2025/09/11 Thu 04 甲洋は凄いと、操は思う。 だっていろいろなことを知っているし、朝も昼も夜もちゃんとご飯をくれる。 操がなにもしなくても優しくしてくれて、ベッドで寝てもいいと言ってくれるし、操にぴったりの新しい服までくれた。 モコモコとした素材のルームウェアは着ているだけで暖かくて、布団の中にいるとちょっと熱いくらいだ。部屋の中も、いつも暖房がきいてポカポカしている。 ご主人様は新しい服なんかくれなかったし、ご飯だって何日かに一度だけ、気が向いたときに操に『仕事』をさせて、適当な残り物をくれるだけだった。 だけどここは天国みたいだ。夢のような暮らしだなと思うけれど、甲洋はそれが『普通』なのだと教えてくれた。 普通って凄い。だけど本当に凄いのは、操にそれを教えてくれる甲洋なのだ。 「こうよ、朝だよ! 起きて起きて!」 甲洋に拾われて数日。 操の朝はソファの横に膝をついて、甲洋の身体をゆさゆさと揺り動かすことから始まる。本当は毛布にもぐり込んで一緒にくっついて寝たいけれど、それをねだると甲洋を困らせてしまう。 だから我慢して、『普通』に起こすのだ。普通のことができている自分を、操は嬉しいと思う。 毛布に包まっていた甲洋は小さく呻き、重たそうにまぶたを持ち上げた。 「おはよ! 甲洋!」 「……はよ」 寝起きの甲洋の声はちょっぴり低く掠れていたが、操の顔を見てふっと微笑んだ。それがなんだか嬉しくて、操は甲洋の胸に両手を置くとぐーんと顔を近づける。 甲洋の身体が少し強張ったような気がしたが、操は構わず自分の鼻を甲洋の鼻にくっつけた。そのまま何度かつんつんとしながら匂いをかいで、ほんのりと赤く染まった頬に頬ずりをする。 いい匂いだなと思う。静かで優しくて、少しだけ寂しい。ここで目を覚まして、初めて甲洋に触れたときから、操はこの匂いが大好きだった。 「……その、鼻くっつけるやつ」 ややしばらくのあいだ黙って好きにさせていた甲洋は、遠慮がちに操の耳に触れながら口を開いた。 「にゃあに?」 「挨拶、かなにか?」 「んー、多分そう」 「多分?」 「わかんない。でも、したくなっちゃう」 ネコに備わる習性を、ネコである操は深く意識したことがない。もしかしたら子ネコの頃に母ネコに教わったのかもしれないが、操にはそんな昔の記憶はなかった。 「それ、前の飼い主にもした?」 「したことないよ? どうしてそんなこと聞くの?」 そういえば、ご主人様にはしたことないなと操は思う。 そもそも『仕事』のとき以外で触ったことだってない。こんなふうにくっつきたいと思ったのは、甲洋が初めてだった。 「……別に、なんとなく」 甲洋はそう言って頬を赤くしたまま目を逸らした。顔にはなんの表情も浮かんではいなかったけれど、甲洋からは恥ずかしいという気持ちと、嬉しいという気持ちがごちゃ混ぜになったものが伝わってきた。けれど操には『恥ずかしい』がよく分からない。ただ、甲洋から伝わるものを受け止めた途端、どうしてかちょっぴり顔が赤くなるのを感じてしまった。 (なにこれ、変なの!) だけど嫌な感じはしない。甲洋からも嫌だという感情は伝わってこなかった。だから、まぁいっかと操は思った。 「ねぇ甲洋、今日も朝から狩りに行くの?」 起き上がって背伸びをしている甲洋に問いかけると、彼は「狩り?」と不思議そうに首を傾げた。 「なにそれ?」 「昨日もおとといも行ったでしょ?」 「……ああ、大学とバイトのこと? 今日は午後からだから、少しのんびりできるよ」 「ダイガクとバイトってところに行ってるんだね」 「そうだよ」 「そっか。甲洋は偉いね」 操がにっこり笑って言うと、甲洋は困った顔をしながら指先で頬を掻いた。 「普通のことをしてるだけだよ」 「普通って凄いことなんだよ。だから甲洋は偉いよ」 操は思ったことをそのまま伝えただけだ。なのに甲洋はやっぱりとても困った顔をした。それは『恥ずかしい』に少し似ていたけれど、それよりもっとくすぐったい感じがする。 甲洋は褒められるとくすぐったくなるのだ。操はまたひとつ、彼のことを知ることができた。それが嬉しい。操は甲洋のことをもっともっと知りたいと思った。 「甲洋!」 操はソファに乗り上げると、両腕で甲洋にぎゅうと抱きついた。 「わっ!」 「おれは甲洋が狩りに失敗して帰ってきても、ぜんぜん平気だからね! だから今日もがんばってね!」 「だからさ、その狩りってなに……?」 いまいち会話が噛み合わないが、言いたいことさえ言えたなら操はいちいち気にしない。甲洋は気になっているようだが、操が頬ずりをすると、戸惑いながらも少しずつ心がポカポカとあたたまってくるのが伝わってきた。 (甲洋は、ぎゅってすると喜ぶ!) そこにはやっぱり恥ずかしいという気持ちも混ざっているけれど、嬉しいという気持ちのほうが勝っているような気がして、操の心もポカポカだった。 * 甲洋は凄い。そして同じくらい、とても偉い。 操のご主人様はあまり『狩り』に行かない人だったけれど、甲洋はほとんど毎日『狩り』に行く。朝から出かける日もあれば、昼や夕方から出かける日もある。 ダイガクとかバイトとか彼は言うが、操にはそれがなんなのか分からない。きっと甲洋が狩り場にしている場所なんだろうなと、ぼんやり理解している程度だった。 そこで甲洋は一生懸命に狩りをして、操に美味しいご飯や洋服を運んできてくれるのだ。 先日、狩りに成功した甲洋はケーキとカレーを持ち帰ってきた。 初めてのケーキの味には感動したけれど、それ以上にビックリしたのはカレーだった。この世にこんなに美味しいカレーがあるなんて知らなくて、おかわりまでしてしまった。甲洋は、操が食べている姿を楽しそうに笑って見ていた。 だけど甲洋は、狩りに出かけても手ぶらで帰ってくることが多かった。 操はまともに狩りをしたことがないので分からないが、とても難しいのだということは、つい最近学んだばかりだ。先日ゴミ捨て場で食べ物探しをしようとしたけれど、そこいらを縄張りにしているカラスを怒らせてしまった。 だから甲洋も、いつもそんな危険を犯しながら食べ物を調達しているのだ。 失敗して帰ってきた甲洋のことを、操はなぜか可愛いと思ってしまう。きっとこの人は、あまり狩りが得意ではないんだろうなぁと、そう思うと少し可哀想な気がして、胸がキュンと締めつけられたようになる。狩りが下手なのは子供の証拠だ。 もしかしたら、自分が外に出て行って狩りをしたほうがいいのかもしれない。またカラスに襲われてしまうかもしれないが、甲洋のためなら頑張れるような気がする。 大学は勉強をする場所で、バイトは仕事をしてお金を稼ぐこと。お金がなければ食べ物だって服だって買えない。手ぶらで帰ってくるのは冷蔵庫に食べ物が十分入っているから、いちいち買い物をして帰ってくる必要がないからだということを、ネコである操は知らないのである。 * 甲洋の足音はすぐ分かる。 他の人のものとそう変わらないけれど、操はたった一度聞いただけで、それが甲洋のものであることが分かるようになった。 だから彼の足音が聞こえると玄関まで駆けていき、胸を踊らせながら待っているのだ。 「ただいま」 「おかえり!」 夜気を引き連れて帰ってきた甲洋に飛びつきながら、操は彼を出迎える。 甲洋は操が「おかえり」を言うととても喜ぶ。あまり顔には出さないけれど、心がじわりとあたたかくなって、ちょっと泣きたくなるくらい『嬉しい』という感情が伝わってくる。 操はこの瞬間が大好きだった。甲洋が嬉しいと操も嬉しくて、無意識にしっぽがピーンと上にまっすぐ伸びる。 「玄関は寒いだろ。わざわざ出てこなくてもいいのに」 甲洋は嬉しいくせにそんなことを言って苦笑する。 「だって甲洋の足音がすると、じっとしてられないんだもん」 ぐんと背伸びをして顔を近づけると、甲洋の腰が少しだけ引けた。だけど彼はいつも操の好きにさせてくれるのだ。 「今日も知らない匂いがいっぱいついてるね、甲洋」 鼻にキスをしながら匂いをかいで、その情報を得る。操も少しの間だけ外にいたから分かるけれど、外はいろいろな匂いがごちゃごちゃと溢れかえっている場所だった。 出かける前にあんなにたくさん自分の匂いをつけておいたのに、帰ってくるころにはすべて消えてしまっている。操はそれが少し嫌で、なんだか気になってしまって、甲洋に身体をぴったりくっつけながら、いろんな場所に自分の一部を擦りつけるとまた匂いをつけなおすのだ。 ヒト型のネコには獣型の猫のように分かりやすい臭腺というものはないけれど、それでも必死で甲洋についている『外』の匂いを自分のもので上書きしていく。そうしなければ安心できない。 そのあいだ、甲洋は非常に困った顔をして戸惑っているが、嫌だとは感じていないようだった。 一通り終えて満足すると、操は甲洋が鞄の他に白いビニール袋を手にぶら下げていることに気がついて、「それなぁに」と問いかけた。 「ああ、今朝ちょうど玉子がなくなったから。あとうどん。寒いから、煮込みなんてどうかと思って」 「すごいね甲洋! 今日は成功したんだ!」 いつもは失敗することの方が多い甲洋が、今日は玉子とうどんを狩ってきた。 すごいすごいと言って目を輝かせる操に、甲洋は「成功? なにが?」と首を傾げている。操は手を伸ばし、こげ茶色のくせ毛の頭を優しく撫でた。 「甲洋、いい子いい子」 「あのね、子供じゃないんだからやめて」 ムッとした顔をしながら、甲洋の頬が赤くなる。少し嫌だったようだが、あのくすぐったい感じもそこには混ざっていた。 (甲洋って不思議。いろんな気持ちがごちゃごちゃしてる) 「さ、そろそろ離れて。お腹すいてるだろ? すぐに作るから」 「やったー! うどん! あったかいうどん!」 「お前のは少し冷ましてからね」 いつまでもくっついていると甲洋が動けないので、操はようやく彼から身体を離した。甲洋は靴すらまだ脱いでいないのだ。明日からは、ちゃんと家に上がってから抱きつこうかなぁと、操は思った。 「俺の帰りが遅いときは、冷蔵庫のなかのものを好きに食べてもいいんだよ」 甲洋はそのままキッチンへ行き、うどんと玉子を調理スペースに置きながら言う。操はその隣に並びながら首を傾げた。 「なんで?」 「なんでって。バイトがある日はいつもより遅いだろ。せっかくいろいろ作り置きしてあるし」 甲洋は毎日、朝ごはんと一緒に操の昼ごはんも作る。それ以外にも料理をして、いつでも食べられるものを冷蔵庫に入れているのだ。 確かに夕方頃になると少しずつお腹が空いてくるけれど、操はどうしても一人で夕飯を食べる気になれなかった。 「でもおれは甲洋と一緒に食べたいよ。だって、ひとりぼっちのご飯は寂しいでしょ?」 「……そっか。そうだね」 甲洋は一瞬、なにかを思い出したように目を伏せた。それからふっと笑って操の頭を撫でると、リビングへ行ってコートを脱ぐ。 操はそれを目で追いながら、チクリと胸が痛むのを感じていた。これは甲洋の痛みだ。公園に置いてけぼりにされて、ひとりぼっちで夜を過ごしていたあのときの感覚に、それはよく似ていた。寒くて暗くて寂しくて、とても不安だったあのときの気持ちと。 ふとした瞬間、彼から伝わってくる痛みは、操の心に棘を刺す。 操は甲洋のことが心配だった。彼は狩りが下手だし、思っていることとはぜんぜん違うことを言ったりするし、笑っているのに、ときどきすごく我慢しているような気がした。だから自分がちゃんとそばにいて、見ていてあげなければいけないような気がしている。 ご主人様にはこんな気持ちになったことがないのに、どうして甲洋のことはそう思ってしまうのだろう。たぶん、とても柔らかいからだ。甲洋の心には、いつも雨が降っている。 どんなに喜んでいても、心がポカポカしているときでも、ぴったりとくっついていても。彼の心臓の音に重なって、冷たい雨音が聞こえてくるのだ。 (ずっと一緒にいたら、いつか止むかなぁ……甲洋の雨) 甲洋が嬉しいと操も嬉しい。だから甲洋が悲しいと、操も悲しい。 だから甲洋には、いつも嬉しい気持ちでいてほしいと思う。 毎日ふたりでご飯を食べたら、きっと甲洋は寂しくない。今夜はうどん。ちょっとくらい火傷してもいいから、熱々のものが食べたいなぁと、操は思った。 ←戻る ・ 次へ→
甲洋は凄いと、操は思う。
だっていろいろなことを知っているし、朝も昼も夜もちゃんとご飯をくれる。
操がなにもしなくても優しくしてくれて、ベッドで寝てもいいと言ってくれるし、操にぴったりの新しい服までくれた。
モコモコとした素材のルームウェアは着ているだけで暖かくて、布団の中にいるとちょっと熱いくらいだ。部屋の中も、いつも暖房がきいてポカポカしている。
ご主人様は新しい服なんかくれなかったし、ご飯だって何日かに一度だけ、気が向いたときに操に『仕事』をさせて、適当な残り物をくれるだけだった。
だけどここは天国みたいだ。夢のような暮らしだなと思うけれど、甲洋はそれが『普通』なのだと教えてくれた。
普通って凄い。だけど本当に凄いのは、操にそれを教えてくれる甲洋なのだ。
「こうよ、朝だよ! 起きて起きて!」
甲洋に拾われて数日。
操の朝はソファの横に膝をついて、甲洋の身体をゆさゆさと揺り動かすことから始まる。本当は毛布にもぐり込んで一緒にくっついて寝たいけれど、それをねだると甲洋を困らせてしまう。
だから我慢して、『普通』に起こすのだ。普通のことができている自分を、操は嬉しいと思う。
毛布に包まっていた甲洋は小さく呻き、重たそうにまぶたを持ち上げた。
「おはよ! 甲洋!」
「……はよ」
寝起きの甲洋の声はちょっぴり低く掠れていたが、操の顔を見てふっと微笑んだ。それがなんだか嬉しくて、操は甲洋の胸に両手を置くとぐーんと顔を近づける。
甲洋の身体が少し強張ったような気がしたが、操は構わず自分の鼻を甲洋の鼻にくっつけた。そのまま何度かつんつんとしながら匂いをかいで、ほんのりと赤く染まった頬に頬ずりをする。
いい匂いだなと思う。静かで優しくて、少しだけ寂しい。ここで目を覚まして、初めて甲洋に触れたときから、操はこの匂いが大好きだった。
「……その、鼻くっつけるやつ」
ややしばらくのあいだ黙って好きにさせていた甲洋は、遠慮がちに操の耳に触れながら口を開いた。
「にゃあに?」
「挨拶、かなにか?」
「んー、多分そう」
「多分?」
「わかんない。でも、したくなっちゃう」
ネコに備わる習性を、ネコである操は深く意識したことがない。もしかしたら子ネコの頃に母ネコに教わったのかもしれないが、操にはそんな昔の記憶はなかった。
「それ、前の飼い主にもした?」
「したことないよ? どうしてそんなこと聞くの?」
そういえば、ご主人様にはしたことないなと操は思う。
そもそも『仕事』のとき以外で触ったことだってない。こんなふうにくっつきたいと思ったのは、甲洋が初めてだった。
「……別に、なんとなく」
甲洋はそう言って頬を赤くしたまま目を逸らした。顔にはなんの表情も浮かんではいなかったけれど、甲洋からは恥ずかしいという気持ちと、嬉しいという気持ちがごちゃ混ぜになったものが伝わってきた。けれど操には『恥ずかしい』がよく分からない。ただ、甲洋から伝わるものを受け止めた途端、どうしてかちょっぴり顔が赤くなるのを感じてしまった。
(なにこれ、変なの!)
だけど嫌な感じはしない。甲洋からも嫌だという感情は伝わってこなかった。だから、まぁいっかと操は思った。
「ねぇ甲洋、今日も朝から狩りに行くの?」
起き上がって背伸びをしている甲洋に問いかけると、彼は「狩り?」と不思議そうに首を傾げた。
「なにそれ?」
「昨日もおとといも行ったでしょ?」
「……ああ、大学とバイトのこと? 今日は午後からだから、少しのんびりできるよ」
「ダイガクとバイトってところに行ってるんだね」
「そうだよ」
「そっか。甲洋は偉いね」
操がにっこり笑って言うと、甲洋は困った顔をしながら指先で頬を掻いた。
「普通のことをしてるだけだよ」
「普通って凄いことなんだよ。だから甲洋は偉いよ」
操は思ったことをそのまま伝えただけだ。なのに甲洋はやっぱりとても困った顔をした。それは『恥ずかしい』に少し似ていたけれど、それよりもっとくすぐったい感じがする。
甲洋は褒められるとくすぐったくなるのだ。操はまたひとつ、彼のことを知ることができた。それが嬉しい。操は甲洋のことをもっともっと知りたいと思った。
「甲洋!」
操はソファに乗り上げると、両腕で甲洋にぎゅうと抱きついた。
「わっ!」
「おれは甲洋が狩りに失敗して帰ってきても、ぜんぜん平気だからね! だから今日もがんばってね!」
「だからさ、その狩りってなに……?」
いまいち会話が噛み合わないが、言いたいことさえ言えたなら操はいちいち気にしない。甲洋は気になっているようだが、操が頬ずりをすると、戸惑いながらも少しずつ心がポカポカとあたたまってくるのが伝わってきた。
(甲洋は、ぎゅってすると喜ぶ!)
そこにはやっぱり恥ずかしいという気持ちも混ざっているけれど、嬉しいという気持ちのほうが勝っているような気がして、操の心もポカポカだった。
*
甲洋は凄い。そして同じくらい、とても偉い。
操のご主人様はあまり『狩り』に行かない人だったけれど、甲洋はほとんど毎日『狩り』に行く。朝から出かける日もあれば、昼や夕方から出かける日もある。
ダイガクとかバイトとか彼は言うが、操にはそれがなんなのか分からない。きっと甲洋が狩り場にしている場所なんだろうなと、ぼんやり理解している程度だった。
そこで甲洋は一生懸命に狩りをして、操に美味しいご飯や洋服を運んできてくれるのだ。
先日、狩りに成功した甲洋はケーキとカレーを持ち帰ってきた。
初めてのケーキの味には感動したけれど、それ以上にビックリしたのはカレーだった。この世にこんなに美味しいカレーがあるなんて知らなくて、おかわりまでしてしまった。甲洋は、操が食べている姿を楽しそうに笑って見ていた。
だけど甲洋は、狩りに出かけても手ぶらで帰ってくることが多かった。
操はまともに狩りをしたことがないので分からないが、とても難しいのだということは、つい最近学んだばかりだ。先日ゴミ捨て場で食べ物探しをしようとしたけれど、そこいらを縄張りにしているカラスを怒らせてしまった。
だから甲洋も、いつもそんな危険を犯しながら食べ物を調達しているのだ。
失敗して帰ってきた甲洋のことを、操はなぜか可愛いと思ってしまう。きっとこの人は、あまり狩りが得意ではないんだろうなぁと、そう思うと少し可哀想な気がして、胸がキュンと締めつけられたようになる。狩りが下手なのは子供の証拠だ。
もしかしたら、自分が外に出て行って狩りをしたほうがいいのかもしれない。またカラスに襲われてしまうかもしれないが、甲洋のためなら頑張れるような気がする。
大学は勉強をする場所で、バイトは仕事をしてお金を稼ぐこと。お金がなければ食べ物だって服だって買えない。手ぶらで帰ってくるのは冷蔵庫に食べ物が十分入っているから、いちいち買い物をして帰ってくる必要がないからだということを、ネコである操は知らないのである。
*
甲洋の足音はすぐ分かる。
他の人のものとそう変わらないけれど、操はたった一度聞いただけで、それが甲洋のものであることが分かるようになった。
だから彼の足音が聞こえると玄関まで駆けていき、胸を踊らせながら待っているのだ。
「ただいま」
「おかえり!」
夜気を引き連れて帰ってきた甲洋に飛びつきながら、操は彼を出迎える。
甲洋は操が「おかえり」を言うととても喜ぶ。あまり顔には出さないけれど、心がじわりとあたたかくなって、ちょっと泣きたくなるくらい『嬉しい』という感情が伝わってくる。
操はこの瞬間が大好きだった。甲洋が嬉しいと操も嬉しくて、無意識にしっぽがピーンと上にまっすぐ伸びる。
「玄関は寒いだろ。わざわざ出てこなくてもいいのに」
甲洋は嬉しいくせにそんなことを言って苦笑する。
「だって甲洋の足音がすると、じっとしてられないんだもん」
ぐんと背伸びをして顔を近づけると、甲洋の腰が少しだけ引けた。だけど彼はいつも操の好きにさせてくれるのだ。
「今日も知らない匂いがいっぱいついてるね、甲洋」
鼻にキスをしながら匂いをかいで、その情報を得る。操も少しの間だけ外にいたから分かるけれど、外はいろいろな匂いがごちゃごちゃと溢れかえっている場所だった。
出かける前にあんなにたくさん自分の匂いをつけておいたのに、帰ってくるころにはすべて消えてしまっている。操はそれが少し嫌で、なんだか気になってしまって、甲洋に身体をぴったりくっつけながら、いろんな場所に自分の一部を擦りつけるとまた匂いをつけなおすのだ。
ヒト型のネコには獣型の猫のように分かりやすい臭腺というものはないけれど、それでも必死で甲洋についている『外』の匂いを自分のもので上書きしていく。そうしなければ安心できない。
そのあいだ、甲洋は非常に困った顔をして戸惑っているが、嫌だとは感じていないようだった。
一通り終えて満足すると、操は甲洋が鞄の他に白いビニール袋を手にぶら下げていることに気がついて、「それなぁに」と問いかけた。
「ああ、今朝ちょうど玉子がなくなったから。あとうどん。寒いから、煮込みなんてどうかと思って」
「すごいね甲洋! 今日は成功したんだ!」
いつもは失敗することの方が多い甲洋が、今日は玉子とうどんを狩ってきた。
すごいすごいと言って目を輝かせる操に、甲洋は「成功? なにが?」と首を傾げている。操は手を伸ばし、こげ茶色のくせ毛の頭を優しく撫でた。
「甲洋、いい子いい子」
「あのね、子供じゃないんだからやめて」
ムッとした顔をしながら、甲洋の頬が赤くなる。少し嫌だったようだが、あのくすぐったい感じもそこには混ざっていた。
(甲洋って不思議。いろんな気持ちがごちゃごちゃしてる)
「さ、そろそろ離れて。お腹すいてるだろ? すぐに作るから」
「やったー! うどん! あったかいうどん!」
「お前のは少し冷ましてからね」
いつまでもくっついていると甲洋が動けないので、操はようやく彼から身体を離した。甲洋は靴すらまだ脱いでいないのだ。明日からは、ちゃんと家に上がってから抱きつこうかなぁと、操は思った。
「俺の帰りが遅いときは、冷蔵庫のなかのものを好きに食べてもいいんだよ」
甲洋はそのままキッチンへ行き、うどんと玉子を調理スペースに置きながら言う。操はその隣に並びながら首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって。バイトがある日はいつもより遅いだろ。せっかくいろいろ作り置きしてあるし」
甲洋は毎日、朝ごはんと一緒に操の昼ごはんも作る。それ以外にも料理をして、いつでも食べられるものを冷蔵庫に入れているのだ。
確かに夕方頃になると少しずつお腹が空いてくるけれど、操はどうしても一人で夕飯を食べる気になれなかった。
「でもおれは甲洋と一緒に食べたいよ。だって、ひとりぼっちのご飯は寂しいでしょ?」
「……そっか。そうだね」
甲洋は一瞬、なにかを思い出したように目を伏せた。それからふっと笑って操の頭を撫でると、リビングへ行ってコートを脱ぐ。
操はそれを目で追いながら、チクリと胸が痛むのを感じていた。これは甲洋の痛みだ。公園に置いてけぼりにされて、ひとりぼっちで夜を過ごしていたあのときの感覚に、それはよく似ていた。寒くて暗くて寂しくて、とても不安だったあのときの気持ちと。
ふとした瞬間、彼から伝わってくる痛みは、操の心に棘を刺す。
操は甲洋のことが心配だった。彼は狩りが下手だし、思っていることとはぜんぜん違うことを言ったりするし、笑っているのに、ときどきすごく我慢しているような気がした。だから自分がちゃんとそばにいて、見ていてあげなければいけないような気がしている。
ご主人様にはこんな気持ちになったことがないのに、どうして甲洋のことはそう思ってしまうのだろう。たぶん、とても柔らかいからだ。甲洋の心には、いつも雨が降っている。
どんなに喜んでいても、心がポカポカしているときでも、ぴったりとくっついていても。彼の心臓の音に重なって、冷たい雨音が聞こえてくるのだ。
(ずっと一緒にいたら、いつか止むかなぁ……甲洋の雨)
甲洋が嬉しいと操も嬉しい。だから甲洋が悲しいと、操も悲しい。
だから甲洋には、いつも嬉しい気持ちでいてほしいと思う。
毎日ふたりでご飯を食べたら、きっと甲洋は寂しくない。今夜はうどん。ちょっとくらい火傷してもいいから、熱々のものが食べたいなぁと、操は思った。
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