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倉庫サイトで公開していた過去ジャンル作品は少しずつこちらに移行していきます。
ぜんぶ合わせるとどえらい数なので時間かかりますが、歴史の積み重ねを感じられて懐かしい気持ちと、よく書いたな~って気持ちとでしみじみしてしまいます。
あまりにも昔の作品なのでいっそぜんぶ修正したい気持ちもあるんですが、それやろうと思ったら精神と時の部屋が必要になってしまうので、あえて当時のままにしておきます…。あ、でも黒ファイで書いていた幼馴染パラレルは微妙にタイトル変えました。パラレルっていま言わないですよね。令和ナイズというやつです(?)
倉庫サイトで公開していた過去ジャンル作品は少しずつこちらに移行していきます。
ぜんぶ合わせるとどえらい数なので時間かかりますが、歴史の積み重ねを感じられて懐かしい気持ちと、よく書いたな~って気持ちとでしみじみしてしまいます。
あまりにも昔の作品なのでいっそぜんぶ修正したい気持ちもあるんですが、それやろうと思ったら精神と時の部屋が必要になってしまうので、あえて当時のままにしておきます…。あ、でも黒ファイで書いていた幼馴染パラレルは微妙にタイトル変えました。パラレルっていま言わないですよね。令和ナイズというやつです(?)
すべてを思いだしたとき、ぼくはただ呆然としていた。
瞬きも忘れて、震える両手で頭に触れる。そこにはふさふさの毛で覆われた、大きな耳の感触があった。
キャスケットはいつの間にか消えていた。ずっとかぶっていたはずなのに。そこにはなにもない。黒い猫の耳が生えているだけ。だってこの森に来た最初の日、あのキャスケットは風で飛ばされてしまったから。
「ぼくは……」
操が失くしたんじゃない。あれはぼくが失くしたんだ。たったひとつのキャスケット。操の形見だったのに。探しても探しても、見つからなかった。
「ぼくが、生き返らせたかったのは……」
操だ。ぼくの大好きなお母さん。たった一人の、お母さん。
操を失ってから、ぼくはずっと泣いていた。彼が最後に望んだ通り、その亡骸を家の裏に埋めてからも、ずっと。
何日も泣いて暮らして、やがて疲れ果てたとき、ふと鏡を見るとそこには操が映っていた。操の名前をもらったぼく。鏡に映る操の姿。いつしかぼくは、「操は生きている」と、自分に暗示をかけて痛みを紛らわすようになっていった。
町の人達のまじないは、操がいなくなってすぐに効果がなくなった。
キャスケットで耳を隠しながら生きるぼくのことを、みんなが当たり前のように『操』と呼んで接してくれた。なんだ、やっぱり操は生きてるんじゃないか。ぼくはいっそう強く、そう思い込むようになっていった。
だけどだんだん、ぼくには分からなくなっていった。操の名前で呼ばれるたびに、ぼくと操の境界が曖昧になっていく。そのうち記憶まで、操のものとごちゃ混ぜになってしまった。
ぼくと操は双子の兄弟。生まれたときからずっと一緒。羽佐間容子を母と慕って、愛されながら生きてきた。それがぼく。それがぼくたち、来主操。
いつからか、ぼくには鏡なんかなくても操の存在が見えるようになっていった。
そんなある日、町の人達が噂しているのをたまたま聞いた。遠い町のハズレの森に、死者を蘇らせる研究をしている魔法使いがいる、っていう話を。
ぼくらは大切な『お母さん』を亡くしてしまったばかりだった。操はいつも泣いていて、ぼくはその泣き顔を見ているのがつらかった。だったら、お母さんを取り戻せばいい。噂の魔法使いを探せば、その願いが叶うかもしれない。
だからぼくは──ぼくらは、旅立つ決心をした。
操と一緒に長い長い旅に出て、そうしてたどり着いたのがこの場所だった。博士と出会って、操と三人で暮らしていたはずの、この家に。
だけどここには、最初からぼくと博士しかいなかった。そのことに気がついてしまった。今この瞬間が、ぼくが見ていた夢と幻の終着点になった。
「ぼくは、クロノス」
雨の路地裏で、寂しくて泣いていた黒猫。操に拾われ、たくさんたくさん愛されて、ヒトの真似事をしながら生きていた。それがぼくの正体だ。
「博士は、最初から知ってたんだね。ぼくのこと」
いまいち焦点が合わない瞳をさまよわせる。博士は深く息をついた。
「厄介なのが来たと思ったよ。人に化ける使い魔はいるけど、それにしてはあまりにも中途半端だったしね」
そりゃあそうだと、ぼくは思った。だってぼくは使い魔じゃない。ただの猫なんだから。博士からしたら、突然やってきた人間モドキが訳の分からないことをまくし立てていたのだから、勝手に思考を覗くしか手はなかったんだろう。
あのとき博士は、ごちゃ混ぜになったぼくと操の記憶を読んだ。この人はとても頭がいいから、幾つかの断片に触れるだけで十分だったんだ。だからすべてを知っていた。ぼくが壊れていたことも。
「知ってたのに、どうして黙ってたの? オレンジジュースだって、操のために買ってくれたんだと思ってた」
博士は、ぼくの奇妙な振る舞いを見てどう感じていたんだろう。誰もいない場所に向かって話しかけたり、笑ったりなんかしちゃってさ。
「君の安寧がそこにあるなら、壊す理由が俺にはなかった。最初はすぐに諦めて、出ていくだろうと思っていたしね。オレンジジュースは、君が欲しがったから買った。それだけだ」
「ぼくが……?」
ああ、そっか。そうだった。あのときぼくは言ったんだ。コーヒーを飲んで苦い顔をしていた操を笑いながら、
──操はコーヒーが苦手みたい。見てよこの顔! ねぇ博士、ジュースはないの? オレンジジュースがいいな! 操もそれなら飲めるでしょ?
って、そう言ったんだ。
あのとき博士は、ただ黙ってぼくを見守っていた。誰もいない空間に笑いかけるぼくのことを、否定も肯定もしないまま。
「そっか……そうだったんだ……」
ぼくは笑っていた。笑いながら、涙が溢れだすのを止められなかった。バカみたいだ。ずっと一人だったのに。操はもうどこにもいないのに。それを受け入れられなくて、自分で自分に、呪いみたいな暗示をかけて。
博士は泣いているぼくを見て、痛いのを我慢してるみたいな顔をした。そしてぼくのことを引き寄せて、強く抱きしめると「ごめん」と言った。
「暗示を解いたのは、俺のエゴだよ。俺もいい加減、夢から醒めなくちゃいけない。だから本当の君と、ちゃんと向き合って話がしたいと思った」
「夢から、さめる……?」
「腹を括るってことだよ」
そう言って、博士はひとつ大きな息をはきだした。そして、言った。
「俺は、君の願いを叶えてやれない」
それはぼくが何度も博士に投げかけていた問いへの答えだった。死者を蘇らせる奇跡の魔法。そんなものは、決して完成しないってこと。不可能だってこと。
博士の口からはっきりと告げられても、ぼくはちっとも驚かなかった。どこかでは分かっていたんだと思う。博士に肯定してほしくて泣いていたあの夜のぼくは、操の幻と一緒に消えていた。
「もうずいぶん前から、分かっていたことなんだ」
あるいは最初から──博士はそう付け加えると吐く息を震わせた。もうとっくの昔から、博士はちゃんと気づいてたんだ。なのに研究を続けてた。森の奥でずっと孤独に、町の人たちに笑われながら。
「分かってたのに、どうして研究を続けていたの?」
「……願いを捨てられなかったから」
博士は少しだけ身体を離すと、ぼくの瞳を覗き込む。
「翔子を、過去にしたくなかった」
──翔子。
ぼくは写真立てで笑っていた女の子のことを思いだした。羽佐間容子の大切な一人娘。操にとっては、会ったことのないお姉ちゃんのような存在。
博士が蘇らせたかったのは彼女だったのだと知って、ぼくは驚いた。
「翔子とは幼馴染だった。ずっと好きだった。だから取り戻したくて、必ず完成させるつもりで研究していた。だけど、どうしたって不可能だってことはすぐに分かったよ。どれほど足掻こうとも、同じ命は二度と生み出せない」
ぼくの肩をすっぽりと包み込む博士の手に、ぐっと力が込められていた。博士は淡々と言うけれど、そこから痛いほど伝わってくる。悔しさだとか、虚しさだとか、恋しさだとか。
たくさんの痛みがぼくのなかに流れ込み、やがて受け止めきれないものが次から次へと溢れてく。
一緒だ。ぼくと一緒。諦めたくなかった。もういちど会いたかった。大切なひとの笑顔が見たかった。ただそれだけだったんだ。
「博士……博士ぇ……うわあぁぁ……っ」
ぼくは博士に縋りつき、子供みたいに大声で泣きじゃくった。
操は二度と戻ってこない。羽佐間容子も、翔子も。ショコラだってそうだ。それでもぼくは操が笑顔で逝ったことを、どうしても受け入れたくなかった。
だから目を背けた。ぼくも博士も。捨てきれない願いに足掻くことが、生きる理由になっていた。
だけどぼくはここに来て、今の暮らしに満足しはじめていた。朝は一緒にコーヒーを飲んで、博士のためにご飯を作って、掃除をして、お使いをして、夜はふたりで月を見上げて、ささやかなキスをして。
そんな毎日の繰り返しを幸せだと感じるたびに、ぼくが見ていた幻の操は苦しそうな顔をした。あれはぼくの、もう一つの心の形だったんだ。幸福だと思うほど、ぼくはぼくが許せなかった。操を過去にしようとしている、自分のことが許せなかった。
──ずっと空で見てるから……幸せになって、操。
操は最期に言ったのに。ぼくに幸せになれって。そう願ってくれていたのに。
だからぼくも博士と同じだ。いい加減、腹を括らなきゃいけない。
操を失くしたまま、翔子を失くしたまま、それでもぼくらは生きなきゃならない。共に歩いていきたいと、そう思える存在に出会えたから。
ぼくの中で、それは新しい『希望』になった。
博士は泣いてばかりいるぼくを、いつまでも抱きしめてくれた。だけどだんだん泣き疲れて、しゃくりが小さくなってくると、ぼくの頬に触れて上向かせた。
「魔法は完成しない。だけど君にかかった魔法は、いつか解くことができるかもしれない。時間はかかると思うけど」
博士の言葉に、ぼくはゆっくりと首を横に振った。
「この魔法は、操がくれた宝物なんだ。だからこのまま生きてくよ。それに、猫の姿じゃ博士のお世話ができないもん」
たくさん泣いてしまったことが気恥ずかしくて、照れ笑いを浮かべながら言ったぼくに、博士も笑うと「そっか」と言った。
操に拾われた黒猫の姿も、クロノスという名前も、大切なぼくだけの宝物であることに変わりはない。この未完の魔法が、いつまで続くかも分からないけど。
それまでは、まるで双子みたいに操そっくりのぼくでいたい。そう思ったから。
*
「わぁ……きれいな空……!」
宝石のようにキラキラとした日差しに、どこまでも広がる深い青。散りばめられた雲の波間を、小鳥たちが泳いでる。気持ちよさそうだなと思いながら、ぼくはそっと瞳をすがめた。
思わず立ち止まって見とれていたけど、ぐぅっとお腹が鳴って気がついた。太陽は真上にある。つまり昼食の時間だ。最近、木の実を使ってジャムを作れるようになったから、焼いたパンに塗って食べよう。
ぼくはウキウキしながら帰りを急いだ。オバケ森のずっと奥。古びた家の煙突からは、今日もモクモクと煙が上がってる。
「甲洋、ただいまー! ねぇ見て! おっきなヘビを捕まえたよ!」
帰宅したぼくは、肩に担いでいた大袋を床に置いた。中には巨大な蛇が入ってる。もちろん今夜のご飯だ。これを料理して、残りは干し肉にするつもり。
騒がしく帰宅したぼくを、奥の研究部屋から姿を現した甲洋が「おかえり」と言って出迎えてくれた。だけどその顔は明らかに曇ってる。
「あのさ来主、肉が食べたいなら溝口さんに頼むから……鶏とか豚とか、無難なやつをさ……だからわざわざ捕まえてこなくても……」
「なんで? 自分の獲物は自分で狩らなきゃ、ありがたみがないでしょ?」
「そういうとこ猫なんだよな、お前って……」
「君だって虫とかトカゲとか入れてお薬作るじゃん」
「俺が飲んだり塗ったりするわけじゃないし」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ!」
甲洋がおっきな溜息をついた。いつもこういう反応をするくせに、料理したものは必ず残さず食べてくれる。だから嬉しくてついがんばっちゃうんだ。
一人の頃はまともに食べてなかったみたいだけど、ぼくがいるからにはそうはさせない。愛情いっぱいの手料理を食べて、いつも元気でいてもらわなきゃ。
「もしぼくに子供がいたら、こんな気分なのかな?」
「なにか言った?」
横目で睨まれて、ぼくは笑って誤魔化した。
「それより、ちゃんとキノコや葉っぱも採ってきたよ! これで足りる?」
ヘビが入った袋の他に、ぼくはもうひとつ手に持っていたバスケットをテーブルの上に置くと蓋を開けた。甲洋が覗き込んできて、「十分だ」と言いながらぼくの頭を黒い耳ごとくしゃっと撫でる。それが嬉しくて、ダボダボのオーバーオールの中で太ももに巻きつけているしっぽが跳ねた。
「ありがとう、来主」
「うん! これでお仕事と研究、がんばってね!」
甲洋は相変わらず熱心に研究を続けてる。例の疫病を封じるための、特効薬の研究だ。かなり前から並行して続けていたらしいけど、今はそれ一本になっていた。
甲洋なら、いつか必ず完成させるって信じてる。だからぼくはそれまでずっと、それからもずっと、甲洋の弟子見習いでいるつもり。いつまで見習いなのかは知らないけど、まぁいっか。
「ああ、そうだ」
バスケットを持ってまた奥の部屋に引っ込もうとしていた甲洋が、思いだしたようにクルリと振り向いて、ぼくのそばまでやってきた。黒いローブの中をごそごそとまさぐって、取り出したものをぼくの頭にポンとかぶせる。
「え? 博士、これって……!」
それは風に飛ばされて失くしたはずの、操の形見のキャスケットだった。どんなに探しても見つからなかったのに。それがどうして?
両手を頭にやってキャスケットに触れながら、目をまんまるにするぼくを見て甲洋が微笑む。
「ついさっきね。見つけたよ」
「ど、どこで!?」
「ショコラのお墓で」
甲洋がいつもいる奥の部屋の窓からは、ショコラのお墓がよく見える。ぼくがお使いと狩りに出かけているあいだ、ふと窓の外に目をやった甲洋は、そこにキャスケットがあるのを見つけた。細い丸太を組んで作った十字架の頭に、それは引っかかっていた。
ぼくはキャスケットを外すと、まじまじと見下ろした。もう諦めるしかないって思っていたから、嬉しすぎて涙がにじむ。胸が熱くて、ジンジンしていた。
「ショコラが見つけてくれたのかな?」
森のなかで迷子になっていた操のキャスケット。ショコラが探して、風に乗せて届けてくれたのかもしれない。そうだったらいいなって、ぼくは思った。
「きっとね」
博士はそう言って、ぼくの頬に触れると身を屈めた。ぼくは軽く背伸びをしながら目を閉じる。そっと優しく、唇同士が触れ合った。もっとしていたいのに、キスは一瞬で終わってしまう。次にするのはまた今夜、大きな月を見上げるベンチで。
待ち遠しくて、熱っぽい息がほぅっと漏れる。甲洋の頬もうっすら赤い。照れくさそうに目を逸らす仕草に、ぼくはちょっぴり笑ってしまう。幸せだなって、心からそう思った。
──あのね、操。
恥ずかしいから、本当は秘密にしておきたいけど。
君はきっと、空からずっと見ていたよね。ぼくが初めて恋をしたこと。
今なら信じられる気がするよ。そこに君がいることを。だからもう、空を見ても悲しくないんだ。
君はお母さんに会えたかな。翔子もショコラも、きっとそこにいるんだね。
だからさよなら、お母さん。
さよなら、ぼくらの愛しい人たち。大好きな人たち。
いつかきっと、また会う日まで。
これからもそこで見ていてほしい。ぼくと、ぼくの大切な人のこと。
ぼくらはゆっくり、歩いていくから。
胸いっぱいに好きが溢れて、ぼくは操のキャスケットを優しく胸に抱き寄せた。
博士とクロノス / 了
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瞬きも忘れて、震える両手で頭に触れる。そこにはふさふさの毛で覆われた、大きな耳の感触があった。
キャスケットはいつの間にか消えていた。ずっとかぶっていたはずなのに。そこにはなにもない。黒い猫の耳が生えているだけ。だってこの森に来た最初の日、あのキャスケットは風で飛ばされてしまったから。
「ぼくは……」
操が失くしたんじゃない。あれはぼくが失くしたんだ。たったひとつのキャスケット。操の形見だったのに。探しても探しても、見つからなかった。
「ぼくが、生き返らせたかったのは……」
操だ。ぼくの大好きなお母さん。たった一人の、お母さん。
操を失ってから、ぼくはずっと泣いていた。彼が最後に望んだ通り、その亡骸を家の裏に埋めてからも、ずっと。
何日も泣いて暮らして、やがて疲れ果てたとき、ふと鏡を見るとそこには操が映っていた。操の名前をもらったぼく。鏡に映る操の姿。いつしかぼくは、「操は生きている」と、自分に暗示をかけて痛みを紛らわすようになっていった。
町の人達のまじないは、操がいなくなってすぐに効果がなくなった。
キャスケットで耳を隠しながら生きるぼくのことを、みんなが当たり前のように『操』と呼んで接してくれた。なんだ、やっぱり操は生きてるんじゃないか。ぼくはいっそう強く、そう思い込むようになっていった。
だけどだんだん、ぼくには分からなくなっていった。操の名前で呼ばれるたびに、ぼくと操の境界が曖昧になっていく。そのうち記憶まで、操のものとごちゃ混ぜになってしまった。
ぼくと操は双子の兄弟。生まれたときからずっと一緒。羽佐間容子を母と慕って、愛されながら生きてきた。それがぼく。それがぼくたち、来主操。
いつからか、ぼくには鏡なんかなくても操の存在が見えるようになっていった。
そんなある日、町の人達が噂しているのをたまたま聞いた。遠い町のハズレの森に、死者を蘇らせる研究をしている魔法使いがいる、っていう話を。
ぼくらは大切な『お母さん』を亡くしてしまったばかりだった。操はいつも泣いていて、ぼくはその泣き顔を見ているのがつらかった。だったら、お母さんを取り戻せばいい。噂の魔法使いを探せば、その願いが叶うかもしれない。
だからぼくは──ぼくらは、旅立つ決心をした。
操と一緒に長い長い旅に出て、そうしてたどり着いたのがこの場所だった。博士と出会って、操と三人で暮らしていたはずの、この家に。
だけどここには、最初からぼくと博士しかいなかった。そのことに気がついてしまった。今この瞬間が、ぼくが見ていた夢と幻の終着点になった。
「ぼくは、クロノス」
雨の路地裏で、寂しくて泣いていた黒猫。操に拾われ、たくさんたくさん愛されて、ヒトの真似事をしながら生きていた。それがぼくの正体だ。
「博士は、最初から知ってたんだね。ぼくのこと」
いまいち焦点が合わない瞳をさまよわせる。博士は深く息をついた。
「厄介なのが来たと思ったよ。人に化ける使い魔はいるけど、それにしてはあまりにも中途半端だったしね」
そりゃあそうだと、ぼくは思った。だってぼくは使い魔じゃない。ただの猫なんだから。博士からしたら、突然やってきた人間モドキが訳の分からないことをまくし立てていたのだから、勝手に思考を覗くしか手はなかったんだろう。
あのとき博士は、ごちゃ混ぜになったぼくと操の記憶を読んだ。この人はとても頭がいいから、幾つかの断片に触れるだけで十分だったんだ。だからすべてを知っていた。ぼくが壊れていたことも。
「知ってたのに、どうして黙ってたの? オレンジジュースだって、操のために買ってくれたんだと思ってた」
博士は、ぼくの奇妙な振る舞いを見てどう感じていたんだろう。誰もいない場所に向かって話しかけたり、笑ったりなんかしちゃってさ。
「君の安寧がそこにあるなら、壊す理由が俺にはなかった。最初はすぐに諦めて、出ていくだろうと思っていたしね。オレンジジュースは、君が欲しがったから買った。それだけだ」
「ぼくが……?」
ああ、そっか。そうだった。あのときぼくは言ったんだ。コーヒーを飲んで苦い顔をしていた操を笑いながら、
──操はコーヒーが苦手みたい。見てよこの顔! ねぇ博士、ジュースはないの? オレンジジュースがいいな! 操もそれなら飲めるでしょ?
って、そう言ったんだ。
あのとき博士は、ただ黙ってぼくを見守っていた。誰もいない空間に笑いかけるぼくのことを、否定も肯定もしないまま。
「そっか……そうだったんだ……」
ぼくは笑っていた。笑いながら、涙が溢れだすのを止められなかった。バカみたいだ。ずっと一人だったのに。操はもうどこにもいないのに。それを受け入れられなくて、自分で自分に、呪いみたいな暗示をかけて。
博士は泣いているぼくを見て、痛いのを我慢してるみたいな顔をした。そしてぼくのことを引き寄せて、強く抱きしめると「ごめん」と言った。
「暗示を解いたのは、俺のエゴだよ。俺もいい加減、夢から醒めなくちゃいけない。だから本当の君と、ちゃんと向き合って話がしたいと思った」
「夢から、さめる……?」
「腹を括るってことだよ」
そう言って、博士はひとつ大きな息をはきだした。そして、言った。
「俺は、君の願いを叶えてやれない」
それはぼくが何度も博士に投げかけていた問いへの答えだった。死者を蘇らせる奇跡の魔法。そんなものは、決して完成しないってこと。不可能だってこと。
博士の口からはっきりと告げられても、ぼくはちっとも驚かなかった。どこかでは分かっていたんだと思う。博士に肯定してほしくて泣いていたあの夜のぼくは、操の幻と一緒に消えていた。
「もうずいぶん前から、分かっていたことなんだ」
あるいは最初から──博士はそう付け加えると吐く息を震わせた。もうとっくの昔から、博士はちゃんと気づいてたんだ。なのに研究を続けてた。森の奥でずっと孤独に、町の人たちに笑われながら。
「分かってたのに、どうして研究を続けていたの?」
「……願いを捨てられなかったから」
博士は少しだけ身体を離すと、ぼくの瞳を覗き込む。
「翔子を、過去にしたくなかった」
──翔子。
ぼくは写真立てで笑っていた女の子のことを思いだした。羽佐間容子の大切な一人娘。操にとっては、会ったことのないお姉ちゃんのような存在。
博士が蘇らせたかったのは彼女だったのだと知って、ぼくは驚いた。
「翔子とは幼馴染だった。ずっと好きだった。だから取り戻したくて、必ず完成させるつもりで研究していた。だけど、どうしたって不可能だってことはすぐに分かったよ。どれほど足掻こうとも、同じ命は二度と生み出せない」
ぼくの肩をすっぽりと包み込む博士の手に、ぐっと力が込められていた。博士は淡々と言うけれど、そこから痛いほど伝わってくる。悔しさだとか、虚しさだとか、恋しさだとか。
たくさんの痛みがぼくのなかに流れ込み、やがて受け止めきれないものが次から次へと溢れてく。
一緒だ。ぼくと一緒。諦めたくなかった。もういちど会いたかった。大切なひとの笑顔が見たかった。ただそれだけだったんだ。
「博士……博士ぇ……うわあぁぁ……っ」
ぼくは博士に縋りつき、子供みたいに大声で泣きじゃくった。
操は二度と戻ってこない。羽佐間容子も、翔子も。ショコラだってそうだ。それでもぼくは操が笑顔で逝ったことを、どうしても受け入れたくなかった。
だから目を背けた。ぼくも博士も。捨てきれない願いに足掻くことが、生きる理由になっていた。
だけどぼくはここに来て、今の暮らしに満足しはじめていた。朝は一緒にコーヒーを飲んで、博士のためにご飯を作って、掃除をして、お使いをして、夜はふたりで月を見上げて、ささやかなキスをして。
そんな毎日の繰り返しを幸せだと感じるたびに、ぼくが見ていた幻の操は苦しそうな顔をした。あれはぼくの、もう一つの心の形だったんだ。幸福だと思うほど、ぼくはぼくが許せなかった。操を過去にしようとしている、自分のことが許せなかった。
──ずっと空で見てるから……幸せになって、操。
操は最期に言ったのに。ぼくに幸せになれって。そう願ってくれていたのに。
だからぼくも博士と同じだ。いい加減、腹を括らなきゃいけない。
操を失くしたまま、翔子を失くしたまま、それでもぼくらは生きなきゃならない。共に歩いていきたいと、そう思える存在に出会えたから。
ぼくの中で、それは新しい『希望』になった。
博士は泣いてばかりいるぼくを、いつまでも抱きしめてくれた。だけどだんだん泣き疲れて、しゃくりが小さくなってくると、ぼくの頬に触れて上向かせた。
「魔法は完成しない。だけど君にかかった魔法は、いつか解くことができるかもしれない。時間はかかると思うけど」
博士の言葉に、ぼくはゆっくりと首を横に振った。
「この魔法は、操がくれた宝物なんだ。だからこのまま生きてくよ。それに、猫の姿じゃ博士のお世話ができないもん」
たくさん泣いてしまったことが気恥ずかしくて、照れ笑いを浮かべながら言ったぼくに、博士も笑うと「そっか」と言った。
操に拾われた黒猫の姿も、クロノスという名前も、大切なぼくだけの宝物であることに変わりはない。この未完の魔法が、いつまで続くかも分からないけど。
それまでは、まるで双子みたいに操そっくりのぼくでいたい。そう思ったから。
*
「わぁ……きれいな空……!」
宝石のようにキラキラとした日差しに、どこまでも広がる深い青。散りばめられた雲の波間を、小鳥たちが泳いでる。気持ちよさそうだなと思いながら、ぼくはそっと瞳をすがめた。
思わず立ち止まって見とれていたけど、ぐぅっとお腹が鳴って気がついた。太陽は真上にある。つまり昼食の時間だ。最近、木の実を使ってジャムを作れるようになったから、焼いたパンに塗って食べよう。
ぼくはウキウキしながら帰りを急いだ。オバケ森のずっと奥。古びた家の煙突からは、今日もモクモクと煙が上がってる。
「甲洋、ただいまー! ねぇ見て! おっきなヘビを捕まえたよ!」
帰宅したぼくは、肩に担いでいた大袋を床に置いた。中には巨大な蛇が入ってる。もちろん今夜のご飯だ。これを料理して、残りは干し肉にするつもり。
騒がしく帰宅したぼくを、奥の研究部屋から姿を現した甲洋が「おかえり」と言って出迎えてくれた。だけどその顔は明らかに曇ってる。
「あのさ来主、肉が食べたいなら溝口さんに頼むから……鶏とか豚とか、無難なやつをさ……だからわざわざ捕まえてこなくても……」
「なんで? 自分の獲物は自分で狩らなきゃ、ありがたみがないでしょ?」
「そういうとこ猫なんだよな、お前って……」
「君だって虫とかトカゲとか入れてお薬作るじゃん」
「俺が飲んだり塗ったりするわけじゃないし」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ!」
甲洋がおっきな溜息をついた。いつもこういう反応をするくせに、料理したものは必ず残さず食べてくれる。だから嬉しくてついがんばっちゃうんだ。
一人の頃はまともに食べてなかったみたいだけど、ぼくがいるからにはそうはさせない。愛情いっぱいの手料理を食べて、いつも元気でいてもらわなきゃ。
「もしぼくに子供がいたら、こんな気分なのかな?」
「なにか言った?」
横目で睨まれて、ぼくは笑って誤魔化した。
「それより、ちゃんとキノコや葉っぱも採ってきたよ! これで足りる?」
ヘビが入った袋の他に、ぼくはもうひとつ手に持っていたバスケットをテーブルの上に置くと蓋を開けた。甲洋が覗き込んできて、「十分だ」と言いながらぼくの頭を黒い耳ごとくしゃっと撫でる。それが嬉しくて、ダボダボのオーバーオールの中で太ももに巻きつけているしっぽが跳ねた。
「ありがとう、来主」
「うん! これでお仕事と研究、がんばってね!」
甲洋は相変わらず熱心に研究を続けてる。例の疫病を封じるための、特効薬の研究だ。かなり前から並行して続けていたらしいけど、今はそれ一本になっていた。
甲洋なら、いつか必ず完成させるって信じてる。だからぼくはそれまでずっと、それからもずっと、甲洋の弟子見習いでいるつもり。いつまで見習いなのかは知らないけど、まぁいっか。
「ああ、そうだ」
バスケットを持ってまた奥の部屋に引っ込もうとしていた甲洋が、思いだしたようにクルリと振り向いて、ぼくのそばまでやってきた。黒いローブの中をごそごそとまさぐって、取り出したものをぼくの頭にポンとかぶせる。
「え? 博士、これって……!」
それは風に飛ばされて失くしたはずの、操の形見のキャスケットだった。どんなに探しても見つからなかったのに。それがどうして?
両手を頭にやってキャスケットに触れながら、目をまんまるにするぼくを見て甲洋が微笑む。
「ついさっきね。見つけたよ」
「ど、どこで!?」
「ショコラのお墓で」
甲洋がいつもいる奥の部屋の窓からは、ショコラのお墓がよく見える。ぼくがお使いと狩りに出かけているあいだ、ふと窓の外に目をやった甲洋は、そこにキャスケットがあるのを見つけた。細い丸太を組んで作った十字架の頭に、それは引っかかっていた。
ぼくはキャスケットを外すと、まじまじと見下ろした。もう諦めるしかないって思っていたから、嬉しすぎて涙がにじむ。胸が熱くて、ジンジンしていた。
「ショコラが見つけてくれたのかな?」
森のなかで迷子になっていた操のキャスケット。ショコラが探して、風に乗せて届けてくれたのかもしれない。そうだったらいいなって、ぼくは思った。
「きっとね」
博士はそう言って、ぼくの頬に触れると身を屈めた。ぼくは軽く背伸びをしながら目を閉じる。そっと優しく、唇同士が触れ合った。もっとしていたいのに、キスは一瞬で終わってしまう。次にするのはまた今夜、大きな月を見上げるベンチで。
待ち遠しくて、熱っぽい息がほぅっと漏れる。甲洋の頬もうっすら赤い。照れくさそうに目を逸らす仕草に、ぼくはちょっぴり笑ってしまう。幸せだなって、心からそう思った。
──あのね、操。
恥ずかしいから、本当は秘密にしておきたいけど。
君はきっと、空からずっと見ていたよね。ぼくが初めて恋をしたこと。
今なら信じられる気がするよ。そこに君がいることを。だからもう、空を見ても悲しくないんだ。
君はお母さんに会えたかな。翔子もショコラも、きっとそこにいるんだね。
だからさよなら、お母さん。
さよなら、ぼくらの愛しい人たち。大好きな人たち。
いつかきっと、また会う日まで。
これからもそこで見ていてほしい。ぼくと、ぼくの大切な人のこと。
ぼくらはゆっくり、歩いていくから。
胸いっぱいに好きが溢れて、ぼくは操のキャスケットを優しく胸に抱き寄せた。
博士とクロノス / 了
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ここに来てそろそろ二ヶ月。ぼくらのお手伝い生活も、だいぶ板についてきた。
家事も手際よくこなせるようになってきたし、料理の腕だって上達してきたと思う。少なくともスープの味付けを失敗したり、パンを焦がすことはなくなった。
それでもぼくらはまだ、正式に弟子としては認められていない。本当に、ただの住み込みのお手伝いさんって感じだ。
だけどもしちゃんと弟子になれたとしても、今とやることは変わらないような気がしてる。だってぼくは魔法のことよく知らないし、あまり興味もなかったし、魔術書に書かれている文字なんか、ミミズが踊ってるようにしか見えないもん。
でも、今のままでもそれなりに役には立ててると思う。ほこりっぽかった家の中はいつもピカピカに掃除してるし、研究や薬を作るための材料集めだって、ぼくらの仕事だ。博士はそのぶん、研究に没頭できるんだから。
最近はちょっとだけ──本当にちょっとだけなんだけど、ここでの暮らしもいいなって思うようになったんだ。
操がいて、博士がいて、ぼくがいる。お母さんと暮らしていた頃も幸せだったし、お母さんにまた会いたいって気持ちは変わらないけど、今は今で、けっこう楽しい。それに──。
ぼくと博士は、あれからときどき内緒のキスをするようになっていた。場所は決まってあの玄関脇のベンチで、時間は深夜。別に約束してるわけじゃない。ぼくはあの夜からこっそり屋根裏部屋を抜け出して、ベンチに座って夜空を眺めるのが習慣になっていた。
するとショコラのお墓参りを終えた博士がやってきて、ぼくの隣に座るんだ。そこでぼくと博士は、ぽつりぽつりと言葉を交わす。明日のご飯は何にしようとか、森で見つけた不思議な虫や植物のこととか。
何気ないことばかりだけど、博士と話せる時間が嬉しくて、ぼくはいつの間にか博士にぴったりくっついている。なんでかな。二人きりでいると、どうしてか博士に甘えたいような気分になってしまう。
変だなって自分でも思うけど、博士は黙ってぼくの好きにさせてくれる。そうするといつの間にか会話が途切れて、ぼくらはどこかぼうっとしながら見つめ合う。
博士がぼくの頬に触れて、そっと顔を近づけてくると、ぼくは自然と目を閉じる。唇が重なり合うと、頭の中が痺れたみたいになって気持ちよかった。
そのたびにぼくは、ずっと博士とこうしていたいって、そんなふうに思うようになっていた。
*
「操、ここはもういいから、次は裏庭に行こうよ」
その日、ぼくらは朝から家の前で草むしりをしていた。
むしった草を一ヶ所にまとめ終えて振り返ると、操はしゃがみこんだまま手を止めて、ぼーっとしながら地面を見つめている。
「ねぇ操ってば。聞いてる?」
「……あ、ごめん。なにか言った?」
「操……」
ぼくはふっと息をつきながら操のそばまで行くと、かぶっていたキャスケットを脱いでその頭にかぶせようとした。だけど、操はそれを手で遮って首を横に振る。
「操?」
「いい。それは操のものだから」
「ぼくだけのじゃないよ。これは二人の」
「いいんだ。おれにはもう必要ない」
「なんで? なんでそんなこと言うの……?」
ぼくは操に拒まれたことにショックを受けていた。今までこんなことはなかったし、操の様子はいつもと明らかに違ってる。だけど本当は分かってた。操の不安な気持ちが、少しずつ苛立ちに変わってきてるってこと。
博士の研究は相変わらずだ。いつも失敗ばかりしている。そのたんびに、操の表情が曇る回数も増えていた。ぼくもその気持ちはわかってるつもりだけど。
「だったらもういいよ。操なんかもう知らないから!」
ぼくは操から顔を背けて、キャスケットをかぶり直した。操はなにも言おうとしない。ケンカをするのは初めてのことじゃないけど、こういうときはいつも操の方からすぐに謝ってくる。だけど今日はそれがなかった。
イライラとした気持ちより、悲しいって気持ちのほうが大きくなってくる。こんなんじゃダメだ。今日はぼくから謝ろう。無言でいることに耐えられなくなってきて、ぼくは口を開きかけた。
だけどそのとき──。
ドンッ!!
森中に響き渡るほど大きな音がして、驚いた鳥たちが一斉にそこらじゅうの木から羽ばたいた。
「今のなに!?」
「家からしたよ! 博士の部屋だ!」
「でも、いつもより大きくなかった!?」
「行ってみよう!」
今はケンカなんかしてる場合じゃない。ぼくは操の手を掴んで駆けだした。家のドアを開けると、中から焦げ臭い煙が一気に噴きだしてくる。
むせている操の手を強く引いて、ぼくは博士の部屋まで一気に走った。
「博士! 大丈夫!?」
飛び込んできたのは、いつもは紫の煙を上げている壺の中から、モクモクと赤黒い煙が湧きだしている光景だった。大量の本やレポート用紙が床に散乱して、魔術道具も幾つか粉々になって散らばっている。
博士は尻もちをついた状態で、煙をあげる壺を疲れた様子で見つめていた。
「は、博士……?」
恐る恐る、ぼくらは部屋に踏み入った。頬に煤をつけた博士はゆっくりとぼくらに視線を向け、それから大きく溜息をつく。
「問題ない。悪いけど、換気するのを手伝ってくれる?」
「わかった! 操、行こう! 家中の窓を開けなくちゃ!」
ぼくはまた操の手を引こうとしたけど、操はびくとも動かない。ただ悲しそうに壺を見て、それからガクンと項垂れてしまった。
「また、失敗……」
「操……?」
「やっぱりなにも生まれない。どんなにがんばったって、お母さんを取り戻すことなんかできっこないんだ」
「ッ!」
「ごめんね操……おれはもう、ここにはいられない」
操はぼくの手を振り払い、部屋を飛びだして行ってしまう。
「操っ!!」
追いかけなくちゃ。頭ではそう思うけど、どうしてかぼくはその場から動くことができなかった。ショックだった。ぼくは博士を信じたかったし、だから今日までがんばってきたつもりだった。それは操も同じなんだと思っていたけど。
やっぱりって、操は言った。やっぱりなにも生まれないって。操は、いつからかとっくに諦めていた。お母さんのことも、博士のことも。
ぼくはそれが悲しくて、どうしたらいいか分からなくて、迷子みたいに途方に暮れた。
博士はなにも言おうとしない。あぐらをかいて、頬についた煤を手の甲で拭っている。ぼくは博士のそばに駆け寄ると、膝をついてその肩を揺さぶった。
「ねぇ、大丈夫だよね? いつかきっと上手くいくんだよね?」
「……」
「どうしてなにも言ってくれないの!? 博士にだっているんでしょ? 大事な人、取り戻したいんでしょ? だからがんばってるんでしょ!?」
ぼくは博士まで弱気になっているんだと思った。だから必死で励まそうとした。
「元気だしてよ! きっと大丈夫だよ! 博士がそんなんじゃ」
「──君は、」
「っ?」
ずっと壺を見つめていた博士が、少し険しい目をしてぼくを見ると
「君が生き返らせたいのは、誰なんだ?」
と、そう言った。
「……誰、って」
ぼくは問われたことの意味が理解できなかった。どうして今更そんなことを聞くんだろう。博士には、初めて会った日にちゃんと伝えているはずだ。
「博士、忘れちゃったの? 最初にちゃんと言ったじゃないか。お母さんを生き返らせたいって……」
「俺は聞いてない。君はあのとき、なにも言わずにただうつむいていただけだ」
「な、なに言ってるの? だって、ちゃんと言ったよ。あのとき、操が──」
──お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!
「クロノス」
「ッ……?」
辺りを覆っていた煙が、少しずつ晴れてきた。博士はぼくの目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「俺の目の前には、最初から君ひとりしかいなかった」
*
雨が降っていた。ぼくはどこかの町の路地裏で、ボロボロの木箱に入れられて、ひとりぼっちで泣いていた。
いつからここにいるんだろう。気づいたときにはここにいた。寒くて、お腹がペコペコで、寂しくて。誰でもいいから助けてほしくて、必死で声を上げていた。
「捨て猫?」
そのときだった。雨を遮るようにして、黒い影がぼくを覆った。
ベージュのキャスケットをかぶって、空色のチェックシャツにオーバーオールを着た男の子が、箱の中にいるぼくを丸い目で見下ろしていた。
「わぁ、ちっちゃい。黒猫だね。目が金色だ」
男の子は白い手でぼくを抱き上げた。ぼくは怖くてたまらず、黒い毛を逆立てながら、シャ、シャ、と男の子を威嚇した。
「怖がらないで。ひとりぼっちなんだね。おれも同じ。お母さん、病気で死んじゃったから」
男の子の瞳が一瞬曇った。だけどぼくの頭をそっと撫でて、それからかぶっていたキャスケットを脱ぐと、その中にぼくを入れて抱きしめながらニコリと笑った。
「帰ろう、一緒に」
それがぼくと操の出会いだった。
*
操はぼくに自分の話をたくさんして聞かせてくれた。
ぼくと同じで赤ちゃんの頃に捨てられて、貧しい孤児院で暮らしていたこと。同じくらいの子供たちと一緒に、狭い部屋で身を寄せ合っていたこと。6歳のころに、魔力を暴走させてしまったこと。
操には普通では考えられないほど大きな魔力が秘められていて、ある日そうと知らずに暴走させてしまった。
友達におねしょをしたことをからかわれて、悔しくて泣いてしまった──たったそれだけのはずだったのに。
気づいたときには部屋が滅茶苦茶になっていて、窓ガラスが粉々に砕け散っていた。机も椅子もボロボロで、壁にはヒビまで入って、そばにいた友達の中には、怪我をして泣いている子までいた。
『この子は危険だ。ここに置いておくことはできない』
孤児院の大人たちはそう言って、オバケでも見るような目で操を見た。そして森の外れまで連れて行き、そのまま置き去りにしてしまった。
誰もいない森の中で、操はお腹を空かせながら何日も泣いていた。夜は獣の声に怯えながら、たまたま見つけた穴蔵の中に身体を押し込めて眠った。
やがて寒さと空腹で動けなくなった。ここで死ぬんだ。そう思っていたら、容子に出会った。
羽佐間容子という女の人は、町外れの小さな家で修理屋を営んでいた。森の中で必要な材料を探しているときに、たまたま倒れている操を見つけた。
家に連れ帰り、食事と洋服を与えてくれた。どこにも行く場所がない操に、「私も一人ぼっちなのよ」と笑って、ここにいてもいいと言ってくれた。
その日から、容子は操のお母さんになった。
学校へも通わせてもらって、そこで魔法の勉強をして、ちゃんと魔力をコントロールすることができるようになった。
でも、どんなに上手に魔法が使えるようになっても、おねしょの癖だけはなおらなかった。12歳までその癖は抜けなかったけど、容子はいつも笑いながらシーツを洗って干してくれた。
容子は操のことを、本当の子供みたいに愛してくれた。操も、容子のことが大好きだった。本当のお母さんだと思っていた。
家には黒髪の女の子の写真が飾られていた。翔子っていう名前の女の子。だけどあまり身体が丈夫じゃなくて、操が来る少し前に、疫病で死んじゃったんだって。
容子は寂しそうに写真を見つめながら、よく翔子の話を聞かせてくれた。操と同じで血の繋がりはなかったけれど、本当の娘みたいだったって。
そんなある日のこと──容子が、翔子と同じ病気にかかってしまった。
操は14歳になっていた。何度もお医者さんに見てもらったし、操も必死で病気を治すための魔法を試した。だけど、ぜんぜんダメだった。
容子はひどい熱と咳が止まらず、最後には血まで吐くようになった。
そして、死んでしまった。
操は何日も泣いて、町の人達が上げてくれたお葬式が終わっても、ずっと一人で泣いていた。大好きなお母さんにもう会えない。またひとりぼっちになってしまった。いっそのこと、自分も消えてしまいたいと思った。
だけどそんなある日、家の近くの路地裏でぼくを見つけた。まるで自分を見ているようで、操はぼくを放っておくことができなかった。
クロノス。
それは操がつけてくれた名前だった。
そのときから、操はぼくの『お母さん』になったんだ。
*
操はぼくにとても優しくしてくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれたし、夜はおでこやほっぺたに何度もキスをして、抱きしめて眠ってくれた。
最初は怖かったけど、ぼくはすぐに操のことが大好きになった。
ぼくは自分の本当のお母さんのことを覚えていない。だけど操にぎゅってされると、なんとなくお母さんのことを思いだせるような気がして、いつも操の胸をモニモニと揉んで、服がビシャビシャになるくらいチュウチュウ吸って、そうするととても安心することができた。
それからしばらく経った、ある日のこと。
操はぼくをヒトの姿に変える魔法をかけた。どこへ行くにもついて行こうとするぼくを見かねて、そのほうが安心だからって。人通りが多い町中や、森の中を歩くにも、子猫の姿だと危険が多い。
「勝手なことしてごめんね」
操はそう言って謝ったけど、ぼくは嬉しかった。だって、これからは家の外でもずっと操のそばにいられる。同じ言葉を使って話すことができる。
それに、ぼくの姿は操と瓜二つだったんだ。猫の耳としっぽは残っていたけど、ぼくは大好きな操と同じ顔をしていることが、とても嬉しかった。
操とお揃いのオーバーオールはサイズが少し大きくて、しっぽを隠すのに不便はなかった。耳は操がくれたキャスケットをかぶれば大丈夫。
町の人達は操が二人になったことに驚いたけど、双子の弟だって言ったら、みんなあっさり信じてしまった。たぶん、操が魔法で記憶におまじないをかけたんだ。
ヒトの姿になってから、ぼくはなんでも操の真似をするようになった。
操のお母さんがしていた仕事を引き継いで、二人で少しずつ色んなものを修理できるようにもなっていった。ご飯もお風呂も寝るときも、ぼくらはどんなときでもいつも一緒。そんな日が、これからずっとずっと続いていくんだと思ってた。
操が、翔子や容子と同じ病で倒れるまでは。
*
操は日に日に弱っていった。ひどい熱にうなされて、朝から晩まで咳が止まらなかった。そのうち、血まで吐くようになってしまった。
ぼくはどうしたらいいか分からなかった。このままじゃ操がいなくなってしまう。もう一緒にはいられなくなる。大好きな操が。ぼくのお母さんが。
だけどぼくにはなにもできなかった。ただベッドに縋りついて泣くことしか。
操はずっとぼくの手を握っていた。咳が出て、口からたくさん血を吐いて、こんなに苦しそうなのに。ぼくに優しく笑いかけていた。
「クロノス」
最期のとき。操はベッドに横たわり、ぼくの名前を呼んだ。それから、「ごめんね」と言った。
「君にかけたその魔法は、おれにも解けないんだ。ちょっとやそっとじゃ戻らないように、途中の式をね、めちゃくちゃに組んでしまったから」
ぼくが耳としっぽだけ中途半端に猫のままだったのは、正しい形で魔法をかけなかったから。操はぼくと本当の双子の兄弟になるつもりだったんだ。同じ言葉で話して、同じものを共有できる、人の形をした家族に。
だから絶対に解けないように、あえて未完の魔法をかけた。
「わがままで、ごめん」
ぼくは操の手を両手で強く握りながら、何度も首を左右に振った。
「そんなこと言わないで。ぼくは嬉しい。操とお揃いなのが、本当に嬉しいんだ」
「ありがとう、クロノス」
「操……お願いだから、ぼくをひとりにしないで。ずっとずっと一緒にいてよ」
さっきまでひどく血を吐いていたから、操の唇は真っ赤になっている。その唇が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ずっと一緒だよ。おれは、クロノスとずっと、一緒。だからね、おれの名前を、君にあげたい」
「え……?」
「おれの呼吸が止まったら、おれを、家の裏に埋めて。誰にも、見られないように」
「操、そんな……なんで……!?」
操が町の人たちにかけたまじないは、操の存在が消えたらすぐに解ける簡単なものだ。操がぼくと入れ替わっていたとしても、誰も疑問に思わないだろう。だから自分の身体を隠して、ぼくに本当の『来主操』になってほしいと、操は言った。ぼくがこの町で、いつまでも安心して暮らせるように。
「やだ、やだよ! 名前なんかいらない! だって、君がつけてくれたんだよ! クロノスって! だから、ぼくは操にはなれないよ……ッ!」
操がまたひとつ咳をした。一緒に血が出て、シーツを汚す。ぼくは真っ青になって、ただ小刻みに震えることしかできなかった。
苦しそうにカサついた息を漏らして、操が笑った。
「もらってよ。おれの名前を、君の居場所にしてほしい」
「やだ! やだやだ! 操がいないなら、どこにいたって同じだもん!」
ぼくは声を出して、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何度もしゃくりをあげて、そのたびに息ができなくて、肺のあたりが痛くなってくる。それでも泣いた。
神様、どうか操を奪わないで。操を連れて行かないで。ぼくをぼくにしてくれた、大切な『お母さん』を。
「クロノス」
すっかり弱った指先で、操は力を振り絞ってぼくの手を握り返した。ぼくがハッと息を呑んで泣き止むのと同時に、操はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。そして、初めて出会ったときのように、まるでぼくを安心させるみたいに、優しく目を細めた。
「ずっと空で見てるから……幸せになって、操」
それが操から──お母さんからもらった、最後の言葉だった。
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家事も手際よくこなせるようになってきたし、料理の腕だって上達してきたと思う。少なくともスープの味付けを失敗したり、パンを焦がすことはなくなった。
それでもぼくらはまだ、正式に弟子としては認められていない。本当に、ただの住み込みのお手伝いさんって感じだ。
だけどもしちゃんと弟子になれたとしても、今とやることは変わらないような気がしてる。だってぼくは魔法のことよく知らないし、あまり興味もなかったし、魔術書に書かれている文字なんか、ミミズが踊ってるようにしか見えないもん。
でも、今のままでもそれなりに役には立ててると思う。ほこりっぽかった家の中はいつもピカピカに掃除してるし、研究や薬を作るための材料集めだって、ぼくらの仕事だ。博士はそのぶん、研究に没頭できるんだから。
最近はちょっとだけ──本当にちょっとだけなんだけど、ここでの暮らしもいいなって思うようになったんだ。
操がいて、博士がいて、ぼくがいる。お母さんと暮らしていた頃も幸せだったし、お母さんにまた会いたいって気持ちは変わらないけど、今は今で、けっこう楽しい。それに──。
ぼくと博士は、あれからときどき内緒のキスをするようになっていた。場所は決まってあの玄関脇のベンチで、時間は深夜。別に約束してるわけじゃない。ぼくはあの夜からこっそり屋根裏部屋を抜け出して、ベンチに座って夜空を眺めるのが習慣になっていた。
するとショコラのお墓参りを終えた博士がやってきて、ぼくの隣に座るんだ。そこでぼくと博士は、ぽつりぽつりと言葉を交わす。明日のご飯は何にしようとか、森で見つけた不思議な虫や植物のこととか。
何気ないことばかりだけど、博士と話せる時間が嬉しくて、ぼくはいつの間にか博士にぴったりくっついている。なんでかな。二人きりでいると、どうしてか博士に甘えたいような気分になってしまう。
変だなって自分でも思うけど、博士は黙ってぼくの好きにさせてくれる。そうするといつの間にか会話が途切れて、ぼくらはどこかぼうっとしながら見つめ合う。
博士がぼくの頬に触れて、そっと顔を近づけてくると、ぼくは自然と目を閉じる。唇が重なり合うと、頭の中が痺れたみたいになって気持ちよかった。
そのたびにぼくは、ずっと博士とこうしていたいって、そんなふうに思うようになっていた。
*
「操、ここはもういいから、次は裏庭に行こうよ」
その日、ぼくらは朝から家の前で草むしりをしていた。
むしった草を一ヶ所にまとめ終えて振り返ると、操はしゃがみこんだまま手を止めて、ぼーっとしながら地面を見つめている。
「ねぇ操ってば。聞いてる?」
「……あ、ごめん。なにか言った?」
「操……」
ぼくはふっと息をつきながら操のそばまで行くと、かぶっていたキャスケットを脱いでその頭にかぶせようとした。だけど、操はそれを手で遮って首を横に振る。
「操?」
「いい。それは操のものだから」
「ぼくだけのじゃないよ。これは二人の」
「いいんだ。おれにはもう必要ない」
「なんで? なんでそんなこと言うの……?」
ぼくは操に拒まれたことにショックを受けていた。今までこんなことはなかったし、操の様子はいつもと明らかに違ってる。だけど本当は分かってた。操の不安な気持ちが、少しずつ苛立ちに変わってきてるってこと。
博士の研究は相変わらずだ。いつも失敗ばかりしている。そのたんびに、操の表情が曇る回数も増えていた。ぼくもその気持ちはわかってるつもりだけど。
「だったらもういいよ。操なんかもう知らないから!」
ぼくは操から顔を背けて、キャスケットをかぶり直した。操はなにも言おうとしない。ケンカをするのは初めてのことじゃないけど、こういうときはいつも操の方からすぐに謝ってくる。だけど今日はそれがなかった。
イライラとした気持ちより、悲しいって気持ちのほうが大きくなってくる。こんなんじゃダメだ。今日はぼくから謝ろう。無言でいることに耐えられなくなってきて、ぼくは口を開きかけた。
だけどそのとき──。
ドンッ!!
森中に響き渡るほど大きな音がして、驚いた鳥たちが一斉にそこらじゅうの木から羽ばたいた。
「今のなに!?」
「家からしたよ! 博士の部屋だ!」
「でも、いつもより大きくなかった!?」
「行ってみよう!」
今はケンカなんかしてる場合じゃない。ぼくは操の手を掴んで駆けだした。家のドアを開けると、中から焦げ臭い煙が一気に噴きだしてくる。
むせている操の手を強く引いて、ぼくは博士の部屋まで一気に走った。
「博士! 大丈夫!?」
飛び込んできたのは、いつもは紫の煙を上げている壺の中から、モクモクと赤黒い煙が湧きだしている光景だった。大量の本やレポート用紙が床に散乱して、魔術道具も幾つか粉々になって散らばっている。
博士は尻もちをついた状態で、煙をあげる壺を疲れた様子で見つめていた。
「は、博士……?」
恐る恐る、ぼくらは部屋に踏み入った。頬に煤をつけた博士はゆっくりとぼくらに視線を向け、それから大きく溜息をつく。
「問題ない。悪いけど、換気するのを手伝ってくれる?」
「わかった! 操、行こう! 家中の窓を開けなくちゃ!」
ぼくはまた操の手を引こうとしたけど、操はびくとも動かない。ただ悲しそうに壺を見て、それからガクンと項垂れてしまった。
「また、失敗……」
「操……?」
「やっぱりなにも生まれない。どんなにがんばったって、お母さんを取り戻すことなんかできっこないんだ」
「ッ!」
「ごめんね操……おれはもう、ここにはいられない」
操はぼくの手を振り払い、部屋を飛びだして行ってしまう。
「操っ!!」
追いかけなくちゃ。頭ではそう思うけど、どうしてかぼくはその場から動くことができなかった。ショックだった。ぼくは博士を信じたかったし、だから今日までがんばってきたつもりだった。それは操も同じなんだと思っていたけど。
やっぱりって、操は言った。やっぱりなにも生まれないって。操は、いつからかとっくに諦めていた。お母さんのことも、博士のことも。
ぼくはそれが悲しくて、どうしたらいいか分からなくて、迷子みたいに途方に暮れた。
博士はなにも言おうとしない。あぐらをかいて、頬についた煤を手の甲で拭っている。ぼくは博士のそばに駆け寄ると、膝をついてその肩を揺さぶった。
「ねぇ、大丈夫だよね? いつかきっと上手くいくんだよね?」
「……」
「どうしてなにも言ってくれないの!? 博士にだっているんでしょ? 大事な人、取り戻したいんでしょ? だからがんばってるんでしょ!?」
ぼくは博士まで弱気になっているんだと思った。だから必死で励まそうとした。
「元気だしてよ! きっと大丈夫だよ! 博士がそんなんじゃ」
「──君は、」
「っ?」
ずっと壺を見つめていた博士が、少し険しい目をしてぼくを見ると
「君が生き返らせたいのは、誰なんだ?」
と、そう言った。
「……誰、って」
ぼくは問われたことの意味が理解できなかった。どうして今更そんなことを聞くんだろう。博士には、初めて会った日にちゃんと伝えているはずだ。
「博士、忘れちゃったの? 最初にちゃんと言ったじゃないか。お母さんを生き返らせたいって……」
「俺は聞いてない。君はあのとき、なにも言わずにただうつむいていただけだ」
「な、なに言ってるの? だって、ちゃんと言ったよ。あのとき、操が──」
──お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!
「クロノス」
「ッ……?」
辺りを覆っていた煙が、少しずつ晴れてきた。博士はぼくの目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「俺の目の前には、最初から君ひとりしかいなかった」
*
雨が降っていた。ぼくはどこかの町の路地裏で、ボロボロの木箱に入れられて、ひとりぼっちで泣いていた。
いつからここにいるんだろう。気づいたときにはここにいた。寒くて、お腹がペコペコで、寂しくて。誰でもいいから助けてほしくて、必死で声を上げていた。
「捨て猫?」
そのときだった。雨を遮るようにして、黒い影がぼくを覆った。
ベージュのキャスケットをかぶって、空色のチェックシャツにオーバーオールを着た男の子が、箱の中にいるぼくを丸い目で見下ろしていた。
「わぁ、ちっちゃい。黒猫だね。目が金色だ」
男の子は白い手でぼくを抱き上げた。ぼくは怖くてたまらず、黒い毛を逆立てながら、シャ、シャ、と男の子を威嚇した。
「怖がらないで。ひとりぼっちなんだね。おれも同じ。お母さん、病気で死んじゃったから」
男の子の瞳が一瞬曇った。だけどぼくの頭をそっと撫でて、それからかぶっていたキャスケットを脱ぐと、その中にぼくを入れて抱きしめながらニコリと笑った。
「帰ろう、一緒に」
それがぼくと操の出会いだった。
*
操はぼくに自分の話をたくさんして聞かせてくれた。
ぼくと同じで赤ちゃんの頃に捨てられて、貧しい孤児院で暮らしていたこと。同じくらいの子供たちと一緒に、狭い部屋で身を寄せ合っていたこと。6歳のころに、魔力を暴走させてしまったこと。
操には普通では考えられないほど大きな魔力が秘められていて、ある日そうと知らずに暴走させてしまった。
友達におねしょをしたことをからかわれて、悔しくて泣いてしまった──たったそれだけのはずだったのに。
気づいたときには部屋が滅茶苦茶になっていて、窓ガラスが粉々に砕け散っていた。机も椅子もボロボロで、壁にはヒビまで入って、そばにいた友達の中には、怪我をして泣いている子までいた。
『この子は危険だ。ここに置いておくことはできない』
孤児院の大人たちはそう言って、オバケでも見るような目で操を見た。そして森の外れまで連れて行き、そのまま置き去りにしてしまった。
誰もいない森の中で、操はお腹を空かせながら何日も泣いていた。夜は獣の声に怯えながら、たまたま見つけた穴蔵の中に身体を押し込めて眠った。
やがて寒さと空腹で動けなくなった。ここで死ぬんだ。そう思っていたら、容子に出会った。
羽佐間容子という女の人は、町外れの小さな家で修理屋を営んでいた。森の中で必要な材料を探しているときに、たまたま倒れている操を見つけた。
家に連れ帰り、食事と洋服を与えてくれた。どこにも行く場所がない操に、「私も一人ぼっちなのよ」と笑って、ここにいてもいいと言ってくれた。
その日から、容子は操のお母さんになった。
学校へも通わせてもらって、そこで魔法の勉強をして、ちゃんと魔力をコントロールすることができるようになった。
でも、どんなに上手に魔法が使えるようになっても、おねしょの癖だけはなおらなかった。12歳までその癖は抜けなかったけど、容子はいつも笑いながらシーツを洗って干してくれた。
容子は操のことを、本当の子供みたいに愛してくれた。操も、容子のことが大好きだった。本当のお母さんだと思っていた。
家には黒髪の女の子の写真が飾られていた。翔子っていう名前の女の子。だけどあまり身体が丈夫じゃなくて、操が来る少し前に、疫病で死んじゃったんだって。
容子は寂しそうに写真を見つめながら、よく翔子の話を聞かせてくれた。操と同じで血の繋がりはなかったけれど、本当の娘みたいだったって。
そんなある日のこと──容子が、翔子と同じ病気にかかってしまった。
操は14歳になっていた。何度もお医者さんに見てもらったし、操も必死で病気を治すための魔法を試した。だけど、ぜんぜんダメだった。
容子はひどい熱と咳が止まらず、最後には血まで吐くようになった。
そして、死んでしまった。
操は何日も泣いて、町の人達が上げてくれたお葬式が終わっても、ずっと一人で泣いていた。大好きなお母さんにもう会えない。またひとりぼっちになってしまった。いっそのこと、自分も消えてしまいたいと思った。
だけどそんなある日、家の近くの路地裏でぼくを見つけた。まるで自分を見ているようで、操はぼくを放っておくことができなかった。
クロノス。
それは操がつけてくれた名前だった。
そのときから、操はぼくの『お母さん』になったんだ。
*
操はぼくにとても優しくしてくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれたし、夜はおでこやほっぺたに何度もキスをして、抱きしめて眠ってくれた。
最初は怖かったけど、ぼくはすぐに操のことが大好きになった。
ぼくは自分の本当のお母さんのことを覚えていない。だけど操にぎゅってされると、なんとなくお母さんのことを思いだせるような気がして、いつも操の胸をモニモニと揉んで、服がビシャビシャになるくらいチュウチュウ吸って、そうするととても安心することができた。
それからしばらく経った、ある日のこと。
操はぼくをヒトの姿に変える魔法をかけた。どこへ行くにもついて行こうとするぼくを見かねて、そのほうが安心だからって。人通りが多い町中や、森の中を歩くにも、子猫の姿だと危険が多い。
「勝手なことしてごめんね」
操はそう言って謝ったけど、ぼくは嬉しかった。だって、これからは家の外でもずっと操のそばにいられる。同じ言葉を使って話すことができる。
それに、ぼくの姿は操と瓜二つだったんだ。猫の耳としっぽは残っていたけど、ぼくは大好きな操と同じ顔をしていることが、とても嬉しかった。
操とお揃いのオーバーオールはサイズが少し大きくて、しっぽを隠すのに不便はなかった。耳は操がくれたキャスケットをかぶれば大丈夫。
町の人達は操が二人になったことに驚いたけど、双子の弟だって言ったら、みんなあっさり信じてしまった。たぶん、操が魔法で記憶におまじないをかけたんだ。
ヒトの姿になってから、ぼくはなんでも操の真似をするようになった。
操のお母さんがしていた仕事を引き継いで、二人で少しずつ色んなものを修理できるようにもなっていった。ご飯もお風呂も寝るときも、ぼくらはどんなときでもいつも一緒。そんな日が、これからずっとずっと続いていくんだと思ってた。
操が、翔子や容子と同じ病で倒れるまでは。
*
操は日に日に弱っていった。ひどい熱にうなされて、朝から晩まで咳が止まらなかった。そのうち、血まで吐くようになってしまった。
ぼくはどうしたらいいか分からなかった。このままじゃ操がいなくなってしまう。もう一緒にはいられなくなる。大好きな操が。ぼくのお母さんが。
だけどぼくにはなにもできなかった。ただベッドに縋りついて泣くことしか。
操はずっとぼくの手を握っていた。咳が出て、口からたくさん血を吐いて、こんなに苦しそうなのに。ぼくに優しく笑いかけていた。
「クロノス」
最期のとき。操はベッドに横たわり、ぼくの名前を呼んだ。それから、「ごめんね」と言った。
「君にかけたその魔法は、おれにも解けないんだ。ちょっとやそっとじゃ戻らないように、途中の式をね、めちゃくちゃに組んでしまったから」
ぼくが耳としっぽだけ中途半端に猫のままだったのは、正しい形で魔法をかけなかったから。操はぼくと本当の双子の兄弟になるつもりだったんだ。同じ言葉で話して、同じものを共有できる、人の形をした家族に。
だから絶対に解けないように、あえて未完の魔法をかけた。
「わがままで、ごめん」
ぼくは操の手を両手で強く握りながら、何度も首を左右に振った。
「そんなこと言わないで。ぼくは嬉しい。操とお揃いなのが、本当に嬉しいんだ」
「ありがとう、クロノス」
「操……お願いだから、ぼくをひとりにしないで。ずっとずっと一緒にいてよ」
さっきまでひどく血を吐いていたから、操の唇は真っ赤になっている。その唇が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ずっと一緒だよ。おれは、クロノスとずっと、一緒。だからね、おれの名前を、君にあげたい」
「え……?」
「おれの呼吸が止まったら、おれを、家の裏に埋めて。誰にも、見られないように」
「操、そんな……なんで……!?」
操が町の人たちにかけたまじないは、操の存在が消えたらすぐに解ける簡単なものだ。操がぼくと入れ替わっていたとしても、誰も疑問に思わないだろう。だから自分の身体を隠して、ぼくに本当の『来主操』になってほしいと、操は言った。ぼくがこの町で、いつまでも安心して暮らせるように。
「やだ、やだよ! 名前なんかいらない! だって、君がつけてくれたんだよ! クロノスって! だから、ぼくは操にはなれないよ……ッ!」
操がまたひとつ咳をした。一緒に血が出て、シーツを汚す。ぼくは真っ青になって、ただ小刻みに震えることしかできなかった。
苦しそうにカサついた息を漏らして、操が笑った。
「もらってよ。おれの名前を、君の居場所にしてほしい」
「やだ! やだやだ! 操がいないなら、どこにいたって同じだもん!」
ぼくは声を出して、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何度もしゃくりをあげて、そのたびに息ができなくて、肺のあたりが痛くなってくる。それでも泣いた。
神様、どうか操を奪わないで。操を連れて行かないで。ぼくをぼくにしてくれた、大切な『お母さん』を。
「クロノス」
すっかり弱った指先で、操は力を振り絞ってぼくの手を握り返した。ぼくがハッと息を呑んで泣き止むのと同時に、操はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。そして、初めて出会ったときのように、まるでぼくを安心させるみたいに、優しく目を細めた。
「ずっと空で見てるから……幸せになって、操」
それが操から──お母さんからもらった、最後の言葉だった。
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その日、ぼくは操と一緒に博士のお使いで森のなかを歩いていた。
「材料、ちゃんと揃ってよかったね」
ぼくが持っている取っ手付きのバスケットの中には、毒があるとしか思えない色のキノコや葉っぱ、ヘビの卵や抜け殻なんかが入っている。ぜんぶ博士から採ってくるように言われたものだ。
博士は研究の他にも、いろんな材料を使って怪我や病気に効く薬も作ってる。月に二、三度、町から薬を買い付けに商人がやってきて、代わりに食料だとか生活用品だとか、必要なものと交換する仕組みになっていた。
「博士って、ぜんぜん人と関わってないわけじゃないんだね。こないだ商人の人とずっと立ち話してたよ。大きなリュックを背負った、タンクトップのおじさんでさ──操?」
ぼくは操がうなずきもせず黙りこくっていることに気づいて、足を止めた。
操はすぐにハッとして顔をあげ、「なんでもないよ」と言いながら首を振って見せる。でも、顔はうまく笑えていない。操は誤魔化すことを諦めて、小さく「ごめん」とこぼしながら、またうつむいてしまった。
「ねぇ操、大丈夫だよ。今日がダメでも、明日があるから。元気だそうよ」
「うん……」
操に元気がないのは、風で飛ばされたキャスケットが見つからないせいだった。
ここに来てもうすぐ一ヶ月。ぼくらは博士の小間使いとして仕事を覚えながら毎日を過ごして、その合間にキャスケットを探し続けている。迷子にならないように木の枝に紐をくくって印をつけながら、少しずつ探す範囲を広げていった。
だけどなかなか見つからない。今日もお使いをしながら探したけど、ぜんぜんダメだった。あれはお母さんがくれた大事なものだから、どうしても諦めきれないでいる気持ちはぼくも同じだ。でも、正直もうどうしたらいいのか、ぼくらには分からなくなっていた。
「操」
ぼくは自分がかぶっているキャスケットのツバを掴んで、サッと脱ぐと操の頭にかぶせてやった。目をまんまるにした操に、ニッコリ笑いかける。
「それ、かぶってていいよ」
「でも……」
「いいじゃん。ぼくたちなんでもはんぶんこ。そうでしょ?」
なくなってしまったものは戻ってこないかもしれないけど、だったら今あるものを仲良くはんぶんこすればいいだけの話だ。生まれたときから、ぼくらはずっとそうしてきたんだから。
ぼくはこうすればきっと操がまた笑ってくれると思っていた。だけど操は下唇を噛みしめて、やっぱりうつむくだけだった。
「操?」
「ねぇ操」
「うん」
「博士の研究、本当に完成すると思う……?」
ぼくは薄々気がついていた。操に元気がなかったのは、キャスケットのことだけじゃないってこと。だってその不安はぼくも感じていたことだから。
博士の研究は失敗続きだ。あの爆発音にも、焦げ臭さにも、そのあとの博士の不機嫌そうな顔にも、そろそろ慣れてきてしまった。
「お母さんとまた暮らせるようになる日、本当に来るのかな」
「来るよ! 絶対!」
ぼくは思わず大きな声を出していた。
「博士が諦めない限り、きっといつか成功するよ! 操だってそう言ったじゃん。ここにいれば、必ずお母さんを取り戻す方法が見つかるって!」
「操……」
「だからがんばってるんじゃないか! 料理だって掃除だって、本当はあんまり得意じゃないけど……でも、博士の弟子になれたら、今よりもっと手伝えることだって増えるはずだよ! だから……っ」
泣きそうになっているぼくに、操は「ごめんね」と言って笑った。下手くそだなってぼくは思う。だって無理してるのがバレバレの笑い方なんだもん。
「ちょっと弱気になっただけ。変なこと言っちゃって、ごめんな」
「……うぅん、わかるよ。操の気持ち、ぼくにも分かる」
ずっと苦しかった。ここに来てから覚えることがたくさんで、毎日が一瞬で過ぎてしまったような気がしていたけれど。本当はすごく長かった。お母さんと会えなくなってから、今日までずっと。
だけどぼくらは博士を信じてここにいるしかない。どんなに時間がかかっても、そうするしかないって決めたから。
「帰ろ。博士のご飯を作らなきゃ」
操はやっぱり無理してるって分かる下手くそな笑顔でそう言って、かぶっていたキャスケットのツバを摘むと、ぼくの頭にポンと戻した。
なんとか気を取り直して、ぼくも操と同じ、下手っぴな笑顔で大きく頷く。
「うん。今日こそ美味しいって言ってもらおうね」
博士は基本的に、食べられればなんでもいいという人だ。研究のこと以外、他はどうでもいいみたいだった。だから焦げたパンでも塩を入れすぎたスープでも、なにも言わずに黙々と食べる。生きるための作業って感じ。カエルの姿焼きを出したときは、ちょっとだけ嫌そうな顔をしてたけど。
ぼくらが来るまではカビたパンでも平気で齧っていたそうだから、それに比べたらちょっとは役に立ててると思う。
「博士、今日のご飯きっとビックリするだろうな」
バスケットには、今夜食べるために捕まえたトカゲが数匹、袋に入って暴れてる。博士がどんな反応するかを想像したら、ぼくはちょっぴり楽しくなってきた。
ぼくはあれから、ときどき博士と一緒にコーヒーを飲むようになった。
こないだ、珍しく朝から操の調子がいい日には、初めて操の分もカフェオレも作ってもらった。
だけど操はどうしてもコーヒーが得意じゃないみたいで、ちょっと口をつけただけで渋い顔をした。それを見てぼくは笑ってしまったけど、博士はなにか考え込んでいる様子だった。
その数日後、商人が薬を買いつけに家に来たとき、博士はタンクトップのおじさんにオレンジジュースを注文していた。廊下を雑巾がけしていたぼくは、その話をこっそり聞いていた。嬉しかった。博士はときどき嫌味を言ったりすることもあるけど、ぼくと操のことをとても大事にしてくれていると思う。
だからぼくの中では最近、博士のことを「あまり好きじゃない」から「ほんのちょっとだけ好きじゃない」に変わってて──だってたまに意地悪なのは変わらないし──博士がふいに見せる表情の変化は、見ててけっこう楽しかったりもする。
だからもう少し一緒にいたら、そのうちもっとちゃんと好きになれるかもしれないって、そう思うようになっていた。
「博士、また嫌そうな顔するのかな?」
操の顔に、やっと本当の笑顔が戻ってきた。
「するかもね。だって今日はトカゲの唐揚げだもん!」
ぼくらは顔を見合わせるとクスクス笑い、遠くに見える煙突の煙を目指して、手を繋ぎながら家に帰った。
*
その夜、ぼくはなかなか寝つけずにこっそり屋根裏部屋を抜け出した。
玄関の横にある朽ちた木のベンチに腰掛けて、ホットケーキを裏返したような丸い月をぼんやり見上げる。
頭の中では帰り道で操とした会話が、ずっとグルグル行ったり来たりしていた。
「そんな格好でいたら風邪ひくよ」
「うわっ」
とつぜん声がしたことに驚いて、ぼくはビクンと肩を跳ねさせた。
そこには裏庭から回り込んできたらしい博士がいて、膝丈まである無地のシャツを一枚ペロッと着ているだけのぼくに、少し呆れた表情を浮かべている。
「び、ビックリしたぁ~……オバケが出たかと思ったよ」
ぼくは大きく息をつき、胸に手を押し当てた。心臓がバクバクしてる。
博士はいつもの黒いなローブ姿で、夜の森に溶け込んでいるのがちょっと不気味だ。顔色が優れないように見えるのは、夕飯で出したトカゲのせいだと思う。博士は引きつった顔をしながら、それでもチビチビと口に入れて水で流し込んでいた。
「眠れない?」
博士はそう言ってぼくに近づいてくると、ローブを脱いでそっと肩にかけてくれた。あったかい。うなずく代わりにすんと鼻を鳴らすと、ちょっぴりほこり臭い中に博士の匂いが混ざっていた。なんだか少し、ホッとする。
「ありがと、博士」
ぼくはローブの合わせ目を内側から両手でぎゅっと掴んで、胸元に手繰り寄せた。やっぱり博士は大きいな。ぼくの身体はローブにすっぽり包まれてしまう。
「博士はショコラのところに行ってたの?」
「日課だからね」
博士がぼくの隣に腰掛ける。ボロボロのベンチが、ギシっと軋んだ音を立てた。
「花、ありがとう」
しばらく一緒に月を見上げていると、博士がぽつりとそう言った。
お使いから戻る途中、たまたま目についた花を摘んで持ち帰ったぼくらは、それをこっそりショコラの墓にお供えしておいた。名前は分からなかったけど、白くてとても綺麗な花だったから。
「ショコラ、喜んでるかな?」
「喜んでるよ。きっと」
「えへへ、そっか。よかった」
博士がふっと笑った気配がした。ぼくはそんな博士の横顔を見やる。
「ねぇ博士」
「なに?」
「博士は、どうしてお母さんを知ってたの?」
それはずっと気になっていたことだった。
初めて会ったときにも同じ質問をしたはずだけど、あのときの博士は勝手に心を読むことはしても、ぼくらとじっくり話そうとはしてくれなかった。
でも、今ならちゃんと答えてくれるんじゃないかって気がした。博士とはずいぶん打ち解けたと思うし、なによりお母さんのことだもん。ぼくには知る権利があるはずでしょ。
「……容子さんは、俺の恩師だった人だ」
思った通り、博士はお母さんの話をしてくれた。
「小さな田舎の魔法学校で、教師をしていた。10年以上も前のことだよ」
「そうだったんだ。知らなかった」
ぼくが知ってるお母さんは、修理屋さんをして生計を立てていた。ほつれた洋服だとか、壊れたオモチャだとか、ちょっとした機械なんかを直して元通りにする仕事だ。ぼくもよく手伝いをさせてもらってた。
「どうして先生やめちゃったの?」
「……娘がいたんだ。その一人娘が、疫病でね」
ぼくは家に飾ってあった写真立てのことを思いだした。可愛いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった黒髪の女の子。名前は、確か翔子っていったはずだ。ぼくらにとってはお姉ちゃんってことになる。
「ぼくはお姉ちゃんに会ったことがない。お母さんから聞いて、名前を知っているだけ。お母さんは、お姉ちゃんがいなくなったのが悲しくて、先生をやめちゃったってこと?」
博士はなにも言わなかった。ただ静かに月を見上げている。たぶん、それが答えなんだと思う。
その寂しそうな横顔に、ぼくは見覚えがあるような気がした。お母さんも、写真を見つめながらよくこんな顔をしていたことを思いだす。
博士も思いだしているのかな。失ってしまった、大切な誰かのことを。胸がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚えて、ぼくは静かにうつむいた。それからふと、思いついたんだ。
お姉ちゃんのことも、生き返らせてあげたいって。
これは名案だと、ぼくは思った。
そうすればお母さんだってきっと喜ぶ。ぼくと操と、お姉ちゃんとお母さん。家族4人で、一緒に暮らすことができる。博士の研究が成功すれば、いつかきっとその夢は叶うんだから。
「ねぇ博士。研究、きっと成功するよね?」
博士を見上げて、縋るような目をしながら問いかけた。だけど博士は月を見つめたまま、なにも言ってくれない。
分かってるんだ。とても難しい研究だから、そう簡単に返事なんかできないってこと。博士は何年も研究し続けて、そして何度も失敗し続けている。町の人達だってみんな言ってた。どうせ無理だって。叶いっこないって、笑ってた。
だけど博士の研究はぼくらの希望だから。操が心から笑えるようになるためには、博士の力が必要だった。
「お願い博士、うんって言って」
博士の横顔が、涙でどんどん滲んでいった。どんなに時間がかかってもいい。必ず完成するって、たった一言そう言ってくれるだけで、ぼくは安心できるのに。
それなのに、博士はやっぱりなにも言わずに月を見ていた。
「お願いだから、うんって言ってよ……」
ぼくは博士の腕に縋りついて泣いていた。お母さんを取り戻す日まで、もう泣かないって決めたのに。今までずっと我慢し続けていたものが、一気に溢れて止まらなくなってしまった。
肩を震わせて泣いていると、頬にあたたかなものが触れてぼくは顔をあげた。こらえるように細められた博士の瞳が、ゆらゆらと揺れている。
博士の白い指先が何度も涙をぬぐってくれるけど、その優しい感触にぼくはもっと悲しくなった。ひ、ひ、としゃくりを上げながら必死でその瞳を見返していると、博士が両手でぼくの濡れた頬を包み込んだ。
親指でそれぞれ両方の目尻を拭いながら、博士はじっとぼくの泣き顔を見つめている。なにか言いたそうに開きかけた唇を震わせて、だけどそこから言葉が発されることはなかった。代わりにゆっくりと、博士の顔が近づいてくる。
どうしてかぼくは無意識に息を止めて、自然とまぶたを閉じていた。唇に、熱くて柔らかなものが押しつけられる。
「っ!」
ぼくの肩がピクンと揺れるのと同時に、その感触は離れていった。おずおずと目を開けると、なぜか博士が狼狽えた表情で声をつまらせている。まるで自分がしたことに、自分で驚いているみたいだった。どうしてこんなことをしたのか、博士自身が戸惑っているような。
だけど、そんなのぼくにはもっと分からない。
「どうして、ちゅうしたの?」
寝る前にお母さんがしてくれていたキスとは違う。唇にするキスに特別な意味があることくらい、ぼくだって知ってるよ。だから分からない。どうして博士は、ぼくの唇にキスなんかしたんだろう?
博士は正面を向いてうなだれると、深い息を漏らした。膝の上に肘を置き、鬱陶しい前髪ごとガリガリと頭をかいている。その手つきは乱暴で、こんな博士の仕草を見たのは初めてだった。
やがて横目でチラリとぼくを見ると、上ずった声で「今のは忘れて」と言った。
ぼくは何度も目を瞬かせる。月明かりに照らされて、博士の頬がほんの少しだけ赤くなっていることに気がついた。それを見たら、急に変な気分になってしまった。とてもいけないことをしたような気がして、ぼくは素直にうなずいた。
だけど頭の中は軽くパニックになっている。顔が真っ赤になって、心臓が思いきり走ったときみたいにドキドキしていた。どうしよう。よく分からないけど、すごく困った。だってこんなの初めてだったし、それに、それに。
「博士、今の……忘れる、から」
「……うん」
「今のこと、操には言わないで」
なんでかは分からない。だけど操には、どうしても知られたくないと思ってしまった。おねしょをしていたのがバレてしまったときよりも、今のほうが何倍も恥ずかしい。操に知られたらって思うと、もっともっと恥ずかしいような気がした。
操に隠し事をするなんて、ちょっと前のぼくなら考えられないことだけど。ぼくが博士とキスをしたことは、ぼくらだけの秘密にしておきたかった。
博士は気が抜けたように笑ってぼくを見た。ぼくは博士の顔が見られない。だからうつむいて、もじもじと足の先を擦り合わせた。
なんか、誤魔化されちゃったような気がするな。とても大事な話をしていたのに、博士があんなことするから。だけど今さら続きを問いただす気にはなれなかった。涙も、いつの間にか止まってる。
考えなきゃいけないこと、不安なこと、たくさんあるのに。
ぼくの唇にはまだ博士の熱が残ってる。ちゃんと忘れなくちゃと思うのに、あの一瞬の感覚がぼくの身体に染みついて、いつまでも消えることはなかった。
←戻る ・ 次へ→
「材料、ちゃんと揃ってよかったね」
ぼくが持っている取っ手付きのバスケットの中には、毒があるとしか思えない色のキノコや葉っぱ、ヘビの卵や抜け殻なんかが入っている。ぜんぶ博士から採ってくるように言われたものだ。
博士は研究の他にも、いろんな材料を使って怪我や病気に効く薬も作ってる。月に二、三度、町から薬を買い付けに商人がやってきて、代わりに食料だとか生活用品だとか、必要なものと交換する仕組みになっていた。
「博士って、ぜんぜん人と関わってないわけじゃないんだね。こないだ商人の人とずっと立ち話してたよ。大きなリュックを背負った、タンクトップのおじさんでさ──操?」
ぼくは操がうなずきもせず黙りこくっていることに気づいて、足を止めた。
操はすぐにハッとして顔をあげ、「なんでもないよ」と言いながら首を振って見せる。でも、顔はうまく笑えていない。操は誤魔化すことを諦めて、小さく「ごめん」とこぼしながら、またうつむいてしまった。
「ねぇ操、大丈夫だよ。今日がダメでも、明日があるから。元気だそうよ」
「うん……」
操に元気がないのは、風で飛ばされたキャスケットが見つからないせいだった。
ここに来てもうすぐ一ヶ月。ぼくらは博士の小間使いとして仕事を覚えながら毎日を過ごして、その合間にキャスケットを探し続けている。迷子にならないように木の枝に紐をくくって印をつけながら、少しずつ探す範囲を広げていった。
だけどなかなか見つからない。今日もお使いをしながら探したけど、ぜんぜんダメだった。あれはお母さんがくれた大事なものだから、どうしても諦めきれないでいる気持ちはぼくも同じだ。でも、正直もうどうしたらいいのか、ぼくらには分からなくなっていた。
「操」
ぼくは自分がかぶっているキャスケットのツバを掴んで、サッと脱ぐと操の頭にかぶせてやった。目をまんまるにした操に、ニッコリ笑いかける。
「それ、かぶってていいよ」
「でも……」
「いいじゃん。ぼくたちなんでもはんぶんこ。そうでしょ?」
なくなってしまったものは戻ってこないかもしれないけど、だったら今あるものを仲良くはんぶんこすればいいだけの話だ。生まれたときから、ぼくらはずっとそうしてきたんだから。
ぼくはこうすればきっと操がまた笑ってくれると思っていた。だけど操は下唇を噛みしめて、やっぱりうつむくだけだった。
「操?」
「ねぇ操」
「うん」
「博士の研究、本当に完成すると思う……?」
ぼくは薄々気がついていた。操に元気がなかったのは、キャスケットのことだけじゃないってこと。だってその不安はぼくも感じていたことだから。
博士の研究は失敗続きだ。あの爆発音にも、焦げ臭さにも、そのあとの博士の不機嫌そうな顔にも、そろそろ慣れてきてしまった。
「お母さんとまた暮らせるようになる日、本当に来るのかな」
「来るよ! 絶対!」
ぼくは思わず大きな声を出していた。
「博士が諦めない限り、きっといつか成功するよ! 操だってそう言ったじゃん。ここにいれば、必ずお母さんを取り戻す方法が見つかるって!」
「操……」
「だからがんばってるんじゃないか! 料理だって掃除だって、本当はあんまり得意じゃないけど……でも、博士の弟子になれたら、今よりもっと手伝えることだって増えるはずだよ! だから……っ」
泣きそうになっているぼくに、操は「ごめんね」と言って笑った。下手くそだなってぼくは思う。だって無理してるのがバレバレの笑い方なんだもん。
「ちょっと弱気になっただけ。変なこと言っちゃって、ごめんな」
「……うぅん、わかるよ。操の気持ち、ぼくにも分かる」
ずっと苦しかった。ここに来てから覚えることがたくさんで、毎日が一瞬で過ぎてしまったような気がしていたけれど。本当はすごく長かった。お母さんと会えなくなってから、今日までずっと。
だけどぼくらは博士を信じてここにいるしかない。どんなに時間がかかっても、そうするしかないって決めたから。
「帰ろ。博士のご飯を作らなきゃ」
操はやっぱり無理してるって分かる下手くそな笑顔でそう言って、かぶっていたキャスケットのツバを摘むと、ぼくの頭にポンと戻した。
なんとか気を取り直して、ぼくも操と同じ、下手っぴな笑顔で大きく頷く。
「うん。今日こそ美味しいって言ってもらおうね」
博士は基本的に、食べられればなんでもいいという人だ。研究のこと以外、他はどうでもいいみたいだった。だから焦げたパンでも塩を入れすぎたスープでも、なにも言わずに黙々と食べる。生きるための作業って感じ。カエルの姿焼きを出したときは、ちょっとだけ嫌そうな顔をしてたけど。
ぼくらが来るまではカビたパンでも平気で齧っていたそうだから、それに比べたらちょっとは役に立ててると思う。
「博士、今日のご飯きっとビックリするだろうな」
バスケットには、今夜食べるために捕まえたトカゲが数匹、袋に入って暴れてる。博士がどんな反応するかを想像したら、ぼくはちょっぴり楽しくなってきた。
ぼくはあれから、ときどき博士と一緒にコーヒーを飲むようになった。
こないだ、珍しく朝から操の調子がいい日には、初めて操の分もカフェオレも作ってもらった。
だけど操はどうしてもコーヒーが得意じゃないみたいで、ちょっと口をつけただけで渋い顔をした。それを見てぼくは笑ってしまったけど、博士はなにか考え込んでいる様子だった。
その数日後、商人が薬を買いつけに家に来たとき、博士はタンクトップのおじさんにオレンジジュースを注文していた。廊下を雑巾がけしていたぼくは、その話をこっそり聞いていた。嬉しかった。博士はときどき嫌味を言ったりすることもあるけど、ぼくと操のことをとても大事にしてくれていると思う。
だからぼくの中では最近、博士のことを「あまり好きじゃない」から「ほんのちょっとだけ好きじゃない」に変わってて──だってたまに意地悪なのは変わらないし──博士がふいに見せる表情の変化は、見ててけっこう楽しかったりもする。
だからもう少し一緒にいたら、そのうちもっとちゃんと好きになれるかもしれないって、そう思うようになっていた。
「博士、また嫌そうな顔するのかな?」
操の顔に、やっと本当の笑顔が戻ってきた。
「するかもね。だって今日はトカゲの唐揚げだもん!」
ぼくらは顔を見合わせるとクスクス笑い、遠くに見える煙突の煙を目指して、手を繋ぎながら家に帰った。
*
その夜、ぼくはなかなか寝つけずにこっそり屋根裏部屋を抜け出した。
玄関の横にある朽ちた木のベンチに腰掛けて、ホットケーキを裏返したような丸い月をぼんやり見上げる。
頭の中では帰り道で操とした会話が、ずっとグルグル行ったり来たりしていた。
「そんな格好でいたら風邪ひくよ」
「うわっ」
とつぜん声がしたことに驚いて、ぼくはビクンと肩を跳ねさせた。
そこには裏庭から回り込んできたらしい博士がいて、膝丈まである無地のシャツを一枚ペロッと着ているだけのぼくに、少し呆れた表情を浮かべている。
「び、ビックリしたぁ~……オバケが出たかと思ったよ」
ぼくは大きく息をつき、胸に手を押し当てた。心臓がバクバクしてる。
博士はいつもの黒いなローブ姿で、夜の森に溶け込んでいるのがちょっと不気味だ。顔色が優れないように見えるのは、夕飯で出したトカゲのせいだと思う。博士は引きつった顔をしながら、それでもチビチビと口に入れて水で流し込んでいた。
「眠れない?」
博士はそう言ってぼくに近づいてくると、ローブを脱いでそっと肩にかけてくれた。あったかい。うなずく代わりにすんと鼻を鳴らすと、ちょっぴりほこり臭い中に博士の匂いが混ざっていた。なんだか少し、ホッとする。
「ありがと、博士」
ぼくはローブの合わせ目を内側から両手でぎゅっと掴んで、胸元に手繰り寄せた。やっぱり博士は大きいな。ぼくの身体はローブにすっぽり包まれてしまう。
「博士はショコラのところに行ってたの?」
「日課だからね」
博士がぼくの隣に腰掛ける。ボロボロのベンチが、ギシっと軋んだ音を立てた。
「花、ありがとう」
しばらく一緒に月を見上げていると、博士がぽつりとそう言った。
お使いから戻る途中、たまたま目についた花を摘んで持ち帰ったぼくらは、それをこっそりショコラの墓にお供えしておいた。名前は分からなかったけど、白くてとても綺麗な花だったから。
「ショコラ、喜んでるかな?」
「喜んでるよ。きっと」
「えへへ、そっか。よかった」
博士がふっと笑った気配がした。ぼくはそんな博士の横顔を見やる。
「ねぇ博士」
「なに?」
「博士は、どうしてお母さんを知ってたの?」
それはずっと気になっていたことだった。
初めて会ったときにも同じ質問をしたはずだけど、あのときの博士は勝手に心を読むことはしても、ぼくらとじっくり話そうとはしてくれなかった。
でも、今ならちゃんと答えてくれるんじゃないかって気がした。博士とはずいぶん打ち解けたと思うし、なによりお母さんのことだもん。ぼくには知る権利があるはずでしょ。
「……容子さんは、俺の恩師だった人だ」
思った通り、博士はお母さんの話をしてくれた。
「小さな田舎の魔法学校で、教師をしていた。10年以上も前のことだよ」
「そうだったんだ。知らなかった」
ぼくが知ってるお母さんは、修理屋さんをして生計を立てていた。ほつれた洋服だとか、壊れたオモチャだとか、ちょっとした機械なんかを直して元通りにする仕事だ。ぼくもよく手伝いをさせてもらってた。
「どうして先生やめちゃったの?」
「……娘がいたんだ。その一人娘が、疫病でね」
ぼくは家に飾ってあった写真立てのことを思いだした。可愛いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった黒髪の女の子。名前は、確か翔子っていったはずだ。ぼくらにとってはお姉ちゃんってことになる。
「ぼくはお姉ちゃんに会ったことがない。お母さんから聞いて、名前を知っているだけ。お母さんは、お姉ちゃんがいなくなったのが悲しくて、先生をやめちゃったってこと?」
博士はなにも言わなかった。ただ静かに月を見上げている。たぶん、それが答えなんだと思う。
その寂しそうな横顔に、ぼくは見覚えがあるような気がした。お母さんも、写真を見つめながらよくこんな顔をしていたことを思いだす。
博士も思いだしているのかな。失ってしまった、大切な誰かのことを。胸がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚えて、ぼくは静かにうつむいた。それからふと、思いついたんだ。
お姉ちゃんのことも、生き返らせてあげたいって。
これは名案だと、ぼくは思った。
そうすればお母さんだってきっと喜ぶ。ぼくと操と、お姉ちゃんとお母さん。家族4人で、一緒に暮らすことができる。博士の研究が成功すれば、いつかきっとその夢は叶うんだから。
「ねぇ博士。研究、きっと成功するよね?」
博士を見上げて、縋るような目をしながら問いかけた。だけど博士は月を見つめたまま、なにも言ってくれない。
分かってるんだ。とても難しい研究だから、そう簡単に返事なんかできないってこと。博士は何年も研究し続けて、そして何度も失敗し続けている。町の人達だってみんな言ってた。どうせ無理だって。叶いっこないって、笑ってた。
だけど博士の研究はぼくらの希望だから。操が心から笑えるようになるためには、博士の力が必要だった。
「お願い博士、うんって言って」
博士の横顔が、涙でどんどん滲んでいった。どんなに時間がかかってもいい。必ず完成するって、たった一言そう言ってくれるだけで、ぼくは安心できるのに。
それなのに、博士はやっぱりなにも言わずに月を見ていた。
「お願いだから、うんって言ってよ……」
ぼくは博士の腕に縋りついて泣いていた。お母さんを取り戻す日まで、もう泣かないって決めたのに。今までずっと我慢し続けていたものが、一気に溢れて止まらなくなってしまった。
肩を震わせて泣いていると、頬にあたたかなものが触れてぼくは顔をあげた。こらえるように細められた博士の瞳が、ゆらゆらと揺れている。
博士の白い指先が何度も涙をぬぐってくれるけど、その優しい感触にぼくはもっと悲しくなった。ひ、ひ、としゃくりを上げながら必死でその瞳を見返していると、博士が両手でぼくの濡れた頬を包み込んだ。
親指でそれぞれ両方の目尻を拭いながら、博士はじっとぼくの泣き顔を見つめている。なにか言いたそうに開きかけた唇を震わせて、だけどそこから言葉が発されることはなかった。代わりにゆっくりと、博士の顔が近づいてくる。
どうしてかぼくは無意識に息を止めて、自然とまぶたを閉じていた。唇に、熱くて柔らかなものが押しつけられる。
「っ!」
ぼくの肩がピクンと揺れるのと同時に、その感触は離れていった。おずおずと目を開けると、なぜか博士が狼狽えた表情で声をつまらせている。まるで自分がしたことに、自分で驚いているみたいだった。どうしてこんなことをしたのか、博士自身が戸惑っているような。
だけど、そんなのぼくにはもっと分からない。
「どうして、ちゅうしたの?」
寝る前にお母さんがしてくれていたキスとは違う。唇にするキスに特別な意味があることくらい、ぼくだって知ってるよ。だから分からない。どうして博士は、ぼくの唇にキスなんかしたんだろう?
博士は正面を向いてうなだれると、深い息を漏らした。膝の上に肘を置き、鬱陶しい前髪ごとガリガリと頭をかいている。その手つきは乱暴で、こんな博士の仕草を見たのは初めてだった。
やがて横目でチラリとぼくを見ると、上ずった声で「今のは忘れて」と言った。
ぼくは何度も目を瞬かせる。月明かりに照らされて、博士の頬がほんの少しだけ赤くなっていることに気がついた。それを見たら、急に変な気分になってしまった。とてもいけないことをしたような気がして、ぼくは素直にうなずいた。
だけど頭の中は軽くパニックになっている。顔が真っ赤になって、心臓が思いきり走ったときみたいにドキドキしていた。どうしよう。よく分からないけど、すごく困った。だってこんなの初めてだったし、それに、それに。
「博士、今の……忘れる、から」
「……うん」
「今のこと、操には言わないで」
なんでかは分からない。だけど操には、どうしても知られたくないと思ってしまった。おねしょをしていたのがバレてしまったときよりも、今のほうが何倍も恥ずかしい。操に知られたらって思うと、もっともっと恥ずかしいような気がした。
操に隠し事をするなんて、ちょっと前のぼくなら考えられないことだけど。ぼくが博士とキスをしたことは、ぼくらだけの秘密にしておきたかった。
博士は気が抜けたように笑ってぼくを見た。ぼくは博士の顔が見られない。だからうつむいて、もじもじと足の先を擦り合わせた。
なんか、誤魔化されちゃったような気がするな。とても大事な話をしていたのに、博士があんなことするから。だけど今さら続きを問いただす気にはなれなかった。涙も、いつの間にか止まってる。
考えなきゃいけないこと、不安なこと、たくさんあるのに。
ぼくの唇にはまだ博士の熱が残ってる。ちゃんと忘れなくちゃと思うのに、あの一瞬の感覚がぼくの身体に染みついて、いつまでも消えることはなかった。
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丸い十字の格子窓から、大きな満月がよく見える。
広い屋根裏部屋には隅っこに簡素な机と椅子が置いてあって、他には古びた木箱が雑多に積み上げられている。
魔法使いはその木箱を窓際に幾つか並べ、干し草を敷き詰めてシーツで覆い、ぼくらが寝るためのベッドを作ってくれた。これしかないよと言って寄越された厚手の毛布は、どこか古臭いような、ほこりっぽい臭いがした。
「よかったね操。博士、悪いひとではないみたい」
ひとつの毛布にくるまりながら、操が月明かりに照らされた天井を見上げてしみじみ言った。
「そんなのまだ分かんないよ」
ぼくはあれからずっと不機嫌なままだ。ぷいっと顔を背けると、操はキョトンとした顔をする。
「まだ怒ってる?」
「ぼく、あのひと好きじゃない」
「おれは結構いい人だと思うな。ベッドも作ってくれたし、籠いっぱいにパンを出してくれたでしょ?」
「そうだけど……そうだけどさ……」
操は勝手に心を読まれてないから、ぼくの気持ちが分からないんだ。
ぼくの頭のなかには、たくさんの思い出が詰まってる。その中には、自分でも忘れてしまいたい記憶だってあるのに。
「ぼくが12歳までおねしょしてたこと、絶対バレたもん。誰にも知られたくなかったのに!」
「そんなこと気にしてたんだ」
「するよ! だっておねしょだよ!?」
ぼくはカァーッと頭に血がのぼっていくのを感じた。火がついたみたいに顔が熱くなっている。悔しくて、恥ずかしくて、だんだん涙ぐんできてしまった。
ぼくらはもう15歳だ。おねしょをしていたのは12歳。たった3年前のことなんだ。それを知られたかもしれないと思うと、とても平気じゃいられない。
「今はしてないんだから、別によくない?」
「よくないよ!」
「でも、お母さんのためだから。好きじゃなくても、ここにいなくちゃ」
「……わかってるよ」
言われなくたって、それくらい。
ぼくらの生い立ちだとか、お母さんのことだとか。どうやらぼくは説明するのがあまり上手じゃないようだから、いっそ記憶を読んでもらったほうが、確かに手っ取り早かったんだ。下手っぴな説明に時間をさくより、ぼくらを正しく知ってもらうには、そのほうが。
ぼくと操は、どこで生まれたかも分からないただの捨て子だった。赤ん坊だったころ、孤児院の玄関先に置き去りにされていたらしい。
ぼくらはそこで、同じような境遇の子どもたちと一緒に育った。施設の人からはひとつしか名前をつけてもらえなくて、いつも一纏めに呼ばれていた。
お母さんは、そんなぼくらを引き取って大事に育ててくれたんだ。優しくて、とても綺麗で。まるで本当の子供みたいに愛してくれた。
だけどそんなお母さんがある日、病気になって倒れてしまった。
お医者さんにもかかったけど、この疫病はずっと昔から原因が分かっていなくて、どんな薬や魔法でも治せないものだった。
お母さんの咳はどんどん酷くなって、ついには血まで吐くようになった。必死で看病したけど──ダメだった。
「ここにいれば、必ず見つかる。お母さんを取り戻す方法。おれたちにも、きっとなにかできることがあるよ」
「うん……そうだね」
ぼくは毛布のなかでモゾモゾ動くと、操の首に腕を回してしがみついた。操が小さく笑って抱き返してくれる。ぼくが操の頬にキスをすると、操はおでこにお返しのキスをしてくれた。
あったかい。操と一緒でよかった。もしぼくがひとりぼっちだったら、今頃どうなっていたか分からない。考えるだけで恐ろしかった。
「お母さん……」
抱き合いながら眠りに落ちる寸前、お母さんを呼んだのは、ぼくと操のどっちだったんだろう。どっちだっていいことだ。ぼくらは同じ願いをはんぶんこしながら、ここで生きている。
お母さん。はやくまた会いたい。すごくすごく、恋しいよ。
*
弟子入りをしたいなら、まずは雑用から。掃除とか洗濯とか、博士の身の回りのことを完璧にこなせるようになるのが、ぼくらに与えられた最初の課題だった。
だけどぼくと比べて操はあまり丈夫じゃない。特に朝は体調が優れず、無理に動こうとすると目眩を起こして倒れてしまう。だからそのぶんぼくが早起きをして、朝の仕事をせっせとこなす。
博士はとても無口で、ほとんど表情を動かさない人だった。名前は春日井甲洋っていうらしい。家の奥にある部屋からほとんど出てこず、朝晩ずっとそこで例の研究に没頭している。
一度だけ部屋を覗いたことがあるけれど、よくわからない魔術の道具や本がぎっしり積まれていて、中央では大きな壺が紫色の煙をあげていた。
しょっちゅう爆発音がするのもその部屋からだ。最初にこの家に来たときにも聞いた、大きな音。あれは実験の失敗を表す合図のようなものだった。
実験が失敗すると、博士は煤で真っ黒になりながら不機嫌そうな顔をして部屋から出てくる。だから初めて会ったときも、あんなに虫の居所が悪そうだったんだ。
*
この家に来て半月。
動けない操のぶんも、ぼくは朝から床掃除をしていた。
「おはよう」
雑巾でキッチンの床を磨いていると、そこに珍しく博士が顔を見せた。いつもの黒いローブは着ておらず、簡素なシャツに破れたジーンズを穿いている。鼻眼鏡もしていない。
「博士、寝てたんだ。夜にちゃんと寝るなんて、なんか珍しいね」
「俺だって人間だからね」
そう言って気怠げに息をつきながら、博士は木製の椅子に腰掛けた。
「操、もうすぐ起きられると思うから。そしたらご飯の支度をするね」
その前に、まずは掃除を終わらせないと。床に這いつくばって雑巾を走らせるぼくのことを、博士がじっと見つめている。
「……容子さんが亡くなったあとは、ずっと子供だけで?」
無口な博士が急に話しかけてくるものだから、ぼくは少し驚いた。膝立ちになって博士を見上げ、キョトンとしながら小首を傾げる。
「そうだよ。だって他に家族はいないし。町の人たちはよくしてくれたけど……そんなこと、博士なら記憶を読んで知ってるんじゃないの?」
「あくまで断片を見ただけだ。なにからなにまで細かく読み取ったわけじゃない」
「そうなの!?」
「キリがないだろ」
「じゃあ、ぼくが12歳までおねしょしてたってことは!?」
博士の口が「は?」という形に開かれる。ぼくはハッとして息を呑んだ。もしかして、ぼくは今とんでもない墓穴を掘ってしまったんじゃ……?
「……してたの?」
「あっ、え、えっと、そのっ、ちがっ」
「君、いま幾つ?」
「……15」
ぼくってバカだ。どうして余計なことを言っちゃったんだろう?
ゆでダコみたいに赤くなってるぼくを見て、博士は小さく噴きだした。控えめに口角を持ち上げて、可笑しそうに肩を揺らしている。
「!」
それを見て、ぼくは思わずポカンとしてしまった。だって、博士が笑うのを初めて見たから。この人、普通に笑えるんだ。いつもはあんなに無表情でいるくせに。
どうしてか、ぼくの心臓はドキドキと高鳴っていた。あまりにも珍しいものを見たから、少し興奮してるのかもしれない。ほっぺもずっと熱いまんまだ。
「聞かなかったことにしておくよ」
そう言って博士は立ち上がり、ぼくの頭をくしゃっと撫でた。お母さんも、よくこうして撫でてくれたっけ。だけど博士の撫で方は少し雑で、なんていうか、男の人って感じがした。
するとどうしてか、胸のドキドキがまた大きくなった。なんなんだろう、この感じ。ほっぺただけじゃなく、耳まで赤くなってる気がする。
博士はそのままぼくの横を通り過ぎ、流しのそばにしゃがみ込むと収納扉を開け、中からコーヒー豆が詰まった瓶を取り出した。
「あ、それはぼくが」
「いいよ。コーヒーくらい自分で淹れる。それより」
博士は瓶をキッチン台に置くと、部屋の隅に向かって軽くあごをしゃくった。
「そこ、ちゃんと拭けてないよ。ほこりが溜まってる」
「え、どこ!?」
「たらたらやってると、いつまでも終わらないよ」
それまでのどこかふわふわした気分が吹き飛び、ぼくは思わずムッとする。
「ちゃんとやろうと思ってたもん! なのに博士が話しかけてくるから!」
「子供みたいな口答えはしない」
「む~ッ! 博士の意地悪!」
この人、やっぱりヤな奴だ。なんか楽しそうにニヤっとしてるし。ちょっとは打ち解けた気がしてたけど、やっぱ好きにはなれなさそう。
博士が豆を挽いたりしているあいだ、ぼくはリスみたいにほっぺを膨らませながら、部屋の隅をゴシゴシ拭いた。これも操とお母さんのためだ。ぜったい立派な弟子になって、あっと驚かせてやる。
そんなことを考えながら床を拭いていると、部屋中がコーヒーの香ばしい匂いで満ちてくる。コーヒーは飲んだことがないけど、この香りはけっこう好きだな。なんとなく気持ちがほぐれていくのを感じた。
「……ねぇ博士」
ムカムカが少しおさまってきたぼくは、ずっと気になっていたことを博士に聞いてみることにした。もちろん、手は止めないまま。またなにを言われるか分かったもんじゃないし。
「なに?」
「この家の裏、お墓があるでしょ。あれは誰のお墓なの?」
それに気づいたのは、ここに来た翌日だった。
操と一緒に家の周りを散策していると、裏手に小さな墓が立っていることに気がついた。細い丸太を組み合わせて作った十字架が、盛り上がった地面にざっくりと突き刺さっていた。
博士はなにも言わなかった。なにか不味いことを聞いちゃったのかな。気になって、ぼくは手を止めると博士を見上げた。
博士はコーヒーを注いだ白いカップを二つ、両手に持ってテーブルに置くと、また椅子に腰掛けた。ぼくは目を丸くする。
「……なに?」
「博士、それひょっとしてぼくの分?」
「いらなかった?」
「いる!」
ぼくは雑巾を投げだし、勢いよく立ち上がると流しで手を洗った。博士の向かい側に腰掛けて、カップの中身を覗き込む。ぼくはさらに驚いて、「あっ」と声をあげてしまった。そこにあったのは、ただのコーヒーじゃなくてカフェオレだった。
ミルクがたっぷり入っているおかげで、コーヒーはいい感じにぬるくなっている。ちょうど喉も乾いていたから、ぼくはそれをゴクゴク飲んだ。
「ぷはっ、美味しい! 甘い!」
カフェオレには砂糖もたくさん入っていた。おかげで少しも苦くない。
それでもぼくはちょっぴり大人になれた気がして嬉しかった。だってコーヒーなんて初めてだもん。これなら操もいけるかも。あとで飲ませてあげたいな。
博士はカップに口をつけながら、一瞬だけふっと笑ったようだった。
「少し前まで──」
「え?」
カップをテーブルに戻して、博士はコーヒーの水面を見下ろしながら言った。
「黒い犬がいたんだ。今はあの場所で眠ってる」
カフェオレに気を取られて、質問していたことをすっかり忘れていた。だって答えてくれないんだと思っていたから。
「黒い犬? 博士の使い魔?」
「違う。ショコラは俺の家族だよ」
「そうなんだ」
犬がいたってことは、散歩とかさせてたのかな。博士って外に出ることあるんだ。ぼくは家に引きこもって煤まみれになっている博士しか知らないから、ちょっと意外だった。
でもよくよく思いだしてみれば、裏庭のお墓にはいつも新しい花が供えられている。きっとぼくらが寝たあとにでも、こっそりお参りしてるんだろう。
「じゃあ博士は、その子を生き返らせるために研究してるの?」
「違うよ。俺はあの子の死に納得してる」
「納得って……博士は寂しくないの? 家族がいなくなったのに」
家族を失うのは、とても寂しくて悲しいことだ。この痛みから逃れるために、ぼくと操はここにいる。だからぼくには博士の言葉が理解できなかった。
大切な家族がいなくなったのに、どうしてそんなことが言えるんだろう。
「寂しくないわけじゃない。だけど老犬だったからね、ショコラは。大往生ってやつさ」
「だいおーじょー?」
「自然死だよ。病気や事故じゃなく、眠るみたいに逝ったってこと」
「眠るみたいに……」
お母さんは最後まで血を吐いて、とても苦しそうだった。でもその子は、痛い思いも、苦しい思いもしなかったんだ。たくさんたくさん生きたあと、まるで昼寝でもするみたいに、博士に見守られながら天国へ旅立った。
博士の穏やかな口調からそれが伝わってきて、ぼくは気が抜けたような、ホッとしたような、不思議な気分を味わった。これが納得するってことなのかな。
「感謝してるよ。あの子には」
細められた博士の目は優しくて、とてもあたたかい。こんなふうに思える『いなくなり方』もあるんだってことを、ぼくはこのとき初めて知った。
じゃあ、もしお母さんがショコラみたいな最期だったなら、ぼくは今ごろどうしてたんだろう。博士みたいに、受け入れることができたんだろうか。
「ねぇ、じゃあ博士は……」
「ん?」
「……あ、うぅん。なんでもないや」
ぼくは首を横に振り、誤魔化すみたいにちょっと笑った。博士は特になにを言うでもなく、またコーヒーカップに口をつけている。
正直なところ、ぼくはとても気になっていた。だったら博士は、誰を生き返らせたくて研究を始めたんだろうって。
きっと博士も、大切な人を納得がいかない形で亡くしてしまったんだろう。だからこんな深い森の奥で、何年もずっと一人ぼっちで研究に没頭している。
博士にそこまでさせる存在に、ぼくは興味を抱いた。だけど聞いたところで、きっと博士は答えてくれない。そんな気がする。
博士はたぶん、ぼくが知りたがっていることに気づいてる。だけどあえて口を開こうとしない。カップの中に落とされた視線は、どこか遠くを見つめているようだった。ショコラの話をしていたときの、あのあったかい眼差しは消えていた。
そこにはまるで大きな影を背負ってるような──もともと暗い雰囲気のひとではあるけど──とにかく、踏み込んじゃいけない壁みたいなものを感じた気がした。
ぼくはその壁に触れちゃいけない。触れることを許されてない。こんなふうにちゃんと言葉で話して、一緒にコーヒーを飲んでいたとしても。
それが今のぼくらと、博士の距離だ。
←戻る ・ 次へ→
広い屋根裏部屋には隅っこに簡素な机と椅子が置いてあって、他には古びた木箱が雑多に積み上げられている。
魔法使いはその木箱を窓際に幾つか並べ、干し草を敷き詰めてシーツで覆い、ぼくらが寝るためのベッドを作ってくれた。これしかないよと言って寄越された厚手の毛布は、どこか古臭いような、ほこりっぽい臭いがした。
「よかったね操。博士、悪いひとではないみたい」
ひとつの毛布にくるまりながら、操が月明かりに照らされた天井を見上げてしみじみ言った。
「そんなのまだ分かんないよ」
ぼくはあれからずっと不機嫌なままだ。ぷいっと顔を背けると、操はキョトンとした顔をする。
「まだ怒ってる?」
「ぼく、あのひと好きじゃない」
「おれは結構いい人だと思うな。ベッドも作ってくれたし、籠いっぱいにパンを出してくれたでしょ?」
「そうだけど……そうだけどさ……」
操は勝手に心を読まれてないから、ぼくの気持ちが分からないんだ。
ぼくの頭のなかには、たくさんの思い出が詰まってる。その中には、自分でも忘れてしまいたい記憶だってあるのに。
「ぼくが12歳までおねしょしてたこと、絶対バレたもん。誰にも知られたくなかったのに!」
「そんなこと気にしてたんだ」
「するよ! だっておねしょだよ!?」
ぼくはカァーッと頭に血がのぼっていくのを感じた。火がついたみたいに顔が熱くなっている。悔しくて、恥ずかしくて、だんだん涙ぐんできてしまった。
ぼくらはもう15歳だ。おねしょをしていたのは12歳。たった3年前のことなんだ。それを知られたかもしれないと思うと、とても平気じゃいられない。
「今はしてないんだから、別によくない?」
「よくないよ!」
「でも、お母さんのためだから。好きじゃなくても、ここにいなくちゃ」
「……わかってるよ」
言われなくたって、それくらい。
ぼくらの生い立ちだとか、お母さんのことだとか。どうやらぼくは説明するのがあまり上手じゃないようだから、いっそ記憶を読んでもらったほうが、確かに手っ取り早かったんだ。下手っぴな説明に時間をさくより、ぼくらを正しく知ってもらうには、そのほうが。
ぼくと操は、どこで生まれたかも分からないただの捨て子だった。赤ん坊だったころ、孤児院の玄関先に置き去りにされていたらしい。
ぼくらはそこで、同じような境遇の子どもたちと一緒に育った。施設の人からはひとつしか名前をつけてもらえなくて、いつも一纏めに呼ばれていた。
お母さんは、そんなぼくらを引き取って大事に育ててくれたんだ。優しくて、とても綺麗で。まるで本当の子供みたいに愛してくれた。
だけどそんなお母さんがある日、病気になって倒れてしまった。
お医者さんにもかかったけど、この疫病はずっと昔から原因が分かっていなくて、どんな薬や魔法でも治せないものだった。
お母さんの咳はどんどん酷くなって、ついには血まで吐くようになった。必死で看病したけど──ダメだった。
「ここにいれば、必ず見つかる。お母さんを取り戻す方法。おれたちにも、きっとなにかできることがあるよ」
「うん……そうだね」
ぼくは毛布のなかでモゾモゾ動くと、操の首に腕を回してしがみついた。操が小さく笑って抱き返してくれる。ぼくが操の頬にキスをすると、操はおでこにお返しのキスをしてくれた。
あったかい。操と一緒でよかった。もしぼくがひとりぼっちだったら、今頃どうなっていたか分からない。考えるだけで恐ろしかった。
「お母さん……」
抱き合いながら眠りに落ちる寸前、お母さんを呼んだのは、ぼくと操のどっちだったんだろう。どっちだっていいことだ。ぼくらは同じ願いをはんぶんこしながら、ここで生きている。
お母さん。はやくまた会いたい。すごくすごく、恋しいよ。
*
弟子入りをしたいなら、まずは雑用から。掃除とか洗濯とか、博士の身の回りのことを完璧にこなせるようになるのが、ぼくらに与えられた最初の課題だった。
だけどぼくと比べて操はあまり丈夫じゃない。特に朝は体調が優れず、無理に動こうとすると目眩を起こして倒れてしまう。だからそのぶんぼくが早起きをして、朝の仕事をせっせとこなす。
博士はとても無口で、ほとんど表情を動かさない人だった。名前は春日井甲洋っていうらしい。家の奥にある部屋からほとんど出てこず、朝晩ずっとそこで例の研究に没頭している。
一度だけ部屋を覗いたことがあるけれど、よくわからない魔術の道具や本がぎっしり積まれていて、中央では大きな壺が紫色の煙をあげていた。
しょっちゅう爆発音がするのもその部屋からだ。最初にこの家に来たときにも聞いた、大きな音。あれは実験の失敗を表す合図のようなものだった。
実験が失敗すると、博士は煤で真っ黒になりながら不機嫌そうな顔をして部屋から出てくる。だから初めて会ったときも、あんなに虫の居所が悪そうだったんだ。
*
この家に来て半月。
動けない操のぶんも、ぼくは朝から床掃除をしていた。
「おはよう」
雑巾でキッチンの床を磨いていると、そこに珍しく博士が顔を見せた。いつもの黒いローブは着ておらず、簡素なシャツに破れたジーンズを穿いている。鼻眼鏡もしていない。
「博士、寝てたんだ。夜にちゃんと寝るなんて、なんか珍しいね」
「俺だって人間だからね」
そう言って気怠げに息をつきながら、博士は木製の椅子に腰掛けた。
「操、もうすぐ起きられると思うから。そしたらご飯の支度をするね」
その前に、まずは掃除を終わらせないと。床に這いつくばって雑巾を走らせるぼくのことを、博士がじっと見つめている。
「……容子さんが亡くなったあとは、ずっと子供だけで?」
無口な博士が急に話しかけてくるものだから、ぼくは少し驚いた。膝立ちになって博士を見上げ、キョトンとしながら小首を傾げる。
「そうだよ。だって他に家族はいないし。町の人たちはよくしてくれたけど……そんなこと、博士なら記憶を読んで知ってるんじゃないの?」
「あくまで断片を見ただけだ。なにからなにまで細かく読み取ったわけじゃない」
「そうなの!?」
「キリがないだろ」
「じゃあ、ぼくが12歳までおねしょしてたってことは!?」
博士の口が「は?」という形に開かれる。ぼくはハッとして息を呑んだ。もしかして、ぼくは今とんでもない墓穴を掘ってしまったんじゃ……?
「……してたの?」
「あっ、え、えっと、そのっ、ちがっ」
「君、いま幾つ?」
「……15」
ぼくってバカだ。どうして余計なことを言っちゃったんだろう?
ゆでダコみたいに赤くなってるぼくを見て、博士は小さく噴きだした。控えめに口角を持ち上げて、可笑しそうに肩を揺らしている。
「!」
それを見て、ぼくは思わずポカンとしてしまった。だって、博士が笑うのを初めて見たから。この人、普通に笑えるんだ。いつもはあんなに無表情でいるくせに。
どうしてか、ぼくの心臓はドキドキと高鳴っていた。あまりにも珍しいものを見たから、少し興奮してるのかもしれない。ほっぺもずっと熱いまんまだ。
「聞かなかったことにしておくよ」
そう言って博士は立ち上がり、ぼくの頭をくしゃっと撫でた。お母さんも、よくこうして撫でてくれたっけ。だけど博士の撫で方は少し雑で、なんていうか、男の人って感じがした。
するとどうしてか、胸のドキドキがまた大きくなった。なんなんだろう、この感じ。ほっぺただけじゃなく、耳まで赤くなってる気がする。
博士はそのままぼくの横を通り過ぎ、流しのそばにしゃがみ込むと収納扉を開け、中からコーヒー豆が詰まった瓶を取り出した。
「あ、それはぼくが」
「いいよ。コーヒーくらい自分で淹れる。それより」
博士は瓶をキッチン台に置くと、部屋の隅に向かって軽くあごをしゃくった。
「そこ、ちゃんと拭けてないよ。ほこりが溜まってる」
「え、どこ!?」
「たらたらやってると、いつまでも終わらないよ」
それまでのどこかふわふわした気分が吹き飛び、ぼくは思わずムッとする。
「ちゃんとやろうと思ってたもん! なのに博士が話しかけてくるから!」
「子供みたいな口答えはしない」
「む~ッ! 博士の意地悪!」
この人、やっぱりヤな奴だ。なんか楽しそうにニヤっとしてるし。ちょっとは打ち解けた気がしてたけど、やっぱ好きにはなれなさそう。
博士が豆を挽いたりしているあいだ、ぼくはリスみたいにほっぺを膨らませながら、部屋の隅をゴシゴシ拭いた。これも操とお母さんのためだ。ぜったい立派な弟子になって、あっと驚かせてやる。
そんなことを考えながら床を拭いていると、部屋中がコーヒーの香ばしい匂いで満ちてくる。コーヒーは飲んだことがないけど、この香りはけっこう好きだな。なんとなく気持ちがほぐれていくのを感じた。
「……ねぇ博士」
ムカムカが少しおさまってきたぼくは、ずっと気になっていたことを博士に聞いてみることにした。もちろん、手は止めないまま。またなにを言われるか分かったもんじゃないし。
「なに?」
「この家の裏、お墓があるでしょ。あれは誰のお墓なの?」
それに気づいたのは、ここに来た翌日だった。
操と一緒に家の周りを散策していると、裏手に小さな墓が立っていることに気がついた。細い丸太を組み合わせて作った十字架が、盛り上がった地面にざっくりと突き刺さっていた。
博士はなにも言わなかった。なにか不味いことを聞いちゃったのかな。気になって、ぼくは手を止めると博士を見上げた。
博士はコーヒーを注いだ白いカップを二つ、両手に持ってテーブルに置くと、また椅子に腰掛けた。ぼくは目を丸くする。
「……なに?」
「博士、それひょっとしてぼくの分?」
「いらなかった?」
「いる!」
ぼくは雑巾を投げだし、勢いよく立ち上がると流しで手を洗った。博士の向かい側に腰掛けて、カップの中身を覗き込む。ぼくはさらに驚いて、「あっ」と声をあげてしまった。そこにあったのは、ただのコーヒーじゃなくてカフェオレだった。
ミルクがたっぷり入っているおかげで、コーヒーはいい感じにぬるくなっている。ちょうど喉も乾いていたから、ぼくはそれをゴクゴク飲んだ。
「ぷはっ、美味しい! 甘い!」
カフェオレには砂糖もたくさん入っていた。おかげで少しも苦くない。
それでもぼくはちょっぴり大人になれた気がして嬉しかった。だってコーヒーなんて初めてだもん。これなら操もいけるかも。あとで飲ませてあげたいな。
博士はカップに口をつけながら、一瞬だけふっと笑ったようだった。
「少し前まで──」
「え?」
カップをテーブルに戻して、博士はコーヒーの水面を見下ろしながら言った。
「黒い犬がいたんだ。今はあの場所で眠ってる」
カフェオレに気を取られて、質問していたことをすっかり忘れていた。だって答えてくれないんだと思っていたから。
「黒い犬? 博士の使い魔?」
「違う。ショコラは俺の家族だよ」
「そうなんだ」
犬がいたってことは、散歩とかさせてたのかな。博士って外に出ることあるんだ。ぼくは家に引きこもって煤まみれになっている博士しか知らないから、ちょっと意外だった。
でもよくよく思いだしてみれば、裏庭のお墓にはいつも新しい花が供えられている。きっとぼくらが寝たあとにでも、こっそりお参りしてるんだろう。
「じゃあ博士は、その子を生き返らせるために研究してるの?」
「違うよ。俺はあの子の死に納得してる」
「納得って……博士は寂しくないの? 家族がいなくなったのに」
家族を失うのは、とても寂しくて悲しいことだ。この痛みから逃れるために、ぼくと操はここにいる。だからぼくには博士の言葉が理解できなかった。
大切な家族がいなくなったのに、どうしてそんなことが言えるんだろう。
「寂しくないわけじゃない。だけど老犬だったからね、ショコラは。大往生ってやつさ」
「だいおーじょー?」
「自然死だよ。病気や事故じゃなく、眠るみたいに逝ったってこと」
「眠るみたいに……」
お母さんは最後まで血を吐いて、とても苦しそうだった。でもその子は、痛い思いも、苦しい思いもしなかったんだ。たくさんたくさん生きたあと、まるで昼寝でもするみたいに、博士に見守られながら天国へ旅立った。
博士の穏やかな口調からそれが伝わってきて、ぼくは気が抜けたような、ホッとしたような、不思議な気分を味わった。これが納得するってことなのかな。
「感謝してるよ。あの子には」
細められた博士の目は優しくて、とてもあたたかい。こんなふうに思える『いなくなり方』もあるんだってことを、ぼくはこのとき初めて知った。
じゃあ、もしお母さんがショコラみたいな最期だったなら、ぼくは今ごろどうしてたんだろう。博士みたいに、受け入れることができたんだろうか。
「ねぇ、じゃあ博士は……」
「ん?」
「……あ、うぅん。なんでもないや」
ぼくは首を横に振り、誤魔化すみたいにちょっと笑った。博士は特になにを言うでもなく、またコーヒーカップに口をつけている。
正直なところ、ぼくはとても気になっていた。だったら博士は、誰を生き返らせたくて研究を始めたんだろうって。
きっと博士も、大切な人を納得がいかない形で亡くしてしまったんだろう。だからこんな深い森の奥で、何年もずっと一人ぼっちで研究に没頭している。
博士にそこまでさせる存在に、ぼくは興味を抱いた。だけど聞いたところで、きっと博士は答えてくれない。そんな気がする。
博士はたぶん、ぼくが知りたがっていることに気づいてる。だけどあえて口を開こうとしない。カップの中に落とされた視線は、どこか遠くを見つめているようだった。ショコラの話をしていたときの、あのあったかい眼差しは消えていた。
そこにはまるで大きな影を背負ってるような──もともと暗い雰囲気のひとではあるけど──とにかく、踏み込んじゃいけない壁みたいなものを感じた気がした。
ぼくはその壁に触れちゃいけない。触れることを許されてない。こんなふうにちゃんと言葉で話して、一緒にコーヒーを飲んでいたとしても。
それが今のぼくらと、博士の距離だ。
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──ずっと空で見てるから……幸せになって、操。
それはお母さんからもらった、最後の言葉だった。
咳が出て、口からたくさん血を吐いて、あんなに苦しそうだったのに。お母さんは最後の瞬間まで、ずっと優しい目をして笑ってた。
ぼくは泣いて泣いて、ご飯も食べられないくらい毎日泣いて、ずっとお母さんの名前を呼んでいた。
お母さん、お母さん、お母さん。
血は繋がっていないけど、お母さんはぼくの本当のお母さんだ。お母さんが、ぼくをぼくにしてくれた。
ぼくが幸せだったのは、いつもそばにお母さんがいてくれたから。寝る前にはおでこやほっぺにキスをしてくれた。お手伝いをしたらたくさん褒めてくれた。お母さんと一緒に眺める空は、宝物みたいにキラキラしていた。
だけどお母さんがいないなら、幸せなんてどこにもない。空を見ても悲しくなるだけで、そこにお母さんがいるなんてどうしても思えなかった。
ぼくはもう、この痛みには耐えられない。だったらどうすればいいだろう。
ぼくはたくさん考えた。お母さんのためにできること。もう一度、空が綺麗だと思えるように。考えて考えて、そして一つの『希望』に行き着いた。その光を頼りに、ぼくにできることならなんだってしてみせる。
泣いてるだけじゃ、きっとなにも変わらないから。
「行こう、操」
ぼくは泣いているもう一人のぼくに手を差しだした。お母さんがいなくなってから、操もずっと泣いている。真っ赤になった目が、まるでうさぎみたいだった。
操は何度も鼻をすすり、それでも「うん」とうなずいた。ぼくの手を取って、ぎゅっと握りしめてくる。その力はとても強いのに、同じくらい弱くも感じた。
守らなくちゃ。そう思った。ぼくは操。この子も操。ぼくらは生まれたときからたった一つだけ与えられた名前をはんぶんこして、ずっとずっと生きてきた。大事な大事な、ぼくの操。
「お母さんを取り戻すんだ。また一緒に暮らせるように」
ぼくたちになら、必ずできる。操がもう泣かなくてすむように。
きっとまた、お母さんと一緒に──。
*
「あっ……!」
強い風が吹いて、操がかぶっていたベージュのキャスケットが空高く舞い上がった。ブーメランみたいに飛んでって、遠くの木々の谷間に消えてしまう。
「あーぁ、飛んでっちゃった! ダメじゃん操。ぼうっとしてちゃ」
ぼくが両手を腰に当てて言うと、操は困った顔をして肩をすくめた。
「ごめん操。だって急に風が吹くんだもの」
「せっかくお揃いだったのにぃ」
ぼくと操は顔も名前も一緒なら、身につけているものだっていつも一緒だ。
チェック柄のカジュアルシャツに、ロールアップしたオーバーオール。そしてベージュのキャスケット。
違うのはシャツの色だけで、ぼくが赤なら操は空色。これなら誰も、ぼくら双子を間違えない。他はなにからなにまで、ぼくたちはお揃いのものが大好きだ。
風が悪戯をしたせいで、キャスケットをかぶっているのはぼくだけになってしまったけれど。
「どこまでいっちゃったんだろう。おれ、探してくるよ」
「こんな深い森の中じゃ、きっとすぐには見つからないよ。あとでぼくも一緒に探してあげるから。今はほら、それより見て」
ぼくが遠くを指さすと、操もそっちへ目を向けた。
遠くの方で、モクモクと煙が上がっているのが見える。たぶん、煙突の煙だ。つまりあそこには家があるってこと。
深い深い森のなか。ぼくらはもうずっと歩き続けて、ようやくここまでたどり着いた。
「本当にいるのかな……こんなところに魔法使いなんて……」
操が不安そうに身を寄せて、ぼくの腕にしがみついてくる。ぼくは操を安心させるため、力強くうなずいた。
「きっといるよ。森に入る前だって、たくさん話を聞いたでしょ?」
オバケ森と呼ばれる森の外れに住む、引きこもりの魔法使い。そのひとは町の人たちから『博士』と呼ばれている。もうずっと何年も森から出ずに、一人ぼっちで魔術の研究をしている変わり者なんだって。
だけどその研究はとても難しいもので、誰も彼もが期待なんかしていない。だから皮肉を込めて、『博士』なんて呼ばれているらしい。
でも、ぼくらにとって博士の研究はたったひとつの希望だ。それを求めて長い長い旅をしてきた。町から町を巡り巡って、たくさんの人から話を聞いて、そしてついにこの森に博士がいることを突き止めたんだ。
「早く行かなきゃ。夜になっちゃう」
パンや水も、もう尽きた。お財布だって空っぽだ。さっきまで頭の上の方にあったはずの太陽が、地平線に沈もうとしている。薄青が混じりはじめた景色のなかで、複雑な形状をした木々がまるで布をかぶったオバケみたいに見えた。
ぼくは怖いのをぐっと我慢して、操とくっつきながら煙を目印に歩きだした。
*
「あった! あったよ操! 魔法使いの家だ!」
どんどん暗くなっていく森のなか、なんとか太陽が沈みきる前にぼくらは噂の魔法使いがいるという家に辿り着いた。
ぼくが家を指さして言うと、操はホッとしたように息をつく。呼吸も浅いし、あまり顔色がよくないみたいだ。ぼくらは姿かたちがそっくりな双子だけれど、操はあまり身体が丈夫な方じゃない。早く休ませてあげなくちゃ。
魔女の帽子みたいに尖った屋根から、レンガの煙突が突き出してモクモクと煙を上げている。古ぼけた漆喰の壁に緑のツルが絡みつき、この家自体がまるで森と一体化しているようだった。頭上には数羽のコウモリが飛びまわっている。
いかにも何かよくないものが出てきそうな雰囲気に、ぼくと操はごくりと喉を鳴らした。
「い、行こう」
ぼくらは互いの手を強く握って、緊張しながらうなずきあった。
玄関先にはランタンが吊り下げられている。蛾や小さな羽虫を纏わりつかせ、チカチカと点滅を繰り返していた。ぼくは大きく深呼吸をすると、オンボロの木製のドアをノックした。
コンコン、コンコン。乾いた音が静かな森に小さく響く。
「……いないのかな?」
首を傾げながら、今度は操がノックした。コンコン、コンコン。ぼくらは交互に、何度かノックを繰り返す。だけど一向に魔法使いは出てこない。
──ボンッ!!
そのときだった。突然ドアの向こうから爆発音がして、家がちょっとだけ揺れた気がした。ぼくらがビクンと肩を跳ねさせていると、頑なに閉ざされていたはずのドアが、キィっと軋んだ音を立てる。
「っ!」
ぼくは思わず息を呑んだ。ゆっくりと開かれたドアから、胡乱な目がぼくらふたりに向けられている。家の中から黒い煙が押しだされ、焦げた臭いを吸い込んだ操がケホッと小さく咳をした。
「……なにか?」
黒いフード付きのローブを着て、テンプルのない鼻眼鏡をした背の高い男の人が、面倒くさそうに不機嫌な声で問いかけてきた。その頬には黒い煤がついていて、長い焦げ茶の髪の毛先も、焦げてチリチリになっている。
「用がないなら早く帰りな。夜の森は危険だよ」
ぼくと操がポカンとしたままなにも答えられないでいると、魔法使いは冷たくそう言ってドアを閉めようとした。
「ま、待って! ぼくたち、生き返らせたい人がいるんだ!」
魔法使いの頬が、ピクリと動いた。胡乱な目つきはそのままに、ぼくらふたりを上から下までジロジロと見る。
「……それで?」
ぼくも操も、どこか陰気な影を帯びた魔法使いに圧倒されていた。だけど物怖じしている場合じゃない。少しでも言いよどむ素振りを見せれば、容赦なくドアを閉められてしまいそうだったから。
「は、博士がそういう研究をしてるって! 死んだ人を生き返らせる、魔法の研究! 町の人達が話してるのをいろいろ聞いて……それでぼくたち、弟子になりたくてここに来たんだ!」
「博士、ね」
自分が皮肉を込めてそう呼ばれていることを、魔法使いは知っているようだった。軽く鼻を鳴らし、腕を組むと開け放った扉を肩で押さえるようにしながらもたれかかった。
「誰?」
「え?」
「誰を生き返らせたいの?」
話、ちゃんと聞いてくれるんだ……。ぼくが少し驚いていると、今度は黙り込んでいた操が声をあげた。
「お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!」
冷たい風がぴゅうっと吹いて、操の声をさらっていった。
操は今にも泣きそうだ。大きな瞳にいっぱい涙を溜めながら、魔法使いを必死で見上げている。ぼくも泣きそうになりながら、そんな操の手を強く握った。
魔法使いは黙ってぼくらを見つめると、どこか痛ましそうに目を伏せる。
「悪いけど、弟子はとってない。獣避けのまじないをかけてあげるから、今すぐ町に帰りな」
「ま、待って! お願い、ぼくたちなんでも言うこと聞くから! 博士の邪魔は絶対しないし、どんなことでも手伝うから、だから……!」
ぼくは咄嗟に操の手を離し、魔法使いのホコリ臭いローブに縋りついていた。ここで引いたら、ぼくらはまた泣いて暮らすだけの日々に戻ってしまう。そんなのは嫌だ。ぼくはもう操の泣き顔を見たくない。
ぼくの必死の訴えに、魔法使いは心底困ったように溜息を漏らした。やがてぼくの手をさりげなく振り払うと、「名前は?」と問いかけてくる。
「弟子にしてくれるの!?」
「さぁ。それはまだ分からない」
「操! 来主操!」
ぼくはすっかりその気になって、キラキラと目を輝かせながら操の肩を抱き寄せる。
「この子も操! ぼくたち双子なんだ! なんでもはんぶんこ! だから名前もはんぶんこなんだよ!」
「どういうこと?」
「施設の人がひとつしか名前をくれなくて……でも、ぼくたちこの名前が好きなんだ。だってぼくと操は二人で一人なんだもん。なんでもお揃いで、なんでもはんぶんこ。あ、でもさっき帽子が風で飛ばされちゃって」
まくしたてるように喋るぼくに、魔法使いが怪訝そうな顔をする。ぼくよりは幾らか空気が読めるらしい操が、堪えきれずに苦笑した。
「慌てすぎだよ。博士が困ってる」
「え、ぼくなにか変だった?」
顔を見合わせるぼくらを見て、魔法使いがまたひとつ溜息をついた。
「わかった。もういい」
魔法使いはそう言って、突然ぼくの頬に手を伸ばしてきた。ぼくはぎょっとして目を丸くしたけれど、魔法使いは長い指をぼくの頬に押し当てて、それから──
「……容子さん?」
と、なぜかお母さんの名前を呼んだ。
ぼくと操は驚いた。魔法使いの瞳にも、わずかな動揺が浮かんでいる。
「どうしてお母さんの名前を知ってるの?」
訳が分からず、操が呆然と問いかけた。ぼくも操も、お母さんの名前はまだ一度も言ってない。それなのにどうして?
「容子さん、亡くなったのか」
魔法使いはただでさえ辛気臭い顔をさらに暗く曇らせた。悲しげに目を伏せて、なにかを考え込んでいる。
「そうか、彼女と同じ疫病で……」
魔法使いは戸惑うぼくらを複雑そうに見つめて、やがてスッと身を引くと
「入りな。容子さんのところから来たのなら、無下にはできない」
そう言って、ぼくらを家に招き入れようとした。
「待ってよ! ねぇ、さっきぼくになにをしたの?」
「なにって。読んだだけだよ」
「読んだ?」
「そう」
魔法使いは人差し指で自分の左のこめかみをトントンと叩いて見せる。
「君の頭の中にあるものだよ。そのほうが手っ取り早そうだったから」
まったく意味が分からずに顔をしかめていると、操が何かに気づいたように「あ」と言って、ぼくの耳元にそっと唇を寄せてきた。
「さっきのは、きっと読心魔法だよ。操の思考を読んだんだ」
「……は? なにそれ!?」
つまり、ぼくはたったいま会ったばかりの知らない人に、勝手に心を読まれたってこと? なんなのそれ? そんなのってあんまりじゃない? 確かにぼくはちょっと浮かれてて、さっきの話はめちゃくちゃだったかもしれないけど。
「なにか食べる? パンしかないけど、それでいい?」
魔法使いがぼくらに背を向けながら言うと、操はパッと表情を明るくして「うん!」と元気に返事をした。それからぼくの顔を見てにっこり笑う。
「やったね操。喉も乾いたし、おれもうお腹ペコペコだよ」
「お茶は勝手に自分で淹れて。無下にはしないけど、客扱いもしないから」
そっけなく部屋を出ていこうとする魔法使いの背中に、操が素直に「はぁい!」と返事をしている。だけどぼくは腹が立っていて、とてもそれどころじゃなかった。無愛想だし、なんかちょっと冷たい感じがするし、勝手に人の心を読むし。
だからぼくは思ってしまった。いけないことだけど、思ってしまったんだ。この人にはこれから、たくさんお世話にならなきゃいけない。お手伝いをしないといけない。でも、だけど──。
ぼく、この人あまり好きじゃない!
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それはお母さんからもらった、最後の言葉だった。
咳が出て、口からたくさん血を吐いて、あんなに苦しそうだったのに。お母さんは最後の瞬間まで、ずっと優しい目をして笑ってた。
ぼくは泣いて泣いて、ご飯も食べられないくらい毎日泣いて、ずっとお母さんの名前を呼んでいた。
お母さん、お母さん、お母さん。
血は繋がっていないけど、お母さんはぼくの本当のお母さんだ。お母さんが、ぼくをぼくにしてくれた。
ぼくが幸せだったのは、いつもそばにお母さんがいてくれたから。寝る前にはおでこやほっぺにキスをしてくれた。お手伝いをしたらたくさん褒めてくれた。お母さんと一緒に眺める空は、宝物みたいにキラキラしていた。
だけどお母さんがいないなら、幸せなんてどこにもない。空を見ても悲しくなるだけで、そこにお母さんがいるなんてどうしても思えなかった。
ぼくはもう、この痛みには耐えられない。だったらどうすればいいだろう。
ぼくはたくさん考えた。お母さんのためにできること。もう一度、空が綺麗だと思えるように。考えて考えて、そして一つの『希望』に行き着いた。その光を頼りに、ぼくにできることならなんだってしてみせる。
泣いてるだけじゃ、きっとなにも変わらないから。
「行こう、操」
ぼくは泣いているもう一人のぼくに手を差しだした。お母さんがいなくなってから、操もずっと泣いている。真っ赤になった目が、まるでうさぎみたいだった。
操は何度も鼻をすすり、それでも「うん」とうなずいた。ぼくの手を取って、ぎゅっと握りしめてくる。その力はとても強いのに、同じくらい弱くも感じた。
守らなくちゃ。そう思った。ぼくは操。この子も操。ぼくらは生まれたときからたった一つだけ与えられた名前をはんぶんこして、ずっとずっと生きてきた。大事な大事な、ぼくの操。
「お母さんを取り戻すんだ。また一緒に暮らせるように」
ぼくたちになら、必ずできる。操がもう泣かなくてすむように。
きっとまた、お母さんと一緒に──。
*
「あっ……!」
強い風が吹いて、操がかぶっていたベージュのキャスケットが空高く舞い上がった。ブーメランみたいに飛んでって、遠くの木々の谷間に消えてしまう。
「あーぁ、飛んでっちゃった! ダメじゃん操。ぼうっとしてちゃ」
ぼくが両手を腰に当てて言うと、操は困った顔をして肩をすくめた。
「ごめん操。だって急に風が吹くんだもの」
「せっかくお揃いだったのにぃ」
ぼくと操は顔も名前も一緒なら、身につけているものだっていつも一緒だ。
チェック柄のカジュアルシャツに、ロールアップしたオーバーオール。そしてベージュのキャスケット。
違うのはシャツの色だけで、ぼくが赤なら操は空色。これなら誰も、ぼくら双子を間違えない。他はなにからなにまで、ぼくたちはお揃いのものが大好きだ。
風が悪戯をしたせいで、キャスケットをかぶっているのはぼくだけになってしまったけれど。
「どこまでいっちゃったんだろう。おれ、探してくるよ」
「こんな深い森の中じゃ、きっとすぐには見つからないよ。あとでぼくも一緒に探してあげるから。今はほら、それより見て」
ぼくが遠くを指さすと、操もそっちへ目を向けた。
遠くの方で、モクモクと煙が上がっているのが見える。たぶん、煙突の煙だ。つまりあそこには家があるってこと。
深い深い森のなか。ぼくらはもうずっと歩き続けて、ようやくここまでたどり着いた。
「本当にいるのかな……こんなところに魔法使いなんて……」
操が不安そうに身を寄せて、ぼくの腕にしがみついてくる。ぼくは操を安心させるため、力強くうなずいた。
「きっといるよ。森に入る前だって、たくさん話を聞いたでしょ?」
オバケ森と呼ばれる森の外れに住む、引きこもりの魔法使い。そのひとは町の人たちから『博士』と呼ばれている。もうずっと何年も森から出ずに、一人ぼっちで魔術の研究をしている変わり者なんだって。
だけどその研究はとても難しいもので、誰も彼もが期待なんかしていない。だから皮肉を込めて、『博士』なんて呼ばれているらしい。
でも、ぼくらにとって博士の研究はたったひとつの希望だ。それを求めて長い長い旅をしてきた。町から町を巡り巡って、たくさんの人から話を聞いて、そしてついにこの森に博士がいることを突き止めたんだ。
「早く行かなきゃ。夜になっちゃう」
パンや水も、もう尽きた。お財布だって空っぽだ。さっきまで頭の上の方にあったはずの太陽が、地平線に沈もうとしている。薄青が混じりはじめた景色のなかで、複雑な形状をした木々がまるで布をかぶったオバケみたいに見えた。
ぼくは怖いのをぐっと我慢して、操とくっつきながら煙を目印に歩きだした。
*
「あった! あったよ操! 魔法使いの家だ!」
どんどん暗くなっていく森のなか、なんとか太陽が沈みきる前にぼくらは噂の魔法使いがいるという家に辿り着いた。
ぼくが家を指さして言うと、操はホッとしたように息をつく。呼吸も浅いし、あまり顔色がよくないみたいだ。ぼくらは姿かたちがそっくりな双子だけれど、操はあまり身体が丈夫な方じゃない。早く休ませてあげなくちゃ。
魔女の帽子みたいに尖った屋根から、レンガの煙突が突き出してモクモクと煙を上げている。古ぼけた漆喰の壁に緑のツルが絡みつき、この家自体がまるで森と一体化しているようだった。頭上には数羽のコウモリが飛びまわっている。
いかにも何かよくないものが出てきそうな雰囲気に、ぼくと操はごくりと喉を鳴らした。
「い、行こう」
ぼくらは互いの手を強く握って、緊張しながらうなずきあった。
玄関先にはランタンが吊り下げられている。蛾や小さな羽虫を纏わりつかせ、チカチカと点滅を繰り返していた。ぼくは大きく深呼吸をすると、オンボロの木製のドアをノックした。
コンコン、コンコン。乾いた音が静かな森に小さく響く。
「……いないのかな?」
首を傾げながら、今度は操がノックした。コンコン、コンコン。ぼくらは交互に、何度かノックを繰り返す。だけど一向に魔法使いは出てこない。
──ボンッ!!
そのときだった。突然ドアの向こうから爆発音がして、家がちょっとだけ揺れた気がした。ぼくらがビクンと肩を跳ねさせていると、頑なに閉ざされていたはずのドアが、キィっと軋んだ音を立てる。
「っ!」
ぼくは思わず息を呑んだ。ゆっくりと開かれたドアから、胡乱な目がぼくらふたりに向けられている。家の中から黒い煙が押しだされ、焦げた臭いを吸い込んだ操がケホッと小さく咳をした。
「……なにか?」
黒いフード付きのローブを着て、テンプルのない鼻眼鏡をした背の高い男の人が、面倒くさそうに不機嫌な声で問いかけてきた。その頬には黒い煤がついていて、長い焦げ茶の髪の毛先も、焦げてチリチリになっている。
「用がないなら早く帰りな。夜の森は危険だよ」
ぼくと操がポカンとしたままなにも答えられないでいると、魔法使いは冷たくそう言ってドアを閉めようとした。
「ま、待って! ぼくたち、生き返らせたい人がいるんだ!」
魔法使いの頬が、ピクリと動いた。胡乱な目つきはそのままに、ぼくらふたりを上から下までジロジロと見る。
「……それで?」
ぼくも操も、どこか陰気な影を帯びた魔法使いに圧倒されていた。だけど物怖じしている場合じゃない。少しでも言いよどむ素振りを見せれば、容赦なくドアを閉められてしまいそうだったから。
「は、博士がそういう研究をしてるって! 死んだ人を生き返らせる、魔法の研究! 町の人達が話してるのをいろいろ聞いて……それでぼくたち、弟子になりたくてここに来たんだ!」
「博士、ね」
自分が皮肉を込めてそう呼ばれていることを、魔法使いは知っているようだった。軽く鼻を鳴らし、腕を組むと開け放った扉を肩で押さえるようにしながらもたれかかった。
「誰?」
「え?」
「誰を生き返らせたいの?」
話、ちゃんと聞いてくれるんだ……。ぼくが少し驚いていると、今度は黙り込んでいた操が声をあげた。
「お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!」
冷たい風がぴゅうっと吹いて、操の声をさらっていった。
操は今にも泣きそうだ。大きな瞳にいっぱい涙を溜めながら、魔法使いを必死で見上げている。ぼくも泣きそうになりながら、そんな操の手を強く握った。
魔法使いは黙ってぼくらを見つめると、どこか痛ましそうに目を伏せる。
「悪いけど、弟子はとってない。獣避けのまじないをかけてあげるから、今すぐ町に帰りな」
「ま、待って! お願い、ぼくたちなんでも言うこと聞くから! 博士の邪魔は絶対しないし、どんなことでも手伝うから、だから……!」
ぼくは咄嗟に操の手を離し、魔法使いのホコリ臭いローブに縋りついていた。ここで引いたら、ぼくらはまた泣いて暮らすだけの日々に戻ってしまう。そんなのは嫌だ。ぼくはもう操の泣き顔を見たくない。
ぼくの必死の訴えに、魔法使いは心底困ったように溜息を漏らした。やがてぼくの手をさりげなく振り払うと、「名前は?」と問いかけてくる。
「弟子にしてくれるの!?」
「さぁ。それはまだ分からない」
「操! 来主操!」
ぼくはすっかりその気になって、キラキラと目を輝かせながら操の肩を抱き寄せる。
「この子も操! ぼくたち双子なんだ! なんでもはんぶんこ! だから名前もはんぶんこなんだよ!」
「どういうこと?」
「施設の人がひとつしか名前をくれなくて……でも、ぼくたちこの名前が好きなんだ。だってぼくと操は二人で一人なんだもん。なんでもお揃いで、なんでもはんぶんこ。あ、でもさっき帽子が風で飛ばされちゃって」
まくしたてるように喋るぼくに、魔法使いが怪訝そうな顔をする。ぼくよりは幾らか空気が読めるらしい操が、堪えきれずに苦笑した。
「慌てすぎだよ。博士が困ってる」
「え、ぼくなにか変だった?」
顔を見合わせるぼくらを見て、魔法使いがまたひとつ溜息をついた。
「わかった。もういい」
魔法使いはそう言って、突然ぼくの頬に手を伸ばしてきた。ぼくはぎょっとして目を丸くしたけれど、魔法使いは長い指をぼくの頬に押し当てて、それから──
「……容子さん?」
と、なぜかお母さんの名前を呼んだ。
ぼくと操は驚いた。魔法使いの瞳にも、わずかな動揺が浮かんでいる。
「どうしてお母さんの名前を知ってるの?」
訳が分からず、操が呆然と問いかけた。ぼくも操も、お母さんの名前はまだ一度も言ってない。それなのにどうして?
「容子さん、亡くなったのか」
魔法使いはただでさえ辛気臭い顔をさらに暗く曇らせた。悲しげに目を伏せて、なにかを考え込んでいる。
「そうか、彼女と同じ疫病で……」
魔法使いは戸惑うぼくらを複雑そうに見つめて、やがてスッと身を引くと
「入りな。容子さんのところから来たのなら、無下にはできない」
そう言って、ぼくらを家に招き入れようとした。
「待ってよ! ねぇ、さっきぼくになにをしたの?」
「なにって。読んだだけだよ」
「読んだ?」
「そう」
魔法使いは人差し指で自分の左のこめかみをトントンと叩いて見せる。
「君の頭の中にあるものだよ。そのほうが手っ取り早そうだったから」
まったく意味が分からずに顔をしかめていると、操が何かに気づいたように「あ」と言って、ぼくの耳元にそっと唇を寄せてきた。
「さっきのは、きっと読心魔法だよ。操の思考を読んだんだ」
「……は? なにそれ!?」
つまり、ぼくはたったいま会ったばかりの知らない人に、勝手に心を読まれたってこと? なんなのそれ? そんなのってあんまりじゃない? 確かにぼくはちょっと浮かれてて、さっきの話はめちゃくちゃだったかもしれないけど。
「なにか食べる? パンしかないけど、それでいい?」
魔法使いがぼくらに背を向けながら言うと、操はパッと表情を明るくして「うん!」と元気に返事をした。それからぼくの顔を見てにっこり笑う。
「やったね操。喉も乾いたし、おれもうお腹ペコペコだよ」
「お茶は勝手に自分で淹れて。無下にはしないけど、客扱いもしないから」
そっけなく部屋を出ていこうとする魔法使いの背中に、操が素直に「はぁい!」と返事をしている。だけどぼくは腹が立っていて、とてもそれどころじゃなかった。無愛想だし、なんかちょっと冷たい感じがするし、勝手に人の心を読むし。
だからぼくは思ってしまった。いけないことだけど、思ってしまったんだ。この人にはこれから、たくさんお世話にならなきゃいけない。お手伝いをしないといけない。でも、だけど──。
ぼく、この人あまり好きじゃない!
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毎年、春が来る度に黒鋼はファイと出会ったあの日のことを思い出す。
世界が色を変えたあの日。夕暮れに染まる校庭と、光り輝く金色の髪に舞い落ちた桜の花弁。無邪気な笑顔と宝石のように美しい瞳。それは今でも色褪せることがない。
きっとこれからも、ずっと。
*
年代物のママチャリは、ペダルを漕ぐ度に微かにキシキシと音を立てていた。これは長いこと物置に片付けられていたもので、前籠は変形して歪んでいるし、水色の塗装は所々が剥がれて錆びている。
お父さんに新しいのを頼んでみたら? と、古びた自転車を引っ張り出してきた黒鋼に向かって母は言ったが、まだ動くからしまってあったものをわざわざゴミにしてしまうのは、自転車に悪い気がして断った。
新しいものでなくとも、ファイを後ろに乗せて走ることさえできれば、それで十分だと思ったからだ。
この春、黒鋼が入学する中学へは、山を下りて温泉街の方まで行かなければならなかった。
バスは朝と夕方にほんの数本だけ出ていたが、黒鋼はあの独特な香りがあまり好きではない。それに昔は友人達と連れ立って、よく自転車で温泉街にしかないコンビニなんかに遊びに行ったりもしていたから、山を下りると言ってもさほど距離があるようには感じられないのだった。
もっとも、当時黒鋼が乗り回していた自転車は一人用のマウンテンバイクで、子供用だったため、今はもう使えない。そこでこのママチャリの出番というわけである。
言ってしまえば徒歩でも差し障りはなかったが、身体の大きさを見れば分かるようにタフな黒鋼に比べて、どうも成長が遅れているらしいファイには、長距離を徒歩で通うのには無理がある。
過保護すぎだろ、などと自分に呆れながら自転車をこいでいると、ファイの住む団子屋敷まではあっという間だった。
甲高い音を立てながらブレーキをかけて停車すると、左目を白い眼帯で隠したファイが、ちょこちょこと歩いて坂道を下りて来ている最中だった。あの事件以来、彼は傷が残っているらしいその場所が人目に触れるのを嫌がっているようだった。
黒鋼の姿を見たファイは、大きな片方だけの眼をさらに大きく丸く見開いた。
「黒たん? あれー?」
「なんだよ」
「どうしたのー? お父さんとお母さんはー? その自転車どうしたのー? あ、黒たん制服似合ってるー! カッコいいよー!」
自転車を指差し、黒の学ランに身を包む黒鋼と交互に見やりながら、ファイは小走りに駆け寄ってくると、一気にまくしたてた。その落ち着きのない様子に思わず苦笑する。
「まとめて喋るなって……。親は先に行った。俺はおまえを迎えに来たんだろ。おまえんとこ、誰も来れないって言ってたじゃねぇか」
今日は中学校の入学式である。
だがファイの家は祖父の方はともかく、足腰の弱いあのばあさんは来られないという話を、事前に聞いていた。
片目の視力を失ったことで視界が狭くなってしまったファイは、ただでさえそそっかしいのに磨きがかかったような気がする。黒鋼が見ていてやらなければ、中学のある山の下までいちど転倒したが最後、そのままコロコロと転がってしまうのではないかなんて、ちょっと本気で心配だった。
だから両親とは別に、ファイを迎えにやって来たのだ。
父はそれなら車で迎えに行って、一緒に行けばいいだろうと言ってくれた。けれど、黒鋼はファイを両親に会わせることに抵抗を覚えていた。なんとなく照れ臭かったのだ。妹の面倒だってまともに見ない自分の、ファイを気遣う姿なんて、到底見せられたものではないと思った。
父も母も、きっとここぞとばかりにからかってくるに違いない……。
「びっくりしたー! ありがとう黒ぽん、オレうれしいー!」
ファイの嬉しそうな笑顔を見ると、やっぱり来てよかったと心底思った。丸一日かけて汚れを落としたり、錆びたチェーンに油をさしたり、手間暇かけた甲斐があるというものだ。過保護な上に、なんとも単純な自分の思考が情けないような気もしつつ、気分がよかった。
それにしても。
黒鋼は真新しい学ランに身を包むファイを見て、ついつい意地悪そうな笑みを作ってしまう。自転車に跨ったまま腕を組み、彼の頭の天辺から足の先までをじっくり観察した。
「おまえ、それぜんぜんサイズ合ってねぇな」
彼が着込んでいる制服は酷く袖が余っていて、内部では薄い身体が泳いでいるのが分かる。黒鋼の制服も勿論大きめに作られてはいるが、ファイの方が小柄なぶん、より目立つ。背も低く華奢なファイが、より一層小さく見えてしまってなんだか可笑しかった。
「あー、黒わんこがイジワル言ったー!」
ここ数年でさらに背が伸びた黒鋼に向かって、ファイは指をさしながら唇を尖らせた。
「仕方ねぇだろ、チビなんだから。あと俺は犬じゃねぇ」
「チビじゃないよー! ちゃんと伸びてるんだからーっ」
「そうは見えねぇけどなぁ」
黒鋼はファイの頭に手を置くと、綿菓子のような髪をグシャグシャに乱してやった。思いっきり馬鹿にされていることに「もうっ」という不満の声が洩れる。
「あのねー、おばあちゃんが、オレはこれからすっごく背が伸びるから、だから制服は大きく作らないとダメって言ったのー!」
そしたら黒たんより大きくなるかもよ、とファイは胸を張った。それだけは絶対にないだろうと思いつつ、黒鋼は緩く頬を撫ぜる風に顔を上げた。
すると、坂道の上の方に見送りに来ていたファイの大好きなおばあちゃんが、ニコニコ笑って手を振っている。唇が「ありがとう」という形に動いたけれど、その声は小さくて耳にまでは届かなかった。ファイがぶんぶんと大きく手を振った。
「おら、そろそろ行くから乗れ」
「う、うん!」
よろけそうになりながら後に跨ったファイが、黒鋼の背にぴったりとくっつく。
「掴まってろよ」
「はぁい!」
未だ少女のように甲高い声が威勢よく返事をして、細い腕が黒鋼の腹にぎゅうと回される。子供らしい高めの体温をぴったりと背中に感じると、少しだけ鼓動が早まった。黒鋼はそれをあまり深く考えないうちに「よし」と短く声を上げてペダルを踏み出す。
一瞬だけグラリとよろめいたが、そのまま勢いに乗って走りだす。すぐ背後で「ひゃぁ」という小さな悲鳴が聞こえた。
風を斬るようにして前へ前へ、春とはいえ冷たいそれが、スピードを上げていく二人分の身体を鋭く撫でた。
「お尻がイターイ!」
「わがまま言うんじゃねぇ。男なら我慢だ」
「うぅぅ……!」
ファイが腕に力を入れて、さらにぎゅうぎゅうと身体を密着させてくる。身体に受ける風は微かに冷たいけれど、背中に感じる体温は熱いくらいで心地よかった。その呼吸までもが直に肌に伝わって、胸がしきりに高鳴るのを感じる。
でもきっと、これは特別な意味があるわけではないのだ。
これからは、こうして二人で風を感じながら学校へ通うのだということ、新しい日々が始まったのだということ。これはそんなものへの期待がそうさせるのだと、心臓が弾むようなリズムを刻むたび、黒鋼はまるで言い訳のように心の中で呟いた。
風が運んでくる季節の香りや、陽の光を受ける草花、どこまでも広がる青々とした田んぼが色鮮やかに過ぎてゆく。見慣れた光景がやけに特別に思えて、黒鋼は弾む気持ちそのままにスピードを上げた。
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