2025/09/11 Thu 03 あたたかいなぁと思った。 ぴったりと寄り添う高めの体温が心地よくて、無意識に抱き寄せながら頬を擦り寄せれば、鼻先がふわふわとしたものに埋もれる。全身を包み込まれるような柔らかさと、このままずっと浸っていたいようなぬくもりに、ほどけきった心が空に浮かんでいきそうだった。 なんて幸せな気分だろう。まるで夢でも見ているみたいに── (……夢?) はたと意識が覚醒する。朝だ。安物のカーテンを通して、白い光が射している。 起き抜けのぼやけた視界が、瞬きのたびにゆっくりと像を結んでいった。 目の前にはふさふさの毛に覆われた獣の耳がある。小さな手が、甲洋の胸の上できゅうと握りしめられていた。 ふわふわの髪の毛に鼻先を埋めながら、甲洋が抱いて寝ていたのは── 「うわっ!?」 認識した途端ビクンと身体が跳ね上がり、狭いソファから滑り落ちるようにして落下する。 「んにゃ!?」 下敷きにしてしまわないよう咄嗟に両腕で強く抱き込んだので、ひっついていた操まで一緒に落ちてしまった。甲洋の上に、すっかり折り重なっている。昨日と全く同じ状況だ。 尻や腰を思いきり打ちつけたような気がしたが、頭の中が真っ白でそれどころではなかった。 「な、な……?」 「んに~……なぁに? どうしたのぉ?」 「み、操……なんで……?」 どうしてここにいるのだろう。彼は甲洋のベッドを使っていたはず。前の家ではずっと床で寝ていたから、ベッドで寝るのは初めてだと言ってとても喜んでいた。 しかも、問題はそれだけではなかった。 「お、お前! なんて格好してるのさ!?」 操は甲洋の腰にすっかりまたがる形でのろのろと身を起こした。しっぽをゆったりと大きく左右に振りながら、のんきに目を擦ってふにゃあと欠伸をしている。 寝る直前までは確かにグレーのスウェット上下を着ていたはずなのに、どうしてか操は下になにも身に着けていなかった。 基本的にサイズが大きいため、かろうじて上衣の裾に大事な場所は隠れているが、それはむしろ逆効果である。すっぽんぽんにも焦ったが、見えそうで見えないギリギリのラインは視覚的にいささかマニアックで、想像力を刺激されてしまうからだ。(昨日がっつり見ているが) いかにも柔らかそうな太ももを大きく開く体勢で乗り上げている操は、両手を甲洋の腹に置いてふにゃりと首を傾げた。寝起きの赤い目元に、とろりと潤んだ瞳が揺れる。仕草も容姿も幼いくせに、そこには不思議な色気があった。 もし彼が少しでも身じろぎをすれば……見えてしまう。しかも彼がぺたりと腰を落ち着けているのは、非常によろしくない部分である。それはちょうど甲洋の大事な場所で、そこにぷにぷにとした柔らかな肉の感触がほぼダイレクトに伝わってくるのだ。なにせ操は、下着すら履いていない。 (まずいまずいまずいまずい……ていうか、昨日からおかしくないか俺……!?) 甲洋にはそっちの気は0であるはずだった。同性を相手におかしな気を起こしたことなんかないし、子供の頃はよく友達同士で銭湯に行ったりなんかもした。どっちの方が大きいとか、毛が生えてきてるから大人だとか、そんなくだらないことをあーだこーだと言っては年頃の男同士で張り合っていた。 誰がどんな形をしていたとか、桁外れの記憶力を持つ甲洋は今でもしっかり覚えている。だけどそれを思いだして変な気分になるとか、そんなことは絶対にありえない。むしろ少年時代のいい思い出だ。 それがどうしてか、操が相手だとなにかがおかしい。昨日から、頭のネジが吹っ飛んだみたいに意識させられている。 頭に血が上るのを感じながら、それ以上は声が出ない。バクバクと踊る心音の息苦しさに、思わず喉が鳴った。 「こうよ、おはよぉ」 まだ寝ぼけ眼でいる操は問には答えず、そのまま身体を前に倒して甲洋の顔にぐっと顔を近づけた。腰が引けそうになるが、床と操にサンドされているせいで身動きができない。 甲洋の視線は、操の艶めいた唇に注がれた。小さくて、だけど肉感的で、淡桃色をしたそれがどんどん近づいてくる。 (ちょ、ちょっと待っ……う、嘘だろ? まさか、まさか……) このままキスをされてしまうとでも……いうのだろうか……? 「ッ!!」 某ビデオのようなナレーションを脳内で再生させながら、咄嗟にぎゅうと目をつぶる。どうしてか拒絶するという選択肢が浮かばない。まともに思考が動く状態ではなかった。ドクンドクンと、心臓が頭の位置にあるかのように激しく動悸を打っている。 が、いつまでたってもそのときは訪れない。代わりに鼻の先につんつんと何かが当たるのを感じて、恐る恐る目を開けた。 (……?) 唇と唇ではなくて、鼻と鼻。 操はすんすんと鼻を鳴らしながら、気持ちよさそうに目を閉じて甲洋の鼻先に自分の鼻先を何度もくっつけている。そして、そのまま頬ずりをしてきた。 「は、ぇ……?」 つい間抜けな声が漏れる。これはどういう意思表示なのだろうか。てっきりファーストキスを奪われるものとばかり思い込んでいた甲洋は、拍子抜けしてしまった。 (なにこれ……ひょっとして挨拶、みたいなもの……?) 鼻キスのあとに何度も何度も頬ずりをされながら、安堵している自分と落胆している自分が同時に存在している。当然、後者には戸惑いを覚えた。それじゃあまるで期待していたみたいではないか。 「み、操、いいから離れて。ねぇ、なんで脱いだの? それに、お前の寝る場所はここじゃないよ」 どうにか自分のペースを手繰り寄せ、操の両肩を掴むと引き離した。操は不服そうに唇を尖らせたが、彼の満足がいくまで放っておいたら時間的にも精神的にも手遅れになりそうだった。 (手遅れ? 手遅れって、なにが……?) どうして今、あの『感覚』を思いだしてしまったのだろう。 操と初めて目が合ったとき、全身を駆け抜けたあの不可解な痺れを。あれは気のせいということで方がついたはずだ。 (あぁもう!) 自分で自分が分からない。とにかく、今日は一限から授業を入れている。のんびりしていたら遅刻してしまうということだけはハッキリしていた。だから、そう、さっさと疑問を解消して、朝の支度に取り掛からなければならないのだ。 甲洋は腹筋の力だけで身を起こし、座り込んでいる操の下から抜け出した。床にぺたりと腰を落ち着けた操の下半身に、丸まって落ちていた毛布をさりげなくかぶせる。 「起きたら甲洋がまだ寝てたから、起きるまで一緒に寝てたよ」 「そういうときは普通に起こしてくれればいいよ……で、ズボンは?」 「だってあれ、しっぽが動かせなくて嫌だったんだもん。だから布団の中で脱いじゃった」 「そういうことは初めに言ってよ……」 とはいえ、気づかなかった自分も悪かったように思う。イヌやネコには、ヒトと違ってしっぽがある。だから彼ら専用の衣類には、ちゃんとしっぽ穴がついているのだ。 あとどのくらい一緒にいることになるかはまだ分からないが、ちゃんと操に合ったサイズのネコ用の衣類を、何着か買い揃えるべきかもしれない。それに、彼は下着をつけていないのだ。新品ならまだしも、そこは流石に自分のものをというわけにはいかない気がして──操は気にしないだろうが──あえて考えないようにしていたのだが。 「ねぇ甲洋、バラバラに寝ないで一緒に寝ようよ。そのほうがあったかいでしょ?」 確かいつも利用しているスーパーに、そこそこ大きな衣料品コーナーがあったなと思考を巡らせていると、操が大きな瞳をくるくるとさせながら無邪気に口を開いた。 突然の提案に、なぜかギクリとしてしまう。 「いや、それはちょっと……」 思わず目を逸らす。 「なんで? だってさっきはあんなに気持ちよさそうだったよ。甲洋の心、嬉しいって言ってたの感じたもん。おれも甲洋にくっついて寝るの気持ちよかったし……ねぇダメ?」 「……ダメ、かな」 「むー、甲洋のケチんぼ……」 真冬にネコを抱いて寝るなんて、独り寝の冷えた寝床しか知らなかった甲洋にとってあまりにも魅力的な誘惑だ。けれどその一線だけは超えてはいけないような気がした。 たかがネコを抱いて寝るくらいと、自分でも思うのだが。 (だって絶対、癖になるだろ……) 甲洋はこれから、操の新たな飼い主探しを始めるのつもりでいる。 その上で忘れちゃいけないのは、決して情が移ってはならないということだ。大事に扱うことはしても、愛情を寄せることになれば別れが辛い。この寒い時期にさっき感じたような夢心地をこれ以上味わってしまったら、確実に手放し難くなってしまうのは火を見るよりも明らかである。 しかも、だ。極めて認めたくはないが、さきほど甲洋は完全にアレがアレしかけた。操のあられもない姿を見て、その肌の熱に触れて、うっかり生理現象を引き起こしかけたのだ。 (そんなに欲求不満だったのか、俺) そう、欲求不満。なにせ童貞歴20年である。それだけ長いこと自身の宝刀を抜かずにいれば、こじらせてしまったとしても仕方ない。決して何かに目覚めしてしまったとかそういうことではなくて、あれはちょっとした事故のようなものだ。 どんなに可愛い顔をしていようとも、やたらと太ももが艶かしくとも、操はそういう対象ではない。そもそもネコをそんな目で見るなんて、甲洋にはまったく理解できなかった。 それに、どんなにすました面をしていようが甲洋は巨乳な女子が好きなのである。ついでだから言うが、実はバリバリの犬派だ。将来的には黒髪ロングな巨乳のお嫁さんをもらって、庭付きの一戸建てで黒柴の子犬を──いや、長くなるのでやめておこう。 (とにかく早く探さなきゃ。こいつの新しい飼い主……) 操はぶぅと頬を膨らませて甲洋を睨みつけている。そんな顔をしたって、ダメなものはダメなのだ。 「ねぇ~、甲洋ってば~」 「しつこいよ。それより早くご飯にしよう。今朝はあまりのんびりしてられないから」 昨日、あれからすぐにスーパーに走ってある程度の食材は調達済みだ。おかげで冷蔵庫の中は見たことがないくらいパンパンにものが詰まっている。 ちなみにスーパーでは操が使うための歯ブラシと、なんとなく勢いで子供用歯磨き粉まで買ってしまった。イチゴ味である。 「ご飯!? やったー!」 不満顔だった操の表情が、一気にパッと華やいだ。彼はしっぽをまっすぐ上に伸ばし、嬉しそうにバンザイをして、そのまま毛布を払い除けてしまう。 「わっ!? お前、せっかく隠してやったのに!」 「朝ご飯の前には歯磨きしなきゃ! イチゴ味のやつ!」 再び露になってしまった魅惑の太ももに慌てて顔を逸らす甲洋を他所に、操は元気よく立ち上がると軽やかな足取りでリビングを出て行ってしまう。 忙しないったらありゃしない。ネコはもっと静かな生き物だとばかり思っていた。 「顔も洗うんだよ。タオルは置いてあるやつを適当に使っていいから」 大きな音を立てて閉じた扉の向こうに声をかける。「はーい」という返事がして、甲洋はホッと息をつきながらようやく肩の力を抜きかけた、が、すぐに遠くから「ぎゃん!」という悲鳴が聞こえてぎょっとした。 「操!? どうした!? なにかあっ──」 慌てて駆け寄った甲洋が扉を開くと、廊下の中腹に横倒しのような状態で床に倒れている操の姿があった。ちょうど尻がこちらを向いていて、しかも、裾がぺろりとめくれあがっている。 「転んじゃったよぉ……」 「~~ッ!?」 甲洋は絶句しながら両手で覆った顔を背けた。 丸見えだった。予想外の出来事とはいえ、まるまるとした操のお尻が。しかもとんでもない角度から。 せめてもの救いは彼がしっぽを足の間に挟み込んでいたおかげで、割れ目のラインがちょうどよく隠されていたことだろうか。いや、この場合むしろ逆かもしれない。 人間には隠されるほど見たくなるという心理がある。カリギュラ効果というやつだ。 まったくそんな気などないはずなのに、こいつはどうしてか甲洋のそういった心理をいちいち刺激してくる。わざとか? わざとやってんのか? 「なんでなにもないところで転ぶのさ!?」 「そんなの知らないよぉ」 「いいから隠して! お尻が風邪ひくから!」 「お尻って風邪ひくの?」 「頼むから早くしてくれ!!」 なにがなんでも、一刻も早く新しい飼い主を見つけよう。 改めてそう心に誓う甲洋だった。 * 真壁一騎は子供のころから付き合いのある友人だ。 甲洋の実家が営む喫茶店に、父親と二人でよく訪れていたことがキッカケで打ち解けた。 甲洋は家族運がないぶん友人には多く恵まれていたが、本当に親しい人間というのはごく僅かしかいない。中でも一騎とは親友と呼べるほど気の置けない間柄だった。 一騎は甲洋が暮らすマンションから、二駅ほど離れた場所にあるアパートに住んでいる。彼もまた大学に通いながら、夜は居酒屋でアルバイトをしていた。以前は週に一度のペースで互いの家を行き来していたが、ここ数ヶ月は忙しくて顔を合わせる機会は減っていた。 そんな一騎に「折り入って相談がある」と連絡を入れたのは今朝、通学途中のバスの中でだ。彼は今日はちょうどバイトが休みだからと、すぐに時間を作ってくれた。 「悪い、ちょっと散らかってて」 大学帰りに立ち寄った甲洋を出迎えた一騎は、すまなそうに肩をすくめて苦笑した。少し見ないうちに髪が伸びていて、艶のある黒髪を軽くひとつに結っている。 玄関先には巨大なダンボールが折り畳まれた状態で立てかけられていた。大きな家具でも購入したのか、ダンボールはその他にも幾つか重ねてあって、狭い廊下で場所をとっていた。 立て込んでいるときに邪魔をしてしまったかもしれない。甲洋もまた肩をすくめて眉を下げる。 「俺の方こそ。せっかくの休みに邪魔して悪い」 「いいって別に。それより珍しいよな。甲洋が相談なんてさ」 「うん、まぁ……」 咄嗟に濁すような態度をとった甲洋を気にする様子もなく、一騎は「とりあえず立ち話もなんだから」と部屋へ促した。 しばらく会っていなかったからといって、なにも緊張するような間柄ではない。だけど今日ばかりは、表情がいささか強張ってしまうのを感じていた。 相談というのは、もちろん操のことである。 一騎が暮らすこのアパートはペット可の物件だ。同時に、信用に値するという条件を満たしているのも、甲洋が知る限り一騎だけだった。 操に必要なのは、何不自由なく安心して暮らせる環境だ。そこには優しい飼い主の存在が必要不可欠だった。誰か適任はいないだろうかと考えたとき、真っ先に浮かんだのが一騎の顔だった。 もちろん無理に押しつけようなんてつもりはない。命を預かるということは、その一生に責任を持つということだ。特にヒト型のイヌやネコは、人間とそう変わらない平均寿命を持っている。長い人生を共にすることを思えば、そうやすやすと決められる問題ではないのだから。 けれどもし可能なら、一騎に操の新しい飼い主になってほしいと思っている。 穏やかで心優しい彼ならば、操もきっと安心して暮らせるだろう。今のマンションでは一緒に暮らすことはできないし、なにより操の幸せを第一に考えたとき、甲洋は自分という人間にその資格があるとはとても思えないのだ。要するに、自信がなかった。 なにはともあれ話だけでも聞いてほしい。そんな思いでここまで来たわけだ── が。 「なんだ、手ぶらか。親しき仲にも礼儀ありという言葉を知らないのか?」 部屋に足を踏み入れた甲洋は、藪から棒に投げかけられた言葉に目を丸くした。視線の先では二人がけのソファの真ん中に、ゆったりと腰をおろす『ネコ』の姿がある。 絹糸のような長い髪は操と同じ亜麻色をしていた。大人びてはいるが、年齢もだいたい同じくらいだろうか。ピンと尖った大きな耳と、どこか苛立ったように座面を叩くしっぽも同じ色をしていたが、操と比べるとずいぶん毛足が長く、つやつやとした光を放っている。 その端正な顔立ちには、よく見れば左目を縦に裂くようにしてうっすら傷が走っているのが見えた。 それにしてもなぜここにネコがいるのだろう。 しかも微妙にディスられたような気がする。ちゅ~るでも持参するべきだったのだろうか。 (なんだこれ……どういうことだ……?) それだけじゃない。さらに甲洋を驚かせたのは、様変わりした部屋の様子だった。以前までは簡素なちゃぶ台と、薄っぺらい布団が置いてあるだけの殺風景な部屋だったはずなのに、今や立派なテレビとふかふかのベッドやクローゼットまで置かれており、裸ん坊だった畳はカーペットに覆われていた。しかも足の裏が温かい。電気カーペットである。 もちろん彼が腰をおろすソファも新品だ。上質な家具が揃う中にあって、変わらず古びたちゃぶ台だけが完全に浮いていた。 「総士だよ。ペルシャのクリームなんだ。可愛いだろ?」 お茶を持って後からやってきた一騎は、彼のことを総士と呼んだ。総士は足と腕を組み、吊り上げた瞳でじっと甲洋を観察している。 「どうした? 座れよ」 そう言って指された座布団もふかふかだった。前は煎餅だったのに。 一騎は湯気をのぼらせる湯飲み茶碗を甲洋の前に置き、自分は総士の足元に腰をおろした。かたやソファにふんぞり返るネコ。かたや床に正座する人間。その図はペットと飼い主というよりも、王様と家来といったほうがしっくりくる。 「……驚いた。いつから?」 戸惑いながらも腰をおろして問いかけると、一騎はよくぞ聞いてくれたとばかりに破顔した。 「一ヶ月くらい前かな。剣司って覚えてるか?」 「もちろん」 「剣司のバイト先で里親を募集してたんだ。元はちゃんと飼い主がいたんだけど……」 近藤剣司は一騎と甲洋の共通の友人で、獣医志望の学生だ。彼は現在、動物病院でアルバイトをしているらしかった。 そこに半年ほど前、大怪我を負った総士が運び込まれた。飼い主と外出中、不運にも交通事故に巻き込まれてしまったのだ。総士の顔の傷はそのときのもので、彼は左目の視力を失っていた。 しかし総士が失ったのはそれだけではなかった。事故の際、飼い主の女性は帰らぬ人となっていた。 総士は入院して治療を行い、回復後はそのまま病院で里親募集をかけることになった。だが新しい飼い主は決まらなかった。 病院の利用者の中には、ごくわずかだが里親に名乗り出てくれた人はいた。けれど総士自身がそれを拒絶し続けたのだ。 飼い主を失ったショックから心を閉ざしてしまった彼は、誰にも気を許そうとはしなかった。しまいには野良として、一人で生きていくとまで言いだしたのだ。 そこでほとほと困り果てた剣司が相談を持ちかけたのが一騎である。 いわば駆け込み寺だ。考えることはみんな同じだなと、甲洋は思わず苦笑した。 剣司から相談を受けた一騎は、試しに総士と会ってみることにした。すると驚いたことに、あれほど頑なだった総士の心が一瞬でほどけた。 一騎もひと目で気に入ってしまい、会ったその日に連れ帰ってきて、今に至るというわけである。 「なるほど……」 総士に視線を向けると、彼はそっぽを向いていた。けれど耳だけは一騎の方にしっかりと向けられている。話はちゃんと聞いているようだった。 自身も酷い傷を受け、そして懐いていた飼い主を失ってしまった彼の気持ちを思うと、胸が痛む。するとその感情が総士に伝わったのか、彼は甲洋をちらりと見やると、またすぐにそっぽを向いてしまった。 どうやら一騎の友人というだけでは、初対面の人間に心を開いてはくれないようだ。その警戒心の強さはいかにもネコだなと、甲洋は感心する。どこかの操とは大違いだ。 あの子はネコというより、イヌの方が近い気がする。生まれてくる種族を間違えたのではなかろうか。 「ネコを飼うなんて初めてだからさ。戸惑うことも多いよ。剣司にも甘やかしすぎには注意しろって言われてるし。躾って難しいんだな」 「一騎、僕にもお茶」 「はいはいちょっと待ってな。そうだ、おやつは? クッキー食べるか?」 「嫌だ。チョコレートケーキがいい」 「はいはい、可愛いな総士は」 躾は難しいと言ったその口で、めちゃくちゃに甘やかしていらっしゃる……。 (頼めそうもないな、このぶんだと) デレデレの一騎が総士のぶんのお茶とケーキを用意するあいだ、甲洋は肩を落としながらこっそり溜息を漏らす。 まさか先住ネコがいるなんて予想もしていなかった。さらにもう一匹どうかなんて厚かましい相談は、とてもできそうにない。この部屋の広さでは、ネコ一匹がせいぜいだろう。 なにより誰にも心を開かなかったという総士が、一騎にはこうして我儘を言っている。彼なりに甘えている証拠だ。彼らは実に良好な関係を築いているように見えた。 里親を申し出てくれた人たちとなにが違ったのか知らないが、一騎とはお互いになにかしら感じるものがあったのかもしれない。 (例えば運命、とか) またあの鐘の音が聞こえてきそうな気がして、甲洋は慌てて首を振った。 「お待たせ総士。はい、甲洋も」 戻ってきた一騎は総士の分と一緒に、甲洋のケーキも用意してくれた。 総士はソファからわずかに身を乗り出し、毛足の長いしっぽを天井に向けてピンと伸ばしている。そういえば、操も喜んでいるときは同じようにしっぽを立てていた。 彼は操ほど感情を表に出すタイプではないようだが、ネコは嬉しいとしっぽを立てるのだ。 一騎は総士の隣に座って、ケーキを食べる姿を微笑ましそうに見つめている。可愛くてしょうがないと、その顔にはハッキリと書かれているようだった。 誰かと誰かが仲睦まじくしているのを見るのはいいものだ。こちらまで嬉しくなってくる。 「凄いな一騎は。家具も全部この子のために揃えたんだろ?」 一騎は少しだけ照れくさそうに頬を染めると、指先で頬を掻いた。 「俺は特に欲しいものもないし、目的があって貯金してたわけでもないからさ。それに、テレビもないところで留守番させるなんて可哀想だろ?」 「そうだね」 酷かったもんな、お前の部屋……と思ったが、総士のおかげで一騎の生活水準も同時に上がったことは、甲洋としても喜ばしい限りだった。 「ところで甲洋、相談って? 俺の話ばっかりしちゃったけど」 「あー……うん、いや、まぁ」 「なんだよ、煮え切らないな。言えって」 ケーキを食べていた総士まで手をとめて甲洋を見る。その間、一騎は総士の口元についていたチョコクリームをサッとティッシュ(鼻セレブ)で拭き取ってやっていた。 王様と家来なのか、あるいは母と子なのか分からない状態のふたりに見つめられながら、甲洋はとりあえず話すだけ話してみることにした。 * 帰り道、甲洋の手にはお土産の袋がぶら下がっていた。 中身はケーキと、前日に作りすぎたという一騎カレーが入ったタッパーである。 暗い夜道で冷たい風にさらされながら、甲洋は一騎と交わした会話を思いだしていた。 捨てネコを保護しているが、自分ではどうしても飼えない事情があるため飼い主を探していることを話すと、一騎は残念そうにこう言った。 「ふわふわであったかくて、一緒に寝ると最高なのにな……」 と──。 そんなことは知っている。 しかも操は甲洋の腕にジャストフィットなサイズであることも。痩せているくせにやたらと肌が柔らかいことも、子供らしく体温が高いことも、昨日の今日で知っているのだ。 毎晩あれを抱きしめて眠れたら、どんなに幸せだろう。髪もしっぽもふわふわで、それはもう至福の毎日であるに違いない。 だが、現実問題としてそれは不可能だ。一時の感情に身を任せていいことではないし、くどいようだが甲洋のマンションではネコと暮らすことはできない。いつまでも閉じ込めておくわけにもいかないし、あまり猶予はなかった。 一騎はバイト先の知り合いにあたってみると約束してくれた。甲洋も引き続き交流のある友人知人にあたってみるつもりでいるが、どうなることか。 モヤモヤと考えを巡らせているうちに、自宅マンションは目の前だった。 操はどうしているだろう。今朝、朝食の支度と同時進行でサンドイッチを作り、留守中ちゃんと食べるようにと声はかけてきたが、三日三晩ものあいだ飲まず食わずで徘徊していた操の疲労は相当なものだったようで、彼は朝食を食べ終えると毛布にくるまりながらソファで船を漕いでいた。 あの様子だと、もしかしたらまだ起きられないでいるかもしれない。心配は尽きないが、同時に気がかりなことがある。 (あいつ、また脱いだりしてないだろうな……) あのあと、甲洋はスウェットの尻部分にハサミでしっぽ用の切り込みを入れた。服にあえて穴を開けるという行為には多少なりとも罪悪感があったけれど、あんな格好でウロチョロされたのではたまったもんじゃない。躊躇してる場合ではなかった。 ちゃんと服を身に着けた状態で休んでいてくれるといいのだが……。 「ただいま」 帰宅するなり甲洋がその言葉を言うのは、ほとんど癖のようなものだった。 おかえりを言ってくれるような家族はいなかったし、ましてや一人暮らしでは意味がないと分かってはいるのだが、染みついた癖はなかなか抜けない。 こんなときは、よりいっそう結婚への憧れが強まるのだ。自分の帰りを待つ家族がいる家。そこに帰るという感覚は、一体どんなものだろう。 けれど今日はいつもと様子が違っていた。 暗いはずの玄関には最初から明かりが灯されていて、おやと思う間もなく 「おかえり!」 という声に迎えられたのだ。 「!」 そこには操の笑顔があった。てっきりまだ休んでいるとばかり思っていた甲洋は、その出迎えに見開いた瞳を瞬かせる。 彼はちゃんと上下共に服を着た姿で、甲洋の顔を見るなりドンと胸に飛び込んできた。 「え、ぅわっ」 その衝撃に少し身体がグラついたが、お土産の袋を落とさなかったことは褒めてほしい。 操は甲洋の首にぎゅっと抱きつき、また例の鼻と鼻をくっつけて匂いをかぐと、そのまま顔中にグリグリと頬や額を擦りつけてくる。 「ほっぺた冷たいね、甲洋。外の匂いがいっぱいついてる! あれ? なんか、おれじゃないネコの匂いがするよ! なんで!? これ誰の匂い!?」 操はなぜか少し焦った様子を見せ、何度も鼻を鳴らして匂いをかぐと、いっそう強く鼻や頬を擦りつけてきた。 頬同士がこすれると、操の熱が冷えた皮膚にじわりと伝わってくる。そのまま燃え広がっていくのを感じながら、甲洋は思わず赤くなった顔を背けてしまう。 「ちょ、ちょっと、ち、近いって」 この距離感にはどうしても戸惑いを覚える。母親にすら抱きしめられたことがないのだ。いつもならただポツリと床に落ちるだけの「ただいま」という言葉に、「おかえり」と返されることも。 いつか結婚して、家族ができたら経験できるかもしれないと膨らませていた夢のひとつが、思いもよらない形で叶ってしまった。むしろ、思い描いていたものよりかなり激しい。心の準備をいっさいしていなかったものだから、咄嗟にどんな反応を返すのが正解なのか分からなかった。 操はそんなのお構いなしで、あごや首筋にまで顔を擦りつけてきた。このままでは、いつ部屋に上がれるか分からない。 「わかった、わかったから。それよりお前、ずっと玄関にいたの?」 「ずっとではないけど、足音が聞こえたから甲洋かもって思ってここで待ってた。そしたら本当に甲洋だったから嬉しい!」 「そ、そう」 「ねぇ、おれちゃんと留守番してたよ。服も脱がなかったし、パンも食べた。背中伸ばして、ゆっくり食べたよ!」 「そっか……偉いな、操は」 「うん、えへへ」 自然と頬が綻んでいくのを感じながらぽんぽんと優しく頭を撫でてやると、操は赤い頬でふにゃりと笑った。さっきからずっとしっぽが真上に伸びている。 甲洋は人間で、読心能力は使えない。だけどそのしっぽの動きや操の表情を見れば、彼の嬉しいという感情が充分に伝わってくる。 (なんか、まずいな、これ……) 心の奥からじんわりと熱いものが込み上げて、嬉しいはずなのに胸が苦しい。なぜか少しだけ、泣きたくなった。 「そろそろ離して……そう、ケーキ。ケーキがあるよ。カレーも」 「ケーキ!? カレー!?」 操が見開いた瞳を輝かせるのと同時に、耳と尻尾の毛が逆立った。 「お、おれ、ケーキ……食べたことないよ!」 「え、本当に?」 「ないよ!」 「そっか、じゃあ、すぐに支度するから」 「わぁいやったー! 嬉しいー!!」 一度は離れかけた操が、また強く抱きついてくる。 結局、抱え込む形でズルズルと引きずりながら部屋に入ることになってしまった。 ←戻る ・ 次へ→
あたたかいなぁと思った。
ぴったりと寄り添う高めの体温が心地よくて、無意識に抱き寄せながら頬を擦り寄せれば、鼻先がふわふわとしたものに埋もれる。全身を包み込まれるような柔らかさと、このままずっと浸っていたいようなぬくもりに、ほどけきった心が空に浮かんでいきそうだった。
なんて幸せな気分だろう。まるで夢でも見ているみたいに──
(……夢?)
はたと意識が覚醒する。朝だ。安物のカーテンを通して、白い光が射している。
起き抜けのぼやけた視界が、瞬きのたびにゆっくりと像を結んでいった。
目の前にはふさふさの毛に覆われた獣の耳がある。小さな手が、甲洋の胸の上できゅうと握りしめられていた。
ふわふわの髪の毛に鼻先を埋めながら、甲洋が抱いて寝ていたのは──
「うわっ!?」
認識した途端ビクンと身体が跳ね上がり、狭いソファから滑り落ちるようにして落下する。
「んにゃ!?」
下敷きにしてしまわないよう咄嗟に両腕で強く抱き込んだので、ひっついていた操まで一緒に落ちてしまった。甲洋の上に、すっかり折り重なっている。昨日と全く同じ状況だ。
尻や腰を思いきり打ちつけたような気がしたが、頭の中が真っ白でそれどころではなかった。
「な、な……?」
「んに~……なぁに? どうしたのぉ?」
「み、操……なんで……?」
どうしてここにいるのだろう。彼は甲洋のベッドを使っていたはず。前の家ではずっと床で寝ていたから、ベッドで寝るのは初めてだと言ってとても喜んでいた。
しかも、問題はそれだけではなかった。
「お、お前! なんて格好してるのさ!?」
操は甲洋の腰にすっかりまたがる形でのろのろと身を起こした。しっぽをゆったりと大きく左右に振りながら、のんきに目を擦ってふにゃあと欠伸をしている。
寝る直前までは確かにグレーのスウェット上下を着ていたはずなのに、どうしてか操は下になにも身に着けていなかった。
基本的にサイズが大きいため、かろうじて上衣の裾に大事な場所は隠れているが、それはむしろ逆効果である。すっぽんぽんにも焦ったが、見えそうで見えないギリギリのラインは視覚的にいささかマニアックで、想像力を刺激されてしまうからだ。(昨日がっつり見ているが)
いかにも柔らかそうな太ももを大きく開く体勢で乗り上げている操は、両手を甲洋の腹に置いてふにゃりと首を傾げた。寝起きの赤い目元に、とろりと潤んだ瞳が揺れる。仕草も容姿も幼いくせに、そこには不思議な色気があった。
もし彼が少しでも身じろぎをすれば……見えてしまう。しかも彼がぺたりと腰を落ち着けているのは、非常によろしくない部分である。それはちょうど甲洋の大事な場所で、そこにぷにぷにとした柔らかな肉の感触がほぼダイレクトに伝わってくるのだ。なにせ操は、下着すら履いていない。
(まずいまずいまずいまずい……ていうか、昨日からおかしくないか俺……!?)
甲洋にはそっちの気は0であるはずだった。同性を相手におかしな気を起こしたことなんかないし、子供の頃はよく友達同士で銭湯に行ったりなんかもした。どっちの方が大きいとか、毛が生えてきてるから大人だとか、そんなくだらないことをあーだこーだと言っては年頃の男同士で張り合っていた。
誰がどんな形をしていたとか、桁外れの記憶力を持つ甲洋は今でもしっかり覚えている。だけどそれを思いだして変な気分になるとか、そんなことは絶対にありえない。むしろ少年時代のいい思い出だ。
それがどうしてか、操が相手だとなにかがおかしい。昨日から、頭のネジが吹っ飛んだみたいに意識させられている。
頭に血が上るのを感じながら、それ以上は声が出ない。バクバクと踊る心音の息苦しさに、思わず喉が鳴った。
「こうよ、おはよぉ」
まだ寝ぼけ眼でいる操は問には答えず、そのまま身体を前に倒して甲洋の顔にぐっと顔を近づけた。腰が引けそうになるが、床と操にサンドされているせいで身動きができない。
甲洋の視線は、操の艶めいた唇に注がれた。小さくて、だけど肉感的で、淡桃色をしたそれがどんどん近づいてくる。
(ちょ、ちょっと待っ……う、嘘だろ? まさか、まさか……)
このままキスをされてしまうとでも……いうのだろうか……?
「ッ!!」
某ビデオのようなナレーションを脳内で再生させながら、咄嗟にぎゅうと目をつぶる。どうしてか拒絶するという選択肢が浮かばない。まともに思考が動く状態ではなかった。ドクンドクンと、心臓が頭の位置にあるかのように激しく動悸を打っている。
が、いつまでたってもそのときは訪れない。代わりに鼻の先につんつんと何かが当たるのを感じて、恐る恐る目を開けた。
(……?)
唇と唇ではなくて、鼻と鼻。
操はすんすんと鼻を鳴らしながら、気持ちよさそうに目を閉じて甲洋の鼻先に自分の鼻先を何度もくっつけている。そして、そのまま頬ずりをしてきた。
「は、ぇ……?」
つい間抜けな声が漏れる。これはどういう意思表示なのだろうか。てっきりファーストキスを奪われるものとばかり思い込んでいた甲洋は、拍子抜けしてしまった。
(なにこれ……ひょっとして挨拶、みたいなもの……?)
鼻キスのあとに何度も何度も頬ずりをされながら、安堵している自分と落胆している自分が同時に存在している。当然、後者には戸惑いを覚えた。それじゃあまるで期待していたみたいではないか。
「み、操、いいから離れて。ねぇ、なんで脱いだの? それに、お前の寝る場所はここじゃないよ」
どうにか自分のペースを手繰り寄せ、操の両肩を掴むと引き離した。操は不服そうに唇を尖らせたが、彼の満足がいくまで放っておいたら時間的にも精神的にも手遅れになりそうだった。
(手遅れ? 手遅れって、なにが……?)
どうして今、あの『感覚』を思いだしてしまったのだろう。
操と初めて目が合ったとき、全身を駆け抜けたあの不可解な痺れを。あれは気のせいということで方がついたはずだ。
(あぁもう!)
自分で自分が分からない。とにかく、今日は一限から授業を入れている。のんびりしていたら遅刻してしまうということだけはハッキリしていた。だから、そう、さっさと疑問を解消して、朝の支度に取り掛からなければならないのだ。
甲洋は腹筋の力だけで身を起こし、座り込んでいる操の下から抜け出した。床にぺたりと腰を落ち着けた操の下半身に、丸まって落ちていた毛布をさりげなくかぶせる。
「起きたら甲洋がまだ寝てたから、起きるまで一緒に寝てたよ」
「そういうときは普通に起こしてくれればいいよ……で、ズボンは?」
「だってあれ、しっぽが動かせなくて嫌だったんだもん。だから布団の中で脱いじゃった」
「そういうことは初めに言ってよ……」
とはいえ、気づかなかった自分も悪かったように思う。イヌやネコには、ヒトと違ってしっぽがある。だから彼ら専用の衣類には、ちゃんとしっぽ穴がついているのだ。
あとどのくらい一緒にいることになるかはまだ分からないが、ちゃんと操に合ったサイズのネコ用の衣類を、何着か買い揃えるべきかもしれない。それに、彼は下着をつけていないのだ。新品ならまだしも、そこは流石に自分のものをというわけにはいかない気がして──操は気にしないだろうが──あえて考えないようにしていたのだが。
「ねぇ甲洋、バラバラに寝ないで一緒に寝ようよ。そのほうがあったかいでしょ?」
確かいつも利用しているスーパーに、そこそこ大きな衣料品コーナーがあったなと思考を巡らせていると、操が大きな瞳をくるくるとさせながら無邪気に口を開いた。
突然の提案に、なぜかギクリとしてしまう。
「いや、それはちょっと……」
思わず目を逸らす。
「なんで? だってさっきはあんなに気持ちよさそうだったよ。甲洋の心、嬉しいって言ってたの感じたもん。おれも甲洋にくっついて寝るの気持ちよかったし……ねぇダメ?」
「……ダメ、かな」
「むー、甲洋のケチんぼ……」
真冬にネコを抱いて寝るなんて、独り寝の冷えた寝床しか知らなかった甲洋にとってあまりにも魅力的な誘惑だ。けれどその一線だけは超えてはいけないような気がした。
たかがネコを抱いて寝るくらいと、自分でも思うのだが。
(だって絶対、癖になるだろ……)
甲洋はこれから、操の新たな飼い主探しを始めるのつもりでいる。
その上で忘れちゃいけないのは、決して情が移ってはならないということだ。大事に扱うことはしても、愛情を寄せることになれば別れが辛い。この寒い時期にさっき感じたような夢心地をこれ以上味わってしまったら、確実に手放し難くなってしまうのは火を見るよりも明らかである。
しかも、だ。極めて認めたくはないが、さきほど甲洋は完全にアレがアレしかけた。操のあられもない姿を見て、その肌の熱に触れて、うっかり生理現象を引き起こしかけたのだ。
(そんなに欲求不満だったのか、俺)
そう、欲求不満。なにせ童貞歴20年である。それだけ長いこと自身の宝刀を抜かずにいれば、こじらせてしまったとしても仕方ない。決して何かに目覚めしてしまったとかそういうことではなくて、あれはちょっとした事故のようなものだ。
どんなに可愛い顔をしていようとも、やたらと太ももが艶かしくとも、操はそういう対象ではない。そもそもネコをそんな目で見るなんて、甲洋にはまったく理解できなかった。
それに、どんなにすました面をしていようが甲洋は巨乳な女子が好きなのである。ついでだから言うが、実はバリバリの犬派だ。将来的には黒髪ロングな巨乳のお嫁さんをもらって、庭付きの一戸建てで黒柴の子犬を──いや、長くなるのでやめておこう。
(とにかく早く探さなきゃ。こいつの新しい飼い主……)
操はぶぅと頬を膨らませて甲洋を睨みつけている。そんな顔をしたって、ダメなものはダメなのだ。
「ねぇ~、甲洋ってば~」
「しつこいよ。それより早くご飯にしよう。今朝はあまりのんびりしてられないから」
昨日、あれからすぐにスーパーに走ってある程度の食材は調達済みだ。おかげで冷蔵庫の中は見たことがないくらいパンパンにものが詰まっている。
ちなみにスーパーでは操が使うための歯ブラシと、なんとなく勢いで子供用歯磨き粉まで買ってしまった。イチゴ味である。
「ご飯!? やったー!」
不満顔だった操の表情が、一気にパッと華やいだ。彼はしっぽをまっすぐ上に伸ばし、嬉しそうにバンザイをして、そのまま毛布を払い除けてしまう。
「わっ!? お前、せっかく隠してやったのに!」
「朝ご飯の前には歯磨きしなきゃ! イチゴ味のやつ!」
再び露になってしまった魅惑の太ももに慌てて顔を逸らす甲洋を他所に、操は元気よく立ち上がると軽やかな足取りでリビングを出て行ってしまう。
忙しないったらありゃしない。ネコはもっと静かな生き物だとばかり思っていた。
「顔も洗うんだよ。タオルは置いてあるやつを適当に使っていいから」
大きな音を立てて閉じた扉の向こうに声をかける。「はーい」という返事がして、甲洋はホッと息をつきながらようやく肩の力を抜きかけた、が、すぐに遠くから「ぎゃん!」という悲鳴が聞こえてぎょっとした。
「操!? どうした!? なにかあっ──」
慌てて駆け寄った甲洋が扉を開くと、廊下の中腹に横倒しのような状態で床に倒れている操の姿があった。ちょうど尻がこちらを向いていて、しかも、裾がぺろりとめくれあがっている。
「転んじゃったよぉ……」
「~~ッ!?」
甲洋は絶句しながら両手で覆った顔を背けた。
丸見えだった。予想外の出来事とはいえ、まるまるとした操のお尻が。しかもとんでもない角度から。
せめてもの救いは彼がしっぽを足の間に挟み込んでいたおかげで、割れ目のラインがちょうどよく隠されていたことだろうか。いや、この場合むしろ逆かもしれない。
人間には隠されるほど見たくなるという心理がある。カリギュラ効果というやつだ。
まったくそんな気などないはずなのに、こいつはどうしてか甲洋のそういった心理をいちいち刺激してくる。わざとか? わざとやってんのか?
「なんでなにもないところで転ぶのさ!?」
「そんなの知らないよぉ」
「いいから隠して! お尻が風邪ひくから!」
「お尻って風邪ひくの?」
「頼むから早くしてくれ!!」
なにがなんでも、一刻も早く新しい飼い主を見つけよう。
改めてそう心に誓う甲洋だった。
*
真壁一騎は子供のころから付き合いのある友人だ。
甲洋の実家が営む喫茶店に、父親と二人でよく訪れていたことがキッカケで打ち解けた。
甲洋は家族運がないぶん友人には多く恵まれていたが、本当に親しい人間というのはごく僅かしかいない。中でも一騎とは親友と呼べるほど気の置けない間柄だった。
一騎は甲洋が暮らすマンションから、二駅ほど離れた場所にあるアパートに住んでいる。彼もまた大学に通いながら、夜は居酒屋でアルバイトをしていた。以前は週に一度のペースで互いの家を行き来していたが、ここ数ヶ月は忙しくて顔を合わせる機会は減っていた。
そんな一騎に「折り入って相談がある」と連絡を入れたのは今朝、通学途中のバスの中でだ。彼は今日はちょうどバイトが休みだからと、すぐに時間を作ってくれた。
「悪い、ちょっと散らかってて」
大学帰りに立ち寄った甲洋を出迎えた一騎は、すまなそうに肩をすくめて苦笑した。少し見ないうちに髪が伸びていて、艶のある黒髪を軽くひとつに結っている。
玄関先には巨大なダンボールが折り畳まれた状態で立てかけられていた。大きな家具でも購入したのか、ダンボールはその他にも幾つか重ねてあって、狭い廊下で場所をとっていた。
立て込んでいるときに邪魔をしてしまったかもしれない。甲洋もまた肩をすくめて眉を下げる。
「俺の方こそ。せっかくの休みに邪魔して悪い」
「いいって別に。それより珍しいよな。甲洋が相談なんてさ」
「うん、まぁ……」
咄嗟に濁すような態度をとった甲洋を気にする様子もなく、一騎は「とりあえず立ち話もなんだから」と部屋へ促した。
しばらく会っていなかったからといって、なにも緊張するような間柄ではない。だけど今日ばかりは、表情がいささか強張ってしまうのを感じていた。
相談というのは、もちろん操のことである。
一騎が暮らすこのアパートはペット可の物件だ。同時に、信用に値するという条件を満たしているのも、甲洋が知る限り一騎だけだった。
操に必要なのは、何不自由なく安心して暮らせる環境だ。そこには優しい飼い主の存在が必要不可欠だった。誰か適任はいないだろうかと考えたとき、真っ先に浮かんだのが一騎の顔だった。
もちろん無理に押しつけようなんてつもりはない。命を預かるということは、その一生に責任を持つということだ。特にヒト型のイヌやネコは、人間とそう変わらない平均寿命を持っている。長い人生を共にすることを思えば、そうやすやすと決められる問題ではないのだから。
けれどもし可能なら、一騎に操の新しい飼い主になってほしいと思っている。
穏やかで心優しい彼ならば、操もきっと安心して暮らせるだろう。今のマンションでは一緒に暮らすことはできないし、なにより操の幸せを第一に考えたとき、甲洋は自分という人間にその資格があるとはとても思えないのだ。要するに、自信がなかった。
なにはともあれ話だけでも聞いてほしい。そんな思いでここまで来たわけだ──
が。
「なんだ、手ぶらか。親しき仲にも礼儀ありという言葉を知らないのか?」
部屋に足を踏み入れた甲洋は、藪から棒に投げかけられた言葉に目を丸くした。視線の先では二人がけのソファの真ん中に、ゆったりと腰をおろす『ネコ』の姿がある。
絹糸のような長い髪は操と同じ亜麻色をしていた。大人びてはいるが、年齢もだいたい同じくらいだろうか。ピンと尖った大きな耳と、どこか苛立ったように座面を叩くしっぽも同じ色をしていたが、操と比べるとずいぶん毛足が長く、つやつやとした光を放っている。
その端正な顔立ちには、よく見れば左目を縦に裂くようにしてうっすら傷が走っているのが見えた。
それにしてもなぜここにネコがいるのだろう。
しかも微妙にディスられたような気がする。ちゅ~るでも持参するべきだったのだろうか。
(なんだこれ……どういうことだ……?)
それだけじゃない。さらに甲洋を驚かせたのは、様変わりした部屋の様子だった。以前までは簡素なちゃぶ台と、薄っぺらい布団が置いてあるだけの殺風景な部屋だったはずなのに、今や立派なテレビとふかふかのベッドやクローゼットまで置かれており、裸ん坊だった畳はカーペットに覆われていた。しかも足の裏が温かい。電気カーペットである。
もちろん彼が腰をおろすソファも新品だ。上質な家具が揃う中にあって、変わらず古びたちゃぶ台だけが完全に浮いていた。
「総士だよ。ペルシャのクリームなんだ。可愛いだろ?」
お茶を持って後からやってきた一騎は、彼のことを総士と呼んだ。総士は足と腕を組み、吊り上げた瞳でじっと甲洋を観察している。
「どうした? 座れよ」
そう言って指された座布団もふかふかだった。前は煎餅だったのに。
一騎は湯気をのぼらせる湯飲み茶碗を甲洋の前に置き、自分は総士の足元に腰をおろした。かたやソファにふんぞり返るネコ。かたや床に正座する人間。その図はペットと飼い主というよりも、王様と家来といったほうがしっくりくる。
「……驚いた。いつから?」
戸惑いながらも腰をおろして問いかけると、一騎はよくぞ聞いてくれたとばかりに破顔した。
「一ヶ月くらい前かな。剣司って覚えてるか?」
「もちろん」
「剣司のバイト先で里親を募集してたんだ。元はちゃんと飼い主がいたんだけど……」
近藤剣司は一騎と甲洋の共通の友人で、獣医志望の学生だ。彼は現在、動物病院でアルバイトをしているらしかった。
そこに半年ほど前、大怪我を負った総士が運び込まれた。飼い主と外出中、不運にも交通事故に巻き込まれてしまったのだ。総士の顔の傷はそのときのもので、彼は左目の視力を失っていた。
しかし総士が失ったのはそれだけではなかった。事故の際、飼い主の女性は帰らぬ人となっていた。
総士は入院して治療を行い、回復後はそのまま病院で里親募集をかけることになった。だが新しい飼い主は決まらなかった。
病院の利用者の中には、ごくわずかだが里親に名乗り出てくれた人はいた。けれど総士自身がそれを拒絶し続けたのだ。
飼い主を失ったショックから心を閉ざしてしまった彼は、誰にも気を許そうとはしなかった。しまいには野良として、一人で生きていくとまで言いだしたのだ。
そこでほとほと困り果てた剣司が相談を持ちかけたのが一騎である。
いわば駆け込み寺だ。考えることはみんな同じだなと、甲洋は思わず苦笑した。
剣司から相談を受けた一騎は、試しに総士と会ってみることにした。すると驚いたことに、あれほど頑なだった総士の心が一瞬でほどけた。
一騎もひと目で気に入ってしまい、会ったその日に連れ帰ってきて、今に至るというわけである。
「なるほど……」
総士に視線を向けると、彼はそっぽを向いていた。けれど耳だけは一騎の方にしっかりと向けられている。話はちゃんと聞いているようだった。
自身も酷い傷を受け、そして懐いていた飼い主を失ってしまった彼の気持ちを思うと、胸が痛む。するとその感情が総士に伝わったのか、彼は甲洋をちらりと見やると、またすぐにそっぽを向いてしまった。
どうやら一騎の友人というだけでは、初対面の人間に心を開いてはくれないようだ。その警戒心の強さはいかにもネコだなと、甲洋は感心する。どこかの操とは大違いだ。
あの子はネコというより、イヌの方が近い気がする。生まれてくる種族を間違えたのではなかろうか。
「ネコを飼うなんて初めてだからさ。戸惑うことも多いよ。剣司にも甘やかしすぎには注意しろって言われてるし。躾って難しいんだな」
「一騎、僕にもお茶」
「はいはいちょっと待ってな。そうだ、おやつは? クッキー食べるか?」
「嫌だ。チョコレートケーキがいい」
「はいはい、可愛いな総士は」
躾は難しいと言ったその口で、めちゃくちゃに甘やかしていらっしゃる……。
(頼めそうもないな、このぶんだと)
デレデレの一騎が総士のぶんのお茶とケーキを用意するあいだ、甲洋は肩を落としながらこっそり溜息を漏らす。
まさか先住ネコがいるなんて予想もしていなかった。さらにもう一匹どうかなんて厚かましい相談は、とてもできそうにない。この部屋の広さでは、ネコ一匹がせいぜいだろう。
なにより誰にも心を開かなかったという総士が、一騎にはこうして我儘を言っている。彼なりに甘えている証拠だ。彼らは実に良好な関係を築いているように見えた。
里親を申し出てくれた人たちとなにが違ったのか知らないが、一騎とはお互いになにかしら感じるものがあったのかもしれない。
(例えば運命、とか)
またあの鐘の音が聞こえてきそうな気がして、甲洋は慌てて首を振った。
「お待たせ総士。はい、甲洋も」
戻ってきた一騎は総士の分と一緒に、甲洋のケーキも用意してくれた。
総士はソファからわずかに身を乗り出し、毛足の長いしっぽを天井に向けてピンと伸ばしている。そういえば、操も喜んでいるときは同じようにしっぽを立てていた。
彼は操ほど感情を表に出すタイプではないようだが、ネコは嬉しいとしっぽを立てるのだ。
一騎は総士の隣に座って、ケーキを食べる姿を微笑ましそうに見つめている。可愛くてしょうがないと、その顔にはハッキリと書かれているようだった。
誰かと誰かが仲睦まじくしているのを見るのはいいものだ。こちらまで嬉しくなってくる。
「凄いな一騎は。家具も全部この子のために揃えたんだろ?」
一騎は少しだけ照れくさそうに頬を染めると、指先で頬を掻いた。
「俺は特に欲しいものもないし、目的があって貯金してたわけでもないからさ。それに、テレビもないところで留守番させるなんて可哀想だろ?」
「そうだね」
酷かったもんな、お前の部屋……と思ったが、総士のおかげで一騎の生活水準も同時に上がったことは、甲洋としても喜ばしい限りだった。
「ところで甲洋、相談って? 俺の話ばっかりしちゃったけど」
「あー……うん、いや、まぁ」
「なんだよ、煮え切らないな。言えって」
ケーキを食べていた総士まで手をとめて甲洋を見る。その間、一騎は総士の口元についていたチョコクリームをサッとティッシュ(鼻セレブ)で拭き取ってやっていた。
王様と家来なのか、あるいは母と子なのか分からない状態のふたりに見つめられながら、甲洋はとりあえず話すだけ話してみることにした。
*
帰り道、甲洋の手にはお土産の袋がぶら下がっていた。
中身はケーキと、前日に作りすぎたという一騎カレーが入ったタッパーである。
暗い夜道で冷たい風にさらされながら、甲洋は一騎と交わした会話を思いだしていた。
捨てネコを保護しているが、自分ではどうしても飼えない事情があるため飼い主を探していることを話すと、一騎は残念そうにこう言った。
「ふわふわであったかくて、一緒に寝ると最高なのにな……」
と──。
そんなことは知っている。
しかも操は甲洋の腕にジャストフィットなサイズであることも。痩せているくせにやたらと肌が柔らかいことも、子供らしく体温が高いことも、昨日の今日で知っているのだ。
毎晩あれを抱きしめて眠れたら、どんなに幸せだろう。髪もしっぽもふわふわで、それはもう至福の毎日であるに違いない。
だが、現実問題としてそれは不可能だ。一時の感情に身を任せていいことではないし、くどいようだが甲洋のマンションではネコと暮らすことはできない。いつまでも閉じ込めておくわけにもいかないし、あまり猶予はなかった。
一騎はバイト先の知り合いにあたってみると約束してくれた。甲洋も引き続き交流のある友人知人にあたってみるつもりでいるが、どうなることか。
モヤモヤと考えを巡らせているうちに、自宅マンションは目の前だった。
操はどうしているだろう。今朝、朝食の支度と同時進行でサンドイッチを作り、留守中ちゃんと食べるようにと声はかけてきたが、三日三晩ものあいだ飲まず食わずで徘徊していた操の疲労は相当なものだったようで、彼は朝食を食べ終えると毛布にくるまりながらソファで船を漕いでいた。
あの様子だと、もしかしたらまだ起きられないでいるかもしれない。心配は尽きないが、同時に気がかりなことがある。
(あいつ、また脱いだりしてないだろうな……)
あのあと、甲洋はスウェットの尻部分にハサミでしっぽ用の切り込みを入れた。服にあえて穴を開けるという行為には多少なりとも罪悪感があったけれど、あんな格好でウロチョロされたのではたまったもんじゃない。躊躇してる場合ではなかった。
ちゃんと服を身に着けた状態で休んでいてくれるといいのだが……。
「ただいま」
帰宅するなり甲洋がその言葉を言うのは、ほとんど癖のようなものだった。
おかえりを言ってくれるような家族はいなかったし、ましてや一人暮らしでは意味がないと分かってはいるのだが、染みついた癖はなかなか抜けない。
こんなときは、よりいっそう結婚への憧れが強まるのだ。自分の帰りを待つ家族がいる家。そこに帰るという感覚は、一体どんなものだろう。
けれど今日はいつもと様子が違っていた。
暗いはずの玄関には最初から明かりが灯されていて、おやと思う間もなく
「おかえり!」
という声に迎えられたのだ。
「!」
そこには操の笑顔があった。てっきりまだ休んでいるとばかり思っていた甲洋は、その出迎えに見開いた瞳を瞬かせる。
彼はちゃんと上下共に服を着た姿で、甲洋の顔を見るなりドンと胸に飛び込んできた。
「え、ぅわっ」
その衝撃に少し身体がグラついたが、お土産の袋を落とさなかったことは褒めてほしい。
操は甲洋の首にぎゅっと抱きつき、また例の鼻と鼻をくっつけて匂いをかぐと、そのまま顔中にグリグリと頬や額を擦りつけてくる。
「ほっぺた冷たいね、甲洋。外の匂いがいっぱいついてる! あれ? なんか、おれじゃないネコの匂いがするよ! なんで!? これ誰の匂い!?」
操はなぜか少し焦った様子を見せ、何度も鼻を鳴らして匂いをかぐと、いっそう強く鼻や頬を擦りつけてきた。
頬同士がこすれると、操の熱が冷えた皮膚にじわりと伝わってくる。そのまま燃え広がっていくのを感じながら、甲洋は思わず赤くなった顔を背けてしまう。
「ちょ、ちょっと、ち、近いって」
この距離感にはどうしても戸惑いを覚える。母親にすら抱きしめられたことがないのだ。いつもならただポツリと床に落ちるだけの「ただいま」という言葉に、「おかえり」と返されることも。
いつか結婚して、家族ができたら経験できるかもしれないと膨らませていた夢のひとつが、思いもよらない形で叶ってしまった。むしろ、思い描いていたものよりかなり激しい。心の準備をいっさいしていなかったものだから、咄嗟にどんな反応を返すのが正解なのか分からなかった。
操はそんなのお構いなしで、あごや首筋にまで顔を擦りつけてきた。このままでは、いつ部屋に上がれるか分からない。
「わかった、わかったから。それよりお前、ずっと玄関にいたの?」
「ずっとではないけど、足音が聞こえたから甲洋かもって思ってここで待ってた。そしたら本当に甲洋だったから嬉しい!」
「そ、そう」
「ねぇ、おれちゃんと留守番してたよ。服も脱がなかったし、パンも食べた。背中伸ばして、ゆっくり食べたよ!」
「そっか……偉いな、操は」
「うん、えへへ」
自然と頬が綻んでいくのを感じながらぽんぽんと優しく頭を撫でてやると、操は赤い頬でふにゃりと笑った。さっきからずっとしっぽが真上に伸びている。
甲洋は人間で、読心能力は使えない。だけどそのしっぽの動きや操の表情を見れば、彼の嬉しいという感情が充分に伝わってくる。
(なんか、まずいな、これ……)
心の奥からじんわりと熱いものが込み上げて、嬉しいはずなのに胸が苦しい。なぜか少しだけ、泣きたくなった。
「そろそろ離して……そう、ケーキ。ケーキがあるよ。カレーも」
「ケーキ!? カレー!?」
操が見開いた瞳を輝かせるのと同時に、耳と尻尾の毛が逆立った。
「お、おれ、ケーキ……食べたことないよ!」
「え、本当に?」
「ないよ!」
「そっか、じゃあ、すぐに支度するから」
「わぁいやったー! 嬉しいー!!」
一度は離れかけた操が、また強く抱きついてくる。
結局、抱え込む形でズルズルと引きずりながら部屋に入ることになってしまった。
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