そんな調子であっという間に月日が流れ、黒鋼は小学6年生になっていた。この頃になるとファイとの登下校地獄からはすっかり解放されていた。
ファイは大学に進学し、小学校がある方向とは真逆にある駅を利用するようになった。たったそれだけで地獄の苦しみから逃れられたような気がした。
……にも関わらず。
ヤツは暇を見つけては黒鋼にちょっかいをかけにくるのを止めなかった。
母に気に入られているからと言って、野菜や果物のお裾分けを持ってきたついでに、なぜか家に上がり込んでくつろいでいく。時には晩飯まで一緒に食べる。
彼は賑やかで、いつもくだらないことを喋っては母を笑わせた。黒鋼は父と離れて暮らすようになってから、少し元気がなかった彼女のそんな姿を見るのが嬉しかった。
だから、ちょっとくらいの図々しさはしょうがないかと大目に見ている。
*
「くーろたーん、おかえりー」
カラスの群れが鳴く夕暮れ時。
いつものように学校が終わり、クラブ活動に参加してから帰宅すると、自宅前でファイに声をかけられ、ギクリとした。
「……おう」
彼は自宅の庭にいるようで、塀の向こうからひょっこりと顔を出している。こちらから見ると、まるで晒し首がヘラっと笑っているようだ。
思えば、こいつはいつもどこかしらに潜んで顔だけを覗かせているような気がする。
「おまえはまたそんなところから」
「黒たんが帰ってくるの、ここから覗いてずーっと待ってたよー」
「今日もブレないキモさだなおまえは」
「未来のお嫁さんに褒められちゃったー」
ふにゃん、と首を傾げて頬を染める変態に、黒鋼は横目で睨むだけで突っ込まなかった。変に相手をするから調子に乗るのだ。
付き合いが長くなるにつれ、黒鋼は日々学習している。
「ささ、早く上がっておいでよー。お煎餅あるよー」
「いらねぇ」
「なんでー? 冷たいお茶もあるよー?」
「だから、い、ら、ね、え!」
「今日は蒸し暑かったねー。喉乾いたでしょー?」
「あのなぁ」
黒鋼は乱暴な足取りでファイの正面まで行って見上げると、うんざりしたように溜息を吐いた。
「俺はおまえと違ってヒマじゃねぇんだ。そんなに遊びてぇなら、その辺の野良猫でも捕まえて構ってもらえよ」
実際は特にやることもなく暇なのだが、毎回こんな奴に捕まってたまるかと拒絶する黒鋼に、暇人は唇を不満そうに尖らせる。
「やだー。にゃんこよりわんこと遊ぶー」
「わんこって誰だ!」
「うふふ」
「うふふじゃねーよ殴るぞ」
「太鼓の達人やろっかー」
「話を聞け! とにかく! おまえに付き合ってる時間はねぇ! じゃあな!」
そう言い切ってクルリと背を向け、自宅へ戻ろうとしたが、なぜか足を前に踏み出せない。
ランドセルの肩ベルトが両脇に思いっきり食い込んでいて、黒鋼は怒りに拳を震わせた。
「はなせこら!!」
首だけ背後を振り返って怒鳴ると、ファイが塀から上半身を思いっきり乗り出して、ランドセルのフック金具を掴みながらニッコリしている。
黒鋼がどれほど暴れて振り解こうとしてもビクともせず、むしろ身体はどんどん後退していくばかりだった。
まるで首根っこを押さえられた子猫のような、屈辱的な気分だ。
「このやろお! しつけぇんだよ!! はなせ!!」
「あのねー、お母さんから大事なでんごーん」
「は!?」
「お買い物ついでにお友達とお茶してくるから、お隣で待たせてもらってねーって」
「はあぁ!?」
「ってことで、黒たんはオレが責任を持ってお預かりしまーす」
「俺は荷物じゃねぇぞ!!」
結局、黒鋼はどう足掻いても逃げ切れずファイの家に引きずり込まれることになった。
*
ことファイに関して、とことん天は自分を見離しているような気がする。
だいたい母も母である。息子はもう12歳で、来年には中学生になるのに、一人ではまともに留守番も出来ないと思われているのだろうか。
なんだかいつまでも幼児扱いされているようで面白くない。
未だに身長に大きな変化はないし、同学年の中にはもう声変わりを迎えた男子がいることだって気にしているというのに、まるで追い打ちをかけられているようだった。
「ふー! いい汗かいたね!」
額にうっすら滲んだ汗を手の甲で拭いながら、ファイがやり遂げたような顔で笑った。
黒鋼はそれを横目で睨みつつ、何もかも納得がいかない。
煎餅とお茶をご馳走になると他にすることもなく、結局はファイの部屋でゲームをすることになった。
ファイが必死で「太鼓! 太鼓!」とせがむので、仕方なく付き合ってやることにしたのだが、惜しいところで得点が伸びない黒鋼に対し、ファイは難易度の高い曲でも最高得点を叩きだしていた。
終始「あははー」と笑いながらもバチを握り、太鼓を叩く手元はプロ並みで、負けず嫌いの身としては相当に悔しい結果に終わった。
「あり? 黒たんもしかしてイジケちゃったー?」
胡坐をかいてそっぽを向いた黒鋼の顔を、ファイが身体を屈めて下から覗き込んでくる。
普段、見下ろすことが滅多にないせいか少し驚いた。
だがそれよりも、ファイのバカにしたような言い方が癪に触った。
「ガキ相手にフルパワー出しやがって! 次は俺が勝つからな!」
「わー、次も一緒に遊んでくれるんだねー」
「!?」
花が綻ぶような笑顔にギクリとしたのは、迂闊なことを口にしてしまったことへの後悔からなのか、それとも、あまりにもファイが嬉しそうにするからなのか、よく分からなかった。
ただ、どっちにしろ頬が赤くなってしまうのを抑えられない。物凄く居心地が悪い気分だった。
「黒たん黒たん、頬っぺたが赤いのどうして? ねぇどうしてー?」
「う、うるせぇんだよてめぇはいちいち!!」
「可愛いよぅ! 赤い頬っぺ触らせて!」
「ざけんな!!」
両手をわきわきさせて迫ってこようとするファイから、慌てて逃げた。距離を取るために立ちあがって、ベッドの上にボスンと腰を落ち着ける。すると今度は遠目からファイを見下ろす形になった。
ちぇー、と唇を尖らせるファイは黒鋼に飛びかかるところを避けられたせいで、両足をくの字に折りたたむような横座りの姿勢になっている。そのせいでますますナヨナヨして見えた。
でも、なぜか違和感がないから不思議だった。
もしコイツが女だったら、可愛いなんて言われてもここまで嫌な気持ちにならないのだろうか?
一瞬だけそんなことを考えて、黒鋼はそれを心の中で否定した。
可愛いという言葉は女が喜ぶ言葉であって、誰であろうと男の自分が言われて嬉しいものではない。
しかも黒鋼にとってそれは、いつも『小さい』という言葉もセットで付きまとって来る。だからどちらも同じくらい嫌だ。
自分がチビなのは本当だから仕方がない気もするが、どうしても気になる。気にしていることは、わざわざ言われたくない。
悪い癖や悪戯なんかを咎められるなら意識して直すことも出来るし、反省もできるけど、改めようがないものはどうにもならないのだから。
「ね、ねぇ黒たん? ホントはまだ気にしてる? ほら、次は勝てるよー!」
なんとなく物思いに耽ってぼうっとしていた黒鋼を気にしてか、ファイが心配そうに眉をハの字にしていた。
「バカ。気にしてねぇよ」
「そっかー。よかったー」
そう言ってやるとすぐに笑顔を取り戻して、別にこの笑った顔は嫌いではないな、と思った。たまに物凄くムカつくけれど、心の中のトゲトゲがうっかり丸くなってしまいそうな気がする。
それにコイツは、根っから悪い奴でもない。明るいし気さくだし、結構優しいところもあるし、友達も沢山いるんだろうなと思った。
でも、ふと気がついた。
友達が大勢いるなら、わざわざ7つも年下の子供と必死になって遊ぶ必要なんかないのではないか、と。
「なぁ、聞いてもいいか」
「なぁにー?」
「……おまえ、俺しか遊ぶヤツいないのか?」
「へ?」
どうしてそんなことを聞くのか、とでも言いたげに、ファイが小首を傾げている。
「友達いねぇのかって聞いた」
「……あー、そっか」
ファイは少しの間、天井を見上げて何かを思案している様子だった。
それから、寂しげに睫毛を伏せた。
「そうなんだ……実はオレ、まだ日本に馴染めてなくて……変だよね、もう3年もいるのに……」
やっぱりそうだったのか。黒鋼は、そんなファイを少し気の毒に思う。
学校でも今まで転入生が来たりして、そいつがなかなか馴染めないでいるのを見たことがあるし、ましてや外国なんて、きっと誰だってすんなり溶け込むには時間がかかるだろうと思った。
「ごめんね……オレ、友達って呼べるのは黒たんだけなんだ……だからつい甘えちゃって……もう大人なのに、恥ずかしいよね……」
「別に恥ずかしくなんてねぇよ」
「……え?」
「大人とか子供とか、そんなのいちいち気にすんな」
「黒たん……」
「しょうがねぇな……」
黒鋼は少し照れくさくなって、目を泳がせながら頬を掻いた。
ファイは確かにもうすぐ二十歳の大人なのに頼りないし、しつこいし、変態だけど、もしそれが甘えているという意味でのことなら、悪い気はしない。
むしろ大人のファイが自分を頼ってくれているなんて、そう思うとちょっと誇らしくて、嬉しくもあった。
自分が少しだけ大きくなれたような気もした。
「おまえにちゃんと友達が出来るまでは、一緒に遊んでやってもいいぜ」
相変わらず照れくさかったが、こんな話を聞いた後に突き放すような言い方はできない。
だから真っ直ぐに面と向かってそう言うと、ファイは途端に涙ぐんだ。
「泣くほどのことかよ」
「だ、だって……そんな風に言ってもらえるなんて思わなくて……うっ」
「わかったから泣くな……男だろ?」
「黒たーん!!」
「うお!?」
感極まった様子のファイが、ベッドの縁に腰掛ける黒鋼の下半身に飛びついて来た。
咄嗟のことに避け切れず、腰をがっちりと抱きこまれて腹に顔が埋められる。
「ばっ、こら! 抱きつくな!」
「…………」
「……?」
なぜか何も言わなくなったファイを疑問に思い、戸惑いながら見下ろした。
一体どうしたというのか。まさか本当に泣きだすつもりなのではないか……なんて思っていると、肩が小刻みに震えだした。
(マジか……)
黒鋼の腰に抱きついて、腹に顔を埋めたまま、ファイは小刻みに震えて泣いているようだった。
大人の男が泣くところを見るのは初めてのことで、黒鋼はどうするべきなのか軽く混乱していた。
「バカ、泣くなって……」
嬉し泣きの部類なのだとは分かっていても、これは自分が泣かせてしまったということになる。
何をどう言えば止まるのか、いや、嬉しくて泣いてるなら悪い意味ではないし、別に気にすることもないのか……とにかくどうしたらいいかわからない。
そして同時に、こんなに喜ぶほど本当は寂しかったのか、とちょっと切なくなった。
今までずっと自分に対しては嫌な奴だと思って避けたり怒鳴ったりしてきたのを、今更になって後悔しはじめる。
「なぁ、もう泣きやめよ。もう一回太鼓で遊んでやるから」
「…………」
「太鼓は飽きたか? じゃあキャッチボールでもするか?」
「…………ぶふっ」
「あ……?」
気のせいか、噴きだすような声と風圧を腹に感じたような?
「ぷはーっははは!! 黒たん素直でいい子すぎー!!」
顔をガバリと上げたファイは、思いっきり大声で笑い出した。
震えていたのは笑いを堪えるためだったのか、相当苦しかったらしい彼は顔全体を真っ赤にして、涙ぐんで笑っていた。
黒鋼はあんぐりと口を開けたまま硬直した。
「そんなんじゃ悪い人にすぐ騙されちゃうよー!」
謀られたことにようやく気付いた黒鋼は、あまりのショックと怒り、そして屈辱に身体を震わせた。
ダメだダメだと思っても、悔し涙が目尻に溜った。
ハッキリ言って、悪い大人なら今まさに目の前にいるし、とっくに騙され済みである。
「お……おまえ……また俺をバカにして……」
「バカにしてないよー! だってあんなにすんなり信じてくれるなんて……あふっ、思い出すともう駄目だ!」
「も、もう、ぜったい、ぜったい、許さねぇからな!!」
「あっ! いっ、イタ! ちょっと黒たん痛い! 可愛いけど痛いよー!」
「うるせぇ黙れ!! 可愛い言うな!!」
「黒たんってお日様みたいなポカポカの匂いがするねー!」
「離れろヘンタイ!!」
癇癪を起した子供のように叫びながら、黒鋼は足をバタつかせた。が、開いた両足の中心に陣取っているファイが腰を離してくれないせいで効果はない。どうにかして身体を捻ったりして踏ん張ってみたが、ダメだった。
仕方なく思いっきり髪を掴んで引っ張ったり、両手をグーにして金髪頭をボカボカ殴った。結構な力で殴っているし、痛い痛いと連呼するくせに、ファイはなぜか幸せそうに頬を緩めきっていた。
しばらくの間ずっと暴れているうちに、だんだん体力が限界に達してきた。
所詮、身体の大きな大人に子供が勝てるわけがない。
「おまえ、いい加減あっち行け……」
いつまで抱きついている気なのか、ファイはふにゃりと笑って黒鋼の顔を見上げて来る。
逆にコイツは何をどうすれば怒ったり泣いたり悔しがったりするのだろう。自分一人でぎゃんぎゃん吠えて勝手に疲れてるみたいで、なんだかアホらしい。
それでもまだ悔しさは静まらない。
「えへへ。ごめんねー黒わんこー。でも、嬉しかったのはホントだよー?」
「もう騙されねぇぞ。てめぇとは絶交する」
「そんなことされちゃったら、オレ本当に寂しくて死んじゃうなー」
「死ねバカ」
「そんなこと言わないで? ね?」
ようやくファイの腕が腰から離れたかと思ったら、彼は黒鋼の両脇に手をついた。そして膝立ちになって身体をぐんと伸ばしてくる。
何をする気なのかと、咄嗟に反応する前にファイの顔が驚くほど近づいた。
次の瞬間、ふわりと甘い香りがして、頬を何かにくすぐられた。
そのいい匂いはファイの髪からしていて、そしてそれが頬をくすぐっているのだと気付いたとき、相手との距離はゼロになっていた。
唇に、温かくて柔らかいものが押し当てられている。
黒鋼はまるで時が止まったかのように目を見開いて、身じろぐこともできないまま固まっていた。
いっそぼやけそうなくらい近くに、少し濃い色味の金の睫毛が伏せられている。
甘い匂いと、くすぐったさと、唇を塞がれる感触。気が遠くなるような気がした。
永遠のようにも感じられたそれは、すぐに離れて行った。
それでも近い距離で見つめられて、その瞳の青にこのまま吸い込まれてしまうのではないかと思う。
身体がふわふわして、不思議な感じがした。
「ね、もう怒らないで」
怒る……ああ、そういえば怒っていたのだった。
なのに、今はもうそんな気が起きない。たった今、自分に何が起こったのかを考えようとすると、頭の中に分厚い膜がかかったように思考が止まる。
だから今この瞬間、どう反応すればいいのか全く思いつかない。
ファイがクスリと笑った。いつものような、気の抜けるような笑い方じゃない。
今更のように胸が大きく高鳴るのを感じた。わけもわからず、茫然とする。
ただ分かるのは、この薄い唇をこれ以上見てはいけないということだった。それなのに目が離せない。
『ピンポーン』
そのとき、下の階から気の抜けるようなチャイムの音が聞こえた。おそらく帰宅した母が迎えに来たのだと思う。
それでも黒鋼はぼうっとしたまま動けなかった。
「あ、お母さんが来たみたい。黒たん、また明日ねー」
いつものように「二度と来ない」と突っぱねることができない。
何も言い返すことが出来ず、ただ素直にコクンと頷いていた。
←戻る ・ 次へ→
ファイは大学に進学し、小学校がある方向とは真逆にある駅を利用するようになった。たったそれだけで地獄の苦しみから逃れられたような気がした。
……にも関わらず。
ヤツは暇を見つけては黒鋼にちょっかいをかけにくるのを止めなかった。
母に気に入られているからと言って、野菜や果物のお裾分けを持ってきたついでに、なぜか家に上がり込んでくつろいでいく。時には晩飯まで一緒に食べる。
彼は賑やかで、いつもくだらないことを喋っては母を笑わせた。黒鋼は父と離れて暮らすようになってから、少し元気がなかった彼女のそんな姿を見るのが嬉しかった。
だから、ちょっとくらいの図々しさはしょうがないかと大目に見ている。
*
「くーろたーん、おかえりー」
カラスの群れが鳴く夕暮れ時。
いつものように学校が終わり、クラブ活動に参加してから帰宅すると、自宅前でファイに声をかけられ、ギクリとした。
「……おう」
彼は自宅の庭にいるようで、塀の向こうからひょっこりと顔を出している。こちらから見ると、まるで晒し首がヘラっと笑っているようだ。
思えば、こいつはいつもどこかしらに潜んで顔だけを覗かせているような気がする。
「おまえはまたそんなところから」
「黒たんが帰ってくるの、ここから覗いてずーっと待ってたよー」
「今日もブレないキモさだなおまえは」
「未来のお嫁さんに褒められちゃったー」
ふにゃん、と首を傾げて頬を染める変態に、黒鋼は横目で睨むだけで突っ込まなかった。変に相手をするから調子に乗るのだ。
付き合いが長くなるにつれ、黒鋼は日々学習している。
「ささ、早く上がっておいでよー。お煎餅あるよー」
「いらねぇ」
「なんでー? 冷たいお茶もあるよー?」
「だから、い、ら、ね、え!」
「今日は蒸し暑かったねー。喉乾いたでしょー?」
「あのなぁ」
黒鋼は乱暴な足取りでファイの正面まで行って見上げると、うんざりしたように溜息を吐いた。
「俺はおまえと違ってヒマじゃねぇんだ。そんなに遊びてぇなら、その辺の野良猫でも捕まえて構ってもらえよ」
実際は特にやることもなく暇なのだが、毎回こんな奴に捕まってたまるかと拒絶する黒鋼に、暇人は唇を不満そうに尖らせる。
「やだー。にゃんこよりわんこと遊ぶー」
「わんこって誰だ!」
「うふふ」
「うふふじゃねーよ殴るぞ」
「太鼓の達人やろっかー」
「話を聞け! とにかく! おまえに付き合ってる時間はねぇ! じゃあな!」
そう言い切ってクルリと背を向け、自宅へ戻ろうとしたが、なぜか足を前に踏み出せない。
ランドセルの肩ベルトが両脇に思いっきり食い込んでいて、黒鋼は怒りに拳を震わせた。
「はなせこら!!」
首だけ背後を振り返って怒鳴ると、ファイが塀から上半身を思いっきり乗り出して、ランドセルのフック金具を掴みながらニッコリしている。
黒鋼がどれほど暴れて振り解こうとしてもビクともせず、むしろ身体はどんどん後退していくばかりだった。
まるで首根っこを押さえられた子猫のような、屈辱的な気分だ。
「このやろお! しつけぇんだよ!! はなせ!!」
「あのねー、お母さんから大事なでんごーん」
「は!?」
「お買い物ついでにお友達とお茶してくるから、お隣で待たせてもらってねーって」
「はあぁ!?」
「ってことで、黒たんはオレが責任を持ってお預かりしまーす」
「俺は荷物じゃねぇぞ!!」
結局、黒鋼はどう足掻いても逃げ切れずファイの家に引きずり込まれることになった。
*
ことファイに関して、とことん天は自分を見離しているような気がする。
だいたい母も母である。息子はもう12歳で、来年には中学生になるのに、一人ではまともに留守番も出来ないと思われているのだろうか。
なんだかいつまでも幼児扱いされているようで面白くない。
未だに身長に大きな変化はないし、同学年の中にはもう声変わりを迎えた男子がいることだって気にしているというのに、まるで追い打ちをかけられているようだった。
「ふー! いい汗かいたね!」
額にうっすら滲んだ汗を手の甲で拭いながら、ファイがやり遂げたような顔で笑った。
黒鋼はそれを横目で睨みつつ、何もかも納得がいかない。
煎餅とお茶をご馳走になると他にすることもなく、結局はファイの部屋でゲームをすることになった。
ファイが必死で「太鼓! 太鼓!」とせがむので、仕方なく付き合ってやることにしたのだが、惜しいところで得点が伸びない黒鋼に対し、ファイは難易度の高い曲でも最高得点を叩きだしていた。
終始「あははー」と笑いながらもバチを握り、太鼓を叩く手元はプロ並みで、負けず嫌いの身としては相当に悔しい結果に終わった。
「あり? 黒たんもしかしてイジケちゃったー?」
胡坐をかいてそっぽを向いた黒鋼の顔を、ファイが身体を屈めて下から覗き込んでくる。
普段、見下ろすことが滅多にないせいか少し驚いた。
だがそれよりも、ファイのバカにしたような言い方が癪に触った。
「ガキ相手にフルパワー出しやがって! 次は俺が勝つからな!」
「わー、次も一緒に遊んでくれるんだねー」
「!?」
花が綻ぶような笑顔にギクリとしたのは、迂闊なことを口にしてしまったことへの後悔からなのか、それとも、あまりにもファイが嬉しそうにするからなのか、よく分からなかった。
ただ、どっちにしろ頬が赤くなってしまうのを抑えられない。物凄く居心地が悪い気分だった。
「黒たん黒たん、頬っぺたが赤いのどうして? ねぇどうしてー?」
「う、うるせぇんだよてめぇはいちいち!!」
「可愛いよぅ! 赤い頬っぺ触らせて!」
「ざけんな!!」
両手をわきわきさせて迫ってこようとするファイから、慌てて逃げた。距離を取るために立ちあがって、ベッドの上にボスンと腰を落ち着ける。すると今度は遠目からファイを見下ろす形になった。
ちぇー、と唇を尖らせるファイは黒鋼に飛びかかるところを避けられたせいで、両足をくの字に折りたたむような横座りの姿勢になっている。そのせいでますますナヨナヨして見えた。
でも、なぜか違和感がないから不思議だった。
もしコイツが女だったら、可愛いなんて言われてもここまで嫌な気持ちにならないのだろうか?
一瞬だけそんなことを考えて、黒鋼はそれを心の中で否定した。
可愛いという言葉は女が喜ぶ言葉であって、誰であろうと男の自分が言われて嬉しいものではない。
しかも黒鋼にとってそれは、いつも『小さい』という言葉もセットで付きまとって来る。だからどちらも同じくらい嫌だ。
自分がチビなのは本当だから仕方がない気もするが、どうしても気になる。気にしていることは、わざわざ言われたくない。
悪い癖や悪戯なんかを咎められるなら意識して直すことも出来るし、反省もできるけど、改めようがないものはどうにもならないのだから。
「ね、ねぇ黒たん? ホントはまだ気にしてる? ほら、次は勝てるよー!」
なんとなく物思いに耽ってぼうっとしていた黒鋼を気にしてか、ファイが心配そうに眉をハの字にしていた。
「バカ。気にしてねぇよ」
「そっかー。よかったー」
そう言ってやるとすぐに笑顔を取り戻して、別にこの笑った顔は嫌いではないな、と思った。たまに物凄くムカつくけれど、心の中のトゲトゲがうっかり丸くなってしまいそうな気がする。
それにコイツは、根っから悪い奴でもない。明るいし気さくだし、結構優しいところもあるし、友達も沢山いるんだろうなと思った。
でも、ふと気がついた。
友達が大勢いるなら、わざわざ7つも年下の子供と必死になって遊ぶ必要なんかないのではないか、と。
「なぁ、聞いてもいいか」
「なぁにー?」
「……おまえ、俺しか遊ぶヤツいないのか?」
「へ?」
どうしてそんなことを聞くのか、とでも言いたげに、ファイが小首を傾げている。
「友達いねぇのかって聞いた」
「……あー、そっか」
ファイは少しの間、天井を見上げて何かを思案している様子だった。
それから、寂しげに睫毛を伏せた。
「そうなんだ……実はオレ、まだ日本に馴染めてなくて……変だよね、もう3年もいるのに……」
やっぱりそうだったのか。黒鋼は、そんなファイを少し気の毒に思う。
学校でも今まで転入生が来たりして、そいつがなかなか馴染めないでいるのを見たことがあるし、ましてや外国なんて、きっと誰だってすんなり溶け込むには時間がかかるだろうと思った。
「ごめんね……オレ、友達って呼べるのは黒たんだけなんだ……だからつい甘えちゃって……もう大人なのに、恥ずかしいよね……」
「別に恥ずかしくなんてねぇよ」
「……え?」
「大人とか子供とか、そんなのいちいち気にすんな」
「黒たん……」
「しょうがねぇな……」
黒鋼は少し照れくさくなって、目を泳がせながら頬を掻いた。
ファイは確かにもうすぐ二十歳の大人なのに頼りないし、しつこいし、変態だけど、もしそれが甘えているという意味でのことなら、悪い気はしない。
むしろ大人のファイが自分を頼ってくれているなんて、そう思うとちょっと誇らしくて、嬉しくもあった。
自分が少しだけ大きくなれたような気もした。
「おまえにちゃんと友達が出来るまでは、一緒に遊んでやってもいいぜ」
相変わらず照れくさかったが、こんな話を聞いた後に突き放すような言い方はできない。
だから真っ直ぐに面と向かってそう言うと、ファイは途端に涙ぐんだ。
「泣くほどのことかよ」
「だ、だって……そんな風に言ってもらえるなんて思わなくて……うっ」
「わかったから泣くな……男だろ?」
「黒たーん!!」
「うお!?」
感極まった様子のファイが、ベッドの縁に腰掛ける黒鋼の下半身に飛びついて来た。
咄嗟のことに避け切れず、腰をがっちりと抱きこまれて腹に顔が埋められる。
「ばっ、こら! 抱きつくな!」
「…………」
「……?」
なぜか何も言わなくなったファイを疑問に思い、戸惑いながら見下ろした。
一体どうしたというのか。まさか本当に泣きだすつもりなのではないか……なんて思っていると、肩が小刻みに震えだした。
(マジか……)
黒鋼の腰に抱きついて、腹に顔を埋めたまま、ファイは小刻みに震えて泣いているようだった。
大人の男が泣くところを見るのは初めてのことで、黒鋼はどうするべきなのか軽く混乱していた。
「バカ、泣くなって……」
嬉し泣きの部類なのだとは分かっていても、これは自分が泣かせてしまったということになる。
何をどう言えば止まるのか、いや、嬉しくて泣いてるなら悪い意味ではないし、別に気にすることもないのか……とにかくどうしたらいいかわからない。
そして同時に、こんなに喜ぶほど本当は寂しかったのか、とちょっと切なくなった。
今までずっと自分に対しては嫌な奴だと思って避けたり怒鳴ったりしてきたのを、今更になって後悔しはじめる。
「なぁ、もう泣きやめよ。もう一回太鼓で遊んでやるから」
「…………」
「太鼓は飽きたか? じゃあキャッチボールでもするか?」
「…………ぶふっ」
「あ……?」
気のせいか、噴きだすような声と風圧を腹に感じたような?
「ぷはーっははは!! 黒たん素直でいい子すぎー!!」
顔をガバリと上げたファイは、思いっきり大声で笑い出した。
震えていたのは笑いを堪えるためだったのか、相当苦しかったらしい彼は顔全体を真っ赤にして、涙ぐんで笑っていた。
黒鋼はあんぐりと口を開けたまま硬直した。
「そんなんじゃ悪い人にすぐ騙されちゃうよー!」
謀られたことにようやく気付いた黒鋼は、あまりのショックと怒り、そして屈辱に身体を震わせた。
ダメだダメだと思っても、悔し涙が目尻に溜った。
ハッキリ言って、悪い大人なら今まさに目の前にいるし、とっくに騙され済みである。
「お……おまえ……また俺をバカにして……」
「バカにしてないよー! だってあんなにすんなり信じてくれるなんて……あふっ、思い出すともう駄目だ!」
「も、もう、ぜったい、ぜったい、許さねぇからな!!」
「あっ! いっ、イタ! ちょっと黒たん痛い! 可愛いけど痛いよー!」
「うるせぇ黙れ!! 可愛い言うな!!」
「黒たんってお日様みたいなポカポカの匂いがするねー!」
「離れろヘンタイ!!」
癇癪を起した子供のように叫びながら、黒鋼は足をバタつかせた。が、開いた両足の中心に陣取っているファイが腰を離してくれないせいで効果はない。どうにかして身体を捻ったりして踏ん張ってみたが、ダメだった。
仕方なく思いっきり髪を掴んで引っ張ったり、両手をグーにして金髪頭をボカボカ殴った。結構な力で殴っているし、痛い痛いと連呼するくせに、ファイはなぜか幸せそうに頬を緩めきっていた。
しばらくの間ずっと暴れているうちに、だんだん体力が限界に達してきた。
所詮、身体の大きな大人に子供が勝てるわけがない。
「おまえ、いい加減あっち行け……」
いつまで抱きついている気なのか、ファイはふにゃりと笑って黒鋼の顔を見上げて来る。
逆にコイツは何をどうすれば怒ったり泣いたり悔しがったりするのだろう。自分一人でぎゃんぎゃん吠えて勝手に疲れてるみたいで、なんだかアホらしい。
それでもまだ悔しさは静まらない。
「えへへ。ごめんねー黒わんこー。でも、嬉しかったのはホントだよー?」
「もう騙されねぇぞ。てめぇとは絶交する」
「そんなことされちゃったら、オレ本当に寂しくて死んじゃうなー」
「死ねバカ」
「そんなこと言わないで? ね?」
ようやくファイの腕が腰から離れたかと思ったら、彼は黒鋼の両脇に手をついた。そして膝立ちになって身体をぐんと伸ばしてくる。
何をする気なのかと、咄嗟に反応する前にファイの顔が驚くほど近づいた。
次の瞬間、ふわりと甘い香りがして、頬を何かにくすぐられた。
そのいい匂いはファイの髪からしていて、そしてそれが頬をくすぐっているのだと気付いたとき、相手との距離はゼロになっていた。
唇に、温かくて柔らかいものが押し当てられている。
黒鋼はまるで時が止まったかのように目を見開いて、身じろぐこともできないまま固まっていた。
いっそぼやけそうなくらい近くに、少し濃い色味の金の睫毛が伏せられている。
甘い匂いと、くすぐったさと、唇を塞がれる感触。気が遠くなるような気がした。
永遠のようにも感じられたそれは、すぐに離れて行った。
それでも近い距離で見つめられて、その瞳の青にこのまま吸い込まれてしまうのではないかと思う。
身体がふわふわして、不思議な感じがした。
「ね、もう怒らないで」
怒る……ああ、そういえば怒っていたのだった。
なのに、今はもうそんな気が起きない。たった今、自分に何が起こったのかを考えようとすると、頭の中に分厚い膜がかかったように思考が止まる。
だから今この瞬間、どう反応すればいいのか全く思いつかない。
ファイがクスリと笑った。いつものような、気の抜けるような笑い方じゃない。
今更のように胸が大きく高鳴るのを感じた。わけもわからず、茫然とする。
ただ分かるのは、この薄い唇をこれ以上見てはいけないということだった。それなのに目が離せない。
『ピンポーン』
そのとき、下の階から気の抜けるようなチャイムの音が聞こえた。おそらく帰宅した母が迎えに来たのだと思う。
それでも黒鋼はぼうっとしたまま動けなかった。
「あ、お母さんが来たみたい。黒たん、また明日ねー」
いつものように「二度と来ない」と突っぱねることができない。
何も言い返すことが出来ず、ただ素直にコクンと頷いていた。
←戻る ・ 次へ→
「ガッコ、一緒に行こう?」
朝、玄関の門を出たところで偶然同じタイミングで門から出てきた金髪が、ニッコリ笑って手を差し出してきた。
臙脂のブレザーを着た彼は16歳の高校生で、ついこないだ隣の家に引っ越してきたばかりだった。名前は……なんだったか忘れた。
小学3年生の黒鋼は、背負っている黒のランドセルの肩ベルトをぎゅっと掴みながら、そのやけに白い手と彼の笑顔を交互に見る。
金色のふわふわした髪が朝の光を弾いて輝いていた。細められた瞳は青で、まつ毛がやたらと長いのに驚く。
別に相手は知らない人間ではないし、警戒する必要はないのだが、9歳にもなって誰かに手を引かれて学校に行くというのは、ちょっと恥ずかしい。
差し出された手の平だって、なんだか女のように柔らかそうで、触れるのが照れくさかった。
金髪の高校生は戸惑う黒鋼の心境を知ってか知らずか、肩ベルトを握っていた手を掴んできた。ドキリとして身体をビクつかせたが、振り払うタイミングを逃してそのまま引かれて歩きだす。
母の手よりは僅かに大きめで骨ばり、そして父の手よりは小さくて柔らかい。初めての感触だった。
「学校では今、どんなお勉強してるのー?」
のんびりとした優しい声は、語尾が甘ったるく伸びる。
自分が子供だからそんな声で接してくるのかと思いきや、彼は挨拶に来た時もこんなふわふわとした調子だった。
あの時は母親が対応していて、自分はただ少し離れた位置から眺めていただけだった。
「べつに。いろいろだ」
俯いて歩きながら、なんとなく突き放したような返答をしてしまった。
すると彼は気にした様子もなく「そっかー。そうだよねー」と言って嬉しそうだった。
「じゃあ、どの教科が一番好きなのかなー?」
「……体育」
「へー! じゃあ駆けっこは一等賞なのかなぁ?」
「あたりまえだ」
「凄いねー! 小さいのに一番なんだー」
小さい、という言葉にムッとした。
それは黒鋼にとって『地雷』と言ってもいいほどの強烈なワードだった。
途端に顔を上げて、眉を吊り上げると相手を睨む。
「俺は小さくねぇ!!」
急に声を荒げた黒鋼に、彼は目を丸くして一瞬キョトンとした。が、すぐに蕩けそうな笑みを浮かべて頬を赤らめる。
てっきり不快にさせたとばかり思ったのだが、的が外れたようだ。
「可愛いねー」
彼はにやにやとだらしない顔で笑っていた。
可愛いという言葉も、好きではない。いや、大嫌いだ。
黒鋼の身体はクラスの中でも小柄で、整列の順番だって一番前という有様だった。それがコンプレックスで仕方がない。父親は大きくてがっしりとしていて、誰と比べても抜きん出て長身なのに、そんな父親に瓜二つだと言われる自分が誰よりもチビだなんて。
(こいつ、キライだ)
女みたいな顔をしてるくせに、こいつだって多分平均よりも背が高い。
バカにされているみたいで、頭に血が昇りそうだった。
繋いでいた手を強引に振り払って、黒鋼は毛を逆立てた猫のようにきつく相手を睨み上げる。
「バカにすんな! 俺はチビじゃねぇし、かわいいとか言うな!!」
しかしそれは逆効果で、金髪男はよだれを垂らしかねない勢いでうっとりと悦に浸っている。目がキラキラと輝き、そして潤んでいた。
そこはかとなく息も荒いような……。
「だってだって、怒ってるとこも可愛すぎるんだもん! たまんないよぉ! 思い切って声かけてよかったー!」
「……おまえ、ヘンタイか?」
「ヘンタイで結構だよー。ね、黒たん、プニプニのおてて、もっかい繋ご? ね?」
「ふざけんな! あと俺のなまえは黒鋼だ! ヘンな呼び方すんな!!」
「なんでー? こんなに小さくて可愛いのに、黒鋼なんて強そうな名前は似合わないよー」
「なんだとぉ!?」
「黒るーとか、黒りんとか……あ、黒わんこも可愛いかもー」
かつてこれほどまでに怒りを覚えた経験があっただろうか。
可愛い、小さい、これらの二つのワードを一気に浴びせかけ、しかも名前までアレンジされるなど……。
あまりのことに、黒鋼は全身を震わせた。振動でランドセルの中の定規がカタカタと鳴る。
冗談じゃない。こいつは自分を怒らせる天才だ。
隣に住んでいるというだけでよく知りもしない人間に、なぜここまでコケにされなければならないだろう。こんなに悔しい思いをしたのは、生まれて初めてだ。
堪え切れずに緩んでしまった涙腺のせいで、目尻に涙が溜まってしまう。
「な、泣くの!? 泣いちゃうの!? わぁんどうしよう!? でも可愛すぎてどうしよぉー!?」
そんな様子にすら、目の前のヘンタイは両手を頬に添えては飛び跳ねて悶え狂っていた。
「おまえなんか……大っきらいだ!!」
力の限り振り絞った声を捨て置き、黒鋼は逃げるように駆け出した。
それが隣人のヘンタイ、ファイとの一番最初の嫌な思い出だった。
*
あの朝の一件で、黒鋼は隣の男に苦手意識を抱いた。
もう二度と関わってたまるかと、もし運悪く顔を合わせることになっても無視を決め込むことにした。
が、その決断はすぐに覆されることになってしまった。
隣の家には黒鋼が生まれた時から年老いた夫婦が暮らしていた。
黒鋼もよくお菓子(しょっぱいもの限定)を貰ったりして可愛がられていたし、双方の家が余りものをお裾分けし合うなど、円満な近所付き合いを行っていた。
そんな中、隣に家族が増えた。ファイはその老夫婦の孫だった。
イタリアから日本へ、母方の実家に一人で移り住むことになったと聞いた。
その辺りの詳しい事情は、幼い黒鋼にはわからない。でも、たとえ家族仲がよくたって、離れ離れで暮らさなければならないこともある。寂しくても我儘は言えない。黒鋼はそれをよく知っていた。
黒鋼の家は両親共に健在だが、半年ほど前から父が単身赴任で家を開けているため、今は母と二人だけの生活だった。
休みの日に父と遊べなくなって、一緒にお風呂も入れなくなって、寂しい日々が続いていたが、それは母も同じなのだと自分に言い聞かせながら堪えている。
せめてファイが同じ歳くらいだったら友達になれたかもしれないのにと、少しガッカリした。
彼は一緒に遊ぶには歳が離すぎていて、そのせいか黒鋼が興味を引かれることはなかった。向こうだってきっと同じことを思ってるに違いない。小学生と高校生では話だって合わないだろうと。
……そのはずが。
いざ関わってみたら、ヤツはとんだ変態だった。彼はどういうわけか7歳も年の離れた黒鋼に興味深々だったのだ。
黒鋼を視界に捉えるや否や、端整な顔をだらしなく緩めきって迫ってこようとする。
黙ってさえいればさぞ女にモテるだろうに、あれがよく言う残念なイケメンという奴かとしみじみ思う。
さらに運の悪いことに、ファイの通う高校と黒鋼の小学校は目と鼻の先の距離にあった。
最初こそ登下校の時間がカブったとしても、全力で走って逃げればいいと考えていたのだが、そうはいかなくなった。
なんと黒鋼の母親が、ファイのことをいたく気に入ってしまったのだ。
途中で息子がブチ切れて走り去ってしまったことなど知りもしない母は、どうやらファイが黒鋼の手を引いて学校へ向かう姿を見ていたらしい。
素敵なお兄ちゃんが出来てよかったわねと、その日の夜に嬉しそうにしていた母に、アイツはとんだ変態野郎だなんて、そんなことは言えなかった。
下手したらずっといい関係だった隣との付き合いが歪んでしまうかもしれないし、我が事のように喜んでいる母に悪い気がした。
子供は子供なりに、実は大人の知らないところで何かと気を使っていたりするのだ。
それからは毎朝のように母に見送られ、ヤツと一緒に学校へ行くことになってしまった。運が悪い日は帰りまで。
流石に手を繋ぐことは拒んだが、友達がいるからと断っても、むしろあの変態は「友達も紹介してー!」とせがんでくる始末だった。
こっちがどんなに怒ってもふざけた呼び方や、可愛いだのとほざくのを止めないし、事あるごとに頬っぺたをツンツンしたがるし、そうして黒鋼が嫌がってバタバタするのが楽しくて仕方がないらしい。
どうにかして関わらずに済む方法はないかと頭を抱える日々が、延々と続いている状態だった。
*
日曜日の昼下がり、黒鋼は家の庭で一人グローブを手に、塀を相手に野球ボールを投げていた。
父親がいた頃は公園まで出かけてよく一緒に遊んだが、今はそれが出来ない。
誰かしら友達を捕まえて遊んでもいいけれど、今日はなんとなくそういう気分ではなかった。
父に教えてもらったようにグローブを構え、振りかぶってボールを投げる。ガツンと音を立てて壁に弾かれたボールが、一度のバウンドを経て上手く戻って来た。黒鋼はそれを飽きもせず、延々と繰り返していた。
すると、庭の隅の丸い形の植木がガサゴソと動いた気がして、手を止めると視線を向ける。
「うげ」
思わずそんな声が漏れていた。
植木の陰から、ファイがひょっこりと顔を出して、へらっと笑った。頭の天辺に葉っぱがくっついている。
「へへへー。やっと気づいてくれたー」
「……ストーカーか?」
「ボールに夢中でぜんぜん気づいてくれないんだもんー。ついついオレもそんな黒たんに夢中になって、穴が空くほど見つめちゃったよー」
「本気でキモイぞ」
「黒わんこに言ってもらうと、何でも褒め言葉に聞こえちゃう」
「だから変な呼び方やめろって!」
黒鋼が目を吊り上げて怒鳴るのも構わず、ファイはニコニコ顔で植木の裏から出て来ると、転がり落ちていたボールを拾い上げた。
「野球が好きなのー?」
「別にそういうんじゃねぇけどさ」
「へー。オレ、キャッチボールってあんまりしたことないなー」
「父親とやらなかったのか?」
「んー。ユゥイとはたまーにやったかなー?」
「ふぅん」
ユゥイという名前は、時々ファイの口から出て来るものだった。双子の弟で、イタリアで暮らしていると言っていた。
ふと、もしかしてコイツもやっぱり家族と離れているのが寂しいのかもしれない、と思った。
黒鋼はすぐ近くの物置へおもむろに足を向けると、父が使っていたグローブを取り、ファイに向かって放り投げた。
「わぁ」
小さく声を上げながら、ファイがそれを両手でキャッチする。
それだけで黒鋼の意図を察した彼は、ぱっと目を輝かせた。
「一緒に遊んでくれるのー!?」
「じっと見てられるのがキモいだけだ」
「黒たんやっさしー!」
「う、うっせぇ!」
「かわいー!」
「次それ言ったらもう喋ってやらねぇからな!」
「(黒たん可愛い)」
「脳内に直接言うのも禁止だバカ!!」
別に優しくしてやろうなんて、これっぽっちも思ってない。
壁を相手にしているのに飽きてしまっただけで、ましてや自分が寂しかったからとか、そんなことは絶対。
たまたま近くにいたのが、隣の家の変態野郎だったってだけの話だった。
*
ファイはハッキリ言って、下手くそだった。
思いっきり投げたかと思えばボールがなぜか真後ろにぶっ飛んで行ったり、真っ直ぐ投げたはずの球が消えたと思ったら屋根の天辺から転がり落ちてきたりと、逆に奇跡としか言いようのない神がかったセンスを光らせた。
逆にすげぇなと皮肉を言うと、褒められたと勘違いして大喜びだった。バカだ。
それでも根気よく練習すると、なんとか様になってきた。
父としていた頃に比べれば物足りなさはあったが、なんだか懐かしかった。
「黒たんはさー、大きくなったら何になりたいのー?」
ボールと一緒に、ファイの問いかけもキャッチする。黒鋼はそれを、答えと一緒に思い切り投げ返した。
「まだなんも決めてねぇ」
「じゃあオレと結婚するー?」
「おまえ頭イカれてるだろ!」
「黒たんはきっと大人になってもオレよりちっちゃいから、お嫁さんねー」
「決めつけんな! つーか俺は男だからな!」
「ずーっと小ちゃくて可愛いままだったらいいのになー」
「どアホ!!」
そんな暴言を吐いても、ファイは「えへへー」と楽しそうだった。
本当に腹が立つ。何がお嫁さんだ。何が大人になってもちっちゃいだ。家族だって親戚だって、みんな口を揃えて自分のことを父親にそっくりだと言う。だから絶対に大人になったら身長だって同じくらいになる。
そう信じて、黒鋼は毎日のように小魚を大量に食べていた。だが、それでは足りないかもしれない。
牛乳は好きじゃないから避けていたが『りょうやくくちににがし』という難しい言葉もあるように、よく効く薬ほど不味いのだと思う。こうなったら我慢して、たくさん飲んだ方がいいのかもしれない。給食でも毎回残しているけれど、明日からは頑張って飲もうと決めた。
少なくとも何が何でも、このバカで変態でふざけた野郎よりは大きくなりたい。
心の中で闘志を燃やしながら、これ以上からかわれてたまるかと、キャッチボールを続けたまま話を摩り替えた。
「おまえは?」
「オレー?」
「そうだ」
「オレはー、ガッコのせんせー!」
「おまえみたいなアホが勉強なんて教えられるのか?」
「わかんないけど、がんばればきっとできるよー!」
てっきりアホな返答が来るかと思えば、意外に普通で少し驚いた。何も考えていなさそうなのに、ちゃんと将来の希望を持っていることにも。
ファイは仕草も言葉使いも幼いから忘れていたが、高校生といったら黒鋼にしてみれば大人も同然で遠い存在だ。いいお兄ちゃんが出来てよかったわね、なんて母が言っていたのをなんとなく思い出した。
(兄貴、か)
自分に兄弟がいたらこんな感じなのかと、そう考えるとくすぐったい。
出来ればもっと男らしくて、おかしなことを言わない兄貴がよかったが。
「あら? 遊んでもらってたの?」
その時、縁側から母が長い黒髪を揺らしながら顔を出した。買い物に行くと言って出かけて行ったのだが、帰って来たらしい。
ボールはファイがキャッチした状態で止まってしまった。
「おばさんこんにちはー!」
「いつも本当にありがとう。そうだわ、さっき向かいの奥さんからプリンをいただいたの。どうせ黒鋼は食べないし、よかったらどうかしら?」
「わーいプリンだー!」
ファイは飛び跳ねるように両手を上げて、ボールとグローブを投げ出してしまう。短く刈られた緑の芝生に、それらが音を立てて落下する。
縁側から這うようにして家の中にゴリゴリと押し入っていく背中を見て、黒鋼は溜息をこぼした。兄というより、あれでは弟といった方がいいような気がしてならない。
でも、ファイとのキャッチボールはほんの少しだけ、楽しかったような気がする。
黒鋼に対する物言いは相変わらず許せないが、これからはちょっとくらいは仲良くしてやってもいいかな、なんて思った。
が。
ファイはやっぱりファイで、それからというもの彼の黒鋼をからかう言葉の数々に『黒たんはオレの嫁』が加わるようになった。
ふざけたことに、母がいる目の前でもそれを言われ、しかも母まで
「将来の旦那さんと、これからも仲良くしないとね」
なんて息子をからかう始末だった。
仕舞には「お父さんにも報告しなくちゃ」なんて言いだして、黒鋼は本気で泣きたくなった。
(やっぱりアイツは許せねぇ……!)
絶対にファイよりも大きくなること、そしていつか絶対に自分をバカにしたことを後悔させてやろうと、黒鋼は幼い胸に改めて強く誓った。
←戻る ・ 次へ→
朝、玄関の門を出たところで偶然同じタイミングで門から出てきた金髪が、ニッコリ笑って手を差し出してきた。
臙脂のブレザーを着た彼は16歳の高校生で、ついこないだ隣の家に引っ越してきたばかりだった。名前は……なんだったか忘れた。
小学3年生の黒鋼は、背負っている黒のランドセルの肩ベルトをぎゅっと掴みながら、そのやけに白い手と彼の笑顔を交互に見る。
金色のふわふわした髪が朝の光を弾いて輝いていた。細められた瞳は青で、まつ毛がやたらと長いのに驚く。
別に相手は知らない人間ではないし、警戒する必要はないのだが、9歳にもなって誰かに手を引かれて学校に行くというのは、ちょっと恥ずかしい。
差し出された手の平だって、なんだか女のように柔らかそうで、触れるのが照れくさかった。
金髪の高校生は戸惑う黒鋼の心境を知ってか知らずか、肩ベルトを握っていた手を掴んできた。ドキリとして身体をビクつかせたが、振り払うタイミングを逃してそのまま引かれて歩きだす。
母の手よりは僅かに大きめで骨ばり、そして父の手よりは小さくて柔らかい。初めての感触だった。
「学校では今、どんなお勉強してるのー?」
のんびりとした優しい声は、語尾が甘ったるく伸びる。
自分が子供だからそんな声で接してくるのかと思いきや、彼は挨拶に来た時もこんなふわふわとした調子だった。
あの時は母親が対応していて、自分はただ少し離れた位置から眺めていただけだった。
「べつに。いろいろだ」
俯いて歩きながら、なんとなく突き放したような返答をしてしまった。
すると彼は気にした様子もなく「そっかー。そうだよねー」と言って嬉しそうだった。
「じゃあ、どの教科が一番好きなのかなー?」
「……体育」
「へー! じゃあ駆けっこは一等賞なのかなぁ?」
「あたりまえだ」
「凄いねー! 小さいのに一番なんだー」
小さい、という言葉にムッとした。
それは黒鋼にとって『地雷』と言ってもいいほどの強烈なワードだった。
途端に顔を上げて、眉を吊り上げると相手を睨む。
「俺は小さくねぇ!!」
急に声を荒げた黒鋼に、彼は目を丸くして一瞬キョトンとした。が、すぐに蕩けそうな笑みを浮かべて頬を赤らめる。
てっきり不快にさせたとばかり思ったのだが、的が外れたようだ。
「可愛いねー」
彼はにやにやとだらしない顔で笑っていた。
可愛いという言葉も、好きではない。いや、大嫌いだ。
黒鋼の身体はクラスの中でも小柄で、整列の順番だって一番前という有様だった。それがコンプレックスで仕方がない。父親は大きくてがっしりとしていて、誰と比べても抜きん出て長身なのに、そんな父親に瓜二つだと言われる自分が誰よりもチビだなんて。
(こいつ、キライだ)
女みたいな顔をしてるくせに、こいつだって多分平均よりも背が高い。
バカにされているみたいで、頭に血が昇りそうだった。
繋いでいた手を強引に振り払って、黒鋼は毛を逆立てた猫のようにきつく相手を睨み上げる。
「バカにすんな! 俺はチビじゃねぇし、かわいいとか言うな!!」
しかしそれは逆効果で、金髪男はよだれを垂らしかねない勢いでうっとりと悦に浸っている。目がキラキラと輝き、そして潤んでいた。
そこはかとなく息も荒いような……。
「だってだって、怒ってるとこも可愛すぎるんだもん! たまんないよぉ! 思い切って声かけてよかったー!」
「……おまえ、ヘンタイか?」
「ヘンタイで結構だよー。ね、黒たん、プニプニのおてて、もっかい繋ご? ね?」
「ふざけんな! あと俺のなまえは黒鋼だ! ヘンな呼び方すんな!!」
「なんでー? こんなに小さくて可愛いのに、黒鋼なんて強そうな名前は似合わないよー」
「なんだとぉ!?」
「黒るーとか、黒りんとか……あ、黒わんこも可愛いかもー」
かつてこれほどまでに怒りを覚えた経験があっただろうか。
可愛い、小さい、これらの二つのワードを一気に浴びせかけ、しかも名前までアレンジされるなど……。
あまりのことに、黒鋼は全身を震わせた。振動でランドセルの中の定規がカタカタと鳴る。
冗談じゃない。こいつは自分を怒らせる天才だ。
隣に住んでいるというだけでよく知りもしない人間に、なぜここまでコケにされなければならないだろう。こんなに悔しい思いをしたのは、生まれて初めてだ。
堪え切れずに緩んでしまった涙腺のせいで、目尻に涙が溜まってしまう。
「な、泣くの!? 泣いちゃうの!? わぁんどうしよう!? でも可愛すぎてどうしよぉー!?」
そんな様子にすら、目の前のヘンタイは両手を頬に添えては飛び跳ねて悶え狂っていた。
「おまえなんか……大っきらいだ!!」
力の限り振り絞った声を捨て置き、黒鋼は逃げるように駆け出した。
それが隣人のヘンタイ、ファイとの一番最初の嫌な思い出だった。
*
あの朝の一件で、黒鋼は隣の男に苦手意識を抱いた。
もう二度と関わってたまるかと、もし運悪く顔を合わせることになっても無視を決め込むことにした。
が、その決断はすぐに覆されることになってしまった。
隣の家には黒鋼が生まれた時から年老いた夫婦が暮らしていた。
黒鋼もよくお菓子(しょっぱいもの限定)を貰ったりして可愛がられていたし、双方の家が余りものをお裾分けし合うなど、円満な近所付き合いを行っていた。
そんな中、隣に家族が増えた。ファイはその老夫婦の孫だった。
イタリアから日本へ、母方の実家に一人で移り住むことになったと聞いた。
その辺りの詳しい事情は、幼い黒鋼にはわからない。でも、たとえ家族仲がよくたって、離れ離れで暮らさなければならないこともある。寂しくても我儘は言えない。黒鋼はそれをよく知っていた。
黒鋼の家は両親共に健在だが、半年ほど前から父が単身赴任で家を開けているため、今は母と二人だけの生活だった。
休みの日に父と遊べなくなって、一緒にお風呂も入れなくなって、寂しい日々が続いていたが、それは母も同じなのだと自分に言い聞かせながら堪えている。
せめてファイが同じ歳くらいだったら友達になれたかもしれないのにと、少しガッカリした。
彼は一緒に遊ぶには歳が離すぎていて、そのせいか黒鋼が興味を引かれることはなかった。向こうだってきっと同じことを思ってるに違いない。小学生と高校生では話だって合わないだろうと。
……そのはずが。
いざ関わってみたら、ヤツはとんだ変態だった。彼はどういうわけか7歳も年の離れた黒鋼に興味深々だったのだ。
黒鋼を視界に捉えるや否や、端整な顔をだらしなく緩めきって迫ってこようとする。
黙ってさえいればさぞ女にモテるだろうに、あれがよく言う残念なイケメンという奴かとしみじみ思う。
さらに運の悪いことに、ファイの通う高校と黒鋼の小学校は目と鼻の先の距離にあった。
最初こそ登下校の時間がカブったとしても、全力で走って逃げればいいと考えていたのだが、そうはいかなくなった。
なんと黒鋼の母親が、ファイのことをいたく気に入ってしまったのだ。
途中で息子がブチ切れて走り去ってしまったことなど知りもしない母は、どうやらファイが黒鋼の手を引いて学校へ向かう姿を見ていたらしい。
素敵なお兄ちゃんが出来てよかったわねと、その日の夜に嬉しそうにしていた母に、アイツはとんだ変態野郎だなんて、そんなことは言えなかった。
下手したらずっといい関係だった隣との付き合いが歪んでしまうかもしれないし、我が事のように喜んでいる母に悪い気がした。
子供は子供なりに、実は大人の知らないところで何かと気を使っていたりするのだ。
それからは毎朝のように母に見送られ、ヤツと一緒に学校へ行くことになってしまった。運が悪い日は帰りまで。
流石に手を繋ぐことは拒んだが、友達がいるからと断っても、むしろあの変態は「友達も紹介してー!」とせがんでくる始末だった。
こっちがどんなに怒ってもふざけた呼び方や、可愛いだのとほざくのを止めないし、事あるごとに頬っぺたをツンツンしたがるし、そうして黒鋼が嫌がってバタバタするのが楽しくて仕方がないらしい。
どうにかして関わらずに済む方法はないかと頭を抱える日々が、延々と続いている状態だった。
*
日曜日の昼下がり、黒鋼は家の庭で一人グローブを手に、塀を相手に野球ボールを投げていた。
父親がいた頃は公園まで出かけてよく一緒に遊んだが、今はそれが出来ない。
誰かしら友達を捕まえて遊んでもいいけれど、今日はなんとなくそういう気分ではなかった。
父に教えてもらったようにグローブを構え、振りかぶってボールを投げる。ガツンと音を立てて壁に弾かれたボールが、一度のバウンドを経て上手く戻って来た。黒鋼はそれを飽きもせず、延々と繰り返していた。
すると、庭の隅の丸い形の植木がガサゴソと動いた気がして、手を止めると視線を向ける。
「うげ」
思わずそんな声が漏れていた。
植木の陰から、ファイがひょっこりと顔を出して、へらっと笑った。頭の天辺に葉っぱがくっついている。
「へへへー。やっと気づいてくれたー」
「……ストーカーか?」
「ボールに夢中でぜんぜん気づいてくれないんだもんー。ついついオレもそんな黒たんに夢中になって、穴が空くほど見つめちゃったよー」
「本気でキモイぞ」
「黒わんこに言ってもらうと、何でも褒め言葉に聞こえちゃう」
「だから変な呼び方やめろって!」
黒鋼が目を吊り上げて怒鳴るのも構わず、ファイはニコニコ顔で植木の裏から出て来ると、転がり落ちていたボールを拾い上げた。
「野球が好きなのー?」
「別にそういうんじゃねぇけどさ」
「へー。オレ、キャッチボールってあんまりしたことないなー」
「父親とやらなかったのか?」
「んー。ユゥイとはたまーにやったかなー?」
「ふぅん」
ユゥイという名前は、時々ファイの口から出て来るものだった。双子の弟で、イタリアで暮らしていると言っていた。
ふと、もしかしてコイツもやっぱり家族と離れているのが寂しいのかもしれない、と思った。
黒鋼はすぐ近くの物置へおもむろに足を向けると、父が使っていたグローブを取り、ファイに向かって放り投げた。
「わぁ」
小さく声を上げながら、ファイがそれを両手でキャッチする。
それだけで黒鋼の意図を察した彼は、ぱっと目を輝かせた。
「一緒に遊んでくれるのー!?」
「じっと見てられるのがキモいだけだ」
「黒たんやっさしー!」
「う、うっせぇ!」
「かわいー!」
「次それ言ったらもう喋ってやらねぇからな!」
「(黒たん可愛い)」
「脳内に直接言うのも禁止だバカ!!」
別に優しくしてやろうなんて、これっぽっちも思ってない。
壁を相手にしているのに飽きてしまっただけで、ましてや自分が寂しかったからとか、そんなことは絶対。
たまたま近くにいたのが、隣の家の変態野郎だったってだけの話だった。
*
ファイはハッキリ言って、下手くそだった。
思いっきり投げたかと思えばボールがなぜか真後ろにぶっ飛んで行ったり、真っ直ぐ投げたはずの球が消えたと思ったら屋根の天辺から転がり落ちてきたりと、逆に奇跡としか言いようのない神がかったセンスを光らせた。
逆にすげぇなと皮肉を言うと、褒められたと勘違いして大喜びだった。バカだ。
それでも根気よく練習すると、なんとか様になってきた。
父としていた頃に比べれば物足りなさはあったが、なんだか懐かしかった。
「黒たんはさー、大きくなったら何になりたいのー?」
ボールと一緒に、ファイの問いかけもキャッチする。黒鋼はそれを、答えと一緒に思い切り投げ返した。
「まだなんも決めてねぇ」
「じゃあオレと結婚するー?」
「おまえ頭イカれてるだろ!」
「黒たんはきっと大人になってもオレよりちっちゃいから、お嫁さんねー」
「決めつけんな! つーか俺は男だからな!」
「ずーっと小ちゃくて可愛いままだったらいいのになー」
「どアホ!!」
そんな暴言を吐いても、ファイは「えへへー」と楽しそうだった。
本当に腹が立つ。何がお嫁さんだ。何が大人になってもちっちゃいだ。家族だって親戚だって、みんな口を揃えて自分のことを父親にそっくりだと言う。だから絶対に大人になったら身長だって同じくらいになる。
そう信じて、黒鋼は毎日のように小魚を大量に食べていた。だが、それでは足りないかもしれない。
牛乳は好きじゃないから避けていたが『りょうやくくちににがし』という難しい言葉もあるように、よく効く薬ほど不味いのだと思う。こうなったら我慢して、たくさん飲んだ方がいいのかもしれない。給食でも毎回残しているけれど、明日からは頑張って飲もうと決めた。
少なくとも何が何でも、このバカで変態でふざけた野郎よりは大きくなりたい。
心の中で闘志を燃やしながら、これ以上からかわれてたまるかと、キャッチボールを続けたまま話を摩り替えた。
「おまえは?」
「オレー?」
「そうだ」
「オレはー、ガッコのせんせー!」
「おまえみたいなアホが勉強なんて教えられるのか?」
「わかんないけど、がんばればきっとできるよー!」
てっきりアホな返答が来るかと思えば、意外に普通で少し驚いた。何も考えていなさそうなのに、ちゃんと将来の希望を持っていることにも。
ファイは仕草も言葉使いも幼いから忘れていたが、高校生といったら黒鋼にしてみれば大人も同然で遠い存在だ。いいお兄ちゃんが出来てよかったわね、なんて母が言っていたのをなんとなく思い出した。
(兄貴、か)
自分に兄弟がいたらこんな感じなのかと、そう考えるとくすぐったい。
出来ればもっと男らしくて、おかしなことを言わない兄貴がよかったが。
「あら? 遊んでもらってたの?」
その時、縁側から母が長い黒髪を揺らしながら顔を出した。買い物に行くと言って出かけて行ったのだが、帰って来たらしい。
ボールはファイがキャッチした状態で止まってしまった。
「おばさんこんにちはー!」
「いつも本当にありがとう。そうだわ、さっき向かいの奥さんからプリンをいただいたの。どうせ黒鋼は食べないし、よかったらどうかしら?」
「わーいプリンだー!」
ファイは飛び跳ねるように両手を上げて、ボールとグローブを投げ出してしまう。短く刈られた緑の芝生に、それらが音を立てて落下する。
縁側から這うようにして家の中にゴリゴリと押し入っていく背中を見て、黒鋼は溜息をこぼした。兄というより、あれでは弟といった方がいいような気がしてならない。
でも、ファイとのキャッチボールはほんの少しだけ、楽しかったような気がする。
黒鋼に対する物言いは相変わらず許せないが、これからはちょっとくらいは仲良くしてやってもいいかな、なんて思った。
が。
ファイはやっぱりファイで、それからというもの彼の黒鋼をからかう言葉の数々に『黒たんはオレの嫁』が加わるようになった。
ふざけたことに、母がいる目の前でもそれを言われ、しかも母まで
「将来の旦那さんと、これからも仲良くしないとね」
なんて息子をからかう始末だった。
仕舞には「お父さんにも報告しなくちゃ」なんて言いだして、黒鋼は本気で泣きたくなった。
(やっぱりアイツは許せねぇ……!)
絶対にファイよりも大きくなること、そしていつか絶対に自分をバカにしたことを後悔させてやろうと、黒鋼は幼い胸に改めて強く誓った。
←戻る ・ 次へ→
905号室の恋人
微かに上下する金色の頭に手を這わせる。
柔らかな手触りの髪はほんのりと癖があって、梳く度に指の隙間をふわふわとくすぐった。
ふと、黒鋼は笑って小さな息を漏らす。
「やっぱり下手だな、おまえ」
ベッドの縁に腰かけた黒鋼の身体の中心に顔を埋めていたファイが、むぅっと唇を尖らせて睨み上げてくる。
「下手じゃないもん。きっとまだ生身の身体に慣れてないから、調子悪いだけだよー」
「いいや、おまえは下手だ」
「半勃ちしてるくせに……」
「そりゃあそうだろ」
「え、わ、ぁ!」
寝室の床に座り込んでいるファイの両脇に両手を差し込み、腕の力だけで引っ張り上げると、すぐに抱え込むようにしてくるりと態勢を引っくり返す。
白いシーツの波間を縫うように金色の髪が広がった。
その表情をまっすぐ見下ろすと、彼はハッとしたように顔を赤らめて視線を背けた。
熱を持った頬に片手を這わせ、眼帯越しに左目があった場所へ口付ければ、ファイはぎゅっと右目を閉じて肩を竦めた。ふと見れば、胸の上で握られた二つの拳が震えている。
「なんだよ。まさか怖ぇのか?」
「こ、怖いっていうか……」
ファイは一度、緩く下唇を噛んだ。
それから胸の上の拳をもじもじと擦りあわせ、潤んだ瞳を彷徨わせる。
「そ、その……こういうの初めてだし……」
「経験あんだろ?」
「あ、る……けど、でも……」
「?」
「好きな人とするのは……初めてだから……」
そう言って、ファイはついに真っ赤な目元を手の甲で隠してしまった。
黒鋼は柄にもなく自分まで顔が赤くなるのを感じて、むっと唇を引き結んだ。
もし今の感情を音にするのなら、きゅん、という可愛らしいものがしっくりくる。それこそキャラじゃないと突っぱねたくなったりしつつ、とにかくもうどうしようもないくらい胸が熱くなるのを感じた。
黒鋼が深く息を漏らすのを、ファイは何か勘違いしたのか、小さくひくりと肩を震わせた。
「……ごめん」
「……なにが」
「めんどくさい奴で、ごめん……」
「馬鹿」
ぼそりと吐き捨てるように言うと、ファイの細い手首を取った。
泣きそうに揺れる、たった一つの青が不安げに見上げてくる。聞けば彼は黒鋼よりも僅かに年上らしいのだが、そのあまりにも余裕のない姿はいっそ小動物めいて見えてしまう。
それだけでもう黒鋼の胸は掻き毟られるようで、先走りそうになる意識をぐっと押し殺した。
掴んだままだった手に唇を寄せると手の平にキスをする。そして、その手を自分の首の後ろへ導くように引き寄せて、ファイの両腕がおずおずと絡みついてくるのを確認してから、白い額に自分の額を押し付けた。
そのまましばらく互いの息遣いを感じながら至近距離で見つめ合った。
「……なぁ」
「ん」
「優しくする」
「うん……」
幾度か音を立てて唇を啄んだ。ファイはまだ身を固くしていたが、伏せた睫毛を震わせながらそれを受け止めていた。
本当の意味で『初めて』なのは、むしろ黒鋼の方だった。
これまでの人生で異性を相手にしたことはあっても、同性とは経験がない。だからある程度はファイに教えを乞うつもりでいた。
が、彼は黒鋼がその白い素肌に触れる度にビクビクと震えるばかりで、とてもそんな余裕はないようだった。
「んっ、ぅ、ッ……!」
上のシャツを脱がせると、性急にならないよう出来る限り優しく手を這わせ、唇で薄い皮膚を辿る。ファイは引き寄せたシーツを口元に押し付けて、必死で声を噛み殺していた。
胸に吸い付くように口付けると、華奢な身体が大きくしなった。早鐘を打つ心臓の音が、唇を通して伝わってくる。
手の平を這わせ、さらにその鼓動を確かめた。しっとりと汗ばんだ肌は、吸い付くような滑らかさで心地がいい。
「ッ、胸、ないよ……」
「阿呆。知ってる」
ただ彼が『生きている』ことを、こうして感じていたかっただけだ。
胸の膨らみなど、あってもなくてもどうでもいい。
ファイが目の前で消えてしまったときの絶望や、生きていると知り、そして初めて抱きしめたときの安堵と感動。黒鋼がどんな思いでいたのか、きっとこの男には分からない。
当たり前のように触れて、熱や鼓動を確かめることがこんなにも幸せなことだったなんて、ファイと出会わなければ一生知らないままだった。
こうしてまた誰かを愛そうとする気持ちさえ、取り戻すことができなかったかもしれない。
「ッ、んっ!」
おうとつのない胸を幾度も撫でながら、小さな粒に口付けた。ファイは顔を背け、ぎゅっと目を閉じてそれに耐える。
「声だせ」
短く命じると、彼はブルブルと首を左右に振った。
そして蚊の鳴くような声を泣きそうに掠れさせて「はずかしい」と言う。
「その恥ずかしい声が聞きてぇんだよ」
黒鋼はにやりと笑ってそう言うと、彼の手からシーツを奪った。あ、という形に口を開いたファイの手首を掴んで、シーツの上に縫い付ける。
わざと大きな音を立てて首筋に吸い付き、片方の胸に手を這わせると乳輪をくるりと悪戯になぞった。小さな胸は感度がいいなんて話を耳にしたことがあるが、噂は真実かもしれない。
ファイはぶるりと大きな身震いをして「ダメ」とか「やだ」なんて言葉を可愛らしく繰り返しては、また首を振った。
その反応に気をよくして、指先で尖りはじめた粒を潰すようにこねながら這わせた唇を下降させてゆく。
じわりと刻印を刻むように白い皮膚に痕を残せば、それはみるみるうちに赤い花弁のように色づいた。
「や、ぁ……」
ファイの吐息も少しずつ甘く掠れ、身体から無駄な力が抜けてゆくのが分かる。まだ羞恥心を捨てきれない、控えめな喘ぎが黒鋼の胸をくすぐった。
蕩けてゆく様に手ごたえを感じながらヘソのくぼみに口付けて、ファイのウエストに手をかけた。寝間着にしている緩いボトムを下着ごと下ろしてゆくと、彼は一度だけ身を固くしたが、すぐに諦めたように長い息を吐き出しながら力を抜いた。自ら膝を上げ、足先を引き抜くようにして黒鋼を補助する。
ファイを生まれたままの姿にしてしまうと、黒鋼もシャツを脱ぎ捨てた。ベッド下に放られるそれを青い右目が追いかける。
彼が気を逸らしている間に、黒鋼は長い両足を割り開くと中心の淡い茂みに指を這わせた。
「ッ!!」
僅かに形を変える性器の根本に生える体毛は、ファイの明るい髪色よりは少しだけ色味の濃い金色だった。
ファイの身体にカッと朱がのぼる。サラサラとしたそれを執拗に撫で続けていた指先を掴まれて、遠ざけられてしまう。
「な、なんで、そんなとこばっか触って……!」
「いや……面白れぇなと」
「面白くないよそんなの!」
「ヒヨコのトサカみてぇだぞ」
「ど、どうせ薄いよバカー!」
可愛い、という言葉を素直に言えない黒鋼の、精一杯の褒め言葉だったのだが。
どうやら言われた方はお気に召さなかったらしい。
なかなか難しいところだなと考えつつ、本人が気に入らないのならこれ以上いじるのは気の毒なので、密かなお気に入りにだけしておこうと思った。
黒鋼は指先を半分ほど勃ちあがっている性器にやった。ゆるく握ると、ファイの腰が大きく跳ねる。
自分のもの以外で男性器に初めて触れたという感覚が、あまりわかなかった。
黒鋼の大きな手の中にあっては、成人男性のそれも子供のおもちゃのようで、これはこれで可愛いかもな、なんて密かに思ってしまう。
違和感もなければ嫌悪感もない自分に安堵しながら、育てるようにゆっくりと緩く扱き、ときおり親指で先端のくぼみを擦った。武骨な手で、出来る限り優しく扱う。
ファイは立てた両膝をガクガクと震わせ、しばらくは声を押し殺そうと必死だった。でも、降参したのかついに泣きながら悲鳴を上げた。
「やぁ、ぁッ! ん、あぁっ……!」
シーツを掻き毟る両手は、もう口元へやられることはなかった。
聞きたくて仕方のなかった恥ずかしい声は高く上擦り、黒鋼の欲求を満たしながらより煽ってゆく。性器を刺激しつつ見上げた表情は切なく歪んで、赤い頬を生理的な涙が伝うさまが堪らなかった。
自然と、黒鋼の漏らす息も熱く湿ったものになってゆく。
「いくか……?」
ファイはきつく目を閉じながらこくとくとしきりに頷いた。
声を抑えられなくなってから、彼の性器は一気に張りつめて先走りが伝い落ちるほどだった。
その滑りを借りて、黒鋼は少しだけ早さと強さを加えてさらにファイを追い詰めた。
「イッ、ちゃ、ぅ! 黒、たんの、ッ、手、きもち……ッ!」
「呼べ。俺の名前」
「ふぁッ、あ! くろ、黒様っ、あ、イッ、く、ッ――……!!」
白い足先がシーツを掻いた。背筋が浮き上がるほどのけぞって、ファイが達する。
赤く熟れたように色づいた性器から白濁の液体が勢いよく噴出して、腹や胸にまで飛び散った。
ファイは幾度か背を反らし、痙攣を繰り返しながら赤い花弁の散る薄い胸を上下させた。最後の一滴まで出しきるのをぐっと息を殺して見守る。やがて黒鋼とファイは同時に長い息を吐き出した。
睫毛を震わせながらゆらりと開かれた右目に誘われるように、身を乗り出すと唇を奪う。華奢な腕が黒鋼の頭をやんわりと抱き込んだ。
「こっから、どうすりゃいい?」
「くろさま……」
「ここ、いけんのか?」
「ッ!」
右手でファイの髪を梳きながら、左手を下肢へ伸ばすと双丘の奥まった場所に中指の腹を押し当てた。
そこは伝い落ちていた先走りですでにほんのりと濡れている。きゅっと窄まるのが指先を通して伝わって、黒鋼は無意識に喉を鳴らした。
ファイの言葉を待たずに、中指を押し込んでみる。つぷ、という音がして、第一関節の引っかかりまでを飲み込ませた。
熱い肉の窄まりは黒鋼の指を拒むどころか、切ないほど締め付けて来た。
「あっ、ぁ、ん!」
黒鋼の肩に縋りながら、ファイがぶるりと震える。吐息だけで「辛いか」と問えば、彼は首を左右に振った。
胸や腹に飛び散っていた体液も使い、その反応を見ながら小さな穴により深く指を押し進めていった。時間をかけて根気よく解しながら、中指に人差し指も添えて飲み込ませる頃、黒鋼はファイが押し込むよりも、引き抜く際に甘い声を漏らすことに気が付いた。
傷つけないように慎重に中へ進み、それから二本の指をバラバラと動かしながら抜いてみる。
「ひぁッ、あっ、ぁッ! それ、や、だ!」
「おまえの嫌ってのは全くアテになんねぇぞ」
「んっ、もぉ、いい……も、いぃ、から!」
たった二本の指をこれだけキツく食んでくる場所への準備が、この程度でいいのだろうか。
黒鋼は多少戸惑いつつ、本音を言えば自分自身もそろそろ辛いところだった。
ひとまず指を引き抜けば、ファイはホッと安堵の息を漏らした。
「クッション、取ってもらっていい?」
ファイの言う通り、黒鋼は枕の側にあったクッションを一つ手に取って渡した。
すると彼は自分の腰を浮かして、クッションを下に敷いて調節しはじめる。
「楽か。それやると」
「うん……。あのね、他の人とはバックしかやったことないの……ほんとはその方が楽だし、なんか……見られるのやだったし。でも」
ファイは黒鋼を見上げ、ふにゃんと情けなく笑って言った。
「恥ずかしいけど、黒たんの顔が見たいから。このまましよ」
「……おまえってやつは、いちいち……」
「?」
「もういい。黙ってろ阿保」
いちいち人の心の的を貫いてくる。
相手の経験値やその人数を気にしたことはないけれど、ただの性欲処理ではなく、この男を初めて『愛する』のが自分だと思うと、いっそ鳥肌が立つほどの歓喜を覚えた。
黒鋼は大きく息を吐き出すと、ファイの膝を掴んでぐっと押し広げる。そしていったん仕舞われていた自身を片手で取り出し、情けなく滲む先走りを馴染ませるように一度、竿を扱いた。
一秒でも早く繋がりたくて、それは脈打ちながらぐんと反り返っていた。
ファイが息を呑むのが分かる。ふっと目をやれば、蕩けたような視線が物欲しげに揺れているから、笑ってしまう。
「なんつう目で見てんだ」
からかうように言う黒鋼に、ハッとしたファイは慌てて目を逸らす。
「ご、ごめん」
「やるよ。全部」
しっとりと濡れた穴に、幾度か先端を擦り付けると押し当てた。
小さな尻の肉がひくっと痙攣して僅かに強張る。力を抜けとわざわざ命じずとも、彼は必死にそれをしようと浅く深呼吸を繰り返していた。
緊張に震えそうになる息をぐっと飲み込んで、黒鋼はファイの両足を抱えてゆっくりと腰を前進させた。
「ッ――!!」
黒鋼は想像以上の圧迫感に、ファイは予想以上の質量に、同時に喉を詰まらせた。
もっとも敏感な先端部分をぎゅっと肉壁に食われるだけで、すべて持っていかれそうになる。果たしてこのこぢんまりとした穴に、全て納めきることは出来るのだろうか。あるいは、それまで自分がもつかどうか。
果てしなく自信がないが、ひたすら歯を食いしばって耐えるしかない。
「うぁ……ッ! ア、ぁッ! くろ、さま、黒様ぁ……!」
ファイは何度も黒鋼の名を呼んだ。伸びて来た白い両腕へ飛び込むように、黒鋼は身体を前へ倒すと、覆いかぶさるようにしてその身を強く抱き込む。
黒鋼が腰を進める度に彼の爪が背中に食い込むのを感じた。強張る身体から、相当の無理をさせていることが伝わってくる。
「おい、もう……」
やめておくかと、黒鋼が言う前にファイが「嫌」と叫んだ。アテにならないとばかり思っていたそれが、今は鬼気迫って聞こえる。
「ぜんぶ、くれるって言った!」
「だが」
「奥まで入れて……オレも、ぜんぶ黒たんにあげたい……」
「ッ……!」
ああもう、本当に。気が狂いそうだ。
誰かを愛しいと感じて、そして愛されて、これほどまでに胸が苦しいことなどあっただろうか。
黒鋼は「ちくしょう」と低く吐き捨て、意を決して一気に腰を突き入れた。
「ヒ、ぁ……――ッ!!」
ファイの首が仰け反る。上擦った声には苦痛の色が滲んでいた。痛みを引き受けることができない代わりに、黒鋼はただ強く彼を抱きしめる。
すぐにでも動き出したいのを堪えて、その呼吸が落ち着くまでずっと額に唇を押し付け続けた。
食いちぎられそうなほどの締め付けに慣れるのには、時間がかかりそうだった。それでもゆっくりと、少しずつ中に馴染んでゆくのを感じる。熱い媚肉がずっと奥深い場所に至っているにも関わらず、さらに誘い込むように蠢いていた。
「全部、もらったからな」
乱れそうになる息で、そっと耳元で囁く。ファイはこくりと頷いて、「オレも」と言った。
それを合図に、黒鋼は奥を探るような慎重さで腰をゆっくりと揺り動かす。
ファイはか細い悲鳴を上げながら、その動きに合わせてカクン、カクン、とシーツの上を上下に揺れた。
「ぁ、ぁ、は……んぁ、あ、ぁっ……」
決して乱暴にしないよう、労わりながらファイの表情を窺う。そこから徐々に苦しげな色が薄れて、ずっと閉じられていた右目が半分だけ開かれる。とろん、と蕩けているのが分かった。
黒鋼は、小刻みに揺するだけだった動きを少しずつ深いものにしていった。最初は半分だけ、そして時間と共に先端まで引き抜いてはまた押し込める。ファイの両足が離さないとばかりに黒鋼の腰に巻き付いた。
火傷しそうなほど熱い内壁が、容赦なく絡みついてくる。鈍い水音と荒々しい黒鋼の呼吸と、ファイの嬌声が重なり合っていた。
「やぁ、ぁ! だ、め、だめ……も、だめ、ぇ」
「駄目? 何が駄目か言わなきゃわかんねぇぞ」
「ぁ、やッ、す、き、好き……ッ、ん、ぁ! だめ、黒、たん……!」
まるでそれしか知らないみたいに、ファイは嫌とダメと、好きと黒鋼の名前を繰り返しながら喘いだ。
気づけば黒鋼の腹に彼の勃起した性器が当たっていた。蜜を零しながら、揺さぶるたびに健気に震える。
やっぱりアテにならねぇなと笑いながら、全ての快楽を分かち合うように、深く唇を重ね合わせる。
舌を交わらせながらファイが切なげに呻き声を発し、黒鋼の皮膚に食い込む爪の力が強まった。
「ぅんっ、ぅ! んんん……――ッ!!」
腕の中の身体がビクンと大きく跳ね上がり、挟まれるようにして張りつめていた性器から二度目の飛沫が上がった。
「ッ、ぅ……!!」
一瞬遅れて黒鋼もぐっと喉を詰まらせながら唸った。
絡まるファイの両足が腰を離さず、考える間もなく射精感に身を任せる。最も深い場所に、黒鋼は全てを出し切った。
まとわりつく余韻に身を震わせ、二人は抱き合ったまましばらく動くことができなかった。
はかはかと繰り返される忙しない呼吸に耳を傾けながら、尽きることのない愛おしさに胸が張り裂けそうになる。
そうして過ぎるほど満たされる中で、黒鋼はこの時を絶対に手放すものかと固く胸に誓う。
「……離さねぇからな」
「黒様……?」
「消えるなよ。もう二度と」
目を見開いたファイは青い瞳を揺らしながら、泣きそうな声で「うん」と返事を寄越した。
*
「お母さんに……」
シーツにくるまり、少しだけ眠って起きたあと。
黒鋼の腕を枕にしたファイがぽつりと言った。その声は少しだけ枯れて、語尾が不安定に掠れている。
「お袋がどうした」
「ん……ちゃんと挨拶、しに行きたいなぁって。隠れてるばっかで、失礼なことしちゃったでしょ?」
確かになと返しつつも、おそらくあの母親は気にしちゃいないだろうと思った。
むしろ彼女はファイが生きていることに気付いていたはずだ。すっかり手の平で弄ばれたような気がして、息子としては多少不貞腐れた気分である。
そんなことなど知りもしないファイは、今度はちゃんとスーツを着てくべきかな、なんて細かいことを気にしている。意外に真面目な面を見せられた気がした。
「なぁ、それもいいが」
あーだこーだと独り言を垂れているファイの、ほんのり汗ばんだ髪に指を通す。
頭皮を滑る指先の感触が心地いいのか、ファイは猫のように目を細めて「んー」と間の抜けた返事をした。
「どっか旅行でも行かねぇか」
「ふえ?」
「いつ……ってのはまだ、具体的に約束はできねぇが……」
「い、行く!!」
くったりと黒鋼の腕に納まっていたはずの身体が、勢いよく弾かれたように身を起こす。
だが、すぐに腰に鈍痛が走ったのか、「イタッ」と声を発して顔を顰めた。
「ばかやろう、無理すんな」
「大丈夫ー!」
ファイは心底嬉しそうにぱぁっと笑って、黒鋼の胸に乗り上げるように飛びついて来た。胸と胸が合わさって、自分のものより少しだけ早い鼓動が感じられる。
どれほど彼が胸を弾ませているかが窺い知れて、黒鋼は小さく笑うとその頬を猫にでもするようにちょこちょこと指でくすぐった。
「どこがいい?」
肩を竦めながらクスクスと笑っていたファイは、黒鋼の手を取ると指先に軽やかな音をたててキスをする。そして、「どこだっていいよ」と言って右目を細めた。
「なんだよ。喜んだ割に投げやりだな」
「うぅん。だってホントに、どこだっていいんだもん」
骨ばった大きな手の平と、白い華奢な手の平がぴったりと重なり合った。祈るような形に指を曲げて、握り合う。
確かな感触が温もりを乗せて身体中に流れ込んでくる。
鼓動と、熱と、愛しさと。命と。
905号室の怪異がもたらした出会いと別れが、出会うはずのなかった二人を幸福で包み込む。
「生きて、こうして同じ場所にいられるだけで、毎日が特別なんだ」
健気で可愛い黒鋼の恋人は、そう言ってふわりと微笑んで見せた。
End
←戻る ・ Wavebox👏
微かに上下する金色の頭に手を這わせる。
柔らかな手触りの髪はほんのりと癖があって、梳く度に指の隙間をふわふわとくすぐった。
ふと、黒鋼は笑って小さな息を漏らす。
「やっぱり下手だな、おまえ」
ベッドの縁に腰かけた黒鋼の身体の中心に顔を埋めていたファイが、むぅっと唇を尖らせて睨み上げてくる。
「下手じゃないもん。きっとまだ生身の身体に慣れてないから、調子悪いだけだよー」
「いいや、おまえは下手だ」
「半勃ちしてるくせに……」
「そりゃあそうだろ」
「え、わ、ぁ!」
寝室の床に座り込んでいるファイの両脇に両手を差し込み、腕の力だけで引っ張り上げると、すぐに抱え込むようにしてくるりと態勢を引っくり返す。
白いシーツの波間を縫うように金色の髪が広がった。
その表情をまっすぐ見下ろすと、彼はハッとしたように顔を赤らめて視線を背けた。
熱を持った頬に片手を這わせ、眼帯越しに左目があった場所へ口付ければ、ファイはぎゅっと右目を閉じて肩を竦めた。ふと見れば、胸の上で握られた二つの拳が震えている。
「なんだよ。まさか怖ぇのか?」
「こ、怖いっていうか……」
ファイは一度、緩く下唇を噛んだ。
それから胸の上の拳をもじもじと擦りあわせ、潤んだ瞳を彷徨わせる。
「そ、その……こういうの初めてだし……」
「経験あんだろ?」
「あ、る……けど、でも……」
「?」
「好きな人とするのは……初めてだから……」
そう言って、ファイはついに真っ赤な目元を手の甲で隠してしまった。
黒鋼は柄にもなく自分まで顔が赤くなるのを感じて、むっと唇を引き結んだ。
もし今の感情を音にするのなら、きゅん、という可愛らしいものがしっくりくる。それこそキャラじゃないと突っぱねたくなったりしつつ、とにかくもうどうしようもないくらい胸が熱くなるのを感じた。
黒鋼が深く息を漏らすのを、ファイは何か勘違いしたのか、小さくひくりと肩を震わせた。
「……ごめん」
「……なにが」
「めんどくさい奴で、ごめん……」
「馬鹿」
ぼそりと吐き捨てるように言うと、ファイの細い手首を取った。
泣きそうに揺れる、たった一つの青が不安げに見上げてくる。聞けば彼は黒鋼よりも僅かに年上らしいのだが、そのあまりにも余裕のない姿はいっそ小動物めいて見えてしまう。
それだけでもう黒鋼の胸は掻き毟られるようで、先走りそうになる意識をぐっと押し殺した。
掴んだままだった手に唇を寄せると手の平にキスをする。そして、その手を自分の首の後ろへ導くように引き寄せて、ファイの両腕がおずおずと絡みついてくるのを確認してから、白い額に自分の額を押し付けた。
そのまましばらく互いの息遣いを感じながら至近距離で見つめ合った。
「……なぁ」
「ん」
「優しくする」
「うん……」
幾度か音を立てて唇を啄んだ。ファイはまだ身を固くしていたが、伏せた睫毛を震わせながらそれを受け止めていた。
本当の意味で『初めて』なのは、むしろ黒鋼の方だった。
これまでの人生で異性を相手にしたことはあっても、同性とは経験がない。だからある程度はファイに教えを乞うつもりでいた。
が、彼は黒鋼がその白い素肌に触れる度にビクビクと震えるばかりで、とてもそんな余裕はないようだった。
「んっ、ぅ、ッ……!」
上のシャツを脱がせると、性急にならないよう出来る限り優しく手を這わせ、唇で薄い皮膚を辿る。ファイは引き寄せたシーツを口元に押し付けて、必死で声を噛み殺していた。
胸に吸い付くように口付けると、華奢な身体が大きくしなった。早鐘を打つ心臓の音が、唇を通して伝わってくる。
手の平を這わせ、さらにその鼓動を確かめた。しっとりと汗ばんだ肌は、吸い付くような滑らかさで心地がいい。
「ッ、胸、ないよ……」
「阿呆。知ってる」
ただ彼が『生きている』ことを、こうして感じていたかっただけだ。
胸の膨らみなど、あってもなくてもどうでもいい。
ファイが目の前で消えてしまったときの絶望や、生きていると知り、そして初めて抱きしめたときの安堵と感動。黒鋼がどんな思いでいたのか、きっとこの男には分からない。
当たり前のように触れて、熱や鼓動を確かめることがこんなにも幸せなことだったなんて、ファイと出会わなければ一生知らないままだった。
こうしてまた誰かを愛そうとする気持ちさえ、取り戻すことができなかったかもしれない。
「ッ、んっ!」
おうとつのない胸を幾度も撫でながら、小さな粒に口付けた。ファイは顔を背け、ぎゅっと目を閉じてそれに耐える。
「声だせ」
短く命じると、彼はブルブルと首を左右に振った。
そして蚊の鳴くような声を泣きそうに掠れさせて「はずかしい」と言う。
「その恥ずかしい声が聞きてぇんだよ」
黒鋼はにやりと笑ってそう言うと、彼の手からシーツを奪った。あ、という形に口を開いたファイの手首を掴んで、シーツの上に縫い付ける。
わざと大きな音を立てて首筋に吸い付き、片方の胸に手を這わせると乳輪をくるりと悪戯になぞった。小さな胸は感度がいいなんて話を耳にしたことがあるが、噂は真実かもしれない。
ファイはぶるりと大きな身震いをして「ダメ」とか「やだ」なんて言葉を可愛らしく繰り返しては、また首を振った。
その反応に気をよくして、指先で尖りはじめた粒を潰すようにこねながら這わせた唇を下降させてゆく。
じわりと刻印を刻むように白い皮膚に痕を残せば、それはみるみるうちに赤い花弁のように色づいた。
「や、ぁ……」
ファイの吐息も少しずつ甘く掠れ、身体から無駄な力が抜けてゆくのが分かる。まだ羞恥心を捨てきれない、控えめな喘ぎが黒鋼の胸をくすぐった。
蕩けてゆく様に手ごたえを感じながらヘソのくぼみに口付けて、ファイのウエストに手をかけた。寝間着にしている緩いボトムを下着ごと下ろしてゆくと、彼は一度だけ身を固くしたが、すぐに諦めたように長い息を吐き出しながら力を抜いた。自ら膝を上げ、足先を引き抜くようにして黒鋼を補助する。
ファイを生まれたままの姿にしてしまうと、黒鋼もシャツを脱ぎ捨てた。ベッド下に放られるそれを青い右目が追いかける。
彼が気を逸らしている間に、黒鋼は長い両足を割り開くと中心の淡い茂みに指を這わせた。
「ッ!!」
僅かに形を変える性器の根本に生える体毛は、ファイの明るい髪色よりは少しだけ色味の濃い金色だった。
ファイの身体にカッと朱がのぼる。サラサラとしたそれを執拗に撫で続けていた指先を掴まれて、遠ざけられてしまう。
「な、なんで、そんなとこばっか触って……!」
「いや……面白れぇなと」
「面白くないよそんなの!」
「ヒヨコのトサカみてぇだぞ」
「ど、どうせ薄いよバカー!」
可愛い、という言葉を素直に言えない黒鋼の、精一杯の褒め言葉だったのだが。
どうやら言われた方はお気に召さなかったらしい。
なかなか難しいところだなと考えつつ、本人が気に入らないのならこれ以上いじるのは気の毒なので、密かなお気に入りにだけしておこうと思った。
黒鋼は指先を半分ほど勃ちあがっている性器にやった。ゆるく握ると、ファイの腰が大きく跳ねる。
自分のもの以外で男性器に初めて触れたという感覚が、あまりわかなかった。
黒鋼の大きな手の中にあっては、成人男性のそれも子供のおもちゃのようで、これはこれで可愛いかもな、なんて密かに思ってしまう。
違和感もなければ嫌悪感もない自分に安堵しながら、育てるようにゆっくりと緩く扱き、ときおり親指で先端のくぼみを擦った。武骨な手で、出来る限り優しく扱う。
ファイは立てた両膝をガクガクと震わせ、しばらくは声を押し殺そうと必死だった。でも、降参したのかついに泣きながら悲鳴を上げた。
「やぁ、ぁッ! ん、あぁっ……!」
シーツを掻き毟る両手は、もう口元へやられることはなかった。
聞きたくて仕方のなかった恥ずかしい声は高く上擦り、黒鋼の欲求を満たしながらより煽ってゆく。性器を刺激しつつ見上げた表情は切なく歪んで、赤い頬を生理的な涙が伝うさまが堪らなかった。
自然と、黒鋼の漏らす息も熱く湿ったものになってゆく。
「いくか……?」
ファイはきつく目を閉じながらこくとくとしきりに頷いた。
声を抑えられなくなってから、彼の性器は一気に張りつめて先走りが伝い落ちるほどだった。
その滑りを借りて、黒鋼は少しだけ早さと強さを加えてさらにファイを追い詰めた。
「イッ、ちゃ、ぅ! 黒、たんの、ッ、手、きもち……ッ!」
「呼べ。俺の名前」
「ふぁッ、あ! くろ、黒様っ、あ、イッ、く、ッ――……!!」
白い足先がシーツを掻いた。背筋が浮き上がるほどのけぞって、ファイが達する。
赤く熟れたように色づいた性器から白濁の液体が勢いよく噴出して、腹や胸にまで飛び散った。
ファイは幾度か背を反らし、痙攣を繰り返しながら赤い花弁の散る薄い胸を上下させた。最後の一滴まで出しきるのをぐっと息を殺して見守る。やがて黒鋼とファイは同時に長い息を吐き出した。
睫毛を震わせながらゆらりと開かれた右目に誘われるように、身を乗り出すと唇を奪う。華奢な腕が黒鋼の頭をやんわりと抱き込んだ。
「こっから、どうすりゃいい?」
「くろさま……」
「ここ、いけんのか?」
「ッ!」
右手でファイの髪を梳きながら、左手を下肢へ伸ばすと双丘の奥まった場所に中指の腹を押し当てた。
そこは伝い落ちていた先走りですでにほんのりと濡れている。きゅっと窄まるのが指先を通して伝わって、黒鋼は無意識に喉を鳴らした。
ファイの言葉を待たずに、中指を押し込んでみる。つぷ、という音がして、第一関節の引っかかりまでを飲み込ませた。
熱い肉の窄まりは黒鋼の指を拒むどころか、切ないほど締め付けて来た。
「あっ、ぁ、ん!」
黒鋼の肩に縋りながら、ファイがぶるりと震える。吐息だけで「辛いか」と問えば、彼は首を左右に振った。
胸や腹に飛び散っていた体液も使い、その反応を見ながら小さな穴により深く指を押し進めていった。時間をかけて根気よく解しながら、中指に人差し指も添えて飲み込ませる頃、黒鋼はファイが押し込むよりも、引き抜く際に甘い声を漏らすことに気が付いた。
傷つけないように慎重に中へ進み、それから二本の指をバラバラと動かしながら抜いてみる。
「ひぁッ、あっ、ぁッ! それ、や、だ!」
「おまえの嫌ってのは全くアテになんねぇぞ」
「んっ、もぉ、いい……も、いぃ、から!」
たった二本の指をこれだけキツく食んでくる場所への準備が、この程度でいいのだろうか。
黒鋼は多少戸惑いつつ、本音を言えば自分自身もそろそろ辛いところだった。
ひとまず指を引き抜けば、ファイはホッと安堵の息を漏らした。
「クッション、取ってもらっていい?」
ファイの言う通り、黒鋼は枕の側にあったクッションを一つ手に取って渡した。
すると彼は自分の腰を浮かして、クッションを下に敷いて調節しはじめる。
「楽か。それやると」
「うん……。あのね、他の人とはバックしかやったことないの……ほんとはその方が楽だし、なんか……見られるのやだったし。でも」
ファイは黒鋼を見上げ、ふにゃんと情けなく笑って言った。
「恥ずかしいけど、黒たんの顔が見たいから。このまましよ」
「……おまえってやつは、いちいち……」
「?」
「もういい。黙ってろ阿保」
いちいち人の心の的を貫いてくる。
相手の経験値やその人数を気にしたことはないけれど、ただの性欲処理ではなく、この男を初めて『愛する』のが自分だと思うと、いっそ鳥肌が立つほどの歓喜を覚えた。
黒鋼は大きく息を吐き出すと、ファイの膝を掴んでぐっと押し広げる。そしていったん仕舞われていた自身を片手で取り出し、情けなく滲む先走りを馴染ませるように一度、竿を扱いた。
一秒でも早く繋がりたくて、それは脈打ちながらぐんと反り返っていた。
ファイが息を呑むのが分かる。ふっと目をやれば、蕩けたような視線が物欲しげに揺れているから、笑ってしまう。
「なんつう目で見てんだ」
からかうように言う黒鋼に、ハッとしたファイは慌てて目を逸らす。
「ご、ごめん」
「やるよ。全部」
しっとりと濡れた穴に、幾度か先端を擦り付けると押し当てた。
小さな尻の肉がひくっと痙攣して僅かに強張る。力を抜けとわざわざ命じずとも、彼は必死にそれをしようと浅く深呼吸を繰り返していた。
緊張に震えそうになる息をぐっと飲み込んで、黒鋼はファイの両足を抱えてゆっくりと腰を前進させた。
「ッ――!!」
黒鋼は想像以上の圧迫感に、ファイは予想以上の質量に、同時に喉を詰まらせた。
もっとも敏感な先端部分をぎゅっと肉壁に食われるだけで、すべて持っていかれそうになる。果たしてこのこぢんまりとした穴に、全て納めきることは出来るのだろうか。あるいは、それまで自分がもつかどうか。
果てしなく自信がないが、ひたすら歯を食いしばって耐えるしかない。
「うぁ……ッ! ア、ぁッ! くろ、さま、黒様ぁ……!」
ファイは何度も黒鋼の名を呼んだ。伸びて来た白い両腕へ飛び込むように、黒鋼は身体を前へ倒すと、覆いかぶさるようにしてその身を強く抱き込む。
黒鋼が腰を進める度に彼の爪が背中に食い込むのを感じた。強張る身体から、相当の無理をさせていることが伝わってくる。
「おい、もう……」
やめておくかと、黒鋼が言う前にファイが「嫌」と叫んだ。アテにならないとばかり思っていたそれが、今は鬼気迫って聞こえる。
「ぜんぶ、くれるって言った!」
「だが」
「奥まで入れて……オレも、ぜんぶ黒たんにあげたい……」
「ッ……!」
ああもう、本当に。気が狂いそうだ。
誰かを愛しいと感じて、そして愛されて、これほどまでに胸が苦しいことなどあっただろうか。
黒鋼は「ちくしょう」と低く吐き捨て、意を決して一気に腰を突き入れた。
「ヒ、ぁ……――ッ!!」
ファイの首が仰け反る。上擦った声には苦痛の色が滲んでいた。痛みを引き受けることができない代わりに、黒鋼はただ強く彼を抱きしめる。
すぐにでも動き出したいのを堪えて、その呼吸が落ち着くまでずっと額に唇を押し付け続けた。
食いちぎられそうなほどの締め付けに慣れるのには、時間がかかりそうだった。それでもゆっくりと、少しずつ中に馴染んでゆくのを感じる。熱い媚肉がずっと奥深い場所に至っているにも関わらず、さらに誘い込むように蠢いていた。
「全部、もらったからな」
乱れそうになる息で、そっと耳元で囁く。ファイはこくりと頷いて、「オレも」と言った。
それを合図に、黒鋼は奥を探るような慎重さで腰をゆっくりと揺り動かす。
ファイはか細い悲鳴を上げながら、その動きに合わせてカクン、カクン、とシーツの上を上下に揺れた。
「ぁ、ぁ、は……んぁ、あ、ぁっ……」
決して乱暴にしないよう、労わりながらファイの表情を窺う。そこから徐々に苦しげな色が薄れて、ずっと閉じられていた右目が半分だけ開かれる。とろん、と蕩けているのが分かった。
黒鋼は、小刻みに揺するだけだった動きを少しずつ深いものにしていった。最初は半分だけ、そして時間と共に先端まで引き抜いてはまた押し込める。ファイの両足が離さないとばかりに黒鋼の腰に巻き付いた。
火傷しそうなほど熱い内壁が、容赦なく絡みついてくる。鈍い水音と荒々しい黒鋼の呼吸と、ファイの嬌声が重なり合っていた。
「やぁ、ぁ! だ、め、だめ……も、だめ、ぇ」
「駄目? 何が駄目か言わなきゃわかんねぇぞ」
「ぁ、やッ、す、き、好き……ッ、ん、ぁ! だめ、黒、たん……!」
まるでそれしか知らないみたいに、ファイは嫌とダメと、好きと黒鋼の名前を繰り返しながら喘いだ。
気づけば黒鋼の腹に彼の勃起した性器が当たっていた。蜜を零しながら、揺さぶるたびに健気に震える。
やっぱりアテにならねぇなと笑いながら、全ての快楽を分かち合うように、深く唇を重ね合わせる。
舌を交わらせながらファイが切なげに呻き声を発し、黒鋼の皮膚に食い込む爪の力が強まった。
「ぅんっ、ぅ! んんん……――ッ!!」
腕の中の身体がビクンと大きく跳ね上がり、挟まれるようにして張りつめていた性器から二度目の飛沫が上がった。
「ッ、ぅ……!!」
一瞬遅れて黒鋼もぐっと喉を詰まらせながら唸った。
絡まるファイの両足が腰を離さず、考える間もなく射精感に身を任せる。最も深い場所に、黒鋼は全てを出し切った。
まとわりつく余韻に身を震わせ、二人は抱き合ったまましばらく動くことができなかった。
はかはかと繰り返される忙しない呼吸に耳を傾けながら、尽きることのない愛おしさに胸が張り裂けそうになる。
そうして過ぎるほど満たされる中で、黒鋼はこの時を絶対に手放すものかと固く胸に誓う。
「……離さねぇからな」
「黒様……?」
「消えるなよ。もう二度と」
目を見開いたファイは青い瞳を揺らしながら、泣きそうな声で「うん」と返事を寄越した。
*
「お母さんに……」
シーツにくるまり、少しだけ眠って起きたあと。
黒鋼の腕を枕にしたファイがぽつりと言った。その声は少しだけ枯れて、語尾が不安定に掠れている。
「お袋がどうした」
「ん……ちゃんと挨拶、しに行きたいなぁって。隠れてるばっかで、失礼なことしちゃったでしょ?」
確かになと返しつつも、おそらくあの母親は気にしちゃいないだろうと思った。
むしろ彼女はファイが生きていることに気付いていたはずだ。すっかり手の平で弄ばれたような気がして、息子としては多少不貞腐れた気分である。
そんなことなど知りもしないファイは、今度はちゃんとスーツを着てくべきかな、なんて細かいことを気にしている。意外に真面目な面を見せられた気がした。
「なぁ、それもいいが」
あーだこーだと独り言を垂れているファイの、ほんのり汗ばんだ髪に指を通す。
頭皮を滑る指先の感触が心地いいのか、ファイは猫のように目を細めて「んー」と間の抜けた返事をした。
「どっか旅行でも行かねぇか」
「ふえ?」
「いつ……ってのはまだ、具体的に約束はできねぇが……」
「い、行く!!」
くったりと黒鋼の腕に納まっていたはずの身体が、勢いよく弾かれたように身を起こす。
だが、すぐに腰に鈍痛が走ったのか、「イタッ」と声を発して顔を顰めた。
「ばかやろう、無理すんな」
「大丈夫ー!」
ファイは心底嬉しそうにぱぁっと笑って、黒鋼の胸に乗り上げるように飛びついて来た。胸と胸が合わさって、自分のものより少しだけ早い鼓動が感じられる。
どれほど彼が胸を弾ませているかが窺い知れて、黒鋼は小さく笑うとその頬を猫にでもするようにちょこちょこと指でくすぐった。
「どこがいい?」
肩を竦めながらクスクスと笑っていたファイは、黒鋼の手を取ると指先に軽やかな音をたててキスをする。そして、「どこだっていいよ」と言って右目を細めた。
「なんだよ。喜んだ割に投げやりだな」
「うぅん。だってホントに、どこだっていいんだもん」
骨ばった大きな手の平と、白い華奢な手の平がぴったりと重なり合った。祈るような形に指を曲げて、握り合う。
確かな感触が温もりを乗せて身体中に流れ込んでくる。
鼓動と、熱と、愛しさと。命と。
905号室の怪異がもたらした出会いと別れが、出会うはずのなかった二人を幸福で包み込む。
「生きて、こうして同じ場所にいられるだけで、毎日が特別なんだ」
健気で可愛い黒鋼の恋人は、そう言ってふわりと微笑んで見せた。
End
←戻る ・ Wavebox👏
つづれ織る日々
「ファイ……ファイ……!?」
暗い暗い闇の底から、ゆっくりと浮上したファイが真先に聞いたのは、弟の声だった。
ピクリと動かした指先を取られ、強く握り締められる。
まだハッキリとしない意識で、ファイは右目を声のする方へ向けた。
薬品の香りと、ユゥイの泣き顔。
弟の泣いた顔なんて、子供の頃以来ずっと見ていない。
「ユゥイ……?」
「おはようファイ……おはよう……」
おはよう。それは目覚めの言葉。ファイは小さく、首を傾げた。
「……寝てた?」
「そうだよ……ずっと寝てたんだよ……半年も、ずっと」
「はんとし」
意識はいまだに霧がかかったように薄ぼんやりと彷徨うばかりだった。
ただ、異常な喉の渇きと身体の重さだけが圧し掛かる。
「ファイ……?」
気づくと、ファイは泣いていた。
涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
「夢を」
「夢……?」
「うん……ずっと、夢を見ていたよ……」
大好きな人と一緒にいる、幸せな夢を。
*
「黒たーん! 早く行かないと遅刻しちゃうよー!」
朝食で使った食器を洗いながら、寝室へ向かって声をかける。
すぐに鞄を手に出て来た黒鋼は表情こそむっつりとしているが、本当は少し焦っているに違いない。朝はたった5分でも命取りになる。いつもならとっくに家を出ている時間だった。
「あぁ待って! お弁当忘れてるってば!」
「おう、悪い」
「待って待って! ネクタイ曲がってるよ!」
カウンター越しに青いハンカチで包んだ弁当箱を渡し、そのまま出て行こうとする黒鋼の襟を引っ張る。腕時計を見やる彼のネクタイをサッと正して、よし、と呟くと今度はこちらがシャツの胸倉を掴まれて引っ張られた。
「ッ!」
一瞬だけ唇が触れて、ファイはほんの数秒硬直したあと、真っ赤な顔で息を呑む。
黒鋼はふん、と少し意地悪そうに鼻で笑った。不意打ちが成功すると、彼は決まってこういう笑い方をするから、食らう方としてはちょっと悔しい。
「おまえも今日は取材だったな」
「う、うん。午後からだから帰りは同じくらいか……ちょっと遅くなるかも」
「そうか」
「晩ご飯、適当に済ませちゃってね」
「……わかった。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい!」
リビングを出て行く黒鋼の背に向かって、カウンターに乗り出して思い切り手を振った。
五月。
病院を退院したファイは元々暮らしていた、そして今は黒鋼がいるマンションへ戻って来ていた。
病院のベッドで目覚めた時、ファイは黒鋼と過ごした時間を夢だとばかり思い込んでいた。
自分の理想のタイプが目の前に現れて、恋人として生活するなんて、あまりにも都合がよすぎてただ虚しいだけだった。だから黒鋼と中庭で再会したとき、ファイはまだ夢の中にいるような気分だった。
そもそも今にして思えば、うだうだせずにユゥイの様子を見に行っていればよかったのだ。
そうしたら自分がしっかり生きていて、幽体離脱しているだけだとすぐに分かったのに。
黒鋼も事あるごとにそれを言う。それだけ悲痛な思いをさせてしまったのだと思うと申し訳ないが、実は少し嬉しかったりもする。
自分が死者であると思い込んでいた以前に、ファイは黒鋼が同じだけの思いを返してくれるなんて、それこそ夢にも思っていなかったから。
「さーて、お茶でも飲んでひと息つこうかなー」
片付けを終えたファイはハンドタオルで両手を拭きながら、リビングの壁掛け時計を見やる。
あらかじめ水を入れておいたカウンターの電気ポットにスイッチを入れて、カップや紅茶の缶などを用意する。だがそこで、テーブルの上に置きっぱなしだった携帯が鳴った。
ファイは慌ててカウンターを迂回すると、携帯を取って通話ボタンを押す。
「はいはーい」
『おはよ、ファイ』
着信はユゥイからのものだった。ファイは同じく「おはよーユゥイー」と笑顔で返し、携帯を耳に押し当てたままソファに腰かける。
『今日の調子はどう?』
「元気だよー! 今ね、朝ご飯の片付け終わらせたとこー」
じゃあいいタイミングだったねと、受話器越しでユゥイが笑った。
彼はファイが退院してこのマンションに戻ってから、こうして毎日のように電話をかけて寄越すようになっていた。
以前は便りがないのは良い便りとばかりにベタベタするような関係ではなかったのが、事故後はすっかり心配する癖が身に付いたのか、一日一回は安否確認をされるようになってしまった。
心配のしすぎでそのうちハゲてしまうんじゃないかと、むしろこちらが心配になる。
でも、それもやっぱり仕方がないのかもしれない。
本当は退院後、昔のように兄弟揃って暮らす予定でいた計画も狂わせてしまったし、あの事故で、ファイは左目を失う結果になってしまった。
今は閉じてしまった瞼を眼帯で隠しているが、もうじき義眼を入れることになっている。
それでも視力が戻るわけではないし、常に側で見ていられないのは不安で仕方がないのだろう。
だが、弟は黒鋼と面識がある。悪い印象は持っていないようだった。ユゥイと黒鋼が偶然顔を合わせなかったら、自分たちの再会はまだずっと先か、永遠に互いの存在に気付かないままだったかもしれない。
『彼とは上手くいってるの?』
「え!」
『赤くならなくていいよ』
まるで側で見ているような口ぶりだが、実際のところファイはついさっき奪われた唇の感触を思い出して赤面していた。
「い、いってるよー。仲良くしてもらってる」
『ならよかった。あからさまにファイの好みのタイプだもんね』
「えへへへー」
『あんまり心配かけないようにね。目のこともあるんだから、外を歩くときは特に気を付けて』
「わかってるよぅ」
それは耳にタコができるほど聞かされている。
でも実のところ、彼が心配するほどファイは片目だけの生活に不便を感じてはいなかった。この状態で飛び回っていた生活は無駄ではなかったようで、もはや全く違和感がない。
仕事へも思っていた以上に早く復帰できて、部屋に缶詰になるか、取材や打ち合わせで一日中家を空けることも多くなっていた。
幽霊もどきだった頃はただのんびりと黒鋼の帰りを待っていればよかったが、今はそういうわけにもいかない。
『じゃあ、ボクはそろそろ時間だから切るね』
ほぼ日課になっている注意喚起をするだけして、スッキリしたらしい。清々しい笑顔が目に浮かぶようだった。
「うん。忙しいのにいつもごめんね」
『ごめんねより、ありがとうの方が嬉しいかな』
「あはは、そだね。ありがと」
『今度ふたりでおいで。ちゃんと挨拶させてよ』
「うん……今度ね」
じゃあねと同時に言って、ファイは双子の弟との通話を終えた。
ふぅ、と息をつきながらソファの背もたれに頭部を預け、天井を見上げる。
「挨拶、かー」
黒鋼も残業や休日出勤が当たり前の仕事ぶりなので、こうして一緒に暮らしていても、なかなか二人でゆっくりと過ごせる時間には恵まれていない。
眠る時間もバラバラだったりして、タイミングが合ったとしてもぴったりとくっつきながらすぐに眠りに落ちてしまう。
ゆっくり外で食事を楽しむなんて機会も、頼めばどうにかして時間を作ってくれるかもしれないが、負担になるような真似はさせたくなかった。
それでもファイは十分すぎるほど毎日が幸せだった。
黒鋼はいつも帰りが遅いくせに、ファイが家にいる日は必ず遅くなるというメールを寄越す。そんなことくらい知っているのだから、いちいち連絡を寄越すこともないのに。
あの大きな手でちまちまとメールを打っているのかと思うと、可愛すぎてどうしたらいいか分からない。
でも、それがもし『前』の失敗を踏まえてのことなのだとしたら、無理をしているのではないかと少し不安にもなった。
だからこちらからは、なかなか彼の生活スタイルに口出しできない。
仕事で遅いのか、それとも付き合いで遅いのか、気になっても確認することは躊躇われる。
結局、まだ半分幽霊だった頃の気持ちが抜けないのだと思う。もはや踏み込んで壊れる関係ではないのだと信じたいのに。
多分、ファイにはあの女の生霊の気持ちがよく分かる。
ファイには今までの人生で特定の相手というものがいなかったから、黒鋼と付き合うようになって初めて自覚した。
自分はバカみたいにヤキモチ焼きで、すぐに不安になってしまう性分だということを。
黒鋼はファイにとってまさに理想を形にしたような男だった。
だから贔屓目で見てしまうのかもしれない。それでも、あれだけの男前なら引く手数多に違いないし、彼は元々ノンケである。
そんな相手をどこまで繋ぎとめていられるのか、ファイには正直自信がない。
飽きられたらどうしようとか、やっぱり男は無理だと捨てられたらどうしようとか。
今がいつまで続くのだろうかと、考え出すと眠れなくなったりもする。
幸せすぎると怖くなるなんて。
よく聞く話だ。
恋人なんて諦めていたから、きっと無縁の人生を送ることになるだろうと諦めていたファイは、まさに降って湧いたような幸福が怖くなる。
こんな風にいちいち不安になってしまう面倒臭い自分を知られたら、呆れられてしまうのではないか。
「はぁ……オレって鬱陶しいなぁ……」
情けなくて、溜息と一緒にさらに深くソファに沈み込む。そしてすぐに紅茶を飲もうとしていたことを思い出し、のろのろと立ち上がった。
だがそこで、手の中で握りっぱなしだった携帯が再び音を立てた。
画面を見ると、メールが一件。
「黒たん?」
それはつい今しがた出て行ったばかりの黒鋼からだった。
『件名:言い忘れてた
本文:寄り道なんかして遅くなるんじゃねぇぞ。気をつけて行ってこい。』
それを見て、ファイは身体から力が抜けるような気がした。
前と違って重力に逆らないながら生きる身体は、あっけないほど簡単に崩れ落ちて、ぼすんという音と共に再び座り込んでしまった。
時間帯から察するに今、黒鋼は朝の満員電車に押し潰されそうになっているに違いなかった。そんな中でわざわざメールを、あの大きな手で、チマチマと……。
もしかしたら、あの男はああ見えて元からマメな性格なのかもしれない。そして多分、過保護だ。
なんだか一人で悶々としていたのが一瞬で馬鹿らしくなってくる。
「もう……なんなのこの人!」
頬が熱い。だから不安になるのに、怖くなるのに。それなのに、この面倒で鬱陶しい感情と、ずっと付き合っていたいとも思ってしまう。
それは光と影のように。朝と夜のように。表があるから、裏があるように。
何も特別なんかじゃない、ありふれた日常のありふれた言葉や出来事が、ちょっとしたことですぐにこびりつく錆のような不安を、真新しいペンキで塗り潰す。その繰り返し。
ファイは零れる笑みを抑えきれないまま、手早くメールに返信した。
そして他に誰がいるわけでもないのに、「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら元気よく再び立ち上がった。
『件名:Re:言い忘れてた
本文:愛してる!』
←戻る ・ 次へ→
「ファイ……ファイ……!?」
暗い暗い闇の底から、ゆっくりと浮上したファイが真先に聞いたのは、弟の声だった。
ピクリと動かした指先を取られ、強く握り締められる。
まだハッキリとしない意識で、ファイは右目を声のする方へ向けた。
薬品の香りと、ユゥイの泣き顔。
弟の泣いた顔なんて、子供の頃以来ずっと見ていない。
「ユゥイ……?」
「おはようファイ……おはよう……」
おはよう。それは目覚めの言葉。ファイは小さく、首を傾げた。
「……寝てた?」
「そうだよ……ずっと寝てたんだよ……半年も、ずっと」
「はんとし」
意識はいまだに霧がかかったように薄ぼんやりと彷徨うばかりだった。
ただ、異常な喉の渇きと身体の重さだけが圧し掛かる。
「ファイ……?」
気づくと、ファイは泣いていた。
涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
「夢を」
「夢……?」
「うん……ずっと、夢を見ていたよ……」
大好きな人と一緒にいる、幸せな夢を。
*
「黒たーん! 早く行かないと遅刻しちゃうよー!」
朝食で使った食器を洗いながら、寝室へ向かって声をかける。
すぐに鞄を手に出て来た黒鋼は表情こそむっつりとしているが、本当は少し焦っているに違いない。朝はたった5分でも命取りになる。いつもならとっくに家を出ている時間だった。
「あぁ待って! お弁当忘れてるってば!」
「おう、悪い」
「待って待って! ネクタイ曲がってるよ!」
カウンター越しに青いハンカチで包んだ弁当箱を渡し、そのまま出て行こうとする黒鋼の襟を引っ張る。腕時計を見やる彼のネクタイをサッと正して、よし、と呟くと今度はこちらがシャツの胸倉を掴まれて引っ張られた。
「ッ!」
一瞬だけ唇が触れて、ファイはほんの数秒硬直したあと、真っ赤な顔で息を呑む。
黒鋼はふん、と少し意地悪そうに鼻で笑った。不意打ちが成功すると、彼は決まってこういう笑い方をするから、食らう方としてはちょっと悔しい。
「おまえも今日は取材だったな」
「う、うん。午後からだから帰りは同じくらいか……ちょっと遅くなるかも」
「そうか」
「晩ご飯、適当に済ませちゃってね」
「……わかった。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい!」
リビングを出て行く黒鋼の背に向かって、カウンターに乗り出して思い切り手を振った。
五月。
病院を退院したファイは元々暮らしていた、そして今は黒鋼がいるマンションへ戻って来ていた。
病院のベッドで目覚めた時、ファイは黒鋼と過ごした時間を夢だとばかり思い込んでいた。
自分の理想のタイプが目の前に現れて、恋人として生活するなんて、あまりにも都合がよすぎてただ虚しいだけだった。だから黒鋼と中庭で再会したとき、ファイはまだ夢の中にいるような気分だった。
そもそも今にして思えば、うだうだせずにユゥイの様子を見に行っていればよかったのだ。
そうしたら自分がしっかり生きていて、幽体離脱しているだけだとすぐに分かったのに。
黒鋼も事あるごとにそれを言う。それだけ悲痛な思いをさせてしまったのだと思うと申し訳ないが、実は少し嬉しかったりもする。
自分が死者であると思い込んでいた以前に、ファイは黒鋼が同じだけの思いを返してくれるなんて、それこそ夢にも思っていなかったから。
「さーて、お茶でも飲んでひと息つこうかなー」
片付けを終えたファイはハンドタオルで両手を拭きながら、リビングの壁掛け時計を見やる。
あらかじめ水を入れておいたカウンターの電気ポットにスイッチを入れて、カップや紅茶の缶などを用意する。だがそこで、テーブルの上に置きっぱなしだった携帯が鳴った。
ファイは慌ててカウンターを迂回すると、携帯を取って通話ボタンを押す。
「はいはーい」
『おはよ、ファイ』
着信はユゥイからのものだった。ファイは同じく「おはよーユゥイー」と笑顔で返し、携帯を耳に押し当てたままソファに腰かける。
『今日の調子はどう?』
「元気だよー! 今ね、朝ご飯の片付け終わらせたとこー」
じゃあいいタイミングだったねと、受話器越しでユゥイが笑った。
彼はファイが退院してこのマンションに戻ってから、こうして毎日のように電話をかけて寄越すようになっていた。
以前は便りがないのは良い便りとばかりにベタベタするような関係ではなかったのが、事故後はすっかり心配する癖が身に付いたのか、一日一回は安否確認をされるようになってしまった。
心配のしすぎでそのうちハゲてしまうんじゃないかと、むしろこちらが心配になる。
でも、それもやっぱり仕方がないのかもしれない。
本当は退院後、昔のように兄弟揃って暮らす予定でいた計画も狂わせてしまったし、あの事故で、ファイは左目を失う結果になってしまった。
今は閉じてしまった瞼を眼帯で隠しているが、もうじき義眼を入れることになっている。
それでも視力が戻るわけではないし、常に側で見ていられないのは不安で仕方がないのだろう。
だが、弟は黒鋼と面識がある。悪い印象は持っていないようだった。ユゥイと黒鋼が偶然顔を合わせなかったら、自分たちの再会はまだずっと先か、永遠に互いの存在に気付かないままだったかもしれない。
『彼とは上手くいってるの?』
「え!」
『赤くならなくていいよ』
まるで側で見ているような口ぶりだが、実際のところファイはついさっき奪われた唇の感触を思い出して赤面していた。
「い、いってるよー。仲良くしてもらってる」
『ならよかった。あからさまにファイの好みのタイプだもんね』
「えへへへー」
『あんまり心配かけないようにね。目のこともあるんだから、外を歩くときは特に気を付けて』
「わかってるよぅ」
それは耳にタコができるほど聞かされている。
でも実のところ、彼が心配するほどファイは片目だけの生活に不便を感じてはいなかった。この状態で飛び回っていた生活は無駄ではなかったようで、もはや全く違和感がない。
仕事へも思っていた以上に早く復帰できて、部屋に缶詰になるか、取材や打ち合わせで一日中家を空けることも多くなっていた。
幽霊もどきだった頃はただのんびりと黒鋼の帰りを待っていればよかったが、今はそういうわけにもいかない。
『じゃあ、ボクはそろそろ時間だから切るね』
ほぼ日課になっている注意喚起をするだけして、スッキリしたらしい。清々しい笑顔が目に浮かぶようだった。
「うん。忙しいのにいつもごめんね」
『ごめんねより、ありがとうの方が嬉しいかな』
「あはは、そだね。ありがと」
『今度ふたりでおいで。ちゃんと挨拶させてよ』
「うん……今度ね」
じゃあねと同時に言って、ファイは双子の弟との通話を終えた。
ふぅ、と息をつきながらソファの背もたれに頭部を預け、天井を見上げる。
「挨拶、かー」
黒鋼も残業や休日出勤が当たり前の仕事ぶりなので、こうして一緒に暮らしていても、なかなか二人でゆっくりと過ごせる時間には恵まれていない。
眠る時間もバラバラだったりして、タイミングが合ったとしてもぴったりとくっつきながらすぐに眠りに落ちてしまう。
ゆっくり外で食事を楽しむなんて機会も、頼めばどうにかして時間を作ってくれるかもしれないが、負担になるような真似はさせたくなかった。
それでもファイは十分すぎるほど毎日が幸せだった。
黒鋼はいつも帰りが遅いくせに、ファイが家にいる日は必ず遅くなるというメールを寄越す。そんなことくらい知っているのだから、いちいち連絡を寄越すこともないのに。
あの大きな手でちまちまとメールを打っているのかと思うと、可愛すぎてどうしたらいいか分からない。
でも、それがもし『前』の失敗を踏まえてのことなのだとしたら、無理をしているのではないかと少し不安にもなった。
だからこちらからは、なかなか彼の生活スタイルに口出しできない。
仕事で遅いのか、それとも付き合いで遅いのか、気になっても確認することは躊躇われる。
結局、まだ半分幽霊だった頃の気持ちが抜けないのだと思う。もはや踏み込んで壊れる関係ではないのだと信じたいのに。
多分、ファイにはあの女の生霊の気持ちがよく分かる。
ファイには今までの人生で特定の相手というものがいなかったから、黒鋼と付き合うようになって初めて自覚した。
自分はバカみたいにヤキモチ焼きで、すぐに不安になってしまう性分だということを。
黒鋼はファイにとってまさに理想を形にしたような男だった。
だから贔屓目で見てしまうのかもしれない。それでも、あれだけの男前なら引く手数多に違いないし、彼は元々ノンケである。
そんな相手をどこまで繋ぎとめていられるのか、ファイには正直自信がない。
飽きられたらどうしようとか、やっぱり男は無理だと捨てられたらどうしようとか。
今がいつまで続くのだろうかと、考え出すと眠れなくなったりもする。
幸せすぎると怖くなるなんて。
よく聞く話だ。
恋人なんて諦めていたから、きっと無縁の人生を送ることになるだろうと諦めていたファイは、まさに降って湧いたような幸福が怖くなる。
こんな風にいちいち不安になってしまう面倒臭い自分を知られたら、呆れられてしまうのではないか。
「はぁ……オレって鬱陶しいなぁ……」
情けなくて、溜息と一緒にさらに深くソファに沈み込む。そしてすぐに紅茶を飲もうとしていたことを思い出し、のろのろと立ち上がった。
だがそこで、手の中で握りっぱなしだった携帯が再び音を立てた。
画面を見ると、メールが一件。
「黒たん?」
それはつい今しがた出て行ったばかりの黒鋼からだった。
『件名:言い忘れてた
本文:寄り道なんかして遅くなるんじゃねぇぞ。気をつけて行ってこい。』
それを見て、ファイは身体から力が抜けるような気がした。
前と違って重力に逆らないながら生きる身体は、あっけないほど簡単に崩れ落ちて、ぼすんという音と共に再び座り込んでしまった。
時間帯から察するに今、黒鋼は朝の満員電車に押し潰されそうになっているに違いなかった。そんな中でわざわざメールを、あの大きな手で、チマチマと……。
もしかしたら、あの男はああ見えて元からマメな性格なのかもしれない。そして多分、過保護だ。
なんだか一人で悶々としていたのが一瞬で馬鹿らしくなってくる。
「もう……なんなのこの人!」
頬が熱い。だから不安になるのに、怖くなるのに。それなのに、この面倒で鬱陶しい感情と、ずっと付き合っていたいとも思ってしまう。
それは光と影のように。朝と夜のように。表があるから、裏があるように。
何も特別なんかじゃない、ありふれた日常のありふれた言葉や出来事が、ちょっとしたことですぐにこびりつく錆のような不安を、真新しいペンキで塗り潰す。その繰り返し。
ファイは零れる笑みを抑えきれないまま、手早くメールに返信した。
そして他に誰がいるわけでもないのに、「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら元気よく再び立ち上がった。
『件名:Re:言い忘れてた
本文:愛してる!』
←戻る ・ 次へ→
夢じゃない
ファイが消えてから、一ヶ月近くが経過していた。
四月下旬。瑞々しい若葉が街のいたる所で生い茂っている。
季節の移り変わり感じながら、カレンダーを見る度にまだひと月しか経っていないのかと不思議な気持ちになった。
誰もいない905号室はあまりにも広く、暗く、そして静かだった。もう何年もずっと一人きりでいるような孤独が、黒鋼をただ我武者羅に仕事へと駆り立てていた。
その日は休日で、黒鋼は珍しくゆっくりと眠って起きた。
普段の土日は放っておいても携帯が鳴り、仕事に費やされることがほとんどだが、今朝はそれがない。今の黒鋼にとっては少し残念なことだった。
胸にぽっかりと空いた穴を埋めるための仕事がないとなると、他で気を紛らわすしかない。
だとしてもいつ連絡がくるかは分からないため遠出はできないが、黒鋼はふらりと外へ出かけることにした。
とはいえ、日頃仕事にばかり明け暮れていると、オフの日の有効な時間活用が難しくなる。
何を趣味としていたのだったか、どこへ行けばいいのか、何も考えずに外に飛び出した黒鋼は結局迷った。
だが、すぐに元々ずっと好きだったのは身体を動かすことだと思い出し、長らく通っていなかった行きつけのジムへ行き、思い切り汗を流した。
そうして帰りにスーパーへ寄って日持ちしそうな食糧を買い、ブラブラと歩いて帰る頃には夕方になっていた。
マンションのエントランスがすぐ目の前というところで足を止めた黒鋼は、あの街路樹下の献花に目を向けた。
これを視界にとらえる度に、ファイと出会い、そして過ごした一ヶ月間を思い出す。
ここは彼がその生涯を閉じることになった場所。同時に自分たちが不思議な出会いを果たすことになったキッカケでもある。
無意識に辛気臭い息を漏らした黒鋼は、何度か頭を振って重苦しいものを追い払った。
ファイは未練を手放して成仏したのだ。自分がそれに憑りつかれ、立ち止まったままでいてどうするのかと。
黒鋼は献花から目を逸らすと、顔を上げて歩き出した。
どこかへ外食でもしに行くのか、若い夫婦が赤ん坊を連れてエントランスから出てくる。
なんとはなしにそれをチラリと見ながらすれ違い、ガラス張りの扉に手をかけ、中に入った。
そのときだった。
黒鋼は目に飛び込んできた人物を見て、ぐっと息をつめた。
観葉植物の置かれた白御影石のホールの向こう。
管理人室から出て来たと思しきその男は、真っ直ぐにこちらに向かって歩いてきた。
ドクンと、心臓が大きく高鳴った。そんな馬鹿なという思いが、黒鋼の身体を縛り付けて動けなくする。
そして足を止めたまま硬直する黒鋼の横を、問題の人物が通り過ぎようとした。
「ッ、おい!」
黒鋼は、その白く華奢な手首に手を伸ばし、咄嗟に声をかけていた。
「?」
男は、金色の艶やかな髪に清んだ青い瞳を持っていた。
記憶の中よりは少し髪が長く、大人びた印象を受ける。けれど、目の前にいる人間は間違いなくファイと同じ顔の作りをしていた。
「なにか?」
手首を掴んだまま一言も発せないでいる黒鋼に、彼は戸惑ったように小首を傾げた。
その声も、記憶の中にあるものと全く同じ。違うのは髪の長さと、左目の色だけだ。
似すぎているというだけで、別人なのだろうか。確かに目の前の男から受ける印象は、ファイのものと比べてずいぶんと落ち着いている。
そもそも、この人物はこちらの存在をまるで知らないようだった。
ハッとして、腕を解放する。
「悪い……よく知ってるやつに、似てたもんだからよ」
まだどこかで『もしや』という思いを捨てきれないながらも、黒鋼は男から目を逸らした。
ファイであるはずがない。彼はすぐそこの道路で事故に遭い、死んでしまったのだから。その魂が消えゆくさまを、この目でしっかりと見届けた。
「……あの」
さっさと部屋へ戻ろうと一歩踏み出した黒鋼を、男が止める。
彼は幾度か瞬きをして、やんわりと微笑んだ。
「もしかして、兄をご存知ですか?」
*
心臓がずっと、早鐘のようにドクドクと鳴り続けていた。
人が多く行き交う大通りを、黒鋼は目的地へ向かって脇目もふらず全力で駆け抜ける。
溢れる感情に、胸が破裂しそうだった。早く早くと、急いては通行人と肩がぶつかりそうになった。
神に縋ったことなんて一度もなかった。ファイを失ったときですら、ただあるがままを受け入れるしかなかった。
今だって決して彼は『逃げない』。それでも間に合えと、一秒でも早くと、誰も俺の行く手を阻んでくれるなよと。
ファイによく似た男は、自らを『ユゥイ』と名乗った。
エントランスホールの片隅に設置された長椅子に腰かけながら、黒鋼はすぐ隣の男をまじまじと眺め、やがて納得した。
彼らは双子だったのだ。弟がいると、ファイは言っていた。双子とまでは聞かされていなかったが、これだけ似ていれば驚くのも当然だった。
そして黒鋼は真実を聞かされることになった。
――ファイは生きているということ。
事故の夜からずっと、彼は意識不明のまま半年もの間、眠り続けていた。
目を覚ましたのはちょうど一ヶ月ほど前のことだった。
『少し落ち着いてきたので、こちらの管理人さんにご報告に。とても心配してくださっていたので』
そういうことだったのかと、黒鋼はさらに納得した。
あんなことになるなんてと涙を流していた彼女は、意識が戻らないファイの身を案じていたのだ。そして、あの献花は衝突事故で命を落としたバイクの持ち主に手向けられたものだった。ファイへのものでは、なかった。
なんという運命の悪戯だろうか。死んだから会えたなんて、そんなものは嘘だった。
生きていたからこそ、黒鋼はファイに出会った。
『よかったら行ってあげてください。まだ少しぼんやりしてますけど……元気ですから』
そう言って、ユゥイはファイのいる病院と部屋番号を告げた。
レストランのオーナーを務めているという彼は、これから店へ戻らなければならないと言った。
『今度、食べにきてくださいね』
ユゥイが見せた笑顔はやっぱりファイのものとは少し違っていたけれど、兄が無事に目を覚ましたことへの安堵が優しく滲み出ていた。
ユゥイから聞いた病院は街外れにある総合病院だった。
日を改めてなんて、そんな悠長な思考など持てるはずがなかった。今ならまだ面会時間に間に合うはずだ。
渋滞を懸念して、車ではなく普段とは逆方向の電車に飛び乗ると、終着駅で降りた。目的地へは直接足を運んだことはなかったが、場所は把握していたため迷わず辿り着くことができた。
もうじき面会時間が過ぎようという時刻でも、受付があるエントランスホールは大勢の人でひしめき合っている。
コンビニやコーヒーショップなども入っている広いホールを抜けて、エレベーターがある通路に出た。流石に病院の中で走ることはできず、大きな歩幅でひたすら急ぐ。
だが、黒鋼はエレベーターに乗らずに済んだ。
中庭をぐるりと囲むように続く通路で、視界の端に光り輝く金色が飛び込んできた。
咄嗟に足を止め、その方向を見やる。
ツツジの植え込みによって囲まれた中庭の中心。青く茂るケヤキの木の下に、彼はいた。
左目を包帯で覆い、車椅子に腰かけるファイは、夕暮れの空をぼんやりと見上げていた。
これ以上ないくらい、黒鋼の胸は高鳴った。
まだ信じられない。でも、これは夢じゃない。目の前に、あの桜の木々の中で花びらに紛れて消えてしまったファイの姿がある。
足元から込み上げるような寒気にも似た感覚に、身体が震える。
通路から中庭へ続く扉に手をかけた。
他に人気はなく、キィ、という音がやけに大きく響き渡る。ぼんやりと空を眺めていたファイがピクリと反応して、こちらに顔を向けた。
そして彼は、まるで幽霊でも見たように右目を大きく見開いた。かち合った視線に、瞬きができない。
込み上げる感情の嵐をぐっと堪えて、黒鋼は一歩一歩ケヤキの木に向かって歩いた。
面会時間の終了を知らせるアナウンスが音楽と共に流れるのが、ずっとずっと遠くに聞こえていた。
ケヤキの枝が優しく揺れる。零れ落ちそうなほど揺れた右目の青が泣きそうに細められ、薄緑の患者衣からのぞく白い両腕が、黒鋼に向かって伸ばされた。
「ッ……!」
車椅子の車輪がガタンと揺らぐ。
身を屈めるようにして、黒鋼は強くその背を掻き抱いた。温かかった。細くて、手折ってしまいそうなくらい頼りなくて、それでも泣きたくなるくらい温かい。彼は生きている。
生きている。
「嘘だこんなの……まだ、夢を見ているの……?」
「夢じゃねぇ……夢でたまるか……」
黒鋼の首にしがみつくようにして首筋に頬を押し付けるファイは、ひくひくと肩を震わせて泣いた。少しだけ身を離し、その頬に手の平を這わせる。親指で目尻をそっと撫でた。
ああ、やっとこの涙を拭ってやることができた。ずっとずっと、こうしたかった。
黒鋼は笑った。
「なぁ、迎えに来たぜ。てめぇが帰る場所はひとつだろ?」
ファイは泣きながら、何度も何度も頷いた。
「笑えよ。笑って見せろ」
出会ったときと、そして手を振ってさよならをしたときと。
同じ笑顔で、ファイは涙を拭ってふにゃりとした笑顔を見せた。
黒鋼もファイも、揃ってもうどうしようもなくなって、互いを強く引き寄せるとぶつかるようなキスをした。
「俺は、おまえが――」
長いキスのあと黒鋼は言った。
あの日言えなかった、告白の続きを。
←戻る ・ 次へ→
ファイが消えてから、一ヶ月近くが経過していた。
四月下旬。瑞々しい若葉が街のいたる所で生い茂っている。
季節の移り変わり感じながら、カレンダーを見る度にまだひと月しか経っていないのかと不思議な気持ちになった。
誰もいない905号室はあまりにも広く、暗く、そして静かだった。もう何年もずっと一人きりでいるような孤独が、黒鋼をただ我武者羅に仕事へと駆り立てていた。
その日は休日で、黒鋼は珍しくゆっくりと眠って起きた。
普段の土日は放っておいても携帯が鳴り、仕事に費やされることがほとんどだが、今朝はそれがない。今の黒鋼にとっては少し残念なことだった。
胸にぽっかりと空いた穴を埋めるための仕事がないとなると、他で気を紛らわすしかない。
だとしてもいつ連絡がくるかは分からないため遠出はできないが、黒鋼はふらりと外へ出かけることにした。
とはいえ、日頃仕事にばかり明け暮れていると、オフの日の有効な時間活用が難しくなる。
何を趣味としていたのだったか、どこへ行けばいいのか、何も考えずに外に飛び出した黒鋼は結局迷った。
だが、すぐに元々ずっと好きだったのは身体を動かすことだと思い出し、長らく通っていなかった行きつけのジムへ行き、思い切り汗を流した。
そうして帰りにスーパーへ寄って日持ちしそうな食糧を買い、ブラブラと歩いて帰る頃には夕方になっていた。
マンションのエントランスがすぐ目の前というところで足を止めた黒鋼は、あの街路樹下の献花に目を向けた。
これを視界にとらえる度に、ファイと出会い、そして過ごした一ヶ月間を思い出す。
ここは彼がその生涯を閉じることになった場所。同時に自分たちが不思議な出会いを果たすことになったキッカケでもある。
無意識に辛気臭い息を漏らした黒鋼は、何度か頭を振って重苦しいものを追い払った。
ファイは未練を手放して成仏したのだ。自分がそれに憑りつかれ、立ち止まったままでいてどうするのかと。
黒鋼は献花から目を逸らすと、顔を上げて歩き出した。
どこかへ外食でもしに行くのか、若い夫婦が赤ん坊を連れてエントランスから出てくる。
なんとはなしにそれをチラリと見ながらすれ違い、ガラス張りの扉に手をかけ、中に入った。
そのときだった。
黒鋼は目に飛び込んできた人物を見て、ぐっと息をつめた。
観葉植物の置かれた白御影石のホールの向こう。
管理人室から出て来たと思しきその男は、真っ直ぐにこちらに向かって歩いてきた。
ドクンと、心臓が大きく高鳴った。そんな馬鹿なという思いが、黒鋼の身体を縛り付けて動けなくする。
そして足を止めたまま硬直する黒鋼の横を、問題の人物が通り過ぎようとした。
「ッ、おい!」
黒鋼は、その白く華奢な手首に手を伸ばし、咄嗟に声をかけていた。
「?」
男は、金色の艶やかな髪に清んだ青い瞳を持っていた。
記憶の中よりは少し髪が長く、大人びた印象を受ける。けれど、目の前にいる人間は間違いなくファイと同じ顔の作りをしていた。
「なにか?」
手首を掴んだまま一言も発せないでいる黒鋼に、彼は戸惑ったように小首を傾げた。
その声も、記憶の中にあるものと全く同じ。違うのは髪の長さと、左目の色だけだ。
似すぎているというだけで、別人なのだろうか。確かに目の前の男から受ける印象は、ファイのものと比べてずいぶんと落ち着いている。
そもそも、この人物はこちらの存在をまるで知らないようだった。
ハッとして、腕を解放する。
「悪い……よく知ってるやつに、似てたもんだからよ」
まだどこかで『もしや』という思いを捨てきれないながらも、黒鋼は男から目を逸らした。
ファイであるはずがない。彼はすぐそこの道路で事故に遭い、死んでしまったのだから。その魂が消えゆくさまを、この目でしっかりと見届けた。
「……あの」
さっさと部屋へ戻ろうと一歩踏み出した黒鋼を、男が止める。
彼は幾度か瞬きをして、やんわりと微笑んだ。
「もしかして、兄をご存知ですか?」
*
心臓がずっと、早鐘のようにドクドクと鳴り続けていた。
人が多く行き交う大通りを、黒鋼は目的地へ向かって脇目もふらず全力で駆け抜ける。
溢れる感情に、胸が破裂しそうだった。早く早くと、急いては通行人と肩がぶつかりそうになった。
神に縋ったことなんて一度もなかった。ファイを失ったときですら、ただあるがままを受け入れるしかなかった。
今だって決して彼は『逃げない』。それでも間に合えと、一秒でも早くと、誰も俺の行く手を阻んでくれるなよと。
ファイによく似た男は、自らを『ユゥイ』と名乗った。
エントランスホールの片隅に設置された長椅子に腰かけながら、黒鋼はすぐ隣の男をまじまじと眺め、やがて納得した。
彼らは双子だったのだ。弟がいると、ファイは言っていた。双子とまでは聞かされていなかったが、これだけ似ていれば驚くのも当然だった。
そして黒鋼は真実を聞かされることになった。
――ファイは生きているということ。
事故の夜からずっと、彼は意識不明のまま半年もの間、眠り続けていた。
目を覚ましたのはちょうど一ヶ月ほど前のことだった。
『少し落ち着いてきたので、こちらの管理人さんにご報告に。とても心配してくださっていたので』
そういうことだったのかと、黒鋼はさらに納得した。
あんなことになるなんてと涙を流していた彼女は、意識が戻らないファイの身を案じていたのだ。そして、あの献花は衝突事故で命を落としたバイクの持ち主に手向けられたものだった。ファイへのものでは、なかった。
なんという運命の悪戯だろうか。死んだから会えたなんて、そんなものは嘘だった。
生きていたからこそ、黒鋼はファイに出会った。
『よかったら行ってあげてください。まだ少しぼんやりしてますけど……元気ですから』
そう言って、ユゥイはファイのいる病院と部屋番号を告げた。
レストランのオーナーを務めているという彼は、これから店へ戻らなければならないと言った。
『今度、食べにきてくださいね』
ユゥイが見せた笑顔はやっぱりファイのものとは少し違っていたけれど、兄が無事に目を覚ましたことへの安堵が優しく滲み出ていた。
ユゥイから聞いた病院は街外れにある総合病院だった。
日を改めてなんて、そんな悠長な思考など持てるはずがなかった。今ならまだ面会時間に間に合うはずだ。
渋滞を懸念して、車ではなく普段とは逆方向の電車に飛び乗ると、終着駅で降りた。目的地へは直接足を運んだことはなかったが、場所は把握していたため迷わず辿り着くことができた。
もうじき面会時間が過ぎようという時刻でも、受付があるエントランスホールは大勢の人でひしめき合っている。
コンビニやコーヒーショップなども入っている広いホールを抜けて、エレベーターがある通路に出た。流石に病院の中で走ることはできず、大きな歩幅でひたすら急ぐ。
だが、黒鋼はエレベーターに乗らずに済んだ。
中庭をぐるりと囲むように続く通路で、視界の端に光り輝く金色が飛び込んできた。
咄嗟に足を止め、その方向を見やる。
ツツジの植え込みによって囲まれた中庭の中心。青く茂るケヤキの木の下に、彼はいた。
左目を包帯で覆い、車椅子に腰かけるファイは、夕暮れの空をぼんやりと見上げていた。
これ以上ないくらい、黒鋼の胸は高鳴った。
まだ信じられない。でも、これは夢じゃない。目の前に、あの桜の木々の中で花びらに紛れて消えてしまったファイの姿がある。
足元から込み上げるような寒気にも似た感覚に、身体が震える。
通路から中庭へ続く扉に手をかけた。
他に人気はなく、キィ、という音がやけに大きく響き渡る。ぼんやりと空を眺めていたファイがピクリと反応して、こちらに顔を向けた。
そして彼は、まるで幽霊でも見たように右目を大きく見開いた。かち合った視線に、瞬きができない。
込み上げる感情の嵐をぐっと堪えて、黒鋼は一歩一歩ケヤキの木に向かって歩いた。
面会時間の終了を知らせるアナウンスが音楽と共に流れるのが、ずっとずっと遠くに聞こえていた。
ケヤキの枝が優しく揺れる。零れ落ちそうなほど揺れた右目の青が泣きそうに細められ、薄緑の患者衣からのぞく白い両腕が、黒鋼に向かって伸ばされた。
「ッ……!」
車椅子の車輪がガタンと揺らぐ。
身を屈めるようにして、黒鋼は強くその背を掻き抱いた。温かかった。細くて、手折ってしまいそうなくらい頼りなくて、それでも泣きたくなるくらい温かい。彼は生きている。
生きている。
「嘘だこんなの……まだ、夢を見ているの……?」
「夢じゃねぇ……夢でたまるか……」
黒鋼の首にしがみつくようにして首筋に頬を押し付けるファイは、ひくひくと肩を震わせて泣いた。少しだけ身を離し、その頬に手の平を這わせる。親指で目尻をそっと撫でた。
ああ、やっとこの涙を拭ってやることができた。ずっとずっと、こうしたかった。
黒鋼は笑った。
「なぁ、迎えに来たぜ。てめぇが帰る場所はひとつだろ?」
ファイは泣きながら、何度も何度も頷いた。
「笑えよ。笑って見せろ」
出会ったときと、そして手を振ってさよならをしたときと。
同じ笑顔で、ファイは涙を拭ってふにゃりとした笑顔を見せた。
黒鋼もファイも、揃ってもうどうしようもなくなって、互いを強く引き寄せるとぶつかるようなキスをした。
「俺は、おまえが――」
長いキスのあと黒鋼は言った。
あの日言えなかった、告白の続きを。
←戻る ・ 次へ→
さよならの日
天気予報が告げていた通り、日曜日は朝から全国的に晴天だった。
絶好の花見日和。二人は朝早くに起きて、軽めの朝食をとってから部屋を出た。
普段は使わずに地下駐車場で眠っている車に乗り込む直前、黒鋼はジーンズのポケットに押し込めていた携帯を取り出すと、電源を切った。
それを側で見ていたファイは目を丸くしたあと心配そうに見上げてきたが、黒鋼は「邪魔臭ぇからな」と言って少し笑った。
ファイはうっすら目を潤ませ、眉毛をへにゃりと下げながらも笑顔を見せた。
地下から地上に上がると、マンションのエントランス前にはあの管理人の女性がいつものように掃除をしていた。
車で出て行こうとする黒鋼に、にっこりと笑って手を振っていた。
助手席に座り、しっかりシートベルトまで締めたファイも、楽しそうに手を振り返していた。
高速道路を三時間ほど走ると、黒鋼が生まれてから学生時代までを過ごした町に辿り着いた。
これといって何の見どころもない、どちらかと言えば山ばかりが目立つ田舎町をのんびり進んで、実家にはちょうど昼頃に到着した。
「うわぁ……」
車を降りてすぐに、ファイはそびえ立つ一軒の日本家屋を見て間抜けな声を上げた。
「凄いお屋敷だぁ……黒様ってお坊ちゃんだったんだねぇ」
「んなこたねぇよ」
んなこたあるよー、となぜか焦った様子で言うファイを通り過ぎ、茅葺屋根の門をくぐる。
曲がりくねるように配置された石畳が玄関まで伸びて、辺りに敷き詰められた白い砂利が春の陽光を浴びて輝いていた。マツやモチノキが青々とした葉を揺らし、赤く色づいたモクレンが大きな花弁を人口の小川に散らして、流れながら舞い躍る。
「どうしよう、オレこんな粗末な格好してきちゃって……」
浮遊した状態で追いかけてきたファイは怖々とした様子で黒鋼の背中に両手をついて、隠れるように身を寄せた。
確かに黒鋼の実家はこの辺りの民家の中ではひと回り大きいものの、別にそこまで戦々恐々するほどでもないと思うのだが。
ファイはいつもの白いシャツとダボついたジーンズに素足という姿で、辺りをキョロキョロと見回している。まるでお上りさん状態だ。
「格好なんてどうでもいいだろ。おまえのことなんざ誰も見……」
言いかけたところで、黒鋼は玄関の引き戸を開けて顔を覗かせた母を見て、口を閉ざした。
母には確実にファイの姿が見えているはずだが、黒鋼の背中にすっかり隠れてしまったのを見て「うふふ」と笑うだけだった。
お茶の支度が済むまでのんびりしてなさい、という言葉に従い、黒鋼は自室にファイを案内した。
どこか殺風景な和室に入った瞬間、ファイはようやく黒鋼の背中から離れて大きく息を吐き出した。
「はー、緊張したー」
「なにが緊張だ。隠れてただけじゃねぇか」
「そうだけど……凄いね君のお母さん。オレのことバッチリ見えてたみたい」
「だったらなおさら挨拶くらいしろ……」
呆れた視線を向ける黒鋼を無視して、ファイはふらふらと室内を飛び回った。
「ここが黒たんのお部屋ー! ねぇ、アルバムとかないのー? あ! これ! もしかしてあれ? 毎年つけるやつ!」
住んでいた当時から必要最低限の家具しか置いていない部屋は面白味もなにもないはずなのに、彼は嬉しそうにはしゃいでいる。
そしてファイが見つけたのは押入れ脇の柱の傷だった。黒鋼が幼い頃から中学に上がるぐらいまで、毎年のように父がつけていた成長の証だ。
それ以降は照れ臭くなってしまった黒鋼が拒んで、傷はだいぶ低い位置を最後に途絶えている。
「黒たんの歴史が刻まれた、優しい傷だね」
ファイは膝をついて、一番小さな傷から順々になぞった。
「嬉しいな。なんか」
そう言って微笑む横顔を、黒鋼はなんとなく見ていられずに目を逸らした。
*
裏山の桜を見上げながら、ファイは呆けたような顔をした。
黒鋼が子供の頃のアルバムや、家の中を一通り探検して回っていた時とは打って変わって、どこまでも広がる桜のパノラマにすっかり言葉を無くしているようだった。
「なかなかのもんだろ?」
これこそを見せてやりたいと思っていた黒鋼は、自慢げにニヤリと笑って問いかけた。
こくりと頷くだけのファイは裸足の足をすとんと地面に落とす。
青空の下、桜の山がざわめいて大量の花びらを雪のように躍らせる。嵐のようだと、黒鋼は思った。
二人でそれを見上げていると、左手に生温い感触を覚えた。
裏山から視線を外さないまま、ファイが手を繋いで寄越す。握り返すことはできないが、それでも白い手を握るように指を丸めた。
そのまま黒鋼とファイは手を繋いで、丸太階段を静かに登った。
ファイは金色の髪に幾つもの花びらを絡ませながら、満開の桜の木々を見つめている。浮き上がることはせずに、足でしっかりと前に進んでいた。
痛くないのかを聞くと、彼はどこかぼんやりとした口調で「平気」とだけ言った。
その青と薄灰の瞳にはちらちらと舞い散る花びらが映し出され、儚く揺らめいていた。
美しい桜の木々よりも、黒鋼はその光景をしっかりと目に焼き付ける。
例えばこの階段が、ずっとずっと途切れることなく続いていたならば。今という瞬間を永遠にしてしまうことができるだろうに。そんな馬鹿なことを、少しだけ本気で考えながら。
「黒たん、連れてきてくれてありがとう」
一段一段ゆっくりと階段を上りながら、僅かに俯いたファイが口を開いた。
「好きな人の子供の頃の写真とか、育った町とか、家とか、こんなに綺麗な桜とか……いっぱい見れて嬉しかった」
「……そうか」
「うん。ありがとう」
無情にも途切れた階段の先は、少し開けた場所だった。
芝生が敷き詰められ、木製の椅子やテーブルが置かれた広い空間が桃色の花々によってぽっかりと縁どられていた。
子供の頃は、ここで毎年のように家族や親戚、友人たちと花見をしていた。母や親戚連中が用意した弁当を食べながら、日が暮れるまで遊びまわった。
それでもこの場所に、黒鋼が思い人を連れて来たことはない。
学生時代、強請られたことは幾度もあったけれど、もし両親に見られたらと思うと照れくさくて、冗談じゃないと思っていた。
だから『恋人』を連れて来たのは、これが初めてだ。
あーぁ、と声を上げて、ファイは黒鋼の手を離すと花びらが積もる木製のテーブルに近づいた。
「生きてるときにちゃんと会いたかったなー。黒たんと」
テーブルに浅く腰掛けるように背を預け、ファイはふにゃりと笑った。
「そしたらさー……そしたら……」
目を閉じて、彼は緩く首を振ると「やっぱいいや」と言った。
金色の髪から、絡みついていた花びらがはらはらと零れ落ちる。
「変な話だけど、死んだから黒たんと会えたんだもんね。だから、これでよかったんだよね」
細められた目を見返しながら、黒鋼は何も言うことができなかった。
あまりにも皮肉すぎやしないか。死んだから会えた。死んだから、こうして一緒にいる。
死んだから、触れ合うこともできないまま、好きになってしまった。
結局、ファイへの気持ちは殺せなかった。あれだけ色恋から遠い場所にいたかったはずなのに、女性しか愛せないとばかり思っていたはずなのに。
真っ直ぐに向けられる好意がいつしか心地よくなって、彼の何気ない仕草や表情に、健気な姿や涙に、気づけば心を射抜かれていた。
それでも今までもこれからも黒鋼が彼に触れ、抱きしめることはない。そうしたくても出来ない。
手離したくないと、そう思う以前にファイは最初からこの手の中にはいない存在だった。
知らず知らずのうちに目を逸らし、握った拳を震わせる黒鋼に、ファイは「ねぇ」と小さく声をかける。
「キスしてもいい?」
「……いっつも勝手にするじゃねぇか」
「あはは」
俯く黒鋼の視界に、白い足先が一歩一歩近づいてくるのが見えて、顔を上げる。頼りなく細い両腕が首に伸ばされ、ぐるりと巻き付いた瞬間、唇に柔らかなものが押し付けられる。
抱き返すことはできない。でも、その身体を包み込むように両腕を回した。
なぜだろうか。もう時間がない気がして。何かに背を追われているような、そんな気がして。胸が切なく痛んで仕方がなかった。
「笑って、黒様」
「……いくのか」
「うん。そんな感じがする」
だから笑ってと、鼻先が触れ合うほどの距離でファイが言う。
けれど黒鋼は笑えなかった。いくなという言葉を、奥歯を噛み締めることで飲み込んだ。
彼は逝く。燃えるような恋をして、消えてしまう。
むっつりと眉間に皺を寄せるだけの黒鋼を、ファイは笑った。泣き止まない子供をあやすように、「しょうがないなぁ」なんて歌うように言いながら。
「オレの未練、連れていくにはちょっと大きすぎるから。ここに置いていくね」
両腕がするりと離れ、抱きしめるように回されていた腕を細い身体が通り抜けた。
手を伸ばしたままゆっくりと後退してゆくファイに、黒鋼も咄嗟に手を伸ばす。
「待てよ。俺はおまえが――」
好きだ、と。
ふわりと舞い上がる花びらに、その告白は阻まれてしまった。
桃色の群れに、白い身体が、潤んだ瞳が、ゆっくりと滲んだ。
ファイは無邪気に手を振った。出会ったときと同じ笑顔で、彼は「バイバイ」と言った。
黒鋼の手は、届かなかった。
――ありがとう。
そして、消えてしまった。
←戻る ・ 次へ→
天気予報が告げていた通り、日曜日は朝から全国的に晴天だった。
絶好の花見日和。二人は朝早くに起きて、軽めの朝食をとってから部屋を出た。
普段は使わずに地下駐車場で眠っている車に乗り込む直前、黒鋼はジーンズのポケットに押し込めていた携帯を取り出すと、電源を切った。
それを側で見ていたファイは目を丸くしたあと心配そうに見上げてきたが、黒鋼は「邪魔臭ぇからな」と言って少し笑った。
ファイはうっすら目を潤ませ、眉毛をへにゃりと下げながらも笑顔を見せた。
地下から地上に上がると、マンションのエントランス前にはあの管理人の女性がいつものように掃除をしていた。
車で出て行こうとする黒鋼に、にっこりと笑って手を振っていた。
助手席に座り、しっかりシートベルトまで締めたファイも、楽しそうに手を振り返していた。
高速道路を三時間ほど走ると、黒鋼が生まれてから学生時代までを過ごした町に辿り着いた。
これといって何の見どころもない、どちらかと言えば山ばかりが目立つ田舎町をのんびり進んで、実家にはちょうど昼頃に到着した。
「うわぁ……」
車を降りてすぐに、ファイはそびえ立つ一軒の日本家屋を見て間抜けな声を上げた。
「凄いお屋敷だぁ……黒様ってお坊ちゃんだったんだねぇ」
「んなこたねぇよ」
んなこたあるよー、となぜか焦った様子で言うファイを通り過ぎ、茅葺屋根の門をくぐる。
曲がりくねるように配置された石畳が玄関まで伸びて、辺りに敷き詰められた白い砂利が春の陽光を浴びて輝いていた。マツやモチノキが青々とした葉を揺らし、赤く色づいたモクレンが大きな花弁を人口の小川に散らして、流れながら舞い躍る。
「どうしよう、オレこんな粗末な格好してきちゃって……」
浮遊した状態で追いかけてきたファイは怖々とした様子で黒鋼の背中に両手をついて、隠れるように身を寄せた。
確かに黒鋼の実家はこの辺りの民家の中ではひと回り大きいものの、別にそこまで戦々恐々するほどでもないと思うのだが。
ファイはいつもの白いシャツとダボついたジーンズに素足という姿で、辺りをキョロキョロと見回している。まるでお上りさん状態だ。
「格好なんてどうでもいいだろ。おまえのことなんざ誰も見……」
言いかけたところで、黒鋼は玄関の引き戸を開けて顔を覗かせた母を見て、口を閉ざした。
母には確実にファイの姿が見えているはずだが、黒鋼の背中にすっかり隠れてしまったのを見て「うふふ」と笑うだけだった。
お茶の支度が済むまでのんびりしてなさい、という言葉に従い、黒鋼は自室にファイを案内した。
どこか殺風景な和室に入った瞬間、ファイはようやく黒鋼の背中から離れて大きく息を吐き出した。
「はー、緊張したー」
「なにが緊張だ。隠れてただけじゃねぇか」
「そうだけど……凄いね君のお母さん。オレのことバッチリ見えてたみたい」
「だったらなおさら挨拶くらいしろ……」
呆れた視線を向ける黒鋼を無視して、ファイはふらふらと室内を飛び回った。
「ここが黒たんのお部屋ー! ねぇ、アルバムとかないのー? あ! これ! もしかしてあれ? 毎年つけるやつ!」
住んでいた当時から必要最低限の家具しか置いていない部屋は面白味もなにもないはずなのに、彼は嬉しそうにはしゃいでいる。
そしてファイが見つけたのは押入れ脇の柱の傷だった。黒鋼が幼い頃から中学に上がるぐらいまで、毎年のように父がつけていた成長の証だ。
それ以降は照れ臭くなってしまった黒鋼が拒んで、傷はだいぶ低い位置を最後に途絶えている。
「黒たんの歴史が刻まれた、優しい傷だね」
ファイは膝をついて、一番小さな傷から順々になぞった。
「嬉しいな。なんか」
そう言って微笑む横顔を、黒鋼はなんとなく見ていられずに目を逸らした。
*
裏山の桜を見上げながら、ファイは呆けたような顔をした。
黒鋼が子供の頃のアルバムや、家の中を一通り探検して回っていた時とは打って変わって、どこまでも広がる桜のパノラマにすっかり言葉を無くしているようだった。
「なかなかのもんだろ?」
これこそを見せてやりたいと思っていた黒鋼は、自慢げにニヤリと笑って問いかけた。
こくりと頷くだけのファイは裸足の足をすとんと地面に落とす。
青空の下、桜の山がざわめいて大量の花びらを雪のように躍らせる。嵐のようだと、黒鋼は思った。
二人でそれを見上げていると、左手に生温い感触を覚えた。
裏山から視線を外さないまま、ファイが手を繋いで寄越す。握り返すことはできないが、それでも白い手を握るように指を丸めた。
そのまま黒鋼とファイは手を繋いで、丸太階段を静かに登った。
ファイは金色の髪に幾つもの花びらを絡ませながら、満開の桜の木々を見つめている。浮き上がることはせずに、足でしっかりと前に進んでいた。
痛くないのかを聞くと、彼はどこかぼんやりとした口調で「平気」とだけ言った。
その青と薄灰の瞳にはちらちらと舞い散る花びらが映し出され、儚く揺らめいていた。
美しい桜の木々よりも、黒鋼はその光景をしっかりと目に焼き付ける。
例えばこの階段が、ずっとずっと途切れることなく続いていたならば。今という瞬間を永遠にしてしまうことができるだろうに。そんな馬鹿なことを、少しだけ本気で考えながら。
「黒たん、連れてきてくれてありがとう」
一段一段ゆっくりと階段を上りながら、僅かに俯いたファイが口を開いた。
「好きな人の子供の頃の写真とか、育った町とか、家とか、こんなに綺麗な桜とか……いっぱい見れて嬉しかった」
「……そうか」
「うん。ありがとう」
無情にも途切れた階段の先は、少し開けた場所だった。
芝生が敷き詰められ、木製の椅子やテーブルが置かれた広い空間が桃色の花々によってぽっかりと縁どられていた。
子供の頃は、ここで毎年のように家族や親戚、友人たちと花見をしていた。母や親戚連中が用意した弁当を食べながら、日が暮れるまで遊びまわった。
それでもこの場所に、黒鋼が思い人を連れて来たことはない。
学生時代、強請られたことは幾度もあったけれど、もし両親に見られたらと思うと照れくさくて、冗談じゃないと思っていた。
だから『恋人』を連れて来たのは、これが初めてだ。
あーぁ、と声を上げて、ファイは黒鋼の手を離すと花びらが積もる木製のテーブルに近づいた。
「生きてるときにちゃんと会いたかったなー。黒たんと」
テーブルに浅く腰掛けるように背を預け、ファイはふにゃりと笑った。
「そしたらさー……そしたら……」
目を閉じて、彼は緩く首を振ると「やっぱいいや」と言った。
金色の髪から、絡みついていた花びらがはらはらと零れ落ちる。
「変な話だけど、死んだから黒たんと会えたんだもんね。だから、これでよかったんだよね」
細められた目を見返しながら、黒鋼は何も言うことができなかった。
あまりにも皮肉すぎやしないか。死んだから会えた。死んだから、こうして一緒にいる。
死んだから、触れ合うこともできないまま、好きになってしまった。
結局、ファイへの気持ちは殺せなかった。あれだけ色恋から遠い場所にいたかったはずなのに、女性しか愛せないとばかり思っていたはずなのに。
真っ直ぐに向けられる好意がいつしか心地よくなって、彼の何気ない仕草や表情に、健気な姿や涙に、気づけば心を射抜かれていた。
それでも今までもこれからも黒鋼が彼に触れ、抱きしめることはない。そうしたくても出来ない。
手離したくないと、そう思う以前にファイは最初からこの手の中にはいない存在だった。
知らず知らずのうちに目を逸らし、握った拳を震わせる黒鋼に、ファイは「ねぇ」と小さく声をかける。
「キスしてもいい?」
「……いっつも勝手にするじゃねぇか」
「あはは」
俯く黒鋼の視界に、白い足先が一歩一歩近づいてくるのが見えて、顔を上げる。頼りなく細い両腕が首に伸ばされ、ぐるりと巻き付いた瞬間、唇に柔らかなものが押し付けられる。
抱き返すことはできない。でも、その身体を包み込むように両腕を回した。
なぜだろうか。もう時間がない気がして。何かに背を追われているような、そんな気がして。胸が切なく痛んで仕方がなかった。
「笑って、黒様」
「……いくのか」
「うん。そんな感じがする」
だから笑ってと、鼻先が触れ合うほどの距離でファイが言う。
けれど黒鋼は笑えなかった。いくなという言葉を、奥歯を噛み締めることで飲み込んだ。
彼は逝く。燃えるような恋をして、消えてしまう。
むっつりと眉間に皺を寄せるだけの黒鋼を、ファイは笑った。泣き止まない子供をあやすように、「しょうがないなぁ」なんて歌うように言いながら。
「オレの未練、連れていくにはちょっと大きすぎるから。ここに置いていくね」
両腕がするりと離れ、抱きしめるように回されていた腕を細い身体が通り抜けた。
手を伸ばしたままゆっくりと後退してゆくファイに、黒鋼も咄嗟に手を伸ばす。
「待てよ。俺はおまえが――」
好きだ、と。
ふわりと舞い上がる花びらに、その告白は阻まれてしまった。
桃色の群れに、白い身体が、潤んだ瞳が、ゆっくりと滲んだ。
ファイは無邪気に手を振った。出会ったときと同じ笑顔で、彼は「バイバイ」と言った。
黒鋼の手は、届かなかった。
――ありがとう。
そして、消えてしまった。
←戻る ・ 次へ→
あのキスからというもの、黒鋼はファイを嫌でも意識してしまうようになった。
気がつくとあの薄く微笑んでいた唇を思い出してしまって、恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。
だから、あんなことをしたなんて嘘のように変わらないファイ笑顔が、真っ直ぐ見れなくなってしまった。
それを知ってか知らずか、ファイの悪戯の中にキスが加わってしまった。
黒鋼の初な反応がツボにハマったのか、いつものようにからかわれて憤慨すると、諌めるように唇を重ねて来るようになった。
ファイの顔がぐっと近づくと、なぜか魔法にかかったように身体が動かなくなる。
そうされるのが嫌なのか、そうでないのか、毎晩のように悶々と考えるのに、答えが出なかった。
相手が男なのに気持ち悪くないのも不思議で、自分のことなのに、さっぱり分からないのだ。
どっちつかずのまま、遊ぼうと誘われるといつもなんだかんだと問答の末、結局はヤツを受け入れてしまう。
でも、こういうことは誰とでもしていいことじゃないのは知ってる。
だからちゃんと止めるように言わなければ。いつもそう思うのに、なかなか言えないでいるのも不思議だった。
(やめろって言ったって、どうせやめねぇし)
そうだ。言っても無駄なことを言ったって仕方ない。
嫌がる素振りを見せれば、逆にエスカレートしかねないのだし。だから『言えない』のではなくて、あえて『言わない』のだ。
黒鋼はそう自分を納得させたつもりでいたけれど、なぜか言い訳をしているみたいに後ろめたい気もして、また頭の中がグルグルするのだった。
*
7月下旬、小学校は夏休みに入った。
その翌週の日曜日には近所の神社でお祭りがあって、黒鋼はクラスメイトの男子数人と連れだってそれに参加した。
紺地に源氏車柄の浴衣を母に着せてもらい、黒い鼻緒の桐下駄を履いて、お小遣いの入った巾着袋を持たせてもらった。
こんな風に祭りだからと着飾るのは、今年が初めてだった。
祭り会場にはたくさんの出店が出ていて、夜とは思えない明るさだった。
店主が客引きをする声が至るところから響き渡り、それに負けじと金魚すくいや射的などで遊ぶ人々も歓声を上げる。
見上げれば張り巡らされた提灯が、人々と夏の夜の熱気に煽られて揺れている。
どこからともなく聞こえて来る祭囃子を聞きながら、黒鋼も様々な出店をひやかして回った。
こういう場所は、普段なら欲しいとも思わないくだらない品物でも、なぜか無性に欲しくなる。積み上げられたダルマとか、面倒を見切れるかも分からない金魚とか。
焼き鳥や焼きそばなどの食べ物だって、その辺りのスーパーで買ったものの方がずっと安くて美味しいのに、食わずにいられないから不思議だ。
そんな中、友人たちとウロついていた黒鋼は、くじ引きの出店でふと足を止めた。
安っぽい文房具やガード、女子が好みそうな雑貨品などが並ぶ中に、最新のゲーム機なんかも景品として並べられている。
ふと、そういえば今日はファイの姿を見てないな、と思った。
毎年この時期、祭りとなると必ず「一緒に行こう」とうるさく誘ってくるのだが、今年はそれがなかった。
奴にも人付き合いがあるだろうし、あるいは何か用事でもあったのかもしれない。
黒鋼はそのくじ引きの出店にフラフラと足を向け、改めて景品を見まわした。当たるとは思えなかったが、一回くらい運試ししてみるのも面白い。
もし万が一ゲーム機が当たったら、アイツが喜ぶかな、なんて思う。
(別にアイツの喜ぶ顔なんか、見たかねぇけど!)
そんな言い訳をしながら店主に500円玉を渡して、黒鋼はゆっくりと息を吐き出しながら無意味に精神統一をした。
*
しょうもないものが当たってしまった。
せめて文房具でも当たれば学校で使うことも出来たのだが、黒鋼が当てたのはビーズアクセサリーを作るための子供向けキットだった。
ピンク色に星がキラキラしているド派手なパッケージに、中身はカラフルなビーズがジャラジャラと入っている。
こんなものを貰って、一体どうすればいいのか。
母に渡せば喜ぶかもしれないが、得をするどころかとてつもない損をした気分になった。
くじ運がないなと友人には笑われるし、それもこれも全てファイが悪いような気がしてくる。完全な八つ当たりだったが、貴重な最後の500円だっただけに、誰かのせいにせずにはいられない。
そんな時だった。
出店に群がる人々の中に、ひときわ明るい金色を見つけて足を止めた。
浴衣姿ではなく、ラフなシャツにジーンズ姿の彼は頭の側面にキツネの面をして笑っている。
なんとなく距離を縮めてみると、彼は一人ではなかった。朝顔の描かれた綺麗な浴衣を着た、若い女と水風船を釣ってはしゃいでいる。
それを見て、なぜかムッとした。
いつもは何処へ行くにも纏わりついてくるくせに。
こっちがちょっとでも気にしてやると、途端にどこか他へ行くとは何事か。
そもそもあれは、つまり、彼女的なものだろうか。いわゆるお祭りデートというやつなのか。
だとすれば、仕方ない。
臍を曲げるのはお門違いだし、別に曲げてなんかいない。曲げるわけがない。
なのにどういうわけか、無性に腹が立つ。
くじ引きで大外れを引いたことも加担して、黒鋼は思いっきり気分が悪くなった。
「帰る」
友人たちにそっけなく告げて、くるりと背を向ける。
みな不思議そうにしていたが、これ以上この辺りを歩いてファイに存在を気づかれるのも嫌だった。何かそれによって困ることがあるわけではなかったが、なんとなく顔を合わせる気になれない。
だからその前に、とっとと退散することを決めた。
石畳の階段を、ガツガツと乱暴に下駄を鳴らして下りながら、どうしてか初めてあの男に唇を奪われた日のことが脳裏に甦って、苛立ちに拍車をかけた。
*
「あれ?」
ふと顔を上げて、ファイは人通りの多い通路の先に、遠ざかる小さな背中を見た。
「黒たんどうしたんだろー?」
さっきまで友達と店を練り歩き、くじ引きをしてガックリと肩を落としていたはずだが。
食いすぎで気分でも悪くなったのか。それとも、立ち直れないくらいのハズレを引いてしまい、臍でも曲げたのか。
「お客さーん、オレちょっと外しますねー」
「えー! お兄さんもう行っちゃうの?」
「ごめんねー、はい、水風船二つねー」
「お兄さんカッコイイから一個あげる!」
「わー! ありがとー!」
朝顔柄の浴衣で着飾った若い女性が、笑顔で頬を染めながら赤い金魚が描かれた青い水風船を手渡してくる。
それを喜んで受け取ると、店主に軽く断りを入れてファイはその場を後にした。
*
今年の祭りは、大学の友人が店を出すというので、それを手伝うことになった。
大学はテスト期間の真っ最中で、実はこんなことをしている場合ではないのだけれど。祭りはたった一夜にして終ってしまうのだから、参加しなければ後悔しそうな気がした。
本当は黒鋼を無理やりにでも誘って繰り出すつもりだったのだが、どうしてもと頭を下げられて断ることができなかった。
仕方がないので、店を手伝いつつ黒鋼の浴衣姿を遠目から眺めるという、ある種のストーカー行為に専念することにした。
朝顔浴衣の女性は「アタシ上手に取れなーい!」と上目遣いしてくるので、一緒に釣ってやっていただけだった。
友達と一緒になって遊びまわる黒鋼は、暑さに頬を赤く染めているのが、よだれが出そうなくらい可愛かった。
彼はごく普通の子供のように無邪気に笑うことはしないし、ぱっと見はちょっと気難しそうだけど、ずっと見ているとなんとなく分かるようになってくる。
むっつりと口を閉ざしていても楽しい時は楽しいし、祭りの提灯が映り込む大きな瞳には、年相応の子供らしさがちゃんと宿っていた。
ちょっと背伸びした色合いの浴衣も本当によく似合っていて、下駄を履いて歩きにくそうにしているところも、胸にキュンと響いた。
接客もおざなりに目をギラギラさせていたというのに、ちょっと水風船に気を取られていた間に黒鋼の変化を見逃すとは、手痛い失敗だった。
「後から声かけるつもりだったのにー……黒たんどこまで行っちゃったかなー」
慌てて人の群れをすり抜けて、足早に階段を下りる。ひとたび祭り会場から背を向けるだけで、祭囃子も歓声も、酷く遠くに感じられた。
階段を下り切ったところで、ファイはキョロキョロと辺りを見回す。すぐ上では煌々と明かりが灯されているが、ここはすっかり暗くて街灯だけが頼りだ。
家の方向へ走りだそうとしたところで、ファイは「あ!」と声を上げた。
「黒たん! おーい!」
神社の敷地を囲む、低い石垣。ちょうど街灯の真下に、黒鋼が腰掛けている。こちらに気づいたようで、なぜかギクリと肩を揺らすのが見えた。
ファイはぶんぶんと手を振ってそれに駆け寄る。
「わぁい見つけたー! まだお祭り終わらないのに、もう帰っちゃうのー?」
「お、おまえ……なんで」
「なんでってー? あれ、どうかした?」
近づいてみて分かったのだが、黒鋼は左足の下駄だけ脱いで、その足をちょっと高く持ち上げている。ファイが問うと、彼は慌てた様で「なんでもねぇ!」と声を張り上げた。ああそうか、とその様に合点がいく。
「ちょっと見せてごらん」
「なんだよ、触んな」
「あー、腫れてきちゃって可哀想に……ひねった?」
「…………」
ファイが正面に膝をつき、痛めたらしい左足にそっと触れて確かめると、彼はムッとしたような顔をしていたが、素直にこくんと頷いた。
きっと慣れない下駄で、無理して足早に階段を下りたのだろう。なぜそんなに急いでいたのかは分からないが、もしかしたら自分があの場にいたことがバレたのかもしれない。
今だって、なぜか全くと言っていいほど目を合わせたがらないし。
(最近ちょっとからかいすぎちゃったからなー)
多分、この子はあのことを気にしてる。ファイが悪戯に奪ってしまった唇のこと。
日本人に不向きな冗談は、とりわけ真面目で純粋な黒鋼少年には、少しばかりキツかったのかもしれない。
あの時は、からかってやろうとか、悪戯してやろうとか、そんな風に思ったのではなかった。
故郷ではよく子供の頃にユゥイとケンカすると、仲直りのキスをしていた。
ファイは活発で口が達者な子供だったから、口論になるとおっとりした性格の弟は必ず負ける。
すると彼は頬を真っ赤にして、青い瞳にいっぱいの涙を溜めていた。それが可愛くて、そしてちょっぴり申し訳なくて『ごめんね』のキスをすると照れ臭そうに笑って許してくれた。
だからついその感覚で触れてみたら、黒鋼があまりにも初な反応をするから。怒るかと思いきや口を噤んで真っ赤になる姿が面白くて、ほんの少しだけ、悪いことをしてしまったことへの背徳感もあって。
その後もそれが癖になって、うっかり常習化してしまった。
「ごめんねー、黒わんこー」
「……なんで謝る?」
「おんぶしてあげるから、一緒に帰ろ?」
「は!? ふざけんな! 俺は一人でも歩けるぞ!」
遠慮しなくていいのにな、と思っていると、浴衣を着た親子連れが道を通りすがった。
黒鋼は彼らをチラリと見やって居心地悪そうにしている。なるほど、背負われているのを誰かに見られるのが嫌なのか。
大人が子供を背負う姿なんて、誰が見ても気にしないと思うのだが。子供扱いされるのを嫌がる少年にしてみれば、そんなことは関係ないのかもしれない。
ファイは小さく笑うと、頭にしていたキツネの面を外し、黒鋼の頭に輪を通そうとした。
だが、まるでハエを追い払うように避けられてしまう。
「なんだよ、そんなもんいらねぇよ」
「お面して。顔隠しちゃえば平気。ね?」
「!」
恥ずかしがっていたことを見透かされたのが、さらに恥ずかしかったらしい。黒鋼は街灯の下でもわかるほど頬を赤らめて、不満そうに唇を尖らせた。
(やっぱ可愛いなー……)
たった一人の少年を相手に、こんなにハマるとは正直自分でも思わなかった。
黒鋼はすぐ怒るし、いじけるし、顔を赤くしたり涙目になったり、出会った頃からずっと変わらずイジり甲斐がある。
流してしまえば済むことにも、その都度いちいち突っかかって来るから、退屈しない。だからつい、あの手この手でちょっかいをかけてしまうのだけれど。
(ちゅうするのは、もうやめてあげよーっと)
ファイは笑って、もう一度黒鋼の頭に面の輪を持って行った。今度は抵抗しない。
そこでようやく、目と目が合った。
「これで最後にしてあげる」
「……?」
目を丸くした黒鋼の唇に、一瞬のキスをした。なぜかどうしても、最後に一度だけ触れたくて。
すぐにそれを離すと、すかさず彼の小さな顔に面をかぶせた。ついでに貰った水風船も指に通してやる。
そしてそのまま手をそっと引きがてら背中を向けると、ほんの少しの抵抗のあと、背中に熱が圧し掛かる。
よいしょ、という掛け声と同時に少年を背負い、立ち上がると歩き出した。
(意外と重いんだなー)
いつかキスどころか、気軽にからかったりも出来なくなるのかな、なんて。
ますます遠ざかる祭囃子を聞きながら、寂しさを感じずにはいられなかった。
*
『これで最後にしてあげる』
その言葉が、黒鋼にはまるで別れの言葉のように聞こえた。
ファイには優先させるべき事柄は他にも沢山あって、特別な存在もいる。いつまでも、たかだか隣に住んでいるというだけの子供を相手にする時間など、ないのだと。
別に構ってほしくて構われていたわけではないし、これで解放されるなら願ってもないことだけど。
だからあれが別れのキスだったのだと考えると、実にすんなり理解が及んだ。
なのに、なぜかとんでもなく腹が立って仕方がない。心にぽっかりと大きな隙間が生まれたような、そんな気がした。
ファイに背負われて家につくまでの間、黒鋼は彼が何を言っても無視してやった。
唇がやけに熱くて、別に今はからかわれているわけでもないのに、キツネの面の下で悔し涙が目尻を濡らした。
何が悔しいのかさえも分からなかったけれど、とにかく苛々が後を絶たなかった。
ただひょろ長いだけにしか見えない背中を大きく感じて、けれど遠くにも感じて、掴めない何かに手を伸ばす感覚は、ただひたすら黒鋼の未熟な胸中をジリジリと炙った。
ファイは特に気にした様子もなく、一人で勝手にあーだこーだとバカみたいに喋っていた。
そういえばあの彼女はどうしたのだろう。神社に置き去りにしてきたのだろうか。あんな人ごみの中に、大切な人を。
「おうちについたよー。お母さん起きてるかなー?」
自宅前まで来たところで、ファイが門に手をかける前に黒鋼はその背中から強引に下りた。指に引っかかっている水風船が激しく踊る。
その拍子にうっかり捻ってしまった足首が痛んだが、顔に出さないようにぐっと堪える。
「大丈夫? 玄関までおんぶしてあげたのに」
「……いらねぇ」
「そお? あ、いけない! それじゃあオレ神社に戻るねー!」
やっぱり彼女を置き去りのままにはできないらしい。
慌てた様子にさらにムッとして、たった今まで負ぶさっていた背中を睨むと、彼が駆け出す前にくじ引きで引いたビーズアクセサリーのキットを投げつけた。
「アイタ!」
パッケージの角がファイの背中に直撃し、そのままコンクリートの地面に落ちた。
ファイはキョトンとしてそれを拾い上げる。
「なにこれ? わあ、可愛いー」
「ゴミだ。おまえにやる」
「なんでこれがゴミなのー?」
「俺からも最後にくれてやる」
「へ? 最後?」
「じゃあな!!」
「く、黒たんどしたのー!?」
黒鋼は痛む足を引きずって玄関のドアを開けると、ファイの声を無視して素早く家の中に入った。
*
その後も黒鋼のムカムカは静まらなかった。
次の日になってもその次の日になっても、ファイのことを考えると前以上に腹が立つようになった。
毎日うんざりするほど暑いのも、部屋のエアコンが壊れたのも、宿題が終わらないのも、全部がヤツのせいに思えてくる。
だからファイと遭遇することがあっても、あからさまにそっぽを向いて無視してやった。すると彼はわざとらしく「えーん」と言って嘘泣きをする。
それを見るとますます腹立たしくて、黒鋼はいつか絶対に本気で泣かせてやる、と何度も決心を新たにする。
あからさまに避けるようになってから暫くすると、ファイもあまり顔を見せなくなった。彼だって実際のところただ暇なわけではないのだろうし、きっと彼女に夢中になっているに違いない。
そんな風に思っていたら、母からファイがどこぞでバイトをしつつ、自動車学校へも通い始めたという話を聞いた。
やっぱりそれなりに忙しくしていて、自分に飽きたわけではないんだなと、そう思うと悔しいけれどなぜかホッとした。
だが、それからもずっとファイと以前のように遊ぶ機会はなかった。
ちょっと無視するつもりが、風邪をこじらせたみたいに長引いて、会うキッカケを失ってしまった。
でもよくよく考えてみれば、誘ってくるのはいつもファイの方からで、こちらから飛び込んで行ったことなんて一度もないことに気がついた。
すぐ隣に住んでいて、小さな頃からずっと一緒だったのに。
あの祭りの夜から、なんだかとてつもなく遠い存在になってしまったような、そんな気がした。
そして彼が本当に遠い存在になるのは、黒鋼が中学生になってからのことだった。
←戻る ・ 次へ→