2025/08/07 Thu 神罰の木 鋼丸が死んだのは、黒鋼が小六の夏だった。 あの日は朝から妙に気温が低く、いつもならまだ夜も明けないうちから鳴いているはずの虫の声も、一切しなかったのを覚えている。 「はがねまるが、うごきません」 五つになった知世が呟いた幼い声は、今でも鮮明に耳に残っている。 実感は、あまりなかった。生まれたときからいたはずの家族を喪ったというのに、悲しみは水のようにすんなりとは、胸に染み渡らなかった。 庭に鋼丸を眠らせてやるための穴を掘ったのは父だった。小さな子猫の身体を納めるよりも、鋼丸のための穴は大きくなければならなかった。 泣いている知世の声を背中に、黒鋼は家を飛び出した。無性にファイに会いたかった。夏休み中、家が経営する民宿の手伝いもあったけれど、合間を見て二人はほとんど毎日のように顔を合わせていた。 いつものように上手くファイを連れ出して、その手を引いて秘密基地へ行った。けれどそのときには、もう黒鋼の成長した身体は神木の穴を通り抜けることが出来なくなっていたから、大きな木の根元に座り込んだ。 何も言わず、両足を投げ出してぼんやりとしていた黒鋼に、ファイは幾度も顔を覗き込んできては不安そうにしていた。 どうしたの? どこか痛いの? お腹いたい? 問いかけられても、黒鋼はただ首を振った。いつものようにファイのふんわりとした笑顔を見たら、なんとなく気持ちが晴れるような気がしていたのに。 黒鋼は泣くこともできなければ、いつも通り彼に接することさえも出来なかった。 神木の隣には子猫のお墓。 あの悲しい雨の日のことを思うと、ファイには何も言えないと思っていた。死を恐れる彼は、誰よりも優しい心を持っていたから。泣かせてしまうことは、分かっていた。 それなのに。 小さくて柔らかな手がそっと黒鋼の手にかかって、悲しそうに揺れる瞳に見つめられると、面白いほど簡単に心は折れた。 「死んだんだ。犬が」 押し殺した声で、小さく呟いた。耳を澄ませていなければ聞こえないくらいの、微かな声で。それでもファイの耳にはちゃんと届いていた。 あの日、泣けないままでいた黒鋼の代わりに、ひとつしかない大きな瞳で、ファイは泣いた。 ――だから今日も泣いているのだろうと、そう思っていた。 晴れ渡った夏の青空が、この日この場所にあまりにも不釣合いに感じられて、黒鋼は開け放たれた障子の向こうの空へ向けて目を眇めた。鼻腔を刺激する白檀の強い香り。低く単調な読経。うだる暑さ。それら全てに意識を奪われそうになる。 せめて気を逸らそうとこうして外へ目を向けても、遠くの景色がゆらゆらと揺れて見えるせいで、やはり意識はぼんやりとしたまま、気だけが滅入っていた。 幼い頃からの躾もあり、正座は苦ではないけれど、永遠のようにも感じられる時間は身体全体に圧し掛かるようで、早く足を伸ばしたいという欲求が募る。隣で喪服に身を包み、神妙な面持ちでいる母に悟られぬよう、黒鋼は小さく溜息を零した。 広い座敷ではまさに葬儀が行われている最中で、出席している人間はごく僅かだった。どれも近所の見知った顔だが、黒鋼が知る限り、本来こういった場所に集まる人数にしては、あまりにも少ない。田舎の農村では、葬式ともなると近所中から人が集まり、遺族も他人もなく皆が手を貸し葬儀を行うものだ。 黒鋼の母も例外ではなく、多いときではひと月の間に二件三件と続くこともある。 不思議なもので、どこかの家で不幸があると、その後まるで後を追うようにして、近辺でポツリポツリと不幸が重なることがあるのだ。 だからこの悲報が舞い込んだときにも、黒鋼は「またか」と、そう他人事のように思っただけだった。けれど母から聞かされた内容は、黒鋼にとって決して他人事ではなかった。 黒鋼は真っ直ぐ前へ視線を送る。モノクロの写真に写る男は、自分が知るよりも幾分か若く、そして表情も鬼のように歪んではいない。黒鋼の胸中には複雑な思いが渦巻いていた。 長い間、ファイを目の仇として苦しめ続けてきた存在が、死んだ。 人の死を手放しで喜ぶことは決してできないはずなのに、黒鋼は長きに渡る胸の痞えが取れたような気さえした。そうかと言ってこの町が、未だにファイを拒み続けていることに変わりは無い。だけど、ひとまず家の中での脅威は去ったはずだ。 そんなふうに安堵している自分には、多少なりとも嫌悪感がある。 黒鋼は小さく縮こまって肩を震わせている、ファイの祖母である人の背中を眺めた。時おり震える姿は哀れで、罪悪感がどうしようもなく膨らんだ。あんな男でも、彼女にとっては唯一の夫であり、長い時を共に過ごした、愛すべき家族なのだから。 それからすぐに、隣にある金色の髪を見た。今はその背中しか見ることはできないが、葬儀が始まる直前に見たファイは、泣いてはいなかった。ただ蒼白な顔を無表情に強張らせ、やや下向き加減に視線を伏せているだけだった。 まるで何の感情も持たない、人形のような顔。それを見て、黒鋼は衝撃を受けた。不幸があったのだから、いつも通り笑顔でいるはずがないことは分かっていたのに。 黒鋼はファイの泣き顔しか想像していなかったのだ。ずっと自分を忌み嫌い、傷つけてきた存在だったとしても、優しいファイは酷く悲しんでいるのだろうと。 けれどあの無表情からは、一切の感情も読み取れなかった。 母に無理矢理くっついて来て、早い時間からこの場所にいたけれど、広い屋敷内でファイを見つけることは出来なかった。どこかで泣いているなら、慰めてやるのは自分の務めだと思っていたから。 それなのに今、ファイの背は驚くほどピシャリと伸びて、真っ直ぐ前を向いている。黒鋼はこうして改めて遠目から見て、初めてファイが傍らの祖母よりも一回りほど身体が大きくなっていることに、気がついた。 いつの間に、これほど大きくなっていたのだろう? あの小さくて細いだけだったはずの子供は、どこへ行ってしまったのだろうか。 * 葬儀が終わってから、黒鋼はすぐにファイを掴まえようとした。けれどまるで煙にでも巻かれたように、彼の姿は一瞬で消えてしまったようだった。来たときと同じく、広い屋敷の中を探し回った。庭に出て、隣接する元は茶屋として客を持て成していたという、小さな建物の中も覗き込んだけれど、見つけられない。 フラフラと辺りを見回していると、遠くから母の呼ぶ声がした。 「何をしているの? てっきりすぐに追いかけたものとばかり思っていたのに」 「母さん、あいつを見たのか?」 喪服に身を包み、長い黒髪をすっかり綺麗に纏めている母はコクリと頷いた。 「お式が終わってすぐに、玄関を飛び出して行ったの、見てなかったの?」 そうか。いくら敷地内を探しても見つからないわけだ。実はあれでいて、ファイは黒鋼に引けを取らぬほど足が速かったりする。 「母さんそろそろお暇するけど、帰りは気をつけてね」 心配そうな母の声に返事をする余裕もなく、黒鋼は炎天下の中を弾かれたように砂を蹴って走り出した。 * ファイの行く場所など、ひとつしかない。昔は毎日のように通い詰めていた、あの場所だ。黒鋼は暑さをもろともしない勢いで、懐かしい道を全力で駆け抜けた。 小学校の裏手に張り巡らされたロープを飛び越え、張り出した枝が制服のシャツやズボンを叩くのも意に介さず、オウトツの激しい道をひた走る。やがて相変わらず古臭さだけが目立つ石の鳥居をくぐれば、巨大な神木はあの頃のままの姿でそこにあった。 最後にここを訪れたのは、ファイと共に子猫の墓に花を手向けたときだった。 今では休日も部活動で時間を取られるせいで、ここを頻繁に訪れることはない。それでもまだ一月ほどしか経過していないはずなのに、なぜだかそれが遠い昔のことのように思えるのが不思議だった。 黒鋼は古びた柵を飛び越え、神木に体当たりするようにしてようやく足を止めることが出来た。今さら思い出したかのように汗が噴出して、心臓が異常な速度で飛び跳ねる。それでも黒鋼は声を張り上げた。 「おい! いるんだろ!」 なぜこんなにも焦っているのか、まるで自分を避けるようにして姿を消したファイに、苛々が募る。 「返事しろ!!」 中で、ビクリと身体を震わせ、息をのむ気配が伝わった。やっぱりいた。確信してはいたものの、ようやく間近で気配を感じ取ることが出来た安堵から、黒鋼は整わぬ息で思わずその場にしゃがみ込む。 「おまえ……まだ入れるんだな、そこ」 なんだ、やっぱりチビのまんまじゃねぇか。そう思うと、不思議と苛立ちが晴れていった。 「ばあさん心配させんな。帰るぞ」 「いや」 「あ?」 神木の内部から、くぐもった拒絶を表す声が聞こえた。 「オレのことはほっといて。黒たんは帰って」 「なに言ってやがる……てめぇ置いて帰れるわけねぇだろ」 「いいから帰って!!」 ずっと煩いくらいに泣き喚いていた虫達の声が消えた。 ファイが声を荒げたから、というよりも。 その荒げられた声が不自然に擦れて引っくり返っていたことに、黒鋼は目を見開いた。まだ十分に高さを残す声の中に、それは大きな違和感となって耳の奥にこびりつく。 黒鋼の足元には、干乾びたセミの抜け殻が落ちていた。窮屈な幼い殻を脱ぎ捨てて、短い夏を生き抜くために、大人になった彼らが羽ばたいていった証が。 黒鋼はまるで足掻くように、必死であの幼い声を思い出そうとした。けれど、分からなくなってしまった。あの小さな子供は、確かにこの大きな殻の中にいるのに。 近くにいすぎて、それが当たり前すぎて、何も見えていなかったなんて。 黒鋼は一度大きく息を吸い込み、平静を装うと、再び静かに語りかけた。 「今日のおまえは……まぁ、当たり前っちゃあ当たり前なんだろうが、様子が変だ。俺にも言えねぇのか」 中で蠢く気配と、迷うような気配が同時に窺える。黒鋼はしゃがんでいた態勢から立ち上がると、神木に身体を寄せてただひたすら神経を研ぎ澄ました。 「顔、見せてくれ。頼むから」 そう、それだけでいい。付き纏う不安も、恐れさえも、それだけで。ああ自分はなんと弱い人間なのだろう。日常が僅かに綻んだだけで。 見えていなかっただけに過ぎない変化に気づかされたことが、その見慣れたはずの姿が見えないことが。どうして、こんなにも。 「頼むから」 神木の中の気配が大きく揺らいだ気がしたけれど、ファイは姿を現さなかった。代わりに、淡々とした感情のない声だけが小さく空気を震わせた。 「オレ、最低なんだ」 「……どうして」 「おじいちゃんは、オレのお父さんは鬼だって言ってた……。でも、オレは気づいてないだけだったんだ……」 黒鋼は決して聞き逃してなるものかと、よりいっそう巨大な神木に身を寄せた。自分自身に言い聞かせているかのような声が、再び暑さの中で悲鳴を上げ出した夏の虫たちによって、掻き消えてしまいそうで。 「おじいちゃんは、オレのことを言ってたんだよ。だって、オレは鬼の子なんだもの。だから悲しくないんだ。おじいちゃんが死んだのに、おばあちゃんが泣いているのに。ちっとも悲しくない。ようやくわかったんだ……こんなだからオレは、みんなに嫌われてるんだよ。黒たんも、きっと嫌いになるよ。もう、オレの手なんか握ってくれないよ……」 黒鋼は目を見開いた。ファイはちゃんと知っていた。いつだってヘラヘラと無邪気に笑いながらも、自分の存在が疎まれ、弾かれていることに、ちゃんと傷ついていた。 黒鋼はファイのことを、ずっと『足りない子』なのだと思っていたけれど、本当はそうじゃなかった。後悔に似た感情は、すぐに怒りにすり替えられた。強く拳を握り締める。 「おまえ、それ本気で言ってんのか」 「…………」 沈黙は肯定だった。黒鋼は一つ、神木目がけて拳を突きたてる。 なんという罰当たりな行為だろう。けれど、こんなもんじゃ終わらない。 「ずっと出てこないつもりなんだな?」 「……そうだよ。だって誰も入ってこれないもの。黒たんだって、もう……」 「わかった」 そこにいろ、とだけ言い残して、黒鋼は再び元来た道を全速力で駆け出した。縺れそうになる足を勢いだけで奮い立たせて、やがて人気のない懐かしい小学校に辿り着く。 黒鋼の記憶が確かならば、校庭の脇の体育用具入れの鍵は、新しいものに代えられていない限り、壊れているはずだった。 そして中には――。 「あった……!」 土や埃や、白い粉に塗れている大きな鉄のスコップ。それを肩に担いで、またしても走り出す。身体は汗だくで、休むことなく走り続けた身体は水分と休息を求めて悲鳴を上げていた。それでも構うものかと、歯を食いしばる。 鳥居をくぐり、柵を越えると神木の小さな切込みに鉄の先端を思い切り打ちつけた。 「なに……?」 ガツンガツンと激しく打ち付け、木屑を散らしながら切り込みを削り出した黒鋼に、ファイが悲鳴を上げる。 「なにしてるの!?」 「うるせぇ!! 一人になんかなれねぇってこと、思い知らせてやるから待ってろ!!」 「やめて!! 黒たんダメだよ!!」 それでも、待っているような気がした。全てを拒むようなことを口にしながら、ファイは引き摺り上げてくれる強さを待っている。そう信じて、黒鋼はさらに激しくスコップを突き立てた。せめてこの身を潜り込ませるだけの穴さえ広がればいい。 滴る汗を拭うこともせず、腕の筋肉が悲鳴を上げるのも構わず必死で叩きつけ、やがて分厚い木の壁が鈍く軋んだ音を立てながら剥がれ落ちた。 黒鋼はスコップを投げ出すと、その僅かに広がった穴に向かって思い切り頭から突っ込んだ。両手を、肩を、全身を捻るように前へ前へと進ませる。デコボコとした硬い穴は、無理に押し入ろうとする侵入者を拒み、頬や剥き出しの腕に擦り傷をお見舞いしてくれた。 ファイは地に両手と両膝をつき、大きな瞳を見開いていた。よく見れば、そんな彼の白い頬や腕にだって擦り傷がくっきりと刻まれている。この入り口は、最早ファイをも拒んだ証だった。 黒鋼は強引な進入が成功したと同時に腕を伸ばした。傷ついた白い腕を掴んで思い切り引き寄せると、その身体は驚くほど簡単に胸の中に倒れこむようにして納まった。 細い肩を、小さな頭を、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめると「ばかやろう」と言った。ファイは暫しの間、ただ呆然としていたが、やがて大きく身体を震わせ、しゃくり上げながら黒鋼の胸に縋りついて泣いた。 「バカなのっ、黒たん、だよぉ……! 神様の木なのに……っ、ゼッタイ、絶対、罰が当たるんだから……!」 「はっ……知るかよそんなもん。当たるんだったらとっくの昔に当たってら」 こんな場所で遊んでいた時点で、とっくに。 それでも罰が当たるというのなら、喜んでこの身に受けてやろう。腕や足の一本や二本、もがれたとしても構わない。この細いばかりの身体を抱きしめるだけの腕が一本でもあれば、それでよかった。 「おまえの親父やお袋の話を、俺は知らねぇ。でもこれだけは言える。おまえは、人間だ」 葬式に集まったごく小数の人々。その中に、ファイの両親と思しき人間は見当たらなかった。鬼の姿をした生き物など、一人も。そしてもし本当にファイが鬼なのだとすれば、それは黒鋼も同じことだった。一人の人間が死んでしまったというのに、安堵すら覚えたのは紛れもない真実なのだから。けれど黒鋼は、自分を鬼だなんて思いはしない。 そんなものはいない。いたとしても、死んでしまった。 だから。 「一人で行くなよ。逃げ出してぇなら、俺がおまえを連れてってやるから」 この世界はきっと狂っている。祖父の死をもってしか、ファイは救われなかった。だがそれすらも、彼を傷つけ苦しめた。泣けないことを罪と受け止め、もう充分に血を流したはずの胸を痛めていた。 優しくて、可哀想なファイ。だから守りたい。もう泣かなくていいように。傷つかなくていいように。 「約束する。俺は、おまえの手を絶対に離さねぇ」 はっとして顔を上げたファイを見下ろす。驚くほど間近で見る青い瞳は、まるで夢を見ているみたいな美しさだった。次から次へと零れ落ちる透明な涙さえ、宝石のようで。 いつの間にか夕陽がたちこめ、オレンジ色の光の柱がふたりを静かに包み込んでいた。どんなに帰りが遅れようが、心配してくれる人はいても、殴りつける者はもういないから。 ファイの涙が乾いて、またいつものようにふにゃりと微笑むまで、黒鋼が抱きしめる腕を解くことはなかった。 それは十四歳の夏のこと。 幼い日の、幼い約束。 その儚さなど、知りもしないで。 ←戻る ・ 次へ→
鋼丸が死んだのは、黒鋼が小六の夏だった。
あの日は朝から妙に気温が低く、いつもならまだ夜も明けないうちから鳴いているはずの虫の声も、一切しなかったのを覚えている。
「はがねまるが、うごきません」
五つになった知世が呟いた幼い声は、今でも鮮明に耳に残っている。
実感は、あまりなかった。生まれたときからいたはずの家族を喪ったというのに、悲しみは水のようにすんなりとは、胸に染み渡らなかった。
庭に鋼丸を眠らせてやるための穴を掘ったのは父だった。小さな子猫の身体を納めるよりも、鋼丸のための穴は大きくなければならなかった。
泣いている知世の声を背中に、黒鋼は家を飛び出した。無性にファイに会いたかった。夏休み中、家が経営する民宿の手伝いもあったけれど、合間を見て二人はほとんど毎日のように顔を合わせていた。
いつものように上手くファイを連れ出して、その手を引いて秘密基地へ行った。けれどそのときには、もう黒鋼の成長した身体は神木の穴を通り抜けることが出来なくなっていたから、大きな木の根元に座り込んだ。
何も言わず、両足を投げ出してぼんやりとしていた黒鋼に、ファイは幾度も顔を覗き込んできては不安そうにしていた。
どうしたの? どこか痛いの? お腹いたい?
問いかけられても、黒鋼はただ首を振った。いつものようにファイのふんわりとした笑顔を見たら、なんとなく気持ちが晴れるような気がしていたのに。
黒鋼は泣くこともできなければ、いつも通り彼に接することさえも出来なかった。
神木の隣には子猫のお墓。
あの悲しい雨の日のことを思うと、ファイには何も言えないと思っていた。死を恐れる彼は、誰よりも優しい心を持っていたから。泣かせてしまうことは、分かっていた。
それなのに。
小さくて柔らかな手がそっと黒鋼の手にかかって、悲しそうに揺れる瞳に見つめられると、面白いほど簡単に心は折れた。
「死んだんだ。犬が」
押し殺した声で、小さく呟いた。耳を澄ませていなければ聞こえないくらいの、微かな声で。それでもファイの耳にはちゃんと届いていた。
あの日、泣けないままでいた黒鋼の代わりに、ひとつしかない大きな瞳で、ファイは泣いた。
――だから今日も泣いているのだろうと、そう思っていた。
晴れ渡った夏の青空が、この日この場所にあまりにも不釣合いに感じられて、黒鋼は開け放たれた障子の向こうの空へ向けて目を眇めた。鼻腔を刺激する白檀の強い香り。低く単調な読経。うだる暑さ。それら全てに意識を奪われそうになる。
せめて気を逸らそうとこうして外へ目を向けても、遠くの景色がゆらゆらと揺れて見えるせいで、やはり意識はぼんやりとしたまま、気だけが滅入っていた。
幼い頃からの躾もあり、正座は苦ではないけれど、永遠のようにも感じられる時間は身体全体に圧し掛かるようで、早く足を伸ばしたいという欲求が募る。隣で喪服に身を包み、神妙な面持ちでいる母に悟られぬよう、黒鋼は小さく溜息を零した。
広い座敷ではまさに葬儀が行われている最中で、出席している人間はごく僅かだった。どれも近所の見知った顔だが、黒鋼が知る限り、本来こういった場所に集まる人数にしては、あまりにも少ない。田舎の農村では、葬式ともなると近所中から人が集まり、遺族も他人もなく皆が手を貸し葬儀を行うものだ。
黒鋼の母も例外ではなく、多いときではひと月の間に二件三件と続くこともある。
不思議なもので、どこかの家で不幸があると、その後まるで後を追うようにして、近辺でポツリポツリと不幸が重なることがあるのだ。
だからこの悲報が舞い込んだときにも、黒鋼は「またか」と、そう他人事のように思っただけだった。けれど母から聞かされた内容は、黒鋼にとって決して他人事ではなかった。
黒鋼は真っ直ぐ前へ視線を送る。モノクロの写真に写る男は、自分が知るよりも幾分か若く、そして表情も鬼のように歪んではいない。黒鋼の胸中には複雑な思いが渦巻いていた。
長い間、ファイを目の仇として苦しめ続けてきた存在が、死んだ。
人の死を手放しで喜ぶことは決してできないはずなのに、黒鋼は長きに渡る胸の痞えが取れたような気さえした。そうかと言ってこの町が、未だにファイを拒み続けていることに変わりは無い。だけど、ひとまず家の中での脅威は去ったはずだ。
そんなふうに安堵している自分には、多少なりとも嫌悪感がある。
黒鋼は小さく縮こまって肩を震わせている、ファイの祖母である人の背中を眺めた。時おり震える姿は哀れで、罪悪感がどうしようもなく膨らんだ。あんな男でも、彼女にとっては唯一の夫であり、長い時を共に過ごした、愛すべき家族なのだから。
それからすぐに、隣にある金色の髪を見た。今はその背中しか見ることはできないが、葬儀が始まる直前に見たファイは、泣いてはいなかった。ただ蒼白な顔を無表情に強張らせ、やや下向き加減に視線を伏せているだけだった。
まるで何の感情も持たない、人形のような顔。それを見て、黒鋼は衝撃を受けた。不幸があったのだから、いつも通り笑顔でいるはずがないことは分かっていたのに。
黒鋼はファイの泣き顔しか想像していなかったのだ。ずっと自分を忌み嫌い、傷つけてきた存在だったとしても、優しいファイは酷く悲しんでいるのだろうと。
けれどあの無表情からは、一切の感情も読み取れなかった。
母に無理矢理くっついて来て、早い時間からこの場所にいたけれど、広い屋敷内でファイを見つけることは出来なかった。どこかで泣いているなら、慰めてやるのは自分の務めだと思っていたから。
それなのに今、ファイの背は驚くほどピシャリと伸びて、真っ直ぐ前を向いている。黒鋼はこうして改めて遠目から見て、初めてファイが傍らの祖母よりも一回りほど身体が大きくなっていることに、気がついた。
いつの間に、これほど大きくなっていたのだろう? あの小さくて細いだけだったはずの子供は、どこへ行ってしまったのだろうか。
*
葬儀が終わってから、黒鋼はすぐにファイを掴まえようとした。けれどまるで煙にでも巻かれたように、彼の姿は一瞬で消えてしまったようだった。来たときと同じく、広い屋敷の中を探し回った。庭に出て、隣接する元は茶屋として客を持て成していたという、小さな建物の中も覗き込んだけれど、見つけられない。
フラフラと辺りを見回していると、遠くから母の呼ぶ声がした。
「何をしているの? てっきりすぐに追いかけたものとばかり思っていたのに」
「母さん、あいつを見たのか?」
喪服に身を包み、長い黒髪をすっかり綺麗に纏めている母はコクリと頷いた。
「お式が終わってすぐに、玄関を飛び出して行ったの、見てなかったの?」
そうか。いくら敷地内を探しても見つからないわけだ。実はあれでいて、ファイは黒鋼に引けを取らぬほど足が速かったりする。
「母さんそろそろお暇するけど、帰りは気をつけてね」
心配そうな母の声に返事をする余裕もなく、黒鋼は炎天下の中を弾かれたように砂を蹴って走り出した。
*
ファイの行く場所など、ひとつしかない。昔は毎日のように通い詰めていた、あの場所だ。黒鋼は暑さをもろともしない勢いで、懐かしい道を全力で駆け抜けた。
小学校の裏手に張り巡らされたロープを飛び越え、張り出した枝が制服のシャツやズボンを叩くのも意に介さず、オウトツの激しい道をひた走る。やがて相変わらず古臭さだけが目立つ石の鳥居をくぐれば、巨大な神木はあの頃のままの姿でそこにあった。
最後にここを訪れたのは、ファイと共に子猫の墓に花を手向けたときだった。
今では休日も部活動で時間を取られるせいで、ここを頻繁に訪れることはない。それでもまだ一月ほどしか経過していないはずなのに、なぜだかそれが遠い昔のことのように思えるのが不思議だった。
黒鋼は古びた柵を飛び越え、神木に体当たりするようにしてようやく足を止めることが出来た。今さら思い出したかのように汗が噴出して、心臓が異常な速度で飛び跳ねる。それでも黒鋼は声を張り上げた。
「おい! いるんだろ!」
なぜこんなにも焦っているのか、まるで自分を避けるようにして姿を消したファイに、苛々が募る。
「返事しろ!!」
中で、ビクリと身体を震わせ、息をのむ気配が伝わった。やっぱりいた。確信してはいたものの、ようやく間近で気配を感じ取ることが出来た安堵から、黒鋼は整わぬ息で思わずその場にしゃがみ込む。
「おまえ……まだ入れるんだな、そこ」
なんだ、やっぱりチビのまんまじゃねぇか。そう思うと、不思議と苛立ちが晴れていった。
「ばあさん心配させんな。帰るぞ」
「いや」
「あ?」
神木の内部から、くぐもった拒絶を表す声が聞こえた。
「オレのことはほっといて。黒たんは帰って」
「なに言ってやがる……てめぇ置いて帰れるわけねぇだろ」
「いいから帰って!!」
ずっと煩いくらいに泣き喚いていた虫達の声が消えた。
ファイが声を荒げたから、というよりも。
その荒げられた声が不自然に擦れて引っくり返っていたことに、黒鋼は目を見開いた。まだ十分に高さを残す声の中に、それは大きな違和感となって耳の奥にこびりつく。
黒鋼の足元には、干乾びたセミの抜け殻が落ちていた。窮屈な幼い殻を脱ぎ捨てて、短い夏を生き抜くために、大人になった彼らが羽ばたいていった証が。
黒鋼はまるで足掻くように、必死であの幼い声を思い出そうとした。けれど、分からなくなってしまった。あの小さな子供は、確かにこの大きな殻の中にいるのに。
近くにいすぎて、それが当たり前すぎて、何も見えていなかったなんて。
黒鋼は一度大きく息を吸い込み、平静を装うと、再び静かに語りかけた。
「今日のおまえは……まぁ、当たり前っちゃあ当たり前なんだろうが、様子が変だ。俺にも言えねぇのか」
中で蠢く気配と、迷うような気配が同時に窺える。黒鋼はしゃがんでいた態勢から立ち上がると、神木に身体を寄せてただひたすら神経を研ぎ澄ました。
「顔、見せてくれ。頼むから」
そう、それだけでいい。付き纏う不安も、恐れさえも、それだけで。ああ自分はなんと弱い人間なのだろう。日常が僅かに綻んだだけで。
見えていなかっただけに過ぎない変化に気づかされたことが、その見慣れたはずの姿が見えないことが。どうして、こんなにも。
「頼むから」
神木の中の気配が大きく揺らいだ気がしたけれど、ファイは姿を現さなかった。代わりに、淡々とした感情のない声だけが小さく空気を震わせた。
「オレ、最低なんだ」
「……どうして」
「おじいちゃんは、オレのお父さんは鬼だって言ってた……。でも、オレは気づいてないだけだったんだ……」
黒鋼は決して聞き逃してなるものかと、よりいっそう巨大な神木に身を寄せた。自分自身に言い聞かせているかのような声が、再び暑さの中で悲鳴を上げ出した夏の虫たちによって、掻き消えてしまいそうで。
「おじいちゃんは、オレのことを言ってたんだよ。だって、オレは鬼の子なんだもの。だから悲しくないんだ。おじいちゃんが死んだのに、おばあちゃんが泣いているのに。ちっとも悲しくない。ようやくわかったんだ……こんなだからオレは、みんなに嫌われてるんだよ。黒たんも、きっと嫌いになるよ。もう、オレの手なんか握ってくれないよ……」
黒鋼は目を見開いた。ファイはちゃんと知っていた。いつだってヘラヘラと無邪気に笑いながらも、自分の存在が疎まれ、弾かれていることに、ちゃんと傷ついていた。
黒鋼はファイのことを、ずっと『足りない子』なのだと思っていたけれど、本当はそうじゃなかった。後悔に似た感情は、すぐに怒りにすり替えられた。強く拳を握り締める。
「おまえ、それ本気で言ってんのか」
「…………」
沈黙は肯定だった。黒鋼は一つ、神木目がけて拳を突きたてる。
なんという罰当たりな行為だろう。けれど、こんなもんじゃ終わらない。
「ずっと出てこないつもりなんだな?」
「……そうだよ。だって誰も入ってこれないもの。黒たんだって、もう……」
「わかった」
そこにいろ、とだけ言い残して、黒鋼は再び元来た道を全速力で駆け出した。縺れそうになる足を勢いだけで奮い立たせて、やがて人気のない懐かしい小学校に辿り着く。
黒鋼の記憶が確かならば、校庭の脇の体育用具入れの鍵は、新しいものに代えられていない限り、壊れているはずだった。
そして中には――。
「あった……!」
土や埃や、白い粉に塗れている大きな鉄のスコップ。それを肩に担いで、またしても走り出す。身体は汗だくで、休むことなく走り続けた身体は水分と休息を求めて悲鳴を上げていた。それでも構うものかと、歯を食いしばる。
鳥居をくぐり、柵を越えると神木の小さな切込みに鉄の先端を思い切り打ちつけた。
「なに……?」
ガツンガツンと激しく打ち付け、木屑を散らしながら切り込みを削り出した黒鋼に、ファイが悲鳴を上げる。
「なにしてるの!?」
「うるせぇ!! 一人になんかなれねぇってこと、思い知らせてやるから待ってろ!!」
「やめて!! 黒たんダメだよ!!」
それでも、待っているような気がした。全てを拒むようなことを口にしながら、ファイは引き摺り上げてくれる強さを待っている。そう信じて、黒鋼はさらに激しくスコップを突き立てた。せめてこの身を潜り込ませるだけの穴さえ広がればいい。
滴る汗を拭うこともせず、腕の筋肉が悲鳴を上げるのも構わず必死で叩きつけ、やがて分厚い木の壁が鈍く軋んだ音を立てながら剥がれ落ちた。
黒鋼はスコップを投げ出すと、その僅かに広がった穴に向かって思い切り頭から突っ込んだ。両手を、肩を、全身を捻るように前へ前へと進ませる。デコボコとした硬い穴は、無理に押し入ろうとする侵入者を拒み、頬や剥き出しの腕に擦り傷をお見舞いしてくれた。
ファイは地に両手と両膝をつき、大きな瞳を見開いていた。よく見れば、そんな彼の白い頬や腕にだって擦り傷がくっきりと刻まれている。この入り口は、最早ファイをも拒んだ証だった。
黒鋼は強引な進入が成功したと同時に腕を伸ばした。傷ついた白い腕を掴んで思い切り引き寄せると、その身体は驚くほど簡単に胸の中に倒れこむようにして納まった。
細い肩を、小さな頭を、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめると「ばかやろう」と言った。ファイは暫しの間、ただ呆然としていたが、やがて大きく身体を震わせ、しゃくり上げながら黒鋼の胸に縋りついて泣いた。
「バカなのっ、黒たん、だよぉ……! 神様の木なのに……っ、ゼッタイ、絶対、罰が当たるんだから……!」
「はっ……知るかよそんなもん。当たるんだったらとっくの昔に当たってら」
こんな場所で遊んでいた時点で、とっくに。
それでも罰が当たるというのなら、喜んでこの身に受けてやろう。腕や足の一本や二本、もがれたとしても構わない。この細いばかりの身体を抱きしめるだけの腕が一本でもあれば、それでよかった。
「おまえの親父やお袋の話を、俺は知らねぇ。でもこれだけは言える。おまえは、人間だ」
葬式に集まったごく小数の人々。その中に、ファイの両親と思しき人間は見当たらなかった。鬼の姿をした生き物など、一人も。そしてもし本当にファイが鬼なのだとすれば、それは黒鋼も同じことだった。一人の人間が死んでしまったというのに、安堵すら覚えたのは紛れもない真実なのだから。けれど黒鋼は、自分を鬼だなんて思いはしない。
そんなものはいない。いたとしても、死んでしまった。
だから。
「一人で行くなよ。逃げ出してぇなら、俺がおまえを連れてってやるから」
この世界はきっと狂っている。祖父の死をもってしか、ファイは救われなかった。だがそれすらも、彼を傷つけ苦しめた。泣けないことを罪と受け止め、もう充分に血を流したはずの胸を痛めていた。
優しくて、可哀想なファイ。だから守りたい。もう泣かなくていいように。傷つかなくていいように。
「約束する。俺は、おまえの手を絶対に離さねぇ」
はっとして顔を上げたファイを見下ろす。驚くほど間近で見る青い瞳は、まるで夢を見ているみたいな美しさだった。次から次へと零れ落ちる透明な涙さえ、宝石のようで。
いつの間にか夕陽がたちこめ、オレンジ色の光の柱がふたりを静かに包み込んでいた。どんなに帰りが遅れようが、心配してくれる人はいても、殴りつける者はもういないから。
ファイの涙が乾いて、またいつものようにふにゃりと微笑むまで、黒鋼が抱きしめる腕を解くことはなかった。
それは十四歳の夏のこと。
幼い日の、幼い約束。
その儚さなど、知りもしないで。
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