白猫、旅に出るの巻
それを見つけたのは偶然、たまたま散歩をしていたときだった。
気付くことが出来たのは、きっとファイに備わっているらしい魔力とやらの賜物だったのかもしれない。
ユゥイはいつも何か秘密の実験をしている。けれどそれはよく失敗していた。しょっちゅう謎の大爆発を起こして、その度に煙突から巨大なキノコ雲が上がるのだ。(ユゥイはその度に髪の毛先をチリチリにしてヘコんでいる)
その一瞬だけ、空間に歪(ひずみ)が生じるのだった。
ファイはいつものように散歩をするふりをして、目当ての場所へ向かった。
猫は勘の鋭い生き物だから、おそらく皆が無意識にここを避けている。それは危険がいっぱいの世界に通ずる道があるからなのだろうか。
そしてその危険がいっぱいの世界に冒険の旅に出ようとしているファイは、ウキウキとしながらそこに辿りついた。
元々は水色だったキャットタワーは今では色褪せて灰色に変色している。過去に遊びつくされた複雑構造のタワーは、ところどころに千切れた紐がぶら下がっていた。昔はいかにも猫の遊び心をくすぐる羽やポンポンがついていたはずが、今は見る影もなくなっている。
ファイはひとまず、そのタワーに寄り添うように佇む大木の側に座り込んだ。
人間の世界には冬という季節があって、その時期になると『クリスマス』というお祭りがあるらしい。
木に飾り付けをしたり、ピカピカ光らせたりもするらしい。真っ白なヒゲの優しいおじいさんが、プレゼントを届けてくれるらしい。
他にもお正月には美味しいものを食べたり、バレンタインにはチョコレートをもらったり、とにかく人間の世界は楽しいことが目白押しなのだ。(本で調べた)
何の飾りもない青々とした大木を見上げながら、ファイはドキドキしていた。そしてワクワクしていた。
ユゥイはまさに怪しげな壺に向かって何か実験をしている最中だ。そろそろとんでもない爆音と共に、キノコ雲が現れるはず。今日に限って成功するなんてことはないと信じて。
後ろ足で喉の辺りを掻いたり、なんとなく顔を洗ったりしながらそのときを待った。
やがて……。
ドーンと音がした。
(来た!!)
その瞬間、僅かに大気が揺らぎ、タワーと大木の小さな隙間がぐにゃりと歪む。
(ユゥイ……オレ、行くから!)
ごめんねといってきますを心の中で言いながら、ファイは隙間に飛び込んだ。
+++
ぐるぐる、と身体が渦に飲み込まれるような気がして目が回った。
「ぅにゃ!?」
ペッ、と吐きだされるように地面に尻もちをつく。
そのまま暫くは目が回ったままで、グラグラと身体を揺らしていた。
だが感覚が正常に戻って来ると、ファイは大きく目を見開いた。そして呟く。
「石……?」
どこもかしこも、平たい石ばかり。地面も石。壁も石。所々に立っている巨大な棒も石。
その長い石の棒をずっと見上げて行くと、見慣れた空と、そして等間隔で建っている棒が、黒い線で繋がれているのが見えた。
それが電柱で、電線というものだなんて知りもしないファイは、その奇怪な光景にけれど感激していた。
全てが無機質。冷たい石はコンクリートというものだが、その細かなデコボコとした感触にすら、胸が浮き立つような喜びを感じていた。
「やった……オレ、猫の国から脱出成功したー!!」
尻餅をついたまま万歳をすると、そのまま後ろにゴロンと転がった。
「人間の世界も、お空は真っ青!」
腹を見せるように寝ころんだまま空を見上げる。大きな黒い鳥が光速で遥か上空を飛びさった。それもまた驚きだった。
ファイの世界にも鳥はいるけれど、小さくて黄色くて「ぴよぴよ」と鳴く小鳥しか知らない。(そしてそのファンシーな生き物はオモチャであり……食りょ※自主規制※である)
とっくに飛び去ってしまった鳥をそれでも追いかけたくて、ファイは勢いよく起き上がると走り出そうとした。
だがそのとき。
遠くから、『ブオオオ……』という、聞いたこともない音がやってきた。
「……んにゃん?」
見れば平な石(塀)に縁取られた道の向こうから、何やら見たこともない黒い物体がやってくる。
道の真ん中に佇むファイは首を傾げた。
あの黒光りしている、いかもに硬そうなものはなんだろう。どんどん近付いてくる。そのままどんどんどんどん近付いてくると、それが異常に早く、巨大であることが分かった。
そしてふと思う。
自分、ここにいたら危なくね?
と……。
瞬間、その大きな物体は「ブブーーー!!」という神経を逆なでするような怪音を発した。
「ミギャーーッ!?」
一瞬にして全身の毛を膨らませたファイはビョンとジャンプをして、間一髪ギリギリのところで難を逃れた。
風圧にお尻を思いっきり押されて、そのまま塀に顔面からぶつかってしまう。
そして次の瞬間、キキーッという音がした。
べシャンとお腹から地面に着地したファイは、痛みに声を上げる間もなく音の方を見た。
黒い物体の扉が開き、そこから見たことのない『人間』が姿を現す。それを見て、これは乗り物だったのかとファイは察した。
出て来たのはユゥイより、その、なんというか……まぁ言ってしまえば見栄えのよろしくない中年の男性だった。頭の天辺がやけに寂しく、何かが足りない。(髪的なものが)
「このクソ猫!! 危ねぇだろ!! ぶっ殺すぞゴルァ!?」
「フギャーーッ!?」
男性はとんでもなく恐ろしい顔をして拳を握り、口からツバを飛ばしながらこちらに向かって怒鳴り散らしている。
これほどの勢いで叱られたことのないファイは再び毛を逆立てると、腰がガクガクと抜けそうになりながらもその場から一目散に逃げ出した。
(なにこれ怖すぎる……!)
直角な道で幾度も身体を激突させながら、その度に悲鳴を上げてひたすら逃げた。
行くあてもなければ安全な場所がどこなのかも、まさに右も左もわからない状態でさっそく後悔しはじめていたファイだが、前方によく見慣れた姿が横切ろうとしているのが見えた。
それは自分と同じ猫の姿だった。ファイは瞬間的に「助かった」と思った。
この世界に住む先輩猫なら、ひとまず何かしら教えてくれるかもしれない。安全な隠れ場所も知っているかもしれない。旅先ではまず情報収集だ。
まさに地獄に仏のような存在に思えた。……のも束の間だった。
灰色の毛足の長い猫は、ファイより何倍も身体が大きかった。ファイが突進してくるのに気がついたその猫は、ギン、と鋭い視線をこちらに向ける。
「!?」
その形相の鋭さに、ファイは先ほどの黒光りした乗り物と同じく急ブレーキで立ち止まった。
この不穏な空気は一体……?
そのまま蛇に睨まれたカエル状態が続いた。ダラダラと汗をかくファイを、ねめつけるように見た灰猫の顔には、大きな傷痕がある。
まさに歴戦の兵を思わせる、貫禄たっぷりな容貌だった。
「貴様……見かけない顔だにゃ……」
灰色の猫は低い声で言った。
こちらに身体を向けると、のったりと歩いてやってくる。
「新参者か……?」
「ヒッ……あ、あの……オレ……」
「ここが誰の縄張りか、知ってのことかにゃ……?」
「な、なわばり……?」
そう、猫は単独行動で自分の縄張りを持つ。そしてそこにやってくる外敵から縄張りを守るため、巡回する生き物なのだ。
ファイもまた猫であるため、その本能に基づいたルールは知っていた。が、住む世界が異なればまた話は別で、餌にも寝場所にも困らない、のほほんとした場所で長く生きて来たファイには、その本能的な部分が欠如していた。
知っている、というだけで、ファイにとってそのルールは別世界の話だったのだ。そしてふと思う。ここ、そういえば別世界だった……と。
低く唸りながらじりじりと距離を縮めてくる猫から、後ずさりをする。
何か細い糸が張りつめているような緊張感。これが殺気というものなのか。コイツは下手をすれば、怒鳴りつけてくるだけで追いかけては来なかったオッサンより危険な相手だ……。
ここは殺られる前に、逃げよう。ファイは再び一目散に逃げ出した。けれどそれが不味かった。
こちらが光速で逃げれば、あちらも光速で追いかけて来た……。
「ごごご、ごめんにゃさーーーーい!!!」
「待てオラァ!! ここが欲しくば戦って勝ち取れー!!」
「欲しくにゃいですーーー!!」
旅の出だしは、まさに最悪の二文字に彩られていた……。
←戻る ・ 次へ→
それを見つけたのは偶然、たまたま散歩をしていたときだった。
気付くことが出来たのは、きっとファイに備わっているらしい魔力とやらの賜物だったのかもしれない。
ユゥイはいつも何か秘密の実験をしている。けれどそれはよく失敗していた。しょっちゅう謎の大爆発を起こして、その度に煙突から巨大なキノコ雲が上がるのだ。(ユゥイはその度に髪の毛先をチリチリにしてヘコんでいる)
その一瞬だけ、空間に歪(ひずみ)が生じるのだった。
ファイはいつものように散歩をするふりをして、目当ての場所へ向かった。
猫は勘の鋭い生き物だから、おそらく皆が無意識にここを避けている。それは危険がいっぱいの世界に通ずる道があるからなのだろうか。
そしてその危険がいっぱいの世界に冒険の旅に出ようとしているファイは、ウキウキとしながらそこに辿りついた。
元々は水色だったキャットタワーは今では色褪せて灰色に変色している。過去に遊びつくされた複雑構造のタワーは、ところどころに千切れた紐がぶら下がっていた。昔はいかにも猫の遊び心をくすぐる羽やポンポンがついていたはずが、今は見る影もなくなっている。
ファイはひとまず、そのタワーに寄り添うように佇む大木の側に座り込んだ。
人間の世界には冬という季節があって、その時期になると『クリスマス』というお祭りがあるらしい。
木に飾り付けをしたり、ピカピカ光らせたりもするらしい。真っ白なヒゲの優しいおじいさんが、プレゼントを届けてくれるらしい。
他にもお正月には美味しいものを食べたり、バレンタインにはチョコレートをもらったり、とにかく人間の世界は楽しいことが目白押しなのだ。(本で調べた)
何の飾りもない青々とした大木を見上げながら、ファイはドキドキしていた。そしてワクワクしていた。
ユゥイはまさに怪しげな壺に向かって何か実験をしている最中だ。そろそろとんでもない爆音と共に、キノコ雲が現れるはず。今日に限って成功するなんてことはないと信じて。
後ろ足で喉の辺りを掻いたり、なんとなく顔を洗ったりしながらそのときを待った。
やがて……。
ドーンと音がした。
(来た!!)
その瞬間、僅かに大気が揺らぎ、タワーと大木の小さな隙間がぐにゃりと歪む。
(ユゥイ……オレ、行くから!)
ごめんねといってきますを心の中で言いながら、ファイは隙間に飛び込んだ。
+++
ぐるぐる、と身体が渦に飲み込まれるような気がして目が回った。
「ぅにゃ!?」
ペッ、と吐きだされるように地面に尻もちをつく。
そのまま暫くは目が回ったままで、グラグラと身体を揺らしていた。
だが感覚が正常に戻って来ると、ファイは大きく目を見開いた。そして呟く。
「石……?」
どこもかしこも、平たい石ばかり。地面も石。壁も石。所々に立っている巨大な棒も石。
その長い石の棒をずっと見上げて行くと、見慣れた空と、そして等間隔で建っている棒が、黒い線で繋がれているのが見えた。
それが電柱で、電線というものだなんて知りもしないファイは、その奇怪な光景にけれど感激していた。
全てが無機質。冷たい石はコンクリートというものだが、その細かなデコボコとした感触にすら、胸が浮き立つような喜びを感じていた。
「やった……オレ、猫の国から脱出成功したー!!」
尻餅をついたまま万歳をすると、そのまま後ろにゴロンと転がった。
「人間の世界も、お空は真っ青!」
腹を見せるように寝ころんだまま空を見上げる。大きな黒い鳥が光速で遥か上空を飛びさった。それもまた驚きだった。
ファイの世界にも鳥はいるけれど、小さくて黄色くて「ぴよぴよ」と鳴く小鳥しか知らない。(そしてそのファンシーな生き物はオモチャであり……食りょ※自主規制※である)
とっくに飛び去ってしまった鳥をそれでも追いかけたくて、ファイは勢いよく起き上がると走り出そうとした。
だがそのとき。
遠くから、『ブオオオ……』という、聞いたこともない音がやってきた。
「……んにゃん?」
見れば平な石(塀)に縁取られた道の向こうから、何やら見たこともない黒い物体がやってくる。
道の真ん中に佇むファイは首を傾げた。
あの黒光りしている、いかもに硬そうなものはなんだろう。どんどん近付いてくる。そのままどんどんどんどん近付いてくると、それが異常に早く、巨大であることが分かった。
そしてふと思う。
自分、ここにいたら危なくね?
と……。
瞬間、その大きな物体は「ブブーーー!!」という神経を逆なでするような怪音を発した。
「ミギャーーッ!?」
一瞬にして全身の毛を膨らませたファイはビョンとジャンプをして、間一髪ギリギリのところで難を逃れた。
風圧にお尻を思いっきり押されて、そのまま塀に顔面からぶつかってしまう。
そして次の瞬間、キキーッという音がした。
べシャンとお腹から地面に着地したファイは、痛みに声を上げる間もなく音の方を見た。
黒い物体の扉が開き、そこから見たことのない『人間』が姿を現す。それを見て、これは乗り物だったのかとファイは察した。
出て来たのはユゥイより、その、なんというか……まぁ言ってしまえば見栄えのよろしくない中年の男性だった。頭の天辺がやけに寂しく、何かが足りない。(髪的なものが)
「このクソ猫!! 危ねぇだろ!! ぶっ殺すぞゴルァ!?」
「フギャーーッ!?」
男性はとんでもなく恐ろしい顔をして拳を握り、口からツバを飛ばしながらこちらに向かって怒鳴り散らしている。
これほどの勢いで叱られたことのないファイは再び毛を逆立てると、腰がガクガクと抜けそうになりながらもその場から一目散に逃げ出した。
(なにこれ怖すぎる……!)
直角な道で幾度も身体を激突させながら、その度に悲鳴を上げてひたすら逃げた。
行くあてもなければ安全な場所がどこなのかも、まさに右も左もわからない状態でさっそく後悔しはじめていたファイだが、前方によく見慣れた姿が横切ろうとしているのが見えた。
それは自分と同じ猫の姿だった。ファイは瞬間的に「助かった」と思った。
この世界に住む先輩猫なら、ひとまず何かしら教えてくれるかもしれない。安全な隠れ場所も知っているかもしれない。旅先ではまず情報収集だ。
まさに地獄に仏のような存在に思えた。……のも束の間だった。
灰色の毛足の長い猫は、ファイより何倍も身体が大きかった。ファイが突進してくるのに気がついたその猫は、ギン、と鋭い視線をこちらに向ける。
「!?」
その形相の鋭さに、ファイは先ほどの黒光りした乗り物と同じく急ブレーキで立ち止まった。
この不穏な空気は一体……?
そのまま蛇に睨まれたカエル状態が続いた。ダラダラと汗をかくファイを、ねめつけるように見た灰猫の顔には、大きな傷痕がある。
まさに歴戦の兵を思わせる、貫禄たっぷりな容貌だった。
「貴様……見かけない顔だにゃ……」
灰色の猫は低い声で言った。
こちらに身体を向けると、のったりと歩いてやってくる。
「新参者か……?」
「ヒッ……あ、あの……オレ……」
「ここが誰の縄張りか、知ってのことかにゃ……?」
「な、なわばり……?」
そう、猫は単独行動で自分の縄張りを持つ。そしてそこにやってくる外敵から縄張りを守るため、巡回する生き物なのだ。
ファイもまた猫であるため、その本能に基づいたルールは知っていた。が、住む世界が異なればまた話は別で、餌にも寝場所にも困らない、のほほんとした場所で長く生きて来たファイには、その本能的な部分が欠如していた。
知っている、というだけで、ファイにとってそのルールは別世界の話だったのだ。そしてふと思う。ここ、そういえば別世界だった……と。
低く唸りながらじりじりと距離を縮めてくる猫から、後ずさりをする。
何か細い糸が張りつめているような緊張感。これが殺気というものなのか。コイツは下手をすれば、怒鳴りつけてくるだけで追いかけては来なかったオッサンより危険な相手だ……。
ここは殺られる前に、逃げよう。ファイは再び一目散に逃げ出した。けれどそれが不味かった。
こちらが光速で逃げれば、あちらも光速で追いかけて来た……。
「ごごご、ごめんにゃさーーーーい!!!」
「待てオラァ!! ここが欲しくば戦って勝ち取れー!!」
「欲しくにゃいですーーー!!」
旅の出だしは、まさに最悪の二文字に彩られていた……。
←戻る ・ 次へ→
白猫、退屈に耐えかねるの巻
ここは猫の国。人間の世界からちょっと離れた、別の世界。
小さな国だけど、猫達はみんな毎日いっぱい食べていっぱい遊んで、眠たいときはずっと寝ている。そんな国。
一年中ぽかぽか陽気のこの世界は、国と言ってもとても狭い。
規模で言えばせいぜい村や集落と言った方がしっくりくるような場所で、あとは遠くに草原や森が広がっているだけだった。
猫達が密集して暮らしている場所の中央には、お菓子で出来たような可愛らしい家が建っていて、そこにはこの国の『エライ人』が住んでいる。
ちなみにその家の煙突からは、いつもモクモクと煙が立ち上っていた。
他には小さな猫型ドームがいくつも建っている。どれもせいぜい人間の膝ほどの高さしかなく、表札代わりに魚マークや肉球マークなどがついていた。内部にはふかふかのクッションや、モコモコの毛布がある。
だが家などあってないようなもので、猫達はみんな気ままに好きな場所で遊んだり、眠ったりしているのだった。
たくさんの花が咲いていて、気持ちのいい風が吹いていて、甘い実のなる木々やカラフルなキャットタワーも大小たくさんある。
浅い池には魚がたくさん泳いでいるし、ふかふかの芝生の地面にはヒヨコやネズミやウサギなどの小さな縫いぐるみがたくさん転がっていた。
食うにも寝るにも遊ぶにも、ここは天国のような場所である。
「でも、刺激がないにゃー」
けれどそんな世界にあって、一匹だけちょっと不満を抱えた白猫がにいた。
長い尻尾にふさふさつやつやの輝く毛並み。ツンと尖った耳、しっとりと濡れた鼻、そしてプニプニの肉球はピンク色をしている。クリクリとした大きな目は宝石のようなアイスブルーだった。
猫界でも屈指のイケメンと謳われる彼は、平和な猫の国に少しばかり飽き飽きしていた。
「なぁに? ファイ、今なにか言った?」
ふかふかのクッションが置かれたロッキングチェアに寝そべりながらぼやいた白猫ファイは、声のする方向へゆったりと目を向けた。そこには自分の身体の何倍もある大きな壺に向かっている、人間の姿をした青年の背中がある。
透けるような白い肌を持ち、毛先が肩を過ぎるほど長い金髪を、緩く一つに結んだ彼こそが、この国のエライ人、ユゥイだった。
ファイはこの青年の家に住みついているのである。
壺の中の何かがグラグラと煮立っていて、ユゥイはさっきからそれを木の棒で一生懸命かき混ぜていた。
「うーん、色がグロテスクになってきた……また失敗かな……」
「ねぇねぇユゥイー。今度は何を作ってるのー?」
ファイは椅子から下りると、ユゥイの側へ行き足元にすり寄った。
「えげつない臭いがするー」
「ふふふ、秘密だよ」
ユゥイは壺から目を離すことなく笑っている。
彼はいつもこうして何かしらの実験や薬物的なものを精製をしているのだが、それがなんなのかは教えてくれない。
この猫の国の七不思議のひとつなのだ。
「で? なんだっけ? 何か言ってたよね」
「だからー、退屈だにゃーって言ったのー」
「お外で遊んでおいでよ。昼寝ばっかりしてたら身体に悪いよ」
「猫は寝るのが仕事にゃもーん」
「じゃあ退屈とは無縁だね」
「ぐぬぬ……」
ユゥイはどこから取り出したのか、焦げたトカゲのような物体を壺に入れている。
相変わらずこちらを見ないその態度に、ファイは少しイラッとした。
「いいよもう……しょうがにゃいから遊びに行ってくるよー」
「いってらっしゃい」
「人間界に」
「それはダメ」
即答だった。
ファイのイライラ度が増した。
「ちょっとお散歩してくるだけ! ホントにちょっとだけ!」
「ダーメ。隙あらばねだってくるけど、それだけは絶対にダメなの」
いつもある程度のことは許してくれるユゥイだが、こと人間の世界に関してはNGだった。
「人間は怖いんだよ。それはそれは怖い生き物なんだ。ファイなんか小さくて可愛いから、すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。寒かったり暑かったり、天気も気温も年中コロコロ変わるし、だいたいね……」
グダグダグダグダ……。
はじまった。
ユゥイはやっぱり壺から目を離さないまま、いかに人間の世界が恐ろしいかをファイに説いて聞かせる。
耳にタコができるほど聞き飽きているファイは、そっと溜息をつきながら退却することにした。
大きな扉の横にある小さな猫穴をくぐると、トコトコと芝生の上を歩いて池のすぐ側へ行った。
辺りを見回すと猫じゃらしで遊んだり、草を食べたり毛繕いをしたり、お腹を見せて眠っていたり、無警戒な仲間達がそれぞれのどかに過ごしている。
ファイは池の水面に映る自分の姿に目を落とすと、ふぅ、とまた溜息を零した。
狭くて平和で暖かい世界。でも平坦で退屈な世界。
生まれたときから幸せだから、もういっそ満足しているのかどうかさえ麻痺しているような気がしていた。
きっととても贅沢な悩みなのだと思う。こんな悩みを抱えているのは自分だけなのだとも。
ファイは見た目こそ若い猫とそう変わらないが、これでも数百年もの時を生きていた。他の仲間の寿命はどんなに長くても二十年ほどだが、なぜかファイは歳を取らない。
思えば物心ついた頃からユゥイも今のユゥイのままだ。
同じ時を生きる彼がいるからこそ、仲間達が老いて先に死んでいっても、悲しいし寂しいけれど孤独にならずにすんでいた。
いつだったか、ファイはそれがなぜなのかをユゥイに訊ねたことがあった。
『ユゥイ、どうしてオレは他のみんなと違うの?』
そう聞くとユゥイは言った。
『ファイには強い魔力が備わってるからね』
『まりょく?』
『そう。みんな持ってるけど、ファイだけは特別。凄く大きくて強いんだ』
そんなことを言われてもいまいちピンと来ない。
『んー。じゃあ、オレがいつまでも長生きなのはそのせいってこと?』
『そうだね。さしずめファイは人間の世界で言うところの化け猫ってやつかな』
ユゥイは冗談を言ったつもりらしい。あははと笑っていた。
けれどファイは彼が言った『人間』という言葉が気になった。
人間の世界で長生きをする猫を『化け猫』と呼ぶなら、その世界にも自分と同じ存在がいるということなのだろうか。
なぜか妙に興味をそそられて、それからファイはユゥイの本棚を漁った。
あまり難しい字は読めなかったが、人間の世界というのはこの猫の国とは比べ物にならないくらい大きくて、とんでもなく広いのだということはわかった。
もちろん猫だっているし、他にも見たことのない生き物がたくさんいるらしい。
人間だって、ユゥイと同じような姿をしているのなら、きっとみんなとても優しいに違いない。
そのときから、ファイはいつかこの猫の国を飛び出して、冒険の旅に出てみたいと思うようになった。
それなのに、なぜかユゥイは人間やその世界を怖い場所だと言う。行ってはいけないと。しかし反対されればされるほど、ファイの中の退屈がそれに反発心を抱かせた。
ダメと言われると、どうしても行きたくなってしまうのだ。
ファイは一通りの回想を終えると、水面に揺れる自分の姿をキッと睨みつけた。
「そうにゃ……まだ見ぬ世界がオレを待ってる……ような気がするにゃ!」
丸い手をさらに丸めて、グッと握りしめた。
子供ではないのだし、ユゥイの許可を得られないからって、どうということはない。
その気になれば、いつだって行動を起こすことは可能なのだ。
ファイは知っていた。
この集落の片隅、古ぼけてあまり遊ばれなくなった大きなキャットタワーと、すぐ側の大木の狭い隙間。そこにほんの一瞬だけ生じる、空間の歪みの存在を。
←戻る ・ 次へ→
ここは猫の国。人間の世界からちょっと離れた、別の世界。
小さな国だけど、猫達はみんな毎日いっぱい食べていっぱい遊んで、眠たいときはずっと寝ている。そんな国。
一年中ぽかぽか陽気のこの世界は、国と言ってもとても狭い。
規模で言えばせいぜい村や集落と言った方がしっくりくるような場所で、あとは遠くに草原や森が広がっているだけだった。
猫達が密集して暮らしている場所の中央には、お菓子で出来たような可愛らしい家が建っていて、そこにはこの国の『エライ人』が住んでいる。
ちなみにその家の煙突からは、いつもモクモクと煙が立ち上っていた。
他には小さな猫型ドームがいくつも建っている。どれもせいぜい人間の膝ほどの高さしかなく、表札代わりに魚マークや肉球マークなどがついていた。内部にはふかふかのクッションや、モコモコの毛布がある。
だが家などあってないようなもので、猫達はみんな気ままに好きな場所で遊んだり、眠ったりしているのだった。
たくさんの花が咲いていて、気持ちのいい風が吹いていて、甘い実のなる木々やカラフルなキャットタワーも大小たくさんある。
浅い池には魚がたくさん泳いでいるし、ふかふかの芝生の地面にはヒヨコやネズミやウサギなどの小さな縫いぐるみがたくさん転がっていた。
食うにも寝るにも遊ぶにも、ここは天国のような場所である。
「でも、刺激がないにゃー」
けれどそんな世界にあって、一匹だけちょっと不満を抱えた白猫がにいた。
長い尻尾にふさふさつやつやの輝く毛並み。ツンと尖った耳、しっとりと濡れた鼻、そしてプニプニの肉球はピンク色をしている。クリクリとした大きな目は宝石のようなアイスブルーだった。
猫界でも屈指のイケメンと謳われる彼は、平和な猫の国に少しばかり飽き飽きしていた。
「なぁに? ファイ、今なにか言った?」
ふかふかのクッションが置かれたロッキングチェアに寝そべりながらぼやいた白猫ファイは、声のする方向へゆったりと目を向けた。そこには自分の身体の何倍もある大きな壺に向かっている、人間の姿をした青年の背中がある。
透けるような白い肌を持ち、毛先が肩を過ぎるほど長い金髪を、緩く一つに結んだ彼こそが、この国のエライ人、ユゥイだった。
ファイはこの青年の家に住みついているのである。
壺の中の何かがグラグラと煮立っていて、ユゥイはさっきからそれを木の棒で一生懸命かき混ぜていた。
「うーん、色がグロテスクになってきた……また失敗かな……」
「ねぇねぇユゥイー。今度は何を作ってるのー?」
ファイは椅子から下りると、ユゥイの側へ行き足元にすり寄った。
「えげつない臭いがするー」
「ふふふ、秘密だよ」
ユゥイは壺から目を離すことなく笑っている。
彼はいつもこうして何かしらの実験や薬物的なものを精製をしているのだが、それがなんなのかは教えてくれない。
この猫の国の七不思議のひとつなのだ。
「で? なんだっけ? 何か言ってたよね」
「だからー、退屈だにゃーって言ったのー」
「お外で遊んでおいでよ。昼寝ばっかりしてたら身体に悪いよ」
「猫は寝るのが仕事にゃもーん」
「じゃあ退屈とは無縁だね」
「ぐぬぬ……」
ユゥイはどこから取り出したのか、焦げたトカゲのような物体を壺に入れている。
相変わらずこちらを見ないその態度に、ファイは少しイラッとした。
「いいよもう……しょうがにゃいから遊びに行ってくるよー」
「いってらっしゃい」
「人間界に」
「それはダメ」
即答だった。
ファイのイライラ度が増した。
「ちょっとお散歩してくるだけ! ホントにちょっとだけ!」
「ダーメ。隙あらばねだってくるけど、それだけは絶対にダメなの」
いつもある程度のことは許してくれるユゥイだが、こと人間の世界に関してはNGだった。
「人間は怖いんだよ。それはそれは怖い生き物なんだ。ファイなんか小さくて可愛いから、すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。寒かったり暑かったり、天気も気温も年中コロコロ変わるし、だいたいね……」
グダグダグダグダ……。
はじまった。
ユゥイはやっぱり壺から目を離さないまま、いかに人間の世界が恐ろしいかをファイに説いて聞かせる。
耳にタコができるほど聞き飽きているファイは、そっと溜息をつきながら退却することにした。
大きな扉の横にある小さな猫穴をくぐると、トコトコと芝生の上を歩いて池のすぐ側へ行った。
辺りを見回すと猫じゃらしで遊んだり、草を食べたり毛繕いをしたり、お腹を見せて眠っていたり、無警戒な仲間達がそれぞれのどかに過ごしている。
ファイは池の水面に映る自分の姿に目を落とすと、ふぅ、とまた溜息を零した。
狭くて平和で暖かい世界。でも平坦で退屈な世界。
生まれたときから幸せだから、もういっそ満足しているのかどうかさえ麻痺しているような気がしていた。
きっととても贅沢な悩みなのだと思う。こんな悩みを抱えているのは自分だけなのだとも。
ファイは見た目こそ若い猫とそう変わらないが、これでも数百年もの時を生きていた。他の仲間の寿命はどんなに長くても二十年ほどだが、なぜかファイは歳を取らない。
思えば物心ついた頃からユゥイも今のユゥイのままだ。
同じ時を生きる彼がいるからこそ、仲間達が老いて先に死んでいっても、悲しいし寂しいけれど孤独にならずにすんでいた。
いつだったか、ファイはそれがなぜなのかをユゥイに訊ねたことがあった。
『ユゥイ、どうしてオレは他のみんなと違うの?』
そう聞くとユゥイは言った。
『ファイには強い魔力が備わってるからね』
『まりょく?』
『そう。みんな持ってるけど、ファイだけは特別。凄く大きくて強いんだ』
そんなことを言われてもいまいちピンと来ない。
『んー。じゃあ、オレがいつまでも長生きなのはそのせいってこと?』
『そうだね。さしずめファイは人間の世界で言うところの化け猫ってやつかな』
ユゥイは冗談を言ったつもりらしい。あははと笑っていた。
けれどファイは彼が言った『人間』という言葉が気になった。
人間の世界で長生きをする猫を『化け猫』と呼ぶなら、その世界にも自分と同じ存在がいるということなのだろうか。
なぜか妙に興味をそそられて、それからファイはユゥイの本棚を漁った。
あまり難しい字は読めなかったが、人間の世界というのはこの猫の国とは比べ物にならないくらい大きくて、とんでもなく広いのだということはわかった。
もちろん猫だっているし、他にも見たことのない生き物がたくさんいるらしい。
人間だって、ユゥイと同じような姿をしているのなら、きっとみんなとても優しいに違いない。
そのときから、ファイはいつかこの猫の国を飛び出して、冒険の旅に出てみたいと思うようになった。
それなのに、なぜかユゥイは人間やその世界を怖い場所だと言う。行ってはいけないと。しかし反対されればされるほど、ファイの中の退屈がそれに反発心を抱かせた。
ダメと言われると、どうしても行きたくなってしまうのだ。
ファイは一通りの回想を終えると、水面に揺れる自分の姿をキッと睨みつけた。
「そうにゃ……まだ見ぬ世界がオレを待ってる……ような気がするにゃ!」
丸い手をさらに丸めて、グッと握りしめた。
子供ではないのだし、ユゥイの許可を得られないからって、どうということはない。
その気になれば、いつだって行動を起こすことは可能なのだ。
ファイは知っていた。
この集落の片隅、古ぼけてあまり遊ばれなくなった大きなキャットタワーと、すぐ側の大木の狭い隙間。そこにほんの一瞬だけ生じる、空間の歪みの存在を。
←戻る ・ 次へ→
【結婚しようよ】
*日向の家に通い妻状態の無職、狛枝
狛枝と付き合うようになってすぐのこと。
エプロン姿で髪を結い、ボロアパートの狭い台所に立っている狛枝の後姿を眺めながら、日向はなんとなく問いかけてみた。
「そういや狛枝って、普段はなにをしてるんだ?」
「んー? なにって?」
「最近ずっとこの部屋に通い詰めだろ? 学校とか、大丈夫なのか?」
畳に胡坐をかく日向をくるりと振り返って、お玉を手にした狛枝は目をぱちくりとさせている。何かおかしなことを聞いてしまっただろうか。
だが、実際のところ日向は彼が普段なにをしているのかを全く知らない。少し前に狛枝の家で部屋飲みをしたのだが、足を踏み入れるのも躊躇うほど洒落た高級マンションだった。
彼は両親が他界しており、莫大な遺産を相続したという話はそのときに聞いた。だから日向のようにバイトを入れる必要はないだろうが、学校へは行っていないのだろうか。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてないぞ」
「ボク、無職のプー太郎だよ」
「無職? 学生でもないってことか?」
そう、と狛枝が頷く。
「誤解しないでほしいのは、決してニートではないということだよ」
「俺にはニートとプー太郎の違いがわからないんだが」
「ニートは勉強する気も働く気もなくてフラフラしている人のこと。プー太郎っていうのは、働く意志はあるけど働けない人のこと。ウィキペディアにもそう書いてあるよ。ここテストに出るからね」
「出ねぇよ」
短く突っ込みを入れながら、日向は立ち上がると台所へ足を踏み入れ、夕飯の支度を再開する狛枝の隣に並んだ。
味噌汁を作っていた彼は、小皿にお玉で汁を軽く注いで日向に手渡してくる。
「どうかな?」
「ん、美味い。いい感じだ」
「あは、よかった」
今夜は鯖の蒲焼とほうれん草の胡麻和えだよ、と楽しげに言って笑う狛枝は、こうしてしょっちゅう部屋に来ては食事の支度や掃除をしてくれる。
本人はパンを主食としているらしいが、日向が和食派であることを知ると毎回手の込んだ料理を作ってくれるようになった。
おかげで最近、少し太った。こういうのを幸せ太りと呼ぶのだろうか。
それにしても、と日向は思う。狛枝がプー太郎ということは、彼は働く意志があっても働けない、ということになる。なかなか思うような仕事にありつけないでいるのか、それともどこか身体が悪いのだろうか。
「なぁ、お前って何か働けない理由でもあるのか?」
問えば、狛枝はコンロの火を止めながらしょんぼりと俯いてしまう。やはり、これはなにか事情がありそうだ。
「話せば長くなるんだけど……」
「うん」
「以前のボクはね、空っぽというか無気力というか、ただなんとなく生きてたんだ。やりたいこともなくて、毎日フラフラしてた。だけど、このままじゃいけないと思って、色々なところでバイトしてみたんだ」
でも、と狛枝はさらに表情を曇らせる。
「どこに行ってもすぐに駄目になるんだ……」
「駄目?」
「うん。コンビニは入って一週間で潰れたし、クリーニング屋さんは半月で潰れたでしょ、引っ越し屋さんは体力がなさすぎて、ボク自身が一ヶ月で潰れたんだよね。あ、ちなみに疲労骨折で入院したよ」
「そ、それはただの偶然じゃないのか?」
「もちろん他にもあるよ。お花屋さんとか、ケーキ屋さんとか、本屋さんとか。だけど半年も持たないんだ。オーナーが首を吊ったり、お店が全焼したり、食中毒を出したり……まだまだあるけど、全部聞きたい?」
「……いや」
「だんだんね、ボクが原因なんじゃないかって思うようになってさ。死神とか厄病神でも背負ってるのかな……」
なぜか日向は否定してやることができなかった。
偶然と呼ぶにはあまりにも重なりすぎている。引っ越し屋に関しては明らかに狛枝の選択ミスだが。
かといって無言でいるのもどうかと思い、頭の中であれこれ言葉を探していると、狛枝は握った拳を流し台の縁に叩きつけた。
「だけどね、ボクはあるとき気がついたんだ!」
「お、おう」
「ボク、別にお金に困ってない……ってね!」
「まぁ……確かに」
「人並みに労働しようなんて考えが、そもそもの間違いだったんだ。ボクなんか結局、社会に貢献するどころか害悪でしかないんだよ。果てしなく最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやってもダメな人間なんだからさ……」
彼自身に制御できない超自然的な力が働いているのだとしたら、それはどうしようもない問題だと思うのだが。
狛枝はどこかやさぐれたような力ない笑みを浮かべていたが、すぐに「でもね」と顔を上げる。
「日向クンとお付き合いするようになってからは、何事もなく暮らせてるんだよね! 洗濯機も壊れないし、怖い人に絡まれてカツアゲされることもなくなったし、工事現場の側を通っても鉄柱が落ちてこなくなったよ!」
「なんかもうお前って生きてることがもはや奇跡だよな」
「だからさ! 今のボクなら、今度こそ社会に飛び出して行けるんじゃないかな!? なんなら今からでも大学に行くっていう選択肢もあるよね!」
両手を握りしめ、天を仰ぐ狛枝の瞳は大きな希望に光り輝いていた。
まだ若いし、いくらでも好きな道へ進むことはできるだろう。いや、何かを始めることに遅いも早いもない。狛枝が思う通りに好きなだけ人生を謳歌すればいい。
というのは建前で、日向は腕を組むと「うぅん」と唸った。
「あれ? 日向クン? 何か言いたげだね?」
「仕事なら、俺が紹介するぞ」
「え? なになに?」
日向は狛枝の両肩を掴むと真っ直ぐに向き合った。
「俺のために毎日美味い飯作って、俺がいない間この部屋を守って、俺にいってらっしゃいとおかえりと、おはようとおやすみを言う仕事」
狛枝は目を丸く見開いて、長い睫毛を躍らせながら幾度か瞬きをした。そして、徐々に首から額にかけてを真っ赤に染め上げる。
「そ、それはボクに、専業主婦になれ……っていう、その、プロポーズ、なのかな?」
「そうだ。永久就職だぞ」
できることなら、狛枝を外に出したくないというのが本音だった。おかしな虫がついたりしたら堪らないし、何より、エプロン姿で髪を結い、料理をしている後姿を見ながら、つくづく感じていたことがある。
こんな可愛い嫁が、毎日家にいて自分の帰りを待っている暮らしは、どれほど幸せだろうかと。
今だって狛枝には合鍵を渡していて、ほとんど毎日のようにここに通っているから、似たようなものかもしれない。けれど、彼には彼のれっきとした家があって、泊まり込むのは週末だけだ。けれど一緒に暮らしてしまえば、なにも問題はなくなるのだった。
我ながら独占欲の塊だとは思うし、我儘だと思う。それでも、日向は赤くなって俯く狛枝の顔をじっと見つめて答えを待った。
すると、彼はおずおずと潤んだ視線を上向けた。
「一つだけ……いい?」
「おう」
「ここじゃなくて、ボクの部屋で一緒に暮らす……っていうのは、駄目?」
「それは俺が婿に行くパターンのやつか」
考え方が古いと言われてしまいそうだが、日向の頭には狛枝を嫁としてここに迎え入れることしかなかった。この古臭いボロアパートで身を寄せ合って、たまに赤い手拭いをマフラーにして、小さな石鹸をカタカタ鳴らしながら横丁の風呂屋へ行ってみたりなんかして。
思いっきり昭和の名曲を思い描いていた日向は、狛枝の提案に素直に頷くことができなかった。
「駄目、かな……」
「いや、駄目ではないけど」
結局は一緒に暮らすのだから同じことかと妥協しかける日向に、狛枝が最後の一押しを仕掛けてくる。それは日向の迷いを一瞬で吹き飛ばすほどの威力があった。
「だってここ壁が薄いから……エッチのとき、あんまり声が出せないんだもん」
「よし、すぐにここを引き払おう」
「早い! その決断力、流石だよ日向クン!」
「まぁな」
ふっと笑って悦に浸る日向の首に、狛枝が思いっきり抱きついてきた。それをしっかりと受け止め、薄い身体を抱きしめる。狛枝の髪や身体からは甘い石鹸の香りがして、叫び出したいくらいの愛しさに心が震えた。
(全部、俺のだ)
腕の中の柔らかな笑顔も、髪も、匂いも。
「ボク、いい奥さんになれるように頑張るからね」
胸をくすぐる可愛らしい誓いの言葉さえ。
何もかもが愛しくて、日向は狛枝が苦しいと言って肩を叩くまでずっと、強く強く抱きしめ続けた。
←戻る ・ Wavebox👏
*日向の家に通い妻状態の無職、狛枝
狛枝と付き合うようになってすぐのこと。
エプロン姿で髪を結い、ボロアパートの狭い台所に立っている狛枝の後姿を眺めながら、日向はなんとなく問いかけてみた。
「そういや狛枝って、普段はなにをしてるんだ?」
「んー? なにって?」
「最近ずっとこの部屋に通い詰めだろ? 学校とか、大丈夫なのか?」
畳に胡坐をかく日向をくるりと振り返って、お玉を手にした狛枝は目をぱちくりとさせている。何かおかしなことを聞いてしまっただろうか。
だが、実際のところ日向は彼が普段なにをしているのかを全く知らない。少し前に狛枝の家で部屋飲みをしたのだが、足を踏み入れるのも躊躇うほど洒落た高級マンションだった。
彼は両親が他界しており、莫大な遺産を相続したという話はそのときに聞いた。だから日向のようにバイトを入れる必要はないだろうが、学校へは行っていないのだろうか。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてないぞ」
「ボク、無職のプー太郎だよ」
「無職? 学生でもないってことか?」
そう、と狛枝が頷く。
「誤解しないでほしいのは、決してニートではないということだよ」
「俺にはニートとプー太郎の違いがわからないんだが」
「ニートは勉強する気も働く気もなくてフラフラしている人のこと。プー太郎っていうのは、働く意志はあるけど働けない人のこと。ウィキペディアにもそう書いてあるよ。ここテストに出るからね」
「出ねぇよ」
短く突っ込みを入れながら、日向は立ち上がると台所へ足を踏み入れ、夕飯の支度を再開する狛枝の隣に並んだ。
味噌汁を作っていた彼は、小皿にお玉で汁を軽く注いで日向に手渡してくる。
「どうかな?」
「ん、美味い。いい感じだ」
「あは、よかった」
今夜は鯖の蒲焼とほうれん草の胡麻和えだよ、と楽しげに言って笑う狛枝は、こうしてしょっちゅう部屋に来ては食事の支度や掃除をしてくれる。
本人はパンを主食としているらしいが、日向が和食派であることを知ると毎回手の込んだ料理を作ってくれるようになった。
おかげで最近、少し太った。こういうのを幸せ太りと呼ぶのだろうか。
それにしても、と日向は思う。狛枝がプー太郎ということは、彼は働く意志があっても働けない、ということになる。なかなか思うような仕事にありつけないでいるのか、それともどこか身体が悪いのだろうか。
「なぁ、お前って何か働けない理由でもあるのか?」
問えば、狛枝はコンロの火を止めながらしょんぼりと俯いてしまう。やはり、これはなにか事情がありそうだ。
「話せば長くなるんだけど……」
「うん」
「以前のボクはね、空っぽというか無気力というか、ただなんとなく生きてたんだ。やりたいこともなくて、毎日フラフラしてた。だけど、このままじゃいけないと思って、色々なところでバイトしてみたんだ」
でも、と狛枝はさらに表情を曇らせる。
「どこに行ってもすぐに駄目になるんだ……」
「駄目?」
「うん。コンビニは入って一週間で潰れたし、クリーニング屋さんは半月で潰れたでしょ、引っ越し屋さんは体力がなさすぎて、ボク自身が一ヶ月で潰れたんだよね。あ、ちなみに疲労骨折で入院したよ」
「そ、それはただの偶然じゃないのか?」
「もちろん他にもあるよ。お花屋さんとか、ケーキ屋さんとか、本屋さんとか。だけど半年も持たないんだ。オーナーが首を吊ったり、お店が全焼したり、食中毒を出したり……まだまだあるけど、全部聞きたい?」
「……いや」
「だんだんね、ボクが原因なんじゃないかって思うようになってさ。死神とか厄病神でも背負ってるのかな……」
なぜか日向は否定してやることができなかった。
偶然と呼ぶにはあまりにも重なりすぎている。引っ越し屋に関しては明らかに狛枝の選択ミスだが。
かといって無言でいるのもどうかと思い、頭の中であれこれ言葉を探していると、狛枝は握った拳を流し台の縁に叩きつけた。
「だけどね、ボクはあるとき気がついたんだ!」
「お、おう」
「ボク、別にお金に困ってない……ってね!」
「まぁ……確かに」
「人並みに労働しようなんて考えが、そもそもの間違いだったんだ。ボクなんか結局、社会に貢献するどころか害悪でしかないんだよ。果てしなく最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやってもダメな人間なんだからさ……」
彼自身に制御できない超自然的な力が働いているのだとしたら、それはどうしようもない問題だと思うのだが。
狛枝はどこかやさぐれたような力ない笑みを浮かべていたが、すぐに「でもね」と顔を上げる。
「日向クンとお付き合いするようになってからは、何事もなく暮らせてるんだよね! 洗濯機も壊れないし、怖い人に絡まれてカツアゲされることもなくなったし、工事現場の側を通っても鉄柱が落ちてこなくなったよ!」
「なんかもうお前って生きてることがもはや奇跡だよな」
「だからさ! 今のボクなら、今度こそ社会に飛び出して行けるんじゃないかな!? なんなら今からでも大学に行くっていう選択肢もあるよね!」
両手を握りしめ、天を仰ぐ狛枝の瞳は大きな希望に光り輝いていた。
まだ若いし、いくらでも好きな道へ進むことはできるだろう。いや、何かを始めることに遅いも早いもない。狛枝が思う通りに好きなだけ人生を謳歌すればいい。
というのは建前で、日向は腕を組むと「うぅん」と唸った。
「あれ? 日向クン? 何か言いたげだね?」
「仕事なら、俺が紹介するぞ」
「え? なになに?」
日向は狛枝の両肩を掴むと真っ直ぐに向き合った。
「俺のために毎日美味い飯作って、俺がいない間この部屋を守って、俺にいってらっしゃいとおかえりと、おはようとおやすみを言う仕事」
狛枝は目を丸く見開いて、長い睫毛を躍らせながら幾度か瞬きをした。そして、徐々に首から額にかけてを真っ赤に染め上げる。
「そ、それはボクに、専業主婦になれ……っていう、その、プロポーズ、なのかな?」
「そうだ。永久就職だぞ」
できることなら、狛枝を外に出したくないというのが本音だった。おかしな虫がついたりしたら堪らないし、何より、エプロン姿で髪を結い、料理をしている後姿を見ながら、つくづく感じていたことがある。
こんな可愛い嫁が、毎日家にいて自分の帰りを待っている暮らしは、どれほど幸せだろうかと。
今だって狛枝には合鍵を渡していて、ほとんど毎日のようにここに通っているから、似たようなものかもしれない。けれど、彼には彼のれっきとした家があって、泊まり込むのは週末だけだ。けれど一緒に暮らしてしまえば、なにも問題はなくなるのだった。
我ながら独占欲の塊だとは思うし、我儘だと思う。それでも、日向は赤くなって俯く狛枝の顔をじっと見つめて答えを待った。
すると、彼はおずおずと潤んだ視線を上向けた。
「一つだけ……いい?」
「おう」
「ここじゃなくて、ボクの部屋で一緒に暮らす……っていうのは、駄目?」
「それは俺が婿に行くパターンのやつか」
考え方が古いと言われてしまいそうだが、日向の頭には狛枝を嫁としてここに迎え入れることしかなかった。この古臭いボロアパートで身を寄せ合って、たまに赤い手拭いをマフラーにして、小さな石鹸をカタカタ鳴らしながら横丁の風呂屋へ行ってみたりなんかして。
思いっきり昭和の名曲を思い描いていた日向は、狛枝の提案に素直に頷くことができなかった。
「駄目、かな……」
「いや、駄目ではないけど」
結局は一緒に暮らすのだから同じことかと妥協しかける日向に、狛枝が最後の一押しを仕掛けてくる。それは日向の迷いを一瞬で吹き飛ばすほどの威力があった。
「だってここ壁が薄いから……エッチのとき、あんまり声が出せないんだもん」
「よし、すぐにここを引き払おう」
「早い! その決断力、流石だよ日向クン!」
「まぁな」
ふっと笑って悦に浸る日向の首に、狛枝が思いっきり抱きついてきた。それをしっかりと受け止め、薄い身体を抱きしめる。狛枝の髪や身体からは甘い石鹸の香りがして、叫び出したいくらいの愛しさに心が震えた。
(全部、俺のだ)
腕の中の柔らかな笑顔も、髪も、匂いも。
「ボク、いい奥さんになれるように頑張るからね」
胸をくすぐる可愛らしい誓いの言葉さえ。
何もかもが愛しくて、日向は狛枝が苦しいと言って肩を叩くまでずっと、強く強く抱きしめ続けた。
←戻る ・ Wavebox👏
【会いたくて震える】
*狛枝が日向にメールを送るまで。
『日向クン、この間は助けてくれて本当にありがとう。
物凄く緊張したけど、一緒にお蕎麦を食べれたのも嬉しかったよ。
この間も言ったと思うけど、ボクは今まで友達と呼べる存在が一人もいなかったんだ。
だから日向クンと過ごせたことはとても貴重な経験だったよ。
もしボクに友達がいたら、こんな感じがするのかな。最高だね。
日向クン、キミさえよければなんだけど、また会ってお話できないかな?
もちろん迷惑だったら無視してくれてもいいよ!
そうだよね、こんなゴミの顔なんか二度と見たくないって思うのは当然だよね。
だけどボクはもう一度』
「もう一度……」
携帯のディスプレイに走らせていた指先を止めて、狛枝は溜息をつきながらがくりと項垂れた。
身体の向きを変え、腰かけていたソファの肘掛を枕にして寝転がる。ぼんやりと天井を見つめていると、また溜息が漏れた。
一体これで何度目だろう。
こうして長ったらしいメールを打っては消してを繰り返し、すでに一ヶ月以上が経過していた。
(日向クン、ボクのことなんか忘れてるだろうな)
何事もタイミングが大事。
もっと早くにお礼のメールを送っていれば、今ごろ何かしら展開があったかもしれない。
だけど、どうしても怖かった。いくらピンチを救われて、一緒に蕎麦を食べて、連絡先を交換したからといって。早々にメールなんか送ったら、調子に乗っていると思われたりしないだろうかと。
正直、自分で文面を見返しても鬱陶しいと感じるし、気持ち悪いヤツだと思う。
そうこうしているうちにどんどん時間が過ぎて、気づけば一月が終わり、二月も中旬に差し掛かっていた。
狛枝は「んうぅ~」と唸りながらソファの上でごろごろと身悶えた。壁にかかっている時計を見ると、もうじき昼になろうとしている。
そもそもメールというものは一日のうち、どのタイミングで送るのがベストなのだろう。夜は寝ているかもしれないし、誰かと会っているかもしれないし、テレビを見ているかもしれないし。日中は忙しいだろうし、朝は論外……。
「あぁ! なんて絶望的なんだろう! ボクみたいなのをコミュ障っていうのかなぁ!」
だから些細なことで迷ってしまう。
相手がどう思うか、どう感じるか、慮るほどに後ろ向きな思考にばかり囚われて、身動きが取れなくなっていく。
(だけど……)
狛枝はソファから身を起こし、手の中の携帯に視線を落とした。
ついさっき打ち込んだ文章を全て消して、真っ白になった画面を見ながら三度目の溜息を漏らす。
「もう一度、キミに会いたいんだ」
たった一度、会っただけの人。それでも、こんな自分を救ってくれたのは彼が初めてだった。
普通あんな場面に立ち会ったら、知らんぷりするか女性の肩を持つのが当然のはずだ。だけど日向は狛枝を助けてくれた。信じてくれた。
あのときの彼が何を思ったのかは分からない。それでもこんな無価値な自分に、何の見返りもなく手を差し伸べてくれる人間がいたことに、狛枝は天地が引っくり返るほどの衝撃を受けたのだった。
日向はあまり愛想はよくないし、どこか面倒臭そうだったけれど、狛枝の話を聞いてくれた。ツレ、という言葉に浮かれて出待ちをしていた自分に、不器用な笑顔を見せてくれた。あんなに胸が温かくなったのは、生まれて初めてだった。
これまでの狛枝は、運もなければ縁もないまま、意味もなくただなんとなく生きていた。いつぽろりと命を落とすかも分からないし、一人で生きてさえいれば、誰にも迷惑はかからない。ひっそりと、ただ最期を待つだけの人生で満足だった。
そんな自分が、だ。
今や毎日のようにメールを打っては消してを繰り返すくらい、彼のことばかり考えている。
気持ち悪い。本当に気持ち悪い。こんな気持ちの悪い人間は、嫌われたって当然だ。だったらいっそ、一生に一度くらい当たって砕けてみようか。
狛枝は再び指先をディスプレイに走らせた。いつもなら何時間とかけて打つ文章が、たった十数秒で完結した。
『一緒にお食事どうですか』
シンプルな誘いを、諦めの境地で送信した。
その瞬間、終わったと思った。今ごろ日向は不愉快そうに顔を顰めているかもしれない。あるいはただの迷惑メールとして処理されているかもしれない。
仕方がないことだと思った。こんなダニにも劣る矮小な人間から食事の誘いなんかきたら、誰だって嫌な気持ちになるに違いないのだから。
「…………」
途端に、狛枝は青褪めていくのを感じて身を震わせた。
粉々に砕け散るつもりでメールを送ったのに、一分一秒と時が経つにつれてどんどん不安になる。
「き、嫌われる……嫌われちゃう……日向クン……」
やっぱりやめておけばよかった。
迷惑をかけるだけだと分かっていたのに、一時の感情に身を任せて自分はなんて真似をしてしまったんだろう。
携帯を胸にぎゅっと抱きしめ、狛枝は歯の根を鳴らしながら涙ぐむ。息ができない。
もう死ぬしかないと思った。そうだ、今からホームセンターにでも行って、練炭かロープを買って来よう……。
こうしてはいられないと、立ち上がったそのときだった。
手の中で携帯が鳴った。
心臓が爆発するのではないかと思うほど、大きく跳ね上がる。
喉の奥がひりつくほど乾いているのを感じながら、狛枝は恐る恐る、メールを開いた。すると。
『OK、いつにする?』
夢でも見ているのかと思った。
足元から這い上がって来る熱い感動に、狛枝は身震いしながら涙を浮かべる。
「日向クン……日向クン……」
画面がぼやけて見えなくなった。嬉しい。嬉しい。生きててよかった。
狛枝は即座に今夜にも会えないかとメールを返した。下手に間を開ければ、日向の気持ちが変わってしまうかもしれない。早く早くと気が急いて、狛枝は返信を待つ間ずっと部屋の中をうろついた。
すると、数分でまた携帯が鳴った。肩をビクつかせながら開いたメールは、待ち合わせの時間と場所が書かれていた。
『今夜7時、あのコインランドリーで』
それを見た狛枝は、喉の奥から絞り出すようにして悲鳴をあげた。胸がドキドキして、顔が汗ばむほど熱くなっているのに、身体は鳥肌がたったようにぴりぴりと痺れていた。
「日向クンに、また会える……!」
今が人生のピーク。そんな気がする。
仮に明日死んでしまうようなことがあったとしても、いい人生だったと笑顔で逝くことができるように思えた。
歓喜に打ち震える狛枝は、それからずっと時計と睨めっこをしながら過ごし、陽も暮れないうちから堪らず家を飛び出すのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
*狛枝が日向にメールを送るまで。
『日向クン、この間は助けてくれて本当にありがとう。
物凄く緊張したけど、一緒にお蕎麦を食べれたのも嬉しかったよ。
この間も言ったと思うけど、ボクは今まで友達と呼べる存在が一人もいなかったんだ。
だから日向クンと過ごせたことはとても貴重な経験だったよ。
もしボクに友達がいたら、こんな感じがするのかな。最高だね。
日向クン、キミさえよければなんだけど、また会ってお話できないかな?
もちろん迷惑だったら無視してくれてもいいよ!
そうだよね、こんなゴミの顔なんか二度と見たくないって思うのは当然だよね。
だけどボクはもう一度』
「もう一度……」
携帯のディスプレイに走らせていた指先を止めて、狛枝は溜息をつきながらがくりと項垂れた。
身体の向きを変え、腰かけていたソファの肘掛を枕にして寝転がる。ぼんやりと天井を見つめていると、また溜息が漏れた。
一体これで何度目だろう。
こうして長ったらしいメールを打っては消してを繰り返し、すでに一ヶ月以上が経過していた。
(日向クン、ボクのことなんか忘れてるだろうな)
何事もタイミングが大事。
もっと早くにお礼のメールを送っていれば、今ごろ何かしら展開があったかもしれない。
だけど、どうしても怖かった。いくらピンチを救われて、一緒に蕎麦を食べて、連絡先を交換したからといって。早々にメールなんか送ったら、調子に乗っていると思われたりしないだろうかと。
正直、自分で文面を見返しても鬱陶しいと感じるし、気持ち悪いヤツだと思う。
そうこうしているうちにどんどん時間が過ぎて、気づけば一月が終わり、二月も中旬に差し掛かっていた。
狛枝は「んうぅ~」と唸りながらソファの上でごろごろと身悶えた。壁にかかっている時計を見ると、もうじき昼になろうとしている。
そもそもメールというものは一日のうち、どのタイミングで送るのがベストなのだろう。夜は寝ているかもしれないし、誰かと会っているかもしれないし、テレビを見ているかもしれないし。日中は忙しいだろうし、朝は論外……。
「あぁ! なんて絶望的なんだろう! ボクみたいなのをコミュ障っていうのかなぁ!」
だから些細なことで迷ってしまう。
相手がどう思うか、どう感じるか、慮るほどに後ろ向きな思考にばかり囚われて、身動きが取れなくなっていく。
(だけど……)
狛枝はソファから身を起こし、手の中の携帯に視線を落とした。
ついさっき打ち込んだ文章を全て消して、真っ白になった画面を見ながら三度目の溜息を漏らす。
「もう一度、キミに会いたいんだ」
たった一度、会っただけの人。それでも、こんな自分を救ってくれたのは彼が初めてだった。
普通あんな場面に立ち会ったら、知らんぷりするか女性の肩を持つのが当然のはずだ。だけど日向は狛枝を助けてくれた。信じてくれた。
あのときの彼が何を思ったのかは分からない。それでもこんな無価値な自分に、何の見返りもなく手を差し伸べてくれる人間がいたことに、狛枝は天地が引っくり返るほどの衝撃を受けたのだった。
日向はあまり愛想はよくないし、どこか面倒臭そうだったけれど、狛枝の話を聞いてくれた。ツレ、という言葉に浮かれて出待ちをしていた自分に、不器用な笑顔を見せてくれた。あんなに胸が温かくなったのは、生まれて初めてだった。
これまでの狛枝は、運もなければ縁もないまま、意味もなくただなんとなく生きていた。いつぽろりと命を落とすかも分からないし、一人で生きてさえいれば、誰にも迷惑はかからない。ひっそりと、ただ最期を待つだけの人生で満足だった。
そんな自分が、だ。
今や毎日のようにメールを打っては消してを繰り返すくらい、彼のことばかり考えている。
気持ち悪い。本当に気持ち悪い。こんな気持ちの悪い人間は、嫌われたって当然だ。だったらいっそ、一生に一度くらい当たって砕けてみようか。
狛枝は再び指先をディスプレイに走らせた。いつもなら何時間とかけて打つ文章が、たった十数秒で完結した。
『一緒にお食事どうですか』
シンプルな誘いを、諦めの境地で送信した。
その瞬間、終わったと思った。今ごろ日向は不愉快そうに顔を顰めているかもしれない。あるいはただの迷惑メールとして処理されているかもしれない。
仕方がないことだと思った。こんなダニにも劣る矮小な人間から食事の誘いなんかきたら、誰だって嫌な気持ちになるに違いないのだから。
「…………」
途端に、狛枝は青褪めていくのを感じて身を震わせた。
粉々に砕け散るつもりでメールを送ったのに、一分一秒と時が経つにつれてどんどん不安になる。
「き、嫌われる……嫌われちゃう……日向クン……」
やっぱりやめておけばよかった。
迷惑をかけるだけだと分かっていたのに、一時の感情に身を任せて自分はなんて真似をしてしまったんだろう。
携帯を胸にぎゅっと抱きしめ、狛枝は歯の根を鳴らしながら涙ぐむ。息ができない。
もう死ぬしかないと思った。そうだ、今からホームセンターにでも行って、練炭かロープを買って来よう……。
こうしてはいられないと、立ち上がったそのときだった。
手の中で携帯が鳴った。
心臓が爆発するのではないかと思うほど、大きく跳ね上がる。
喉の奥がひりつくほど乾いているのを感じながら、狛枝は恐る恐る、メールを開いた。すると。
『OK、いつにする?』
夢でも見ているのかと思った。
足元から這い上がって来る熱い感動に、狛枝は身震いしながら涙を浮かべる。
「日向クン……日向クン……」
画面がぼやけて見えなくなった。嬉しい。嬉しい。生きててよかった。
狛枝は即座に今夜にも会えないかとメールを返した。下手に間を開ければ、日向の気持ちが変わってしまうかもしれない。早く早くと気が急いて、狛枝は返信を待つ間ずっと部屋の中をうろついた。
すると、数分でまた携帯が鳴った。肩をビクつかせながら開いたメールは、待ち合わせの時間と場所が書かれていた。
『今夜7時、あのコインランドリーで』
それを見た狛枝は、喉の奥から絞り出すようにして悲鳴をあげた。胸がドキドキして、顔が汗ばむほど熱くなっているのに、身体は鳥肌がたったようにぴりぴりと痺れていた。
「日向クンに、また会える……!」
今が人生のピーク。そんな気がする。
仮に明日死んでしまうようなことがあったとしても、いい人生だったと笑顔で逝くことができるように思えた。
歓喜に打ち震える狛枝は、それからずっと時計と睨めっこをしながら過ごし、陽も暮れないうちから堪らず家を飛び出すのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
待ち合わせ場所はあのコインランドリーに夜7時ちょうど。
たまたま洗濯物が溜まっていたところだった日向は、それより一時間ほど早く目的地へ到着した。
すると、なぜか同じタイミングで狛枝とばったり遭遇した。
「狛枝? もう来てたのか?」
「あれ? 日向クン、もう来たの?」
お互い目を丸くして同じセリフを言い合う。
もしやまた洗濯機が壊れたのかと思ったが、手ぶらの様子を見ると違うようだ。
「俺は洗濯しようと思って早目に来たんだけど。お前は? まだ一時間も余裕があるぞ?」
「あ、ボクは……その、落ち着かなくて……来ちゃったんだ」
狛枝は俯き、顔を赤らめながらモジモジとして地面を蹴っている。
今日も絶好調に可愛いヤツめと思いつつ、日向は困り顔で頬を掻く。
「来ちゃった、ってお前な。一時間も一人で突っ立って待ってるつもりだったのか?」
「うん。あ、でも、今日はまだ我慢した方だよ。こないだ居酒屋に行ったときは、3時間も前から待ってたし」
「はぁ!? 3時間!?」
明かされた新事実に我が耳を疑った日向は、思わず大声を上げてしまった。
確かあの日も今日と同じく7時の約束だったから、彼は夕方4時から待っていたということになる。これには流石に呆れてしまった。
「お前なぁ……どうかしてるぞ。そりゃいくらなんでも」
「あは、そうだよね。どうかしてるよね。だけど、日向クンのことを考えるとどうしてもソワソワしちゃって、いてもたってもいられなくなるんだよね」
ふにゃ、とした情けない笑顔でそんなことを言われてしまうと、これ以上は何も言えなくなってしまう。
もう済んでしまったことだし、これからちゃんと言い聞かせていく必要がありそうだ。
(そういうところも可愛いんだけどさ……)
今日は狛枝の『お酒を飲めるようになりたい』というたっての希望で、日向のアパートで家飲みをすることになっている。
本来なら7時にここで落ちあって、そのままスーパーで買い出しをしてアパートへ戻る予定だったのだが、まぁ別に計画に支障をきたすわけでもないし、予定より早く会えたことを純粋に喜ぶことにした。
「じゃあちょっと付き合えよ。これ洗っちゃうから」
「……ねぇ、ボク思ったんだけど」
日向が肩にかけているバッグをじっと見つめながら、狛枝が言った。
「洗濯、うちでするっていうのはどうかな?」
「うちって、お前んちか?」
「うん、日向クンの部屋に行くのもいいけど、ボクんちでもいいかなって。洗濯機はちゃんと修理してもらったから、今のところは問題なく使えるよ」
「狛枝の家、か……」
そういえば彼の家にはまだ一度も行ったことがない。
どんな環境で暮らしているのかも気になるし、決して悪くない提案だ。
「あっ、ごめん! もちろん選択権は日向クンにあるよ! ボクみたいなゴミが暮らす汚部屋に来たりなんかしたら、日向クンの健康を害する恐れもあるしね!」
「だんだんその自虐にも慣れてきたけどな、男の一人暮らしなんだから、別に汚れてたって気にしないぞ」
遠慮がちに俯いている狛枝の頭にポンポンと手の平で触れると、彼はホッとしたように息を吐き出し、はにかんだ笑顔を浮かべた。
「じゃ、お言葉に甘えるとするかな」
と、その前に。
「なぁ、スーパー以外に、薬局にも寄っていいか?」
「うん? 勿論だよ。日向クン、どこか具合でも悪いの?」
「いや……元気すぎるほど元気だぞ。色々」
「ならいいんだけど」
薬局へ寄るからといって、必ずしも薬を買うわけではない。
(てっきり俺んちで飲むと思ってたから……置いてきちまったんだよな)
前回は何の準備もしないままに事に及んでしまったが、今回はゴムやローションなどの準備を事前にしっかりと整えていた。もちろん、アナルセックスの基礎もしっかりネットで調べて頭に叩き込んである。
だがそれら一式は全て日向の部屋にあるため、薬局へ寄って改めて間に合わせるしかなかった。
(猿だな、猿)
下心の塊と化している自分に、少し呆れる。
けれど前のように記憶がすっ飛ぶほど飲ませさえしなければ、きっと自然にそういう流れになるに違いなかった。いや、仮に狛枝がどうしようもなく酔っぱらったとしても、今度はじっくりとその様を堪能できるのだから、それはそれで少し楽しみではあるのだが。
「じゃあ行こっか、日向クン」
頭の中がピンク色に染まりきっている日向に気づきもせず、狛枝はそう言ってにっこりと笑った。
おう、と短く答えるのと同時に、二人は同じタイミングで歩き出す。狛枝は以前のように少し遅れてついてくるのではなく、ごく自然に日向の隣に並んだ。
それは狛枝が一歩踏み込んだのか、自分が彼のペースに合わせたのか。
もしかしたら、その両方なのかもしれないと、日向は思う。
とても些細なことかもしれないが、その何気ない距離感は互いの関係性の変化をはっきりと表しているような気がする。
少なくとも、自分が狛枝にとって安心して隣を歩ける存在になれたのだと思うと、心の中が陽だまりに照らされたように温かく満ちていくのを感じた。
コンビニとランドリーの光を背に、暗い夜道へさしかかると、日向は隣を歩く狛枝の手に触れて、そっと握った。
「ひ、日向クン……」
驚いた狛枝が肩をビクつかせ、戸惑いの声をあげる。
日向は知らん顔で、ただ前を向いて歩いた。足取りは軽やかで、今ならどこへだって行けそうな気がする。
やがておずおずと握り返してきた狛枝の、恥ずかしそうに唇を噛み締める様を横目に見て、日向はそっと、口許を綻ばせた。
真夜中、コインランドリーにて。
あの日遭遇した絶望的にツイてないヤツは今、こうして日向の最愛となった。
この幸せを離してなるものかと、日向は握り合った手にいっそう、力を込めるのだった。
END
←戻る ・ 次へ→
たまたま洗濯物が溜まっていたところだった日向は、それより一時間ほど早く目的地へ到着した。
すると、なぜか同じタイミングで狛枝とばったり遭遇した。
「狛枝? もう来てたのか?」
「あれ? 日向クン、もう来たの?」
お互い目を丸くして同じセリフを言い合う。
もしやまた洗濯機が壊れたのかと思ったが、手ぶらの様子を見ると違うようだ。
「俺は洗濯しようと思って早目に来たんだけど。お前は? まだ一時間も余裕があるぞ?」
「あ、ボクは……その、落ち着かなくて……来ちゃったんだ」
狛枝は俯き、顔を赤らめながらモジモジとして地面を蹴っている。
今日も絶好調に可愛いヤツめと思いつつ、日向は困り顔で頬を掻く。
「来ちゃった、ってお前な。一時間も一人で突っ立って待ってるつもりだったのか?」
「うん。あ、でも、今日はまだ我慢した方だよ。こないだ居酒屋に行ったときは、3時間も前から待ってたし」
「はぁ!? 3時間!?」
明かされた新事実に我が耳を疑った日向は、思わず大声を上げてしまった。
確かあの日も今日と同じく7時の約束だったから、彼は夕方4時から待っていたということになる。これには流石に呆れてしまった。
「お前なぁ……どうかしてるぞ。そりゃいくらなんでも」
「あは、そうだよね。どうかしてるよね。だけど、日向クンのことを考えるとどうしてもソワソワしちゃって、いてもたってもいられなくなるんだよね」
ふにゃ、とした情けない笑顔でそんなことを言われてしまうと、これ以上は何も言えなくなってしまう。
もう済んでしまったことだし、これからちゃんと言い聞かせていく必要がありそうだ。
(そういうところも可愛いんだけどさ……)
今日は狛枝の『お酒を飲めるようになりたい』というたっての希望で、日向のアパートで家飲みをすることになっている。
本来なら7時にここで落ちあって、そのままスーパーで買い出しをしてアパートへ戻る予定だったのだが、まぁ別に計画に支障をきたすわけでもないし、予定より早く会えたことを純粋に喜ぶことにした。
「じゃあちょっと付き合えよ。これ洗っちゃうから」
「……ねぇ、ボク思ったんだけど」
日向が肩にかけているバッグをじっと見つめながら、狛枝が言った。
「洗濯、うちでするっていうのはどうかな?」
「うちって、お前んちか?」
「うん、日向クンの部屋に行くのもいいけど、ボクんちでもいいかなって。洗濯機はちゃんと修理してもらったから、今のところは問題なく使えるよ」
「狛枝の家、か……」
そういえば彼の家にはまだ一度も行ったことがない。
どんな環境で暮らしているのかも気になるし、決して悪くない提案だ。
「あっ、ごめん! もちろん選択権は日向クンにあるよ! ボクみたいなゴミが暮らす汚部屋に来たりなんかしたら、日向クンの健康を害する恐れもあるしね!」
「だんだんその自虐にも慣れてきたけどな、男の一人暮らしなんだから、別に汚れてたって気にしないぞ」
遠慮がちに俯いている狛枝の頭にポンポンと手の平で触れると、彼はホッとしたように息を吐き出し、はにかんだ笑顔を浮かべた。
「じゃ、お言葉に甘えるとするかな」
と、その前に。
「なぁ、スーパー以外に、薬局にも寄っていいか?」
「うん? 勿論だよ。日向クン、どこか具合でも悪いの?」
「いや……元気すぎるほど元気だぞ。色々」
「ならいいんだけど」
薬局へ寄るからといって、必ずしも薬を買うわけではない。
(てっきり俺んちで飲むと思ってたから……置いてきちまったんだよな)
前回は何の準備もしないままに事に及んでしまったが、今回はゴムやローションなどの準備を事前にしっかりと整えていた。もちろん、アナルセックスの基礎もしっかりネットで調べて頭に叩き込んである。
だがそれら一式は全て日向の部屋にあるため、薬局へ寄って改めて間に合わせるしかなかった。
(猿だな、猿)
下心の塊と化している自分に、少し呆れる。
けれど前のように記憶がすっ飛ぶほど飲ませさえしなければ、きっと自然にそういう流れになるに違いなかった。いや、仮に狛枝がどうしようもなく酔っぱらったとしても、今度はじっくりとその様を堪能できるのだから、それはそれで少し楽しみではあるのだが。
「じゃあ行こっか、日向クン」
頭の中がピンク色に染まりきっている日向に気づきもせず、狛枝はそう言ってにっこりと笑った。
おう、と短く答えるのと同時に、二人は同じタイミングで歩き出す。狛枝は以前のように少し遅れてついてくるのではなく、ごく自然に日向の隣に並んだ。
それは狛枝が一歩踏み込んだのか、自分が彼のペースに合わせたのか。
もしかしたら、その両方なのかもしれないと、日向は思う。
とても些細なことかもしれないが、その何気ない距離感は互いの関係性の変化をはっきりと表しているような気がする。
少なくとも、自分が狛枝にとって安心して隣を歩ける存在になれたのだと思うと、心の中が陽だまりに照らされたように温かく満ちていくのを感じた。
コンビニとランドリーの光を背に、暗い夜道へさしかかると、日向は隣を歩く狛枝の手に触れて、そっと握った。
「ひ、日向クン……」
驚いた狛枝が肩をビクつかせ、戸惑いの声をあげる。
日向は知らん顔で、ただ前を向いて歩いた。足取りは軽やかで、今ならどこへだって行けそうな気がする。
やがておずおずと握り返してきた狛枝の、恥ずかしそうに唇を噛み締める様を横目に見て、日向はそっと、口許を綻ばせた。
真夜中、コインランドリーにて。
あの日遭遇した絶望的にツイてないヤツは今、こうして日向の最愛となった。
この幸せを離してなるものかと、日向は握り合った手にいっそう、力を込めるのだった。
END
←戻る ・ 次へ→
お互い服を脱いで生まれたままの姿で向き合う。
狛枝の長い手足は若木のように細く、改めて見てもおうとつに乏しい骨の浮いた身体だった。
「ごめんね。貧相で、醜くて」
両足を投げ出すようにして座る日向を跨ぐ形で、膝立ちになっている狛枝が申し訳なさそうに笑った。日向はそんな彼の顔を見上げながら熱い息を吐き出し、首を左右に振る。
「興奮する。凄く」
当たり前のようにいつかは女性と結ばれるものと思っていた頃は、どちらかといえば健康的で豊満な身体を理想としていたような気がする。
それが今や不健康そうな薄い皮膚も、尖った肩も、うっすらと浮いたあばら骨さえも、日向にとっては肉欲の対象になっていた。
自信の欠片もない弱々しい笑みすら愛しくて、抱きしめたくて仕方がない。
「変だよ……日向クンは」
「お前にだけは言われたくないぞ」
悪戯に手の平を背筋に這わせると、彼はくすぐったそうに身を捩りながら「あは」と笑う。
「恥ずかしいから、あんまり見ないでね」
狛枝は目を細めながらそう言って、自分の指に舌を這わせた。
「狛枝、なにを……?」
「ん、何をって……準備、かな。ちゃんと柔らかくしないと、日向クンが辛いから」
戸惑う日向の目の前で、狛枝は濡れた指を自分の身体の奥まった場所へ伸ばす。
彼が小さく呻き、苦しげに眉を寄せるのを見た瞬間、ようやく理解した。
相手は男性なのだから、準備といえばひとつしかない。狛枝は、白い身体を赤く染め上げ、羞恥に唇を噛み締めながら自らの窄まりを解しにかかっているのだ。
「ッ……!!」
その瞬間、日向は頭が沸騰しそうになるほどの熱を感じて顔を真っ赤にした。
狛枝はもう片方の手を日向の肩に置き、身体を屈めながらどうにかバランスを保っている。一体その股座の奥でなにが起こっているのか。だが、肩に食い込む爪の感触から相当の無理をさせていることは伝わった。
「こ、狛枝」
「んっ、ぅ……まっ、て……待ってて……すぐ、使えるように……」
固く閉じた瞳で、涙に濡れた睫毛が震えていた。
あまりにも辛そうな表情を見上げながら、日向は自分も何かしなくてはと焦りを覚える。狛枝が必死に受け入れようと無理をしているのに、このまま見ているだけでいいわけがない。
おそらく、本当はもっと入念な準備をしてから行わなければならない行為だったのだと、今更になって気がつく。
「ごめん、ね。ボクも、凄く久しぶり、だから……ッ」
それは中学の頃の、例の事件のことを指しているのだろうと思った。
当時の狛枝も、こうして相手のために自分だけが負担を被るような痴態を曝したのだろうか。
ずっとその表情に釘づけになっていた視線を下向けると、萎えることなく天を仰ぐ自分のものとは逆に、狛枝の性器はすっかり萎れきっていた。
「狛枝、俺にやらせてくれ」
「ぇ、あッ、ちょっと……!」
言うが早いか、日向は狛枝の腰に腕を回し、その薄い身体を裏返すと布団に沈める。尻だけを高く突きだすような、四つん這いの姿勢を取らせた。
「ひ、日向クン!?」
「濡らして、解せばいいんだよな?」
「やっ、やめて! こんな格好恥ずかしいッ……!」
狛枝が身を捩り、悲鳴を上げながら抵抗を示す。けれど日向は薄い尻の肉を両手で掴み、容赦なく割り開くとその小さな窄まりに目を凝らした。
「やだぁ……ッ」
何もかもをさらけ出してしまった狛枝は、シーツに顔を擦りつけて全身を震わせた。泣かせてしまったかと少しばかり胸が痛んだが、日向は目の前でヒクヒクと収縮する小さな襞の窄まりから、目が離せなかった。
多少は覚悟していた嫌悪感が、全くと言っていいほど湧き起こらない。
むしろ桃色に色づく肉のあわいが健気にも見えて、触れたいと心から思った。
「尻の穴まで……可愛いのな……」
「またそれ!?」
「なんかもう、可愛いしか言えない」
「バッ……!」
今お前バカって言おうとしただろ……とは思ったが、自分でも確かにそう思う。それでも構うものかと、日向は狛枝がしたように自分の人差し指に舌を這わすと存分に濡らし、中心にそっと触れた。
「や……!」
狛枝が身を強張らせるのがわかる。彼はきつく握りしめている拳をシーツの上で震わせていた。
その動きに合わせて、触れている窄まりも硬く閉じようとしていた。日向は濡れた指先でその辺りをくすぐるようにくるりと撫でた。そして、指の腹をそっと押し付けるようにしながら先端を押し込んでみる。
「ヒッ、ぁ!」
ビクン、と狛枝の腰が跳ねた。
「痛いか?」
問えば、彼はシーツに額を押し付けながら頭を左右に振った。
今はまだそれが真意かどうかを確かめる術はなくて、日向はゆっくりと慎重に先端を出し入れしながら入口を探ってみる。潤いが足りなくなる度に指を濡らし、襞を伸ばすように優しくマッサージした。
こうなったら何時間でも手間をかけてやるつもりで、根気よく一本の指で慣らしていった。すると、第一関節までがやっとだった蕾が微かに綻びを見せ、第二関節までをどうにか飲み込んだ。
「ん、う、ぅ……っ」
「なぁ、わかるか? 俺の指入ってんの」
「はッ、はぁ、ぁ……ぅ、ん……わか、る……」
狛枝もすっかり観念したのか、素直な反応を見せた。
少し苦しそうだが、痛みはなさそうだった。日向はさらに深くまで探るようにしながら指を押し進めた。時間をかけて、ゆっくりと、慎重に。
しっとりとした熱い肉壁に締め付けられる度に、気が急いて仕方がなかった。これに食まれながら腰を振るのは、どれほど気持ちがいいのだろうか。
日向は今にも暴走しそうな欲求を、歯を食いしばって耐え続けた。傷つけないように何度でも潤し、根気よく内壁に馴染ませた。やがてそこから鈍い水音が響くようになる頃、狛枝は日向の指を二本、どうにかこうにか飲み込んだ。
「も、いい……お願い、日向クン……」
「……いいのか?」
経験のない日向にだって、まだ準備が不十分なことくらいは分かる。狛枝の性器もいまだに萎れたままだ。それでも布団に手をつき、どうにか身体を支えながら狛枝がかくん、と頷いた。他人に身体の中を探られるという感覚は日向には分からないが、これはこれで長引けば辛いだけなのかもしれない。
精神的にもなるべく負担をかけたくないという思いから、素直に指を引き抜く。狛枝は一度、大きく身震いをした。
「狛枝」
もはや疲れ切った様子で、狛枝は全身にうっすらと汗をかきながら横座りをして息を荒げていた。
いよいよ本気で切羽詰まった顔をした日向が名前を呼ぶと、彼は頬に色素の薄い髪を張り付けながらゆらりと手を伸ばしてくる。
その腕を取り、重なるようにして布団に雪崩れ込んだ。抱きしめた身体は最初から計算されていたかのように、日向の腕の中によく馴染んだ。激しい葛藤の末ではあったが、なるべくしてなったのだと、妙に納得している自分がいる。
欠けていたピースがぴったりとハマるような感覚に、もし名前をつけるとすれば、これが運命であり、必然だったのだと。
多分最初から。あの真夜中のコインランドリーで、気紛れにこの男を救ったときから。
「日向クン……」
白い両腕が首に回ったのを合図に、日向は狛枝の一番弱くて繊細な場所に脈打つ肉棒を押し付けた。
く、と反り返る喉に唇を強く押し付けて、息をつめながら腰を押し進める。小さな襞をこじ開けるようにして先端が潜り込むと、それだけで達してしまいそうなほどの電流が駆け抜ける。
「――ッ、ぁ……!」
狛枝が声にならない悲鳴をあげると、唇に喉仏が引き攣る感触が伝わった。
「狛枝……ッ、悪い、俺ッ……!」
目が眩みそうなほどの快感に、日向の理性は薄皮一枚で繋がっているようなものだった。狛枝の中は熱くて、腰を進める度にみっちりと詰まった肉の壁が抵抗を見せる。それさえも堪らなく気持ちがよくて、正直もう余裕がなかった。
「んぅ、あ……! ひ、な……ぁッ、もっ、と……奥、きて……!」
辛そうに立てた膝頭を痙攣させているくせに、狛枝は日向の頭を抱き込んで奥深くへ誘おうとする。
もうダメだと観念した途端、日向は熱い媚肉に自身を根元まで埋めた。狛枝の見開かれた瞳から涙が溢れる。腕の中で薄い身体がバネのように大きくしなった。
日向は狛枝をきつく抱きしめながら、痛いほどの締め付けに歯を食いしばって耐える。二人とも汗だくになって震え、息を荒げていた。
「お前の中、凄い……気持ちいい」
呼吸の合間に耳元で吐き出した言葉に、狛枝がピクンと反応を示す。
「ほん、と……?」
「ああ……熱くて、ッ、たぶん、すぐイク」
「嬉しい……日向クン、大好き」
首に回る腕の力が強まった。狛枝は甘えたように日向の頬に額を擦りつける。その仕草があまりにも可愛くて、愛しくて、胸が掻き毟られるようだった。
「俺も、大好きだ」
短い言葉にありったけの感情を乗せながら、日向は微かに腰を揺らした。狛枝の口からは苦しげな呻きが上がったが、二人の身体に挟まれるようにして揺れる性器は勃起しかけていた。おそらくとてつもない負担をかけているし、辛いはずだ。それでもちゃんと興奮してくれているのだと思うと嬉しかった。
「ヒ、ッ……く、あ、ぁ……は……ッ!」
思うが儘に揺さぶりたい欲をどうにか堪え、ゆっくりと馴染ませるように腰を前後に揺らした。狛枝は懸命に日向にしがみつきながら、かくかくと小刻みに揺れる。容赦なく締め付ける肉壁が脈打ち、屹立を擦られる度に日向の口からは獣じみた呻きが漏れた。
「ひな、た、クン……ッ、日向クン……日向クン……ッ!」
名前を呼ばれる度に理性を手放していくような気がした。目が眩むような快楽に飲まれ、日向は次第に抽挿を激しいものにしていった。
華奢な身体を揺さぶる度に、腹に濡れそぼった狛枝の性器が当たる。日向はほとんど無意識に片手をそれに伸ばして握り込んだ。
「やッ!? だ、だめ、それ……ッ、あ、んうぅ……ッ!」
「狛枝ッ、狛枝……ッ」
抽挿と同じタイミングで、まだほんのりと柔らかい性器を扱いた。みるみるうちに手の中で育つそれは、狛枝の声が甘く上ずるのに比例して硬度を増し、先走りの蜜をまき散らす。
日向も狛枝も、もう限界だった。
「んっ、あぁッ、あ! イ、ク! ひな……――ッ!!」
「狛枝……!!」
目の前が大きな赤い光に包まれた瞬間、日向は狛枝の名前を呼びながら達した。それに続くようにして、狛枝の性器からも白濁が噴き出す。
声もなく、しばらくは余韻に震えながら抱き合った。ぴったりと合わさった胸から、狛枝の早鐘のように打つ心臓の鼓動を感じる。
忙しなかった呼吸がゆっくりと落ち着いてくると、放心していた日向はハッとして、まるで押し潰すようにして抱き込んでいた狛枝から僅かに身を浮かせた。
「こ、狛枝、無事か!?」
自分でも呆れるほど色気もへったくれもない第一声だったが、はかはかと薄い胸を上下させていた狛枝が目を開けて小さく頷くと、心底安堵した。
が、すぐにまたハッとして下肢へと視線を向けた。
「悪い……出しちまった……」
「うん……出されちゃった……」
「ご、ごめん……で、済むのか? こういうのって……」
青褪めながら身を起こし、ひとまず落ち着きを取り戻した性器を引き抜く。その瞬間、狛枝の口から「ぁんっ」という子犬のような甘ったるい悲鳴が上がった。
「ッ、お、お前、なんて声を……ッ」
しかも日向が大量に放った白濁が、ぽってりと赤く腫れた後孔から一気に逆流してくるのが見える。とろとろと溢れ出すそれがシーツに大きなシミを作る光景が、あまりにもいやらしくて眩暈がした。
狛枝の、まだどこかとろんとした表情も相まって、日向はたったいま満たしたはずの欲望に再び火がついてしまうのを感じた。
「日向クン、元気だね……」
「……面目ない」
「えっと……もう一回、する?」
流石にそこまで無理はさせられないと首を振ると、狛枝も正直なところ辛かったのか、のろのろと起き上がって日向の勃起した性器に手を伸ばしてきた。
「こ、狛枝ッ」
「じゃあ、手で……ね?」
申し訳なさそうに眉をハの字に下げ、上目使いで見上げる狛枝の表情が日向のツボに見事にヒットしてしまった。
申し訳ないのはこちらの方だと思いつつ、日向は「お願いします」と丁寧に頭を下げた。
*
狛枝の手はとても柔らかかった。
あれから彼の白い手によって優しく扱かれた日向は、再びその綺麗な顔に目掛けて発射してしまうという性のスパイラルにハマりつつ、どうにか落ち着くことができた。
今は二人、寄り添いながら同じ布団にくるまっている。
日向も狛枝も、そしてシーツも汚れきっていたが、身体が自堕落に休息を求めていた。
「ねぇ日向クン。ボクはもしかしたら、本当は凄くツイてるのかもしれないね」
日向の腕の中で身を横たえる狛枝が口を開いた。
「ツイてる? お前が?」
「うん。だって、洗濯機が壊れる度に日向クンに会えるんだもん。今日だって、あのコインランドリーに行かなかったら、きっとこんな風にはなれてなかったと思うんだ。これって物凄い確率の幸運だと思わない?」
「それはどうだろうな」
「え?」
日向はどこか自慢げに、小首を傾げる狛枝を見て笑った。
「俺がツイてるのかもしれないぞ?」
「日向クンが?」
狛枝は、やっぱり不運だと思う。
ヒステリックな女に下着泥棒には間違えられるし、車にひかれそうになって死にかけるし、殺人鬼には誘拐されるし。きっと聞いていないだけで、彼の九死に一生物語はまだまだあるような気がした。
いっそここまで生きて来られたのが奇跡と思えるくらいに。
「なるほど……そういう考え方も、あるかもしれないね」
「そ。俺がお前に会いたいって思ったから、お前は今日あそこに来たんだよ」
「嬉しいけど……なんか、ちょっと無理やりだね」
狛枝がくすくすと笑うと、その振動が日向の身体にも伝わった。つられて笑いながら「別にいいだろ」と返せば、彼は嬉しそうに頷いた。
こじつけでも無理やりでも、今となってはなんだって構わない。
狛枝と出会って、好きになって、こうして心も身体も繋がることができた幸運を、この先もずっとこうして腕の中に閉じ込めておきたいと思ったから。
「だからさ、狛枝」
「うん」
「お前の不運、俺が一つ残さず食ってやるから。ずっと側にいてくれよ」
ぽかん、と目と口を丸く開いた狛枝は、それから徐々に顔を真っ赤に染め上げて、日向の喉元に顔を埋めた。
照れるなよ、と笑いながらその柔らかな髪にキスをして「返事は?」と聞けば、彼はおずおずと視線を上げて小さく唸る。それから、
「……ふつつかなゴミですが……よろしくお願いします」
と言って、また顔を隠してしまった。
←戻る ・ 次へ→
狛枝の長い手足は若木のように細く、改めて見てもおうとつに乏しい骨の浮いた身体だった。
「ごめんね。貧相で、醜くて」
両足を投げ出すようにして座る日向を跨ぐ形で、膝立ちになっている狛枝が申し訳なさそうに笑った。日向はそんな彼の顔を見上げながら熱い息を吐き出し、首を左右に振る。
「興奮する。凄く」
当たり前のようにいつかは女性と結ばれるものと思っていた頃は、どちらかといえば健康的で豊満な身体を理想としていたような気がする。
それが今や不健康そうな薄い皮膚も、尖った肩も、うっすらと浮いたあばら骨さえも、日向にとっては肉欲の対象になっていた。
自信の欠片もない弱々しい笑みすら愛しくて、抱きしめたくて仕方がない。
「変だよ……日向クンは」
「お前にだけは言われたくないぞ」
悪戯に手の平を背筋に這わせると、彼はくすぐったそうに身を捩りながら「あは」と笑う。
「恥ずかしいから、あんまり見ないでね」
狛枝は目を細めながらそう言って、自分の指に舌を這わせた。
「狛枝、なにを……?」
「ん、何をって……準備、かな。ちゃんと柔らかくしないと、日向クンが辛いから」
戸惑う日向の目の前で、狛枝は濡れた指を自分の身体の奥まった場所へ伸ばす。
彼が小さく呻き、苦しげに眉を寄せるのを見た瞬間、ようやく理解した。
相手は男性なのだから、準備といえばひとつしかない。狛枝は、白い身体を赤く染め上げ、羞恥に唇を噛み締めながら自らの窄まりを解しにかかっているのだ。
「ッ……!!」
その瞬間、日向は頭が沸騰しそうになるほどの熱を感じて顔を真っ赤にした。
狛枝はもう片方の手を日向の肩に置き、身体を屈めながらどうにかバランスを保っている。一体その股座の奥でなにが起こっているのか。だが、肩に食い込む爪の感触から相当の無理をさせていることは伝わった。
「こ、狛枝」
「んっ、ぅ……まっ、て……待ってて……すぐ、使えるように……」
固く閉じた瞳で、涙に濡れた睫毛が震えていた。
あまりにも辛そうな表情を見上げながら、日向は自分も何かしなくてはと焦りを覚える。狛枝が必死に受け入れようと無理をしているのに、このまま見ているだけでいいわけがない。
おそらく、本当はもっと入念な準備をしてから行わなければならない行為だったのだと、今更になって気がつく。
「ごめん、ね。ボクも、凄く久しぶり、だから……ッ」
それは中学の頃の、例の事件のことを指しているのだろうと思った。
当時の狛枝も、こうして相手のために自分だけが負担を被るような痴態を曝したのだろうか。
ずっとその表情に釘づけになっていた視線を下向けると、萎えることなく天を仰ぐ自分のものとは逆に、狛枝の性器はすっかり萎れきっていた。
「狛枝、俺にやらせてくれ」
「ぇ、あッ、ちょっと……!」
言うが早いか、日向は狛枝の腰に腕を回し、その薄い身体を裏返すと布団に沈める。尻だけを高く突きだすような、四つん這いの姿勢を取らせた。
「ひ、日向クン!?」
「濡らして、解せばいいんだよな?」
「やっ、やめて! こんな格好恥ずかしいッ……!」
狛枝が身を捩り、悲鳴を上げながら抵抗を示す。けれど日向は薄い尻の肉を両手で掴み、容赦なく割り開くとその小さな窄まりに目を凝らした。
「やだぁ……ッ」
何もかもをさらけ出してしまった狛枝は、シーツに顔を擦りつけて全身を震わせた。泣かせてしまったかと少しばかり胸が痛んだが、日向は目の前でヒクヒクと収縮する小さな襞の窄まりから、目が離せなかった。
多少は覚悟していた嫌悪感が、全くと言っていいほど湧き起こらない。
むしろ桃色に色づく肉のあわいが健気にも見えて、触れたいと心から思った。
「尻の穴まで……可愛いのな……」
「またそれ!?」
「なんかもう、可愛いしか言えない」
「バッ……!」
今お前バカって言おうとしただろ……とは思ったが、自分でも確かにそう思う。それでも構うものかと、日向は狛枝がしたように自分の人差し指に舌を這わすと存分に濡らし、中心にそっと触れた。
「や……!」
狛枝が身を強張らせるのがわかる。彼はきつく握りしめている拳をシーツの上で震わせていた。
その動きに合わせて、触れている窄まりも硬く閉じようとしていた。日向は濡れた指先でその辺りをくすぐるようにくるりと撫でた。そして、指の腹をそっと押し付けるようにしながら先端を押し込んでみる。
「ヒッ、ぁ!」
ビクン、と狛枝の腰が跳ねた。
「痛いか?」
問えば、彼はシーツに額を押し付けながら頭を左右に振った。
今はまだそれが真意かどうかを確かめる術はなくて、日向はゆっくりと慎重に先端を出し入れしながら入口を探ってみる。潤いが足りなくなる度に指を濡らし、襞を伸ばすように優しくマッサージした。
こうなったら何時間でも手間をかけてやるつもりで、根気よく一本の指で慣らしていった。すると、第一関節までがやっとだった蕾が微かに綻びを見せ、第二関節までをどうにか飲み込んだ。
「ん、う、ぅ……っ」
「なぁ、わかるか? 俺の指入ってんの」
「はッ、はぁ、ぁ……ぅ、ん……わか、る……」
狛枝もすっかり観念したのか、素直な反応を見せた。
少し苦しそうだが、痛みはなさそうだった。日向はさらに深くまで探るようにしながら指を押し進めた。時間をかけて、ゆっくりと、慎重に。
しっとりとした熱い肉壁に締め付けられる度に、気が急いて仕方がなかった。これに食まれながら腰を振るのは、どれほど気持ちがいいのだろうか。
日向は今にも暴走しそうな欲求を、歯を食いしばって耐え続けた。傷つけないように何度でも潤し、根気よく内壁に馴染ませた。やがてそこから鈍い水音が響くようになる頃、狛枝は日向の指を二本、どうにかこうにか飲み込んだ。
「も、いい……お願い、日向クン……」
「……いいのか?」
経験のない日向にだって、まだ準備が不十分なことくらいは分かる。狛枝の性器もいまだに萎れたままだ。それでも布団に手をつき、どうにか身体を支えながら狛枝がかくん、と頷いた。他人に身体の中を探られるという感覚は日向には分からないが、これはこれで長引けば辛いだけなのかもしれない。
精神的にもなるべく負担をかけたくないという思いから、素直に指を引き抜く。狛枝は一度、大きく身震いをした。
「狛枝」
もはや疲れ切った様子で、狛枝は全身にうっすらと汗をかきながら横座りをして息を荒げていた。
いよいよ本気で切羽詰まった顔をした日向が名前を呼ぶと、彼は頬に色素の薄い髪を張り付けながらゆらりと手を伸ばしてくる。
その腕を取り、重なるようにして布団に雪崩れ込んだ。抱きしめた身体は最初から計算されていたかのように、日向の腕の中によく馴染んだ。激しい葛藤の末ではあったが、なるべくしてなったのだと、妙に納得している自分がいる。
欠けていたピースがぴったりとハマるような感覚に、もし名前をつけるとすれば、これが運命であり、必然だったのだと。
多分最初から。あの真夜中のコインランドリーで、気紛れにこの男を救ったときから。
「日向クン……」
白い両腕が首に回ったのを合図に、日向は狛枝の一番弱くて繊細な場所に脈打つ肉棒を押し付けた。
く、と反り返る喉に唇を強く押し付けて、息をつめながら腰を押し進める。小さな襞をこじ開けるようにして先端が潜り込むと、それだけで達してしまいそうなほどの電流が駆け抜ける。
「――ッ、ぁ……!」
狛枝が声にならない悲鳴をあげると、唇に喉仏が引き攣る感触が伝わった。
「狛枝……ッ、悪い、俺ッ……!」
目が眩みそうなほどの快感に、日向の理性は薄皮一枚で繋がっているようなものだった。狛枝の中は熱くて、腰を進める度にみっちりと詰まった肉の壁が抵抗を見せる。それさえも堪らなく気持ちがよくて、正直もう余裕がなかった。
「んぅ、あ……! ひ、な……ぁッ、もっ、と……奥、きて……!」
辛そうに立てた膝頭を痙攣させているくせに、狛枝は日向の頭を抱き込んで奥深くへ誘おうとする。
もうダメだと観念した途端、日向は熱い媚肉に自身を根元まで埋めた。狛枝の見開かれた瞳から涙が溢れる。腕の中で薄い身体がバネのように大きくしなった。
日向は狛枝をきつく抱きしめながら、痛いほどの締め付けに歯を食いしばって耐える。二人とも汗だくになって震え、息を荒げていた。
「お前の中、凄い……気持ちいい」
呼吸の合間に耳元で吐き出した言葉に、狛枝がピクンと反応を示す。
「ほん、と……?」
「ああ……熱くて、ッ、たぶん、すぐイク」
「嬉しい……日向クン、大好き」
首に回る腕の力が強まった。狛枝は甘えたように日向の頬に額を擦りつける。その仕草があまりにも可愛くて、愛しくて、胸が掻き毟られるようだった。
「俺も、大好きだ」
短い言葉にありったけの感情を乗せながら、日向は微かに腰を揺らした。狛枝の口からは苦しげな呻きが上がったが、二人の身体に挟まれるようにして揺れる性器は勃起しかけていた。おそらくとてつもない負担をかけているし、辛いはずだ。それでもちゃんと興奮してくれているのだと思うと嬉しかった。
「ヒ、ッ……く、あ、ぁ……は……ッ!」
思うが儘に揺さぶりたい欲をどうにか堪え、ゆっくりと馴染ませるように腰を前後に揺らした。狛枝は懸命に日向にしがみつきながら、かくかくと小刻みに揺れる。容赦なく締め付ける肉壁が脈打ち、屹立を擦られる度に日向の口からは獣じみた呻きが漏れた。
「ひな、た、クン……ッ、日向クン……日向クン……ッ!」
名前を呼ばれる度に理性を手放していくような気がした。目が眩むような快楽に飲まれ、日向は次第に抽挿を激しいものにしていった。
華奢な身体を揺さぶる度に、腹に濡れそぼった狛枝の性器が当たる。日向はほとんど無意識に片手をそれに伸ばして握り込んだ。
「やッ!? だ、だめ、それ……ッ、あ、んうぅ……ッ!」
「狛枝ッ、狛枝……ッ」
抽挿と同じタイミングで、まだほんのりと柔らかい性器を扱いた。みるみるうちに手の中で育つそれは、狛枝の声が甘く上ずるのに比例して硬度を増し、先走りの蜜をまき散らす。
日向も狛枝も、もう限界だった。
「んっ、あぁッ、あ! イ、ク! ひな……――ッ!!」
「狛枝……!!」
目の前が大きな赤い光に包まれた瞬間、日向は狛枝の名前を呼びながら達した。それに続くようにして、狛枝の性器からも白濁が噴き出す。
声もなく、しばらくは余韻に震えながら抱き合った。ぴったりと合わさった胸から、狛枝の早鐘のように打つ心臓の鼓動を感じる。
忙しなかった呼吸がゆっくりと落ち着いてくると、放心していた日向はハッとして、まるで押し潰すようにして抱き込んでいた狛枝から僅かに身を浮かせた。
「こ、狛枝、無事か!?」
自分でも呆れるほど色気もへったくれもない第一声だったが、はかはかと薄い胸を上下させていた狛枝が目を開けて小さく頷くと、心底安堵した。
が、すぐにまたハッとして下肢へと視線を向けた。
「悪い……出しちまった……」
「うん……出されちゃった……」
「ご、ごめん……で、済むのか? こういうのって……」
青褪めながら身を起こし、ひとまず落ち着きを取り戻した性器を引き抜く。その瞬間、狛枝の口から「ぁんっ」という子犬のような甘ったるい悲鳴が上がった。
「ッ、お、お前、なんて声を……ッ」
しかも日向が大量に放った白濁が、ぽってりと赤く腫れた後孔から一気に逆流してくるのが見える。とろとろと溢れ出すそれがシーツに大きなシミを作る光景が、あまりにもいやらしくて眩暈がした。
狛枝の、まだどこかとろんとした表情も相まって、日向はたったいま満たしたはずの欲望に再び火がついてしまうのを感じた。
「日向クン、元気だね……」
「……面目ない」
「えっと……もう一回、する?」
流石にそこまで無理はさせられないと首を振ると、狛枝も正直なところ辛かったのか、のろのろと起き上がって日向の勃起した性器に手を伸ばしてきた。
「こ、狛枝ッ」
「じゃあ、手で……ね?」
申し訳なさそうに眉をハの字に下げ、上目使いで見上げる狛枝の表情が日向のツボに見事にヒットしてしまった。
申し訳ないのはこちらの方だと思いつつ、日向は「お願いします」と丁寧に頭を下げた。
*
狛枝の手はとても柔らかかった。
あれから彼の白い手によって優しく扱かれた日向は、再びその綺麗な顔に目掛けて発射してしまうという性のスパイラルにハマりつつ、どうにか落ち着くことができた。
今は二人、寄り添いながら同じ布団にくるまっている。
日向も狛枝も、そしてシーツも汚れきっていたが、身体が自堕落に休息を求めていた。
「ねぇ日向クン。ボクはもしかしたら、本当は凄くツイてるのかもしれないね」
日向の腕の中で身を横たえる狛枝が口を開いた。
「ツイてる? お前が?」
「うん。だって、洗濯機が壊れる度に日向クンに会えるんだもん。今日だって、あのコインランドリーに行かなかったら、きっとこんな風にはなれてなかったと思うんだ。これって物凄い確率の幸運だと思わない?」
「それはどうだろうな」
「え?」
日向はどこか自慢げに、小首を傾げる狛枝を見て笑った。
「俺がツイてるのかもしれないぞ?」
「日向クンが?」
狛枝は、やっぱり不運だと思う。
ヒステリックな女に下着泥棒には間違えられるし、車にひかれそうになって死にかけるし、殺人鬼には誘拐されるし。きっと聞いていないだけで、彼の九死に一生物語はまだまだあるような気がした。
いっそここまで生きて来られたのが奇跡と思えるくらいに。
「なるほど……そういう考え方も、あるかもしれないね」
「そ。俺がお前に会いたいって思ったから、お前は今日あそこに来たんだよ」
「嬉しいけど……なんか、ちょっと無理やりだね」
狛枝がくすくすと笑うと、その振動が日向の身体にも伝わった。つられて笑いながら「別にいいだろ」と返せば、彼は嬉しそうに頷いた。
こじつけでも無理やりでも、今となってはなんだって構わない。
狛枝と出会って、好きになって、こうして心も身体も繋がることができた幸運を、この先もずっとこうして腕の中に閉じ込めておきたいと思ったから。
「だからさ、狛枝」
「うん」
「お前の不運、俺が一つ残さず食ってやるから。ずっと側にいてくれよ」
ぽかん、と目と口を丸く開いた狛枝は、それから徐々に顔を真っ赤に染め上げて、日向の喉元に顔を埋めた。
照れるなよ、と笑いながらその柔らかな髪にキスをして「返事は?」と聞けば、彼はおずおずと視線を上げて小さく唸る。それから、
「……ふつつかなゴミですが……よろしくお願いします」
と言って、また顔を隠してしまった。
←戻る ・ 次へ→
その後どうなったかというと、非戦闘タイプが毛を纏って歩いているようなファイなど、アッサリとっ捕まった。そしてボッコボコにされた。
「酷い目に……あった……」
体中を噛み痕や引っかき傷でボロボロにしながら、よろよろと歩き続けて、やがて石の地面が土の地面になったことに気がつく。
辺りを見回すと、どことなく懐かしいような光景に出くわした。
カラフルで見たことのない遊具が所せましと並び、芝生や草木、池のようなもの(噴水)もあった。故郷に少し似ていて、ファイは少しほっとした。
すると途端に疲れが押し寄せて、その場にへたり込んでしまった。
ここが安全な場所かは分からないけれど、土や草の香りがとても安心できる。ほんの少しだけ、休みたかった。
「あー、にゃんちゃんだー」
が、そこに甲高い声がしてハッとした。
見上げれば目の前に小さな人間がしゃがみ込んでいた。
「!?」
「にゃんちゃんおケガしてるの?」
くるんと大きな目をした子供は、物珍しそうにファイを見つめる。
この短期間で酷い目にばかり遭っていたファイは咄嗟に逃げだそうとしたが、身体を起こす前に抱き上げられてしまった。
「ニャーッ」
「にゃんちゃんかわいいー! みんなー! こっちきてー!」
傷だらけの身体を強引に抱き上げられて、ファイは暴れた。
頼りない力で両腕だけを掴まれ、宙に浮かされた状態はとんでもなく恐ろしい。けれど容赦なく、他の子供達も集まって来た。
「猫だ猫だー!」
「あたしにもだっこさしてー!」
「しっぽなげぇー!」
それからファイはオモチャになった。
ヒゲも数本抜かれたし、毛もブチブチ抜かれて、尻尾まで抜かれそうになった。
子供達にしてみれば可愛がっているつもりかもしれないが、猫にとっては迷惑この上ない。
力加減を知らない彼らはファイがギャーギャーと声を嗄らして鳴いたとしても、お構いなしだった。
やがて……。
「もう帰るわよー!」
女の人の声がした。すると子供達はファイを置き去りにして、わらわらと蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
ボロ雑巾のようになったファイは、夕暮れの公園でしくしくと泣いた。泣きながら、力の入らない身体でドーム状の大きな遊具の下に入った。
猫の国には、小さな猫型ドームがたくさんあった。中にはふわふわのクッションがたくさんあって、そこで昼寝をすると最高だった。
けれどこのただっ広いドームはファイの知らない、鼻の長い動物の形をしていた。中は真っ暗で、冷たい土から雑草だけが生えている。
それでもようやく一人になれる空間を見つけられたことに、心底ほっとした。
まだ人間の世界に来て間もないというのに、ファイは一気にホームシックにかかってしまった。
こんなことなら、変なやる気など起こさなければよかった。
人間の世界は広大で、たくさんの生き物がいる。とても便利で豊かそうに見えるけれど、その分とんでもなく危険に溢れていると思った。
温室のような暖かな場所でだけ生きて来たファイにとって、ここは夢の世界ではなく、地獄に等しかった。
あの退屈は、何より幸福なことだったのかもしれない……。
「ユゥイ……怒ってるかにゃ……」
あれだけダメだと言われていたのに、ファイは自分の中の遅い反抗期を恨んだ。
人間はみんなユゥイと同じ姿をして、ユゥイと同じように優しい人たちばかりだと思っていたのに。
蓋を開けてみればみんな姿形はバラバラで、恐ろしい機械をぶっ飛ばして怒鳴る人もいるし、子供達はまるで鬼の子だった。
同じ種族を見つけたと思えば縄張りという厳しいルールの中を生きていて、自分はそこを踏み荒らす悪猫になってしまった。
ドームの中はさらに暗くなった。人間の世界には朝と昼と夜がある。夜になると気温が下がって、どんどん寒くなるのだ。
夕暮れなんて初めての経験だけど、ファイはそれに感激する余裕などなかった。
いつしか完全に陽が落ちて、夜が来たことを知った。
本来猫は夜目がきくけれど、一人ぼっちでこんな暗い場所にいたことなどなかったファイは、不安に押し潰されそうになる。
だんだんお腹も空いてきて、いよいよ帰ろうと思った。
やっぱりここには来てはいけなかったのだ。きっともっと想像もできないような危険なことが、たくさんあるに違いない。
徐々に冷え込んでいく空気に、自分が生きるには過酷すぎる環境なのだと思い知る。
ファイはボロボロの身体で力を振り絞った。
元来た場所に戻れば、そこに空間の歪があるだろう。飛び込めばきっと帰れるはずだ。
またあの大きな猫に見つかるかもしれないと怯えながら、へっぴり腰で辺りを注意深く見回してドームから出た。
土の地面が終ると、再び石の冷たい地面の上を塀沿いに歩く。
途中で人間やあの恐ろしい乗り物とすれ違ったが、ファイはその度に見つからないように暗闇の中で身を縮込ませた。
それからどれくらい歩いただろう。同じような道や景色ばかりが続くだけで、歪みはどこにも見つけられない。
そこでファイはようやく気付いた。
「……オレ、どこから来たんだっけ?」
スタート地点が分からない。がむしゃらに逃げ回って、結果、どこから来たのか分からなくなってしまったのだ。
ガーン……という古典的な音が頭の中で鳴り響いた。
スタート地点が分からない。
↓
元の世界への出入り口が見つけられない。
↓
帰れない。←イマココ
「ミャー……」
やりきれない思いで、ファイは鳴いた。ミャーミャーと、悲しそうな声で。
帰れない。帰り道がわからない。お腹もすいて、身体はボロボロで、疲れきっていて、怖くて不安で、寂しくて。
しかし無情にも誰も助けてなどくれなくて、やがて喉が嗄れた。
「うぅ……グス……」
涙がポロリと零れる。だが最悪な事態はまだ続く。
――ポツリ。
「!」
鼻先に、水が落ちて来た。
なんだろうと思う間もなく、ぽつぽつとその小さな水がたくさん降りだした。
「これ……雨……?」
ユゥイが言っていた。人間の世界は季節や気温や天気がコロコロ変わると。
冷たい雨はあっという間に雨足を強めて、ファイは毛が水浸しになることへの嫌悪感から焦りを覚えた。
ファイは咄嗟に走り出した。さっきまでいた公園に帰るつもりでいたのだが、なんとそこでまた、道がわからなくなった。
ここにきて新事実。ファイは方向音痴だった……。
「どうしてこんなに道がカクカクしてるの……? 曲がるとこいっぱいで、もうわかんにゃいよっ」
疲れはピークに達していたけれど、このままいればまたどんな危険と遭遇するかわからなかったファイは、じっとしているよりはましと、また歩き出した。
同じような場所をグルグル回っているような気がしながらも、いよいよ本降りの雨の中をびしゃびしゃになりながらも歩いた。
すると、これまで歩いていた道の倍以上もある広い道に突き当たった。人通りも多くて、あの怖い乗り物がたくさん走っている。
けれど光がたくさん溢れていて、何より美味しそうな匂いがどこかから漂ってくる。
恐ろしかったが、空腹がそれを押しのけた。
匂いのする方へ、思い切って一歩踏み出してみる。すると、あの乗り物はこちら側へは来ないことが分かった。
何かは分からないが、ドーム状の薄い布が張り巡らされたもので雨を遮る人間が、たくさん歩いている。しかしみんなファイに気付かないか、気付いても知らんぷりをした。
人間の歩く専用の道は安全で、人間の中にも無関心なものが多くいることが分かった。
ファイはそれでもビクビクしながら、道の端っこを歩いた。
やがて細くて暗い曲がり角を見つけた。たくさんの場所からいい香りがしていたけれど、ファイはその裏道に入った。
表の通りとは違って、暗くて狭い。けれどこの奥からも美味しい匂いがしている。
「ごはんたべたい……」
あとはこの雨をしのぐ場所があれば尚いい。この際ポカポカの毛布やクッションも欲しいなんて贅沢は言わない。
寒さと空腹、疲労や傷の痛みが、今にも擦り切れそうなファイの精神力をさらに削っていく。
意識が朦朧としながらも、やがて袋小路に突き当たる。そこには大きなゴミ箱がたくさんあって、扉もあった。
その扉から微かな光が漏れていて、賑やかな人の声がした。
ファイは幾つもある大きなゴミ箱に目をやった。
「……」
この中から、食べ物の匂いがする。
美味しそうな匂いだけれど、少し生臭いような嫌な臭いもして、とてもではないが漁る気にはなれない。
もう終わりだと、ファイは思った。これは言いつけを破って一人で飛び出してしまったことへの、神様からの罰だと。
出来ることなら家に帰りたい。温かくていい香りのする、ユゥイの腕の中で思い切り甘えたかった。
「ユゥイ……」
雨の降りしきる中へたり込んで、涙も声も嗄れていたファイは目を閉じた。
扉が開くような音が聞こえたけれど、それを確かめるだけの力はもう、残されていなかった。
←戻る ・ 次へ→