2025/08/26 Tue 乱れた浴衣の合わせから伸びる両足を、抱え込むようにして割り開き、ゆっくりと腰を前後させる甲洋の右肩には、鎖骨にかけて赤い亀裂が走っている。それはついさっき刻まれたばかりの、真新しい傷だった。 天井に向かってぶらぶらと揺れている操の足は、右の脛に古い傷跡が残っている。 灯りが煌々と灯された居間で重なり合うふたりの頭上では、小さな音量でサスペンスドラマが垂れ流されていた。猟奇殺人事件の捜査にあたる女刑事が、犯人に追い詰められて目の前にナイフを突きつけられている最中だった。ぼんやりと滲む視界の端で、銀の切っ先が女の頬をなぞっている。 「ッ、ぁ、あぅ、ん……ッ!」 太い楔で身体を揺さぶられながら、操は甲洋の切り裂かれた皮膚に震える指先を這わせた。傷は思ったよりも深くない。血も止まっていたけれど、甲洋は反射的に低く呻いて、小さく顔を歪ませる。 「こぉ、よ……」 「来主……?」 「ごめ、ん……ぁ、ごめ、なさ、ぃ」 喘ぎながら、何度も謝罪の言葉を口にした。甲洋はふと微笑んで、そんな操の額に音を立ててキスをする。操は中途半端に浴衣を引っ掛けたままの両腕を、その首に巻きつけるようにして強く抱きよせた。甲洋のキスが顔中に降り注ぐ。優しく労わるように、慰めるように。 また、彼を傷つけてしまった。夕食を終えてすぐだった。今朝の約束通り、定時で戻ってきた甲洋は、片付けなくてはいけない処理を明日に回してきたようだった。だから明日は、少しだけ残業で帰りが遅くなるかもしれない。わざわざそう断りを入れて寄こした甲洋に向けて、操はテーブルの片隅にリンゴと一緒に置かれていた、小さな果物ナイフを手に取ると、後先考えずに振り下ろしていた。 切れ味のいいそれは、甲洋が部屋着にしていたシャツを切り裂き、その下の皮膚にも当然、傷を走らせた。 シャツに滲む赤色を目にした途端、我に返った操は悲鳴をあげた。 少しでも位置が違えば、ナイフは彼の首を掻き切っていたかもしれない。永遠に失っていたかもしれないのだ。その声も、瞳も、力強い腕も、優しい温もりも。冷たく、ただ朽ちていくだけの冷えた肉の塊になっていたかもしれない。 甲洋は錯乱する操からすぐにナイフを取り上げ、強く抱きしめると、何度も優しい声音で「大丈夫」と繰り返し言った。 昔から暴力をふるったそのあとは、必ずといっていいほど身体を繋げるのが、ふたりの間では儀式のように繰り返されていた。甲洋は泣きじゃくる操をことさら優しく抱いて、いつだって罪の意識ごと蕩けさせてしまう。 「こう、よ……ねぇ、甲洋……っ」 「言わなくていい」 「あ、ぁぅ……ッ、ん……こう、よ……おねが……許し、て」 「愛してる。何も考えなくていいよ。悪いのは俺だ。ぜんぶ俺のせいだ」 甲洋の言葉は、麻酔のように操の痛みを和らげる。だけど心はずっと鋭いナイフが抜けないままだ。 違う、と言いたくて、けれど狙ったように甲洋の切っ先が中の弱い場所を抉ったせいで、言葉にすることは叶わなかった。代わりに、ただ甘く啼きながら嫌々と首を振る。汗ばんだ亜麻色が、涙に濡れた頬に張りついていた。 そこに甲洋が舌を這わせる。大きな獣に慰められているような安堵感が、操の思考を白く染め上げていく。 「あぁッ! あッ、ィ、く……こ、よ、も、ッ、いっちゃ、ぅッ──!!」 甲洋は身体すべてで閉じ込めるみたいにして、操の身体を抱え込んだ。 その腕の中で大きく身体をビクつかせ、精を放つ。少し遅れて腰を戦慄かせた甲洋が、中から自身を引き抜くと同時に射精した。焼けるような迸りは、先端からトロトロと吐精し続ける操の性器と、薄い下腹へぶちまけられる。ふたり分の白濁が混ざり合い、伝い落ちて浴衣を汚す。 互いに息が整わないまま、無言で抱き合った。意識が、夢と現を行き来する。ドラマはとっくに終わり、ニュース番組に切り替わっていた。女刑事はどうなっただろう。テンプレート通りの二時間サスペンスで、主人公が惨たらしく殺されるなんて結末はありえない。大団円。何事もなかったかのように、呑気に幕を閉じるのだ。 だけど現実はどうだろう。ギリギリのところで仲間の刑事が駆けつけるとか、都合よく状況が好転するなんてことは、まずないはずだ。犯人が手にしたナイフは、きっと女の喉笛を掻き切ってしまう。 「……怖くないの?」 甲洋の重みと、その鼓動を身体いっぱいに受け止めながら、操はその耳元で掠れた声を吐きだした。 「甲洋。おれはいつか、君を殺すよ」 だからその前に逃げだすべきだ。今までは運がよかっただけ。杖が急所に当たらなかったのも、ナイフが喉を切り裂かなかったのも、全ては甲洋が瞬時に避けているからだ。操自身が意図的に外したことなど、一度もない。 彼に手をあげるときは、いつだって目の前が赤く染まっている。苦痛に呻く声や、表情に、暴れ狂う衝動を煽られる。飢えた獣のほうが、よほど理性的かもしれない。 耳元で、甲洋が「いいぜ」と男臭く言って、笑った。 「お前がそれを望むなら」 「……どうして」 「俺はお前のものだから」 所有者と所有物。いらなくなったら捨てるか壊すかすればいいとでも言われているみたいで。 悲しいと思う。どうしてただ受け入れるんだろう。力づくでも止めてくれないんだろう。やめろと、一言でも言ってくれないのだろう。酷いことばかりしている。いつか本当に、殺されてしまうかもしれないのに。 甲洋にはそれをやってのける力がある。痩せてはいるが、大きくて健康的な肉体がある。今からだって遅くない。こんなにも弱々しい、歩くことすらおぼつかない非力な身体なんて、片手で捻じ伏せることができるはずなのに。 「……それじゃあ君は、まるでオモチャと変わらない。おれを憎いとは思わないの?」 「愛してる」 彼はそれしか、言ってくれない。だからなにもかもどうでもよくなってしまうのだ。操を愛すること、それが甲洋の償い。生涯を捧げるのは、当然のこと。そうやって言い聞かせることで、操はいつだっていびつな安堵に身を委ねることができた。 (怖がってるのは、おれのほう) あの日、操は自ら足を踏み外したようなものだ。こんな身体になってしまったのは、全て自分が招いた結果だった。 甲洋はなにも悪くない。彼の孤独を知ろうともせず、傲慢な幼さで傷つけた。 あのとき、甲洋は魔法の靴が欲しかったんじゃない。ただ両親に愛されたくて、届かない手を必死に伸ばしていただけだ。彼が本当に欲しかったものを、操はすべて持っていた。 だけどそれだけでは足りなかった。操は甲洋が欲しかった。だから自らの意思で、あの斜面を転がり落ちた。 甲洋はそれを知らない。操の嘘を知らない。なにもかもを己の咎として受け入れている。知ればどうなってしまうだろう。きっともう、繋ぎ止めてはおけなくなる。 罪の意識が、後ろめたさが、不安を助長する。不安は操から理性を奪い、暴力へと駆り立てる。そして押し寄せる後悔は、こうして甲洋が甘く拭い去ってしまうのだ。悪循環。救いなんかどこにもなくて、心のどこかでは終わりにしたいと思うのに、彼への執着を捨てることもできない。 それらの思いは水と油のように、決して溶け合うことはないというのに。 * 真夏の猛暑が続くなか、それでも午前中はまだいくらか過ごしやすい。 なんとなく普段より身体の調子がいいような気がして、操は朝から庭に出ると、向日葵や朝顔に水をやっていた。杖で右半身を支えながら、左手で持った緑色のジョウロから雨を降らせる。咲き乱れる花々が水を弾き、朝の光に透明な粒を輝かせていた。 「来主」 今朝も仕事へ行くために玄関から出た甲洋が、庭に回り込んできたことに気づいて振り返る。 「あ、もう行くの?」 甲洋は操の傍に並び立つと「うん」と短く返事をしながら、微かに表情を曇らせた。大きな手が頬へ伸びてきて、指の甲でそっと撫でられる。 「顔色がよくないな。今日はあまり外に出ないほうがいい」 「え、そう? いつもより元気な気がしてるんだけどな」 「来主はそうやってすぐに油断する。明日寝込むことになっても知らないよ」 操はしょんぼりと項垂れた。せっかく体調もいいことだし、今日は久しぶりに洋服を来て、裏庭の草むしりでもしようかと思っていたのに。操がいつも浴衣姿なのは、自分でも楽に着替えができるからだ。 たまには気分転換もしたいし、膝をついて草むしりをするくらいは、そう難しいものではなかった。甲洋に任せてばかりいるけれど、調子がいいときくらいは、操だって家のことをしたいと思う。 そんな気持ちを上目遣いで訴えかける操を、甲洋が真剣な面持ちで見返してくる。眉間に寄った皺と無言の訴えに、根負けして唇を尖らせた。 「ちぇー。わかったよぅ……おとなしくしてればいいんでしょ」 確かに、これまでも調子がいいと思った翌日には、一日中布団で過ごす羽目になることが多かった。甲洋は操以上に操の体調を気遣っているし、自分では気づかないような些細な変化にすら敏感なのだ。 「裏庭、草がボーボーだから、キレイにしようと思ったのに」 「次の休みに俺がやるよ。お前はそんなことしなくていいから」 「わかったってば。ほら、もう行く時間なんでしょ」 ずっと心配そうに表情を曇らせていた甲洋だが、操が完全に諦めたのを確認すると安堵したように微笑んだ。それから一瞬身を屈め、操の額にキスをする。 「いってくる」 「ん、いってらっしゃい」 今日もいつもと変わらない、真夏の一日が始まる──はずだった。 * 甲洋が出かけてから小一時間ほどは、おとなしく家の中で過ごした。 けれどすぐに外の空気に触れたくなって、縁側に腰かけると息をつく。いつもの位置で、いつものようにオトギリソウの群れを眺めた。ほのかに吹く風に、草木がのんびりと揺れている。聞こえてくるのは、間延びしたセミの声だけだ。 一人きりで過ごす時間は、あまりにも長いものだった。空はこんなにも晴れ渡り、身体の調子も悪くはないのに──実際そう感じているのは操の思い違いなのだろうが──こうしてただぼんやりと過ごすしかない。 (今日はいつもより元気に動ける気がしてたのに) せめて身体さえ丈夫であったなら、甲洋のように外へ働きに出ることができるのに。休日にはどこかへ出かけたり、旅行へ行ったり、やりたくてもできないことが山のようにあった。 「また昔みたいに、甲洋と一緒に川で釣りがしたいな……」 あの夏の日が、あまりにも遠い。いびつな満ち欠けを繰り返しながら、長い時だけが過ぎてしまった。 操がどんなに望んでも、甲洋は決して首を縦に振ってはくれないのだ。操の身体を気遣うあまり、一歩も外に出させようとしない。そうなるように仕向けたのは自分であるはずなのに、時々どうしようもなく身勝手なジレンマに苛まれる。 操は小さく息をつく。そろそろまた部屋へ引っ込もうか。そう考えていると、視界の端で何かが動いた。 「!」 ふと、玄関がある方向へ視線をやる。庭の出入り口、旬をすぎた紫陽花の陰から、ひょっこりと顔をだす丸い瞳と目が合った。 「あ……!」 大きく見開かれた目で、それは幼い声をあげた。 「だ、ダメだよ美羽! 私たちがいること、バレちゃう!」 「だってぇ! 葉っぱがチクチクするんだもんっ」 声はふたつあった。紫陽花の茂みがガサガサと音をたて、そこから小さなふたつの頭が飛び出ている。隠れているつもりなのかもしれないが、ぜんぜん隠れていない。 操は首を傾げながら問いかけた。 「ねぇ、君たちは誰? うちになにか用?」 「「!」」 息をのむ音を響かせたあと、手を繋いだ少女がふたり、おずおずと茂みから姿を現す。 茶色の髪をふたつに結った小さな女の子と、もうひとりは黒髪の少女だった。ちょうど操と甲洋が初めて出会った頃と、同じくらいの年の差だろうか。桃色のワンピースと白いワンピースはお揃いだった。 ふたつとも初めて見る顔だ。思えばこの2年というもの、甲洋以外の人間と顔を合わせるのも、言葉を交わすのも、これが初めてのことだった。 「あ、あの、勝手に入って、ごめんなさい!」 黒髪の少女がペコリと頭をさげる。 「美羽もごめんなさいして」 「ごめんなさい! 美羽たち、イタズラしに来たわけじゃないの!」 操はきょとんとしながら目を瞬かせた。叱られるとでも思っているのか、ふたりは不安そうに瞳を揺らしている。 「いいよ。今はおれしかいないし……あ、そうだ! ねぇ、一緒にゼリー食べない? くだものがいっぱい入ったやつ。美味しいよ」 「くだものゼリー!?」 大きな花火が打ち上がったみたいに、美羽の顔が明るくなった。 「食べる! 美羽、ゼリー大好きだよ! ね、エメリー!」 * ふたりはここから比較的近い場所にある家からやってきた子供だった。 美羽は夏休みのこの時期、両親と共に親戚の家に遊びに来ていた。エメリーの家族はすでに他界しているが、ふたりは遠い親戚同士でとても仲良しなのだと、冷たいゼリーに夢中になりながらも教えてくれた。 「ふぅん、そうなんだ。遠いところから来たんだね」 問うと、ふたりは大きく頷いた。縁側に三人で並んで腰かけながら、操は美味しそうに桃のゼリーを頬張る美羽とエメリーの横顔を見つめる。自分たちもこんなに小さかったのだと思うと、懐かしさと一緒に不思議な感覚がこみ上げた。 美羽はゼリーを食べ終えると、お盆の上に容器とスプーンを置いた。それから隣の操を見上げ、興味深そうに瞬きを繰り返す。好奇心を隠しもしない無邪気な瞳に、虫かごに囚われた昆虫のような気分になる。 「あんよ、どうして引きずってるの?」 彼女の興味は、操の杖に向けられていた。ゼリーを運んでくるときも、手すりに掴まりながら足を引きずっていたから、ずっと気になっていたようだった。エメリーが慌てて美羽の名前を呼びながら咎めるが、操は緩く首を振りながら「平気だよ」と言った。 「ずっと昔にね、ケガしちゃったんだ」 「ケガ? ころんじゃったの? 痛い?」 美羽がくるくるとした大きな瞳で問いかけてくる。エメリーも同じように操を見上げた。美羽が小さいから抑えてはいるけれど、彼女も本当は気になっているのだ。 操と目が合うと、エメリーはハッとして「ごめんなさい!」と言いながら俯いてしまった。 どうしてか、少し胸が痛くなる。エメリーに甲洋の面影を見たような気がした。あの頃の彼も、きっと操が思っていたよりずっと、幼い子供だったのだと思う。 「うん。転んで、高いとこから落ちちゃった。だけど今は平気だよ。痛くない」 天気が崩れると痛むことはあるが、足を引きずりながら歩くことも、もうすっかり慣れてしまった。 操が笑うと美羽は「よかったぁ」と言って笑った。エメリーもホッとしたような顔をしている。 「あ、あの」 けれどエメリーはすぐに眉をハの字に下げた。どこかバツが悪そうに、肩をすくめて見せる。 「なぁに?」 「私たちがここに来たこと、誰にも言わないでもらえますか?」 「え? うん、それはいいけど」 「あのねあのね、おこられるの。このおうちには、ぜったい近づいちゃダメだって。ママったらうるさいんだもん」 美羽がまあるい頬をさらにぷくっと膨らませる。その言葉の意味を測りかね、操は瞬きを繰り返しながら微かに首を傾げた。 絶対に近づいてはいけない、とは、どういう意味だろう。この家は民家が密集している場所から多少離れてはいるが、近所付き合いで孤立していたという記憶は一切ない。 祖父母が生きていた頃は、ごく普通に近隣の住人との付き合いはあったはずだ。祖母が死に、高校を卒業した操が家に引きこもるようになってからは、全く交流がなくなってしまったが。 「なんでって聞いても、おしえてくれないの。だから美羽、気になって」 「……探検しに来たの?」 「うん。オバケがいるのかなーって」 「み、美羽!」 エメリーが慌てて美羽の口を塞ぐ。操は胸に引っかかりを覚えながらも、朗らかな笑みを浮かべた。 「へぇ、オバケかぁ。いるならおれも会ってみたいな」 「美羽も! オバケとお話してみたいの!」 美羽はエメリーの手を外し、嬉しそうに言いながら跳ねるように立ちあがった。エメリーもそれに続いて立ち上がり、「ごちそうさまでした」と礼儀正しく言って頭をさげる。 「ごちそうさまでした! ゼリーとってもおいしかったよ!」 「ふたりとも、もう帰っちゃうの?」 「うん。だってママが心配するもん」 「そっか」 「あんよ、早くなおるといいね。そしたら、美羽がいっしょにあそんであげる!」 「ほんと?」 「うん! エメリーもいっしょだよ! ね!」 小さな歯を見せながら見上げる美羽に、エメリーは優しく笑いかけたあと操に一歩近づいた。 彼女は白い手を操の右膝にちょこんと置いて、祈るように静かに目を閉じる。 「あなたの足が早く治りますように。少しでも、痛い思いをしなくてすみますように」 操は目を丸くしながら、膝に触れるエメリーの指先を見た。小さくて、触れたら溶けてなくなってしまいそうなくらい白かった。甲洋の手は、どんなだったろう。多分これよりもう少しだけ、大きかったような気がする。 だけど同じくらい優しかった。優しくて、とても背伸びをした子供だった。あのころの操には、なにも分からなかったけれど。 「ありがとう。君は優しくて、とてもいい子だね、エメリー」 華奢な指先にそっと手をかぶせても、彼女の手が溶けて消えることはなかった。エメリーは少しだけ驚いたような顔をしたけれど、くすぐったそうに目を細めて笑った。すると美羽が唇を尖らせ、小さな両手を操の手の甲にかぶせてくる。 「エメリーだけずるい! ねぇ美羽は?」 「うん、美羽もいい子だね」 「えへへ!」 三人で顔を見合わせて笑い合ったあと、それじゃあまたねと手を振りながら、ふたりの少女が駆けていく。 同じように手を振り返しながらも、操の胸には大きな疑問だけが、しこりのように残されていた。 ←戻る ・ 次へ→
天井に向かってぶらぶらと揺れている操の足は、右の脛に古い傷跡が残っている。
灯りが煌々と灯された居間で重なり合うふたりの頭上では、小さな音量でサスペンスドラマが垂れ流されていた。猟奇殺人事件の捜査にあたる女刑事が、犯人に追い詰められて目の前にナイフを突きつけられている最中だった。ぼんやりと滲む視界の端で、銀の切っ先が女の頬をなぞっている。
「ッ、ぁ、あぅ、ん……ッ!」
太い楔で身体を揺さぶられながら、操は甲洋の切り裂かれた皮膚に震える指先を這わせた。傷は思ったよりも深くない。血も止まっていたけれど、甲洋は反射的に低く呻いて、小さく顔を歪ませる。
「こぉ、よ……」
「来主……?」
「ごめ、ん……ぁ、ごめ、なさ、ぃ」
喘ぎながら、何度も謝罪の言葉を口にした。甲洋はふと微笑んで、そんな操の額に音を立ててキスをする。操は中途半端に浴衣を引っ掛けたままの両腕を、その首に巻きつけるようにして強く抱きよせた。甲洋のキスが顔中に降り注ぐ。優しく労わるように、慰めるように。
また、彼を傷つけてしまった。夕食を終えてすぐだった。今朝の約束通り、定時で戻ってきた甲洋は、片付けなくてはいけない処理を明日に回してきたようだった。だから明日は、少しだけ残業で帰りが遅くなるかもしれない。わざわざそう断りを入れて寄こした甲洋に向けて、操はテーブルの片隅にリンゴと一緒に置かれていた、小さな果物ナイフを手に取ると、後先考えずに振り下ろしていた。
切れ味のいいそれは、甲洋が部屋着にしていたシャツを切り裂き、その下の皮膚にも当然、傷を走らせた。
シャツに滲む赤色を目にした途端、我に返った操は悲鳴をあげた。
少しでも位置が違えば、ナイフは彼の首を掻き切っていたかもしれない。永遠に失っていたかもしれないのだ。その声も、瞳も、力強い腕も、優しい温もりも。冷たく、ただ朽ちていくだけの冷えた肉の塊になっていたかもしれない。
甲洋は錯乱する操からすぐにナイフを取り上げ、強く抱きしめると、何度も優しい声音で「大丈夫」と繰り返し言った。
昔から暴力をふるったそのあとは、必ずといっていいほど身体を繋げるのが、ふたりの間では儀式のように繰り返されていた。甲洋は泣きじゃくる操をことさら優しく抱いて、いつだって罪の意識ごと蕩けさせてしまう。
「こう、よ……ねぇ、甲洋……っ」
「言わなくていい」
「あ、ぁぅ……ッ、ん……こう、よ……おねが……許し、て」
「愛してる。何も考えなくていいよ。悪いのは俺だ。ぜんぶ俺のせいだ」
甲洋の言葉は、麻酔のように操の痛みを和らげる。だけど心はずっと鋭いナイフが抜けないままだ。
違う、と言いたくて、けれど狙ったように甲洋の切っ先が中の弱い場所を抉ったせいで、言葉にすることは叶わなかった。代わりに、ただ甘く啼きながら嫌々と首を振る。汗ばんだ亜麻色が、涙に濡れた頬に張りついていた。
そこに甲洋が舌を這わせる。大きな獣に慰められているような安堵感が、操の思考を白く染め上げていく。
「あぁッ! あッ、ィ、く……こ、よ、も、ッ、いっちゃ、ぅッ──!!」
甲洋は身体すべてで閉じ込めるみたいにして、操の身体を抱え込んだ。
その腕の中で大きく身体をビクつかせ、精を放つ。少し遅れて腰を戦慄かせた甲洋が、中から自身を引き抜くと同時に射精した。焼けるような迸りは、先端からトロトロと吐精し続ける操の性器と、薄い下腹へぶちまけられる。ふたり分の白濁が混ざり合い、伝い落ちて浴衣を汚す。
互いに息が整わないまま、無言で抱き合った。意識が、夢と現を行き来する。ドラマはとっくに終わり、ニュース番組に切り替わっていた。女刑事はどうなっただろう。テンプレート通りの二時間サスペンスで、主人公が惨たらしく殺されるなんて結末はありえない。大団円。何事もなかったかのように、呑気に幕を閉じるのだ。
だけど現実はどうだろう。ギリギリのところで仲間の刑事が駆けつけるとか、都合よく状況が好転するなんてことは、まずないはずだ。犯人が手にしたナイフは、きっと女の喉笛を掻き切ってしまう。
「……怖くないの?」
甲洋の重みと、その鼓動を身体いっぱいに受け止めながら、操はその耳元で掠れた声を吐きだした。
「甲洋。おれはいつか、君を殺すよ」
だからその前に逃げだすべきだ。今までは運がよかっただけ。杖が急所に当たらなかったのも、ナイフが喉を切り裂かなかったのも、全ては甲洋が瞬時に避けているからだ。操自身が意図的に外したことなど、一度もない。
彼に手をあげるときは、いつだって目の前が赤く染まっている。苦痛に呻く声や、表情に、暴れ狂う衝動を煽られる。飢えた獣のほうが、よほど理性的かもしれない。
耳元で、甲洋が「いいぜ」と男臭く言って、笑った。
「お前がそれを望むなら」
「……どうして」
「俺はお前のものだから」
所有者と所有物。いらなくなったら捨てるか壊すかすればいいとでも言われているみたいで。
悲しいと思う。どうしてただ受け入れるんだろう。力づくでも止めてくれないんだろう。やめろと、一言でも言ってくれないのだろう。酷いことばかりしている。いつか本当に、殺されてしまうかもしれないのに。
甲洋にはそれをやってのける力がある。痩せてはいるが、大きくて健康的な肉体がある。今からだって遅くない。こんなにも弱々しい、歩くことすらおぼつかない非力な身体なんて、片手で捻じ伏せることができるはずなのに。
「……それじゃあ君は、まるでオモチャと変わらない。おれを憎いとは思わないの?」
「愛してる」
彼はそれしか、言ってくれない。だからなにもかもどうでもよくなってしまうのだ。操を愛すること、それが甲洋の償い。生涯を捧げるのは、当然のこと。そうやって言い聞かせることで、操はいつだっていびつな安堵に身を委ねることができた。
(怖がってるのは、おれのほう)
あの日、操は自ら足を踏み外したようなものだ。こんな身体になってしまったのは、全て自分が招いた結果だった。
甲洋はなにも悪くない。彼の孤独を知ろうともせず、傲慢な幼さで傷つけた。
あのとき、甲洋は魔法の靴が欲しかったんじゃない。ただ両親に愛されたくて、届かない手を必死に伸ばしていただけだ。彼が本当に欲しかったものを、操はすべて持っていた。
だけどそれだけでは足りなかった。操は甲洋が欲しかった。だから自らの意思で、あの斜面を転がり落ちた。
甲洋はそれを知らない。操の嘘を知らない。なにもかもを己の咎として受け入れている。知ればどうなってしまうだろう。きっともう、繋ぎ止めてはおけなくなる。
罪の意識が、後ろめたさが、不安を助長する。不安は操から理性を奪い、暴力へと駆り立てる。そして押し寄せる後悔は、こうして甲洋が甘く拭い去ってしまうのだ。悪循環。救いなんかどこにもなくて、心のどこかでは終わりにしたいと思うのに、彼への執着を捨てることもできない。
それらの思いは水と油のように、決して溶け合うことはないというのに。
*
真夏の猛暑が続くなか、それでも午前中はまだいくらか過ごしやすい。
なんとなく普段より身体の調子がいいような気がして、操は朝から庭に出ると、向日葵や朝顔に水をやっていた。杖で右半身を支えながら、左手で持った緑色のジョウロから雨を降らせる。咲き乱れる花々が水を弾き、朝の光に透明な粒を輝かせていた。
「来主」
今朝も仕事へ行くために玄関から出た甲洋が、庭に回り込んできたことに気づいて振り返る。
「あ、もう行くの?」
甲洋は操の傍に並び立つと「うん」と短く返事をしながら、微かに表情を曇らせた。大きな手が頬へ伸びてきて、指の甲でそっと撫でられる。
「顔色がよくないな。今日はあまり外に出ないほうがいい」
「え、そう? いつもより元気な気がしてるんだけどな」
「来主はそうやってすぐに油断する。明日寝込むことになっても知らないよ」
操はしょんぼりと項垂れた。せっかく体調もいいことだし、今日は久しぶりに洋服を来て、裏庭の草むしりでもしようかと思っていたのに。操がいつも浴衣姿なのは、自分でも楽に着替えができるからだ。
たまには気分転換もしたいし、膝をついて草むしりをするくらいは、そう難しいものではなかった。甲洋に任せてばかりいるけれど、調子がいいときくらいは、操だって家のことをしたいと思う。
そんな気持ちを上目遣いで訴えかける操を、甲洋が真剣な面持ちで見返してくる。眉間に寄った皺と無言の訴えに、根負けして唇を尖らせた。
「ちぇー。わかったよぅ……おとなしくしてればいいんでしょ」
確かに、これまでも調子がいいと思った翌日には、一日中布団で過ごす羽目になることが多かった。甲洋は操以上に操の体調を気遣っているし、自分では気づかないような些細な変化にすら敏感なのだ。
「裏庭、草がボーボーだから、キレイにしようと思ったのに」
「次の休みに俺がやるよ。お前はそんなことしなくていいから」
「わかったってば。ほら、もう行く時間なんでしょ」
ずっと心配そうに表情を曇らせていた甲洋だが、操が完全に諦めたのを確認すると安堵したように微笑んだ。それから一瞬身を屈め、操の額にキスをする。
「いってくる」
「ん、いってらっしゃい」
今日もいつもと変わらない、真夏の一日が始まる──はずだった。
*
甲洋が出かけてから小一時間ほどは、おとなしく家の中で過ごした。
けれどすぐに外の空気に触れたくなって、縁側に腰かけると息をつく。いつもの位置で、いつものようにオトギリソウの群れを眺めた。ほのかに吹く風に、草木がのんびりと揺れている。聞こえてくるのは、間延びしたセミの声だけだ。
一人きりで過ごす時間は、あまりにも長いものだった。空はこんなにも晴れ渡り、身体の調子も悪くはないのに──実際そう感じているのは操の思い違いなのだろうが──こうしてただぼんやりと過ごすしかない。
(今日はいつもより元気に動ける気がしてたのに)
せめて身体さえ丈夫であったなら、甲洋のように外へ働きに出ることができるのに。休日にはどこかへ出かけたり、旅行へ行ったり、やりたくてもできないことが山のようにあった。
「また昔みたいに、甲洋と一緒に川で釣りがしたいな……」
あの夏の日が、あまりにも遠い。いびつな満ち欠けを繰り返しながら、長い時だけが過ぎてしまった。
操がどんなに望んでも、甲洋は決して首を縦に振ってはくれないのだ。操の身体を気遣うあまり、一歩も外に出させようとしない。そうなるように仕向けたのは自分であるはずなのに、時々どうしようもなく身勝手なジレンマに苛まれる。
操は小さく息をつく。そろそろまた部屋へ引っ込もうか。そう考えていると、視界の端で何かが動いた。
「!」
ふと、玄関がある方向へ視線をやる。庭の出入り口、旬をすぎた紫陽花の陰から、ひょっこりと顔をだす丸い瞳と目が合った。
「あ……!」
大きく見開かれた目で、それは幼い声をあげた。
「だ、ダメだよ美羽! 私たちがいること、バレちゃう!」
「だってぇ! 葉っぱがチクチクするんだもんっ」
声はふたつあった。紫陽花の茂みがガサガサと音をたて、そこから小さなふたつの頭が飛び出ている。隠れているつもりなのかもしれないが、ぜんぜん隠れていない。
操は首を傾げながら問いかけた。
「ねぇ、君たちは誰? うちになにか用?」
「「!」」
息をのむ音を響かせたあと、手を繋いだ少女がふたり、おずおずと茂みから姿を現す。
茶色の髪をふたつに結った小さな女の子と、もうひとりは黒髪の少女だった。ちょうど操と甲洋が初めて出会った頃と、同じくらいの年の差だろうか。桃色のワンピースと白いワンピースはお揃いだった。
ふたつとも初めて見る顔だ。思えばこの2年というもの、甲洋以外の人間と顔を合わせるのも、言葉を交わすのも、これが初めてのことだった。
「あ、あの、勝手に入って、ごめんなさい!」
黒髪の少女がペコリと頭をさげる。
「美羽もごめんなさいして」
「ごめんなさい! 美羽たち、イタズラしに来たわけじゃないの!」
操はきょとんとしながら目を瞬かせた。叱られるとでも思っているのか、ふたりは不安そうに瞳を揺らしている。
「いいよ。今はおれしかいないし……あ、そうだ! ねぇ、一緒にゼリー食べない? くだものがいっぱい入ったやつ。美味しいよ」
「くだものゼリー!?」
大きな花火が打ち上がったみたいに、美羽の顔が明るくなった。
「食べる! 美羽、ゼリー大好きだよ! ね、エメリー!」
*
ふたりはここから比較的近い場所にある家からやってきた子供だった。
美羽は夏休みのこの時期、両親と共に親戚の家に遊びに来ていた。エメリーの家族はすでに他界しているが、ふたりは遠い親戚同士でとても仲良しなのだと、冷たいゼリーに夢中になりながらも教えてくれた。
「ふぅん、そうなんだ。遠いところから来たんだね」
問うと、ふたりは大きく頷いた。縁側に三人で並んで腰かけながら、操は美味しそうに桃のゼリーを頬張る美羽とエメリーの横顔を見つめる。自分たちもこんなに小さかったのだと思うと、懐かしさと一緒に不思議な感覚がこみ上げた。
美羽はゼリーを食べ終えると、お盆の上に容器とスプーンを置いた。それから隣の操を見上げ、興味深そうに瞬きを繰り返す。好奇心を隠しもしない無邪気な瞳に、虫かごに囚われた昆虫のような気分になる。
「あんよ、どうして引きずってるの?」
彼女の興味は、操の杖に向けられていた。ゼリーを運んでくるときも、手すりに掴まりながら足を引きずっていたから、ずっと気になっていたようだった。エメリーが慌てて美羽の名前を呼びながら咎めるが、操は緩く首を振りながら「平気だよ」と言った。
「ずっと昔にね、ケガしちゃったんだ」
「ケガ? ころんじゃったの? 痛い?」
美羽がくるくるとした大きな瞳で問いかけてくる。エメリーも同じように操を見上げた。美羽が小さいから抑えてはいるけれど、彼女も本当は気になっているのだ。
操と目が合うと、エメリーはハッとして「ごめんなさい!」と言いながら俯いてしまった。
どうしてか、少し胸が痛くなる。エメリーに甲洋の面影を見たような気がした。あの頃の彼も、きっと操が思っていたよりずっと、幼い子供だったのだと思う。
「うん。転んで、高いとこから落ちちゃった。だけど今は平気だよ。痛くない」
天気が崩れると痛むことはあるが、足を引きずりながら歩くことも、もうすっかり慣れてしまった。
操が笑うと美羽は「よかったぁ」と言って笑った。エメリーもホッとしたような顔をしている。
「あ、あの」
けれどエメリーはすぐに眉をハの字に下げた。どこかバツが悪そうに、肩をすくめて見せる。
「なぁに?」
「私たちがここに来たこと、誰にも言わないでもらえますか?」
「え? うん、それはいいけど」
「あのねあのね、おこられるの。このおうちには、ぜったい近づいちゃダメだって。ママったらうるさいんだもん」
美羽がまあるい頬をさらにぷくっと膨らませる。その言葉の意味を測りかね、操は瞬きを繰り返しながら微かに首を傾げた。
絶対に近づいてはいけない、とは、どういう意味だろう。この家は民家が密集している場所から多少離れてはいるが、近所付き合いで孤立していたという記憶は一切ない。
祖父母が生きていた頃は、ごく普通に近隣の住人との付き合いはあったはずだ。祖母が死に、高校を卒業した操が家に引きこもるようになってからは、全く交流がなくなってしまったが。
「なんでって聞いても、おしえてくれないの。だから美羽、気になって」
「……探検しに来たの?」
「うん。オバケがいるのかなーって」
「み、美羽!」
エメリーが慌てて美羽の口を塞ぐ。操は胸に引っかかりを覚えながらも、朗らかな笑みを浮かべた。
「へぇ、オバケかぁ。いるならおれも会ってみたいな」
「美羽も! オバケとお話してみたいの!」
美羽はエメリーの手を外し、嬉しそうに言いながら跳ねるように立ちあがった。エメリーもそれに続いて立ち上がり、「ごちそうさまでした」と礼儀正しく言って頭をさげる。
「ごちそうさまでした! ゼリーとってもおいしかったよ!」
「ふたりとも、もう帰っちゃうの?」
「うん。だってママが心配するもん」
「そっか」
「あんよ、早くなおるといいね。そしたら、美羽がいっしょにあそんであげる!」
「ほんと?」
「うん! エメリーもいっしょだよ! ね!」
小さな歯を見せながら見上げる美羽に、エメリーは優しく笑いかけたあと操に一歩近づいた。
彼女は白い手を操の右膝にちょこんと置いて、祈るように静かに目を閉じる。
「あなたの足が早く治りますように。少しでも、痛い思いをしなくてすみますように」
操は目を丸くしながら、膝に触れるエメリーの指先を見た。小さくて、触れたら溶けてなくなってしまいそうなくらい白かった。甲洋の手は、どんなだったろう。多分これよりもう少しだけ、大きかったような気がする。
だけど同じくらい優しかった。優しくて、とても背伸びをした子供だった。あのころの操には、なにも分からなかったけれど。
「ありがとう。君は優しくて、とてもいい子だね、エメリー」
華奢な指先にそっと手をかぶせても、彼女の手が溶けて消えることはなかった。エメリーは少しだけ驚いたような顔をしたけれど、くすぐったそうに目を細めて笑った。すると美羽が唇を尖らせ、小さな両手を操の手の甲にかぶせてくる。
「エメリーだけずるい! ねぇ美羽は?」
「うん、美羽もいい子だね」
「えへへ!」
三人で顔を見合わせて笑い合ったあと、それじゃあまたねと手を振りながら、ふたりの少女が駆けていく。
同じように手を振り返しながらも、操の胸には大きな疑問だけが、しこりのように残されていた。
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