2025/08/26 Tue 意識の外側で、スマホが着信を告げる音が鳴り響いていることに気がついた。 ふっと覚醒するのと同時に音は途切れて、間に合わなかったかと息をつきながらも、甲洋は枕元のスマホを手にとった。 ディスプレイにはたったいま電話をかけてきた主の名が表示されている。それは甲洋が故郷の島にいたころから、よく知る人物の名前だった。 懐かしさにふと目元を和らげながら、ゆっくりと身を起こす。少し寝すぎたかもしれない。起き抜けの四肢が、じんわりと心地よく痺れている。 すぐに折り返すために端末を操作しかけて、甲洋はふと周りが静か過ぎることに気がついた。 「……来主?」 薄闇の部屋を見渡してみる。しかしそこに操の姿は見えなかった。 トイレか、風呂にでも入っているのだろうか。しかしどんなに耳を澄ませても、いっさいの生活音が聞こえてこない。 (また一人でコンビニにでも行ったのか?) 結局、甲洋がしつこく注意しようがしまいが、操の動向は変わらない。束縛されるのは嫌いだと放った言葉の通り、彼は自由気ままな野良猫のように甲洋の腕からスルリと抜け出して行くのだ。 せめて防犯ブザーでも持たせようかと真剣に考えながら、甲洋はベッドから抜けだして部屋の明かりを灯した。そして次の瞬間、衝撃に打たれる。 「──ッ!?」 目の前にある光景に、全身の血管が凍りつくような感じがした。 テーブルの上には見覚えのある紙袋。少しよれているその白い袋は、前に居酒屋で剣司から押しつけられたものだ。中にはエロDVDが大量に入っている。この中から、甲洋は来栖ミサオという異色の存在を見つけた。 甲洋が見たのは彼のAVだけで、他はいっさい見ていない。大切な友人から託されたものを捨てることもできず、収納スペースに押し込んだままずっと放置していた。それが表に出ているということは── 「く、来主っ! 誤解だ!!」 真っ青になりながら思わず叫んだ。これがこうして置かれていること、操の姿が見当たらないこと。最悪のケースしか浮かばない。 実家に帰らせていただきます──そんな文言が頭に浮かんだ。 甲洋は弾かれたように玄関に走ると部屋を飛び出しかけた。が、寸でのところで思いとどまる。 (ま、待て、待て待て、落ち着け……まだそうと決まったわけじゃない……) 操のことだから、これらのDVDを甲洋をからかって遊ぶための材料にするつもりでいるのかもしれない。普段の彼なら、そのほうがむしろ自然だ。 実際コンビニに行っただけという可能性も否定できない。この周辺には幾つかコンビニが点在しており、操はそのときの気分でどこへ行くかを決めるため、闇雲に飛び出したところで行き違いになってしまう恐れがある。 まずは少し落ち着いて、おとなしく帰りを待つべきだ。しかしストーカーの件がある。嫌な考えが次から次へと押し寄せて、心の中はジリジリとした焦燥で満ちていた。 甲洋はいったん玄関から引き返すと、ベッドの上に投げ出されていたスマホを掴み取って操に電話をかけた。 すぐに留守番サービスに接続されることに舌打ちをしながら、ふと、眠る前までは床に散乱していたはずのゲーム機や菓子類が、すっかり消えていることに気がついた。 「!?」 甲洋は再び血の気が引くのを感じた。持ち主ごと消えてしまった彼の私物。この光景が意味するのはつまり──やっぱりそういうこと、なのではないか? 頭の中が真っ白になる。思えば女性がちょっと黄色い声をあげただけで、あんなにも拗ねてしまうような子なのだ。不快に思わないはずがないではないか。 もはや冷静ではいられなかった。どこだっていい。とにかく彼が行きそうな場所を、手当り次第探すしかない。 甲洋はいつものコートとスマホを乱暴に掴むと部屋を飛び出す。が、すぐに慌てて引き返し、ベッドのヘッドボードから瓶底眼鏡をとって素早くかけた。これをしないで外に出たら、またあの子が拗ねてしまうかもしれないから。 * (これからどうしよう……) 甲洋が真っ青になりながら駆け回っているころ、操はマンションのすぐ隣に位置する公園でブランコに乗っていた。 辺りはすっかり夜の闇に覆われている。なけなしの街灯だけが、公園内部をうっすらと照らしだしていた。 キィキィとブランコを軋ませながら、操は真っ白い息を吐きだした。 寒い。当然だ。例の紙袋にショックを受けて、操はコートも着ずに部屋を飛び出してしまった。部屋着にしているパーカーは薄手のもので、寒さに全身が冷え切っている。ステンレスチェーンを掴んでいる両手がかじかみ、すっかり感覚がなくなっていた。 (嫌われたのかな……おれがちっとも言うこと聞かないから……) 甲洋は、きっと愛想を尽かしてしまったに違いない。 せめて身体くらい好きにさせてやっていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。もともと甲洋は来栖ミサオのファンだったのだ。AVの仕事を辞めて、ただの来主操に戻ってしまった自分になんの価値があるのか、操自身にも分からない。そんなこと、今まで考えたこともなかったけれど。 甲洋は操のことを諦めて、隠し持っていたあのDVDをこっそり見ていたのかもしれない。みんな胸もお尻も大きくて、可愛くてセクシーな女の子ばかりだった。 「……甲洋のバカ……スケベ……」 あんなに好きだ好きだと言いながら何度も抱いてきたくせに、結局は胸の大きなお姉さんのほうがいいんじゃないか。 どんどん視界がぼやけていく。悔しいと思う。耐えるように、唇を噛みしめた。 (自分のこと、嫌いになりそう) どんなに注意されても聞かないし、夜ふかしをして部屋は散らかすし、パンケーキだってまともに焼けないし。エッチもさせてあげないし。 本当に腹が立っているのは、きっと甲洋に対してじゃない。なにもできない、ただの我儘な子供。そんな自分への苛立ちだった。 操はグスンと大きく鼻を鳴らして、握った拳で両目をぬぐった。 どのみち後悔したってもう遅いのだ。だけど、これからどうすればいいか分からない。つい勢いで飛び出してはきたものの、行く場所だってどこにもなかった。途方に暮れながら、もうずっと何時間もここでこうしている。 ──ザッ、ザッ、ザッ そのときだった。遠くから近づいてくる足音が聞こえて、操はハッと息を呑みながら顔を上げると音の方向へ目をやった。 (甲洋……!?) 沈んでいた心が、心音と一緒に大きく跳ね上がる。もしかしたら、探しに来てくれたのかもしれない。足音が近づくほどに、操の胸は期待に膨らんだ。 ぽつりぽつりと等間隔に設置された街灯は頼りなく、鉄棒や滑り台などの遊具を儚く浮き上がらせている。ブランコ脇の街灯は、時おりチカチカと点滅を繰り返していた。 すぐ側まで迫る足音。人型をした黒い影。チカ、チカ、チカ。明暗を繰り返す街灯の下。歩いてくる足先が見えて、膝が見えて──やがて徐々に、その姿を現していった。 「ミサオちゃん……」 操はヒュウと音を立てながら喉を詰まらせた。背中にぴったりとナイフを押し当てられたように、寒気が駆け抜ける。 違う。甲洋じゃない。忘れもしないその声と、金色の髪と、吊り上がった奥二重の目。『あのとき』も、こいつは今と同じグレーのフリースジャケットを着てベッドの下に潜んでいた。 「迎えに来たよ」 「ッ……!?」 にやけた口元を見た瞬間、内部から突き上げられるような戦慄が走る。身を固くしながら立ち上がると、ブランコの座面が金属音を立てて大きく揺れた。 こいつは前に操を襲ったストーカーだ。執拗に後をつけられ、毎日のように気色の悪い手紙だとか、ぬいぐるみなどのプレゼントを送られて、あげく部屋の中に侵入されてレイプされかけた。こいつが原因で操は元の住処を追われ、AVの仕事からも足を洗うキッカケになったのだ。 「……なんの用? 自分から捕まりに来たの?」 操はきつく男を睨みつけながら、冷ややかに言葉を放った。虚勢を張っていることを悟られぬよう、手の平に爪が食い込むほど強く拳を握る。 「また一人で夜に出歩いて……ミサオちゃんは本当に危なっかしいね。オレがついててやらないと」 一歩、また一歩と、男は暗く濁った瞳で近づいてくる。距離が近づくほどに、操はジリジリと後ずさりをした。 「それ以上こっち来ないで!」 「今日はコンビニ行かないの? そういえばケーキ屋も辞めたんだっけね……エプロン、よく似合ってたのになぁ」 「来るなってば!」 「あー、でもあの店長スケベそうだったからなぁ~。オレのミサオちゃんにベタベタ触りまくってさぁ、ムカついてたからよかったよ」 「ッ、うぁ……!?」 後ずさりする操の膝が、ブランコを囲む柵にぶつかった。膝が折れたことで身体のバランスが崩れ、水色の塗装が施された柵を乗り越える形で、派手に尻もちをついてしまう。 痛みを感じる間もなく這ってでも逃げだそうとした操の襟首を、柵を飛び越えてきた男が掴んで引きずり寄せる。 「ッ、やめ、離せ! 離して!!」 「ミサオちゃん! どうして逃げるの!? せっかく迎えに来てやったのに、嬉しくないの!? オレとミサオちゃんは恋人だろ!?」 男は急に声を荒げだし、背中に覆いかぶさってこようとする。 「こんなに愛してるのに! ミサオちゃんだってオレを愛してるはずだ! 毎日家まで送り迎えしてやっただろ!? プレゼントだって、幾つも送った! 手紙だって! あんなに喜んでくれたじゃないか!!」 「さっきからなに言ってんの!? そんなの知らない! 誰か助けてッ!!」 男は妄想と現実の区別がつかなくなっているのだ。彼にとって後をつける行為は純粋な『送迎』で、都合のいい妄想の中で育てた来栖ミサオは、彼からの手紙や贈り物にいつも喜んでいたことになっている。 ゾッとした。全身に毛虫が這っているかのようだった。手足をばたつかせ、身を捩ることで必死に抵抗するが、操が暴れるほどに相手も滅茶苦茶な動きで押さえつけてきた。 「なのにあんな男と……ッ! アイツのどこがいいんだ!? あんなぐるぐる眼鏡のイモみたいな男の、どこがいいって言うんだ!?」 操がよく一人でコンビニに行くこと。ケーキ屋でバイトをしていたこと。もちろんそれだけじゃない。男は操が甲洋と同棲していることすら突き止めていた。どこかで息をひそめ、ずっと監視し続けていたのだ。そして機会を伺っていた。 「嫌だ! やめて! 助けてっ……!!」 「騙されただけだよね? アイツに脅されてるんだろ? 事務所を辞めたのだってアイツのせいだ! 本当のこと言っていいんだよ! そうなんだろ!? じゃなきゃ……っ」 吊り上がった目をさらに吊り上げ、男は顔を怒りで真っ赤にしながら操の身体をひっくり返すと、腹の上に馬乗りになってきた。そして一瞬の隙を突き、操の首をその両手で思いきり掴んで締め上げる。 「ぁぐッ……!?」 「──殺してやる」 「っ!?」 怒鳴り散らしていた声が、ストンと一気に低くなる。暗く凍った執念が、瞳の奥にゆらゆらと虚ろに灯されていた。 頭のおかしな男だということは知っていた。だけどあのときは、操が大声を上げながら激しく抵抗したことに怯み、すぐに逃亡してしまったのだ。けれど今日は違う。あのときよりもずっと、その異常性を増している。 (殺される……!) 操はその執着と殺意に絡め取られ、もはや強がることもできないほどの恐怖に全身をすくませた。 「ぐ、ぅ……ッ、ぁ゛……っ」 首にかかる圧が増していく。苦しくて、息ができない。 男は瞬きもせず血走った目を見開き、うわ言のように「殺す、殺す」と呟きながら、締め上げる力を強めていった。 その手首を両手で掴んで爪を立て、操は涙が滲んでいた視界をきつく閉じる。 「おまえはオレだけの来栖ミサオなんだ……来栖ミサオでいなきゃいけないんだ……永遠に、ずっとオレだけの……」 意識が暗い闇に吸い込まれていくような感覚を覚えた。ゆっくりと、ゆっくりと海の底に沈んていくかのようだった。 凄まじい恐怖と絶望にさらされる意識から、不思議とどこか達観しはじめている自分が乖離する。それは諦めという感情だった。 (あーぁ、死んじゃうんだ、おれ。こんな最後は嫌だな……) 多分きっと、これが走馬灯というやつだ。 甲洋と一緒にいたのはまだほんの短い期間で、彼を知らずに生きてきた時間のほうが、ずっと長いはずなのに。思い出すのは甲洋のことばかりだった。出会った日のことだとか、彼が作ってくれるホットミルクの味だとか、繋いだ手のぬくもりだとか。何気ない日常が、次から次へと。 (ちゃんと言うこと、聞いておけばよかった……甲洋、あんなに心配してくれたのに……バカだなぁ、おれ……) 会いたいなぁと、そう思う。甲洋はもう、操のことなどなんとも思っていないのかもしれない。だけど、それでもいいから。 なにも言わずに飛び出して来たりなんかしないで、ちゃんと話をすればよかった。どうせ同じ結末を迎えるのなら、もっとちゃんと。 (甲洋、ごめん) ああ、落ちる。これで終わりだと、そう思っていた。 「来主ッ!!」 遠くで名前を呼ばれるのと同時に、男が息を呑む音がした。 操から引き剥がされた男が、そのまま左頬を殴りつけられて吹っ飛ばされる。ぐぇ、という悲鳴をあげながら、ゴロゴロと地面を転がった。 操はその一瞬の光景を、こじ開けた瞳でただ呆然としながら眺めていた。拳を強く握りしめ、肩で息をしながら立ち尽くす甲洋の背中を。 (甲洋……?) 信じられなかった。彼がここにいることが。まるで夢でも見ているみたいだ。あるいは安いドラマかなにかだろうか。こんなギリギリのところで助けに来てくれるなんて、まるで正義のヒーローみたいだ。 操は身を起こし、甲洋の名を呼ぼうとした。しかしこみ上げてくる激しい咳によって、まともに声を出すことすらできない。 そうしている間にも男が低い呻きをあげながら、よろよろと身を起こして立ち上がろうとしていた。 「このっ、ダサイモ野郎が……よくもオレのミサオを……っ」 男は切れた口の端を手の甲で拭いながら、忌々しげに言って鬼のような形相を上げた──が、次の瞬間、正面から甲洋の顔を見てなぜか絶句してしまう。 ガサガサと音を立てる肺に必死で酸素を取り込みながらも、操はふと気がついた。 頼りなく点滅する街灯の下で、鈍くなにかが光っている。甲洋が常に身につけていた、あの濁った瓶底眼鏡だ。さっき男を殴りつけた拍子に、外れて落ちてしまったのだろう。 「やっぱりお前か」 甲洋が鼻で笑った気配がした。操は目を丸く見開く。 「あれは宣戦布告でもしたつもりか?」 甲洋は知っているのだ。この男のことを。それに、宣戦布告とはどういうことだろう。操が知らないところで、彼らがすでになんらかの接点を持っているということだけは、なんとなく理解できる。 それがなんなのか気にはなるが、それ以上に操を驚かせたのは、甲洋のまるで硝子のように冷えきった低い声だった。こんな声を、初めて聞いた。 (どんな顔してるんだろう?) 彼は今、どんな顔をしながらあの冷淡な声を発したのだろう。 操からは甲洋の広い背中しか見えない。憎悪に駆られた鬼のような形相よりも、それはきっとずっと恐ろしいものに違いなかった。それだけは分かったような気がして、ぞわぞわとした鳥肌がたつ。爪の先まで四肢が冷えるのを感じながら、操はひとつ身を震わせた。 男は甲洋の端正な美貌に圧倒され、言葉を失ったままだった。散々イモだのなんだのと見下していたのだから、ショックを受けるのも無理はない。 やがてガタガタとそこだけ地震が起きたように全身を戦慄かせ、男は怨念に血走る瞳をカッと見開いた。甲洋がまた少し、笑った気がする。 「いいぜ、来いよ。売られたケンカは買ってやる」 「くそ! くそ!! イケメンは死ね──!!」 「甲洋!!」 操は悲鳴じみた声で甲洋の名を呼んだ。 男が落ちている眼鏡を踏みつけながら、甲洋に殴りかかろうとしている。そこからは全てが一瞬の出来事だったが、操の目にはスローモーションのように映った。 甲洋は寸でのところで男の拳を受け流し、その手を掴むやいなや引き寄せるようにしながら腹部に右膝を突き入れた。潰れたカエルのような悲鳴があがり、男が身体をくの字に曲げる。甲洋はその隙に男の襟首を掴むと、トドメとばかりにその頬に拳を叩きつけた。 「ッ……!!」 男はもはや悲鳴すらあげることなく吹っ飛ばされて、再び地面を転がった。やがて大の字の姿勢で動かなくなってしまう。 操はポカンと口を開けたまま、瞬きひとつできなかった。 「凄い……映画みたいだ……」 「来主!!」 甲洋が焦った顔をして駆け寄ってきた。座り込んだまま呆然としている操のそばに膝をつき、思いきり抱きすくめる。 「こ、甲洋」 「間に合ってよかった……」 さっきまでの冷淡さが嘘のように、その声はわずかに震えて上ずっていた。 「君、どうしてここが分かったの?」 操はまだどこか夢を見ているような気分のままで問いかける。 「お前の声が聞こえたから」 わずかに身じろいで顔をあげると、甲洋は今にも泣きだしそうな、それでいてひどく怒っているような、複雑な表情を浮かべていた。操よりもずっと顔色が悪いように見える。 「この時間に来主が行きそうなところなんて、コンビニかゲーセンくらいしか思いつかなかった。俺はお前のこと、まだなにも知らないんだって思い知ったよ」 マンションを飛び出した甲洋は、とにかく手当り次第に近辺のコンビニを探し回り、駅前のゲーセンにまで足を伸ばした。 しかし操はどこにもおらず、途方に暮れながらいったん引き返そうとした。 声が聞こえたのは、マンションの正面まで戻ってきたときだ。聞こえるか聞こえないかの微かな悲鳴だったが、甲洋はそれが操のものであるに違いないと確信した。だから見つけることができたのだと、甲洋は言った。 「こんなに近くにいたのかよ……」 悔しさと情けなさを滲ませた声で吐きだしながら、甲洋は再び操の身体をきつく抱きしめた。 よく知る匂いと熱に包まれて、固結びされたようになっていた心が今更になって緩んでいく。安堵と一緒に涙が溢れ、操はその背に強く腕を回した。 自分と同じくらい甲洋の身体も震えていることに気がつくと、引き絞られたように胸が痛んだ。 「ッ、ごめん甲洋……ごめんね……っ!」 本当は行く場所くらい他にもあった。友達がいないわけじゃないし、適当なホテルに駆け込むことだってできたはずだ。 それなのにずっと公園で腐っていたのは、ここなら甲洋が探しに来やすいのではないかと、どこかで期待していたからだった。心の奥底では、きっと来てくれると信じていた。だからここで待っていたのだ。 「バカ」 「ごめん……ごめんなさいぃ……っ」 どうせもう飽きてしまったんだとか、どうでもよくなったんだとか。大きな身体を震わせながら、こんなにも強く抱きしめてくれるひとのことを、どうして疑ったりなんかしたんだろう。 彼が来てくれなかったら、きっとあのまま死んでいた。こうなることを恐れていたから、甲洋はずっと注意してくれていたのに。 操は泣きながら何度も謝って、甲洋はそんな操をずっと抱きしめていた。すると遠くから、パトカーのサイレンが近づく音が聞こえてくる。 ハッとして顔をあげた操の頭を軽く撫でながら、甲洋が音のほうに目をやった。 「誰かが通報したんだ。ずいぶん騒がしくしたから」 「あのひと……死んだ?」 大の字で転がったまま動かない男を見やり、それからまた甲洋を見上げる。揺れている操の瞳に笑いかけ、甲洋は静かに首を左右に振った。 「死んじゃいない。大丈夫だよ」 「君がこんなにケンカ強いなんて、なんか意外……」 「俺も意外。初めてだよ、人を殴ったのなんて」 「そうなの!?」 「殴られたことはあるけどね」 おどけたように言って笑う甲洋に、気が抜けた操はポカンとしたままなにも言うことができなかった。 ←戻る ・ 次へ→
ふっと覚醒するのと同時に音は途切れて、間に合わなかったかと息をつきながらも、甲洋は枕元のスマホを手にとった。
ディスプレイにはたったいま電話をかけてきた主の名が表示されている。それは甲洋が故郷の島にいたころから、よく知る人物の名前だった。
懐かしさにふと目元を和らげながら、ゆっくりと身を起こす。少し寝すぎたかもしれない。起き抜けの四肢が、じんわりと心地よく痺れている。
すぐに折り返すために端末を操作しかけて、甲洋はふと周りが静か過ぎることに気がついた。
「……来主?」
薄闇の部屋を見渡してみる。しかしそこに操の姿は見えなかった。
トイレか、風呂にでも入っているのだろうか。しかしどんなに耳を澄ませても、いっさいの生活音が聞こえてこない。
(また一人でコンビニにでも行ったのか?)
結局、甲洋がしつこく注意しようがしまいが、操の動向は変わらない。束縛されるのは嫌いだと放った言葉の通り、彼は自由気ままな野良猫のように甲洋の腕からスルリと抜け出して行くのだ。
せめて防犯ブザーでも持たせようかと真剣に考えながら、甲洋はベッドから抜けだして部屋の明かりを灯した。そして次の瞬間、衝撃に打たれる。
「──ッ!?」
目の前にある光景に、全身の血管が凍りつくような感じがした。
テーブルの上には見覚えのある紙袋。少しよれているその白い袋は、前に居酒屋で剣司から押しつけられたものだ。中にはエロDVDが大量に入っている。この中から、甲洋は来栖ミサオという異色の存在を見つけた。
甲洋が見たのは彼のAVだけで、他はいっさい見ていない。大切な友人から託されたものを捨てることもできず、収納スペースに押し込んだままずっと放置していた。それが表に出ているということは──
「く、来主っ! 誤解だ!!」
真っ青になりながら思わず叫んだ。これがこうして置かれていること、操の姿が見当たらないこと。最悪のケースしか浮かばない。
実家に帰らせていただきます──そんな文言が頭に浮かんだ。
甲洋は弾かれたように玄関に走ると部屋を飛び出しかけた。が、寸でのところで思いとどまる。
(ま、待て、待て待て、落ち着け……まだそうと決まったわけじゃない……)
操のことだから、これらのDVDを甲洋をからかって遊ぶための材料にするつもりでいるのかもしれない。普段の彼なら、そのほうがむしろ自然だ。
実際コンビニに行っただけという可能性も否定できない。この周辺には幾つかコンビニが点在しており、操はそのときの気分でどこへ行くかを決めるため、闇雲に飛び出したところで行き違いになってしまう恐れがある。
まずは少し落ち着いて、おとなしく帰りを待つべきだ。しかしストーカーの件がある。嫌な考えが次から次へと押し寄せて、心の中はジリジリとした焦燥で満ちていた。
甲洋はいったん玄関から引き返すと、ベッドの上に投げ出されていたスマホを掴み取って操に電話をかけた。
すぐに留守番サービスに接続されることに舌打ちをしながら、ふと、眠る前までは床に散乱していたはずのゲーム機や菓子類が、すっかり消えていることに気がついた。
「!?」
甲洋は再び血の気が引くのを感じた。持ち主ごと消えてしまった彼の私物。この光景が意味するのはつまり──やっぱりそういうこと、なのではないか?
頭の中が真っ白になる。思えば女性がちょっと黄色い声をあげただけで、あんなにも拗ねてしまうような子なのだ。不快に思わないはずがないではないか。
もはや冷静ではいられなかった。どこだっていい。とにかく彼が行きそうな場所を、手当り次第探すしかない。
甲洋はいつものコートとスマホを乱暴に掴むと部屋を飛び出す。が、すぐに慌てて引き返し、ベッドのヘッドボードから瓶底眼鏡をとって素早くかけた。これをしないで外に出たら、またあの子が拗ねてしまうかもしれないから。
*
(これからどうしよう……)
甲洋が真っ青になりながら駆け回っているころ、操はマンションのすぐ隣に位置する公園でブランコに乗っていた。
辺りはすっかり夜の闇に覆われている。なけなしの街灯だけが、公園内部をうっすらと照らしだしていた。
キィキィとブランコを軋ませながら、操は真っ白い息を吐きだした。
寒い。当然だ。例の紙袋にショックを受けて、操はコートも着ずに部屋を飛び出してしまった。部屋着にしているパーカーは薄手のもので、寒さに全身が冷え切っている。ステンレスチェーンを掴んでいる両手がかじかみ、すっかり感覚がなくなっていた。
(嫌われたのかな……おれがちっとも言うこと聞かないから……)
甲洋は、きっと愛想を尽かしてしまったに違いない。
せめて身体くらい好きにさせてやっていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。もともと甲洋は来栖ミサオのファンだったのだ。AVの仕事を辞めて、ただの来主操に戻ってしまった自分になんの価値があるのか、操自身にも分からない。そんなこと、今まで考えたこともなかったけれど。
甲洋は操のことを諦めて、隠し持っていたあのDVDをこっそり見ていたのかもしれない。みんな胸もお尻も大きくて、可愛くてセクシーな女の子ばかりだった。
「……甲洋のバカ……スケベ……」
あんなに好きだ好きだと言いながら何度も抱いてきたくせに、結局は胸の大きなお姉さんのほうがいいんじゃないか。
どんどん視界がぼやけていく。悔しいと思う。耐えるように、唇を噛みしめた。
(自分のこと、嫌いになりそう)
どんなに注意されても聞かないし、夜ふかしをして部屋は散らかすし、パンケーキだってまともに焼けないし。エッチもさせてあげないし。
本当に腹が立っているのは、きっと甲洋に対してじゃない。なにもできない、ただの我儘な子供。そんな自分への苛立ちだった。
操はグスンと大きく鼻を鳴らして、握った拳で両目をぬぐった。
どのみち後悔したってもう遅いのだ。だけど、これからどうすればいいか分からない。つい勢いで飛び出してはきたものの、行く場所だってどこにもなかった。途方に暮れながら、もうずっと何時間もここでこうしている。
──ザッ、ザッ、ザッ
そのときだった。遠くから近づいてくる足音が聞こえて、操はハッと息を呑みながら顔を上げると音の方向へ目をやった。
(甲洋……!?)
沈んでいた心が、心音と一緒に大きく跳ね上がる。もしかしたら、探しに来てくれたのかもしれない。足音が近づくほどに、操の胸は期待に膨らんだ。
ぽつりぽつりと等間隔に設置された街灯は頼りなく、鉄棒や滑り台などの遊具を儚く浮き上がらせている。ブランコ脇の街灯は、時おりチカチカと点滅を繰り返していた。
すぐ側まで迫る足音。人型をした黒い影。チカ、チカ、チカ。明暗を繰り返す街灯の下。歩いてくる足先が見えて、膝が見えて──やがて徐々に、その姿を現していった。
「ミサオちゃん……」
操はヒュウと音を立てながら喉を詰まらせた。背中にぴったりとナイフを押し当てられたように、寒気が駆け抜ける。
違う。甲洋じゃない。忘れもしないその声と、金色の髪と、吊り上がった奥二重の目。『あのとき』も、こいつは今と同じグレーのフリースジャケットを着てベッドの下に潜んでいた。
「迎えに来たよ」
「ッ……!?」
にやけた口元を見た瞬間、内部から突き上げられるような戦慄が走る。身を固くしながら立ち上がると、ブランコの座面が金属音を立てて大きく揺れた。
こいつは前に操を襲ったストーカーだ。執拗に後をつけられ、毎日のように気色の悪い手紙だとか、ぬいぐるみなどのプレゼントを送られて、あげく部屋の中に侵入されてレイプされかけた。こいつが原因で操は元の住処を追われ、AVの仕事からも足を洗うキッカケになったのだ。
「……なんの用? 自分から捕まりに来たの?」
操はきつく男を睨みつけながら、冷ややかに言葉を放った。虚勢を張っていることを悟られぬよう、手の平に爪が食い込むほど強く拳を握る。
「また一人で夜に出歩いて……ミサオちゃんは本当に危なっかしいね。オレがついててやらないと」
一歩、また一歩と、男は暗く濁った瞳で近づいてくる。距離が近づくほどに、操はジリジリと後ずさりをした。
「それ以上こっち来ないで!」
「今日はコンビニ行かないの? そういえばケーキ屋も辞めたんだっけね……エプロン、よく似合ってたのになぁ」
「来るなってば!」
「あー、でもあの店長スケベそうだったからなぁ~。オレのミサオちゃんにベタベタ触りまくってさぁ、ムカついてたからよかったよ」
「ッ、うぁ……!?」
後ずさりする操の膝が、ブランコを囲む柵にぶつかった。膝が折れたことで身体のバランスが崩れ、水色の塗装が施された柵を乗り越える形で、派手に尻もちをついてしまう。
痛みを感じる間もなく這ってでも逃げだそうとした操の襟首を、柵を飛び越えてきた男が掴んで引きずり寄せる。
「ッ、やめ、離せ! 離して!!」
「ミサオちゃん! どうして逃げるの!? せっかく迎えに来てやったのに、嬉しくないの!? オレとミサオちゃんは恋人だろ!?」
男は急に声を荒げだし、背中に覆いかぶさってこようとする。
「こんなに愛してるのに! ミサオちゃんだってオレを愛してるはずだ! 毎日家まで送り迎えしてやっただろ!? プレゼントだって、幾つも送った! 手紙だって! あんなに喜んでくれたじゃないか!!」
「さっきからなに言ってんの!? そんなの知らない! 誰か助けてッ!!」
男は妄想と現実の区別がつかなくなっているのだ。彼にとって後をつける行為は純粋な『送迎』で、都合のいい妄想の中で育てた来栖ミサオは、彼からの手紙や贈り物にいつも喜んでいたことになっている。
ゾッとした。全身に毛虫が這っているかのようだった。手足をばたつかせ、身を捩ることで必死に抵抗するが、操が暴れるほどに相手も滅茶苦茶な動きで押さえつけてきた。
「なのにあんな男と……ッ! アイツのどこがいいんだ!? あんなぐるぐる眼鏡のイモみたいな男の、どこがいいって言うんだ!?」
操がよく一人でコンビニに行くこと。ケーキ屋でバイトをしていたこと。もちろんそれだけじゃない。男は操が甲洋と同棲していることすら突き止めていた。どこかで息をひそめ、ずっと監視し続けていたのだ。そして機会を伺っていた。
「嫌だ! やめて! 助けてっ……!!」
「騙されただけだよね? アイツに脅されてるんだろ? 事務所を辞めたのだってアイツのせいだ! 本当のこと言っていいんだよ! そうなんだろ!? じゃなきゃ……っ」
吊り上がった目をさらに吊り上げ、男は顔を怒りで真っ赤にしながら操の身体をひっくり返すと、腹の上に馬乗りになってきた。そして一瞬の隙を突き、操の首をその両手で思いきり掴んで締め上げる。
「ぁぐッ……!?」
「──殺してやる」
「っ!?」
怒鳴り散らしていた声が、ストンと一気に低くなる。暗く凍った執念が、瞳の奥にゆらゆらと虚ろに灯されていた。
頭のおかしな男だということは知っていた。だけどあのときは、操が大声を上げながら激しく抵抗したことに怯み、すぐに逃亡してしまったのだ。けれど今日は違う。あのときよりもずっと、その異常性を増している。
(殺される……!)
操はその執着と殺意に絡め取られ、もはや強がることもできないほどの恐怖に全身をすくませた。
「ぐ、ぅ……ッ、ぁ゛……っ」
首にかかる圧が増していく。苦しくて、息ができない。
男は瞬きもせず血走った目を見開き、うわ言のように「殺す、殺す」と呟きながら、締め上げる力を強めていった。
その手首を両手で掴んで爪を立て、操は涙が滲んでいた視界をきつく閉じる。
「おまえはオレだけの来栖ミサオなんだ……来栖ミサオでいなきゃいけないんだ……永遠に、ずっとオレだけの……」
意識が暗い闇に吸い込まれていくような感覚を覚えた。ゆっくりと、ゆっくりと海の底に沈んていくかのようだった。
凄まじい恐怖と絶望にさらされる意識から、不思議とどこか達観しはじめている自分が乖離する。それは諦めという感情だった。
(あーぁ、死んじゃうんだ、おれ。こんな最後は嫌だな……)
多分きっと、これが走馬灯というやつだ。
甲洋と一緒にいたのはまだほんの短い期間で、彼を知らずに生きてきた時間のほうが、ずっと長いはずなのに。思い出すのは甲洋のことばかりだった。出会った日のことだとか、彼が作ってくれるホットミルクの味だとか、繋いだ手のぬくもりだとか。何気ない日常が、次から次へと。
(ちゃんと言うこと、聞いておけばよかった……甲洋、あんなに心配してくれたのに……バカだなぁ、おれ……)
会いたいなぁと、そう思う。甲洋はもう、操のことなどなんとも思っていないのかもしれない。だけど、それでもいいから。
なにも言わずに飛び出して来たりなんかしないで、ちゃんと話をすればよかった。どうせ同じ結末を迎えるのなら、もっとちゃんと。
(甲洋、ごめん)
ああ、落ちる。これで終わりだと、そう思っていた。
「来主ッ!!」
遠くで名前を呼ばれるのと同時に、男が息を呑む音がした。
操から引き剥がされた男が、そのまま左頬を殴りつけられて吹っ飛ばされる。ぐぇ、という悲鳴をあげながら、ゴロゴロと地面を転がった。
操はその一瞬の光景を、こじ開けた瞳でただ呆然としながら眺めていた。拳を強く握りしめ、肩で息をしながら立ち尽くす甲洋の背中を。
(甲洋……?)
信じられなかった。彼がここにいることが。まるで夢でも見ているみたいだ。あるいは安いドラマかなにかだろうか。こんなギリギリのところで助けに来てくれるなんて、まるで正義のヒーローみたいだ。
操は身を起こし、甲洋の名を呼ぼうとした。しかしこみ上げてくる激しい咳によって、まともに声を出すことすらできない。
そうしている間にも男が低い呻きをあげながら、よろよろと身を起こして立ち上がろうとしていた。
「このっ、ダサイモ野郎が……よくもオレのミサオを……っ」
男は切れた口の端を手の甲で拭いながら、忌々しげに言って鬼のような形相を上げた──が、次の瞬間、正面から甲洋の顔を見てなぜか絶句してしまう。
ガサガサと音を立てる肺に必死で酸素を取り込みながらも、操はふと気がついた。
頼りなく点滅する街灯の下で、鈍くなにかが光っている。甲洋が常に身につけていた、あの濁った瓶底眼鏡だ。さっき男を殴りつけた拍子に、外れて落ちてしまったのだろう。
「やっぱりお前か」
甲洋が鼻で笑った気配がした。操は目を丸く見開く。
「あれは宣戦布告でもしたつもりか?」
甲洋は知っているのだ。この男のことを。それに、宣戦布告とはどういうことだろう。操が知らないところで、彼らがすでになんらかの接点を持っているということだけは、なんとなく理解できる。
それがなんなのか気にはなるが、それ以上に操を驚かせたのは、甲洋のまるで硝子のように冷えきった低い声だった。こんな声を、初めて聞いた。
(どんな顔してるんだろう?)
彼は今、どんな顔をしながらあの冷淡な声を発したのだろう。
操からは甲洋の広い背中しか見えない。憎悪に駆られた鬼のような形相よりも、それはきっとずっと恐ろしいものに違いなかった。それだけは分かったような気がして、ぞわぞわとした鳥肌がたつ。爪の先まで四肢が冷えるのを感じながら、操はひとつ身を震わせた。
男は甲洋の端正な美貌に圧倒され、言葉を失ったままだった。散々イモだのなんだのと見下していたのだから、ショックを受けるのも無理はない。
やがてガタガタとそこだけ地震が起きたように全身を戦慄かせ、男は怨念に血走る瞳をカッと見開いた。甲洋がまた少し、笑った気がする。
「いいぜ、来いよ。売られたケンカは買ってやる」
「くそ! くそ!! イケメンは死ね──!!」
「甲洋!!」
操は悲鳴じみた声で甲洋の名を呼んだ。
男が落ちている眼鏡を踏みつけながら、甲洋に殴りかかろうとしている。そこからは全てが一瞬の出来事だったが、操の目にはスローモーションのように映った。
甲洋は寸でのところで男の拳を受け流し、その手を掴むやいなや引き寄せるようにしながら腹部に右膝を突き入れた。潰れたカエルのような悲鳴があがり、男が身体をくの字に曲げる。甲洋はその隙に男の襟首を掴むと、トドメとばかりにその頬に拳を叩きつけた。
「ッ……!!」
男はもはや悲鳴すらあげることなく吹っ飛ばされて、再び地面を転がった。やがて大の字の姿勢で動かなくなってしまう。
操はポカンと口を開けたまま、瞬きひとつできなかった。
「凄い……映画みたいだ……」
「来主!!」
甲洋が焦った顔をして駆け寄ってきた。座り込んだまま呆然としている操のそばに膝をつき、思いきり抱きすくめる。
「こ、甲洋」
「間に合ってよかった……」
さっきまでの冷淡さが嘘のように、その声はわずかに震えて上ずっていた。
「君、どうしてここが分かったの?」
操はまだどこか夢を見ているような気分のままで問いかける。
「お前の声が聞こえたから」
わずかに身じろいで顔をあげると、甲洋は今にも泣きだしそうな、それでいてひどく怒っているような、複雑な表情を浮かべていた。操よりもずっと顔色が悪いように見える。
「この時間に来主が行きそうなところなんて、コンビニかゲーセンくらいしか思いつかなかった。俺はお前のこと、まだなにも知らないんだって思い知ったよ」
マンションを飛び出した甲洋は、とにかく手当り次第に近辺のコンビニを探し回り、駅前のゲーセンにまで足を伸ばした。
しかし操はどこにもおらず、途方に暮れながらいったん引き返そうとした。
声が聞こえたのは、マンションの正面まで戻ってきたときだ。聞こえるか聞こえないかの微かな悲鳴だったが、甲洋はそれが操のものであるに違いないと確信した。だから見つけることができたのだと、甲洋は言った。
「こんなに近くにいたのかよ……」
悔しさと情けなさを滲ませた声で吐きだしながら、甲洋は再び操の身体をきつく抱きしめた。
よく知る匂いと熱に包まれて、固結びされたようになっていた心が今更になって緩んでいく。安堵と一緒に涙が溢れ、操はその背に強く腕を回した。
自分と同じくらい甲洋の身体も震えていることに気がつくと、引き絞られたように胸が痛んだ。
「ッ、ごめん甲洋……ごめんね……っ!」
本当は行く場所くらい他にもあった。友達がいないわけじゃないし、適当なホテルに駆け込むことだってできたはずだ。
それなのにずっと公園で腐っていたのは、ここなら甲洋が探しに来やすいのではないかと、どこかで期待していたからだった。心の奥底では、きっと来てくれると信じていた。だからここで待っていたのだ。
「バカ」
「ごめん……ごめんなさいぃ……っ」
どうせもう飽きてしまったんだとか、どうでもよくなったんだとか。大きな身体を震わせながら、こんなにも強く抱きしめてくれるひとのことを、どうして疑ったりなんかしたんだろう。
彼が来てくれなかったら、きっとあのまま死んでいた。こうなることを恐れていたから、甲洋はずっと注意してくれていたのに。
操は泣きながら何度も謝って、甲洋はそんな操をずっと抱きしめていた。すると遠くから、パトカーのサイレンが近づく音が聞こえてくる。
ハッとして顔をあげた操の頭を軽く撫でながら、甲洋が音のほうに目をやった。
「誰かが通報したんだ。ずいぶん騒がしくしたから」
「あのひと……死んだ?」
大の字で転がったまま動かない男を見やり、それからまた甲洋を見上げる。揺れている操の瞳に笑いかけ、甲洋は静かに首を左右に振った。
「死んじゃいない。大丈夫だよ」
「君がこんなにケンカ強いなんて、なんか意外……」
「俺も意外。初めてだよ、人を殴ったのなんて」
「そうなの!?」
「殴られたことはあるけどね」
おどけたように言って笑う甲洋に、気が抜けた操はポカンとしたままなにも言うことができなかった。
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