2025/09/14 Sun 持ってきた傘を置き去りにして、店を飛び出した操は駅から電車に飛び乗った。 真矢に教えてもらった駅で降りると、頭の中に刻みつけた道順を頼りに住宅街を駆け抜ける。 小雨が降りしきるなか、息苦しさに肺や心臓が悲鳴をあげていた。足がもつれ、何度も転びそうになる。それでも走ることをやめられない。 甲洋が家出したときも、こんなふうに力の限り走り回っていた。あのときは彼を大切に思う気持ちの他に、総士から預かっているという責任感もあったと思う。いずれ出会うであろう新しい飼い主の元で、彼が幸せに暮らせるように。 だけど今の操は、ただ自分の望みを叶えたいがためだけに走っている。甲洋を取り戻したいという意思だけが、操を突き動かしていた。 「あった……!」 黒い瓦屋根の大きな家には『日野』という表札がかかっていた。 少し小高い位置にある家は、玄関に向って白い石段が伸びている。操はそこを一気に駆け上がった。 ガラスの引き戸を何度か叩く。女性が「はぁい」と返事をするのを聞いた途端、ガラリと音を立てて戸を開くと中に押し入った。 「どなた……あら? あなた確か……?」 フリルのついた白いブラウスに、黒いスカートを穿いた女性が目を丸くする。真矢の姉の弓子だ。 彼女は激しく息を乱す操を見て、驚いた様子で小首を傾げた。 「操くんよね? どうしたのよ、傘もささずに来たの?」 「ぁ、の……ッ、あの」 息が苦しくて、まともに言葉を発することができない。けれど息が整うのを待たず、操は大きな声で叫ぶように訴えた。 「甲洋を……甲洋を、返してください!」 「え!?」 「お願い……!」 懇願と共に深く頭を下げる。 とつぜん押しかけて、あまりにも身勝手なことを言っている自覚はあった。操は一時的に甲洋を預かっていただけで、飼い主として正式に名乗り出てくれたこの家の人たちとは違う。 今更こんなことを言える立場ではないのだ。だけど。 「おれ、甲洋がいないとダメで……何を食べても味がしないし、一人で部屋にいると寂しくて、ずっと甲洋のこと考えて泣いちゃうし……なにしてても、ぜんぜん楽しくなくて……ッ、だから、だからやっぱり、甲洋がいないと、おれ、ぜんぜんダメで……ッ」 言いながら泣いていた。最後の方はほとんど嗚咽混じりで、何を言っているか自分でも分からなくなっていた。ただただ、必死だった。 「か、返すなんて、そんなことを急に来て言われても……」 弓子の戸惑いはもっともだった。甲洋はもうこの家のイヌなのだ。なにより美羽のことを思えば、引き離すなんて真似がそう簡単にできるとは思えない。 操は下唇を噛みしめる。いよいよ土下座をしようかと思ったそのとき、弓子の背後から声がした。 「いいよ」 咄嗟に顔をあげる。廊下の中腹にある居間の出入り口から、桃花色のワンピースを着た可愛らしい少女がひょっこりと顔だけを覗かせていた。 「美羽!? いいよってあなた、そんな簡単に……!?」 「だってそのほうが、甲洋うれしいって言ってるもん」 美羽がよたよたと幼い足取りで廊下に出てくる。彼女は誰かの服の袖を掴んでいた。小さな手がそれを引っ張ると、居間から躊躇いがちに姿を現したのは甲洋だった。 「甲洋……!」 十日ぶりに見た彼は、ネイビーのシャツと白のパンツに身を包んでいた。伸びっぱなしだった髪も毛先が幾らか整えられて、小奇麗になっている。尻尾の毛はよくブラッシングされているようで、ボサボサだったのが一回り細くなって見えた。 彼は信じられないものを目の当たりにしたような、どこか呆然とした面持ちで操を見つめている。何かを言いかけて唇を震わせたが、それが音になることはなかった。 操はその姿を見て胸がいっぱいになった。目の前に甲洋がいる。それだけで、また涙が溢れた。 けれど同時に僅かな後悔が頭をもたげる。綺麗に身なりを整えられた彼は、もう『他所の子』なのだと思い知らされたような気がした。 「あ、あのね美羽。この子はお喋りができないのよ。嬉しいかどうかなんて、そんなの分からないでしょ?」 「そんなことないもん。美羽、いっぱいお話してるもん」 「美羽……」 美羽が操を見て、無邪気に指をさしてくる。 「ねぇママ、このお兄ちゃんだよ。甲洋の心のなかはね、このお兄ちゃんでいっぱいなんだよ」 「ッ!」 甲洋がビクリと肩を震わせ、困った様子で美羽を見た。操もまたドキリとして肩を跳ねさせる。 美羽は甲洋を見上げ、にっこりと花が開いたような笑顔を浮かべた。 「美羽さみしくないよ。甲洋がうれしいと、美羽もうれしいもん」 彼女は本当に読心能力が使えるのだ。オロオロとした様子の弓子は娘の特殊な能力に困惑の色を隠せないでいるが、操にはそれがとても羨ましく感じられた。 「……美羽」 美羽の名を呼び、甲洋は片膝をついて視線を低くした。弓子は初めて聞いた甲洋の声に目を丸くする。 紅葉のように小さな手が、大きく尖った耳を優しく撫でた。 「バイバイ甲洋。でもね、また会えるよ。だから美羽はへいきだよ」 「──ありがとう」 甲洋は立ち上がると、立ち尽くす操の方を振り向いた。 彼が美羽から離れると、今度は弓子が彼女に駆け寄って膝をつく。 「美羽、本当にいいの? ずっと楽しみにしてたのに……」 「うん、いいの。だって美羽には、ママとパパがいるもん。でもね、甲洋にはこのお兄ちゃんしかいないの。美羽でもママでも、ダメなんだよ」 「美羽……」 迷いのない幼い笑顔に、弓子は少しだけ困ったように微笑んだ。 上がり框の際までやって来た甲洋は、立ち尽くす操を見下ろした。目にいっぱい涙を浮かべ、口を半開きにしているのを見て、眉を下げて小さく笑う。 「来主」 「甲洋……」 離れていたのは半月にも満たない短い間だった。それでも久しぶりに見たその笑顔に、胸が締め付けられる。 「ごめん……ごめんね甲洋。おれ嘘ついた。ぜんぜん平気じゃなかった。ちっとも大丈夫じゃなかったよ。おれ……やっぱり君と一緒にいたいんだ」 彼の幸せを勝手に決めつけた。操だって甲洋のことはいえない。自分に自信がなくて、その意思を確かめもしなかった。もっと早くにこうして気持ちを伝えていたら、誰も振り回さなくて済んだのに。 だけどもし許されるなら、こんな我儘で臆病な自分でも許されるなら。ずっと傍にいてほしかった。ふたりであの部屋に帰りたかった。 「……俺も」 甲洋が静かに手を差し出した。痣も傷跡も、もうほとんどが消えている。彼は言った。 「帰りたい。来主のところに」 ──帰りたい。 その言葉に、操はくしゃりと顔を歪める。甲洋の言葉に、あの日のような迷いはなかった。まっすぐな瞳で操を見据え、本当の気持ちを隠さず言葉にしてくれた。 震える下唇を噛み締め、その手をとる。強く強く握りしめ、ひとつ鼻をすすると操は笑った。 「うん。一緒に帰ろう、甲洋」 雨はいつの間にか止んでいた。 まるでふたりの心を映し出したかのように、流れる雲の波間からは澄んだ青い空が顔を覗かせていた。 * (なんか、久しぶりに帰ってきたって感じがする) 部屋に戻り、居間に入ると不思議な懐かしさにとらわれた。 甲洋が行ってしまってからも、操は変わらずここで生活していたはずなのに。自分がどれほど心ここにあらずといった暮らしを送っていたかが、よく分かる。 「どうかした?」 居間に入った途端に立ち尽くすばかりの操の顔を、甲洋が背後から覗き込んでくる。間近にその瞳を見て、彼が帰ってきたのだという実感がじわりと湧いた。 「甲洋がいるんだって思うと、なんだかまだ信じられなくて。おれ、寂しくてずっと泣いてたから」 「ッ、そ、そう」 ふにゃりと笑った操に甲洋は言葉を詰まらせ、少しだけ頬を赤らめながら目を泳がせる。視線を逸らした先に折りたたんである毛布を見つけて、また操を見た。 「あ……えっと。甲洋が行ったときのままなんだ。箸もコップも歯ブラシも、君が使ってたもの全部」 「めんどくさかったの?」 「違うよぉ!」 久しぶりに意地悪を言われてしまったと思ったのも束の間、甲洋は不思議そうに瞬きを繰り返すばかりだった。操はなんだか恥ずかしい気持ちになって、胸の前で両手の指をモジモジといじくる。 「だって……片付けちゃったら、君がここにいたことまで消えちゃうような気がして、なんか嫌だったんだ。意味ないよね。そんなことしてたって、甲洋はもういないのに」 何も今生の別れというわけではなかった。会いに行こうと思えば、きっといつでも行けたはずだ。けれど寂しくて仕方がなかった。真矢にキッカケを貰わなければ、操は今もここでメソメソと泣いていただろう。 「俺はここにいるよ。お前が迎えに来てくれたから」 甲洋の右手が操の頬に触れ、手の平で包み込んだ。親指で目尻をそっとなぞられる。ずいぶん泣いたから、そこは赤く腫れぼったくなっていた。彼の指先は労るように、何度も何度も涙の跡が残る目尻をなぞる。 その温もりが優しくて、嬉しくてたまらない。甲洋がいる。こんなに近くに。 「うん……嬉しい」 操は目を細め、うっそりと呟いた。 いつかの公園でそうしたように、ふたりは互いの瞳を見つめ合う。時間が停まったような気がした。 甲洋の顔がどんどん近くなっていく。そうあることが当たり前のように、操もまた彼に吸い寄せられる。目を閉じると、柔らかな温もりが唇に押し付けられた。焦茶の癖毛が頬や鼻先をくすぐる。 身体をぴったりと寄せ合い、操は無意識に甲洋の肩に縋り付くように手を這わせていた。長い腕に腰を抱かれる。胸いっぱいに甘いものが広がった。熱くて、蕩けそうになる。 「ぁ……」 唇が離れると、名残惜しさに微かな声が漏れた。このままでいたいと思う心を読んだかのように、甲洋が額と額を合わせてくる。唇が、微かに痺れていた。 泣きたくなったのはなぜだろう。胸が苦しい。ずっと高鳴っている。嬉しくて、切ない。 部屋の中はあまりにも静かだった。ふと遠くから時計の秒針が動く音が聞こえる。時が止まったような錯覚が、魔法が解けるみたいに掻き消えてしまった。 「…………」 「…………」 たぶん、どうしたらいいか分からなくなってしまったのは二人同時だった。甲洋も操も頬を真っ赤にしている。引くに引けない。抱き合って、額と額をくっつけたまま。 「……キス、しちゃったね」 甲洋が「うん」と短く返事をする。 「ねぇ、これってさ、カウントされるのかな?」 「なにが」 「ん……初めてだもん。おれ、キスするの」 「……えっ」 甲洋がぎょっとして肩を震わせた。ひっついていた額が離れて、互いにバッチリと目を合わせる。彼がこんなふうに狼狽えるなんて珍しい。 「は、初めて?」 「うん。でも、イヌと人間でしょ、おれたち。よく動物を飼ってる人って、ペットにチュってするじゃん。だから今のは、それと一緒かな?」 素朴な疑問だ。同時になぜ甲洋がこうも戸惑っているのかも分からない。 「来主って、いま幾つ?」 「十九だよ」 「……最近の子は、もっと進んでるものだと思ってた」 「なんだよそれ。最近の子って、甲洋だってそんな変わんないでしょ。いま幾つ?」 「二十歳」 「一個しか違わないじゃん!」 操は甲洋の肩をパシリと叩いた。 確かに遅れているのかもしれない。学校に通っていたころ、クラスメイトの中には小学生の頃にはすでに恋人がいて、あらかた経験済みという友人もいた。 けれど操には恋というものがよく分からない。興味もなかったし、今まで誰にも友達以上の気持ちを抱いたことがなかったからだ。 「ちっちゃい頃は、よく総士のほっぺにちゅうしたけどさ」 「なんだよ、それ」 どうしてか、目の前にある甲洋の顔がムッとしかめられた。 「なんでそんな怖い顔するの?」 「……してない」 「してるじゃん。ねぇ怒ってる?」 「怒ってないって……ほっぺただけ?」 「うん。ほっぺただけ。寝る前にいつもしてたよ。おやすみって」 ふむ、と甲洋が低く声を発しながら息を吐き出した。それから、難しい顔のまま何か考え込んだかと思うと、こほんと小さな咳払いをする。 「今のは、ちゃんとキスだよ」 「そうなの?」 「来主のファーストキスは俺だし、あと、この際だから言うと二回目だから」 「二回目? なにそれ? おれ知らないよ?」 まったくもって覚えがない。心なしか、甲洋の目が据わって見える。 「お前が寝てるとき、一度したから」 「へ? 誰が?」 「俺以外にいる?」 「なんで!?」 「……したかったから」 甲洋はふいっと顔を背け、操の身体を離してしまった。そのままテレビ横のカラーボックスに近づくと、表面を指先でつつっとなぞる。付着したほこりをふっと吹き飛ばし「掃除くらいはしようよ」とため息を漏らした。その頬はまだ赤い。 操は口をぽっかりと空け、目を白黒させていた。知らなかった。彼がそんなことをしていたなんて。 (甲洋、本当はそんなにおれに甘えたかったのかぁ……) ズレている。甲洋が聞けばそう言ってこめかみを押さえたであろう感想を、操は抱く。 (これからはいっぱい可愛がって、甘やかしてあげないと) 操は甲洋の飼い主になったのだ。彼は元々の飼い主だった夫婦から、愛情を受けることができなかった。だけど操にはそれができる。頼りないかもしれないけれど、自分にできることならなんでもしようと思った。 (おれが甲洋を幸せにするんだ) せっかくこうして帰って来てくれたのだから。 (──あ) そこで操はふと気がついた。とても大切なことを言い忘れていることに。 「ああほら、ここにもほこりが……汚くしてるとまた虫が来るよ」 「甲洋!」 「なに、わッ」 操はブツブツと小言を漏らしていた背中に、思い切り勢いをつけて抱きついた。 「な、なに、どうしたの」 「おかえり、甲洋」 「ッ!」 「帰ってきてくれて、ありがとう」 息を呑みながら首だけで振り向いた甲洋を見上げて、操はニッコリ笑って見せた。 彼は見開いていた目を優しく細め、ゆっくりと口元を綻ばせる。腹に回っている操の腕に、両手を添えて緩く握りしめた。あたたかな手だった。 「ただいま、来主」 操の身体に当っている黒い尻尾が、パタパタと大きく揺れる動きを見せた。 ←戻る ・ 次へ→
真矢に教えてもらった駅で降りると、頭の中に刻みつけた道順を頼りに住宅街を駆け抜ける。
小雨が降りしきるなか、息苦しさに肺や心臓が悲鳴をあげていた。足がもつれ、何度も転びそうになる。それでも走ることをやめられない。
甲洋が家出したときも、こんなふうに力の限り走り回っていた。あのときは彼を大切に思う気持ちの他に、総士から預かっているという責任感もあったと思う。いずれ出会うであろう新しい飼い主の元で、彼が幸せに暮らせるように。
だけど今の操は、ただ自分の望みを叶えたいがためだけに走っている。甲洋を取り戻したいという意思だけが、操を突き動かしていた。
「あった……!」
黒い瓦屋根の大きな家には『日野』という表札がかかっていた。
少し小高い位置にある家は、玄関に向って白い石段が伸びている。操はそこを一気に駆け上がった。
ガラスの引き戸を何度か叩く。女性が「はぁい」と返事をするのを聞いた途端、ガラリと音を立てて戸を開くと中に押し入った。
「どなた……あら? あなた確か……?」
フリルのついた白いブラウスに、黒いスカートを穿いた女性が目を丸くする。真矢の姉の弓子だ。
彼女は激しく息を乱す操を見て、驚いた様子で小首を傾げた。
「操くんよね? どうしたのよ、傘もささずに来たの?」
「ぁ、の……ッ、あの」
息が苦しくて、まともに言葉を発することができない。けれど息が整うのを待たず、操は大きな声で叫ぶように訴えた。
「甲洋を……甲洋を、返してください!」
「え!?」
「お願い……!」
懇願と共に深く頭を下げる。
とつぜん押しかけて、あまりにも身勝手なことを言っている自覚はあった。操は一時的に甲洋を預かっていただけで、飼い主として正式に名乗り出てくれたこの家の人たちとは違う。
今更こんなことを言える立場ではないのだ。だけど。
「おれ、甲洋がいないとダメで……何を食べても味がしないし、一人で部屋にいると寂しくて、ずっと甲洋のこと考えて泣いちゃうし……なにしてても、ぜんぜん楽しくなくて……ッ、だから、だからやっぱり、甲洋がいないと、おれ、ぜんぜんダメで……ッ」
言いながら泣いていた。最後の方はほとんど嗚咽混じりで、何を言っているか自分でも分からなくなっていた。ただただ、必死だった。
「か、返すなんて、そんなことを急に来て言われても……」
弓子の戸惑いはもっともだった。甲洋はもうこの家のイヌなのだ。なにより美羽のことを思えば、引き離すなんて真似がそう簡単にできるとは思えない。
操は下唇を噛みしめる。いよいよ土下座をしようかと思ったそのとき、弓子の背後から声がした。
「いいよ」
咄嗟に顔をあげる。廊下の中腹にある居間の出入り口から、桃花色のワンピースを着た可愛らしい少女がひょっこりと顔だけを覗かせていた。
「美羽!? いいよってあなた、そんな簡単に……!?」
「だってそのほうが、甲洋うれしいって言ってるもん」
美羽がよたよたと幼い足取りで廊下に出てくる。彼女は誰かの服の袖を掴んでいた。小さな手がそれを引っ張ると、居間から躊躇いがちに姿を現したのは甲洋だった。
「甲洋……!」
十日ぶりに見た彼は、ネイビーのシャツと白のパンツに身を包んでいた。伸びっぱなしだった髪も毛先が幾らか整えられて、小奇麗になっている。尻尾の毛はよくブラッシングされているようで、ボサボサだったのが一回り細くなって見えた。
彼は信じられないものを目の当たりにしたような、どこか呆然とした面持ちで操を見つめている。何かを言いかけて唇を震わせたが、それが音になることはなかった。
操はその姿を見て胸がいっぱいになった。目の前に甲洋がいる。それだけで、また涙が溢れた。
けれど同時に僅かな後悔が頭をもたげる。綺麗に身なりを整えられた彼は、もう『他所の子』なのだと思い知らされたような気がした。
「あ、あのね美羽。この子はお喋りができないのよ。嬉しいかどうかなんて、そんなの分からないでしょ?」
「そんなことないもん。美羽、いっぱいお話してるもん」
「美羽……」
美羽が操を見て、無邪気に指をさしてくる。
「ねぇママ、このお兄ちゃんだよ。甲洋の心のなかはね、このお兄ちゃんでいっぱいなんだよ」
「ッ!」
甲洋がビクリと肩を震わせ、困った様子で美羽を見た。操もまたドキリとして肩を跳ねさせる。
美羽は甲洋を見上げ、にっこりと花が開いたような笑顔を浮かべた。
「美羽さみしくないよ。甲洋がうれしいと、美羽もうれしいもん」
彼女は本当に読心能力が使えるのだ。オロオロとした様子の弓子は娘の特殊な能力に困惑の色を隠せないでいるが、操にはそれがとても羨ましく感じられた。
「……美羽」
美羽の名を呼び、甲洋は片膝をついて視線を低くした。弓子は初めて聞いた甲洋の声に目を丸くする。
紅葉のように小さな手が、大きく尖った耳を優しく撫でた。
「バイバイ甲洋。でもね、また会えるよ。だから美羽はへいきだよ」
「──ありがとう」
甲洋は立ち上がると、立ち尽くす操の方を振り向いた。
彼が美羽から離れると、今度は弓子が彼女に駆け寄って膝をつく。
「美羽、本当にいいの? ずっと楽しみにしてたのに……」
「うん、いいの。だって美羽には、ママとパパがいるもん。でもね、甲洋にはこのお兄ちゃんしかいないの。美羽でもママでも、ダメなんだよ」
「美羽……」
迷いのない幼い笑顔に、弓子は少しだけ困ったように微笑んだ。
上がり框の際までやって来た甲洋は、立ち尽くす操を見下ろした。目にいっぱい涙を浮かべ、口を半開きにしているのを見て、眉を下げて小さく笑う。
「来主」
「甲洋……」
離れていたのは半月にも満たない短い間だった。それでも久しぶりに見たその笑顔に、胸が締め付けられる。
「ごめん……ごめんね甲洋。おれ嘘ついた。ぜんぜん平気じゃなかった。ちっとも大丈夫じゃなかったよ。おれ……やっぱり君と一緒にいたいんだ」
彼の幸せを勝手に決めつけた。操だって甲洋のことはいえない。自分に自信がなくて、その意思を確かめもしなかった。もっと早くにこうして気持ちを伝えていたら、誰も振り回さなくて済んだのに。
だけどもし許されるなら、こんな我儘で臆病な自分でも許されるなら。ずっと傍にいてほしかった。ふたりであの部屋に帰りたかった。
「……俺も」
甲洋が静かに手を差し出した。痣も傷跡も、もうほとんどが消えている。彼は言った。
「帰りたい。来主のところに」
──帰りたい。
その言葉に、操はくしゃりと顔を歪める。甲洋の言葉に、あの日のような迷いはなかった。まっすぐな瞳で操を見据え、本当の気持ちを隠さず言葉にしてくれた。
震える下唇を噛み締め、その手をとる。強く強く握りしめ、ひとつ鼻をすすると操は笑った。
「うん。一緒に帰ろう、甲洋」
雨はいつの間にか止んでいた。
まるでふたりの心を映し出したかのように、流れる雲の波間からは澄んだ青い空が顔を覗かせていた。
*
(なんか、久しぶりに帰ってきたって感じがする)
部屋に戻り、居間に入ると不思議な懐かしさにとらわれた。
甲洋が行ってしまってからも、操は変わらずここで生活していたはずなのに。自分がどれほど心ここにあらずといった暮らしを送っていたかが、よく分かる。
「どうかした?」
居間に入った途端に立ち尽くすばかりの操の顔を、甲洋が背後から覗き込んでくる。間近にその瞳を見て、彼が帰ってきたのだという実感がじわりと湧いた。
「甲洋がいるんだって思うと、なんだかまだ信じられなくて。おれ、寂しくてずっと泣いてたから」
「ッ、そ、そう」
ふにゃりと笑った操に甲洋は言葉を詰まらせ、少しだけ頬を赤らめながら目を泳がせる。視線を逸らした先に折りたたんである毛布を見つけて、また操を見た。
「あ……えっと。甲洋が行ったときのままなんだ。箸もコップも歯ブラシも、君が使ってたもの全部」
「めんどくさかったの?」
「違うよぉ!」
久しぶりに意地悪を言われてしまったと思ったのも束の間、甲洋は不思議そうに瞬きを繰り返すばかりだった。操はなんだか恥ずかしい気持ちになって、胸の前で両手の指をモジモジといじくる。
「だって……片付けちゃったら、君がここにいたことまで消えちゃうような気がして、なんか嫌だったんだ。意味ないよね。そんなことしてたって、甲洋はもういないのに」
何も今生の別れというわけではなかった。会いに行こうと思えば、きっといつでも行けたはずだ。けれど寂しくて仕方がなかった。真矢にキッカケを貰わなければ、操は今もここでメソメソと泣いていただろう。
「俺はここにいるよ。お前が迎えに来てくれたから」
甲洋の右手が操の頬に触れ、手の平で包み込んだ。親指で目尻をそっとなぞられる。ずいぶん泣いたから、そこは赤く腫れぼったくなっていた。彼の指先は労るように、何度も何度も涙の跡が残る目尻をなぞる。
その温もりが優しくて、嬉しくてたまらない。甲洋がいる。こんなに近くに。
「うん……嬉しい」
操は目を細め、うっそりと呟いた。
いつかの公園でそうしたように、ふたりは互いの瞳を見つめ合う。時間が停まったような気がした。
甲洋の顔がどんどん近くなっていく。そうあることが当たり前のように、操もまた彼に吸い寄せられる。目を閉じると、柔らかな温もりが唇に押し付けられた。焦茶の癖毛が頬や鼻先をくすぐる。
身体をぴったりと寄せ合い、操は無意識に甲洋の肩に縋り付くように手を這わせていた。長い腕に腰を抱かれる。胸いっぱいに甘いものが広がった。熱くて、蕩けそうになる。
「ぁ……」
唇が離れると、名残惜しさに微かな声が漏れた。このままでいたいと思う心を読んだかのように、甲洋が額と額を合わせてくる。唇が、微かに痺れていた。
泣きたくなったのはなぜだろう。胸が苦しい。ずっと高鳴っている。嬉しくて、切ない。
部屋の中はあまりにも静かだった。ふと遠くから時計の秒針が動く音が聞こえる。時が止まったような錯覚が、魔法が解けるみたいに掻き消えてしまった。
「…………」
「…………」
たぶん、どうしたらいいか分からなくなってしまったのは二人同時だった。甲洋も操も頬を真っ赤にしている。引くに引けない。抱き合って、額と額をくっつけたまま。
「……キス、しちゃったね」
甲洋が「うん」と短く返事をする。
「ねぇ、これってさ、カウントされるのかな?」
「なにが」
「ん……初めてだもん。おれ、キスするの」
「……えっ」
甲洋がぎょっとして肩を震わせた。ひっついていた額が離れて、互いにバッチリと目を合わせる。彼がこんなふうに狼狽えるなんて珍しい。
「は、初めて?」
「うん。でも、イヌと人間でしょ、おれたち。よく動物を飼ってる人って、ペットにチュってするじゃん。だから今のは、それと一緒かな?」
素朴な疑問だ。同時になぜ甲洋がこうも戸惑っているのかも分からない。
「来主って、いま幾つ?」
「十九だよ」
「……最近の子は、もっと進んでるものだと思ってた」
「なんだよそれ。最近の子って、甲洋だってそんな変わんないでしょ。いま幾つ?」
「二十歳」
「一個しか違わないじゃん!」
操は甲洋の肩をパシリと叩いた。
確かに遅れているのかもしれない。学校に通っていたころ、クラスメイトの中には小学生の頃にはすでに恋人がいて、あらかた経験済みという友人もいた。
けれど操には恋というものがよく分からない。興味もなかったし、今まで誰にも友達以上の気持ちを抱いたことがなかったからだ。
「ちっちゃい頃は、よく総士のほっぺにちゅうしたけどさ」
「なんだよ、それ」
どうしてか、目の前にある甲洋の顔がムッとしかめられた。
「なんでそんな怖い顔するの?」
「……してない」
「してるじゃん。ねぇ怒ってる?」
「怒ってないって……ほっぺただけ?」
「うん。ほっぺただけ。寝る前にいつもしてたよ。おやすみって」
ふむ、と甲洋が低く声を発しながら息を吐き出した。それから、難しい顔のまま何か考え込んだかと思うと、こほんと小さな咳払いをする。
「今のは、ちゃんとキスだよ」
「そうなの?」
「来主のファーストキスは俺だし、あと、この際だから言うと二回目だから」
「二回目? なにそれ? おれ知らないよ?」
まったくもって覚えがない。心なしか、甲洋の目が据わって見える。
「お前が寝てるとき、一度したから」
「へ? 誰が?」
「俺以外にいる?」
「なんで!?」
「……したかったから」
甲洋はふいっと顔を背け、操の身体を離してしまった。そのままテレビ横のカラーボックスに近づくと、表面を指先でつつっとなぞる。付着したほこりをふっと吹き飛ばし「掃除くらいはしようよ」とため息を漏らした。その頬はまだ赤い。
操は口をぽっかりと空け、目を白黒させていた。知らなかった。彼がそんなことをしていたなんて。
(甲洋、本当はそんなにおれに甘えたかったのかぁ……)
ズレている。甲洋が聞けばそう言ってこめかみを押さえたであろう感想を、操は抱く。
(これからはいっぱい可愛がって、甘やかしてあげないと)
操は甲洋の飼い主になったのだ。彼は元々の飼い主だった夫婦から、愛情を受けることができなかった。だけど操にはそれができる。頼りないかもしれないけれど、自分にできることならなんでもしようと思った。
(おれが甲洋を幸せにするんだ)
せっかくこうして帰って来てくれたのだから。
(──あ)
そこで操はふと気がついた。とても大切なことを言い忘れていることに。
「ああほら、ここにもほこりが……汚くしてるとまた虫が来るよ」
「甲洋!」
「なに、わッ」
操はブツブツと小言を漏らしていた背中に、思い切り勢いをつけて抱きついた。
「な、なに、どうしたの」
「おかえり、甲洋」
「ッ!」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
息を呑みながら首だけで振り向いた甲洋を見上げて、操はニッコリ笑って見せた。
彼は見開いていた目を優しく細め、ゆっくりと口元を綻ばせる。腹に回っている操の腕に、両手を添えて緩く握りしめた。あたたかな手だった。
「ただいま、来主」
操の身体に当っている黒い尻尾が、パタパタと大きく揺れる動きを見せた。
←戻る ・ 次へ→