2025/08/26 Tue 「はぁ……」 レジカウンターに設置された簡素な椅子に腰掛けて、甲洋は幾度となく重苦しい息を漏らしていた。 ネットカフェの薄暗い店内は、幾つものブースがパーテーションで区切られている。その向こう側で息を潜めるように過ごす人の気配を感じながら、鬱々とした気分でぼうっと暇を持て余す。 頭の中は『反省』の二文字でいっぱいになっていた。 (確かに調子に乗りすぎだったな……特に昨日は……) 嫉妬と苛立ちに駆られながら、それをひとつの要素として興奮材料にしてしまったのは否めない。 操が本当に嫌がることはしない主義だし、あれでいて彼も悦んでいたことは分かっているつもりだった。甲洋がサディズムを秘めていたように、操もまたマゾヒズムの側面を内包している。 だけど、それにしたって昨日のあれはやりすぎだ。エッチ禁止令を出されたって、文句は言えない。 (浮かれすぎだろ) 画面越しに追いかけていた頃よりも、操への想いは日に日に大きく膨らんでいく一方だった。恋人同士という特別な関係性に、未だ夢を見ているのではないかと思うほど、脳内がお花畑になっている。 そりゃあ浮かれもするだろうと開き直る反面、自分の気持ちの重たさに呆れてしまう。 (自重しないと) いい意味での冷却期間だとでも考えればいいのだ。これ以上歯止めが効かなくなって、いよいよ操に嫌われでもしたら目も当てられない。そんなことになるくらいなら、大人しく従っておくべきだと。 それに、なにもセックスだけが全てではないのだ。甲洋は操と一緒にいられるだけで、十分すぎるほど幸せを感じられる。 お父さんなんて言われたことも尾を引いているし、ついでだから小言も少しは控えた方がいいのだろうか。例のストーカーのことは未だに気になっているけれど、あまりにも口うるさく言い過ぎていたのかもしれない。 何事もほどほどに。それが意外と、難しかったりもするのだけれど。 無意識のうちに、またひとつ溜息が漏れた。 0時を過ぎると客の出入りはぐっと減る。フードの注文も少なく、一人でも十分に回せるくらいには時間を持て余すことがある。 適当に雑誌でも眺めようかと思ったところで、一人の男性客がブースから出てくる姿が見えた。 甲洋が椅子から立ち上がると、レジまでやってきた男は無造作に伝票をカウンターに投げ置いた。金髪のマッシュヘアーに吊り上がった奥二重が印象的で、グレーのフリースジャケットを着ている。最近よく訪れるようになった客だった。 甲洋は顔がほとんど隠れているのをいいことに、密かに眉をひそめた。この客は苦手だ。毎回この鋭い吊り目で、ジロジロと値踏みするような眼差しを向けてくる。よほどこの瓶底眼鏡が気になるのか、それともなにか言いたいことでもあるのだろうか。 当たり障りなく対応を終え、礼を述べながら頭を下げる。男は最後まで甲洋に不躾な視線を送り続け、一言も声を発さないままポケットに手を突っ込んで店から出ていった。 完全に姿が見えなくなると、ほっと息をつく。けれどあの客は退店後の方が問題なのだ。甲洋は辟易としながらも消毒剤などの掃除用具一式を持って、男が使っていたブースへと足を運んだ。 天井が開けているにも関わらず、立ち込める嫌な臭いに顔をしかめる。中はひどい有様で、床になにやら意味深に丸められたティッシュが幾つも散らばっていた。フラットシートには乾きかけの白い液体までこびりついていて、なにをしていたかは一目瞭然である。 仕事とはいえ、なにが悲しくて野郎のオナニー後の片付けをしなくてはならないのだろう。あの客に限ったことではないし、ペアブースでは男女が性行為に及ぶことだって、決して珍しくはないのだが。 (今日も派手に汚してくれたな) げんなりと息を漏らしながら、一緒に持ってきていたゴム手袋をはめた。 テーブルの上にはコンビニ弁当の空箱が置いてあり、食べカスまでボロボロと零れ落ちている。 しかもパソコンがシャットダウンされていない。画面にはいかにも違法なエロ動画サイトが表示されており、視聴途中の動画が一時停止されていた。 消毒剤を片手に近づいて、ふと画面を覗き込んだ瞬間── 「ッ……!?」 心臓をギュッと手掴みされたような衝撃に、大きく息を飲む。 そこには可憐な巫女姿でグロテスクな触手に蹂躙される、【来栖ミサオ】の姿が映し出されていたからだ。 * 早番のスタッフに引き継ぎを終えて帰路につきながら、甲洋は内心ひどく腹を立てていた。凍てつく冬の朝、いつもなら温かな缶コーヒーでも買って帰るところだが、今日ばかりはそんな気も起こらない。 あの不気味な吊り目が、ずっと頭の片隅にチラついている。 男が見ていたのは『生贄にされた美少年巫女~触手産卵奇譚~』という作品だった。 巫女に扮した来栖ミサオが不作続きの村を救うため、おぞましい触手の化け物たちに供物として捧げられる、という内容の作品だ。 白衣を乱され、緋袴を無残にも引き裂かれたミサオの肌に無数の触手が絡みつき、穴という穴を犯されながら苗床にされてしまう──といったロマン溢れる展開に、過去どれほどのティッシュを消費したことか。 (くそ) 薄いパーテーションの向こう側で、あの野郎はずっと触手に蹂躙されるミサオをオカズに耽っていたのだ。床に散乱していたティッシュは、奴が吐き出した精液にまみれていた。 (なんで俺が……!) よりにもよってあんなものを処理しなくてはいけないのかと、考えるだけで腹の底がグラグラと煮立つほどの怒りが込み上げる。 これは為す術もない、理不尽ともいえる感情だ。なにで抜こうが、あの客に罪はない。 今この瞬間だって、世界のどこかではミサオをオカズにして興奮している男がいるのだ。かつての自分がそうであったように、引退した今なお熱烈なファンだっているだろう。 だけど操はもう来栖ミサオではない。業界から足を洗ったただの一般人で、甲洋だけの大切な恋人だ。 だからこそ頭がおかしくなりそうだった。もう誰の目にも触れさせたくない。だけど作品として出回っているものを消すことはできない。やり場のない感情が、落とし所を見つけられないままグルグルとルーレットのように回り続ける。 例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。むしろあの男が犯人なのではないか。だんだん道行く人間が、全て疑わしいとすら思えてくる。 そもそもあの客はマナーも悪いことだし、いっそ出禁にしてやろうか……なんてことを本気で考えながら、操が待つマンションに帰宅した。 早く顔が見たい。思いきり抱きしめて、その体温を感じたい。そして吸いたい。猫吸いならぬ、操吸いだ。本当はもっと色々とあらぬ場所を吸えればいいのだが、それは当分のあいだお預けなのである。だからせめて、匂いだけでも。 「ただい──うわ、クサッ」 逸る気持ちを抑えながら帰宅した瞬間、鼻をつく焦げ臭さに顔をしかめる。 「あ、おかえりー!」 そこに笑顔の操がひょっこりと顔をだした。 「来主、この臭いはなに?」 「君がそろそろ帰ってくる頃だと思ってさ。たまにはおれが朝ご飯の支度しとこうかなって」 「俺のために?」 そうだよ、と言って頷く操に胸がジンと熱くなった。 が、猛烈な焦げ臭さに目が痛くなってくる。心意気には感動したが、明らかにロクな結果になっていないことは丸わかりだった。 甲洋は眼鏡を外してコートのポケットに突っ込むと目尻を拭った。操は「そんなに感動した!?」と嬉しそうに目を輝かせている。そういうことにしておこう……と思いながら、恐る恐るテーブルの上を見やった。 「……ダークマター?」 丸い大皿の上に、暗黒物質がプスプスと黒煙を上げているのが見えた。操が「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら、指先で頬を掻いている。 「パンケーキなんだけど……モ●ストやりながら焼いてたら、ついつい熱中しちゃって」 「火を使いながらゲームなんかするもんじゃないよ……」 パンケーキになるはずだったものは、完全に黒い煤の塊になって禍々しいオーラを放っていた。これを食べたら、さすがに死ぬ。おそらくキッチンもグチャグチャになっているだろう。見に行かなくても大体の予想がつく。 思わず溜息を漏らしながら、ふと視界に入ったテレビ画面ではプレイ中のゲームが一時停止されていることに気がついた。 「また一晩中ゲームし──」 (あ、まずい) 昨夜反省したことを思いだし、甲洋は咄嗟に言葉を切って口を噤む。 「甲洋?」 てっきりまた小言を食らうのだと身構えていた様子の操は、意表を突かれたように目をぱちくりとさせた。それを見て苦笑しながら首を左右に振る。 「いや。それより来主」 「なに、うわっ」 甲洋は操の身体を引き寄せて、両腕で思いきり抱きすくめた。 「ビックリしたぁ。どうしたの?」 「なんでもない。けど、ちょっと吸わせて」 「あふふっ、吸うってなにそれ!」 操が笑うと、腕の中からその振動が伝わってくる。 ちょっと焦げ臭い気はするが、柔らかくてどこか甘いような操の匂いを吸い込みながら、ほろほろとほどけた感情に幸せが染み込んでいくようだった。 「朝ご飯、作ってくれてありがとう、来主」 「ん、でも失敗しちゃったし……食べられないよね、これ……」 「その気持ちだけで十分」 「そっかぁ」 操の両腕が甲洋の背に回った。きゅっとしがみついてくる感覚に、胸が苦しくなる。あんなことがあったせいで心はささくれていたけれど、こうして操の体温を抱きしめるだけで、呆気なく癒やされていくのを感じた。 操はもうAVに出ていたころの操じゃない。甲洋のために黒焦げのパンケーキを作って待っていてくれる、たった一人の可愛い恋人だ。 彼が出ていた作品をこの世から消すことはできないが、これからの姿は全て独り占めしていたい。 「甲洋、苦しいって」 熱がこもり過ぎたせいで、加減ができなくなっていた。操は大きな子供をあやすみたいに、笑いながらポンポンと甲洋の背中を優しく叩く。 好きだと心の中で繰り返しながら、このまま甘ったるい感情に身を任せてしまいたかった。 だけど、駄目だ。 「シャワー浴びてくるよ。そうしたら朝飯は俺が作るから。少し待ってて」 「え? ぁ、うん」 甲洋は操の顔を見ないようにしながら腕をほどいた。本当はキスのひとつもしたいところだが、今そんなことをしたら絶対にその先も欲しくなってしまう。 操の頭に軽く手を乗せてひと撫ですると、甲洋は脱いだモッズコートをベッドに放り投げて、逃げるように浴室へ向かった。 その背中を、操がポカンとした表情で見つめていることには、気づかないまま。 * エッチ禁止令を出してから、一週間が経過した。 操はクッションの上に胡座をかき、腕を組んで「う~ん」と唸り声をあげる。 ベッドでは夜勤明けの甲洋が、丸めた背中をこちらに向けて眠っていた。 いつも夕方頃になると起き出してくるため、そろそろ目を覚ますだろう。カーテンの隙間から、うっすらと西陽が差しはじめている。 (おかしくない?) かすかに寝息をたてる甲洋の寝姿を見つめ、操は難しい顔をする。 (甲洋、ぜんぜん触ってこないじゃん……!) エッチ禁止令を出してからというもの、甲洋はバカ正直にそれを守り続けている。触ってこないどころかキスすらしてこないし、あまり抱きしめてもくれなくなった。 さらにはあれだけうるさかった小言も減った。夜中に外出したことがバレると多少はチクリと言われるものの、前よりクドクドと説教じみた言い方はしない。休みの日には一緒にゲームをして遊び倒す始末で、疲れたらすぐに寝てしまう。 同じベッドで寝ていても、背を向けるばかりで指一本触れてこようとしないのである。 (てっきりすぐに我慢できなくなると思ったのに……) いっそ襲いかかってしまおうか。禁止令は解かないまま、初めてしたときのように上に乗って好き勝手してしまうというのも、なかなか面白いかもしれない。 そう思いかけて、でもなぁ……と躊躇する。操は甲洋が情けなく頭を下げながら縋りついてくることを期待していたのだ。 こちらから手を出すのは、なんだか負けてしまうみたいで悔しい気がする。 (おれのほうが先に我慢できなくなったみたいじゃん) 実際、否定しきれないところがなおさら悔しい。操は歯痒さに唇を噛み締める。スケベのくせに、こんなに人を待たせるなんて。 だったらとっとと禁止令を解けばいいだけの話だし、律儀に言いつけを守っているだけの甲洋に対して理不尽だ。それは分かっているのだけれど。 (……もしかして) ふと、頭の中に嫌な想像が駆けめぐる。 もしかしたら甲洋は、自分に興味がなくなってしまったのではないか、なんて。 小言が減ったのだって、操が言うことをきかずに反抗してばかりいることにすっかり呆れて──あるいは諦めて──しまったからなのではないか。 だけど甲洋は優しいから、気持ちが冷めていたとしても言いだせずにいるのかもしれない。 操は急激に襲いかかってくる不安に顔色を失くした。 (う、嘘、どうしよう……!?) 操にとって甲洋は初恋だ。仕事でセックスはしていても、特定の相手を作ったことだってない。むしろセックスそのものへの関心は薄かったように思う。 ただ街をフラフラしていたらスカウトされて、なんとなく始めただけだ。可愛い服を着ながらちょっと好きにさせるだけで、お金をもらうことができたから。 だけど甲洋とするようになって、初めてその悦びを知った。セックスだけじゃない。キスもハグも、全て甲洋が教えてくれたも同然だ。 だからどうすればいいか分からない。誰かを想って不安になることさえも、初めてのことだから。急に知らない場所に放り出されたみたいな気持ちになって、ぶるりと身体が震えてしまった。 (なにか、なにかしなくちゃ!) いても立ってもいられなくなる。操は床に散乱しているゲーム機やソフト、お菓子の山に目をやった。ゲームのしすぎ。お菓子の食べすぎ。先日、ショッピングモールで甲洋が呈した苦言が頭の中でグルグル回る。 操はそれらを全てひとつにまとめると、引っ張り出したスポーツバッグに押し込めた。とりあえず、お菓子もゲームも封印だ。そして、甲洋が起きたら謝ろう。意地なんか張っている場合ではなかった。 起こしてしまわないよう静かに足音を忍ばせながら、部屋に備え付けられた収納スペースへバッグを運んだ。ここには主に甲洋の衣類などが入っているが、他にしまっておく場所がないため借りることにした。 そっと両開きの扉を開けて、置いておけそうなスペースを探す。すると片隅に、少しよれた白い紙袋を発見した。 「……なんだろ、これ?」 紙袋はそれなりの大きさだ。ズッシリと何かが詰まっているのが、見ただけでもよく分かる。操は首を傾げ、ほとんど無意識に袋へ手を伸ばしていた。 ぺたりと座り込み、引き寄せたそれを覗き込む。そして愕然とした。 中身は大量のエロDVDだった。 震える指先で一枚だけ取り出して、パッケージを見る。 豊満な胸を惜しげもなくさらけ出し、ピタピタのライダースーツに身を包んでいるセクシーな身体。どうしてこんな子がと思うほど綺麗な女の子が、女豹のようなポーズをとりながらこちらに妖しく笑いかけていた──。 ←戻る ・ 次へ→
レジカウンターに設置された簡素な椅子に腰掛けて、甲洋は幾度となく重苦しい息を漏らしていた。
ネットカフェの薄暗い店内は、幾つものブースがパーテーションで区切られている。その向こう側で息を潜めるように過ごす人の気配を感じながら、鬱々とした気分でぼうっと暇を持て余す。
頭の中は『反省』の二文字でいっぱいになっていた。
(確かに調子に乗りすぎだったな……特に昨日は……)
嫉妬と苛立ちに駆られながら、それをひとつの要素として興奮材料にしてしまったのは否めない。
操が本当に嫌がることはしない主義だし、あれでいて彼も悦んでいたことは分かっているつもりだった。甲洋がサディズムを秘めていたように、操もまたマゾヒズムの側面を内包している。
だけど、それにしたって昨日のあれはやりすぎだ。エッチ禁止令を出されたって、文句は言えない。
(浮かれすぎだろ)
画面越しに追いかけていた頃よりも、操への想いは日に日に大きく膨らんでいく一方だった。恋人同士という特別な関係性に、未だ夢を見ているのではないかと思うほど、脳内がお花畑になっている。
そりゃあ浮かれもするだろうと開き直る反面、自分の気持ちの重たさに呆れてしまう。
(自重しないと)
いい意味での冷却期間だとでも考えればいいのだ。これ以上歯止めが効かなくなって、いよいよ操に嫌われでもしたら目も当てられない。そんなことになるくらいなら、大人しく従っておくべきだと。
それに、なにもセックスだけが全てではないのだ。甲洋は操と一緒にいられるだけで、十分すぎるほど幸せを感じられる。
お父さんなんて言われたことも尾を引いているし、ついでだから小言も少しは控えた方がいいのだろうか。例のストーカーのことは未だに気になっているけれど、あまりにも口うるさく言い過ぎていたのかもしれない。
何事もほどほどに。それが意外と、難しかったりもするのだけれど。
無意識のうちに、またひとつ溜息が漏れた。
0時を過ぎると客の出入りはぐっと減る。フードの注文も少なく、一人でも十分に回せるくらいには時間を持て余すことがある。
適当に雑誌でも眺めようかと思ったところで、一人の男性客がブースから出てくる姿が見えた。
甲洋が椅子から立ち上がると、レジまでやってきた男は無造作に伝票をカウンターに投げ置いた。金髪のマッシュヘアーに吊り上がった奥二重が印象的で、グレーのフリースジャケットを着ている。最近よく訪れるようになった客だった。
甲洋は顔がほとんど隠れているのをいいことに、密かに眉をひそめた。この客は苦手だ。毎回この鋭い吊り目で、ジロジロと値踏みするような眼差しを向けてくる。よほどこの瓶底眼鏡が気になるのか、それともなにか言いたいことでもあるのだろうか。
当たり障りなく対応を終え、礼を述べながら頭を下げる。男は最後まで甲洋に不躾な視線を送り続け、一言も声を発さないままポケットに手を突っ込んで店から出ていった。
完全に姿が見えなくなると、ほっと息をつく。けれどあの客は退店後の方が問題なのだ。甲洋は辟易としながらも消毒剤などの掃除用具一式を持って、男が使っていたブースへと足を運んだ。
天井が開けているにも関わらず、立ち込める嫌な臭いに顔をしかめる。中はひどい有様で、床になにやら意味深に丸められたティッシュが幾つも散らばっていた。フラットシートには乾きかけの白い液体までこびりついていて、なにをしていたかは一目瞭然である。
仕事とはいえ、なにが悲しくて野郎のオナニー後の片付けをしなくてはならないのだろう。あの客に限ったことではないし、ペアブースでは男女が性行為に及ぶことだって、決して珍しくはないのだが。
(今日も派手に汚してくれたな)
げんなりと息を漏らしながら、一緒に持ってきていたゴム手袋をはめた。
テーブルの上にはコンビニ弁当の空箱が置いてあり、食べカスまでボロボロと零れ落ちている。
しかもパソコンがシャットダウンされていない。画面にはいかにも違法なエロ動画サイトが表示されており、視聴途中の動画が一時停止されていた。
消毒剤を片手に近づいて、ふと画面を覗き込んだ瞬間──
「ッ……!?」
心臓をギュッと手掴みされたような衝撃に、大きく息を飲む。
そこには可憐な巫女姿でグロテスクな触手に蹂躙される、【来栖ミサオ】の姿が映し出されていたからだ。
*
早番のスタッフに引き継ぎを終えて帰路につきながら、甲洋は内心ひどく腹を立てていた。凍てつく冬の朝、いつもなら温かな缶コーヒーでも買って帰るところだが、今日ばかりはそんな気も起こらない。
あの不気味な吊り目が、ずっと頭の片隅にチラついている。
男が見ていたのは『生贄にされた美少年巫女~触手産卵奇譚~』という作品だった。
巫女に扮した来栖ミサオが不作続きの村を救うため、おぞましい触手の化け物たちに供物として捧げられる、という内容の作品だ。
白衣を乱され、緋袴を無残にも引き裂かれたミサオの肌に無数の触手が絡みつき、穴という穴を犯されながら苗床にされてしまう──といったロマン溢れる展開に、過去どれほどのティッシュを消費したことか。
(くそ)
薄いパーテーションの向こう側で、あの野郎はずっと触手に蹂躙されるミサオをオカズに耽っていたのだ。床に散乱していたティッシュは、奴が吐き出した精液にまみれていた。
(なんで俺が……!)
よりにもよってあんなものを処理しなくてはいけないのかと、考えるだけで腹の底がグラグラと煮立つほどの怒りが込み上げる。
これは為す術もない、理不尽ともいえる感情だ。なにで抜こうが、あの客に罪はない。
今この瞬間だって、世界のどこかではミサオをオカズにして興奮している男がいるのだ。かつての自分がそうであったように、引退した今なお熱烈なファンだっているだろう。
だけど操はもう来栖ミサオではない。業界から足を洗ったただの一般人で、甲洋だけの大切な恋人だ。
だからこそ頭がおかしくなりそうだった。もう誰の目にも触れさせたくない。だけど作品として出回っているものを消すことはできない。やり場のない感情が、落とし所を見つけられないままグルグルとルーレットのように回り続ける。
例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。むしろあの男が犯人なのではないか。だんだん道行く人間が、全て疑わしいとすら思えてくる。
そもそもあの客はマナーも悪いことだし、いっそ出禁にしてやろうか……なんてことを本気で考えながら、操が待つマンションに帰宅した。
早く顔が見たい。思いきり抱きしめて、その体温を感じたい。そして吸いたい。猫吸いならぬ、操吸いだ。本当はもっと色々とあらぬ場所を吸えればいいのだが、それは当分のあいだお預けなのである。だからせめて、匂いだけでも。
「ただい──うわ、クサッ」
逸る気持ちを抑えながら帰宅した瞬間、鼻をつく焦げ臭さに顔をしかめる。
「あ、おかえりー!」
そこに笑顔の操がひょっこりと顔をだした。
「来主、この臭いはなに?」
「君がそろそろ帰ってくる頃だと思ってさ。たまにはおれが朝ご飯の支度しとこうかなって」
「俺のために?」
そうだよ、と言って頷く操に胸がジンと熱くなった。
が、猛烈な焦げ臭さに目が痛くなってくる。心意気には感動したが、明らかにロクな結果になっていないことは丸わかりだった。
甲洋は眼鏡を外してコートのポケットに突っ込むと目尻を拭った。操は「そんなに感動した!?」と嬉しそうに目を輝かせている。そういうことにしておこう……と思いながら、恐る恐るテーブルの上を見やった。
「……ダークマター?」
丸い大皿の上に、暗黒物質がプスプスと黒煙を上げているのが見えた。操が「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら、指先で頬を掻いている。
「パンケーキなんだけど……モ●ストやりながら焼いてたら、ついつい熱中しちゃって」
「火を使いながらゲームなんかするもんじゃないよ……」
パンケーキになるはずだったものは、完全に黒い煤の塊になって禍々しいオーラを放っていた。これを食べたら、さすがに死ぬ。おそらくキッチンもグチャグチャになっているだろう。見に行かなくても大体の予想がつく。
思わず溜息を漏らしながら、ふと視界に入ったテレビ画面ではプレイ中のゲームが一時停止されていることに気がついた。
「また一晩中ゲームし──」
(あ、まずい)
昨夜反省したことを思いだし、甲洋は咄嗟に言葉を切って口を噤む。
「甲洋?」
てっきりまた小言を食らうのだと身構えていた様子の操は、意表を突かれたように目をぱちくりとさせた。それを見て苦笑しながら首を左右に振る。
「いや。それより来主」
「なに、うわっ」
甲洋は操の身体を引き寄せて、両腕で思いきり抱きすくめた。
「ビックリしたぁ。どうしたの?」
「なんでもない。けど、ちょっと吸わせて」
「あふふっ、吸うってなにそれ!」
操が笑うと、腕の中からその振動が伝わってくる。
ちょっと焦げ臭い気はするが、柔らかくてどこか甘いような操の匂いを吸い込みながら、ほろほろとほどけた感情に幸せが染み込んでいくようだった。
「朝ご飯、作ってくれてありがとう、来主」
「ん、でも失敗しちゃったし……食べられないよね、これ……」
「その気持ちだけで十分」
「そっかぁ」
操の両腕が甲洋の背に回った。きゅっとしがみついてくる感覚に、胸が苦しくなる。あんなことがあったせいで心はささくれていたけれど、こうして操の体温を抱きしめるだけで、呆気なく癒やされていくのを感じた。
操はもうAVに出ていたころの操じゃない。甲洋のために黒焦げのパンケーキを作って待っていてくれる、たった一人の可愛い恋人だ。
彼が出ていた作品をこの世から消すことはできないが、これからの姿は全て独り占めしていたい。
「甲洋、苦しいって」
熱がこもり過ぎたせいで、加減ができなくなっていた。操は大きな子供をあやすみたいに、笑いながらポンポンと甲洋の背中を優しく叩く。
好きだと心の中で繰り返しながら、このまま甘ったるい感情に身を任せてしまいたかった。
だけど、駄目だ。
「シャワー浴びてくるよ。そうしたら朝飯は俺が作るから。少し待ってて」
「え? ぁ、うん」
甲洋は操の顔を見ないようにしながら腕をほどいた。本当はキスのひとつもしたいところだが、今そんなことをしたら絶対にその先も欲しくなってしまう。
操の頭に軽く手を乗せてひと撫ですると、甲洋は脱いだモッズコートをベッドに放り投げて、逃げるように浴室へ向かった。
その背中を、操がポカンとした表情で見つめていることには、気づかないまま。
*
エッチ禁止令を出してから、一週間が経過した。
操はクッションの上に胡座をかき、腕を組んで「う~ん」と唸り声をあげる。
ベッドでは夜勤明けの甲洋が、丸めた背中をこちらに向けて眠っていた。
いつも夕方頃になると起き出してくるため、そろそろ目を覚ますだろう。カーテンの隙間から、うっすらと西陽が差しはじめている。
(おかしくない?)
かすかに寝息をたてる甲洋の寝姿を見つめ、操は難しい顔をする。
(甲洋、ぜんぜん触ってこないじゃん……!)
エッチ禁止令を出してからというもの、甲洋はバカ正直にそれを守り続けている。触ってこないどころかキスすらしてこないし、あまり抱きしめてもくれなくなった。
さらにはあれだけうるさかった小言も減った。夜中に外出したことがバレると多少はチクリと言われるものの、前よりクドクドと説教じみた言い方はしない。休みの日には一緒にゲームをして遊び倒す始末で、疲れたらすぐに寝てしまう。
同じベッドで寝ていても、背を向けるばかりで指一本触れてこようとしないのである。
(てっきりすぐに我慢できなくなると思ったのに……)
いっそ襲いかかってしまおうか。禁止令は解かないまま、初めてしたときのように上に乗って好き勝手してしまうというのも、なかなか面白いかもしれない。
そう思いかけて、でもなぁ……と躊躇する。操は甲洋が情けなく頭を下げながら縋りついてくることを期待していたのだ。
こちらから手を出すのは、なんだか負けてしまうみたいで悔しい気がする。
(おれのほうが先に我慢できなくなったみたいじゃん)
実際、否定しきれないところがなおさら悔しい。操は歯痒さに唇を噛み締める。スケベのくせに、こんなに人を待たせるなんて。
だったらとっとと禁止令を解けばいいだけの話だし、律儀に言いつけを守っているだけの甲洋に対して理不尽だ。それは分かっているのだけれど。
(……もしかして)
ふと、頭の中に嫌な想像が駆けめぐる。
もしかしたら甲洋は、自分に興味がなくなってしまったのではないか、なんて。
小言が減ったのだって、操が言うことをきかずに反抗してばかりいることにすっかり呆れて──あるいは諦めて──しまったからなのではないか。
だけど甲洋は優しいから、気持ちが冷めていたとしても言いだせずにいるのかもしれない。
操は急激に襲いかかってくる不安に顔色を失くした。
(う、嘘、どうしよう……!?)
操にとって甲洋は初恋だ。仕事でセックスはしていても、特定の相手を作ったことだってない。むしろセックスそのものへの関心は薄かったように思う。
ただ街をフラフラしていたらスカウトされて、なんとなく始めただけだ。可愛い服を着ながらちょっと好きにさせるだけで、お金をもらうことができたから。
だけど甲洋とするようになって、初めてその悦びを知った。セックスだけじゃない。キスもハグも、全て甲洋が教えてくれたも同然だ。
だからどうすればいいか分からない。誰かを想って不安になることさえも、初めてのことだから。急に知らない場所に放り出されたみたいな気持ちになって、ぶるりと身体が震えてしまった。
(なにか、なにかしなくちゃ!)
いても立ってもいられなくなる。操は床に散乱しているゲーム機やソフト、お菓子の山に目をやった。ゲームのしすぎ。お菓子の食べすぎ。先日、ショッピングモールで甲洋が呈した苦言が頭の中でグルグル回る。
操はそれらを全てひとつにまとめると、引っ張り出したスポーツバッグに押し込めた。とりあえず、お菓子もゲームも封印だ。そして、甲洋が起きたら謝ろう。意地なんか張っている場合ではなかった。
起こしてしまわないよう静かに足音を忍ばせながら、部屋に備え付けられた収納スペースへバッグを運んだ。ここには主に甲洋の衣類などが入っているが、他にしまっておく場所がないため借りることにした。
そっと両開きの扉を開けて、置いておけそうなスペースを探す。すると片隅に、少しよれた白い紙袋を発見した。
「……なんだろ、これ?」
紙袋はそれなりの大きさだ。ズッシリと何かが詰まっているのが、見ただけでもよく分かる。操は首を傾げ、ほとんど無意識に袋へ手を伸ばしていた。
ぺたりと座り込み、引き寄せたそれを覗き込む。そして愕然とした。
中身は大量のエロDVDだった。
震える指先で一枚だけ取り出して、パッケージを見る。
豊満な胸を惜しげもなくさらけ出し、ピタピタのライダースーツに身を包んでいるセクシーな身体。どうしてこんな子がと思うほど綺麗な女の子が、女豹のようなポーズをとりながらこちらに妖しく笑いかけていた──。
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