2025/09/18 Thu 梅雨が明け、季節が夏へと移り変わろうとする頃には、黒鋼はファイにすっかり懐かれてしまっていた。 学校での余所余所しさや屋上でのサボりは相変わらずだが、彼は今や週末に余裕があるときには黒鋼の家に酒を持ってきたり、料理を作りにやってくるようになった。 ファイは普段の謙虚で遠慮がちな態度が嘘のようにズケズケと黒鋼の生活空間の中に入り込み、あっさりその風景に溶け込んだ。 黒鋼にしてみれば最初こそ面食らったものの、彼が持って来る酒は高価なものばかりだったし、プロ並の料理の腕を見せられては文句の一つも言う気が失せた。 出会った当時は、例え仕事上の関係だったとしても片時も顔を合わせていたくなかったのが、まるで嘘のようだ。 餌付けをされてしまったのだろうかと、ふと情けなくなることもある。 ファイがよく顔を出すようになった当初、酒についても聞いてみた。弱いどころかとんだ酒豪じゃねぇかと。 ファイは笑いながら、「お酒が入ると癖が悪くなるんだよ」と言った。 その癖の悪さを身体で覚えこまされた経験のある黒鋼は、やっぱり何も言うことが出来なかった。 *** 狭い畳のワンルームには、ほのかに甘い醤油の香りが満ちていた。 扇風機が首を振る度に、それがふわりふわりと増してゆくような気がする。 窓際のベッドに胡坐をかいてビールの缶をあおり、味噌汁の出汁をとるのに使ったスカスカの煮干を野良猫に放ってやりながら、黒鋼は台所に立つ痩せた背中をぼんやりと眺めた。 いつ見ても妙な感じだ。 最初にここへ酒を持ってやって来たファイは、ほとんど空っぽの冷蔵庫を見て不満そうに唇を尖らせた。 以来、週末に訪れる日は必ず黒鋼の携帯にメールを寄越すようになった。『何が食べたい?』というハートマークつきのメッセージを学校内で見てしまうと、思わず咳き込んでしまう。 そして本日のメニューは肉じゃがだった。基本的にはどんなジャンルでも選り好みせずに腹に収める黒鋼だったが、やはり和食は大好物だ。 ファイは洋食を得意としているようだったが、それでも一つ返事で了承した。 無意識に、犬のようにスンと鼻を鳴らす。ベッドから離れると飲みかけの缶をテーブルに置いて、台所へ向かうとファイの隣に並んだ。 「もうちょっとで出来るよー」 ファイは味噌汁の味を見ながら黒鋼の方へは目を向けずに言った。コンロの火を止めてから、年代モノの炊飯器のランプを確認する。 「ご飯ももうちょっと蒸らせばオッケー」 そしてじっくりと煮込まれた肉じゃがの鍋を開けた。これまでの非ではないくらい、胃袋を刺激するいい香りが一気に広がった。 「うまいもんだな」 それを皿に盛り付け始めたファイに、黒鋼は腕を組んで思わず呟いた。 「味は保障できないけどねー。和食はあんまり作らないからなぁ」 「別に問題ねぇだろ」 黒鋼は彼の料理の腕前に全幅の信頼を寄せている。これまでも、何をリクエストしても外したことがなかったからだ。 ファイはそれまでずっと手元から離さなかった視線を黒鋼に向ける。そして、目をぱちくりとさせた。 「なんだよ」 「いやぁ、黒たん先生に信頼されてるんだなぁって思うと嬉しくて」 黒鋼は咄嗟に咳払いをした。深く眉間に皺を寄せると、ファイはへにゃりと笑った。最近、彼はこういう笑い方もする。子供っぽくて、綿菓子のような笑顔だった。 黒鋼は、今のファイを比較的気に入っている。なんとなく、自然に呼吸が出来るような気がしていた。それこそ、昔から知っている仲のような、そんな居心地の良さだった。 もしかすれば、本当はずっと昔に会っているのではないか。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えたりもする。 けれどそれを本人には決して言わない。思わず頬が熱くなりかけて、黒鋼は慌てて「うるせぇ!」と怒鳴った。 「しかもその呼び方は止めろって言ってんだろうが!」 「はいはい、零しちゃうから静かにしてねー。あ、お味噌汁よそってくれるー?」 ファイはニコニコしながら再び視線を手元に戻した。歌うような喋り方である。 黒鋼は舌打ちをしつつ、あらかじめ用意されていた二つの椀に湯気の立つ味噌汁をよそう。背の高い男が二人も並ぶと、狭い台所はさらに余裕がなくなってしまう。 肉じゃがを盛り付けるファイと、味噌汁をよそう黒鋼の肘が時折ぶつかる。 一体なんだろうかこの感じは。どうしてこんなに和やかに、この男と過ごしているのだろう。 妙な照れ臭さが引き続き黒鋼の動作を乱暴にして、椀の縁を汚す。 「あーもうー! ちゃんと綺麗によそってよー」 「だからうるせぇんだよてめぇは。オカンか」 「こんな目付きが悪くて、デカくて乱暴な子供のお母さんにはなりたくないなぁ。あ、それにオレの職業はオカンじゃなくて、保健室の先生だよ」 「知ってんだよそんなこたぁ」 それからもグダグダと言い合いつつ、テーブルに全ての料理を並べて二人揃って食べ始めた。 「てめぇは養護教諭より料理人の方が向いてんじゃねぇのか」 美味い、と言う代わりに嫌味のつもりの台詞を吐くと、ファイはジャガイモを飲み込んでから「そうなんだよ」と言う。 「オレ、子供の頃はコックさんになりたかったんだ」 「なればよかったじゃねぇか」 「それもそうだよねぇ。あ、どうしてコックさんになりたかったかというとねー、無人島に行ったときに便利かと思ったんだよ」 「ああ?」 「オレね、冒険家にもなりたかったの。ほら、料理の知識や腕があったらさ、無人島でも色んな食材を見つけて、プロ並の調理が出来るかなぁって」 「……阿呆か」 「アホだよねー」 朗らかに、ファイが笑った。 *** 食欲も満たされて、酒も入ればほとんどの場合することは一つだった。 黒鋼は自分の性癖についてを深く考えたことがない。至ってノーマルであることが当たり前すぎたからだった。 ゆえにあの歓迎会の夜、初めて男を相手にセックスをしたことになる。 不快感はなかった。もっとも、あの行為の最中は考える余裕もなければ、快感以外のものを抱くヒマもなかったのだが。 意図せず飛び越えたハードルは、信じられないことにその後も彼とセックスをすることに対しての抵抗を黒鋼から拭い去っていた。 「く、ぁ……!」 小さく堪えた声が、黒鋼の耳朶を刺激している。 ここが壁の薄い安アパートであることを熟知している彼は、どれほど乱れようともそれを噛み締め、堪えてしまう。 胡坐をかく黒鋼に、向かい合う形で細い身体が必死にしがみついてくる。その腰を強く抱いて小刻みに揺らすと、ファイは自らも腰を揺らしながら幾度か首を振った。 彼をこうして抱くようになってから、黒鋼はあることを知った。 「ッ……!」 肩に焼けるような痛みを感じる。ファイは、声を我慢する代わりにそこに歯を立てるということ。 幾度も同じ場所に噛み痕をつけられて、やがて血が滲んでくる頃には桜色の唇が紅を引いたかのようにうっすらと染まる。 あの夜、黒鋼はこれを見たのだと思う。 「ひ、ん……ッ、ぁ、くぅ、ん……!」 甘く掠れた吐息だけで、ファイは「くろがね」と呼んだ。思わず腰から下が砕けそうになって、悔しさに舌打ちをする。 ビクリと身体を震わせ、喘ぎまじりにファイが笑った。 「んんっ……! ぁ、ふふ、おっきくしないでよ……」 「知るか」 「我慢、するの……ッ、大変、なんだよ……?」 「だったら好きなだけ噛んでりゃいいだろ」 痛みさえ快感に変わるということも、黒鋼は初めて知った。 そして同時に、こうして抱き合ったあと彼の温もりを感じながら眠る夜は、例えどんなに激しい雨が降っていたとしても、夢も見ずに眠れることを、知った。 *** 穏やかで紳士的な普段の様子から一変して、無邪気な子供のように振舞うかと思えば、引く手数多の悪女のような顔も見せる男。そのどれもが偽物に見えるし、真実にも思える。 そんな彼との濃密な時間で、知ることもあれば疑問もまた同時に膨らんでいた。 「慣れてんだな」 これまでも幾度も思った。その度に聞く機会を逃していた。 当たり前のように男を受け入れる男。けれど時折二人でテレビを眺めていれば、彼は好みの女優を指差して「こーゆうお嫁さんが欲しいなぁ」と目尻を下げることもあった。 要するに、どちらもイケるということは分かる。 だが今やそのどちらも知ってしまった黒鋼は、この男以外の男を抱けるかと問われれば、おそらく答えはノーだった。 「んー?」 狭いベッドの上で黒鋼の横でうつ伏せになっていたファイが、肘をついてこちらを見ると小首を傾げる。 「男の人とするってことー?」 「それ以外になにがあんだよ」 ぶっきらぼうな口調は、自然とどこか不貞腐れたような色を帯びてしまった。 「別にオレ、男が好きなわけじゃないよ?」 ファイが変に勘ぐってからかってこないことに密かに安堵しつつ、黒鋼は眉を寄せる。 「好きでもねぇのにセックスはするのか」 「そうだねぇ……。相手にもよるけど」 なら自分は合格だったということか。良いことなのか悪いことなのか、判断は難しい。 「まぁ切欠は強姦だったんだけどね」 「あ?」 まるで何でもないことのようにサラリと物騒なことを言ってのけたファイは、そのときのことを思い出しているのか、薄ぼんやりとした天井を見上げている。 けれどその表情には悲壮感が一切ない。ふとした瞬間、思い出に浸るかのような何気なさだった。 「高校生のときにね。放課後、担任の先生がいきなり襲ってきて」 「……やられちまったってか」 「うん、そう」 ケロリと頷くファイに、黒鋼は驚きも哀れみも通り越してただ、呆れた。 「抵抗できなかったのかてめぇは……」 「うーん。最初はビックリしてちょっとだけしたけど。でもすぐに止めた」 「どういうことだ」 「ほんとは殴るなり蹴っ飛ばすなりしたかったんだけどねぇ。それやっちゃうとさー、せっかく儚げで気の弱そうな優等生を演じてたのが台無しじゃない? それに、オレその先生のこと別に嫌いじゃなかったし」 呆れも限界まで来ると少々腹が立ってくる。そこまでしなければならない理由が、一体どこにあるというのか。 「猫っかぶりがそんなに大事か」 へにゃりと、ファイが笑った。 「大事だよ。その方がみんな幸せでしょ?」 「大馬鹿野郎」 彼が拘る意味が分からない。分かりたくもない。身体は繋がることが出来ても、この男とは住んでいる世界に大きな隔たりがあるように感じた。 それでも、黒鋼はどうしても気にかかって仕方がないことがあった。答えが得られるかどうかは別としても。 「なんで俺にはいいんだよ」 今の振る舞いが素であるかどうかは分からない。ただ少なくとも猫はかぶっていない。それだけは確かだ。 「だって君には初めて会ったときから通用してなかったじゃない。一回もバレたことなかったのになぁ。ねぇなんで?」 「知るか」 馬鹿馬鹿しくなって、黒鋼はファイに背を向けた。今夜はまだ一度しかしていないが、興が殺がれた。 けれどファイは黒鋼の肩に圧し掛かるようにして顔を覗きこんできた。 「俺ぁもう寝るぞ」 「ねぇねぇ、怒った? ヤキモチとかさー」 ムッとする。決して認めたくはないが、怒ってはいる。これがまともな人間が相手だったなら、もっと自分を大切にしろとか、有体な言葉くらいはかけたかもしれない。 だが焼きもちというのはいただけない。なぜ自分が強姦教師を(結果的には和姦のようなものだとしても)相手にそんなものを焼かねばならないのか。 面白くない。全くもって面白くない。話の内容以前に、とにかくひたすら面白くなかった。この妙な腹立たしさが自分でも理解できない。 「妬くか。阿呆が」 「ふふ、いいね。こういうのって」 ふざけるなと、黒鋼は思った。 今のファイとの居心地は、決して悪いものではない。だが下手に探ろうとすればするほど、もやもやとしたものや苛々が押し寄せてくる。 彼が飽きるまで、くだらない遊びに付き合ってやっているだけだと割り切れれば、それでいいのだろうか。 「ねぇ先生。遊ぼうよ」 「……うるせぇな」 クスクスと軽やかに笑う声が、皮膚をくすぐる。 一度は冷めかけたものに、危うく火が灯りそうになって黒鋼は乱暴な溜息を零した。 「何がしてぇんだ」 そんなものは一つしかないだろう。けれどあえて問うと、ファイは意外なことを口にした。 「ごっこ遊び。オレと黒たん先生が、恋人って設定」 何を言い出すのだろうか。呆れた黒鋼が首だけをファイに向けると、あの悪女のような性質の悪い笑顔がそこにはあった。 「ゲームだとでも思えばいいんじゃない? どっちかが浮気したり、どっちかが本気になっちゃったら、負け」 人さし指をピストルに見立てたファイが、自らのこめかみをそれで撃ち抜く動作をして見せた。 ←戻る ・ 次へ→
学校での余所余所しさや屋上でのサボりは相変わらずだが、彼は今や週末に余裕があるときには黒鋼の家に酒を持ってきたり、料理を作りにやってくるようになった。
ファイは普段の謙虚で遠慮がちな態度が嘘のようにズケズケと黒鋼の生活空間の中に入り込み、あっさりその風景に溶け込んだ。
黒鋼にしてみれば最初こそ面食らったものの、彼が持って来る酒は高価なものばかりだったし、プロ並の料理の腕を見せられては文句の一つも言う気が失せた。
出会った当時は、例え仕事上の関係だったとしても片時も顔を合わせていたくなかったのが、まるで嘘のようだ。
餌付けをされてしまったのだろうかと、ふと情けなくなることもある。
ファイがよく顔を出すようになった当初、酒についても聞いてみた。弱いどころかとんだ酒豪じゃねぇかと。
ファイは笑いながら、「お酒が入ると癖が悪くなるんだよ」と言った。
その癖の悪さを身体で覚えこまされた経験のある黒鋼は、やっぱり何も言うことが出来なかった。
***
狭い畳のワンルームには、ほのかに甘い醤油の香りが満ちていた。
扇風機が首を振る度に、それがふわりふわりと増してゆくような気がする。
窓際のベッドに胡坐をかいてビールの缶をあおり、味噌汁の出汁をとるのに使ったスカスカの煮干を野良猫に放ってやりながら、黒鋼は台所に立つ痩せた背中をぼんやりと眺めた。
いつ見ても妙な感じだ。
最初にここへ酒を持ってやって来たファイは、ほとんど空っぽの冷蔵庫を見て不満そうに唇を尖らせた。
以来、週末に訪れる日は必ず黒鋼の携帯にメールを寄越すようになった。『何が食べたい?』というハートマークつきのメッセージを学校内で見てしまうと、思わず咳き込んでしまう。
そして本日のメニューは肉じゃがだった。基本的にはどんなジャンルでも選り好みせずに腹に収める黒鋼だったが、やはり和食は大好物だ。
ファイは洋食を得意としているようだったが、それでも一つ返事で了承した。
無意識に、犬のようにスンと鼻を鳴らす。ベッドから離れると飲みかけの缶をテーブルに置いて、台所へ向かうとファイの隣に並んだ。
「もうちょっとで出来るよー」
ファイは味噌汁の味を見ながら黒鋼の方へは目を向けずに言った。コンロの火を止めてから、年代モノの炊飯器のランプを確認する。
「ご飯ももうちょっと蒸らせばオッケー」
そしてじっくりと煮込まれた肉じゃがの鍋を開けた。これまでの非ではないくらい、胃袋を刺激するいい香りが一気に広がった。
「うまいもんだな」
それを皿に盛り付け始めたファイに、黒鋼は腕を組んで思わず呟いた。
「味は保障できないけどねー。和食はあんまり作らないからなぁ」
「別に問題ねぇだろ」
黒鋼は彼の料理の腕前に全幅の信頼を寄せている。これまでも、何をリクエストしても外したことがなかったからだ。
ファイはそれまでずっと手元から離さなかった視線を黒鋼に向ける。そして、目をぱちくりとさせた。
「なんだよ」
「いやぁ、黒たん先生に信頼されてるんだなぁって思うと嬉しくて」
黒鋼は咄嗟に咳払いをした。深く眉間に皺を寄せると、ファイはへにゃりと笑った。最近、彼はこういう笑い方もする。子供っぽくて、綿菓子のような笑顔だった。
黒鋼は、今のファイを比較的気に入っている。なんとなく、自然に呼吸が出来るような気がしていた。それこそ、昔から知っている仲のような、そんな居心地の良さだった。
もしかすれば、本当はずっと昔に会っているのではないか。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えたりもする。
けれどそれを本人には決して言わない。思わず頬が熱くなりかけて、黒鋼は慌てて「うるせぇ!」と怒鳴った。
「しかもその呼び方は止めろって言ってんだろうが!」
「はいはい、零しちゃうから静かにしてねー。あ、お味噌汁よそってくれるー?」
ファイはニコニコしながら再び視線を手元に戻した。歌うような喋り方である。
黒鋼は舌打ちをしつつ、あらかじめ用意されていた二つの椀に湯気の立つ味噌汁をよそう。背の高い男が二人も並ぶと、狭い台所はさらに余裕がなくなってしまう。
肉じゃがを盛り付けるファイと、味噌汁をよそう黒鋼の肘が時折ぶつかる。
一体なんだろうかこの感じは。どうしてこんなに和やかに、この男と過ごしているのだろう。
妙な照れ臭さが引き続き黒鋼の動作を乱暴にして、椀の縁を汚す。
「あーもうー! ちゃんと綺麗によそってよー」
「だからうるせぇんだよてめぇは。オカンか」
「こんな目付きが悪くて、デカくて乱暴な子供のお母さんにはなりたくないなぁ。あ、それにオレの職業はオカンじゃなくて、保健室の先生だよ」
「知ってんだよそんなこたぁ」
それからもグダグダと言い合いつつ、テーブルに全ての料理を並べて二人揃って食べ始めた。
「てめぇは養護教諭より料理人の方が向いてんじゃねぇのか」
美味い、と言う代わりに嫌味のつもりの台詞を吐くと、ファイはジャガイモを飲み込んでから「そうなんだよ」と言う。
「オレ、子供の頃はコックさんになりたかったんだ」
「なればよかったじゃねぇか」
「それもそうだよねぇ。あ、どうしてコックさんになりたかったかというとねー、無人島に行ったときに便利かと思ったんだよ」
「ああ?」
「オレね、冒険家にもなりたかったの。ほら、料理の知識や腕があったらさ、無人島でも色んな食材を見つけて、プロ並の調理が出来るかなぁって」
「……阿呆か」
「アホだよねー」
朗らかに、ファイが笑った。
***
食欲も満たされて、酒も入ればほとんどの場合することは一つだった。
黒鋼は自分の性癖についてを深く考えたことがない。至ってノーマルであることが当たり前すぎたからだった。
ゆえにあの歓迎会の夜、初めて男を相手にセックスをしたことになる。
不快感はなかった。もっとも、あの行為の最中は考える余裕もなければ、快感以外のものを抱くヒマもなかったのだが。
意図せず飛び越えたハードルは、信じられないことにその後も彼とセックスをすることに対しての抵抗を黒鋼から拭い去っていた。
「く、ぁ……!」
小さく堪えた声が、黒鋼の耳朶を刺激している。
ここが壁の薄い安アパートであることを熟知している彼は、どれほど乱れようともそれを噛み締め、堪えてしまう。
胡坐をかく黒鋼に、向かい合う形で細い身体が必死にしがみついてくる。その腰を強く抱いて小刻みに揺らすと、ファイは自らも腰を揺らしながら幾度か首を振った。
彼をこうして抱くようになってから、黒鋼はあることを知った。
「ッ……!」
肩に焼けるような痛みを感じる。ファイは、声を我慢する代わりにそこに歯を立てるということ。
幾度も同じ場所に噛み痕をつけられて、やがて血が滲んでくる頃には桜色の唇が紅を引いたかのようにうっすらと染まる。
あの夜、黒鋼はこれを見たのだと思う。
「ひ、ん……ッ、ぁ、くぅ、ん……!」
甘く掠れた吐息だけで、ファイは「くろがね」と呼んだ。思わず腰から下が砕けそうになって、悔しさに舌打ちをする。
ビクリと身体を震わせ、喘ぎまじりにファイが笑った。
「んんっ……! ぁ、ふふ、おっきくしないでよ……」
「知るか」
「我慢、するの……ッ、大変、なんだよ……?」
「だったら好きなだけ噛んでりゃいいだろ」
痛みさえ快感に変わるということも、黒鋼は初めて知った。
そして同時に、こうして抱き合ったあと彼の温もりを感じながら眠る夜は、例えどんなに激しい雨が降っていたとしても、夢も見ずに眠れることを、知った。
***
穏やかで紳士的な普段の様子から一変して、無邪気な子供のように振舞うかと思えば、引く手数多の悪女のような顔も見せる男。そのどれもが偽物に見えるし、真実にも思える。
そんな彼との濃密な時間で、知ることもあれば疑問もまた同時に膨らんでいた。
「慣れてんだな」
これまでも幾度も思った。その度に聞く機会を逃していた。
当たり前のように男を受け入れる男。けれど時折二人でテレビを眺めていれば、彼は好みの女優を指差して「こーゆうお嫁さんが欲しいなぁ」と目尻を下げることもあった。
要するに、どちらもイケるということは分かる。
だが今やそのどちらも知ってしまった黒鋼は、この男以外の男を抱けるかと問われれば、おそらく答えはノーだった。
「んー?」
狭いベッドの上で黒鋼の横でうつ伏せになっていたファイが、肘をついてこちらを見ると小首を傾げる。
「男の人とするってことー?」
「それ以外になにがあんだよ」
ぶっきらぼうな口調は、自然とどこか不貞腐れたような色を帯びてしまった。
「別にオレ、男が好きなわけじゃないよ?」
ファイが変に勘ぐってからかってこないことに密かに安堵しつつ、黒鋼は眉を寄せる。
「好きでもねぇのにセックスはするのか」
「そうだねぇ……。相手にもよるけど」
なら自分は合格だったということか。良いことなのか悪いことなのか、判断は難しい。
「まぁ切欠は強姦だったんだけどね」
「あ?」
まるで何でもないことのようにサラリと物騒なことを言ってのけたファイは、そのときのことを思い出しているのか、薄ぼんやりとした天井を見上げている。
けれどその表情には悲壮感が一切ない。ふとした瞬間、思い出に浸るかのような何気なさだった。
「高校生のときにね。放課後、担任の先生がいきなり襲ってきて」
「……やられちまったってか」
「うん、そう」
ケロリと頷くファイに、黒鋼は驚きも哀れみも通り越してただ、呆れた。
「抵抗できなかったのかてめぇは……」
「うーん。最初はビックリしてちょっとだけしたけど。でもすぐに止めた」
「どういうことだ」
「ほんとは殴るなり蹴っ飛ばすなりしたかったんだけどねぇ。それやっちゃうとさー、せっかく儚げで気の弱そうな優等生を演じてたのが台無しじゃない? それに、オレその先生のこと別に嫌いじゃなかったし」
呆れも限界まで来ると少々腹が立ってくる。そこまでしなければならない理由が、一体どこにあるというのか。
「猫っかぶりがそんなに大事か」
へにゃりと、ファイが笑った。
「大事だよ。その方がみんな幸せでしょ?」
「大馬鹿野郎」
彼が拘る意味が分からない。分かりたくもない。身体は繋がることが出来ても、この男とは住んでいる世界に大きな隔たりがあるように感じた。
それでも、黒鋼はどうしても気にかかって仕方がないことがあった。答えが得られるかどうかは別としても。
「なんで俺にはいいんだよ」
今の振る舞いが素であるかどうかは分からない。ただ少なくとも猫はかぶっていない。それだけは確かだ。
「だって君には初めて会ったときから通用してなかったじゃない。一回もバレたことなかったのになぁ。ねぇなんで?」
「知るか」
馬鹿馬鹿しくなって、黒鋼はファイに背を向けた。今夜はまだ一度しかしていないが、興が殺がれた。
けれどファイは黒鋼の肩に圧し掛かるようにして顔を覗きこんできた。
「俺ぁもう寝るぞ」
「ねぇねぇ、怒った? ヤキモチとかさー」
ムッとする。決して認めたくはないが、怒ってはいる。これがまともな人間が相手だったなら、もっと自分を大切にしろとか、有体な言葉くらいはかけたかもしれない。
だが焼きもちというのはいただけない。なぜ自分が強姦教師を(結果的には和姦のようなものだとしても)相手にそんなものを焼かねばならないのか。
面白くない。全くもって面白くない。話の内容以前に、とにかくひたすら面白くなかった。この妙な腹立たしさが自分でも理解できない。
「妬くか。阿呆が」
「ふふ、いいね。こういうのって」
ふざけるなと、黒鋼は思った。
今のファイとの居心地は、決して悪いものではない。だが下手に探ろうとすればするほど、もやもやとしたものや苛々が押し寄せてくる。
彼が飽きるまで、くだらない遊びに付き合ってやっているだけだと割り切れれば、それでいいのだろうか。
「ねぇ先生。遊ぼうよ」
「……うるせぇな」
クスクスと軽やかに笑う声が、皮膚をくすぐる。
一度は冷めかけたものに、危うく火が灯りそうになって黒鋼は乱暴な溜息を零した。
「何がしてぇんだ」
そんなものは一つしかないだろう。けれどあえて問うと、ファイは意外なことを口にした。
「ごっこ遊び。オレと黒たん先生が、恋人って設定」
何を言い出すのだろうか。呆れた黒鋼が首だけをファイに向けると、あの悪女のような性質の悪い笑顔がそこにはあった。
「ゲームだとでも思えばいいんじゃない? どっちかが浮気したり、どっちかが本気になっちゃったら、負け」
人さし指をピストルに見立てたファイが、自らのこめかみをそれで撃ち抜く動作をして見せた。
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