2025/09/19 Fri つづれ織る日々 「ファイ……ファイ……!?」 暗い暗い闇の底から、ゆっくりと浮上したファイが真先に聞いたのは、弟の声だった。 ピクリと動かした指先を取られ、強く握り締められる。 まだハッキリとしない意識で、ファイは右目を声のする方へ向けた。 薬品の香りと、ユゥイの泣き顔。 弟の泣いた顔なんて、子供の頃以来ずっと見ていない。 「ユゥイ……?」 「おはようファイ……おはよう……」 おはよう。それは目覚めの言葉。ファイは小さく、首を傾げた。 「……寝てた?」 「そうだよ……ずっと寝てたんだよ……半年も、ずっと」 「はんとし」 意識はいまだに霧がかかったように薄ぼんやりと彷徨うばかりだった。 ただ、異常な喉の渇きと身体の重さだけが圧し掛かる。 「ファイ……?」 気づくと、ファイは泣いていた。 涙がとめどなく溢れて止まらなかった。 「夢を」 「夢……?」 「うん……ずっと、夢を見ていたよ……」 大好きな人と一緒にいる、幸せな夢を。 * 「黒たーん! 早く行かないと遅刻しちゃうよー!」 朝食で使った食器を洗いながら、寝室へ向かって声をかける。 すぐに鞄を手に出て来た黒鋼は表情こそむっつりとしているが、本当は少し焦っているに違いない。朝はたった5分でも命取りになる。いつもならとっくに家を出ている時間だった。 「あぁ待って! お弁当忘れてるってば!」 「おう、悪い」 「待って待って! ネクタイ曲がってるよ!」 カウンター越しに青いハンカチで包んだ弁当箱を渡し、そのまま出て行こうとする黒鋼の襟を引っ張る。腕時計を見やる彼のネクタイをサッと正して、よし、と呟くと今度はこちらがシャツの胸倉を掴まれて引っ張られた。 「ッ!」 一瞬だけ唇が触れて、ファイはほんの数秒硬直したあと、真っ赤な顔で息を呑む。 黒鋼はふん、と少し意地悪そうに鼻で笑った。不意打ちが成功すると、彼は決まってこういう笑い方をするから、食らう方としてはちょっと悔しい。 「おまえも今日は取材だったな」 「う、うん。午後からだから帰りは同じくらいか……ちょっと遅くなるかも」 「そうか」 「晩ご飯、適当に済ませちゃってね」 「……わかった。じゃあ行ってくる」 「行ってらっしゃーい!」 リビングを出て行く黒鋼の背に向かって、カウンターに乗り出して思い切り手を振った。 五月。 病院を退院したファイは元々暮らしていた、そして今は黒鋼がいるマンションへ戻って来ていた。 病院のベッドで目覚めた時、ファイは黒鋼と過ごした時間を夢だとばかり思い込んでいた。 自分の理想のタイプが目の前に現れて、恋人として生活するなんて、あまりにも都合がよすぎてただ虚しいだけだった。だから黒鋼と中庭で再会したとき、ファイはまだ夢の中にいるような気分だった。 そもそも今にして思えば、うだうだせずにユゥイの様子を見に行っていればよかったのだ。 そうしたら自分がしっかり生きていて、幽体離脱しているだけだとすぐに分かったのに。 黒鋼も事あるごとにそれを言う。それだけ悲痛な思いをさせてしまったのだと思うと申し訳ないが、実は少し嬉しかったりもする。 自分が死者であると思い込んでいた以前に、ファイは黒鋼が同じだけの思いを返してくれるなんて、それこそ夢にも思っていなかったから。 「さーて、お茶でも飲んでひと息つこうかなー」 片付けを終えたファイはハンドタオルで両手を拭きながら、リビングの壁掛け時計を見やる。 あらかじめ水を入れておいたカウンターの電気ポットにスイッチを入れて、カップや紅茶の缶などを用意する。だがそこで、テーブルの上に置きっぱなしだった携帯が鳴った。 ファイは慌ててカウンターを迂回すると、携帯を取って通話ボタンを押す。 「はいはーい」 『おはよ、ファイ』 着信はユゥイからのものだった。ファイは同じく「おはよーユゥイー」と笑顔で返し、携帯を耳に押し当てたままソファに腰かける。 『今日の調子はどう?』 「元気だよー! 今ね、朝ご飯の片付け終わらせたとこー」 じゃあいいタイミングだったねと、受話器越しでユゥイが笑った。 彼はファイが退院してこのマンションに戻ってから、こうして毎日のように電話をかけて寄越すようになっていた。 以前は便りがないのは良い便りとばかりにベタベタするような関係ではなかったのが、事故後はすっかり心配する癖が身に付いたのか、一日一回は安否確認をされるようになってしまった。 心配のしすぎでそのうちハゲてしまうんじゃないかと、むしろこちらが心配になる。 でも、それもやっぱり仕方がないのかもしれない。 本当は退院後、昔のように兄弟揃って暮らす予定でいた計画も狂わせてしまったし、あの事故で、ファイは左目を失う結果になってしまった。 今は閉じてしまった瞼を眼帯で隠しているが、もうじき義眼を入れることになっている。 それでも視力が戻るわけではないし、常に側で見ていられないのは不安で仕方がないのだろう。 だが、弟は黒鋼と面識がある。悪い印象は持っていないようだった。ユゥイと黒鋼が偶然顔を合わせなかったら、自分たちの再会はまだずっと先か、永遠に互いの存在に気付かないままだったかもしれない。 『彼とは上手くいってるの?』 「え!」 『赤くならなくていいよ』 まるで側で見ているような口ぶりだが、実際のところファイはついさっき奪われた唇の感触を思い出して赤面していた。 「い、いってるよー。仲良くしてもらってる」 『ならよかった。あからさまにファイの好みのタイプだもんね』 「えへへへー」 『あんまり心配かけないようにね。目のこともあるんだから、外を歩くときは特に気を付けて』 「わかってるよぅ」 それは耳にタコができるほど聞かされている。 でも実のところ、彼が心配するほどファイは片目だけの生活に不便を感じてはいなかった。この状態で飛び回っていた生活は無駄ではなかったようで、もはや全く違和感がない。 仕事へも思っていた以上に早く復帰できて、部屋に缶詰になるか、取材や打ち合わせで一日中家を空けることも多くなっていた。 幽霊もどきだった頃はただのんびりと黒鋼の帰りを待っていればよかったが、今はそういうわけにもいかない。 『じゃあ、ボクはそろそろ時間だから切るね』 ほぼ日課になっている注意喚起をするだけして、スッキリしたらしい。清々しい笑顔が目に浮かぶようだった。 「うん。忙しいのにいつもごめんね」 『ごめんねより、ありがとうの方が嬉しいかな』 「あはは、そだね。ありがと」 『今度ふたりでおいで。ちゃんと挨拶させてよ』 「うん……今度ね」 じゃあねと同時に言って、ファイは双子の弟との通話を終えた。 ふぅ、と息をつきながらソファの背もたれに頭部を預け、天井を見上げる。 「挨拶、かー」 黒鋼も残業や休日出勤が当たり前の仕事ぶりなので、こうして一緒に暮らしていても、なかなか二人でゆっくりと過ごせる時間には恵まれていない。 眠る時間もバラバラだったりして、タイミングが合ったとしてもぴったりとくっつきながらすぐに眠りに落ちてしまう。 ゆっくり外で食事を楽しむなんて機会も、頼めばどうにかして時間を作ってくれるかもしれないが、負担になるような真似はさせたくなかった。 それでもファイは十分すぎるほど毎日が幸せだった。 黒鋼はいつも帰りが遅いくせに、ファイが家にいる日は必ず遅くなるというメールを寄越す。そんなことくらい知っているのだから、いちいち連絡を寄越すこともないのに。 あの大きな手でちまちまとメールを打っているのかと思うと、可愛すぎてどうしたらいいか分からない。 でも、それがもし『前』の失敗を踏まえてのことなのだとしたら、無理をしているのではないかと少し不安にもなった。 だからこちらからは、なかなか彼の生活スタイルに口出しできない。 仕事で遅いのか、それとも付き合いで遅いのか、気になっても確認することは躊躇われる。 結局、まだ半分幽霊だった頃の気持ちが抜けないのだと思う。もはや踏み込んで壊れる関係ではないのだと信じたいのに。 多分、ファイにはあの女の生霊の気持ちがよく分かる。 ファイには今までの人生で特定の相手というものがいなかったから、黒鋼と付き合うようになって初めて自覚した。 自分はバカみたいにヤキモチ焼きで、すぐに不安になってしまう性分だということを。 黒鋼はファイにとってまさに理想を形にしたような男だった。 だから贔屓目で見てしまうのかもしれない。それでも、あれだけの男前なら引く手数多に違いないし、彼は元々ノンケである。 そんな相手をどこまで繋ぎとめていられるのか、ファイには正直自信がない。 飽きられたらどうしようとか、やっぱり男は無理だと捨てられたらどうしようとか。 今がいつまで続くのだろうかと、考え出すと眠れなくなったりもする。 幸せすぎると怖くなるなんて。 よく聞く話だ。 恋人なんて諦めていたから、きっと無縁の人生を送ることになるだろうと諦めていたファイは、まさに降って湧いたような幸福が怖くなる。 こんな風にいちいち不安になってしまう面倒臭い自分を知られたら、呆れられてしまうのではないか。 「はぁ……オレって鬱陶しいなぁ……」 情けなくて、溜息と一緒にさらに深くソファに沈み込む。そしてすぐに紅茶を飲もうとしていたことを思い出し、のろのろと立ち上がった。 だがそこで、手の中で握りっぱなしだった携帯が再び音を立てた。 画面を見ると、メールが一件。 「黒たん?」 それはつい今しがた出て行ったばかりの黒鋼からだった。 『件名:言い忘れてた 本文:寄り道なんかして遅くなるんじゃねぇぞ。気をつけて行ってこい。』 それを見て、ファイは身体から力が抜けるような気がした。 前と違って重力に逆らないながら生きる身体は、あっけないほど簡単に崩れ落ちて、ぼすんという音と共に再び座り込んでしまった。 時間帯から察するに今、黒鋼は朝の満員電車に押し潰されそうになっているに違いなかった。そんな中でわざわざメールを、あの大きな手で、チマチマと……。 もしかしたら、あの男はああ見えて元からマメな性格なのかもしれない。そして多分、過保護だ。 なんだか一人で悶々としていたのが一瞬で馬鹿らしくなってくる。 「もう……なんなのこの人!」 頬が熱い。だから不安になるのに、怖くなるのに。それなのに、この面倒で鬱陶しい感情と、ずっと付き合っていたいとも思ってしまう。 それは光と影のように。朝と夜のように。表があるから、裏があるように。 何も特別なんかじゃない、ありふれた日常のありふれた言葉や出来事が、ちょっとしたことですぐにこびりつく錆のような不安を、真新しいペンキで塗り潰す。その繰り返し。 ファイは零れる笑みを抑えきれないまま、手早くメールに返信した。 そして他に誰がいるわけでもないのに、「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら元気よく再び立ち上がった。 『件名:Re:言い忘れてた 本文:愛してる!』 ←戻る ・ 次へ→
「ファイ……ファイ……!?」
暗い暗い闇の底から、ゆっくりと浮上したファイが真先に聞いたのは、弟の声だった。
ピクリと動かした指先を取られ、強く握り締められる。
まだハッキリとしない意識で、ファイは右目を声のする方へ向けた。
薬品の香りと、ユゥイの泣き顔。
弟の泣いた顔なんて、子供の頃以来ずっと見ていない。
「ユゥイ……?」
「おはようファイ……おはよう……」
おはよう。それは目覚めの言葉。ファイは小さく、首を傾げた。
「……寝てた?」
「そうだよ……ずっと寝てたんだよ……半年も、ずっと」
「はんとし」
意識はいまだに霧がかかったように薄ぼんやりと彷徨うばかりだった。
ただ、異常な喉の渇きと身体の重さだけが圧し掛かる。
「ファイ……?」
気づくと、ファイは泣いていた。
涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
「夢を」
「夢……?」
「うん……ずっと、夢を見ていたよ……」
大好きな人と一緒にいる、幸せな夢を。
*
「黒たーん! 早く行かないと遅刻しちゃうよー!」
朝食で使った食器を洗いながら、寝室へ向かって声をかける。
すぐに鞄を手に出て来た黒鋼は表情こそむっつりとしているが、本当は少し焦っているに違いない。朝はたった5分でも命取りになる。いつもならとっくに家を出ている時間だった。
「あぁ待って! お弁当忘れてるってば!」
「おう、悪い」
「待って待って! ネクタイ曲がってるよ!」
カウンター越しに青いハンカチで包んだ弁当箱を渡し、そのまま出て行こうとする黒鋼の襟を引っ張る。腕時計を見やる彼のネクタイをサッと正して、よし、と呟くと今度はこちらがシャツの胸倉を掴まれて引っ張られた。
「ッ!」
一瞬だけ唇が触れて、ファイはほんの数秒硬直したあと、真っ赤な顔で息を呑む。
黒鋼はふん、と少し意地悪そうに鼻で笑った。不意打ちが成功すると、彼は決まってこういう笑い方をするから、食らう方としてはちょっと悔しい。
「おまえも今日は取材だったな」
「う、うん。午後からだから帰りは同じくらいか……ちょっと遅くなるかも」
「そうか」
「晩ご飯、適当に済ませちゃってね」
「……わかった。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい!」
リビングを出て行く黒鋼の背に向かって、カウンターに乗り出して思い切り手を振った。
五月。
病院を退院したファイは元々暮らしていた、そして今は黒鋼がいるマンションへ戻って来ていた。
病院のベッドで目覚めた時、ファイは黒鋼と過ごした時間を夢だとばかり思い込んでいた。
自分の理想のタイプが目の前に現れて、恋人として生活するなんて、あまりにも都合がよすぎてただ虚しいだけだった。だから黒鋼と中庭で再会したとき、ファイはまだ夢の中にいるような気分だった。
そもそも今にして思えば、うだうだせずにユゥイの様子を見に行っていればよかったのだ。
そうしたら自分がしっかり生きていて、幽体離脱しているだけだとすぐに分かったのに。
黒鋼も事あるごとにそれを言う。それだけ悲痛な思いをさせてしまったのだと思うと申し訳ないが、実は少し嬉しかったりもする。
自分が死者であると思い込んでいた以前に、ファイは黒鋼が同じだけの思いを返してくれるなんて、それこそ夢にも思っていなかったから。
「さーて、お茶でも飲んでひと息つこうかなー」
片付けを終えたファイはハンドタオルで両手を拭きながら、リビングの壁掛け時計を見やる。
あらかじめ水を入れておいたカウンターの電気ポットにスイッチを入れて、カップや紅茶の缶などを用意する。だがそこで、テーブルの上に置きっぱなしだった携帯が鳴った。
ファイは慌ててカウンターを迂回すると、携帯を取って通話ボタンを押す。
「はいはーい」
『おはよ、ファイ』
着信はユゥイからのものだった。ファイは同じく「おはよーユゥイー」と笑顔で返し、携帯を耳に押し当てたままソファに腰かける。
『今日の調子はどう?』
「元気だよー! 今ね、朝ご飯の片付け終わらせたとこー」
じゃあいいタイミングだったねと、受話器越しでユゥイが笑った。
彼はファイが退院してこのマンションに戻ってから、こうして毎日のように電話をかけて寄越すようになっていた。
以前は便りがないのは良い便りとばかりにベタベタするような関係ではなかったのが、事故後はすっかり心配する癖が身に付いたのか、一日一回は安否確認をされるようになってしまった。
心配のしすぎでそのうちハゲてしまうんじゃないかと、むしろこちらが心配になる。
でも、それもやっぱり仕方がないのかもしれない。
本当は退院後、昔のように兄弟揃って暮らす予定でいた計画も狂わせてしまったし、あの事故で、ファイは左目を失う結果になってしまった。
今は閉じてしまった瞼を眼帯で隠しているが、もうじき義眼を入れることになっている。
それでも視力が戻るわけではないし、常に側で見ていられないのは不安で仕方がないのだろう。
だが、弟は黒鋼と面識がある。悪い印象は持っていないようだった。ユゥイと黒鋼が偶然顔を合わせなかったら、自分たちの再会はまだずっと先か、永遠に互いの存在に気付かないままだったかもしれない。
『彼とは上手くいってるの?』
「え!」
『赤くならなくていいよ』
まるで側で見ているような口ぶりだが、実際のところファイはついさっき奪われた唇の感触を思い出して赤面していた。
「い、いってるよー。仲良くしてもらってる」
『ならよかった。あからさまにファイの好みのタイプだもんね』
「えへへへー」
『あんまり心配かけないようにね。目のこともあるんだから、外を歩くときは特に気を付けて』
「わかってるよぅ」
それは耳にタコができるほど聞かされている。
でも実のところ、彼が心配するほどファイは片目だけの生活に不便を感じてはいなかった。この状態で飛び回っていた生活は無駄ではなかったようで、もはや全く違和感がない。
仕事へも思っていた以上に早く復帰できて、部屋に缶詰になるか、取材や打ち合わせで一日中家を空けることも多くなっていた。
幽霊もどきだった頃はただのんびりと黒鋼の帰りを待っていればよかったが、今はそういうわけにもいかない。
『じゃあ、ボクはそろそろ時間だから切るね』
ほぼ日課になっている注意喚起をするだけして、スッキリしたらしい。清々しい笑顔が目に浮かぶようだった。
「うん。忙しいのにいつもごめんね」
『ごめんねより、ありがとうの方が嬉しいかな』
「あはは、そだね。ありがと」
『今度ふたりでおいで。ちゃんと挨拶させてよ』
「うん……今度ね」
じゃあねと同時に言って、ファイは双子の弟との通話を終えた。
ふぅ、と息をつきながらソファの背もたれに頭部を預け、天井を見上げる。
「挨拶、かー」
黒鋼も残業や休日出勤が当たり前の仕事ぶりなので、こうして一緒に暮らしていても、なかなか二人でゆっくりと過ごせる時間には恵まれていない。
眠る時間もバラバラだったりして、タイミングが合ったとしてもぴったりとくっつきながらすぐに眠りに落ちてしまう。
ゆっくり外で食事を楽しむなんて機会も、頼めばどうにかして時間を作ってくれるかもしれないが、負担になるような真似はさせたくなかった。
それでもファイは十分すぎるほど毎日が幸せだった。
黒鋼はいつも帰りが遅いくせに、ファイが家にいる日は必ず遅くなるというメールを寄越す。そんなことくらい知っているのだから、いちいち連絡を寄越すこともないのに。
あの大きな手でちまちまとメールを打っているのかと思うと、可愛すぎてどうしたらいいか分からない。
でも、それがもし『前』の失敗を踏まえてのことなのだとしたら、無理をしているのではないかと少し不安にもなった。
だからこちらからは、なかなか彼の生活スタイルに口出しできない。
仕事で遅いのか、それとも付き合いで遅いのか、気になっても確認することは躊躇われる。
結局、まだ半分幽霊だった頃の気持ちが抜けないのだと思う。もはや踏み込んで壊れる関係ではないのだと信じたいのに。
多分、ファイにはあの女の生霊の気持ちがよく分かる。
ファイには今までの人生で特定の相手というものがいなかったから、黒鋼と付き合うようになって初めて自覚した。
自分はバカみたいにヤキモチ焼きで、すぐに不安になってしまう性分だということを。
黒鋼はファイにとってまさに理想を形にしたような男だった。
だから贔屓目で見てしまうのかもしれない。それでも、あれだけの男前なら引く手数多に違いないし、彼は元々ノンケである。
そんな相手をどこまで繋ぎとめていられるのか、ファイには正直自信がない。
飽きられたらどうしようとか、やっぱり男は無理だと捨てられたらどうしようとか。
今がいつまで続くのだろうかと、考え出すと眠れなくなったりもする。
幸せすぎると怖くなるなんて。
よく聞く話だ。
恋人なんて諦めていたから、きっと無縁の人生を送ることになるだろうと諦めていたファイは、まさに降って湧いたような幸福が怖くなる。
こんな風にいちいち不安になってしまう面倒臭い自分を知られたら、呆れられてしまうのではないか。
「はぁ……オレって鬱陶しいなぁ……」
情けなくて、溜息と一緒にさらに深くソファに沈み込む。そしてすぐに紅茶を飲もうとしていたことを思い出し、のろのろと立ち上がった。
だがそこで、手の中で握りっぱなしだった携帯が再び音を立てた。
画面を見ると、メールが一件。
「黒たん?」
それはつい今しがた出て行ったばかりの黒鋼からだった。
『件名:言い忘れてた
本文:寄り道なんかして遅くなるんじゃねぇぞ。気をつけて行ってこい。』
それを見て、ファイは身体から力が抜けるような気がした。
前と違って重力に逆らないながら生きる身体は、あっけないほど簡単に崩れ落ちて、ぼすんという音と共に再び座り込んでしまった。
時間帯から察するに今、黒鋼は朝の満員電車に押し潰されそうになっているに違いなかった。そんな中でわざわざメールを、あの大きな手で、チマチマと……。
もしかしたら、あの男はああ見えて元からマメな性格なのかもしれない。そして多分、過保護だ。
なんだか一人で悶々としていたのが一瞬で馬鹿らしくなってくる。
「もう……なんなのこの人!」
頬が熱い。だから不安になるのに、怖くなるのに。それなのに、この面倒で鬱陶しい感情と、ずっと付き合っていたいとも思ってしまう。
それは光と影のように。朝と夜のように。表があるから、裏があるように。
何も特別なんかじゃない、ありふれた日常のありふれた言葉や出来事が、ちょっとしたことですぐにこびりつく錆のような不安を、真新しいペンキで塗り潰す。その繰り返し。
ファイは零れる笑みを抑えきれないまま、手早くメールに返信した。
そして他に誰がいるわけでもないのに、「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら元気よく再び立ち上がった。
『件名:Re:言い忘れてた
本文:愛してる!』
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