ぼくたちおとこのこ
新しい生活にも、もうすっかり馴染んだ頃だった。
初めて顔を合わせるクラスメイトが多かった中、黒鋼とファイはクラスが分かれたものの、互いに上手くやっていた。
この辺りの地域からいっせいに子供達が集まっているおかげで、ここはファイに対して何の偏見も持たない人間の数の方が、圧倒的に勝っていた。ファイが新生活に苦労せず馴染み、他人ともそれなりに打ち解けている姿に、黒鋼はまるで我が子を見守るかのような安堵を覚えたものだった。
*
「なぁなぁ、二年のあの凄い可愛い先輩、噂聞いたか?」
それは休み時間のちょっとしたひとコマだった。
席の近いものたちが、頼みもしないのに黒鋼を中心に囲むようにして集まり、グダグダと何事か話始める。小学生の頃もそうだったが、身体が大きく目立つ黒鋼の側には、なぜか自然とクラスメイトが集まってくる。
「あ、聞いた聞いた」
「なんか凄いよなー、な? 知ってるだろ? アレってマジなの?」
次の授業のための教材を机から取り出しつつ、特に会話に参加していなかった黒鋼に、一人の男子生徒が問いかけてくる。意味がわからず、思わず顔を顰めた。
「あ?」
「聞いてないし。つーか顔恐いって」
「うるせぇよ」
目つきが悪いのは生まれつきである。今更文句を言われてもどうしようもない。言うなら言うで、瓜二つの父に言って欲しいと思う。
「姫だよ姫。お姫様さー」
「姫だぁ? 知らねぇよそんなもん」
そう言うと、会話に参加していた男子達数人が「え!?」と驚愕の声を上げた。
黒鋼は眉間に深く皺を刻むと「なんだ?」と眼だけで問いかける。彼らがこれほど騒ぎ立てるほどに、その『お姫様』とやらは有名なのか。黒鋼は噂話の類には、どうも惹かれない性質だった。
それでは肝心な話が進まないと、一人の男子がご丁寧に説明してくれた。
姫、というのは通称であるらしい。
なんでも一つ上の先輩の女子がとんでもない美少女だとかで、全校生徒や教師達にまでそう呼ばれているのだと、男子生徒はなぜか己がことのように誇らしげに語った。
聞いた瞬間、あまりのどうでもよさに辟易とした。だがそんな黒鋼の耳に、次の瞬間予想もしなかった内容が飛び込んでくる。
「一組のさ、ほら、大道寺に懐いてる金髪で小さいの」
「?」
その話題の延長で、まさかファイの名前が出るとは欠片も思っていなかった黒鋼は、内心激しく躊躇した。
「……あいつがなんだよ?」
「なんだよ聞いてないの?」
「だからなんだってんだ」
僅かに苛立ちはじめた黒鋼に、皆が「顔こえー」とからかいを含む声を上げたが、すぐに話題は本題へと乗り上げてゆく。
「お姫様がさ、あのちっこいのと付き合ってるって噂、ホントかどうかお前なら知ってると思ってたのに」
「はぁ?」
そんなことは知らない。それ以前に、あまりに突然のことに黒鋼はまだ話の内容を飲み込めないでいた。
ファイとは登下校も一緒なら、休み時間だってしょっちゅう顔を合わせているが、そんな素振りもなければ、当然話題にも上らない。黒鋼はだんだん本格的に腹が立ってきて、「くだらねぇ」と吐き捨てた。
「そんなもん、ただの噂だろ」
「なーんだー」
やっぱガセか、と皆がどこか安堵したような表情で口々に呟くと、チャイムと共に噂話は終わりを告げた。
全くもって気分が悪い。授業が始まってもその苛立ちは治まらず、なかなか身が入らない。何が付き合っている、だ。ファイはまだ子供だ。同学年の黒鋼が言うのもおかしな話だが、ファイといると嫌でもそう感じてしまう。
だいたいそのような根も葉もない噂は、一体どこから立ち上ったものなのか。その出所は、それからすぐに知れることとなる。
*
黒鋼は剣道部、ファイは美術部に所属している。
放課後それぞれの活動が終われば、あとは連れ立って下校するだけだ。いつもは早めに終わったファイが体育館にひょっこりと顔を出すのに、その日は違った。
「長引いてんのか?」
体育館から校舎までの短い渡り廊下を、ヒヨコ色の頭を探しながら歩く。部活が長引いているなら、たまには自分が迎えに行ってやろうと、美術室のある一階校舎の奥を目指した。
窓の外からは夕陽が射し込んで、辺りを燃えるような橙色に染めていた。
ふと、人気のないはずの廊下で足を止める。前方に、目当ての金色を見つけたからだが、黒鋼はすぐに声をかけることができなかった。
なぜなら、そこにいたのはファイだけではなかったからだ。
「?」
セーラー服を着た、背の高い女子。黒鋼はその顔に覚えがなかった。長く艶やかな黒髪が腰の辺りまで伸びていて、凛とした横顔は少々気が強そうな印象を受けるが、ファイに優しく語り掛けているようだった。
放課後の人気のない廊下で親しげに話し込んでいる二人は、ファイが学ランさえ着ていなければ、下手をすれば少女同士の語らいにも見える。
もしかして、と黒鋼は思う。あれが噂の『姫』とやらではないか。なぜか心臓がドキリと飛び跳ねた。
夕陽に照らされて向き合う彼らの姿は、大袈裟な言い方をすれば、この世のものではないような気さえした。
凛とした美しい少女と、天使のように無垢な瞳をしたファイ。
長い黒髪が橙色を弾くように艶めき、淡い金色はその光を強く吸い込んで輝きを増していた。胸が刻む忙しない鼓動の意味が、黒鋼には分からなかった。この神がかった光景に対して? それとも、まさかあの噂は本当のことだったのかもしれないという、言いようの無い不安や苛立ちのせいか?
二人は向かい合って何か話し込んでいるようだが、内容はさっぱり聞き取れない。
姫の語り掛けに、にこやかだったファイの横顔が僅かに曇って俯いた。答えに窮しているよう様子のファイの肩に、姫がそっと手を置いた。
「ッ!」
見てはいけないものを見ている気がして、咄嗟にすぐ側の開け放たれている教室のドアに飛び込んだ。バクバクと飛び出しそうな勢いで心臓が跳ねている。額に冷たい汗が浮き上がった。
あれはなんだ?
この足元から崩れ落ちそうな感覚は?
ファイは子供だと思っていた。自分よりもずっと幼くて、無邪気な存在なのだと。男とか女とか、そんな話はまだ黒鋼も含めて早いはずだ。そんな風に当たり前のように思い込んでいた、こちらの方が子供だったのだろうか?
同時に黒鋼は、これまでファイを『男』として認識していなかったのだということに気がついた。もちろん『女』でもない。ファイは『ファイ』であり、他の何物でもないと。
それは絵本や漫画の中の登場人物へ対する認識とも、少し似ていたのかもしれない。同じ人間として見ていたかさえ危ぶまれる。例えば、そう、子猫だとかウサギだとか、そんな小さくて守ってやりたくなるような生き物。
そういうふうに考えていた自分をはっきりと自覚して、沈み込んでゆく感情に情けなさを感じた。
「黒たん? なにしてんのー?」
「っ!?」
そのとき、いきなり掛かった声に黒鋼はいよいよ本当に心臓が口から飛び出すかと思った。
見ればファイが廊下から教室へひょっこりと顔を出し、小さく首を傾げていた。大きな目は無邪気そのもので、黒鋼は真っ直ぐに目を合わせることが出来ず、そっぽを向いた。
「なんでもねぇよ」
「そお? ね、帰ろうよー。部活はもう終わったんだよねー?」
「お、おう……」
ファイに腕を引かれて廊下を出る。下駄箱に差し掛かったところで、またギクリとした。
「あ、先輩さよーならー!」
ぶんぶんと手を振るファイの視線の先には、先ほどの少女が丁度靴を履き終えたところだった。
ファイに手を振り返した姫は、黒鋼にも微笑んで小さく会釈した。その頬が僅かに赤い気がするのは夕陽のせいだと、自分に言い聞かせた。
*
行きとは違って、帰りはひたすら上り坂が続く。完全に日が沈む前に辿りつきたいのに、杉の木ばかりが目立つ景色はなかなか変わらなかった。
いつもはファイを乗せていても颯爽と行くはずのペダルが、今日はやけに重い。キシキシという音が、やけに不快なものに感じた。
先刻見てしまった出来事について、問い質すなんて野暮な真似は到底出来ない。そもそも見てしまったという事実に対する、奇妙な罪悪感も強かった。
「ねー、黒たん」
ずっと重苦しい沈黙を破れないままでいた黒鋼に、平素より僅かに沈んだファイが言葉を発した。なぜか予感めいたものがして、身体を強張らせる。
「……なんだ」
「あのね……オレ……」
「ま、待て」
「へ?」
黒鋼はひとつ大きく喉を鳴らした。これまでの自分は本当に愚かだった。ファイを小動物のように見るあまり、対等に扱ってすらいなかったのかもしれない。これでは彼を阻害する連中と同じではないか。
けれど黒鋼も男だ。己の非を潔く認めると同時に、たとえどんなにショックを受けようが、ファイの告白にエールを送ろう。
「おまえは……一人前の男だ……」
「え? うん、オレ男だよー」
「なら迷うんじゃねぇ……こういうとき、男ならシャキっとしろ」
「あ、うん。そうだよね……シャキッ」
「口で言うな、口で」
黒鋼の腹に回っている腕の力が強くなって、ファイが背中に強く頬を押し付けてくるのが分かった。胸が締め付けられたように苦しくなる。
「どうしてオレ、迷っちゃったのかな……なんかね、すごく変な感じなんだー……」
「……そうか」
「あのね、黒たんはさっきの先輩、好きー?」
「なんで俺に聞くんだ」
「答えて。あのね、好きっていうのはドラマとかで、よく男の人と女の人がちゅうするみたいな、そーゆう好きだからね」
そんなことは言われずとも承知している。だが、ファイは何を思ってそのような質問をぶつけてくるのだろうか。
勿論、姫に対して黒鋼にそういった特別な感情は皆無である。なにせその渾名も存在も、今日初めて知ったのだから。
「……好きって言ったら困るの、おまえじゃねぇのか」
「え……?」
背中からファイの頬が離れる。彼は暫しの間、言葉を失ってしまったようだった。
「おい」
「そう、なのかな……だから迷ってたのかなぁ?」
でもどうしてだろう、とファイは呆然としたように言った。それを聞きたいのはむしろ黒鋼の方なのだが、よくよく考えてみればこのような経験はファイにとっても初めてのことなのだから、戸惑うことは多々あるのかもしれない。
また、もしかすればファイの口ぶりや、廊下で見たあの戸惑ったような横顔から察するに、完全に付き合っているというわけではなく、あちらの方から告白を受けている段階なのだろうか、とも思った。
「俺は知らねぇよ……おまえがちゃんと答え出すのが筋ってもんだろ」
幾分か気遣うような、優しいトーンで言った。まだ混乱はしているし、なぜかやたらと胸の辺りも痛むけれど、ファイも彼女のことを憎からず思っているのだとしたら、しっかり祝福して応援してやろうと心に決める。
が、その矢先――。
「オレが考えたってわかんないよー。だってこれは先輩と黒りんの問題じゃないー?」
「…………あ?」
「あの先輩ね、美術部で一緒なんだー。すごく優しくしてくれて、よく一緒におしゃべりもするのね」
「……はぁ」
「でねー、さっき部活が終わってから、いつもみたいにおしゃべりしてたの」
「はぁ」
「そしたらね、先輩、黒るんのこと好きなんだって。ちゅうするみたいな好きですかーって聞いたらね、うんって言ったのー」
「は……?」
「オレ、いっつも黒ぷーと一緒だからね、聞いてってお願いされたの。好きな人はいますかーって」
「はあ!?」
咄嗟にブレーキをかけた。ファイが驚いて身をよろめかせ、黒鋼にぎゅうとしがみついた。
「ひゃー! 危ないよ黒わんこー!」
「お、おまえ……なんだよそりゃ……」
予想外だ。この期に及んで、まさか自分という存在が中心に引きずり出されるなんて、想像もしなかった。
「なんで俺なんだよ?」
これまでの迷いは、葛藤は、一体なんだったのか。黒鋼は黒鋼で、決死の思いでファイを応援するつもりでいたというのに。
「ねー? いる? 好きな子いるのー? 先輩のこと好きー?」
「いるわけねぇだろ!!」
大きな声が曲がりくねった山道に響き渡った。カアカアと、カラスが鳴きながら飛び去っていく。
目を見開いたファイと、くわっと鬼の形相で振り向いている黒鋼との間に、沈黙が流れる。が、すぐにファイのあっけらかんとした声がそれを破った。
「なーんだー! そっかー!」
えらく喜びだしたファイに、訳も分からず力が抜けた。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
休み時間にくだらない噂話に花を咲かせていたクラスメイト達ならば、きっと喜び勇むようなことなのかもしれない。なのに黒鋼には、欠片も興味が抱けなかった。
嬉しいどころか、なんてはた迷惑な話だろうかと、腹が立って仕方がない。姫には勿論、申し訳ない話だが……。
「んっとにくだらねぇよ! おまえもあいつらも! ばかばかしい!」
黒鋼は力が抜け切っていたのも嘘のように、思い切りペダルを踏み込んだ。再びファイが妙な悲鳴を上げる。不思議と足取りが軽い。気持ちも一緒に嘘のように軽くなって、それが妙に気恥ずかしかった。
「なんか安心しちゃったー、オレ」
ひたすら前を向いてペダルをこぎ続ける黒鋼の肩に、ファイが顎を乗せた。
「だってさー、黒りんと先輩がお付き合いとかしたら、もう一緒に帰ったり、遊んだりできないかと思ったー」
「んなこたねぇよ」
「ホントー?」
「俺が嘘ついたことあっか」
ファイは「んー」と小さく唸ってから、すぐに元気よく「ないよねー」と言った。耳元にかかる息がくすぐったくて、黒鋼は少しだけ笑う。
先のことはまだ分からないけれど。
例え大人になって、それぞれに大切な人が出来たとしても、黒鋼はファイと共にあるような気がした。いつかファイが黒鋼ではない誰かの手を取り、守られるのではなくて、守る側に回るのだとしても、それでも。
胸がチクリと痛んで、けれど気づかないふりをしているのは、自分がやっぱりまだ子供だから、なのだろうか。
でも、まぁいい。たくさんのことで頭の中がグルグルになったが、無事に今日も一日が終わった。
ファイが浮かれた調子であの鼻歌を口ずさむのを聞きながら、黒鋼は力いっぱい自転車のペダルをこいで家路を急ぐ。やけに気分がいい。すっかり覚えてしまったフレーズを、今日ばかりは黒鋼も一緒になって口ずさんだ。
←戻る ・ 次へ→
新しい生活にも、もうすっかり馴染んだ頃だった。
初めて顔を合わせるクラスメイトが多かった中、黒鋼とファイはクラスが分かれたものの、互いに上手くやっていた。
この辺りの地域からいっせいに子供達が集まっているおかげで、ここはファイに対して何の偏見も持たない人間の数の方が、圧倒的に勝っていた。ファイが新生活に苦労せず馴染み、他人ともそれなりに打ち解けている姿に、黒鋼はまるで我が子を見守るかのような安堵を覚えたものだった。
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「なぁなぁ、二年のあの凄い可愛い先輩、噂聞いたか?」
それは休み時間のちょっとしたひとコマだった。
席の近いものたちが、頼みもしないのに黒鋼を中心に囲むようにして集まり、グダグダと何事か話始める。小学生の頃もそうだったが、身体が大きく目立つ黒鋼の側には、なぜか自然とクラスメイトが集まってくる。
「あ、聞いた聞いた」
「なんか凄いよなー、な? 知ってるだろ? アレってマジなの?」
次の授業のための教材を机から取り出しつつ、特に会話に参加していなかった黒鋼に、一人の男子生徒が問いかけてくる。意味がわからず、思わず顔を顰めた。
「あ?」
「聞いてないし。つーか顔恐いって」
「うるせぇよ」
目つきが悪いのは生まれつきである。今更文句を言われてもどうしようもない。言うなら言うで、瓜二つの父に言って欲しいと思う。
「姫だよ姫。お姫様さー」
「姫だぁ? 知らねぇよそんなもん」
そう言うと、会話に参加していた男子達数人が「え!?」と驚愕の声を上げた。
黒鋼は眉間に深く皺を刻むと「なんだ?」と眼だけで問いかける。彼らがこれほど騒ぎ立てるほどに、その『お姫様』とやらは有名なのか。黒鋼は噂話の類には、どうも惹かれない性質だった。
それでは肝心な話が進まないと、一人の男子がご丁寧に説明してくれた。
姫、というのは通称であるらしい。
なんでも一つ上の先輩の女子がとんでもない美少女だとかで、全校生徒や教師達にまでそう呼ばれているのだと、男子生徒はなぜか己がことのように誇らしげに語った。
聞いた瞬間、あまりのどうでもよさに辟易とした。だがそんな黒鋼の耳に、次の瞬間予想もしなかった内容が飛び込んでくる。
「一組のさ、ほら、大道寺に懐いてる金髪で小さいの」
「?」
その話題の延長で、まさかファイの名前が出るとは欠片も思っていなかった黒鋼は、内心激しく躊躇した。
「……あいつがなんだよ?」
「なんだよ聞いてないの?」
「だからなんだってんだ」
僅かに苛立ちはじめた黒鋼に、皆が「顔こえー」とからかいを含む声を上げたが、すぐに話題は本題へと乗り上げてゆく。
「お姫様がさ、あのちっこいのと付き合ってるって噂、ホントかどうかお前なら知ってると思ってたのに」
「はぁ?」
そんなことは知らない。それ以前に、あまりに突然のことに黒鋼はまだ話の内容を飲み込めないでいた。
ファイとは登下校も一緒なら、休み時間だってしょっちゅう顔を合わせているが、そんな素振りもなければ、当然話題にも上らない。黒鋼はだんだん本格的に腹が立ってきて、「くだらねぇ」と吐き捨てた。
「そんなもん、ただの噂だろ」
「なーんだー」
やっぱガセか、と皆がどこか安堵したような表情で口々に呟くと、チャイムと共に噂話は終わりを告げた。
全くもって気分が悪い。授業が始まってもその苛立ちは治まらず、なかなか身が入らない。何が付き合っている、だ。ファイはまだ子供だ。同学年の黒鋼が言うのもおかしな話だが、ファイといると嫌でもそう感じてしまう。
だいたいそのような根も葉もない噂は、一体どこから立ち上ったものなのか。その出所は、それからすぐに知れることとなる。
*
黒鋼は剣道部、ファイは美術部に所属している。
放課後それぞれの活動が終われば、あとは連れ立って下校するだけだ。いつもは早めに終わったファイが体育館にひょっこりと顔を出すのに、その日は違った。
「長引いてんのか?」
体育館から校舎までの短い渡り廊下を、ヒヨコ色の頭を探しながら歩く。部活が長引いているなら、たまには自分が迎えに行ってやろうと、美術室のある一階校舎の奥を目指した。
窓の外からは夕陽が射し込んで、辺りを燃えるような橙色に染めていた。
ふと、人気のないはずの廊下で足を止める。前方に、目当ての金色を見つけたからだが、黒鋼はすぐに声をかけることができなかった。
なぜなら、そこにいたのはファイだけではなかったからだ。
「?」
セーラー服を着た、背の高い女子。黒鋼はその顔に覚えがなかった。長く艶やかな黒髪が腰の辺りまで伸びていて、凛とした横顔は少々気が強そうな印象を受けるが、ファイに優しく語り掛けているようだった。
放課後の人気のない廊下で親しげに話し込んでいる二人は、ファイが学ランさえ着ていなければ、下手をすれば少女同士の語らいにも見える。
もしかして、と黒鋼は思う。あれが噂の『姫』とやらではないか。なぜか心臓がドキリと飛び跳ねた。
夕陽に照らされて向き合う彼らの姿は、大袈裟な言い方をすれば、この世のものではないような気さえした。
凛とした美しい少女と、天使のように無垢な瞳をしたファイ。
長い黒髪が橙色を弾くように艶めき、淡い金色はその光を強く吸い込んで輝きを増していた。胸が刻む忙しない鼓動の意味が、黒鋼には分からなかった。この神がかった光景に対して? それとも、まさかあの噂は本当のことだったのかもしれないという、言いようの無い不安や苛立ちのせいか?
二人は向かい合って何か話し込んでいるようだが、内容はさっぱり聞き取れない。
姫の語り掛けに、にこやかだったファイの横顔が僅かに曇って俯いた。答えに窮しているよう様子のファイの肩に、姫がそっと手を置いた。
「ッ!」
見てはいけないものを見ている気がして、咄嗟にすぐ側の開け放たれている教室のドアに飛び込んだ。バクバクと飛び出しそうな勢いで心臓が跳ねている。額に冷たい汗が浮き上がった。
あれはなんだ?
この足元から崩れ落ちそうな感覚は?
ファイは子供だと思っていた。自分よりもずっと幼くて、無邪気な存在なのだと。男とか女とか、そんな話はまだ黒鋼も含めて早いはずだ。そんな風に当たり前のように思い込んでいた、こちらの方が子供だったのだろうか?
同時に黒鋼は、これまでファイを『男』として認識していなかったのだということに気がついた。もちろん『女』でもない。ファイは『ファイ』であり、他の何物でもないと。
それは絵本や漫画の中の登場人物へ対する認識とも、少し似ていたのかもしれない。同じ人間として見ていたかさえ危ぶまれる。例えば、そう、子猫だとかウサギだとか、そんな小さくて守ってやりたくなるような生き物。
そういうふうに考えていた自分をはっきりと自覚して、沈み込んでゆく感情に情けなさを感じた。
「黒たん? なにしてんのー?」
「っ!?」
そのとき、いきなり掛かった声に黒鋼はいよいよ本当に心臓が口から飛び出すかと思った。
見ればファイが廊下から教室へひょっこりと顔を出し、小さく首を傾げていた。大きな目は無邪気そのもので、黒鋼は真っ直ぐに目を合わせることが出来ず、そっぽを向いた。
「なんでもねぇよ」
「そお? ね、帰ろうよー。部活はもう終わったんだよねー?」
「お、おう……」
ファイに腕を引かれて廊下を出る。下駄箱に差し掛かったところで、またギクリとした。
「あ、先輩さよーならー!」
ぶんぶんと手を振るファイの視線の先には、先ほどの少女が丁度靴を履き終えたところだった。
ファイに手を振り返した姫は、黒鋼にも微笑んで小さく会釈した。その頬が僅かに赤い気がするのは夕陽のせいだと、自分に言い聞かせた。
*
行きとは違って、帰りはひたすら上り坂が続く。完全に日が沈む前に辿りつきたいのに、杉の木ばかりが目立つ景色はなかなか変わらなかった。
いつもはファイを乗せていても颯爽と行くはずのペダルが、今日はやけに重い。キシキシという音が、やけに不快なものに感じた。
先刻見てしまった出来事について、問い質すなんて野暮な真似は到底出来ない。そもそも見てしまったという事実に対する、奇妙な罪悪感も強かった。
「ねー、黒たん」
ずっと重苦しい沈黙を破れないままでいた黒鋼に、平素より僅かに沈んだファイが言葉を発した。なぜか予感めいたものがして、身体を強張らせる。
「……なんだ」
「あのね……オレ……」
「ま、待て」
「へ?」
黒鋼はひとつ大きく喉を鳴らした。これまでの自分は本当に愚かだった。ファイを小動物のように見るあまり、対等に扱ってすらいなかったのかもしれない。これでは彼を阻害する連中と同じではないか。
けれど黒鋼も男だ。己の非を潔く認めると同時に、たとえどんなにショックを受けようが、ファイの告白にエールを送ろう。
「おまえは……一人前の男だ……」
「え? うん、オレ男だよー」
「なら迷うんじゃねぇ……こういうとき、男ならシャキっとしろ」
「あ、うん。そうだよね……シャキッ」
「口で言うな、口で」
黒鋼の腹に回っている腕の力が強くなって、ファイが背中に強く頬を押し付けてくるのが分かった。胸が締め付けられたように苦しくなる。
「どうしてオレ、迷っちゃったのかな……なんかね、すごく変な感じなんだー……」
「……そうか」
「あのね、黒たんはさっきの先輩、好きー?」
「なんで俺に聞くんだ」
「答えて。あのね、好きっていうのはドラマとかで、よく男の人と女の人がちゅうするみたいな、そーゆう好きだからね」
そんなことは言われずとも承知している。だが、ファイは何を思ってそのような質問をぶつけてくるのだろうか。
勿論、姫に対して黒鋼にそういった特別な感情は皆無である。なにせその渾名も存在も、今日初めて知ったのだから。
「……好きって言ったら困るの、おまえじゃねぇのか」
「え……?」
背中からファイの頬が離れる。彼は暫しの間、言葉を失ってしまったようだった。
「おい」
「そう、なのかな……だから迷ってたのかなぁ?」
でもどうしてだろう、とファイは呆然としたように言った。それを聞きたいのはむしろ黒鋼の方なのだが、よくよく考えてみればこのような経験はファイにとっても初めてのことなのだから、戸惑うことは多々あるのかもしれない。
また、もしかすればファイの口ぶりや、廊下で見たあの戸惑ったような横顔から察するに、完全に付き合っているというわけではなく、あちらの方から告白を受けている段階なのだろうか、とも思った。
「俺は知らねぇよ……おまえがちゃんと答え出すのが筋ってもんだろ」
幾分か気遣うような、優しいトーンで言った。まだ混乱はしているし、なぜかやたらと胸の辺りも痛むけれど、ファイも彼女のことを憎からず思っているのだとしたら、しっかり祝福して応援してやろうと心に決める。
が、その矢先――。
「オレが考えたってわかんないよー。だってこれは先輩と黒りんの問題じゃないー?」
「…………あ?」
「あの先輩ね、美術部で一緒なんだー。すごく優しくしてくれて、よく一緒におしゃべりもするのね」
「……はぁ」
「でねー、さっき部活が終わってから、いつもみたいにおしゃべりしてたの」
「はぁ」
「そしたらね、先輩、黒るんのこと好きなんだって。ちゅうするみたいな好きですかーって聞いたらね、うんって言ったのー」
「は……?」
「オレ、いっつも黒ぷーと一緒だからね、聞いてってお願いされたの。好きな人はいますかーって」
「はあ!?」
咄嗟にブレーキをかけた。ファイが驚いて身をよろめかせ、黒鋼にぎゅうとしがみついた。
「ひゃー! 危ないよ黒わんこー!」
「お、おまえ……なんだよそりゃ……」
予想外だ。この期に及んで、まさか自分という存在が中心に引きずり出されるなんて、想像もしなかった。
「なんで俺なんだよ?」
これまでの迷いは、葛藤は、一体なんだったのか。黒鋼は黒鋼で、決死の思いでファイを応援するつもりでいたというのに。
「ねー? いる? 好きな子いるのー? 先輩のこと好きー?」
「いるわけねぇだろ!!」
大きな声が曲がりくねった山道に響き渡った。カアカアと、カラスが鳴きながら飛び去っていく。
目を見開いたファイと、くわっと鬼の形相で振り向いている黒鋼との間に、沈黙が流れる。が、すぐにファイのあっけらかんとした声がそれを破った。
「なーんだー! そっかー!」
えらく喜びだしたファイに、訳も分からず力が抜けた。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
休み時間にくだらない噂話に花を咲かせていたクラスメイト達ならば、きっと喜び勇むようなことなのかもしれない。なのに黒鋼には、欠片も興味が抱けなかった。
嬉しいどころか、なんてはた迷惑な話だろうかと、腹が立って仕方がない。姫には勿論、申し訳ない話だが……。
「んっとにくだらねぇよ! おまえもあいつらも! ばかばかしい!」
黒鋼は力が抜け切っていたのも嘘のように、思い切りペダルを踏み込んだ。再びファイが妙な悲鳴を上げる。不思議と足取りが軽い。気持ちも一緒に嘘のように軽くなって、それが妙に気恥ずかしかった。
「なんか安心しちゃったー、オレ」
ひたすら前を向いてペダルをこぎ続ける黒鋼の肩に、ファイが顎を乗せた。
「だってさー、黒りんと先輩がお付き合いとかしたら、もう一緒に帰ったり、遊んだりできないかと思ったー」
「んなこたねぇよ」
「ホントー?」
「俺が嘘ついたことあっか」
ファイは「んー」と小さく唸ってから、すぐに元気よく「ないよねー」と言った。耳元にかかる息がくすぐったくて、黒鋼は少しだけ笑う。
先のことはまだ分からないけれど。
例え大人になって、それぞれに大切な人が出来たとしても、黒鋼はファイと共にあるような気がした。いつかファイが黒鋼ではない誰かの手を取り、守られるのではなくて、守る側に回るのだとしても、それでも。
胸がチクリと痛んで、けれど気づかないふりをしているのは、自分がやっぱりまだ子供だから、なのだろうか。
でも、まぁいい。たくさんのことで頭の中がグルグルになったが、無事に今日も一日が終わった。
ファイが浮かれた調子であの鼻歌を口ずさむのを聞きながら、黒鋼は力いっぱい自転車のペダルをこいで家路を急ぐ。やけに気分がいい。すっかり覚えてしまったフレーズを、今日ばかりは黒鋼も一緒になって口ずさんだ。
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春を乗せてゆく
毎年、春が来る度に黒鋼はファイと出会ったあの日のことを思い出す。
世界が色を変えたあの日。夕暮れに染まる校庭と、光り輝く金色の髪に舞い落ちた桜の花弁。無邪気な笑顔と宝石のように美しい瞳。それは今でも色褪せることがない。
きっとこれからも、ずっと。
*
年代物のママチャリは、ペダルを漕ぐ度に微かにキシキシと音を立てていた。これは長いこと物置に片付けられていたもので、前籠は変形して歪んでいるし、水色の塗装は所々が剥がれて錆びている。
お父さんに新しいのを頼んでみたら? と、古びた自転車を引っ張り出してきた黒鋼に向かって母は言ったが、まだ動くからしまってあったものをわざわざゴミにしてしまうのは、自転車に悪い気がして断った。
新しいものでなくとも、ファイを後ろに乗せて走ることさえできれば、それで十分だと思ったからだ。
この春、黒鋼が入学する中学へは、山を下りて温泉街の方まで行かなければならなかった。
バスは朝と夕方にほんの数本だけ出ていたが、黒鋼はあの独特な香りがあまり好きではない。それに昔は友人達と連れ立って、よく自転車で温泉街にしかないコンビニなんかに遊びに行ったりもしていたから、山を下りると言ってもさほど距離があるようには感じられないのだった。
もっとも、当時黒鋼が乗り回していた自転車は一人用のマウンテンバイクで、子供用だったため、今はもう使えない。そこでこのママチャリの出番というわけである。
言ってしまえば徒歩でも差し障りはなかったが、身体の大きさを見れば分かるようにタフな黒鋼に比べて、どうも成長が遅れているらしいファイには、長距離を徒歩で通うのには無理がある。
過保護すぎだろ、などと自分に呆れながら自転車をこいでいると、ファイの住む団子屋敷まではあっという間だった。
甲高い音を立てながらブレーキをかけて停車すると、左目を白い眼帯で隠したファイが、ちょこちょこと歩いて坂道を下りて来ている最中だった。あの事件以来、彼は傷が残っているらしいその場所が人目に触れるのを嫌がっているようだった。
黒鋼の姿を見たファイは、大きな片方だけの眼をさらに大きく丸く見開いた。
「黒たん? あれー?」
「なんだよ」
「どうしたのー? お父さんとお母さんはー? その自転車どうしたのー? あ、黒たん制服似合ってるー! カッコいいよー!」
自転車を指差し、黒の学ランに身を包む黒鋼と交互に見やりながら、ファイは小走りに駆け寄ってくると、一気にまくしたてた。その落ち着きのない様子に思わず苦笑する。
「まとめて喋るなって……。親は先に行った。俺はおまえを迎えに来たんだろ。おまえんとこ、誰も来れないって言ってたじゃねぇか」
今日は中学校の入学式である。
だがファイの家は祖父の方はともかく、足腰の弱いあのばあさんは来られないという話を、事前に聞いていた。
片目の視力を失ったことで視界が狭くなってしまったファイは、ただでさえそそっかしいのに磨きがかかったような気がする。黒鋼が見ていてやらなければ、中学のある山の下までいちど転倒したが最後、そのままコロコロと転がってしまうのではないかなんて、ちょっと本気で心配だった。
だから両親とは別に、ファイを迎えにやって来たのだ。
父はそれなら車で迎えに行って、一緒に行けばいいだろうと言ってくれた。けれど、黒鋼はファイを両親に会わせることに抵抗を覚えていた。なんとなく照れ臭かったのだ。妹の面倒だってまともに見ない自分の、ファイを気遣う姿なんて、到底見せられたものではないと思った。
父も母も、きっとここぞとばかりにからかってくるに違いない……。
「びっくりしたー! ありがとう黒ぽん、オレうれしいー!」
ファイの嬉しそうな笑顔を見ると、やっぱり来てよかったと心底思った。丸一日かけて汚れを落としたり、錆びたチェーンに油をさしたり、手間暇かけた甲斐があるというものだ。過保護な上に、なんとも単純な自分の思考が情けないような気もしつつ、気分がよかった。
それにしても。
黒鋼は真新しい学ランに身を包むファイを見て、ついつい意地悪そうな笑みを作ってしまう。自転車に跨ったまま腕を組み、彼の頭の天辺から足の先までをじっくり観察した。
「おまえ、それぜんぜんサイズ合ってねぇな」
彼が着込んでいる制服は酷く袖が余っていて、内部では薄い身体が泳いでいるのが分かる。黒鋼の制服も勿論大きめに作られてはいるが、ファイの方が小柄なぶん、より目立つ。背も低く華奢なファイが、より一層小さく見えてしまってなんだか可笑しかった。
「あー、黒わんこがイジワル言ったー!」
ここ数年でさらに背が伸びた黒鋼に向かって、ファイは指をさしながら唇を尖らせた。
「仕方ねぇだろ、チビなんだから。あと俺は犬じゃねぇ」
「チビじゃないよー! ちゃんと伸びてるんだからーっ」
「そうは見えねぇけどなぁ」
黒鋼はファイの頭に手を置くと、綿菓子のような髪をグシャグシャに乱してやった。思いっきり馬鹿にされていることに「もうっ」という不満の声が洩れる。
「あのねー、おばあちゃんが、オレはこれからすっごく背が伸びるから、だから制服は大きく作らないとダメって言ったのー!」
そしたら黒たんより大きくなるかもよ、とファイは胸を張った。それだけは絶対にないだろうと思いつつ、黒鋼は緩く頬を撫ぜる風に顔を上げた。
すると、坂道の上の方に見送りに来ていたファイの大好きなおばあちゃんが、ニコニコ笑って手を振っている。唇が「ありがとう」という形に動いたけれど、その声は小さくて耳にまでは届かなかった。ファイがぶんぶんと大きく手を振った。
「おら、そろそろ行くから乗れ」
「う、うん!」
よろけそうになりながら後に跨ったファイが、黒鋼の背にぴったりとくっつく。
「掴まってろよ」
「はぁい!」
未だ少女のように甲高い声が威勢よく返事をして、細い腕が黒鋼の腹にぎゅうと回される。子供らしい高めの体温をぴったりと背中に感じると、少しだけ鼓動が早まった。黒鋼はそれをあまり深く考えないうちに「よし」と短く声を上げてペダルを踏み出す。
一瞬だけグラリとよろめいたが、そのまま勢いに乗って走りだす。すぐ背後で「ひゃぁ」という小さな悲鳴が聞こえた。
風を斬るようにして前へ前へ、春とはいえ冷たいそれが、スピードを上げていく二人分の身体を鋭く撫でた。
「お尻がイターイ!」
「わがまま言うんじゃねぇ。男なら我慢だ」
「うぅぅ……!」
ファイが腕に力を入れて、さらにぎゅうぎゅうと身体を密着させてくる。身体に受ける風は微かに冷たいけれど、背中に感じる体温は熱いくらいで心地よかった。その呼吸までもが直に肌に伝わって、胸がしきりに高鳴るのを感じる。
でもきっと、これは特別な意味があるわけではないのだ。
これからは、こうして二人で風を感じながら学校へ通うのだということ、新しい日々が始まったのだということ。これはそんなものへの期待がそうさせるのだと、心臓が弾むようなリズムを刻むたび、黒鋼はまるで言い訳のように心の中で呟いた。
風が運んでくる季節の香りや、陽の光を受ける草花、どこまでも広がる青々とした田んぼが色鮮やかに過ぎてゆく。見慣れた光景がやけに特別に思えて、黒鋼は弾む気持ちそのままにスピードを上げた。
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毎年、春が来る度に黒鋼はファイと出会ったあの日のことを思い出す。
世界が色を変えたあの日。夕暮れに染まる校庭と、光り輝く金色の髪に舞い落ちた桜の花弁。無邪気な笑顔と宝石のように美しい瞳。それは今でも色褪せることがない。
きっとこれからも、ずっと。
*
年代物のママチャリは、ペダルを漕ぐ度に微かにキシキシと音を立てていた。これは長いこと物置に片付けられていたもので、前籠は変形して歪んでいるし、水色の塗装は所々が剥がれて錆びている。
お父さんに新しいのを頼んでみたら? と、古びた自転車を引っ張り出してきた黒鋼に向かって母は言ったが、まだ動くからしまってあったものをわざわざゴミにしてしまうのは、自転車に悪い気がして断った。
新しいものでなくとも、ファイを後ろに乗せて走ることさえできれば、それで十分だと思ったからだ。
この春、黒鋼が入学する中学へは、山を下りて温泉街の方まで行かなければならなかった。
バスは朝と夕方にほんの数本だけ出ていたが、黒鋼はあの独特な香りがあまり好きではない。それに昔は友人達と連れ立って、よく自転車で温泉街にしかないコンビニなんかに遊びに行ったりもしていたから、山を下りると言ってもさほど距離があるようには感じられないのだった。
もっとも、当時黒鋼が乗り回していた自転車は一人用のマウンテンバイクで、子供用だったため、今はもう使えない。そこでこのママチャリの出番というわけである。
言ってしまえば徒歩でも差し障りはなかったが、身体の大きさを見れば分かるようにタフな黒鋼に比べて、どうも成長が遅れているらしいファイには、長距離を徒歩で通うのには無理がある。
過保護すぎだろ、などと自分に呆れながら自転車をこいでいると、ファイの住む団子屋敷まではあっという間だった。
甲高い音を立てながらブレーキをかけて停車すると、左目を白い眼帯で隠したファイが、ちょこちょこと歩いて坂道を下りて来ている最中だった。あの事件以来、彼は傷が残っているらしいその場所が人目に触れるのを嫌がっているようだった。
黒鋼の姿を見たファイは、大きな片方だけの眼をさらに大きく丸く見開いた。
「黒たん? あれー?」
「なんだよ」
「どうしたのー? お父さんとお母さんはー? その自転車どうしたのー? あ、黒たん制服似合ってるー! カッコいいよー!」
自転車を指差し、黒の学ランに身を包む黒鋼と交互に見やりながら、ファイは小走りに駆け寄ってくると、一気にまくしたてた。その落ち着きのない様子に思わず苦笑する。
「まとめて喋るなって……。親は先に行った。俺はおまえを迎えに来たんだろ。おまえんとこ、誰も来れないって言ってたじゃねぇか」
今日は中学校の入学式である。
だがファイの家は祖父の方はともかく、足腰の弱いあのばあさんは来られないという話を、事前に聞いていた。
片目の視力を失ったことで視界が狭くなってしまったファイは、ただでさえそそっかしいのに磨きがかかったような気がする。黒鋼が見ていてやらなければ、中学のある山の下までいちど転倒したが最後、そのままコロコロと転がってしまうのではないかなんて、ちょっと本気で心配だった。
だから両親とは別に、ファイを迎えにやって来たのだ。
父はそれなら車で迎えに行って、一緒に行けばいいだろうと言ってくれた。けれど、黒鋼はファイを両親に会わせることに抵抗を覚えていた。なんとなく照れ臭かったのだ。妹の面倒だってまともに見ない自分の、ファイを気遣う姿なんて、到底見せられたものではないと思った。
父も母も、きっとここぞとばかりにからかってくるに違いない……。
「びっくりしたー! ありがとう黒ぽん、オレうれしいー!」
ファイの嬉しそうな笑顔を見ると、やっぱり来てよかったと心底思った。丸一日かけて汚れを落としたり、錆びたチェーンに油をさしたり、手間暇かけた甲斐があるというものだ。過保護な上に、なんとも単純な自分の思考が情けないような気もしつつ、気分がよかった。
それにしても。
黒鋼は真新しい学ランに身を包むファイを見て、ついつい意地悪そうな笑みを作ってしまう。自転車に跨ったまま腕を組み、彼の頭の天辺から足の先までをじっくり観察した。
「おまえ、それぜんぜんサイズ合ってねぇな」
彼が着込んでいる制服は酷く袖が余っていて、内部では薄い身体が泳いでいるのが分かる。黒鋼の制服も勿論大きめに作られてはいるが、ファイの方が小柄なぶん、より目立つ。背も低く華奢なファイが、より一層小さく見えてしまってなんだか可笑しかった。
「あー、黒わんこがイジワル言ったー!」
ここ数年でさらに背が伸びた黒鋼に向かって、ファイは指をさしながら唇を尖らせた。
「仕方ねぇだろ、チビなんだから。あと俺は犬じゃねぇ」
「チビじゃないよー! ちゃんと伸びてるんだからーっ」
「そうは見えねぇけどなぁ」
黒鋼はファイの頭に手を置くと、綿菓子のような髪をグシャグシャに乱してやった。思いっきり馬鹿にされていることに「もうっ」という不満の声が洩れる。
「あのねー、おばあちゃんが、オレはこれからすっごく背が伸びるから、だから制服は大きく作らないとダメって言ったのー!」
そしたら黒たんより大きくなるかもよ、とファイは胸を張った。それだけは絶対にないだろうと思いつつ、黒鋼は緩く頬を撫ぜる風に顔を上げた。
すると、坂道の上の方に見送りに来ていたファイの大好きなおばあちゃんが、ニコニコ笑って手を振っている。唇が「ありがとう」という形に動いたけれど、その声は小さくて耳にまでは届かなかった。ファイがぶんぶんと大きく手を振った。
「おら、そろそろ行くから乗れ」
「う、うん!」
よろけそうになりながら後に跨ったファイが、黒鋼の背にぴったりとくっつく。
「掴まってろよ」
「はぁい!」
未だ少女のように甲高い声が威勢よく返事をして、細い腕が黒鋼の腹にぎゅうと回される。子供らしい高めの体温をぴったりと背中に感じると、少しだけ鼓動が早まった。黒鋼はそれをあまり深く考えないうちに「よし」と短く声を上げてペダルを踏み出す。
一瞬だけグラリとよろめいたが、そのまま勢いに乗って走りだす。すぐ背後で「ひゃぁ」という小さな悲鳴が聞こえた。
風を斬るようにして前へ前へ、春とはいえ冷たいそれが、スピードを上げていく二人分の身体を鋭く撫でた。
「お尻がイターイ!」
「わがまま言うんじゃねぇ。男なら我慢だ」
「うぅぅ……!」
ファイが腕に力を入れて、さらにぎゅうぎゅうと身体を密着させてくる。身体に受ける風は微かに冷たいけれど、背中に感じる体温は熱いくらいで心地よかった。その呼吸までもが直に肌に伝わって、胸がしきりに高鳴るのを感じる。
でもきっと、これは特別な意味があるわけではないのだ。
これからは、こうして二人で風を感じながら学校へ通うのだということ、新しい日々が始まったのだということ。これはそんなものへの期待がそうさせるのだと、心臓が弾むようなリズムを刻むたび、黒鋼はまるで言い訳のように心の中で呟いた。
風が運んでくる季節の香りや、陽の光を受ける草花、どこまでも広がる青々とした田んぼが色鮮やかに過ぎてゆく。見慣れた光景がやけに特別に思えて、黒鋼は弾む気持ちそのままにスピードを上げた。
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本格的に倉庫サイトとこちらの本館サイトを合併しました。
倉庫サイトで公開していた過去ジャンル作品は少しずつこちらに移行していきます。
ぜんぶ合わせるとどえらい数なので時間かかりますが、歴史の積み重ねを感じられて懐かしい気持ちと、よく書いたな~って気持ちとでしみじみしてしまいます。
あまりにも昔の作品なのでいっそぜんぶ修正したい気持ちもあるんですが、それやろうと思ったら精神と時の部屋が必要になってしまうので、あえて当時のままにしておきます…。あ、でも黒ファイで書いていた幼馴染パラレルは微妙にタイトル変えました。パラレルっていま言わないですよね。令和ナイズというやつです(?)
倉庫サイトで公開していた過去ジャンル作品は少しずつこちらに移行していきます。
ぜんぶ合わせるとどえらい数なので時間かかりますが、歴史の積み重ねを感じられて懐かしい気持ちと、よく書いたな~って気持ちとでしみじみしてしまいます。
あまりにも昔の作品なのでいっそぜんぶ修正したい気持ちもあるんですが、それやろうと思ったら精神と時の部屋が必要になってしまうので、あえて当時のままにしておきます…。あ、でも黒ファイで書いていた幼馴染パラレルは微妙にタイトル変えました。パラレルっていま言わないですよね。令和ナイズというやつです(?)
すべてを思いだしたとき、ぼくはただ呆然としていた。
瞬きも忘れて、震える両手で頭に触れる。そこにはふさふさの毛で覆われた、大きな耳の感触があった。
キャスケットはいつの間にか消えていた。ずっとかぶっていたはずなのに。そこにはなにもない。黒い猫の耳が生えているだけ。だってこの森に来た最初の日、あのキャスケットは風で飛ばされてしまったから。
「ぼくは……」
操が失くしたんじゃない。あれはぼくが失くしたんだ。たったひとつのキャスケット。操の形見だったのに。探しても探しても、見つからなかった。
「ぼくが、生き返らせたかったのは……」
操だ。ぼくの大好きなお母さん。たった一人の、お母さん。
操を失ってから、ぼくはずっと泣いていた。彼が最後に望んだ通り、その亡骸を家の裏に埋めてからも、ずっと。
何日も泣いて暮らして、やがて疲れ果てたとき、ふと鏡を見るとそこには操が映っていた。操の名前をもらったぼく。鏡に映る操の姿。いつしかぼくは、「操は生きている」と、自分に暗示をかけて痛みを紛らわすようになっていった。
町の人達のまじないは、操がいなくなってすぐに効果がなくなった。
キャスケットで耳を隠しながら生きるぼくのことを、みんなが当たり前のように『操』と呼んで接してくれた。なんだ、やっぱり操は生きてるんじゃないか。ぼくはいっそう強く、そう思い込むようになっていった。
だけどだんだん、ぼくには分からなくなっていった。操の名前で呼ばれるたびに、ぼくと操の境界が曖昧になっていく。そのうち記憶まで、操のものとごちゃ混ぜになってしまった。
ぼくと操は双子の兄弟。生まれたときからずっと一緒。羽佐間容子を母と慕って、愛されながら生きてきた。それがぼく。それがぼくたち、来主操。
いつからか、ぼくには鏡なんかなくても操の存在が見えるようになっていった。
そんなある日、町の人達が噂しているのをたまたま聞いた。遠い町のハズレの森に、死者を蘇らせる研究をしている魔法使いがいる、っていう話を。
ぼくらは大切な『お母さん』を亡くしてしまったばかりだった。操はいつも泣いていて、ぼくはその泣き顔を見ているのがつらかった。だったら、お母さんを取り戻せばいい。噂の魔法使いを探せば、その願いが叶うかもしれない。
だからぼくは──ぼくらは、旅立つ決心をした。
操と一緒に長い長い旅に出て、そうしてたどり着いたのがこの場所だった。博士と出会って、操と三人で暮らしていたはずの、この家に。
だけどここには、最初からぼくと博士しかいなかった。そのことに気がついてしまった。今この瞬間が、ぼくが見ていた夢と幻の終着点になった。
「ぼくは、クロノス」
雨の路地裏で、寂しくて泣いていた黒猫。操に拾われ、たくさんたくさん愛されて、ヒトの真似事をしながら生きていた。それがぼくの正体だ。
「博士は、最初から知ってたんだね。ぼくのこと」
いまいち焦点が合わない瞳をさまよわせる。博士は深く息をついた。
「厄介なのが来たと思ったよ。人に化ける使い魔はいるけど、それにしてはあまりにも中途半端だったしね」
そりゃあそうだと、ぼくは思った。だってぼくは使い魔じゃない。ただの猫なんだから。博士からしたら、突然やってきた人間モドキが訳の分からないことをまくし立てていたのだから、勝手に思考を覗くしか手はなかったんだろう。
あのとき博士は、ごちゃ混ぜになったぼくと操の記憶を読んだ。この人はとても頭がいいから、幾つかの断片に触れるだけで十分だったんだ。だからすべてを知っていた。ぼくが壊れていたことも。
「知ってたのに、どうして黙ってたの? オレンジジュースだって、操のために買ってくれたんだと思ってた」
博士は、ぼくの奇妙な振る舞いを見てどう感じていたんだろう。誰もいない場所に向かって話しかけたり、笑ったりなんかしちゃってさ。
「君の安寧がそこにあるなら、壊す理由が俺にはなかった。最初はすぐに諦めて、出ていくだろうと思っていたしね。オレンジジュースは、君が欲しがったから買った。それだけだ」
「ぼくが……?」
ああ、そっか。そうだった。あのときぼくは言ったんだ。コーヒーを飲んで苦い顔をしていた操を笑いながら、
──操はコーヒーが苦手みたい。見てよこの顔! ねぇ博士、ジュースはないの? オレンジジュースがいいな! 操もそれなら飲めるでしょ?
って、そう言ったんだ。
あのとき博士は、ただ黙ってぼくを見守っていた。誰もいない空間に笑いかけるぼくのことを、否定も肯定もしないまま。
「そっか……そうだったんだ……」
ぼくは笑っていた。笑いながら、涙が溢れだすのを止められなかった。バカみたいだ。ずっと一人だったのに。操はもうどこにもいないのに。それを受け入れられなくて、自分で自分に、呪いみたいな暗示をかけて。
博士は泣いているぼくを見て、痛いのを我慢してるみたいな顔をした。そしてぼくのことを引き寄せて、強く抱きしめると「ごめん」と言った。
「暗示を解いたのは、俺のエゴだよ。俺もいい加減、夢から醒めなくちゃいけない。だから本当の君と、ちゃんと向き合って話がしたいと思った」
「夢から、さめる……?」
「腹を括るってことだよ」
そう言って、博士はひとつ大きな息をはきだした。そして、言った。
「俺は、君の願いを叶えてやれない」
それはぼくが何度も博士に投げかけていた問いへの答えだった。死者を蘇らせる奇跡の魔法。そんなものは、決して完成しないってこと。不可能だってこと。
博士の口からはっきりと告げられても、ぼくはちっとも驚かなかった。どこかでは分かっていたんだと思う。博士に肯定してほしくて泣いていたあの夜のぼくは、操の幻と一緒に消えていた。
「もうずいぶん前から、分かっていたことなんだ」
あるいは最初から──博士はそう付け加えると吐く息を震わせた。もうとっくの昔から、博士はちゃんと気づいてたんだ。なのに研究を続けてた。森の奥でずっと孤独に、町の人たちに笑われながら。
「分かってたのに、どうして研究を続けていたの?」
「……願いを捨てられなかったから」
博士は少しだけ身体を離すと、ぼくの瞳を覗き込む。
「翔子を、過去にしたくなかった」
──翔子。
ぼくは写真立てで笑っていた女の子のことを思いだした。羽佐間容子の大切な一人娘。操にとっては、会ったことのないお姉ちゃんのような存在。
博士が蘇らせたかったのは彼女だったのだと知って、ぼくは驚いた。
「翔子とは幼馴染だった。ずっと好きだった。だから取り戻したくて、必ず完成させるつもりで研究していた。だけど、どうしたって不可能だってことはすぐに分かったよ。どれほど足掻こうとも、同じ命は二度と生み出せない」
ぼくの肩をすっぽりと包み込む博士の手に、ぐっと力が込められていた。博士は淡々と言うけれど、そこから痛いほど伝わってくる。悔しさだとか、虚しさだとか、恋しさだとか。
たくさんの痛みがぼくのなかに流れ込み、やがて受け止めきれないものが次から次へと溢れてく。
一緒だ。ぼくと一緒。諦めたくなかった。もういちど会いたかった。大切なひとの笑顔が見たかった。ただそれだけだったんだ。
「博士……博士ぇ……うわあぁぁ……っ」
ぼくは博士に縋りつき、子供みたいに大声で泣きじゃくった。
操は二度と戻ってこない。羽佐間容子も、翔子も。ショコラだってそうだ。それでもぼくは操が笑顔で逝ったことを、どうしても受け入れたくなかった。
だから目を背けた。ぼくも博士も。捨てきれない願いに足掻くことが、生きる理由になっていた。
だけどぼくはここに来て、今の暮らしに満足しはじめていた。朝は一緒にコーヒーを飲んで、博士のためにご飯を作って、掃除をして、お使いをして、夜はふたりで月を見上げて、ささやかなキスをして。
そんな毎日の繰り返しを幸せだと感じるたびに、ぼくが見ていた幻の操は苦しそうな顔をした。あれはぼくの、もう一つの心の形だったんだ。幸福だと思うほど、ぼくはぼくが許せなかった。操を過去にしようとしている、自分のことが許せなかった。
──ずっと空で見てるから……幸せになって、操。
操は最期に言ったのに。ぼくに幸せになれって。そう願ってくれていたのに。
だからぼくも博士と同じだ。いい加減、腹を括らなきゃいけない。
操を失くしたまま、翔子を失くしたまま、それでもぼくらは生きなきゃならない。共に歩いていきたいと、そう思える存在に出会えたから。
ぼくの中で、それは新しい『希望』になった。
博士は泣いてばかりいるぼくを、いつまでも抱きしめてくれた。だけどだんだん泣き疲れて、しゃくりが小さくなってくると、ぼくの頬に触れて上向かせた。
「魔法は完成しない。だけど君にかかった魔法は、いつか解くことができるかもしれない。時間はかかると思うけど」
博士の言葉に、ぼくはゆっくりと首を横に振った。
「この魔法は、操がくれた宝物なんだ。だからこのまま生きてくよ。それに、猫の姿じゃ博士のお世話ができないもん」
たくさん泣いてしまったことが気恥ずかしくて、照れ笑いを浮かべながら言ったぼくに、博士も笑うと「そっか」と言った。
操に拾われた黒猫の姿も、クロノスという名前も、大切なぼくだけの宝物であることに変わりはない。この未完の魔法が、いつまで続くかも分からないけど。
それまでは、まるで双子みたいに操そっくりのぼくでいたい。そう思ったから。
*
「わぁ……きれいな空……!」
宝石のようにキラキラとした日差しに、どこまでも広がる深い青。散りばめられた雲の波間を、小鳥たちが泳いでる。気持ちよさそうだなと思いながら、ぼくはそっと瞳をすがめた。
思わず立ち止まって見とれていたけど、ぐぅっとお腹が鳴って気がついた。太陽は真上にある。つまり昼食の時間だ。最近、木の実を使ってジャムを作れるようになったから、焼いたパンに塗って食べよう。
ぼくはウキウキしながら帰りを急いだ。オバケ森のずっと奥。古びた家の煙突からは、今日もモクモクと煙が上がってる。
「甲洋、ただいまー! ねぇ見て! おっきなヘビを捕まえたよ!」
帰宅したぼくは、肩に担いでいた大袋を床に置いた。中には巨大な蛇が入ってる。もちろん今夜のご飯だ。これを料理して、残りは干し肉にするつもり。
騒がしく帰宅したぼくを、奥の研究部屋から姿を現した甲洋が「おかえり」と言って出迎えてくれた。だけどその顔は明らかに曇ってる。
「あのさ来主、肉が食べたいなら溝口さんに頼むから……鶏とか豚とか、無難なやつをさ……だからわざわざ捕まえてこなくても……」
「なんで? 自分の獲物は自分で狩らなきゃ、ありがたみがないでしょ?」
「そういうとこ猫なんだよな、お前って……」
「君だって虫とかトカゲとか入れてお薬作るじゃん」
「俺が飲んだり塗ったりするわけじゃないし」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ!」
甲洋がおっきな溜息をついた。いつもこういう反応をするくせに、料理したものは必ず残さず食べてくれる。だから嬉しくてついがんばっちゃうんだ。
一人の頃はまともに食べてなかったみたいだけど、ぼくがいるからにはそうはさせない。愛情いっぱいの手料理を食べて、いつも元気でいてもらわなきゃ。
「もしぼくに子供がいたら、こんな気分なのかな?」
「なにか言った?」
横目で睨まれて、ぼくは笑って誤魔化した。
「それより、ちゃんとキノコや葉っぱも採ってきたよ! これで足りる?」
ヘビが入った袋の他に、ぼくはもうひとつ手に持っていたバスケットをテーブルの上に置くと蓋を開けた。甲洋が覗き込んできて、「十分だ」と言いながらぼくの頭を黒い耳ごとくしゃっと撫でる。それが嬉しくて、ダボダボのオーバーオールの中で太ももに巻きつけているしっぽが跳ねた。
「ありがとう、来主」
「うん! これでお仕事と研究、がんばってね!」
甲洋は相変わらず熱心に研究を続けてる。例の疫病を封じるための、特効薬の研究だ。かなり前から並行して続けていたらしいけど、今はそれ一本になっていた。
甲洋なら、いつか必ず完成させるって信じてる。だからぼくはそれまでずっと、それからもずっと、甲洋の弟子見習いでいるつもり。いつまで見習いなのかは知らないけど、まぁいっか。
「ああ、そうだ」
バスケットを持ってまた奥の部屋に引っ込もうとしていた甲洋が、思いだしたようにクルリと振り向いて、ぼくのそばまでやってきた。黒いローブの中をごそごそとまさぐって、取り出したものをぼくの頭にポンとかぶせる。
「え? 博士、これって……!」
それは風に飛ばされて失くしたはずの、操の形見のキャスケットだった。どんなに探しても見つからなかったのに。それがどうして?
両手を頭にやってキャスケットに触れながら、目をまんまるにするぼくを見て甲洋が微笑む。
「ついさっきね。見つけたよ」
「ど、どこで!?」
「ショコラのお墓で」
甲洋がいつもいる奥の部屋の窓からは、ショコラのお墓がよく見える。ぼくがお使いと狩りに出かけているあいだ、ふと窓の外に目をやった甲洋は、そこにキャスケットがあるのを見つけた。細い丸太を組んで作った十字架の頭に、それは引っかかっていた。
ぼくはキャスケットを外すと、まじまじと見下ろした。もう諦めるしかないって思っていたから、嬉しすぎて涙がにじむ。胸が熱くて、ジンジンしていた。
「ショコラが見つけてくれたのかな?」
森のなかで迷子になっていた操のキャスケット。ショコラが探して、風に乗せて届けてくれたのかもしれない。そうだったらいいなって、ぼくは思った。
「きっとね」
博士はそう言って、ぼくの頬に触れると身を屈めた。ぼくは軽く背伸びをしながら目を閉じる。そっと優しく、唇同士が触れ合った。もっとしていたいのに、キスは一瞬で終わってしまう。次にするのはまた今夜、大きな月を見上げるベンチで。
待ち遠しくて、熱っぽい息がほぅっと漏れる。甲洋の頬もうっすら赤い。照れくさそうに目を逸らす仕草に、ぼくはちょっぴり笑ってしまう。幸せだなって、心からそう思った。
──あのね、操。
恥ずかしいから、本当は秘密にしておきたいけど。
君はきっと、空からずっと見ていたよね。ぼくが初めて恋をしたこと。
今なら信じられる気がするよ。そこに君がいることを。だからもう、空を見ても悲しくないんだ。
君はお母さんに会えたかな。翔子もショコラも、きっとそこにいるんだね。
だからさよなら、お母さん。
さよなら、ぼくらの愛しい人たち。大好きな人たち。
いつかきっと、また会う日まで。
これからもそこで見ていてほしい。ぼくと、ぼくの大切な人のこと。
ぼくらはゆっくり、歩いていくから。
胸いっぱいに好きが溢れて、ぼくは操のキャスケットを優しく胸に抱き寄せた。
博士とクロノス / 了
←戻る ・ Wavebox👏→
瞬きも忘れて、震える両手で頭に触れる。そこにはふさふさの毛で覆われた、大きな耳の感触があった。
キャスケットはいつの間にか消えていた。ずっとかぶっていたはずなのに。そこにはなにもない。黒い猫の耳が生えているだけ。だってこの森に来た最初の日、あのキャスケットは風で飛ばされてしまったから。
「ぼくは……」
操が失くしたんじゃない。あれはぼくが失くしたんだ。たったひとつのキャスケット。操の形見だったのに。探しても探しても、見つからなかった。
「ぼくが、生き返らせたかったのは……」
操だ。ぼくの大好きなお母さん。たった一人の、お母さん。
操を失ってから、ぼくはずっと泣いていた。彼が最後に望んだ通り、その亡骸を家の裏に埋めてからも、ずっと。
何日も泣いて暮らして、やがて疲れ果てたとき、ふと鏡を見るとそこには操が映っていた。操の名前をもらったぼく。鏡に映る操の姿。いつしかぼくは、「操は生きている」と、自分に暗示をかけて痛みを紛らわすようになっていった。
町の人達のまじないは、操がいなくなってすぐに効果がなくなった。
キャスケットで耳を隠しながら生きるぼくのことを、みんなが当たり前のように『操』と呼んで接してくれた。なんだ、やっぱり操は生きてるんじゃないか。ぼくはいっそう強く、そう思い込むようになっていった。
だけどだんだん、ぼくには分からなくなっていった。操の名前で呼ばれるたびに、ぼくと操の境界が曖昧になっていく。そのうち記憶まで、操のものとごちゃ混ぜになってしまった。
ぼくと操は双子の兄弟。生まれたときからずっと一緒。羽佐間容子を母と慕って、愛されながら生きてきた。それがぼく。それがぼくたち、来主操。
いつからか、ぼくには鏡なんかなくても操の存在が見えるようになっていった。
そんなある日、町の人達が噂しているのをたまたま聞いた。遠い町のハズレの森に、死者を蘇らせる研究をしている魔法使いがいる、っていう話を。
ぼくらは大切な『お母さん』を亡くしてしまったばかりだった。操はいつも泣いていて、ぼくはその泣き顔を見ているのがつらかった。だったら、お母さんを取り戻せばいい。噂の魔法使いを探せば、その願いが叶うかもしれない。
だからぼくは──ぼくらは、旅立つ決心をした。
操と一緒に長い長い旅に出て、そうしてたどり着いたのがこの場所だった。博士と出会って、操と三人で暮らしていたはずの、この家に。
だけどここには、最初からぼくと博士しかいなかった。そのことに気がついてしまった。今この瞬間が、ぼくが見ていた夢と幻の終着点になった。
「ぼくは、クロノス」
雨の路地裏で、寂しくて泣いていた黒猫。操に拾われ、たくさんたくさん愛されて、ヒトの真似事をしながら生きていた。それがぼくの正体だ。
「博士は、最初から知ってたんだね。ぼくのこと」
いまいち焦点が合わない瞳をさまよわせる。博士は深く息をついた。
「厄介なのが来たと思ったよ。人に化ける使い魔はいるけど、それにしてはあまりにも中途半端だったしね」
そりゃあそうだと、ぼくは思った。だってぼくは使い魔じゃない。ただの猫なんだから。博士からしたら、突然やってきた人間モドキが訳の分からないことをまくし立てていたのだから、勝手に思考を覗くしか手はなかったんだろう。
あのとき博士は、ごちゃ混ぜになったぼくと操の記憶を読んだ。この人はとても頭がいいから、幾つかの断片に触れるだけで十分だったんだ。だからすべてを知っていた。ぼくが壊れていたことも。
「知ってたのに、どうして黙ってたの? オレンジジュースだって、操のために買ってくれたんだと思ってた」
博士は、ぼくの奇妙な振る舞いを見てどう感じていたんだろう。誰もいない場所に向かって話しかけたり、笑ったりなんかしちゃってさ。
「君の安寧がそこにあるなら、壊す理由が俺にはなかった。最初はすぐに諦めて、出ていくだろうと思っていたしね。オレンジジュースは、君が欲しがったから買った。それだけだ」
「ぼくが……?」
ああ、そっか。そうだった。あのときぼくは言ったんだ。コーヒーを飲んで苦い顔をしていた操を笑いながら、
──操はコーヒーが苦手みたい。見てよこの顔! ねぇ博士、ジュースはないの? オレンジジュースがいいな! 操もそれなら飲めるでしょ?
って、そう言ったんだ。
あのとき博士は、ただ黙ってぼくを見守っていた。誰もいない空間に笑いかけるぼくのことを、否定も肯定もしないまま。
「そっか……そうだったんだ……」
ぼくは笑っていた。笑いながら、涙が溢れだすのを止められなかった。バカみたいだ。ずっと一人だったのに。操はもうどこにもいないのに。それを受け入れられなくて、自分で自分に、呪いみたいな暗示をかけて。
博士は泣いているぼくを見て、痛いのを我慢してるみたいな顔をした。そしてぼくのことを引き寄せて、強く抱きしめると「ごめん」と言った。
「暗示を解いたのは、俺のエゴだよ。俺もいい加減、夢から醒めなくちゃいけない。だから本当の君と、ちゃんと向き合って話がしたいと思った」
「夢から、さめる……?」
「腹を括るってことだよ」
そう言って、博士はひとつ大きな息をはきだした。そして、言った。
「俺は、君の願いを叶えてやれない」
それはぼくが何度も博士に投げかけていた問いへの答えだった。死者を蘇らせる奇跡の魔法。そんなものは、決して完成しないってこと。不可能だってこと。
博士の口からはっきりと告げられても、ぼくはちっとも驚かなかった。どこかでは分かっていたんだと思う。博士に肯定してほしくて泣いていたあの夜のぼくは、操の幻と一緒に消えていた。
「もうずいぶん前から、分かっていたことなんだ」
あるいは最初から──博士はそう付け加えると吐く息を震わせた。もうとっくの昔から、博士はちゃんと気づいてたんだ。なのに研究を続けてた。森の奥でずっと孤独に、町の人たちに笑われながら。
「分かってたのに、どうして研究を続けていたの?」
「……願いを捨てられなかったから」
博士は少しだけ身体を離すと、ぼくの瞳を覗き込む。
「翔子を、過去にしたくなかった」
──翔子。
ぼくは写真立てで笑っていた女の子のことを思いだした。羽佐間容子の大切な一人娘。操にとっては、会ったことのないお姉ちゃんのような存在。
博士が蘇らせたかったのは彼女だったのだと知って、ぼくは驚いた。
「翔子とは幼馴染だった。ずっと好きだった。だから取り戻したくて、必ず完成させるつもりで研究していた。だけど、どうしたって不可能だってことはすぐに分かったよ。どれほど足掻こうとも、同じ命は二度と生み出せない」
ぼくの肩をすっぽりと包み込む博士の手に、ぐっと力が込められていた。博士は淡々と言うけれど、そこから痛いほど伝わってくる。悔しさだとか、虚しさだとか、恋しさだとか。
たくさんの痛みがぼくのなかに流れ込み、やがて受け止めきれないものが次から次へと溢れてく。
一緒だ。ぼくと一緒。諦めたくなかった。もういちど会いたかった。大切なひとの笑顔が見たかった。ただそれだけだったんだ。
「博士……博士ぇ……うわあぁぁ……っ」
ぼくは博士に縋りつき、子供みたいに大声で泣きじゃくった。
操は二度と戻ってこない。羽佐間容子も、翔子も。ショコラだってそうだ。それでもぼくは操が笑顔で逝ったことを、どうしても受け入れたくなかった。
だから目を背けた。ぼくも博士も。捨てきれない願いに足掻くことが、生きる理由になっていた。
だけどぼくはここに来て、今の暮らしに満足しはじめていた。朝は一緒にコーヒーを飲んで、博士のためにご飯を作って、掃除をして、お使いをして、夜はふたりで月を見上げて、ささやかなキスをして。
そんな毎日の繰り返しを幸せだと感じるたびに、ぼくが見ていた幻の操は苦しそうな顔をした。あれはぼくの、もう一つの心の形だったんだ。幸福だと思うほど、ぼくはぼくが許せなかった。操を過去にしようとしている、自分のことが許せなかった。
──ずっと空で見てるから……幸せになって、操。
操は最期に言ったのに。ぼくに幸せになれって。そう願ってくれていたのに。
だからぼくも博士と同じだ。いい加減、腹を括らなきゃいけない。
操を失くしたまま、翔子を失くしたまま、それでもぼくらは生きなきゃならない。共に歩いていきたいと、そう思える存在に出会えたから。
ぼくの中で、それは新しい『希望』になった。
博士は泣いてばかりいるぼくを、いつまでも抱きしめてくれた。だけどだんだん泣き疲れて、しゃくりが小さくなってくると、ぼくの頬に触れて上向かせた。
「魔法は完成しない。だけど君にかかった魔法は、いつか解くことができるかもしれない。時間はかかると思うけど」
博士の言葉に、ぼくはゆっくりと首を横に振った。
「この魔法は、操がくれた宝物なんだ。だからこのまま生きてくよ。それに、猫の姿じゃ博士のお世話ができないもん」
たくさん泣いてしまったことが気恥ずかしくて、照れ笑いを浮かべながら言ったぼくに、博士も笑うと「そっか」と言った。
操に拾われた黒猫の姿も、クロノスという名前も、大切なぼくだけの宝物であることに変わりはない。この未完の魔法が、いつまで続くかも分からないけど。
それまでは、まるで双子みたいに操そっくりのぼくでいたい。そう思ったから。
*
「わぁ……きれいな空……!」
宝石のようにキラキラとした日差しに、どこまでも広がる深い青。散りばめられた雲の波間を、小鳥たちが泳いでる。気持ちよさそうだなと思いながら、ぼくはそっと瞳をすがめた。
思わず立ち止まって見とれていたけど、ぐぅっとお腹が鳴って気がついた。太陽は真上にある。つまり昼食の時間だ。最近、木の実を使ってジャムを作れるようになったから、焼いたパンに塗って食べよう。
ぼくはウキウキしながら帰りを急いだ。オバケ森のずっと奥。古びた家の煙突からは、今日もモクモクと煙が上がってる。
「甲洋、ただいまー! ねぇ見て! おっきなヘビを捕まえたよ!」
帰宅したぼくは、肩に担いでいた大袋を床に置いた。中には巨大な蛇が入ってる。もちろん今夜のご飯だ。これを料理して、残りは干し肉にするつもり。
騒がしく帰宅したぼくを、奥の研究部屋から姿を現した甲洋が「おかえり」と言って出迎えてくれた。だけどその顔は明らかに曇ってる。
「あのさ来主、肉が食べたいなら溝口さんに頼むから……鶏とか豚とか、無難なやつをさ……だからわざわざ捕まえてこなくても……」
「なんで? 自分の獲物は自分で狩らなきゃ、ありがたみがないでしょ?」
「そういうとこ猫なんだよな、お前って……」
「君だって虫とかトカゲとか入れてお薬作るじゃん」
「俺が飲んだり塗ったりするわけじゃないし」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ!」
甲洋がおっきな溜息をついた。いつもこういう反応をするくせに、料理したものは必ず残さず食べてくれる。だから嬉しくてついがんばっちゃうんだ。
一人の頃はまともに食べてなかったみたいだけど、ぼくがいるからにはそうはさせない。愛情いっぱいの手料理を食べて、いつも元気でいてもらわなきゃ。
「もしぼくに子供がいたら、こんな気分なのかな?」
「なにか言った?」
横目で睨まれて、ぼくは笑って誤魔化した。
「それより、ちゃんとキノコや葉っぱも採ってきたよ! これで足りる?」
ヘビが入った袋の他に、ぼくはもうひとつ手に持っていたバスケットをテーブルの上に置くと蓋を開けた。甲洋が覗き込んできて、「十分だ」と言いながらぼくの頭を黒い耳ごとくしゃっと撫でる。それが嬉しくて、ダボダボのオーバーオールの中で太ももに巻きつけているしっぽが跳ねた。
「ありがとう、来主」
「うん! これでお仕事と研究、がんばってね!」
甲洋は相変わらず熱心に研究を続けてる。例の疫病を封じるための、特効薬の研究だ。かなり前から並行して続けていたらしいけど、今はそれ一本になっていた。
甲洋なら、いつか必ず完成させるって信じてる。だからぼくはそれまでずっと、それからもずっと、甲洋の弟子見習いでいるつもり。いつまで見習いなのかは知らないけど、まぁいっか。
「ああ、そうだ」
バスケットを持ってまた奥の部屋に引っ込もうとしていた甲洋が、思いだしたようにクルリと振り向いて、ぼくのそばまでやってきた。黒いローブの中をごそごそとまさぐって、取り出したものをぼくの頭にポンとかぶせる。
「え? 博士、これって……!」
それは風に飛ばされて失くしたはずの、操の形見のキャスケットだった。どんなに探しても見つからなかったのに。それがどうして?
両手を頭にやってキャスケットに触れながら、目をまんまるにするぼくを見て甲洋が微笑む。
「ついさっきね。見つけたよ」
「ど、どこで!?」
「ショコラのお墓で」
甲洋がいつもいる奥の部屋の窓からは、ショコラのお墓がよく見える。ぼくがお使いと狩りに出かけているあいだ、ふと窓の外に目をやった甲洋は、そこにキャスケットがあるのを見つけた。細い丸太を組んで作った十字架の頭に、それは引っかかっていた。
ぼくはキャスケットを外すと、まじまじと見下ろした。もう諦めるしかないって思っていたから、嬉しすぎて涙がにじむ。胸が熱くて、ジンジンしていた。
「ショコラが見つけてくれたのかな?」
森のなかで迷子になっていた操のキャスケット。ショコラが探して、風に乗せて届けてくれたのかもしれない。そうだったらいいなって、ぼくは思った。
「きっとね」
博士はそう言って、ぼくの頬に触れると身を屈めた。ぼくは軽く背伸びをしながら目を閉じる。そっと優しく、唇同士が触れ合った。もっとしていたいのに、キスは一瞬で終わってしまう。次にするのはまた今夜、大きな月を見上げるベンチで。
待ち遠しくて、熱っぽい息がほぅっと漏れる。甲洋の頬もうっすら赤い。照れくさそうに目を逸らす仕草に、ぼくはちょっぴり笑ってしまう。幸せだなって、心からそう思った。
──あのね、操。
恥ずかしいから、本当は秘密にしておきたいけど。
君はきっと、空からずっと見ていたよね。ぼくが初めて恋をしたこと。
今なら信じられる気がするよ。そこに君がいることを。だからもう、空を見ても悲しくないんだ。
君はお母さんに会えたかな。翔子もショコラも、きっとそこにいるんだね。
だからさよなら、お母さん。
さよなら、ぼくらの愛しい人たち。大好きな人たち。
いつかきっと、また会う日まで。
これからもそこで見ていてほしい。ぼくと、ぼくの大切な人のこと。
ぼくらはゆっくり、歩いていくから。
胸いっぱいに好きが溢れて、ぼくは操のキャスケットを優しく胸に抱き寄せた。
博士とクロノス / 了
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ここに来てそろそろ二ヶ月。ぼくらのお手伝い生活も、だいぶ板についてきた。
家事も手際よくこなせるようになってきたし、料理の腕だって上達してきたと思う。少なくともスープの味付けを失敗したり、パンを焦がすことはなくなった。
それでもぼくらはまだ、正式に弟子としては認められていない。本当に、ただの住み込みのお手伝いさんって感じだ。
だけどもしちゃんと弟子になれたとしても、今とやることは変わらないような気がしてる。だってぼくは魔法のことよく知らないし、あまり興味もなかったし、魔術書に書かれている文字なんか、ミミズが踊ってるようにしか見えないもん。
でも、今のままでもそれなりに役には立ててると思う。ほこりっぽかった家の中はいつもピカピカに掃除してるし、研究や薬を作るための材料集めだって、ぼくらの仕事だ。博士はそのぶん、研究に没頭できるんだから。
最近はちょっとだけ──本当にちょっとだけなんだけど、ここでの暮らしもいいなって思うようになったんだ。
操がいて、博士がいて、ぼくがいる。お母さんと暮らしていた頃も幸せだったし、お母さんにまた会いたいって気持ちは変わらないけど、今は今で、けっこう楽しい。それに──。
ぼくと博士は、あれからときどき内緒のキスをするようになっていた。場所は決まってあの玄関脇のベンチで、時間は深夜。別に約束してるわけじゃない。ぼくはあの夜からこっそり屋根裏部屋を抜け出して、ベンチに座って夜空を眺めるのが習慣になっていた。
するとショコラのお墓参りを終えた博士がやってきて、ぼくの隣に座るんだ。そこでぼくと博士は、ぽつりぽつりと言葉を交わす。明日のご飯は何にしようとか、森で見つけた不思議な虫や植物のこととか。
何気ないことばかりだけど、博士と話せる時間が嬉しくて、ぼくはいつの間にか博士にぴったりくっついている。なんでかな。二人きりでいると、どうしてか博士に甘えたいような気分になってしまう。
変だなって自分でも思うけど、博士は黙ってぼくの好きにさせてくれる。そうするといつの間にか会話が途切れて、ぼくらはどこかぼうっとしながら見つめ合う。
博士がぼくの頬に触れて、そっと顔を近づけてくると、ぼくは自然と目を閉じる。唇が重なり合うと、頭の中が痺れたみたいになって気持ちよかった。
そのたびにぼくは、ずっと博士とこうしていたいって、そんなふうに思うようになっていた。
*
「操、ここはもういいから、次は裏庭に行こうよ」
その日、ぼくらは朝から家の前で草むしりをしていた。
むしった草を一ヶ所にまとめ終えて振り返ると、操はしゃがみこんだまま手を止めて、ぼーっとしながら地面を見つめている。
「ねぇ操ってば。聞いてる?」
「……あ、ごめん。なにか言った?」
「操……」
ぼくはふっと息をつきながら操のそばまで行くと、かぶっていたキャスケットを脱いでその頭にかぶせようとした。だけど、操はそれを手で遮って首を横に振る。
「操?」
「いい。それは操のものだから」
「ぼくだけのじゃないよ。これは二人の」
「いいんだ。おれにはもう必要ない」
「なんで? なんでそんなこと言うの……?」
ぼくは操に拒まれたことにショックを受けていた。今までこんなことはなかったし、操の様子はいつもと明らかに違ってる。だけど本当は分かってた。操の不安な気持ちが、少しずつ苛立ちに変わってきてるってこと。
博士の研究は相変わらずだ。いつも失敗ばかりしている。そのたんびに、操の表情が曇る回数も増えていた。ぼくもその気持ちはわかってるつもりだけど。
「だったらもういいよ。操なんかもう知らないから!」
ぼくは操から顔を背けて、キャスケットをかぶり直した。操はなにも言おうとしない。ケンカをするのは初めてのことじゃないけど、こういうときはいつも操の方からすぐに謝ってくる。だけど今日はそれがなかった。
イライラとした気持ちより、悲しいって気持ちのほうが大きくなってくる。こんなんじゃダメだ。今日はぼくから謝ろう。無言でいることに耐えられなくなってきて、ぼくは口を開きかけた。
だけどそのとき──。
ドンッ!!
森中に響き渡るほど大きな音がして、驚いた鳥たちが一斉にそこらじゅうの木から羽ばたいた。
「今のなに!?」
「家からしたよ! 博士の部屋だ!」
「でも、いつもより大きくなかった!?」
「行ってみよう!」
今はケンカなんかしてる場合じゃない。ぼくは操の手を掴んで駆けだした。家のドアを開けると、中から焦げ臭い煙が一気に噴きだしてくる。
むせている操の手を強く引いて、ぼくは博士の部屋まで一気に走った。
「博士! 大丈夫!?」
飛び込んできたのは、いつもは紫の煙を上げている壺の中から、モクモクと赤黒い煙が湧きだしている光景だった。大量の本やレポート用紙が床に散乱して、魔術道具も幾つか粉々になって散らばっている。
博士は尻もちをついた状態で、煙をあげる壺を疲れた様子で見つめていた。
「は、博士……?」
恐る恐る、ぼくらは部屋に踏み入った。頬に煤をつけた博士はゆっくりとぼくらに視線を向け、それから大きく溜息をつく。
「問題ない。悪いけど、換気するのを手伝ってくれる?」
「わかった! 操、行こう! 家中の窓を開けなくちゃ!」
ぼくはまた操の手を引こうとしたけど、操はびくとも動かない。ただ悲しそうに壺を見て、それからガクンと項垂れてしまった。
「また、失敗……」
「操……?」
「やっぱりなにも生まれない。どんなにがんばったって、お母さんを取り戻すことなんかできっこないんだ」
「ッ!」
「ごめんね操……おれはもう、ここにはいられない」
操はぼくの手を振り払い、部屋を飛びだして行ってしまう。
「操っ!!」
追いかけなくちゃ。頭ではそう思うけど、どうしてかぼくはその場から動くことができなかった。ショックだった。ぼくは博士を信じたかったし、だから今日までがんばってきたつもりだった。それは操も同じなんだと思っていたけど。
やっぱりって、操は言った。やっぱりなにも生まれないって。操は、いつからかとっくに諦めていた。お母さんのことも、博士のことも。
ぼくはそれが悲しくて、どうしたらいいか分からなくて、迷子みたいに途方に暮れた。
博士はなにも言おうとしない。あぐらをかいて、頬についた煤を手の甲で拭っている。ぼくは博士のそばに駆け寄ると、膝をついてその肩を揺さぶった。
「ねぇ、大丈夫だよね? いつかきっと上手くいくんだよね?」
「……」
「どうしてなにも言ってくれないの!? 博士にだっているんでしょ? 大事な人、取り戻したいんでしょ? だからがんばってるんでしょ!?」
ぼくは博士まで弱気になっているんだと思った。だから必死で励まそうとした。
「元気だしてよ! きっと大丈夫だよ! 博士がそんなんじゃ」
「──君は、」
「っ?」
ずっと壺を見つめていた博士が、少し険しい目をしてぼくを見ると
「君が生き返らせたいのは、誰なんだ?」
と、そう言った。
「……誰、って」
ぼくは問われたことの意味が理解できなかった。どうして今更そんなことを聞くんだろう。博士には、初めて会った日にちゃんと伝えているはずだ。
「博士、忘れちゃったの? 最初にちゃんと言ったじゃないか。お母さんを生き返らせたいって……」
「俺は聞いてない。君はあのとき、なにも言わずにただうつむいていただけだ」
「な、なに言ってるの? だって、ちゃんと言ったよ。あのとき、操が──」
──お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!
「クロノス」
「ッ……?」
辺りを覆っていた煙が、少しずつ晴れてきた。博士はぼくの目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「俺の目の前には、最初から君ひとりしかいなかった」
*
雨が降っていた。ぼくはどこかの町の路地裏で、ボロボロの木箱に入れられて、ひとりぼっちで泣いていた。
いつからここにいるんだろう。気づいたときにはここにいた。寒くて、お腹がペコペコで、寂しくて。誰でもいいから助けてほしくて、必死で声を上げていた。
「捨て猫?」
そのときだった。雨を遮るようにして、黒い影がぼくを覆った。
ベージュのキャスケットをかぶって、空色のチェックシャツにオーバーオールを着た男の子が、箱の中にいるぼくを丸い目で見下ろしていた。
「わぁ、ちっちゃい。黒猫だね。目が金色だ」
男の子は白い手でぼくを抱き上げた。ぼくは怖くてたまらず、黒い毛を逆立てながら、シャ、シャ、と男の子を威嚇した。
「怖がらないで。ひとりぼっちなんだね。おれも同じ。お母さん、病気で死んじゃったから」
男の子の瞳が一瞬曇った。だけどぼくの頭をそっと撫でて、それからかぶっていたキャスケットを脱ぐと、その中にぼくを入れて抱きしめながらニコリと笑った。
「帰ろう、一緒に」
それがぼくと操の出会いだった。
*
操はぼくに自分の話をたくさんして聞かせてくれた。
ぼくと同じで赤ちゃんの頃に捨てられて、貧しい孤児院で暮らしていたこと。同じくらいの子供たちと一緒に、狭い部屋で身を寄せ合っていたこと。6歳のころに、魔力を暴走させてしまったこと。
操には普通では考えられないほど大きな魔力が秘められていて、ある日そうと知らずに暴走させてしまった。
友達におねしょをしたことをからかわれて、悔しくて泣いてしまった──たったそれだけのはずだったのに。
気づいたときには部屋が滅茶苦茶になっていて、窓ガラスが粉々に砕け散っていた。机も椅子もボロボロで、壁にはヒビまで入って、そばにいた友達の中には、怪我をして泣いている子までいた。
『この子は危険だ。ここに置いておくことはできない』
孤児院の大人たちはそう言って、オバケでも見るような目で操を見た。そして森の外れまで連れて行き、そのまま置き去りにしてしまった。
誰もいない森の中で、操はお腹を空かせながら何日も泣いていた。夜は獣の声に怯えながら、たまたま見つけた穴蔵の中に身体を押し込めて眠った。
やがて寒さと空腹で動けなくなった。ここで死ぬんだ。そう思っていたら、容子に出会った。
羽佐間容子という女の人は、町外れの小さな家で修理屋を営んでいた。森の中で必要な材料を探しているときに、たまたま倒れている操を見つけた。
家に連れ帰り、食事と洋服を与えてくれた。どこにも行く場所がない操に、「私も一人ぼっちなのよ」と笑って、ここにいてもいいと言ってくれた。
その日から、容子は操のお母さんになった。
学校へも通わせてもらって、そこで魔法の勉強をして、ちゃんと魔力をコントロールすることができるようになった。
でも、どんなに上手に魔法が使えるようになっても、おねしょの癖だけはなおらなかった。12歳までその癖は抜けなかったけど、容子はいつも笑いながらシーツを洗って干してくれた。
容子は操のことを、本当の子供みたいに愛してくれた。操も、容子のことが大好きだった。本当のお母さんだと思っていた。
家には黒髪の女の子の写真が飾られていた。翔子っていう名前の女の子。だけどあまり身体が丈夫じゃなくて、操が来る少し前に、疫病で死んじゃったんだって。
容子は寂しそうに写真を見つめながら、よく翔子の話を聞かせてくれた。操と同じで血の繋がりはなかったけれど、本当の娘みたいだったって。
そんなある日のこと──容子が、翔子と同じ病気にかかってしまった。
操は14歳になっていた。何度もお医者さんに見てもらったし、操も必死で病気を治すための魔法を試した。だけど、ぜんぜんダメだった。
容子はひどい熱と咳が止まらず、最後には血まで吐くようになった。
そして、死んでしまった。
操は何日も泣いて、町の人達が上げてくれたお葬式が終わっても、ずっと一人で泣いていた。大好きなお母さんにもう会えない。またひとりぼっちになってしまった。いっそのこと、自分も消えてしまいたいと思った。
だけどそんなある日、家の近くの路地裏でぼくを見つけた。まるで自分を見ているようで、操はぼくを放っておくことができなかった。
クロノス。
それは操がつけてくれた名前だった。
そのときから、操はぼくの『お母さん』になったんだ。
*
操はぼくにとても優しくしてくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれたし、夜はおでこやほっぺたに何度もキスをして、抱きしめて眠ってくれた。
最初は怖かったけど、ぼくはすぐに操のことが大好きになった。
ぼくは自分の本当のお母さんのことを覚えていない。だけど操にぎゅってされると、なんとなくお母さんのことを思いだせるような気がして、いつも操の胸をモニモニと揉んで、服がビシャビシャになるくらいチュウチュウ吸って、そうするととても安心することができた。
それからしばらく経った、ある日のこと。
操はぼくをヒトの姿に変える魔法をかけた。どこへ行くにもついて行こうとするぼくを見かねて、そのほうが安心だからって。人通りが多い町中や、森の中を歩くにも、子猫の姿だと危険が多い。
「勝手なことしてごめんね」
操はそう言って謝ったけど、ぼくは嬉しかった。だって、これからは家の外でもずっと操のそばにいられる。同じ言葉を使って話すことができる。
それに、ぼくの姿は操と瓜二つだったんだ。猫の耳としっぽは残っていたけど、ぼくは大好きな操と同じ顔をしていることが、とても嬉しかった。
操とお揃いのオーバーオールはサイズが少し大きくて、しっぽを隠すのに不便はなかった。耳は操がくれたキャスケットをかぶれば大丈夫。
町の人達は操が二人になったことに驚いたけど、双子の弟だって言ったら、みんなあっさり信じてしまった。たぶん、操が魔法で記憶におまじないをかけたんだ。
ヒトの姿になってから、ぼくはなんでも操の真似をするようになった。
操のお母さんがしていた仕事を引き継いで、二人で少しずつ色んなものを修理できるようにもなっていった。ご飯もお風呂も寝るときも、ぼくらはどんなときでもいつも一緒。そんな日が、これからずっとずっと続いていくんだと思ってた。
操が、翔子や容子と同じ病で倒れるまでは。
*
操は日に日に弱っていった。ひどい熱にうなされて、朝から晩まで咳が止まらなかった。そのうち、血まで吐くようになってしまった。
ぼくはどうしたらいいか分からなかった。このままじゃ操がいなくなってしまう。もう一緒にはいられなくなる。大好きな操が。ぼくのお母さんが。
だけどぼくにはなにもできなかった。ただベッドに縋りついて泣くことしか。
操はずっとぼくの手を握っていた。咳が出て、口からたくさん血を吐いて、こんなに苦しそうなのに。ぼくに優しく笑いかけていた。
「クロノス」
最期のとき。操はベッドに横たわり、ぼくの名前を呼んだ。それから、「ごめんね」と言った。
「君にかけたその魔法は、おれにも解けないんだ。ちょっとやそっとじゃ戻らないように、途中の式をね、めちゃくちゃに組んでしまったから」
ぼくが耳としっぽだけ中途半端に猫のままだったのは、正しい形で魔法をかけなかったから。操はぼくと本当の双子の兄弟になるつもりだったんだ。同じ言葉で話して、同じものを共有できる、人の形をした家族に。
だから絶対に解けないように、あえて未完の魔法をかけた。
「わがままで、ごめん」
ぼくは操の手を両手で強く握りながら、何度も首を左右に振った。
「そんなこと言わないで。ぼくは嬉しい。操とお揃いなのが、本当に嬉しいんだ」
「ありがとう、クロノス」
「操……お願いだから、ぼくをひとりにしないで。ずっとずっと一緒にいてよ」
さっきまでひどく血を吐いていたから、操の唇は真っ赤になっている。その唇が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ずっと一緒だよ。おれは、クロノスとずっと、一緒。だからね、おれの名前を、君にあげたい」
「え……?」
「おれの呼吸が止まったら、おれを、家の裏に埋めて。誰にも、見られないように」
「操、そんな……なんで……!?」
操が町の人たちにかけたまじないは、操の存在が消えたらすぐに解ける簡単なものだ。操がぼくと入れ替わっていたとしても、誰も疑問に思わないだろう。だから自分の身体を隠して、ぼくに本当の『来主操』になってほしいと、操は言った。ぼくがこの町で、いつまでも安心して暮らせるように。
「やだ、やだよ! 名前なんかいらない! だって、君がつけてくれたんだよ! クロノスって! だから、ぼくは操にはなれないよ……ッ!」
操がまたひとつ咳をした。一緒に血が出て、シーツを汚す。ぼくは真っ青になって、ただ小刻みに震えることしかできなかった。
苦しそうにカサついた息を漏らして、操が笑った。
「もらってよ。おれの名前を、君の居場所にしてほしい」
「やだ! やだやだ! 操がいないなら、どこにいたって同じだもん!」
ぼくは声を出して、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何度もしゃくりをあげて、そのたびに息ができなくて、肺のあたりが痛くなってくる。それでも泣いた。
神様、どうか操を奪わないで。操を連れて行かないで。ぼくをぼくにしてくれた、大切な『お母さん』を。
「クロノス」
すっかり弱った指先で、操は力を振り絞ってぼくの手を握り返した。ぼくがハッと息を呑んで泣き止むのと同時に、操はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。そして、初めて出会ったときのように、まるでぼくを安心させるみたいに、優しく目を細めた。
「ずっと空で見てるから……幸せになって、操」
それが操から──お母さんからもらった、最後の言葉だった。
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家事も手際よくこなせるようになってきたし、料理の腕だって上達してきたと思う。少なくともスープの味付けを失敗したり、パンを焦がすことはなくなった。
それでもぼくらはまだ、正式に弟子としては認められていない。本当に、ただの住み込みのお手伝いさんって感じだ。
だけどもしちゃんと弟子になれたとしても、今とやることは変わらないような気がしてる。だってぼくは魔法のことよく知らないし、あまり興味もなかったし、魔術書に書かれている文字なんか、ミミズが踊ってるようにしか見えないもん。
でも、今のままでもそれなりに役には立ててると思う。ほこりっぽかった家の中はいつもピカピカに掃除してるし、研究や薬を作るための材料集めだって、ぼくらの仕事だ。博士はそのぶん、研究に没頭できるんだから。
最近はちょっとだけ──本当にちょっとだけなんだけど、ここでの暮らしもいいなって思うようになったんだ。
操がいて、博士がいて、ぼくがいる。お母さんと暮らしていた頃も幸せだったし、お母さんにまた会いたいって気持ちは変わらないけど、今は今で、けっこう楽しい。それに──。
ぼくと博士は、あれからときどき内緒のキスをするようになっていた。場所は決まってあの玄関脇のベンチで、時間は深夜。別に約束してるわけじゃない。ぼくはあの夜からこっそり屋根裏部屋を抜け出して、ベンチに座って夜空を眺めるのが習慣になっていた。
するとショコラのお墓参りを終えた博士がやってきて、ぼくの隣に座るんだ。そこでぼくと博士は、ぽつりぽつりと言葉を交わす。明日のご飯は何にしようとか、森で見つけた不思議な虫や植物のこととか。
何気ないことばかりだけど、博士と話せる時間が嬉しくて、ぼくはいつの間にか博士にぴったりくっついている。なんでかな。二人きりでいると、どうしてか博士に甘えたいような気分になってしまう。
変だなって自分でも思うけど、博士は黙ってぼくの好きにさせてくれる。そうするといつの間にか会話が途切れて、ぼくらはどこかぼうっとしながら見つめ合う。
博士がぼくの頬に触れて、そっと顔を近づけてくると、ぼくは自然と目を閉じる。唇が重なり合うと、頭の中が痺れたみたいになって気持ちよかった。
そのたびにぼくは、ずっと博士とこうしていたいって、そんなふうに思うようになっていた。
*
「操、ここはもういいから、次は裏庭に行こうよ」
その日、ぼくらは朝から家の前で草むしりをしていた。
むしった草を一ヶ所にまとめ終えて振り返ると、操はしゃがみこんだまま手を止めて、ぼーっとしながら地面を見つめている。
「ねぇ操ってば。聞いてる?」
「……あ、ごめん。なにか言った?」
「操……」
ぼくはふっと息をつきながら操のそばまで行くと、かぶっていたキャスケットを脱いでその頭にかぶせようとした。だけど、操はそれを手で遮って首を横に振る。
「操?」
「いい。それは操のものだから」
「ぼくだけのじゃないよ。これは二人の」
「いいんだ。おれにはもう必要ない」
「なんで? なんでそんなこと言うの……?」
ぼくは操に拒まれたことにショックを受けていた。今までこんなことはなかったし、操の様子はいつもと明らかに違ってる。だけど本当は分かってた。操の不安な気持ちが、少しずつ苛立ちに変わってきてるってこと。
博士の研究は相変わらずだ。いつも失敗ばかりしている。そのたんびに、操の表情が曇る回数も増えていた。ぼくもその気持ちはわかってるつもりだけど。
「だったらもういいよ。操なんかもう知らないから!」
ぼくは操から顔を背けて、キャスケットをかぶり直した。操はなにも言おうとしない。ケンカをするのは初めてのことじゃないけど、こういうときはいつも操の方からすぐに謝ってくる。だけど今日はそれがなかった。
イライラとした気持ちより、悲しいって気持ちのほうが大きくなってくる。こんなんじゃダメだ。今日はぼくから謝ろう。無言でいることに耐えられなくなってきて、ぼくは口を開きかけた。
だけどそのとき──。
ドンッ!!
森中に響き渡るほど大きな音がして、驚いた鳥たちが一斉にそこらじゅうの木から羽ばたいた。
「今のなに!?」
「家からしたよ! 博士の部屋だ!」
「でも、いつもより大きくなかった!?」
「行ってみよう!」
今はケンカなんかしてる場合じゃない。ぼくは操の手を掴んで駆けだした。家のドアを開けると、中から焦げ臭い煙が一気に噴きだしてくる。
むせている操の手を強く引いて、ぼくは博士の部屋まで一気に走った。
「博士! 大丈夫!?」
飛び込んできたのは、いつもは紫の煙を上げている壺の中から、モクモクと赤黒い煙が湧きだしている光景だった。大量の本やレポート用紙が床に散乱して、魔術道具も幾つか粉々になって散らばっている。
博士は尻もちをついた状態で、煙をあげる壺を疲れた様子で見つめていた。
「は、博士……?」
恐る恐る、ぼくらは部屋に踏み入った。頬に煤をつけた博士はゆっくりとぼくらに視線を向け、それから大きく溜息をつく。
「問題ない。悪いけど、換気するのを手伝ってくれる?」
「わかった! 操、行こう! 家中の窓を開けなくちゃ!」
ぼくはまた操の手を引こうとしたけど、操はびくとも動かない。ただ悲しそうに壺を見て、それからガクンと項垂れてしまった。
「また、失敗……」
「操……?」
「やっぱりなにも生まれない。どんなにがんばったって、お母さんを取り戻すことなんかできっこないんだ」
「ッ!」
「ごめんね操……おれはもう、ここにはいられない」
操はぼくの手を振り払い、部屋を飛びだして行ってしまう。
「操っ!!」
追いかけなくちゃ。頭ではそう思うけど、どうしてかぼくはその場から動くことができなかった。ショックだった。ぼくは博士を信じたかったし、だから今日までがんばってきたつもりだった。それは操も同じなんだと思っていたけど。
やっぱりって、操は言った。やっぱりなにも生まれないって。操は、いつからかとっくに諦めていた。お母さんのことも、博士のことも。
ぼくはそれが悲しくて、どうしたらいいか分からなくて、迷子みたいに途方に暮れた。
博士はなにも言おうとしない。あぐらをかいて、頬についた煤を手の甲で拭っている。ぼくは博士のそばに駆け寄ると、膝をついてその肩を揺さぶった。
「ねぇ、大丈夫だよね? いつかきっと上手くいくんだよね?」
「……」
「どうしてなにも言ってくれないの!? 博士にだっているんでしょ? 大事な人、取り戻したいんでしょ? だからがんばってるんでしょ!?」
ぼくは博士まで弱気になっているんだと思った。だから必死で励まそうとした。
「元気だしてよ! きっと大丈夫だよ! 博士がそんなんじゃ」
「──君は、」
「っ?」
ずっと壺を見つめていた博士が、少し険しい目をしてぼくを見ると
「君が生き返らせたいのは、誰なんだ?」
と、そう言った。
「……誰、って」
ぼくは問われたことの意味が理解できなかった。どうして今更そんなことを聞くんだろう。博士には、初めて会った日にちゃんと伝えているはずだ。
「博士、忘れちゃったの? 最初にちゃんと言ったじゃないか。お母さんを生き返らせたいって……」
「俺は聞いてない。君はあのとき、なにも言わずにただうつむいていただけだ」
「な、なに言ってるの? だって、ちゃんと言ったよ。あのとき、操が──」
──お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!
「クロノス」
「ッ……?」
辺りを覆っていた煙が、少しずつ晴れてきた。博士はぼくの目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「俺の目の前には、最初から君ひとりしかいなかった」
*
雨が降っていた。ぼくはどこかの町の路地裏で、ボロボロの木箱に入れられて、ひとりぼっちで泣いていた。
いつからここにいるんだろう。気づいたときにはここにいた。寒くて、お腹がペコペコで、寂しくて。誰でもいいから助けてほしくて、必死で声を上げていた。
「捨て猫?」
そのときだった。雨を遮るようにして、黒い影がぼくを覆った。
ベージュのキャスケットをかぶって、空色のチェックシャツにオーバーオールを着た男の子が、箱の中にいるぼくを丸い目で見下ろしていた。
「わぁ、ちっちゃい。黒猫だね。目が金色だ」
男の子は白い手でぼくを抱き上げた。ぼくは怖くてたまらず、黒い毛を逆立てながら、シャ、シャ、と男の子を威嚇した。
「怖がらないで。ひとりぼっちなんだね。おれも同じ。お母さん、病気で死んじゃったから」
男の子の瞳が一瞬曇った。だけどぼくの頭をそっと撫でて、それからかぶっていたキャスケットを脱ぐと、その中にぼくを入れて抱きしめながらニコリと笑った。
「帰ろう、一緒に」
それがぼくと操の出会いだった。
*
操はぼくに自分の話をたくさんして聞かせてくれた。
ぼくと同じで赤ちゃんの頃に捨てられて、貧しい孤児院で暮らしていたこと。同じくらいの子供たちと一緒に、狭い部屋で身を寄せ合っていたこと。6歳のころに、魔力を暴走させてしまったこと。
操には普通では考えられないほど大きな魔力が秘められていて、ある日そうと知らずに暴走させてしまった。
友達におねしょをしたことをからかわれて、悔しくて泣いてしまった──たったそれだけのはずだったのに。
気づいたときには部屋が滅茶苦茶になっていて、窓ガラスが粉々に砕け散っていた。机も椅子もボロボロで、壁にはヒビまで入って、そばにいた友達の中には、怪我をして泣いている子までいた。
『この子は危険だ。ここに置いておくことはできない』
孤児院の大人たちはそう言って、オバケでも見るような目で操を見た。そして森の外れまで連れて行き、そのまま置き去りにしてしまった。
誰もいない森の中で、操はお腹を空かせながら何日も泣いていた。夜は獣の声に怯えながら、たまたま見つけた穴蔵の中に身体を押し込めて眠った。
やがて寒さと空腹で動けなくなった。ここで死ぬんだ。そう思っていたら、容子に出会った。
羽佐間容子という女の人は、町外れの小さな家で修理屋を営んでいた。森の中で必要な材料を探しているときに、たまたま倒れている操を見つけた。
家に連れ帰り、食事と洋服を与えてくれた。どこにも行く場所がない操に、「私も一人ぼっちなのよ」と笑って、ここにいてもいいと言ってくれた。
その日から、容子は操のお母さんになった。
学校へも通わせてもらって、そこで魔法の勉強をして、ちゃんと魔力をコントロールすることができるようになった。
でも、どんなに上手に魔法が使えるようになっても、おねしょの癖だけはなおらなかった。12歳までその癖は抜けなかったけど、容子はいつも笑いながらシーツを洗って干してくれた。
容子は操のことを、本当の子供みたいに愛してくれた。操も、容子のことが大好きだった。本当のお母さんだと思っていた。
家には黒髪の女の子の写真が飾られていた。翔子っていう名前の女の子。だけどあまり身体が丈夫じゃなくて、操が来る少し前に、疫病で死んじゃったんだって。
容子は寂しそうに写真を見つめながら、よく翔子の話を聞かせてくれた。操と同じで血の繋がりはなかったけれど、本当の娘みたいだったって。
そんなある日のこと──容子が、翔子と同じ病気にかかってしまった。
操は14歳になっていた。何度もお医者さんに見てもらったし、操も必死で病気を治すための魔法を試した。だけど、ぜんぜんダメだった。
容子はひどい熱と咳が止まらず、最後には血まで吐くようになった。
そして、死んでしまった。
操は何日も泣いて、町の人達が上げてくれたお葬式が終わっても、ずっと一人で泣いていた。大好きなお母さんにもう会えない。またひとりぼっちになってしまった。いっそのこと、自分も消えてしまいたいと思った。
だけどそんなある日、家の近くの路地裏でぼくを見つけた。まるで自分を見ているようで、操はぼくを放っておくことができなかった。
クロノス。
それは操がつけてくれた名前だった。
そのときから、操はぼくの『お母さん』になったんだ。
*
操はぼくにとても優しくしてくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれたし、夜はおでこやほっぺたに何度もキスをして、抱きしめて眠ってくれた。
最初は怖かったけど、ぼくはすぐに操のことが大好きになった。
ぼくは自分の本当のお母さんのことを覚えていない。だけど操にぎゅってされると、なんとなくお母さんのことを思いだせるような気がして、いつも操の胸をモニモニと揉んで、服がビシャビシャになるくらいチュウチュウ吸って、そうするととても安心することができた。
それからしばらく経った、ある日のこと。
操はぼくをヒトの姿に変える魔法をかけた。どこへ行くにもついて行こうとするぼくを見かねて、そのほうが安心だからって。人通りが多い町中や、森の中を歩くにも、子猫の姿だと危険が多い。
「勝手なことしてごめんね」
操はそう言って謝ったけど、ぼくは嬉しかった。だって、これからは家の外でもずっと操のそばにいられる。同じ言葉を使って話すことができる。
それに、ぼくの姿は操と瓜二つだったんだ。猫の耳としっぽは残っていたけど、ぼくは大好きな操と同じ顔をしていることが、とても嬉しかった。
操とお揃いのオーバーオールはサイズが少し大きくて、しっぽを隠すのに不便はなかった。耳は操がくれたキャスケットをかぶれば大丈夫。
町の人達は操が二人になったことに驚いたけど、双子の弟だって言ったら、みんなあっさり信じてしまった。たぶん、操が魔法で記憶におまじないをかけたんだ。
ヒトの姿になってから、ぼくはなんでも操の真似をするようになった。
操のお母さんがしていた仕事を引き継いで、二人で少しずつ色んなものを修理できるようにもなっていった。ご飯もお風呂も寝るときも、ぼくらはどんなときでもいつも一緒。そんな日が、これからずっとずっと続いていくんだと思ってた。
操が、翔子や容子と同じ病で倒れるまでは。
*
操は日に日に弱っていった。ひどい熱にうなされて、朝から晩まで咳が止まらなかった。そのうち、血まで吐くようになってしまった。
ぼくはどうしたらいいか分からなかった。このままじゃ操がいなくなってしまう。もう一緒にはいられなくなる。大好きな操が。ぼくのお母さんが。
だけどぼくにはなにもできなかった。ただベッドに縋りついて泣くことしか。
操はずっとぼくの手を握っていた。咳が出て、口からたくさん血を吐いて、こんなに苦しそうなのに。ぼくに優しく笑いかけていた。
「クロノス」
最期のとき。操はベッドに横たわり、ぼくの名前を呼んだ。それから、「ごめんね」と言った。
「君にかけたその魔法は、おれにも解けないんだ。ちょっとやそっとじゃ戻らないように、途中の式をね、めちゃくちゃに組んでしまったから」
ぼくが耳としっぽだけ中途半端に猫のままだったのは、正しい形で魔法をかけなかったから。操はぼくと本当の双子の兄弟になるつもりだったんだ。同じ言葉で話して、同じものを共有できる、人の形をした家族に。
だから絶対に解けないように、あえて未完の魔法をかけた。
「わがままで、ごめん」
ぼくは操の手を両手で強く握りながら、何度も首を左右に振った。
「そんなこと言わないで。ぼくは嬉しい。操とお揃いなのが、本当に嬉しいんだ」
「ありがとう、クロノス」
「操……お願いだから、ぼくをひとりにしないで。ずっとずっと一緒にいてよ」
さっきまでひどく血を吐いていたから、操の唇は真っ赤になっている。その唇が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ずっと一緒だよ。おれは、クロノスとずっと、一緒。だからね、おれの名前を、君にあげたい」
「え……?」
「おれの呼吸が止まったら、おれを、家の裏に埋めて。誰にも、見られないように」
「操、そんな……なんで……!?」
操が町の人たちにかけたまじないは、操の存在が消えたらすぐに解ける簡単なものだ。操がぼくと入れ替わっていたとしても、誰も疑問に思わないだろう。だから自分の身体を隠して、ぼくに本当の『来主操』になってほしいと、操は言った。ぼくがこの町で、いつまでも安心して暮らせるように。
「やだ、やだよ! 名前なんかいらない! だって、君がつけてくれたんだよ! クロノスって! だから、ぼくは操にはなれないよ……ッ!」
操がまたひとつ咳をした。一緒に血が出て、シーツを汚す。ぼくは真っ青になって、ただ小刻みに震えることしかできなかった。
苦しそうにカサついた息を漏らして、操が笑った。
「もらってよ。おれの名前を、君の居場所にしてほしい」
「やだ! やだやだ! 操がいないなら、どこにいたって同じだもん!」
ぼくは声を出して、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何度もしゃくりをあげて、そのたびに息ができなくて、肺のあたりが痛くなってくる。それでも泣いた。
神様、どうか操を奪わないで。操を連れて行かないで。ぼくをぼくにしてくれた、大切な『お母さん』を。
「クロノス」
すっかり弱った指先で、操は力を振り絞ってぼくの手を握り返した。ぼくがハッと息を呑んで泣き止むのと同時に、操はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。そして、初めて出会ったときのように、まるでぼくを安心させるみたいに、優しく目を細めた。
「ずっと空で見てるから……幸せになって、操」
それが操から──お母さんからもらった、最後の言葉だった。
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その日、ぼくは操と一緒に博士のお使いで森のなかを歩いていた。
「材料、ちゃんと揃ってよかったね」
ぼくが持っている取っ手付きのバスケットの中には、毒があるとしか思えない色のキノコや葉っぱ、ヘビの卵や抜け殻なんかが入っている。ぜんぶ博士から採ってくるように言われたものだ。
博士は研究の他にも、いろんな材料を使って怪我や病気に効く薬も作ってる。月に二、三度、町から薬を買い付けに商人がやってきて、代わりに食料だとか生活用品だとか、必要なものと交換する仕組みになっていた。
「博士って、ぜんぜん人と関わってないわけじゃないんだね。こないだ商人の人とずっと立ち話してたよ。大きなリュックを背負った、タンクトップのおじさんでさ──操?」
ぼくは操がうなずきもせず黙りこくっていることに気づいて、足を止めた。
操はすぐにハッとして顔をあげ、「なんでもないよ」と言いながら首を振って見せる。でも、顔はうまく笑えていない。操は誤魔化すことを諦めて、小さく「ごめん」とこぼしながら、またうつむいてしまった。
「ねぇ操、大丈夫だよ。今日がダメでも、明日があるから。元気だそうよ」
「うん……」
操に元気がないのは、風で飛ばされたキャスケットが見つからないせいだった。
ここに来てもうすぐ一ヶ月。ぼくらは博士の小間使いとして仕事を覚えながら毎日を過ごして、その合間にキャスケットを探し続けている。迷子にならないように木の枝に紐をくくって印をつけながら、少しずつ探す範囲を広げていった。
だけどなかなか見つからない。今日もお使いをしながら探したけど、ぜんぜんダメだった。あれはお母さんがくれた大事なものだから、どうしても諦めきれないでいる気持ちはぼくも同じだ。でも、正直もうどうしたらいいのか、ぼくらには分からなくなっていた。
「操」
ぼくは自分がかぶっているキャスケットのツバを掴んで、サッと脱ぐと操の頭にかぶせてやった。目をまんまるにした操に、ニッコリ笑いかける。
「それ、かぶってていいよ」
「でも……」
「いいじゃん。ぼくたちなんでもはんぶんこ。そうでしょ?」
なくなってしまったものは戻ってこないかもしれないけど、だったら今あるものを仲良くはんぶんこすればいいだけの話だ。生まれたときから、ぼくらはずっとそうしてきたんだから。
ぼくはこうすればきっと操がまた笑ってくれると思っていた。だけど操は下唇を噛みしめて、やっぱりうつむくだけだった。
「操?」
「ねぇ操」
「うん」
「博士の研究、本当に完成すると思う……?」
ぼくは薄々気がついていた。操に元気がなかったのは、キャスケットのことだけじゃないってこと。だってその不安はぼくも感じていたことだから。
博士の研究は失敗続きだ。あの爆発音にも、焦げ臭さにも、そのあとの博士の不機嫌そうな顔にも、そろそろ慣れてきてしまった。
「お母さんとまた暮らせるようになる日、本当に来るのかな」
「来るよ! 絶対!」
ぼくは思わず大きな声を出していた。
「博士が諦めない限り、きっといつか成功するよ! 操だってそう言ったじゃん。ここにいれば、必ずお母さんを取り戻す方法が見つかるって!」
「操……」
「だからがんばってるんじゃないか! 料理だって掃除だって、本当はあんまり得意じゃないけど……でも、博士の弟子になれたら、今よりもっと手伝えることだって増えるはずだよ! だから……っ」
泣きそうになっているぼくに、操は「ごめんね」と言って笑った。下手くそだなってぼくは思う。だって無理してるのがバレバレの笑い方なんだもん。
「ちょっと弱気になっただけ。変なこと言っちゃって、ごめんな」
「……うぅん、わかるよ。操の気持ち、ぼくにも分かる」
ずっと苦しかった。ここに来てから覚えることがたくさんで、毎日が一瞬で過ぎてしまったような気がしていたけれど。本当はすごく長かった。お母さんと会えなくなってから、今日までずっと。
だけどぼくらは博士を信じてここにいるしかない。どんなに時間がかかっても、そうするしかないって決めたから。
「帰ろ。博士のご飯を作らなきゃ」
操はやっぱり無理してるって分かる下手くそな笑顔でそう言って、かぶっていたキャスケットのツバを摘むと、ぼくの頭にポンと戻した。
なんとか気を取り直して、ぼくも操と同じ、下手っぴな笑顔で大きく頷く。
「うん。今日こそ美味しいって言ってもらおうね」
博士は基本的に、食べられればなんでもいいという人だ。研究のこと以外、他はどうでもいいみたいだった。だから焦げたパンでも塩を入れすぎたスープでも、なにも言わずに黙々と食べる。生きるための作業って感じ。カエルの姿焼きを出したときは、ちょっとだけ嫌そうな顔をしてたけど。
ぼくらが来るまではカビたパンでも平気で齧っていたそうだから、それに比べたらちょっとは役に立ててると思う。
「博士、今日のご飯きっとビックリするだろうな」
バスケットには、今夜食べるために捕まえたトカゲが数匹、袋に入って暴れてる。博士がどんな反応するかを想像したら、ぼくはちょっぴり楽しくなってきた。
ぼくはあれから、ときどき博士と一緒にコーヒーを飲むようになった。
こないだ、珍しく朝から操の調子がいい日には、初めて操の分もカフェオレも作ってもらった。
だけど操はどうしてもコーヒーが得意じゃないみたいで、ちょっと口をつけただけで渋い顔をした。それを見てぼくは笑ってしまったけど、博士はなにか考え込んでいる様子だった。
その数日後、商人が薬を買いつけに家に来たとき、博士はタンクトップのおじさんにオレンジジュースを注文していた。廊下を雑巾がけしていたぼくは、その話をこっそり聞いていた。嬉しかった。博士はときどき嫌味を言ったりすることもあるけど、ぼくと操のことをとても大事にしてくれていると思う。
だからぼくの中では最近、博士のことを「あまり好きじゃない」から「ほんのちょっとだけ好きじゃない」に変わってて──だってたまに意地悪なのは変わらないし──博士がふいに見せる表情の変化は、見ててけっこう楽しかったりもする。
だからもう少し一緒にいたら、そのうちもっとちゃんと好きになれるかもしれないって、そう思うようになっていた。
「博士、また嫌そうな顔するのかな?」
操の顔に、やっと本当の笑顔が戻ってきた。
「するかもね。だって今日はトカゲの唐揚げだもん!」
ぼくらは顔を見合わせるとクスクス笑い、遠くに見える煙突の煙を目指して、手を繋ぎながら家に帰った。
*
その夜、ぼくはなかなか寝つけずにこっそり屋根裏部屋を抜け出した。
玄関の横にある朽ちた木のベンチに腰掛けて、ホットケーキを裏返したような丸い月をぼんやり見上げる。
頭の中では帰り道で操とした会話が、ずっとグルグル行ったり来たりしていた。
「そんな格好でいたら風邪ひくよ」
「うわっ」
とつぜん声がしたことに驚いて、ぼくはビクンと肩を跳ねさせた。
そこには裏庭から回り込んできたらしい博士がいて、膝丈まである無地のシャツを一枚ペロッと着ているだけのぼくに、少し呆れた表情を浮かべている。
「び、ビックリしたぁ~……オバケが出たかと思ったよ」
ぼくは大きく息をつき、胸に手を押し当てた。心臓がバクバクしてる。
博士はいつもの黒いなローブ姿で、夜の森に溶け込んでいるのがちょっと不気味だ。顔色が優れないように見えるのは、夕飯で出したトカゲのせいだと思う。博士は引きつった顔をしながら、それでもチビチビと口に入れて水で流し込んでいた。
「眠れない?」
博士はそう言ってぼくに近づいてくると、ローブを脱いでそっと肩にかけてくれた。あったかい。うなずく代わりにすんと鼻を鳴らすと、ちょっぴりほこり臭い中に博士の匂いが混ざっていた。なんだか少し、ホッとする。
「ありがと、博士」
ぼくはローブの合わせ目を内側から両手でぎゅっと掴んで、胸元に手繰り寄せた。やっぱり博士は大きいな。ぼくの身体はローブにすっぽり包まれてしまう。
「博士はショコラのところに行ってたの?」
「日課だからね」
博士がぼくの隣に腰掛ける。ボロボロのベンチが、ギシっと軋んだ音を立てた。
「花、ありがとう」
しばらく一緒に月を見上げていると、博士がぽつりとそう言った。
お使いから戻る途中、たまたま目についた花を摘んで持ち帰ったぼくらは、それをこっそりショコラの墓にお供えしておいた。名前は分からなかったけど、白くてとても綺麗な花だったから。
「ショコラ、喜んでるかな?」
「喜んでるよ。きっと」
「えへへ、そっか。よかった」
博士がふっと笑った気配がした。ぼくはそんな博士の横顔を見やる。
「ねぇ博士」
「なに?」
「博士は、どうしてお母さんを知ってたの?」
それはずっと気になっていたことだった。
初めて会ったときにも同じ質問をしたはずだけど、あのときの博士は勝手に心を読むことはしても、ぼくらとじっくり話そうとはしてくれなかった。
でも、今ならちゃんと答えてくれるんじゃないかって気がした。博士とはずいぶん打ち解けたと思うし、なによりお母さんのことだもん。ぼくには知る権利があるはずでしょ。
「……容子さんは、俺の恩師だった人だ」
思った通り、博士はお母さんの話をしてくれた。
「小さな田舎の魔法学校で、教師をしていた。10年以上も前のことだよ」
「そうだったんだ。知らなかった」
ぼくが知ってるお母さんは、修理屋さんをして生計を立てていた。ほつれた洋服だとか、壊れたオモチャだとか、ちょっとした機械なんかを直して元通りにする仕事だ。ぼくもよく手伝いをさせてもらってた。
「どうして先生やめちゃったの?」
「……娘がいたんだ。その一人娘が、疫病でね」
ぼくは家に飾ってあった写真立てのことを思いだした。可愛いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった黒髪の女の子。名前は、確か翔子っていったはずだ。ぼくらにとってはお姉ちゃんってことになる。
「ぼくはお姉ちゃんに会ったことがない。お母さんから聞いて、名前を知っているだけ。お母さんは、お姉ちゃんがいなくなったのが悲しくて、先生をやめちゃったってこと?」
博士はなにも言わなかった。ただ静かに月を見上げている。たぶん、それが答えなんだと思う。
その寂しそうな横顔に、ぼくは見覚えがあるような気がした。お母さんも、写真を見つめながらよくこんな顔をしていたことを思いだす。
博士も思いだしているのかな。失ってしまった、大切な誰かのことを。胸がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚えて、ぼくは静かにうつむいた。それからふと、思いついたんだ。
お姉ちゃんのことも、生き返らせてあげたいって。
これは名案だと、ぼくは思った。
そうすればお母さんだってきっと喜ぶ。ぼくと操と、お姉ちゃんとお母さん。家族4人で、一緒に暮らすことができる。博士の研究が成功すれば、いつかきっとその夢は叶うんだから。
「ねぇ博士。研究、きっと成功するよね?」
博士を見上げて、縋るような目をしながら問いかけた。だけど博士は月を見つめたまま、なにも言ってくれない。
分かってるんだ。とても難しい研究だから、そう簡単に返事なんかできないってこと。博士は何年も研究し続けて、そして何度も失敗し続けている。町の人達だってみんな言ってた。どうせ無理だって。叶いっこないって、笑ってた。
だけど博士の研究はぼくらの希望だから。操が心から笑えるようになるためには、博士の力が必要だった。
「お願い博士、うんって言って」
博士の横顔が、涙でどんどん滲んでいった。どんなに時間がかかってもいい。必ず完成するって、たった一言そう言ってくれるだけで、ぼくは安心できるのに。
それなのに、博士はやっぱりなにも言わずに月を見ていた。
「お願いだから、うんって言ってよ……」
ぼくは博士の腕に縋りついて泣いていた。お母さんを取り戻す日まで、もう泣かないって決めたのに。今までずっと我慢し続けていたものが、一気に溢れて止まらなくなってしまった。
肩を震わせて泣いていると、頬にあたたかなものが触れてぼくは顔をあげた。こらえるように細められた博士の瞳が、ゆらゆらと揺れている。
博士の白い指先が何度も涙をぬぐってくれるけど、その優しい感触にぼくはもっと悲しくなった。ひ、ひ、としゃくりを上げながら必死でその瞳を見返していると、博士が両手でぼくの濡れた頬を包み込んだ。
親指でそれぞれ両方の目尻を拭いながら、博士はじっとぼくの泣き顔を見つめている。なにか言いたそうに開きかけた唇を震わせて、だけどそこから言葉が発されることはなかった。代わりにゆっくりと、博士の顔が近づいてくる。
どうしてかぼくは無意識に息を止めて、自然とまぶたを閉じていた。唇に、熱くて柔らかなものが押しつけられる。
「っ!」
ぼくの肩がピクンと揺れるのと同時に、その感触は離れていった。おずおずと目を開けると、なぜか博士が狼狽えた表情で声をつまらせている。まるで自分がしたことに、自分で驚いているみたいだった。どうしてこんなことをしたのか、博士自身が戸惑っているような。
だけど、そんなのぼくにはもっと分からない。
「どうして、ちゅうしたの?」
寝る前にお母さんがしてくれていたキスとは違う。唇にするキスに特別な意味があることくらい、ぼくだって知ってるよ。だから分からない。どうして博士は、ぼくの唇にキスなんかしたんだろう?
博士は正面を向いてうなだれると、深い息を漏らした。膝の上に肘を置き、鬱陶しい前髪ごとガリガリと頭をかいている。その手つきは乱暴で、こんな博士の仕草を見たのは初めてだった。
やがて横目でチラリとぼくを見ると、上ずった声で「今のは忘れて」と言った。
ぼくは何度も目を瞬かせる。月明かりに照らされて、博士の頬がほんの少しだけ赤くなっていることに気がついた。それを見たら、急に変な気分になってしまった。とてもいけないことをしたような気がして、ぼくは素直にうなずいた。
だけど頭の中は軽くパニックになっている。顔が真っ赤になって、心臓が思いきり走ったときみたいにドキドキしていた。どうしよう。よく分からないけど、すごく困った。だってこんなの初めてだったし、それに、それに。
「博士、今の……忘れる、から」
「……うん」
「今のこと、操には言わないで」
なんでかは分からない。だけど操には、どうしても知られたくないと思ってしまった。おねしょをしていたのがバレてしまったときよりも、今のほうが何倍も恥ずかしい。操に知られたらって思うと、もっともっと恥ずかしいような気がした。
操に隠し事をするなんて、ちょっと前のぼくなら考えられないことだけど。ぼくが博士とキスをしたことは、ぼくらだけの秘密にしておきたかった。
博士は気が抜けたように笑ってぼくを見た。ぼくは博士の顔が見られない。だからうつむいて、もじもじと足の先を擦り合わせた。
なんか、誤魔化されちゃったような気がするな。とても大事な話をしていたのに、博士があんなことするから。だけど今さら続きを問いただす気にはなれなかった。涙も、いつの間にか止まってる。
考えなきゃいけないこと、不安なこと、たくさんあるのに。
ぼくの唇にはまだ博士の熱が残ってる。ちゃんと忘れなくちゃと思うのに、あの一瞬の感覚がぼくの身体に染みついて、いつまでも消えることはなかった。
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「材料、ちゃんと揃ってよかったね」
ぼくが持っている取っ手付きのバスケットの中には、毒があるとしか思えない色のキノコや葉っぱ、ヘビの卵や抜け殻なんかが入っている。ぜんぶ博士から採ってくるように言われたものだ。
博士は研究の他にも、いろんな材料を使って怪我や病気に効く薬も作ってる。月に二、三度、町から薬を買い付けに商人がやってきて、代わりに食料だとか生活用品だとか、必要なものと交換する仕組みになっていた。
「博士って、ぜんぜん人と関わってないわけじゃないんだね。こないだ商人の人とずっと立ち話してたよ。大きなリュックを背負った、タンクトップのおじさんでさ──操?」
ぼくは操がうなずきもせず黙りこくっていることに気づいて、足を止めた。
操はすぐにハッとして顔をあげ、「なんでもないよ」と言いながら首を振って見せる。でも、顔はうまく笑えていない。操は誤魔化すことを諦めて、小さく「ごめん」とこぼしながら、またうつむいてしまった。
「ねぇ操、大丈夫だよ。今日がダメでも、明日があるから。元気だそうよ」
「うん……」
操に元気がないのは、風で飛ばされたキャスケットが見つからないせいだった。
ここに来てもうすぐ一ヶ月。ぼくらは博士の小間使いとして仕事を覚えながら毎日を過ごして、その合間にキャスケットを探し続けている。迷子にならないように木の枝に紐をくくって印をつけながら、少しずつ探す範囲を広げていった。
だけどなかなか見つからない。今日もお使いをしながら探したけど、ぜんぜんダメだった。あれはお母さんがくれた大事なものだから、どうしても諦めきれないでいる気持ちはぼくも同じだ。でも、正直もうどうしたらいいのか、ぼくらには分からなくなっていた。
「操」
ぼくは自分がかぶっているキャスケットのツバを掴んで、サッと脱ぐと操の頭にかぶせてやった。目をまんまるにした操に、ニッコリ笑いかける。
「それ、かぶってていいよ」
「でも……」
「いいじゃん。ぼくたちなんでもはんぶんこ。そうでしょ?」
なくなってしまったものは戻ってこないかもしれないけど、だったら今あるものを仲良くはんぶんこすればいいだけの話だ。生まれたときから、ぼくらはずっとそうしてきたんだから。
ぼくはこうすればきっと操がまた笑ってくれると思っていた。だけど操は下唇を噛みしめて、やっぱりうつむくだけだった。
「操?」
「ねぇ操」
「うん」
「博士の研究、本当に完成すると思う……?」
ぼくは薄々気がついていた。操に元気がなかったのは、キャスケットのことだけじゃないってこと。だってその不安はぼくも感じていたことだから。
博士の研究は失敗続きだ。あの爆発音にも、焦げ臭さにも、そのあとの博士の不機嫌そうな顔にも、そろそろ慣れてきてしまった。
「お母さんとまた暮らせるようになる日、本当に来るのかな」
「来るよ! 絶対!」
ぼくは思わず大きな声を出していた。
「博士が諦めない限り、きっといつか成功するよ! 操だってそう言ったじゃん。ここにいれば、必ずお母さんを取り戻す方法が見つかるって!」
「操……」
「だからがんばってるんじゃないか! 料理だって掃除だって、本当はあんまり得意じゃないけど……でも、博士の弟子になれたら、今よりもっと手伝えることだって増えるはずだよ! だから……っ」
泣きそうになっているぼくに、操は「ごめんね」と言って笑った。下手くそだなってぼくは思う。だって無理してるのがバレバレの笑い方なんだもん。
「ちょっと弱気になっただけ。変なこと言っちゃって、ごめんな」
「……うぅん、わかるよ。操の気持ち、ぼくにも分かる」
ずっと苦しかった。ここに来てから覚えることがたくさんで、毎日が一瞬で過ぎてしまったような気がしていたけれど。本当はすごく長かった。お母さんと会えなくなってから、今日までずっと。
だけどぼくらは博士を信じてここにいるしかない。どんなに時間がかかっても、そうするしかないって決めたから。
「帰ろ。博士のご飯を作らなきゃ」
操はやっぱり無理してるって分かる下手くそな笑顔でそう言って、かぶっていたキャスケットのツバを摘むと、ぼくの頭にポンと戻した。
なんとか気を取り直して、ぼくも操と同じ、下手っぴな笑顔で大きく頷く。
「うん。今日こそ美味しいって言ってもらおうね」
博士は基本的に、食べられればなんでもいいという人だ。研究のこと以外、他はどうでもいいみたいだった。だから焦げたパンでも塩を入れすぎたスープでも、なにも言わずに黙々と食べる。生きるための作業って感じ。カエルの姿焼きを出したときは、ちょっとだけ嫌そうな顔をしてたけど。
ぼくらが来るまではカビたパンでも平気で齧っていたそうだから、それに比べたらちょっとは役に立ててると思う。
「博士、今日のご飯きっとビックリするだろうな」
バスケットには、今夜食べるために捕まえたトカゲが数匹、袋に入って暴れてる。博士がどんな反応するかを想像したら、ぼくはちょっぴり楽しくなってきた。
ぼくはあれから、ときどき博士と一緒にコーヒーを飲むようになった。
こないだ、珍しく朝から操の調子がいい日には、初めて操の分もカフェオレも作ってもらった。
だけど操はどうしてもコーヒーが得意じゃないみたいで、ちょっと口をつけただけで渋い顔をした。それを見てぼくは笑ってしまったけど、博士はなにか考え込んでいる様子だった。
その数日後、商人が薬を買いつけに家に来たとき、博士はタンクトップのおじさんにオレンジジュースを注文していた。廊下を雑巾がけしていたぼくは、その話をこっそり聞いていた。嬉しかった。博士はときどき嫌味を言ったりすることもあるけど、ぼくと操のことをとても大事にしてくれていると思う。
だからぼくの中では最近、博士のことを「あまり好きじゃない」から「ほんのちょっとだけ好きじゃない」に変わってて──だってたまに意地悪なのは変わらないし──博士がふいに見せる表情の変化は、見ててけっこう楽しかったりもする。
だからもう少し一緒にいたら、そのうちもっとちゃんと好きになれるかもしれないって、そう思うようになっていた。
「博士、また嫌そうな顔するのかな?」
操の顔に、やっと本当の笑顔が戻ってきた。
「するかもね。だって今日はトカゲの唐揚げだもん!」
ぼくらは顔を見合わせるとクスクス笑い、遠くに見える煙突の煙を目指して、手を繋ぎながら家に帰った。
*
その夜、ぼくはなかなか寝つけずにこっそり屋根裏部屋を抜け出した。
玄関の横にある朽ちた木のベンチに腰掛けて、ホットケーキを裏返したような丸い月をぼんやり見上げる。
頭の中では帰り道で操とした会話が、ずっとグルグル行ったり来たりしていた。
「そんな格好でいたら風邪ひくよ」
「うわっ」
とつぜん声がしたことに驚いて、ぼくはビクンと肩を跳ねさせた。
そこには裏庭から回り込んできたらしい博士がいて、膝丈まである無地のシャツを一枚ペロッと着ているだけのぼくに、少し呆れた表情を浮かべている。
「び、ビックリしたぁ~……オバケが出たかと思ったよ」
ぼくは大きく息をつき、胸に手を押し当てた。心臓がバクバクしてる。
博士はいつもの黒いなローブ姿で、夜の森に溶け込んでいるのがちょっと不気味だ。顔色が優れないように見えるのは、夕飯で出したトカゲのせいだと思う。博士は引きつった顔をしながら、それでもチビチビと口に入れて水で流し込んでいた。
「眠れない?」
博士はそう言ってぼくに近づいてくると、ローブを脱いでそっと肩にかけてくれた。あったかい。うなずく代わりにすんと鼻を鳴らすと、ちょっぴりほこり臭い中に博士の匂いが混ざっていた。なんだか少し、ホッとする。
「ありがと、博士」
ぼくはローブの合わせ目を内側から両手でぎゅっと掴んで、胸元に手繰り寄せた。やっぱり博士は大きいな。ぼくの身体はローブにすっぽり包まれてしまう。
「博士はショコラのところに行ってたの?」
「日課だからね」
博士がぼくの隣に腰掛ける。ボロボロのベンチが、ギシっと軋んだ音を立てた。
「花、ありがとう」
しばらく一緒に月を見上げていると、博士がぽつりとそう言った。
お使いから戻る途中、たまたま目についた花を摘んで持ち帰ったぼくらは、それをこっそりショコラの墓にお供えしておいた。名前は分からなかったけど、白くてとても綺麗な花だったから。
「ショコラ、喜んでるかな?」
「喜んでるよ。きっと」
「えへへ、そっか。よかった」
博士がふっと笑った気配がした。ぼくはそんな博士の横顔を見やる。
「ねぇ博士」
「なに?」
「博士は、どうしてお母さんを知ってたの?」
それはずっと気になっていたことだった。
初めて会ったときにも同じ質問をしたはずだけど、あのときの博士は勝手に心を読むことはしても、ぼくらとじっくり話そうとはしてくれなかった。
でも、今ならちゃんと答えてくれるんじゃないかって気がした。博士とはずいぶん打ち解けたと思うし、なによりお母さんのことだもん。ぼくには知る権利があるはずでしょ。
「……容子さんは、俺の恩師だった人だ」
思った通り、博士はお母さんの話をしてくれた。
「小さな田舎の魔法学校で、教師をしていた。10年以上も前のことだよ」
「そうだったんだ。知らなかった」
ぼくが知ってるお母さんは、修理屋さんをして生計を立てていた。ほつれた洋服だとか、壊れたオモチャだとか、ちょっとした機械なんかを直して元通りにする仕事だ。ぼくもよく手伝いをさせてもらってた。
「どうして先生やめちゃったの?」
「……娘がいたんだ。その一人娘が、疫病でね」
ぼくは家に飾ってあった写真立てのことを思いだした。可愛いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった黒髪の女の子。名前は、確か翔子っていったはずだ。ぼくらにとってはお姉ちゃんってことになる。
「ぼくはお姉ちゃんに会ったことがない。お母さんから聞いて、名前を知っているだけ。お母さんは、お姉ちゃんがいなくなったのが悲しくて、先生をやめちゃったってこと?」
博士はなにも言わなかった。ただ静かに月を見上げている。たぶん、それが答えなんだと思う。
その寂しそうな横顔に、ぼくは見覚えがあるような気がした。お母さんも、写真を見つめながらよくこんな顔をしていたことを思いだす。
博士も思いだしているのかな。失ってしまった、大切な誰かのことを。胸がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚えて、ぼくは静かにうつむいた。それからふと、思いついたんだ。
お姉ちゃんのことも、生き返らせてあげたいって。
これは名案だと、ぼくは思った。
そうすればお母さんだってきっと喜ぶ。ぼくと操と、お姉ちゃんとお母さん。家族4人で、一緒に暮らすことができる。博士の研究が成功すれば、いつかきっとその夢は叶うんだから。
「ねぇ博士。研究、きっと成功するよね?」
博士を見上げて、縋るような目をしながら問いかけた。だけど博士は月を見つめたまま、なにも言ってくれない。
分かってるんだ。とても難しい研究だから、そう簡単に返事なんかできないってこと。博士は何年も研究し続けて、そして何度も失敗し続けている。町の人達だってみんな言ってた。どうせ無理だって。叶いっこないって、笑ってた。
だけど博士の研究はぼくらの希望だから。操が心から笑えるようになるためには、博士の力が必要だった。
「お願い博士、うんって言って」
博士の横顔が、涙でどんどん滲んでいった。どんなに時間がかかってもいい。必ず完成するって、たった一言そう言ってくれるだけで、ぼくは安心できるのに。
それなのに、博士はやっぱりなにも言わずに月を見ていた。
「お願いだから、うんって言ってよ……」
ぼくは博士の腕に縋りついて泣いていた。お母さんを取り戻す日まで、もう泣かないって決めたのに。今までずっと我慢し続けていたものが、一気に溢れて止まらなくなってしまった。
肩を震わせて泣いていると、頬にあたたかなものが触れてぼくは顔をあげた。こらえるように細められた博士の瞳が、ゆらゆらと揺れている。
博士の白い指先が何度も涙をぬぐってくれるけど、その優しい感触にぼくはもっと悲しくなった。ひ、ひ、としゃくりを上げながら必死でその瞳を見返していると、博士が両手でぼくの濡れた頬を包み込んだ。
親指でそれぞれ両方の目尻を拭いながら、博士はじっとぼくの泣き顔を見つめている。なにか言いたそうに開きかけた唇を震わせて、だけどそこから言葉が発されることはなかった。代わりにゆっくりと、博士の顔が近づいてくる。
どうしてかぼくは無意識に息を止めて、自然とまぶたを閉じていた。唇に、熱くて柔らかなものが押しつけられる。
「っ!」
ぼくの肩がピクンと揺れるのと同時に、その感触は離れていった。おずおずと目を開けると、なぜか博士が狼狽えた表情で声をつまらせている。まるで自分がしたことに、自分で驚いているみたいだった。どうしてこんなことをしたのか、博士自身が戸惑っているような。
だけど、そんなのぼくにはもっと分からない。
「どうして、ちゅうしたの?」
寝る前にお母さんがしてくれていたキスとは違う。唇にするキスに特別な意味があることくらい、ぼくだって知ってるよ。だから分からない。どうして博士は、ぼくの唇にキスなんかしたんだろう?
博士は正面を向いてうなだれると、深い息を漏らした。膝の上に肘を置き、鬱陶しい前髪ごとガリガリと頭をかいている。その手つきは乱暴で、こんな博士の仕草を見たのは初めてだった。
やがて横目でチラリとぼくを見ると、上ずった声で「今のは忘れて」と言った。
ぼくは何度も目を瞬かせる。月明かりに照らされて、博士の頬がほんの少しだけ赤くなっていることに気がついた。それを見たら、急に変な気分になってしまった。とてもいけないことをしたような気がして、ぼくは素直にうなずいた。
だけど頭の中は軽くパニックになっている。顔が真っ赤になって、心臓が思いきり走ったときみたいにドキドキしていた。どうしよう。よく分からないけど、すごく困った。だってこんなの初めてだったし、それに、それに。
「博士、今の……忘れる、から」
「……うん」
「今のこと、操には言わないで」
なんでかは分からない。だけど操には、どうしても知られたくないと思ってしまった。おねしょをしていたのがバレてしまったときよりも、今のほうが何倍も恥ずかしい。操に知られたらって思うと、もっともっと恥ずかしいような気がした。
操に隠し事をするなんて、ちょっと前のぼくなら考えられないことだけど。ぼくが博士とキスをしたことは、ぼくらだけの秘密にしておきたかった。
博士は気が抜けたように笑ってぼくを見た。ぼくは博士の顔が見られない。だからうつむいて、もじもじと足の先を擦り合わせた。
なんか、誤魔化されちゃったような気がするな。とても大事な話をしていたのに、博士があんなことするから。だけど今さら続きを問いただす気にはなれなかった。涙も、いつの間にか止まってる。
考えなきゃいけないこと、不安なこと、たくさんあるのに。
ぼくの唇にはまだ博士の熱が残ってる。ちゃんと忘れなくちゃと思うのに、あの一瞬の感覚がぼくの身体に染みついて、いつまでも消えることはなかった。
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鋼丸が死んだのは、黒鋼が小六の夏だった。
あの日は朝から妙に気温が低く、いつもならまだ夜も明けないうちから鳴いているはずの虫の声も、一切しなかったのを覚えている。
「はがねまるが、うごきません」
五つになった知世が呟いた幼い声は、今でも鮮明に耳に残っている。
実感は、あまりなかった。生まれたときからいたはずの家族を喪ったというのに、悲しみは水のようにすんなりとは、胸に染み渡らなかった。
庭に鋼丸を眠らせてやるための穴を掘ったのは父だった。小さな子猫の身体を納めるよりも、鋼丸のための穴は大きくなければならなかった。
泣いている知世の声を背中に、黒鋼は家を飛び出した。無性にファイに会いたかった。夏休み中、家が経営する民宿の手伝いもあったけれど、合間を見て二人はほとんど毎日のように顔を合わせていた。
いつものように上手くファイを連れ出して、その手を引いて秘密基地へ行った。けれどそのときには、もう黒鋼の成長した身体は神木の穴を通り抜けることが出来なくなっていたから、大きな木の根元に座り込んだ。
何も言わず、両足を投げ出してぼんやりとしていた黒鋼に、ファイは幾度も顔を覗き込んできては不安そうにしていた。
どうしたの? どこか痛いの? お腹いたい?
問いかけられても、黒鋼はただ首を振った。いつものようにファイのふんわりとした笑顔を見たら、なんとなく気持ちが晴れるような気がしていたのに。
黒鋼は泣くこともできなければ、いつも通り彼に接することさえも出来なかった。
神木の隣には子猫のお墓。
あの悲しい雨の日のことを思うと、ファイには何も言えないと思っていた。死を恐れる彼は、誰よりも優しい心を持っていたから。泣かせてしまうことは、分かっていた。
それなのに。
小さくて柔らかな手がそっと黒鋼の手にかかって、悲しそうに揺れる瞳に見つめられると、面白いほど簡単に心は折れた。
「死んだんだ。犬が」
押し殺した声で、小さく呟いた。耳を澄ませていなければ聞こえないくらいの、微かな声で。それでもファイの耳にはちゃんと届いていた。
あの日、泣けないままでいた黒鋼の代わりに、ひとつしかない大きな瞳で、ファイは泣いた。
――だから今日も泣いているのだろうと、そう思っていた。
晴れ渡った夏の青空が、この日この場所にあまりにも不釣合いに感じられて、黒鋼は開け放たれた障子の向こうの空へ向けて目を眇めた。鼻腔を刺激する白檀の強い香り。低く単調な読経。うだる暑さ。それら全てに意識を奪われそうになる。
せめて気を逸らそうとこうして外へ目を向けても、遠くの景色がゆらゆらと揺れて見えるせいで、やはり意識はぼんやりとしたまま、気だけが滅入っていた。
幼い頃からの躾もあり、正座は苦ではないけれど、永遠のようにも感じられる時間は身体全体に圧し掛かるようで、早く足を伸ばしたいという欲求が募る。隣で喪服に身を包み、神妙な面持ちでいる母に悟られぬよう、黒鋼は小さく溜息を零した。
広い座敷ではまさに葬儀が行われている最中で、出席している人間はごく僅かだった。どれも近所の見知った顔だが、黒鋼が知る限り、本来こういった場所に集まる人数にしては、あまりにも少ない。田舎の農村では、葬式ともなると近所中から人が集まり、遺族も他人もなく皆が手を貸し葬儀を行うものだ。
黒鋼の母も例外ではなく、多いときではひと月の間に二件三件と続くこともある。
不思議なもので、どこかの家で不幸があると、その後まるで後を追うようにして、近辺でポツリポツリと不幸が重なることがあるのだ。
だからこの悲報が舞い込んだときにも、黒鋼は「またか」と、そう他人事のように思っただけだった。けれど母から聞かされた内容は、黒鋼にとって決して他人事ではなかった。
黒鋼は真っ直ぐ前へ視線を送る。モノクロの写真に写る男は、自分が知るよりも幾分か若く、そして表情も鬼のように歪んではいない。黒鋼の胸中には複雑な思いが渦巻いていた。
長い間、ファイを目の仇として苦しめ続けてきた存在が、死んだ。
人の死を手放しで喜ぶことは決してできないはずなのに、黒鋼は長きに渡る胸の痞えが取れたような気さえした。そうかと言ってこの町が、未だにファイを拒み続けていることに変わりは無い。だけど、ひとまず家の中での脅威は去ったはずだ。
そんなふうに安堵している自分には、多少なりとも嫌悪感がある。
黒鋼は小さく縮こまって肩を震わせている、ファイの祖母である人の背中を眺めた。時おり震える姿は哀れで、罪悪感がどうしようもなく膨らんだ。あんな男でも、彼女にとっては唯一の夫であり、長い時を共に過ごした、愛すべき家族なのだから。
それからすぐに、隣にある金色の髪を見た。今はその背中しか見ることはできないが、葬儀が始まる直前に見たファイは、泣いてはいなかった。ただ蒼白な顔を無表情に強張らせ、やや下向き加減に視線を伏せているだけだった。
まるで何の感情も持たない、人形のような顔。それを見て、黒鋼は衝撃を受けた。不幸があったのだから、いつも通り笑顔でいるはずがないことは分かっていたのに。
黒鋼はファイの泣き顔しか想像していなかったのだ。ずっと自分を忌み嫌い、傷つけてきた存在だったとしても、優しいファイは酷く悲しんでいるのだろうと。
けれどあの無表情からは、一切の感情も読み取れなかった。
母に無理矢理くっついて来て、早い時間からこの場所にいたけれど、広い屋敷内でファイを見つけることは出来なかった。どこかで泣いているなら、慰めてやるのは自分の務めだと思っていたから。
それなのに今、ファイの背は驚くほどピシャリと伸びて、真っ直ぐ前を向いている。黒鋼はこうして改めて遠目から見て、初めてファイが傍らの祖母よりも一回りほど身体が大きくなっていることに、気がついた。
いつの間に、これほど大きくなっていたのだろう? あの小さくて細いだけだったはずの子供は、どこへ行ってしまったのだろうか。
*
葬儀が終わってから、黒鋼はすぐにファイを掴まえようとした。けれどまるで煙にでも巻かれたように、彼の姿は一瞬で消えてしまったようだった。来たときと同じく、広い屋敷の中を探し回った。庭に出て、隣接する元は茶屋として客を持て成していたという、小さな建物の中も覗き込んだけれど、見つけられない。
フラフラと辺りを見回していると、遠くから母の呼ぶ声がした。
「何をしているの? てっきりすぐに追いかけたものとばかり思っていたのに」
「母さん、あいつを見たのか?」
喪服に身を包み、長い黒髪をすっかり綺麗に纏めている母はコクリと頷いた。
「お式が終わってすぐに、玄関を飛び出して行ったの、見てなかったの?」
そうか。いくら敷地内を探しても見つからないわけだ。実はあれでいて、ファイは黒鋼に引けを取らぬほど足が速かったりする。
「母さんそろそろお暇するけど、帰りは気をつけてね」
心配そうな母の声に返事をする余裕もなく、黒鋼は炎天下の中を弾かれたように砂を蹴って走り出した。
*
ファイの行く場所など、ひとつしかない。昔は毎日のように通い詰めていた、あの場所だ。黒鋼は暑さをもろともしない勢いで、懐かしい道を全力で駆け抜けた。
小学校の裏手に張り巡らされたロープを飛び越え、張り出した枝が制服のシャツやズボンを叩くのも意に介さず、オウトツの激しい道をひた走る。やがて相変わらず古臭さだけが目立つ石の鳥居をくぐれば、巨大な神木はあの頃のままの姿でそこにあった。
最後にここを訪れたのは、ファイと共に子猫の墓に花を手向けたときだった。
今では休日も部活動で時間を取られるせいで、ここを頻繁に訪れることはない。それでもまだ一月ほどしか経過していないはずなのに、なぜだかそれが遠い昔のことのように思えるのが不思議だった。
黒鋼は古びた柵を飛び越え、神木に体当たりするようにしてようやく足を止めることが出来た。今さら思い出したかのように汗が噴出して、心臓が異常な速度で飛び跳ねる。それでも黒鋼は声を張り上げた。
「おい! いるんだろ!」
なぜこんなにも焦っているのか、まるで自分を避けるようにして姿を消したファイに、苛々が募る。
「返事しろ!!」
中で、ビクリと身体を震わせ、息をのむ気配が伝わった。やっぱりいた。確信してはいたものの、ようやく間近で気配を感じ取ることが出来た安堵から、黒鋼は整わぬ息で思わずその場にしゃがみ込む。
「おまえ……まだ入れるんだな、そこ」
なんだ、やっぱりチビのまんまじゃねぇか。そう思うと、不思議と苛立ちが晴れていった。
「ばあさん心配させんな。帰るぞ」
「いや」
「あ?」
神木の内部から、くぐもった拒絶を表す声が聞こえた。
「オレのことはほっといて。黒たんは帰って」
「なに言ってやがる……てめぇ置いて帰れるわけねぇだろ」
「いいから帰って!!」
ずっと煩いくらいに泣き喚いていた虫達の声が消えた。
ファイが声を荒げたから、というよりも。
その荒げられた声が不自然に擦れて引っくり返っていたことに、黒鋼は目を見開いた。まだ十分に高さを残す声の中に、それは大きな違和感となって耳の奥にこびりつく。
黒鋼の足元には、干乾びたセミの抜け殻が落ちていた。窮屈な幼い殻を脱ぎ捨てて、短い夏を生き抜くために、大人になった彼らが羽ばたいていった証が。
黒鋼はまるで足掻くように、必死であの幼い声を思い出そうとした。けれど、分からなくなってしまった。あの小さな子供は、確かにこの大きな殻の中にいるのに。
近くにいすぎて、それが当たり前すぎて、何も見えていなかったなんて。
黒鋼は一度大きく息を吸い込み、平静を装うと、再び静かに語りかけた。
「今日のおまえは……まぁ、当たり前っちゃあ当たり前なんだろうが、様子が変だ。俺にも言えねぇのか」
中で蠢く気配と、迷うような気配が同時に窺える。黒鋼はしゃがんでいた態勢から立ち上がると、神木に身体を寄せてただひたすら神経を研ぎ澄ました。
「顔、見せてくれ。頼むから」
そう、それだけでいい。付き纏う不安も、恐れさえも、それだけで。ああ自分はなんと弱い人間なのだろう。日常が僅かに綻んだだけで。
見えていなかっただけに過ぎない変化に気づかされたことが、その見慣れたはずの姿が見えないことが。どうして、こんなにも。
「頼むから」
神木の中の気配が大きく揺らいだ気がしたけれど、ファイは姿を現さなかった。代わりに、淡々とした感情のない声だけが小さく空気を震わせた。
「オレ、最低なんだ」
「……どうして」
「おじいちゃんは、オレのお父さんは鬼だって言ってた……。でも、オレは気づいてないだけだったんだ……」
黒鋼は決して聞き逃してなるものかと、よりいっそう巨大な神木に身を寄せた。自分自身に言い聞かせているかのような声が、再び暑さの中で悲鳴を上げ出した夏の虫たちによって、掻き消えてしまいそうで。
「おじいちゃんは、オレのことを言ってたんだよ。だって、オレは鬼の子なんだもの。だから悲しくないんだ。おじいちゃんが死んだのに、おばあちゃんが泣いているのに。ちっとも悲しくない。ようやくわかったんだ……こんなだからオレは、みんなに嫌われてるんだよ。黒たんも、きっと嫌いになるよ。もう、オレの手なんか握ってくれないよ……」
黒鋼は目を見開いた。ファイはちゃんと知っていた。いつだってヘラヘラと無邪気に笑いながらも、自分の存在が疎まれ、弾かれていることに、ちゃんと傷ついていた。
黒鋼はファイのことを、ずっと『足りない子』なのだと思っていたけれど、本当はそうじゃなかった。後悔に似た感情は、すぐに怒りにすり替えられた。強く拳を握り締める。
「おまえ、それ本気で言ってんのか」
「…………」
沈黙は肯定だった。黒鋼は一つ、神木目がけて拳を突きたてる。
なんという罰当たりな行為だろう。けれど、こんなもんじゃ終わらない。
「ずっと出てこないつもりなんだな?」
「……そうだよ。だって誰も入ってこれないもの。黒たんだって、もう……」
「わかった」
そこにいろ、とだけ言い残して、黒鋼は再び元来た道を全速力で駆け出した。縺れそうになる足を勢いだけで奮い立たせて、やがて人気のない懐かしい小学校に辿り着く。
黒鋼の記憶が確かならば、校庭の脇の体育用具入れの鍵は、新しいものに代えられていない限り、壊れているはずだった。
そして中には――。
「あった……!」
土や埃や、白い粉に塗れている大きな鉄のスコップ。それを肩に担いで、またしても走り出す。身体は汗だくで、休むことなく走り続けた身体は水分と休息を求めて悲鳴を上げていた。それでも構うものかと、歯を食いしばる。
鳥居をくぐり、柵を越えると神木の小さな切込みに鉄の先端を思い切り打ちつけた。
「なに……?」
ガツンガツンと激しく打ち付け、木屑を散らしながら切り込みを削り出した黒鋼に、ファイが悲鳴を上げる。
「なにしてるの!?」
「うるせぇ!! 一人になんかなれねぇってこと、思い知らせてやるから待ってろ!!」
「やめて!! 黒たんダメだよ!!」
それでも、待っているような気がした。全てを拒むようなことを口にしながら、ファイは引き摺り上げてくれる強さを待っている。そう信じて、黒鋼はさらに激しくスコップを突き立てた。せめてこの身を潜り込ませるだけの穴さえ広がればいい。
滴る汗を拭うこともせず、腕の筋肉が悲鳴を上げるのも構わず必死で叩きつけ、やがて分厚い木の壁が鈍く軋んだ音を立てながら剥がれ落ちた。
黒鋼はスコップを投げ出すと、その僅かに広がった穴に向かって思い切り頭から突っ込んだ。両手を、肩を、全身を捻るように前へ前へと進ませる。デコボコとした硬い穴は、無理に押し入ろうとする侵入者を拒み、頬や剥き出しの腕に擦り傷をお見舞いしてくれた。
ファイは地に両手と両膝をつき、大きな瞳を見開いていた。よく見れば、そんな彼の白い頬や腕にだって擦り傷がくっきりと刻まれている。この入り口は、最早ファイをも拒んだ証だった。
黒鋼は強引な進入が成功したと同時に腕を伸ばした。傷ついた白い腕を掴んで思い切り引き寄せると、その身体は驚くほど簡単に胸の中に倒れこむようにして納まった。
細い肩を、小さな頭を、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめると「ばかやろう」と言った。ファイは暫しの間、ただ呆然としていたが、やがて大きく身体を震わせ、しゃくり上げながら黒鋼の胸に縋りついて泣いた。
「バカなのっ、黒たん、だよぉ……! 神様の木なのに……っ、ゼッタイ、絶対、罰が当たるんだから……!」
「はっ……知るかよそんなもん。当たるんだったらとっくの昔に当たってら」
こんな場所で遊んでいた時点で、とっくに。
それでも罰が当たるというのなら、喜んでこの身に受けてやろう。腕や足の一本や二本、もがれたとしても構わない。この細いばかりの身体を抱きしめるだけの腕が一本でもあれば、それでよかった。
「おまえの親父やお袋の話を、俺は知らねぇ。でもこれだけは言える。おまえは、人間だ」
葬式に集まったごく小数の人々。その中に、ファイの両親と思しき人間は見当たらなかった。鬼の姿をした生き物など、一人も。そしてもし本当にファイが鬼なのだとすれば、それは黒鋼も同じことだった。一人の人間が死んでしまったというのに、安堵すら覚えたのは紛れもない真実なのだから。けれど黒鋼は、自分を鬼だなんて思いはしない。
そんなものはいない。いたとしても、死んでしまった。
だから。
「一人で行くなよ。逃げ出してぇなら、俺がおまえを連れてってやるから」
この世界はきっと狂っている。祖父の死をもってしか、ファイは救われなかった。だがそれすらも、彼を傷つけ苦しめた。泣けないことを罪と受け止め、もう充分に血を流したはずの胸を痛めていた。
優しくて、可哀想なファイ。だから守りたい。もう泣かなくていいように。傷つかなくていいように。
「約束する。俺は、おまえの手を絶対に離さねぇ」
はっとして顔を上げたファイを見下ろす。驚くほど間近で見る青い瞳は、まるで夢を見ているみたいな美しさだった。次から次へと零れ落ちる透明な涙さえ、宝石のようで。
いつの間にか夕陽がたちこめ、オレンジ色の光の柱がふたりを静かに包み込んでいた。どんなに帰りが遅れようが、心配してくれる人はいても、殴りつける者はもういないから。
ファイの涙が乾いて、またいつものようにふにゃりと微笑むまで、黒鋼が抱きしめる腕を解くことはなかった。
それは十四歳の夏のこと。
幼い日の、幼い約束。
その儚さなど、知りもしないで。
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