2025/08/04 Mon ここに来てそろそろ二ヶ月。ぼくらのお手伝い生活も、だいぶ板についてきた。 家事も手際よくこなせるようになってきたし、料理の腕だって上達してきたと思う。少なくともスープの味付けを失敗したり、パンを焦がすことはなくなった。 それでもぼくらはまだ、正式に弟子としては認められていない。本当に、ただの住み込みのお手伝いさんって感じだ。 だけどもしちゃんと弟子になれたとしても、今とやることは変わらないような気がしてる。だってぼくは魔法のことよく知らないし、あまり興味もなかったし、魔術書に書かれている文字なんか、ミミズが踊ってるようにしか見えないもん。 でも、今のままでもそれなりに役には立ててると思う。ほこりっぽかった家の中はいつもピカピカに掃除してるし、研究や薬を作るための材料集めだって、ぼくらの仕事だ。博士はそのぶん、研究に没頭できるんだから。 最近はちょっとだけ──本当にちょっとだけなんだけど、ここでの暮らしもいいなって思うようになったんだ。 操がいて、博士がいて、ぼくがいる。お母さんと暮らしていた頃も幸せだったし、お母さんにまた会いたいって気持ちは変わらないけど、今は今で、けっこう楽しい。それに──。 ぼくと博士は、あれからときどき内緒のキスをするようになっていた。場所は決まってあの玄関脇のベンチで、時間は深夜。別に約束してるわけじゃない。ぼくはあの夜からこっそり屋根裏部屋を抜け出して、ベンチに座って夜空を眺めるのが習慣になっていた。 するとショコラのお墓参りを終えた博士がやってきて、ぼくの隣に座るんだ。そこでぼくと博士は、ぽつりぽつりと言葉を交わす。明日のご飯は何にしようとか、森で見つけた不思議な虫や植物のこととか。 何気ないことばかりだけど、博士と話せる時間が嬉しくて、ぼくはいつの間にか博士にぴったりくっついている。なんでかな。二人きりでいると、どうしてか博士に甘えたいような気分になってしまう。 変だなって自分でも思うけど、博士は黙ってぼくの好きにさせてくれる。そうするといつの間にか会話が途切れて、ぼくらはどこかぼうっとしながら見つめ合う。 博士がぼくの頬に触れて、そっと顔を近づけてくると、ぼくは自然と目を閉じる。唇が重なり合うと、頭の中が痺れたみたいになって気持ちよかった。 そのたびにぼくは、ずっと博士とこうしていたいって、そんなふうに思うようになっていた。 * 「操、ここはもういいから、次は裏庭に行こうよ」 その日、ぼくらは朝から家の前で草むしりをしていた。 むしった草を一ヶ所にまとめ終えて振り返ると、操はしゃがみこんだまま手を止めて、ぼーっとしながら地面を見つめている。 「ねぇ操ってば。聞いてる?」 「……あ、ごめん。なにか言った?」 「操……」 ぼくはふっと息をつきながら操のそばまで行くと、かぶっていたキャスケットを脱いでその頭にかぶせようとした。だけど、操はそれを手で遮って首を横に振る。 「操?」 「いい。それは操のものだから」 「ぼくだけのじゃないよ。これは二人の」 「いいんだ。おれにはもう必要ない」 「なんで? なんでそんなこと言うの……?」 ぼくは操に拒まれたことにショックを受けていた。今までこんなことはなかったし、操の様子はいつもと明らかに違ってる。だけど本当は分かってた。操の不安な気持ちが、少しずつ苛立ちに変わってきてるってこと。 博士の研究は相変わらずだ。いつも失敗ばかりしている。そのたんびに、操の表情が曇る回数も増えていた。ぼくもその気持ちはわかってるつもりだけど。 「だったらもういいよ。操なんかもう知らないから!」 ぼくは操から顔を背けて、キャスケットをかぶり直した。操はなにも言おうとしない。ケンカをするのは初めてのことじゃないけど、こういうときはいつも操の方からすぐに謝ってくる。だけど今日はそれがなかった。 イライラとした気持ちより、悲しいって気持ちのほうが大きくなってくる。こんなんじゃダメだ。今日はぼくから謝ろう。無言でいることに耐えられなくなってきて、ぼくは口を開きかけた。 だけどそのとき──。 ドンッ!! 森中に響き渡るほど大きな音がして、驚いた鳥たちが一斉にそこらじゅうの木から羽ばたいた。 「今のなに!?」 「家からしたよ! 博士の部屋だ!」 「でも、いつもより大きくなかった!?」 「行ってみよう!」 今はケンカなんかしてる場合じゃない。ぼくは操の手を掴んで駆けだした。家のドアを開けると、中から焦げ臭い煙が一気に噴きだしてくる。 むせている操の手を強く引いて、ぼくは博士の部屋まで一気に走った。 「博士! 大丈夫!?」 飛び込んできたのは、いつもは紫の煙を上げている壺の中から、モクモクと赤黒い煙が湧きだしている光景だった。大量の本やレポート用紙が床に散乱して、魔術道具も幾つか粉々になって散らばっている。 博士は尻もちをついた状態で、煙をあげる壺を疲れた様子で見つめていた。 「は、博士……?」 恐る恐る、ぼくらは部屋に踏み入った。頬に煤をつけた博士はゆっくりとぼくらに視線を向け、それから大きく溜息をつく。 「問題ない。悪いけど、換気するのを手伝ってくれる?」 「わかった! 操、行こう! 家中の窓を開けなくちゃ!」 ぼくはまた操の手を引こうとしたけど、操はびくとも動かない。ただ悲しそうに壺を見て、それからガクンと項垂れてしまった。 「また、失敗……」 「操……?」 「やっぱりなにも生まれない。どんなにがんばったって、お母さんを取り戻すことなんかできっこないんだ」 「ッ!」 「ごめんね操……おれはもう、ここにはいられない」 操はぼくの手を振り払い、部屋を飛びだして行ってしまう。 「操っ!!」 追いかけなくちゃ。頭ではそう思うけど、どうしてかぼくはその場から動くことができなかった。ショックだった。ぼくは博士を信じたかったし、だから今日までがんばってきたつもりだった。それは操も同じなんだと思っていたけど。 やっぱりって、操は言った。やっぱりなにも生まれないって。操は、いつからかとっくに諦めていた。お母さんのことも、博士のことも。 ぼくはそれが悲しくて、どうしたらいいか分からなくて、迷子みたいに途方に暮れた。 博士はなにも言おうとしない。あぐらをかいて、頬についた煤を手の甲で拭っている。ぼくは博士のそばに駆け寄ると、膝をついてその肩を揺さぶった。 「ねぇ、大丈夫だよね? いつかきっと上手くいくんだよね?」 「……」 「どうしてなにも言ってくれないの!? 博士にだっているんでしょ? 大事な人、取り戻したいんでしょ? だからがんばってるんでしょ!?」 ぼくは博士まで弱気になっているんだと思った。だから必死で励まそうとした。 「元気だしてよ! きっと大丈夫だよ! 博士がそんなんじゃ」 「──君は、」 「っ?」 ずっと壺を見つめていた博士が、少し険しい目をしてぼくを見ると 「君が生き返らせたいのは、誰なんだ?」 と、そう言った。 「……誰、って」 ぼくは問われたことの意味が理解できなかった。どうして今更そんなことを聞くんだろう。博士には、初めて会った日にちゃんと伝えているはずだ。 「博士、忘れちゃったの? 最初にちゃんと言ったじゃないか。お母さんを生き返らせたいって……」 「俺は聞いてない。君はあのとき、なにも言わずにただうつむいていただけだ」 「な、なに言ってるの? だって、ちゃんと言ったよ。あのとき、操が──」 ──お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを! 「クロノス」 「ッ……?」 辺りを覆っていた煙が、少しずつ晴れてきた。博士はぼくの目をまっすぐ見つめて、こう言った。 「俺の目の前には、最初から君ひとりしかいなかった」 * 雨が降っていた。ぼくはどこかの町の路地裏で、ボロボロの木箱に入れられて、ひとりぼっちで泣いていた。 いつからここにいるんだろう。気づいたときにはここにいた。寒くて、お腹がペコペコで、寂しくて。誰でもいいから助けてほしくて、必死で声を上げていた。 「捨て猫?」 そのときだった。雨を遮るようにして、黒い影がぼくを覆った。 ベージュのキャスケットをかぶって、空色のチェックシャツにオーバーオールを着た男の子が、箱の中にいるぼくを丸い目で見下ろしていた。 「わぁ、ちっちゃい。黒猫だね。目が金色だ」 男の子は白い手でぼくを抱き上げた。ぼくは怖くてたまらず、黒い毛を逆立てながら、シャ、シャ、と男の子を威嚇した。 「怖がらないで。ひとりぼっちなんだね。おれも同じ。お母さん、病気で死んじゃったから」 男の子の瞳が一瞬曇った。だけどぼくの頭をそっと撫でて、それからかぶっていたキャスケットを脱ぐと、その中にぼくを入れて抱きしめながらニコリと笑った。 「帰ろう、一緒に」 それがぼくと操の出会いだった。 * 操はぼくに自分の話をたくさんして聞かせてくれた。 ぼくと同じで赤ちゃんの頃に捨てられて、貧しい孤児院で暮らしていたこと。同じくらいの子供たちと一緒に、狭い部屋で身を寄せ合っていたこと。6歳のころに、魔力を暴走させてしまったこと。 操には普通では考えられないほど大きな魔力が秘められていて、ある日そうと知らずに暴走させてしまった。 友達におねしょをしたことをからかわれて、悔しくて泣いてしまった──たったそれだけのはずだったのに。 気づいたときには部屋が滅茶苦茶になっていて、窓ガラスが粉々に砕け散っていた。机も椅子もボロボロで、壁にはヒビまで入って、そばにいた友達の中には、怪我をして泣いている子までいた。 『この子は危険だ。ここに置いておくことはできない』 孤児院の大人たちはそう言って、オバケでも見るような目で操を見た。そして森の外れまで連れて行き、そのまま置き去りにしてしまった。 誰もいない森の中で、操はお腹を空かせながら何日も泣いていた。夜は獣の声に怯えながら、たまたま見つけた穴蔵の中に身体を押し込めて眠った。 やがて寒さと空腹で動けなくなった。ここで死ぬんだ。そう思っていたら、容子に出会った。 羽佐間容子という女の人は、町外れの小さな家で修理屋を営んでいた。森の中で必要な材料を探しているときに、たまたま倒れている操を見つけた。 家に連れ帰り、食事と洋服を与えてくれた。どこにも行く場所がない操に、「私も一人ぼっちなのよ」と笑って、ここにいてもいいと言ってくれた。 その日から、容子は操のお母さんになった。 学校へも通わせてもらって、そこで魔法の勉強をして、ちゃんと魔力をコントロールすることができるようになった。 でも、どんなに上手に魔法が使えるようになっても、おねしょの癖だけはなおらなかった。12歳までその癖は抜けなかったけど、容子はいつも笑いながらシーツを洗って干してくれた。 容子は操のことを、本当の子供みたいに愛してくれた。操も、容子のことが大好きだった。本当のお母さんだと思っていた。 家には黒髪の女の子の写真が飾られていた。翔子っていう名前の女の子。だけどあまり身体が丈夫じゃなくて、操が来る少し前に、疫病で死んじゃったんだって。 容子は寂しそうに写真を見つめながら、よく翔子の話を聞かせてくれた。操と同じで血の繋がりはなかったけれど、本当の娘みたいだったって。 そんなある日のこと──容子が、翔子と同じ病気にかかってしまった。 操は14歳になっていた。何度もお医者さんに見てもらったし、操も必死で病気を治すための魔法を試した。だけど、ぜんぜんダメだった。 容子はひどい熱と咳が止まらず、最後には血まで吐くようになった。 そして、死んでしまった。 操は何日も泣いて、町の人達が上げてくれたお葬式が終わっても、ずっと一人で泣いていた。大好きなお母さんにもう会えない。またひとりぼっちになってしまった。いっそのこと、自分も消えてしまいたいと思った。 だけどそんなある日、家の近くの路地裏でぼくを見つけた。まるで自分を見ているようで、操はぼくを放っておくことができなかった。 クロノス。 それは操がつけてくれた名前だった。 そのときから、操はぼくの『お母さん』になったんだ。 * 操はぼくにとても優しくしてくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれたし、夜はおでこやほっぺたに何度もキスをして、抱きしめて眠ってくれた。 最初は怖かったけど、ぼくはすぐに操のことが大好きになった。 ぼくは自分の本当のお母さんのことを覚えていない。だけど操にぎゅってされると、なんとなくお母さんのことを思いだせるような気がして、いつも操の胸をモニモニと揉んで、服がビシャビシャになるくらいチュウチュウ吸って、そうするととても安心することができた。 それからしばらく経った、ある日のこと。 操はぼくをヒトの姿に変える魔法をかけた。どこへ行くにもついて行こうとするぼくを見かねて、そのほうが安心だからって。人通りが多い町中や、森の中を歩くにも、子猫の姿だと危険が多い。 「勝手なことしてごめんね」 操はそう言って謝ったけど、ぼくは嬉しかった。だって、これからは家の外でもずっと操のそばにいられる。同じ言葉を使って話すことができる。 それに、ぼくの姿は操と瓜二つだったんだ。猫の耳としっぽは残っていたけど、ぼくは大好きな操と同じ顔をしていることが、とても嬉しかった。 操とお揃いのオーバーオールはサイズが少し大きくて、しっぽを隠すのに不便はなかった。耳は操がくれたキャスケットをかぶれば大丈夫。 町の人達は操が二人になったことに驚いたけど、双子の弟だって言ったら、みんなあっさり信じてしまった。たぶん、操が魔法で記憶におまじないをかけたんだ。 ヒトの姿になってから、ぼくはなんでも操の真似をするようになった。 操のお母さんがしていた仕事を引き継いで、二人で少しずつ色んなものを修理できるようにもなっていった。ご飯もお風呂も寝るときも、ぼくらはどんなときでもいつも一緒。そんな日が、これからずっとずっと続いていくんだと思ってた。 操が、翔子や容子と同じ病で倒れるまでは。 * 操は日に日に弱っていった。ひどい熱にうなされて、朝から晩まで咳が止まらなかった。そのうち、血まで吐くようになってしまった。 ぼくはどうしたらいいか分からなかった。このままじゃ操がいなくなってしまう。もう一緒にはいられなくなる。大好きな操が。ぼくのお母さんが。 だけどぼくにはなにもできなかった。ただベッドに縋りついて泣くことしか。 操はずっとぼくの手を握っていた。咳が出て、口からたくさん血を吐いて、こんなに苦しそうなのに。ぼくに優しく笑いかけていた。 「クロノス」 最期のとき。操はベッドに横たわり、ぼくの名前を呼んだ。それから、「ごめんね」と言った。 「君にかけたその魔法は、おれにも解けないんだ。ちょっとやそっとじゃ戻らないように、途中の式をね、めちゃくちゃに組んでしまったから」 ぼくが耳としっぽだけ中途半端に猫のままだったのは、正しい形で魔法をかけなかったから。操はぼくと本当の双子の兄弟になるつもりだったんだ。同じ言葉で話して、同じものを共有できる、人の形をした家族に。 だから絶対に解けないように、あえて未完の魔法をかけた。 「わがままで、ごめん」 ぼくは操の手を両手で強く握りながら、何度も首を左右に振った。 「そんなこと言わないで。ぼくは嬉しい。操とお揃いなのが、本当に嬉しいんだ」 「ありがとう、クロノス」 「操……お願いだから、ぼくをひとりにしないで。ずっとずっと一緒にいてよ」 さっきまでひどく血を吐いていたから、操の唇は真っ赤になっている。その唇が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。 「ずっと一緒だよ。おれは、クロノスとずっと、一緒。だからね、おれの名前を、君にあげたい」 「え……?」 「おれの呼吸が止まったら、おれを、家の裏に埋めて。誰にも、見られないように」 「操、そんな……なんで……!?」 操が町の人たちにかけたまじないは、操の存在が消えたらすぐに解ける簡単なものだ。操がぼくと入れ替わっていたとしても、誰も疑問に思わないだろう。だから自分の身体を隠して、ぼくに本当の『来主操』になってほしいと、操は言った。ぼくがこの町で、いつまでも安心して暮らせるように。 「やだ、やだよ! 名前なんかいらない! だって、君がつけてくれたんだよ! クロノスって! だから、ぼくは操にはなれないよ……ッ!」 操がまたひとつ咳をした。一緒に血が出て、シーツを汚す。ぼくは真っ青になって、ただ小刻みに震えることしかできなかった。 苦しそうにカサついた息を漏らして、操が笑った。 「もらってよ。おれの名前を、君の居場所にしてほしい」 「やだ! やだやだ! 操がいないなら、どこにいたって同じだもん!」 ぼくは声を出して、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何度もしゃくりをあげて、そのたびに息ができなくて、肺のあたりが痛くなってくる。それでも泣いた。 神様、どうか操を奪わないで。操を連れて行かないで。ぼくをぼくにしてくれた、大切な『お母さん』を。 「クロノス」 すっかり弱った指先で、操は力を振り絞ってぼくの手を握り返した。ぼくがハッと息を呑んで泣き止むのと同時に、操はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。そして、初めて出会ったときのように、まるでぼくを安心させるみたいに、優しく目を細めた。 「ずっと空で見てるから……幸せになって、操」 それが操から──お母さんからもらった、最後の言葉だった。 ←戻る ・ 次へ→
家事も手際よくこなせるようになってきたし、料理の腕だって上達してきたと思う。少なくともスープの味付けを失敗したり、パンを焦がすことはなくなった。
それでもぼくらはまだ、正式に弟子としては認められていない。本当に、ただの住み込みのお手伝いさんって感じだ。
だけどもしちゃんと弟子になれたとしても、今とやることは変わらないような気がしてる。だってぼくは魔法のことよく知らないし、あまり興味もなかったし、魔術書に書かれている文字なんか、ミミズが踊ってるようにしか見えないもん。
でも、今のままでもそれなりに役には立ててると思う。ほこりっぽかった家の中はいつもピカピカに掃除してるし、研究や薬を作るための材料集めだって、ぼくらの仕事だ。博士はそのぶん、研究に没頭できるんだから。
最近はちょっとだけ──本当にちょっとだけなんだけど、ここでの暮らしもいいなって思うようになったんだ。
操がいて、博士がいて、ぼくがいる。お母さんと暮らしていた頃も幸せだったし、お母さんにまた会いたいって気持ちは変わらないけど、今は今で、けっこう楽しい。それに──。
ぼくと博士は、あれからときどき内緒のキスをするようになっていた。場所は決まってあの玄関脇のベンチで、時間は深夜。別に約束してるわけじゃない。ぼくはあの夜からこっそり屋根裏部屋を抜け出して、ベンチに座って夜空を眺めるのが習慣になっていた。
するとショコラのお墓参りを終えた博士がやってきて、ぼくの隣に座るんだ。そこでぼくと博士は、ぽつりぽつりと言葉を交わす。明日のご飯は何にしようとか、森で見つけた不思議な虫や植物のこととか。
何気ないことばかりだけど、博士と話せる時間が嬉しくて、ぼくはいつの間にか博士にぴったりくっついている。なんでかな。二人きりでいると、どうしてか博士に甘えたいような気分になってしまう。
変だなって自分でも思うけど、博士は黙ってぼくの好きにさせてくれる。そうするといつの間にか会話が途切れて、ぼくらはどこかぼうっとしながら見つめ合う。
博士がぼくの頬に触れて、そっと顔を近づけてくると、ぼくは自然と目を閉じる。唇が重なり合うと、頭の中が痺れたみたいになって気持ちよかった。
そのたびにぼくは、ずっと博士とこうしていたいって、そんなふうに思うようになっていた。
*
「操、ここはもういいから、次は裏庭に行こうよ」
その日、ぼくらは朝から家の前で草むしりをしていた。
むしった草を一ヶ所にまとめ終えて振り返ると、操はしゃがみこんだまま手を止めて、ぼーっとしながら地面を見つめている。
「ねぇ操ってば。聞いてる?」
「……あ、ごめん。なにか言った?」
「操……」
ぼくはふっと息をつきながら操のそばまで行くと、かぶっていたキャスケットを脱いでその頭にかぶせようとした。だけど、操はそれを手で遮って首を横に振る。
「操?」
「いい。それは操のものだから」
「ぼくだけのじゃないよ。これは二人の」
「いいんだ。おれにはもう必要ない」
「なんで? なんでそんなこと言うの……?」
ぼくは操に拒まれたことにショックを受けていた。今までこんなことはなかったし、操の様子はいつもと明らかに違ってる。だけど本当は分かってた。操の不安な気持ちが、少しずつ苛立ちに変わってきてるってこと。
博士の研究は相変わらずだ。いつも失敗ばかりしている。そのたんびに、操の表情が曇る回数も増えていた。ぼくもその気持ちはわかってるつもりだけど。
「だったらもういいよ。操なんかもう知らないから!」
ぼくは操から顔を背けて、キャスケットをかぶり直した。操はなにも言おうとしない。ケンカをするのは初めてのことじゃないけど、こういうときはいつも操の方からすぐに謝ってくる。だけど今日はそれがなかった。
イライラとした気持ちより、悲しいって気持ちのほうが大きくなってくる。こんなんじゃダメだ。今日はぼくから謝ろう。無言でいることに耐えられなくなってきて、ぼくは口を開きかけた。
だけどそのとき──。
ドンッ!!
森中に響き渡るほど大きな音がして、驚いた鳥たちが一斉にそこらじゅうの木から羽ばたいた。
「今のなに!?」
「家からしたよ! 博士の部屋だ!」
「でも、いつもより大きくなかった!?」
「行ってみよう!」
今はケンカなんかしてる場合じゃない。ぼくは操の手を掴んで駆けだした。家のドアを開けると、中から焦げ臭い煙が一気に噴きだしてくる。
むせている操の手を強く引いて、ぼくは博士の部屋まで一気に走った。
「博士! 大丈夫!?」
飛び込んできたのは、いつもは紫の煙を上げている壺の中から、モクモクと赤黒い煙が湧きだしている光景だった。大量の本やレポート用紙が床に散乱して、魔術道具も幾つか粉々になって散らばっている。
博士は尻もちをついた状態で、煙をあげる壺を疲れた様子で見つめていた。
「は、博士……?」
恐る恐る、ぼくらは部屋に踏み入った。頬に煤をつけた博士はゆっくりとぼくらに視線を向け、それから大きく溜息をつく。
「問題ない。悪いけど、換気するのを手伝ってくれる?」
「わかった! 操、行こう! 家中の窓を開けなくちゃ!」
ぼくはまた操の手を引こうとしたけど、操はびくとも動かない。ただ悲しそうに壺を見て、それからガクンと項垂れてしまった。
「また、失敗……」
「操……?」
「やっぱりなにも生まれない。どんなにがんばったって、お母さんを取り戻すことなんかできっこないんだ」
「ッ!」
「ごめんね操……おれはもう、ここにはいられない」
操はぼくの手を振り払い、部屋を飛びだして行ってしまう。
「操っ!!」
追いかけなくちゃ。頭ではそう思うけど、どうしてかぼくはその場から動くことができなかった。ショックだった。ぼくは博士を信じたかったし、だから今日までがんばってきたつもりだった。それは操も同じなんだと思っていたけど。
やっぱりって、操は言った。やっぱりなにも生まれないって。操は、いつからかとっくに諦めていた。お母さんのことも、博士のことも。
ぼくはそれが悲しくて、どうしたらいいか分からなくて、迷子みたいに途方に暮れた。
博士はなにも言おうとしない。あぐらをかいて、頬についた煤を手の甲で拭っている。ぼくは博士のそばに駆け寄ると、膝をついてその肩を揺さぶった。
「ねぇ、大丈夫だよね? いつかきっと上手くいくんだよね?」
「……」
「どうしてなにも言ってくれないの!? 博士にだっているんでしょ? 大事な人、取り戻したいんでしょ? だからがんばってるんでしょ!?」
ぼくは博士まで弱気になっているんだと思った。だから必死で励まそうとした。
「元気だしてよ! きっと大丈夫だよ! 博士がそんなんじゃ」
「──君は、」
「っ?」
ずっと壺を見つめていた博士が、少し険しい目をしてぼくを見ると
「君が生き返らせたいのは、誰なんだ?」
と、そう言った。
「……誰、って」
ぼくは問われたことの意味が理解できなかった。どうして今更そんなことを聞くんだろう。博士には、初めて会った日にちゃんと伝えているはずだ。
「博士、忘れちゃったの? 最初にちゃんと言ったじゃないか。お母さんを生き返らせたいって……」
「俺は聞いてない。君はあのとき、なにも言わずにただうつむいていただけだ」
「な、なに言ってるの? だって、ちゃんと言ったよ。あのとき、操が──」
──お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!
「クロノス」
「ッ……?」
辺りを覆っていた煙が、少しずつ晴れてきた。博士はぼくの目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「俺の目の前には、最初から君ひとりしかいなかった」
*
雨が降っていた。ぼくはどこかの町の路地裏で、ボロボロの木箱に入れられて、ひとりぼっちで泣いていた。
いつからここにいるんだろう。気づいたときにはここにいた。寒くて、お腹がペコペコで、寂しくて。誰でもいいから助けてほしくて、必死で声を上げていた。
「捨て猫?」
そのときだった。雨を遮るようにして、黒い影がぼくを覆った。
ベージュのキャスケットをかぶって、空色のチェックシャツにオーバーオールを着た男の子が、箱の中にいるぼくを丸い目で見下ろしていた。
「わぁ、ちっちゃい。黒猫だね。目が金色だ」
男の子は白い手でぼくを抱き上げた。ぼくは怖くてたまらず、黒い毛を逆立てながら、シャ、シャ、と男の子を威嚇した。
「怖がらないで。ひとりぼっちなんだね。おれも同じ。お母さん、病気で死んじゃったから」
男の子の瞳が一瞬曇った。だけどぼくの頭をそっと撫でて、それからかぶっていたキャスケットを脱ぐと、その中にぼくを入れて抱きしめながらニコリと笑った。
「帰ろう、一緒に」
それがぼくと操の出会いだった。
*
操はぼくに自分の話をたくさんして聞かせてくれた。
ぼくと同じで赤ちゃんの頃に捨てられて、貧しい孤児院で暮らしていたこと。同じくらいの子供たちと一緒に、狭い部屋で身を寄せ合っていたこと。6歳のころに、魔力を暴走させてしまったこと。
操には普通では考えられないほど大きな魔力が秘められていて、ある日そうと知らずに暴走させてしまった。
友達におねしょをしたことをからかわれて、悔しくて泣いてしまった──たったそれだけのはずだったのに。
気づいたときには部屋が滅茶苦茶になっていて、窓ガラスが粉々に砕け散っていた。机も椅子もボロボロで、壁にはヒビまで入って、そばにいた友達の中には、怪我をして泣いている子までいた。
『この子は危険だ。ここに置いておくことはできない』
孤児院の大人たちはそう言って、オバケでも見るような目で操を見た。そして森の外れまで連れて行き、そのまま置き去りにしてしまった。
誰もいない森の中で、操はお腹を空かせながら何日も泣いていた。夜は獣の声に怯えながら、たまたま見つけた穴蔵の中に身体を押し込めて眠った。
やがて寒さと空腹で動けなくなった。ここで死ぬんだ。そう思っていたら、容子に出会った。
羽佐間容子という女の人は、町外れの小さな家で修理屋を営んでいた。森の中で必要な材料を探しているときに、たまたま倒れている操を見つけた。
家に連れ帰り、食事と洋服を与えてくれた。どこにも行く場所がない操に、「私も一人ぼっちなのよ」と笑って、ここにいてもいいと言ってくれた。
その日から、容子は操のお母さんになった。
学校へも通わせてもらって、そこで魔法の勉強をして、ちゃんと魔力をコントロールすることができるようになった。
でも、どんなに上手に魔法が使えるようになっても、おねしょの癖だけはなおらなかった。12歳までその癖は抜けなかったけど、容子はいつも笑いながらシーツを洗って干してくれた。
容子は操のことを、本当の子供みたいに愛してくれた。操も、容子のことが大好きだった。本当のお母さんだと思っていた。
家には黒髪の女の子の写真が飾られていた。翔子っていう名前の女の子。だけどあまり身体が丈夫じゃなくて、操が来る少し前に、疫病で死んじゃったんだって。
容子は寂しそうに写真を見つめながら、よく翔子の話を聞かせてくれた。操と同じで血の繋がりはなかったけれど、本当の娘みたいだったって。
そんなある日のこと──容子が、翔子と同じ病気にかかってしまった。
操は14歳になっていた。何度もお医者さんに見てもらったし、操も必死で病気を治すための魔法を試した。だけど、ぜんぜんダメだった。
容子はひどい熱と咳が止まらず、最後には血まで吐くようになった。
そして、死んでしまった。
操は何日も泣いて、町の人達が上げてくれたお葬式が終わっても、ずっと一人で泣いていた。大好きなお母さんにもう会えない。またひとりぼっちになってしまった。いっそのこと、自分も消えてしまいたいと思った。
だけどそんなある日、家の近くの路地裏でぼくを見つけた。まるで自分を見ているようで、操はぼくを放っておくことができなかった。
クロノス。
それは操がつけてくれた名前だった。
そのときから、操はぼくの『お母さん』になったんだ。
*
操はぼくにとても優しくしてくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれたし、夜はおでこやほっぺたに何度もキスをして、抱きしめて眠ってくれた。
最初は怖かったけど、ぼくはすぐに操のことが大好きになった。
ぼくは自分の本当のお母さんのことを覚えていない。だけど操にぎゅってされると、なんとなくお母さんのことを思いだせるような気がして、いつも操の胸をモニモニと揉んで、服がビシャビシャになるくらいチュウチュウ吸って、そうするととても安心することができた。
それからしばらく経った、ある日のこと。
操はぼくをヒトの姿に変える魔法をかけた。どこへ行くにもついて行こうとするぼくを見かねて、そのほうが安心だからって。人通りが多い町中や、森の中を歩くにも、子猫の姿だと危険が多い。
「勝手なことしてごめんね」
操はそう言って謝ったけど、ぼくは嬉しかった。だって、これからは家の外でもずっと操のそばにいられる。同じ言葉を使って話すことができる。
それに、ぼくの姿は操と瓜二つだったんだ。猫の耳としっぽは残っていたけど、ぼくは大好きな操と同じ顔をしていることが、とても嬉しかった。
操とお揃いのオーバーオールはサイズが少し大きくて、しっぽを隠すのに不便はなかった。耳は操がくれたキャスケットをかぶれば大丈夫。
町の人達は操が二人になったことに驚いたけど、双子の弟だって言ったら、みんなあっさり信じてしまった。たぶん、操が魔法で記憶におまじないをかけたんだ。
ヒトの姿になってから、ぼくはなんでも操の真似をするようになった。
操のお母さんがしていた仕事を引き継いで、二人で少しずつ色んなものを修理できるようにもなっていった。ご飯もお風呂も寝るときも、ぼくらはどんなときでもいつも一緒。そんな日が、これからずっとずっと続いていくんだと思ってた。
操が、翔子や容子と同じ病で倒れるまでは。
*
操は日に日に弱っていった。ひどい熱にうなされて、朝から晩まで咳が止まらなかった。そのうち、血まで吐くようになってしまった。
ぼくはどうしたらいいか分からなかった。このままじゃ操がいなくなってしまう。もう一緒にはいられなくなる。大好きな操が。ぼくのお母さんが。
だけどぼくにはなにもできなかった。ただベッドに縋りついて泣くことしか。
操はずっとぼくの手を握っていた。咳が出て、口からたくさん血を吐いて、こんなに苦しそうなのに。ぼくに優しく笑いかけていた。
「クロノス」
最期のとき。操はベッドに横たわり、ぼくの名前を呼んだ。それから、「ごめんね」と言った。
「君にかけたその魔法は、おれにも解けないんだ。ちょっとやそっとじゃ戻らないように、途中の式をね、めちゃくちゃに組んでしまったから」
ぼくが耳としっぽだけ中途半端に猫のままだったのは、正しい形で魔法をかけなかったから。操はぼくと本当の双子の兄弟になるつもりだったんだ。同じ言葉で話して、同じものを共有できる、人の形をした家族に。
だから絶対に解けないように、あえて未完の魔法をかけた。
「わがままで、ごめん」
ぼくは操の手を両手で強く握りながら、何度も首を左右に振った。
「そんなこと言わないで。ぼくは嬉しい。操とお揃いなのが、本当に嬉しいんだ」
「ありがとう、クロノス」
「操……お願いだから、ぼくをひとりにしないで。ずっとずっと一緒にいてよ」
さっきまでひどく血を吐いていたから、操の唇は真っ赤になっている。その唇が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ずっと一緒だよ。おれは、クロノスとずっと、一緒。だからね、おれの名前を、君にあげたい」
「え……?」
「おれの呼吸が止まったら、おれを、家の裏に埋めて。誰にも、見られないように」
「操、そんな……なんで……!?」
操が町の人たちにかけたまじないは、操の存在が消えたらすぐに解ける簡単なものだ。操がぼくと入れ替わっていたとしても、誰も疑問に思わないだろう。だから自分の身体を隠して、ぼくに本当の『来主操』になってほしいと、操は言った。ぼくがこの町で、いつまでも安心して暮らせるように。
「やだ、やだよ! 名前なんかいらない! だって、君がつけてくれたんだよ! クロノスって! だから、ぼくは操にはなれないよ……ッ!」
操がまたひとつ咳をした。一緒に血が出て、シーツを汚す。ぼくは真っ青になって、ただ小刻みに震えることしかできなかった。
苦しそうにカサついた息を漏らして、操が笑った。
「もらってよ。おれの名前を、君の居場所にしてほしい」
「やだ! やだやだ! 操がいないなら、どこにいたって同じだもん!」
ぼくは声を出して、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何度もしゃくりをあげて、そのたびに息ができなくて、肺のあたりが痛くなってくる。それでも泣いた。
神様、どうか操を奪わないで。操を連れて行かないで。ぼくをぼくにしてくれた、大切な『お母さん』を。
「クロノス」
すっかり弱った指先で、操は力を振り絞ってぼくの手を握り返した。ぼくがハッと息を呑んで泣き止むのと同時に、操はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。そして、初めて出会ったときのように、まるでぼくを安心させるみたいに、優しく目を細めた。
「ずっと空で見てるから……幸せになって、操」
それが操から──お母さんからもらった、最後の言葉だった。
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