2025/09/19 Fri 『なにその目?』 壁の隅に追いやられ、冷たい床に座り込んでしまったファイを、冷やかな目をした中年女性が仁王立ちで見下ろしている。 『アンタ分かってるの? アンタのために躾けてやってんだよこっちは!!』 夕飯時。他の子供たちより、ほんの一瞬だけテーブルにつくのが遅かったという理由で、ファイは爪が食い込むほど強く二の腕を掴まれ、部屋の隅に引きずられた。 壁に叩きつけられる形で床にへたり込んだファイは、ただ怯えた表情で女を見上げただけだった。その目が、彼女は気に食わなかったらしい。 汚れたスリッパの足裏で思い切りファイの裸足の足を踏み、それから何度もドンドンと踏みつけた。 『反抗ばっかりして! アンタね、そんなだから弟に捨てられちまったんだよ!!』 『ッ、ち、ちが……』 『はぁ!? なに!? 違うって!? アンタが聞き分けのないクソガキだから! 弟はアンタを置いて行っちまったんだよ!! そんなことも分からないなんて、本当に頭の悪いガキだね!!』 違う違うと、何度も首を振って否定した。前髪を掴まれて引きずらそうになったが、それでも力の限り抵抗し続ける。 この人が言っていることは嘘だ。全部嘘なんだ。だってユゥイは言ってくれた。一緒がいいと言って、あんなに泣いてくれた。 本当はファイだって離れたくなかった。だけど、ここには怖い大人ばかりがいる。自分だけの力ではユゥイを守ってやれない。 寂しくて悲しくて、とても怖かったけど、それでもユゥイが大切で、大好きだったから。ファイはお兄ちゃんだったから、だから我慢した。 でも、本当は違ったんだろうか。 毎日毎日、こんな風に言われ続ける度に。 もしかしたら、ユゥイは本当に自分のことが嫌いで、一緒にいるのが嫌になったから、一人で行ってしまったんだろうかと。 暴力に屈するしかない幼いファイは、そう感じるようになっていた。 (ユゥイ、オレ……いっしょにいちゃダメだったの……?) 本当は嫌いだったの? だから一人で行っちゃったの? 今、君は幸せ? 『泣けば済むと思って!! だったら一生メソメソ泣いてな!! 死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!』 ――だけどね。 「それでもよかったんだー」 月の丘で、幼い姿をしたファイは小さな両手を後ろにやって、白い花の中をブラブラと歩いていた。 風が金色の髪を揺らして、その度に頬をくすぐられているようで肩を竦める。 「オレはユゥイが大好きだもん。ユゥイが幸せだったらいいやって思ったの。もしオレのことが嫌いで、だから一緒にいられなくなったなら……よかったんだよ、これで」 辛かったし、悲しかった。 だけどファイには大切な思い出があった。愛された記憶があった。 父親はいなかったけど、母親とユゥイと三人で小さな家に暮らしていた頃。たった一枚のクッキーですらユゥイと半分こして、二人せぇので口に放り込んだ。そうすると甘いクッキーが一段と甘く感じられて、お腹いっぱいにはならなかったけど、とても嬉しかった。ユゥイと笑い合ったことを思い出すだけで、胸が温かくなる。 だけどそれと同じくらい、あの頃に戻りたいと強く願ってもいた。あのときのまま、ずっと変わらずにいたかった。 「でもいいの。だって、今はこうして黒わんがいてくれるから」 そうだよね? 「……黒わん?」 クルリと振り向いたファイは、そこに誰もいないことに茫然とした。 月の光にほんのりと光る白い花畑。どこまでも続く美しい光景の中に、黒い犬の姿はなかった。 「どうして……?」 ずっと一緒にいてくれたのに。 寂しい夜は抱きしめてくれた。二人だけの世界にいてくれた。温かくて優しかった風が、今はこんなにも冷たい。 胸の真ん中に大きな穴が開いたみたいで、寒くて寒くて仕方がなかった。ファイは可憐な花を押し潰しながら、力なく地に膝をついた。 涙がぽろりと頬を滑り落ちる。そして堰を切ったように溢れて止まらなくなった。 我慢していたのに。黒わんが側にいてくれたから、ずっと笑っていられたのに。 本当は、ぜんぶ嘘だった。 「さみしい……」 ぜんぶぜんぶ、嘘ばかり。 「さみしいよぉ……」 ユゥイと一緒に行きたかった。離れたくなかった。寂しい。寂しい。怖い。痛い。 ここには、もう誰もいない。 「ひとりは、やだよぉ……」 黒わんも、オレを置いていくんだね。 *** カーテンの隙間から朝の光が射していた。 また夢を見ていたんだと、ファイはのろのろと起き上がりながら濡れた頬を手の甲で拭う。 今日は、施設にいた頃の夢も一緒に見たような気がする。そしてあの月の丘には、やっぱり黒わんはいなかった。 あれからずっと。クリスマスの夜に見た夢を最後に、どんなに探しても見つけ出すことができない。 ファイはベッドの枕元を忙しなく見回した。寝る間際まで抱きしめていたはずの黒わんのぬいぐるみがない。 必死で探して、ベッドの下を覗き込んでみたら、そこに黒わんが落ちていた。 いつの間に手放していたんだろう。慌てて拾い上げ、胸に抱きしめる。 「ごめんね黒わん……」 黒わんは、初めてユゥイと一緒に施設に預けられたとき、宛がわれた部屋に置き去りにされていたものだった。 誰の持ち物か分からなかったが、一目で気に入ってしまったファイは、それからずっと黒わんを宝物のように側に置いた。 黒わんが夢に出てくるようになったのは、ユゥイがいなくなってしばらく経ってからだった。 本当は寂しくて仕方がなかったファイは嬉しくて、夢の中だけが安らぎの場所になった。そこでは、ファイはいつまで経っても子供のままだった。 鏡を見る度に少しずつ大きくなっていく現実の自分とは違って、黒わんとあの月の丘で過ごすファイは小さいまま。 いつしかどちらが本当の自分なのか、ファイには分からなくなっていた。 「どうすればいいのかな……」 どうすれば、黒わんは帰ってきてくれるんだろう。 ユゥイは戻ってきてくれた。また一緒に暮らそうと言ってくれて、それからずっと側にいてくれる。悪いことをして叱られると、またお別れしなくちゃいけないような気がして悲しくなるけれど、最後には必ず抱きしめて、大好きだよと言ってくれる。 何度も何度も、愛していると言ってくれる。 だから黒わんにも戻ってきてほしい。もし怒らせてしまったなら、ちゃんとごめんなさいを言いたいから。 ファイは抱きしめていた黒わんから少しだけ身体を離して、その顔を見下ろす。頭を撫でようとしたところで、異変に気付いた。 「あ……」 よく見ると、右の耳の裏側から微かに綿が飛び出していた。 *** 「ユゥイ……」 ファイが黒わんを胸に抱いて下に降りると、ユゥイはすでに着替えを終えて朝食の支度をしていた。 「おはようファイ。顔は洗った? 今パンが焼けるから……どうしたの?」 カウンター奥のキッチンでスープを温めていたユゥイは、赤い目をしてしょんぼりと俯くファイを見て表情を曇らせた。 コンロの火を止め、立ち尽くしたままのファイの側までやってきたユゥイの肩に、顔を埋める。 「怖い夢でも見たのかな? 泣いちゃった?」 「ユゥイ……黒わんが……」 「ん? なぁに?」 「黒わん、壊れた……」 ユゥイはファイが抱いている黒わんを見て、「ああ、本当だ」と言った。 「すぐに直してあげないと。これじゃ可哀想だね」 「でも……黒わん、もうボロボロだよ……」 ずっと昔から一緒にいた黒わんは、今までも何度も目や鼻や尻尾が取れかけたり、背中が破れて綿が飛び出したりして、その度に縫っては直してを繰り返してきた。 黒い糸を使っているから分かりにくいが、よく見れば彼の身体はつぎはぎだらけだ。耳が取れかけたのだってこれが初めてではない。 そんな黒わんの身体に、また針と糸を通さなくてはならないと思うと、ファイの胸は締め付けられるように痛むのだった。 「わかった。じゃあ、ボクがやっておいてあげる。それでいいかな?」 「……うん」 結局は同じことだと分かってはいても、ファイはユゥイに黒わんを預けることにした。彼はひとまず受け取ったそれをカウンターテーブルの隅に座らせて、それからファイに笑いかけると「ご飯にしよう」と言った。 でも、本当はあまり食欲がない。俯いたままのファイに、ユゥイは小さく首を傾げると顔を覗き込んでくる。 「元気ないね。そんなんじゃ黒わんが悲しむよ」 「……うん」 「それにほら、今日はおっきい黒わんも遊びに来るって言ってたよ。そんな顔してたら心配させちゃう」 「黒わん、来るの?」 「来るよ。お仕事が終わったらって言ってたから、夜ご飯は一緒に食べられるんじゃないかな?」 起きてからずっと悲しかった気分が、少しずつ温かいものに包まれていくような気がした。黒鋼が来る。嬉しさが込み上げて、空っぽだった胸をゆっくりと満たす。 ファイは頬がカイロを押し当てたみたいに温かくなるのを感じた。それはだんだん熱いくらいになってきて、火傷しそうなほどになってくると、どうしてか胸が苦しくなる。太鼓が鳴るように忙しなく音を刻みはじめる。 黒鋼とクリスマスの夜にキスをしてから、彼のことを考えたり、一緒にいたりするといつもこうだ。どうしてなのか分からないし、胸がきゅうっとなるのは苦しいけど、だけど嬉しい。 ユゥイはファイが表情を明るくしたことに安堵して笑うと、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。 「ファイ、おっきい黒わんのために、一緒にカレー作って待ってようか?」 「!」 「そうだなぁ、カボチャがいっぱい入った野菜カレーなんてどう?」 「作る! 今度はちゃんと成功させるよ!」 「よし、じゃあ後でお使い頼んじゃおうかな? お野菜一人でも買いに行ける?」 「行ける! 任せてー!!」 ファイの心の中は、ユゥイと一緒にカレーを作ることと、それを黒鋼と食べることでいっぱいになった。 このあいだは勝手なことをして大失敗してしまったけれど、ユゥイはあのとき約束したことを覚えていてくれた。 「じゃあその前に早く朝ご飯食べちゃお」 「わかったー!」 そうと決まればまずは洗顔と歯磨きを済まそうと、ファイは元気に二階へと続く階段に向かって駆け出そうとした。けれどふと足を止めて、カウンターテーブルの上に座る耳の解れた黒わんを見る。 (やっぱり……ちゃんと自分でやろ……) 黒わんの一番の友達はファイだから。 ちゃんと綺麗に耳を直すことができたら、戻ってきてくれるかもしれない。 また少し不安な気持ちがぶり返しそうになるのを押しやって、ファイは階段を力いっぱい駆け上がった。 *** 「そうですか……じゃあ今日は……」 夕方、ユゥイの携帯が鳴った。 それに応じた彼の声がどんどん沈んでいくのを聞いて、ファイはカウンター席で黒わんの耳を縫う手を止め、顔を上げる。 「あぁ、いえ……今日はファイと一緒にカレーを作ったんです。美味しくできたので、食べてほしかったんですが……」 バツの悪そうな視線を送って来るユゥイに、ファイは咄嗟に席を立った。 相手はきっと黒鋼だ。この様子からすると、もしかしたら。 「ユゥイ……? 黒わん、来ないの……?」 「ちょっと待ってくださいね。今ファイに変わりますから」 「ねぇユゥイ、黒わん来ない……?」 「お仕事でね、急に遠くへ行かなくちゃいけないんだって……。ほら、お話して」 「遠くに……?」 差し出された携帯を青ざめた表情で見つめて、ファイは首を左右に振った。 「やだ」 「どうして? ほら、そんなこと言わないで」 「やだったらやだ! 話したくない!」 「……いま話しておかないと、次に来れるのは来週だって」 「来週って……」 明日? いつものように聞くことはできなかった。 黒鋼は来ない。朝から楽しみにしていのに。一人でちゃんと野菜を買いに行ったのに。ユゥイに教えてもらいながら、ひとつも怪我をしないで上手にカレーを作ることができたのに。 なのに、黒鋼は来ない。 (遠くに行くって、言ってた……) ユゥイに促すように名前を呼ばれ、ファイは震える指先で携帯電話を受け取った。心臓が苦しい。いつもみたいにポカポカするような感じではなく、思い切り叩きつけられるみたいに、鋭く痛む。 「……黒わん」 恐る恐る耳に当てた携帯に向かって、ファイは黒鋼の名前を呼んだ。 『悪い……急に出張が入っちまった』 「お仕事……?」 『ああ。だから今日は』 「黒わん、ほんとに……ほんとにお仕事……?」 いつもならすぐに信じられる。 あのクリスマスの夜だって、黒鋼はちゃんと約束を守ってくれた。本当は泣いてしまいそうだったけど、あのときのファイは真っ直ぐに黒鋼を信じることができた。 それは彼が裸の黒わんを持っていたからだ。黒わんが風邪をひかないようにと、そうお願いすれば黒鋼は必ず店に来てくれる。 もちろん今だってそうだ。最後に会ったとき、ファイはいつものようにマフラーをしていない黒わんを彼に渡しているのだから。 なのに、不安で仕方がない。あのときと今とでは、何も変わらないはずなのに。 まるで何かに背を追われているようだ。焦りばかりが膨らんで、四肢が凍ったように動かない。 そのとき頭の中で声がした。ファイを蹴りつけながら、怖い顔をして怒鳴り散らしていた、あの女の人の声。 ――死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!! 彼女は言った。ファイが頭の悪い子供だから、弟はお前を捨てたんだと。ずっと一生、一人で泣いていればいいと。それがお似合いだと。 ファイは本当は知っている。この世界には、楽しいことや嬉しいことよりも、悲しいことの方がずっと多い。 いつかはまたユゥイとも離れ離れになってしまうかもしれない。あの月の丘で消えてしまった黒わんのように。黒鋼も、いなくなってしまうような気がした。 「黒わん……オレのこと、嫌いになった……?」 言葉にした途端、足元から崩れ落ちそうな気分になった。 黒鋼はもう来てくれないのではないか。ずっと遠くへ行ったまま、もう会えないのではないか。 「黒わん言って……嫌いになったなら、ちゃんと言って……」 電話の向こうで、黒鋼は溜息をつきながら「そんなわけねぇだろ」と言った。 『機嫌なおせ。俺だって、おまえに……』 黒鋼は、なぜか言いにくそうにその先を続けることをやめた。その沈黙がファイの不安をいっそう煽る。どうして何も言ってくれないんだろう。今、受話器の向こうで黒鋼はどんな顔をしているんだろう。 もちろんファイは黒鋼を信じている。いや、信じたいと思っている。 でも、怖い。信じるのが怖い。嫌われるのが怖い。あるとき突然、彼が消えてしまったら。 黒鋼は必ずまた来ると言っている。彼は嘘をついたことがない。いつだって優しいし、綺麗なオルゴールのペンダントもくれた。だからファイは黒鋼のことが好きで、大好きで。 大好きだから。 「もう、いい」 だから、こんなこと言いたくないけど。 ファイは気づいてしまった。辛くならずに済む方法。楽になる方法が、一つだけあることに。 「黒わん、もういいよ。もう……会いたくない……」 言った瞬間、楽になった。思った通り。心臓の痛みが、すぅっと治まっていくような気がする。 ユゥイが顔を顰め、慌ててファイの手から受話器を奪った。 「すみません……今日はちょっと様子がおかしいみたいで。いえ、いじけてるだけだと思いますから……ええ、そうですね。待ってます。じゃあ、また……」 通話を終えたユゥイは、ゆっくりと静かに息を吐き出してファイを見た。咎めるような視線に、目を合わせることができない。 「どうしてあんなこと言ったの?」 「…………嫌いになったから」 「嘘はよくないよ」 「嘘じゃないよ」 「ファイ……」 ファイは縫いかけの黒わんを掴むと、まだ何か言おうとしているユゥイに背を向け、部屋へ戻った。 *** どうしてか、部屋に戻ると治まっていたはずの心臓の痛みが蘇った。 針と糸がついたままの黒わんを机に置いて、ファイは胸を押さえながら床に崩れ落ちる。 「う……ッ、ぅ……」 呻きはすぐに嗚咽に変わった。悲しくて、心がバラバラになりそうだった。 ファイは首から下げている革紐を引っ張り、シャツの中からペンダントを取り出した。そしてそれを首から外し、思い切り床に投げつける。 一度だけ大きくバウンドしたそれは、滑るようにベッドの下に入り込んだ。 どうしてこんなに胸が痛いのか、ファイにはさっぱり分からない。 黒鋼のことを思うと心が熱くなった。お湯の中に浸かっているみたいに温かくて、そのうちだんだんのぼせたようになってきて、苦しくなった。 だけどファイはその感覚がとても好きだった。なぜか恥ずかしいような気持ちになってしまうけど、黒鋼に触れられると嬉しくて、側にいると楽しくて、会えない時間も彼を思うだけで幸せだった。 黒鋼はまた来ると言った。その言葉にきっと嘘はない。 でも怖い。あの黒わんのように、いつか何も言わずに消えてしまうのかもしれない。ファイを一人残して、遠くへ行ってしまうのかもしれない。 そうしたら、今よりもっと辛くて苦しくて、悲しい。 (だったらその前に、オレの方から嫌いになればいいんだ) 寂しいのは、大好きだから。 だけどその相手を嫌いになってしまえば、もう寂しくない。 会いたいと思うのをやめてしまえば、側にいたいと思うのをやめてしまえば。 (寂しくなくなるんだ) 嫌われる前に。置いていかれる前に。消えてしまう前に。 (なのに、どうして……) こんなに胸が痛いんだろう。 *** 「……なんだってんだよ」 タクシーの後部座席で、黒鋼は携帯のディスプレイを見つめたまま低く吐き捨てた。 ユゥイも言っていた通り、ファイの様子は明らかにおかしかった。 ここ最近の彼は以前よりも少し落ち着いていて、黒鋼の仕事へも理解を示すようになっていた。それがどうして。 (特にタイミングが悪かったのかもな……) 順調に進行していたはずの企画が先方との交渉決裂により白紙に戻り、埋め合わせとして組まれた特集のため、黒鋼は早々に地方へ飛ぶことになってしまった。 とるものもとりあえずタクシーを捕まえ、新幹線に乗るために駅へ向かう道中、ユゥイに断りの連絡を入れた結果がこれだ。まさか例のカレーのリベンジが今日だったなんて。 黒鋼は携帯をスーツのジャケットの内ポケットにしまい込むと、腕を組んで窓の外を睨み付けた。流れゆく夜の街並みを視界に収めながら、ファイの感情を押し殺したような声が頭から離れない。 『もう……会いたくない……』 どういうことだろう。 黒鋼は小さく舌打ちをする。あんなことを言われて、心穏やかでいられるはずがない。こんな気持ちの悪さを残したまま、遠い地へ赴かねばならないなんて。 やらなければならないことは山ほどある。これから向かう駅でカメラマンと合流して、新幹線に乗って、急きょ手配した安ホテルへ向かって。 突然の依頼にも快く取材を引き受けてくれた店のオーナーについて、明日は早朝から市場での取材も行われる予定になっている。 帰ったら帰ったでおそらく数日は身動きがとれない。それほどまでに、今回の企画のお蔵入りは突然で、手痛いものだった。 ついてない。そうとしか言いようがない。 「くそ……」 何がファイを追い詰めているのだろう。 そればかりが気になって、今すぐにでも運転手に行先の変更を告げてしまいたい衝動をぐっと堪えることに、黒鋼はただひたすら集中するしかなかった。 ←戻る ・ 次へ→
壁の隅に追いやられ、冷たい床に座り込んでしまったファイを、冷やかな目をした中年女性が仁王立ちで見下ろしている。
『アンタ分かってるの? アンタのために躾けてやってんだよこっちは!!』
夕飯時。他の子供たちより、ほんの一瞬だけテーブルにつくのが遅かったという理由で、ファイは爪が食い込むほど強く二の腕を掴まれ、部屋の隅に引きずられた。
壁に叩きつけられる形で床にへたり込んだファイは、ただ怯えた表情で女を見上げただけだった。その目が、彼女は気に食わなかったらしい。
汚れたスリッパの足裏で思い切りファイの裸足の足を踏み、それから何度もドンドンと踏みつけた。
『反抗ばっかりして! アンタね、そんなだから弟に捨てられちまったんだよ!!』
『ッ、ち、ちが……』
『はぁ!? なに!? 違うって!? アンタが聞き分けのないクソガキだから! 弟はアンタを置いて行っちまったんだよ!! そんなことも分からないなんて、本当に頭の悪いガキだね!!』
違う違うと、何度も首を振って否定した。前髪を掴まれて引きずらそうになったが、それでも力の限り抵抗し続ける。
この人が言っていることは嘘だ。全部嘘なんだ。だってユゥイは言ってくれた。一緒がいいと言って、あんなに泣いてくれた。
本当はファイだって離れたくなかった。だけど、ここには怖い大人ばかりがいる。自分だけの力ではユゥイを守ってやれない。
寂しくて悲しくて、とても怖かったけど、それでもユゥイが大切で、大好きだったから。ファイはお兄ちゃんだったから、だから我慢した。
でも、本当は違ったんだろうか。
毎日毎日、こんな風に言われ続ける度に。
もしかしたら、ユゥイは本当に自分のことが嫌いで、一緒にいるのが嫌になったから、一人で行ってしまったんだろうかと。
暴力に屈するしかない幼いファイは、そう感じるようになっていた。
(ユゥイ、オレ……いっしょにいちゃダメだったの……?)
本当は嫌いだったの?
だから一人で行っちゃったの?
今、君は幸せ?
『泣けば済むと思って!! だったら一生メソメソ泣いてな!! 死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!』
――だけどね。
「それでもよかったんだー」
月の丘で、幼い姿をしたファイは小さな両手を後ろにやって、白い花の中をブラブラと歩いていた。
風が金色の髪を揺らして、その度に頬をくすぐられているようで肩を竦める。
「オレはユゥイが大好きだもん。ユゥイが幸せだったらいいやって思ったの。もしオレのことが嫌いで、だから一緒にいられなくなったなら……よかったんだよ、これで」
辛かったし、悲しかった。
だけどファイには大切な思い出があった。愛された記憶があった。
父親はいなかったけど、母親とユゥイと三人で小さな家に暮らしていた頃。たった一枚のクッキーですらユゥイと半分こして、二人せぇので口に放り込んだ。そうすると甘いクッキーが一段と甘く感じられて、お腹いっぱいにはならなかったけど、とても嬉しかった。ユゥイと笑い合ったことを思い出すだけで、胸が温かくなる。
だけどそれと同じくらい、あの頃に戻りたいと強く願ってもいた。あのときのまま、ずっと変わらずにいたかった。
「でもいいの。だって、今はこうして黒わんがいてくれるから」
そうだよね?
「……黒わん?」
クルリと振り向いたファイは、そこに誰もいないことに茫然とした。
月の光にほんのりと光る白い花畑。どこまでも続く美しい光景の中に、黒い犬の姿はなかった。
「どうして……?」
ずっと一緒にいてくれたのに。
寂しい夜は抱きしめてくれた。二人だけの世界にいてくれた。温かくて優しかった風が、今はこんなにも冷たい。
胸の真ん中に大きな穴が開いたみたいで、寒くて寒くて仕方がなかった。ファイは可憐な花を押し潰しながら、力なく地に膝をついた。
涙がぽろりと頬を滑り落ちる。そして堰を切ったように溢れて止まらなくなった。
我慢していたのに。黒わんが側にいてくれたから、ずっと笑っていられたのに。
本当は、ぜんぶ嘘だった。
「さみしい……」
ぜんぶぜんぶ、嘘ばかり。
「さみしいよぉ……」
ユゥイと一緒に行きたかった。離れたくなかった。寂しい。寂しい。怖い。痛い。
ここには、もう誰もいない。
「ひとりは、やだよぉ……」
黒わんも、オレを置いていくんだね。
***
カーテンの隙間から朝の光が射していた。
また夢を見ていたんだと、ファイはのろのろと起き上がりながら濡れた頬を手の甲で拭う。
今日は、施設にいた頃の夢も一緒に見たような気がする。そしてあの月の丘には、やっぱり黒わんはいなかった。
あれからずっと。クリスマスの夜に見た夢を最後に、どんなに探しても見つけ出すことができない。
ファイはベッドの枕元を忙しなく見回した。寝る間際まで抱きしめていたはずの黒わんのぬいぐるみがない。
必死で探して、ベッドの下を覗き込んでみたら、そこに黒わんが落ちていた。
いつの間に手放していたんだろう。慌てて拾い上げ、胸に抱きしめる。
「ごめんね黒わん……」
黒わんは、初めてユゥイと一緒に施設に預けられたとき、宛がわれた部屋に置き去りにされていたものだった。
誰の持ち物か分からなかったが、一目で気に入ってしまったファイは、それからずっと黒わんを宝物のように側に置いた。
黒わんが夢に出てくるようになったのは、ユゥイがいなくなってしばらく経ってからだった。
本当は寂しくて仕方がなかったファイは嬉しくて、夢の中だけが安らぎの場所になった。そこでは、ファイはいつまで経っても子供のままだった。
鏡を見る度に少しずつ大きくなっていく現実の自分とは違って、黒わんとあの月の丘で過ごすファイは小さいまま。
いつしかどちらが本当の自分なのか、ファイには分からなくなっていた。
「どうすればいいのかな……」
どうすれば、黒わんは帰ってきてくれるんだろう。
ユゥイは戻ってきてくれた。また一緒に暮らそうと言ってくれて、それからずっと側にいてくれる。悪いことをして叱られると、またお別れしなくちゃいけないような気がして悲しくなるけれど、最後には必ず抱きしめて、大好きだよと言ってくれる。
何度も何度も、愛していると言ってくれる。
だから黒わんにも戻ってきてほしい。もし怒らせてしまったなら、ちゃんとごめんなさいを言いたいから。
ファイは抱きしめていた黒わんから少しだけ身体を離して、その顔を見下ろす。頭を撫でようとしたところで、異変に気付いた。
「あ……」
よく見ると、右の耳の裏側から微かに綿が飛び出していた。
***
「ユゥイ……」
ファイが黒わんを胸に抱いて下に降りると、ユゥイはすでに着替えを終えて朝食の支度をしていた。
「おはようファイ。顔は洗った? 今パンが焼けるから……どうしたの?」
カウンター奥のキッチンでスープを温めていたユゥイは、赤い目をしてしょんぼりと俯くファイを見て表情を曇らせた。
コンロの火を止め、立ち尽くしたままのファイの側までやってきたユゥイの肩に、顔を埋める。
「怖い夢でも見たのかな? 泣いちゃった?」
「ユゥイ……黒わんが……」
「ん? なぁに?」
「黒わん、壊れた……」
ユゥイはファイが抱いている黒わんを見て、「ああ、本当だ」と言った。
「すぐに直してあげないと。これじゃ可哀想だね」
「でも……黒わん、もうボロボロだよ……」
ずっと昔から一緒にいた黒わんは、今までも何度も目や鼻や尻尾が取れかけたり、背中が破れて綿が飛び出したりして、その度に縫っては直してを繰り返してきた。
黒い糸を使っているから分かりにくいが、よく見れば彼の身体はつぎはぎだらけだ。耳が取れかけたのだってこれが初めてではない。
そんな黒わんの身体に、また針と糸を通さなくてはならないと思うと、ファイの胸は締め付けられるように痛むのだった。
「わかった。じゃあ、ボクがやっておいてあげる。それでいいかな?」
「……うん」
結局は同じことだと分かってはいても、ファイはユゥイに黒わんを預けることにした。彼はひとまず受け取ったそれをカウンターテーブルの隅に座らせて、それからファイに笑いかけると「ご飯にしよう」と言った。
でも、本当はあまり食欲がない。俯いたままのファイに、ユゥイは小さく首を傾げると顔を覗き込んでくる。
「元気ないね。そんなんじゃ黒わんが悲しむよ」
「……うん」
「それにほら、今日はおっきい黒わんも遊びに来るって言ってたよ。そんな顔してたら心配させちゃう」
「黒わん、来るの?」
「来るよ。お仕事が終わったらって言ってたから、夜ご飯は一緒に食べられるんじゃないかな?」
起きてからずっと悲しかった気分が、少しずつ温かいものに包まれていくような気がした。黒鋼が来る。嬉しさが込み上げて、空っぽだった胸をゆっくりと満たす。
ファイは頬がカイロを押し当てたみたいに温かくなるのを感じた。それはだんだん熱いくらいになってきて、火傷しそうなほどになってくると、どうしてか胸が苦しくなる。太鼓が鳴るように忙しなく音を刻みはじめる。
黒鋼とクリスマスの夜にキスをしてから、彼のことを考えたり、一緒にいたりするといつもこうだ。どうしてなのか分からないし、胸がきゅうっとなるのは苦しいけど、だけど嬉しい。
ユゥイはファイが表情を明るくしたことに安堵して笑うと、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。
「ファイ、おっきい黒わんのために、一緒にカレー作って待ってようか?」
「!」
「そうだなぁ、カボチャがいっぱい入った野菜カレーなんてどう?」
「作る! 今度はちゃんと成功させるよ!」
「よし、じゃあ後でお使い頼んじゃおうかな? お野菜一人でも買いに行ける?」
「行ける! 任せてー!!」
ファイの心の中は、ユゥイと一緒にカレーを作ることと、それを黒鋼と食べることでいっぱいになった。
このあいだは勝手なことをして大失敗してしまったけれど、ユゥイはあのとき約束したことを覚えていてくれた。
「じゃあその前に早く朝ご飯食べちゃお」
「わかったー!」
そうと決まればまずは洗顔と歯磨きを済まそうと、ファイは元気に二階へと続く階段に向かって駆け出そうとした。けれどふと足を止めて、カウンターテーブルの上に座る耳の解れた黒わんを見る。
(やっぱり……ちゃんと自分でやろ……)
黒わんの一番の友達はファイだから。
ちゃんと綺麗に耳を直すことができたら、戻ってきてくれるかもしれない。
また少し不安な気持ちがぶり返しそうになるのを押しやって、ファイは階段を力いっぱい駆け上がった。
***
「そうですか……じゃあ今日は……」
夕方、ユゥイの携帯が鳴った。
それに応じた彼の声がどんどん沈んでいくのを聞いて、ファイはカウンター席で黒わんの耳を縫う手を止め、顔を上げる。
「あぁ、いえ……今日はファイと一緒にカレーを作ったんです。美味しくできたので、食べてほしかったんですが……」
バツの悪そうな視線を送って来るユゥイに、ファイは咄嗟に席を立った。
相手はきっと黒鋼だ。この様子からすると、もしかしたら。
「ユゥイ……? 黒わん、来ないの……?」
「ちょっと待ってくださいね。今ファイに変わりますから」
「ねぇユゥイ、黒わん来ない……?」
「お仕事でね、急に遠くへ行かなくちゃいけないんだって……。ほら、お話して」
「遠くに……?」
差し出された携帯を青ざめた表情で見つめて、ファイは首を左右に振った。
「やだ」
「どうして? ほら、そんなこと言わないで」
「やだったらやだ! 話したくない!」
「……いま話しておかないと、次に来れるのは来週だって」
「来週って……」
明日?
いつものように聞くことはできなかった。
黒鋼は来ない。朝から楽しみにしていのに。一人でちゃんと野菜を買いに行ったのに。ユゥイに教えてもらいながら、ひとつも怪我をしないで上手にカレーを作ることができたのに。
なのに、黒鋼は来ない。
(遠くに行くって、言ってた……)
ユゥイに促すように名前を呼ばれ、ファイは震える指先で携帯電話を受け取った。心臓が苦しい。いつもみたいにポカポカするような感じではなく、思い切り叩きつけられるみたいに、鋭く痛む。
「……黒わん」
恐る恐る耳に当てた携帯に向かって、ファイは黒鋼の名前を呼んだ。
『悪い……急に出張が入っちまった』
「お仕事……?」
『ああ。だから今日は』
「黒わん、ほんとに……ほんとにお仕事……?」
いつもならすぐに信じられる。
あのクリスマスの夜だって、黒鋼はちゃんと約束を守ってくれた。本当は泣いてしまいそうだったけど、あのときのファイは真っ直ぐに黒鋼を信じることができた。
それは彼が裸の黒わんを持っていたからだ。黒わんが風邪をひかないようにと、そうお願いすれば黒鋼は必ず店に来てくれる。
もちろん今だってそうだ。最後に会ったとき、ファイはいつものようにマフラーをしていない黒わんを彼に渡しているのだから。
なのに、不安で仕方がない。あのときと今とでは、何も変わらないはずなのに。
まるで何かに背を追われているようだ。焦りばかりが膨らんで、四肢が凍ったように動かない。
そのとき頭の中で声がした。ファイを蹴りつけながら、怖い顔をして怒鳴り散らしていた、あの女の人の声。
――死ぬまでずっと一人でそうしてるのが、アンタにはお似合いだよ!!
彼女は言った。ファイが頭の悪い子供だから、弟はお前を捨てたんだと。ずっと一生、一人で泣いていればいいと。それがお似合いだと。
ファイは本当は知っている。この世界には、楽しいことや嬉しいことよりも、悲しいことの方がずっと多い。
いつかはまたユゥイとも離れ離れになってしまうかもしれない。あの月の丘で消えてしまった黒わんのように。黒鋼も、いなくなってしまうような気がした。
「黒わん……オレのこと、嫌いになった……?」
言葉にした途端、足元から崩れ落ちそうな気分になった。
黒鋼はもう来てくれないのではないか。ずっと遠くへ行ったまま、もう会えないのではないか。
「黒わん言って……嫌いになったなら、ちゃんと言って……」
電話の向こうで、黒鋼は溜息をつきながら「そんなわけねぇだろ」と言った。
『機嫌なおせ。俺だって、おまえに……』
黒鋼は、なぜか言いにくそうにその先を続けることをやめた。その沈黙がファイの不安をいっそう煽る。どうして何も言ってくれないんだろう。今、受話器の向こうで黒鋼はどんな顔をしているんだろう。
もちろんファイは黒鋼を信じている。いや、信じたいと思っている。
でも、怖い。信じるのが怖い。嫌われるのが怖い。あるとき突然、彼が消えてしまったら。
黒鋼は必ずまた来ると言っている。彼は嘘をついたことがない。いつだって優しいし、綺麗なオルゴールのペンダントもくれた。だからファイは黒鋼のことが好きで、大好きで。
大好きだから。
「もう、いい」
だから、こんなこと言いたくないけど。
ファイは気づいてしまった。辛くならずに済む方法。楽になる方法が、一つだけあることに。
「黒わん、もういいよ。もう……会いたくない……」
言った瞬間、楽になった。思った通り。心臓の痛みが、すぅっと治まっていくような気がする。
ユゥイが顔を顰め、慌ててファイの手から受話器を奪った。
「すみません……今日はちょっと様子がおかしいみたいで。いえ、いじけてるだけだと思いますから……ええ、そうですね。待ってます。じゃあ、また……」
通話を終えたユゥイは、ゆっくりと静かに息を吐き出してファイを見た。咎めるような視線に、目を合わせることができない。
「どうしてあんなこと言ったの?」
「…………嫌いになったから」
「嘘はよくないよ」
「嘘じゃないよ」
「ファイ……」
ファイは縫いかけの黒わんを掴むと、まだ何か言おうとしているユゥイに背を向け、部屋へ戻った。
***
どうしてか、部屋に戻ると治まっていたはずの心臓の痛みが蘇った。
針と糸がついたままの黒わんを机に置いて、ファイは胸を押さえながら床に崩れ落ちる。
「う……ッ、ぅ……」
呻きはすぐに嗚咽に変わった。悲しくて、心がバラバラになりそうだった。
ファイは首から下げている革紐を引っ張り、シャツの中からペンダントを取り出した。そしてそれを首から外し、思い切り床に投げつける。
一度だけ大きくバウンドしたそれは、滑るようにベッドの下に入り込んだ。
どうしてこんなに胸が痛いのか、ファイにはさっぱり分からない。
黒鋼のことを思うと心が熱くなった。お湯の中に浸かっているみたいに温かくて、そのうちだんだんのぼせたようになってきて、苦しくなった。
だけどファイはその感覚がとても好きだった。なぜか恥ずかしいような気持ちになってしまうけど、黒鋼に触れられると嬉しくて、側にいると楽しくて、会えない時間も彼を思うだけで幸せだった。
黒鋼はまた来ると言った。その言葉にきっと嘘はない。
でも怖い。あの黒わんのように、いつか何も言わずに消えてしまうのかもしれない。ファイを一人残して、遠くへ行ってしまうのかもしれない。
そうしたら、今よりもっと辛くて苦しくて、悲しい。
(だったらその前に、オレの方から嫌いになればいいんだ)
寂しいのは、大好きだから。
だけどその相手を嫌いになってしまえば、もう寂しくない。
会いたいと思うのをやめてしまえば、側にいたいと思うのをやめてしまえば。
(寂しくなくなるんだ)
嫌われる前に。置いていかれる前に。消えてしまう前に。
(なのに、どうして……)
こんなに胸が痛いんだろう。
***
「……なんだってんだよ」
タクシーの後部座席で、黒鋼は携帯のディスプレイを見つめたまま低く吐き捨てた。
ユゥイも言っていた通り、ファイの様子は明らかにおかしかった。
ここ最近の彼は以前よりも少し落ち着いていて、黒鋼の仕事へも理解を示すようになっていた。それがどうして。
(特にタイミングが悪かったのかもな……)
順調に進行していたはずの企画が先方との交渉決裂により白紙に戻り、埋め合わせとして組まれた特集のため、黒鋼は早々に地方へ飛ぶことになってしまった。
とるものもとりあえずタクシーを捕まえ、新幹線に乗るために駅へ向かう道中、ユゥイに断りの連絡を入れた結果がこれだ。まさか例のカレーのリベンジが今日だったなんて。
黒鋼は携帯をスーツのジャケットの内ポケットにしまい込むと、腕を組んで窓の外を睨み付けた。流れゆく夜の街並みを視界に収めながら、ファイの感情を押し殺したような声が頭から離れない。
『もう……会いたくない……』
どういうことだろう。
黒鋼は小さく舌打ちをする。あんなことを言われて、心穏やかでいられるはずがない。こんな気持ちの悪さを残したまま、遠い地へ赴かねばならないなんて。
やらなければならないことは山ほどある。これから向かう駅でカメラマンと合流して、新幹線に乗って、急きょ手配した安ホテルへ向かって。
突然の依頼にも快く取材を引き受けてくれた店のオーナーについて、明日は早朝から市場での取材も行われる予定になっている。
帰ったら帰ったでおそらく数日は身動きがとれない。それほどまでに、今回の企画のお蔵入りは突然で、手痛いものだった。
ついてない。そうとしか言いようがない。
「くそ……」
何がファイを追い詰めているのだろう。
そればかりが気になって、今すぐにでも運転手に行先の変更を告げてしまいたい衝動をぐっと堪えることに、黒鋼はただひたすら集中するしかなかった。
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