裏側へ全力ダッシュした。甲洋を偽のターゲットとした一連の茶番は、一騎が例の旧トンネルに到着して女の幽霊に変装し、待機が完了するまでの時間稼ぎだったというわけだ。
トンネルへ向かう前に総士が一騎に入れていた連絡は、本番スタートの合図を送るためのものだった。
「そ、そんなぁ……みんな酷いよぉ……」
「もともと一騎と甲洋をハメようとしていたのはお前の方だぞ」
「そうだけど! そうだけどぉ! 怖かったよぉ!」
ピィピィと泣きだした操の頭を、甲洋が「よしよし」と言って優しく撫でる。
「俺は止めたんだよ。だけど総士がどうしてもって」
「優しい彼氏像を守ることに必死か。息をするように嘘をつくんじゃない」
「甲洋、見たことないくらい目がキラキラしてたよな……」
「もう誰も信じられないよ! 鬼! 悪魔!」
最初から騙されていたのは自分の方だったなんて、生きている人間が一番怖いというのは本当だったんだ……と、操は思った。特に甲洋はエグい。さっさと役者にでも転身するべきである。あの怯えたり驚いたりしている姿を、ちょっとでも可愛いと思ってしまった自分が憎い。
しかしあれが全て嘘だったと知って、心から安堵しているのも事実だった。心霊体験なんて二度とごめんだ。あんな恐ろしい思いをするくらいなら、ふんどし一丁でローションまみれになりながらポロリする方が、何倍もマシだった。
「これに懲りて、もう二度と心霊スポットに行きたいなんて言いだすのはやめるんだな」
片手を腰に当てた総士が、ふんぞり返って笑みを浮かべている。
「トンネルが心霊スポットっていうのも嘘なわけ……?」
「そりゃあ、総士はオバケが出るようなところに、わざわざ行きたがらないもんな」
「う、うるさいぞ一騎」
ふふふと笑っている一騎と、バツが悪そうにしている総士に頬を膨らませていた操だが、ふと思いだして甲洋を見た。
「ねぇ、じゃああの声はなんだったの? あれも一騎が?」
「あの声って?」
「行く途中で聞こえた声だよ。あのとき、一騎はもうトンネルの奥にいたんでしょ?」
あらかじめ録音した音声でも流していたのだろうか。操が首を傾げていると、甲洋と総士が不思議そうに顔を見合わせる。一騎も訳がわからないといった様子でキョトンとしていた。
「声ってなんのことだ? 俺はトンネルの奥で待ってただけで、他にも仕込みがあるなんて聞かされてないぞ?」
「そんなはずないよ! 総士、カメラ貸して! 見てみれば分かるんだから!」
「……ちょっと待て」
総士が膝をつき、硬い表情でいったんカメラを止めた。そしてすぐにテープチェックをしはじめる。全員がその手元にある画面を覗き込んだ。そこには総士が回し続けていたカメラの映像が、鮮明に映し出されている。
『甲洋、いまなにか言った?』
『いや?』
『総士は?』
──タス、ケテ……タス、ケ、テ……
『ッ!? 待って! やっぱり聞こえる!』
『来主?』
『聞こえるでしょ? 助けてって言ってる!』
『来主、お前はさっきからなにを言っている?』
──タスケ、テ……タス、ケ……
『なにって、ふたりには聞こえてないの!?』
『ドッキリの続き? さすがにもうお腹いっぱいだよ』
『そんなんじゃないって! 嘘でしょ? なんで聞こえないの!?』
──タスケテ……ううぅ……タス、ケ、テ……
「ほらぁ! ちゃんと入って……あれ? でも、これよく聞いたら一騎の声じゃないね」
トンネル内部で聞いた偽幽霊の声は、一騎が裏声を駆使して出していたものだった。あのときは混乱のあまり気づかなかったが、今にして思えば確かに彼のものだったことが分かる。けれど、この声はトンネルで聞いたものとはまるで違っていた。低く、それでいて濡れた声音は女性のものにしか聞こえない。
甲洋と総士を見ると、ふたりは完全に押し黙った状態で硬直していた。一騎が目を白黒させながら戸惑っている。
「おい総士、甲洋……これ、一体どういうことなんだ……?」
一騎の問いに答えるものはいなかった。沈黙が重い。蒸し暑いはずの湿った夜気が、ぐっと冷たくなったような気がする。操も一騎もなにも言えなくなってしまった。
空気を読まない(読めない)ことに定評のある操ですら、察するに余りある嫌な空気が流れている。早く納得のいく説明をしてほしいのに、この場にはそれができる人間がいないのだ。
「……帰ろう、今すぐ」
おもむろに、甲洋が言った。その顔面はまさに蒼白である。まったく同じ顔色で、総士がカメラの電源を落としながら頷いた。
「撤収だ」
「え、ちょっと? ねぇ?」
「いいからすぐに撤収だ!!」
鬼気迫る顔の総士に怒鳴られてしまった。ちょっと涙目で黙々と偽地蔵を回収しているふたりの姿を見て、「あ、これマジなやつだ」と、操と一騎は同時に思った。
*
その後、五体の偽地蔵(発泡スチロール製)を抱えた四人は一切の言葉を交わすことなく山を降り、車に乗り込むと楽園に戻った。
そしてその夜は誰ひとりとして自宅へ帰ろうとするものはおらず、全員でぴったり身を寄せ合い、川の字で眠った。(特に甲洋と総士はずっとプルプルしていた)
ちなみに一連の大掛かりな逆ドッキリ動画は、甲洋も総士も揃って編集作業を嫌がったためお蔵入りが決定し、偽地蔵にかかったウン十万だけが赤字として残ってしまった。
あの声がなんだったのかは未だに謎のまま、エレメント内では禁句になっている。だが、結果的に『ガチで怯える甲洋』という珍しいものを見ることができたので、操だけはちょっぴり得した気分になったのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
FafTuberとは、世界最大の動画共有サービス『FafTube』上に、独自制作した動画を公開し続けるクリエイターを指す名称である。
近年、日本でも爆発的なブームが到来し、子供たちのなりたい職業ランキングでは上位に入るほど、世間一般にも認知される存在になっていた。
FafTube上において数多のチャンネルが混在するなか、ひときわ人気を博しているFafTuber集団がいる。その名も『珪素チャンネル・エレメント』だ。
もともとはチート級の知能指数を誇る大学生、皆城総士と春日井甲洋が気まぐれで開設した科学実験チャンネルだった。
そこにふたりの幼馴染である真壁一騎がふらりと加入したことにより、一時期ほのぼのお料理チャンネルへとシフトチェンジ。その後、高校を卒業したあとフラフラしていた来主操──総士の従兄弟だ──が気まぐれ電撃加入を果たし、大食い、ゲーム実況、メントスジンジャーエールにハバネロ風呂などなど、なんでもありのカオスな悪ふざけチャンネルへと進化──総士に言わせると退化らしい──した。
揃いも揃って顔面偏差値が高いことから女子人気が絶大で、凄まじい勢いでチャンネル登録者数を増やし、日本人で初となるダイヤモンドの盾の獲得も間近とされている。
CDデビューもしており、デビューシングルはオリコン1位を獲得。M●テ出演も果たし、一気に国民的アイドルFafTuberへと上りつめた。
ちなみに甲洋と操は一時期不仲説が浮上していたが、ある検証動画をきっかけに二人の距離が急激に縮まったことから、視聴者たちの間にあらゆる意味で衝撃が走り、もともとは一騎と総士の二人によって占められていた『とある市場』を、より拡大させる結果となった。
『【検証】不仲説のあるふたりで釣りキャンプに出かけてみた』という動画は、珪素チャンネル内で最多の再生数を誇っている。
*
「夏だしさ、今年は心霊スポット凸しようよ!」
8月某日。
甲洋の実家である元・喫茶楽園──現在は閉店し、四人の活動拠点になっている──で企画会議中、ずっとスイカの種を飛ばして遊んでいた操がとつぜん声を上げた。
「おい甲洋。来主がまたしょーもないことを言いだしたぞ。止めろ。速やかに」
その提案に真っ先に難色を示したのは総士だった。彼は眼鏡の奥でその瞳を険しく細めている。
なんで俺がと思いつつ、操がふっ飛ばしたスイカの種を片付けていた甲洋は、今ではすっかり操の保護者兼、世話係に任命されていた。(なんだかんだで異存はないが)
「来主、総士が心霊系NGなのは知ってるだろ?」
「えー? だって夏だよ? 夏といったらオバケじゃないのぉ?」
「まぁ風物詩ではあるけどさ」
操がプッと吐き出したスイカの種を素早くキャッチしながら、甲洋は総士に視線を向けた。彼は形の良い眉を鋭利な角度に吊り上げているが、その顔色はうっすら青くなっている。
珪素チャンネルでは、これまで心霊系の動画を扱ったことがない。それもこれも、全て総士が却下してきたからだ。科学的根拠のない有象無象を扱うことは、当チャンネルの理念に反する、とかなんとかそれっぽいことを言ってはいるが、今やなんでもありのカオスなチャンネルにおいて、理念といえば『炎上しない』くらいのものである。
要するに、彼はシンプルにオバケが怖いのだ。一騎も甲洋もそれを知っているが、あえて突っ込まずに彼の言い分を尊重してきた。が、操は空気を読まない子だった。
「ねぇ総士、科学的根拠がないってことは、総士にとってオバケはいないってことなんでしょ? だったら怖がる必要なんかないじゃん。いないんだから」
あーぁ、言っちゃった……と呆れながらおしぼりで手に付着したスイカ汁を拭いていると、案の定
「ッ! 怖くなどない! 僕をみくびるな!」
と、総士が顔を真っ赤にしてテーブルを叩きながら否定した。
「なら平気だよね! 今夜さっそく行こうよ! はい決定! プッ」
「来主、いい加減スイカの種飛ばすのはやめな……」
甲洋がキャッチしそこねたスイカの種が、操の真向かいにいる総士の眼鏡にくっついた。いったい口の中に幾つ種をストックしているのだろうか。操の目の前の皿には食べ終わったスイカの皮が山のようになっている。
エレメントはAlvisという名のマネジメント会社に所属するクリエイター集団だ。そこに毎日のようにファンから手紙をはじめ、なにかしらのプレゼントが送られてくる。
夏真っ盛りということもあって、Alvis経由で送られてきたのは大量の高級スイカだった。とても食べ切れる量ではなかったが、底なしの胃袋を持つ操がせっせと食べて消費してくれている。
「冗談じゃない。僕は絶対に行かないぞ。言っておくが、怖いからじゃない。撮りためてある動画の編集作業が、山のごとく残っているからだ。それもこれもお前と一騎の編集技術がいつまで経っても向上しないからであって、そのしわ寄せが僕と甲洋に」
「安心して総士。なにかあっても大丈夫なように、除霊スプレーを買っておいたから」
「聞け! というか、なんだ除霊スプレーって!?」
「ジャーン! これだよ。セール特価で三万円だったよ」
「さ ん ま ん え ん !? 明らかに悪徳商法じゃないのか!? 甲洋! 今すぐ国民生活センターに連絡しろ!」
ダァーンと、総士がまたテーブルを叩いた。その拍子に眼鏡がズレて、付着したままだったスイカの種がポロッと落ちる。
操が自信満々でどこからか取り出した除霊スプレーとやらは、見たところなんの変哲もないアロマスプレーのように見えた。透明なプラスチック容器に、白いラベルが貼ってある。その表面には達筆な字で『悪霊退散』と書いてあり、どこからどう見ても胡散臭い代物だった。
甲洋はテーブルの上に置かれたそれを興味本位から手に取ると、細かな字で記載された説明書きに目を通した。そこには
『自称陰陽師監修のもと作られた、邪気祓い、除霊用のミストです。霊媒体質・憑依体質の方、または生霊対策にもうっすら効果的。
ハーブの香りで蚊やヒルなどの害虫を寄せ付けません。ところでタピオカの次に流行るものって結局なんなん?』
と書かれていた。甲洋はふっと息をつく。
「……来主」
「ん? なに?」
「本当にこれを三万円も出して買ったの?」
「買ったよ! 送料込みで三万五百円したよ!」
「そう……次から買い物するときは、俺に一言相談できる?」
「甲洋に? んー、わかった! 次は甲洋に言ってから買うね!」
「素直でいいな、来主は」
「叱れ甲洋!! 釣りキャンプ以来様子がおかしいぞお前!!」
『ちょっと意地悪な気になるあいつ』から、『優しいゲロ甘彼ぴっぴ』へとクラスチェンジを果たしている甲洋を、総士が信じられないものを見るような目で見ている。
確かにいいカモにされちゃったなこの子……と呆れてはいるが、操は曇りなき眼で除霊スプレーが本物であると信じ込んでいるようだった。こんなおふざけグッズに三万円もの大金を出すその神経は、狂気の沙汰としか思えない。しかしそういう頭が弱い──いや、ピュアなところにハマってしまったのも事実だったので、甲洋は生暖かく微笑みながら黙っておくことにした。
「と、とにかく、僕は行かないったら行かない。行くならお前達だけで行くんだな」
「来主、諦めたほうがいい。実際に編集作業が押してるのは事実だよ」
「ちぇー、わかったよ。おれと甲洋と一騎だけで行ってくるよ」
「待て。一騎は了承しているのか? 本人に断りもなく勝手に頭数に入れているのなら、この僕が許さないぞ」
それを言ったら甲洋だって了承した覚えはない。だが強制参加扱いになっている。
甲洋だって、可能なら心霊スポットになどわざわざ行きたくはなかった。どちらかと言えば否定派だし、そもそもそういった場所に面白半分で行くべきではないからだ。
しかし操は行く気まんまんになっている。放っておくと何をしでかすか分からない彼は、最悪ひとりでも行くと言いだしかねない。夜道をひとりで歩かせるのも嫌なのに、心霊スポットなんてもっての外である。
「俺なら大丈夫だよ、総士」
そこに、黒いエプロン姿の一騎がやってきた。彼は三人が会議をしている間、カウンター席の向こう側にあるキッチンでせっせとスイーツ作りに励んでいた。
次から次へとテーブルの上にスイカを使ったデザートが並べられていく。スイカゼリーにスイカジェラート、スイカケーキにスイカのミルクドリンクなどなど。その豊富なスイーツの数々に、いっそ一騎をシェフに楽園の営業を再開させたほうが、ずっと堅実に暮らしていけるのではないかと甲洋は思った。
「わー! 凄いや一騎! これ全部スイカを使って作ったの?」
「ああ。皮は漬物と酢の物にして冷蔵庫で冷やしてあるから、夕飯で食べよう」
「やったー! スイカって捨てるとこないんだね!」
一騎と操がキャイキャイしている傍らで、総士がテーブルの上のスイーツをスマホで撮影しまくっている。あとでSNSに投稿するつもりなのだ。今夜もバズってしまうのか。一騎はすでに料理のレシピ本も数冊発行しており、ベストセラーになっている。
「一騎、キッチンでカメラは回したか?」
「固定してずっと回してたから、多分ちゃんと撮れてると思う」
「よし、他をお蔵にしてでも最優先で編集しよう」
「え? ぬるぬるローション尻相撲が先じゃないの? おれたち昨日、砂浜で死にそうになりながら褌でがんばったのに。甲洋なんかポロリもしたのに」
「そんなものは後でいい。モザイク処理が面倒だ」
熱中症ギリギリ命がけの撮影 < 一騎のお料理動画である。確かに男4人が褌一丁でローションまみれになっている絵面よりも、癒やし系のイケメンがスイーツ作りをしている動画の方がメンタルに負荷がかからないのは明白──しかも一人はポロリという名の大事故を起こしている──だ。頬肉ゆるゆるにしながら編集するんだろうなぁと思ったが、黙っておいた。っていうか、ポロリシーンはお願いだからカットしてほしい。
その後、四人はほんのいっとき心霊スポットの件を忘れて、仲良くスイーツを食べる動画を撮影しながら、ほのぼのとした時を過ごしたのだった。
*
時刻は午後10時過ぎ。
夕飯を食べたあと、総士は自宅でじっくり編集作業をするというので帰っていった。
残りの三人は車に乗り込み、心霊スポットに向かって走りだしていた。
「こんばんは! 珪素チャンネルです! 今夜はおれと甲洋と一騎で心霊スポットに行くよ! 総士は怖いからってお留守番です!」
「怒られるよ来主……」
ダッシュボードにライトつきのカメラを設置し、車を走らせながらオープニングの撮影を行う。運転は甲洋、助手席に操、後部座席には一騎が座っている。
「心霊スポットなんて初めてだよな。どこに行くんだ?」
一騎が甲洋の背後からひょっこり顔を出しながら首を傾げる。今夜の企画は完全に操主導のもと行われているため、他二人は行き先すら知らされていなかった。
「よくぞ聞いてくれたね一騎! 今おれたちが向かってるのは、ナナシの神社っていう知る人ぞ知るスポットなんだよ」
ちょうど赤信号で停車したところで、甲洋が操に視線を送りながら口を開く。
「ナナシの神社? 聞いたことないな」
「そこでむかし殺人事件があって、今は廃神社になってるんだって。殺された女の霊が出るとか、どこかに首なし地蔵があって、それを見ると呪われて死ぬとか噂があるらしいよ」
「えっ、それって大丈夫なのか? 俺たち無事に帰れるのか?」
「それを確かめるために行くんじゃん!」
「ありがちというかなんというか……」
「甲洋もっとテンション上げてよぉ。あ、次の信号を右に曲がって」
適当なところでオープニングを切り上げ、操のナビで車をひたすら走らせる。徐々にコンビニや民家の明かりが減っていき、やがて山道へと入っていった。
操がダッシュボードからカメラを取り、レンズを進行方向へと向ける。
「雰囲気でてきたね! いい感じー!」
行き先が行き先なだけに、ただでさえ不穏に感じられる曲がりくねった山道が、ほんのりと立ち込める霧によってさらに薄気味悪さを増している。街灯のない二車線の道を車のライトだけが照らしだし、鬱蒼とした木々をぼんやりと浮かびあがらせていた。
完全に口数が潰えた甲洋と一騎とは対照的に、操だけがまるで遠足のテンションではしゃいでいる。
「流石にちょっと不気味だな。来主、まだつかないの?」
「もうすぐだよ。ほらあそこ!」
操の指示のもと、道の脇にちょうどよく空いていた停車スペースに車を停める。するとずっと黙り込んでいた一騎が「ごめん、ちょっと」と弱々しい声をあげた。
「一騎?」
操がライト付きのカメラを後部座席に向ける。一騎は額にうっすらと汗を滲ませ、胸のあたりを手の平で押さえていた。
「どうしたの一騎! 顔色悪いよ!?」
「ここについた途端、急に胸が……」
「苦しいの!?」
「悪い……俺はここ、ダメかもしれない」
「えっ」
まさかの事態に、操までどんどん顔色をなくしていく。
「ど、どうしよう甲洋……これってオバケのせい……?」
「まさか……」
しかし、場所が場所だけに否定はしきれない。ここに来て急に体調を崩すというのは、不吉以外のなにものでもなかった。一騎に霊感があるなんて話は聞いたことがなかったが、なんらかの警告を受けているとでもいうのだろうか。
一騎は胸を押さえたまま大きく息をついた。そして不安そうにしている操を、安心させるように笑顔を浮かべて見せる。
「ここで休んでれば大丈夫だよ。俺に構わず、お前たちだけでも行ってくれ」
「で、でも」
「初めての心霊スポット、来主は楽しみにしてたんだろ?」
「そうだけど……」
一騎が青白い顔をしながら甲洋に目配せしてくる。
正直なところ、この流れは動画的にかなり美味しいのだ。心霊スポットに来てメンバーの一人が急に体調を崩すなんて、滑りだしの掴みとしては完璧すぎる。この先もなにかしらの異変をカメラに収めることができたら、さらに御の字だった。
本音を言えば引き返したいところだが、一騎の意図を汲み取り、甲洋は頷いた。
「来主、行こう。ここで引けば、総士の反対を押し切ってまで来た意味がなくなるよ」
「うん……わかった……」
さっきまでの遠足気分はどこへやら、一騎の身を案じる操は冴えない表情をしながらも頷いた。
*
一騎のことは心配だが、甲洋と操は気持ちを切り替えると廃神社を目指して山の麓から獣道へと分け入った。
かろうじて人が通れる程度の険しい道を進んでいくと、わずかに開けた空間に出る。
その先は長い石段が続いているものの、すっかり荒れ果てて雑草に埋もれていた。
「うわぁ、不気味だね。ぜんぜん先が見えないよ」
操が懐中電灯で石段の先を照らす。甲洋も片手に構えたカメラをその方向へ向けた。
相当に長い階段のようで、頂上になにがあるのかは全く見えない。左右には木々が生い茂り、ぽっかりと空いた黒い穴へと向かって石段が続いている。
この先に例の廃神社とやらがあるのだろうが、こころなしか湿った風が流れこんできているような気がした。ゆるく、ぬるく、けれど確実に、なんらかの力によって拒まれている。そんな気にさせられる程度には、場の空気に飲まれつつあった。
「甲洋、ひょっとして怖い?」
「別に」
間髪入れずに早口で否定したことで、逆に肯定してしまったかのようになってしまう。とはいえ、本音を言えば今すぐ猛烈に引き返したいくらいには、背筋が冷たくなっていた。怖い。めちゃくちゃ怖い。無表情で取り繕ってはいるが、実はちょっぴり涙目だった。
今にも石段の先から髪の長い女が這いずってくるのではないか。首なし地蔵とやらの呪いが、理不尽に降りかかってくるのではないか。事前に聞かされた情報から嫌な想像が膨らみ、ぷつぷつと鳥肌がたってくる。
しかしそんな素振りを見せるのは、甲洋の男としてのプライドが許さない。操は手を口元にちょこんと当てて、にんまりとした笑みを浮かべながらこちらを見ている。いっそ清々しいくらいの憎らしさを覚えてしまった。
「ふーん、甲洋って実はこういうの苦t」
「違うっつってんだろ」
「食い気味に否定するのやめない? っていうか、なんか口悪くなってない!?」
「気のせいじゃないかな」
「そっかぁ。ならいいんだけど……あ、そうだ! 除霊スプレー使ってみようよ! なにかあっても、きっとこれが守ってくれるよ!」
言いながら、操がさっそく例のインチキスプレーを吹きかけてくる。爽やかなハーブの香りが辺りにふわりと広がった。少なくとも、蚊に食われることだけはなさそうだ。
「あとね、お清めの塩と、魔除けの御札も持ってきてあるんだ」
「塩と御札?」
てっきり除霊スプレーにばかり依存しているのかと思っていたら、案外まともそうなアイテムを所持していることに驚いた。
操は誇らしげに「えへへー」と笑いながら、懐中電灯をいったん足元に置くとポケットのなかを探りはじめる。そして出てきたアイテムを、ライトつきのカメラに向かって突き出して見せた。
「ジャーン! これさえあれば大丈夫!」
それを見た瞬間、甲洋の目からすぅっと光が消えた。一瞬でも期待した自分が恥ずかしい。ライトのもとにさらされたのは、キッチンでよく見る青いキャップの『アジシオ』と、邪気退散と書かれた遊●王カードだった……。
「……本気?」
「なにが?」
「今日一番ゾッとしたよ(こんなアホの子を好きになってしまった自分に)」
虫除けスプレー、アジシオ、遊●王カード……いざ霊現象が起こったさい、何ひとつとして役に立たない三種の神器が揃ってしまった。
操は「これ甲洋にあげるね!」と言って、胸ポケットに遊●王カードをねじ込んでくる。それ、そもそも俺のデッキから盗んだカードじゃない? と思ったが、ここに来てとつぜん凄まじい疲労感に襲われたせいで口を開くのが面倒だった。これも霊障の類だろうか。(珪素チャンネルではよくカードゲーム実況もしています)
「よーし! 甲洋から恐怖心が消えたところで、さっそく廃神社へ出発進行!」
「だから、俺は別に怖がってなんかないってば」
厳密には、どうでもよくなったというほうが正しかった。
操のブレない天然ぶりは、ある意味ちょっとした救いになっているのかもしれない。
こちらまで危機感が薄れはじめたことに逆に危機感を覚えつつ、アジシオを振りまきながら石段を前進していく背中をカメラに収める。なんだかとても勇ましい。
が、何段か進んだところで操がとつぜん「ぴゃんっ!?」とおかしな悲鳴をあげた。
「え、なにその悲鳴? 可愛いな? ……じゃなくて、どうかした?」
「ここ、甲洋~!」
なぜか涙目になった操が、数段遅れて背後にいた甲洋に思いきり抱きついてくる。
「なんか顔にぶつかってきたぁ! 気持ち悪いぃ!」
十中八九、虫だろうなぁと思ったが、このときを待っていたとばかりに甲洋の胸は血湧き肉躍っていた。そうそう、これこれ……この感じ。世の男子が女子をお化け屋敷や心霊スポットに連れて来たがるのは、ほぼ100%こういったスキンシップを期待してのことだと言っても過言ではない。少なくとも甲洋はそういうベタなシチュエーションが大好物で、ずっと夢を馳せていた。念願叶って──甲洋の方が連れてこられた側だが──おのずとテンションが上がってくる。
「さっきまでの勢いはどうしたの? この程度で泣いてたら、先になんか進めないよ」
が、むっつりスケベであるがゆえのツンを発動し、甲洋は気合いで表情筋を引き締めると、あえて呆れた表情をしながら操を揶揄する。
「だってぇ……ねぇ甲洋、ここからは先に行ってよ。カメラはおれが持つから」
「それじゃくっついて歩けないだろ」
「え?」
「ごめん、なんでもない」
つい目的を見失いかけていたが、自分たちはここに撮影のため訪れたのである。決してイチャイチャするためではない。口惜しさを感じつつ、甲洋は操にカメラを渡すと代わりに懐中電灯を受け取った。ちゃっかりアジシオも渡されたので、そっと尻ポケットにしまった。
「じゃ、気を取り直して行ってみよう!」
勢いを取り戻した操がカメラを構える。どこかでイチャつくタイミングはないだろうかと思案しながら、今度は甲洋が先になって歩きだした。
*
長い石段を登り切ると、そこには石造りの鳥居と小さな拝殿があった。
どれほど長いあいだ放置されているのか、黒く変色した木造の拝殿は建物全体が傾いて、ぶら下がる紅白の麻縄だけが信仰への残滓を残している。賽銭箱は横倒しで半壊しており、その先の格子扉もひしゃげたように崩れかかっていた。
「わぁ……すごいボロボロだね……」
「昔は立派な神社だったんだろうけど……見る影もないな……」
山奥に捨て置かれたようにひっそりと沈む廃神社。最盛期には多くの参拝客が訪れていたのだろうが、今はその面影すら見つけることはできなかった。物悲しさすら込み上げて、しばしのあいだ言葉を失くす。
「あっ! 甲洋、あれ見て!」
とつぜん操が声をあげ、カメラを向けた先を指差した。甲洋もそちらに視線を走らせ、懐中電灯を向ける。するとそこには、藪に覆われた五体の地蔵がズラリと並べられていた。
物憂さに薄れかけていた『心霊スポットに来ている』という意識が、一瞬で蘇ってくる。絡みつく藪によって埋もれているものもあるが、この中には例の首なし地蔵があるかもしれないのだ。見ると死ぬ、なんて根も葉もない噂を本気で信じているわけではないが、わざわざ藪をつつく必要もな
「わーい! 探してみよーっと!」
「ほんっとアホ! アホだよお前は!」
タタターッと駆けていこうとする操の首根っこを捕まえ、キャラも忘れて罵倒する。
「やだー! 離してよ! 首なし地蔵探すんだぁ!」
「探してどうすんのさ!? なにかあったらどうする気!?」
「え? 甲洋、君……まさか死ぬなんて噂を信じてるわけじゃないよね?(スンッ)」
「急にチベットスナギツネみたいな顔するのやめてくれない!?」
そんな甲洋はさっきからずっとしわしわピ●チュウのような顔になっている。エレメント一のイケメンとうたわれる顔面が、残念なことになっていた。
「へぇー、そっかぁ。甲洋、やっぱり怖いんだ。君がこんなに可愛いやつだったなんて知らなかったよ。ぷぷぷ~っ」
「腹立つなお前」
なんでこんなクソガキを好きになってしまったのだろうか。人生どう転がるか分からないものである。
「あーぁ、でも残念だな。甲洋がそんなに臆病だったなんて……ファンの子たちはガッカリすると思うよ」
「それで煽ってるつもり? 再三言ってるけど、俺は別に怖がってるわけじゃないよ。ただ万が一の危険性を考慮して」
「おれの百年の恋も冷めちゃいそう」
「待ってな来主。今すぐ首なし地蔵を探してくるから」
即落ちだった。
「やったー! 甲洋のそういうチョロいとこ大好き!」
「覚えてろよ……(帰ったら絶対泣かす)」
完全に弱みにつけこまれる形で、首なし地蔵探索をすることになってしまった。返す返すもどうしてこんな奴を好きになってしまったのだろうかとウンザリしながら、甲洋はごくりと固唾をのんだ。
目の前に鎮座するのは五体の地蔵だ。一体一体ライトで照らしながら確認すると、そのうち三体は完全に藪に埋もれており、残り二体はしっかり顔が覗いている。つまり、確認が必要なのは三体のみということだ。
「甲洋、がんばって!」
操が背後からカメラを回しながらエールを送ってくる。甲洋は深く息を吐きだしながら気合いを入れた。首なし地蔵そのものが、あるかどうかも分からないただの噂に過ぎない。さっさと確認してしまえば済むことなのだ。
甲洋は顔が見えない地蔵にそっと手を伸ばした。絡みつく蔦や葉っぱを掻き分けて、そこにちゃんと頭部が存在していることを確かめる。一体、二体と確認し、そのたびにホッと息をついた。そして残すは三体目だ。
(これが最後……あってくれ、地蔵の首……!)
一番左端に佇む最後の地蔵に、震える指先を伸ばした。そのとき──
パァンッ!!
という、なにかが爆ぜる音がした。
「──ッ!?」
甲洋は声なき悲鳴をあげ、とっさに体勢を崩して片膝をついてしまった。その拍子に懐中電灯が地面に転がり落ちる。
音は藪の向こう側から聞こえたような気がした。ほんのりと火薬の匂いがするのは気のせいだろうか。
「な、なに!? いま何か変な音がしたけど!?」
「来主は来なくていい! そこでじっとしてて!」
「わ、わかった!」
藪の向こうでは何かが蠢く気配がしていた。ガサリガサリと微かな音が鳴っている。
甲洋は目を凝らし、その音と気配の正体に全神経を傾けた。得体の知れないなにかが、そこに存在している。霊的な力によるものなのか、あるいは野生動物の類なのか。
いずれにしろ手が届きそうなほどの距離に、その『なにか』がいるのだ。甲洋は手探りで懐中電灯を拾い上げ、体勢を立て直すと息を殺しながら藪を照らした。
するとその瞬間、
「わっ!!」
という声をあげながら、目の前からなにかが飛び出してきた。
「うわッ!?」
甲洋は驚きのあまり尻もちをついてしまった。尻ポケットにねじ込んでいたアジシオの瓶が地味に痛い。だが今はそれどころではなかった。
汗がドッと噴き出して、瞬きすらできないまま硬直する。目を見開いた甲洋の視界の先には、ここにはいないはずの人物がひょっこりと顔を出していた。
「ッ、? ぇ……ッ、え? そ、総士……?」
そこにあったのは今ごろ自宅で一騎のスイーツ動画を編集しているはずの、皆城総士の姿だった。彼は藪の向こう側に佇み、手には糸引きクラッカーを持っている。さっきの破裂音はこれだったのだ。
「そうだ。僕だ。そしてこれはつまり、こういうことだ」
スッ……と、総士がなにやら看板を掲げて見せた。そこには『ドッキリ大成功』という文字がデカデカと書かれており、甲洋は開いた口が塞がらなかった。
未だに何が起こったのか、頭のネジが吹っ飛んだようにうまいこと処理が追いつかない。心臓がバクバクと高鳴っていて、悪い夢でも見ているようだった。
「やったー! ドッキリ大成功! デッデレー!」
操が大はしゃぎで甲洋に駆け寄り、呆然とする表情をドアップで撮影している。
「ど……ドッキリ……?」
「あはは! 甲洋ってば尻もちついちゃって可愛いー!」
「ま、待って、説明して……」
「最初からおれと総士は仕掛け人だったんだよ! このお地蔵さんも本物っぽく作られた偽物! 実はぜーんぶ発泡スチロールで作られてるんだ! ちなみに一体につき●●万円の特注品だよ!」
「ッ……! ば、バカなんじゃないの!?」
ようやく甲洋の頭が回りはじめる。同時に凄まじい脱力感に襲われた。
最初から全て仕組まれていたことだったのだ。昼間、楽園で企画会議をしていたときから、それはすでに始まっていた。ドラマのオファーが来てもうまいこと対応できそうだなぁ、なんて感心している場合ではない。
先に帰るなんていうのは真っ赤な嘘で、総士は自宅へは帰らず一足先にこの廃神社までやってきて、偽地蔵の設置を行っていたのだ。そして藪の裏手に隠れると、ずっと甲洋たちが来るのを待っていた。
「総士は心霊スポットが怖いんじゃなかったのか?」
「バカを言うな甲洋。僕はそもそも、霊だのなんだのといった非科学的なものは信じない。よって一切合切、怖くなどない」
「実はねここ、心霊スポットでもなんでもないんだよ。本当にただの廃神社なの。だから総士もノリノリでおれの企画に乗ってくれたんだよ」
「だから怖くないと言ってるだろう!」
総士が藪の向こうから這い出しながら声を荒げる。
「いや、だって……じゃあ殺人事件とか首なし地蔵の話は……」
「作り話に決まってるでしょ!」
「あぁー……くそ……」
もはや項垂れるしかなかった。全く怪しむことなく、まんまと引っかかってしまったというわけだ。
いくら心霊スポットではないといっても、夜の山中に一人で待機しているなんて、どうかしてるとしか思えない。これがプロ根性とでも言えばいいのだろうか。しかもウン十万もする地蔵をオーダーメイドで五体も用意するあたり、FafTuberすぐ金に物を言わせる……と呆れ返るより他になかった。
「えへへー。うまくいってよかった。ごめんね甲洋、でもすっごくいい絵が撮れたよ」
できればお蔵にしてほしい……と心の底から願いつつ、操が差し出してくれた手をとり、立ち上がる。するとクラッカーから飛び散ったテープなどをせっせと拾い集めていた総士が、怪訝そうな顔をしながら「ところで一騎はどうした?」と問いかけてきた。
「あいつもグルじゃないの?」
「違うよ。本当は甲洋と一騎の二人がターゲットの企画だったんだもん」
「じゃあ体調不良はたまたまってこと? 逆にラッキーだなあいつ……」
「雰囲気に飲まれちゃったのかも。一騎も可愛いとこあるね」
「体調不良だと?」
総士が顔色を変える。けれどすぐに腕を組み、なにか考え込んでいる素振りを見せた。そして「予定は狂うが……仕方ない」と小声で呟いた。
「総士? どうかしたの? 早く戻ってあげないと、一騎が一人ぼっちで可哀想だよ」
「そうしたいのは山々だが、実はひとつ提案がある」
「提案?」
甲洋と操は同時に首を傾げた。
「この先の道をしばらく進んだところに、今では使われていない古びたトンネルがある。何を隠そう、そこは正真正銘の心霊スポットだ」
「え!? それほんとなの総士!?」
途端に目を輝かせた操に、総士が深く頷いた。
「僕としてはいささか不本意だが、ここまで来て見過ごすことはプロのFafTuberとしての沽券に関わる。つまり乗りかかった船だ」
マジか、と甲洋は思った。この流れはよろしくない。
しかしプロ魂に火がついている総士は、目だけで「おうちに帰して」と訴える甲洋に気づかずガッツポーズをして見せた。
「これより、第一次珪素チャンネル『真』心霊スポット凸企画を開始する!」
「やっぱりまだ帰れないんだな、俺たち……」
すでに疲労困憊の甲洋は、「やったー!」と万歳をしている操を死んだ魚のような目で見つめながら、盛大に溜息を漏らした。
←戻る ・ Wavebox👏
近年、日本でも爆発的なブームが到来し、子供たちのなりたい職業ランキングでは上位に入るほど、世間一般にも認知される存在になっていた。
FafTube上において数多のチャンネルが混在するなか、ひときわ人気を博しているFafTuber集団がいる。その名も『珪素チャンネル・エレメント』だ。
もともとはチート級の知能指数を誇る大学生、皆城総士と春日井甲洋が気まぐれで開設した科学実験チャンネルだった。
そこにふたりの幼馴染である真壁一騎がふらりと加入したことにより、一時期ほのぼのお料理チャンネルへとシフトチェンジ。その後、高校を卒業したあとフラフラしていた来主操──総士の従兄弟だ──が気まぐれ電撃加入を果たし、大食い、ゲーム実況、メントスジンジャーエールにハバネロ風呂などなど、なんでもありのカオスな悪ふざけチャンネルへと進化──総士に言わせると退化らしい──した。
揃いも揃って顔面偏差値が高いことから女子人気が絶大で、凄まじい勢いでチャンネル登録者数を増やし、日本人で初となるダイヤモンドの盾の獲得も間近とされている。
CDデビューもしており、デビューシングルはオリコン1位を獲得。M●テ出演も果たし、一気に国民的アイドルFafTuberへと上りつめた。
ちなみに甲洋と操は一時期不仲説が浮上していたが、ある検証動画をきっかけに二人の距離が急激に縮まったことから、視聴者たちの間にあらゆる意味で衝撃が走り、もともとは一騎と総士の二人によって占められていた『とある市場』を、より拡大させる結果となった。
『【検証】不仲説のあるふたりで釣りキャンプに出かけてみた』という動画は、珪素チャンネル内で最多の再生数を誇っている。
*
「夏だしさ、今年は心霊スポット凸しようよ!」
8月某日。
甲洋の実家である元・喫茶楽園──現在は閉店し、四人の活動拠点になっている──で企画会議中、ずっとスイカの種を飛ばして遊んでいた操がとつぜん声を上げた。
「おい甲洋。来主がまたしょーもないことを言いだしたぞ。止めろ。速やかに」
その提案に真っ先に難色を示したのは総士だった。彼は眼鏡の奥でその瞳を険しく細めている。
なんで俺がと思いつつ、操がふっ飛ばしたスイカの種を片付けていた甲洋は、今ではすっかり操の保護者兼、世話係に任命されていた。(なんだかんだで異存はないが)
「来主、総士が心霊系NGなのは知ってるだろ?」
「えー? だって夏だよ? 夏といったらオバケじゃないのぉ?」
「まぁ風物詩ではあるけどさ」
操がプッと吐き出したスイカの種を素早くキャッチしながら、甲洋は総士に視線を向けた。彼は形の良い眉を鋭利な角度に吊り上げているが、その顔色はうっすら青くなっている。
珪素チャンネルでは、これまで心霊系の動画を扱ったことがない。それもこれも、全て総士が却下してきたからだ。科学的根拠のない有象無象を扱うことは、当チャンネルの理念に反する、とかなんとかそれっぽいことを言ってはいるが、今やなんでもありのカオスなチャンネルにおいて、理念といえば『炎上しない』くらいのものである。
要するに、彼はシンプルにオバケが怖いのだ。一騎も甲洋もそれを知っているが、あえて突っ込まずに彼の言い分を尊重してきた。が、操は空気を読まない子だった。
「ねぇ総士、科学的根拠がないってことは、総士にとってオバケはいないってことなんでしょ? だったら怖がる必要なんかないじゃん。いないんだから」
あーぁ、言っちゃった……と呆れながらおしぼりで手に付着したスイカ汁を拭いていると、案の定
「ッ! 怖くなどない! 僕をみくびるな!」
と、総士が顔を真っ赤にしてテーブルを叩きながら否定した。
「なら平気だよね! 今夜さっそく行こうよ! はい決定! プッ」
「来主、いい加減スイカの種飛ばすのはやめな……」
甲洋がキャッチしそこねたスイカの種が、操の真向かいにいる総士の眼鏡にくっついた。いったい口の中に幾つ種をストックしているのだろうか。操の目の前の皿には食べ終わったスイカの皮が山のようになっている。
エレメントはAlvisという名のマネジメント会社に所属するクリエイター集団だ。そこに毎日のようにファンから手紙をはじめ、なにかしらのプレゼントが送られてくる。
夏真っ盛りということもあって、Alvis経由で送られてきたのは大量の高級スイカだった。とても食べ切れる量ではなかったが、底なしの胃袋を持つ操がせっせと食べて消費してくれている。
「冗談じゃない。僕は絶対に行かないぞ。言っておくが、怖いからじゃない。撮りためてある動画の編集作業が、山のごとく残っているからだ。それもこれもお前と一騎の編集技術がいつまで経っても向上しないからであって、そのしわ寄せが僕と甲洋に」
「安心して総士。なにかあっても大丈夫なように、除霊スプレーを買っておいたから」
「聞け! というか、なんだ除霊スプレーって!?」
「ジャーン! これだよ。セール特価で三万円だったよ」
「さ ん ま ん え ん !? 明らかに悪徳商法じゃないのか!? 甲洋! 今すぐ国民生活センターに連絡しろ!」
ダァーンと、総士がまたテーブルを叩いた。その拍子に眼鏡がズレて、付着したままだったスイカの種がポロッと落ちる。
操が自信満々でどこからか取り出した除霊スプレーとやらは、見たところなんの変哲もないアロマスプレーのように見えた。透明なプラスチック容器に、白いラベルが貼ってある。その表面には達筆な字で『悪霊退散』と書いてあり、どこからどう見ても胡散臭い代物だった。
甲洋はテーブルの上に置かれたそれを興味本位から手に取ると、細かな字で記載された説明書きに目を通した。そこには
『自称陰陽師監修のもと作られた、邪気祓い、除霊用のミストです。霊媒体質・憑依体質の方、または生霊対策にもうっすら効果的。
ハーブの香りで蚊やヒルなどの害虫を寄せ付けません。ところでタピオカの次に流行るものって結局なんなん?』
と書かれていた。甲洋はふっと息をつく。
「……来主」
「ん? なに?」
「本当にこれを三万円も出して買ったの?」
「買ったよ! 送料込みで三万五百円したよ!」
「そう……次から買い物するときは、俺に一言相談できる?」
「甲洋に? んー、わかった! 次は甲洋に言ってから買うね!」
「素直でいいな、来主は」
「叱れ甲洋!! 釣りキャンプ以来様子がおかしいぞお前!!」
『ちょっと意地悪な気になるあいつ』から、『優しいゲロ甘彼ぴっぴ』へとクラスチェンジを果たしている甲洋を、総士が信じられないものを見るような目で見ている。
確かにいいカモにされちゃったなこの子……と呆れてはいるが、操は曇りなき眼で除霊スプレーが本物であると信じ込んでいるようだった。こんなおふざけグッズに三万円もの大金を出すその神経は、狂気の沙汰としか思えない。しかしそういう頭が弱い──いや、ピュアなところにハマってしまったのも事実だったので、甲洋は生暖かく微笑みながら黙っておくことにした。
「と、とにかく、僕は行かないったら行かない。行くならお前達だけで行くんだな」
「来主、諦めたほうがいい。実際に編集作業が押してるのは事実だよ」
「ちぇー、わかったよ。おれと甲洋と一騎だけで行ってくるよ」
「待て。一騎は了承しているのか? 本人に断りもなく勝手に頭数に入れているのなら、この僕が許さないぞ」
それを言ったら甲洋だって了承した覚えはない。だが強制参加扱いになっている。
甲洋だって、可能なら心霊スポットになどわざわざ行きたくはなかった。どちらかと言えば否定派だし、そもそもそういった場所に面白半分で行くべきではないからだ。
しかし操は行く気まんまんになっている。放っておくと何をしでかすか分からない彼は、最悪ひとりでも行くと言いだしかねない。夜道をひとりで歩かせるのも嫌なのに、心霊スポットなんてもっての外である。
「俺なら大丈夫だよ、総士」
そこに、黒いエプロン姿の一騎がやってきた。彼は三人が会議をしている間、カウンター席の向こう側にあるキッチンでせっせとスイーツ作りに励んでいた。
次から次へとテーブルの上にスイカを使ったデザートが並べられていく。スイカゼリーにスイカジェラート、スイカケーキにスイカのミルクドリンクなどなど。その豊富なスイーツの数々に、いっそ一騎をシェフに楽園の営業を再開させたほうが、ずっと堅実に暮らしていけるのではないかと甲洋は思った。
「わー! 凄いや一騎! これ全部スイカを使って作ったの?」
「ああ。皮は漬物と酢の物にして冷蔵庫で冷やしてあるから、夕飯で食べよう」
「やったー! スイカって捨てるとこないんだね!」
一騎と操がキャイキャイしている傍らで、総士がテーブルの上のスイーツをスマホで撮影しまくっている。あとでSNSに投稿するつもりなのだ。今夜もバズってしまうのか。一騎はすでに料理のレシピ本も数冊発行しており、ベストセラーになっている。
「一騎、キッチンでカメラは回したか?」
「固定してずっと回してたから、多分ちゃんと撮れてると思う」
「よし、他をお蔵にしてでも最優先で編集しよう」
「え? ぬるぬるローション尻相撲が先じゃないの? おれたち昨日、砂浜で死にそうになりながら褌でがんばったのに。甲洋なんかポロリもしたのに」
「そんなものは後でいい。モザイク処理が面倒だ」
熱中症ギリギリ命がけの撮影 < 一騎のお料理動画である。確かに男4人が褌一丁でローションまみれになっている絵面よりも、癒やし系のイケメンがスイーツ作りをしている動画の方がメンタルに負荷がかからないのは明白──しかも一人はポロリという名の大事故を起こしている──だ。頬肉ゆるゆるにしながら編集するんだろうなぁと思ったが、黙っておいた。っていうか、ポロリシーンはお願いだからカットしてほしい。
その後、四人はほんのいっとき心霊スポットの件を忘れて、仲良くスイーツを食べる動画を撮影しながら、ほのぼのとした時を過ごしたのだった。
*
時刻は午後10時過ぎ。
夕飯を食べたあと、総士は自宅でじっくり編集作業をするというので帰っていった。
残りの三人は車に乗り込み、心霊スポットに向かって走りだしていた。
「こんばんは! 珪素チャンネルです! 今夜はおれと甲洋と一騎で心霊スポットに行くよ! 総士は怖いからってお留守番です!」
「怒られるよ来主……」
ダッシュボードにライトつきのカメラを設置し、車を走らせながらオープニングの撮影を行う。運転は甲洋、助手席に操、後部座席には一騎が座っている。
「心霊スポットなんて初めてだよな。どこに行くんだ?」
一騎が甲洋の背後からひょっこり顔を出しながら首を傾げる。今夜の企画は完全に操主導のもと行われているため、他二人は行き先すら知らされていなかった。
「よくぞ聞いてくれたね一騎! 今おれたちが向かってるのは、ナナシの神社っていう知る人ぞ知るスポットなんだよ」
ちょうど赤信号で停車したところで、甲洋が操に視線を送りながら口を開く。
「ナナシの神社? 聞いたことないな」
「そこでむかし殺人事件があって、今は廃神社になってるんだって。殺された女の霊が出るとか、どこかに首なし地蔵があって、それを見ると呪われて死ぬとか噂があるらしいよ」
「えっ、それって大丈夫なのか? 俺たち無事に帰れるのか?」
「それを確かめるために行くんじゃん!」
「ありがちというかなんというか……」
「甲洋もっとテンション上げてよぉ。あ、次の信号を右に曲がって」
適当なところでオープニングを切り上げ、操のナビで車をひたすら走らせる。徐々にコンビニや民家の明かりが減っていき、やがて山道へと入っていった。
操がダッシュボードからカメラを取り、レンズを進行方向へと向ける。
「雰囲気でてきたね! いい感じー!」
行き先が行き先なだけに、ただでさえ不穏に感じられる曲がりくねった山道が、ほんのりと立ち込める霧によってさらに薄気味悪さを増している。街灯のない二車線の道を車のライトだけが照らしだし、鬱蒼とした木々をぼんやりと浮かびあがらせていた。
完全に口数が潰えた甲洋と一騎とは対照的に、操だけがまるで遠足のテンションではしゃいでいる。
「流石にちょっと不気味だな。来主、まだつかないの?」
「もうすぐだよ。ほらあそこ!」
操の指示のもと、道の脇にちょうどよく空いていた停車スペースに車を停める。するとずっと黙り込んでいた一騎が「ごめん、ちょっと」と弱々しい声をあげた。
「一騎?」
操がライト付きのカメラを後部座席に向ける。一騎は額にうっすらと汗を滲ませ、胸のあたりを手の平で押さえていた。
「どうしたの一騎! 顔色悪いよ!?」
「ここについた途端、急に胸が……」
「苦しいの!?」
「悪い……俺はここ、ダメかもしれない」
「えっ」
まさかの事態に、操までどんどん顔色をなくしていく。
「ど、どうしよう甲洋……これってオバケのせい……?」
「まさか……」
しかし、場所が場所だけに否定はしきれない。ここに来て急に体調を崩すというのは、不吉以外のなにものでもなかった。一騎に霊感があるなんて話は聞いたことがなかったが、なんらかの警告を受けているとでもいうのだろうか。
一騎は胸を押さえたまま大きく息をついた。そして不安そうにしている操を、安心させるように笑顔を浮かべて見せる。
「ここで休んでれば大丈夫だよ。俺に構わず、お前たちだけでも行ってくれ」
「で、でも」
「初めての心霊スポット、来主は楽しみにしてたんだろ?」
「そうだけど……」
一騎が青白い顔をしながら甲洋に目配せしてくる。
正直なところ、この流れは動画的にかなり美味しいのだ。心霊スポットに来てメンバーの一人が急に体調を崩すなんて、滑りだしの掴みとしては完璧すぎる。この先もなにかしらの異変をカメラに収めることができたら、さらに御の字だった。
本音を言えば引き返したいところだが、一騎の意図を汲み取り、甲洋は頷いた。
「来主、行こう。ここで引けば、総士の反対を押し切ってまで来た意味がなくなるよ」
「うん……わかった……」
さっきまでの遠足気分はどこへやら、一騎の身を案じる操は冴えない表情をしながらも頷いた。
*
一騎のことは心配だが、甲洋と操は気持ちを切り替えると廃神社を目指して山の麓から獣道へと分け入った。
かろうじて人が通れる程度の険しい道を進んでいくと、わずかに開けた空間に出る。
その先は長い石段が続いているものの、すっかり荒れ果てて雑草に埋もれていた。
「うわぁ、不気味だね。ぜんぜん先が見えないよ」
操が懐中電灯で石段の先を照らす。甲洋も片手に構えたカメラをその方向へ向けた。
相当に長い階段のようで、頂上になにがあるのかは全く見えない。左右には木々が生い茂り、ぽっかりと空いた黒い穴へと向かって石段が続いている。
この先に例の廃神社とやらがあるのだろうが、こころなしか湿った風が流れこんできているような気がした。ゆるく、ぬるく、けれど確実に、なんらかの力によって拒まれている。そんな気にさせられる程度には、場の空気に飲まれつつあった。
「甲洋、ひょっとして怖い?」
「別に」
間髪入れずに早口で否定したことで、逆に肯定してしまったかのようになってしまう。とはいえ、本音を言えば今すぐ猛烈に引き返したいくらいには、背筋が冷たくなっていた。怖い。めちゃくちゃ怖い。無表情で取り繕ってはいるが、実はちょっぴり涙目だった。
今にも石段の先から髪の長い女が這いずってくるのではないか。首なし地蔵とやらの呪いが、理不尽に降りかかってくるのではないか。事前に聞かされた情報から嫌な想像が膨らみ、ぷつぷつと鳥肌がたってくる。
しかしそんな素振りを見せるのは、甲洋の男としてのプライドが許さない。操は手を口元にちょこんと当てて、にんまりとした笑みを浮かべながらこちらを見ている。いっそ清々しいくらいの憎らしさを覚えてしまった。
「ふーん、甲洋って実はこういうの苦t」
「違うっつってんだろ」
「食い気味に否定するのやめない? っていうか、なんか口悪くなってない!?」
「気のせいじゃないかな」
「そっかぁ。ならいいんだけど……あ、そうだ! 除霊スプレー使ってみようよ! なにかあっても、きっとこれが守ってくれるよ!」
言いながら、操がさっそく例のインチキスプレーを吹きかけてくる。爽やかなハーブの香りが辺りにふわりと広がった。少なくとも、蚊に食われることだけはなさそうだ。
「あとね、お清めの塩と、魔除けの御札も持ってきてあるんだ」
「塩と御札?」
てっきり除霊スプレーにばかり依存しているのかと思っていたら、案外まともそうなアイテムを所持していることに驚いた。
操は誇らしげに「えへへー」と笑いながら、懐中電灯をいったん足元に置くとポケットのなかを探りはじめる。そして出てきたアイテムを、ライトつきのカメラに向かって突き出して見せた。
「ジャーン! これさえあれば大丈夫!」
それを見た瞬間、甲洋の目からすぅっと光が消えた。一瞬でも期待した自分が恥ずかしい。ライトのもとにさらされたのは、キッチンでよく見る青いキャップの『アジシオ』と、邪気退散と書かれた遊●王カードだった……。
「……本気?」
「なにが?」
「今日一番ゾッとしたよ(こんなアホの子を好きになってしまった自分に)」
虫除けスプレー、アジシオ、遊●王カード……いざ霊現象が起こったさい、何ひとつとして役に立たない三種の神器が揃ってしまった。
操は「これ甲洋にあげるね!」と言って、胸ポケットに遊●王カードをねじ込んでくる。それ、そもそも俺のデッキから盗んだカードじゃない? と思ったが、ここに来てとつぜん凄まじい疲労感に襲われたせいで口を開くのが面倒だった。これも霊障の類だろうか。(珪素チャンネルではよくカードゲーム実況もしています)
「よーし! 甲洋から恐怖心が消えたところで、さっそく廃神社へ出発進行!」
「だから、俺は別に怖がってなんかないってば」
厳密には、どうでもよくなったというほうが正しかった。
操のブレない天然ぶりは、ある意味ちょっとした救いになっているのかもしれない。
こちらまで危機感が薄れはじめたことに逆に危機感を覚えつつ、アジシオを振りまきながら石段を前進していく背中をカメラに収める。なんだかとても勇ましい。
が、何段か進んだところで操がとつぜん「ぴゃんっ!?」とおかしな悲鳴をあげた。
「え、なにその悲鳴? 可愛いな? ……じゃなくて、どうかした?」
「ここ、甲洋~!」
なぜか涙目になった操が、数段遅れて背後にいた甲洋に思いきり抱きついてくる。
「なんか顔にぶつかってきたぁ! 気持ち悪いぃ!」
十中八九、虫だろうなぁと思ったが、このときを待っていたとばかりに甲洋の胸は血湧き肉躍っていた。そうそう、これこれ……この感じ。世の男子が女子をお化け屋敷や心霊スポットに連れて来たがるのは、ほぼ100%こういったスキンシップを期待してのことだと言っても過言ではない。少なくとも甲洋はそういうベタなシチュエーションが大好物で、ずっと夢を馳せていた。念願叶って──甲洋の方が連れてこられた側だが──おのずとテンションが上がってくる。
「さっきまでの勢いはどうしたの? この程度で泣いてたら、先になんか進めないよ」
が、むっつりスケベであるがゆえのツンを発動し、甲洋は気合いで表情筋を引き締めると、あえて呆れた表情をしながら操を揶揄する。
「だってぇ……ねぇ甲洋、ここからは先に行ってよ。カメラはおれが持つから」
「それじゃくっついて歩けないだろ」
「え?」
「ごめん、なんでもない」
つい目的を見失いかけていたが、自分たちはここに撮影のため訪れたのである。決してイチャイチャするためではない。口惜しさを感じつつ、甲洋は操にカメラを渡すと代わりに懐中電灯を受け取った。ちゃっかりアジシオも渡されたので、そっと尻ポケットにしまった。
「じゃ、気を取り直して行ってみよう!」
勢いを取り戻した操がカメラを構える。どこかでイチャつくタイミングはないだろうかと思案しながら、今度は甲洋が先になって歩きだした。
*
長い石段を登り切ると、そこには石造りの鳥居と小さな拝殿があった。
どれほど長いあいだ放置されているのか、黒く変色した木造の拝殿は建物全体が傾いて、ぶら下がる紅白の麻縄だけが信仰への残滓を残している。賽銭箱は横倒しで半壊しており、その先の格子扉もひしゃげたように崩れかかっていた。
「わぁ……すごいボロボロだね……」
「昔は立派な神社だったんだろうけど……見る影もないな……」
山奥に捨て置かれたようにひっそりと沈む廃神社。最盛期には多くの参拝客が訪れていたのだろうが、今はその面影すら見つけることはできなかった。物悲しさすら込み上げて、しばしのあいだ言葉を失くす。
「あっ! 甲洋、あれ見て!」
とつぜん操が声をあげ、カメラを向けた先を指差した。甲洋もそちらに視線を走らせ、懐中電灯を向ける。するとそこには、藪に覆われた五体の地蔵がズラリと並べられていた。
物憂さに薄れかけていた『心霊スポットに来ている』という意識が、一瞬で蘇ってくる。絡みつく藪によって埋もれているものもあるが、この中には例の首なし地蔵があるかもしれないのだ。見ると死ぬ、なんて根も葉もない噂を本気で信じているわけではないが、わざわざ藪をつつく必要もな
「わーい! 探してみよーっと!」
「ほんっとアホ! アホだよお前は!」
タタターッと駆けていこうとする操の首根っこを捕まえ、キャラも忘れて罵倒する。
「やだー! 離してよ! 首なし地蔵探すんだぁ!」
「探してどうすんのさ!? なにかあったらどうする気!?」
「え? 甲洋、君……まさか死ぬなんて噂を信じてるわけじゃないよね?(スンッ)」
「急にチベットスナギツネみたいな顔するのやめてくれない!?」
そんな甲洋はさっきからずっとしわしわピ●チュウのような顔になっている。エレメント一のイケメンとうたわれる顔面が、残念なことになっていた。
「へぇー、そっかぁ。甲洋、やっぱり怖いんだ。君がこんなに可愛いやつだったなんて知らなかったよ。ぷぷぷ~っ」
「腹立つなお前」
なんでこんなクソガキを好きになってしまったのだろうか。人生どう転がるか分からないものである。
「あーぁ、でも残念だな。甲洋がそんなに臆病だったなんて……ファンの子たちはガッカリすると思うよ」
「それで煽ってるつもり? 再三言ってるけど、俺は別に怖がってるわけじゃないよ。ただ万が一の危険性を考慮して」
「おれの百年の恋も冷めちゃいそう」
「待ってな来主。今すぐ首なし地蔵を探してくるから」
即落ちだった。
「やったー! 甲洋のそういうチョロいとこ大好き!」
「覚えてろよ……(帰ったら絶対泣かす)」
完全に弱みにつけこまれる形で、首なし地蔵探索をすることになってしまった。返す返すもどうしてこんな奴を好きになってしまったのだろうかとウンザリしながら、甲洋はごくりと固唾をのんだ。
目の前に鎮座するのは五体の地蔵だ。一体一体ライトで照らしながら確認すると、そのうち三体は完全に藪に埋もれており、残り二体はしっかり顔が覗いている。つまり、確認が必要なのは三体のみということだ。
「甲洋、がんばって!」
操が背後からカメラを回しながらエールを送ってくる。甲洋は深く息を吐きだしながら気合いを入れた。首なし地蔵そのものが、あるかどうかも分からないただの噂に過ぎない。さっさと確認してしまえば済むことなのだ。
甲洋は顔が見えない地蔵にそっと手を伸ばした。絡みつく蔦や葉っぱを掻き分けて、そこにちゃんと頭部が存在していることを確かめる。一体、二体と確認し、そのたびにホッと息をついた。そして残すは三体目だ。
(これが最後……あってくれ、地蔵の首……!)
一番左端に佇む最後の地蔵に、震える指先を伸ばした。そのとき──
パァンッ!!
という、なにかが爆ぜる音がした。
「──ッ!?」
甲洋は声なき悲鳴をあげ、とっさに体勢を崩して片膝をついてしまった。その拍子に懐中電灯が地面に転がり落ちる。
音は藪の向こう側から聞こえたような気がした。ほんのりと火薬の匂いがするのは気のせいだろうか。
「な、なに!? いま何か変な音がしたけど!?」
「来主は来なくていい! そこでじっとしてて!」
「わ、わかった!」
藪の向こうでは何かが蠢く気配がしていた。ガサリガサリと微かな音が鳴っている。
甲洋は目を凝らし、その音と気配の正体に全神経を傾けた。得体の知れないなにかが、そこに存在している。霊的な力によるものなのか、あるいは野生動物の類なのか。
いずれにしろ手が届きそうなほどの距離に、その『なにか』がいるのだ。甲洋は手探りで懐中電灯を拾い上げ、体勢を立て直すと息を殺しながら藪を照らした。
するとその瞬間、
「わっ!!」
という声をあげながら、目の前からなにかが飛び出してきた。
「うわッ!?」
甲洋は驚きのあまり尻もちをついてしまった。尻ポケットにねじ込んでいたアジシオの瓶が地味に痛い。だが今はそれどころではなかった。
汗がドッと噴き出して、瞬きすらできないまま硬直する。目を見開いた甲洋の視界の先には、ここにはいないはずの人物がひょっこりと顔を出していた。
「ッ、? ぇ……ッ、え? そ、総士……?」
そこにあったのは今ごろ自宅で一騎のスイーツ動画を編集しているはずの、皆城総士の姿だった。彼は藪の向こう側に佇み、手には糸引きクラッカーを持っている。さっきの破裂音はこれだったのだ。
「そうだ。僕だ。そしてこれはつまり、こういうことだ」
スッ……と、総士がなにやら看板を掲げて見せた。そこには『ドッキリ大成功』という文字がデカデカと書かれており、甲洋は開いた口が塞がらなかった。
未だに何が起こったのか、頭のネジが吹っ飛んだようにうまいこと処理が追いつかない。心臓がバクバクと高鳴っていて、悪い夢でも見ているようだった。
「やったー! ドッキリ大成功! デッデレー!」
操が大はしゃぎで甲洋に駆け寄り、呆然とする表情をドアップで撮影している。
「ど……ドッキリ……?」
「あはは! 甲洋ってば尻もちついちゃって可愛いー!」
「ま、待って、説明して……」
「最初からおれと総士は仕掛け人だったんだよ! このお地蔵さんも本物っぽく作られた偽物! 実はぜーんぶ発泡スチロールで作られてるんだ! ちなみに一体につき●●万円の特注品だよ!」
「ッ……! ば、バカなんじゃないの!?」
ようやく甲洋の頭が回りはじめる。同時に凄まじい脱力感に襲われた。
最初から全て仕組まれていたことだったのだ。昼間、楽園で企画会議をしていたときから、それはすでに始まっていた。ドラマのオファーが来てもうまいこと対応できそうだなぁ、なんて感心している場合ではない。
先に帰るなんていうのは真っ赤な嘘で、総士は自宅へは帰らず一足先にこの廃神社までやってきて、偽地蔵の設置を行っていたのだ。そして藪の裏手に隠れると、ずっと甲洋たちが来るのを待っていた。
「総士は心霊スポットが怖いんじゃなかったのか?」
「バカを言うな甲洋。僕はそもそも、霊だのなんだのといった非科学的なものは信じない。よって一切合切、怖くなどない」
「実はねここ、心霊スポットでもなんでもないんだよ。本当にただの廃神社なの。だから総士もノリノリでおれの企画に乗ってくれたんだよ」
「だから怖くないと言ってるだろう!」
総士が藪の向こうから這い出しながら声を荒げる。
「いや、だって……じゃあ殺人事件とか首なし地蔵の話は……」
「作り話に決まってるでしょ!」
「あぁー……くそ……」
もはや項垂れるしかなかった。全く怪しむことなく、まんまと引っかかってしまったというわけだ。
いくら心霊スポットではないといっても、夜の山中に一人で待機しているなんて、どうかしてるとしか思えない。これがプロ根性とでも言えばいいのだろうか。しかもウン十万もする地蔵をオーダーメイドで五体も用意するあたり、FafTuberすぐ金に物を言わせる……と呆れ返るより他になかった。
「えへへー。うまくいってよかった。ごめんね甲洋、でもすっごくいい絵が撮れたよ」
できればお蔵にしてほしい……と心の底から願いつつ、操が差し出してくれた手をとり、立ち上がる。するとクラッカーから飛び散ったテープなどをせっせと拾い集めていた総士が、怪訝そうな顔をしながら「ところで一騎はどうした?」と問いかけてきた。
「あいつもグルじゃないの?」
「違うよ。本当は甲洋と一騎の二人がターゲットの企画だったんだもん」
「じゃあ体調不良はたまたまってこと? 逆にラッキーだなあいつ……」
「雰囲気に飲まれちゃったのかも。一騎も可愛いとこあるね」
「体調不良だと?」
総士が顔色を変える。けれどすぐに腕を組み、なにか考え込んでいる素振りを見せた。そして「予定は狂うが……仕方ない」と小声で呟いた。
「総士? どうかしたの? 早く戻ってあげないと、一騎が一人ぼっちで可哀想だよ」
「そうしたいのは山々だが、実はひとつ提案がある」
「提案?」
甲洋と操は同時に首を傾げた。
「この先の道をしばらく進んだところに、今では使われていない古びたトンネルがある。何を隠そう、そこは正真正銘の心霊スポットだ」
「え!? それほんとなの総士!?」
途端に目を輝かせた操に、総士が深く頷いた。
「僕としてはいささか不本意だが、ここまで来て見過ごすことはプロのFafTuberとしての沽券に関わる。つまり乗りかかった船だ」
マジか、と甲洋は思った。この流れはよろしくない。
しかしプロ魂に火がついている総士は、目だけで「おうちに帰して」と訴える甲洋に気づかずガッツポーズをして見せた。
「これより、第一次珪素チャンネル『真』心霊スポット凸企画を開始する!」
「やっぱりまだ帰れないんだな、俺たち……」
すでに疲労困憊の甲洋は、「やったー!」と万歳をしている操を死んだ魚のような目で見つめながら、盛大に溜息を漏らした。
←戻る ・ Wavebox👏
*ほんのりドラクエ3っぽい世界観。
*元ネタを知らなくてもふわっと読み流せる内容だと思います(多分)
*甲洋くんのスケベ度が酷いです。
*スライム×操あり。
それは甲洋が二十歳になる誕生日のことであった。
「起きなさい、起きなさい私の可愛い甲洋や」
早朝、母・諒子に起こされた甲洋は何事かとベッドから飛び起きた。
母がわざわざ起こしにくるなんて珍しい。しかも普段は冷ややかな態度で接してくるはずの彼女が、今日はニコニコ顔の猫なで声で「可愛い甲洋」なんてありえないことを口走っている。
「……おはよう、母さん」
「おはよう甲洋。今日はとっても大切な日よ。早く王様のところへ行って、旅立ちの報告をしていらっしゃい」
「おお! 起きたか甲洋! 調子はどうだ?」
そこに母と同じく上機嫌の父・正浩が部屋に入ってきた。
「父さん、おはよう」
「王様を待たせては失礼だぞ? 今日という日のために、息子のお前を手塩にかけて育ててきたんだからな!」
父と母は楽しげにアハハウフフと笑い合っている。自分に関することで、両親がこれほどの笑顔を見せるのは初めてのことだった。
(分かりやすいな、ふたりとも……)
思わず力ない笑みがこぼれる。
彼らの言う通り、二十歳の誕生日を迎えた今日という日は、甲洋にとって旅立ちの日でもあった。
現在、世界は数百年も昔に封印されたはずの魔王・マレスペロの復活により、邪悪な闇に閉ざされようとしていた。
そしてここ『竜宮の町』は、かつて魔王を封印したとされる伝説の勇者が興したとして知られる町であった。再び魔王が復活した今、竜宮の町では素質を見いだされた子供は成人を迎えたその日に、戦いのための旅に出るというしきりたりになっている。
再び魔王を封印して勇者となったものには、王家より莫大な金銀財宝が与えられる確約がなされていた。父と母はそのためだけに、拾い子である甲洋を手元に置き続けてきたのだ。
塩対応を受けた記憶はあっても、手塩にかけられた覚えはない──が、拾ってもらったという恩はある。なにより、子供の頃から早く町を出たいと思っていた甲洋に、旅立つことへの異存はなかった。
「さぁさぁ! 早く旅支度をなさい!」
パンパンと手を叩く母に急かされ、甲洋は慌ただしく旅の準備をさせられた。
ヘッドバンドにグローブ、アンダーシャツとパンツの上から丈の長いオーバーシャツを着せられ、ブーツを履いて最後に紫のマントを羽織らされると、いかにも『ザ・勇者』なコスプレの完成だ。
まんまやないか……と、黄色いピタピタのインナー上下に真っ青なオーバーシャツを見下ろしながら、甲洋は思った。
「お前は俺たちの自慢の息子だ。しっかりやってくるんだぞ!」
そう言って、父は調子よく高笑いしながら甲洋の背中をバンバン叩いた。
*
急かされるままに城へ行き、王様との謁見を済ませた甲洋の手には、小さな布袋が握られていた。中には50ゴールドが入っている。なかなかしょっぺぇ……いや、貴重な旅の軍資金である。
道中魔物を倒しながら地道に稼いでいこうと考えながら、甲洋は町外れにある酒場へと足を向けた。
そこは各地から旅人が集い、仲間を得るための場所になっている。
ここで戦士や魔法使いなどといった職業につく人材を探し、強力な旅の仲間として同行を要請するのだ。
さっそく登録所になっている受付カウンターに向かうと、そこでは受付嬢の美魔女こと羽佐間容子が優しく微笑みかけてくれた。
「いらっしゃい、甲洋くん」
「こんにちは、羽佐間さん」
「その格好……そう、ついに旅に出るのね」
甲洋のザ・勇者なコスプレを見た容子は、心配そうな顔をした。けれどすぐに表情を引き締めると、
「さぁ、これが現在登録されている仲間のリストよ。きっとあなたの旅を助けてくれるわ」
と言って、カウンターの上に分厚い帳面を開いて見せた。
覗き込めば、そこにはズラリと同行が可能な仲間の一覧が表示されている──はずだったのだが。
「……打ち消し線だらけ?」
いるにはいるが、全員の名前の上に横線が引かれていた。
「ごめんなさいね……いまちょうど人手不足なのよ……でもほら、ここにひとり──」
申し訳なさそうに眉をさげた容子が指差した場所に、一人だけ横線が引かれていない者の名前があった。助かった、と思った甲洋だったが
「来主操……遊び人、か」
職業『遊び人』という記載を見て、ガックリと肩を落とした。
遊び人といえば、数ある中でもっとも使い物にならない職業である。戦闘中の指示には従わず、変顔をしたり踊りだしたりという問題行動ばかりをとる、とんだごく潰しなのだ。遊び人と言い切っている時点で職業ですらないはずなのに、なぜこうも堂々と記載されているのだろうか。
攻守のバランスを考え、無難に戦士、魔法使い、僧侶というパーティ構成を考えていたのだが、さっそく壁にぶち当たってしまった。
「ま、待って甲洋くん。遊び人と一口に言っても、言うことをきかないのは最初のうちだけなのよ。根気よくレベル20まで育てれば、賢者に転職することが可能になるの」
「はぁ……」
「それにね、この子はやればできる子なの。やらないだけで、やろうと思えばできるとってもいい子なのよ! そうよ、やれるわ……やれるはずだわ……!」
必死のフォローが痛々しかった。最後の方は甲洋にというより、自分に言い聞かせているかのようだったのは気のせいだろうか。
見たところ、遊び人として登録されているのはこの来主操だけのようだった。
おそらく他の旅人たちも、職業だけを見て判断したのだろう。強力な回復・補助・攻撃魔法まで、幅広く網羅する賢者という将来性には惹かれるが、そこまでの道のりがいささか遠い。
同じくレベル1でしかない初心者の甲洋にとって、遊び人の面倒を見ながらの旅は極めてハイリスクである。
だがしかし──。
どうやってこの状況を回避しようかと思案していた甲洋の脳裏に、ふとある考えが浮かんだ。
(来主操……みさお……女の子、かな?)
名前から察するに、おそらく女子。
そして遊び人の女子といえば、金髪ボンッキュッボン♡のハイレグ網タイツなバニーちゃんコス♡と、ファミコン版からSwitch配信版の昨今にいたるまで相場が決まっている。
「……なるほど」
可愛いバニーちゃん♡とのふたり旅。苦難の道のりの中、ちょっとしたロマンスだとか、ぱふぱふイベントだとか、そういったものがあるかもしれない。
いや、決してそんな浮ついた思考で魔王を倒そうだなんて、ナメたことを考えているわけではない。断じてないのだが、旅にTo LOVEるは付き物だから仕方がないと、甲洋は物事を柔軟に考えることにした。何事も頭でっかちはよろしくない。(性格:むっつりスケベ)
「分かりました。じゃあ、この子でお願いします」
「あらそう? よかった。甲洋くんになら安心して任せられるもの」
果たしてそうだろうか……。
「ぼくっ子とおれっ子で選べるけれど、どちらがいいかしら?」
「え? あ、あ~、そういう?」
男言葉属性とは予想外だった。が、そういう趣向もいいかもしれない。
しかし『おれ』となると女傑のイメージが強いような気がする。豪快で男勝りな女性も魅力的だが、どちらかといえば守ってやりたくなるようなタイプが好みだったので、とりあえず『ぼく』を選んでみた。
容子は頷き、さっそくカウンター裏の控室に向かって「操ー! ご指名よー!」と、声をかけた。
「はぁい!」
その元気のいい返事に、女の子にしては少し低め……いや、ハスキーボイスかな? イイネ! と思いつつ、胸をドキドキと高鳴らせた。
しかし控室の扉から飛び出してきて、目の前まで軽やかにやってきた人物を見るやいなや、甲洋の頭に思い描かれていた『ムフフなぱふぱふ旅』への希望は打ち砕かれた。
「ぼくの名前は来主操! よろしくね!」
ボンッキュッボンッでぼくっ子属性のバニーちゃん♡は、そこにはいなかった。目の前にいる人物はどこからどう見ても『ピエロ』の格好をしていて、ハスキーボイスどころかガッツリCV.木村良平の少年だったのだ。
「えぇ……?」
甲洋は戸惑った。
黄色のポンポンがついた三角帽と、白の襞襟がついているツナギのような道化衣装は、ピンクと紫のストライプ柄。かろうじて白塗りメイクはしていないものの、アホみたいな格好であることに代わりはない。まさしくピエロ。バニーちゃん♡とは掠りもしていなかった。
とはいえ顔は可愛い。が、そのぱふぱふ不可能な絶壁の胸を見て、甲洋のテンションは今日イチで盛り下がっていた。
「……チェンジで」
「不可能よ」
バッサリと切り捨てられた。
容子はカウンターから抜け出し、操の隣に立つとその肩を抱いて微笑みを浮かべる。
「操は箱入り息子なの。外の世界のことはなにも知らないから、いろいろと教えてあげてね、甲洋くん」
「ねぇおかーさぁん。クーも一緒に連れてっていい?」
「駄目よ。クーは老猫なんだから。ロイヤルカナン(健康的なカリカリご飯)だって、旅の途中じゃ手に入らないかもしれないでしょう?」
「クーは元気だから大丈夫だよ。草だって食べるもん」
「それだけじゃ栄養が偏ってしまうわ」
「ちぇー」
あ、親子なんだ……と枯れたススキのようなメンタルになっている甲洋は思ったが、操は旅立つことそのものには前向き──猫を連れてこられるのは困るが──な姿勢を見せている。
まったくやる気がないよりはマシかもしれないと、無理やりプラス思考に持っていかないことには、とてもやっていけそうになかった。
むしろやる気がなくなったのは甲洋の方かもしれないが。
*
「あっ、見て! クレープ屋さんがある! 買っていこうよ!」
晴れて(?)仲間をゲットした甲洋は、王様からもらった資金で旅の道具を揃えに向かっていた。しかしその途中、操がグイグイと腕を引っ張ってきて道端のワゴンショップを指差し、しつこくおねだり攻撃をしてくる。
「ダメだ。無駄遣いはできない」
「ねぇほら! タピオカミルクティーもある! 買ってぇ~買ってよぉ~」
「だからダメなんだって」
「なんでぇ!? ぼくお腹すいた! 喉も乾いた!」
「この50ゴールドで、君の装備と薬草を買うだけで精一杯だ」
「ぼく貧乏は嫌いだな……」
お前ふざけんなよと心が荒んだが、容子から頼まれている大事な息子さんなのでぐっと堪えた。操はその後も駄菓子屋に行こうだのCoCo壱でカレーを食べようだのとワガママを言い続けていたが、甲洋はどうにかスルーした。
そして武器屋で『ひのきのぼう』(安い)を買って、操に装備させた。
「なにこの棒きれ? ルガーランス買ってよぉ」
「お前……じゃなくて、君の今のステータスじゃ、そのくらいしか装備することは不可能だ。まともな武器が欲しいなら、目的地へつくまでにレベルを上げればいい。魔物を倒せばお金にもなる」
「えぇ~? なにそれだるーい」
同じレベル1でも、甲洋と操ではステータスの初期値にかなりの開きがある。
操の場合、下手をすればそのへんのモブ男性の方がよっぽど力があるかもしれない。甲洋は初期装備として『どうのつるぎ』を装備しているが、今の彼の腕力では棒きれがせいぜいだった。
その後、道具屋へ行くと残りの所持金を全て薬草に費やした。操はここでも「アップルグミの方が美味しいのに」と不満を漏らしていたが、このお話はドラクエパロなのでグミでは回復しないのである。
「いいから行くよ」
なんやかんやで時刻はもう昼時をわずかに過ぎていた。
最初の目的地である『海神村』には、徒歩でおよそ半日はかかる計算だ。途中で魔物とエンカウントすることを考えれば、到着する頃には夜になっているだろう。
魔王の城がどこにあるかも定かでない今、まずは各地を巡って地道に情報を集めていく必要があった。
町の出入り口には仲のいい友人たちや、よく世話になっていた近所の人たちが見送りに来てくれていた。
声援に手を振って答えながら、その中に両親の姿を探すが見当たらない。
すっかりセレブ気分で、今ごろ酒でも飲んでダジャレのひとつでも言っているんだろうなぁ……と少し虚しい気持ちになっていると、見送りの中に羽佐間容子の姿があることに気がついた。
「あ、お母さんだ!」
「ふたりとも、ちょっと待ってちょうだい」
容子はそう言ってふたりのもとへ駆け寄ってくると、甲洋と操にそれぞれ綺麗な風呂敷包みを手渡した。
「羽佐間さん、これは?」
「お弁当よ。急いで作ったから大したものじゃないけれど……」
「お母さんのお弁当!? やったー! 嬉しい! ありがとう!」
「羽佐間さん……ありがとう」
風呂敷包みはズッシリと重く、そしてまだあたたかい。
両親が見送りに来ていないことに一抹の寂しさを覚えていた甲洋だったが、そのぬくもりに笑みがこぼれた。
「いってらっしゃい。ふたりとも、必ず無事に帰ってくるのよ」
町の人たちと容子の優しい瞳に見送られ、甲洋と操の旅がはじまった。
*
竜宮の町を出てしばらく歩くと、いよいよ腹を減らした操が騒ぎだした。
仕方なく、甲洋は小高い丘の大木の根元を休憩地として座り込むと、操と一緒に容子が持たせてくれた弁当を食べることにした。
風呂敷包みの中には大きなおむすびがそれぞれ3つも入っており、とても一度では食べきれそうにないボリュームだった。が、操はニコニコ顔でそれらを全てぺろりと平らげ、水筒の中身まで飲み干す勢いだった。
(よく食うなこいつ)
いつ魔物が襲ってくるか分からない状況で、緊張感もクソもない呑気な食べっぷりには呆れてしまう。同時に、食べざかりの遊び人の面倒を見ながら旅をしていくことに、改めて不安を覚えた。
「ごちそうさまでした! お腹いっぱい。おやすみ」
「昼寝してる暇はないよ、来主」
操は道具袋を枕にして、完全に昼寝の体勢に入っていた。
巨大おむすびをひとつ平らげただけで満腹の甲洋は、憂い顔で溜息をつく。
(先が思いやられるよ……)
とはいえ食後すぐに動くのもよくないかと、少しだけ妥協して景色を眺める。
どこまでも続く広大な草原には風と共に雲の影がゆるゆると流れ、この世界が魔王に支配されようとしているなんて信じられないくらい、のどかな時間が過ぎていく。
しかし、そんなひとときは長くは続かなかった。
スライムがあらわれた!
「!?」
草むらから3体のスライムが、突如として姿を現したのだ。
青い半透明の身体をぷるぷるとさせながら、こちらの様子をうかがっている。
「来主! スライムだ!」
「むにゃ~? なに? もう食べられないよ~」
操はごろ寝したまま、赤ん坊のように両目をこすっている。
ダメだこいつと早々に見切りをつけ、甲洋は立ち上がると剣を構えた。
こうようの こうげき!
スライムAに 12のダメージ!
スライムAを たおした!
(よし! いける!)
1匹目のスライムを倒したことにより活路を見出した甲洋だったが、一瞬の隙をついて残りのスライムが同時に攻撃をしかけてきた。
スライムBの こうげき!
こうようは 7のダメージをうけた!
スライムCの こうげき!
こうようは 8のダメージをうけた!
「くっ……!」
地味に痛い。腹部と頭部にスライムアタックを食らった甲洋は、その衝撃で地面に尻もちをついてしまう。さすがはレベル1だ。まともな仲間さえ揃っていれば、初陣とはいえこれほど苦戦することもなかったろうに。
スライムBCはそんな甲洋を嘲笑うかのように、楽しげにビヨンビヨンと跳ねて様子をうかがっている。
「来主! 袋の中から薬草を……!」
どうにか膝をついて体勢を整えた甲洋が、寝転がっている操に視線を走らせた──が、そこに操の姿はなかった。
彼は今いる場所から少し離れた場所にしゃがみ込み、買ったばかりの『ひのきのぼう』の先っちょで
「つんつん、つんつん」
と、う◯ちを突いて遊んでいた……。
「お前はアラレちゃんか!!」
操は職業:遊び人の本領を発揮している。ずっと気を使って『君』呼びだったが、バカバカしくなったので『お前』呼びを解禁した。すっかりキレた甲洋は、こみ上げる怒りをスライム2匹にぶつけるべく斬りかかっていく。
こうようの こうげき!
スライムBに 100のダメージ!
スライムBを たおした!
スライムCの こうげき!
こうようは すばやく みをかわした!
こうようの こうげき!
スライムCに 150のダメージ!
スライムCを たおした!
スライムたちを やっつけた!
現在のステータス値ではありえないダメージ数を叩き出し、甲洋は無事にスライムの群れを倒すことに成功した。しかもレベルが2に上がり、スライムたちがいた場所にチャリーンと6ゴールドが落ちてきた。
「なんとかなったか……」
ふっと息をついた甲洋だったが、安堵したのも束の間「うわー!」という悲鳴が聞こえて息をのむ。
素早く視線を走らせれば、う◯ちを突いて遊んでいたはずの操が、他のスライムの群れに襲われている姿が目に飛び込んできた。
「やだやだ! なにこれ!? 助けて甲洋ー!」
「来主!!」
スライムの群れは先ほどよりも数が多く、AからFまで6匹もいた。あれに一斉にタックルでもキメられれば、一発で教会行きになってしまう。まだ旅立って間もないというのに、棺桶を引きずって町に引き返すのは御免である。
慌てて駆け寄ろうとした甲洋の前に、6匹のうち2匹のスライムがビヨンビヨンと飛び跳ねながら立ちふさがった。
「どけ!」
即座に斬りかかったが、俊敏な動作で避けられてしまう。
そうしている間にも、残りのスライムが操に襲いかかっている。しかし、その攻撃方法はさきほどのスライムたちとは違っているようだった。
「やだやだー! 助けてぇ!」
「く、来主!?」
スライムたちはぐにゃりと蕩けたようにその形を変え、操の身体に張りついていた。みるみるうちにピエロの衣装が溶かされて、あどけない少年の肌が露わになっていく。
「!?」
三角帽がポロリと地面に落ちている。もがくことに夢中の操は、ひのきのぼうすら手放していた。衣装はかろうじて腕や両足首に絡みつき、そして身体の中心の大事な場所だけを残して、あとは無残に溶かされている。
(ピンクだ……)
と、呆然と立ち尽くしながら甲洋は思った。
ぱふぱふ不可能な絶壁の胸。だがそのいただきにある2つの点が、ツンと尖って桃色に染まっている。男にしては少しばかり乳輪が大きめで、正視しがたいほどに扇情的だ。胸が薄いからこそ、主張が激しい。
甲洋はぽっかりと口を開け、その光景から目が離せなくなっていた。
「やっ、ぁ、やだぁ……ッ、きもちわる、あっ、うぅ……っ!」
ゲル状になったスライムたちが、白い皮膚の表面を蠢いている。タコのような形状で幾本もの触手を伸ばし、太もも、腰、首筋、そして胸の上を這っていた。
操は必死でそれを引き剥がそうとしているが、恐怖とそのおぞましい感覚にひどく身を震わせ、大きな瞳から涙をぽろぽろと零している。
「ヒッ、ぁ、ダメ! おっぱい、ぼくのおっぱい、いじめないでぇ……!」
胸の上で、半透明のスライムが乳首をそれぞれきゅうっと引っ張って伸ばしているのが分かる。操は腰をビクビクと跳ねさせ、ついに地面に尻をついてしまった。内ももに巻き付いているスライムが、両足をMの字に開かせる。
そしてついに、身体の中心へとその触手を伸ばしていった。かろうじてまとわりついている布がどんどん溶かされ、まともに毛も生え揃っていない恥部を今にも露わにしようとしていた。
「そこやだ、やだぁ! 助けて甲洋、助けてぇ……っ」
「ッ!!」
そこでようやく、甲洋は我に返った。
(み、見入ってる場合か!!)
甲洋はデレ~ッとした顔で操の痴態を見つめていた2匹のスライムを、一瞬で撃破した。そして操に駆け寄ると、全身に張りついているスライムたちを一心不乱に毟り取る。バラバラに千切れたスライムは動かなくなったが、徐々に寄り集まって元のツルリとした形状に戻り、容赦なく甲洋に襲いかかってきた。
それを斬ったり蹴ったりボコボコにしてやると、またレベルが上がった。(ついでに12ゴールド手に入れた)
「大丈夫か!? 来主!」
操はすっかり身体を丸めて泣いていた。すぐそばで膝をついた甲洋の顔を潤んだ瞳で見上げ、思い切り首に抱きついてくる。
「怖かったよぉ! おっぱい千切れるかと思った!」
胸にすがりついてピーピー泣いている操の身体に、甲洋は脱いだマントを巻きつけてやった。そしてその背中をポンポンと叩き、深く安堵の息をつく。
だいぶショックは受けたようだが、怪我がないようで安心した。が、どちらかといえば甲洋の方が身動きが取れない状態になっていた。
「来主、悪いけど……ちょっと離れて」
「ぐすんっ……ん、なんでぇ?」
「あの、ほんとに今ちょっと……愚息が……」
「?」
首を傾げる操の両肩を軽く掴んで引き剥がした。そして地面にドカリと尻を落ち着けると、両膝を緩く立てて猫背になる。膝頭にそれぞれ両肘を置き、深く溜息を漏らした。
「はぁ~……」
「甲洋?」
身体に紫色のマントを巻きつけた操が、心配そうに目を瞬かせていた。
彼には分かるまい。旅の扉をくぐる前に、新しい性癖の扉を開けてしまった甲洋の気持ちなど。股間の息子はそりゃあもう大変なことになっていて、しばらくは動けそうになかった。
(嘘だろ……来主は男だぞ……)
ボンッキュッボンッなバニーちゃん♡ならいざ知らず。
スライムに陵辱される姿に興奮してしまいましたなんて、甲洋を信じて預けてくれた羽佐間容子に、なんと詫びればいいのだろうか。
それもこれも、こいつのピンクなちっぱいが悪い。胸では不可能でも、太ももならぱふぱふ可能と思えるほど、柔らかそうな尻から腿にかけてのラインが悪い……。
自らの節操なしなドスケベを棚にあげ、甲洋は横目で操を睨んだ。すると操はまだほんの少しだけ涙を浮かべた瞳で、にっこりと笑みを浮かべる。
「ッ!」
その笑顔を見て、甲洋はぐっと喉を詰まらせた。
可愛い顔をしているとは思っていた。思ってはいたのだが──
(こんなに、可愛かったっけ……)
胸がドキドキしてきて、顔に血液が集中していくのを感じた。
おかしい。こんなのはおかしい。あんな光景を目の当たりにしたからって、急に意識してしまうなんてどうかしている。
けれど胸の高鳴りは増すばかりで、気のせいでは片付けられないほど大きくなっていた。
「甲洋!」
落ち着かなければと脳内で念仏を唱えはじめる甲洋の腕に、操がぎゅっと抱きついてくる。
「ッ、ちょ……な、なに」
押しつけられる真っ平らな胸ですら、今はそうやすやすと触れてはいけないもののような気がしている。上ずりそうになる声を抑え、あえてそっけなく返す甲洋の肩に、操は猫のような動作で頬を擦り寄せた。
「助けてくれてありがとう。カッコよかったよ、すごく」
「そ、そう」
「これからも守ってね、ぼくのこと」
いやお前も戦えよ──とは、言えなかった。
多分、ついさっきまでなら平然と言えたはずなのだ。面倒を見るつもりで諦めてはいたが、別に甘やかそうなんてこれっぽっちも思っていなかった。
さっさとレベル上げをして、賢者に転職させるまでの辛抱なのだと。
だけどすっかり顔を赤らめている甲洋は、ついつい素直に「うん」と言って頷いていた。
スライムを倒してレベルが上がったのは甲洋だけではない。
戦いに参加していなくても、経験値は同じパーティにいる操にもしっかりと振り分けられていた。つまり甲洋が敵を倒せば、そのぶん操もレベルが上がるのだ。
(しょうがないよな、また変な襲われ方しても困るし)
どこか言い訳めいたことを心の中で呟きながら、甲洋は潤んだ操の瞳にふっと小さく微笑み返した。
二十歳の誕生日と、生きて戻れるかすら分からない旅立ちと。
なんて日だと思っていた気持ちが、ほんのちょっぴり薄らいでいる。
少なくとも今まで生きてきたなかでは、最も悪くない誕生日になったかもしれない。不思議と、そんな気さえしはじめていた。
甲洋と操の旅は、まだ始まったばかりだ。
その後、宿屋に泊まった翌朝には必ず「ゆうべはお楽しみでしたね」などと言われてしまうまでにふたりの関係は発展していくのだが、そんなラブラブでぱふぱふな未来が訪れるのは、まだほんの少しだけ先のことである。
←戻る ・ Wavebox👏
*元ネタを知らなくてもふわっと読み流せる内容だと思います(多分)
*甲洋くんのスケベ度が酷いです。
*スライム×操あり。
それは甲洋が二十歳になる誕生日のことであった。
「起きなさい、起きなさい私の可愛い甲洋や」
早朝、母・諒子に起こされた甲洋は何事かとベッドから飛び起きた。
母がわざわざ起こしにくるなんて珍しい。しかも普段は冷ややかな態度で接してくるはずの彼女が、今日はニコニコ顔の猫なで声で「可愛い甲洋」なんてありえないことを口走っている。
「……おはよう、母さん」
「おはよう甲洋。今日はとっても大切な日よ。早く王様のところへ行って、旅立ちの報告をしていらっしゃい」
「おお! 起きたか甲洋! 調子はどうだ?」
そこに母と同じく上機嫌の父・正浩が部屋に入ってきた。
「父さん、おはよう」
「王様を待たせては失礼だぞ? 今日という日のために、息子のお前を手塩にかけて育ててきたんだからな!」
父と母は楽しげにアハハウフフと笑い合っている。自分に関することで、両親がこれほどの笑顔を見せるのは初めてのことだった。
(分かりやすいな、ふたりとも……)
思わず力ない笑みがこぼれる。
彼らの言う通り、二十歳の誕生日を迎えた今日という日は、甲洋にとって旅立ちの日でもあった。
現在、世界は数百年も昔に封印されたはずの魔王・マレスペロの復活により、邪悪な闇に閉ざされようとしていた。
そしてここ『竜宮の町』は、かつて魔王を封印したとされる伝説の勇者が興したとして知られる町であった。再び魔王が復活した今、竜宮の町では素質を見いだされた子供は成人を迎えたその日に、戦いのための旅に出るというしきりたりになっている。
再び魔王を封印して勇者となったものには、王家より莫大な金銀財宝が与えられる確約がなされていた。父と母はそのためだけに、拾い子である甲洋を手元に置き続けてきたのだ。
塩対応を受けた記憶はあっても、手塩にかけられた覚えはない──が、拾ってもらったという恩はある。なにより、子供の頃から早く町を出たいと思っていた甲洋に、旅立つことへの異存はなかった。
「さぁさぁ! 早く旅支度をなさい!」
パンパンと手を叩く母に急かされ、甲洋は慌ただしく旅の準備をさせられた。
ヘッドバンドにグローブ、アンダーシャツとパンツの上から丈の長いオーバーシャツを着せられ、ブーツを履いて最後に紫のマントを羽織らされると、いかにも『ザ・勇者』なコスプレの完成だ。
まんまやないか……と、黄色いピタピタのインナー上下に真っ青なオーバーシャツを見下ろしながら、甲洋は思った。
「お前は俺たちの自慢の息子だ。しっかりやってくるんだぞ!」
そう言って、父は調子よく高笑いしながら甲洋の背中をバンバン叩いた。
*
急かされるままに城へ行き、王様との謁見を済ませた甲洋の手には、小さな布袋が握られていた。中には50ゴールドが入っている。なかなかしょっぺぇ……いや、貴重な旅の軍資金である。
道中魔物を倒しながら地道に稼いでいこうと考えながら、甲洋は町外れにある酒場へと足を向けた。
そこは各地から旅人が集い、仲間を得るための場所になっている。
ここで戦士や魔法使いなどといった職業につく人材を探し、強力な旅の仲間として同行を要請するのだ。
さっそく登録所になっている受付カウンターに向かうと、そこでは受付嬢の美魔女こと羽佐間容子が優しく微笑みかけてくれた。
「いらっしゃい、甲洋くん」
「こんにちは、羽佐間さん」
「その格好……そう、ついに旅に出るのね」
甲洋のザ・勇者なコスプレを見た容子は、心配そうな顔をした。けれどすぐに表情を引き締めると、
「さぁ、これが現在登録されている仲間のリストよ。きっとあなたの旅を助けてくれるわ」
と言って、カウンターの上に分厚い帳面を開いて見せた。
覗き込めば、そこにはズラリと同行が可能な仲間の一覧が表示されている──はずだったのだが。
「……打ち消し線だらけ?」
いるにはいるが、全員の名前の上に横線が引かれていた。
「ごめんなさいね……いまちょうど人手不足なのよ……でもほら、ここにひとり──」
申し訳なさそうに眉をさげた容子が指差した場所に、一人だけ横線が引かれていない者の名前があった。助かった、と思った甲洋だったが
「来主操……遊び人、か」
職業『遊び人』という記載を見て、ガックリと肩を落とした。
遊び人といえば、数ある中でもっとも使い物にならない職業である。戦闘中の指示には従わず、変顔をしたり踊りだしたりという問題行動ばかりをとる、とんだごく潰しなのだ。遊び人と言い切っている時点で職業ですらないはずなのに、なぜこうも堂々と記載されているのだろうか。
攻守のバランスを考え、無難に戦士、魔法使い、僧侶というパーティ構成を考えていたのだが、さっそく壁にぶち当たってしまった。
「ま、待って甲洋くん。遊び人と一口に言っても、言うことをきかないのは最初のうちだけなのよ。根気よくレベル20まで育てれば、賢者に転職することが可能になるの」
「はぁ……」
「それにね、この子はやればできる子なの。やらないだけで、やろうと思えばできるとってもいい子なのよ! そうよ、やれるわ……やれるはずだわ……!」
必死のフォローが痛々しかった。最後の方は甲洋にというより、自分に言い聞かせているかのようだったのは気のせいだろうか。
見たところ、遊び人として登録されているのはこの来主操だけのようだった。
おそらく他の旅人たちも、職業だけを見て判断したのだろう。強力な回復・補助・攻撃魔法まで、幅広く網羅する賢者という将来性には惹かれるが、そこまでの道のりがいささか遠い。
同じくレベル1でしかない初心者の甲洋にとって、遊び人の面倒を見ながらの旅は極めてハイリスクである。
だがしかし──。
どうやってこの状況を回避しようかと思案していた甲洋の脳裏に、ふとある考えが浮かんだ。
(来主操……みさお……女の子、かな?)
名前から察するに、おそらく女子。
そして遊び人の女子といえば、金髪ボンッキュッボン♡のハイレグ網タイツなバニーちゃんコス♡と、ファミコン版からSwitch配信版の昨今にいたるまで相場が決まっている。
「……なるほど」
可愛いバニーちゃん♡とのふたり旅。苦難の道のりの中、ちょっとしたロマンスだとか、ぱふぱふイベントだとか、そういったものがあるかもしれない。
いや、決してそんな浮ついた思考で魔王を倒そうだなんて、ナメたことを考えているわけではない。断じてないのだが、旅にTo LOVEるは付き物だから仕方がないと、甲洋は物事を柔軟に考えることにした。何事も頭でっかちはよろしくない。(性格:むっつりスケベ)
「分かりました。じゃあ、この子でお願いします」
「あらそう? よかった。甲洋くんになら安心して任せられるもの」
果たしてそうだろうか……。
「ぼくっ子とおれっ子で選べるけれど、どちらがいいかしら?」
「え? あ、あ~、そういう?」
男言葉属性とは予想外だった。が、そういう趣向もいいかもしれない。
しかし『おれ』となると女傑のイメージが強いような気がする。豪快で男勝りな女性も魅力的だが、どちらかといえば守ってやりたくなるようなタイプが好みだったので、とりあえず『ぼく』を選んでみた。
容子は頷き、さっそくカウンター裏の控室に向かって「操ー! ご指名よー!」と、声をかけた。
「はぁい!」
その元気のいい返事に、女の子にしては少し低め……いや、ハスキーボイスかな? イイネ! と思いつつ、胸をドキドキと高鳴らせた。
しかし控室の扉から飛び出してきて、目の前まで軽やかにやってきた人物を見るやいなや、甲洋の頭に思い描かれていた『ムフフなぱふぱふ旅』への希望は打ち砕かれた。
「ぼくの名前は来主操! よろしくね!」
ボンッキュッボンッでぼくっ子属性のバニーちゃん♡は、そこにはいなかった。目の前にいる人物はどこからどう見ても『ピエロ』の格好をしていて、ハスキーボイスどころかガッツリCV.木村良平の少年だったのだ。
「えぇ……?」
甲洋は戸惑った。
黄色のポンポンがついた三角帽と、白の襞襟がついているツナギのような道化衣装は、ピンクと紫のストライプ柄。かろうじて白塗りメイクはしていないものの、アホみたいな格好であることに代わりはない。まさしくピエロ。バニーちゃん♡とは掠りもしていなかった。
とはいえ顔は可愛い。が、そのぱふぱふ不可能な絶壁の胸を見て、甲洋のテンションは今日イチで盛り下がっていた。
「……チェンジで」
「不可能よ」
バッサリと切り捨てられた。
容子はカウンターから抜け出し、操の隣に立つとその肩を抱いて微笑みを浮かべる。
「操は箱入り息子なの。外の世界のことはなにも知らないから、いろいろと教えてあげてね、甲洋くん」
「ねぇおかーさぁん。クーも一緒に連れてっていい?」
「駄目よ。クーは老猫なんだから。ロイヤルカナン(健康的なカリカリご飯)だって、旅の途中じゃ手に入らないかもしれないでしょう?」
「クーは元気だから大丈夫だよ。草だって食べるもん」
「それだけじゃ栄養が偏ってしまうわ」
「ちぇー」
あ、親子なんだ……と枯れたススキのようなメンタルになっている甲洋は思ったが、操は旅立つことそのものには前向き──猫を連れてこられるのは困るが──な姿勢を見せている。
まったくやる気がないよりはマシかもしれないと、無理やりプラス思考に持っていかないことには、とてもやっていけそうになかった。
むしろやる気がなくなったのは甲洋の方かもしれないが。
*
「あっ、見て! クレープ屋さんがある! 買っていこうよ!」
晴れて(?)仲間をゲットした甲洋は、王様からもらった資金で旅の道具を揃えに向かっていた。しかしその途中、操がグイグイと腕を引っ張ってきて道端のワゴンショップを指差し、しつこくおねだり攻撃をしてくる。
「ダメだ。無駄遣いはできない」
「ねぇほら! タピオカミルクティーもある! 買ってぇ~買ってよぉ~」
「だからダメなんだって」
「なんでぇ!? ぼくお腹すいた! 喉も乾いた!」
「この50ゴールドで、君の装備と薬草を買うだけで精一杯だ」
「ぼく貧乏は嫌いだな……」
お前ふざけんなよと心が荒んだが、容子から頼まれている大事な息子さんなのでぐっと堪えた。操はその後も駄菓子屋に行こうだのCoCo壱でカレーを食べようだのとワガママを言い続けていたが、甲洋はどうにかスルーした。
そして武器屋で『ひのきのぼう』(安い)を買って、操に装備させた。
「なにこの棒きれ? ルガーランス買ってよぉ」
「お前……じゃなくて、君の今のステータスじゃ、そのくらいしか装備することは不可能だ。まともな武器が欲しいなら、目的地へつくまでにレベルを上げればいい。魔物を倒せばお金にもなる」
「えぇ~? なにそれだるーい」
同じレベル1でも、甲洋と操ではステータスの初期値にかなりの開きがある。
操の場合、下手をすればそのへんのモブ男性の方がよっぽど力があるかもしれない。甲洋は初期装備として『どうのつるぎ』を装備しているが、今の彼の腕力では棒きれがせいぜいだった。
その後、道具屋へ行くと残りの所持金を全て薬草に費やした。操はここでも「アップルグミの方が美味しいのに」と不満を漏らしていたが、このお話はドラクエパロなのでグミでは回復しないのである。
「いいから行くよ」
なんやかんやで時刻はもう昼時をわずかに過ぎていた。
最初の目的地である『海神村』には、徒歩でおよそ半日はかかる計算だ。途中で魔物とエンカウントすることを考えれば、到着する頃には夜になっているだろう。
魔王の城がどこにあるかも定かでない今、まずは各地を巡って地道に情報を集めていく必要があった。
町の出入り口には仲のいい友人たちや、よく世話になっていた近所の人たちが見送りに来てくれていた。
声援に手を振って答えながら、その中に両親の姿を探すが見当たらない。
すっかりセレブ気分で、今ごろ酒でも飲んでダジャレのひとつでも言っているんだろうなぁ……と少し虚しい気持ちになっていると、見送りの中に羽佐間容子の姿があることに気がついた。
「あ、お母さんだ!」
「ふたりとも、ちょっと待ってちょうだい」
容子はそう言ってふたりのもとへ駆け寄ってくると、甲洋と操にそれぞれ綺麗な風呂敷包みを手渡した。
「羽佐間さん、これは?」
「お弁当よ。急いで作ったから大したものじゃないけれど……」
「お母さんのお弁当!? やったー! 嬉しい! ありがとう!」
「羽佐間さん……ありがとう」
風呂敷包みはズッシリと重く、そしてまだあたたかい。
両親が見送りに来ていないことに一抹の寂しさを覚えていた甲洋だったが、そのぬくもりに笑みがこぼれた。
「いってらっしゃい。ふたりとも、必ず無事に帰ってくるのよ」
町の人たちと容子の優しい瞳に見送られ、甲洋と操の旅がはじまった。
*
竜宮の町を出てしばらく歩くと、いよいよ腹を減らした操が騒ぎだした。
仕方なく、甲洋は小高い丘の大木の根元を休憩地として座り込むと、操と一緒に容子が持たせてくれた弁当を食べることにした。
風呂敷包みの中には大きなおむすびがそれぞれ3つも入っており、とても一度では食べきれそうにないボリュームだった。が、操はニコニコ顔でそれらを全てぺろりと平らげ、水筒の中身まで飲み干す勢いだった。
(よく食うなこいつ)
いつ魔物が襲ってくるか分からない状況で、緊張感もクソもない呑気な食べっぷりには呆れてしまう。同時に、食べざかりの遊び人の面倒を見ながら旅をしていくことに、改めて不安を覚えた。
「ごちそうさまでした! お腹いっぱい。おやすみ」
「昼寝してる暇はないよ、来主」
操は道具袋を枕にして、完全に昼寝の体勢に入っていた。
巨大おむすびをひとつ平らげただけで満腹の甲洋は、憂い顔で溜息をつく。
(先が思いやられるよ……)
とはいえ食後すぐに動くのもよくないかと、少しだけ妥協して景色を眺める。
どこまでも続く広大な草原には風と共に雲の影がゆるゆると流れ、この世界が魔王に支配されようとしているなんて信じられないくらい、のどかな時間が過ぎていく。
しかし、そんなひとときは長くは続かなかった。
スライムがあらわれた!
「!?」
草むらから3体のスライムが、突如として姿を現したのだ。
青い半透明の身体をぷるぷるとさせながら、こちらの様子をうかがっている。
「来主! スライムだ!」
「むにゃ~? なに? もう食べられないよ~」
操はごろ寝したまま、赤ん坊のように両目をこすっている。
ダメだこいつと早々に見切りをつけ、甲洋は立ち上がると剣を構えた。
こうようの こうげき!
スライムAに 12のダメージ!
スライムAを たおした!
(よし! いける!)
1匹目のスライムを倒したことにより活路を見出した甲洋だったが、一瞬の隙をついて残りのスライムが同時に攻撃をしかけてきた。
スライムBの こうげき!
こうようは 7のダメージをうけた!
スライムCの こうげき!
こうようは 8のダメージをうけた!
「くっ……!」
地味に痛い。腹部と頭部にスライムアタックを食らった甲洋は、その衝撃で地面に尻もちをついてしまう。さすがはレベル1だ。まともな仲間さえ揃っていれば、初陣とはいえこれほど苦戦することもなかったろうに。
スライムBCはそんな甲洋を嘲笑うかのように、楽しげにビヨンビヨンと跳ねて様子をうかがっている。
「来主! 袋の中から薬草を……!」
どうにか膝をついて体勢を整えた甲洋が、寝転がっている操に視線を走らせた──が、そこに操の姿はなかった。
彼は今いる場所から少し離れた場所にしゃがみ込み、買ったばかりの『ひのきのぼう』の先っちょで
「つんつん、つんつん」
と、う◯ちを突いて遊んでいた……。
「お前はアラレちゃんか!!」
操は職業:遊び人の本領を発揮している。ずっと気を使って『君』呼びだったが、バカバカしくなったので『お前』呼びを解禁した。すっかりキレた甲洋は、こみ上げる怒りをスライム2匹にぶつけるべく斬りかかっていく。
こうようの こうげき!
スライムBに 100のダメージ!
スライムBを たおした!
スライムCの こうげき!
こうようは すばやく みをかわした!
こうようの こうげき!
スライムCに 150のダメージ!
スライムCを たおした!
スライムたちを やっつけた!
現在のステータス値ではありえないダメージ数を叩き出し、甲洋は無事にスライムの群れを倒すことに成功した。しかもレベルが2に上がり、スライムたちがいた場所にチャリーンと6ゴールドが落ちてきた。
「なんとかなったか……」
ふっと息をついた甲洋だったが、安堵したのも束の間「うわー!」という悲鳴が聞こえて息をのむ。
素早く視線を走らせれば、う◯ちを突いて遊んでいたはずの操が、他のスライムの群れに襲われている姿が目に飛び込んできた。
「やだやだ! なにこれ!? 助けて甲洋ー!」
「来主!!」
スライムの群れは先ほどよりも数が多く、AからFまで6匹もいた。あれに一斉にタックルでもキメられれば、一発で教会行きになってしまう。まだ旅立って間もないというのに、棺桶を引きずって町に引き返すのは御免である。
慌てて駆け寄ろうとした甲洋の前に、6匹のうち2匹のスライムがビヨンビヨンと飛び跳ねながら立ちふさがった。
「どけ!」
即座に斬りかかったが、俊敏な動作で避けられてしまう。
そうしている間にも、残りのスライムが操に襲いかかっている。しかし、その攻撃方法はさきほどのスライムたちとは違っているようだった。
「やだやだー! 助けてぇ!」
「く、来主!?」
スライムたちはぐにゃりと蕩けたようにその形を変え、操の身体に張りついていた。みるみるうちにピエロの衣装が溶かされて、あどけない少年の肌が露わになっていく。
「!?」
三角帽がポロリと地面に落ちている。もがくことに夢中の操は、ひのきのぼうすら手放していた。衣装はかろうじて腕や両足首に絡みつき、そして身体の中心の大事な場所だけを残して、あとは無残に溶かされている。
(ピンクだ……)
と、呆然と立ち尽くしながら甲洋は思った。
ぱふぱふ不可能な絶壁の胸。だがそのいただきにある2つの点が、ツンと尖って桃色に染まっている。男にしては少しばかり乳輪が大きめで、正視しがたいほどに扇情的だ。胸が薄いからこそ、主張が激しい。
甲洋はぽっかりと口を開け、その光景から目が離せなくなっていた。
「やっ、ぁ、やだぁ……ッ、きもちわる、あっ、うぅ……っ!」
ゲル状になったスライムたちが、白い皮膚の表面を蠢いている。タコのような形状で幾本もの触手を伸ばし、太もも、腰、首筋、そして胸の上を這っていた。
操は必死でそれを引き剥がそうとしているが、恐怖とそのおぞましい感覚にひどく身を震わせ、大きな瞳から涙をぽろぽろと零している。
「ヒッ、ぁ、ダメ! おっぱい、ぼくのおっぱい、いじめないでぇ……!」
胸の上で、半透明のスライムが乳首をそれぞれきゅうっと引っ張って伸ばしているのが分かる。操は腰をビクビクと跳ねさせ、ついに地面に尻をついてしまった。内ももに巻き付いているスライムが、両足をMの字に開かせる。
そしてついに、身体の中心へとその触手を伸ばしていった。かろうじてまとわりついている布がどんどん溶かされ、まともに毛も生え揃っていない恥部を今にも露わにしようとしていた。
「そこやだ、やだぁ! 助けて甲洋、助けてぇ……っ」
「ッ!!」
そこでようやく、甲洋は我に返った。
(み、見入ってる場合か!!)
甲洋はデレ~ッとした顔で操の痴態を見つめていた2匹のスライムを、一瞬で撃破した。そして操に駆け寄ると、全身に張りついているスライムたちを一心不乱に毟り取る。バラバラに千切れたスライムは動かなくなったが、徐々に寄り集まって元のツルリとした形状に戻り、容赦なく甲洋に襲いかかってきた。
それを斬ったり蹴ったりボコボコにしてやると、またレベルが上がった。(ついでに12ゴールド手に入れた)
「大丈夫か!? 来主!」
操はすっかり身体を丸めて泣いていた。すぐそばで膝をついた甲洋の顔を潤んだ瞳で見上げ、思い切り首に抱きついてくる。
「怖かったよぉ! おっぱい千切れるかと思った!」
胸にすがりついてピーピー泣いている操の身体に、甲洋は脱いだマントを巻きつけてやった。そしてその背中をポンポンと叩き、深く安堵の息をつく。
だいぶショックは受けたようだが、怪我がないようで安心した。が、どちらかといえば甲洋の方が身動きが取れない状態になっていた。
「来主、悪いけど……ちょっと離れて」
「ぐすんっ……ん、なんでぇ?」
「あの、ほんとに今ちょっと……愚息が……」
「?」
首を傾げる操の両肩を軽く掴んで引き剥がした。そして地面にドカリと尻を落ち着けると、両膝を緩く立てて猫背になる。膝頭にそれぞれ両肘を置き、深く溜息を漏らした。
「はぁ~……」
「甲洋?」
身体に紫色のマントを巻きつけた操が、心配そうに目を瞬かせていた。
彼には分かるまい。旅の扉をくぐる前に、新しい性癖の扉を開けてしまった甲洋の気持ちなど。股間の息子はそりゃあもう大変なことになっていて、しばらくは動けそうになかった。
(嘘だろ……来主は男だぞ……)
ボンッキュッボンッなバニーちゃん♡ならいざ知らず。
スライムに陵辱される姿に興奮してしまいましたなんて、甲洋を信じて預けてくれた羽佐間容子に、なんと詫びればいいのだろうか。
それもこれも、こいつのピンクなちっぱいが悪い。胸では不可能でも、太ももならぱふぱふ可能と思えるほど、柔らかそうな尻から腿にかけてのラインが悪い……。
自らの節操なしなドスケベを棚にあげ、甲洋は横目で操を睨んだ。すると操はまだほんの少しだけ涙を浮かべた瞳で、にっこりと笑みを浮かべる。
「ッ!」
その笑顔を見て、甲洋はぐっと喉を詰まらせた。
可愛い顔をしているとは思っていた。思ってはいたのだが──
(こんなに、可愛かったっけ……)
胸がドキドキしてきて、顔に血液が集中していくのを感じた。
おかしい。こんなのはおかしい。あんな光景を目の当たりにしたからって、急に意識してしまうなんてどうかしている。
けれど胸の高鳴りは増すばかりで、気のせいでは片付けられないほど大きくなっていた。
「甲洋!」
落ち着かなければと脳内で念仏を唱えはじめる甲洋の腕に、操がぎゅっと抱きついてくる。
「ッ、ちょ……な、なに」
押しつけられる真っ平らな胸ですら、今はそうやすやすと触れてはいけないもののような気がしている。上ずりそうになる声を抑え、あえてそっけなく返す甲洋の肩に、操は猫のような動作で頬を擦り寄せた。
「助けてくれてありがとう。カッコよかったよ、すごく」
「そ、そう」
「これからも守ってね、ぼくのこと」
いやお前も戦えよ──とは、言えなかった。
多分、ついさっきまでなら平然と言えたはずなのだ。面倒を見るつもりで諦めてはいたが、別に甘やかそうなんてこれっぽっちも思っていなかった。
さっさとレベル上げをして、賢者に転職させるまでの辛抱なのだと。
だけどすっかり顔を赤らめている甲洋は、ついつい素直に「うん」と言って頷いていた。
スライムを倒してレベルが上がったのは甲洋だけではない。
戦いに参加していなくても、経験値は同じパーティにいる操にもしっかりと振り分けられていた。つまり甲洋が敵を倒せば、そのぶん操もレベルが上がるのだ。
(しょうがないよな、また変な襲われ方しても困るし)
どこか言い訳めいたことを心の中で呟きながら、甲洋は潤んだ操の瞳にふっと小さく微笑み返した。
二十歳の誕生日と、生きて戻れるかすら分からない旅立ちと。
なんて日だと思っていた気持ちが、ほんのちょっぴり薄らいでいる。
少なくとも今まで生きてきたなかでは、最も悪くない誕生日になったかもしれない。不思議と、そんな気さえしはじめていた。
甲洋と操の旅は、まだ始まったばかりだ。
その後、宿屋に泊まった翌朝には必ず「ゆうべはお楽しみでしたね」などと言われてしまうまでにふたりの関係は発展していくのだが、そんなラブラブでぱふぱふな未来が訪れるのは、まだほんの少しだけ先のことである。
←戻る ・ Wavebox👏
海神島の楽園二号店は、昼時の喧騒の中にあった。
「操ちゃん! コーヒーのおかわりもらえるかい?」
「はぁーい!」
「あ、こっちも頼むよ! ついでにナポリタン大盛り追加で!」
「わかった! ちょっと待ってて!」
「おーい操ちゃん、一騎カレーまだ来てないよ~」
「あっ、忘れてたー!」
店内を賑わせているのは、主にタンクトップの角刈り集団だった。お洒落でレトロな洋風喫茶が、おかげでラグビー部の部室のようになっている。
そんなむさ苦しい集団のなかを、真っ赤なシャツにエプロン姿で動き回っている操は、まるで花から花……いや、筋肉から筋肉へと飛び回る蝶のようだった。
「操ちゃんは元気だねぇ。いつもニコニコして可愛いし」
誰かがぽつりとこぼした言葉を聞いて、みな一様に頷いている。女性店員がいないこともあってか、幼く中性的な顔立ちの操は野郎どものアイドル的存在になっていた。
店を構えた当初はテーブルを磨くことさえ満足にできなかった彼だが、今ではだいぶ慣れて接客を任せられるほどになっている。まだそそっかしいところはあるものの、操はすっかり人々の中に溶け込んでいた。
(来主……)
甲洋はパタパタと動き回っている操のことを、カウンターでグラスを磨きながら目を細めて見つめていた。
男たちに話しかけられては無邪気に笑い、楽しそうに言葉を交わすその姿に、胸の表面を覆う膜が乾いた音を立てながらひび割れていくような感覚を覚える。
それは郷愁と共に懐かしい痛みを甲洋の中に呼び覚ました。ただ一途に想い焦がれて、叶わぬままに終わりを告げた恋慕の記憶を。
「操ちゃん、背中に猫の毛がついてるよ」
「え? うそ、どこどこ?」
「ほらここ」
そのとき男の一人が操の背に手を伸ばし、指先で猫毛を摘みとった。目を丸くしながら首をひねってそれを見ていた操は、「ほんとだぁ」と言って照れたような笑みを浮かべる。
「駄目だろ、飲食店なんだからさ」
「ちゃんとコロコロかけたと思ったのにな。ありがと、おじさん!」
「……ッ」
甲洋は奥歯を噛み締め、逸した視線を静かに伏せた。拭いていたグラスをそっと置き、張り裂けそうな胸の上に強く握った拳を押し当てる。
まるで愛されるためだけに生まれてきたような可憐な笑顔。甘えた声。他の男たちに平然と振りまかれるその無邪気さに、吐き気をもよおすほどの暗い炎が噴き上がる。それは沸き立つ熱泉のように、甲洋の内側を目まぐるしく掻き立てた。
(来主、お前が好きだ。誰かがお前に触れること……誰かに笑いかけることすら、今の俺には耐えられない……お前のすべては、俺だけの……)
気安く触れた男の指先。それを許したあの子の笑顔。多くの視線が、甲洋だけの可愛い小鳥に注がれている。今すぐ隠してしまえたら、どんなにいいだろう。彼の心を捕らえようとするあらゆる外的要因、接触と影響。それらすべてを排除して、誰の目にも触れないように、どこにも飛んでいけないように、狭い箱の中に押し込めて。
その世界を、甲洋のためだけに閉ざしてしまえたら──。
(……ああ、そうか)
願うだけでは叶わないことを、甲洋は知っている。欲しいものには手を伸ばさなければ。ましてやそれが己のものであるならば、他の誰かに盗られる前に、いっそのこと。
(お前をこの手で──)
その目を、喉を、そして四肢を。すべてもぎ取ってしまえばいい。何度も何度も繰り返し、あの子の心が壊れてしまうまで。そうすればもう、操は誰にも笑いかけることができなくなる。誰もその瞳に映せなくなる。声さえも、甲洋だけのもn
「今だ! アバドンカンチョー!」
「ッ──!?」
そのときだった。景気よく病もうとしていた甲洋の臀部の中心に、ドスゥッというありえない衝撃が駆け抜けた。
おいおい待て待て。大丈夫か? ちょっと入ったんじゃないか今? どこに何がとは言わないが、ほんのちょっぴり入っちゃったんじゃないか? ちょっとジンジンしてるんだが?
「く、来主……おま、一体なにを……?」
あまりのショックから中腰になり、カウンターに手をついた甲洋は声を震わせながら背後を振り返った。するとその真後ろで、しゃがみこんだ操が両の人差し指だけを立てた状態で合わせた両手を握りしめている。

「後ろがガラ空きだったからさ!」
「そういうことを聞いてるんじゃない。お前には右ポジ(受)としての自覚はないのか?」
「ポジ? なにそれちんポジのこと? ズレたの? トイレいく?」
「違うから!」
カンチョーなんて今までのイケメン人生で初の体験である。小学生レベルの悪戯が大成功して、操は「わーい!」とバンザイしながらピョーンと跳ねて立ち上がった。誰だ、こいつを小鳥だなんて表現したのは。俺か。こいつはただのクソガキだと、甲洋は考えを改めた。
しかもアバドンカンチョーとかなんとか言ってなかったか。奈落の王を指す自身の機体名(めっちゃ気に入っている)を台無しにされ、甲洋はただただ不愉快な気持ちにさせられた。どうせなら自分の機体名でやれ。
なんにせよ、彼には左右という概念がないのだ。ここはしっかり言い聞かせねば、今後にも大きく関わってくる。
甲洋は屈めていた背をぴしゃりと正し、操と正面から向き合った。
「来主、今の悪戯だけは駄目だ。あと、そのネーミングセンスも駄目だ」
「なんで?」
「誰も望まないからだ」
甲洋の尻はいわば禁断の扉だ。少なくともこの世界線においては、針一本通してはならない禁猟区である。しかし操はふっと生温かい笑みを浮かべて、甲洋の肩をポンと叩くと諭すように言った。
「大丈夫。需要はあるよ、甲洋」
「ないよ。そういうのは別の世界線の有志に任せておけばいい(※逆カプのお姉さんたち)」
「ちぇー、つまんないのー」
操は両手を頭の後ろで組むと、不満そうにぷぅと唇を尖らせる。
まさか下剋上でも狙っているのか? っていうかこの感じだと、さてはこいつ左右の概念ちゃんとあるな? と、危機感と不信感を同時に募らせていると、実は最初からずっと反対側で黙々と調理に徹していた一騎が、心底呆れた顔でふたりに横目を向けてきた。
「ふたりとも、遊んでないでちゃんと仕事してくれないか……特に甲洋、あまり物騒なこと考えるなよ」
「あ、ごめん」
そういえばここの従業員は全員もれなく心が読めるのである。普段から思考通信をしまくっているせいもあり、うっかりチャンネルを開放したままだった。ダダ漏れだったことに穴があったら入れたい入りたい気持ちになりながら、甲洋は真面目に接客に励むことにした。
*
その夜──。
閉店後、店のカウンターで本を読んでいた甲洋は、ふと壁掛け時計に目を向けた。
「もうこんな時間か」
時刻は夜の10時を過ぎている。そろそろ操を送っていかなければ、今ごろ羽佐間容子が心配しているだろう。操は人間が太刀打ちできる相手ではないし、対来主操専用モブフェストゥムでも現れない限り、そうそう危険に晒される心配はない。
しかし容子はすっかり人間の子供を育てている感覚でいるし、まだまだ人間心理に疎い操が、口達者なモブおじさんに懐柔された結果、後日NTRビデオが郵送されてくる──なんて男性向けエロ展開になりでもしたら、甲洋は確実に闇落ちするだろう。
と、いうわけで過保護な甲洋は、毎晩しっかり操を家まで送り届けているのだった。ワープすれば済む話だが、操がいつも歩いて帰ろうとするので付き合っている。毎晩のんびりお散歩感覚で操と歩く時間が、甲洋の生活には欠かせないものになっていた。
「来主、そろそろ帰るよ」
店の外に出ると、月明かりの下で階段に腰かけた操は野良猫まみれになっていた。肩やら膝やら足元に猫たちを纏わりつかせ、遊んでいるというよりは遊ばれている。
「あ、甲洋。官能小説は読み終わったの?」
「なぜそれを知っ……あ、いや、そんなことよりもう帰る時間だよ」
「待って、まだもうちょっと」
「羽佐間さんが心配するぞ」
「んー、でもぉ」
毎晩のように遊んでいるくせに、操は猫たちとの別れを惜しんでいるようだった。甲洋はしょうがないなと溜息を漏らすと、「ちょっとだけだよ」と言って操の横に腰をおろす。
操は猫を両手で抱き上げて正面から顔を合わせると、鼻と鼻をくっつけて嬉しそうに笑った。
「あはは、可愛い。猫は面白いね。ふわふわでもちもちで、食べたら美味しそう」
「食べるなよ」
操にとっての食べるとは、つまり同化のことである。この子なら興味本位でやりかねない気もして、甲洋は少し呆れた顔をした。すると操は「食べないよぅ」と言って、尖らせた唇を向けてくる。
「ヒトはよく可愛いものを見ると目に入れても痛くないとか、食べちゃいたいとか言うでしょ? だけど実際に食べようとする人間はいないんだ。だからぼくもしない」
ねー、と猫に同意を求めるように笑いかけ、操は腕のなかのふわふわに頬ずりをした。甲洋はその微笑ましい光景に目を細め、足元に擦り寄ってきた猫の頭を指先で撫でる。かすかに聞こえてきたゴロゴロという音を聞きながら、甲洋は無意識に喉を鳴らした。
少年の形をした無垢な身体。手を伸ばせばすぐに触れることができる距離。月の光に照らされる操の肌は、白く透き通るようにみずみずしい。その息遣いにすら、狂おしいまでの渇望を覚える。
病的なまでの熱情は刹那の欲求を呼び覚まし、胸郭の中で心臓がドクンと大きく脈を打った。
(この子と、ひとつになりたい)
例えば彼が望むなら。いっそこの身を捧げたって構わないと。
穢れなき純然たる肉体の一部となって、己という毒で侵すことができたなら──
(来主……お前を愛している。どうか俺を受け入れて……お前という清廉な器の中で、永久に続く安寧を)
「はい甲洋、あ~ん」
「あ~ん」
激重モノローグの最中であるにも関わらず、甲洋は伸びてきた操の手と可愛い「あ~ん」に促されるまま、ぱっくりと口を開けていた。
ガッ、と口の中になにかつぶつぶとした小さな固形物が大量に押し込まれる。
「むぐ!?」
「はい駄目! いちど口に入れたものは出さない! 噛んで! ハイ噛んで! そして飲み込んで! ぼくのエクスカリバー!!」
「ッ……!?」
操が両手で甲洋の頭部と口を結構な力で押さえつけている。甲洋は口の中に押し込まれた謎の物体を噛み砕いた。そして
「ブッフォ!?」
噴いた。
ビックリした猫たちが、ミギャーと声をあげながら散り散りに逃げていく。
「アーッ! 甲洋! なんてことすんのさ!? 勿体ない! ってか手についた! ばっちい~!!」
操がペイペイッと汚れた手を振り払っている間、甲洋は激しく咳込んでいた。口の中には魚介の生臭さがいっぱいに広がっている。さらには噛み砕いて粉々になったものが、おかしな器官に入り込んでいるせいで咳が止まらず呼吸困難になっていた。
操はそんな甲洋の服の裾で手をふきふきしながら、「も~、駄目じゃん甲洋」と困り顔を浮かべている。
「勿体ないなぁ」
「ゲッホゴホッ、く、くる……ッ、こ、これ、なに?」
「猫ちゃんのカリカリご飯だよ」

「ゲッホゲホゴホァッ……!?」
さらに激しく咽る甲洋に、操はどこから取り出したのか猫用ドライフードの小袋をヒョイと持ち上げて見せる。
そこには『三ツ●グルメ~贅沢素材のお魚レシピ~』と書いてあった。
ぼくのエクスカリバーとかなんとか訳のわからないことを言いながら、操は甲洋の口にこれを大量に突っ込んだのである。
「お前は一体なんのつもりでこんなことを!?」
どうにかこうにか咳がおさまった甲洋は、涙目になりながら問いかける。操は「えへへ」と頭を掻きながら
「猫たちがいっつも美味しそうに食べてるから、どんな味がするのかなと思ってさ。ねぇねぇ、どうだった? 美味しかった?」
と、悪びれもせずに言う。
「美味いも不味いもあるか! 自分で試せ!」
「だってこれ猫のご飯だよ!? ぼくが食べてもしお腹壊したらどうすんの!?」
「お前どうせ食ったものぜんぶ同化されるだろ!!」
帰還後これほどの大声を上げたことがあっただろうかというほど声を荒げる甲洋に、さすがの操もビックリしたのか「なんでそんなに怒るのぉ!?」と涙目になっている。
「泣きたいのはこっちだバカ!」
「バカって言った方がバカだもん! 甲洋のバカ! やっぱり好きじゃないー!!」
「結構だバカ!!」
わあぁん、という操の泣き声が、煌めく月夜に響き渡った。
*
ケンカしつつも操を羽佐間家に送り届けた甲洋は、帰りはワープで楽園に戻った。
容子にお茶でもと誘われたが、口の中が猛烈にキャットフードだったので、早く帰って歯を磨きたいという思いから断った。
「はぁ……」
シャワーを浴びて歯を磨き、部屋着に着替えた甲洋は自室のベッドに横たわって深い息を漏らした。今日はいつになく疲れている。
フェストゥムである甲洋の肉体は、戦闘で疲弊しない限り基本的に眠りを必要としない。しかし人間であったころの習慣から、夜はとりあえずベッドに入って身体を休めるようにしている。眠ろうと思えば眠れるので、今日はこのまま寝てしまおうと思った。不貞寝である。
しかしどうにもモヤモヤして、上手く思考のスイッチを切り落とせない。
あんなことさえなければ、今日こそはキスのひとつもできていたかもしれないのに。
さんざん激重感情で病みかけておいてなんだが、甲洋は未だに操とキスすらできていないのである。いつもあの天真爛漫さにペースを乱され、思うようにいった試しがない。
間接照明に薄ぼんやりと照らされた天井を眺め、また息をつく。
甲洋は片方の手を持ち上げると、自分の手のひらをじっと見つめた。この手で操に触れて、強く抱きしめることができる日は果たして訪れるのだろうか。
欲ばかりが先急ぐ感覚。気づけば奪うことばかりを考えている。そばにいることが当たり前になればなるほど、焼けるような焦燥に胸が軋む。あの純粋で柔らかな魂に触れることが許されているのは、どうかこの手であってほしいと。
いつか他の誰かのものになる前に、他の誰かに、あの子の心が向く前に。
それはまっさらな雪の大地を、誰よりも先に最初の一歩で踏み荒らしたいという願望に似ている。大切にしたいと思う気持ちの裏側に、ひどく傷つけてやりたいという残酷な欲が同居しているのだ。
あの無邪気な瞳を、自分という欲望で濁らせてその肌を犯し尽くしたい。膨らんでいくばかりの想望を、一滴も残さずあの幼い身体に注ぎ込みたい。
彼はどんな顔をするだろう。怯えるだろうか。泣くだろうか。そこから溢れ出す血は何色だろう。啜れば甘い味がするのだろうか。操の泣き顔。その涙。
黒くいやしい雄の欲望に犯されて、どんな悲鳴をあげるだろう──
「こぉ~よぉ~」
「っ!?」
そのときである。突如として、部屋の中央に操がワープで現れた。
要約するとただのスケベ調教ルートに進みかけていた甲洋は、地味にビックリしてベッドから落ちかけた。
「ッ、な、なに……?」
かろうじて体勢を整え、怪訝な表情で身を起こす。
操はさっき送り届けたままの格好で、手になにやら薄桃色をした包みを持って立ち尽くしていた。その表情は不貞腐れているが、目は少し潤んでいる。
「さっきのこと、お母さんに言ったら怒られた。ちゃんと謝れって言われたから……来た」
「そんなことか……別に明日でもよかったのに」
とりあえず一発ソロ活(スラング)でもして寝るか……などと考えていただけに、ちょっといたたまれない。時間も遅いし、と続けた甲洋に、操はぶぅっと唇を尖らせる。
「だぁって甲洋、怒ってたし……ごめん」
猛烈に不服そうではあるが、操なりに一応は気にしているらしい。その態度や表情があまりにも子供っぽいものだから、毒気を抜かれた甲洋は思わず笑ってしまった。
「もういいよ。怒ってない」
「本当?」
潤んだ瞳が上目遣いに向けられる。ちくしょう可愛いなぁと思いつつ頷くと、操は花が咲いたようにパッと笑った。
「よかった! あっ、あのね、夜ってなにか食べたくなるでしょ? ぼくお菓子作って持ってきたんだ!」
お詫びの品のつもりだろうか。操はベッドまで駆けてくると縁に腰かけ、ずっと大事そうに持っていた包みを甲洋にズイッと差し出した。
「お菓子? 来主が作ったのか?」
包みを受け取りながら目を丸くする。
「うん! 前にね、一騎に作り方を教えてもらったんだ。ホットケーキミックスで作ったドーナツ。ぼく一人で作ったんだよ!」
操は自慢げに鼻の穴を膨らませて胸を張っている。甲洋はずっしりとした重みを手の中に感じながら胸を打たれていた。あの操が、わざわざ自分のためにお菓子を持ってきてくれた。しかも容子に手伝ってもらうでもなく、ひとりで作ったというのだ。
嬉しさがこみ上げ、カンチョーもキャットフードも一瞬でチャラになった。
「ありがとう、来主」
「えへへー! うん! ねぇ、早く食べてみてよ!」
甲洋は微笑みながら頷いて、ハンカチの包装を解いていく。中身は黒猫の顔がドーンと大きく描かれた、赤い楕円形の弁当箱だった。
ワクワクした様子の操に見守られ、弁当箱の蓋を開ける。そして、首を傾げた。
「これは……」
確か操はドーナツと言っていた気がするが、そこには弁当箱に隙間なくミッチリと詰められた、焦げ茶色の巨大な塊が入っている。それを見た甲洋は思わず
「象の糞?」

と、感想を漏らしていた。すると操が眉を吊り上げて怒りだす。
「は!? なにそれ!? どっからどう見てもドーナツじゃん!」
「いやしかし……この色にこの形状はどう見ても……」
「違うもん! ドーナツだもん! ちょっと焦げちゃっただけだもん! 象のウ●チなんてひどいよ!」
「だってお前、この見た目……果たしてこれは許せるかどうか……」
「許してよぉ!!」
焦げ茶色をした楕円形の巨大なブツは、どう見ても象の糞にしか見えなかった。しかし操はこれをドーナツと言って聞かない。早く作ろうと急くあまり、彼はボウルの中のホットケーキミックスを熱した油の中に一気にポーンしてしまったのだ。
そしてそれを、事もあろうに楕円形の弁当箱に無理やり詰め込んでしまった。その結果がこのビジュアル崩壊である。
「わかった。わかったから。俺が悪かった」
わっ、と泣きべそをかきはじめた操の頭をくしゃくしゃと撫で、どうにか宥める。すると操はすんっと鼻を鳴らしながら、涙目で甲洋を見上げた。
「じゃあ、食べてくれる?」
「食べるよ。いただきます」
あまりにも素直な感想を漏らしてしまったせいで、若干嫌なイメージはついてしまったものの、甘い匂いは間違いなくドーナツだ。
甲洋は弁当箱を引っくり返すようにしながら中身をゴロリと取り出すと、それを一口大に千切って(めっちゃ固い)口に運ぶ。ほんの少しだけ焦げた風味が鼻を抜け、それからふわりとした甘さが広がった。
「美味しい?」
操の期待に満ちた胸の高鳴りが伝わって、甲洋は目を細めて笑うと頷いて見せる。操は「やったー!」と万歳をすると、自分もドーナツに手を伸ばす。大きな塊をむしり取ると、口いっぱいに頬張った。
「んー、おいひい! これは大成功だね!」
見た目の大切さも理解させないとなぁと思いつつ、またケンカになってはいけないので「そうだね」と言って肯定した。口の周りにドーナツのカスをつけながら頬を膨らませる操に、やれやれと息をつきながら少しずつ食べ進める。
「ねぇ甲洋ぉ、ぼくね」
「ん?」
一緒に半分ほど食べ終えたところで手を止めた操が、甲洋を見上げる。目を合わせると、彼はふにゃ~っとまるでふやけたような笑顔を見せた。
「楽しい」
間接照明の薄明かりに照らされて、操の頬がちょっぴりだけ赤くなっているように見えるのは、ただの都合のいい解釈でしかないのかもしれない。
それでも甲洋は胸がジーンと熱くなる。かじかんだ指先をぬるま湯に浸したみたいに、身体が芯から満たされていくのを感じた。
甘えた声、甘えた笑顔。無警戒に寄せられる子供のような体温。今だけは、うぬぼれてもいいだろうか。
「俺もだよ」
唇の端についているドーナツのカスを指先でくすぐるように取り払ってやりながら、甲洋は目を細めて優しく笑った。
*
翌日の楽園は朝から賑わいを見せていた。
「はぁ……ここのオーナーさん、いつ見ても素敵……」
「あぁん今日もカッコいい……春日井さん……」
「お休みの日はなにしてるのかしら……誘ってみようかな……」
「ちょっとズルいわよ! 抜け駆けする気?」
たまにタンクトップ集団が占拠する以外、店は基本的に若い女性客が多い。今日もほとんどの席が女性たちで埋まっていて、そのほとんどが甲洋にハートマークを向けている。
ひそひそと囁かれる声と熱い視線のなか、甲洋は注文品を運ぶなど接客に追われていた。ひとつ終わればまたその次と、ひっきりなしに黄色い声に呼び止められる。
(女の子って、どうしてみんな甲洋のことあんなに好きなのかなぁ)
平然と接客に勤しんでいた甲洋のなかに、カウンターで皿拭きをしている操の呟きが流れ込んできた。
(甲洋は次の休みはぼくと釣りに行くんだもん。ぼくと遊ぶんだもん。でも、あの子達と遊びに行くって言われたら……嫌だな)
その声に、甲洋は「おや」といささか呆気にとられる。
(やな感じ。モヤモヤしてつまんない。変なの)
「あ、あの、春日井さん! よかったらここにサインもらえませんか?」
そのとき、近くの席の女性客に呼び止められた。甲洋はひとまず笑顔でその席に向かい、「俺の?」とわざと驚いたような表情を浮かべて小首を傾げた。
二人がけの席に向かい合って座っている二人連れの女性客が、それぞれ手帳のメモ欄を開いて頷いている。頬が真っ赤で、瞳が蕩けそうに潤んでいた。
「いいですよ」
甲洋が了承すると、ふたりは顔を見合わせて「きゃ~」と歓声をあげた。受け取ったペンでそれぞれの手帳に『春日井甲洋』とシンプルなサインを書く。するとまた操の声が聞こえてきた。
(甲洋のこと食べちゃおうかな……そしたら、このモヤモヤなくなるのかな……?)
甲洋は思わず小さく噴き出した。
「店長さん! あの、こっちもお願いします!」
そのとき、別のテーブルの女性客に呼ばれた。甲洋はそちらに目を向け、軽く手をあげると「少々お待ち下さい」と言って遮る。
それどころじゃないと、甲洋は思った。今すぐ店を閉めてしまおうかとすら本気で考えながら、カウンターへと足を向ける。
操はそれに気づいていながら、ムッと唇を尖らせて皿磨きに集中するふりをした。その額に手を伸ばし、テーブル越しに指先で軽く小突いてやる。
「ふわっ!? な、なに!?」
ビックリした操が、大きな瞳をまんまるにした。後をたたない愛おしさと可笑しさに、満悦の甲洋はふっと息を吐きだすように小さく笑う。
「バカだな、来主は」
「もー、なに!? ぼくちゃんと仕事してるじゃん!」
「お前が病むなよ」
くすぐったさに肩を揺らしながら、今夜こそ絶対にキスしてやろうと、甲洋はその胸を風船のように浮き立たせるのだった。
素材:いらすとや
←戻る ・ Wavebox👏
「操ちゃん! コーヒーのおかわりもらえるかい?」
「はぁーい!」
「あ、こっちも頼むよ! ついでにナポリタン大盛り追加で!」
「わかった! ちょっと待ってて!」
「おーい操ちゃん、一騎カレーまだ来てないよ~」
「あっ、忘れてたー!」
店内を賑わせているのは、主にタンクトップの角刈り集団だった。お洒落でレトロな洋風喫茶が、おかげでラグビー部の部室のようになっている。
そんなむさ苦しい集団のなかを、真っ赤なシャツにエプロン姿で動き回っている操は、まるで花から花……いや、筋肉から筋肉へと飛び回る蝶のようだった。
「操ちゃんは元気だねぇ。いつもニコニコして可愛いし」
誰かがぽつりとこぼした言葉を聞いて、みな一様に頷いている。女性店員がいないこともあってか、幼く中性的な顔立ちの操は野郎どものアイドル的存在になっていた。
店を構えた当初はテーブルを磨くことさえ満足にできなかった彼だが、今ではだいぶ慣れて接客を任せられるほどになっている。まだそそっかしいところはあるものの、操はすっかり人々の中に溶け込んでいた。
(来主……)
甲洋はパタパタと動き回っている操のことを、カウンターでグラスを磨きながら目を細めて見つめていた。
男たちに話しかけられては無邪気に笑い、楽しそうに言葉を交わすその姿に、胸の表面を覆う膜が乾いた音を立てながらひび割れていくような感覚を覚える。
それは郷愁と共に懐かしい痛みを甲洋の中に呼び覚ました。ただ一途に想い焦がれて、叶わぬままに終わりを告げた恋慕の記憶を。
「操ちゃん、背中に猫の毛がついてるよ」
「え? うそ、どこどこ?」
「ほらここ」
そのとき男の一人が操の背に手を伸ばし、指先で猫毛を摘みとった。目を丸くしながら首をひねってそれを見ていた操は、「ほんとだぁ」と言って照れたような笑みを浮かべる。
「駄目だろ、飲食店なんだからさ」
「ちゃんとコロコロかけたと思ったのにな。ありがと、おじさん!」
「……ッ」
甲洋は奥歯を噛み締め、逸した視線を静かに伏せた。拭いていたグラスをそっと置き、張り裂けそうな胸の上に強く握った拳を押し当てる。
まるで愛されるためだけに生まれてきたような可憐な笑顔。甘えた声。他の男たちに平然と振りまかれるその無邪気さに、吐き気をもよおすほどの暗い炎が噴き上がる。それは沸き立つ熱泉のように、甲洋の内側を目まぐるしく掻き立てた。
(来主、お前が好きだ。誰かがお前に触れること……誰かに笑いかけることすら、今の俺には耐えられない……お前のすべては、俺だけの……)
気安く触れた男の指先。それを許したあの子の笑顔。多くの視線が、甲洋だけの可愛い小鳥に注がれている。今すぐ隠してしまえたら、どんなにいいだろう。彼の心を捕らえようとするあらゆる外的要因、接触と影響。それらすべてを排除して、誰の目にも触れないように、どこにも飛んでいけないように、狭い箱の中に押し込めて。
その世界を、甲洋のためだけに閉ざしてしまえたら──。
(……ああ、そうか)
願うだけでは叶わないことを、甲洋は知っている。欲しいものには手を伸ばさなければ。ましてやそれが己のものであるならば、他の誰かに盗られる前に、いっそのこと。
(お前をこの手で──)
その目を、喉を、そして四肢を。すべてもぎ取ってしまえばいい。何度も何度も繰り返し、あの子の心が壊れてしまうまで。そうすればもう、操は誰にも笑いかけることができなくなる。誰もその瞳に映せなくなる。声さえも、甲洋だけのもn
「今だ! アバドンカンチョー!」
「ッ──!?」
そのときだった。景気よく病もうとしていた甲洋の臀部の中心に、ドスゥッというありえない衝撃が駆け抜けた。
おいおい待て待て。大丈夫か? ちょっと入ったんじゃないか今? どこに何がとは言わないが、ほんのちょっぴり入っちゃったんじゃないか? ちょっとジンジンしてるんだが?
「く、来主……おま、一体なにを……?」
あまりのショックから中腰になり、カウンターに手をついた甲洋は声を震わせながら背後を振り返った。するとその真後ろで、しゃがみこんだ操が両の人差し指だけを立てた状態で合わせた両手を握りしめている。

「後ろがガラ空きだったからさ!」
「そういうことを聞いてるんじゃない。お前には右ポジ(受)としての自覚はないのか?」
「ポジ? なにそれちんポジのこと? ズレたの? トイレいく?」
「違うから!」
カンチョーなんて今までのイケメン人生で初の体験である。小学生レベルの悪戯が大成功して、操は「わーい!」とバンザイしながらピョーンと跳ねて立ち上がった。誰だ、こいつを小鳥だなんて表現したのは。俺か。こいつはただのクソガキだと、甲洋は考えを改めた。
しかもアバドンカンチョーとかなんとか言ってなかったか。奈落の王を指す自身の機体名(めっちゃ気に入っている)を台無しにされ、甲洋はただただ不愉快な気持ちにさせられた。どうせなら自分の機体名でやれ。
なんにせよ、彼には左右という概念がないのだ。ここはしっかり言い聞かせねば、今後にも大きく関わってくる。
甲洋は屈めていた背をぴしゃりと正し、操と正面から向き合った。
「来主、今の悪戯だけは駄目だ。あと、そのネーミングセンスも駄目だ」
「なんで?」
「誰も望まないからだ」
甲洋の尻はいわば禁断の扉だ。少なくともこの世界線においては、針一本通してはならない禁猟区である。しかし操はふっと生温かい笑みを浮かべて、甲洋の肩をポンと叩くと諭すように言った。
「大丈夫。需要はあるよ、甲洋」
「ないよ。そういうのは別の世界線の有志に任せておけばいい(※逆カプのお姉さんたち)」
「ちぇー、つまんないのー」
操は両手を頭の後ろで組むと、不満そうにぷぅと唇を尖らせる。
まさか下剋上でも狙っているのか? っていうかこの感じだと、さてはこいつ左右の概念ちゃんとあるな? と、危機感と不信感を同時に募らせていると、実は最初からずっと反対側で黙々と調理に徹していた一騎が、心底呆れた顔でふたりに横目を向けてきた。
「ふたりとも、遊んでないでちゃんと仕事してくれないか……特に甲洋、あまり物騒なこと考えるなよ」
「あ、ごめん」
そういえばここの従業員は全員もれなく心が読めるのである。普段から思考通信をしまくっているせいもあり、うっかりチャンネルを開放したままだった。ダダ漏れだったことに穴があったら
*
その夜──。
閉店後、店のカウンターで本を読んでいた甲洋は、ふと壁掛け時計に目を向けた。
「もうこんな時間か」
時刻は夜の10時を過ぎている。そろそろ操を送っていかなければ、今ごろ羽佐間容子が心配しているだろう。操は人間が太刀打ちできる相手ではないし、対来主操専用モブフェストゥムでも現れない限り、そうそう危険に晒される心配はない。
しかし容子はすっかり人間の子供を育てている感覚でいるし、まだまだ人間心理に疎い操が、口達者なモブおじさんに懐柔された結果、後日NTRビデオが郵送されてくる──なんて男性向けエロ展開になりでもしたら、甲洋は確実に闇落ちするだろう。
と、いうわけで過保護な甲洋は、毎晩しっかり操を家まで送り届けているのだった。ワープすれば済む話だが、操がいつも歩いて帰ろうとするので付き合っている。毎晩のんびりお散歩感覚で操と歩く時間が、甲洋の生活には欠かせないものになっていた。
「来主、そろそろ帰るよ」
店の外に出ると、月明かりの下で階段に腰かけた操は野良猫まみれになっていた。肩やら膝やら足元に猫たちを纏わりつかせ、遊んでいるというよりは遊ばれている。
「あ、甲洋。官能小説は読み終わったの?」
「なぜそれを知っ……あ、いや、そんなことよりもう帰る時間だよ」
「待って、まだもうちょっと」
「羽佐間さんが心配するぞ」
「んー、でもぉ」
毎晩のように遊んでいるくせに、操は猫たちとの別れを惜しんでいるようだった。甲洋はしょうがないなと溜息を漏らすと、「ちょっとだけだよ」と言って操の横に腰をおろす。
操は猫を両手で抱き上げて正面から顔を合わせると、鼻と鼻をくっつけて嬉しそうに笑った。
「あはは、可愛い。猫は面白いね。ふわふわでもちもちで、食べたら美味しそう」
「食べるなよ」
操にとっての食べるとは、つまり同化のことである。この子なら興味本位でやりかねない気もして、甲洋は少し呆れた顔をした。すると操は「食べないよぅ」と言って、尖らせた唇を向けてくる。
「ヒトはよく可愛いものを見ると目に入れても痛くないとか、食べちゃいたいとか言うでしょ? だけど実際に食べようとする人間はいないんだ。だからぼくもしない」
ねー、と猫に同意を求めるように笑いかけ、操は腕のなかのふわふわに頬ずりをした。甲洋はその微笑ましい光景に目を細め、足元に擦り寄ってきた猫の頭を指先で撫でる。かすかに聞こえてきたゴロゴロという音を聞きながら、甲洋は無意識に喉を鳴らした。
少年の形をした無垢な身体。手を伸ばせばすぐに触れることができる距離。月の光に照らされる操の肌は、白く透き通るようにみずみずしい。その息遣いにすら、狂おしいまでの渇望を覚える。
病的なまでの熱情は刹那の欲求を呼び覚まし、胸郭の中で心臓がドクンと大きく脈を打った。
(この子と、ひとつになりたい)
例えば彼が望むなら。いっそこの身を捧げたって構わないと。
穢れなき純然たる肉体の一部となって、己という毒で侵すことができたなら──
(来主……お前を愛している。どうか俺を受け入れて……お前という清廉な器の中で、永久に続く安寧を)
「はい甲洋、あ~ん」
「あ~ん」
激重モノローグの最中であるにも関わらず、甲洋は伸びてきた操の手と可愛い「あ~ん」に促されるまま、ぱっくりと口を開けていた。
ガッ、と口の中になにかつぶつぶとした小さな固形物が大量に押し込まれる。
「むぐ!?」
「はい駄目! いちど口に入れたものは出さない! 噛んで! ハイ噛んで! そして飲み込んで! ぼくのエクスカリバー!!」
「ッ……!?」
操が両手で甲洋の頭部と口を結構な力で押さえつけている。甲洋は口の中に押し込まれた謎の物体を噛み砕いた。そして
「ブッフォ!?」
噴いた。
ビックリした猫たちが、ミギャーと声をあげながら散り散りに逃げていく。
「アーッ! 甲洋! なんてことすんのさ!? 勿体ない! ってか手についた! ばっちい~!!」
操がペイペイッと汚れた手を振り払っている間、甲洋は激しく咳込んでいた。口の中には魚介の生臭さがいっぱいに広がっている。さらには噛み砕いて粉々になったものが、おかしな器官に入り込んでいるせいで咳が止まらず呼吸困難になっていた。
操はそんな甲洋の服の裾で手をふきふきしながら、「も~、駄目じゃん甲洋」と困り顔を浮かべている。
「勿体ないなぁ」
「ゲッホゴホッ、く、くる……ッ、こ、これ、なに?」
「猫ちゃんのカリカリご飯だよ」

「ゲッホゲホゴホァッ……!?」
さらに激しく咽る甲洋に、操はどこから取り出したのか猫用ドライフードの小袋をヒョイと持ち上げて見せる。
そこには『三ツ●グルメ~贅沢素材のお魚レシピ~』と書いてあった。
ぼくのエクスカリバーとかなんとか訳のわからないことを言いながら、操は甲洋の口にこれを大量に突っ込んだのである。
「お前は一体なんのつもりでこんなことを!?」
どうにかこうにか咳がおさまった甲洋は、涙目になりながら問いかける。操は「えへへ」と頭を掻きながら
「猫たちがいっつも美味しそうに食べてるから、どんな味がするのかなと思ってさ。ねぇねぇ、どうだった? 美味しかった?」
と、悪びれもせずに言う。
「美味いも不味いもあるか! 自分で試せ!」
「だってこれ猫のご飯だよ!? ぼくが食べてもしお腹壊したらどうすんの!?」
「お前どうせ食ったものぜんぶ同化されるだろ!!」
帰還後これほどの大声を上げたことがあっただろうかというほど声を荒げる甲洋に、さすがの操もビックリしたのか「なんでそんなに怒るのぉ!?」と涙目になっている。
「泣きたいのはこっちだバカ!」
「バカって言った方がバカだもん! 甲洋のバカ! やっぱり好きじゃないー!!」
「結構だバカ!!」
わあぁん、という操の泣き声が、煌めく月夜に響き渡った。
*
ケンカしつつも操を羽佐間家に送り届けた甲洋は、帰りはワープで楽園に戻った。
容子にお茶でもと誘われたが、口の中が猛烈にキャットフードだったので、早く帰って歯を磨きたいという思いから断った。
「はぁ……」
シャワーを浴びて歯を磨き、部屋着に着替えた甲洋は自室のベッドに横たわって深い息を漏らした。今日はいつになく疲れている。
フェストゥムである甲洋の肉体は、戦闘で疲弊しない限り基本的に眠りを必要としない。しかし人間であったころの習慣から、夜はとりあえずベッドに入って身体を休めるようにしている。眠ろうと思えば眠れるので、今日はこのまま寝てしまおうと思った。不貞寝である。
しかしどうにもモヤモヤして、上手く思考のスイッチを切り落とせない。
あんなことさえなければ、今日こそはキスのひとつもできていたかもしれないのに。
さんざん激重感情で病みかけておいてなんだが、甲洋は未だに操とキスすらできていないのである。いつもあの天真爛漫さにペースを乱され、思うようにいった試しがない。
間接照明に薄ぼんやりと照らされた天井を眺め、また息をつく。
甲洋は片方の手を持ち上げると、自分の手のひらをじっと見つめた。この手で操に触れて、強く抱きしめることができる日は果たして訪れるのだろうか。
欲ばかりが先急ぐ感覚。気づけば奪うことばかりを考えている。そばにいることが当たり前になればなるほど、焼けるような焦燥に胸が軋む。あの純粋で柔らかな魂に触れることが許されているのは、どうかこの手であってほしいと。
いつか他の誰かのものになる前に、他の誰かに、あの子の心が向く前に。
それはまっさらな雪の大地を、誰よりも先に最初の一歩で踏み荒らしたいという願望に似ている。大切にしたいと思う気持ちの裏側に、ひどく傷つけてやりたいという残酷な欲が同居しているのだ。
あの無邪気な瞳を、自分という欲望で濁らせてその肌を犯し尽くしたい。膨らんでいくばかりの想望を、一滴も残さずあの幼い身体に注ぎ込みたい。
彼はどんな顔をするだろう。怯えるだろうか。泣くだろうか。そこから溢れ出す血は何色だろう。啜れば甘い味がするのだろうか。操の泣き顔。その涙。
黒くいやしい雄の欲望に犯されて、どんな悲鳴をあげるだろう──
「こぉ~よぉ~」
「っ!?」
そのときである。突如として、部屋の中央に操がワープで現れた。
要約するとただのスケベ調教ルートに進みかけていた甲洋は、地味にビックリしてベッドから落ちかけた。
「ッ、な、なに……?」
かろうじて体勢を整え、怪訝な表情で身を起こす。
操はさっき送り届けたままの格好で、手になにやら薄桃色をした包みを持って立ち尽くしていた。その表情は不貞腐れているが、目は少し潤んでいる。
「さっきのこと、お母さんに言ったら怒られた。ちゃんと謝れって言われたから……来た」
「そんなことか……別に明日でもよかったのに」
とりあえず一発ソロ活(スラング)でもして寝るか……などと考えていただけに、ちょっといたたまれない。時間も遅いし、と続けた甲洋に、操はぶぅっと唇を尖らせる。
「だぁって甲洋、怒ってたし……ごめん」
猛烈に不服そうではあるが、操なりに一応は気にしているらしい。その態度や表情があまりにも子供っぽいものだから、毒気を抜かれた甲洋は思わず笑ってしまった。
「もういいよ。怒ってない」
「本当?」
潤んだ瞳が上目遣いに向けられる。ちくしょう可愛いなぁと思いつつ頷くと、操は花が咲いたようにパッと笑った。
「よかった! あっ、あのね、夜ってなにか食べたくなるでしょ? ぼくお菓子作って持ってきたんだ!」
お詫びの品のつもりだろうか。操はベッドまで駆けてくると縁に腰かけ、ずっと大事そうに持っていた包みを甲洋にズイッと差し出した。
「お菓子? 来主が作ったのか?」
包みを受け取りながら目を丸くする。
「うん! 前にね、一騎に作り方を教えてもらったんだ。ホットケーキミックスで作ったドーナツ。ぼく一人で作ったんだよ!」
操は自慢げに鼻の穴を膨らませて胸を張っている。甲洋はずっしりとした重みを手の中に感じながら胸を打たれていた。あの操が、わざわざ自分のためにお菓子を持ってきてくれた。しかも容子に手伝ってもらうでもなく、ひとりで作ったというのだ。
嬉しさがこみ上げ、カンチョーもキャットフードも一瞬でチャラになった。
「ありがとう、来主」
「えへへー! うん! ねぇ、早く食べてみてよ!」
甲洋は微笑みながら頷いて、ハンカチの包装を解いていく。中身は黒猫の顔がドーンと大きく描かれた、赤い楕円形の弁当箱だった。
ワクワクした様子の操に見守られ、弁当箱の蓋を開ける。そして、首を傾げた。
「これは……」
確か操はドーナツと言っていた気がするが、そこには弁当箱に隙間なくミッチリと詰められた、焦げ茶色の巨大な塊が入っている。それを見た甲洋は思わず
「象の糞?」

と、感想を漏らしていた。すると操が眉を吊り上げて怒りだす。
「は!? なにそれ!? どっからどう見てもドーナツじゃん!」
「いやしかし……この色にこの形状はどう見ても……」
「違うもん! ドーナツだもん! ちょっと焦げちゃっただけだもん! 象のウ●チなんてひどいよ!」
「だってお前、この見た目……果たしてこれは許せるかどうか……」
「許してよぉ!!」
焦げ茶色をした楕円形の巨大なブツは、どう見ても象の糞にしか見えなかった。しかし操はこれをドーナツと言って聞かない。早く作ろうと急くあまり、彼はボウルの中のホットケーキミックスを熱した油の中に一気にポーンしてしまったのだ。
そしてそれを、事もあろうに楕円形の弁当箱に無理やり詰め込んでしまった。その結果がこのビジュアル崩壊である。
「わかった。わかったから。俺が悪かった」
わっ、と泣きべそをかきはじめた操の頭をくしゃくしゃと撫で、どうにか宥める。すると操はすんっと鼻を鳴らしながら、涙目で甲洋を見上げた。
「じゃあ、食べてくれる?」
「食べるよ。いただきます」
あまりにも素直な感想を漏らしてしまったせいで、若干嫌なイメージはついてしまったものの、甘い匂いは間違いなくドーナツだ。
甲洋は弁当箱を引っくり返すようにしながら中身をゴロリと取り出すと、それを一口大に千切って(めっちゃ固い)口に運ぶ。ほんの少しだけ焦げた風味が鼻を抜け、それからふわりとした甘さが広がった。
「美味しい?」
操の期待に満ちた胸の高鳴りが伝わって、甲洋は目を細めて笑うと頷いて見せる。操は「やったー!」と万歳をすると、自分もドーナツに手を伸ばす。大きな塊をむしり取ると、口いっぱいに頬張った。
「んー、おいひい! これは大成功だね!」
見た目の大切さも理解させないとなぁと思いつつ、またケンカになってはいけないので「そうだね」と言って肯定した。口の周りにドーナツのカスをつけながら頬を膨らませる操に、やれやれと息をつきながら少しずつ食べ進める。
「ねぇ甲洋ぉ、ぼくね」
「ん?」
一緒に半分ほど食べ終えたところで手を止めた操が、甲洋を見上げる。目を合わせると、彼はふにゃ~っとまるでふやけたような笑顔を見せた。
「楽しい」
間接照明の薄明かりに照らされて、操の頬がちょっぴりだけ赤くなっているように見えるのは、ただの都合のいい解釈でしかないのかもしれない。
それでも甲洋は胸がジーンと熱くなる。かじかんだ指先をぬるま湯に浸したみたいに、身体が芯から満たされていくのを感じた。
甘えた声、甘えた笑顔。無警戒に寄せられる子供のような体温。今だけは、うぬぼれてもいいだろうか。
「俺もだよ」
唇の端についているドーナツのカスを指先でくすぐるように取り払ってやりながら、甲洋は目を細めて優しく笑った。
*
翌日の楽園は朝から賑わいを見せていた。
「はぁ……ここのオーナーさん、いつ見ても素敵……」
「あぁん今日もカッコいい……春日井さん……」
「お休みの日はなにしてるのかしら……誘ってみようかな……」
「ちょっとズルいわよ! 抜け駆けする気?」
たまにタンクトップ集団が占拠する以外、店は基本的に若い女性客が多い。今日もほとんどの席が女性たちで埋まっていて、そのほとんどが甲洋にハートマークを向けている。
ひそひそと囁かれる声と熱い視線のなか、甲洋は注文品を運ぶなど接客に追われていた。ひとつ終わればまたその次と、ひっきりなしに黄色い声に呼び止められる。
(女の子って、どうしてみんな甲洋のことあんなに好きなのかなぁ)
平然と接客に勤しんでいた甲洋のなかに、カウンターで皿拭きをしている操の呟きが流れ込んできた。
(甲洋は次の休みはぼくと釣りに行くんだもん。ぼくと遊ぶんだもん。でも、あの子達と遊びに行くって言われたら……嫌だな)
その声に、甲洋は「おや」といささか呆気にとられる。
(やな感じ。モヤモヤしてつまんない。変なの)
「あ、あの、春日井さん! よかったらここにサインもらえませんか?」
そのとき、近くの席の女性客に呼び止められた。甲洋はひとまず笑顔でその席に向かい、「俺の?」とわざと驚いたような表情を浮かべて小首を傾げた。
二人がけの席に向かい合って座っている二人連れの女性客が、それぞれ手帳のメモ欄を開いて頷いている。頬が真っ赤で、瞳が蕩けそうに潤んでいた。
「いいですよ」
甲洋が了承すると、ふたりは顔を見合わせて「きゃ~」と歓声をあげた。受け取ったペンでそれぞれの手帳に『春日井甲洋』とシンプルなサインを書く。するとまた操の声が聞こえてきた。
(甲洋のこと食べちゃおうかな……そしたら、このモヤモヤなくなるのかな……?)
甲洋は思わず小さく噴き出した。
「店長さん! あの、こっちもお願いします!」
そのとき、別のテーブルの女性客に呼ばれた。甲洋はそちらに目を向け、軽く手をあげると「少々お待ち下さい」と言って遮る。
それどころじゃないと、甲洋は思った。今すぐ店を閉めてしまおうかとすら本気で考えながら、カウンターへと足を向ける。
操はそれに気づいていながら、ムッと唇を尖らせて皿磨きに集中するふりをした。その額に手を伸ばし、テーブル越しに指先で軽く小突いてやる。
「ふわっ!? な、なに!?」
ビックリした操が、大きな瞳をまんまるにした。後をたたない愛おしさと可笑しさに、満悦の甲洋はふっと息を吐きだすように小さく笑う。
「バカだな、来主は」
「もー、なに!? ぼくちゃんと仕事してるじゃん!」
「お前が病むなよ」
くすぐったさに肩を揺らしながら、今夜こそ絶対にキスしてやろうと、甲洋はその胸を風船のように浮き立たせるのだった。
素材:いらすとや
←戻る ・ Wavebox👏
*Oh My kitten!から二年後のお話です。まずはそちらからご覧ください。
操の様子がおかしくなったのは、彼が18歳の誕生日を迎える半月ほど前からだ。無邪気にくっついてくることがなくなり、二人きりでいるときの口数も極端に減った。
手を繋いだり、キスをしそうな空気を察すると、わざとらしく口笛をふいて顔を逸し、一定の距離を保とうとする。どうかしたのかと訊ねても、目を泳がせながら「別にぃ」と言って誤魔化すばかりだった。
そのあからさまな態度を、気にするなというほうが難しい。機嫌を損ねるようなことをした覚えもないし、操の明け透けな性格を考えれば、不満があるならとっくに漏らしているはずだ。
けれど避けられていることだけは明白で、原因はなんだろうかと考えたとき、思い当たるものが一つだけあった。それは二年前に交わした、あの約束だ。
まだ16歳だった操は、なんの進展もない自分たちの関係に焦りを覚えて、無理やり身体を繋げようとした。しかしろくな知識も準備もなしに上手くいくはずがなく、行きあたりばったりの行為は失敗に終わった。
そのとき甲洋は落ち込む操と約束を交わしたのだ。二年後、操が18歳になったときには、キスより先のこともしようと。そしていよいよその日が目前まで近づいている。
彼の急な態度の変化は、そのこととなにか関係しているのではないか。むしろ他に思い当たるものがなかった。
例えばの話──考えたくはないけれど、なんらかの理由で操の気持ちが甲洋から離れ、約束をなかったことにしたいと考えているのなら、あの避けるような態度にも納得がいく。他に好きな相手ができたとか、これといった理由もなく冷めてしまったとか。それらの可能性は、決してないとは言い切れない。
本人に確かめもしないうちから、甲洋はマイナスの思考に囚われていった。ただの思い過ごしであってほしいと、そう願う気持ちだけをささやかな希望にして。
そうやってズルズルと日数が経過して、操の誕生日当日がやってきた。
その日は午後から店を貸し切りにして、バースデーパーティーが開かれた。綺麗に飾りつけられた店内で、集まった人たちに囲まれながら豪華な料理とケーキを前にした操は、顔を赤くしながら嬉しそうにはしゃいでいた。
けれど甲洋の内心は気が気じゃない。本当ならもっと浮かれていてもいいはずなのに。
操の子供っぽさは相変わらずで、背は幾らか伸びたが、長身の甲洋との差は縮まらなかった。それでも甲洋はこのときを辛抱強く待っていたし、ほんの少し前までは操も待ち遠しそうに「まだかなぁ」なんて言いながら指折り数えていた。
だからもし甲洋の不安がただの杞憂であれば、今夜は自然とそういう流れになるのではないかと、そう思っていた。この際セックスするとかしないとかは後回しだ。ただ操の気持ちが知りたかった。
そして日が沈む頃にパーティーがお開きになり、みなが家に帰っていくのと一緒に、操まで帰宅してしまったことに甲洋は愕然とした。
彼は「食べすぎて眠い」などと言いながら、こちらには目もくれずそそくさと帰ってしまったのである。
決まりだ。そこまでされたら、嫌でも思い知る。
操の気持ちは、もうとっくに自分から離れてしまっているのだと。
*
閉店後の店内はやけに静かで、操が床にほうきを走らせる音だけが響いている。
レジ締めの作業を終えた甲洋は、無人のホールをせっせと掃き掃除しているその背を見つめ、鼻から小さな息を漏らした。
店のシェフである真壁一騎は、所用で一足先に上がってしまった。ふたりっきりの店内には一切の会話がなく、寒々しい空気だけが流れている。
操の誕生日から三日。彼は相変わらず甲洋と距離をとり続けていた。むしろ今まで以上に態度がよそよそしくなっている。一騎とは普段通り接するが、甲洋とは意地でも目を合わせようとしない。そのわざとらしさは、まるで悪戯がバレるのを恐れる子供のように甲洋の目に映った。
「……来主」
甲洋は少し迷ったが、操の背中に声をかけた。彼が自分から口を開くまで待つことも考えたが、そろそろこの状態も限界だ。
「な、なに?」
操は肩をギクリとさせて、どこかバツが悪そうにおずおずと振り返る。
「お前、なにか俺に言うことがあるんじゃないの?」
「……別にないよ?」
「理由もなく避けられる意味が分からない。なにかあるなら」
「だからなにもないってば!」
操は苛立った声をあげ、また甲洋に背を向けた。
「本当になんでもない……ぼくのことはほっといて」
「来主」
「今日から一人で帰るから。もう送ってくれなくていいよ」
そう言って、操はほうきを片付けにバックヤードへ消えていこうとした。それを「待って」と引き止めると、また肩をギクリとさせて歩みを止める。
「話そう、来主」
引き下がらない甲洋に、操は渋々といった様子でほうきを壁に立て掛けた。
甲洋がカウンターの一席に腰掛けると、隣にちょこんと腰を落ち着ける。彼はうつむき、やっぱりこちらを見ようとしない。その沈んだ横顔に、否が応でも終わりを突きつけられた気がする。
「顔も見たくないなら、そのままでいいから。来主の気持ちを、聞かせてほしい」
ズルズルとここまで引き伸ばしてしまったが、ケジメくらいはつけておくべきだと思う。お互いにとっても、その方がいいはずだ。
こうなったからといって、操を責めるつもりはない。自分にはこの子を繋ぎ止めておくだけのものが足りなかった。きっとそれだけの話なのだと、必死で諦めようとしている。けれどどこかではひどく責め立て、問いつめてしまいたい自分もいた。だからそうなる前に、最後くらいはちゃんとトドメを刺してほしい。
「冷めたなら、そう言って」
傷つく覚悟をした上で切り出したはずだった。けれど甲洋の言葉を受けて、操は「は?」の形にポカンと口を開きながらこちらを見た。
「冷めたって、なにが?」
「なにがって……来主は俺との関係を終わりにしたいんだろ?」
「終わり……? 終わりってなに?」
「?」
「え? 待って? もしかしてこれ別れ話!?」
「……うん?」
「嘘!? 甲洋、ぼくたち終わりなの!?」
「えぇ……?」
予想外の風向きだ。むしろこちらがそれを聞きたいところだったのだが……。
「やだやだやだぁ! 終わりなんてやだ! そんなのやだよぉ!!」
青褪めていた操はいよいよ泣きだし、握りしめた両手でグシグシと顔を拭っている。これは一体どういうことだろう。全く意味が分からない。
「ひどいよ! なんで急にそんなこと言うのぉ!?」
「急にって……いや、だって来主が先に冷めたんじゃないの?」
「そんなことないもぉん!!」
「はぁ? じゃあ、なんでずっと避けて……?」
「そ、それは……」
真っ赤になっている操の鼻からピュッと鼻水が垂れてきたので、甲洋は困惑しながらも尻ポケットからとっさに取りだしたハンカチでサッと拭き取ってやった。
「その……あの……」
操はよほど言いにくいことがあるのか、うつむいて唇をまごつかせている。けれど根気よく待ち続けていると、やがておずおずと顔を上げてこう言った。
「だってぼく、病気になっちゃったんだもん!!」
わっ、と声をあげ、操がカウンターに突っ伏して大泣きしはじめた。
*
「とりあえず落ち着こう。お互い」
甲洋は厨房でコーヒーとココアを淹れると、カウンター席に戻った。それぞれカップを手にして口をつけると、同時に「ふぅ」と息をつく。
「それで……病気っていうのは一体……?」
見たところ、操が身体に変調をきたしているようにはまったく見えない。甲洋と距離を置いている以外では、これといった変化も特には見られなかったはずだが。
けれどそれはあくまでも表向きの話だ。操は言いだせないほどのなにかを抱え込んでいる。それほどまでに重たい病に侵されているということなのだろうか。
「ずっと誰にも言えなかったんだけど……」
たった今コーヒーで潤したはずの喉がカラカラに乾くのを感じる。甲洋は顔を強張らせ、緊張しながら操の声に耳を傾けた。
「だって、自分がこんなことになるなんて思ってなかったから、すごく怖くて……」
なにかが込み上げてきたかのように、操はそこで言葉を切ると吐く息を震わせる。甲洋はとっさにテーブルの上にあった小さな手を握りしめた。悲しそうに伏せられた横顔に歯噛みする。この子がこんな顔をするなんて。ずっと一人で思い悩んでいたのだろう。自分を避けていたのは、心配をかけたくなかったからなのかもしれない。
そう思うと、甲洋の胸に引き裂かれたような痛みが走った。
「来主。たとえどんなことでも受け止めるよ。俺がずっとそばにいる」
「甲洋……」
「話してほしい。少しずつで構わないから」
甲洋の瞳を見つめ、操は泣きそうにくしゃりと表情を歪めた。唇をきゅっと噛み締めて、こくりと頷く。そしてゆっくりと口を開いた。
「ぼくね、おっぱいからお乳が出るようになっちゃったんだ」
「……ん?」
「甲洋と上手にエッチできるように、自分でお尻を拡張してたんだけど……そしたら急にお乳がぴゅーって」
「待って」
「え?」
「ごめん、ちょっと待って。お前はなんの話をしているの?」
「なにって、病気の経緯を」
「いやいやいやいや……」
待て待て待て。深刻な空気に飲まれかけていたが、彼はなにを言っているのだろうか。お乳とか拡張とか、とんでもワードが聞こえたような気がするのだが。
「ちょ、どっ、まっ……来主、落ち着いて。まずは落ちゅち……落ち着くんだ」
「落ち着いたほうがいいのは甲洋の方だと思うよ。噛んでるし」
冷静に突っ込まれてしまったが、さっきからずっと気持ちが追いつかない状態に陥っている。決死の覚悟で別れ話を切り出したと思えば、次の瞬間には妻のガン宣告を聞く夫のような気持ちになり、最終的な着地点が母乳とセルフ拡張だった。自分でも過去にこれほど取り乱したことがあっただろうかと、だいぶ戸惑っているところである。
しかし話はまだ途中だ。甲洋は今度こそ話の腰を折らないよう、とりあえず最後まで操の話を聞くことにした。
「前は失敗しちゃったでしょ? だから今度はちゃんと上手にできるように、自分でお尻の穴を触って特訓してたの。そしたらね、最近ちょっとずつ気持ちよくなってきて……それでね、その頃から、なぜかおっぱいからお乳が出てくるようになったの……」
「ッ……!?」
操は膝をモジモジとすり合わせ、顔を赤くしながら涙目になっている。話を聞いているだけで、甲洋は全身の血液が沸騰しそうだった。まさか操が、夜な夜なそんな真似をしていたなんて。ついつい前かがみになってしまいそうだった。
「もうすぐ誕生日だなって思ったら、考えるだけで出てくるようになっちゃって……甲洋とキスすると、もっと出ちゃうから……」
「だから避けていた……?」
こくん、と操がうなずいた。
「だって、こんなの絶対ヘンだもん……ぼく男なのに、赤ちゃんができたわけでもないのに、お乳が出るなんて……知られたら、嫌われると思って……」
だから操はどうにかしてこの病気が治るまでは、甲洋に近づかないようにしようと決めた。けれど理由も分からず、治し方も分からない。誰にも相談できないまま、ずっと一人で抱え込んでいたのだ。
確かに言いにくいことだろう。18歳になったとはいえ、操はまだまだ多感な年頃だ。ましてや母乳が出るなんて、深く思いつめてしまうのも無理はない。
「お母さんにも言えないし、病院も怖くて行けないし……ぼく、ずっとこのままなのかなぁ……」
ポロポロと涙を流す操を見て、申し訳ないが気が抜けた。内容は衝撃的だったが、考えていたような最悪な展開にはいたらなかった。ここ最近はずっと、これからどうやって生きていこうかと途方に暮れながら過ごしていたほどだ。それほどまでに甲洋は操のことが大切で、愛しくて、離れられない存在だった。
「嫌いになんかならないよ」
安堵の息を漏らしながら、甲洋は操の肩に手を置いた。
「……本当?」
「本当。来主、それは体質の問題だ。男にだって乳腺はある。お乳が出たからって、なにも変な話じゃないよ」
「そうなの? じゃあこれ、病気じゃないの?」
「不安なら一緒に病院に行こう。俺がついて行くから。それなら少しは安心だろ?」
「甲洋……!」
操の泣き顔が、花がほころぶような笑顔に変わった。抱きついてくるのを受け止めて、しっかりと腕に閉じ込める。すっぽりと収まってしまう体温に、安堵と喜び込み上げた。
もう半月以上もこうして触れることができなかったのだ。手を伸ばせば当たり前のようにあるぬくもりが、こんなにも大切なものであることを改めて思い知らされる。
「あのね、甲洋」
存分に抱きしめて堪能していると、操の身体がもぞりと動く。彼は顔をあげ、恥ずかしそうに上目遣いで甲洋を見た。
「ぼくのおっぱい、見ても本当に変だって思わない?」
「思わないよ」
「じゃあ……見て」
「!」
「病院に行くよりも、甲洋に見てほしいの……」
甲洋は衝撃に打たれたが、なにもおかしな話ではない。操はまだ少しだけ不安そうだ。自分の身体に起こった変化を、信頼できる相手と共有することで、より深く安心感を得たいのかもしれない。その気持ちを無下にするわけにはいかなかった。
「わかった。じゃあ、部屋に行こう」
頷いた操の手を引いて、甲洋は胸を高鳴らせながら二階へ続く階段へと足を向けた。
*
部屋に入ると、互いの方に軽く身体を向け合う形でベッドの縁に腰かけた。
甲洋の目の前で、操がシャツのボタンを上からひとつひとつ外していく。その手元をじっと見つめながら、腫れ物に触るようにソワソワとして落ち着かない。鼓動が忙しなく胸の内側を叩き続けて、今にも突き破ってきそうだった。
シャツのボタンを全て外し終えると、操がカーテンを開けるように両手で前をはだけさせた。そこで目を引くのは、乳首の上にそれぞれ貼りつけられた絆創膏だ。ふいに出てしまったときに服を汚さないための対策なのだろうが、これはこれで非常に煽情的な光景である。
よくよく見ると、絆創膏には中央の部分にうっすらと滲むようなシミが確認できた。
「さっきぎゅってされたとき、ちょっと出ちゃった」
クスンと鼻を鳴らしながら言った操に、甲洋はぐっと生唾を飲み下す。
「……直に見るよ。いい?」
「ん」
熱っぽく息を漏らして操が頷くのを合図に、震えそうになる指先で端っこの部分に軽く爪を引っ掛ける。すっかり湿っている絆創膏はほとんど粘着力を失っており、それだけでペロンと剥がれ落ちてしまった。もう片方も同じようにして剥がしてしまうと、淡桃の乳首がツンと頭を尖らせていた。
その先端から、ぷくんと小さな白い粒が滲みでる。それは限界まで膨らんでから、涙のように皮膚を伝い落ちていった。
「や、ん……ど、しよ……見られてるだけで、おちちでちゃうよぉ」
恥ずかしそうに、操が尻をモジモジとさせた。それらの光景は想像を絶する破壊力で、一気に天辺まで達した興奮に思考が白く染まりかける。が、ここで目を開けたまま気絶するわけにもいかず、どうにか気を取り直した甲洋は予想を確信に変えた。下で話を聞いていたときから、そうじゃないかとは思っていたが──。
「来主はいやらしい気持ちになると、ここからミルクが出るんじゃない?」
再び小さな雫を盛り上がらせている乳首の片方に指をやり、中心には触れずに乳輪だけをクルリとなぞってみた。白い涙がポロリとこぼれて、甲洋の指を伝っていく。
「あっ、んッ……! ぁ……う、ん……」
操は唇をきゅっと噛み締めながら、素直にこくんと頷いた。
「やらしいこと、考えないように我慢しなきゃって思ったの……でも、ダメって思うともっと考えちゃって、甲洋とするときのこと、いっぱい、考えちゃって……」
「……だから一人で触ってた? お尻の穴も、気持ちよくなってくるくらい?」
「あ、ぁ、や……出ちゃうからぁ……エッチなこと、言わないでぇ……!」
言葉で少し煽るだけで、操は乳首からさらに涙を滲ませた。悩ましげな表情を浮かべ、潤んだ瞳を甲洋に向けてくる。
グンと欲を突き上げられたような気がして、いよいよ我慢の限界を感じた。こんなものを見せつけられて、正気でいられる男がいるならその顔を拝んでみたい。
胸から目が離せずに凝視する甲洋を、操が潤んだ瞳で物欲しそうに見つめている。
その肌に刺さるような視線に囚われながら、甲洋はある種の感慨を覚えずにはいられなかった。直球でぶつかってくるしか脳がなかった、あの操がだ。悩みを打ち明け、共有したいというていで、さりげなさを装いながらここまで甲洋を誘導した。
まんまと乗ったのは、甲洋にもあわよくばという下心があったからだ。むしろこうなるのはごく自然な流れで、そのいじらしい変化に胸を掻きむしられるような思いがする。
「ふぁっ、ァッ! こ、こうよ……!」
すっかり固くなっている乳頭を、躊躇なくそれぞれ指の腹で押しつぶした。操の身体がビクンと跳ねるのも構わずに、爪の先で軽く弾いたり、きゅっとつまんで絞るように刺激する。そのたびに操は甲高い声をあげて身をくねらせ、乳首からはじわじわと液体を滲ませた。
またひとつ生唾を飲み込んで、甲洋は操の腰に腕を回すと、泣いてばかりいる乳首の片方にキスをした。
「ひゃぁっ、ん! あっ、ふあぁ……っ!」
ちゅっと吸い上げて、舌で丹念に粒を転がす。滲みでる母乳の味が、口の中に広がった。柔らかくて、胸をくすぐるような甘ったるさ。これが操の味だと思うだけで、狂おしいほどの愛しさが溢れてとまらなくなる。
何度も何度も吸い上げては舌で転がし、右も左も空いている方は指先でコリコリと扱いたり、潰したりしながら休みなくのめり込んでいく。
「あんっ、あ、ァッ、甲洋、きもちい……っ、おっぱい、きもちぃの……!」
執拗に舐めしゃぶられて、淡桃だった乳首が赤く腫れたように色味を濃くする。
蕩けきった表情で、操が甲洋の頭を掻き抱いた。しばらくはあられもなく悶えていたが、やがてくしゃくしゃと乱していた髪を優しく梳かすように撫ではじめる。
「はぁ、ぁ、んっ、ふふ……っ、赤ちゃんみたい……甲洋、かわいい」
思いもよらない言葉に面食らい、しかめた顔で見上げると、潤んだ瞳を細めながら操がコトンと首をかしげた。
「ぼくのおちち、おいしい?」
髪を梳きながら問いかけるその仕草が、なんだか母親めいている。母親に愛される感覚なんて、体験したことがないから分からない。だから想像でしかないのだけれど。
それにしたって10も歳下の少年を捕まえて、一体なにを考えているのだろう。まるで赤子のように心がふやけそうになっている自分に戸惑う一方で、この薄い胸にすべてを委ねてしまいたいような、縋りついて泣いてしまいたいような、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「……ん。おいしい」
だからだろうか。つい素直な感想を漏らすと、操が嬉しそうにまた「かわいい」と言う。
この子もこの子だ。いい歳をした男を相手に、そんな感想を抱くなんて。まるで母性にでも目覚めたみたいに──。
(……これ以上は、考えないほうがよさそうだ)
ここを深く突き詰めてしまうと、お互いに不味い方向に進みかねない気がする。それはちょっと怖いような、だけど興味深いような。おかしな気分になりながらも、甲洋は可愛いのはお前だよとばかりにその唇を奪ってやった。
「んんっ……」
やっとのことで初めての夜を迎えているのに、まだキスをしていなかった。
二年前と同じで、今の甲洋には余裕がない。だけどもはや制約もない。あの夜はただ拙いキスに振り回されて、座枠を握りしめるだけだった。危うい場面はありつつも、よくぞ耐えられたものだと自分で自分を褒めてやりたい。
操を腕に閉じ込めて、ちゅ、ちゅ、と音を立てて吸い上げる。小さくて柔らかな唇が、はぁ、と短く息を吐く隙間を縫って舌を潜り込ませた。あのときのように一方的な性急さもなく、お互いがゆっくりと丁寧に、とろとろになって唾液が溢れるまで舌を絡めあった。
頭の中がぼうっとのぼせていくような感覚。多幸感が胸の奥底から湧き上がる。背中にかけてがじんわりと熱くなり、溶けてしまいそうなほど気持ちがいい。
「ぁ、ふ……なんか、あまい……?」
糸を引きながら離れた唇から、操が熱のこもった息を漏らした。
「来主の味だよ」
「えぇー? ぼくは甲洋の味だと思う」
「どっちだっていいさ」
ふっと笑って、すっかり前がはだけているシャツを脱がせてしまう。それから自分も上を適当に脱ぎ捨てると、もう一度ちゅっと音を立てて唇を重ねた。そのまま肩を軽く押し、操の身体を押し倒す。シーツの上に柔らかな髪がふわりと広がり、波を描いた。
心臓が高鳴る音が騒がしい。操の胸に右手を押し当てると、彼の鼓動も大きく跳ねていることが分かる。
「好きだよ、来主」
「ん、ぼくも」
亜麻色の前髪を掻き分けて、額にそっとキスを落とした。そのまま顔中にキスの雨を降らせながら、押し当てていた手を胸の片方に滑らせる。しっとりと濡れた胸はぺたんこで、薄い肉が申し訳程度に乗っているだけだ。
甲洋はそれを手のひら全体を使ってゆるゆると揉みしだいた。ときおり親指で乳首を引っかくと、操が上ずった可愛い声をあげる。
「ぁ、はぅっ、ん……っ」
反らされた喉には、ささやかな喉仏がぷくんと盛り上がっていた。そうと分からないくらいの小さな膨らみにキスを落とすと、軽く吸いつく。
鎖骨の窪みにも口づけて、そのまま唇を這わせていった。じわじわと蜜をこぼす乳首を舐めて、またちゅっと吸い上げる。
「くぅっ、ん! ぁ、ふ……っ」
操の両手が、甲洋の髪をきゅうと引っ張る。固くしこる乳首の弾力と、バネのようにしなる身体の反応から、彼が得ている快感が伝わってくるようだった。
じっくりと愛撫をほどこしながら、甲洋は操のウエストにそっと片手を忍ばせる。前をくつろげ、下着ごと徐々に脱がせていくと、そこには勃ちあがった性器があって、先走りで濡れていた。小さく震えている様を見て、甲洋の口から熱いため息が漏れる。
あの夜は、あと少しというところで触れさせてもらえなかった。辛抱したぶん、ぐっと込み上げてくるものがある。感動すら覚えながら、まだ十分に拙さを残す屹立をすっぽりと手に包み込んだ。
「アッ、ぁん……っ!」
上ずった悲鳴を心地よく聞き流しながら、ゆるゆると優しく扱いていく。止めどなく透明な蜜を溢れさせ、操は泣きそうにも見える表情で身体をビクビクと踊らせた。
「んっ、ぁ、こう、よ……手、おっき、おっきい、んッ、ぼくの大事なとこ、さわって、る……っ」
「うん……ずっと触りたかった。来主のここ」
「ァッ、ん! うれ、し……ぼくも、ずっとさわってほしかったの……っ」
あまりにも素直な言葉と反応が可愛すぎて、脳が茹だって煙を上げてしまいそうな気がした。甲洋はとっさに声を詰まらせながらも、忙しくなく上下する胸の片方に飽きもせず唇を寄せた。頭を左右に揺らすようにして吸いつきながら、触れている操の陰茎をさらに扱いていく。舌の先に感じる粒の弾力に、たまらず軽く歯を立てると、操がいっそう高い悲鳴をあげてシーツから浮き上がるほど背を反らした。
「ヒァッ、や! だめ、あっ! で、出ちゃ、いっ、ぁくッ、んうぅ……──ッ!」
その瞬間、プシュッと音を立てて操の両胸と性器から飛沫があがった。ぶるりと腰が揺れ、弾けた白濁が甲洋の手を濡らす。抱え込むように腕を腰にしっかりと回して、それでもなお甲洋は乳首を吸い続けた。
こくんと喉を鳴らして飲み下すあいだも、操は絶頂の名残から嫌々と首を振って小刻みな痙攣を繰り返す。もう片方の乳首からも、線香花火の残り滓のようにささやかな飛沫が漏れていた。いやらしく潮を吹いては伝い落ち、母乳がシーツを濡らしていく。
「やぁぁッ、くっ、うぅ、んッ! ぁ、だめ、も……吸っちゃ、やぁ、ぁ──……ッ」
操が掻き抱いている甲洋の頭皮に爪を立てる。焦げ茶の癖毛を引っ張り、乱し、引き剥がそうとしたかと思えば強く引き寄せ、引き伸ばされる余韻と快感に身悶えていた。
白濁で濡れる手も胸に這わせて、甲洋はややしばらくのあいだずっとそこに執着し続けた。
「こ、よ……ァ、ぁー、あ……っ、おっぱい、おっぱいもうやだぁ……」
すっかり乳首に取り憑かれていた甲洋は、弱りきった悲鳴に気づいてようやく顔をあげた。没頭しすぎて周りが見えなくなっていたことに、自分で驚く。
操はのぼせたように顔を真っ赤にして、すっかりクタクタになっている。やっとのことで胸への刺激から開放され、ホッと大きく息をついた。
「こよ、おっぱい好きすぎだよぉ」
「……ごめん、つい」
「ほんとに赤ちゃんになっちゃったのかと思ったよ」
さすがに申し開きのしようがない。
甲洋の頬に両手を這わせながら、操が困り顔で小首を傾げている。まるで小さな子供に言い聞かせるような表情にも見えてしまい、なんとも言えない気持ちになった。赤子扱いにはやっぱり戸惑うが、どこかで悪い気がしていない自分がいることに、尻のあたりがむず痒くなってしまう。
「……赤ちゃんはこんなことしないだろ?」
「わっ!?」
操の腕を引いて起き上がらせると、その身体をうつ伏せにひっくり返した。四つん這いの体勢をとらせ、つるりとした丸い尻に手を這わせる。やわやわと軽く揉みしだくと、その手つきのいやらしさに操がケラケラと笑い声をあげた。
「あふっ、あははっ! それやだぁ! 甲洋のエッチ!」
「そうだよ。知らなかった?」
「ふふ、ん~? うん、知ってた」
「だろ?」
つられて笑いながら、ベッド脇のチェストに腕を伸ばすと引き出しからローションとゴムの箱を取り出した。このときのためにずっと以前から準備しておいたものだ。本当なら操の誕生日の夜に活躍する予定だったが、無駄にならずに済んでよかった。
シーツの上にポンと置かれたそれらを見て、操が「わぁ」と目を輝かせている。
「凄いや。準備万端だぁ」
「そりゃあね」
二年も待ったあげく、今さら同じ失敗を繰り返すなんて冗談じゃない。
甲洋はローションの蓋を開けると少しずつ中身を出して、体温と馴染ませながら念入りに指を潤わしていく。猫のようなポーズで首を捻っている操が、緊張したように喉を鳴らした。
「触るよ」
「う、うん。いいよ」
白桃のような尻の肉を割り開き、濡れた指をそっと這わせる。窄まった表面をマッサージするようにくるくると撫でて探ると、操が肩をすくめて「んぅ」と小さな呻きを漏らした。
もどかしさにヒクつく孔は、ほんの少し圧をかけただけでたやすく人差し指を飲み込んでいく。より深く求めるように、内壁が熱くうごめいていた。
「はぁ、ん! ぁ、ァ……っ、ゆび、はいった……ぁっ」
「すごいよ来主。こんなにあっさり……」
自身で拡張していたとは聞いたが、ここまですんなりいくとは思わなかった。すると操が背後を振り向きながら、腰を左右にモジモジとよじって見せる。
「だってぇ、練習したもん。いっぱい」
「ッ、!」
「ねぇこうよぉ、ぼくの身体、んッ……ちゃんと大人に、なったでしょ? これなら、ァっ、ちゃんとエッチ、できるでしょお?」
指を咥えこんだまま尻を振り、胸からはポタポタと白い蜜を滴らせ、切実に向けられる瞳はその揺らめきと光の反射で、いっそハートマークが浮かんでいるかのようにも見えてしまう。ガツンと頭部を引っ叩かれたような衝撃に、甲洋はカァっと顔を赤くした。
「……そういうの、一体どこで覚えてくるんですか」
「なんで敬語になってんのぉ?」
どこまでやらしけりゃ気が済むんだと半ば呆然としている甲洋に、操は訳がわからないといった表情で首を傾げている。
そのあいだも、熱い肉壁は甲洋の指をキュンキュンと食いしめて離さない。思わず喉の奥で唸りそうになりながら、ナカを指の腹で軽く擦り上げてみる。
「アッ、くぅっ……! は、あぅん……っ」
甘ったるい声と一緒に、きゅっとまたナカが締まった。その卑猥さに獣じみた欲を募らせながら、慎重に抜き差しを繰り返す指を二本に増やした。ローションもさらに継ぎ足して、よりいっそうナカを蕩かしていく。
「んぁっ、ァッ、や……! ふと、いッ、甲洋の指、ぼくのより太くて、長くてぇ……!」
「平気? 痛くない?」
「んんッ、ぅ……っ、うん……ッ、たく、ない……あぁッ、ん……きもち、ぃ……っ」
操は上半身をすっかりシーツに沈ませて、尻だけを高く掲げた姿勢になっていた。濡れた孔から泡立ちながら伝い落ちた雫が、内腿を伝って落ちていく。ぐぷ、ぐぷ、と水音を立てながら、実に美味そうに甲洋の指をしゃぶっていた。
すっかり仕上がっている状態を見て、できることならここまで育てるのは自分でありたかったという口惜しさが込み上げる。けれど同時に押し寄せるのは、この熟した身体は自分に食べられるためだけにあるのだという、喜びと実感だった。
「俺のために、こんなになるまで……」
「だって、だってぇ……っ! こよと、上手にしたかったんだもん……ちゃんと一緒に、きもちく、なりたかったんだもん……っ」
「……どんなふうにしてた? 指だけ? 他にもなにか使ったの?」
シーツに額を擦りつけ、操が首を左右に振った。
「ゆ、ゆびッ、指だけ……! お尻、いっぱい……指で、くちゅくちゅって……おちんちん、触りながら、して、たッ」
その言葉にホッとした。操のここは、まだ何ものにも犯されてはいないということだ。たとえそれが無機物であったとしても嫉妬の対象にしてしまう自分に呆れながらも、余計なものに先を越されていなかったことに安堵する。
「ならよかった」
「アッ、あっ、ひぅぅ……っ!」
頃合いを見て、三本に増やした指をナカに沈ませる。孔は完全にシワを無くすまで広がりきって、濃桃の花びらのように色づいていた。
「あぅ、あうぅッ、ぁ゛……ッ、指、いっぱいで……くる、し……っ」
ガクガクと身を震わせて、操がシーツを掻きむしる。その声は少しつらそうだったが、中心で震える性器がツンと勃ちあがっていた。抜き差しするたびに先端からダラダラとよだれをこぼし、開放を求めて張りつめている。
尻たぶを割り開いていた方の手を前へと滑らせ、軽く握り込んでやると、桃色に発情する身体がギクリと強ばるのが分かった。
「あぁイッ、く! イキそ、やあぁダメ……ッ、指、もう抜いてぇ……っ!」
「いいよ、イッても」
「やだぁッ! 甲洋の、甲洋のでイクのっ! 甲洋のおちんちん、早く挿れたいよぉ……!」
悲鳴じみた懇願に、首の後ろが燃えるように熱くなる。甲洋は迷う間もなく指をナカから引き抜くと、軋むベッドに両膝を立て、手早く前をくつろげた。下着ごとズリ下げた途端に勢いよく飛び出した肉棒は、限界までそそり勃って脈打っている。
首を捻ってそれを見ていた操が、赤らんだ頬をより赤く染めて深い息を漏らした。
「こ、よ」
「少し、待って」
甲洋は手早くゴムの箱を開け、取り出した中身の封を切って性器にかぶせた。いざというとき手間取らないよう、事前に練習していたことはここだけの秘密だ。その甲斐あって、ものの数秒とかからなかった。
「そんなの別にしなくていいのにぃ!」
急いている操はそれを見て不満そうだ。甲洋はローションの中身を手の平に出し、なじませるように軽く自身を扱きながら苦笑した。急いているのは同じだし、そりゃあ本音を言えばナマでしたいのは山々なのだが。
「エチケットだから」
「えー、でも漫画ではさぁ~」
「漫画を教科書にするのはやめなって……」
というか、まだ読んでいたのか。BL図書を。この分だとセルフ拡張も、そこから影響を受けた可能性が極めて高い。あながち役に立たないとも言い切れない気がして、ほんの少しだけ感心してしまう。
操はまだ納得がいかない様子で口をごにょごにょとさせていたが、甲洋の両手が尻に触れると「ぁっ」と焦ったような声を漏らした。
「待って、このままするの?」
「そのつもりだけど?」
「それじゃ甲洋の顔が見えないからやだ」
操は四つん這いの姿勢から起き上がり、すっかりこちらに身体を向けると甲洋の肩を押して座らせた。そしてそのまま膝立ちでまたがってくる。
ちょうど二年前にもこれと似た光景を見たっけなと、満足そうな顔を見上げて懐かしさが込み上げた。甲洋の肩に手をついたまま、元気よくそそり勃つ男根に視線を落とし、操は嬉しそうにニンマリ笑う。
「甲洋の大人ちんちん、久しぶりに見た」
「そりゃあ、二年ぶりだからね」
「えへへー。今日こそぼくが食べちゃうぞ!」
待ちきれないといった様子で、細い両腕が首に巻きついた。ちゅうっと音を立てて吸いついてくる唇を受け止めて、操の腰に片手を添えると、反対の手を自身に添える。狙いを定め、張り詰めた先端を窄まりにあてがえば、「あっ」と短く喘ぎを漏らす操の乳首から、母乳がジワリと浮き出した。
「来主、そのままゆっくり……できる?」
「ん、できる」
操がこくんと頷いた。けれどその意気込みとは裏腹に、あのときの痛みを覚えている身体が無意識にすくんでしまうようだった。もちろん緊張もあるのだろう。
安心させるように背中を幾度かさすってやると、彼は甲洋にしがみついて「平気だもん」と強がった。それから軽く深呼吸をして、少しずつ腰を落としていく。
「んぅ、ぁ、は……っ」
「ッ、ぅ……ッ」
「ぁ、いけ、そ……ぁっ、はいっちゃ、う、甲洋の……っ、ぁ、あッ……!」
次の瞬間ぬかるんだ孔をこじ開けて、ズン、と太いカリ部分が潜り込んだ。下から破られた衝撃に、操が喉を反らして悲鳴をあげる。
「ぃッ──! ヒッ、あぅぅ……っ!」
「ッ、く……ッ」
熱い媚肛が、ヒクつきながら限界まで広がっているのが分かる。先端に感じる締めつけに腰をわななかせながら、達しそうになるのを歯を食いしばってどうに耐えた。
「う……ッ、く、ぁっ……おっき、ぃ……っ、ぁ、くぅぅ……っ」
指とはまったく異なる質量に、操は苦しそうに切れ切れな喘ぎを漏らす。それでもなお腰を落としにかかり、自重によってジワリジワリと肉根が体内へと飲み込まれていった。
けれどあと少しで根本に達するというところで、操の動きがピタリと止まる。見上げると、彼は甲洋よりもよほど汗だくになっていた。怒らせた肩を硬直させ、カタカタと内腿を震わせている。
「平気、か?」
「ぁ、う……へい、き……まだ、いける……」
明らかに無理をしているのが伝わってきて、甲洋は汗が伝う背をあやすようにポンポンと叩いてやった。
「本当は?」
「ぅ……」
操が数秒のあいだ押し黙る。けれどやがて観念したように、おずおずと口を開いた。
「……奥、ちょっと、怖い」
蚊の鳴くような声。すっかり涙目になって悔しそうに下唇を噛みしめる表情に、吐息だけでふっと笑って目を細めた。以前の操だったら、このまま無茶をして強行していたかもしれないなと、甲洋は思う。
今の操は無理をすればいいというわけではないことを、ちゃんと理解していた。二年たっても体格差はほとんど縮まらなかったけれど、それだけでも待った意味があったのだと、しみじみ感じる。
「十分だよ来主。今日はここまででいいから」
「それって、今日はもう終わりってこと……?」
「まさか」
ベッドのスプリングの力を借りて、ナカを少しだけ擦り上げてみる。操が「ひゃぅっ」と高く鳴きながら、ブルリと身を震わせた。
「こ、よぉ……っ」
「奥は、これからゆっくり。ね?」
むしろ一緒に育てていける部分が、まだ残されていることが嬉しかった。多分きっと、操にはそういう場所がまだまだ隠されているはずだ。怖い場所も痛い場所も、気持ちがいいと感じる場所も。これから少しずつ見つけて、攻略していけることに期待が膨らむ。
甲洋は操の腰骨を両手でしっかり掴んで固定すると、下から幾度か揺さぶった。彼が怖がるラインは決して超えないように、けれど確実に律動を進めていく。
「やっ、あぅ、ぁっ、待っ……、あ、あ、はぁん……っ!」
結合部から漏れる泡立つ音と、操の嬌声が混じり合う。突くたびに乳首からぷくぷくと大粒の母乳が溢れだし、振動に揺れる屹立からも先走りの液が漏れている。
「くぅっ、あ……っ、きも、ち……ぁっ、おしり、そんなにズンズン、されたらぁ……っ!」
「ッ、は……さっきより、いっぱい出てるよ」
「はっ、はぁん……っ、ぁっ! だってッ、だってきもちくて、ぁ、とまんない……ッ、おちち出ちゃうの、とまんないよぉ……っ」
恍惚とした表情で、操がグンと背を反らした。突き出された胸の片方にむしゃぶりつくと、少し強く吸い上げる。「いやぁッ!」と泣き叫ぶくせに、甲洋の頭を抱きしめる腕はもっとしてとねだっているようにしか思えない。
口の中いっぱいに広がる母乳の味が、煮詰めた砂糖のように脳を蕩かしていく。
「こうよ、甲洋……ッ、アッ、ぁ、ぼく、セックス、してる……っ!」
「ん……できてるよ、ちゃんと」
「うれ、し……ッ、ぁ、アッ、嬉しい……甲洋、好き、大好き……っ!」
「ッ、俺も……俺も好きだよ、来主……っ」
突けば突くほど濡れた媚肉が絡みつき、熱くうねっては射精を促す。待った分だけもっと味わっていたいのに、終わりは確実に近づいていた。ナカでまた一回り大きくなった男根に、操が声にならない悲鳴をあげながらまた母乳を散らす。
弓なりにカーブした背が後方へ崩れ落ちていくのに合わせて、今度は甲洋が両膝をシーツに立てた。押し倒す形になると、両足を抱えあげて最後の追い込みをかけていく。
「あうぅ……っ、やぁ、きちゃう……っ! きちゃっ、あっ、あっあぁ──……ッ!!」
プシュウ、と大きな飛沫をあげて、操の母乳が吹き出した。同時に、ほったらかしだった屹立からも熱い白濁を飛び散らせる。チロチロと出続ける母乳を舐め取りながら、甲洋も身を震わせた。頭が白く染まるような快感に低く唸って、ゴム越しに操の体内で射精する。
脆弱な呼吸に喉を震わせる操は、半ば意識が飛んでいた。彼の身体が断続的にピクンッと跳ねると、母乳の残滓が思いだしたように小さく吹き出す。その光景にまた男茎が反応しそうになるのを感じながらも、ナカからズルリと引き抜いた。
「ふぁ……こ、よ……」
朦朧としながら焦点をさまよわせていた操が、弱々しく両腕を伸ばしてくるのに誘われて、折り重なるようにその身を預けた。身体もシーツもぐちゃぐちゃだ。けれど今は痺れるような余韻から指一本動かせい。
言葉もなくふたり一緒に放心しながら、胸を満たすのは余りあるほどの幸福な充足感だった。
*
操はそのまま眠ってしまった。
それぞれの身体を軽く清めて、起こさないように少しずつ移動させながらシーツを取り替えるのには苦労したが、操はよほど深く眠り込んでいるらしく、まったく起きる気配がなかった。
あらかた終えるとベッド脇に腰掛けて、操の寝顔を見下ろした。どこか子供っぽさを感じさせる寝息にふっと微笑み、軽く前髪を撫でてやる。
「ありがとう、来主」
ごく自然に出てきた感謝の言葉に、操が「ん」と小さな呻きをあげた。目を覚ましたのかと思ったが、彼はまだ眠ったままだ。
可愛い寝顔にまたひとつ微笑むと、甲洋はふとベッド脇のチェストに目を向ける。小さな間接照明が置かれたその横には、赤いベルベットのリングケースが置かれていた。
最初からずっとここに置いてあったのだが、操はまったく気がつかなかったようだ。
ケースに手を伸ばし、蓋を開ける。そこにはなんの飾り気もないシルバーリングが収まっていた。本当なら操の誕生日に渡すつもりでいたものだ。操の態度が急変したあとは、本気でもうダメなのかもしれないと打ちひしがれていたけれど。
ゴムやローション以上に、甲洋にとってなによりも無用にならずに済んだのは、この指輪の存在だった。この子が18歳になったとき、プロポーズをしようと思っていたから。
結婚してください、なんて。そんなことを言ったら、少し重たいかもしれないけれど。
「んー……」
そのとき、シーツの中で操が呻いた。モゾモゾと身じろぎながら、仰向けの姿勢からこちらに向けて寝返りを打つ。今度こそ起きたかと思ったけれど、やっぱりまだ夢の中にいるらしい。
「なにこれおいしぃ~……甲洋も食べてみてぇ……」
「なに食ってんのさ」
ムニャムニャと口を動かして、寝言を言いながら操が笑う。思わず声を出して笑いそうになるのをどうにか堪え、甲洋は再びケースの中身に視線を落とした。照明を弾いて輝くリングに目を細め、彼が目を覚ましたときのことを想像する。
果たして喜んでくれるだろうか。なにをするにも邪魔にならないよう、首から下げられるように別途でチェーンも用意してある。いつだって身につけていられるように。
「愛してるよ、操」
そっとケースの蓋を閉じ、操の寝顔に目を向ける。告白と一緒に、普段は照れくさくて呼べない下の名前を呼びながら。この後に続くのは、「だから俺と結婚してください」だ。
この子が目を覚ましたら、思い切り真面目な顔をして言ってやろう。きっと笑いだすに違いない。「また敬語になってる!」なんて、どうでもいいところにツッコミを入れながら。
ひとしきりケラケラと笑ったあと、赤い顔ではにかんで、「いいよ」と言ってくれたらいい。
そう切に願いながら、身を屈めるとふにふにの頬にキスをした。やっぱり甘い。操はどこもかしこも、砂糖みたいに──。
←戻る ・ Wavebox👏
操の様子がおかしくなったのは、彼が18歳の誕生日を迎える半月ほど前からだ。無邪気にくっついてくることがなくなり、二人きりでいるときの口数も極端に減った。
手を繋いだり、キスをしそうな空気を察すると、わざとらしく口笛をふいて顔を逸し、一定の距離を保とうとする。どうかしたのかと訊ねても、目を泳がせながら「別にぃ」と言って誤魔化すばかりだった。
そのあからさまな態度を、気にするなというほうが難しい。機嫌を損ねるようなことをした覚えもないし、操の明け透けな性格を考えれば、不満があるならとっくに漏らしているはずだ。
けれど避けられていることだけは明白で、原因はなんだろうかと考えたとき、思い当たるものが一つだけあった。それは二年前に交わした、あの約束だ。
まだ16歳だった操は、なんの進展もない自分たちの関係に焦りを覚えて、無理やり身体を繋げようとした。しかしろくな知識も準備もなしに上手くいくはずがなく、行きあたりばったりの行為は失敗に終わった。
そのとき甲洋は落ち込む操と約束を交わしたのだ。二年後、操が18歳になったときには、キスより先のこともしようと。そしていよいよその日が目前まで近づいている。
彼の急な態度の変化は、そのこととなにか関係しているのではないか。むしろ他に思い当たるものがなかった。
例えばの話──考えたくはないけれど、なんらかの理由で操の気持ちが甲洋から離れ、約束をなかったことにしたいと考えているのなら、あの避けるような態度にも納得がいく。他に好きな相手ができたとか、これといった理由もなく冷めてしまったとか。それらの可能性は、決してないとは言い切れない。
本人に確かめもしないうちから、甲洋はマイナスの思考に囚われていった。ただの思い過ごしであってほしいと、そう願う気持ちだけをささやかな希望にして。
そうやってズルズルと日数が経過して、操の誕生日当日がやってきた。
その日は午後から店を貸し切りにして、バースデーパーティーが開かれた。綺麗に飾りつけられた店内で、集まった人たちに囲まれながら豪華な料理とケーキを前にした操は、顔を赤くしながら嬉しそうにはしゃいでいた。
けれど甲洋の内心は気が気じゃない。本当ならもっと浮かれていてもいいはずなのに。
操の子供っぽさは相変わらずで、背は幾らか伸びたが、長身の甲洋との差は縮まらなかった。それでも甲洋はこのときを辛抱強く待っていたし、ほんの少し前までは操も待ち遠しそうに「まだかなぁ」なんて言いながら指折り数えていた。
だからもし甲洋の不安がただの杞憂であれば、今夜は自然とそういう流れになるのではないかと、そう思っていた。この際セックスするとかしないとかは後回しだ。ただ操の気持ちが知りたかった。
そして日が沈む頃にパーティーがお開きになり、みなが家に帰っていくのと一緒に、操まで帰宅してしまったことに甲洋は愕然とした。
彼は「食べすぎて眠い」などと言いながら、こちらには目もくれずそそくさと帰ってしまったのである。
決まりだ。そこまでされたら、嫌でも思い知る。
操の気持ちは、もうとっくに自分から離れてしまっているのだと。
*
閉店後の店内はやけに静かで、操が床にほうきを走らせる音だけが響いている。
レジ締めの作業を終えた甲洋は、無人のホールをせっせと掃き掃除しているその背を見つめ、鼻から小さな息を漏らした。
店のシェフである真壁一騎は、所用で一足先に上がってしまった。ふたりっきりの店内には一切の会話がなく、寒々しい空気だけが流れている。
操の誕生日から三日。彼は相変わらず甲洋と距離をとり続けていた。むしろ今まで以上に態度がよそよそしくなっている。一騎とは普段通り接するが、甲洋とは意地でも目を合わせようとしない。そのわざとらしさは、まるで悪戯がバレるのを恐れる子供のように甲洋の目に映った。
「……来主」
甲洋は少し迷ったが、操の背中に声をかけた。彼が自分から口を開くまで待つことも考えたが、そろそろこの状態も限界だ。
「な、なに?」
操は肩をギクリとさせて、どこかバツが悪そうにおずおずと振り返る。
「お前、なにか俺に言うことがあるんじゃないの?」
「……別にないよ?」
「理由もなく避けられる意味が分からない。なにかあるなら」
「だからなにもないってば!」
操は苛立った声をあげ、また甲洋に背を向けた。
「本当になんでもない……ぼくのことはほっといて」
「来主」
「今日から一人で帰るから。もう送ってくれなくていいよ」
そう言って、操はほうきを片付けにバックヤードへ消えていこうとした。それを「待って」と引き止めると、また肩をギクリとさせて歩みを止める。
「話そう、来主」
引き下がらない甲洋に、操は渋々といった様子でほうきを壁に立て掛けた。
甲洋がカウンターの一席に腰掛けると、隣にちょこんと腰を落ち着ける。彼はうつむき、やっぱりこちらを見ようとしない。その沈んだ横顔に、否が応でも終わりを突きつけられた気がする。
「顔も見たくないなら、そのままでいいから。来主の気持ちを、聞かせてほしい」
ズルズルとここまで引き伸ばしてしまったが、ケジメくらいはつけておくべきだと思う。お互いにとっても、その方がいいはずだ。
こうなったからといって、操を責めるつもりはない。自分にはこの子を繋ぎ止めておくだけのものが足りなかった。きっとそれだけの話なのだと、必死で諦めようとしている。けれどどこかではひどく責め立て、問いつめてしまいたい自分もいた。だからそうなる前に、最後くらいはちゃんとトドメを刺してほしい。
「冷めたなら、そう言って」
傷つく覚悟をした上で切り出したはずだった。けれど甲洋の言葉を受けて、操は「は?」の形にポカンと口を開きながらこちらを見た。
「冷めたって、なにが?」
「なにがって……来主は俺との関係を終わりにしたいんだろ?」
「終わり……? 終わりってなに?」
「?」
「え? 待って? もしかしてこれ別れ話!?」
「……うん?」
「嘘!? 甲洋、ぼくたち終わりなの!?」
「えぇ……?」
予想外の風向きだ。むしろこちらがそれを聞きたいところだったのだが……。
「やだやだやだぁ! 終わりなんてやだ! そんなのやだよぉ!!」
青褪めていた操はいよいよ泣きだし、握りしめた両手でグシグシと顔を拭っている。これは一体どういうことだろう。全く意味が分からない。
「ひどいよ! なんで急にそんなこと言うのぉ!?」
「急にって……いや、だって来主が先に冷めたんじゃないの?」
「そんなことないもぉん!!」
「はぁ? じゃあ、なんでずっと避けて……?」
「そ、それは……」
真っ赤になっている操の鼻からピュッと鼻水が垂れてきたので、甲洋は困惑しながらも尻ポケットからとっさに取りだしたハンカチでサッと拭き取ってやった。
「その……あの……」
操はよほど言いにくいことがあるのか、うつむいて唇をまごつかせている。けれど根気よく待ち続けていると、やがておずおずと顔を上げてこう言った。
「だってぼく、病気になっちゃったんだもん!!」
わっ、と声をあげ、操がカウンターに突っ伏して大泣きしはじめた。
*
「とりあえず落ち着こう。お互い」
甲洋は厨房でコーヒーとココアを淹れると、カウンター席に戻った。それぞれカップを手にして口をつけると、同時に「ふぅ」と息をつく。
「それで……病気っていうのは一体……?」
見たところ、操が身体に変調をきたしているようにはまったく見えない。甲洋と距離を置いている以外では、これといった変化も特には見られなかったはずだが。
けれどそれはあくまでも表向きの話だ。操は言いだせないほどのなにかを抱え込んでいる。それほどまでに重たい病に侵されているということなのだろうか。
「ずっと誰にも言えなかったんだけど……」
たった今コーヒーで潤したはずの喉がカラカラに乾くのを感じる。甲洋は顔を強張らせ、緊張しながら操の声に耳を傾けた。
「だって、自分がこんなことになるなんて思ってなかったから、すごく怖くて……」
なにかが込み上げてきたかのように、操はそこで言葉を切ると吐く息を震わせる。甲洋はとっさにテーブルの上にあった小さな手を握りしめた。悲しそうに伏せられた横顔に歯噛みする。この子がこんな顔をするなんて。ずっと一人で思い悩んでいたのだろう。自分を避けていたのは、心配をかけたくなかったからなのかもしれない。
そう思うと、甲洋の胸に引き裂かれたような痛みが走った。
「来主。たとえどんなことでも受け止めるよ。俺がずっとそばにいる」
「甲洋……」
「話してほしい。少しずつで構わないから」
甲洋の瞳を見つめ、操は泣きそうにくしゃりと表情を歪めた。唇をきゅっと噛み締めて、こくりと頷く。そしてゆっくりと口を開いた。
「ぼくね、おっぱいからお乳が出るようになっちゃったんだ」
「……ん?」
「甲洋と上手にエッチできるように、自分でお尻を拡張してたんだけど……そしたら急にお乳がぴゅーって」
「待って」
「え?」
「ごめん、ちょっと待って。お前はなんの話をしているの?」
「なにって、病気の経緯を」
「いやいやいやいや……」
待て待て待て。深刻な空気に飲まれかけていたが、彼はなにを言っているのだろうか。お乳とか拡張とか、とんでもワードが聞こえたような気がするのだが。
「ちょ、どっ、まっ……来主、落ち着いて。まずは落ちゅち……落ち着くんだ」
「落ち着いたほうがいいのは甲洋の方だと思うよ。噛んでるし」
冷静に突っ込まれてしまったが、さっきからずっと気持ちが追いつかない状態に陥っている。決死の覚悟で別れ話を切り出したと思えば、次の瞬間には妻のガン宣告を聞く夫のような気持ちになり、最終的な着地点が母乳とセルフ拡張だった。自分でも過去にこれほど取り乱したことがあっただろうかと、だいぶ戸惑っているところである。
しかし話はまだ途中だ。甲洋は今度こそ話の腰を折らないよう、とりあえず最後まで操の話を聞くことにした。
「前は失敗しちゃったでしょ? だから今度はちゃんと上手にできるように、自分でお尻の穴を触って特訓してたの。そしたらね、最近ちょっとずつ気持ちよくなってきて……それでね、その頃から、なぜかおっぱいからお乳が出てくるようになったの……」
「ッ……!?」
操は膝をモジモジとすり合わせ、顔を赤くしながら涙目になっている。話を聞いているだけで、甲洋は全身の血液が沸騰しそうだった。まさか操が、夜な夜なそんな真似をしていたなんて。ついつい前かがみになってしまいそうだった。
「もうすぐ誕生日だなって思ったら、考えるだけで出てくるようになっちゃって……甲洋とキスすると、もっと出ちゃうから……」
「だから避けていた……?」
こくん、と操がうなずいた。
「だって、こんなの絶対ヘンだもん……ぼく男なのに、赤ちゃんができたわけでもないのに、お乳が出るなんて……知られたら、嫌われると思って……」
だから操はどうにかしてこの病気が治るまでは、甲洋に近づかないようにしようと決めた。けれど理由も分からず、治し方も分からない。誰にも相談できないまま、ずっと一人で抱え込んでいたのだ。
確かに言いにくいことだろう。18歳になったとはいえ、操はまだまだ多感な年頃だ。ましてや母乳が出るなんて、深く思いつめてしまうのも無理はない。
「お母さんにも言えないし、病院も怖くて行けないし……ぼく、ずっとこのままなのかなぁ……」
ポロポロと涙を流す操を見て、申し訳ないが気が抜けた。内容は衝撃的だったが、考えていたような最悪な展開にはいたらなかった。ここ最近はずっと、これからどうやって生きていこうかと途方に暮れながら過ごしていたほどだ。それほどまでに甲洋は操のことが大切で、愛しくて、離れられない存在だった。
「嫌いになんかならないよ」
安堵の息を漏らしながら、甲洋は操の肩に手を置いた。
「……本当?」
「本当。来主、それは体質の問題だ。男にだって乳腺はある。お乳が出たからって、なにも変な話じゃないよ」
「そうなの? じゃあこれ、病気じゃないの?」
「不安なら一緒に病院に行こう。俺がついて行くから。それなら少しは安心だろ?」
「甲洋……!」
操の泣き顔が、花がほころぶような笑顔に変わった。抱きついてくるのを受け止めて、しっかりと腕に閉じ込める。すっぽりと収まってしまう体温に、安堵と喜び込み上げた。
もう半月以上もこうして触れることができなかったのだ。手を伸ばせば当たり前のようにあるぬくもりが、こんなにも大切なものであることを改めて思い知らされる。
「あのね、甲洋」
存分に抱きしめて堪能していると、操の身体がもぞりと動く。彼は顔をあげ、恥ずかしそうに上目遣いで甲洋を見た。
「ぼくのおっぱい、見ても本当に変だって思わない?」
「思わないよ」
「じゃあ……見て」
「!」
「病院に行くよりも、甲洋に見てほしいの……」
甲洋は衝撃に打たれたが、なにもおかしな話ではない。操はまだ少しだけ不安そうだ。自分の身体に起こった変化を、信頼できる相手と共有することで、より深く安心感を得たいのかもしれない。その気持ちを無下にするわけにはいかなかった。
「わかった。じゃあ、部屋に行こう」
頷いた操の手を引いて、甲洋は胸を高鳴らせながら二階へ続く階段へと足を向けた。
*
部屋に入ると、互いの方に軽く身体を向け合う形でベッドの縁に腰かけた。
甲洋の目の前で、操がシャツのボタンを上からひとつひとつ外していく。その手元をじっと見つめながら、腫れ物に触るようにソワソワとして落ち着かない。鼓動が忙しなく胸の内側を叩き続けて、今にも突き破ってきそうだった。
シャツのボタンを全て外し終えると、操がカーテンを開けるように両手で前をはだけさせた。そこで目を引くのは、乳首の上にそれぞれ貼りつけられた絆創膏だ。ふいに出てしまったときに服を汚さないための対策なのだろうが、これはこれで非常に煽情的な光景である。
よくよく見ると、絆創膏には中央の部分にうっすらと滲むようなシミが確認できた。
「さっきぎゅってされたとき、ちょっと出ちゃった」
クスンと鼻を鳴らしながら言った操に、甲洋はぐっと生唾を飲み下す。
「……直に見るよ。いい?」
「ん」
熱っぽく息を漏らして操が頷くのを合図に、震えそうになる指先で端っこの部分に軽く爪を引っ掛ける。すっかり湿っている絆創膏はほとんど粘着力を失っており、それだけでペロンと剥がれ落ちてしまった。もう片方も同じようにして剥がしてしまうと、淡桃の乳首がツンと頭を尖らせていた。
その先端から、ぷくんと小さな白い粒が滲みでる。それは限界まで膨らんでから、涙のように皮膚を伝い落ちていった。
「や、ん……ど、しよ……見られてるだけで、おちちでちゃうよぉ」
恥ずかしそうに、操が尻をモジモジとさせた。それらの光景は想像を絶する破壊力で、一気に天辺まで達した興奮に思考が白く染まりかける。が、ここで目を開けたまま気絶するわけにもいかず、どうにか気を取り直した甲洋は予想を確信に変えた。下で話を聞いていたときから、そうじゃないかとは思っていたが──。
「来主はいやらしい気持ちになると、ここからミルクが出るんじゃない?」
再び小さな雫を盛り上がらせている乳首の片方に指をやり、中心には触れずに乳輪だけをクルリとなぞってみた。白い涙がポロリとこぼれて、甲洋の指を伝っていく。
「あっ、んッ……! ぁ……う、ん……」
操は唇をきゅっと噛み締めながら、素直にこくんと頷いた。
「やらしいこと、考えないように我慢しなきゃって思ったの……でも、ダメって思うともっと考えちゃって、甲洋とするときのこと、いっぱい、考えちゃって……」
「……だから一人で触ってた? お尻の穴も、気持ちよくなってくるくらい?」
「あ、ぁ、や……出ちゃうからぁ……エッチなこと、言わないでぇ……!」
言葉で少し煽るだけで、操は乳首からさらに涙を滲ませた。悩ましげな表情を浮かべ、潤んだ瞳を甲洋に向けてくる。
グンと欲を突き上げられたような気がして、いよいよ我慢の限界を感じた。こんなものを見せつけられて、正気でいられる男がいるならその顔を拝んでみたい。
胸から目が離せずに凝視する甲洋を、操が潤んだ瞳で物欲しそうに見つめている。
その肌に刺さるような視線に囚われながら、甲洋はある種の感慨を覚えずにはいられなかった。直球でぶつかってくるしか脳がなかった、あの操がだ。悩みを打ち明け、共有したいというていで、さりげなさを装いながらここまで甲洋を誘導した。
まんまと乗ったのは、甲洋にもあわよくばという下心があったからだ。むしろこうなるのはごく自然な流れで、そのいじらしい変化に胸を掻きむしられるような思いがする。
「ふぁっ、ァッ! こ、こうよ……!」
すっかり固くなっている乳頭を、躊躇なくそれぞれ指の腹で押しつぶした。操の身体がビクンと跳ねるのも構わずに、爪の先で軽く弾いたり、きゅっとつまんで絞るように刺激する。そのたびに操は甲高い声をあげて身をくねらせ、乳首からはじわじわと液体を滲ませた。
またひとつ生唾を飲み込んで、甲洋は操の腰に腕を回すと、泣いてばかりいる乳首の片方にキスをした。
「ひゃぁっ、ん! あっ、ふあぁ……っ!」
ちゅっと吸い上げて、舌で丹念に粒を転がす。滲みでる母乳の味が、口の中に広がった。柔らかくて、胸をくすぐるような甘ったるさ。これが操の味だと思うだけで、狂おしいほどの愛しさが溢れてとまらなくなる。
何度も何度も吸い上げては舌で転がし、右も左も空いている方は指先でコリコリと扱いたり、潰したりしながら休みなくのめり込んでいく。
「あんっ、あ、ァッ、甲洋、きもちい……っ、おっぱい、きもちぃの……!」
執拗に舐めしゃぶられて、淡桃だった乳首が赤く腫れたように色味を濃くする。
蕩けきった表情で、操が甲洋の頭を掻き抱いた。しばらくはあられもなく悶えていたが、やがてくしゃくしゃと乱していた髪を優しく梳かすように撫ではじめる。
「はぁ、ぁ、んっ、ふふ……っ、赤ちゃんみたい……甲洋、かわいい」
思いもよらない言葉に面食らい、しかめた顔で見上げると、潤んだ瞳を細めながら操がコトンと首をかしげた。
「ぼくのおちち、おいしい?」
髪を梳きながら問いかけるその仕草が、なんだか母親めいている。母親に愛される感覚なんて、体験したことがないから分からない。だから想像でしかないのだけれど。
それにしたって10も歳下の少年を捕まえて、一体なにを考えているのだろう。まるで赤子のように心がふやけそうになっている自分に戸惑う一方で、この薄い胸にすべてを委ねてしまいたいような、縋りついて泣いてしまいたいような、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「……ん。おいしい」
だからだろうか。つい素直な感想を漏らすと、操が嬉しそうにまた「かわいい」と言う。
この子もこの子だ。いい歳をした男を相手に、そんな感想を抱くなんて。まるで母性にでも目覚めたみたいに──。
(……これ以上は、考えないほうがよさそうだ)
ここを深く突き詰めてしまうと、お互いに不味い方向に進みかねない気がする。それはちょっと怖いような、だけど興味深いような。おかしな気分になりながらも、甲洋は可愛いのはお前だよとばかりにその唇を奪ってやった。
「んんっ……」
やっとのことで初めての夜を迎えているのに、まだキスをしていなかった。
二年前と同じで、今の甲洋には余裕がない。だけどもはや制約もない。あの夜はただ拙いキスに振り回されて、座枠を握りしめるだけだった。危うい場面はありつつも、よくぞ耐えられたものだと自分で自分を褒めてやりたい。
操を腕に閉じ込めて、ちゅ、ちゅ、と音を立てて吸い上げる。小さくて柔らかな唇が、はぁ、と短く息を吐く隙間を縫って舌を潜り込ませた。あのときのように一方的な性急さもなく、お互いがゆっくりと丁寧に、とろとろになって唾液が溢れるまで舌を絡めあった。
頭の中がぼうっとのぼせていくような感覚。多幸感が胸の奥底から湧き上がる。背中にかけてがじんわりと熱くなり、溶けてしまいそうなほど気持ちがいい。
「ぁ、ふ……なんか、あまい……?」
糸を引きながら離れた唇から、操が熱のこもった息を漏らした。
「来主の味だよ」
「えぇー? ぼくは甲洋の味だと思う」
「どっちだっていいさ」
ふっと笑って、すっかり前がはだけているシャツを脱がせてしまう。それから自分も上を適当に脱ぎ捨てると、もう一度ちゅっと音を立てて唇を重ねた。そのまま肩を軽く押し、操の身体を押し倒す。シーツの上に柔らかな髪がふわりと広がり、波を描いた。
心臓が高鳴る音が騒がしい。操の胸に右手を押し当てると、彼の鼓動も大きく跳ねていることが分かる。
「好きだよ、来主」
「ん、ぼくも」
亜麻色の前髪を掻き分けて、額にそっとキスを落とした。そのまま顔中にキスの雨を降らせながら、押し当てていた手を胸の片方に滑らせる。しっとりと濡れた胸はぺたんこで、薄い肉が申し訳程度に乗っているだけだ。
甲洋はそれを手のひら全体を使ってゆるゆると揉みしだいた。ときおり親指で乳首を引っかくと、操が上ずった可愛い声をあげる。
「ぁ、はぅっ、ん……っ」
反らされた喉には、ささやかな喉仏がぷくんと盛り上がっていた。そうと分からないくらいの小さな膨らみにキスを落とすと、軽く吸いつく。
鎖骨の窪みにも口づけて、そのまま唇を這わせていった。じわじわと蜜をこぼす乳首を舐めて、またちゅっと吸い上げる。
「くぅっ、ん! ぁ、ふ……っ」
操の両手が、甲洋の髪をきゅうと引っ張る。固くしこる乳首の弾力と、バネのようにしなる身体の反応から、彼が得ている快感が伝わってくるようだった。
じっくりと愛撫をほどこしながら、甲洋は操のウエストにそっと片手を忍ばせる。前をくつろげ、下着ごと徐々に脱がせていくと、そこには勃ちあがった性器があって、先走りで濡れていた。小さく震えている様を見て、甲洋の口から熱いため息が漏れる。
あの夜は、あと少しというところで触れさせてもらえなかった。辛抱したぶん、ぐっと込み上げてくるものがある。感動すら覚えながら、まだ十分に拙さを残す屹立をすっぽりと手に包み込んだ。
「アッ、ぁん……っ!」
上ずった悲鳴を心地よく聞き流しながら、ゆるゆると優しく扱いていく。止めどなく透明な蜜を溢れさせ、操は泣きそうにも見える表情で身体をビクビクと踊らせた。
「んっ、ぁ、こう、よ……手、おっき、おっきい、んッ、ぼくの大事なとこ、さわって、る……っ」
「うん……ずっと触りたかった。来主のここ」
「ァッ、ん! うれ、し……ぼくも、ずっとさわってほしかったの……っ」
あまりにも素直な言葉と反応が可愛すぎて、脳が茹だって煙を上げてしまいそうな気がした。甲洋はとっさに声を詰まらせながらも、忙しくなく上下する胸の片方に飽きもせず唇を寄せた。頭を左右に揺らすようにして吸いつきながら、触れている操の陰茎をさらに扱いていく。舌の先に感じる粒の弾力に、たまらず軽く歯を立てると、操がいっそう高い悲鳴をあげてシーツから浮き上がるほど背を反らした。
「ヒァッ、や! だめ、あっ! で、出ちゃ、いっ、ぁくッ、んうぅ……──ッ!」
その瞬間、プシュッと音を立てて操の両胸と性器から飛沫があがった。ぶるりと腰が揺れ、弾けた白濁が甲洋の手を濡らす。抱え込むように腕を腰にしっかりと回して、それでもなお甲洋は乳首を吸い続けた。
こくんと喉を鳴らして飲み下すあいだも、操は絶頂の名残から嫌々と首を振って小刻みな痙攣を繰り返す。もう片方の乳首からも、線香花火の残り滓のようにささやかな飛沫が漏れていた。いやらしく潮を吹いては伝い落ち、母乳がシーツを濡らしていく。
「やぁぁッ、くっ、うぅ、んッ! ぁ、だめ、も……吸っちゃ、やぁ、ぁ──……ッ」
操が掻き抱いている甲洋の頭皮に爪を立てる。焦げ茶の癖毛を引っ張り、乱し、引き剥がそうとしたかと思えば強く引き寄せ、引き伸ばされる余韻と快感に身悶えていた。
白濁で濡れる手も胸に這わせて、甲洋はややしばらくのあいだずっとそこに執着し続けた。
「こ、よ……ァ、ぁー、あ……っ、おっぱい、おっぱいもうやだぁ……」
すっかり乳首に取り憑かれていた甲洋は、弱りきった悲鳴に気づいてようやく顔をあげた。没頭しすぎて周りが見えなくなっていたことに、自分で驚く。
操はのぼせたように顔を真っ赤にして、すっかりクタクタになっている。やっとのことで胸への刺激から開放され、ホッと大きく息をついた。
「こよ、おっぱい好きすぎだよぉ」
「……ごめん、つい」
「ほんとに赤ちゃんになっちゃったのかと思ったよ」
さすがに申し開きのしようがない。
甲洋の頬に両手を這わせながら、操が困り顔で小首を傾げている。まるで小さな子供に言い聞かせるような表情にも見えてしまい、なんとも言えない気持ちになった。赤子扱いにはやっぱり戸惑うが、どこかで悪い気がしていない自分がいることに、尻のあたりがむず痒くなってしまう。
「……赤ちゃんはこんなことしないだろ?」
「わっ!?」
操の腕を引いて起き上がらせると、その身体をうつ伏せにひっくり返した。四つん這いの体勢をとらせ、つるりとした丸い尻に手を這わせる。やわやわと軽く揉みしだくと、その手つきのいやらしさに操がケラケラと笑い声をあげた。
「あふっ、あははっ! それやだぁ! 甲洋のエッチ!」
「そうだよ。知らなかった?」
「ふふ、ん~? うん、知ってた」
「だろ?」
つられて笑いながら、ベッド脇のチェストに腕を伸ばすと引き出しからローションとゴムの箱を取り出した。このときのためにずっと以前から準備しておいたものだ。本当なら操の誕生日の夜に活躍する予定だったが、無駄にならずに済んでよかった。
シーツの上にポンと置かれたそれらを見て、操が「わぁ」と目を輝かせている。
「凄いや。準備万端だぁ」
「そりゃあね」
二年も待ったあげく、今さら同じ失敗を繰り返すなんて冗談じゃない。
甲洋はローションの蓋を開けると少しずつ中身を出して、体温と馴染ませながら念入りに指を潤わしていく。猫のようなポーズで首を捻っている操が、緊張したように喉を鳴らした。
「触るよ」
「う、うん。いいよ」
白桃のような尻の肉を割り開き、濡れた指をそっと這わせる。窄まった表面をマッサージするようにくるくると撫でて探ると、操が肩をすくめて「んぅ」と小さな呻きを漏らした。
もどかしさにヒクつく孔は、ほんの少し圧をかけただけでたやすく人差し指を飲み込んでいく。より深く求めるように、内壁が熱くうごめいていた。
「はぁ、ん! ぁ、ァ……っ、ゆび、はいった……ぁっ」
「すごいよ来主。こんなにあっさり……」
自身で拡張していたとは聞いたが、ここまですんなりいくとは思わなかった。すると操が背後を振り向きながら、腰を左右にモジモジとよじって見せる。
「だってぇ、練習したもん。いっぱい」
「ッ、!」
「ねぇこうよぉ、ぼくの身体、んッ……ちゃんと大人に、なったでしょ? これなら、ァっ、ちゃんとエッチ、できるでしょお?」
指を咥えこんだまま尻を振り、胸からはポタポタと白い蜜を滴らせ、切実に向けられる瞳はその揺らめきと光の反射で、いっそハートマークが浮かんでいるかのようにも見えてしまう。ガツンと頭部を引っ叩かれたような衝撃に、甲洋はカァっと顔を赤くした。
「……そういうの、一体どこで覚えてくるんですか」
「なんで敬語になってんのぉ?」
どこまでやらしけりゃ気が済むんだと半ば呆然としている甲洋に、操は訳がわからないといった表情で首を傾げている。
そのあいだも、熱い肉壁は甲洋の指をキュンキュンと食いしめて離さない。思わず喉の奥で唸りそうになりながら、ナカを指の腹で軽く擦り上げてみる。
「アッ、くぅっ……! は、あぅん……っ」
甘ったるい声と一緒に、きゅっとまたナカが締まった。その卑猥さに獣じみた欲を募らせながら、慎重に抜き差しを繰り返す指を二本に増やした。ローションもさらに継ぎ足して、よりいっそうナカを蕩かしていく。
「んぁっ、ァッ、や……! ふと、いッ、甲洋の指、ぼくのより太くて、長くてぇ……!」
「平気? 痛くない?」
「んんッ、ぅ……っ、うん……ッ、たく、ない……あぁッ、ん……きもち、ぃ……っ」
操は上半身をすっかりシーツに沈ませて、尻だけを高く掲げた姿勢になっていた。濡れた孔から泡立ちながら伝い落ちた雫が、内腿を伝って落ちていく。ぐぷ、ぐぷ、と水音を立てながら、実に美味そうに甲洋の指をしゃぶっていた。
すっかり仕上がっている状態を見て、できることならここまで育てるのは自分でありたかったという口惜しさが込み上げる。けれど同時に押し寄せるのは、この熟した身体は自分に食べられるためだけにあるのだという、喜びと実感だった。
「俺のために、こんなになるまで……」
「だって、だってぇ……っ! こよと、上手にしたかったんだもん……ちゃんと一緒に、きもちく、なりたかったんだもん……っ」
「……どんなふうにしてた? 指だけ? 他にもなにか使ったの?」
シーツに額を擦りつけ、操が首を左右に振った。
「ゆ、ゆびッ、指だけ……! お尻、いっぱい……指で、くちゅくちゅって……おちんちん、触りながら、して、たッ」
その言葉にホッとした。操のここは、まだ何ものにも犯されてはいないということだ。たとえそれが無機物であったとしても嫉妬の対象にしてしまう自分に呆れながらも、余計なものに先を越されていなかったことに安堵する。
「ならよかった」
「アッ、あっ、ひぅぅ……っ!」
頃合いを見て、三本に増やした指をナカに沈ませる。孔は完全にシワを無くすまで広がりきって、濃桃の花びらのように色づいていた。
「あぅ、あうぅッ、ぁ゛……ッ、指、いっぱいで……くる、し……っ」
ガクガクと身を震わせて、操がシーツを掻きむしる。その声は少しつらそうだったが、中心で震える性器がツンと勃ちあがっていた。抜き差しするたびに先端からダラダラとよだれをこぼし、開放を求めて張りつめている。
尻たぶを割り開いていた方の手を前へと滑らせ、軽く握り込んでやると、桃色に発情する身体がギクリと強ばるのが分かった。
「あぁイッ、く! イキそ、やあぁダメ……ッ、指、もう抜いてぇ……っ!」
「いいよ、イッても」
「やだぁッ! 甲洋の、甲洋のでイクのっ! 甲洋のおちんちん、早く挿れたいよぉ……!」
悲鳴じみた懇願に、首の後ろが燃えるように熱くなる。甲洋は迷う間もなく指をナカから引き抜くと、軋むベッドに両膝を立て、手早く前をくつろげた。下着ごとズリ下げた途端に勢いよく飛び出した肉棒は、限界までそそり勃って脈打っている。
首を捻ってそれを見ていた操が、赤らんだ頬をより赤く染めて深い息を漏らした。
「こ、よ」
「少し、待って」
甲洋は手早くゴムの箱を開け、取り出した中身の封を切って性器にかぶせた。いざというとき手間取らないよう、事前に練習していたことはここだけの秘密だ。その甲斐あって、ものの数秒とかからなかった。
「そんなの別にしなくていいのにぃ!」
急いている操はそれを見て不満そうだ。甲洋はローションの中身を手の平に出し、なじませるように軽く自身を扱きながら苦笑した。急いているのは同じだし、そりゃあ本音を言えばナマでしたいのは山々なのだが。
「エチケットだから」
「えー、でも漫画ではさぁ~」
「漫画を教科書にするのはやめなって……」
というか、まだ読んでいたのか。BL図書を。この分だとセルフ拡張も、そこから影響を受けた可能性が極めて高い。あながち役に立たないとも言い切れない気がして、ほんの少しだけ感心してしまう。
操はまだ納得がいかない様子で口をごにょごにょとさせていたが、甲洋の両手が尻に触れると「ぁっ」と焦ったような声を漏らした。
「待って、このままするの?」
「そのつもりだけど?」
「それじゃ甲洋の顔が見えないからやだ」
操は四つん這いの姿勢から起き上がり、すっかりこちらに身体を向けると甲洋の肩を押して座らせた。そしてそのまま膝立ちでまたがってくる。
ちょうど二年前にもこれと似た光景を見たっけなと、満足そうな顔を見上げて懐かしさが込み上げた。甲洋の肩に手をついたまま、元気よくそそり勃つ男根に視線を落とし、操は嬉しそうにニンマリ笑う。
「甲洋の大人ちんちん、久しぶりに見た」
「そりゃあ、二年ぶりだからね」
「えへへー。今日こそぼくが食べちゃうぞ!」
待ちきれないといった様子で、細い両腕が首に巻きついた。ちゅうっと音を立てて吸いついてくる唇を受け止めて、操の腰に片手を添えると、反対の手を自身に添える。狙いを定め、張り詰めた先端を窄まりにあてがえば、「あっ」と短く喘ぎを漏らす操の乳首から、母乳がジワリと浮き出した。
「来主、そのままゆっくり……できる?」
「ん、できる」
操がこくんと頷いた。けれどその意気込みとは裏腹に、あのときの痛みを覚えている身体が無意識にすくんでしまうようだった。もちろん緊張もあるのだろう。
安心させるように背中を幾度かさすってやると、彼は甲洋にしがみついて「平気だもん」と強がった。それから軽く深呼吸をして、少しずつ腰を落としていく。
「んぅ、ぁ、は……っ」
「ッ、ぅ……ッ」
「ぁ、いけ、そ……ぁっ、はいっちゃ、う、甲洋の……っ、ぁ、あッ……!」
次の瞬間ぬかるんだ孔をこじ開けて、ズン、と太いカリ部分が潜り込んだ。下から破られた衝撃に、操が喉を反らして悲鳴をあげる。
「ぃッ──! ヒッ、あぅぅ……っ!」
「ッ、く……ッ」
熱い媚肛が、ヒクつきながら限界まで広がっているのが分かる。先端に感じる締めつけに腰をわななかせながら、達しそうになるのを歯を食いしばってどうに耐えた。
「う……ッ、く、ぁっ……おっき、ぃ……っ、ぁ、くぅぅ……っ」
指とはまったく異なる質量に、操は苦しそうに切れ切れな喘ぎを漏らす。それでもなお腰を落としにかかり、自重によってジワリジワリと肉根が体内へと飲み込まれていった。
けれどあと少しで根本に達するというところで、操の動きがピタリと止まる。見上げると、彼は甲洋よりもよほど汗だくになっていた。怒らせた肩を硬直させ、カタカタと内腿を震わせている。
「平気、か?」
「ぁ、う……へい、き……まだ、いける……」
明らかに無理をしているのが伝わってきて、甲洋は汗が伝う背をあやすようにポンポンと叩いてやった。
「本当は?」
「ぅ……」
操が数秒のあいだ押し黙る。けれどやがて観念したように、おずおずと口を開いた。
「……奥、ちょっと、怖い」
蚊の鳴くような声。すっかり涙目になって悔しそうに下唇を噛みしめる表情に、吐息だけでふっと笑って目を細めた。以前の操だったら、このまま無茶をして強行していたかもしれないなと、甲洋は思う。
今の操は無理をすればいいというわけではないことを、ちゃんと理解していた。二年たっても体格差はほとんど縮まらなかったけれど、それだけでも待った意味があったのだと、しみじみ感じる。
「十分だよ来主。今日はここまででいいから」
「それって、今日はもう終わりってこと……?」
「まさか」
ベッドのスプリングの力を借りて、ナカを少しだけ擦り上げてみる。操が「ひゃぅっ」と高く鳴きながら、ブルリと身を震わせた。
「こ、よぉ……っ」
「奥は、これからゆっくり。ね?」
むしろ一緒に育てていける部分が、まだ残されていることが嬉しかった。多分きっと、操にはそういう場所がまだまだ隠されているはずだ。怖い場所も痛い場所も、気持ちがいいと感じる場所も。これから少しずつ見つけて、攻略していけることに期待が膨らむ。
甲洋は操の腰骨を両手でしっかり掴んで固定すると、下から幾度か揺さぶった。彼が怖がるラインは決して超えないように、けれど確実に律動を進めていく。
「やっ、あぅ、ぁっ、待っ……、あ、あ、はぁん……っ!」
結合部から漏れる泡立つ音と、操の嬌声が混じり合う。突くたびに乳首からぷくぷくと大粒の母乳が溢れだし、振動に揺れる屹立からも先走りの液が漏れている。
「くぅっ、あ……っ、きも、ち……ぁっ、おしり、そんなにズンズン、されたらぁ……っ!」
「ッ、は……さっきより、いっぱい出てるよ」
「はっ、はぁん……っ、ぁっ! だってッ、だってきもちくて、ぁ、とまんない……ッ、おちち出ちゃうの、とまんないよぉ……っ」
恍惚とした表情で、操がグンと背を反らした。突き出された胸の片方にむしゃぶりつくと、少し強く吸い上げる。「いやぁッ!」と泣き叫ぶくせに、甲洋の頭を抱きしめる腕はもっとしてとねだっているようにしか思えない。
口の中いっぱいに広がる母乳の味が、煮詰めた砂糖のように脳を蕩かしていく。
「こうよ、甲洋……ッ、アッ、ぁ、ぼく、セックス、してる……っ!」
「ん……できてるよ、ちゃんと」
「うれ、し……ッ、ぁ、アッ、嬉しい……甲洋、好き、大好き……っ!」
「ッ、俺も……俺も好きだよ、来主……っ」
突けば突くほど濡れた媚肉が絡みつき、熱くうねっては射精を促す。待った分だけもっと味わっていたいのに、終わりは確実に近づいていた。ナカでまた一回り大きくなった男根に、操が声にならない悲鳴をあげながらまた母乳を散らす。
弓なりにカーブした背が後方へ崩れ落ちていくのに合わせて、今度は甲洋が両膝をシーツに立てた。押し倒す形になると、両足を抱えあげて最後の追い込みをかけていく。
「あうぅ……っ、やぁ、きちゃう……っ! きちゃっ、あっ、あっあぁ──……ッ!!」
プシュウ、と大きな飛沫をあげて、操の母乳が吹き出した。同時に、ほったらかしだった屹立からも熱い白濁を飛び散らせる。チロチロと出続ける母乳を舐め取りながら、甲洋も身を震わせた。頭が白く染まるような快感に低く唸って、ゴム越しに操の体内で射精する。
脆弱な呼吸に喉を震わせる操は、半ば意識が飛んでいた。彼の身体が断続的にピクンッと跳ねると、母乳の残滓が思いだしたように小さく吹き出す。その光景にまた男茎が反応しそうになるのを感じながらも、ナカからズルリと引き抜いた。
「ふぁ……こ、よ……」
朦朧としながら焦点をさまよわせていた操が、弱々しく両腕を伸ばしてくるのに誘われて、折り重なるようにその身を預けた。身体もシーツもぐちゃぐちゃだ。けれど今は痺れるような余韻から指一本動かせい。
言葉もなくふたり一緒に放心しながら、胸を満たすのは余りあるほどの幸福な充足感だった。
*
操はそのまま眠ってしまった。
それぞれの身体を軽く清めて、起こさないように少しずつ移動させながらシーツを取り替えるのには苦労したが、操はよほど深く眠り込んでいるらしく、まったく起きる気配がなかった。
あらかた終えるとベッド脇に腰掛けて、操の寝顔を見下ろした。どこか子供っぽさを感じさせる寝息にふっと微笑み、軽く前髪を撫でてやる。
「ありがとう、来主」
ごく自然に出てきた感謝の言葉に、操が「ん」と小さな呻きをあげた。目を覚ましたのかと思ったが、彼はまだ眠ったままだ。
可愛い寝顔にまたひとつ微笑むと、甲洋はふとベッド脇のチェストに目を向ける。小さな間接照明が置かれたその横には、赤いベルベットのリングケースが置かれていた。
最初からずっとここに置いてあったのだが、操はまったく気がつかなかったようだ。
ケースに手を伸ばし、蓋を開ける。そこにはなんの飾り気もないシルバーリングが収まっていた。本当なら操の誕生日に渡すつもりでいたものだ。操の態度が急変したあとは、本気でもうダメなのかもしれないと打ちひしがれていたけれど。
ゴムやローション以上に、甲洋にとってなによりも無用にならずに済んだのは、この指輪の存在だった。この子が18歳になったとき、プロポーズをしようと思っていたから。
結婚してください、なんて。そんなことを言ったら、少し重たいかもしれないけれど。
「んー……」
そのとき、シーツの中で操が呻いた。モゾモゾと身じろぎながら、仰向けの姿勢からこちらに向けて寝返りを打つ。今度こそ起きたかと思ったけれど、やっぱりまだ夢の中にいるらしい。
「なにこれおいしぃ~……甲洋も食べてみてぇ……」
「なに食ってんのさ」
ムニャムニャと口を動かして、寝言を言いながら操が笑う。思わず声を出して笑いそうになるのをどうにか堪え、甲洋は再びケースの中身に視線を落とした。照明を弾いて輝くリングに目を細め、彼が目を覚ましたときのことを想像する。
果たして喜んでくれるだろうか。なにをするにも邪魔にならないよう、首から下げられるように別途でチェーンも用意してある。いつだって身につけていられるように。
「愛してるよ、操」
そっとケースの蓋を閉じ、操の寝顔に目を向ける。告白と一緒に、普段は照れくさくて呼べない下の名前を呼びながら。この後に続くのは、「だから俺と結婚してください」だ。
この子が目を覚ましたら、思い切り真面目な顔をして言ってやろう。きっと笑いだすに違いない。「また敬語になってる!」なんて、どうでもいいところにツッコミを入れながら。
ひとしきりケラケラと笑ったあと、赤い顔ではにかんで、「いいよ」と言ってくれたらいい。
そう切に願いながら、身を屈めるとふにふにの頬にキスをした。やっぱり甘い。操はどこもかしこも、砂糖みたいに──。
←戻る ・ Wavebox👏
もっと近くで見たくなって、少女はその足を窓辺へと向ける。
冷えたガラスに指先で触れ、春の夕映えに枝を揺らす美しい花に感嘆の息を漏らした。
(きれい……この桜のしたを、あの人と一緒に歩けたらな……)
よく磨かれたガラスの表面が、二度目に漏らした息によって切なく曇る。
脳裏にはひとつ年上の先輩の顔が浮かんでいた。優しくてかっこよくて、どこかミステリアスな翳りのあるそのひとは、女子生徒たちの憧れの的だ。少女にとって、彼は幼い頃から夢にまで見る絵本の中の王子様のような存在だった。
「春日井先輩……」
小さな呟きと共に視線を落とす。窓の外では桜の花びらが風に吹かれてクルクルと踊るように散っていた。そこに背の高い影を見つけて、少女はドキリと胸を高鳴らせる。
(ぁ……!)
今まさに、そのひとのことを考えていた。
桜の木の根元に佇む彼は、癖のある焦げ茶の髪と制服のネクタイを、ゆるく風に遊ばせている。少女は思わず窓ガラスに張りついた。
春日井甲洋。絵本の中の、王子様みたいに素敵なひと。初恋のひと。そして、失恋のひと。
彼は少女が見下ろしていることに気づかない。その視線は、誰かを、見ている。
「誰かいるの?」
ゆっくりと、夕日を背負って影が近づく。それはやがて甲洋の足元に溶けてひとつになった。亜麻色の髪が茜色に染まっている。甲洋と同じブレザー姿の少年は、にっこりと笑って彼を見上げた。甲洋もまた目を細めるような優しい笑い方をして、少年の頭にヒラリと落ちた花びらを指先で摘み取る。
少年は甲洋の白い指先にある花びらを見て、大きな瞳を丸くした。そしてくすぐったそうに肩をすくめて、ふにゃりと笑う。花びらが指先を離れて、どこか遠くへ消えていった。
(なにあれ)
窓ガラスに貼り付けていた手を強く握りしめる。
ゆらゆらと降りしきる桜吹雪のなかで、向かい合って笑うふたりはまるで恋人同士のようだった。影はぴったりと寄り添ったまま、離れようとしない。
やがてふたりは並んで歩きだした。最後まで少女が見ていることには気づかなかった。
それはたった今、少女が憧れていたこと。この綺麗な桜の下を、あの人と一緒に歩きたい。だけど彼の隣にはまったく違う人物がいて、その目は見たことがないくらい、優しく細められていて──。
「……ムカつく」
少女は握りしめたままの拳を、強く窓ガラスに叩きつける。
映り込む表情は、まるで絵本の中の意地悪な魔女のように、ひどく歪んでいた。
*
ここに一人の女子高生がいる。名前は仮にA子としよう。
この春で高校二年生になった彼女は、ひとつ年上の先輩に恋心を寄せていた。
春日井甲洋は学校中の女子生徒たちから人気を集める、校内でも屈指の美男子である。
A子が彼に手紙を書いたのは、高校一年生の夏だった。
悩み抜いて選んだ可愛いレターセットに一晩かけて想いをしたため、当時二年生だった彼の靴箱にそっと忍ばせた。
すると甲洋は、受け取った手紙を持ってA子の教室までやってきたのだ。優しい笑顔で、少し話そうと誘われて、人気のない階段の踊り場へ行った。嬉しかった。OKがもらえるのだと思った。
だけど、違った。
『ごめん。気持ちは嬉しいけど、君にはもっと相応しい人が現れると思うから』
柔らかな声と微笑みで、甲洋はそう言うと手紙をA子にそっと返した。
足元からガラガラと音を立てて、地面が崩れ落ちていくような感覚。世界が終わったような気さえした。初めてだったのに。恋をしたのも、男のひとのために手紙を書いたのも。
そうしてA子の恋は終わりを告げた。だけどいつまでたっても忘れることはできなかった。フラれてからもA子の中で甲洋はずっと王子様だったし、彼のお姫様になりたい気持ちは消えなかった。
春日井甲洋にはすでに恋人がいるという噂は、校内では有名な話だった。女性教諭との禁断の恋だとか、女子大生と同棲中だとか、病気療養中の彼女と遠距離恋愛中だとか。その内容は多岐にわたる。だから誰からの告白にも首を縦に振らないのだろうと。
けれどA子は知っている。問題はそこじゃないのだということを。
いるのだ。一人。放課後の図書室で目にしたときから、どうしても鼻につく人間が。
そいつはA子と同じクラスの男子生徒だった。
いつも甲洋のそばにいて、甘えた声を出しながら犬のようにまとわりついている。登下校も一緒だし、昼食だってほとんど毎日一緒にとっているようだった。
分かっている。甲洋にとって、そいつは可愛い後輩にすぎないのだ。あの桜の木の下で、ふたりはまるで恋人同士のように見えはしたけれど、実際にそうであるとは思えないし、思いたくない。
彼と登下校するのも、一緒にお昼を食べるのも、桜の木の下を歩くのも、それは全ての女子の憧れだ。けれど女子であるがゆえに、誰もが牽制し合って気軽に甲洋に声をかけることすらできない。
だけどあいつはただ同性であるというだけで、甲洋の隣にいる権利を得ているのだ。
A子はそれが面白くない。男のくせに、女みたいに可愛い顔をしているところも気に入らなかった。あの甘ったるい声も、笑顔も、全てが媚びているようにしか思えなくて。
あれが邪魔をしているから、甲洋は女子と付き合えないでいるのではないか。つまり、あいつさえいなければ──来主操さえいなければ、あのときフラれることもなかったのかもしれない、と。
*
昼休み。校庭の隅の花壇で咲いたばかりのチューリップに水やりをしていたら、なぜか自分の頭にも大量の水が降ってきた。
「うわぁっ!」
不測の事態に驚いた操は、思わず地面に尻もちをついてしまう。
ちょうど空になったところだった緑色のジョウロが、その拍子に手から離れてゴロリと転がる。
雨でも降り出したのだろうかと、ずぶ濡れの操はパチパチと瞬きをしながら空を見上げた。晴天だ。澄み渡る青をゆったりと流れる白い雲が、クリームパンのような形をしている。美味しそう、と思いながら、操は首を傾げた。
「あれぇ?」
「なにしてるの」
「あ、甲洋だ」
視界いっぱいに広がっていた青空が、覗き込んできた端正な面立ちによって遮られる。
甲洋はずぶ濡れで惚けたようになっている操に困惑の表情を浮かべながら、そっと手を差し出してきた。掴まって立ち上がると、改めて自分の状態に意識を向ける。
「ありがと。わぁ、びしょびしょだ」
髪も顔も制服も、すっかり水浸しになっている。これが真夏だったら気持ちよかったのになぁと、操は少し残念に思った。心地いいはずの春風が、今は冷たく濡れた肌を刺している。
「なんでそんなことになってるの。まさかお前……」
甲洋はブレザーのポケットからハンカチを取り出し、操の顔や髪を拭いながら地面に転がるジョウロを見下ろす。
「自分で自分に水やりしたとか?」
「そんなわけないでしょ? お水は全部チューリップにあげたもん!」
「どうだか」
甲洋は「来主のやることだし」と言って、わざとらしくため息をついた。
彼はこういう男なのだ。操がカチンと来ることを、こうしてわざと言ってのける。他の人間には絶対にこんなことは言わないし、誰にでも優しく接するくせに、操にだけはまったく違う顔を見せるのだ。
「むー! 甲洋の意地悪! 違うったら違うの! 急に雨が降ってきただけだってば!」
ムキになって噛み付く操に、甲洋はいよいよ呆れた顔をして見せる。
「そんな局地的豪雨があるわけないだろ。おいで、保健室に行こう。タオルがあるから」
「君、ぜったい信じてないだろ。ほんとだもん……ほんとに急に水が降ってきたんだもん……」
「いいからほら、早くしないと風邪ひくよ」
むぅっと唇を尖らせる操の肩を抱き、甲洋は一瞬だけ校舎を見上げると、二階の窓へと向けた目を猫のようにスッと細めた。
「どうしたの?」
操はそんな甲洋を見上げて小首を傾げたが、彼はすぐに「なんでもないよ」と言って笑みを浮かべた。安心させるような優しい笑顔とは裏腹に、肩を抱き包む甲洋の手には力がこもる。
自分まで濡れてしまうのも気にせず抱き寄せられると、操の頬にぽわっと熱が灯った。
意地悪をされたあとに優しくされると、どんなに腹が立っていても許してしまう。嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気持ちになってしまうから不思議だった。
*
「来主、体操着は? どこにもなかったけど」
保健室の長椅子に座ってタオルで髪を拭いていると、わざわざ二年生の教室まで体操着を取りに行ってくれた甲洋が戻ってきてそう言った。
操は「へ?」と間抜けな声をあげ、丸くした目を瞬かせる。
「そんなはずないよ。ちゃんと机の横にかかってるはずだよ」
「いいや、なかったよ。持ってきたつもりで忘れてきたんじゃないの?」
「忘れてないってば。だって午後から体育あるもん」
「じゃあなんでないのさ?」
「知らないよぅ」
他の人の机と間違えたのではないかと思ったが、甲洋がそんなミスをするとも思えなかった。となると、体操着はどこへ消えたのだろう。
「小人が持って行ったのかなぁ?」
「はぁ?」
「だってよく言うでしょ。モノがなくなるのは、妖精がイタズラしてるんだって」
「それ本気で言ってる?」
呆れ顔の甲洋が深く息をつく。なんだかバカにされているようで、また少し腹が立った。
甲洋は甲洋で、実のところ操のピュアピュアな天然発言に内心めちゃくちゃ悶えているのだが、そんな素振りをひとつも見せないので分かりっこない。操はぶぅと両頬を膨らませた。
「じゃあなに? その妖精とやらがお前にだけ雨を降らせたり、体操着を隠したとでも言うつもり?」
「もういいよ! 甲洋どうせおれのことバカにしてるもん!」
「困ったやつだね、お前は──ああ、ちょっと待って」
甲洋は話の途中でなにかに気がついたように保健室の出入り口に目をやり、そこに足を向けると音を立てて引き戸を開けた。するとそこには一人の女子生徒の姿がある。
「きゃっ! ぁ、春日井、先輩……?」
女子生徒は急に扉が開いたことに驚いた様子で、肩をすくめながら握りしめた両手を胸に押し当てていた。甲洋は縮こまっている彼女を見てふわりと笑うと「こんにちは」と言った。
「ごめんね、驚かせて。どうかした?」
「あ、あの、先生に用事があって……」
「今は出払ってるみたいだよ。大丈夫? どこか具合でも悪い?」
女子生徒は真っ赤な顔で慌てて首を振ると「違います」と声を絞り出した。それから、甲洋の背後にいる操に気づいて驚いた顔をする。
「来主くん、どうしたの!? そんなずぶ濡れになって!」
「来主、友達?」
「えーっと……あ、うん。同じクラスの子」
操はスカートの裾を揺らしながら駆け寄ってきた彼女を見上げる。同じクラスだけれど、話すのはこれが初めてだった。
「すぐに着替えないと、風邪ひいちゃうわ」
「うん、でも体操着がないよ」
「そうなの? じゃあ、私のを貸そうか?」
「え? いいの?」
彼女は笑みを浮かべると快く頷いた。
「女子は保健だから、今日は体操着いらないし」
「待って」
けれどそれを甲洋が遮った。
彼は長椅子に座る操の横に立ち、その濡れた頭にぽんと手を乗せると彼女に笑いかけた。
「ありがとう。だけど来主には俺の体操着を着せるから」
「え、でも……」
「君のじゃこいつには少し小さいよ。一応は男子だから、これでもね」
「これでもってなに!? 甲洋またおれのことバカにした!」
「いいからおいで。今なら教室に誰もいないと思うから、早く着替えちゃいな。ダラダラしてると昼飯も食いっぱぐれるよ」
それは嫌だなと操は思う。花壇への水やりは、なんとなく好きで日課にしている。いつも昼休みに入るとすぐに水やりをしに行って、そこに甲洋が迎えに来てそのまま一緒に適当な場所で弁当を食べるのだが、今日は謎の局地的豪雨によって時間が押していた。
早いところ着替えて食事をしないと、本当に食いっぱぐれてしまう。
だから文句を言いたいのをぐっと堪えて、甲洋に促されるまま立ち上がった。甲洋は肩にかかったタオルごと操の肩を抱くと歩きだす。
女子生徒は目を瞬かせながらふたりの背を見つめていたが、保健室を出ようとした瞬間どこか慌てたように口を開いた。
「あ、あの!」
足を止め、ふたり同時に振り返る。彼女は頬を染め、幾度か目を泳がせたあと甲洋を上目遣いで見た。
「春日井先輩、私のこと……その、覚えてます、か……?」
操はなんのことかと首を傾げたが、甲洋は小さく笑って頷いた。
「覚えてるよ。綺麗な珊瑚と、貝殻の子だね」
「!」
彼女は赤かった頬をさらに赤らめ、感激したように目を輝かせるとペコリと頭をさげた。
*
珊瑚と貝殻。
それはA子が甲洋に送るために選んだレターセットに描かれたものだった。
夏だったし、甲洋の名前は海を連想させるものだったから。
彼は覚えていてくれた。ラブレターなんてきっと腐るほどもらっているはずなのに、ちゃんとA子のことを忘れずにいてくれた。
嬉しくてたまらない。失恋は苦い思い出だけれど、甲洋が覚えていてくれたこと、笑いかけてくれたこと、ほんの少しでも話ができたことが。
だけどそれ以外は最悪だ。
体操着を隠したのも、操の頭に水を降らせたのも、犯人はA子だった。
昼休みに入るとすぐに生徒たちは購買へ行ったり、思い思いの場所で昼食を食べるため、教室が少しのあいだ無人になる。それを待って操の体操着を空き教室のロッカーに隠したのだ。そしてその足で、A子は女子トイレへ向かった。
二階の女子トイレの窓からは、花壇が真下に見下ろせる。
あいつがいつもそこで水やりをしていることは知っていたから、人気がないのを確認してバケツに汲んだ水をぶちまけてやったのだ。
ずぶ濡れになった操がどんな反応をするのかを見てやりたかった。
きっとべそをかいて、慌てて教室に着替えに戻ると踏んでいた。さらに体操着がないことに気づいたら、どんなに困るだろうと。まさに泣きっ面に蜂だ。そんな無様な姿を見ることができたら、さぞかし気持ちがいいに違いないと思っていた。
けれど操はただ空をポカンと見上げるばかりで、べそをかくどころか慌てる素振りすら見せなかった。そしてそこに、甲洋が来てしまった。
あいつがいつも花壇で甲洋と落ち合うことは知っていたから、行き違いになればいいと思っていたのに、操がいつまでも動かないせいで予定が狂った。
こっそりふたりの動向をうかがい、保健室へ消えていくのを見た。甲洋は一人で出て行ってしまったが、すぐに戻ってきてなにやら操と話し込んでいるようだった。
扉にへばりついてその会話に聞き耳を立てたが、細部までは聞こえなかった。
もしすべてが自分の犯行だと気づかれていたらどうしよう。うまく隠れながらやっていたつもりだけれど、もし、甲洋に知られていたら──。
考えるだけで恐ろしくて、その場から動けず聞き耳を立て続けていた。すると、扉が開いた。
結果的に甲洋と話すことができたし、自分の仕業だと気づかれている様子もなかった。
それだけは心底ホッとしたけれど、操はその後ずっと甲洋の体操着を着て過ごすことになってしまった。一回り大きなサイズの体操着の中で身を泳がせて、のんきにヘラヘラと過ごしていた。
あの体操着は、きっと甲洋の匂いが染みついている。甲洋が普段身につけているものを着られるなんて、いっそ引き裂いてやりたいくらい羨ましくて腹がたった。
操は頭から水をかぶったことも、体操着を隠されたことも、まるで気にしていないようだった。それがまた、A子の神経を逆撫でした。
*
その後もA子は操の靴や教科書といった私物をこっそり持ち出しては、空き教室のロッカーに放り込んだ。
けれど操はA子がなにを隠してもケロリとして、全くダメージを受けている様子が見られない。
それどころか、なくしたものはすべて翌日には甲洋からお下がりをもらって使いはじめる。A子が操からものを奪うたびに、彼の私物は甲洋のもので染まっていくのだ。
全てが面白いほど裏目に出る。ちょっとでも傷ついた顔が見られたらそれでいいのに、操はいつもニコニコとして、自分がいじめの標的になっていることに気づいてすらいなかった。
(ムカつく! ムカつく! ムカつく!!)
放課後、A子はガツガツと足を踏み鳴らして廊下を歩いていた。
一度は帰るふりをして教室を出たが、無人になる頃合いを見計らって戻ってきたのだ。
ブレザーのポケットの中にはカッターナイフが仕込まれている。これを使って、操の机に入っているものを全て切り刻んでやるつもりだった。
特に甲洋から譲り受けたものは、執拗に傷をつけて机の上に並べてやるつもりでいる。明日の朝それを見た操がどんな顔をするのか。想像するだけで気分が上がった。
流石にもう笑うことなんかできなくなるはずだ。自分が誰かから憎まれ、攻撃されていることにだって気がつくはず。あの愛されることしか知らないような笑顔を凍りつかせ、立ち直れないくらい傷つけてやらなければ、どうしても気が済まない。
今のままでは、まるで自分の存在が無視されているようで我慢ならなかった。
しんと静まり返った廊下に足音を響かせ、教室のドアを開ける。ポケットに手を入れて、カッターナイフを強く握りしめた。
けれど予想を裏切って、教室は無人ではなかった。A子が目的地としている操の席。窓際の一番うしろの席に、当人がまだ居残っていたのだ。
(あいつ、なんでまだいるわけ……)
いつもなら甲洋のもとへすっ飛んでいって、とっくに下校している時刻だ。
窓からは夕焼けが降り注ぎ、教室中を茜色に染め上げている。机に向かって背中を丸めている操の髪が、夕焼けを弾いて艶めいていた。
自然と、図書室から見たあの光景が脳裏に蘇る。操の頭にヒラリと落ちた桜の花びら。それを指先でつまみ上げる甲洋の優しい瞳だとか、少女のように可憐にすくめられた操の肩だとか。
あんなものさえ見なければ、A子は今も愛しい王子様に恋い焦がれるだけのお姫様だったのに。今のA子は醜い魔女に化けて、白雪姫に毒りんごを差し出す悪い王女だ。
こんなはずじゃなかったのにと、唇をかみしめてももう遅い。
「グスッ……」
引き返すべきか迷っているA子の耳に、子供っぽく鼻をすする音が聞こえた。
操は背中を丸めたまま肩を震わせている。グス、グス、と、何度も鼻をすすっていた。
(え、なにあいつ、ひょっとして泣いてんの……?)
散々ものを隠したし、水をぶっかけてやったことだってある。それでも操はケロリとして、まるでダメージを受けていなかった。それがどうしてか、今は教室でひとり泣いている。
一体なにがあったのだろう。もしかして、今更になって自分がイジメられていることに気がついたのだろうか。それとも、本当はずっと気がついていて我慢していたのだろうか。
いずれにせよ、気になってどうしようもなくなったA子は保健室のときのように、善人の顔を繕って操に近づいた。
「来主くん? どうかしたの?」
「ふぇ……?」
覗き込むと、操が顔をあげる。夕日に染まるなかでも分かるくらい鼻も目も赤くして、ぽろりと大粒の涙をこぼしている。A子はそれを見てぐっと喉をつまらせた。
(なんって顔して泣いてんのよ! やめてよ! そういうの、なんかちょっと……)
男の子が放課後の教室でひとりポツンと居残って泣いているなんて。女子としては、少しばかり胸に迫るものがある。認めたくはないが、操はとにかく可愛い顔をしているのだ。甲洋がモデルや俳優にいそうなタイプなら、彼はキラキラとしたアイドル系だろうか。
そんな顔の造形をした人間は、泣き顔だって例に漏れず可愛らしい。思わず胸がキュッとしてしまった。不本意である。
「ね、ねぇ、なんで泣いてるの? なにかあったの?」
少しばかり声をかけてしまったことを後悔しながら、A子はさらに問いかける。操はまたひとつ赤い鼻をすすって、しょんぼりとうつむいてしまった。
「甲洋が……」
「春日井先輩が……?」
もしかして、とA子は思った。ケンカでもしたのかもしれないと。
それはA子にとって願ったり叶ったりである。さすがの甲洋も、後輩にしつこく付きまとわれることに嫌気が差したのかもしれない。
だとしたら、ざまぁみろとしか言いようがなかった。口元から溢れだしそうになる笑みをぐっと堪えて、クラスメイトを気遣う優しい女子の仮面を引き締める。
「春日井先輩が、どうかしたの?」
操はうつむけた顔をくしゃりと歪め、握りしめた拳で目元をぐいっと拭った。それからまた鼻をすすってしゃくりあげると、A子を見上げて
「甲洋が、カキフライには絶対ソースだって!」
と、言った。
「……は?」
なに言ってんだこいつ。
カキフライ? カキフライが、なんだって……?
「おれはタルタルソースが好きなのに! そっちのほうが絶対美味しいのに! でも甲洋、来主はなにを食べてもどうせ美味しいって言うんだから、なにかけたって一緒だよって……そういうのを、バカ舌っていうんだよって……おれの舌はバカじゃない! だって一騎のカレーは美味しいって思うけど、総士のシチューは別に普通だなって思うもん!」
「ちょ、さりげなく皆城先輩のシチューは無個性だってディスってない!?」
「ねぇ、そう思うでしょ!? カキフライにはタルタルソースが一番だよね!?」
「さ、さぁ? あたし醤油派だし……」
「ここにもひとり分かり合えない人がいたー!」
操は机に突っ伏して、わっと泣きはじめた。
(な……なんなの……?)
意味がわからない。A子はまるで状況が飲み込めず、ただ顔を引きつらせるばかりだった。
ただひとつだけ、確かなことがある。こないだの保健室での一件のときも思ったけれど、甲洋は操にだけは、意地悪なことを言うのだ。彼の言葉も笑顔も態度も、いつだって誰にだって優しいけれど、だけど操にだけは少し違う。
ゆらゆらと降りしきる桜色の雨のなかで、細められた瞳が忘れられない。あれにどんな感情が込められていたのかを、気づいていないのは操だけなのだ。ただ見下ろしていただけのA子にすら、ちゃんと分かった。だけど認めるのが嫌で、だから、こいつのことが大嫌いだった。
「ふざけないでよ!!」
気づいたら叫んでいた。手のひらを、操の机に叩きつけながら。
「っ!?」
ビクンと肩を跳ねさせながら、操が顔をあげる。バカみたいに口をポカンとさせて、濡れた瞳を瞬かせてA子を見た。
「なにそれ!? ばっかみたい! あんた頭おかしいんじゃないの!? そんなくだらないことで泣くより、もっと他に泣かなきゃいけないことがあるでしょ!?」
「え? な、なに? なんで怒ってるのぉ? 君もおれのことバカ舌だって言いたいの?」
「違うわよバカ!! それともマジで気づいてないの!?」
腹が立って仕方ない。さんざん嫌がらせを受けといて、それでも平気そうな顔をしていたくせに。A子が仕掛けたことは全て無視して、ちょっとからかわれた程度で泣いてるなんて。
こいつは自分がどれだけ羨ましい立場にいるのか、ちっとも気づいていないのだ。A子がどんなに逆立ちをしたって手に入れられないものを、全て持っている。
「BLとかマジふざけんな! あたし夢女子だから! 同担拒否の過激派だから!!」
「びーえる? えっと、あ、サンドイッチ?」
「それBLTじゃボケ!!」
ベッタベタなボケ(天然)も大概にせぇよと我慢の限界に達したA子が、いよいよポケットの中にあるカッターナイフに指先で触れた、そのときだった。
「そのくらいにしといてやってくれない?」
声がして、凍りついた。
涼やかな声の主は、開けっ放しだった扉の枠に背中を預け、制服のポケットに両手を突っ込みながら佇んでいた。薄く微笑み、A子を見ている。
「春日井、せんぱ、い……?」
「あ、甲洋だ」
さっきまでメソメソと泣いていたはずの操がケロッとして声をあげたが、A子の耳には届かない。心臓にナイフを当てられたように、全身が凍えていくのを感じていた。
いつからいたのだろう。いつから、どこから、話を聞いていたのだろう。
甲洋がポケットに手を入れたまま、まっすぐこちらに向かってくる。A子は喉の奥から乾いた悲鳴を漏らし、両手を胸に押し当てて後ずさりした。逃げ出してしまいたかったけれど、背中が窓にぶつかってしまう。袋のネズミだった。
「保健室で会ったときから、もしかしたらと思っていたけど」
やがてA子と距離をつめた甲洋が、窓ガラスに片手をついた。A子の顔のすぐ横だ。彼はそれを支えに身体を倒し、A子の耳元に唇を寄せる。
「妖精の正体は、君かな?」
吐息のような小さな声が、耳のなかに吹き込まれた。A子は声を失ったまま、指先ひとつ動かせない。ピリピリと肌を刺す空気は甲洋の怒りだ。それを痛いくらい感じながらも、A子は今にも腰が砕けてしまいそうだった。甲洋の息が肌に触れ、その匂いすら分かるほどの距離感。目が回る。陥っている状況すら忘れて、気を失いそうだった。
甲洋が離れると、A子の腰は本当に砕けてしまった。立っていられず、ズルズルと床に崩れ落ちて座り込む。呆然として、瞬きすら忘れてしまった。
「甲洋? なに? いまなんて言ったの?」
操が首を傾げる。甲洋はふっと笑いながら彼の机の横にかかっていた鞄を持ち上げ、「そろそろ帰るよ」と言って操に手渡した。
「ねぇ! いまのなに? なんか言ったでしょ? なんて言ったの?」
操はなぜかとても嫌そうな顔をしながら甲洋に食い下がった。甲洋が目の前で女子に壁ドンもどきをして、耳元になにか囁いたのが面白くなかったのかもしれない。多分、無自覚なのだろうが。
彼は受け取った鞄を両腕に抱きしめ、聞くまでは梃子でも動かないとばかりに猫背になって甲洋を上目遣いで睨みつける。甲洋は困った様子で苦笑した。
「その子がお前が会いたがってた妖精の正体だよ。それを確かめただけ」
「え!? 妖精!?」
操はなぜかパッと目を輝かせ、座り込んでいるA子を見た。鞄を机に投げ出し、弾かれたように席を立つとA子の正面に膝をつく。A子は意味が分からず、ただ呆然としたままだった。
「そっか、君が小人だったんだね」
「……は?」
目の前に、蕩けそうなくらい甘い笑顔がある。A子はますます意味が分からなかった。妖精とか小人とか、彼らはさっきから一体なにを言っているのだろう。
「来主はね、イタズラ好きの小人が、自分のものを持ち出してどこかに隠してるんだって、そう言って聞かないんだよ。とつぜん水を降らせたのもね。こいつは悪意が理解できない、困ったやつだから」
「こ、小人……? だから、妖精?」
操がA子の手を取って、白い両手でそっと優しく包み込んだ。
「会ってみたかったんだ、ずっと。小人がこんなに可愛い女の子だったなんて嬉しい。ヒゲがもじゃもじゃのおじさんだと思ってたから」
「か、可愛い……? あ、あたし、が?」
操の手はあたたかかった。言ってることも子供っぽくて、この人は本当に悪意というものが分からないんだと、A子は思った。どうりで意味がないはずだ。A子が明確な悪意をもってしたことは、彼にとって可愛い小人のイタズラでしかなかったのだ。
ドロドロとした汚いものが、清流で洗い流されていくような気がした。バカみたいだ。なんて単純なんだろうと思う。男の子に面と向かって可愛いなんて言われたのは初めてだった。正体はただの醜い魔女でしかないのに。言った当人の方がずっと可愛い顔をしているし、心だって、ちょっと心配になるくらい綺麗すぎる。
これじゃあ、傍にいて守ってやりたくもなるだろう。操なら、あからさまに毒が入っていそうなリンゴだって、喜んで食べてしまうに違いなかった。
「ごめん、なさい……」
情けなくて涙が出てきた。うつむいて泣きだしたA子に、操が慌てふためく。
「えっ! なんで泣くの!? どうしよ……ねぇ甲洋! どうしたらいい!?」
「だからハンカチくらい持ち歩けっていつも言ってるのに」
甲洋はそう言って操に自分のハンカチを差し出した。操はそれを受け取って、A子の涙を不器用に拭う。
「な、泣かないで……あ、そうだ! 甲洋にジュース買ってもらお! ね、そしたら大丈夫だから!」
「なにが大丈夫なのさ……まぁいいよ。おいで、ふたりとも。早く帰らないと暗くなるしね」
「やったー! ジュースジュース! ねぇ早く行こうよ!」
握ったままだったA子の手を、操がぐいぐいと引っ張ってくる。女の子の扱い方をまるで知らないんだなと思ったけれど、たぶん、彼は知らなくていいのだとも思えて、A子は少しだけ笑った。
*
空き教室に隠していた操の私物は、あの翌日の朝には全て返した。
操は「またイタズラしたくなったら言ってね!」なんて朗らかに笑っていて、本当に大丈夫かなこの子……と、A子は思わず甲洋に同情してしまった。
これでは甲洋の苦労が絶えないだろう。あの豊かな焦げ茶の髪がズルンとハゲ上がるのを見るのは、正直ごめんだ。つい想像してしまい、二階女子トイレの鏡に映る自分の顔が苦々しいものになる。
「ねぇ、来主くんってちょっと春日井先輩に慣れなれしすぎない?」
「わかる。あの距離感ありえない!」
そのとき、すぐとなりでなにやら話し込んでいる女子二名の会話が耳についた。
同じクラスの女子、B子とC子である。
「なんかさ、他の男子も来主くんには甘いよね」
「そうそう。可愛い顔してるからって、なんか調子に乗っててムカつく……」
「ねぇー、A子もそう思わない?」
A子は返事の代わりに、洗面台の下に放置されていたバケツを思い切り蹴飛ばした。
「きゃ!? な、なに!?」
「……言っておくけど、来主くんに手を出したらあたしが許さないから」
「は!? A子ってああいうの趣味だっけ!?」
「春日井先輩派だと思ってた……」
A子が鋭い視線を向けると、B子とC子が手を握り合って肩をすくめた。
「なんなの……? 怖い顔しちゃってさ」
「もういいよ、ねぇ行こう」
A子の気迫に怯えた様子で、B子とC子はその場をそそくさと後にした。A子は消えていく背中に向かって鼻を鳴らす。あの二人は要チェックだ。少し前の自分と、同じような目つきをしていた。意地悪く性格の歪んだ、おぞましい魔女のような。
(春日井先輩の目が届かないところでは、あたしがちゃんと見てなくちゃ)
昨日の敵は今日の推しだ。A子はもはや、あの無邪気で可愛い笑顔の虜だった。甲洋と操の恋路を見守ることに決めたA子は、鏡の前で拳を握りしめる。
本当はお姫様になりたかった。甲洋の隣で、彼に守られる可愛いお姫様に。だけど今は、妖精もロマンがあって素敵だなと思っている。いつまでも子供のままでいる男の子の周りを飛び回る、小さくて可愛い妖精。悪くない気がした。少なくとも、今の自分は魔女じゃない。
A子は鼻歌でも歌いだしたい気分で窓辺に寄った。見下ろせば花壇には色とりどりのチューリップが、春風にゆらゆらと踊らされている。
男の子の姿をしたお姫様が、そこで熱心に水やりをしている姿が見えた。遠くから、王子様がゆっくりと歩いてくる。王子様はお姫様の横に並ぶと、ふたりは目を見合わせて笑いあった。
(はぁ……尊い……)
胸に手を当て、ため息をついて、幸せそうにうっとりとした顔で妖精が笑った。
←戻る ・ Wavebox👏