2025/09/18 Thu 叩きつける横殴りの雨が、幼い肌に突き刺さるようにして降り注ぐ。 横転した車。空に向かって虚しく回り続けていたタイヤが軋むような音を立て、やがて停止する。 割れたガラスの破片が、不規則に点滅するライトに光り輝いていた。 歪で大きさの違う石が幾つも転がる中、投げ出されている腕は肘から上がない。腕だけが、ただ置き去りにされたオモチャのように転がっている。 それは左腕だった。薬指にはめられた指輪が、ガラスの破片が光るのと同じように、キラキラと輝いているのが見えた。 そこからどす黒い血が、細かな砂利の合間を縫って蛇のように波打っている。それは横転した車の下からも、どろどろと止め処なく流れ出していた。 黒鋼の腕の中にある血塗れの身体は、手足が有り得ない方向へと折れ曲がっていた。その泥に汚れた左手にも、同じように指輪がはめられている。 必死でそれを掻き抱きながら、ゆっくりと、けれど確実に熱が失われてゆくのをただ震えながら感じていた。 血は赤く、温かなものだとばかり思っていた。そして、雨は全てを洗い流してくれるものだと。 その何もかもが間違っていたなんて、知りたくなかった。 幼い黒鋼の声にならない無様な悲鳴は、無慈悲な曇天を切り裂くことさえ、当たり前のように出来はしなかった。 *** 「ッ……!」 悪夢からの目覚めは、やはり最悪だった。 夜の闇の中、激しい雨音によって誘発されたそれに、黒鋼は汗だくになった身を起こす。 心臓の音が身体の中で小刻みに、けれど大音響で刻まれている。酷く喉が渇いているけれど、まるで手足に重石でも括りつけられているかのような感覚に、これ以上動く気になれない。 胸の辺りを押さえながら、再び身体を横たえる。耳障りな雨音に、過敏になっている神経がジリジリと焼き切れてしまいそうだった。 これでも、幼い頃よりはずっとましになった。 精神的にも未熟だった頃は、悪夢を見るたびに呼吸さえままならない状態に陥ることが当たり前だった。 それでも、終わりはいつ訪れるのだろうか。成長と共に発作的なものは治まりつつあったとしても、悪夢だけは消えてくれない。過去が消えないことと同様に。 あの日、あの事故のとき。一緒に逝くことが出来ていたら、今頃はずっと楽だったのだろうか。 雨は嫌いだ。 普段なら考えもしないような最悪な思考が、脳裏にこびり付いて離れなくなるから。 目を閉じた黒鋼に、再び眠りは訪れなかった。 *** 春休みを間近に控えたある日のこと。 梅雨でもないのに、ここ数日はずっと雨が降っていた。黒鋼にとっては気分の晴れない状態が続いている。 そんな中、昼休み前の体育の授業中に怪我人が出た。 黒鋼は授業を終えたその足で、保健室へと向かった生徒の元へ赴いた。 あの週末の出来事以来、流石にあの養護教諭と二人きりで飲みに行くというイベントは起こっていない。こういった業務上の関わり以外で彼と顔を合わせることも、当然避けていた。 肩の傷はほとんど完治していたが、奴はとことん性格の悪い男だと思う。 引き戸を開けると、そこには怪我をした生徒である小狼とその双子の兄小龍、クラスメイトの女子であるさくら、そして勿論、養護教諭がいた。 「あ、黒鋼先生」 双子の兄を除いた三人が同時に声を上げた。 黒鋼はそれに「おう」と短く答えると、皮製の長椅子に腰掛ける小狼の側へと歩み寄った。 「どうなんだ」 「擦りむいた肘は掠り傷ですよ。右足はちょっと腫れが酷いですけど……軽い捻挫です」 小狼の足元に膝をついて、その裸足の足首に包帯を巻きながら、ファイが答えた。 体操着姿のさくらが、小狼の側に寄り添うように腰掛けながらほっと息をついた。怪我をした当人よりもずっと青い顔をしていたようだが、安心して気が抜けたのか、少し涙ぐみながらも弱々しく笑顔を見せた。 ジャージ姿の兄の方は、ファイの隣に佇んだまま腕組みをしている。こちらは表情が読み取れない。 「はい、終わり。一週間くらい安静にしていれば大丈夫だよ」 「ありがとうございます……」 黒鋼は俯いて表情を曇らせている小狼が気になった。この生徒は兄の方よりおっとりしているが、極端に思いつめる性質もあるようだった。 案の定、彼はゆるゆると顔を上げると、深く思いつめた表情で黒鋼を見た。 「黒鋼先生……おれ……」 「落ち込むくらいならとっとと治せ。なっちまったもんはしょうがねぇだろ」 「でも……」 「小狼君……?」 再び俯いた小狼に、さくらが不安そうな表情でその肩に触れた。 今回の事故は、確かに彼にしては珍しいことだった。授業中のバスケの試合で、小狼はどこかムキになって走り回り、結果相手チームの生徒と派手に衝突して引っくり返ったのだ。 幸い相手の生徒には掠り傷一つなかったが、怪我をしたことにより部活動にまで支障を来たすことを、彼なりに酷く後悔しているのだろう。 小狼は、黒鋼が顧問を務める剣道部に所属するエースだった。 黒鋼はさらに彼へと歩み寄ると、少し乱暴にその頭をグシャグシャと撫でた。 申し訳なさそうな表情で顔を上げた小狼に、ひょいと片眉を上げて見せた。すると、それをただ黙って眺めていた小龍が落ち着いた口調で言った。 「普段からやっているスポーツじゃないんだ。張り合っても仕方がないだろう?」 「……うん……ごめん」 ああなるほど。黒鋼は合点がついた。 兄の方はバスケ部に所属しており、本日の授業では小狼の相手チームにいた。 黒鋼は一人っ子だから分からないが、兄弟がいて、しかもそれが双子であれば、勝負事に関してムキになってしまうこともあるのかもしれない。 おっとりしているように見えるが、竹刀を持った瞬間の彼は顔つきが精悍なものに変わる。小狼がその内面に負けん気の強さを備えていることを、黒鋼もよく知っていた。 「とにかくだ。部活も体育もしばらく見学だ。それでいいだろう?」 チラリと視線を落とせば、見上げてきたファイがニコリと笑った。 「でも、春休みに入ったらすぐ練習試合が……!」 僅かに身を乗り出して言い募ろうとする小狼だったが、その瞬間ファイが包帯の巻かれた足首にそっと触れた。 「あのね、小狼君」 「ファイ先生……?」 「無理をして辛い思いをするのは君だけじゃないんだ。その姿を見て悲しむ人が側にいることを、忘れてはいけないよ」 「ぁ……」 小狼は小さな声をあげて、腕組みをして目を閉じている兄を見た。それから、傍らに寄り添うさくらを見やる。 「小狼君……」 さくらは目元を赤くして、瞳に涙を浮かべていた。それを見て、小狼がぐっと息を詰める。 彼にとっておそらく彼女の存在は特別なものなのだろう。 けれど黒鋼は、優しく微笑むファイの横顔が気にかかって仕方がなかった。 生徒を見守る慈愛に満ちたその瞳の柔らかさに、不覚にも黒鋼まで心が和らぐのを感じてしまう。 窓の外は相変わらず雨が降っていて、黒鋼の胸はどんよりと重たいままだったはずなのに。 そして何より、ずっと表裏のある胡散臭い男だと感じていた彼が放った言葉に、嘘偽りがあるとは思えなかった。ますます、彼という存在が不明瞭になっていく。 黒鋼が知っているだけでもこの男には二つの顔がある。他にもあるのだろうか。一体どれを信じればいいのだろう。 小狼は再びファイに向き合うと、項垂れて「ごめんなさい」と言った。ファイはこくりと頷いた。 「おれは悲しんだりはしないけどな」 「?」 冷ややかな小龍の声がして、一同が彼を見やる。小龍は厳しい表情で拳を握るとガッツポーズをするようにそれを掲げた。それから、不敵な笑みを浮かべる。 「悲しむより、お仕置きだ」 「に、兄さん……」 困り顔の小狼を見て、ファイとさくらが声を揃えて笑っていた。 その後、次の授業へと向かった3人を見送ったファイは「双子なのに、中身はぜんぜん違うんですねぇ」と感心したように言った。 *** 雨が止んだのは、その翌日のことだった。 晴れ渡った空を間近で見たかった黒鋼は、授業のない空いた時間を見計らって、北校舎の屋上へと向かった。 そこへと続く扉は基本的に立ち入り禁止であるが、以前偶然に鍵が壊れていることに気がついて以来、ごく稀にではあるが密かに利用していた。 重々しいそれをゆっくりと開けると、陽の光が一気に飛び込んでくる。手を翳して一瞬それを遮った。 やがて徐々に慣れてきた瞳を見開けば、青い空と、そして軽快にはためく白衣の背中が見えた。 どうして彼がここに。だが黒鋼はさほど驚きはしなかった。 得体の知れない男。だから、神出鬼没だったとしてもおかしくはない。 彼は、背後でガチャリと扉が閉まる音が聞こえたのか、ゆっくりと金髪を揺らしながら振り向いた。 「奇遇ですね」 顔を顰めている黒鋼の姿を見とめると、彼は天使のような微笑を浮かべた。 「ここは立ち入り禁止だ。なんでいやがる」 「黒鋼先生だって」 「うるせぇ。見回りだ」 「青空が見たかったんです」 適当な嘘をついた黒鋼を気にする素振りもなく、ファイは青空を見上げた。 「雨上がりの空って、どうしてこんなに綺麗なんでしょうね?」 風に乗って、金髪が美しく揺らめく。その横顔は、保健室で黒鋼を癒したあの穏やかなものと同じだった。 「見てるとなんだか……」 けれど、その表情は彼が再び黒鋼を見る頃には一変していた。 あの笑顔だ。月明かりの部屋と、そして人気の失せた廊下で見せた、あの。 「吐き気がしてこない?」 「……てめぇは一体誰なんだ?」 ついに、黒鋼は問うた。 春の香りを乗せた風が、今は冬のそれよりもずっと冷たく頬を撫でる。 「ボクはボクですよ?」 「だったらあの夜のことを説明しやがれ」 きつく睨みつければ、ファイはすかさずわざとらしいほど爽やかな笑みを見せた。一見すればそれは、普段見せるものと変わりなく思える。けれど纏うオーラが異なることを、黒鋼は知っている。 「これは夢だと、あの晩てめぇは言ったな」 「さぁ?」 「ならなんであんな傷なんか残しやがった? あれがてめぇの本性か?」 夢だと言いながら、確かな痕跡を残したファイ。傷が癒えたあとも、ふとした瞬間ズキリと痛む。まるで消えることのない刻印を刻まれたかのように。 「……だって君は、最初から見抜いてたんでしょう?」 笑みの形を作る瞳が、酷く冷たい。まるで蔑まれているようだと感じた。 けれどそれはすぐに、どこかうっとりとしたように潤む。 「君みたいな人は初めてだ」 その台詞は、あの夜にも一度聞いたような気がする。嫌でも思い出す、あの赤い舌と唇。 「オレはね、オレに関わる全ての人に、幸せになって欲しいだけなんだよ」 この瞬間から、黒鋼とファイの秘密の関係が幕を開けたのだった。 ←戻る ・ 次へ→
横転した車。空に向かって虚しく回り続けていたタイヤが軋むような音を立て、やがて停止する。
割れたガラスの破片が、不規則に点滅するライトに光り輝いていた。
歪で大きさの違う石が幾つも転がる中、投げ出されている腕は肘から上がない。腕だけが、ただ置き去りにされたオモチャのように転がっている。
それは左腕だった。薬指にはめられた指輪が、ガラスの破片が光るのと同じように、キラキラと輝いているのが見えた。
そこからどす黒い血が、細かな砂利の合間を縫って蛇のように波打っている。それは横転した車の下からも、どろどろと止め処なく流れ出していた。
黒鋼の腕の中にある血塗れの身体は、手足が有り得ない方向へと折れ曲がっていた。その泥に汚れた左手にも、同じように指輪がはめられている。
必死でそれを掻き抱きながら、ゆっくりと、けれど確実に熱が失われてゆくのをただ震えながら感じていた。
血は赤く、温かなものだとばかり思っていた。そして、雨は全てを洗い流してくれるものだと。
その何もかもが間違っていたなんて、知りたくなかった。
幼い黒鋼の声にならない無様な悲鳴は、無慈悲な曇天を切り裂くことさえ、当たり前のように出来はしなかった。
***
「ッ……!」
悪夢からの目覚めは、やはり最悪だった。
夜の闇の中、激しい雨音によって誘発されたそれに、黒鋼は汗だくになった身を起こす。
心臓の音が身体の中で小刻みに、けれど大音響で刻まれている。酷く喉が渇いているけれど、まるで手足に重石でも括りつけられているかのような感覚に、これ以上動く気になれない。
胸の辺りを押さえながら、再び身体を横たえる。耳障りな雨音に、過敏になっている神経がジリジリと焼き切れてしまいそうだった。
これでも、幼い頃よりはずっとましになった。
精神的にも未熟だった頃は、悪夢を見るたびに呼吸さえままならない状態に陥ることが当たり前だった。
それでも、終わりはいつ訪れるのだろうか。成長と共に発作的なものは治まりつつあったとしても、悪夢だけは消えてくれない。過去が消えないことと同様に。
あの日、あの事故のとき。一緒に逝くことが出来ていたら、今頃はずっと楽だったのだろうか。
雨は嫌いだ。
普段なら考えもしないような最悪な思考が、脳裏にこびり付いて離れなくなるから。
目を閉じた黒鋼に、再び眠りは訪れなかった。
***
春休みを間近に控えたある日のこと。
梅雨でもないのに、ここ数日はずっと雨が降っていた。黒鋼にとっては気分の晴れない状態が続いている。
そんな中、昼休み前の体育の授業中に怪我人が出た。
黒鋼は授業を終えたその足で、保健室へと向かった生徒の元へ赴いた。
あの週末の出来事以来、流石にあの養護教諭と二人きりで飲みに行くというイベントは起こっていない。こういった業務上の関わり以外で彼と顔を合わせることも、当然避けていた。
肩の傷はほとんど完治していたが、奴はとことん性格の悪い男だと思う。
引き戸を開けると、そこには怪我をした生徒である小狼とその双子の兄小龍、クラスメイトの女子であるさくら、そして勿論、養護教諭がいた。
「あ、黒鋼先生」
双子の兄を除いた三人が同時に声を上げた。
黒鋼はそれに「おう」と短く答えると、皮製の長椅子に腰掛ける小狼の側へと歩み寄った。
「どうなんだ」
「擦りむいた肘は掠り傷ですよ。右足はちょっと腫れが酷いですけど……軽い捻挫です」
小狼の足元に膝をついて、その裸足の足首に包帯を巻きながら、ファイが答えた。
体操着姿のさくらが、小狼の側に寄り添うように腰掛けながらほっと息をついた。怪我をした当人よりもずっと青い顔をしていたようだが、安心して気が抜けたのか、少し涙ぐみながらも弱々しく笑顔を見せた。
ジャージ姿の兄の方は、ファイの隣に佇んだまま腕組みをしている。こちらは表情が読み取れない。
「はい、終わり。一週間くらい安静にしていれば大丈夫だよ」
「ありがとうございます……」
黒鋼は俯いて表情を曇らせている小狼が気になった。この生徒は兄の方よりおっとりしているが、極端に思いつめる性質もあるようだった。
案の定、彼はゆるゆると顔を上げると、深く思いつめた表情で黒鋼を見た。
「黒鋼先生……おれ……」
「落ち込むくらいならとっとと治せ。なっちまったもんはしょうがねぇだろ」
「でも……」
「小狼君……?」
再び俯いた小狼に、さくらが不安そうな表情でその肩に触れた。
今回の事故は、確かに彼にしては珍しいことだった。授業中のバスケの試合で、小狼はどこかムキになって走り回り、結果相手チームの生徒と派手に衝突して引っくり返ったのだ。
幸い相手の生徒には掠り傷一つなかったが、怪我をしたことにより部活動にまで支障を来たすことを、彼なりに酷く後悔しているのだろう。
小狼は、黒鋼が顧問を務める剣道部に所属するエースだった。
黒鋼はさらに彼へと歩み寄ると、少し乱暴にその頭をグシャグシャと撫でた。
申し訳なさそうな表情で顔を上げた小狼に、ひょいと片眉を上げて見せた。すると、それをただ黙って眺めていた小龍が落ち着いた口調で言った。
「普段からやっているスポーツじゃないんだ。張り合っても仕方がないだろう?」
「……うん……ごめん」
ああなるほど。黒鋼は合点がついた。
兄の方はバスケ部に所属しており、本日の授業では小狼の相手チームにいた。
黒鋼は一人っ子だから分からないが、兄弟がいて、しかもそれが双子であれば、勝負事に関してムキになってしまうこともあるのかもしれない。
おっとりしているように見えるが、竹刀を持った瞬間の彼は顔つきが精悍なものに変わる。小狼がその内面に負けん気の強さを備えていることを、黒鋼もよく知っていた。
「とにかくだ。部活も体育もしばらく見学だ。それでいいだろう?」
チラリと視線を落とせば、見上げてきたファイがニコリと笑った。
「でも、春休みに入ったらすぐ練習試合が……!」
僅かに身を乗り出して言い募ろうとする小狼だったが、その瞬間ファイが包帯の巻かれた足首にそっと触れた。
「あのね、小狼君」
「ファイ先生……?」
「無理をして辛い思いをするのは君だけじゃないんだ。その姿を見て悲しむ人が側にいることを、忘れてはいけないよ」
「ぁ……」
小狼は小さな声をあげて、腕組みをして目を閉じている兄を見た。それから、傍らに寄り添うさくらを見やる。
「小狼君……」
さくらは目元を赤くして、瞳に涙を浮かべていた。それを見て、小狼がぐっと息を詰める。
彼にとっておそらく彼女の存在は特別なものなのだろう。
けれど黒鋼は、優しく微笑むファイの横顔が気にかかって仕方がなかった。
生徒を見守る慈愛に満ちたその瞳の柔らかさに、不覚にも黒鋼まで心が和らぐのを感じてしまう。
窓の外は相変わらず雨が降っていて、黒鋼の胸はどんよりと重たいままだったはずなのに。
そして何より、ずっと表裏のある胡散臭い男だと感じていた彼が放った言葉に、嘘偽りがあるとは思えなかった。ますます、彼という存在が不明瞭になっていく。
黒鋼が知っているだけでもこの男には二つの顔がある。他にもあるのだろうか。一体どれを信じればいいのだろう。
小狼は再びファイに向き合うと、項垂れて「ごめんなさい」と言った。ファイはこくりと頷いた。
「おれは悲しんだりはしないけどな」
「?」
冷ややかな小龍の声がして、一同が彼を見やる。小龍は厳しい表情で拳を握るとガッツポーズをするようにそれを掲げた。それから、不敵な笑みを浮かべる。
「悲しむより、お仕置きだ」
「に、兄さん……」
困り顔の小狼を見て、ファイとさくらが声を揃えて笑っていた。
その後、次の授業へと向かった3人を見送ったファイは「双子なのに、中身はぜんぜん違うんですねぇ」と感心したように言った。
***
雨が止んだのは、その翌日のことだった。
晴れ渡った空を間近で見たかった黒鋼は、授業のない空いた時間を見計らって、北校舎の屋上へと向かった。
そこへと続く扉は基本的に立ち入り禁止であるが、以前偶然に鍵が壊れていることに気がついて以来、ごく稀にではあるが密かに利用していた。
重々しいそれをゆっくりと開けると、陽の光が一気に飛び込んでくる。手を翳して一瞬それを遮った。
やがて徐々に慣れてきた瞳を見開けば、青い空と、そして軽快にはためく白衣の背中が見えた。
どうして彼がここに。だが黒鋼はさほど驚きはしなかった。
得体の知れない男。だから、神出鬼没だったとしてもおかしくはない。
彼は、背後でガチャリと扉が閉まる音が聞こえたのか、ゆっくりと金髪を揺らしながら振り向いた。
「奇遇ですね」
顔を顰めている黒鋼の姿を見とめると、彼は天使のような微笑を浮かべた。
「ここは立ち入り禁止だ。なんでいやがる」
「黒鋼先生だって」
「うるせぇ。見回りだ」
「青空が見たかったんです」
適当な嘘をついた黒鋼を気にする素振りもなく、ファイは青空を見上げた。
「雨上がりの空って、どうしてこんなに綺麗なんでしょうね?」
風に乗って、金髪が美しく揺らめく。その横顔は、保健室で黒鋼を癒したあの穏やかなものと同じだった。
「見てるとなんだか……」
けれど、その表情は彼が再び黒鋼を見る頃には一変していた。
あの笑顔だ。月明かりの部屋と、そして人気の失せた廊下で見せた、あの。
「吐き気がしてこない?」
「……てめぇは一体誰なんだ?」
ついに、黒鋼は問うた。
春の香りを乗せた風が、今は冬のそれよりもずっと冷たく頬を撫でる。
「ボクはボクですよ?」
「だったらあの夜のことを説明しやがれ」
きつく睨みつければ、ファイはすかさずわざとらしいほど爽やかな笑みを見せた。一見すればそれは、普段見せるものと変わりなく思える。けれど纏うオーラが異なることを、黒鋼は知っている。
「これは夢だと、あの晩てめぇは言ったな」
「さぁ?」
「ならなんであんな傷なんか残しやがった? あれがてめぇの本性か?」
夢だと言いながら、確かな痕跡を残したファイ。傷が癒えたあとも、ふとした瞬間ズキリと痛む。まるで消えることのない刻印を刻まれたかのように。
「……だって君は、最初から見抜いてたんでしょう?」
笑みの形を作る瞳が、酷く冷たい。まるで蔑まれているようだと感じた。
けれどそれはすぐに、どこかうっとりとしたように潤む。
「君みたいな人は初めてだ」
その台詞は、あの夜にも一度聞いたような気がする。嫌でも思い出す、あの赤い舌と唇。
「オレはね、オレに関わる全ての人に、幸せになって欲しいだけなんだよ」
この瞬間から、黒鋼とファイの秘密の関係が幕を開けたのだった。
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