2025/09/19 Fri 中学生になって、黒鋼はバスケ部に入った。 本当は剣道がしたかったものの、残念なことに剣道部自体がなかったため、諦めた。そこで悩んだ末、バスケをすると背が伸びると聞いて入部を決めた。 今は毎日のように日が暮れるまで部活動に勤しんでいる。 その日も暗くなってから帰宅すると、母が夕食の支度をしていた。 「あらおかえりなさい」 母は笑顔で黒鋼に声をかけながら、大きなボウルに山のように積まれたジャガイモの皮を剥いていた。 「こんな大量のジャガイモ、一体どうしたんだ?」 「うふふ、凄いでしょ? お隣さんがさっきいらして、お裾分けしてくださったの。コロッケとポテトサラダにしようと思って。出来上がったらお隣さんにも少し持って行くって約束したのよ」 それにしたったこれだけの量を一人で剥くのは大変だろうと、手を洗って腕まくりをした黒鋼がジャガイモの一つに手を伸ばしたとき、母が思い出したように「そうそう!」と少し大き目の声を上げた。 「これを頂いた時に聞いたんだけど……」 母が告げた言葉を聞いて、黒鋼は思わずジャガイモを取り落とした。 * 夜、自室のベッドに寝転んで暗い天井を眺めながら、ジャガイモ料理で腹を膨れさせた黒鋼は、久しぶりに悶々とした気持ちに取り憑かれていた。 最近は新しい環境の中、勉強や部活動に忙しくて忘れていられた感覚だったのに。 台所で母から聞いたのは、ファイが突然イタリアへ帰国することになった、という内容だった。 しかも明日、出発するのだと。 別にヤツがどこへ行こうと、もう自分には関係ない。 それでも一応は最後に顔でも見ておくかと、出来あがったコロッケとポテトサラダを隣に持っていく役を買った。 しかしファイは不在で、会うことは叶わなかった。 前のようにしょっちゅう顔を合わせる仲だったら、もっと事前に直接本人から話を聞けたのかもしれない。 こんなにもモヤモヤすることもなく、ごく普通に見送れた気もする。 ファイは黒鋼のことを『わんこ』なんて呼んだけど、今思えばヤツの方がずっと犬みたいに纏わりついて騒々しかった。 疎遠になってからというもの、本当はずっと胸に風穴が空いたような気がしていた。 今でもおちょくられていた日々を思い出せば腹も立つし、無闇やたらとキスされまくったことも面白くない。 おそらくあれは、犬や猫に飼い主がするような類のキスだったのだと思う。それ以上の特別な意味などなかったのだ。そもそも外人は挨拶代わりに平気でキスをするらしいし。 ならあのキスが、普通に男女が交わすような意味合いを含んでいたとしたら? 去年の夏の夜、ファイが彼女を連れている場面に遭遇しなかったとしたら? あんなにも腹を立てることはなかったのか……? 「……アホ」 一体なにを考えているのだろう。 そんな気色の悪いことがあってはたまらない。 そう思うのに。 どうして嫌じゃなかったんだろう、と。 別に女のようにファーストキスなんてものに憧れを持っていたわけではないが、初めてを不意打ちのように奪われたことへの衝撃が大きすぎて、抗うまでに気持ちが回らなかったのだろうか。 だがそうすると、それ以降もまるで抵抗できなかったことに説明がつかない。 わからない。何がなんだか、自分がさっぱりわからない。 また腹が立ってきた。会わなくなってまで、まるでヤツにおちょくられているような気がする。 あんなバカはとっととイタリアでもどこでも行ってしまえばいい。考えるだけ無駄だと、黒鋼は寝返りを打って壁と向き合った。 そのまま目を閉じて眠ろうとした時。 『わんわーん、わーんわーん』 「?」 どこからかふざけた声が聞こえた気がして、黒鋼は腰を捩って僅かに半身を起した。 『わんわんわーん、わーんーこー』 わんこ……だと……? まさか……と思い、ベッドから抜け出すとカーテンを開け、大きな音を立てないようにそっと窓を開けた。 「あ、わんこー!」 「!?」 黒鋼の部屋の窓から丁度見下ろせる門扉の前で、ファイが街灯に照らされながらウサギのように跳ねて両手を振っている。 しかも、もはや黒鋼の『黒』すらなく、ただのわんこ呼びである。 一応、コソコソ話をするようなトーンで声を潜めてはいるらしいが、もし近所の者が見たらただの危ない人だ。 (あのバカ……!) 黒鋼は一つ舌打ちをすると、上着を手に慌てて部屋を飛び出した。 * 夏隣と呼ばれる晩春のこの時期、夜の風はどこか生温く、いやに湿っぽい。 家の前で会話するには時間も遅すぎて、2人はなんとなくすぐ近くの公園へ向かった。 顔を合わせた時に一言二言声を交わした程度で、その道のりでは他に会話らしい会話はなかった。 並んで歩くとやっぱりファイは長身で、黒鋼とは頭一つ分くらいの差があった。 これでも多少は伸びた方なのだが、改めて並ぶとまだまだ届きそうもないなと、ぼんやり思う。 ほんの数分歩くだけで、目的地にはすぐ到着した。 夜の公園はどこか不気味で、しかも街灯が切れかかっているせいでいかにも何か出そうな雰囲気を醸し出している。 敷地内にある自販機横のベンチに腰掛ける黒鋼に、ファイがそこで買った冷たいお茶の缶を手渡してきた。 とりあえず素直に受け取っておく。 「こんな時間に話ってなんだ」 貰ったお茶は脇に置いて、一人分くらい空白を開けて隣に座ったファイを横目で睨んだ。おそらく帰国の話だろうと思ったが、何もわざわざ律儀に顔を見せに来ることもないのに。 そうは思いつつ、最後に顔を見れたことに少しだけホッとしたが、その感情は胸の奥底に押し込めた。 「久しぶりに未来のお嫁さんの顔を見に来たんだよー」 「てめぇ……まだそんなこと言ってんのか」 呆れて怒る気にもなれない黒鋼を見て、ファイは「ふふふ」と笑った。 こんなやり取りは久しぶりで、でも思い出しみれば彼と顔を合わせなくなってから、まだ1年も経っていないことに気がついた。 あの頃まだ自分は小学生で、ファイはギリギリ10代だった。それがまるでずっと昔のことのように感じる。 「黒たんにさー、一応は謝らないとなーって思って」 懐かしさに浸っていた黒鋼に、ファイが珍しく俯いてしおらしげに切り出した。 こんなことは今までにないことで、らしくない様を見せられると落ち着かない気持ちになる。 「なんだよ。今更よせよ」 「そうかもだけどー……お母さんからは、聞いたでしょ?」 「ああ……」 「黒たんが来てくれたって聞いたけど、会えなかったから」 「別に、それ聞いたから行ったわけじゃねぇからな」 嘘なわけだが。 どうも素直になれない黒鋼だったが、それでもファイは嬉しそうに笑った。 「よかったー」 「何が」 「またこうしてお話してもらえて」 「…………」 「嫌われるようなこと沢山しちゃったのは分かってたけど、急に会えなくなっちゃったから」 「それは、おまえが……」 『最後だ』なんて言うから。それが悔しくて、腹が立って。 しかし改めて言われると、ごく普通に挨拶を交わす程度の付き合いすら放棄してしまった自分の方が、悪いことをしてしまったような気になってくる。 「だからね、こうやってちゃんと会ってもらえて、本当によかったー」 そう言って、ファイは目元を指先で拭いながら笑った。 その手首にオモチャのようなアクセサリーが光っていることに、黒鋼は息を飲んだ。それはあの夜に投げつけたものだ。 ゴミとまで言ったものをわざわざ作って、しかも大事に身につけているだなんて。 「あ、ほら。これのお礼もまだ言えてなかったしね」 黒鋼の目がブレスレットに釘付けになっていることに気付いたファイが、手首を緩く振って「ありがと」と小さな声で言う。 「これ、ずっと大事にするからね」 「別に……」 そう言って目を背けるつもりが、タイミングを逃してしまった。 自販機の煌々とした明かりが、彼の潤んだ瞳に写し出されていた。また嘘泣きかと思ったのは一瞬で、思えば今夜限りでファイはこの国を去るのだということを思い出した。 今更のようにそれが重く圧し掛かって来るような気がする。なぜか少し、焦った。 「もう帰ってこれねぇのか……?」 だから咄嗟に聞いていた。 そもそも、どんな理由があって帰ることになったのかまでは、聞いていない。 ファイは小さく唸ると、また俯いた。 「オレの母親、日本人だったんだけど、オレが小さい頃に死んじゃったって話は、したことあったかな?」 「いや、初耳だ……」 「そっかー。オレねー、母親の影響でずっと日本に憧れてて。それで無理言ってこっちに来させてもらってたんだー」 黒鋼はファイが幼い頃に母を亡くしているという事実に、ショックを受けた。 思えばなぜ一人きりでわざわざ日本へやって来たのかも、考えてみれば不思議な話だったが、彼の口から聞いて初めて知った。 「でも、昨日連絡があって……ユゥイが身体壊して倒れちゃったって……」 「弟、だったな」 「うん……あの子は小さな頃から身体が弱かったから……」 ファイはその弟を心配して、傍で看病するために帰国することを決めたのだと言った。 「オレが傍にいてあげないと。きっと今ごろ、凄く不安だと思うから」 「……そうか」 ならば、いつまた日本へ戻って来られるかは分からないということなのだろう。ただ分かるのは、ファイが弟のことを深く案じているということだった。 黒鋼は何を言えばいいのか、言うべきなのか、ただ言葉を失っていた。向こうでも頑張れよ、だとか、気をつけて行って来い、だとか。多分、そういった月並みな言葉が正解なのだと、頭では分かっていた。 なのに、なぜかそんな簡単な言葉がすんなりと口から出てこない。 昔はあんなに関わりたくないと思っていたのに。一緒にいると腹の立つことばかりで、嫌な思いばかりさせられたのに。 どうしていざ会えなくなると分かった途端、それらがまるでいい思い出だったかのように脳裏に甦って来るのだろう。 それでも、湿っぽくなるのは御免だった。 黒鋼は全てを吹っ切るように大きく息を吐きだした。 「別に、一生会えねぇわけじゃないだろ」 「……うん」 「湿っぽい顔すんな。戻ってきたら、また一緒に太鼓でも叩いてやるよ」 「黒たん……」 そこでやっと、黒鋼は小さく笑うことができた。ファイは情けなく鼻をすすりながら、大きく頷いた。 「なんか、初めて黒たんカッコイイって思っちゃったー」 「初めてが余計だ」 「カッコイイお嫁さんっていうのも、悪くないかもだねー」 「あのなぁ、いい加減その嫁ってのよせ」 えへへ、と照れ臭そうに笑いながら、ファイは子供のように拳で頬の涙をぬぐっていた。 こんな形でファイの泣き顔を見ることになったのは少し複雑だが、こうして改めて言葉を交わしたことで、新たにいい関係が築けたような気がして清々しい気持ちになる。 しかしそれも束の間。 カツンと音を立てて、何かが足元に転がったかと思うと、サンダルを突っかけてきた黒鋼の足先に冷たい何かがぶつかった。 「何か落としたぞ」 「あ」 「……なんだこれ?」 咄嗟に拾い上げたものを確認するために、目の位置から少し高いところまで持ち上げて見た。 それは『うるるんMAX』と表記された、ピンクの液体の目薬だった……。 「おい……これは何だ……?」 拾い上げた目薬を摘まんでいる指先が、カタカタと震えていた。 「あ、あれー? これなんだろうねー?」 「おまえの方から落ちてきたみてぇだがな?」 「隕石かなー? 急に落ちて来るなんてビックリだねー? あ、あれ? 黒たん? どうしたのそんなに震えて……?」 「てめぇ……」 すすす、とベンチの端まで移動して、そのままそっと立ち上がろうとしているファイの頭に、ぬうっと手を伸ばした。 今日という今日は。 「絶っっっ対に許さねぇぞ!!!」 「ギャーッ! 痛い痛い!! 助けてーっ!!」 金の髪を思い切り鷲掴み、ハゲろとばかりにグイグイと力いっぱい引っ張ってやる。ファイが悲鳴を上げてジタバタ暴れても、もう容赦するつもりはなかった。 近所迷惑だろうが何だろうが、仮に警察が駆けつけたところでコイツを「おまわりさん、コイツ変態です」と言って突き出してやれば済む話だ。 「最後の最後まで嘘泣きすんじゃねぇ!! 死ね!! ハゲ上がって死ね!!」 「ハゲるのイヤーッ! 雰囲気出した方がいいかと思っただけなのにー!」 「俺の感動を返せ!! てめぇなんか二度と帰ってくんな!!」 「いきなりハゲて帰ったらユゥイがビックリしちゃうよぉー!!」 「知るか!!!」 黒鋼は本気でファイの髪を全て毟る気満々だったが、持ち主に似て図太い毛根はなかなかの踏ん張りを見せ、やがてファイが逃げ出すことに成功したお陰で目論見は失敗に終わった。 黒鋼の怒りは収まるどころか無限に膨らみ、走って逃げていくファイを鬼の形相で追いかける。 「待てえぇ!!!」 「子鬼が!! 可愛い子鬼が追いかけて来るぅー!!」 「ぶん殴る!!!」 「キャーッ!!」 公園の遊具をグルグルと回るようにして追いかけ回す中、いつの間にやら楽しげに笑いだしているファイが憎たらしくて仕方がなかった。 なんとしても捕まえて、一発殴らなければ気が済まない。 だが、足の速さに自信のある黒鋼でも、ちょこまかと動き回るファイを捕えることがなかなかできない。 「あははー! 早く捕まえてごらーん!」 「バカにしやがって!! 止まれ!! マジで殴る!!」 「殴ると言われて止まるバカはいないよー!」 「うるせぇアホ!! バカ!!」 「あ、オレ来週には普通に帰ってくるからねー!」 「……はぁあぁ!?」 黒鋼は、思わず足をもつれさせて思いっきりすっ転んだ。 目薬を使って嘘泣きを演出したどころか、最初からまるっきり騙されていたということか。 どこまで人をコケにすれば気が済むのだろう。 黒鋼は砂地に四つん這いになったまま、開いた口が塞がらない状態だった。 「わーい! ドッキリ大成功ー!!」 ファイはキャーキャーと楽しそうにはしゃいで、飛び跳ねながら万歳をしている。 黒鋼は震える指先をぐしゃりと握った。公園の乾いた砂が、爪の中に深く潜り込んでくるのもお構いなしに。 (こいつ……こいつだけは……死んでも許さねぇ……) 「いいか!? いつかぜってー泣かすからな!! 覚えとけよ!!」 未だに変声期を向かえないままの黒鋼の少年らしい甲高い声と、ファイの楽しげに笑う声が、静まりかえっていた町中に響き渡った。 やがて本当に巡回中だったお巡りさんがやってきて、2人揃ってたっぷり叱られたのは別の話である。 * 結局、ファイによる壮大な釣り作戦は大成功し、黒鋼はそれにまんまと引っかかって終った。 弟のユゥイはそもそも身体が弱いなどという設定もなく、ちょっと風邪をこじらせただけで、お見舞いがてら里帰りしたファイは本当にきっかり一週間で日本に帰って来た。 そして幸か不幸か、以前のように顔を合わせればからかわれる日常が戻ってきた。 その度に悔しいし、殴りかかりたくて仕方がなかったけれど、不思議と安堵している自分もいた。疎遠になっていた間ずっと風通しのよかった胸の隙間が、すっかり塞がったような気がする。 「今年の夏祭り、一緒に行かない?」 そう言われて、咄嗟に「彼女とは別れたのか」と聞くと、「そんなのいないよ?」と不思議そうに返された。 そこで初めてファイが去年の祭りで出店のバイトに加わっていたことを知った。まるっきり勘違いしていた自分が恥ずかしくて、そしてバカバカしかった。 そして黒鋼は、ちょっとだけ嫌そうな顔をして見せたものの一緒に祭へ行くことを了承した。 昨年は少し苦いような、甘酸っぱい思い出に終わってしまったけれど、今年はきっといい夏になると思えた。 なんだかんだで、ファイが傍にいるとホッとするし、悔しい半面、楽しい。そのくらいはそろそろ認めてやってもいいかと思った。 それなのに。 夏を待たずして、黒鋼の生活に変化が訪れることになった。 皮肉なことに、嘘でも冗談でもなく本当に『別れ』の時が来てしまったのだ。 ←戻る ・ 次へ→
本当は剣道がしたかったものの、残念なことに剣道部自体がなかったため、諦めた。そこで悩んだ末、バスケをすると背が伸びると聞いて入部を決めた。
今は毎日のように日が暮れるまで部活動に勤しんでいる。
その日も暗くなってから帰宅すると、母が夕食の支度をしていた。
「あらおかえりなさい」
母は笑顔で黒鋼に声をかけながら、大きなボウルに山のように積まれたジャガイモの皮を剥いていた。
「こんな大量のジャガイモ、一体どうしたんだ?」
「うふふ、凄いでしょ? お隣さんがさっきいらして、お裾分けしてくださったの。コロッケとポテトサラダにしようと思って。出来上がったらお隣さんにも少し持って行くって約束したのよ」
それにしたったこれだけの量を一人で剥くのは大変だろうと、手を洗って腕まくりをした黒鋼がジャガイモの一つに手を伸ばしたとき、母が思い出したように「そうそう!」と少し大き目の声を上げた。
「これを頂いた時に聞いたんだけど……」
母が告げた言葉を聞いて、黒鋼は思わずジャガイモを取り落とした。
*
夜、自室のベッドに寝転んで暗い天井を眺めながら、ジャガイモ料理で腹を膨れさせた黒鋼は、久しぶりに悶々とした気持ちに取り憑かれていた。
最近は新しい環境の中、勉強や部活動に忙しくて忘れていられた感覚だったのに。
台所で母から聞いたのは、ファイが突然イタリアへ帰国することになった、という内容だった。
しかも明日、出発するのだと。
別にヤツがどこへ行こうと、もう自分には関係ない。
それでも一応は最後に顔でも見ておくかと、出来あがったコロッケとポテトサラダを隣に持っていく役を買った。
しかしファイは不在で、会うことは叶わなかった。
前のようにしょっちゅう顔を合わせる仲だったら、もっと事前に直接本人から話を聞けたのかもしれない。
こんなにもモヤモヤすることもなく、ごく普通に見送れた気もする。
ファイは黒鋼のことを『わんこ』なんて呼んだけど、今思えばヤツの方がずっと犬みたいに纏わりついて騒々しかった。
疎遠になってからというもの、本当はずっと胸に風穴が空いたような気がしていた。
今でもおちょくられていた日々を思い出せば腹も立つし、無闇やたらとキスされまくったことも面白くない。
おそらくあれは、犬や猫に飼い主がするような類のキスだったのだと思う。それ以上の特別な意味などなかったのだ。そもそも外人は挨拶代わりに平気でキスをするらしいし。
ならあのキスが、普通に男女が交わすような意味合いを含んでいたとしたら?
去年の夏の夜、ファイが彼女を連れている場面に遭遇しなかったとしたら?
あんなにも腹を立てることはなかったのか……?
「……アホ」
一体なにを考えているのだろう。
そんな気色の悪いことがあってはたまらない。
そう思うのに。
どうして嫌じゃなかったんだろう、と。
別に女のようにファーストキスなんてものに憧れを持っていたわけではないが、初めてを不意打ちのように奪われたことへの衝撃が大きすぎて、抗うまでに気持ちが回らなかったのだろうか。
だがそうすると、それ以降もまるで抵抗できなかったことに説明がつかない。
わからない。何がなんだか、自分がさっぱりわからない。
また腹が立ってきた。会わなくなってまで、まるでヤツにおちょくられているような気がする。
あんなバカはとっととイタリアでもどこでも行ってしまえばいい。考えるだけ無駄だと、黒鋼は寝返りを打って壁と向き合った。
そのまま目を閉じて眠ろうとした時。
『わんわーん、わーんわーん』
「?」
どこからかふざけた声が聞こえた気がして、黒鋼は腰を捩って僅かに半身を起した。
『わんわんわーん、わーんーこー』
わんこ……だと……?
まさか……と思い、ベッドから抜け出すとカーテンを開け、大きな音を立てないようにそっと窓を開けた。
「あ、わんこー!」
「!?」
黒鋼の部屋の窓から丁度見下ろせる門扉の前で、ファイが街灯に照らされながらウサギのように跳ねて両手を振っている。
しかも、もはや黒鋼の『黒』すらなく、ただのわんこ呼びである。
一応、コソコソ話をするようなトーンで声を潜めてはいるらしいが、もし近所の者が見たらただの危ない人だ。
(あのバカ……!)
黒鋼は一つ舌打ちをすると、上着を手に慌てて部屋を飛び出した。
*
夏隣と呼ばれる晩春のこの時期、夜の風はどこか生温く、いやに湿っぽい。
家の前で会話するには時間も遅すぎて、2人はなんとなくすぐ近くの公園へ向かった。
顔を合わせた時に一言二言声を交わした程度で、その道のりでは他に会話らしい会話はなかった。
並んで歩くとやっぱりファイは長身で、黒鋼とは頭一つ分くらいの差があった。
これでも多少は伸びた方なのだが、改めて並ぶとまだまだ届きそうもないなと、ぼんやり思う。
ほんの数分歩くだけで、目的地にはすぐ到着した。
夜の公園はどこか不気味で、しかも街灯が切れかかっているせいでいかにも何か出そうな雰囲気を醸し出している。
敷地内にある自販機横のベンチに腰掛ける黒鋼に、ファイがそこで買った冷たいお茶の缶を手渡してきた。
とりあえず素直に受け取っておく。
「こんな時間に話ってなんだ」
貰ったお茶は脇に置いて、一人分くらい空白を開けて隣に座ったファイを横目で睨んだ。おそらく帰国の話だろうと思ったが、何もわざわざ律儀に顔を見せに来ることもないのに。
そうは思いつつ、最後に顔を見れたことに少しだけホッとしたが、その感情は胸の奥底に押し込めた。
「久しぶりに未来のお嫁さんの顔を見に来たんだよー」
「てめぇ……まだそんなこと言ってんのか」
呆れて怒る気にもなれない黒鋼を見て、ファイは「ふふふ」と笑った。
こんなやり取りは久しぶりで、でも思い出しみれば彼と顔を合わせなくなってから、まだ1年も経っていないことに気がついた。
あの頃まだ自分は小学生で、ファイはギリギリ10代だった。それがまるでずっと昔のことのように感じる。
「黒たんにさー、一応は謝らないとなーって思って」
懐かしさに浸っていた黒鋼に、ファイが珍しく俯いてしおらしげに切り出した。
こんなことは今までにないことで、らしくない様を見せられると落ち着かない気持ちになる。
「なんだよ。今更よせよ」
「そうかもだけどー……お母さんからは、聞いたでしょ?」
「ああ……」
「黒たんが来てくれたって聞いたけど、会えなかったから」
「別に、それ聞いたから行ったわけじゃねぇからな」
嘘なわけだが。
どうも素直になれない黒鋼だったが、それでもファイは嬉しそうに笑った。
「よかったー」
「何が」
「またこうしてお話してもらえて」
「…………」
「嫌われるようなこと沢山しちゃったのは分かってたけど、急に会えなくなっちゃったから」
「それは、おまえが……」
『最後だ』なんて言うから。それが悔しくて、腹が立って。
しかし改めて言われると、ごく普通に挨拶を交わす程度の付き合いすら放棄してしまった自分の方が、悪いことをしてしまったような気になってくる。
「だからね、こうやってちゃんと会ってもらえて、本当によかったー」
そう言って、ファイは目元を指先で拭いながら笑った。
その手首にオモチャのようなアクセサリーが光っていることに、黒鋼は息を飲んだ。それはあの夜に投げつけたものだ。
ゴミとまで言ったものをわざわざ作って、しかも大事に身につけているだなんて。
「あ、ほら。これのお礼もまだ言えてなかったしね」
黒鋼の目がブレスレットに釘付けになっていることに気付いたファイが、手首を緩く振って「ありがと」と小さな声で言う。
「これ、ずっと大事にするからね」
「別に……」
そう言って目を背けるつもりが、タイミングを逃してしまった。
自販機の煌々とした明かりが、彼の潤んだ瞳に写し出されていた。また嘘泣きかと思ったのは一瞬で、思えば今夜限りでファイはこの国を去るのだということを思い出した。
今更のようにそれが重く圧し掛かって来るような気がする。なぜか少し、焦った。
「もう帰ってこれねぇのか……?」
だから咄嗟に聞いていた。
そもそも、どんな理由があって帰ることになったのかまでは、聞いていない。
ファイは小さく唸ると、また俯いた。
「オレの母親、日本人だったんだけど、オレが小さい頃に死んじゃったって話は、したことあったかな?」
「いや、初耳だ……」
「そっかー。オレねー、母親の影響でずっと日本に憧れてて。それで無理言ってこっちに来させてもらってたんだー」
黒鋼はファイが幼い頃に母を亡くしているという事実に、ショックを受けた。
思えばなぜ一人きりでわざわざ日本へやって来たのかも、考えてみれば不思議な話だったが、彼の口から聞いて初めて知った。
「でも、昨日連絡があって……ユゥイが身体壊して倒れちゃったって……」
「弟、だったな」
「うん……あの子は小さな頃から身体が弱かったから……」
ファイはその弟を心配して、傍で看病するために帰国することを決めたのだと言った。
「オレが傍にいてあげないと。きっと今ごろ、凄く不安だと思うから」
「……そうか」
ならば、いつまた日本へ戻って来られるかは分からないということなのだろう。ただ分かるのは、ファイが弟のことを深く案じているということだった。
黒鋼は何を言えばいいのか、言うべきなのか、ただ言葉を失っていた。向こうでも頑張れよ、だとか、気をつけて行って来い、だとか。多分、そういった月並みな言葉が正解なのだと、頭では分かっていた。
なのに、なぜかそんな簡単な言葉がすんなりと口から出てこない。
昔はあんなに関わりたくないと思っていたのに。一緒にいると腹の立つことばかりで、嫌な思いばかりさせられたのに。
どうしていざ会えなくなると分かった途端、それらがまるでいい思い出だったかのように脳裏に甦って来るのだろう。
それでも、湿っぽくなるのは御免だった。
黒鋼は全てを吹っ切るように大きく息を吐きだした。
「別に、一生会えねぇわけじゃないだろ」
「……うん」
「湿っぽい顔すんな。戻ってきたら、また一緒に太鼓でも叩いてやるよ」
「黒たん……」
そこでやっと、黒鋼は小さく笑うことができた。ファイは情けなく鼻をすすりながら、大きく頷いた。
「なんか、初めて黒たんカッコイイって思っちゃったー」
「初めてが余計だ」
「カッコイイお嫁さんっていうのも、悪くないかもだねー」
「あのなぁ、いい加減その嫁ってのよせ」
えへへ、と照れ臭そうに笑いながら、ファイは子供のように拳で頬の涙をぬぐっていた。
こんな形でファイの泣き顔を見ることになったのは少し複雑だが、こうして改めて言葉を交わしたことで、新たにいい関係が築けたような気がして清々しい気持ちになる。
しかしそれも束の間。
カツンと音を立てて、何かが足元に転がったかと思うと、サンダルを突っかけてきた黒鋼の足先に冷たい何かがぶつかった。
「何か落としたぞ」
「あ」
「……なんだこれ?」
咄嗟に拾い上げたものを確認するために、目の位置から少し高いところまで持ち上げて見た。
それは『うるるんMAX』と表記された、ピンクの液体の目薬だった……。
「おい……これは何だ……?」
拾い上げた目薬を摘まんでいる指先が、カタカタと震えていた。
「あ、あれー? これなんだろうねー?」
「おまえの方から落ちてきたみてぇだがな?」
「隕石かなー? 急に落ちて来るなんてビックリだねー? あ、あれ? 黒たん? どうしたのそんなに震えて……?」
「てめぇ……」
すすす、とベンチの端まで移動して、そのままそっと立ち上がろうとしているファイの頭に、ぬうっと手を伸ばした。
今日という今日は。
「絶っっっ対に許さねぇぞ!!!」
「ギャーッ! 痛い痛い!! 助けてーっ!!」
金の髪を思い切り鷲掴み、ハゲろとばかりにグイグイと力いっぱい引っ張ってやる。ファイが悲鳴を上げてジタバタ暴れても、もう容赦するつもりはなかった。
近所迷惑だろうが何だろうが、仮に警察が駆けつけたところでコイツを「おまわりさん、コイツ変態です」と言って突き出してやれば済む話だ。
「最後の最後まで嘘泣きすんじゃねぇ!! 死ね!! ハゲ上がって死ね!!」
「ハゲるのイヤーッ! 雰囲気出した方がいいかと思っただけなのにー!」
「俺の感動を返せ!! てめぇなんか二度と帰ってくんな!!」
「いきなりハゲて帰ったらユゥイがビックリしちゃうよぉー!!」
「知るか!!!」
黒鋼は本気でファイの髪を全て毟る気満々だったが、持ち主に似て図太い毛根はなかなかの踏ん張りを見せ、やがてファイが逃げ出すことに成功したお陰で目論見は失敗に終わった。
黒鋼の怒りは収まるどころか無限に膨らみ、走って逃げていくファイを鬼の形相で追いかける。
「待てえぇ!!!」
「子鬼が!! 可愛い子鬼が追いかけて来るぅー!!」
「ぶん殴る!!!」
「キャーッ!!」
公園の遊具をグルグルと回るようにして追いかけ回す中、いつの間にやら楽しげに笑いだしているファイが憎たらしくて仕方がなかった。
なんとしても捕まえて、一発殴らなければ気が済まない。
だが、足の速さに自信のある黒鋼でも、ちょこまかと動き回るファイを捕えることがなかなかできない。
「あははー! 早く捕まえてごらーん!」
「バカにしやがって!! 止まれ!! マジで殴る!!」
「殴ると言われて止まるバカはいないよー!」
「うるせぇアホ!! バカ!!」
「あ、オレ来週には普通に帰ってくるからねー!」
「……はぁあぁ!?」
黒鋼は、思わず足をもつれさせて思いっきりすっ転んだ。
目薬を使って嘘泣きを演出したどころか、最初からまるっきり騙されていたということか。
どこまで人をコケにすれば気が済むのだろう。
黒鋼は砂地に四つん這いになったまま、開いた口が塞がらない状態だった。
「わーい! ドッキリ大成功ー!!」
ファイはキャーキャーと楽しそうにはしゃいで、飛び跳ねながら万歳をしている。
黒鋼は震える指先をぐしゃりと握った。公園の乾いた砂が、爪の中に深く潜り込んでくるのもお構いなしに。
(こいつ……こいつだけは……死んでも許さねぇ……)
「いいか!? いつかぜってー泣かすからな!! 覚えとけよ!!」
未だに変声期を向かえないままの黒鋼の少年らしい甲高い声と、ファイの楽しげに笑う声が、静まりかえっていた町中に響き渡った。
やがて本当に巡回中だったお巡りさんがやってきて、2人揃ってたっぷり叱られたのは別の話である。
*
結局、ファイによる壮大な釣り作戦は大成功し、黒鋼はそれにまんまと引っかかって終った。
弟のユゥイはそもそも身体が弱いなどという設定もなく、ちょっと風邪をこじらせただけで、お見舞いがてら里帰りしたファイは本当にきっかり一週間で日本に帰って来た。
そして幸か不幸か、以前のように顔を合わせればからかわれる日常が戻ってきた。
その度に悔しいし、殴りかかりたくて仕方がなかったけれど、不思議と安堵している自分もいた。疎遠になっていた間ずっと風通しのよかった胸の隙間が、すっかり塞がったような気がする。
「今年の夏祭り、一緒に行かない?」
そう言われて、咄嗟に「彼女とは別れたのか」と聞くと、「そんなのいないよ?」と不思議そうに返された。
そこで初めてファイが去年の祭りで出店のバイトに加わっていたことを知った。まるっきり勘違いしていた自分が恥ずかしくて、そしてバカバカしかった。
そして黒鋼は、ちょっとだけ嫌そうな顔をして見せたものの一緒に祭へ行くことを了承した。
昨年は少し苦いような、甘酸っぱい思い出に終わってしまったけれど、今年はきっといい夏になると思えた。
なんだかんだで、ファイが傍にいるとホッとするし、悔しい半面、楽しい。そのくらいはそろそろ認めてやってもいいかと思った。
それなのに。
夏を待たずして、黒鋼の生活に変化が訪れることになった。
皮肉なことに、嘘でも冗談でもなく本当に『別れ』の時が来てしまったのだ。
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