2025/09/14 Sun 翌日の朝、時間通りに総士が迎えにやって来た。 操はアパート前の駐車場に停まっている車に、甲洋の衣類を詰めた鞄を運んでいく。トランクを開けた総士がそれを受け取り、中に積みながら「来ないのか?」と問いかけてきた。 「うん。バイトあるし」 「そうか。なら仕方がないな」 片手でトランクを閉めた総士は操と向き合い、笑みを浮かべた。 「長いあいだ世話になった。無理に押しつける形になってしまって、すまなかったな」 「気にしないで。最初は怖かったけど、楽しかったからいいんだ。それに、総士がどうして一騎だけは平気なのか、ちょっと分かった気がするし」 操が言うと、総士はなぜか驚いたように目を見開いた。 「まさか、お前たちもなのか?」 「うん?」 「だから、お前と甲洋も……そういう関係に」 総士は珍しく狼狽えた様子で、しかも微妙に頬を赤らめていた。 しかし操には彼の言っていることが理解できず、きょとんとしながら首を傾げる。 「そういう関係? どういう関係?」 「あ……いや、違うならいい。今のは忘れてくれ」 「なに? ねぇ気になるよ」 「忘れろと言っている。ほら、甲洋が来たぞ。別れの挨拶をするといい」 眼鏡のズレを直しながら、総士はそそくさと逃げるように運転席に乗り込んだ。 総士のトレンチコートをそのまま譲り受ける形になった甲洋が、両手をコートのポケットに突っ込みながら操の元へやってくる。 「どうかした?」 「んー、わかんない」 「?」 腑に落ちないという表情で唇を尖らせた操に、甲洋もまた不思議そうに首を傾げる。けれどすぐにあまり時間がないことを思いだし、操は暗くならないように笑顔を取り繕った。 「甲洋、美羽には意地悪したらダメだよ」 冗談交じりに言った操に、甲洋は小さく笑って肩をすくめる。 「来主にしかしないよ」 「えぇー? なにそれぇ?」 「さぁ? なんでだろうな」 「むぅー。君って最後までそういう意地悪言うんだ」 頬を膨らませ、眉間にぎゅうっと皺を寄せながら文句を垂れていると、運転席の窓を開けた総士から「そろそろ時間だ」と声がかかる。時間に厳しい彼は、エンジンをかけながら神経質そうに腕時計で時刻を確認していた。 「あ、うん。それじゃあ……元気でね、甲洋」 「……来主もね」 ふたりはそのまま数秒、何も言わずに見つめ合った。 別れ際になって急に実感を失う。本当にこれでお別れなのだろうか。部屋に帰れば甲洋がいる。そんな暮らしが、あまりにも当たり前になっていた。 甲洋は最後にふっと笑って「ありがとう」と言うと、助手席のドアを開けて乗り込んだ。彼の尻尾がどんなふうに動いていたかは、コートに隠れて見ることはできなかった。 * 甲洋が行ってしまうと、部屋の中にだけ真冬が戻ってきたような寒さを感じた。 決して広くはない空間が、やけにただっぴろく感じられる。 操はノロノロと居間に戻ると、クッションの上にペタリと座り込んだ。 いつも彼がいた本棚の横は、ぽっかりと穴が空いたようだった。 「……甲洋、ほんとに行っちゃったんだ」 たった一ヶ月と、ほんの数日。 始めは嫌でたまらなかった。同じ空間にいると思うだけで、一分一秒があまりにも長かった。だけど彼と打ち解けてからは、一瞬だった。 部屋の片隅には彼が使っていた毛布が綺麗に畳んで置いてある。以前テーブル代わりに使っていたアイロン台が壁に立てかけられ、軟膏のケースはテレビ横のカラーボックスに置いてあった。 甲洋は何も持たずにここへ来たはずなのに。幾つもの痕跡が、この部屋には残されている。 操はみるみるうちにぼやけていく視界を、手の甲で雑に拭った。 甲洋は操が泣くといつも困った顔をして、耳をぺたりと寝かせていた。彼が「泣かないで」と言う、少し上ずった声が好きだった。 (おれがもっとちゃんとしてたら……甲洋とずっと一緒にいられたのかなぁ……) 彼はここより大きくて、立派な家に行ったのだ。優しくて温かな家族が、きっと大切に可愛がってくれる。 いつまで経ってもイヌが怖くて、料理の腕も上達しない人間といるより、ずっと幸せに暮らせるはず。 ──分かっているのに。 操は堪えきれずに、やっぱり泣きだしてしまった。 * 甲洋が日野家に行ってから十日ほどが過ぎた。 満開に花開いた桜も、もうほとんどが散って老いたように彩りを翳らせている。 操はぼんやりと時間を過ごすことが多くなった。 バイトに行く以外ではほとんど家から出ず、気がつくと窓のそばに座り込んで外を眺めている。 まるで以前の甲洋と同じだ。来るはずのない誰かを、いつまでも待ち続けているような。 ──ぐぅ。 景色もへったくれもない景観を見るともなく眺め続けていると、腹の虫が鳴った。ここ数日は全く食欲がないのに、胃袋だけは律儀に空腹を訴える。 ふと壁にかかっている時計を見上げた。針はぴったり昼の12時をさしていた。 最後に食事をしたのは、確か昨日の昼だ。バイト先でまかないを食べたような気がする。けれどまるで味がしなかった。最近は、何を食べても美味しくない。 一昨日の夜は、一騎から久しぶりにカレーを食べに来ないかと誘われた。けれど操はそれを断った。最後の晩餐に選びたいとすら思っていた、あの一騎カレーをだ。自分でも、いよいよマズいような気がしている。 操は空腹を無視してダラリと横向きに寝そべった。そうすると空だけはよく見える。だけど生憎天気はどんよりとした曇り空だった。 (おれの心の中と一緒だ。そのうち泣きだしちゃうかもな) 力なく息を吐きだす。甲洋がいなくなってから、ずっとこんな調子だ。 毛布や箸、歯ブラシやコップなど、甲洋が使っていたものを見ると寂しくて堪らないのに、未だに片付けることさえできないでいる。気づくとメソメソと泣いてばかりだった。 「甲洋、どうしてるかな……」 ぽつりと零すのと、空が泣きだすのは同時だった。 ああ、また思いだしてしまう。寂しそうに海を見つめる背中だとか、触れた手の温もりや、初めて見せてくれた笑顔のことを。 彼はちゃんと食事をしているだろうか。新しい家族とはうまくやっているだろうか。たまには自分のことを思いだしたりしてくれるだろうか。募る寂しさに押し潰されそうだった。 そのとき、部屋の中に着信を知らせるコール音が鳴り響いた。 泣く寸前だった操は目尻を擦りながらのっそりと起き上がる。テーブルの上に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、ディスプレイを覗き込む。 そこには、思わぬ人物の名前が表示されていた。 * 雨は幸い小雨で、それ以上に強まることはなかった。 「ごめんね、急に呼び出して」 遠見真矢は駅前からほど近いファミレスで操を待っていた。 柔らかなベージュのニットに白いフレアスカート。テーブルの上には白いカップに注がれたミルクティーが置いてあって、お揃いの色だなぁと操は思った。 「うぅん。どうせヒマだったし。久しぶりだね、真矢」 操はボーダーシャツの上から着ていたデニムコートを脱ぐと、向かい側の椅子に座る。 「だね。だいたい二年ぶりくらいかな? あたしが高校卒業して以来だから」 「そっか。まだ二年なんだ」 「来主くんは来年二十歳?」 「うん」 女性の店員がオーダーを取りに来る。操はメニュー表も開かないまま、オレンジジュースを頼んだ。真矢が華奢な肩を揺らしながら笑う。 「変わらないなぁ。子供の頃から大好きだよね、オレンジジュース」 「真矢は大人の女の人って感じになったね」 「そっかな? 自分ではよく分かんないけど」 「──ねぇ、ところで今日はどうかした? もしかして、甲洋のこと?」 最初に電話をもらったときからそんな気がしていた。むしろ他に理由が思いつかない。せっかくだから会って話そうと誘われてここへ来たが、道中ずっとソワソワとして落ち着かなかった。 真矢の表情から笑顔が消え、困った様子で眉をハの字にして見せる。 「ん……ちょっとね、気になることがあって」 思いのほか早くオレンジジュースが運ばれてきたところで、会話が一度途切れる。店員が「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていくと、真矢は日野家での甲洋の様子を話してくれた。 「お姉ちゃんや道生さんが話しかけても、ぜんぜん口を開かないんだって。あたしも何度か会ったんだけど、やっぱり同じ。まだ慣れない環境だから、しょうがないのかなって気はするんだけど」 「……うん」 「でも美羽ちゃんとは、何か話をしてるみたいなんだよね」 「みたい?」 真矢は横に置いていたバッグの中からスマートフォンを取り出した。指先で操作して、画面を操へ向けて見せる。 「これ見て。お姉ちゃんがこっそり撮って、送ってくれたの」 それは動画だった。画面の中にはよく晴れた青空と、縁側に座る甲洋の背中が写っている。 (あ、甲洋だ……) 懐かしい姿に胸が締め付けられる。操はじんわりと涙が浮かぶのをどうにか堪えた。 甲洋の隣には柔らかそうな髪を二つに結んだ小さな女の子が座っていた。彼女が美羽だ。美羽は甲洋の方を向いてペタリと座り、楽しそうに何か話をしているようだった。 『あのね、ニンジンを、トントントンって切るんだよ。おててはね、こうやって、ネコちゃんみたいに丸くするの』 甲洋が美羽の方に顔を向ける。その横顔は優しく微笑んでいた。 『それからね、タマネギを切るの。でもね、ママいっつも泣いちゃうんだよ。おめめがいたいんだって。──そうなの? うん、うん──ふぅん。それ美羽にもできる? ──え? うぅん、したことないよ。だってママがまだダメっていうんだもん。美羽はまだちっちゃいから、おてて切ったらタイヘンよって』 黒い尻尾がゆっくりと左右に揺れているだけで、甲洋は一言も発していない。まるで美羽が見えない誰かを相手に、一人ぼっちで話をしているかのような光景だった。 操はいちど真矢へと視線をあげた。彼女は心配そうに眉を寄せている。 『──平気だもん。美羽、じょうずにできるよ。そしたらね、甲洋に食べてもらうの。だって、甲洋ぜんぜん食べないんだもん。──ウソだよ。美羽ちゃんとわかるんだから。ダメでしょ、いっぱい食べなきゃ、おっきくなれないんだよ。──え、そうなの? どうして? 甲洋はママのおりょうりキライなの? ──ほんと? ──よかったぁ』 そこで動画は終わっていた。 真矢が意見を求めるような視線を向けてくる。 「……美羽は、読心能力が使えるの?」 「わかんない、けど、そうとしか思えないんだよね……」 読心能力は本来、イヌやネコが持ち合わせる特異な能力だ。普通の人間が使えるものではない。 「小さい子って感受性が強いから、今のうちだけかなって思うんだけど……お姉ちゃん心配性だから、どうしても気にしちゃうみたいで──それにね、ご飯のことも……」 「甲洋、あまり食べないんだね」 「うん……そうみたい……」 いつもほんの僅かな量しか食べないのだという。 「ねぇ、来主くんのところにいた頃もそうだった?」 操は視線を俯け、グラスの表面に伝い落ちる水滴を指先でなぞった。 「最初の頃はそうだったよ。ご飯は一口も食べないし、喋らないし、ニコリともしなかった。美羽は凄いね。おれは甲洋が笑った顔を見るだけでも、すごく時間がかかったのに」 甲洋が心の扉を固く閉ざしていたのは、操にも原因があった。イヌへの恐れと拒絶する心が彼に伝わり、不安やストレスを与える結果になっていたのだ。 だが今の家では多少なりとも食事に口をつけ、美羽には笑顔を見せている。甲洋が新しい環境に慣れて、弓子や道生に心を開くのも時間の問題のように操には思えた。 「甲洋は優しいから、みんなが心配してることはちゃんとわかってると思う。だからきっと、すぐに慣れるよ」 「だといいんだけど……美羽ちゃんがいないときは、あんまり部屋からも出たがらないみたいなんだよね。気がつくといつも窓の外を見てるっていうし」 「……窓?」 ドキリと、操の胸が跳ねる。 最初の頃はあの部屋でもそうだった。彼はいなくなった翔子を想い、ずっと恋しがっていたのだ。もうどこにもいないと知りながらも探し続け、待っていた。 (まだ、忘れられないのかな……) 「それとね、これなんだけど」 真矢は鞄の中から一枚の折りたたんだ画用紙を取りだす。テーブルに置いて開くと、そこには子供らしい拙い絵がクレヨンで描かれていた。 焦茶の髪に黒い耳と尻尾があることから、甲洋を描いたものであることが知れる。そしてその隣には──。 「ここに描いてあるの、来主くんじゃないかな?」 「おれ……?」 甲洋の隣には、淡い茶色の髪をした人間が描かれている。周りには淡桃の花が咲き、一人と一匹はにっこりと笑顔を浮かべていた。 操は甲洋と一緒に七分咲の桜を見た日のことを思いだした。満開になったらお弁当を持って来たいと言った操に、甲洋は同意した。初めて交わした約束だった。果たされることはなかったけれど。 「甲洋の中には、いつもこのお兄ちゃんがいるんだよって。美羽ちゃんが言ってた」 操は震える指で画用紙に触れた。無機質なはずなのに、温もりを感じる。冷えていた指先に血が巡り、じんわりと痺れていくような気がした。 ──俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない? (おれのことなんか気にしてる場合じゃないじゃん。美羽にまで心配かけて、なにしてるんだよ) 操の視界はみるみるうちにぼやけて、ついには画用紙が見えなくなった。驚いた真矢が目を瞬かせる。 (ねぇ甲洋。もしかして君はあのとき、本当は行きたくないって、言いたかったのかな) ああ、そうだ。帰りたいくせに、帰れないなんて言うイヌだった。 甲洋は操の本当の気持ちに気がついていたかもしれない。だけど彼は自分に自信がないのだ。自己を否定することばかり言っていた甲洋が、自ら望みを口にできるとは思えない。 しかも操はあのとき、酷く突き放すような物言いをしてしまった。 (おれ、なんで気づかなかったんだろう) またアイツが出るかもしれない。雷が鳴るかもしれない。あの問いかけの中に、彼の本当の気持ちが隠されていたのだとしたら。 「来主くん……大丈夫?」 ボロボロと涙を零し始める操に、真矢がハンカチを差し出そうとする。操は首を振ってそれを拒んだ。代わりに自分の手の甲で乱雑に涙を拭う。 「真矢、おれのお願い聞いてくれる?」 「なに?」 「お姉さんの家、どこにあるか教えて」 「え?」 窓の外を眺めながら、彼は誰を待っているのだろう? 操は甲洋の特別にはなれない。甲洋だって言っていた。お前は俺の帰る場所ではないと。 だけど今は、うぬぼれてもいいのだろうか。 「おれ、迎えに行く。甲洋を」 ←戻る ・ 次へ→
操はアパート前の駐車場に停まっている車に、甲洋の衣類を詰めた鞄を運んでいく。トランクを開けた総士がそれを受け取り、中に積みながら「来ないのか?」と問いかけてきた。
「うん。バイトあるし」
「そうか。なら仕方がないな」
片手でトランクを閉めた総士は操と向き合い、笑みを浮かべた。
「長いあいだ世話になった。無理に押しつける形になってしまって、すまなかったな」
「気にしないで。最初は怖かったけど、楽しかったからいいんだ。それに、総士がどうして一騎だけは平気なのか、ちょっと分かった気がするし」
操が言うと、総士はなぜか驚いたように目を見開いた。
「まさか、お前たちもなのか?」
「うん?」
「だから、お前と甲洋も……そういう関係に」
総士は珍しく狼狽えた様子で、しかも微妙に頬を赤らめていた。
しかし操には彼の言っていることが理解できず、きょとんとしながら首を傾げる。
「そういう関係? どういう関係?」
「あ……いや、違うならいい。今のは忘れてくれ」
「なに? ねぇ気になるよ」
「忘れろと言っている。ほら、甲洋が来たぞ。別れの挨拶をするといい」
眼鏡のズレを直しながら、総士はそそくさと逃げるように運転席に乗り込んだ。
総士のトレンチコートをそのまま譲り受ける形になった甲洋が、両手をコートのポケットに突っ込みながら操の元へやってくる。
「どうかした?」
「んー、わかんない」
「?」
腑に落ちないという表情で唇を尖らせた操に、甲洋もまた不思議そうに首を傾げる。けれどすぐにあまり時間がないことを思いだし、操は暗くならないように笑顔を取り繕った。
「甲洋、美羽には意地悪したらダメだよ」
冗談交じりに言った操に、甲洋は小さく笑って肩をすくめる。
「来主にしかしないよ」
「えぇー? なにそれぇ?」
「さぁ? なんでだろうな」
「むぅー。君って最後までそういう意地悪言うんだ」
頬を膨らませ、眉間にぎゅうっと皺を寄せながら文句を垂れていると、運転席の窓を開けた総士から「そろそろ時間だ」と声がかかる。時間に厳しい彼は、エンジンをかけながら神経質そうに腕時計で時刻を確認していた。
「あ、うん。それじゃあ……元気でね、甲洋」
「……来主もね」
ふたりはそのまま数秒、何も言わずに見つめ合った。
別れ際になって急に実感を失う。本当にこれでお別れなのだろうか。部屋に帰れば甲洋がいる。そんな暮らしが、あまりにも当たり前になっていた。
甲洋は最後にふっと笑って「ありがとう」と言うと、助手席のドアを開けて乗り込んだ。彼の尻尾がどんなふうに動いていたかは、コートに隠れて見ることはできなかった。
*
甲洋が行ってしまうと、部屋の中にだけ真冬が戻ってきたような寒さを感じた。
決して広くはない空間が、やけにただっぴろく感じられる。
操はノロノロと居間に戻ると、クッションの上にペタリと座り込んだ。
いつも彼がいた本棚の横は、ぽっかりと穴が空いたようだった。
「……甲洋、ほんとに行っちゃったんだ」
たった一ヶ月と、ほんの数日。
始めは嫌でたまらなかった。同じ空間にいると思うだけで、一分一秒があまりにも長かった。だけど彼と打ち解けてからは、一瞬だった。
部屋の片隅には彼が使っていた毛布が綺麗に畳んで置いてある。以前テーブル代わりに使っていたアイロン台が壁に立てかけられ、軟膏のケースはテレビ横のカラーボックスに置いてあった。
甲洋は何も持たずにここへ来たはずなのに。幾つもの痕跡が、この部屋には残されている。
操はみるみるうちにぼやけていく視界を、手の甲で雑に拭った。
甲洋は操が泣くといつも困った顔をして、耳をぺたりと寝かせていた。彼が「泣かないで」と言う、少し上ずった声が好きだった。
(おれがもっとちゃんとしてたら……甲洋とずっと一緒にいられたのかなぁ……)
彼はここより大きくて、立派な家に行ったのだ。優しくて温かな家族が、きっと大切に可愛がってくれる。
いつまで経ってもイヌが怖くて、料理の腕も上達しない人間といるより、ずっと幸せに暮らせるはず。
──分かっているのに。
操は堪えきれずに、やっぱり泣きだしてしまった。
*
甲洋が日野家に行ってから十日ほどが過ぎた。
満開に花開いた桜も、もうほとんどが散って老いたように彩りを翳らせている。
操はぼんやりと時間を過ごすことが多くなった。
バイトに行く以外ではほとんど家から出ず、気がつくと窓のそばに座り込んで外を眺めている。
まるで以前の甲洋と同じだ。来るはずのない誰かを、いつまでも待ち続けているような。
──ぐぅ。
景色もへったくれもない景観を見るともなく眺め続けていると、腹の虫が鳴った。ここ数日は全く食欲がないのに、胃袋だけは律儀に空腹を訴える。
ふと壁にかかっている時計を見上げた。針はぴったり昼の12時をさしていた。
最後に食事をしたのは、確か昨日の昼だ。バイト先でまかないを食べたような気がする。けれどまるで味がしなかった。最近は、何を食べても美味しくない。
一昨日の夜は、一騎から久しぶりにカレーを食べに来ないかと誘われた。けれど操はそれを断った。最後の晩餐に選びたいとすら思っていた、あの一騎カレーをだ。自分でも、いよいよマズいような気がしている。
操は空腹を無視してダラリと横向きに寝そべった。そうすると空だけはよく見える。だけど生憎天気はどんよりとした曇り空だった。
(おれの心の中と一緒だ。そのうち泣きだしちゃうかもな)
力なく息を吐きだす。甲洋がいなくなってから、ずっとこんな調子だ。
毛布や箸、歯ブラシやコップなど、甲洋が使っていたものを見ると寂しくて堪らないのに、未だに片付けることさえできないでいる。気づくとメソメソと泣いてばかりだった。
「甲洋、どうしてるかな……」
ぽつりと零すのと、空が泣きだすのは同時だった。
ああ、また思いだしてしまう。寂しそうに海を見つめる背中だとか、触れた手の温もりや、初めて見せてくれた笑顔のことを。
彼はちゃんと食事をしているだろうか。新しい家族とはうまくやっているだろうか。たまには自分のことを思いだしたりしてくれるだろうか。募る寂しさに押し潰されそうだった。
そのとき、部屋の中に着信を知らせるコール音が鳴り響いた。
泣く寸前だった操は目尻を擦りながらのっそりと起き上がる。テーブルの上に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、ディスプレイを覗き込む。
そこには、思わぬ人物の名前が表示されていた。
*
雨は幸い小雨で、それ以上に強まることはなかった。
「ごめんね、急に呼び出して」
遠見真矢は駅前からほど近いファミレスで操を待っていた。
柔らかなベージュのニットに白いフレアスカート。テーブルの上には白いカップに注がれたミルクティーが置いてあって、お揃いの色だなぁと操は思った。
「うぅん。どうせヒマだったし。久しぶりだね、真矢」
操はボーダーシャツの上から着ていたデニムコートを脱ぐと、向かい側の椅子に座る。
「だね。だいたい二年ぶりくらいかな? あたしが高校卒業して以来だから」
「そっか。まだ二年なんだ」
「来主くんは来年二十歳?」
「うん」
女性の店員がオーダーを取りに来る。操はメニュー表も開かないまま、オレンジジュースを頼んだ。真矢が華奢な肩を揺らしながら笑う。
「変わらないなぁ。子供の頃から大好きだよね、オレンジジュース」
「真矢は大人の女の人って感じになったね」
「そっかな? 自分ではよく分かんないけど」
「──ねぇ、ところで今日はどうかした? もしかして、甲洋のこと?」
最初に電話をもらったときからそんな気がしていた。むしろ他に理由が思いつかない。せっかくだから会って話そうと誘われてここへ来たが、道中ずっとソワソワとして落ち着かなかった。
真矢の表情から笑顔が消え、困った様子で眉をハの字にして見せる。
「ん……ちょっとね、気になることがあって」
思いのほか早くオレンジジュースが運ばれてきたところで、会話が一度途切れる。店員が「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていくと、真矢は日野家での甲洋の様子を話してくれた。
「お姉ちゃんや道生さんが話しかけても、ぜんぜん口を開かないんだって。あたしも何度か会ったんだけど、やっぱり同じ。まだ慣れない環境だから、しょうがないのかなって気はするんだけど」
「……うん」
「でも美羽ちゃんとは、何か話をしてるみたいなんだよね」
「みたい?」
真矢は横に置いていたバッグの中からスマートフォンを取り出した。指先で操作して、画面を操へ向けて見せる。
「これ見て。お姉ちゃんがこっそり撮って、送ってくれたの」
それは動画だった。画面の中にはよく晴れた青空と、縁側に座る甲洋の背中が写っている。
(あ、甲洋だ……)
懐かしい姿に胸が締め付けられる。操はじんわりと涙が浮かぶのをどうにか堪えた。
甲洋の隣には柔らかそうな髪を二つに結んだ小さな女の子が座っていた。彼女が美羽だ。美羽は甲洋の方を向いてペタリと座り、楽しそうに何か話をしているようだった。
『あのね、ニンジンを、トントントンって切るんだよ。おててはね、こうやって、ネコちゃんみたいに丸くするの』
甲洋が美羽の方に顔を向ける。その横顔は優しく微笑んでいた。
『それからね、タマネギを切るの。でもね、ママいっつも泣いちゃうんだよ。おめめがいたいんだって。──そうなの? うん、うん──ふぅん。それ美羽にもできる? ──え? うぅん、したことないよ。だってママがまだダメっていうんだもん。美羽はまだちっちゃいから、おてて切ったらタイヘンよって』
黒い尻尾がゆっくりと左右に揺れているだけで、甲洋は一言も発していない。まるで美羽が見えない誰かを相手に、一人ぼっちで話をしているかのような光景だった。
操はいちど真矢へと視線をあげた。彼女は心配そうに眉を寄せている。
『──平気だもん。美羽、じょうずにできるよ。そしたらね、甲洋に食べてもらうの。だって、甲洋ぜんぜん食べないんだもん。──ウソだよ。美羽ちゃんとわかるんだから。ダメでしょ、いっぱい食べなきゃ、おっきくなれないんだよ。──え、そうなの? どうして? 甲洋はママのおりょうりキライなの? ──ほんと? ──よかったぁ』
そこで動画は終わっていた。
真矢が意見を求めるような視線を向けてくる。
「……美羽は、読心能力が使えるの?」
「わかんない、けど、そうとしか思えないんだよね……」
読心能力は本来、イヌやネコが持ち合わせる特異な能力だ。普通の人間が使えるものではない。
「小さい子って感受性が強いから、今のうちだけかなって思うんだけど……お姉ちゃん心配性だから、どうしても気にしちゃうみたいで──それにね、ご飯のことも……」
「甲洋、あまり食べないんだね」
「うん……そうみたい……」
いつもほんの僅かな量しか食べないのだという。
「ねぇ、来主くんのところにいた頃もそうだった?」
操は視線を俯け、グラスの表面に伝い落ちる水滴を指先でなぞった。
「最初の頃はそうだったよ。ご飯は一口も食べないし、喋らないし、ニコリともしなかった。美羽は凄いね。おれは甲洋が笑った顔を見るだけでも、すごく時間がかかったのに」
甲洋が心の扉を固く閉ざしていたのは、操にも原因があった。イヌへの恐れと拒絶する心が彼に伝わり、不安やストレスを与える結果になっていたのだ。
だが今の家では多少なりとも食事に口をつけ、美羽には笑顔を見せている。甲洋が新しい環境に慣れて、弓子や道生に心を開くのも時間の問題のように操には思えた。
「甲洋は優しいから、みんなが心配してることはちゃんとわかってると思う。だからきっと、すぐに慣れるよ」
「だといいんだけど……美羽ちゃんがいないときは、あんまり部屋からも出たがらないみたいなんだよね。気がつくといつも窓の外を見てるっていうし」
「……窓?」
ドキリと、操の胸が跳ねる。
最初の頃はあの部屋でもそうだった。彼はいなくなった翔子を想い、ずっと恋しがっていたのだ。もうどこにもいないと知りながらも探し続け、待っていた。
(まだ、忘れられないのかな……)
「それとね、これなんだけど」
真矢は鞄の中から一枚の折りたたんだ画用紙を取りだす。テーブルに置いて開くと、そこには子供らしい拙い絵がクレヨンで描かれていた。
焦茶の髪に黒い耳と尻尾があることから、甲洋を描いたものであることが知れる。そしてその隣には──。
「ここに描いてあるの、来主くんじゃないかな?」
「おれ……?」
甲洋の隣には、淡い茶色の髪をした人間が描かれている。周りには淡桃の花が咲き、一人と一匹はにっこりと笑顔を浮かべていた。
操は甲洋と一緒に七分咲の桜を見た日のことを思いだした。満開になったらお弁当を持って来たいと言った操に、甲洋は同意した。初めて交わした約束だった。果たされることはなかったけれど。
「甲洋の中には、いつもこのお兄ちゃんがいるんだよって。美羽ちゃんが言ってた」
操は震える指で画用紙に触れた。無機質なはずなのに、温もりを感じる。冷えていた指先に血が巡り、じんわりと痺れていくような気がした。
──俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?
(おれのことなんか気にしてる場合じゃないじゃん。美羽にまで心配かけて、なにしてるんだよ)
操の視界はみるみるうちにぼやけて、ついには画用紙が見えなくなった。驚いた真矢が目を瞬かせる。
(ねぇ甲洋。もしかして君はあのとき、本当は行きたくないって、言いたかったのかな)
ああ、そうだ。帰りたいくせに、帰れないなんて言うイヌだった。
甲洋は操の本当の気持ちに気がついていたかもしれない。だけど彼は自分に自信がないのだ。自己を否定することばかり言っていた甲洋が、自ら望みを口にできるとは思えない。
しかも操はあのとき、酷く突き放すような物言いをしてしまった。
(おれ、なんで気づかなかったんだろう)
またアイツが出るかもしれない。雷が鳴るかもしれない。あの問いかけの中に、彼の本当の気持ちが隠されていたのだとしたら。
「来主くん……大丈夫?」
ボロボロと涙を零し始める操に、真矢がハンカチを差し出そうとする。操は首を振ってそれを拒んだ。代わりに自分の手の甲で乱雑に涙を拭う。
「真矢、おれのお願い聞いてくれる?」
「なに?」
「お姉さんの家、どこにあるか教えて」
「え?」
窓の外を眺めながら、彼は誰を待っているのだろう?
操は甲洋の特別にはなれない。甲洋だって言っていた。お前は俺の帰る場所ではないと。
だけど今は、うぬぼれてもいいのだろうか。
「おれ、迎えに行く。甲洋を」
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