2025/08/26 Tue 七歳の夏、甲洋が操の家を訪れてから、ふたりは毎日一緒に遊んでいた。 「来主はいいな」 彼が初めてこの田舎町へ遊びに来て、しばらく経った頃。 両手をハーフパンツのポケットに突っこんで、田んぼのあぜ道をブラブラと歩きながら、甲洋がぼやいた。 「なんで?」 首を傾げるようにしながら、顔を覗き込んで問いかける。独り言のつもりだったのかもしれない。甲洋は少し困った顔をしながらも、小さく笑った。 「家族がみんな、優しいひとたちだから」 「甲洋のお父さんとお母さんは、やさしいひとたちじゃないの?」 しばしの沈黙。操の舌足らずな質問に、甲洋は「あはは」と子供らしくない乾いた笑い声をあげた。 「あんまり、かな」 「どうして?」 甲洋がこんなに優しい子なのだから、きっとお父さんとお母さんも優しい人たちなのだと思っていた。問いかけに甲洋はなにも言ってくれなかったが、そういえば彼の両親は今ごろ、ふたりだけで旅行中なのだということを思いだした。 変だなと、操は思う。どうして甲洋だけ、連れて行ってもらえなかったのだろう。 「ねぇ、甲洋は、どうしてここにひとりできたの?」 甲洋はギクリと肩を強張らせ、どこか悲しそうな目をして操を見た。 「だってヘンだよ。甲洋だけ、りょこーに行けなかったんでしょ? おれのおじいちゃんとおばあちゃんは、ゼッタイそんなことしないよ。おれのこと、おいてったりしないよ」 「……そうだね」 「そんなのヘンだよ。甲洋だけ、どうして仲間ハズレなの?」 操の中には純粋な憤りだけがあった。無遠慮に踏みこむことで甲洋がどう思うかとか、優しい祖父母を比較対象にすることの残酷さなんて、考えもしなかった。 ただ可哀想だとしか思えなかったのだ。自分だけ仲間外れにされるなんて。置いてけぼりにされるなんて。操だったらわんわん泣いて、手がつけられなくなるだろう。だけど甲洋はそんな素振りをひとつも見せず、ひとりぼっちで船に乗って、電車に乗って、バスに乗ってここまで来た。そんなの、寂しすぎる。 操は足を止めるとぎゅっと眉間にシワを寄せ、唇を尖らせた。一緒に立ち止まった甲洋は曇らせていた表情を和らげ、笑顔で首を左右に振った。 「平気だよ。だってここに来られたし。来主といっしょに遊べるほうが、俺は楽しいよ」 「……ほんと?」 うん、と頷いた甲洋が、操の頭をぽんぽんと優しく撫でる。 確かにそうかもしれない。もし甲洋が旅行に行っていたら、今ごろここには来ていないのだ。 彼がここに来たのは偶然だった。知り合いの家だとか、もっと近い親戚の家だとかがあったけれど、どこも都合が悪くて甲洋を預かってくれる家がなかった。 だから普段は話題にものぼらないような、この遠い来主の家に来た。こんなことがなかったら、操は甲洋の存在すら知らないままだったかもしれない。 「おれも! おれも、甲洋といっしょに遊べて楽しい! 甲洋が来てくれて、すごくすごくうれしいよ!」 一緒に遊んで、一緒に同じクレヨンを使って絵日記を描いて、ご飯を食べて、スイカを食べて、同じ布団に入って。あまり夜更かしをしていると注意されてしまうけど、起きているのがバレないように布団の中で息を潜めて、コソコソと内緒話をするのがとても楽しい。 甲洋は操より二歳もお兄さんで、いろんなことを知っている。操が知らない遊びも、たくさん知っているのだ。 今日はこれから川へ行って、手作りの釣り竿で魚釣りをすることになっている。甲洋が作り方を教えてくれるというので、操は昨日の夜からワクワクしすぎてあまり眠れなかった。 「ねぇ甲洋、早く行こうよ! お魚いっぱいとれるといいね!」 「うん、そうだね。行こう!」 「そうだ! どっちが早くつくか、かけっこしよ!」 「あっ、ちょっと! ずるいよ来主!」 「えへへー! おれのかちー!」 はしゃいだ声をあげながら、操が先に走りだす。慌てた甲洋も、少し遅れて駆けだした。 真っ青な空のした、夏の風が、田んぼのあぜ道に吹き抜ける。全力で駆けるふたりの頬にはうっすらと汗が滲み、太陽を弾いてキラキラと瞬いていた。 だけど操は甲洋より小さくて、あっという間に追い抜かされてしまった。 「あっ、甲洋ずるいー!」 「来主は足が遅いね! 早くしないと置いてっちゃうよ!」 「や、やだぁ! いじわる! まってぇー!」 「しょうがないな! ほら!」 少しだけ速度を緩めた甲洋が、バトンを受け取るみたいに振り向いて操に手を差し出した。操は真っ赤な頬をしながら必死で手を伸ばし、その手にぎゅうと捕まった。甲洋は操の手をしっかりと握りしめると、また力いっぱい走りだす。 「わぁすごい! 早い早い!!」 まるで風になったみたいだ。このままジャンプしたら、空だって飛べそうな気がする。 花火が打ち上がるみたいに、パチパチと胸が躍りだしていた。こんなに楽しい気持ちになるのは初めてで、操は転びそうになりながらも必死で甲洋について行く。 全身を撫でる風も、日差しも、握りあった手も熱くてたまらなかった。ふと甲洋の手が滑りそうになったとき、操はその手をさらに強く握りしめた。離れないように。 (このままずっと、甲洋といっしょにいたいなぁ) そう願いながら、蝉時雨の中を力の限り、駆け抜けた。 * 「来主、ねぇ来主、泣かないで」 夏休みの終わり。 甲洋が家に帰る日が来てしまった。操はそれが嫌で、朝からずっと泣いていた。 「だって甲洋、かえっちゃうんだもん……」 休みはあと2日残っている。だけど明日から甲洋はいないのだ。 すぐに学校が始まるけれど、それでも寂しい。甲洋がいない毎日に戻るのが悲しかった。 「ねぇ甲洋……うちの子にならない?」 「え?」 「おれ、甲洋がいなきゃイヤだ。さみしい」 縁側にふたり並んで腰掛けながら、操は彼の肩に両手で縋りついた。甲洋はただ困ったように眉尻を下げて見せるだけで、首を縦に振ってはくれない。 「どうしてうんって言ってくれないの……?」 名案だと思ったのに。だって甲洋の両親は、彼をのけ者にして旅行に行ってしまうような、優しくない人たちなのだ。そんな人たちがいる家に帰るより、きっとここにいたほうが楽しいに決まってる。甲洋は、そうは思ってくれないのだろうか。 「ねぇ甲洋ってば!」 「……俺だって」 甲洋は怒っているような、困っているような、複雑そうな顔をした。 「俺だってそうしたいよ。でも、子供が勝手に決められることじゃないから」 「じゃあ……じゃあおれ、甲洋のお父さんとお母さんにおねがいする! 甲洋をうちの子にしてくださいって、おねがいするよ!」 「来主……」 甲洋の瞳が揺れていた。ぽろぽろと涙をこぼす操に引きずられて、彼も少し泣きそうになっていた。 けれどそれ以上に、彼は戸惑っている様子を見せた。 「……なんでそんなに必死なの、お前」 彼にしては、珍しくどこかぶっきらぼうな言い方だった。押し殺したみたいに、少しだけ声が低くなっている。 「だっておれ、甲洋のこと大好きだもん」 「!」 操の言葉に、甲洋の肩が跳ねる。 まるで知らない異国の言葉でとつぜん話しかけられたみたいな、そんな驚いた顔をしていた。 「あのね、おれ、甲洋といるとたのしい。甲洋のことが好きだから、もっといっぱい、なかよくしたいの」 「……っ」 「甲洋は?」 「お、俺は……」 甲洋は顔を真っ赤にしながら口をごにょごにょとさせる。何度もよそ見をして、落ち着かない様子だった。 彼は忙しく目を泳がせると、やがて恥ずかしそうにおずおずと操を見た。それから、夜に布団の中で内緒話をしていたときと同じくらい小さな声で、「俺も」と言った。 「ほんとに?」 操が目を輝かせると、甲洋はこくこくと何度も頷いた。嬉しかった。甲洋も同じ気持ちでいてくれたことが。 甲洋の好きにはちょっと特別な意味があるのだけれど、操にはまだそこまでのことは分からない。操にとって好きは好きでしかなくて、それだけで充分だった。 「あ、あのさ」 「ん……」 「俺、また来るよ」 「いつ……?」 「冬休みにもまた来れるように、父さんと母さんに頼んでみる。たぶん、ダメって言われないと思うんだ。俺は、あの家にいないほうがいいから……」 甲洋は指先で操の涙を拭うと、笑顔を浮かべた。 「だからまた来る。ぜったい」 「うん……うん……」 「それまでに、もっと早く走れるようになっておきなよ。またかけっこしよう?」 「ん……わかった。おれ、甲洋より早くなる。こんどは、おれが甲洋のことひっぱるよ」 「うん。約束」 差し出された小指に、操は自分の小指を絡めた。甲洋の指は熱くて、少し汗ばんでいた。 操はやっぱり寂しくて、そのあともずっと泣き続けてしまったけれど、甲洋が赤くなった鼻を何度もすすって我慢しているのを見て、悲しいのに嬉しいと思った。 甲洋も、本当はずっと一緒にいたいと思ってくれている。それが伝わってくるから。 (また会える。冬になったら、またいっぱい遊ぶんだ!) 次の『約束』をくれたことが、なによりも。 * それから甲洋は、毎年夏と冬の長期休暇には必ず操の家に泊りがけで遊びに来るようになった。 待っている時間はとても長いが、一緒に過ごす時間はあっという間だ。それでも別れ際には必ず次の約束をくれるから、操にとっては甲洋を待つ時間すら楽しいものに変わっていった。 操は甲洋が来るたびに毎日かけっこをした。長い田んぼのあぜ道を使って、何度も再戦を申し込んだ。けれど二歳の年の差は大きくて、なかなか勝つことができなかった。 初めて会ったときから二年が過ぎて、操が小学三年生になった夏のことだ。甲洋と出会って、三度目の夏休み。 操は遊びに来た甲洋と、さっそく外に遊びに出かけた。今年の夏はなにをして遊ぶか、ふたりで相談しながら家の周りをブラついていた。ゲーセンのひとつもないような田舎町だ。やることはいつもだいたい決まっているのだが、子供同士の無邪気な会議はとめどなく続いた。 家のすぐ脇を流れる小川を一緒にしゃがんで覗き込み、小魚を探したりして遊んでいるとき、操は甲洋が着ているTシャツを見て、ふと気がついた。 「ねぇ甲洋、そのシャツちょっと小さいね」 「え?」 透き通る川のせせらぎを熱心に見つめていた甲洋が、操に視線を向けてきょとんとする。 「それ、いつも着てる。冬に来たときも、セーターの下に着てたでしょ。あ、ほら見て。肩のとこ、ちょっと糸が出てるよ」 「あ……ほんとだ」 甲洋はほつれた肩口に目を向けて、弱ったように眉を下げた。 それはなんの変哲もない、どこにでも売っているようなプリントシャツだ。初めてここを訪れた夏も、確か彼はこれを着ていた。その次の夏も着ていたし、冬休みにも着て来ていた。最初はサイズが大きめだったが、会うたびにぐんぐん背が伸びる甲洋の身体に、今では少し窮屈そうに見える。 「新しいの買ってもらったらいいのに」 その何気ない言葉を受けて、甲洋の表情にわずかな翳りがさす。 「……気に入ってるんだ」 「でも、ボロボロだよ」 「うん……」 「買ってもらえないの? 新しい服」 甲洋は目を伏せ、「そんなことないよ」と言って、再び小川の方へと視線を向けた。 「いつも同じ服ばかり着てると、学校の先生が心配するんだ。だから最近は、たまに買ってもらえるようになったよ。しょうがなくって感じだけど……でもこれは、初めて誰にもなにも言われずに買ってもらえた服なんだ。父さんが買って来てくれた。俺の誕生日に」 「甲洋のお父さんとお母さんは……甲洋のことキライなの?」 短い沈黙。小川のせせらぎがなければ、もっと長く感じられていたかもしれない。 「……好きの反対ってね、嫌いじゃなくて、無関心なんだよ」 操には甲洋が言っていることがよく理解できなかった。だから素直に「わかんない」と口にすると、甲洋は無表情のまま小川を見つめて、「別にいいよ」と吐き捨てた。 「来主には、言ってもどうせ分かんないし」 「どうしてそんなこと言うの?」 操は少し不安になった。甲洋の横顔が凍りついたようになっている。こんな顔を見たのは初めてで、操はそれを怖いと感じた。 「甲洋……?」 顔を覗き込もうとした操から逃れるように、甲洋は立ち上がった。操も慌てて立ち上がると、彼は気を取り直したように笑おうとしたけれど、口元が不器用に強張ってしまう。 「ごめん。忘れて、今の話」 「そんなのムリだよ。気になるもん」 「……来主、その靴いいね。かっこいい」 話をそらされたことくらい、操にだって分かった。けれどそれ以上に、靴の話をされるのは嬉しかった。 「えへへ! これね、魔法の靴なんだよ!」 「魔法?」 「うん! おじいちゃんが買ってくれた! これをはくと、すっごく早く走れるんだって!」 それは新品の赤いスニーカーだった。 今度こそ甲洋にかけっこで勝つんだと意気込む操に、祖父が買い与えてくれたものだった。車でわざわざ大きな街のデパートまで出かけて行って、大きな靴屋で店員に選んでもらった。軽くて柔らかくて、履き心地は抜群だ。操はこれを、甲洋が来るまで履かずにとっておいた。ついさっき箱から出したばかりだから、汚れひとつ見当たらない。 「ねぇ甲洋! かけっこしようよ! 今度こそおれが勝つからね!」 最初の夏に甲洋に負けてから、操は毎日のように走る練習をしているのだ。ずいぶん早く走れるようになったと思う。操は甲洋の手を引っ張って走りたかった。あの夏。一緒に川を目指したときみたいに、今度は操が甲洋の手を引いて、どこまでも走ってみたかった。 だけど甲洋は浮かない顔のままじっと操の靴を見つめると、「やだよ」と言った。 「え?」 「しない。お前とは、もう走らない」 「な、なんでぇ?」 「……魔法の靴なんかに、勝てるわけないだろ」 甲洋は背を向けると、さっさと歩きだしてしまった。操は慌てて追いかけて、前に回り込むと甲洋の手を両手で掴んで揺さぶった。 「やだ! おれ、いっぱい練習したんだもん! 甲洋と走るの、楽しみにしてたんだもん!」 「だからやだってば。そんなに走りたいなら、ひとりで走ればいいだろ」 「なんで……なんでそんないじわる言うの……?」 涙が浮かんで、甲洋の顔が見えなくなった。 操には分からない。甲洋の気持ちなんか分からない。どんなにお兄さんでも、甲洋はまだ子供で、操と同じ、子供でしかなくて、欲しいものを満足に与えられたことのない彼の目に、恵まれた操がどう映っているのかなんて。それを素直に言えない程度には、彼にだってプライドというものがあるのだけれど、そんなこと、操に分かるはずがない。 「だったら甲洋も買ってもらえばいいじゃん! うらやましいなら、そう言えばいいのに!」 だからそれが、彼が今もっとも言ってほしくない言葉だということにも、気づかなかった。 甲洋はなにも言わず、ただ唇を噛み締めるだけだった。怒ってるみたいな、泣きだす寸前みたいな、そんな顔をしていた。 「……おまえなんか、もう知らない」 押し殺した声でそう言って、甲洋は操の手を乱暴に振り払った。操の小さな身体はその勢いを受け止めきれず、地面にぺたんと尻もちをついてしまう。 草むらの地面は柔らかくて、痛くも痒くもないはずだった。だけど、痛かった。 「ぅ……ふぇ……」 まんまるの瞳から大粒の涙をこぼして、操はわあわあと声をあげて泣いた。甲洋に突き飛ばされた。甲洋に意地悪をされた。あんなに楽しみにしてたのに、せっかくまた会えたのに。 (きらわれた……甲洋に、きらわれた……) 甲洋はどうしたらいいか分からないという顔をしていた。彼も初めてだった。今まで一度だって、誰かをこんなふうに傷つけて泣かせたことなんかなかった。甲洋だって、ひどくショックを受けている。 「く、来主……ごめ……」 甲洋の声も泣きそうに掠れていた。だけど自分の泣き声に掻き消されて、操の耳には届かなかった。 どこかでは分かっていた。言ってはいけないことを言ってしまったのだと。だって操は知っていた。甲洋の両親が、『優しくない人たち』だということを。ちゃんと、知っていたはずなのに。 (きらわれた……きらわれちゃった……) 大好きなのに、嫌われた。操の心は、頭は、それだけで埋め尽くされていた。 泣きながら立ち上がった。甲洋の顔を見ることができない。悲しくて、消えていなくなりたいと思った。甲洋から逃げたい。こうしていると、もっともっと嫌われてしまいそうな気がした。だからその場から駆けだしていた。 「来主! 待って!」 すぐに甲洋も追いかけてくる。操は全力で走った。家の敷地を出て、すぐ裏の山へ入る。かろうじて通れるか通れないかの狭い獣道。そこは数日前に降った雨で、ところどころがぬかるんでいた。足を滑らせそうになりながら、操はどんどん複雑な山道を分け入った。 「来主!!」 背中にかかる甲洋の声が遠かった。操にとって裏山は庭のようなものだけど、彼にとってはそうじゃない。 「来ないで! おれだって、甲洋なんかもう知らない!」 張りだした小枝で頬を傷つけながら、操は叫んだ。言わなくちゃいけないことは他にあるはずだった。分かっているのに、言えなかった。 息が切れて、足がもつれはじめる。新品だったはずの靴が、泥まみれになっていく。 「待って来主! そっちは危ない!!」 そのときだった。 「──!?」 ぬかるみを踏み抜いた足が、ズルリと滑る。転ぶ、と思った瞬間、咄嗟に手を伸ばして適当な枝を掴もうとした。けれどそこで、まるでスローモーションのように時の流れが変わった気がした。 (もう、いいかな) 伸ばした手が、掴もうとしていたはずの枝を空振る。それは操の意思だった。 「来主!!」 甲洋の声が、ずっとずっと遠くに聞こえた気がした。 かけっこは、操の勝ちだった。こんなふうに勝ちたかったわけではないけれど。 (だって、きらわれちゃったんだもん。もう一緒には、いられないもん──) 死んでしまおうなんて、そこまで重く考えたわけじゃない。 ただ、このまま走り続けることの無意味さくらい知っていたから、ただもっと他に、逃げ場所を求めただけだったのだと思う。 ぬかるんだ地面に足を取られるに任せ、操の身体は派手に転倒した。そのまま急な斜面を転がり落ちる。舌を噛みそうなほどの衝撃。世界が回って、意識が一瞬だけ、真っ暗闇に吸い寄せられた。 * 気がつくと、雨が降っていた。あまりの寒さに、全身の皮膚が痺れたようになっている。 草木が生い茂り、濡れた枯れ葉が敷き詰められた場所で、操はのろのろと半身を起こした。それから、自分の身体をゆっくりと、胸元から下へと徐々に見下ろしていく。シャツも半ズボンも、新品だった靴も、土に汚れてボロボロだった。どこもかしこも擦り切れて、真っ赤な血が滲んでいる。 中でもひときわ大量に血が噴きだしているのは、膝から下がおかしな方向に折れ曲がった、右足の脛部分だった。 「っ──!?」 その光景を見た瞬間、操は息をのんだ。あまりにも衝撃的な光景に、息ができない。 操の右足は、鋭く尖った木の枝が貫通した状態だったのだ。いつかの嵐で薙ぎ倒されでもしたのか、横倒しになって朽ちた木からささくれのように張りだした、枝のひとつだった。尖った先端が脛に突き刺さり、ふくらはぎから突きだして血まみれになっている。認識した途端、思いだしたように激痛が走った。 痛い、痛い、痛い。怖い、怖い、怖い。助けて、誰か──。 「ぁ……ああ……ぁ……」 声が酷く震えている。言葉にならない。けれどその声を発したのは、操ではなかった。 「くる、す……」 甲洋だった。 急斜面を滑り落ちた操を、死に物狂いで追いかけてきた甲洋もまた、顔や手などに酷い切り傷を負っていた。大切そうにしていたプリントシャツも、ところどころが裂けてボロボロになっている。 彼は真っ青な顔で操の足を見下ろしていた。全身を震わせ、歯の根を鳴らしている。踊っていた膝が崩れ、ついにはへたり込んでしまった。 「どう、して、こんな、ことに……」 声は上擦り、途切れ途切れになっていた。かろうじて絞りだしているという具合だった。彼は操以上にショックを受けていたのかもしれない。今にも死んでしまいそうに見えた。 どうしてこんなことに──。甲洋が放った言葉を、頭の中で繰り返す。どうして、どうして。ああ、そうだ。そうだった。 こんなことになってしまったのは、全部──。 「甲洋のせいだよ」 右足の膝から下が、見たこともないほどおびただしい量の血で染まっていた。冷たい雨に打たれ、皮膚が紫色に変色している。 「ほら見てよ……いっぱい血がでてる。おれの足、こわれちゃったよ」 過ぎた痛みが、皮肉にも感覚を麻痺させていく。 意識が虚ろになっていくなか、降りしきる雨が幼い体温を奪っていった。寒かった。もしかしたら、このまま死んでしまうのかもしれない。死んでしまっても、いいのかもしれない。 操は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。心の中で、何かが音を立てて壊れてしまったような気がする。 「甲洋がいじわるだから、おれの足、こんなになっちゃったんだよ」 甲洋は死人のような顔色になっていた。見開かれたままの瞳は、焦点が合っていないように見えた。カチカチという歯の根がなる音だけが、空気を震わせている。 誰よりも優しい甲洋。目の前の光景に傷ついて、怯える甲洋。ああ、きっと自分を責めている。さっきまでの操には、甲洋の気持ちなんか分からなかった。だけど今は、分かる。 操は声をあげて笑ってしまった。実際、まともに声が出ていたかは分からない。だけどおかしくて、肩が小刻みに揺れ続ける。喜びに打ち震えながら、血と泥にまみれた頬に、涙が伝った。 今この瞬間、操の言葉は呪いのように、彼を縛りつけるのだ。 「これでおれたち、ずーっといっしょにいられるね」 操は見つけてしまった。彼と、ずっと一緒にいる方法。その理由を、片足の自由と引き換えに。 この右足は、もうダメだ。幼い操にだって、それくらい分かる。 賢い甲洋に、分からないはずがなかった。 * あの瞬間から、甲洋と操の関係性は大きく変わった。 操が白と言えば、半紙の上にぶちまけた墨汁は白い絵の具に変わるし、黒と言えば洗いたてのシーツですら、どす黒い汚泥に染まる。 あるべきはずの秩序は砕かれ、そうやって全く別のものへと再構築された。 甲洋は操をまるで神様のように扱った。素手でカエルを潰せと言えば、その通りに実行した。セミの羽根をもぎ取れと言えば迷うことなく従ったし、カブトムシの角だって平気で折った。 操は彼にとって、絶対的な存在になったのだ。全てを聞き入れ、許し、尽くす。操にだけはいつだって優しくなければならないし、従順でなければならない。 その関係性がより歪に変化を遂げる兆しが見えたのは、祖父が他界して間もない頃だ。 ふたりはまだ中学生だった。 「甲洋もこっちの学校だったらいいのにな。部屋だって余ってるもん。ここに住んじゃえばいいのに」 小さな頃にも、同じようなことを言って甲洋を困らせたことがある。 あのときは本気だったが、今はさすがに冗談で言ったつもりだった。甲洋はただ静かに笑うだけだったから、間に受けているなんて思いもしなかった。だから次に会ったとき、こっちの高校を受験すると真顔で言った彼に、驚かされた。 両親とはあっさり話がついた。甲洋の将来を考えて、反対したのは担任の教師だけだった。けれど甲洋は、それを頑なに押し切った。 あとはここに住まいを移すことを、操の祖母に了承してもらうだけだと。 彼の意思は揺るぎないものだった。驚きはしたものの、操に異存はなかったし、祖父が死んでからすっかり元気を失くしていた祖母は、それを聞いて喜んだ。あまりにも話が上手く行きすぎているようで、少し怖くもあった。 高校はこの町から数キロ離れた隣町にあった。 進学後、この家に暮らしはじめた甲洋は、それまで以上に操の世話をするようになった。 当時の操はどこへ行くにも松葉杖をついていて、学校の行き帰りはもちろん、ちょっとそのあたりを散歩するのでさえ、必ず隣に甲洋が付き添った。 幼い頃、甲洋がうちの子になればいいのにと夢見たことが、現実になったのだ。幸せでしかない毎日と、過剰ともいえる庇護のもとに、操の傲慢さと甲洋への依存は日に日に膨らんだ。 最初に手をあげたのは、操も同じ高校に入学してすぐのことだった。 三年生になっていた甲洋は、美しい青年に成長を遂げていた。 背も高く、成績も優秀で優しい彼は、女子生徒から絶大な人気を誇っていた。二年遅れて入学した操は、そんなこと知りもしなかった。 彼の靴箱には、毎日のようにラブレターやらプレゼントが詰め込まれていた。甲洋はそれを全て断っていたし、興味を示すことはなかったけれど、間近で見せつけられた操は、生まれて初めての嫉妬に気が狂いそうだった。 甲洋が、誰か他の人のものになってしまう日が来るかもしれない。もしそうなったら、彼はどこか遠くへ行ってしまうかもしれない。 そう思った瞬間、目の前が真っ赤になった。 だから殴った。衝動的に、暴力をふるっていた。 自宅の小さな裏庭でのことだった。 操は甲洋にラブレターを全て燃やせと命じた。彼は従い、焼却炉の前にしゃがみこみ、手紙の束に火をつけようとしていた。そこを殴った。松葉杖で、何度も何度も。 支えがなければ立っているのもやっとの身体だ。避けようと思えばできたはずだし、最初こそ腕で顔や頭を庇う素振りを見せたが、甲洋はすぐに無防備になって、それらを受け入れた。口の端からも、額からも血を流した彼は、力尽きて態勢を崩した操をしっかりと抱きとめ、「大丈夫?」と言って微笑んだ。 我に返った操は、全身に痣や傷を負った甲洋に、何度も何度も泣きながら謝った。酷く混乱していた。当たり所が悪ければ、彼を死なせていたかもしれない。そんなことすら考えられないほど、感情を制御できなかった自分が、まるで自分じゃないみたいで怖かった。 操は自分が嫉妬してしまったことを、正直に打ち明けた。甲洋がいつか誰かのものになってしまうかもしれない。そう思うと怖くて怖くて、堪らないのだと。 甲洋は嬉しそうに笑って、「それは恋だよ」と、教えてくれた。 恋だとか愛だとか、操にはよく分からなかった。多分きっと、いつの間にか通り越していた。 甲洋は、自分も同じだと言った。初めて会ったあの夏の日には、もう恋に落ちていたのだと。そう言って、操の震える唇にキスを落とした。血の味がしたのを、よく覚えている。 セックスをしたのも、その夜が初めてのことだった。 ←戻る ・ 次へ→
「来主はいいな」
彼が初めてこの田舎町へ遊びに来て、しばらく経った頃。
両手をハーフパンツのポケットに突っこんで、田んぼのあぜ道をブラブラと歩きながら、甲洋がぼやいた。
「なんで?」
首を傾げるようにしながら、顔を覗き込んで問いかける。独り言のつもりだったのかもしれない。甲洋は少し困った顔をしながらも、小さく笑った。
「家族がみんな、優しいひとたちだから」
「甲洋のお父さんとお母さんは、やさしいひとたちじゃないの?」
しばしの沈黙。操の舌足らずな質問に、甲洋は「あはは」と子供らしくない乾いた笑い声をあげた。
「あんまり、かな」
「どうして?」
甲洋がこんなに優しい子なのだから、きっとお父さんとお母さんも優しい人たちなのだと思っていた。問いかけに甲洋はなにも言ってくれなかったが、そういえば彼の両親は今ごろ、ふたりだけで旅行中なのだということを思いだした。
変だなと、操は思う。どうして甲洋だけ、連れて行ってもらえなかったのだろう。
「ねぇ、甲洋は、どうしてここにひとりできたの?」
甲洋はギクリと肩を強張らせ、どこか悲しそうな目をして操を見た。
「だってヘンだよ。甲洋だけ、りょこーに行けなかったんでしょ? おれのおじいちゃんとおばあちゃんは、ゼッタイそんなことしないよ。おれのこと、おいてったりしないよ」
「……そうだね」
「そんなのヘンだよ。甲洋だけ、どうして仲間ハズレなの?」
操の中には純粋な憤りだけがあった。無遠慮に踏みこむことで甲洋がどう思うかとか、優しい祖父母を比較対象にすることの残酷さなんて、考えもしなかった。
ただ可哀想だとしか思えなかったのだ。自分だけ仲間外れにされるなんて。置いてけぼりにされるなんて。操だったらわんわん泣いて、手がつけられなくなるだろう。だけど甲洋はそんな素振りをひとつも見せず、ひとりぼっちで船に乗って、電車に乗って、バスに乗ってここまで来た。そんなの、寂しすぎる。
操は足を止めるとぎゅっと眉間にシワを寄せ、唇を尖らせた。一緒に立ち止まった甲洋は曇らせていた表情を和らげ、笑顔で首を左右に振った。
「平気だよ。だってここに来られたし。来主といっしょに遊べるほうが、俺は楽しいよ」
「……ほんと?」
うん、と頷いた甲洋が、操の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
確かにそうかもしれない。もし甲洋が旅行に行っていたら、今ごろここには来ていないのだ。
彼がここに来たのは偶然だった。知り合いの家だとか、もっと近い親戚の家だとかがあったけれど、どこも都合が悪くて甲洋を預かってくれる家がなかった。
だから普段は話題にものぼらないような、この遠い来主の家に来た。こんなことがなかったら、操は甲洋の存在すら知らないままだったかもしれない。
「おれも! おれも、甲洋といっしょに遊べて楽しい! 甲洋が来てくれて、すごくすごくうれしいよ!」
一緒に遊んで、一緒に同じクレヨンを使って絵日記を描いて、ご飯を食べて、スイカを食べて、同じ布団に入って。あまり夜更かしをしていると注意されてしまうけど、起きているのがバレないように布団の中で息を潜めて、コソコソと内緒話をするのがとても楽しい。
甲洋は操より二歳もお兄さんで、いろんなことを知っている。操が知らない遊びも、たくさん知っているのだ。
今日はこれから川へ行って、手作りの釣り竿で魚釣りをすることになっている。甲洋が作り方を教えてくれるというので、操は昨日の夜からワクワクしすぎてあまり眠れなかった。
「ねぇ甲洋、早く行こうよ! お魚いっぱいとれるといいね!」
「うん、そうだね。行こう!」
「そうだ! どっちが早くつくか、かけっこしよ!」
「あっ、ちょっと! ずるいよ来主!」
「えへへー! おれのかちー!」
はしゃいだ声をあげながら、操が先に走りだす。慌てた甲洋も、少し遅れて駆けだした。
真っ青な空のした、夏の風が、田んぼのあぜ道に吹き抜ける。全力で駆けるふたりの頬にはうっすらと汗が滲み、太陽を弾いてキラキラと瞬いていた。
だけど操は甲洋より小さくて、あっという間に追い抜かされてしまった。
「あっ、甲洋ずるいー!」
「来主は足が遅いね! 早くしないと置いてっちゃうよ!」
「や、やだぁ! いじわる! まってぇー!」
「しょうがないな! ほら!」
少しだけ速度を緩めた甲洋が、バトンを受け取るみたいに振り向いて操に手を差し出した。操は真っ赤な頬をしながら必死で手を伸ばし、その手にぎゅうと捕まった。甲洋は操の手をしっかりと握りしめると、また力いっぱい走りだす。
「わぁすごい! 早い早い!!」
まるで風になったみたいだ。このままジャンプしたら、空だって飛べそうな気がする。
花火が打ち上がるみたいに、パチパチと胸が躍りだしていた。こんなに楽しい気持ちになるのは初めてで、操は転びそうになりながらも必死で甲洋について行く。
全身を撫でる風も、日差しも、握りあった手も熱くてたまらなかった。ふと甲洋の手が滑りそうになったとき、操はその手をさらに強く握りしめた。離れないように。
(このままずっと、甲洋といっしょにいたいなぁ)
そう願いながら、蝉時雨の中を力の限り、駆け抜けた。
*
「来主、ねぇ来主、泣かないで」
夏休みの終わり。
甲洋が家に帰る日が来てしまった。操はそれが嫌で、朝からずっと泣いていた。
「だって甲洋、かえっちゃうんだもん……」
休みはあと2日残っている。だけど明日から甲洋はいないのだ。
すぐに学校が始まるけれど、それでも寂しい。甲洋がいない毎日に戻るのが悲しかった。
「ねぇ甲洋……うちの子にならない?」
「え?」
「おれ、甲洋がいなきゃイヤだ。さみしい」
縁側にふたり並んで腰掛けながら、操は彼の肩に両手で縋りついた。甲洋はただ困ったように眉尻を下げて見せるだけで、首を縦に振ってはくれない。
「どうしてうんって言ってくれないの……?」
名案だと思ったのに。だって甲洋の両親は、彼をのけ者にして旅行に行ってしまうような、優しくない人たちなのだ。そんな人たちがいる家に帰るより、きっとここにいたほうが楽しいに決まってる。甲洋は、そうは思ってくれないのだろうか。
「ねぇ甲洋ってば!」
「……俺だって」
甲洋は怒っているような、困っているような、複雑そうな顔をした。
「俺だってそうしたいよ。でも、子供が勝手に決められることじゃないから」
「じゃあ……じゃあおれ、甲洋のお父さんとお母さんにおねがいする! 甲洋をうちの子にしてくださいって、おねがいするよ!」
「来主……」
甲洋の瞳が揺れていた。ぽろぽろと涙をこぼす操に引きずられて、彼も少し泣きそうになっていた。
けれどそれ以上に、彼は戸惑っている様子を見せた。
「……なんでそんなに必死なの、お前」
彼にしては、珍しくどこかぶっきらぼうな言い方だった。押し殺したみたいに、少しだけ声が低くなっている。
「だっておれ、甲洋のこと大好きだもん」
「!」
操の言葉に、甲洋の肩が跳ねる。
まるで知らない異国の言葉でとつぜん話しかけられたみたいな、そんな驚いた顔をしていた。
「あのね、おれ、甲洋といるとたのしい。甲洋のことが好きだから、もっといっぱい、なかよくしたいの」
「……っ」
「甲洋は?」
「お、俺は……」
甲洋は顔を真っ赤にしながら口をごにょごにょとさせる。何度もよそ見をして、落ち着かない様子だった。
彼は忙しく目を泳がせると、やがて恥ずかしそうにおずおずと操を見た。それから、夜に布団の中で内緒話をしていたときと同じくらい小さな声で、「俺も」と言った。
「ほんとに?」
操が目を輝かせると、甲洋はこくこくと何度も頷いた。嬉しかった。甲洋も同じ気持ちでいてくれたことが。
甲洋の好きにはちょっと特別な意味があるのだけれど、操にはまだそこまでのことは分からない。操にとって好きは好きでしかなくて、それだけで充分だった。
「あ、あのさ」
「ん……」
「俺、また来るよ」
「いつ……?」
「冬休みにもまた来れるように、父さんと母さんに頼んでみる。たぶん、ダメって言われないと思うんだ。俺は、あの家にいないほうがいいから……」
甲洋は指先で操の涙を拭うと、笑顔を浮かべた。
「だからまた来る。ぜったい」
「うん……うん……」
「それまでに、もっと早く走れるようになっておきなよ。またかけっこしよう?」
「ん……わかった。おれ、甲洋より早くなる。こんどは、おれが甲洋のことひっぱるよ」
「うん。約束」
差し出された小指に、操は自分の小指を絡めた。甲洋の指は熱くて、少し汗ばんでいた。
操はやっぱり寂しくて、そのあともずっと泣き続けてしまったけれど、甲洋が赤くなった鼻を何度もすすって我慢しているのを見て、悲しいのに嬉しいと思った。
甲洋も、本当はずっと一緒にいたいと思ってくれている。それが伝わってくるから。
(また会える。冬になったら、またいっぱい遊ぶんだ!)
次の『約束』をくれたことが、なによりも。
*
それから甲洋は、毎年夏と冬の長期休暇には必ず操の家に泊りがけで遊びに来るようになった。
待っている時間はとても長いが、一緒に過ごす時間はあっという間だ。それでも別れ際には必ず次の約束をくれるから、操にとっては甲洋を待つ時間すら楽しいものに変わっていった。
操は甲洋が来るたびに毎日かけっこをした。長い田んぼのあぜ道を使って、何度も再戦を申し込んだ。けれど二歳の年の差は大きくて、なかなか勝つことができなかった。
初めて会ったときから二年が過ぎて、操が小学三年生になった夏のことだ。甲洋と出会って、三度目の夏休み。
操は遊びに来た甲洋と、さっそく外に遊びに出かけた。今年の夏はなにをして遊ぶか、ふたりで相談しながら家の周りをブラついていた。ゲーセンのひとつもないような田舎町だ。やることはいつもだいたい決まっているのだが、子供同士の無邪気な会議はとめどなく続いた。
家のすぐ脇を流れる小川を一緒にしゃがんで覗き込み、小魚を探したりして遊んでいるとき、操は甲洋が着ているTシャツを見て、ふと気がついた。
「ねぇ甲洋、そのシャツちょっと小さいね」
「え?」
透き通る川のせせらぎを熱心に見つめていた甲洋が、操に視線を向けてきょとんとする。
「それ、いつも着てる。冬に来たときも、セーターの下に着てたでしょ。あ、ほら見て。肩のとこ、ちょっと糸が出てるよ」
「あ……ほんとだ」
甲洋はほつれた肩口に目を向けて、弱ったように眉を下げた。
それはなんの変哲もない、どこにでも売っているようなプリントシャツだ。初めてここを訪れた夏も、確か彼はこれを着ていた。その次の夏も着ていたし、冬休みにも着て来ていた。最初はサイズが大きめだったが、会うたびにぐんぐん背が伸びる甲洋の身体に、今では少し窮屈そうに見える。
「新しいの買ってもらったらいいのに」
その何気ない言葉を受けて、甲洋の表情にわずかな翳りがさす。
「……気に入ってるんだ」
「でも、ボロボロだよ」
「うん……」
「買ってもらえないの? 新しい服」
甲洋は目を伏せ、「そんなことないよ」と言って、再び小川の方へと視線を向けた。
「いつも同じ服ばかり着てると、学校の先生が心配するんだ。だから最近は、たまに買ってもらえるようになったよ。しょうがなくって感じだけど……でもこれは、初めて誰にもなにも言われずに買ってもらえた服なんだ。父さんが買って来てくれた。俺の誕生日に」
「甲洋のお父さんとお母さんは……甲洋のことキライなの?」
短い沈黙。小川のせせらぎがなければ、もっと長く感じられていたかもしれない。
「……好きの反対ってね、嫌いじゃなくて、無関心なんだよ」
操には甲洋が言っていることがよく理解できなかった。だから素直に「わかんない」と口にすると、甲洋は無表情のまま小川を見つめて、「別にいいよ」と吐き捨てた。
「来主には、言ってもどうせ分かんないし」
「どうしてそんなこと言うの?」
操は少し不安になった。甲洋の横顔が凍りついたようになっている。こんな顔を見たのは初めてで、操はそれを怖いと感じた。
「甲洋……?」
顔を覗き込もうとした操から逃れるように、甲洋は立ち上がった。操も慌てて立ち上がると、彼は気を取り直したように笑おうとしたけれど、口元が不器用に強張ってしまう。
「ごめん。忘れて、今の話」
「そんなのムリだよ。気になるもん」
「……来主、その靴いいね。かっこいい」
話をそらされたことくらい、操にだって分かった。けれどそれ以上に、靴の話をされるのは嬉しかった。
「えへへ! これね、魔法の靴なんだよ!」
「魔法?」
「うん! おじいちゃんが買ってくれた! これをはくと、すっごく早く走れるんだって!」
それは新品の赤いスニーカーだった。
今度こそ甲洋にかけっこで勝つんだと意気込む操に、祖父が買い与えてくれたものだった。車でわざわざ大きな街のデパートまで出かけて行って、大きな靴屋で店員に選んでもらった。軽くて柔らかくて、履き心地は抜群だ。操はこれを、甲洋が来るまで履かずにとっておいた。ついさっき箱から出したばかりだから、汚れひとつ見当たらない。
「ねぇ甲洋! かけっこしようよ! 今度こそおれが勝つからね!」
最初の夏に甲洋に負けてから、操は毎日のように走る練習をしているのだ。ずいぶん早く走れるようになったと思う。操は甲洋の手を引っ張って走りたかった。あの夏。一緒に川を目指したときみたいに、今度は操が甲洋の手を引いて、どこまでも走ってみたかった。
だけど甲洋は浮かない顔のままじっと操の靴を見つめると、「やだよ」と言った。
「え?」
「しない。お前とは、もう走らない」
「な、なんでぇ?」
「……魔法の靴なんかに、勝てるわけないだろ」
甲洋は背を向けると、さっさと歩きだしてしまった。操は慌てて追いかけて、前に回り込むと甲洋の手を両手で掴んで揺さぶった。
「やだ! おれ、いっぱい練習したんだもん! 甲洋と走るの、楽しみにしてたんだもん!」
「だからやだってば。そんなに走りたいなら、ひとりで走ればいいだろ」
「なんで……なんでそんないじわる言うの……?」
涙が浮かんで、甲洋の顔が見えなくなった。
操には分からない。甲洋の気持ちなんか分からない。どんなにお兄さんでも、甲洋はまだ子供で、操と同じ、子供でしかなくて、欲しいものを満足に与えられたことのない彼の目に、恵まれた操がどう映っているのかなんて。それを素直に言えない程度には、彼にだってプライドというものがあるのだけれど、そんなこと、操に分かるはずがない。
「だったら甲洋も買ってもらえばいいじゃん! うらやましいなら、そう言えばいいのに!」
だからそれが、彼が今もっとも言ってほしくない言葉だということにも、気づかなかった。
甲洋はなにも言わず、ただ唇を噛み締めるだけだった。怒ってるみたいな、泣きだす寸前みたいな、そんな顔をしていた。
「……おまえなんか、もう知らない」
押し殺した声でそう言って、甲洋は操の手を乱暴に振り払った。操の小さな身体はその勢いを受け止めきれず、地面にぺたんと尻もちをついてしまう。
草むらの地面は柔らかくて、痛くも痒くもないはずだった。だけど、痛かった。
「ぅ……ふぇ……」
まんまるの瞳から大粒の涙をこぼして、操はわあわあと声をあげて泣いた。甲洋に突き飛ばされた。甲洋に意地悪をされた。あんなに楽しみにしてたのに、せっかくまた会えたのに。
(きらわれた……甲洋に、きらわれた……)
甲洋はどうしたらいいか分からないという顔をしていた。彼も初めてだった。今まで一度だって、誰かをこんなふうに傷つけて泣かせたことなんかなかった。甲洋だって、ひどくショックを受けている。
「く、来主……ごめ……」
甲洋の声も泣きそうに掠れていた。だけど自分の泣き声に掻き消されて、操の耳には届かなかった。
どこかでは分かっていた。言ってはいけないことを言ってしまったのだと。だって操は知っていた。甲洋の両親が、『優しくない人たち』だということを。ちゃんと、知っていたはずなのに。
(きらわれた……きらわれちゃった……)
大好きなのに、嫌われた。操の心は、頭は、それだけで埋め尽くされていた。
泣きながら立ち上がった。甲洋の顔を見ることができない。悲しくて、消えていなくなりたいと思った。甲洋から逃げたい。こうしていると、もっともっと嫌われてしまいそうな気がした。だからその場から駆けだしていた。
「来主! 待って!」
すぐに甲洋も追いかけてくる。操は全力で走った。家の敷地を出て、すぐ裏の山へ入る。かろうじて通れるか通れないかの狭い獣道。そこは数日前に降った雨で、ところどころがぬかるんでいた。足を滑らせそうになりながら、操はどんどん複雑な山道を分け入った。
「来主!!」
背中にかかる甲洋の声が遠かった。操にとって裏山は庭のようなものだけど、彼にとってはそうじゃない。
「来ないで! おれだって、甲洋なんかもう知らない!」
張りだした小枝で頬を傷つけながら、操は叫んだ。言わなくちゃいけないことは他にあるはずだった。分かっているのに、言えなかった。
息が切れて、足がもつれはじめる。新品だったはずの靴が、泥まみれになっていく。
「待って来主! そっちは危ない!!」
そのときだった。
「──!?」
ぬかるみを踏み抜いた足が、ズルリと滑る。転ぶ、と思った瞬間、咄嗟に手を伸ばして適当な枝を掴もうとした。けれどそこで、まるでスローモーションのように時の流れが変わった気がした。
(もう、いいかな)
伸ばした手が、掴もうとしていたはずの枝を空振る。それは操の意思だった。
「来主!!」
甲洋の声が、ずっとずっと遠くに聞こえた気がした。
かけっこは、操の勝ちだった。こんなふうに勝ちたかったわけではないけれど。
(だって、きらわれちゃったんだもん。もう一緒には、いられないもん──)
死んでしまおうなんて、そこまで重く考えたわけじゃない。
ただ、このまま走り続けることの無意味さくらい知っていたから、ただもっと他に、逃げ場所を求めただけだったのだと思う。
ぬかるんだ地面に足を取られるに任せ、操の身体は派手に転倒した。そのまま急な斜面を転がり落ちる。舌を噛みそうなほどの衝撃。世界が回って、意識が一瞬だけ、真っ暗闇に吸い寄せられた。
*
気がつくと、雨が降っていた。あまりの寒さに、全身の皮膚が痺れたようになっている。
草木が生い茂り、濡れた枯れ葉が敷き詰められた場所で、操はのろのろと半身を起こした。それから、自分の身体をゆっくりと、胸元から下へと徐々に見下ろしていく。シャツも半ズボンも、新品だった靴も、土に汚れてボロボロだった。どこもかしこも擦り切れて、真っ赤な血が滲んでいる。
中でもひときわ大量に血が噴きだしているのは、膝から下がおかしな方向に折れ曲がった、右足の脛部分だった。
「っ──!?」
その光景を見た瞬間、操は息をのんだ。あまりにも衝撃的な光景に、息ができない。
操の右足は、鋭く尖った木の枝が貫通した状態だったのだ。いつかの嵐で薙ぎ倒されでもしたのか、横倒しになって朽ちた木からささくれのように張りだした、枝のひとつだった。尖った先端が脛に突き刺さり、ふくらはぎから突きだして血まみれになっている。認識した途端、思いだしたように激痛が走った。
痛い、痛い、痛い。怖い、怖い、怖い。助けて、誰か──。
「ぁ……ああ……ぁ……」
声が酷く震えている。言葉にならない。けれどその声を発したのは、操ではなかった。
「くる、す……」
甲洋だった。
急斜面を滑り落ちた操を、死に物狂いで追いかけてきた甲洋もまた、顔や手などに酷い切り傷を負っていた。大切そうにしていたプリントシャツも、ところどころが裂けてボロボロになっている。
彼は真っ青な顔で操の足を見下ろしていた。全身を震わせ、歯の根を鳴らしている。踊っていた膝が崩れ、ついにはへたり込んでしまった。
「どう、して、こんな、ことに……」
声は上擦り、途切れ途切れになっていた。かろうじて絞りだしているという具合だった。彼は操以上にショックを受けていたのかもしれない。今にも死んでしまいそうに見えた。
どうしてこんなことに──。甲洋が放った言葉を、頭の中で繰り返す。どうして、どうして。ああ、そうだ。そうだった。
こんなことになってしまったのは、全部──。
「甲洋のせいだよ」
右足の膝から下が、見たこともないほどおびただしい量の血で染まっていた。冷たい雨に打たれ、皮膚が紫色に変色している。
「ほら見てよ……いっぱい血がでてる。おれの足、こわれちゃったよ」
過ぎた痛みが、皮肉にも感覚を麻痺させていく。
意識が虚ろになっていくなか、降りしきる雨が幼い体温を奪っていった。寒かった。もしかしたら、このまま死んでしまうのかもしれない。死んでしまっても、いいのかもしれない。
操は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。心の中で、何かが音を立てて壊れてしまったような気がする。
「甲洋がいじわるだから、おれの足、こんなになっちゃったんだよ」
甲洋は死人のような顔色になっていた。見開かれたままの瞳は、焦点が合っていないように見えた。カチカチという歯の根がなる音だけが、空気を震わせている。
誰よりも優しい甲洋。目の前の光景に傷ついて、怯える甲洋。ああ、きっと自分を責めている。さっきまでの操には、甲洋の気持ちなんか分からなかった。だけど今は、分かる。
操は声をあげて笑ってしまった。実際、まともに声が出ていたかは分からない。だけどおかしくて、肩が小刻みに揺れ続ける。喜びに打ち震えながら、血と泥にまみれた頬に、涙が伝った。
今この瞬間、操の言葉は呪いのように、彼を縛りつけるのだ。
「これでおれたち、ずーっといっしょにいられるね」
操は見つけてしまった。彼と、ずっと一緒にいる方法。その理由を、片足の自由と引き換えに。
この右足は、もうダメだ。幼い操にだって、それくらい分かる。
賢い甲洋に、分からないはずがなかった。
*
あの瞬間から、甲洋と操の関係性は大きく変わった。
操が白と言えば、半紙の上にぶちまけた墨汁は白い絵の具に変わるし、黒と言えば洗いたてのシーツですら、どす黒い汚泥に染まる。
あるべきはずの秩序は砕かれ、そうやって全く別のものへと再構築された。
甲洋は操をまるで神様のように扱った。素手でカエルを潰せと言えば、その通りに実行した。セミの羽根をもぎ取れと言えば迷うことなく従ったし、カブトムシの角だって平気で折った。
操は彼にとって、絶対的な存在になったのだ。全てを聞き入れ、許し、尽くす。操にだけはいつだって優しくなければならないし、従順でなければならない。
その関係性がより歪に変化を遂げる兆しが見えたのは、祖父が他界して間もない頃だ。
ふたりはまだ中学生だった。
「甲洋もこっちの学校だったらいいのにな。部屋だって余ってるもん。ここに住んじゃえばいいのに」
小さな頃にも、同じようなことを言って甲洋を困らせたことがある。
あのときは本気だったが、今はさすがに冗談で言ったつもりだった。甲洋はただ静かに笑うだけだったから、間に受けているなんて思いもしなかった。だから次に会ったとき、こっちの高校を受験すると真顔で言った彼に、驚かされた。
両親とはあっさり話がついた。甲洋の将来を考えて、反対したのは担任の教師だけだった。けれど甲洋は、それを頑なに押し切った。
あとはここに住まいを移すことを、操の祖母に了承してもらうだけだと。
彼の意思は揺るぎないものだった。驚きはしたものの、操に異存はなかったし、祖父が死んでからすっかり元気を失くしていた祖母は、それを聞いて喜んだ。あまりにも話が上手く行きすぎているようで、少し怖くもあった。
高校はこの町から数キロ離れた隣町にあった。
進学後、この家に暮らしはじめた甲洋は、それまで以上に操の世話をするようになった。
当時の操はどこへ行くにも松葉杖をついていて、学校の行き帰りはもちろん、ちょっとそのあたりを散歩するのでさえ、必ず隣に甲洋が付き添った。
幼い頃、甲洋がうちの子になればいいのにと夢見たことが、現実になったのだ。幸せでしかない毎日と、過剰ともいえる庇護のもとに、操の傲慢さと甲洋への依存は日に日に膨らんだ。
最初に手をあげたのは、操も同じ高校に入学してすぐのことだった。
三年生になっていた甲洋は、美しい青年に成長を遂げていた。
背も高く、成績も優秀で優しい彼は、女子生徒から絶大な人気を誇っていた。二年遅れて入学した操は、そんなこと知りもしなかった。
彼の靴箱には、毎日のようにラブレターやらプレゼントが詰め込まれていた。甲洋はそれを全て断っていたし、興味を示すことはなかったけれど、間近で見せつけられた操は、生まれて初めての嫉妬に気が狂いそうだった。
甲洋が、誰か他の人のものになってしまう日が来るかもしれない。もしそうなったら、彼はどこか遠くへ行ってしまうかもしれない。
そう思った瞬間、目の前が真っ赤になった。
だから殴った。衝動的に、暴力をふるっていた。
自宅の小さな裏庭でのことだった。
操は甲洋にラブレターを全て燃やせと命じた。彼は従い、焼却炉の前にしゃがみこみ、手紙の束に火をつけようとしていた。そこを殴った。松葉杖で、何度も何度も。
支えがなければ立っているのもやっとの身体だ。避けようと思えばできたはずだし、最初こそ腕で顔や頭を庇う素振りを見せたが、甲洋はすぐに無防備になって、それらを受け入れた。口の端からも、額からも血を流した彼は、力尽きて態勢を崩した操をしっかりと抱きとめ、「大丈夫?」と言って微笑んだ。
我に返った操は、全身に痣や傷を負った甲洋に、何度も何度も泣きながら謝った。酷く混乱していた。当たり所が悪ければ、彼を死なせていたかもしれない。そんなことすら考えられないほど、感情を制御できなかった自分が、まるで自分じゃないみたいで怖かった。
操は自分が嫉妬してしまったことを、正直に打ち明けた。甲洋がいつか誰かのものになってしまうかもしれない。そう思うと怖くて怖くて、堪らないのだと。
甲洋は嬉しそうに笑って、「それは恋だよ」と、教えてくれた。
恋だとか愛だとか、操にはよく分からなかった。多分きっと、いつの間にか通り越していた。
甲洋は、自分も同じだと言った。初めて会ったあの夏の日には、もう恋に落ちていたのだと。そう言って、操の震える唇にキスを落とした。血の味がしたのを、よく覚えている。
セックスをしたのも、その夜が初めてのことだった。
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