2025/08/04 Mon その日、ぼくは操と一緒に博士のお使いで森のなかを歩いていた。 「材料、ちゃんと揃ってよかったね」 ぼくが持っている取っ手付きのバスケットの中には、毒があるとしか思えない色のキノコや葉っぱ、ヘビの卵や抜け殻なんかが入っている。ぜんぶ博士から採ってくるように言われたものだ。 博士は研究の他にも、いろんな材料を使って怪我や病気に効く薬も作ってる。月に二、三度、町から薬を買い付けに商人がやってきて、代わりに食料だとか生活用品だとか、必要なものと交換する仕組みになっていた。 「博士って、ぜんぜん人と関わってないわけじゃないんだね。こないだ商人の人とずっと立ち話してたよ。大きなリュックを背負った、タンクトップのおじさんでさ──操?」 ぼくは操がうなずきもせず黙りこくっていることに気づいて、足を止めた。 操はすぐにハッとして顔をあげ、「なんでもないよ」と言いながら首を振って見せる。でも、顔はうまく笑えていない。操は誤魔化すことを諦めて、小さく「ごめん」とこぼしながら、またうつむいてしまった。 「ねぇ操、大丈夫だよ。今日がダメでも、明日があるから。元気だそうよ」 「うん……」 操に元気がないのは、風で飛ばされたキャスケットが見つからないせいだった。 ここに来てもうすぐ一ヶ月。ぼくらは博士の小間使いとして仕事を覚えながら毎日を過ごして、その合間にキャスケットを探し続けている。迷子にならないように木の枝に紐をくくって印をつけながら、少しずつ探す範囲を広げていった。 だけどなかなか見つからない。今日もお使いをしながら探したけど、ぜんぜんダメだった。あれはお母さんがくれた大事なものだから、どうしても諦めきれないでいる気持ちはぼくも同じだ。でも、正直もうどうしたらいいのか、ぼくらには分からなくなっていた。 「操」 ぼくは自分がかぶっているキャスケットのツバを掴んで、サッと脱ぐと操の頭にかぶせてやった。目をまんまるにした操に、ニッコリ笑いかける。 「それ、かぶってていいよ」 「でも……」 「いいじゃん。ぼくたちなんでもはんぶんこ。そうでしょ?」 なくなってしまったものは戻ってこないかもしれないけど、だったら今あるものを仲良くはんぶんこすればいいだけの話だ。生まれたときから、ぼくらはずっとそうしてきたんだから。 ぼくはこうすればきっと操がまた笑ってくれると思っていた。だけど操は下唇を噛みしめて、やっぱりうつむくだけだった。 「操?」 「ねぇ操」 「うん」 「博士の研究、本当に完成すると思う……?」 ぼくは薄々気がついていた。操に元気がなかったのは、キャスケットのことだけじゃないってこと。だってその不安はぼくも感じていたことだから。 博士の研究は失敗続きだ。あの爆発音にも、焦げ臭さにも、そのあとの博士の不機嫌そうな顔にも、そろそろ慣れてきてしまった。 「お母さんとまた暮らせるようになる日、本当に来るのかな」 「来るよ! 絶対!」 ぼくは思わず大きな声を出していた。 「博士が諦めない限り、きっといつか成功するよ! 操だってそう言ったじゃん。ここにいれば、必ずお母さんを取り戻す方法が見つかるって!」 「操……」 「だからがんばってるんじゃないか! 料理だって掃除だって、本当はあんまり得意じゃないけど……でも、博士の弟子になれたら、今よりもっと手伝えることだって増えるはずだよ! だから……っ」 泣きそうになっているぼくに、操は「ごめんね」と言って笑った。下手くそだなってぼくは思う。だって無理してるのがバレバレの笑い方なんだもん。 「ちょっと弱気になっただけ。変なこと言っちゃって、ごめんな」 「……うぅん、わかるよ。操の気持ち、ぼくにも分かる」 ずっと苦しかった。ここに来てから覚えることがたくさんで、毎日が一瞬で過ぎてしまったような気がしていたけれど。本当はすごく長かった。お母さんと会えなくなってから、今日までずっと。 だけどぼくらは博士を信じてここにいるしかない。どんなに時間がかかっても、そうするしかないって決めたから。 「帰ろ。博士のご飯を作らなきゃ」 操はやっぱり無理してるって分かる下手くそな笑顔でそう言って、かぶっていたキャスケットのツバを摘むと、ぼくの頭にポンと戻した。 なんとか気を取り直して、ぼくも操と同じ、下手っぴな笑顔で大きく頷く。 「うん。今日こそ美味しいって言ってもらおうね」 博士は基本的に、食べられればなんでもいいという人だ。研究のこと以外、他はどうでもいいみたいだった。だから焦げたパンでも塩を入れすぎたスープでも、なにも言わずに黙々と食べる。生きるための作業って感じ。カエルの姿焼きを出したときは、ちょっとだけ嫌そうな顔をしてたけど。 ぼくらが来るまではカビたパンでも平気で齧っていたそうだから、それに比べたらちょっとは役に立ててると思う。 「博士、今日のご飯きっとビックリするだろうな」 バスケットには、今夜食べるために捕まえたトカゲが数匹、袋に入って暴れてる。博士がどんな反応するかを想像したら、ぼくはちょっぴり楽しくなってきた。 ぼくはあれから、ときどき博士と一緒にコーヒーを飲むようになった。 こないだ、珍しく朝から操の調子がいい日には、初めて操の分もカフェオレも作ってもらった。 だけど操はどうしてもコーヒーが得意じゃないみたいで、ちょっと口をつけただけで渋い顔をした。それを見てぼくは笑ってしまったけど、博士はなにか考え込んでいる様子だった。 その数日後、商人が薬を買いつけに家に来たとき、博士はタンクトップのおじさんにオレンジジュースを注文していた。廊下を雑巾がけしていたぼくは、その話をこっそり聞いていた。嬉しかった。博士はときどき嫌味を言ったりすることもあるけど、ぼくと操のことをとても大事にしてくれていると思う。 だからぼくの中では最近、博士のことを「あまり好きじゃない」から「ほんのちょっとだけ好きじゃない」に変わってて──だってたまに意地悪なのは変わらないし──博士がふいに見せる表情の変化は、見ててけっこう楽しかったりもする。 だからもう少し一緒にいたら、そのうちもっとちゃんと好きになれるかもしれないって、そう思うようになっていた。 「博士、また嫌そうな顔するのかな?」 操の顔に、やっと本当の笑顔が戻ってきた。 「するかもね。だって今日はトカゲの唐揚げだもん!」 ぼくらは顔を見合わせるとクスクス笑い、遠くに見える煙突の煙を目指して、手を繋ぎながら家に帰った。 * その夜、ぼくはなかなか寝つけずにこっそり屋根裏部屋を抜け出した。 玄関の横にある朽ちた木のベンチに腰掛けて、ホットケーキを裏返したような丸い月をぼんやり見上げる。 頭の中では帰り道で操とした会話が、ずっとグルグル行ったり来たりしていた。 「そんな格好でいたら風邪ひくよ」 「うわっ」 とつぜん声がしたことに驚いて、ぼくはビクンと肩を跳ねさせた。 そこには裏庭から回り込んできたらしい博士がいて、膝丈まである無地のシャツを一枚ペロッと着ているだけのぼくに、少し呆れた表情を浮かべている。 「び、ビックリしたぁ~……オバケが出たかと思ったよ」 ぼくは大きく息をつき、胸に手を押し当てた。心臓がバクバクしてる。 博士はいつもの黒いなローブ姿で、夜の森に溶け込んでいるのがちょっと不気味だ。顔色が優れないように見えるのは、夕飯で出したトカゲのせいだと思う。博士は引きつった顔をしながら、それでもチビチビと口に入れて水で流し込んでいた。 「眠れない?」 博士はそう言ってぼくに近づいてくると、ローブを脱いでそっと肩にかけてくれた。あったかい。うなずく代わりにすんと鼻を鳴らすと、ちょっぴりほこり臭い中に博士の匂いが混ざっていた。なんだか少し、ホッとする。 「ありがと、博士」 ぼくはローブの合わせ目を内側から両手でぎゅっと掴んで、胸元に手繰り寄せた。やっぱり博士は大きいな。ぼくの身体はローブにすっぽり包まれてしまう。 「博士はショコラのところに行ってたの?」 「日課だからね」 博士がぼくの隣に腰掛ける。ボロボロのベンチが、ギシっと軋んだ音を立てた。 「花、ありがとう」 しばらく一緒に月を見上げていると、博士がぽつりとそう言った。 お使いから戻る途中、たまたま目についた花を摘んで持ち帰ったぼくらは、それをこっそりショコラの墓にお供えしておいた。名前は分からなかったけど、白くてとても綺麗な花だったから。 「ショコラ、喜んでるかな?」 「喜んでるよ。きっと」 「えへへ、そっか。よかった」 博士がふっと笑った気配がした。ぼくはそんな博士の横顔を見やる。 「ねぇ博士」 「なに?」 「博士は、どうしてお母さんを知ってたの?」 それはずっと気になっていたことだった。 初めて会ったときにも同じ質問をしたはずだけど、あのときの博士は勝手に心を読むことはしても、ぼくらとじっくり話そうとはしてくれなかった。 でも、今ならちゃんと答えてくれるんじゃないかって気がした。博士とはずいぶん打ち解けたと思うし、なによりお母さんのことだもん。ぼくには知る権利があるはずでしょ。 「……容子さんは、俺の恩師だった人だ」 思った通り、博士はお母さんの話をしてくれた。 「小さな田舎の魔法学校で、教師をしていた。10年以上も前のことだよ」 「そうだったんだ。知らなかった」 ぼくが知ってるお母さんは、修理屋さんをして生計を立てていた。ほつれた洋服だとか、壊れたオモチャだとか、ちょっとした機械なんかを直して元通りにする仕事だ。ぼくもよく手伝いをさせてもらってた。 「どうして先生やめちゃったの?」 「……娘がいたんだ。その一人娘が、疫病でね」 ぼくは家に飾ってあった写真立てのことを思いだした。可愛いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった黒髪の女の子。名前は、確か翔子っていったはずだ。ぼくらにとってはお姉ちゃんってことになる。 「ぼくはお姉ちゃんに会ったことがない。お母さんから聞いて、名前を知っているだけ。お母さんは、お姉ちゃんがいなくなったのが悲しくて、先生をやめちゃったってこと?」 博士はなにも言わなかった。ただ静かに月を見上げている。たぶん、それが答えなんだと思う。 その寂しそうな横顔に、ぼくは見覚えがあるような気がした。お母さんも、写真を見つめながらよくこんな顔をしていたことを思いだす。 博士も思いだしているのかな。失ってしまった、大切な誰かのことを。胸がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚えて、ぼくは静かにうつむいた。それからふと、思いついたんだ。 お姉ちゃんのことも、生き返らせてあげたいって。 これは名案だと、ぼくは思った。 そうすればお母さんだってきっと喜ぶ。ぼくと操と、お姉ちゃんとお母さん。家族4人で、一緒に暮らすことができる。博士の研究が成功すれば、いつかきっとその夢は叶うんだから。 「ねぇ博士。研究、きっと成功するよね?」 博士を見上げて、縋るような目をしながら問いかけた。だけど博士は月を見つめたまま、なにも言ってくれない。 分かってるんだ。とても難しい研究だから、そう簡単に返事なんかできないってこと。博士は何年も研究し続けて、そして何度も失敗し続けている。町の人達だってみんな言ってた。どうせ無理だって。叶いっこないって、笑ってた。 だけど博士の研究はぼくらの希望だから。操が心から笑えるようになるためには、博士の力が必要だった。 「お願い博士、うんって言って」 博士の横顔が、涙でどんどん滲んでいった。どんなに時間がかかってもいい。必ず完成するって、たった一言そう言ってくれるだけで、ぼくは安心できるのに。 それなのに、博士はやっぱりなにも言わずに月を見ていた。 「お願いだから、うんって言ってよ……」 ぼくは博士の腕に縋りついて泣いていた。お母さんを取り戻す日まで、もう泣かないって決めたのに。今までずっと我慢し続けていたものが、一気に溢れて止まらなくなってしまった。 肩を震わせて泣いていると、頬にあたたかなものが触れてぼくは顔をあげた。こらえるように細められた博士の瞳が、ゆらゆらと揺れている。 博士の白い指先が何度も涙をぬぐってくれるけど、その優しい感触にぼくはもっと悲しくなった。ひ、ひ、としゃくりを上げながら必死でその瞳を見返していると、博士が両手でぼくの濡れた頬を包み込んだ。 親指でそれぞれ両方の目尻を拭いながら、博士はじっとぼくの泣き顔を見つめている。なにか言いたそうに開きかけた唇を震わせて、だけどそこから言葉が発されることはなかった。代わりにゆっくりと、博士の顔が近づいてくる。 どうしてかぼくは無意識に息を止めて、自然とまぶたを閉じていた。唇に、熱くて柔らかなものが押しつけられる。 「っ!」 ぼくの肩がピクンと揺れるのと同時に、その感触は離れていった。おずおずと目を開けると、なぜか博士が狼狽えた表情で声をつまらせている。まるで自分がしたことに、自分で驚いているみたいだった。どうしてこんなことをしたのか、博士自身が戸惑っているような。 だけど、そんなのぼくにはもっと分からない。 「どうして、ちゅうしたの?」 寝る前にお母さんがしてくれていたキスとは違う。唇にするキスに特別な意味があることくらい、ぼくだって知ってるよ。だから分からない。どうして博士は、ぼくの唇にキスなんかしたんだろう? 博士は正面を向いてうなだれると、深い息を漏らした。膝の上に肘を置き、鬱陶しい前髪ごとガリガリと頭をかいている。その手つきは乱暴で、こんな博士の仕草を見たのは初めてだった。 やがて横目でチラリとぼくを見ると、上ずった声で「今のは忘れて」と言った。 ぼくは何度も目を瞬かせる。月明かりに照らされて、博士の頬がほんの少しだけ赤くなっていることに気がついた。それを見たら、急に変な気分になってしまった。とてもいけないことをしたような気がして、ぼくは素直にうなずいた。 だけど頭の中は軽くパニックになっている。顔が真っ赤になって、心臓が思いきり走ったときみたいにドキドキしていた。どうしよう。よく分からないけど、すごく困った。だってこんなの初めてだったし、それに、それに。 「博士、今の……忘れる、から」 「……うん」 「今のこと、操には言わないで」 なんでかは分からない。だけど操には、どうしても知られたくないと思ってしまった。おねしょをしていたのがバレてしまったときよりも、今のほうが何倍も恥ずかしい。操に知られたらって思うと、もっともっと恥ずかしいような気がした。 操に隠し事をするなんて、ちょっと前のぼくなら考えられないことだけど。ぼくが博士とキスをしたことは、ぼくらだけの秘密にしておきたかった。 博士は気が抜けたように笑ってぼくを見た。ぼくは博士の顔が見られない。だからうつむいて、もじもじと足の先を擦り合わせた。 なんか、誤魔化されちゃったような気がするな。とても大事な話をしていたのに、博士があんなことするから。だけど今さら続きを問いただす気にはなれなかった。涙も、いつの間にか止まってる。 考えなきゃいけないこと、不安なこと、たくさんあるのに。 ぼくの唇にはまだ博士の熱が残ってる。ちゃんと忘れなくちゃと思うのに、あの一瞬の感覚がぼくの身体に染みついて、いつまでも消えることはなかった。 ←戻る ・ 次へ→
「材料、ちゃんと揃ってよかったね」
ぼくが持っている取っ手付きのバスケットの中には、毒があるとしか思えない色のキノコや葉っぱ、ヘビの卵や抜け殻なんかが入っている。ぜんぶ博士から採ってくるように言われたものだ。
博士は研究の他にも、いろんな材料を使って怪我や病気に効く薬も作ってる。月に二、三度、町から薬を買い付けに商人がやってきて、代わりに食料だとか生活用品だとか、必要なものと交換する仕組みになっていた。
「博士って、ぜんぜん人と関わってないわけじゃないんだね。こないだ商人の人とずっと立ち話してたよ。大きなリュックを背負った、タンクトップのおじさんでさ──操?」
ぼくは操がうなずきもせず黙りこくっていることに気づいて、足を止めた。
操はすぐにハッとして顔をあげ、「なんでもないよ」と言いながら首を振って見せる。でも、顔はうまく笑えていない。操は誤魔化すことを諦めて、小さく「ごめん」とこぼしながら、またうつむいてしまった。
「ねぇ操、大丈夫だよ。今日がダメでも、明日があるから。元気だそうよ」
「うん……」
操に元気がないのは、風で飛ばされたキャスケットが見つからないせいだった。
ここに来てもうすぐ一ヶ月。ぼくらは博士の小間使いとして仕事を覚えながら毎日を過ごして、その合間にキャスケットを探し続けている。迷子にならないように木の枝に紐をくくって印をつけながら、少しずつ探す範囲を広げていった。
だけどなかなか見つからない。今日もお使いをしながら探したけど、ぜんぜんダメだった。あれはお母さんがくれた大事なものだから、どうしても諦めきれないでいる気持ちはぼくも同じだ。でも、正直もうどうしたらいいのか、ぼくらには分からなくなっていた。
「操」
ぼくは自分がかぶっているキャスケットのツバを掴んで、サッと脱ぐと操の頭にかぶせてやった。目をまんまるにした操に、ニッコリ笑いかける。
「それ、かぶってていいよ」
「でも……」
「いいじゃん。ぼくたちなんでもはんぶんこ。そうでしょ?」
なくなってしまったものは戻ってこないかもしれないけど、だったら今あるものを仲良くはんぶんこすればいいだけの話だ。生まれたときから、ぼくらはずっとそうしてきたんだから。
ぼくはこうすればきっと操がまた笑ってくれると思っていた。だけど操は下唇を噛みしめて、やっぱりうつむくだけだった。
「操?」
「ねぇ操」
「うん」
「博士の研究、本当に完成すると思う……?」
ぼくは薄々気がついていた。操に元気がなかったのは、キャスケットのことだけじゃないってこと。だってその不安はぼくも感じていたことだから。
博士の研究は失敗続きだ。あの爆発音にも、焦げ臭さにも、そのあとの博士の不機嫌そうな顔にも、そろそろ慣れてきてしまった。
「お母さんとまた暮らせるようになる日、本当に来るのかな」
「来るよ! 絶対!」
ぼくは思わず大きな声を出していた。
「博士が諦めない限り、きっといつか成功するよ! 操だってそう言ったじゃん。ここにいれば、必ずお母さんを取り戻す方法が見つかるって!」
「操……」
「だからがんばってるんじゃないか! 料理だって掃除だって、本当はあんまり得意じゃないけど……でも、博士の弟子になれたら、今よりもっと手伝えることだって増えるはずだよ! だから……っ」
泣きそうになっているぼくに、操は「ごめんね」と言って笑った。下手くそだなってぼくは思う。だって無理してるのがバレバレの笑い方なんだもん。
「ちょっと弱気になっただけ。変なこと言っちゃって、ごめんな」
「……うぅん、わかるよ。操の気持ち、ぼくにも分かる」
ずっと苦しかった。ここに来てから覚えることがたくさんで、毎日が一瞬で過ぎてしまったような気がしていたけれど。本当はすごく長かった。お母さんと会えなくなってから、今日までずっと。
だけどぼくらは博士を信じてここにいるしかない。どんなに時間がかかっても、そうするしかないって決めたから。
「帰ろ。博士のご飯を作らなきゃ」
操はやっぱり無理してるって分かる下手くそな笑顔でそう言って、かぶっていたキャスケットのツバを摘むと、ぼくの頭にポンと戻した。
なんとか気を取り直して、ぼくも操と同じ、下手っぴな笑顔で大きく頷く。
「うん。今日こそ美味しいって言ってもらおうね」
博士は基本的に、食べられればなんでもいいという人だ。研究のこと以外、他はどうでもいいみたいだった。だから焦げたパンでも塩を入れすぎたスープでも、なにも言わずに黙々と食べる。生きるための作業って感じ。カエルの姿焼きを出したときは、ちょっとだけ嫌そうな顔をしてたけど。
ぼくらが来るまではカビたパンでも平気で齧っていたそうだから、それに比べたらちょっとは役に立ててると思う。
「博士、今日のご飯きっとビックリするだろうな」
バスケットには、今夜食べるために捕まえたトカゲが数匹、袋に入って暴れてる。博士がどんな反応するかを想像したら、ぼくはちょっぴり楽しくなってきた。
ぼくはあれから、ときどき博士と一緒にコーヒーを飲むようになった。
こないだ、珍しく朝から操の調子がいい日には、初めて操の分もカフェオレも作ってもらった。
だけど操はどうしてもコーヒーが得意じゃないみたいで、ちょっと口をつけただけで渋い顔をした。それを見てぼくは笑ってしまったけど、博士はなにか考え込んでいる様子だった。
その数日後、商人が薬を買いつけに家に来たとき、博士はタンクトップのおじさんにオレンジジュースを注文していた。廊下を雑巾がけしていたぼくは、その話をこっそり聞いていた。嬉しかった。博士はときどき嫌味を言ったりすることもあるけど、ぼくと操のことをとても大事にしてくれていると思う。
だからぼくの中では最近、博士のことを「あまり好きじゃない」から「ほんのちょっとだけ好きじゃない」に変わってて──だってたまに意地悪なのは変わらないし──博士がふいに見せる表情の変化は、見ててけっこう楽しかったりもする。
だからもう少し一緒にいたら、そのうちもっとちゃんと好きになれるかもしれないって、そう思うようになっていた。
「博士、また嫌そうな顔するのかな?」
操の顔に、やっと本当の笑顔が戻ってきた。
「するかもね。だって今日はトカゲの唐揚げだもん!」
ぼくらは顔を見合わせるとクスクス笑い、遠くに見える煙突の煙を目指して、手を繋ぎながら家に帰った。
*
その夜、ぼくはなかなか寝つけずにこっそり屋根裏部屋を抜け出した。
玄関の横にある朽ちた木のベンチに腰掛けて、ホットケーキを裏返したような丸い月をぼんやり見上げる。
頭の中では帰り道で操とした会話が、ずっとグルグル行ったり来たりしていた。
「そんな格好でいたら風邪ひくよ」
「うわっ」
とつぜん声がしたことに驚いて、ぼくはビクンと肩を跳ねさせた。
そこには裏庭から回り込んできたらしい博士がいて、膝丈まである無地のシャツを一枚ペロッと着ているだけのぼくに、少し呆れた表情を浮かべている。
「び、ビックリしたぁ~……オバケが出たかと思ったよ」
ぼくは大きく息をつき、胸に手を押し当てた。心臓がバクバクしてる。
博士はいつもの黒いなローブ姿で、夜の森に溶け込んでいるのがちょっと不気味だ。顔色が優れないように見えるのは、夕飯で出したトカゲのせいだと思う。博士は引きつった顔をしながら、それでもチビチビと口に入れて水で流し込んでいた。
「眠れない?」
博士はそう言ってぼくに近づいてくると、ローブを脱いでそっと肩にかけてくれた。あったかい。うなずく代わりにすんと鼻を鳴らすと、ちょっぴりほこり臭い中に博士の匂いが混ざっていた。なんだか少し、ホッとする。
「ありがと、博士」
ぼくはローブの合わせ目を内側から両手でぎゅっと掴んで、胸元に手繰り寄せた。やっぱり博士は大きいな。ぼくの身体はローブにすっぽり包まれてしまう。
「博士はショコラのところに行ってたの?」
「日課だからね」
博士がぼくの隣に腰掛ける。ボロボロのベンチが、ギシっと軋んだ音を立てた。
「花、ありがとう」
しばらく一緒に月を見上げていると、博士がぽつりとそう言った。
お使いから戻る途中、たまたま目についた花を摘んで持ち帰ったぼくらは、それをこっそりショコラの墓にお供えしておいた。名前は分からなかったけど、白くてとても綺麗な花だったから。
「ショコラ、喜んでるかな?」
「喜んでるよ。きっと」
「えへへ、そっか。よかった」
博士がふっと笑った気配がした。ぼくはそんな博士の横顔を見やる。
「ねぇ博士」
「なに?」
「博士は、どうしてお母さんを知ってたの?」
それはずっと気になっていたことだった。
初めて会ったときにも同じ質問をしたはずだけど、あのときの博士は勝手に心を読むことはしても、ぼくらとじっくり話そうとはしてくれなかった。
でも、今ならちゃんと答えてくれるんじゃないかって気がした。博士とはずいぶん打ち解けたと思うし、なによりお母さんのことだもん。ぼくには知る権利があるはずでしょ。
「……容子さんは、俺の恩師だった人だ」
思った通り、博士はお母さんの話をしてくれた。
「小さな田舎の魔法学校で、教師をしていた。10年以上も前のことだよ」
「そうだったんだ。知らなかった」
ぼくが知ってるお母さんは、修理屋さんをして生計を立てていた。ほつれた洋服だとか、壊れたオモチャだとか、ちょっとした機械なんかを直して元通りにする仕事だ。ぼくもよく手伝いをさせてもらってた。
「どうして先生やめちゃったの?」
「……娘がいたんだ。その一人娘が、疫病でね」
ぼくは家に飾ってあった写真立てのことを思いだした。可愛いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった黒髪の女の子。名前は、確か翔子っていったはずだ。ぼくらにとってはお姉ちゃんってことになる。
「ぼくはお姉ちゃんに会ったことがない。お母さんから聞いて、名前を知っているだけ。お母さんは、お姉ちゃんがいなくなったのが悲しくて、先生をやめちゃったってこと?」
博士はなにも言わなかった。ただ静かに月を見上げている。たぶん、それが答えなんだと思う。
その寂しそうな横顔に、ぼくは見覚えがあるような気がした。お母さんも、写真を見つめながらよくこんな顔をしていたことを思いだす。
博士も思いだしているのかな。失ってしまった、大切な誰かのことを。胸がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚えて、ぼくは静かにうつむいた。それからふと、思いついたんだ。
お姉ちゃんのことも、生き返らせてあげたいって。
これは名案だと、ぼくは思った。
そうすればお母さんだってきっと喜ぶ。ぼくと操と、お姉ちゃんとお母さん。家族4人で、一緒に暮らすことができる。博士の研究が成功すれば、いつかきっとその夢は叶うんだから。
「ねぇ博士。研究、きっと成功するよね?」
博士を見上げて、縋るような目をしながら問いかけた。だけど博士は月を見つめたまま、なにも言ってくれない。
分かってるんだ。とても難しい研究だから、そう簡単に返事なんかできないってこと。博士は何年も研究し続けて、そして何度も失敗し続けている。町の人達だってみんな言ってた。どうせ無理だって。叶いっこないって、笑ってた。
だけど博士の研究はぼくらの希望だから。操が心から笑えるようになるためには、博士の力が必要だった。
「お願い博士、うんって言って」
博士の横顔が、涙でどんどん滲んでいった。どんなに時間がかかってもいい。必ず完成するって、たった一言そう言ってくれるだけで、ぼくは安心できるのに。
それなのに、博士はやっぱりなにも言わずに月を見ていた。
「お願いだから、うんって言ってよ……」
ぼくは博士の腕に縋りついて泣いていた。お母さんを取り戻す日まで、もう泣かないって決めたのに。今までずっと我慢し続けていたものが、一気に溢れて止まらなくなってしまった。
肩を震わせて泣いていると、頬にあたたかなものが触れてぼくは顔をあげた。こらえるように細められた博士の瞳が、ゆらゆらと揺れている。
博士の白い指先が何度も涙をぬぐってくれるけど、その優しい感触にぼくはもっと悲しくなった。ひ、ひ、としゃくりを上げながら必死でその瞳を見返していると、博士が両手でぼくの濡れた頬を包み込んだ。
親指でそれぞれ両方の目尻を拭いながら、博士はじっとぼくの泣き顔を見つめている。なにか言いたそうに開きかけた唇を震わせて、だけどそこから言葉が発されることはなかった。代わりにゆっくりと、博士の顔が近づいてくる。
どうしてかぼくは無意識に息を止めて、自然とまぶたを閉じていた。唇に、熱くて柔らかなものが押しつけられる。
「っ!」
ぼくの肩がピクンと揺れるのと同時に、その感触は離れていった。おずおずと目を開けると、なぜか博士が狼狽えた表情で声をつまらせている。まるで自分がしたことに、自分で驚いているみたいだった。どうしてこんなことをしたのか、博士自身が戸惑っているような。
だけど、そんなのぼくにはもっと分からない。
「どうして、ちゅうしたの?」
寝る前にお母さんがしてくれていたキスとは違う。唇にするキスに特別な意味があることくらい、ぼくだって知ってるよ。だから分からない。どうして博士は、ぼくの唇にキスなんかしたんだろう?
博士は正面を向いてうなだれると、深い息を漏らした。膝の上に肘を置き、鬱陶しい前髪ごとガリガリと頭をかいている。その手つきは乱暴で、こんな博士の仕草を見たのは初めてだった。
やがて横目でチラリとぼくを見ると、上ずった声で「今のは忘れて」と言った。
ぼくは何度も目を瞬かせる。月明かりに照らされて、博士の頬がほんの少しだけ赤くなっていることに気がついた。それを見たら、急に変な気分になってしまった。とてもいけないことをしたような気がして、ぼくは素直にうなずいた。
だけど頭の中は軽くパニックになっている。顔が真っ赤になって、心臓が思いきり走ったときみたいにドキドキしていた。どうしよう。よく分からないけど、すごく困った。だってこんなの初めてだったし、それに、それに。
「博士、今の……忘れる、から」
「……うん」
「今のこと、操には言わないで」
なんでかは分からない。だけど操には、どうしても知られたくないと思ってしまった。おねしょをしていたのがバレてしまったときよりも、今のほうが何倍も恥ずかしい。操に知られたらって思うと、もっともっと恥ずかしいような気がした。
操に隠し事をするなんて、ちょっと前のぼくなら考えられないことだけど。ぼくが博士とキスをしたことは、ぼくらだけの秘密にしておきたかった。
博士は気が抜けたように笑ってぼくを見た。ぼくは博士の顔が見られない。だからうつむいて、もじもじと足の先を擦り合わせた。
なんか、誤魔化されちゃったような気がするな。とても大事な話をしていたのに、博士があんなことするから。だけど今さら続きを問いただす気にはなれなかった。涙も、いつの間にか止まってる。
考えなきゃいけないこと、不安なこと、たくさんあるのに。
ぼくの唇にはまだ博士の熱が残ってる。ちゃんと忘れなくちゃと思うのに、あの一瞬の感覚がぼくの身体に染みついて、いつまでも消えることはなかった。
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