2025/09/14 Sun 操が甲洋を預かってから、一週間ほどが経過した。 一人と一匹の関係は、甲洋が初めて言葉を発したあの夜から少しずつ変化していった。 まず大きな変化として、甲洋は食事をするようになった。 一騎が持ってきてくれたレシピ本が功を奏し、操が失敗を繰り返すこともなくなった。相変わらず包丁の扱いは危なっかしいが、多少は気持ちに余裕が生まれたような気がする。 彼は相変わらず表情に動きはないし、滅多に口を開くことはなかったが、あの不安やストレスを訴える尻尾の動きはほとんど見せることがなくなった。 最近はただ黙ってそこにいるだけでなく、本棚の雑誌類を眺めて過ごすこともある。テレビをつければ一緒に見ているし、操が言ったことに対して短く返事をすることもあった。 けれど、気がつくと窓の外を眺めているのは相変わらずだった。 ここは一階だし、窓の向こう側はあまり手入れが行き届いていない生け垣と、フェンスがあるだけだ。そのさらに向こうには堀をはさんで道路が走っている。 通行人がいても全く見えないし、そもそも見ていて楽しい景色ではないはずなのに。 何度か聞いてみようと思ったことはある。 だけどそういうときの甲洋は、どこか壁が厚いように感じられた。操にはイヌの気持ちは分からないけれど、それだけはなぜかハッキリと伝わるのだった。 * 夕食のメニューは焼きコロッケ、ほうれん草とツナの和え物、そしてキノコと玉子のコンソメスープだ。 もちろん全てオーブンレンジを使って調理した。手順も味付けも本に書いてあるとおり行ったため、おそらく失敗はしていないはず。 コロッケの横に添えてあるキャベツが、千切りというよりぶつ切りに近い状態であることは、少々気になるところだが。 食事の際、操は居間の中央にあるローテーブルで、甲洋はいつもの本棚脇に腰を下ろす。盆に乗せてはいても床に食べ物を置くのは悪い気がして、普段ほとんど使用していないアイロン台をテーブル代わりに使ってもらっていた。 操は箸も取らずに僅かに身を乗り出し、コロッケを箸で割る甲洋をじっと見つめた。 口に放り込まれるのを見てまずは一安心し、それからさらに反応を窺う。が、彼は特に何も言わずに行儀よく食事を進めるだけだった。 「ねぇ甲洋~。たまにはさ、うんとかすんとか言ってよぉ」 最初こそ食べてくれるだけで十分だったが、やはりどうしても何かしらの反応を期待してしまう。ぶぅっと唇を尖らせた操をチラリと見た甲洋は、手にしていたご飯茶碗を盆に戻すと、たった一言「うん」と言った。 「うん、じゃなくてー!」 「……言えって言ったのに」 「ねぇ、君って実は、ちょっと意地悪だったりする?」 じっとりとした目で見ても、甲洋はそれ以上なにも言ってはくれなかった。ただ、少しだけ口元がピクリと動いたような気がする。もしかして、笑うのを堪えたのだろうか。 (ま、いっかー) 操はふにゃりと笑うと「いただきます」と言って、自分もようやく箸をとった。 まん丸のコロッケには一騎が持ってきてくれたジャガイモを使っている。ほくほくのそれを口に運ぶと、表面もさっくりとした仕上がりで十分美味しく出来上がっていた。 「うん、おいしー!」 ひき肉にもしっかり火が通っているし、ジャガイモはほのかに甘い。なんだかプロの料理人にでもなったような気分だ。 テレビ画面ではゴールデンタイムの賑やかなバラエティ番組が放送されていた。漁港から芸人とアイドルが船に乗り、沖に出て旬の青物を狙っている。 操はリスのように膨らませた頬をモゴモゴとさせながらそれを見ていたが、ふと甲洋が箸を止めてその様子を食い入るように見つめていることに気がついた。 「甲洋、もしかして海が好きなの?」 それとも釣りに興味があるのだろうか。 思えば甲洋という名の『洋』の字は、外海を表すものだ。どこまでも広く、満ち満ちた様を意味する言葉。 しかし、彼は特になにを言うでもなくテレビから目を逸らしてしまった。別に、というそっけない声が聞こえてきそうな気がして、操は少し残念な気持ちになる。 (もっといっぱい話せるようになったらいいのにな) 料理の感想を求める以上に、それは贅沢な望みなのかもしれない。 * 食後、少し休憩してから操は食器を洗って片す作業をしていた。 甲洋には食器だけ下げてもらい、すぐに居間に引っ込んでもらった。彼は操が近づけるギリギリのラインを決して超えようとしない。気を使わせるのは悪いと思うが、とても助かっている。 (海……海かぁ……。そういえばおれ、まだ一回も甲洋を散歩させてない……?) 気がついて愕然とした。 ヒト型のイヌは外で用を足すことはしない。しかしずっと家に引きこもった暮らしをさせるなんて、不健康にもほどがある。食事をさせることに手一杯だったとはいえ、これでは結局ストレスを溜めこませる結果になっているのではないか。 操は手にしていた食器をいったん流しに戻すと、居間にいる甲洋を振り返った。 「甲洋! 明日一緒に──」 そのときだった。 「……ん?」 何か黒いものが、足元を横切ったような気がした。 操は一瞬で身を硬直させ、その黒いものが向かった方向へ視線を走らせる。 板張りの床。食器棚のすぐ近くに、黒光りするそいつはいた。所詮、嫌われ者のあの虫だ。しかも、そこそこ大きい。触覚が小刻みに動いているのを見て、操は血の気が引いていくのを感じながら悲鳴をあげた。 「う、うわぁーッ!? な、なな、なんでこいつがいるの!? 今まで一度も出たことなかったのにぃ!!」 部屋の中は常に暖房がきいているからだろうか。それとも、最近ちゃんと自炊をしているため、生ごみが出るからなのか。 とにかく、どこからかやってきたそいつは我がもの顔で台所をウロチョロしはじめる。 「やだやだ! 動かないで! やだぁー!」 操はあまりの恐怖に腰を抜かし、その場で丸くなって頭を抱えた。全身に鳥肌が立ち、涙が滲む。 わかっている。奴は毒針を持つような生き物ではないし、害を加えてくることはない。だが、その見た目が完全に悪だ。ちょっと素早いカブトムシだと思おうとしても無理がある。というか、カブトムシに失礼だ。 ただ震えて喚くしかできないでいると、パァンという大きな音がした。 「ッ!?」 顔をあげる。居間から続く台所の入り口に、甲洋が片膝をついていた。 彼は手に丸めた雑誌を持っている。チョロチョロと動き回っていたヤツの姿はどこにもない。多分、雑誌の下で原型すら留めていないだろう。 「こ、甲洋ぉ……?」 操は全身から力が抜けるのを感じながら、ぽろぽろと涙を零していた。甲洋はふっと息をつきながら立ちあがり、ヤツが付着しているであろう面を隠すように雑誌を折りたたんだ。 「そこどいて。捨てるから」 ゴミ箱は流しの脇にある。操がいては安全圏を侵すことになってしまうと考え、甲洋は簡潔に指示を出すと目線だけで玄関側に合図を送る。 操は言われた通り移動した。玄関土間まですっかり逃げ込むと、しゃがみ込んで甲洋の動向を見守る。 彼はゴミ箱の蓋を開け、雑誌ごと中に放り込むとまた蓋をした。キッチンペーパーを何枚か取り、食器用洗剤の横に並べてある台所用洗剤を掴むと、ヤツを潰した飛沫が残る床に洗剤を大量に噴きかけた。そしてキッチリと拭き取る。 それから洗剤を元に戻し、汚れたペーパーをゴミ箱に捨てたところで甲洋が操を振り返った。 一連の動きを見届けた操は、目を潤ませながら深く感動する。 「甲洋……さっき意地悪って言ったのなし……甲洋は、名犬だよ……!」 もしここに彼がいなかったら、操は何もできずに泣きべそをかきながら、この部屋を飛び出していたに違いない。そして総士と一騎の暮らすマンションへ押しかけ、二度と戻らなかった自信がある。 「すごくカッコよかった……ありがとう……うぅ、甲洋がいてくれてよかったよぉ~!」 膝に顔を埋めて打ち震える操に少し困った顔をした甲洋は、指先で頬を掻きながら「それはどうも」と言って、足早に居間の方へと去って行ってしまう。 その頬は照れくさそうに、ほんの少しだけ赤く染まっていた。 ←戻る ・ 次へ→
一人と一匹の関係は、甲洋が初めて言葉を発したあの夜から少しずつ変化していった。
まず大きな変化として、甲洋は食事をするようになった。
一騎が持ってきてくれたレシピ本が功を奏し、操が失敗を繰り返すこともなくなった。相変わらず包丁の扱いは危なっかしいが、多少は気持ちに余裕が生まれたような気がする。
彼は相変わらず表情に動きはないし、滅多に口を開くことはなかったが、あの不安やストレスを訴える尻尾の動きはほとんど見せることがなくなった。
最近はただ黙ってそこにいるだけでなく、本棚の雑誌類を眺めて過ごすこともある。テレビをつければ一緒に見ているし、操が言ったことに対して短く返事をすることもあった。
けれど、気がつくと窓の外を眺めているのは相変わらずだった。
ここは一階だし、窓の向こう側はあまり手入れが行き届いていない生け垣と、フェンスがあるだけだ。そのさらに向こうには堀をはさんで道路が走っている。
通行人がいても全く見えないし、そもそも見ていて楽しい景色ではないはずなのに。
何度か聞いてみようと思ったことはある。
だけどそういうときの甲洋は、どこか壁が厚いように感じられた。操にはイヌの気持ちは分からないけれど、それだけはなぜかハッキリと伝わるのだった。
*
夕食のメニューは焼きコロッケ、ほうれん草とツナの和え物、そしてキノコと玉子のコンソメスープだ。
もちろん全てオーブンレンジを使って調理した。手順も味付けも本に書いてあるとおり行ったため、おそらく失敗はしていないはず。
コロッケの横に添えてあるキャベツが、千切りというよりぶつ切りに近い状態であることは、少々気になるところだが。
食事の際、操は居間の中央にあるローテーブルで、甲洋はいつもの本棚脇に腰を下ろす。盆に乗せてはいても床に食べ物を置くのは悪い気がして、普段ほとんど使用していないアイロン台をテーブル代わりに使ってもらっていた。
操は箸も取らずに僅かに身を乗り出し、コロッケを箸で割る甲洋をじっと見つめた。
口に放り込まれるのを見てまずは一安心し、それからさらに反応を窺う。が、彼は特に何も言わずに行儀よく食事を進めるだけだった。
「ねぇ甲洋~。たまにはさ、うんとかすんとか言ってよぉ」
最初こそ食べてくれるだけで十分だったが、やはりどうしても何かしらの反応を期待してしまう。ぶぅっと唇を尖らせた操をチラリと見た甲洋は、手にしていたご飯茶碗を盆に戻すと、たった一言「うん」と言った。
「うん、じゃなくてー!」
「……言えって言ったのに」
「ねぇ、君って実は、ちょっと意地悪だったりする?」
じっとりとした目で見ても、甲洋はそれ以上なにも言ってはくれなかった。ただ、少しだけ口元がピクリと動いたような気がする。もしかして、笑うのを堪えたのだろうか。
(ま、いっかー)
操はふにゃりと笑うと「いただきます」と言って、自分もようやく箸をとった。
まん丸のコロッケには一騎が持ってきてくれたジャガイモを使っている。ほくほくのそれを口に運ぶと、表面もさっくりとした仕上がりで十分美味しく出来上がっていた。
「うん、おいしー!」
ひき肉にもしっかり火が通っているし、ジャガイモはほのかに甘い。なんだかプロの料理人にでもなったような気分だ。
テレビ画面ではゴールデンタイムの賑やかなバラエティ番組が放送されていた。漁港から芸人とアイドルが船に乗り、沖に出て旬の青物を狙っている。
操はリスのように膨らませた頬をモゴモゴとさせながらそれを見ていたが、ふと甲洋が箸を止めてその様子を食い入るように見つめていることに気がついた。
「甲洋、もしかして海が好きなの?」
それとも釣りに興味があるのだろうか。
思えば甲洋という名の『洋』の字は、外海を表すものだ。どこまでも広く、満ち満ちた様を意味する言葉。
しかし、彼は特になにを言うでもなくテレビから目を逸らしてしまった。別に、というそっけない声が聞こえてきそうな気がして、操は少し残念な気持ちになる。
(もっといっぱい話せるようになったらいいのにな)
料理の感想を求める以上に、それは贅沢な望みなのかもしれない。
*
食後、少し休憩してから操は食器を洗って片す作業をしていた。
甲洋には食器だけ下げてもらい、すぐに居間に引っ込んでもらった。彼は操が近づけるギリギリのラインを決して超えようとしない。気を使わせるのは悪いと思うが、とても助かっている。
(海……海かぁ……。そういえばおれ、まだ一回も甲洋を散歩させてない……?)
気がついて愕然とした。
ヒト型のイヌは外で用を足すことはしない。しかしずっと家に引きこもった暮らしをさせるなんて、不健康にもほどがある。食事をさせることに手一杯だったとはいえ、これでは結局ストレスを溜めこませる結果になっているのではないか。
操は手にしていた食器をいったん流しに戻すと、居間にいる甲洋を振り返った。
「甲洋! 明日一緒に──」
そのときだった。
「……ん?」
何か黒いものが、足元を横切ったような気がした。
操は一瞬で身を硬直させ、その黒いものが向かった方向へ視線を走らせる。
板張りの床。食器棚のすぐ近くに、黒光りするそいつはいた。所詮、嫌われ者のあの虫だ。しかも、そこそこ大きい。触覚が小刻みに動いているのを見て、操は血の気が引いていくのを感じながら悲鳴をあげた。
「う、うわぁーッ!? な、なな、なんでこいつがいるの!? 今まで一度も出たことなかったのにぃ!!」
部屋の中は常に暖房がきいているからだろうか。それとも、最近ちゃんと自炊をしているため、生ごみが出るからなのか。
とにかく、どこからかやってきたそいつは我がもの顔で台所をウロチョロしはじめる。
「やだやだ! 動かないで! やだぁー!」
操はあまりの恐怖に腰を抜かし、その場で丸くなって頭を抱えた。全身に鳥肌が立ち、涙が滲む。
わかっている。奴は毒針を持つような生き物ではないし、害を加えてくることはない。だが、その見た目が完全に悪だ。ちょっと素早いカブトムシだと思おうとしても無理がある。というか、カブトムシに失礼だ。
ただ震えて喚くしかできないでいると、パァンという大きな音がした。
「ッ!?」
顔をあげる。居間から続く台所の入り口に、甲洋が片膝をついていた。
彼は手に丸めた雑誌を持っている。チョロチョロと動き回っていたヤツの姿はどこにもない。多分、雑誌の下で原型すら留めていないだろう。
「こ、甲洋ぉ……?」
操は全身から力が抜けるのを感じながら、ぽろぽろと涙を零していた。甲洋はふっと息をつきながら立ちあがり、ヤツが付着しているであろう面を隠すように雑誌を折りたたんだ。
「そこどいて。捨てるから」
ゴミ箱は流しの脇にある。操がいては安全圏を侵すことになってしまうと考え、甲洋は簡潔に指示を出すと目線だけで玄関側に合図を送る。
操は言われた通り移動した。玄関土間まですっかり逃げ込むと、しゃがみ込んで甲洋の動向を見守る。
彼はゴミ箱の蓋を開け、雑誌ごと中に放り込むとまた蓋をした。キッチンペーパーを何枚か取り、食器用洗剤の横に並べてある台所用洗剤を掴むと、ヤツを潰した飛沫が残る床に洗剤を大量に噴きかけた。そしてキッチリと拭き取る。
それから洗剤を元に戻し、汚れたペーパーをゴミ箱に捨てたところで甲洋が操を振り返った。
一連の動きを見届けた操は、目を潤ませながら深く感動する。
「甲洋……さっき意地悪って言ったのなし……甲洋は、名犬だよ……!」
もしここに彼がいなかったら、操は何もできずに泣きべそをかきながら、この部屋を飛び出していたに違いない。そして総士と一騎の暮らすマンションへ押しかけ、二度と戻らなかった自信がある。
「すごくカッコよかった……ありがとう……うぅ、甲洋がいてくれてよかったよぉ~!」
膝に顔を埋めて打ち震える操に少し困った顔をした甲洋は、指先で頬を掻きながら「それはどうも」と言って、足早に居間の方へと去って行ってしまう。
その頬は照れくさそうに、ほんの少しだけ赤く染まっていた。
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