2025/09/18 Thu がんばる、などと言って一体なにをがんばるのやら、それでも黒鋼はファイのいじらしさが愛しくて仕方がなかった。 憎まれ口を叩いたものの、これで期待しない男はいっそ男ではない。 結果うまくいかなかったとしても気にするつもりもなければ、無理をさせるつもりもなかった。ただ純粋にファイの気持ちが嬉しかった。 だが、気分よく数日の間を過ごしていた黒鋼を苛立たせる出来事が、それからすぐに起こった。 「おい、いるか」 昼休みに気紛れで保健室を覗きこみ、生徒がいないことを確認してから顔を出したときのことだった。 机に向かって何かしらの書類に目を通していたらしいファイが顔を上げ、黒鋼を見たかと思うと即座に顔色を変えた。 「あっと、黒たん先生……」 「おう。どうした?」 「あの、オレちょっと忙しくて」 「?」 「ごめん!」 どこか慌てた様子で机の上のものを纏めると、ファイはそそくさと黒鋼の横を通り抜けて出て行った。 「……あいつ、なんか悪ぃもんでも食ったのか?」 一人ポツンと取り残された黒鋼は小さく呟いた。 ファイは随分と表情が硬く、そして顔色も悪いようだった。 明らかに様子がおかしいと思ったが、けれどそのときの黒鋼はさほど気にはしなかった。 顔を合わせる機会はいくらでもある。そう思っていた。 だがそれはすぐに裏切られることになる。 あれ以来ファイの態度は妙に余所余所しくなり、そしてあからさまに黒鋼と二人きりで顔を合わせることを拒絶しはじめた。 目が合いそうになれば逸らされ、休み時間に保健室へ行っても捕まらない。 黒鋼とて担当の教科もクラスもあれば部活動も受け持っている身であるから、ファイにばかりかまけてもいられない。短い時間を縫ってどうにか人気のない場所で接触を計ろうにも、限度があった。 避けられている。そんな疑問が確信に変わったのは週末、いつものようにファイから来たメールを見たときだった。 『用事ができたから、会えない』 「……がんばるんじゃなかったのか、てめぇは」 黒鋼は重々しい気分で携帯を閉じる。 別にそれに対してばかり期待を寄せていたわけではない。 週末の逢瀬といっても、必ず一緒に過ごせるわけではないが、ファイの不審な振る舞いを見れば、避けられていることは明白だった。 何かしただろうか。彼の気分を損ねるようなことを、何か。 理由に思い当たる点はなく、思い悩むのも面倒に感じた黒鋼は、ただ苛々を募らせる。 来週こそは必ずとっ捕まえて吐かせてやろうと胸に誓った。 だが、結局それも叶わなかった。 ファイはまるで蝶のように、どんなに掴もうとしてもヒラリと身をかわしてしまう。 授業がない時間を利用して保健室へ行っても、そこはやっぱりもぬけの殻だった。あの男は、黒鋼の一日の授業スケジュールを全て把握しているのだろう。 同じ敷地内にいて、会おうと思えばいつだって会えるはずなのに、まるで見えない壁に阻まれているかのように焦れったくて気持ちが悪い。はっきりしないことは大嫌いだった。 やがてさらに一週間が経過したが、週末になってもファイからはメールさえも来なかった。それに関しての理由は知っている。 出張である。黒鋼も経験があるので知っているが、わざわざ他校へ出向いて情報交換やら会議やら、面倒なことこの上ないイベントだが、教師である以上それは避けられないことだ。 *** さらに一週間が経過しようとしていた。 ファイに避けられるようになってから、三週間近くが過ぎようとしている。 気の短い自分が、よくぞここまでもったと思う。 今、黒鋼は苛々を限界まで膨らませながら雪のチラつく夜道を足早に歩いていた。 ジャケットのポケットに手を入れれば、自宅の鍵と一緒にファイの部屋の合鍵がチャリチャリと音を立てる。黒鋼は、それをぎゅっと握り締めた。 これまでも幾度か足を運ぼうとしたことがある。その方が手っ取り早いからだ。 だが、なんだかんだで黒鋼はファイの方からコンタクトを取ってくると信じていた。意味もなく拒絶されるはずがない。記憶の箱をどう引っくり返そうとも、黒鋼には心当たりがさっぱりなかった。 避け続けるには普段からあまりにも近い場所に互いがいすぎる。やがて限界は訪れるだろうと構えていた。 けれど、三週目にしてファイからの連絡はいよいよなかった。 そしてついに、黒鋼はキレた。 「あの野郎……ぶん殴ってでも吐かせてやる」 低く呟いた黒鋼に、擦れ違ったカップルがビクリと肩を震わせた。だがそんなものを気にする余裕はない。 もしまたあの男が妙なことで思いつめているのだとしたら。そして、それを切欠にまた馬鹿なことをされたのでは、むしろこちらの寿命がいくらあっても足りない。 黒鋼の脳内に、屋上から飛び降りたファイの姿が蘇る。思い出すだけで背筋が凍りつくような感覚に、黒鋼は気温の低さ以前に微かに震えた。 「もうあんな思いはうんざりだってんだ……っ」 もう何も、失うつもりはなかった。 *** 扉にチェーンはかかっていなかった。 合鍵を使って中に入り込むと、流石に物音で察したのかファイが恐々と玄関を覗き込んで、そして顔を青くした。 「く、黒様先生」 「邪魔するぜ」 靴を脱ぎ、ジャケットに手をかけながら返答も待たずにズカズカと上がりこんだ。 黒鋼を見て顔を青くする以前に、ファイは異常なまでに肌が青白かった。元々彼は色白だが、おそらく原因は室内の温度にあるようだ。 外ほどとはいわないが、この部屋はあきらかに暖房が死んでいる。 白いシャツに黒のパンツというラフな姿で立ち尽くす彼の横を通って、リビングのソファに脱いだジャケットを放り投げると、どっかりと腰を下ろした。そしてテーブルの上にあるリモコンを勝手にいじる。電子音と共に、エアコンが微かな起動音を立て始めた。 立ち尽くしたままのファイをジロリと睨む。 「雪降ってんぞ。暖房くらいつけろ」 「あ……うん……。入れるの忘れてた」 目を逸らしながらボソリと返事を返すファイは、唇を噛むとのろのろとキッチンへ向かう。湯を沸かし、茶を淹れはじめる一連の動作を黒鋼はただ黙って見守った。 顔を合わせたら、すぐにでも胸倉を掴んでやろうと思っていた。けれど、いざ顔を見ると本当に殴ってしまいそうでぐっと堪えた。 ファイは気の毒なほどぎこちなく、そして怯えていた。萎縮している相手をさらに追い詰めても仕方がないのだから。 ファイが二人分の茶を淹れたカップを持ってくる頃には、室内はすっかり暖かくなっていた。 テーブルを挟んだ向かいにちょこんと腰を落ち着けたファイは、黒鋼の顔も見ずにただ熱いカップを両手に持って、中身に息を吹きかけ始めた。けれど、口をつける気配はない。 黒鋼も、出されたカップに手はつけなかった。だた、腕を組んで彼を真っ直ぐに見据えた。 やがて沈黙に耐えられなくなったのか、ファイは冷ますだけ冷ましたカップをテーブルに戻した。 「……なんで来たの?」 俯いたまま、黒鋼の顔も見ずにファイが口を開く。蚊の鳴くような、弱々しい口調だった。 「分かってんだろ」 「……なんのこと?」 黒鋼は元々ある眉間の皺をさらに深くした。こんな状況になってもまだ口を割らないファイに、血管が破裂しそうだった。 ファイは無音の空間に堪えられなくなったのか、テレビのリモコンに手を伸ばそうとした。その手を乱暴に掴む。ビクリと震えたファイが、そこで初めて黒鋼と目を合わせた。 「……っ」 「それで話逸らせるとか思ってんのか」 「……思ってない」 「だったら」 「でも……言いたくない。話したくない」 ファイは再び黒鋼から目を逸らした。黒鋼は重々しい溜息を零しながら、彼の手首を開放した。ただ怒鳴りつけるのは簡単だ。けれど、それでこの男が口を割るとは思えなかった。 ファイは難解だ。あの厄介な仮面が取り払われたとしても、何の説明もなしにただ意思を汲み取ってやるには、黒鋼はまだ彼を知り尽くしてはいない。 彼といるのはとても楽だ。ごく自然に呼吸が出来る。だからこそ、忘れてしまいそうになる。今は、ファイが酷く遠い存在に思えた。 出会ったばかりの、あの頃のように。 「気持ちが冷めたんなら、そう言え」 どこか力なく言った。すると、ファイはハッとして勢いよく顔を上げた。そしてすかさず言う。 「そんなことない!!」 どこか諦めムードの黒鋼だったが、思いがけずファイがはっきりとした口調で否定するのを聞いて、僅かに目を見開いた。 ファイはバツの悪そうな顔で唇を噛む。ふと、校舎裏で煙草をふかしている現場を押さえられた、春先の男子生徒を思い出した。 あれは確か、まだ屋上の鍵が壊れていた頃だ。得体が知れなかったファイと、秘密を共有していたあの頃。 今はファイが起こしたあの事件を切欠に、屋上へと続く扉の鍵は硬く閉ざされている。 あのときの生徒と、今のファイは似ているような気がした。 そうだ。こいつはまだガキみたいなもんなんだ。 そう思うと、黒鋼は溜息と共に肩の力を抜いた。だが、苛立ちが静まったわけではない。 「これはもうゲームとは違う。俺はハッキリしねぇことは好かねぇ」 ゲームでさえ、クリアとゲームーバーの線引きがはっきりしている。死ねば終わり。生き残れば、それで終わり。同じ終わりでも、結果だけは大きく違う。 けれどこれはリセットがきく、ただの子供の遊びではない。いい歳をした大人が、本気でしている恋の話だった。 「……」 ファイは何も言わない。ただ傷ついたような表情で唇を噛んでいる。 「だいたい、てめぇの好きにばかりさせとくのも面白くねぇんだよ」 ここまで堪えた。そろそろ甘やかしてばかりもいられなくなったのだ。我侭くらい幾ら聞いてやってもいい。けれど、それとこれとは話が違う。聞ける我侭と、そうじゃないものがある。 黒鋼は腰を浮かせ、乱暴な手つきでファイの胸倉を掴むとそのまま引き上げるようにして立ち上がった。 「だから俺は俺のやり方でやる」 「ッ!?」 そして、息つく間もなく口付けた。 「……ッ! んぅっ!?」 ファイが身を捩りながら黒鋼の腕を両手で掴んだ。けれど彼が激しく抵抗を示すほど、黒鋼はそれを深いものにしてゆく。 こんな風に彼の唇を深く貪るのは、酷く久しぶりのことだった。 ひんやりとした口内に舌を押し込み、奥に縮こまる舌を乱暴に捉えれば、ファイの背筋が震えるのが分かった。 後首に手を滑らせ、金色の髪ごと掴んで固定すれば彼に逃げ道はもうない。 勢いに乗ってさらに口付けを深くしようとしたところで、飲み込みきれなかった唾液にファイが咽た。仕方なしに解放すれば、苦しげに咳を繰り返す彼の顔が、面白いほど赤く染まっている。 それが、単に咽たことによるものでないことを、黒鋼は知っている。 「ッ、ケホッ……! もっ、いきなり……っ」 何するの、と言いたかったのだろうファイが、潤んだ目元で黒鋼を睨み上げた。 「無理矢理されたくなきゃはっきり言え」 「脅す気?」 「そうなるな」 「最低だよ……」 「だからなんだよ」 胸倉を掴み上げられたままのファイは、一度目を閉じて首を左右に振った。 「違う。最低なのはオレ」 「……どういうことだ?」 「君の傷に、触れたくなかった」 「?」 離して、と小声で言ったファイの要求を呑み、胸倉から手を離す。 力が抜けたように再び腰を下ろすのに習って、黒鋼も座る。溜息を一つ零し、白い手が冷めたカップを取ると中身を一口飲んだ。 黒鋼は、彼のその一連の動作をただ黙って見守った。 「正確には、触れるどころか抉ったんだよね。オレ」 「おまえ……」 もしやと、黒鋼は思った。ファイが、一つ頷く。 「うん。聞いたの。君のご両親の話。たまたま口を滑らせたって感じだったけど」 ファイは手の中の温いカップを見つめたまま、黒鋼もよく知る教師の名を口にした。この男をえらく気に入っている、あの中年の女性教諭だった。 思わず舌打ちが漏れる。別に隠していたつもりはない。機会があればいつかは話すこともあっただろうし、なければないで大きな問題があるとも思えなかった。 「オレ、知らなくて。元々オレがしたことは最低なことだって、ちゃんと分かってたつもりだけど……」 黒鋼は眉間に皺をぎゅっと寄せる。 「もうあんな思いはたくさんだって……登山のときに言ってたでしょ……?」 カップを包み込むようにして持っている、ファイの指先が震えていた。 「あのときは、なんのことか分かんなかった……でもその話を聞いて、オレ……自分がどれだけ酷いことをしたのかって、それでやっと分かった」 小さな水音がした。静かに零れ落ちたファイの涙が、音を立ててカップの中に落ちたのだ。黒鋼は首を振った。 「それは俺の問題だ。おまえには関係」 「あるよ! だってオレは、君がどれだけオレを大切に思ってくれてるか、ちゃんと分かってるんだもん。だから、どんな顔して君に会えばいいのか……オレ、急に怖くなって……なんてこと、しちゃったんだろうって……」 ファイはカップをテーブルに戻すと、子供のように手の甲で目元を拭った。 黒鋼の口からは呆れと共に深い溜息が漏れた。やっぱり、つまらないことで思いつめていたのだ。この男は。 「だったらなんだってんだよ」 「……」 「別れるってか?」 「……ッ」 顔を上げたファイは、泣きそうに顔を歪ませていた。そんなこと出来ないくせに。黒鋼だって同じだ。彼を手放す気はない。 分かってはいたが、手の施しようがない大馬鹿野郎だと思った。 「逃げたくねぇって言った口で、逃げてんじゃねぇよ。なんのためにあんな馬鹿みてぇなことしたんだ、てめぇは」 「でもっ」 「本当に後悔してんのか?」 ファイはあのとき、「こんな形でしか答えが出せない」と言い切った。そして飛んだ。迷いのない瞳だった。 今だって許せない。黒鋼は確かに、一度最愛の家族を失っているけれど、あのときはそんなこと、思い出しもしなかった。 ただ取り戻したいと手を伸ばしていただけだ。それは過去ではなく、ましてや死んだ家族でもない。あの錆だらけのフェンスの向こうから、ただひたすらこの男を取り戻したかっただけだ。 抉られてなどいない。むしろファイの存在は、黒鋼から悪夢を奪ったのだから。 ファイは酷く戸惑い、息を呑むだけで、黒鋼の問いに答えることはできないようだった。 「面倒臭ぇな」 「わっ!?」 吐き捨てるように言いながら、黒鋼はファイの手首を掴むと立ち上がった。 「な、なに?」 引っ張られてよろけるファイを、そのまま引きずって寝室へと向かう。 「ちょ、ちょっと?」 「そういや、退院したら覚えとけって言ったの忘れてたな」 「えぇ!?」 「最初っからこうしてりゃ手っ取り早かったか」 「なな、なにを!?」 「言っただろ。俺は俺のやり方でやる、ってな」 振り向いた黒鋼は、性質の悪い笑みを口元に浮かべて言った。 「教えてやるよ。俺がどれくらい、てめぇみてぇなバカで面倒臭ぇ野郎に惚れてるかってのをよ」 ←戻る ・ 次へ→
憎まれ口を叩いたものの、これで期待しない男はいっそ男ではない。
結果うまくいかなかったとしても気にするつもりもなければ、無理をさせるつもりもなかった。ただ純粋にファイの気持ちが嬉しかった。
だが、気分よく数日の間を過ごしていた黒鋼を苛立たせる出来事が、それからすぐに起こった。
「おい、いるか」
昼休みに気紛れで保健室を覗きこみ、生徒がいないことを確認してから顔を出したときのことだった。
机に向かって何かしらの書類に目を通していたらしいファイが顔を上げ、黒鋼を見たかと思うと即座に顔色を変えた。
「あっと、黒たん先生……」
「おう。どうした?」
「あの、オレちょっと忙しくて」
「?」
「ごめん!」
どこか慌てた様子で机の上のものを纏めると、ファイはそそくさと黒鋼の横を通り抜けて出て行った。
「……あいつ、なんか悪ぃもんでも食ったのか?」
一人ポツンと取り残された黒鋼は小さく呟いた。
ファイは随分と表情が硬く、そして顔色も悪いようだった。
明らかに様子がおかしいと思ったが、けれどそのときの黒鋼はさほど気にはしなかった。
顔を合わせる機会はいくらでもある。そう思っていた。
だがそれはすぐに裏切られることになる。
あれ以来ファイの態度は妙に余所余所しくなり、そしてあからさまに黒鋼と二人きりで顔を合わせることを拒絶しはじめた。
目が合いそうになれば逸らされ、休み時間に保健室へ行っても捕まらない。
黒鋼とて担当の教科もクラスもあれば部活動も受け持っている身であるから、ファイにばかりかまけてもいられない。短い時間を縫ってどうにか人気のない場所で接触を計ろうにも、限度があった。
避けられている。そんな疑問が確信に変わったのは週末、いつものようにファイから来たメールを見たときだった。
『用事ができたから、会えない』
「……がんばるんじゃなかったのか、てめぇは」
黒鋼は重々しい気分で携帯を閉じる。
別にそれに対してばかり期待を寄せていたわけではない。
週末の逢瀬といっても、必ず一緒に過ごせるわけではないが、ファイの不審な振る舞いを見れば、避けられていることは明白だった。
何かしただろうか。彼の気分を損ねるようなことを、何か。
理由に思い当たる点はなく、思い悩むのも面倒に感じた黒鋼は、ただ苛々を募らせる。
来週こそは必ずとっ捕まえて吐かせてやろうと胸に誓った。
だが、結局それも叶わなかった。
ファイはまるで蝶のように、どんなに掴もうとしてもヒラリと身をかわしてしまう。
授業がない時間を利用して保健室へ行っても、そこはやっぱりもぬけの殻だった。あの男は、黒鋼の一日の授業スケジュールを全て把握しているのだろう。
同じ敷地内にいて、会おうと思えばいつだって会えるはずなのに、まるで見えない壁に阻まれているかのように焦れったくて気持ちが悪い。はっきりしないことは大嫌いだった。
やがてさらに一週間が経過したが、週末になってもファイからはメールさえも来なかった。それに関しての理由は知っている。
出張である。黒鋼も経験があるので知っているが、わざわざ他校へ出向いて情報交換やら会議やら、面倒なことこの上ないイベントだが、教師である以上それは避けられないことだ。
***
さらに一週間が経過しようとしていた。
ファイに避けられるようになってから、三週間近くが過ぎようとしている。
気の短い自分が、よくぞここまでもったと思う。
今、黒鋼は苛々を限界まで膨らませながら雪のチラつく夜道を足早に歩いていた。
ジャケットのポケットに手を入れれば、自宅の鍵と一緒にファイの部屋の合鍵がチャリチャリと音を立てる。黒鋼は、それをぎゅっと握り締めた。
これまでも幾度か足を運ぼうとしたことがある。その方が手っ取り早いからだ。
だが、なんだかんだで黒鋼はファイの方からコンタクトを取ってくると信じていた。意味もなく拒絶されるはずがない。記憶の箱をどう引っくり返そうとも、黒鋼には心当たりがさっぱりなかった。
避け続けるには普段からあまりにも近い場所に互いがいすぎる。やがて限界は訪れるだろうと構えていた。
けれど、三週目にしてファイからの連絡はいよいよなかった。
そしてついに、黒鋼はキレた。
「あの野郎……ぶん殴ってでも吐かせてやる」
低く呟いた黒鋼に、擦れ違ったカップルがビクリと肩を震わせた。だがそんなものを気にする余裕はない。
もしまたあの男が妙なことで思いつめているのだとしたら。そして、それを切欠にまた馬鹿なことをされたのでは、むしろこちらの寿命がいくらあっても足りない。
黒鋼の脳内に、屋上から飛び降りたファイの姿が蘇る。思い出すだけで背筋が凍りつくような感覚に、黒鋼は気温の低さ以前に微かに震えた。
「もうあんな思いはうんざりだってんだ……っ」
もう何も、失うつもりはなかった。
***
扉にチェーンはかかっていなかった。
合鍵を使って中に入り込むと、流石に物音で察したのかファイが恐々と玄関を覗き込んで、そして顔を青くした。
「く、黒様先生」
「邪魔するぜ」
靴を脱ぎ、ジャケットに手をかけながら返答も待たずにズカズカと上がりこんだ。
黒鋼を見て顔を青くする以前に、ファイは異常なまでに肌が青白かった。元々彼は色白だが、おそらく原因は室内の温度にあるようだ。
外ほどとはいわないが、この部屋はあきらかに暖房が死んでいる。
白いシャツに黒のパンツというラフな姿で立ち尽くす彼の横を通って、リビングのソファに脱いだジャケットを放り投げると、どっかりと腰を下ろした。そしてテーブルの上にあるリモコンを勝手にいじる。電子音と共に、エアコンが微かな起動音を立て始めた。
立ち尽くしたままのファイをジロリと睨む。
「雪降ってんぞ。暖房くらいつけろ」
「あ……うん……。入れるの忘れてた」
目を逸らしながらボソリと返事を返すファイは、唇を噛むとのろのろとキッチンへ向かう。湯を沸かし、茶を淹れはじめる一連の動作を黒鋼はただ黙って見守った。
顔を合わせたら、すぐにでも胸倉を掴んでやろうと思っていた。けれど、いざ顔を見ると本当に殴ってしまいそうでぐっと堪えた。
ファイは気の毒なほどぎこちなく、そして怯えていた。萎縮している相手をさらに追い詰めても仕方がないのだから。
ファイが二人分の茶を淹れたカップを持ってくる頃には、室内はすっかり暖かくなっていた。
テーブルを挟んだ向かいにちょこんと腰を落ち着けたファイは、黒鋼の顔も見ずにただ熱いカップを両手に持って、中身に息を吹きかけ始めた。けれど、口をつける気配はない。
黒鋼も、出されたカップに手はつけなかった。だた、腕を組んで彼を真っ直ぐに見据えた。
やがて沈黙に耐えられなくなったのか、ファイは冷ますだけ冷ましたカップをテーブルに戻した。
「……なんで来たの?」
俯いたまま、黒鋼の顔も見ずにファイが口を開く。蚊の鳴くような、弱々しい口調だった。
「分かってんだろ」
「……なんのこと?」
黒鋼は元々ある眉間の皺をさらに深くした。こんな状況になってもまだ口を割らないファイに、血管が破裂しそうだった。
ファイは無音の空間に堪えられなくなったのか、テレビのリモコンに手を伸ばそうとした。その手を乱暴に掴む。ビクリと震えたファイが、そこで初めて黒鋼と目を合わせた。
「……っ」
「それで話逸らせるとか思ってんのか」
「……思ってない」
「だったら」
「でも……言いたくない。話したくない」
ファイは再び黒鋼から目を逸らした。黒鋼は重々しい溜息を零しながら、彼の手首を開放した。ただ怒鳴りつけるのは簡単だ。けれど、それでこの男が口を割るとは思えなかった。
ファイは難解だ。あの厄介な仮面が取り払われたとしても、何の説明もなしにただ意思を汲み取ってやるには、黒鋼はまだ彼を知り尽くしてはいない。
彼といるのはとても楽だ。ごく自然に呼吸が出来る。だからこそ、忘れてしまいそうになる。今は、ファイが酷く遠い存在に思えた。
出会ったばかりの、あの頃のように。
「気持ちが冷めたんなら、そう言え」
どこか力なく言った。すると、ファイはハッとして勢いよく顔を上げた。そしてすかさず言う。
「そんなことない!!」
どこか諦めムードの黒鋼だったが、思いがけずファイがはっきりとした口調で否定するのを聞いて、僅かに目を見開いた。
ファイはバツの悪そうな顔で唇を噛む。ふと、校舎裏で煙草をふかしている現場を押さえられた、春先の男子生徒を思い出した。
あれは確か、まだ屋上の鍵が壊れていた頃だ。得体が知れなかったファイと、秘密を共有していたあの頃。
今はファイが起こしたあの事件を切欠に、屋上へと続く扉の鍵は硬く閉ざされている。
あのときの生徒と、今のファイは似ているような気がした。
そうだ。こいつはまだガキみたいなもんなんだ。
そう思うと、黒鋼は溜息と共に肩の力を抜いた。だが、苛立ちが静まったわけではない。
「これはもうゲームとは違う。俺はハッキリしねぇことは好かねぇ」
ゲームでさえ、クリアとゲームーバーの線引きがはっきりしている。死ねば終わり。生き残れば、それで終わり。同じ終わりでも、結果だけは大きく違う。
けれどこれはリセットがきく、ただの子供の遊びではない。いい歳をした大人が、本気でしている恋の話だった。
「……」
ファイは何も言わない。ただ傷ついたような表情で唇を噛んでいる。
「だいたい、てめぇの好きにばかりさせとくのも面白くねぇんだよ」
ここまで堪えた。そろそろ甘やかしてばかりもいられなくなったのだ。我侭くらい幾ら聞いてやってもいい。けれど、それとこれとは話が違う。聞ける我侭と、そうじゃないものがある。
黒鋼は腰を浮かせ、乱暴な手つきでファイの胸倉を掴むとそのまま引き上げるようにして立ち上がった。
「だから俺は俺のやり方でやる」
「ッ!?」
そして、息つく間もなく口付けた。
「……ッ! んぅっ!?」
ファイが身を捩りながら黒鋼の腕を両手で掴んだ。けれど彼が激しく抵抗を示すほど、黒鋼はそれを深いものにしてゆく。
こんな風に彼の唇を深く貪るのは、酷く久しぶりのことだった。
ひんやりとした口内に舌を押し込み、奥に縮こまる舌を乱暴に捉えれば、ファイの背筋が震えるのが分かった。
後首に手を滑らせ、金色の髪ごと掴んで固定すれば彼に逃げ道はもうない。
勢いに乗ってさらに口付けを深くしようとしたところで、飲み込みきれなかった唾液にファイが咽た。仕方なしに解放すれば、苦しげに咳を繰り返す彼の顔が、面白いほど赤く染まっている。
それが、単に咽たことによるものでないことを、黒鋼は知っている。
「ッ、ケホッ……! もっ、いきなり……っ」
何するの、と言いたかったのだろうファイが、潤んだ目元で黒鋼を睨み上げた。
「無理矢理されたくなきゃはっきり言え」
「脅す気?」
「そうなるな」
「最低だよ……」
「だからなんだよ」
胸倉を掴み上げられたままのファイは、一度目を閉じて首を左右に振った。
「違う。最低なのはオレ」
「……どういうことだ?」
「君の傷に、触れたくなかった」
「?」
離して、と小声で言ったファイの要求を呑み、胸倉から手を離す。
力が抜けたように再び腰を下ろすのに習って、黒鋼も座る。溜息を一つ零し、白い手が冷めたカップを取ると中身を一口飲んだ。
黒鋼は、彼のその一連の動作をただ黙って見守った。
「正確には、触れるどころか抉ったんだよね。オレ」
「おまえ……」
もしやと、黒鋼は思った。ファイが、一つ頷く。
「うん。聞いたの。君のご両親の話。たまたま口を滑らせたって感じだったけど」
ファイは手の中の温いカップを見つめたまま、黒鋼もよく知る教師の名を口にした。この男をえらく気に入っている、あの中年の女性教諭だった。
思わず舌打ちが漏れる。別に隠していたつもりはない。機会があればいつかは話すこともあっただろうし、なければないで大きな問題があるとも思えなかった。
「オレ、知らなくて。元々オレがしたことは最低なことだって、ちゃんと分かってたつもりだけど……」
黒鋼は眉間に皺をぎゅっと寄せる。
「もうあんな思いはたくさんだって……登山のときに言ってたでしょ……?」
カップを包み込むようにして持っている、ファイの指先が震えていた。
「あのときは、なんのことか分かんなかった……でもその話を聞いて、オレ……自分がどれだけ酷いことをしたのかって、それでやっと分かった」
小さな水音がした。静かに零れ落ちたファイの涙が、音を立ててカップの中に落ちたのだ。黒鋼は首を振った。
「それは俺の問題だ。おまえには関係」
「あるよ! だってオレは、君がどれだけオレを大切に思ってくれてるか、ちゃんと分かってるんだもん。だから、どんな顔して君に会えばいいのか……オレ、急に怖くなって……なんてこと、しちゃったんだろうって……」
ファイはカップをテーブルに戻すと、子供のように手の甲で目元を拭った。
黒鋼の口からは呆れと共に深い溜息が漏れた。やっぱり、つまらないことで思いつめていたのだ。この男は。
「だったらなんだってんだよ」
「……」
「別れるってか?」
「……ッ」
顔を上げたファイは、泣きそうに顔を歪ませていた。そんなこと出来ないくせに。黒鋼だって同じだ。彼を手放す気はない。
分かってはいたが、手の施しようがない大馬鹿野郎だと思った。
「逃げたくねぇって言った口で、逃げてんじゃねぇよ。なんのためにあんな馬鹿みてぇなことしたんだ、てめぇは」
「でもっ」
「本当に後悔してんのか?」
ファイはあのとき、「こんな形でしか答えが出せない」と言い切った。そして飛んだ。迷いのない瞳だった。
今だって許せない。黒鋼は確かに、一度最愛の家族を失っているけれど、あのときはそんなこと、思い出しもしなかった。
ただ取り戻したいと手を伸ばしていただけだ。それは過去ではなく、ましてや死んだ家族でもない。あの錆だらけのフェンスの向こうから、ただひたすらこの男を取り戻したかっただけだ。
抉られてなどいない。むしろファイの存在は、黒鋼から悪夢を奪ったのだから。
ファイは酷く戸惑い、息を呑むだけで、黒鋼の問いに答えることはできないようだった。
「面倒臭ぇな」
「わっ!?」
吐き捨てるように言いながら、黒鋼はファイの手首を掴むと立ち上がった。
「な、なに?」
引っ張られてよろけるファイを、そのまま引きずって寝室へと向かう。
「ちょ、ちょっと?」
「そういや、退院したら覚えとけって言ったの忘れてたな」
「えぇ!?」
「最初っからこうしてりゃ手っ取り早かったか」
「なな、なにを!?」
「言っただろ。俺は俺のやり方でやる、ってな」
振り向いた黒鋼は、性質の悪い笑みを口元に浮かべて言った。
「教えてやるよ。俺がどれくらい、てめぇみてぇなバカで面倒臭ぇ野郎に惚れてるかってのをよ」
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