アニメや絵本の中に出てくるような、大きな丸い月が真っ黒の空にぽっかりと浮かんでいた。
優しい風が吹く丘には白い花畑がどこまでも広がって、甘い香りで溢れかえっている。
幼い少年の姿をしたファイは一人、丘の真ん中にこじんまりとしゃがみ込んで、揺れる花々を見つめていた。
『またひとりぼっちか?』
頭の上で声がして、ファイは顔を上げた。
そこには目つきの悪い、黒い犬が佇んでいる。月明かりの下、赤いマフラーが風に吹かれてふわふわと踊っていた。
「黒わん」
立ち上がったファイは、自分と同じくらいの大きさの黒い犬にぎゅっと抱き付いた。黒わんは、こうしてファイが一人ぼっちでいると必ず現れる。
吊り上がった目は少しだけ怖いけど、黒い毛は柔らかくて温かい。
ずっとずっと昔から、黒わんはファイの友達だった。
「あのね、今日はクリスマスだったんだー」
ファイと黒わんは、丘の上で隣り合って座ると膝を抱え、丸い月を見上げた。
いつもこうしてその日あったことを報告する時間が、ファイにとってかけがえのないものだった。
「キラキラの木、すっごくキレイだったよー」
黒わんはファイの話をただ静かに聞いて、そうかそうかと何度も頷く。
「あのね、オルゴールもらったの。首から下げられるの」
『ペンダントか?』
「うん、そうー。ぺんだんと」
『よかったな』
「うん、嬉しかった……あとね」
ファイは子供らしい、丸みのある頬をほんのりと桃色に染めて俯いた。
幼い指先で、ちょん、と唇に触れて、少し迷う。誰にも言わないと約束したけれど、黒わんになら、話してもいいだろうか。
もじもじしながら唇を尖らせたり噛み締めたりしていると、黒わんが不思議そうに首を傾げて顔を覗き込んでくる。
「えと……それでね……そのあとね、黒わんがね」
『おれのことか?』
「あ、えっと……うぅん、違うの。黒わんじゃないの」
『おれのことじゃないのか?』
「うー、あのね、黒わんだけど、黒わんじゃなくて……んー……もっと、おっきいの」
ファイは上手く話せないことにだんだん焦りを覚え始めた。
今こうして一緒にいてくれる黒わんは、ファイの大切な友達だった。だけど、ファイが話したいのはもっと大きくて、もっと怖い顔をしている方の黒わんだった。
けれど今すぐ隣にいる黒わんは、どこか寂しそうだった。
『おれは、おまえの黒わんじゃないのか?』
「黒わんは、黒わんだよ……オレの大事なしんゆーだよ」
『だけど、おれはもういらないみたいだ』
「そんなことないよ!」
ファイが大きな声を出すと、白い花びらが空に舞い上がった。
風が強く吹いて、ぎゅっと目を閉じてからゆっくり目を開けると、そこにはもう黒わんの姿はなかった。
「黒わん……? 黒わんどこ……?」
ファイは立ち上がって黒わんを探した。月の丘を、黒わんの名前を呼びながら一生懸命探した。だけど、見つからなかった。どこまで行っても、ほんのりと淡い光を放つ花畑が広がっているだけだった。
一瞬でいなくなってしまった『しんゆー』の姿を懸命に探しながらも、ふと、この世界は一体どこまで続いているのだろうかという疑問が浮かび上がった。
広い広い世界にたった一人で取り残されてしまったのかと思うと、途端に膝から下がガクガクと震えだした。
「黒わん……どうして……」
どこにもいないんだろう。
いつだって話を聞いてくれた。寂しいときも、悲しいときも、嬉しいときも。
黒わんは静かに、ファイの隣にいてくれた。
なのに、もういない。どこにもいない。嫌われてしまったのだろうか。ファイはただ、話がしたかっただけなのに。
大好きな『黒わん』との思い出を、聞いてほしかっただけなのに。
***
目元に温かなものが触れていることに気が付いて、ファイはゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きをして、温もりの正体を目で追った。それは黒鋼の指で、彼は少し困ったように眉間の皺を深くしながら、ファイの顔を覗き込んでいた。
「なに泣いてんだよ」
「……黒わん?」
ファイは慌てて身を起こすとベッドの縁に腰かけていた黒鋼の胸にしがみつく。胸がズキズキと痛んでいた。悲しくて、寂しくて、涙が止まらない。
黒鋼は驚いていたようだが、すぐにファイを抱き返した。大きな腕の中に包まれていると、なぜかもっと泣きたくなった。
「黒わん……どこにも行かないで……遠くに行かないで……」
「なんだ、おっかねぇ夢でも見たか?」
黒鋼はファイの金色の頭に鼻先を押し付けて、小さく笑った。優しく背中を撫でられているうちに、ゆっくりと心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
引き攣るように息苦しかった呼吸が、黒鋼の温もりや匂いを感じるだけでどんどん楽になる。ほぅ、と息を吐き出して、ファイはひとつ鼻をすすった。
「黒わんが、いなくなっちゃう夢、見たの」
「俺が?」
「うぅん……黒わんだけど、黒わんじゃなくて……」
(あ……)
これは、あの月の丘でした会話と同じだ。
ファイが上手く話すことができなかったから、黒わんは消えてしまった。
「どうした?」
「ッ、あ、あの……なんでもない……」
「そうか」
黒鋼は長い指でファイの前髪をくしゃりと乱した。微かに持ち上がった口角を見ていると、昨日の夜のことを思い出す。
キラキラと輝くイルミネーションの中で、ファイは黒鋼とキスをした。
それは寝る前にユゥイとするものとは何かが違うような気がした。ユゥイとするのはお互いの頬っぺただったし、唇のキスはぬいぐるみとしかしたことがなかった。
黒鋼としたキスは、そのどれとも異なっていた。胸がぎゅっと締め付けられるような感じがして、身体の中に小さな火がついたみたいに、熱かった。
ファイはあのときと同じように顔が赤くなっていくのを感じながら俯いた。心臓のあたりが苦しくなってきて、胸元を強く握った。
落ち着かない気分で視線を泳がせれば、ぬいぐるみの方の黒わんが枕元に座っているのが視界の隅を掠めた。昔は耳や尻尾が取れかけていたが、ちゃんと直したから今は綺麗になっている。
夢の中に出てくる黒わんは、不思議なことにファイと大きさが変わらない。だけど枕元にあるものはすっぽりと膝に乗る程度の無難なサイズだ。
「おい、どっか痛ぇのか?」
そんなファイに気が付いて、黒鋼はファイの肩を掴むと少しだけ引き離す。だけどファイは顔を上げられなかった。いま黒鋼の顔を見たら、なぜかまた泣いてしまいそうだった。どうしてこんな気持ちになるのか、さっぱり分からない。自分が自分じゃないみたいだった。
黒鋼はファイの額に手を当てて、「少し熱っぽいか」と呟いた。
「寒いなか歩いちまったからな……薬、の前に飯がいいか。待ってろ、いま弟呼んでくる」
そう言って離れようとする黒鋼のシャツの袖を咄嗟に掴んで、ファイは首を傾げる。
そういえば、どうしてここに彼がいるんだろう。
昨夜は外から戻って、すぐに店の長椅子に腰かけた気がするのだが、そこから記憶がない。いつの間に眠って、しかも自分の部屋に戻ってきたのか、まるで思い出せなかった。
「黒わん、なんでここにいるの?」
「ああ、おまえ何も覚えてねぇのか」
「?」
「ゆうべは遅かっただろ。面倒だったから泊まらせてもらった」
黒鋼が指を指すので、ファイはベッドの下に視線をやった。雑貨を作るための毛糸や小物が溢れかえる部屋の中央に、折りたたまれた毛布とクッションが置いてある。
これで寝ていたということか。だとしたら、朝までずっと一緒にいたということだ。
「な、なんで起こしてくれなかったのー!」
「あ? なんで起こす必要があるんだよ」
「だって、だって、黒わんともっとお喋りしたかった!」
「今だってできんだろ」
「むぅー……黒わん分かってないー……」
いつもはせっかく遊びに来ても時間が来ると帰ってしまう黒鋼が、夜の間ずっと側にいた。
彼には彼の家があって、仕事もある。ユゥイに何度そう教えられても、頭では分かっているのにどうしても寂しくて。
それでも我慢していたご褒美を、神様がくれたのかもしれない。なのに、眠気に負けて気づいたら朝になっていたなんて。
いつもよりもっとたくさん遊んだり、話したりするチャンスだったのに。
でも、とファイは思う。悲しい夢を見たあとに、近くにいてくれたのが黒鋼でよかった。真っ先に彼の顔を見れてよかった。
普段は絶対に会えない時間に、黒鋼がいる。夜の間も側にいたんだと思うと、残念な気持ちもあったけど、嬉しかった。
「そっかぁ、黒わん、ずっと一緒だったんだぁ~」
ふにゃん、と笑うと黒鋼の頬が一瞬だけ赤くなったような気がした。彼は大きく咳払いをしたあと、部屋の出入り口をチラリと見て、それからファイに手を伸ばす。
顎に指先が触れたと思った次の瞬間、上向かされたのと同時に黒鋼の顔が驚くほど間近にあった。唇に押し付けられた熱に、呼吸が止まる。
(黒わん、まつ毛長い……)
側にいる間はずっとくっついているのに、昨日だってこういうキスをしたのに、今初めて気が付いた。
また胸が苦しくなってくる。唇が離れても、なんだか頭がぼんやりして、身体がふわふわした。風船みたいに飛んで行ってしまいそうだ。こんな感覚は、生まれて初めてだった。
「ふわあぁ~……」
「おまえそれどういう反応だよ」
気が抜けたようにおかしな声を上げたファイに、黒鋼は苦笑した。
そんな彼の表情を見るのが恥ずかしくて、ファイは枕元の黒わんを咄嗟に掴んで抱きしめると、赤い顔を思いっきり押し付けた。
「弟はもう下か」
黒鋼は立ち上がってそう呟くと、黒わんに顔を埋めたままのファイの頭をくしゃりと撫でて、部屋から出て行った。
その足音と扉が閉まる音を聞きながら、ファイはふと不安になる。
(なんでこんなにドキドキしちゃうのかなぁ……オレ、病気なのかなぁ……)
黒鋼は風邪かもしれないと言ったが、風邪をひいた時とは少し違うような気がした。
きゅうきゅうと締め付けられるみたいな心臓の痛みを覚えて、ファイはいっそう黒わんを強く抱きしめると、熱っぽい息を漏らした。
←戻る ・ 次へ→
優しい風が吹く丘には白い花畑がどこまでも広がって、甘い香りで溢れかえっている。
幼い少年の姿をしたファイは一人、丘の真ん中にこじんまりとしゃがみ込んで、揺れる花々を見つめていた。
『またひとりぼっちか?』
頭の上で声がして、ファイは顔を上げた。
そこには目つきの悪い、黒い犬が佇んでいる。月明かりの下、赤いマフラーが風に吹かれてふわふわと踊っていた。
「黒わん」
立ち上がったファイは、自分と同じくらいの大きさの黒い犬にぎゅっと抱き付いた。黒わんは、こうしてファイが一人ぼっちでいると必ず現れる。
吊り上がった目は少しだけ怖いけど、黒い毛は柔らかくて温かい。
ずっとずっと昔から、黒わんはファイの友達だった。
「あのね、今日はクリスマスだったんだー」
ファイと黒わんは、丘の上で隣り合って座ると膝を抱え、丸い月を見上げた。
いつもこうしてその日あったことを報告する時間が、ファイにとってかけがえのないものだった。
「キラキラの木、すっごくキレイだったよー」
黒わんはファイの話をただ静かに聞いて、そうかそうかと何度も頷く。
「あのね、オルゴールもらったの。首から下げられるの」
『ペンダントか?』
「うん、そうー。ぺんだんと」
『よかったな』
「うん、嬉しかった……あとね」
ファイは子供らしい、丸みのある頬をほんのりと桃色に染めて俯いた。
幼い指先で、ちょん、と唇に触れて、少し迷う。誰にも言わないと約束したけれど、黒わんになら、話してもいいだろうか。
もじもじしながら唇を尖らせたり噛み締めたりしていると、黒わんが不思議そうに首を傾げて顔を覗き込んでくる。
「えと……それでね……そのあとね、黒わんがね」
『おれのことか?』
「あ、えっと……うぅん、違うの。黒わんじゃないの」
『おれのことじゃないのか?』
「うー、あのね、黒わんだけど、黒わんじゃなくて……んー……もっと、おっきいの」
ファイは上手く話せないことにだんだん焦りを覚え始めた。
今こうして一緒にいてくれる黒わんは、ファイの大切な友達だった。だけど、ファイが話したいのはもっと大きくて、もっと怖い顔をしている方の黒わんだった。
けれど今すぐ隣にいる黒わんは、どこか寂しそうだった。
『おれは、おまえの黒わんじゃないのか?』
「黒わんは、黒わんだよ……オレの大事なしんゆーだよ」
『だけど、おれはもういらないみたいだ』
「そんなことないよ!」
ファイが大きな声を出すと、白い花びらが空に舞い上がった。
風が強く吹いて、ぎゅっと目を閉じてからゆっくり目を開けると、そこにはもう黒わんの姿はなかった。
「黒わん……? 黒わんどこ……?」
ファイは立ち上がって黒わんを探した。月の丘を、黒わんの名前を呼びながら一生懸命探した。だけど、見つからなかった。どこまで行っても、ほんのりと淡い光を放つ花畑が広がっているだけだった。
一瞬でいなくなってしまった『しんゆー』の姿を懸命に探しながらも、ふと、この世界は一体どこまで続いているのだろうかという疑問が浮かび上がった。
広い広い世界にたった一人で取り残されてしまったのかと思うと、途端に膝から下がガクガクと震えだした。
「黒わん……どうして……」
どこにもいないんだろう。
いつだって話を聞いてくれた。寂しいときも、悲しいときも、嬉しいときも。
黒わんは静かに、ファイの隣にいてくれた。
なのに、もういない。どこにもいない。嫌われてしまったのだろうか。ファイはただ、話がしたかっただけなのに。
大好きな『黒わん』との思い出を、聞いてほしかっただけなのに。
***
目元に温かなものが触れていることに気が付いて、ファイはゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きをして、温もりの正体を目で追った。それは黒鋼の指で、彼は少し困ったように眉間の皺を深くしながら、ファイの顔を覗き込んでいた。
「なに泣いてんだよ」
「……黒わん?」
ファイは慌てて身を起こすとベッドの縁に腰かけていた黒鋼の胸にしがみつく。胸がズキズキと痛んでいた。悲しくて、寂しくて、涙が止まらない。
黒鋼は驚いていたようだが、すぐにファイを抱き返した。大きな腕の中に包まれていると、なぜかもっと泣きたくなった。
「黒わん……どこにも行かないで……遠くに行かないで……」
「なんだ、おっかねぇ夢でも見たか?」
黒鋼はファイの金色の頭に鼻先を押し付けて、小さく笑った。優しく背中を撫でられているうちに、ゆっくりと心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
引き攣るように息苦しかった呼吸が、黒鋼の温もりや匂いを感じるだけでどんどん楽になる。ほぅ、と息を吐き出して、ファイはひとつ鼻をすすった。
「黒わんが、いなくなっちゃう夢、見たの」
「俺が?」
「うぅん……黒わんだけど、黒わんじゃなくて……」
(あ……)
これは、あの月の丘でした会話と同じだ。
ファイが上手く話すことができなかったから、黒わんは消えてしまった。
「どうした?」
「ッ、あ、あの……なんでもない……」
「そうか」
黒鋼は長い指でファイの前髪をくしゃりと乱した。微かに持ち上がった口角を見ていると、昨日の夜のことを思い出す。
キラキラと輝くイルミネーションの中で、ファイは黒鋼とキスをした。
それは寝る前にユゥイとするものとは何かが違うような気がした。ユゥイとするのはお互いの頬っぺただったし、唇のキスはぬいぐるみとしかしたことがなかった。
黒鋼としたキスは、そのどれとも異なっていた。胸がぎゅっと締め付けられるような感じがして、身体の中に小さな火がついたみたいに、熱かった。
ファイはあのときと同じように顔が赤くなっていくのを感じながら俯いた。心臓のあたりが苦しくなってきて、胸元を強く握った。
落ち着かない気分で視線を泳がせれば、ぬいぐるみの方の黒わんが枕元に座っているのが視界の隅を掠めた。昔は耳や尻尾が取れかけていたが、ちゃんと直したから今は綺麗になっている。
夢の中に出てくる黒わんは、不思議なことにファイと大きさが変わらない。だけど枕元にあるものはすっぽりと膝に乗る程度の無難なサイズだ。
「おい、どっか痛ぇのか?」
そんなファイに気が付いて、黒鋼はファイの肩を掴むと少しだけ引き離す。だけどファイは顔を上げられなかった。いま黒鋼の顔を見たら、なぜかまた泣いてしまいそうだった。どうしてこんな気持ちになるのか、さっぱり分からない。自分が自分じゃないみたいだった。
黒鋼はファイの額に手を当てて、「少し熱っぽいか」と呟いた。
「寒いなか歩いちまったからな……薬、の前に飯がいいか。待ってろ、いま弟呼んでくる」
そう言って離れようとする黒鋼のシャツの袖を咄嗟に掴んで、ファイは首を傾げる。
そういえば、どうしてここに彼がいるんだろう。
昨夜は外から戻って、すぐに店の長椅子に腰かけた気がするのだが、そこから記憶がない。いつの間に眠って、しかも自分の部屋に戻ってきたのか、まるで思い出せなかった。
「黒わん、なんでここにいるの?」
「ああ、おまえ何も覚えてねぇのか」
「?」
「ゆうべは遅かっただろ。面倒だったから泊まらせてもらった」
黒鋼が指を指すので、ファイはベッドの下に視線をやった。雑貨を作るための毛糸や小物が溢れかえる部屋の中央に、折りたたまれた毛布とクッションが置いてある。
これで寝ていたということか。だとしたら、朝までずっと一緒にいたということだ。
「な、なんで起こしてくれなかったのー!」
「あ? なんで起こす必要があるんだよ」
「だって、だって、黒わんともっとお喋りしたかった!」
「今だってできんだろ」
「むぅー……黒わん分かってないー……」
いつもはせっかく遊びに来ても時間が来ると帰ってしまう黒鋼が、夜の間ずっと側にいた。
彼には彼の家があって、仕事もある。ユゥイに何度そう教えられても、頭では分かっているのにどうしても寂しくて。
それでも我慢していたご褒美を、神様がくれたのかもしれない。なのに、眠気に負けて気づいたら朝になっていたなんて。
いつもよりもっとたくさん遊んだり、話したりするチャンスだったのに。
でも、とファイは思う。悲しい夢を見たあとに、近くにいてくれたのが黒鋼でよかった。真っ先に彼の顔を見れてよかった。
普段は絶対に会えない時間に、黒鋼がいる。夜の間も側にいたんだと思うと、残念な気持ちもあったけど、嬉しかった。
「そっかぁ、黒わん、ずっと一緒だったんだぁ~」
ふにゃん、と笑うと黒鋼の頬が一瞬だけ赤くなったような気がした。彼は大きく咳払いをしたあと、部屋の出入り口をチラリと見て、それからファイに手を伸ばす。
顎に指先が触れたと思った次の瞬間、上向かされたのと同時に黒鋼の顔が驚くほど間近にあった。唇に押し付けられた熱に、呼吸が止まる。
(黒わん、まつ毛長い……)
側にいる間はずっとくっついているのに、昨日だってこういうキスをしたのに、今初めて気が付いた。
また胸が苦しくなってくる。唇が離れても、なんだか頭がぼんやりして、身体がふわふわした。風船みたいに飛んで行ってしまいそうだ。こんな感覚は、生まれて初めてだった。
「ふわあぁ~……」
「おまえそれどういう反応だよ」
気が抜けたようにおかしな声を上げたファイに、黒鋼は苦笑した。
そんな彼の表情を見るのが恥ずかしくて、ファイは枕元の黒わんを咄嗟に掴んで抱きしめると、赤い顔を思いっきり押し付けた。
「弟はもう下か」
黒鋼は立ち上がってそう呟くと、黒わんに顔を埋めたままのファイの頭をくしゃりと撫でて、部屋から出て行った。
その足音と扉が閉まる音を聞きながら、ファイはふと不安になる。
(なんでこんなにドキドキしちゃうのかなぁ……オレ、病気なのかなぁ……)
黒鋼は風邪かもしれないと言ったが、風邪をひいた時とは少し違うような気がした。
きゅうきゅうと締め付けられるみたいな心臓の痛みを覚えて、ファイはいっそう黒わんを強く抱きしめると、熱っぽい息を漏らした。
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海が見える中庭で、ベンチに腰かけた兄は夕空を見上げていた。
温い風がほんのりと潮の香りを運んでくる。普段は嗅ぎ慣れないそれに、酷く遠い世界へ迷い込んでしまったような、そんな不安に胸が締め付けられるような気がした。
ボクは彼が腰かけるベンチに一歩一歩、確かめるように近づくと、肘掛に手をかけた。兄はボクと同じ、だけどどこか垢抜けない無邪気さを残した顔を上げる。
彼の膝の上には、幼い頃よりもずっとボロボロに朽ち果てた『黒わん』が行儀よく座っていた。
「お兄さん、だぁれ?」
兄は目を丸くして、瞬きを繰り返しながら小首を傾げた。
無理もない。離れ離れになってからおよそ10年。その間、ボクらは一度も顔を合わせていない。
何も言えずにいるボクに、兄はもう一度「だぁれ?」と問いかけてくる。
まるで幼い子供のような口調に戸惑うボクに、兄は不安そうに表情を曇らせた。
「ファイ」
ボクは震える声で兄の名を呼んだ。兄は自分の名前にピクリと反応して、うん、と頷いた。
「ボクが分かる?」
兄は一言「知らない」と言って首を振った。
ボクは一度強く拳を握りしめてから、彼の正面に回って膝をつく。黒わんに添えられている白い手をそっと取って、両手で包み込むようにして緩く握った。
「ボクは、ユゥイ。遅くなっちゃったけど……会いに来たよ」
「ユゥイ?」
兄の瞳に、はっきりと不審そうな色が浮かんだ。彼は「うぅん」と赤子がぐずるような声を上げて、先刻よりも強く首を振った。
「違うよ。お兄さんはユゥイじゃない」
「どうして?」
「だって、ユゥイはもっと小さいもん。小さくて、すぐに泣いちゃうの。だからオレが守ってあげなくちゃ」
「……ボクは」
ユゥイは、もう小さくもなければ泣き虫でもない。
兄は分からないのだ。あれから10年もの時が過ぎて、彼もボクも大人になった。髪も伸びたし、背も伸びた。声も変わった。
そうやって、ボクらは一人の大人の男として再会するはずだった。
だけど、兄は今もあの星灯りの部屋に取り残されたままだった。
いや、むしろあの頃よりもずっと……。
やっぱりあの時、彼を残して行くべきではなかった。何もできなかったと分かってはいても、それでも。
ボクにできたのは、せいぜい彼の大事な黒わんを置いていくことだけだった。
あの日、ボクは大人になることを決めた。ファイを思って泣くことをやめた。一人でも生きていけるように、寂しくても泣かないように。
彼は言ったのに。忘れないでと、ボクに言ったのに。ボクは、忘れなければ生きていけなかった。
「ごめんね」
ボクは兄の手を握りしめたまま、その膝に額を預けて涙を流した。
ああ、ボクも同じだ。大人になんかなれなかった。壊れてしまった兄は綺麗なままで、ボクはこんなにも狡く、薄汚れた人間だった。
ボクの中で兄は、いつしか忌むべき過去の象徴になっていた。思い出したくなかった。
ボクは周りの大人たちのせいにして、兄から、逃げたんだ。
「ごめんなさい……ファイ、ごめんなさい……」
肩を震わせて泣くボクに、兄は少しだけ身を屈めるとそっと頭に触れてきた。顔を上げたボクに、彼は優しく微笑んだ。
「やっぱり泣き虫だね。ユゥイは」
「ッ……ぅ……」
涙が止まらなかった。兄と離れてからずっと堪えていたそれが、後から後から溢れて止まらなかった。
ボクは兄の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。兄はそんなボクを抱き留めて、幾度も伸びた金髪を梳かすように撫でる。
「大丈夫。もう泣かなくていいんだよ」
「ッ、ファイ……」
「また会えて嬉しい。ずっと大好きだったよ、ユゥイ」
大好きだから、寂しい。ずっとずっと。
寂しかった。
小さくて泣き虫だったボクを、兄はずっと愛していてくれた。
黒わんだけを側に置いて、他の誰に縋るでもなく、幼い心のまま、一人で。
なら、ボクはもう絶対に離れない。今度はボクが、彼を守る番だった。
「帰ろう、ファイ。また一緒に暮らそう?」
そう言うと、彼は嬉しそうに頷いて、笑った。
***
暗い店内に、点滅するツリーの電飾だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
その微かな光の中で、ファイが長椅子に上半身を横たえて眠っている。手にはしっかりと、木製のオルゴールペンダントを握りしめて。
「驚いたでしょう?」
ファイの身体にコートをかぶせてやりながら、カウンターに腰かける黒鋼にユゥイが微笑みかけた。
黒鋼はブランデー入りの紅茶のカップを傾け、あの不思議な現象について目だけで問いかける。ユゥイはゆっくりとカウンター席に近づくと、一席分のスペースを開けて隣に腰かけた。
「常連さんの中に、自治会長の娘さんがいるんです。ほら、よくそこの席で静かに本を読んでいる……」
「ああ、あの黒髪の」
この店に初めて訪れた時にもいた少女のことだ。名前は知世だったか。
ファイが大親友だと言って手を振っていたのを思い出す。まだ直接話をしたことはないが、お茶とケーキをお供に読書をしているのをよく見かける。
「彼女にちょっとお願いして、ひと肌脱いでもらったんですよ」
「職権乱用じゃねぇのか……?」
「クリスマスですから。言いっこなしです」
そういう問題ではないと思うのだが……。
最終的にファイは大喜びだったし、なんというか、黒鋼もすっかりあの空気に感化され、つい手を出してしまう結果になったわけだが。
真っ直ぐに懐いてくるファイをただただ可愛いと思っていたはず気持ちが、まさかあのような形で姿を現すとは、夢にも思わなかった。未だに少し信じられない。
(ガキに惚れちまったってことになるのか、俺は……)
ファイが大人なのは見た目だけだ。しかも歴とした男性でもある。
ただなんとなく、彼は性別という枠にはハマらないような気もした。言い訳かもしれないが、ファイはファイであって男でも女でもない。そんな考えがすんなりと自分の中に浸透するのが不思議だった。
とにかく、勢い余って抱きしめて口づけてしまった自分の大胆さに、今更になって恥ずかしいような、むず痒い気持ちになった。
「少し顔が赤いですけど、ブランデー入れすぎましたか?」
「……かもな」
誤魔化すように目を逸らし、視線を長椅子で眠るファイに向けた。
はしゃぎすぎて疲れた彼は、ここに帰ってきてすぐにあそこで寝入ってしまった。その手に握られるペンダントに、自然と口元が綻ぶ。
「ボクも泣くと思ってました」
ユゥイもまた、眠るファイに目を向けて微笑んでいた。
「きっとお仕事で遅れているんだって、そう言ったら珍しく我慢したんです。少し前の彼だったら、大泣きして自分の部屋に閉じこもって、出てこなかったんじゃないかな」
「意外だな。少し拍子抜けした」
「……ファイは、大人になろうとしているのかもしれません」
その先を続けようとして、ユゥイの唇が微かに震えた。でも、彼は何も言わない。ただ静かに睫毛を伏せるだけだった。
黒鋼はその横顔をじっと見つめ、すっと目を細める。
「言えよ」
「…………」
「ここんとこずっとそうだな。言いたいことがあるんじゃねぇのか?」
ユゥイは鼻から小さく息を漏らすようにクスリと笑った。
微かな電飾の中で、その微笑みはひどく儚いものに見える。イルミネーションの強い光の中で笑っていたファイとは違う、深い翳りの中に、彼はあえて身を置いているような気がした。
「少し、昔話をしてもいいですか?」
黒鋼が無言の肯定をすると、彼はカウンターの上で両手を握りしめ、俯きながらゆっくりと話し始めた。
「……ボクらの父親は、ボクらが生まれてすぐに死んだんです」
「…………」
「母は幼いボクとファイを施設に預けて、そのあと自ら命を絶ちました」
死んじゃうからと、そう言って父親の石を放り投げ、母親の石を遠ざけたファイの姿を思い出す。やはりあれは彼らの両親のことだった。
「酷い環境でした。少しでも聞き分けのない子供や、粗相をする子供には容赦なく暴力がふるわれる。ボクは鈍臭くて、泣き虫で、すぐに食器を割ったり、食べ物を零しては叱られていました。そんなとき、必ずファイが前に出て、ボクを庇ってくれたんです」
ファイが前に出ることによって、暴力の矛先はいつも彼に向けられたという。
時にはユゥイが失敗する前に自分からわざと物を壊したり汚したりして、憎まれ役を買って出ていた。
「ボクを守るために兄は……ファイは、いつも傷だらけだった。身体中痣だらけになって、それでも笑ってボクを抱きしめてくれた」
握られたユゥイの手が、微かに震えている。劣悪な環境に身を置いていた頃を、傷だらけで笑うファイを、思い出して。
そんな生活の中、ファイとユゥイのどちらかを引き取りたいと申し出た老夫婦が現れた。
「父の遠い親戚にあたる人でした。だけどその家庭は決して裕福というわけではなく、一人しか引き取れないと言って、選ばれたのはボクでした」
活発で、前に出るタイプのファイよりも、その夫婦は物静かであまり自己主張をしないユゥイを好んだ。共に生まれ、寄り添って生きてきた双子は、そこで離れ離れになることを余儀なくされた。
『お別れしなきゃいけないの。大好きだから』
あの日、ファイはそう言った。
何かしら事情があったことは察していたが、こうして聞かされた詳細に、黒鋼はやり場のない憤りを覚えた。
背中に庇うべき存在がいなくなったとしても、その後も虐待が続いたであろうことは容易に想像できる。
「聞いてもいいか」
「どうぞ」
「俺が初めてここに来た日、おまえは言ったな。自分の責任だ、と」
「言いました」
「あいつの頭ん中がガキのまんまなのは……」
ユゥイはどこか遠くを見るような目をしながら、ぽつりと零す。
「兄は、壊れてしまった」
ファイは要領のいい子供だったと、ユゥイは続けた。
「そそっかしいボクとは違って手先も器用で、頭のいい子供だった。だからボクさえいなければもう叱られることも、暴力をふるわれることもないだろうと、そう思っていたのに」
ユゥイを庇い続けているうちに、ファイは施設の人間から特に問題のある子供として認識されてしまった。躾と称した理不尽な虐待は、やはりその後も続いた。
一人ぼっちになった淋しさと、自分を傷つける大人しかいない環境に身を置き続けた彼の心は、水の流れが岩を削るように擦り減っていった。
そして壊れた。
「兄と再会したのは二十歳の頃です。ずっと遠い街で暮らしていたボクは、引き取ってくれた老夫婦が他界したのを機に家を出ました。一人になると、いつも思い出すのは兄のことばかりだった。彼がどうしているのか、それだけでも知りたくて、探しました」
真っ先に問い合わせた施設はとっくの昔に解体されていたが、役所や興信所を頼りに探し出したファイは、町はずれの精神障害者施設で生活訓練を受ける日々を送っていた。
「兄は、最初はボクが分からなかったみたいです。彼の中では時間が止まっていて、ボクはまだ小さな姿のままだったから。だけどちゃんと分かってくれた。情けない話ですが、いい歳をして泣いてしまったボクの顔を見て、ユゥイって、呼んでくれたんです」
その後ユゥイはファイを引き取り、二人で細々と暮らし始めた。
元々料理やスイーツを作るのが趣味だったユゥイは、飲食店で働きながら学校を卒業し、この店は育ての親である老夫婦が残した、僅かばかりの遺産でオープンさせたという。ファイの雑貨作りの技能は、訓練施設で身につけてきたものらしい。
そこまで話し終えたユゥイは、胸の痞えが取れたようにホッと息をつく。
「長くなってしまいました。だけど、どうしても聞いてほしかった」
彼は黙って耳を傾けていた黒鋼の目を、探るように真っ直ぐに見つめる。そして、
「同情しますか?」
そう、静かに問いかけてきた。
「そりゃするだろ」
ユゥイの考えていることは分からない。
何を試そうとしているのかも。ただ、彼の機嫌を窺うような答え探しはしたくなかった。
黒鋼が正直に述べると、彼は目を逸らし、下唇を一瞬噛み締めた。
「ファイに付き合ってくれているのは、可哀想だから、ですか」
「何が言いたい?」
「……彼は見た目だけなら立派な大人だ。だけど中身は違う。優しくしてくれる人も沢山いるけれど……一時の同情だけで手を伸ばすなら、やめてほしい」
いつか絶対に、抱えきれなくなる。
ユゥイの言葉を聞いて、そういうことかと、黒鋼は静かに息を漏らした。
どんなに打ち解けた素振りを見せていても、彼はどこかでジャッジを下さなければならない。誰かがファイを傷つける前に。
けれど黒鋼は、その言葉の裏側に彼の苦悩を垣間見たような気がした。
「それは、おまえのことじゃねぇのか?」
「!」
肩を揺らし、目を見開くユゥイに黒鋼は続ける。
「償ってる気でいるのか? ありもしねぇ罪を」
「…………」
「俺はな、この店はおまえら双子が幸せにやってることの象徴だと、そう感じてたんだよ。だが、違ったのかもしれねぇな」
訪れる客をユゥイが笑顔でもてなし、ファイが陽の当たるテラスで雑貨を作る。
時間が空けばサクラや小狼たちと食事をしたり、お茶を飲んだり、ファイが何か悪いことをすれば叱ったりもして。
だけど最後には必ず笑顔で溢れる。ファイと接するユゥイの表情はいつも優しくて、触れる指先に愛情が滲み出ているのを見るだけで、黒鋼もまた温かな気持ちになっていた。
けれど。
「ここは檻だったのか? あれを外に出さねぇように、誰の目にも触れねぇように、ただ囲うための」
ユゥイは何も言わなかった。
彼も分かっていなかったのかもしれない。ファイが暴力を受け続けたのも、壊れてしまったのも、何もかもが自分の責任だと、そうでなければならないのだと、背負い込むことで自分を保とうとしている。
彼はこの可愛らしい雑貨と甘い香りに包まれた箱庭で、死ぬまでずっとファイを囲い続ける気でいるのか。けれど、縛られるのはファイだけではない。守ろうと足掻くユゥイ自身もまた、ここから出て自由を得ることはできないのだから。
「ボクは……」
そのまま口を閉ざしてしまったユゥイに、少し強くつつき過ぎたかと黒鋼もまた口を噤んだ。
黒鋼はファイと出会って、接している中で、誰かを何よりも大切に愛おしむ気持ちを知った。真っ直ぐに慕われる心地よさを知った。
光の道を手を繋いで歩きながら確信した思いは、夢から覚めたようなこの薄暗い空間に身を置いても、変わることなく胸の中に息づいていた。
最初は確かに同情だったかもしれない。大好きな黒わんと離れたくなくて泣いていたファイは、ただ弱くて可哀想な生き物にしか見えなかった。
でも今は違う。黒鋼自身がファイの側にいたいと思っている。いつか彼が黒鋼と黒わんは別のものだと理解する日が来るのだとしたら、そのとき彼の目に映っている自分は、ただの一人の男でありたいと。
それは決して雲を掴むような、途方もない話ではないような気がする。近い将来、きっと。
「あいつは、俺たちが思ってるよりもずっと大人なのかもな」
「え……?」
思いつめたような顔を上げるユゥイに、黒鋼は小さく笑った。
ユゥイは知らない。ファイがもうサンタクロースに夢を見ていないこと。彼は必死でファイを守っているつもりなのだろうが、ファイもまた、彼の夢を守ろうとしている。
ユゥイには内緒。ファイと約束したから、彼にそれを教えてやることはできないけれど。
「おまえたちの過去は悲惨だ。誰だって聞けば同情のひとつくらいするだろうよ」
「…………」
「だけど俺は、羨ましかったのかもしれねぇな」
「羨ましい?」
黒鋼は、再び眠っているファイに目を向けた。
「泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑ってよ。好きも嫌いも寂しいも、思ったときには口にして、身体全部で表すじゃねぇか」
大人になってしまった自分たちは、そう簡単に真っ直ぐ生きることができなくなってしまった。あらゆる感情全てに相応の理由をつけなければ、確信にさえ至れないことだってある。
ファイと出会って、そのむき出しの感情に触れているうちに、黒鋼はいつの間にか不器用にしか生きられなくなっていた自分に気づかされてしまった。
「眩しいな。目が眩んじまいそうだ」
だけど、同じ光の中にいたいと思う。その裏側にある悲しみも、傷も、孤独も、全てひっくるめて、今ここに生きているファイの側に在りたいと。
ユゥイが小さく息を飲む。彼は何かに気づいたように茫然とした表情を浮かべ、それからまるで棘が抜けていくようにゆっくりと、息を吐き出しながら微笑んだ。
そして噛み締めるように、確かめるように言った。
「ボクたちは、幸せなんですね」
***
黒鋼は眠くてぐずるファイを抱えて二階へ行ってしまった。
今夜はもう遅いから、適当に休んでくれと言うと彼は素直に頷いていた。
一人残されたユゥイは、チカチカと点滅するツリーの電飾をぼんやりと見つめたまま、その場から動く気になれずにいた。
『眩しいな。目が眩んじまいそうだ』
黒鋼の言葉が頭から離れなかった。そして気づかされた。
(眩しかったんだ)
時々、無性にファイから目を逸らしたくて仕方がない瞬間があった。
寂しいと、悲しいと、彼はそれがどこであろうと、誰の前であろうと隠すことなく涙を流しては感情をさらけ出す。そんな真似、大人にはできない。
ファイがこんな風になってしまったのは、全て非力で守られることが当たり前だった自分のせいだと、今までのユゥイはただ自らを責めるばかりだった。
泣いているファイを見ているのは辛くて、彼の嗚咽を聞いていると、まるで「おまえのせいだ」と責められているような気がして。
ユゥイは初めて黒鋼がこの店に来たときのことを思い出した。彼を黒わんだと思い込むファイは、帰り際に泣きながら「一緒に行く」と言った。
あのときの胸の痛みは、きっと生涯忘れられない。
そう思っていた。
幼い日、あの星灯りの部屋でファイは涙を流すことも、ユゥイを責めることも、ましてや「一緒に行きたい」なんて一言も、決して漏らすことはなかった。
けれどきっと悲しかったに違いなかった。一緒に行きたいに違いなかった。
幼かったはずの彼は、自分の感情を全てその小さな身体の中に押し込めて笑っていた。
だから、寂しいと言って黒鋼に泣き縋る姿が辛かった。可哀想で仕方がなかった。
兄はこんな人間じゃなかったと、もっと強かったはずだと、こんな風にしてしまったのは、他でもないボク自身なのだと。
だけど。
(ボクは、喜んでいいんだ)
ファイが素直に感情をさらけ出せるようになったことを。
彼はもう何も我慢する必要はない。我慢なら、もう沢山したから。だからあとは、笑って泣いて、ただ生きればいい。
ここに可哀想な子供なんかいない。ファイはただあるがままに、真っ直ぐに生きているに過ぎなかった。
(今、ボクらは幸せなんだ)
ずっと暗い場所にいるのだと思っていた。目に飛び込んでくる光の眩しさに目が眩んで、自分も同じ光の中にいるのだということに、気づけなかった。
もし黒鋼が一時の気まぐれで情をかけているのだとしたら、いつか必ず傷つけることになる。ファイが彼に懐くほどに、微笑ましいと感じるのと同じだけそんな不安も膨らんでいた。
黒鋼はああ見えて優しくて、お人好しだ。信用するに値する人間だと分かってはいても。何か裏があるのではないかと、どこかでは信じきれないでいる自分もいた。
だから彼の真意を真っ向から確かめようとしたはずなのに、逆に思い知らされるなんて。少し情けない気持ちになって、思わず笑ってしまう。
今のユゥイは嘘のように心が軽くなっていた。
だから本当は、いつものようにただ冷たくあしらうつもりだったのだが。
「君はいつから泥棒にでもなったのかな」
呆れたように言うと、カウンターの奥からぬっと姿を現したのは小龍だった。
カーキ色をしたミリタリージャケットのポケットに両手を突っ込んで、彼はいつもの無表情でカウンターを回り込むと、ユゥイのすぐ隣の椅子に浅く腰かけた。
「子供が遊んでていい時間じゃないの、分かってる?」
「やり残した仕事があったので」
「だからって裏口からこっそり入るのはどうなんだろうね」
小狼たちと一緒に帰ったはずなのに、彼は一体いつからいたんだろう。聞いたとしてもこの少年がまともに答えるとは思えなくて、ユゥイはただ横目でチラリと睨んでおくだけにしておいた。
「やり残した仕事ってなに? 掃除はもう済んだし、明日は休みだし」
問いかけるユゥイに、小龍はただ無言でポケットから手を出した。そこには、金色のリボンで飾られた黒い箱がある。
彼はそれをカウンターテーブルに置いて、指先を添えながらユゥイの側まですぅっと滑らせた。
「……ボクに?」
目を丸くすると、小龍は無言で頷きながら「開けろ」と促す。少し戸惑いながら、ユゥイはリボンを解いて包みを開けた。剥き出しになった白く分厚い包装箱をそっと開けると、丸みのあるフォルムのケースが姿を現した。
灰色の上質な手触りに指先を這わせ、ゆっくりと蓋を開ける。
「ブレスレット?」
それはロールチェーンのシルバーブレスレットだった。細身のシルエットに小さな十字架のアクセントが、頼りない電飾の灯りをキラリと弾く。
視線を小龍に向けると、彼は小さく口元だけで笑った。その大人びた微笑が、丸い瞳に残る幼さと比例してなんだか憎たらしい。
「日付が変わる前に渡したかったんですが。なかなかお話が終わらないようだったので」
「……随分と前から潜んでたんだね」
「過ごしたいじゃないですか。好きな相手と、クリスマスの夜」
「困った子だな……」
気持ちは決して嬉しくないわけではない。
だけどまさか自分が男子高校生に求愛されるなんて夢にも思っていなかったし、なかなか受け入れがたい事実でもある。
それに、今までのユゥイは自分のことにかまけていられる心の余裕がなかった。
小龍はいい子だ。助けられることも多いし、正直、誰よりもあてにしている。
けれど雇い主としての信用と、一個人としての感情は別物だった。というより、考えたこともなかった。でも。
(少しくらいは、自分のことを考えてもいいんだろうか)
死ぬまでファイのために生きるつもりでいた。それしか償うことはできないと。
けれど黒鋼はユゥイが抱えるものを『ありもしない罪』と言った。
ユゥイは償いのためにここにいたわけではなかった。ただファイを愛していたから、彼の放つ光の中に、共に在りたかった。
「ねぇ、貴方は今、幸せなんでしょう?」
おそらくほぼ最初から最後まで立ち聞きをしていたのであろう小龍が、いつになく熱っぽい眼差しを向けてくる。
「おれに守らせてくれませんか。貴方と、貴方の幸せを」
普段は何を考えているのか分かりにくい顔をしているくせに。今の彼はやけに真摯で、やけに必死だ。肌から伝わる張り詰めたような空気に、ユゥイは思わず吹き出してしまった。
「……どうして笑うんですか」
「ごめん。だって、生意気だから」
小龍はあからさまに不貞腐れたように眉間にきゅうっと皺を寄せる。なんだ、結構可愛いじゃないかと、絆されかけている自分に気づいてさらに可笑しくなった。
どうしてか、嫌じゃない。こんな風に笑える自分が。
ユゥイはケースの中からブレスレットを摘まみだすと、それを小龍に差し出した。
「つけて」
「はい?」
「普段こういうのつける習慣がないんだ。上手くつけられないから、つけて」
そう言って左腕を差し出すと、小龍は丸い目で瞬きを繰り返し、笑った。
「なんで笑うの」
「いや、なんだかんだで弟気質だなと」
「しょうがないよ。ボクは甘やかされて育ったんだ」
「いいですよ」
ブレスレットを手の平に受け取った小龍は、苦笑しながらそれをユゥイの腕にかけ、薄闇の中でも器用に留めた。点滅する電飾を弾いて輝く、銀色のそれを目線の高さまで持ち上げて、じっくり眺めてからユゥイは頷く。悪くない。
「ありがと」
短く礼を言うと、「どういたしまして」と笑う小龍に向かって身を屈めた。そして、目を見開く彼の頬に一瞬だけ、唇を押し付ける。
ちゅ、という微かな音が、妙に恥ずかしい。一体何をしているんだろう。
「ッ、ぁ、あの」
「……お返し、これでよかったかな」
「……できればもっと別の場所の方が」
「調子に乗るな」
真剣な表情で両手を伸ばしてくる小龍の額を、手の平でペシッと叩く。ユゥイは立ち上がると、逃れるようにカウンターの向こうに回り込んだ。眉間に皺を刻む少年は、お預けを食らった子犬のようにむっと唇を尖らせる。
「この先は、そうだな……高校を卒業するまでに、ボクの身長に追いついたら考えてあげなくもないよ」
「……追い越します。必ず」
「そこまでは言ってないけど……まぁ、頑張って」
薄明りの中で瞳を燃え上がらせる小龍に、ユゥイは大きく息をつきながら情けなく眉尻を下げて笑った。
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温い風がほんのりと潮の香りを運んでくる。普段は嗅ぎ慣れないそれに、酷く遠い世界へ迷い込んでしまったような、そんな不安に胸が締め付けられるような気がした。
ボクは彼が腰かけるベンチに一歩一歩、確かめるように近づくと、肘掛に手をかけた。兄はボクと同じ、だけどどこか垢抜けない無邪気さを残した顔を上げる。
彼の膝の上には、幼い頃よりもずっとボロボロに朽ち果てた『黒わん』が行儀よく座っていた。
「お兄さん、だぁれ?」
兄は目を丸くして、瞬きを繰り返しながら小首を傾げた。
無理もない。離れ離れになってからおよそ10年。その間、ボクらは一度も顔を合わせていない。
何も言えずにいるボクに、兄はもう一度「だぁれ?」と問いかけてくる。
まるで幼い子供のような口調に戸惑うボクに、兄は不安そうに表情を曇らせた。
「ファイ」
ボクは震える声で兄の名を呼んだ。兄は自分の名前にピクリと反応して、うん、と頷いた。
「ボクが分かる?」
兄は一言「知らない」と言って首を振った。
ボクは一度強く拳を握りしめてから、彼の正面に回って膝をつく。黒わんに添えられている白い手をそっと取って、両手で包み込むようにして緩く握った。
「ボクは、ユゥイ。遅くなっちゃったけど……会いに来たよ」
「ユゥイ?」
兄の瞳に、はっきりと不審そうな色が浮かんだ。彼は「うぅん」と赤子がぐずるような声を上げて、先刻よりも強く首を振った。
「違うよ。お兄さんはユゥイじゃない」
「どうして?」
「だって、ユゥイはもっと小さいもん。小さくて、すぐに泣いちゃうの。だからオレが守ってあげなくちゃ」
「……ボクは」
ユゥイは、もう小さくもなければ泣き虫でもない。
兄は分からないのだ。あれから10年もの時が過ぎて、彼もボクも大人になった。髪も伸びたし、背も伸びた。声も変わった。
そうやって、ボクらは一人の大人の男として再会するはずだった。
だけど、兄は今もあの星灯りの部屋に取り残されたままだった。
いや、むしろあの頃よりもずっと……。
やっぱりあの時、彼を残して行くべきではなかった。何もできなかったと分かってはいても、それでも。
ボクにできたのは、せいぜい彼の大事な黒わんを置いていくことだけだった。
あの日、ボクは大人になることを決めた。ファイを思って泣くことをやめた。一人でも生きていけるように、寂しくても泣かないように。
彼は言ったのに。忘れないでと、ボクに言ったのに。ボクは、忘れなければ生きていけなかった。
「ごめんね」
ボクは兄の手を握りしめたまま、その膝に額を預けて涙を流した。
ああ、ボクも同じだ。大人になんかなれなかった。壊れてしまった兄は綺麗なままで、ボクはこんなにも狡く、薄汚れた人間だった。
ボクの中で兄は、いつしか忌むべき過去の象徴になっていた。思い出したくなかった。
ボクは周りの大人たちのせいにして、兄から、逃げたんだ。
「ごめんなさい……ファイ、ごめんなさい……」
肩を震わせて泣くボクに、兄は少しだけ身を屈めるとそっと頭に触れてきた。顔を上げたボクに、彼は優しく微笑んだ。
「やっぱり泣き虫だね。ユゥイは」
「ッ……ぅ……」
涙が止まらなかった。兄と離れてからずっと堪えていたそれが、後から後から溢れて止まらなかった。
ボクは兄の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。兄はそんなボクを抱き留めて、幾度も伸びた金髪を梳かすように撫でる。
「大丈夫。もう泣かなくていいんだよ」
「ッ、ファイ……」
「また会えて嬉しい。ずっと大好きだったよ、ユゥイ」
大好きだから、寂しい。ずっとずっと。
寂しかった。
小さくて泣き虫だったボクを、兄はずっと愛していてくれた。
黒わんだけを側に置いて、他の誰に縋るでもなく、幼い心のまま、一人で。
なら、ボクはもう絶対に離れない。今度はボクが、彼を守る番だった。
「帰ろう、ファイ。また一緒に暮らそう?」
そう言うと、彼は嬉しそうに頷いて、笑った。
***
暗い店内に、点滅するツリーの電飾だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
その微かな光の中で、ファイが長椅子に上半身を横たえて眠っている。手にはしっかりと、木製のオルゴールペンダントを握りしめて。
「驚いたでしょう?」
ファイの身体にコートをかぶせてやりながら、カウンターに腰かける黒鋼にユゥイが微笑みかけた。
黒鋼はブランデー入りの紅茶のカップを傾け、あの不思議な現象について目だけで問いかける。ユゥイはゆっくりとカウンター席に近づくと、一席分のスペースを開けて隣に腰かけた。
「常連さんの中に、自治会長の娘さんがいるんです。ほら、よくそこの席で静かに本を読んでいる……」
「ああ、あの黒髪の」
この店に初めて訪れた時にもいた少女のことだ。名前は知世だったか。
ファイが大親友だと言って手を振っていたのを思い出す。まだ直接話をしたことはないが、お茶とケーキをお供に読書をしているのをよく見かける。
「彼女にちょっとお願いして、ひと肌脱いでもらったんですよ」
「職権乱用じゃねぇのか……?」
「クリスマスですから。言いっこなしです」
そういう問題ではないと思うのだが……。
最終的にファイは大喜びだったし、なんというか、黒鋼もすっかりあの空気に感化され、つい手を出してしまう結果になったわけだが。
真っ直ぐに懐いてくるファイをただただ可愛いと思っていたはず気持ちが、まさかあのような形で姿を現すとは、夢にも思わなかった。未だに少し信じられない。
(ガキに惚れちまったってことになるのか、俺は……)
ファイが大人なのは見た目だけだ。しかも歴とした男性でもある。
ただなんとなく、彼は性別という枠にはハマらないような気もした。言い訳かもしれないが、ファイはファイであって男でも女でもない。そんな考えがすんなりと自分の中に浸透するのが不思議だった。
とにかく、勢い余って抱きしめて口づけてしまった自分の大胆さに、今更になって恥ずかしいような、むず痒い気持ちになった。
「少し顔が赤いですけど、ブランデー入れすぎましたか?」
「……かもな」
誤魔化すように目を逸らし、視線を長椅子で眠るファイに向けた。
はしゃぎすぎて疲れた彼は、ここに帰ってきてすぐにあそこで寝入ってしまった。その手に握られるペンダントに、自然と口元が綻ぶ。
「ボクも泣くと思ってました」
ユゥイもまた、眠るファイに目を向けて微笑んでいた。
「きっとお仕事で遅れているんだって、そう言ったら珍しく我慢したんです。少し前の彼だったら、大泣きして自分の部屋に閉じこもって、出てこなかったんじゃないかな」
「意外だな。少し拍子抜けした」
「……ファイは、大人になろうとしているのかもしれません」
その先を続けようとして、ユゥイの唇が微かに震えた。でも、彼は何も言わない。ただ静かに睫毛を伏せるだけだった。
黒鋼はその横顔をじっと見つめ、すっと目を細める。
「言えよ」
「…………」
「ここんとこずっとそうだな。言いたいことがあるんじゃねぇのか?」
ユゥイは鼻から小さく息を漏らすようにクスリと笑った。
微かな電飾の中で、その微笑みはひどく儚いものに見える。イルミネーションの強い光の中で笑っていたファイとは違う、深い翳りの中に、彼はあえて身を置いているような気がした。
「少し、昔話をしてもいいですか?」
黒鋼が無言の肯定をすると、彼はカウンターの上で両手を握りしめ、俯きながらゆっくりと話し始めた。
「……ボクらの父親は、ボクらが生まれてすぐに死んだんです」
「…………」
「母は幼いボクとファイを施設に預けて、そのあと自ら命を絶ちました」
死んじゃうからと、そう言って父親の石を放り投げ、母親の石を遠ざけたファイの姿を思い出す。やはりあれは彼らの両親のことだった。
「酷い環境でした。少しでも聞き分けのない子供や、粗相をする子供には容赦なく暴力がふるわれる。ボクは鈍臭くて、泣き虫で、すぐに食器を割ったり、食べ物を零しては叱られていました。そんなとき、必ずファイが前に出て、ボクを庇ってくれたんです」
ファイが前に出ることによって、暴力の矛先はいつも彼に向けられたという。
時にはユゥイが失敗する前に自分からわざと物を壊したり汚したりして、憎まれ役を買って出ていた。
「ボクを守るために兄は……ファイは、いつも傷だらけだった。身体中痣だらけになって、それでも笑ってボクを抱きしめてくれた」
握られたユゥイの手が、微かに震えている。劣悪な環境に身を置いていた頃を、傷だらけで笑うファイを、思い出して。
そんな生活の中、ファイとユゥイのどちらかを引き取りたいと申し出た老夫婦が現れた。
「父の遠い親戚にあたる人でした。だけどその家庭は決して裕福というわけではなく、一人しか引き取れないと言って、選ばれたのはボクでした」
活発で、前に出るタイプのファイよりも、その夫婦は物静かであまり自己主張をしないユゥイを好んだ。共に生まれ、寄り添って生きてきた双子は、そこで離れ離れになることを余儀なくされた。
『お別れしなきゃいけないの。大好きだから』
あの日、ファイはそう言った。
何かしら事情があったことは察していたが、こうして聞かされた詳細に、黒鋼はやり場のない憤りを覚えた。
背中に庇うべき存在がいなくなったとしても、その後も虐待が続いたであろうことは容易に想像できる。
「聞いてもいいか」
「どうぞ」
「俺が初めてここに来た日、おまえは言ったな。自分の責任だ、と」
「言いました」
「あいつの頭ん中がガキのまんまなのは……」
ユゥイはどこか遠くを見るような目をしながら、ぽつりと零す。
「兄は、壊れてしまった」
ファイは要領のいい子供だったと、ユゥイは続けた。
「そそっかしいボクとは違って手先も器用で、頭のいい子供だった。だからボクさえいなければもう叱られることも、暴力をふるわれることもないだろうと、そう思っていたのに」
ユゥイを庇い続けているうちに、ファイは施設の人間から特に問題のある子供として認識されてしまった。躾と称した理不尽な虐待は、やはりその後も続いた。
一人ぼっちになった淋しさと、自分を傷つける大人しかいない環境に身を置き続けた彼の心は、水の流れが岩を削るように擦り減っていった。
そして壊れた。
「兄と再会したのは二十歳の頃です。ずっと遠い街で暮らしていたボクは、引き取ってくれた老夫婦が他界したのを機に家を出ました。一人になると、いつも思い出すのは兄のことばかりだった。彼がどうしているのか、それだけでも知りたくて、探しました」
真っ先に問い合わせた施設はとっくの昔に解体されていたが、役所や興信所を頼りに探し出したファイは、町はずれの精神障害者施設で生活訓練を受ける日々を送っていた。
「兄は、最初はボクが分からなかったみたいです。彼の中では時間が止まっていて、ボクはまだ小さな姿のままだったから。だけどちゃんと分かってくれた。情けない話ですが、いい歳をして泣いてしまったボクの顔を見て、ユゥイって、呼んでくれたんです」
その後ユゥイはファイを引き取り、二人で細々と暮らし始めた。
元々料理やスイーツを作るのが趣味だったユゥイは、飲食店で働きながら学校を卒業し、この店は育ての親である老夫婦が残した、僅かばかりの遺産でオープンさせたという。ファイの雑貨作りの技能は、訓練施設で身につけてきたものらしい。
そこまで話し終えたユゥイは、胸の痞えが取れたようにホッと息をつく。
「長くなってしまいました。だけど、どうしても聞いてほしかった」
彼は黙って耳を傾けていた黒鋼の目を、探るように真っ直ぐに見つめる。そして、
「同情しますか?」
そう、静かに問いかけてきた。
「そりゃするだろ」
ユゥイの考えていることは分からない。
何を試そうとしているのかも。ただ、彼の機嫌を窺うような答え探しはしたくなかった。
黒鋼が正直に述べると、彼は目を逸らし、下唇を一瞬噛み締めた。
「ファイに付き合ってくれているのは、可哀想だから、ですか」
「何が言いたい?」
「……彼は見た目だけなら立派な大人だ。だけど中身は違う。優しくしてくれる人も沢山いるけれど……一時の同情だけで手を伸ばすなら、やめてほしい」
いつか絶対に、抱えきれなくなる。
ユゥイの言葉を聞いて、そういうことかと、黒鋼は静かに息を漏らした。
どんなに打ち解けた素振りを見せていても、彼はどこかでジャッジを下さなければならない。誰かがファイを傷つける前に。
けれど黒鋼は、その言葉の裏側に彼の苦悩を垣間見たような気がした。
「それは、おまえのことじゃねぇのか?」
「!」
肩を揺らし、目を見開くユゥイに黒鋼は続ける。
「償ってる気でいるのか? ありもしねぇ罪を」
「…………」
「俺はな、この店はおまえら双子が幸せにやってることの象徴だと、そう感じてたんだよ。だが、違ったのかもしれねぇな」
訪れる客をユゥイが笑顔でもてなし、ファイが陽の当たるテラスで雑貨を作る。
時間が空けばサクラや小狼たちと食事をしたり、お茶を飲んだり、ファイが何か悪いことをすれば叱ったりもして。
だけど最後には必ず笑顔で溢れる。ファイと接するユゥイの表情はいつも優しくて、触れる指先に愛情が滲み出ているのを見るだけで、黒鋼もまた温かな気持ちになっていた。
けれど。
「ここは檻だったのか? あれを外に出さねぇように、誰の目にも触れねぇように、ただ囲うための」
ユゥイは何も言わなかった。
彼も分かっていなかったのかもしれない。ファイが暴力を受け続けたのも、壊れてしまったのも、何もかもが自分の責任だと、そうでなければならないのだと、背負い込むことで自分を保とうとしている。
彼はこの可愛らしい雑貨と甘い香りに包まれた箱庭で、死ぬまでずっとファイを囲い続ける気でいるのか。けれど、縛られるのはファイだけではない。守ろうと足掻くユゥイ自身もまた、ここから出て自由を得ることはできないのだから。
「ボクは……」
そのまま口を閉ざしてしまったユゥイに、少し強くつつき過ぎたかと黒鋼もまた口を噤んだ。
黒鋼はファイと出会って、接している中で、誰かを何よりも大切に愛おしむ気持ちを知った。真っ直ぐに慕われる心地よさを知った。
光の道を手を繋いで歩きながら確信した思いは、夢から覚めたようなこの薄暗い空間に身を置いても、変わることなく胸の中に息づいていた。
最初は確かに同情だったかもしれない。大好きな黒わんと離れたくなくて泣いていたファイは、ただ弱くて可哀想な生き物にしか見えなかった。
でも今は違う。黒鋼自身がファイの側にいたいと思っている。いつか彼が黒鋼と黒わんは別のものだと理解する日が来るのだとしたら、そのとき彼の目に映っている自分は、ただの一人の男でありたいと。
それは決して雲を掴むような、途方もない話ではないような気がする。近い将来、きっと。
「あいつは、俺たちが思ってるよりもずっと大人なのかもな」
「え……?」
思いつめたような顔を上げるユゥイに、黒鋼は小さく笑った。
ユゥイは知らない。ファイがもうサンタクロースに夢を見ていないこと。彼は必死でファイを守っているつもりなのだろうが、ファイもまた、彼の夢を守ろうとしている。
ユゥイには内緒。ファイと約束したから、彼にそれを教えてやることはできないけれど。
「おまえたちの過去は悲惨だ。誰だって聞けば同情のひとつくらいするだろうよ」
「…………」
「だけど俺は、羨ましかったのかもしれねぇな」
「羨ましい?」
黒鋼は、再び眠っているファイに目を向けた。
「泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑ってよ。好きも嫌いも寂しいも、思ったときには口にして、身体全部で表すじゃねぇか」
大人になってしまった自分たちは、そう簡単に真っ直ぐ生きることができなくなってしまった。あらゆる感情全てに相応の理由をつけなければ、確信にさえ至れないことだってある。
ファイと出会って、そのむき出しの感情に触れているうちに、黒鋼はいつの間にか不器用にしか生きられなくなっていた自分に気づかされてしまった。
「眩しいな。目が眩んじまいそうだ」
だけど、同じ光の中にいたいと思う。その裏側にある悲しみも、傷も、孤独も、全てひっくるめて、今ここに生きているファイの側に在りたいと。
ユゥイが小さく息を飲む。彼は何かに気づいたように茫然とした表情を浮かべ、それからまるで棘が抜けていくようにゆっくりと、息を吐き出しながら微笑んだ。
そして噛み締めるように、確かめるように言った。
「ボクたちは、幸せなんですね」
***
黒鋼は眠くてぐずるファイを抱えて二階へ行ってしまった。
今夜はもう遅いから、適当に休んでくれと言うと彼は素直に頷いていた。
一人残されたユゥイは、チカチカと点滅するツリーの電飾をぼんやりと見つめたまま、その場から動く気になれずにいた。
『眩しいな。目が眩んじまいそうだ』
黒鋼の言葉が頭から離れなかった。そして気づかされた。
(眩しかったんだ)
時々、無性にファイから目を逸らしたくて仕方がない瞬間があった。
寂しいと、悲しいと、彼はそれがどこであろうと、誰の前であろうと隠すことなく涙を流しては感情をさらけ出す。そんな真似、大人にはできない。
ファイがこんな風になってしまったのは、全て非力で守られることが当たり前だった自分のせいだと、今までのユゥイはただ自らを責めるばかりだった。
泣いているファイを見ているのは辛くて、彼の嗚咽を聞いていると、まるで「おまえのせいだ」と責められているような気がして。
ユゥイは初めて黒鋼がこの店に来たときのことを思い出した。彼を黒わんだと思い込むファイは、帰り際に泣きながら「一緒に行く」と言った。
あのときの胸の痛みは、きっと生涯忘れられない。
そう思っていた。
幼い日、あの星灯りの部屋でファイは涙を流すことも、ユゥイを責めることも、ましてや「一緒に行きたい」なんて一言も、決して漏らすことはなかった。
けれどきっと悲しかったに違いなかった。一緒に行きたいに違いなかった。
幼かったはずの彼は、自分の感情を全てその小さな身体の中に押し込めて笑っていた。
だから、寂しいと言って黒鋼に泣き縋る姿が辛かった。可哀想で仕方がなかった。
兄はこんな人間じゃなかったと、もっと強かったはずだと、こんな風にしてしまったのは、他でもないボク自身なのだと。
だけど。
(ボクは、喜んでいいんだ)
ファイが素直に感情をさらけ出せるようになったことを。
彼はもう何も我慢する必要はない。我慢なら、もう沢山したから。だからあとは、笑って泣いて、ただ生きればいい。
ここに可哀想な子供なんかいない。ファイはただあるがままに、真っ直ぐに生きているに過ぎなかった。
(今、ボクらは幸せなんだ)
ずっと暗い場所にいるのだと思っていた。目に飛び込んでくる光の眩しさに目が眩んで、自分も同じ光の中にいるのだということに、気づけなかった。
もし黒鋼が一時の気まぐれで情をかけているのだとしたら、いつか必ず傷つけることになる。ファイが彼に懐くほどに、微笑ましいと感じるのと同じだけそんな不安も膨らんでいた。
黒鋼はああ見えて優しくて、お人好しだ。信用するに値する人間だと分かってはいても。何か裏があるのではないかと、どこかでは信じきれないでいる自分もいた。
だから彼の真意を真っ向から確かめようとしたはずなのに、逆に思い知らされるなんて。少し情けない気持ちになって、思わず笑ってしまう。
今のユゥイは嘘のように心が軽くなっていた。
だから本当は、いつものようにただ冷たくあしらうつもりだったのだが。
「君はいつから泥棒にでもなったのかな」
呆れたように言うと、カウンターの奥からぬっと姿を現したのは小龍だった。
カーキ色をしたミリタリージャケットのポケットに両手を突っ込んで、彼はいつもの無表情でカウンターを回り込むと、ユゥイのすぐ隣の椅子に浅く腰かけた。
「子供が遊んでていい時間じゃないの、分かってる?」
「やり残した仕事があったので」
「だからって裏口からこっそり入るのはどうなんだろうね」
小狼たちと一緒に帰ったはずなのに、彼は一体いつからいたんだろう。聞いたとしてもこの少年がまともに答えるとは思えなくて、ユゥイはただ横目でチラリと睨んでおくだけにしておいた。
「やり残した仕事ってなに? 掃除はもう済んだし、明日は休みだし」
問いかけるユゥイに、小龍はただ無言でポケットから手を出した。そこには、金色のリボンで飾られた黒い箱がある。
彼はそれをカウンターテーブルに置いて、指先を添えながらユゥイの側まですぅっと滑らせた。
「……ボクに?」
目を丸くすると、小龍は無言で頷きながら「開けろ」と促す。少し戸惑いながら、ユゥイはリボンを解いて包みを開けた。剥き出しになった白く分厚い包装箱をそっと開けると、丸みのあるフォルムのケースが姿を現した。
灰色の上質な手触りに指先を這わせ、ゆっくりと蓋を開ける。
「ブレスレット?」
それはロールチェーンのシルバーブレスレットだった。細身のシルエットに小さな十字架のアクセントが、頼りない電飾の灯りをキラリと弾く。
視線を小龍に向けると、彼は小さく口元だけで笑った。その大人びた微笑が、丸い瞳に残る幼さと比例してなんだか憎たらしい。
「日付が変わる前に渡したかったんですが。なかなかお話が終わらないようだったので」
「……随分と前から潜んでたんだね」
「過ごしたいじゃないですか。好きな相手と、クリスマスの夜」
「困った子だな……」
気持ちは決して嬉しくないわけではない。
だけどまさか自分が男子高校生に求愛されるなんて夢にも思っていなかったし、なかなか受け入れがたい事実でもある。
それに、今までのユゥイは自分のことにかまけていられる心の余裕がなかった。
小龍はいい子だ。助けられることも多いし、正直、誰よりもあてにしている。
けれど雇い主としての信用と、一個人としての感情は別物だった。というより、考えたこともなかった。でも。
(少しくらいは、自分のことを考えてもいいんだろうか)
死ぬまでファイのために生きるつもりでいた。それしか償うことはできないと。
けれど黒鋼はユゥイが抱えるものを『ありもしない罪』と言った。
ユゥイは償いのためにここにいたわけではなかった。ただファイを愛していたから、彼の放つ光の中に、共に在りたかった。
「ねぇ、貴方は今、幸せなんでしょう?」
おそらくほぼ最初から最後まで立ち聞きをしていたのであろう小龍が、いつになく熱っぽい眼差しを向けてくる。
「おれに守らせてくれませんか。貴方と、貴方の幸せを」
普段は何を考えているのか分かりにくい顔をしているくせに。今の彼はやけに真摯で、やけに必死だ。肌から伝わる張り詰めたような空気に、ユゥイは思わず吹き出してしまった。
「……どうして笑うんですか」
「ごめん。だって、生意気だから」
小龍はあからさまに不貞腐れたように眉間にきゅうっと皺を寄せる。なんだ、結構可愛いじゃないかと、絆されかけている自分に気づいてさらに可笑しくなった。
どうしてか、嫌じゃない。こんな風に笑える自分が。
ユゥイはケースの中からブレスレットを摘まみだすと、それを小龍に差し出した。
「つけて」
「はい?」
「普段こういうのつける習慣がないんだ。上手くつけられないから、つけて」
そう言って左腕を差し出すと、小龍は丸い目で瞬きを繰り返し、笑った。
「なんで笑うの」
「いや、なんだかんだで弟気質だなと」
「しょうがないよ。ボクは甘やかされて育ったんだ」
「いいですよ」
ブレスレットを手の平に受け取った小龍は、苦笑しながらそれをユゥイの腕にかけ、薄闇の中でも器用に留めた。点滅する電飾を弾いて輝く、銀色のそれを目線の高さまで持ち上げて、じっくり眺めてからユゥイは頷く。悪くない。
「ありがと」
短く礼を言うと、「どういたしまして」と笑う小龍に向かって身を屈めた。そして、目を見開く彼の頬に一瞬だけ、唇を押し付ける。
ちゅ、という微かな音が、妙に恥ずかしい。一体何をしているんだろう。
「ッ、ぁ、あの」
「……お返し、これでよかったかな」
「……できればもっと別の場所の方が」
「調子に乗るな」
真剣な表情で両手を伸ばしてくる小龍の額を、手の平でペシッと叩く。ユゥイは立ち上がると、逃れるようにカウンターの向こうに回り込んだ。眉間に皺を刻む少年は、お預けを食らった子犬のようにむっと唇を尖らせる。
「この先は、そうだな……高校を卒業するまでに、ボクの身長に追いついたら考えてあげなくもないよ」
「……追い越します。必ず」
「そこまでは言ってないけど……まぁ、頑張って」
薄明りの中で瞳を燃え上がらせる小龍に、ユゥイは大きく息をつきながら情けなく眉尻を下げて笑った。
←戻る ・ 次へ→
「黒わん、キラキラする木、知ってる?」
仕事の合間を縫って、いつものように猫の目に訪れた時のことだった。
十二月に入って寒さもいよいよ本格的に厳しくなってきたが、その日は天気もよく、テラスに出て温かなお茶を飲んでいると、いっそ少し汗ばむほどの気候だった。
「キラキラする木?」
「そうだよー。キラキラでピカピカの木だよー。黒わん、知らないのー?」
「絵本かなんかに出てくる木か?」
「ブー! 違いまーす!」
なぜかクイズの出題者気取りになっているファイは、黒鋼が正解を言い当てられないことに喜んでパチパチと両手を叩く。
「黒わんハズレたからバツゲームだねー。何がいいかなー?」
「そんなんあんのかよ……」
ファイがうーんうーんと罰ゲームとやらの内容を考えている間に、黒鋼もふとひらめく。そういえば今月はいよいよクリスマスシーズンの到来だ。
彼が言っているキラキラでピカピカの木というのは、お馴染みのあの木のことを言っているのではないか。
「ツリーのことか? クリスマスの」
「おしい」
そう言ったのはファイではなく、ケーキの乗った皿を運んできたユゥイだった。
彼が目の前にズラリを並べ始めたスイーツの数々を見て、黒鋼は思わず胸を押さえる。チョコレートケーキなどの定番品はもちろん、カボチャのタルトにミルクレープ、果物たっぷりのロールケーキにティラミスなどなど……。
見ているだけで胸焼けがして、うえ、と潰れたカエルのように低く呻く黒鋼を見て、ユゥイはなぜか楽しそうだった。
「駅前の通りに銀杏並木があるでしょう。毎年クリスマスの二日間だけ、ライトアップされるんですよ」
「イルミネーションか」
「ピンポンピンポーン!」
正解したらしたで、ファイはまた手を叩いて喜んだ。
思えばクリスマスに向けてのケーキ屋特集で地獄を見たのは、つい先月のことだ。ハッキリ言って黒鋼は、ことスイーツ関係では全く戦力にならない。
まず目の前のケーキの数々に嫌気がさしていることからも分かるように、生まれてこのかた甘いものが好きだった時期など一秒たりともないのだった。
嫌々ケーキを食べまくり、苦し紛れに書いた記事に何度ダメ出しされたか知れない。上司の壱原侑子は黒鋼が甘味嫌いであることを知っていながら、あえて反応を楽しむドSの女王である。
「思い出すだけで気分が悪くなるぜ……」
ついに表情まで青くしはじめる黒鋼にぴったりとくっついていたファイが、フォークをぎゅっと握りしめて目を輝かせる。
「ユゥイー、これ食べてもいいー?」
「もちろんだよ。黒鋼さんもよければどうぞ」
「遠慮しとく……」
「黒たんは甘いのダメなんだよねー。ユゥイのケーキ美味しいのにカワウソー」
「可哀想、だよ。ファイ」
「んー、おいしー!」
嬉しそうにタルトを頬張るファイを横目でじっとりと見つめつつ、甘いのはこの笑顔だけで充分だと感じる。
よく料理人が、作っているだけで腹がいっぱいになる、なんて言うのを聞くが、これはそれに似た感覚だろうか。甘いものは嫌いだが、甘いものを満面の笑顔で食べているファイという図は癒し効果抜群だった。
「で、そのイルミネーションがなんだって?」
黒鋼がテーブルに片肘をついて顎を乗せながら聞くと、さらにチーズケーキやモンブランを追加で運んできたユゥイが「ああ」と思い出したように頷いた。
「毎年見に行くんです。ファイと。だけど、今年はちょっと事情があって」
「……待て、その前にこのケーキは全部こいつに食わすのか?」
「まさか。ボクも食べます」
「ならいいけどよ……」
すでにタルトを完食したファイは、ロールケーキに手をつけている。テーブルいっぱいに所狭しと並べられたこれら全てを一人で食わせれば、一瞬で糖尿になりそうだ。いや、二人で食うにしてもかなりの量ではあるのだが。
ファイは華奢だが、胃袋は結構でかい。いつも一緒に食事をするときは、黒鋼と同じだけの量をペロリと平らげる。
食ったものが身にならないのは体質だろうか。
「事情ってのはなんだ? あの双子の兄貴の方とデートでもすんのか」
ファイの口元についていたクリームを優雅に指先で拭い、椅子に腰かけながら舌で舐めとるユゥイが冷やかな視線を送って寄越す。地雷と知って踏んだのは自分だが、なかなか迫力がある。
ユゥイはわざとらしく咳払いをして、自らもフォークに手を伸ばしながら話を続けた。
「今年のイヴは町内会のクリスマスパーティーに参加することになっているんです。奥様方にどうしてもと誘われているので」
「また熟女か。モテる男は辛いな」
「……クリスマス当日はここで、常連さんだけを呼んでケーキバイキングをする予定になっているので、今年はどうしてもファイを連れて行けないんです」
「すぐそこだろ。ちょっと歩けば見に行ける距離じゃねぇのか」
「あのねあのね」
ロールケーキに夢中になっていた視線をこちらに向けて、ファイが黒鋼のジャケットの袖をクイクイと引っ張った。
「いっぱい人がいるところには、一人で行っちゃダメなのー。ぶつかったり転んだりするし、悪い人もいるかもだからユゥイがダメーって」
「過保護だな」
なんて思いつつ、ファイを人ごみに放り出すのは確かに不安だ。この純粋培養がおかしな輩に引っかかろうものなら、すぐに騙されて何をされるか分かったもんじゃない。一直線であるはずの銀杏並木で迷子にもなりかねない気がした。
「それにねー、オレ黒わんと一緒がいいのー。キラキラの木、黒わんと見るんだー」
「……クリスマスか」
二日間のうち、いずれかなら時間を作ることはできるかもしれない。
ファイの中では黒わんとイルミネーションを見に行くのがすでに決定事項になっているようだし、渋ればまた泣き出すに違いなかった。
ユゥイが少しだけ申し訳なさそうに肩を竦めながら視線を送ってくる。黒鋼はポンと膝を叩いて「わかった」と了承する。
「ほんとー? わぁい!」
「いいんですか?」
「その辺ブラつくぐれぇの時間はなんとでもなる。ただし、ケーキ以外にも食えるもん作っとけよ」
「それはもちろん」
頷いたユゥイはホッと息をつきながら申し訳なさそうに苦笑していた。ファイは嬉しそうにニコニコしながら、フォークでモンブランの上に乗っている栗を刺し、油断していた黒鋼の口にスポッと入れる。
「むが!? て、てめ! なにしやがる!!」
一瞬で口の中にあま~い砂糖と栗の味が広がった。思いっきり顔を顰めて睨み付けても、ファイは嬉しそうにまた手を叩く。
「バツゲームだよー! だって黒わん一回で正解できなかったもーん」
「こ、このやろう……」
「楽しみだねー! サンタさんも、キラキラ見に来るかなー?」
そう言ってゆらゆらと身体を左右に揺らす姿と、口の中がうんざりするほど甘ったるい。黒鋼は軽い頭痛を覚えながらお茶で無理やり流し込んでみたが、視線の先はいつまでも甘ったるいままだった。
「…………」
そんな二人の様子を見て、ユゥイが何か言いたげに唇を震わせたが、彼は結局無言のまま、ただ寂しげに笑っていた。
***
クリスマス当日が近づくにつれ、黒鋼はふとした瞬間、街中で足を止めるようになった。
それは決まっておもちゃ屋や雑貨屋のディスプレイの前で、一度見入ってしまうとつい時間を忘れて唸ってしまう。おかげで他の通行人に不審そうな目で見られたり、酷いときは店の人間が怯えた表情で様子を見に来る始末だった。
おのれ、どいつもこいつも人を顔だけでヤクザと判断しやがって……と、多少イラッとしつつ、ここ最近の黒鋼はずっと子供受けするアイテムについて考えているのだった。
その日は真冬らしく、冷え込みの厳しい朝だった。
いつものように目覚めてすぐに暖房のスイッチを入れ、お茶を淹れるための湯を火にかけながらあれこれ準備を整える。
黒鋼がトースターに厚切りの食パンを二枚突っ込んでから台所を出ると、朝の情報番組ではクリスマスの話題が取り上げられていた。
ファッションやコスメ、グルメはもちろんデートスポットなどなど。
時期的にこの手の話がひっきりなしだが、次の話題はおもちゃ屋の売れ筋調査だった。
美人リポーターが大手百貨店の玩具売場へ行き、男性店員に直接話を聞いている光景が映し出される。
『これからクリスマスに向けて、一番の人気商品はどれしょう?』
『そうですね、男の子向けならこちらの特撮ヒーローの変身グッズが、やはり一番の売れ筋商品となっております』
『わー! まるで本物みたいにクオリティが高いですねー!』
店員から変身ベルトを受け取ったリポーターが、わざとらしくはしゃいだ声をあげる姿に、黒鋼は思わず身を乗り出して見入ってしまった。
男性店員は次から次へと人気の商品を持ち出し、宣伝に余念がない。
『女の子に最近人気なのは、こちらのオモチャのスマートフォンです』
『きゃー可愛い! 本物みたい!』
『カードを入れると音楽アプリやカメラアプリが起動して、お友達とスタンプメールのやりとりを楽しむこともできるんです。娘さんのためにと、こちらを購入されるお父さんが多いですね』
『クリスマスプレゼントに最適ですねー!』
「なるほどな……」
いつの間にか、黒鋼は腕を組んでうんうんと深く頷いていた。
確かに、こないだ足を止めたおもちゃ屋のディスプレイにも同じような商品がズラリと並んでいた気がする。ただ眺めているだけでは分からなかったが、オモチャといえども侮れない機能の多さだ。
やはり店先で眺めているだけでなく、直接中に乗り込んで色々と店員の意見を聞いてみる方がいいということか。
そこまで真剣に考えてから。
黒鋼はハッとした。
いくらなんでも女児向けのスマホやら変身ベルトというのはいかがなものだろう。ファイの中身は確かに子供だが、流石にバカにしていると思われても仕方がないような気がする。
喜びはすると思うが、もっと気の利いたものはないものか。
最近ずっとこの調子だ。もうじきクリスマスということもあって、黒鋼は何かファイが貰って喜ぶようなものはないだろうかと、頭を悩ませている。
ぬいぐるみなどの雑貨品は普段から本人が作っているし、洋服、という手もあるが、ハッキリ言ってファッションセンスには自信がない。
慣れないことをしている自覚はある。
かつてこれほどまでに誰かにプレゼントする品について頭を悩ませたことなどなかった。
母の日ならハンカチを、父の日ならネクタイを、友人が相手なら単刀直入に聞いた方が手っ取り早かったし、恋人なら聞くまでもなく強請られることが多かった。
いっそファイにも直接聞いた方が早いのかもしれない。黒鋼には彼が何を欲しがり、何をすれば喜ぶのかがさっぱり分からなかった。彼が話すのは大抵大好きな黒わんのことや雑貨作りに関してで、あとは仲のいい常連客やユゥイのことに絞られている。彼自身の話というのは滅多に聞かない。
黒鋼はふと、部屋の中央にある木製のテーブルに目をやった。仕事用の資料が積まれているその横に、裸の黒わんが座っている。
思わず、ふっと笑ってしまう。いまだにマフラーを巻いた黒わんは貰えていない。もうそんな脅しなどかけなくても、おそらく黒鋼はあの店に通う。純粋に、ファイの笑顔が見たいから。
「らしくねぇってのは、分かってんだがな」
ファイはいつだって黒鋼が店に顔を出せば大喜びでしがみついてくる。
砂糖菓子のような笑顔を浮かべて、幼い口調で一生懸命喋って、黒わんにマフラーを縫い付けて。帰り際には泣きながら、裸の黒わんを手渡してくる。
黒鋼はただそこにいるだけなのに。あんなにも喜び、泣き、真っ直ぐに好意をぶつけてくる存在が、特別なものにならないわけがない。
だからだろうか。黒鋼はファイに何かしてやりたくて仕方がなかった。
サプライズなんて柄じゃない。だけど。
これはいわゆる子を持つ親の感覚に近いのだろうか。
子供どころか結婚すら遠い黒鋼には予想もできないが、もし仮に自分が子供をもつ父親だった場合、こういう気持ちに……。
「……それは流石にねぇな」
黒鋼が自分に突っ込みを入れたところで、ヤカンが蒸気を噴出す甲高い音が聞こえて思考が途切れる。
とりあえずクリスマスは来週に迫っているのだから、その間に何かしら考えて用意しようと決めて、台所へ向かった。
***
クリスマス当日、黒鋼は焦っていた。
編集会議が予想以上に長引いて、職場ビルを飛び出したとき、時刻はすでに22時をとうに過ぎていた。
イルミネーションの点灯時間は17時から23時。
ここから駅まで走って電車に乗ったとしても、おそらく店につく頃には何もかも終わっている。
もう一時間もないのだから、何をどうしようが絶望的と知りつつも、運よく路肩に停車していたタクシーを拾う。が、流石はクリスマス当日ということもあり、もうじき目的地の駅周辺という辺りで渋滞に巻き込まれた。
黒鋼はここでいいと運転手に告げ、財布から現金を取り出すとそれを渡し、釣り銭も受け取らずに人の多く行き交う街の中を全力で駆け抜けた。
分かってはいたが、駅前の通りはすっかり光が消えていた。
時刻はもはや23時を過ぎている。かろうじて人通りと車通りの多さが光り輝くイルミネーションの名残を残しているだけで、あとは何の変哲もない、夜の街並みが広がるばかりだった。
黒鋼は白い息を吐き出しながら、それでも駅裏に向かって走った。
すっかりシャッターの下りた寂しい商店街を突っ切り、通い慣れた脇道に入る。closeの看板がかかった猫の目は、灯りこそついてはいるがしんと静まり返っている。
「悪い、すっかり遅くなった」
黒鋼は勢いよく店の扉を開いた。
外は冷たい空気に満ちていたが、店内は暖房がきいていて温かい。ここまでの距離を走ってやって来た黒鋼には、少し暑いくらいだった。
「黒鋼さん」
カウンター越しに、食器の片付けをしていたユゥイが驚いた様子で顔を上げる。
彼はいつまで経っても現れない黒鋼の事情をちゃんと察していたようだった。焦って飛び込んできた黒鋼に少しだけ眉尻を下げて、緩く微笑んだ。
「お疲れ様です。走っていらしたんですか?」
「まぁな……」
店内を見回すと、ついさっきまで人がいた名残が充分に残っている。
床に散らばるクラッカーの中身と、カウンター脇で色とりどりの電飾で飾られたツリーが祭の後を物語っているようで、いやに物悲しい。
ファイは室内の片隅の、窓際の席に座って両腕に顔を伏せていた。ピクリとも動かないその姿に、咄嗟にユゥイを見ると彼は苦笑して肩を竦める。
「いつもこの時間は寝ているので……さっきまで起きて待ってたんですけどね」
「……やっちまったな。泣いたか?」
「いえ……」
ユゥイは言葉を濁すように睫毛を伏せて、何かを言いかけた。が、すぐにいつもの笑顔を張り付ける。
「サクラちゃんたちも待ってたんですよ。でも、もう時間が時間なので帰しました。お料理はちゃんと残してますから、すぐに食べますか?」
「いや、いい」
黒鋼は足音を立てないように窓際の席に歩み寄った。
ファイはテーブルに伏せているが、その両腕の下には赤い紙の包みが敷かれている。
てっきり泣きはらした表情で不貞腐れているとばかり思っていたため、ユゥイの否定は少し意外だった。
起こしてしまわないように手を伸ばして、ふわふわの金髪に指を通す。冬の冷気に冷え切っていた指先にじわりと火が灯るような温かさを感じる。
「うー……」
ファイは身じろいで、ゆっくりと身体を起こした。眠っているのを起こさないようにと配慮していたつもりだが、どこかでは顔が見たいと思っていたのかもしれない。ぼんやりとしながら幾度か瞬きを繰り返す間抜けな表情に、少しだけ笑ってしまう。
「黒わん……?」
「おう。悪かったな……間に合わなかった」
「うぅん」
ファイは椅子から立ち上がり、首を振りながら黒鋼に両腕を伸ばし、ぽふっと音を立てて肩に顔を埋めてくる。
「黒わん、ちゃんと来てくれたからいいの。嬉しいよー」
「本当に悪かった」
「いいの。ユゥイがね、黒わんはお仕事がんばってるんだから、ワガママ言ったらダメって言ったの。だから黒わん、謝っちゃダメ」
黒鋼の腰に腕を回してしがみついてくるファイは顔を上げて、ふにゃりと笑う。
その聞き分けの良さがなぜか切ない。臍を曲げて泣いているファイの機嫌を、どうやって取るかばかり考えて走ってきた黒鋼は、少しだけ寂しいような、拍子抜けしたような気分になった。
それでも彼が楽しみにしていた銀杏並木のイルミネーションが終わってしまったことに変わりはない。ファイの笑顔を見ても、黒鋼の中の罪悪感は消えなかった。
すると、そこにカウンターから出てきたユゥイが白いコートと青いマフラーを手にやって来た
「銀杏並木、まだ間に合いますよ」
「間に合うって……もう終わってたぞ」
ユゥイは小さく笑いながら不思議そうに首を傾げるファイにコートを着せて、前の合わせを止めながら黒鋼を見た。
「間に合うんです」
「ユゥイー、もうキラキラ終わってるよー?」
「終わらないよ。だってまだサンタさんが来てない」
「サンタさん?」
「そう。サンタさんもね、時間に間に合わなかったんだって。だから今行けば会えるかもしれないよ」
「ほんと!?」
「うん」
マフラーを巻いてもらいながら、ファイはパッと表情を明るくした。その頬が少し赤くなっている。
一体どういうことだろかと、黒鋼は戸惑いの視線をユゥイに向けるが、彼はただ静かに笑っているだけだった。
***
ユゥイの意図はまるで分からなかったが、黒鋼ははしゃぐファイを連れて夜の街に出た。
ファイは黒鋼と手を繋ぎながら、もう片方の腕にはあの赤い包みをしっかりと抱きしめている。
「それどうした?」
「んー?」
「その赤いの」
「えへへー、サンタさんのプレゼントなんだー」
ファイはその包みをいっそう強く、大事そうに抱きしめる。
サンタさんに渡すという意味なのか、それとも貰った、という意味なのか。
彼の口振りからはハッキリとは分からなかったが、今日は店に常連客が集まると言っていたから、そのうちの誰かに貰ったのかもしれない。
どっちにしろ、白くけぶるような息を吐き出すファイの手を握る力を強くして、身長の割に狭い歩幅に合わせながら歩いていると、すぐに駅前通りが見えてきた。
そこはさっき通りがかった時のまま、街灯やコンビニの灯りしかない暗い街並みだった。人や車の往来が減り、名残すらどこにも見当たらなくなっている。
「何があるってんだろうな」
駅の正面まで出て、黒鋼は不審そうに眉間の皺を深くした。ファイもキョロキョロと辺りを見回すと、「まっくらだねぇ」と間延びした口調で言う。
気分だけでも味わって来いという意味だったのだろうか。ただ立ち尽くしているのも時間の無駄に思えて、黒鋼はファイの手を引くと元来た道を引き返そうとした。
そのときだった。
「!」
プッ、という音がして、手前から一つ一つドミノ倒しのように次々と銀杏並木に光が灯る。
それはずっと向こう側に至るまで続き、やがて眩い光の道が出来上がった。
「わあぁ……!」
その美しく幻想的な光景に賛嘆の声を上げるファイの隣で、黒鋼も驚きに目を見開いた。
何がどうなっているのかは分からないが、ユゥイの言っていた「サンタさん」とは、このことを指していたのか。
「黒わん行こー!」
「あ、ああ」
黒鋼の手を強く引っ張るファイの瞳も、イルミネーションの光を受けて負けじと輝いている。暗く寂しい街並みから、一瞬にして夢の世界に連れてこられたような気持ちになった。
「すごいすごーい! とってもキレイー!」
「そうだな」
光り輝く道を、二人はのんびりと木々を見上げながら歩いた。
ファイがしきりにはしゃいだ声を上げて、黒鋼はただ言葉少なに同意しながら、いつしか視線はファイの金色の髪や、星が瞬いたように輝く青い瞳にばかり向けられていた。綺麗だった。
どんな力が働いての奇跡なのか、今はそんなことどうでもよかった。なぜなら黒鋼は今、とてつもなく重要なことに気が付いてしまったからだ。
(なにが親心だよ……こりゃ全く違うもんじゃねぇか……)
光を一身に纏うファイの笑顔を、愛しいと、感じた。
今まで見てきたどんなものより、彼は美しく光り輝いていた。
まるで宝石のようだ。少しばかりロマンチックな光景に感化されてしまっている自分を、恥ずかしく感じる。
黒鋼の大きな手によく馴染む、ファイの華奢な手はほんのりと汗ばんでいた。それほど強く握り合っていたことに気が付いて、多分きっと、一生この手を離さずに生きていくような、そんな予感がする。
「黒わんと見れて、すごく嬉しい」
銀杏の木々を見上げていた瞳が、今度は真っ直ぐに黒鋼に向けられた。
一瞬にして予感が確信に変わったとき、黒鋼はその白いコートに包まれた華奢な身体を引き寄せ、衝動的に抱きしめていた。どうしてだろう。柄にもなく、少し泣きたいような気持ちだった。
それほどに、強く強く胸を打たれていた。
「ひゃー、どうしたの黒わん? 寒いのー?」
ファイの片腕が黒鋼の背に回り、「よしよし」と言いながらしきりに摩る。それから、何かを思い出したように小さく声を上げて、ずっと抱え込んでいた赤い包みを胸に押し付けてきた。
「あのね、これあげる」
「……俺にか? だがこれは」
「黒わんのだよ。開けて」
黒鋼は少し戸惑いながら、ファイから僅かに身を離す。そして赤い包みを受け取って、破れないように慎重にテープを剥がした。
すると、中から現れたのは真っ赤な手編みのマフラーだった。
目を見開いてファイを見ると、彼は花が咲いたように柔らかく笑っていた。
「おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー」
言葉が出なかった。小さなぬいぐるみを編むのとは訳が違う。これだけのものを仕上げるのに、どれほど時間がかかったのだろうか。
黒鋼はぐっと息を呑みながら、包みを全て取り去ると脇に抱え、マフラーを首に巻いた。ふわりと、砂糖のような甘い香りがする。温かかった。
黒のジャケットに赤いマフラー。これでは本当に黒わんだなと思いつつ、ファイが「似合う似合う」と言って手を叩くから、どうでもよくなってしまう。
「あのね、オレ知ってるんだ。ほんとはサンタさんなんかいないの」
「……どうしてそう思った?」
「ユゥイがね、毎年こっそりオレが寝てるところにプレゼントを置くの。だからオレ、ちゃんと寝たふりするんだー」
ああ、黒鋼にも覚えがある。
サンタクロースを信じていた子供の頃、枕元にそっとプレゼントを置いてくれるのは父と母だった。
眠気眼でそれを見たとき、黒鋼の夢は終わった。だけど、悲しくはなかった。今みたいに、温かな気持ちで夢から覚めた。守ろうとしてくれる両親の、愛情だけを感じて。
「ユゥイには内緒。言っちゃダメねー」
「……わかった」
夢を見ているのは子供だけではないのだと黒鋼は思った。
夢見る彼らに、大人もまた、夢を見ている。
だから気づかない。いつの間にか遠くへ行こうとする子供の成長を。
「だからね、オレがサンタさんになろうって決めたの。ちゃんとなれたかなぁ?」
黒鋼は答える代りに小さく笑って、金色の髪を優しく撫でた。
「よかったぁ」
誰かをこんなに大切だと感じたのは、これが初めてかもしれない。
なのに、これ以上愛しくさせてどうする気だろう。もう一度、強く抱きしめたい衝動をぐっと堪えて、黒鋼はジャケットのポケットに手を忍ばせる。
そして取り出したものを、ファイの首にかけた。
「なぁに?」
「俺からだ」
ファイは自分の首にかけられた、黒の革紐に指先を這わせ、その先端についている楕円形のものに触れると手の平に乗せた。
それは、木製のペンダントだった。
「後ろにネジがついてんのわかるか?」
「えと……あ、これ?」
「巻いてみろ」
不思議そうに頷いたファイが、言われた通り指先で小さなネジを巻く。すると、可愛らしい音色が優しく辺りに響き渡った。
曲は、星に願いを。
「わぁ……! オルゴールだー!」
凄い凄いと、ファイは何度も繰り返して両手でぎゅっとペンダントを握りしめる。喜んでいる姿に心底安堵した。
悩むにいいだけ悩んでいた最中、黒鋼は取材先で行った街で見かけたアンティークショップに、ふらりと足を向けた。
そこにあったのがこのペンダントだった。決め手はやはり、このオルゴールが奏でる曲だった。ファイと初めて会ったとき、彼が口ずさんでいたのがこれだったからだ。
「ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!」
「おう」
嬉しそうに再びネジを巻くファイの頬に、堪らず手を伸ばす。ファイは光をいっぱいに吸い込んだ瞳で見上げてくる。
こちらまで吸い込まれそうになって、黒鋼はその錯覚に抗うことなく顔を寄せる。一瞬だけ触れた唇の柔らかさに、眩暈がしそうだった。
オルゴールが再び柔らかなメロディを奏でる。夢を見ているような、ふわふわとした気分だった。
ファイは目を丸くして、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「黒わん、チュウした」
「誰にも言うなよ」
ファイは黒鋼の顔をじっと見つめた後、頬を赤らめてこくりと頷いた。
それから、ちょっと苦しそうに胸元をぎゅうっと握り閉めながら、小さく首を傾げる。
「二人だけの、秘密だねぇ」
そう言って、ファイは眉をハの字にしてふにゃっと笑った。
←戻る ・ 次へ→
仕事の合間を縫って、いつものように猫の目に訪れた時のことだった。
十二月に入って寒さもいよいよ本格的に厳しくなってきたが、その日は天気もよく、テラスに出て温かなお茶を飲んでいると、いっそ少し汗ばむほどの気候だった。
「キラキラする木?」
「そうだよー。キラキラでピカピカの木だよー。黒わん、知らないのー?」
「絵本かなんかに出てくる木か?」
「ブー! 違いまーす!」
なぜかクイズの出題者気取りになっているファイは、黒鋼が正解を言い当てられないことに喜んでパチパチと両手を叩く。
「黒わんハズレたからバツゲームだねー。何がいいかなー?」
「そんなんあんのかよ……」
ファイがうーんうーんと罰ゲームとやらの内容を考えている間に、黒鋼もふとひらめく。そういえば今月はいよいよクリスマスシーズンの到来だ。
彼が言っているキラキラでピカピカの木というのは、お馴染みのあの木のことを言っているのではないか。
「ツリーのことか? クリスマスの」
「おしい」
そう言ったのはファイではなく、ケーキの乗った皿を運んできたユゥイだった。
彼が目の前にズラリを並べ始めたスイーツの数々を見て、黒鋼は思わず胸を押さえる。チョコレートケーキなどの定番品はもちろん、カボチャのタルトにミルクレープ、果物たっぷりのロールケーキにティラミスなどなど……。
見ているだけで胸焼けがして、うえ、と潰れたカエルのように低く呻く黒鋼を見て、ユゥイはなぜか楽しそうだった。
「駅前の通りに銀杏並木があるでしょう。毎年クリスマスの二日間だけ、ライトアップされるんですよ」
「イルミネーションか」
「ピンポンピンポーン!」
正解したらしたで、ファイはまた手を叩いて喜んだ。
思えばクリスマスに向けてのケーキ屋特集で地獄を見たのは、つい先月のことだ。ハッキリ言って黒鋼は、ことスイーツ関係では全く戦力にならない。
まず目の前のケーキの数々に嫌気がさしていることからも分かるように、生まれてこのかた甘いものが好きだった時期など一秒たりともないのだった。
嫌々ケーキを食べまくり、苦し紛れに書いた記事に何度ダメ出しされたか知れない。上司の壱原侑子は黒鋼が甘味嫌いであることを知っていながら、あえて反応を楽しむドSの女王である。
「思い出すだけで気分が悪くなるぜ……」
ついに表情まで青くしはじめる黒鋼にぴったりとくっついていたファイが、フォークをぎゅっと握りしめて目を輝かせる。
「ユゥイー、これ食べてもいいー?」
「もちろんだよ。黒鋼さんもよければどうぞ」
「遠慮しとく……」
「黒たんは甘いのダメなんだよねー。ユゥイのケーキ美味しいのにカワウソー」
「可哀想、だよ。ファイ」
「んー、おいしー!」
嬉しそうにタルトを頬張るファイを横目でじっとりと見つめつつ、甘いのはこの笑顔だけで充分だと感じる。
よく料理人が、作っているだけで腹がいっぱいになる、なんて言うのを聞くが、これはそれに似た感覚だろうか。甘いものは嫌いだが、甘いものを満面の笑顔で食べているファイという図は癒し効果抜群だった。
「で、そのイルミネーションがなんだって?」
黒鋼がテーブルに片肘をついて顎を乗せながら聞くと、さらにチーズケーキやモンブランを追加で運んできたユゥイが「ああ」と思い出したように頷いた。
「毎年見に行くんです。ファイと。だけど、今年はちょっと事情があって」
「……待て、その前にこのケーキは全部こいつに食わすのか?」
「まさか。ボクも食べます」
「ならいいけどよ……」
すでにタルトを完食したファイは、ロールケーキに手をつけている。テーブルいっぱいに所狭しと並べられたこれら全てを一人で食わせれば、一瞬で糖尿になりそうだ。いや、二人で食うにしてもかなりの量ではあるのだが。
ファイは華奢だが、胃袋は結構でかい。いつも一緒に食事をするときは、黒鋼と同じだけの量をペロリと平らげる。
食ったものが身にならないのは体質だろうか。
「事情ってのはなんだ? あの双子の兄貴の方とデートでもすんのか」
ファイの口元についていたクリームを優雅に指先で拭い、椅子に腰かけながら舌で舐めとるユゥイが冷やかな視線を送って寄越す。地雷と知って踏んだのは自分だが、なかなか迫力がある。
ユゥイはわざとらしく咳払いをして、自らもフォークに手を伸ばしながら話を続けた。
「今年のイヴは町内会のクリスマスパーティーに参加することになっているんです。奥様方にどうしてもと誘われているので」
「また熟女か。モテる男は辛いな」
「……クリスマス当日はここで、常連さんだけを呼んでケーキバイキングをする予定になっているので、今年はどうしてもファイを連れて行けないんです」
「すぐそこだろ。ちょっと歩けば見に行ける距離じゃねぇのか」
「あのねあのね」
ロールケーキに夢中になっていた視線をこちらに向けて、ファイが黒鋼のジャケットの袖をクイクイと引っ張った。
「いっぱい人がいるところには、一人で行っちゃダメなのー。ぶつかったり転んだりするし、悪い人もいるかもだからユゥイがダメーって」
「過保護だな」
なんて思いつつ、ファイを人ごみに放り出すのは確かに不安だ。この純粋培養がおかしな輩に引っかかろうものなら、すぐに騙されて何をされるか分かったもんじゃない。一直線であるはずの銀杏並木で迷子にもなりかねない気がした。
「それにねー、オレ黒わんと一緒がいいのー。キラキラの木、黒わんと見るんだー」
「……クリスマスか」
二日間のうち、いずれかなら時間を作ることはできるかもしれない。
ファイの中では黒わんとイルミネーションを見に行くのがすでに決定事項になっているようだし、渋ればまた泣き出すに違いなかった。
ユゥイが少しだけ申し訳なさそうに肩を竦めながら視線を送ってくる。黒鋼はポンと膝を叩いて「わかった」と了承する。
「ほんとー? わぁい!」
「いいんですか?」
「その辺ブラつくぐれぇの時間はなんとでもなる。ただし、ケーキ以外にも食えるもん作っとけよ」
「それはもちろん」
頷いたユゥイはホッと息をつきながら申し訳なさそうに苦笑していた。ファイは嬉しそうにニコニコしながら、フォークでモンブランの上に乗っている栗を刺し、油断していた黒鋼の口にスポッと入れる。
「むが!? て、てめ! なにしやがる!!」
一瞬で口の中にあま~い砂糖と栗の味が広がった。思いっきり顔を顰めて睨み付けても、ファイは嬉しそうにまた手を叩く。
「バツゲームだよー! だって黒わん一回で正解できなかったもーん」
「こ、このやろう……」
「楽しみだねー! サンタさんも、キラキラ見に来るかなー?」
そう言ってゆらゆらと身体を左右に揺らす姿と、口の中がうんざりするほど甘ったるい。黒鋼は軽い頭痛を覚えながらお茶で無理やり流し込んでみたが、視線の先はいつまでも甘ったるいままだった。
「…………」
そんな二人の様子を見て、ユゥイが何か言いたげに唇を震わせたが、彼は結局無言のまま、ただ寂しげに笑っていた。
***
クリスマス当日が近づくにつれ、黒鋼はふとした瞬間、街中で足を止めるようになった。
それは決まっておもちゃ屋や雑貨屋のディスプレイの前で、一度見入ってしまうとつい時間を忘れて唸ってしまう。おかげで他の通行人に不審そうな目で見られたり、酷いときは店の人間が怯えた表情で様子を見に来る始末だった。
おのれ、どいつもこいつも人を顔だけでヤクザと判断しやがって……と、多少イラッとしつつ、ここ最近の黒鋼はずっと子供受けするアイテムについて考えているのだった。
その日は真冬らしく、冷え込みの厳しい朝だった。
いつものように目覚めてすぐに暖房のスイッチを入れ、お茶を淹れるための湯を火にかけながらあれこれ準備を整える。
黒鋼がトースターに厚切りの食パンを二枚突っ込んでから台所を出ると、朝の情報番組ではクリスマスの話題が取り上げられていた。
ファッションやコスメ、グルメはもちろんデートスポットなどなど。
時期的にこの手の話がひっきりなしだが、次の話題はおもちゃ屋の売れ筋調査だった。
美人リポーターが大手百貨店の玩具売場へ行き、男性店員に直接話を聞いている光景が映し出される。
『これからクリスマスに向けて、一番の人気商品はどれしょう?』
『そうですね、男の子向けならこちらの特撮ヒーローの変身グッズが、やはり一番の売れ筋商品となっております』
『わー! まるで本物みたいにクオリティが高いですねー!』
店員から変身ベルトを受け取ったリポーターが、わざとらしくはしゃいだ声をあげる姿に、黒鋼は思わず身を乗り出して見入ってしまった。
男性店員は次から次へと人気の商品を持ち出し、宣伝に余念がない。
『女の子に最近人気なのは、こちらのオモチャのスマートフォンです』
『きゃー可愛い! 本物みたい!』
『カードを入れると音楽アプリやカメラアプリが起動して、お友達とスタンプメールのやりとりを楽しむこともできるんです。娘さんのためにと、こちらを購入されるお父さんが多いですね』
『クリスマスプレゼントに最適ですねー!』
「なるほどな……」
いつの間にか、黒鋼は腕を組んでうんうんと深く頷いていた。
確かに、こないだ足を止めたおもちゃ屋のディスプレイにも同じような商品がズラリと並んでいた気がする。ただ眺めているだけでは分からなかったが、オモチャといえども侮れない機能の多さだ。
やはり店先で眺めているだけでなく、直接中に乗り込んで色々と店員の意見を聞いてみる方がいいということか。
そこまで真剣に考えてから。
黒鋼はハッとした。
いくらなんでも女児向けのスマホやら変身ベルトというのはいかがなものだろう。ファイの中身は確かに子供だが、流石にバカにしていると思われても仕方がないような気がする。
喜びはすると思うが、もっと気の利いたものはないものか。
最近ずっとこの調子だ。もうじきクリスマスということもあって、黒鋼は何かファイが貰って喜ぶようなものはないだろうかと、頭を悩ませている。
ぬいぐるみなどの雑貨品は普段から本人が作っているし、洋服、という手もあるが、ハッキリ言ってファッションセンスには自信がない。
慣れないことをしている自覚はある。
かつてこれほどまでに誰かにプレゼントする品について頭を悩ませたことなどなかった。
母の日ならハンカチを、父の日ならネクタイを、友人が相手なら単刀直入に聞いた方が手っ取り早かったし、恋人なら聞くまでもなく強請られることが多かった。
いっそファイにも直接聞いた方が早いのかもしれない。黒鋼には彼が何を欲しがり、何をすれば喜ぶのかがさっぱり分からなかった。彼が話すのは大抵大好きな黒わんのことや雑貨作りに関してで、あとは仲のいい常連客やユゥイのことに絞られている。彼自身の話というのは滅多に聞かない。
黒鋼はふと、部屋の中央にある木製のテーブルに目をやった。仕事用の資料が積まれているその横に、裸の黒わんが座っている。
思わず、ふっと笑ってしまう。いまだにマフラーを巻いた黒わんは貰えていない。もうそんな脅しなどかけなくても、おそらく黒鋼はあの店に通う。純粋に、ファイの笑顔が見たいから。
「らしくねぇってのは、分かってんだがな」
ファイはいつだって黒鋼が店に顔を出せば大喜びでしがみついてくる。
砂糖菓子のような笑顔を浮かべて、幼い口調で一生懸命喋って、黒わんにマフラーを縫い付けて。帰り際には泣きながら、裸の黒わんを手渡してくる。
黒鋼はただそこにいるだけなのに。あんなにも喜び、泣き、真っ直ぐに好意をぶつけてくる存在が、特別なものにならないわけがない。
だからだろうか。黒鋼はファイに何かしてやりたくて仕方がなかった。
サプライズなんて柄じゃない。だけど。
これはいわゆる子を持つ親の感覚に近いのだろうか。
子供どころか結婚すら遠い黒鋼には予想もできないが、もし仮に自分が子供をもつ父親だった場合、こういう気持ちに……。
「……それは流石にねぇな」
黒鋼が自分に突っ込みを入れたところで、ヤカンが蒸気を噴出す甲高い音が聞こえて思考が途切れる。
とりあえずクリスマスは来週に迫っているのだから、その間に何かしら考えて用意しようと決めて、台所へ向かった。
***
クリスマス当日、黒鋼は焦っていた。
編集会議が予想以上に長引いて、職場ビルを飛び出したとき、時刻はすでに22時をとうに過ぎていた。
イルミネーションの点灯時間は17時から23時。
ここから駅まで走って電車に乗ったとしても、おそらく店につく頃には何もかも終わっている。
もう一時間もないのだから、何をどうしようが絶望的と知りつつも、運よく路肩に停車していたタクシーを拾う。が、流石はクリスマス当日ということもあり、もうじき目的地の駅周辺という辺りで渋滞に巻き込まれた。
黒鋼はここでいいと運転手に告げ、財布から現金を取り出すとそれを渡し、釣り銭も受け取らずに人の多く行き交う街の中を全力で駆け抜けた。
分かってはいたが、駅前の通りはすっかり光が消えていた。
時刻はもはや23時を過ぎている。かろうじて人通りと車通りの多さが光り輝くイルミネーションの名残を残しているだけで、あとは何の変哲もない、夜の街並みが広がるばかりだった。
黒鋼は白い息を吐き出しながら、それでも駅裏に向かって走った。
すっかりシャッターの下りた寂しい商店街を突っ切り、通い慣れた脇道に入る。closeの看板がかかった猫の目は、灯りこそついてはいるがしんと静まり返っている。
「悪い、すっかり遅くなった」
黒鋼は勢いよく店の扉を開いた。
外は冷たい空気に満ちていたが、店内は暖房がきいていて温かい。ここまでの距離を走ってやって来た黒鋼には、少し暑いくらいだった。
「黒鋼さん」
カウンター越しに、食器の片付けをしていたユゥイが驚いた様子で顔を上げる。
彼はいつまで経っても現れない黒鋼の事情をちゃんと察していたようだった。焦って飛び込んできた黒鋼に少しだけ眉尻を下げて、緩く微笑んだ。
「お疲れ様です。走っていらしたんですか?」
「まぁな……」
店内を見回すと、ついさっきまで人がいた名残が充分に残っている。
床に散らばるクラッカーの中身と、カウンター脇で色とりどりの電飾で飾られたツリーが祭の後を物語っているようで、いやに物悲しい。
ファイは室内の片隅の、窓際の席に座って両腕に顔を伏せていた。ピクリとも動かないその姿に、咄嗟にユゥイを見ると彼は苦笑して肩を竦める。
「いつもこの時間は寝ているので……さっきまで起きて待ってたんですけどね」
「……やっちまったな。泣いたか?」
「いえ……」
ユゥイは言葉を濁すように睫毛を伏せて、何かを言いかけた。が、すぐにいつもの笑顔を張り付ける。
「サクラちゃんたちも待ってたんですよ。でも、もう時間が時間なので帰しました。お料理はちゃんと残してますから、すぐに食べますか?」
「いや、いい」
黒鋼は足音を立てないように窓際の席に歩み寄った。
ファイはテーブルに伏せているが、その両腕の下には赤い紙の包みが敷かれている。
てっきり泣きはらした表情で不貞腐れているとばかり思っていたため、ユゥイの否定は少し意外だった。
起こしてしまわないように手を伸ばして、ふわふわの金髪に指を通す。冬の冷気に冷え切っていた指先にじわりと火が灯るような温かさを感じる。
「うー……」
ファイは身じろいで、ゆっくりと身体を起こした。眠っているのを起こさないようにと配慮していたつもりだが、どこかでは顔が見たいと思っていたのかもしれない。ぼんやりとしながら幾度か瞬きを繰り返す間抜けな表情に、少しだけ笑ってしまう。
「黒わん……?」
「おう。悪かったな……間に合わなかった」
「うぅん」
ファイは椅子から立ち上がり、首を振りながら黒鋼に両腕を伸ばし、ぽふっと音を立てて肩に顔を埋めてくる。
「黒わん、ちゃんと来てくれたからいいの。嬉しいよー」
「本当に悪かった」
「いいの。ユゥイがね、黒わんはお仕事がんばってるんだから、ワガママ言ったらダメって言ったの。だから黒わん、謝っちゃダメ」
黒鋼の腰に腕を回してしがみついてくるファイは顔を上げて、ふにゃりと笑う。
その聞き分けの良さがなぜか切ない。臍を曲げて泣いているファイの機嫌を、どうやって取るかばかり考えて走ってきた黒鋼は、少しだけ寂しいような、拍子抜けしたような気分になった。
それでも彼が楽しみにしていた銀杏並木のイルミネーションが終わってしまったことに変わりはない。ファイの笑顔を見ても、黒鋼の中の罪悪感は消えなかった。
すると、そこにカウンターから出てきたユゥイが白いコートと青いマフラーを手にやって来た
「銀杏並木、まだ間に合いますよ」
「間に合うって……もう終わってたぞ」
ユゥイは小さく笑いながら不思議そうに首を傾げるファイにコートを着せて、前の合わせを止めながら黒鋼を見た。
「間に合うんです」
「ユゥイー、もうキラキラ終わってるよー?」
「終わらないよ。だってまだサンタさんが来てない」
「サンタさん?」
「そう。サンタさんもね、時間に間に合わなかったんだって。だから今行けば会えるかもしれないよ」
「ほんと!?」
「うん」
マフラーを巻いてもらいながら、ファイはパッと表情を明るくした。その頬が少し赤くなっている。
一体どういうことだろかと、黒鋼は戸惑いの視線をユゥイに向けるが、彼はただ静かに笑っているだけだった。
***
ユゥイの意図はまるで分からなかったが、黒鋼ははしゃぐファイを連れて夜の街に出た。
ファイは黒鋼と手を繋ぎながら、もう片方の腕にはあの赤い包みをしっかりと抱きしめている。
「それどうした?」
「んー?」
「その赤いの」
「えへへー、サンタさんのプレゼントなんだー」
ファイはその包みをいっそう強く、大事そうに抱きしめる。
サンタさんに渡すという意味なのか、それとも貰った、という意味なのか。
彼の口振りからはハッキリとは分からなかったが、今日は店に常連客が集まると言っていたから、そのうちの誰かに貰ったのかもしれない。
どっちにしろ、白くけぶるような息を吐き出すファイの手を握る力を強くして、身長の割に狭い歩幅に合わせながら歩いていると、すぐに駅前通りが見えてきた。
そこはさっき通りがかった時のまま、街灯やコンビニの灯りしかない暗い街並みだった。人や車の往来が減り、名残すらどこにも見当たらなくなっている。
「何があるってんだろうな」
駅の正面まで出て、黒鋼は不審そうに眉間の皺を深くした。ファイもキョロキョロと辺りを見回すと、「まっくらだねぇ」と間延びした口調で言う。
気分だけでも味わって来いという意味だったのだろうか。ただ立ち尽くしているのも時間の無駄に思えて、黒鋼はファイの手を引くと元来た道を引き返そうとした。
そのときだった。
「!」
プッ、という音がして、手前から一つ一つドミノ倒しのように次々と銀杏並木に光が灯る。
それはずっと向こう側に至るまで続き、やがて眩い光の道が出来上がった。
「わあぁ……!」
その美しく幻想的な光景に賛嘆の声を上げるファイの隣で、黒鋼も驚きに目を見開いた。
何がどうなっているのかは分からないが、ユゥイの言っていた「サンタさん」とは、このことを指していたのか。
「黒わん行こー!」
「あ、ああ」
黒鋼の手を強く引っ張るファイの瞳も、イルミネーションの光を受けて負けじと輝いている。暗く寂しい街並みから、一瞬にして夢の世界に連れてこられたような気持ちになった。
「すごいすごーい! とってもキレイー!」
「そうだな」
光り輝く道を、二人はのんびりと木々を見上げながら歩いた。
ファイがしきりにはしゃいだ声を上げて、黒鋼はただ言葉少なに同意しながら、いつしか視線はファイの金色の髪や、星が瞬いたように輝く青い瞳にばかり向けられていた。綺麗だった。
どんな力が働いての奇跡なのか、今はそんなことどうでもよかった。なぜなら黒鋼は今、とてつもなく重要なことに気が付いてしまったからだ。
(なにが親心だよ……こりゃ全く違うもんじゃねぇか……)
光を一身に纏うファイの笑顔を、愛しいと、感じた。
今まで見てきたどんなものより、彼は美しく光り輝いていた。
まるで宝石のようだ。少しばかりロマンチックな光景に感化されてしまっている自分を、恥ずかしく感じる。
黒鋼の大きな手によく馴染む、ファイの華奢な手はほんのりと汗ばんでいた。それほど強く握り合っていたことに気が付いて、多分きっと、一生この手を離さずに生きていくような、そんな予感がする。
「黒わんと見れて、すごく嬉しい」
銀杏の木々を見上げていた瞳が、今度は真っ直ぐに黒鋼に向けられた。
一瞬にして予感が確信に変わったとき、黒鋼はその白いコートに包まれた華奢な身体を引き寄せ、衝動的に抱きしめていた。どうしてだろう。柄にもなく、少し泣きたいような気持ちだった。
それほどに、強く強く胸を打たれていた。
「ひゃー、どうしたの黒わん? 寒いのー?」
ファイの片腕が黒鋼の背に回り、「よしよし」と言いながらしきりに摩る。それから、何かを思い出したように小さく声を上げて、ずっと抱え込んでいた赤い包みを胸に押し付けてきた。
「あのね、これあげる」
「……俺にか? だがこれは」
「黒わんのだよ。開けて」
黒鋼は少し戸惑いながら、ファイから僅かに身を離す。そして赤い包みを受け取って、破れないように慎重にテープを剥がした。
すると、中から現れたのは真っ赤な手編みのマフラーだった。
目を見開いてファイを見ると、彼は花が咲いたように柔らかく笑っていた。
「おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー」
言葉が出なかった。小さなぬいぐるみを編むのとは訳が違う。これだけのものを仕上げるのに、どれほど時間がかかったのだろうか。
黒鋼はぐっと息を呑みながら、包みを全て取り去ると脇に抱え、マフラーを首に巻いた。ふわりと、砂糖のような甘い香りがする。温かかった。
黒のジャケットに赤いマフラー。これでは本当に黒わんだなと思いつつ、ファイが「似合う似合う」と言って手を叩くから、どうでもよくなってしまう。
「あのね、オレ知ってるんだ。ほんとはサンタさんなんかいないの」
「……どうしてそう思った?」
「ユゥイがね、毎年こっそりオレが寝てるところにプレゼントを置くの。だからオレ、ちゃんと寝たふりするんだー」
ああ、黒鋼にも覚えがある。
サンタクロースを信じていた子供の頃、枕元にそっとプレゼントを置いてくれるのは父と母だった。
眠気眼でそれを見たとき、黒鋼の夢は終わった。だけど、悲しくはなかった。今みたいに、温かな気持ちで夢から覚めた。守ろうとしてくれる両親の、愛情だけを感じて。
「ユゥイには内緒。言っちゃダメねー」
「……わかった」
夢を見ているのは子供だけではないのだと黒鋼は思った。
夢見る彼らに、大人もまた、夢を見ている。
だから気づかない。いつの間にか遠くへ行こうとする子供の成長を。
「だからね、オレがサンタさんになろうって決めたの。ちゃんとなれたかなぁ?」
黒鋼は答える代りに小さく笑って、金色の髪を優しく撫でた。
「よかったぁ」
誰かをこんなに大切だと感じたのは、これが初めてかもしれない。
なのに、これ以上愛しくさせてどうする気だろう。もう一度、強く抱きしめたい衝動をぐっと堪えて、黒鋼はジャケットのポケットに手を忍ばせる。
そして取り出したものを、ファイの首にかけた。
「なぁに?」
「俺からだ」
ファイは自分の首にかけられた、黒の革紐に指先を這わせ、その先端についている楕円形のものに触れると手の平に乗せた。
それは、木製のペンダントだった。
「後ろにネジがついてんのわかるか?」
「えと……あ、これ?」
「巻いてみろ」
不思議そうに頷いたファイが、言われた通り指先で小さなネジを巻く。すると、可愛らしい音色が優しく辺りに響き渡った。
曲は、星に願いを。
「わぁ……! オルゴールだー!」
凄い凄いと、ファイは何度も繰り返して両手でぎゅっとペンダントを握りしめる。喜んでいる姿に心底安堵した。
悩むにいいだけ悩んでいた最中、黒鋼は取材先で行った街で見かけたアンティークショップに、ふらりと足を向けた。
そこにあったのがこのペンダントだった。決め手はやはり、このオルゴールが奏でる曲だった。ファイと初めて会ったとき、彼が口ずさんでいたのがこれだったからだ。
「ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!」
「おう」
嬉しそうに再びネジを巻くファイの頬に、堪らず手を伸ばす。ファイは光をいっぱいに吸い込んだ瞳で見上げてくる。
こちらまで吸い込まれそうになって、黒鋼はその錯覚に抗うことなく顔を寄せる。一瞬だけ触れた唇の柔らかさに、眩暈がしそうだった。
オルゴールが再び柔らかなメロディを奏でる。夢を見ているような、ふわふわとした気分だった。
ファイは目を丸くして、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「黒わん、チュウした」
「誰にも言うなよ」
ファイは黒鋼の顔をじっと見つめた後、頬を赤らめてこくりと頷いた。
それから、ちょっと苦しそうに胸元をぎゅうっと握り閉めながら、小さく首を傾げる。
「二人だけの、秘密だねぇ」
そう言って、ファイは眉をハの字にしてふにゃっと笑った。
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それから黒鋼はよく店に通うようになった。
流石に毎日とはいかないが、仕事の合間やたまの休みに時間を作り、最低でも週に一度は必ず顔を出すようにした。
帰り際は必ず、泣きながらマフラーのない黒わんを手渡される。風邪をひくからという文句はすっかり定番となって、これが夏だったらどんな言い訳をしていたのだろうかと、渡される度に笑ってしまう。
その日も、少し早目に仕事を上がった黒鋼はファイの待つ猫の目を訪れていた。
「はい、できたー! これでもう寒くないねー」
暗くなるとテラス席は締め切られてしまうため、黒鋼とファイは店内の窓際の席についていた。四人掛けで向かい合う形のテーブルだが、ファイはわざわざ黒鋼の隣に座って身を寄せる。がら空きの向いの二席は鞄とコートと、スーツのジャケットを置くだけのスペースになっていた。
彼は黒鋼が持ち帰ってきた黒わんに赤いマフラーを縫い付けると、満足げにニッコリと笑った。だが、それを再び黒鋼に返しては寄越さない。
「今日も完成品はもらえねぇのか?」
あえて聞くと、ファイは俯いて顔を赤らめ、もじもじと膝を擦り合わせる。
「こ、この黒わんは、もういいの。新しい黒わん作ったから、帰りにあげる」
「マフラーは?」
「う……あの、えとね、間に合わなかったの。だから今日のも裸なの」
「そうか、ならしょうがねぇな」
「うん、しょうがねぇの」
黒鋼の口調を真似てはにかむファイは、純粋に可愛いと思う。
初対面で懐かれたときは戸惑うばかりだったが、ここのところ黒鋼は無邪気でいじらしいファイの姿に癒しを見出していた。
子供にしろ何にしろ、ここまで懐かれた経験は今までなかった。どちらかと言うとこの野蛮そうな面構えのせいか、子供に好かれた記憶がない。
だからこうして真っ直ぐに好意を寄せてくるファイが、新鮮に感じられるのかもしれない。それに、懐かれればやっぱり可愛い。どんなに顔が凶悪でも、黒鋼にだって人間らしい情くらいあるのだから。
「また黒わんのお話ですか?」
そこに、カレーの乗った盆を持った一人の少年がやって来た。
鷲色の髪と瞳をした彼は、この近くの高校の制服を身につけているが、ジャケットは脱いで猫のシルエットが描かれたエプロンをしている。
「おまえは小狼の方だな」
「そうです。凄いですね、一度見ただけなのに間違わないなんて」
「兄貴の方とは目つきが違うからな」
小狼は黒鋼の前にカレー皿を置くと、少し困ったような笑みを浮かべる。この店のオーナーも双子なら、雇っているバイトも双子というのはなかなか面白い。
兄の方は小龍という名前で、どちらも意志が強そうな瞳を持っていることに変わりはないのだが、弟に比べると少し生意気そうな、食えない印象を受ける。
弟の方はどちからといえば目つきが柔らかく、少年らしい純朴さが滲み出ていた。
この双子が揃うのは週に一度だけ。黒鋼が二度目に訪れた日が偶然それに当たり、揃って紹介された。
そしてもう一人。
「さ、さくら……大丈夫か?」
「う、う、うん、だい、じょ、ぶぅ……」
カウンター裏から出てきたのは小狼と同じ高校の制服にエプロンをした少女だった。彼女はカレーの乗った盆をプルプルと震える手つきで運び、表情を硬くしながらこちらに近づいてくる。
新緑を思わせる爽やかな瞳が、盆の上のカレーにのみ真剣に注がれていた。細心の注意を払っているように見えて、足元には全く意識が向いていないのが激しく不安を煽る。
「おい小僧。おまえが一度に運んできた方が早ぇんじゃねぇのか」
「はぁ……おれもそう思うんですが……」
黒鋼が来店したときには、店内には数人の客がいた。だが閉店間近になってくると皆、会計を済ませて帰って行った。
特にやることがなくなったせいか、サクラは二人分のカレーを運ぶという、たったそれだけの作業を分担すると言ってきかなかった。
「ふぅ……! お待たせしました! カレーは無事です、どうぞ!」
サクラはファイの前にカレー皿を置いて、やり遂げたような表情で額の汗を拭った。
確かに無事といえば無事だが、皿の縁がルーで思いっきり汚れている。小狼がすかさず取り出したナプキンで縁を綺麗に拭き取った。フォローの仕方がすっかり手馴れているような気がする。
「わーいありがとー! 黒わん早く食べよー!」
万歳をしたファイが、スプーンでカレーを食べ始める。手つきがどこかぎこちないせいで、零すのではないかとハラハラしながら黒鋼もスプーンを手にした。
飯時に来ると、いつもこのシーフードカレーを頼む。そしてファイも同じものを一緒に食べるというのも、最近ではすっかりお馴染みになっていた。
じっくりと煮込まれた魚介とスパイスの香りが、空腹の胃袋を刺激する。
「黒鋼さんってカレーが大好きなんですね」
盆を胸に抱いたサクラが、美味しそうにカレーを口に運ぶファイを見てニッコリ笑いながら問いかけてきた。黒鋼は一度口に入れたものをきちんと飲み込んでから、小さく唸る。
「好きっちゃ好きだが。手っ取り早ぇからな、カレーは」
「わたし知ってます。カレーって飲み物なんですよね」
「そこまで極端な食い方はしねぇけどな……」
小狼が半分ほどに減っていたグラスに水を注ぎ足しながら、黒鋼とサクラの会話に苦笑した。
「記者の仕事って、やっぱりお忙しいんですね。お昼もカレーで済ますことが多いんですか?」
「いや、割と色々食う。仕事柄な」
「そういえばグルメ雑誌の担当をされているんですよね」
「美味しいものをお仕事で食べられるなんて……羨ましいです」
サクラがうっとりと目を閉じて呟くが、実際はそんなに甘くはない。
中には驚くほど不味い飯を出す店もあるし、最近ではデカ盛りなんて品のないブームが起こっているせいで、それなりにタフな胃袋がなければ勤まらない仕事だ。
美味いと評判の店があればどこであろうが飛んで行き、記事を書くからには実際に食わなければ話が進まない。
だからだろうか。プライベートでの食事は地味になってしまった。自宅ではカップ麺で済ませてしまうし、外で食べなければならない時はカレーか、適当に立ち食い蕎麦屋にでも入ってしまうことが多かった。
「黒わん……」
なんやかんやと三人で会話をしている最中、大人しくカレーを食べていたファイが手を止めて、じっとこちらを見上げてきた。
どうしたのかと目で問えば、彼は視線を食べかけのカレー皿に落としてから、また黒鋼を見上げた。
「黒わん、カレー大好きなんだ」
「いや、まぁ好きだが……聞いてたか? 人の話」
「黒鋼さん! ファイさんはイカが噛み切れなくて、ずっと一生懸命口をモゴモゴさせてたんです! 叱らないであげてください!」
サクラがすかさずファイの肩にしがみついて、必死に庇う。流石『しんゆー』だ。決して叱っているわけではないのだが……。
とりあえずイカが噛み切れなかったのなら仕方がない、悪いのはイカだ。(この間、小狼がファイからサクラをペリッと剥がしていた)
「黒わん、オレがカレー作ったら嬉しい?」
「おまえ料理なんかできんのか?」
「やったことないけどね、あのね、ユゥイがいっつも言ってるの。ファイはテサキがキヨーだから、何をやってもジョーズだよーって」
「ジョーズ……? 鮫? ああ、上手な」
「そう、ジョーズ」
明らかにイントネーションがおかしいが、ファイは何やら瞳の奥に炎を宿しているようだった。
作る気だろうか。だが、子供にナイフや火を使わせるわけにはいかない。いくら手先が器用でも、彼が普段扱っているのは毛糸や綿で、刃物なんてせいぜいハサミくらいのものだ。料理をするのとは全く訳が違う。
それでも彼の気持ちは充分に嬉しくて、黒鋼は小さく笑うと金色の頭を優しく撫でた。
「無理すんな」
「ムリしてないよー! オレ黒わんにカレー作る! 黒わん、今度いつ来る? 明日?」
「明日って、おまえはいつもせっかちだな」
思わず小狼の方を見ると、彼は困った顔をしながらも小さく笑った。
「ファイさん、結構頑固なのでこうなったら聞かないかもしれません」
「つってもな……」
「ユゥイさんがいれば大丈夫だとは思いますが……」
確かに、あのしっかり者の弟がいれば大丈夫だろうが、そもそも許すだろうか。
そういえば、彼は最後の客が帰るのに続いて看板を下げるために外へ出たまま、まだ戻っていなかった。話好きかつイケメン好きのおばちゃんにでも捕まっているのかもしれない。
「そうだな……次の日曜あたりにまた来るつもりではいたが」
「四日後ですね。じゃあ、ユゥイさんが戻ったらお話してみましょう」
「ねぇ、ヨッカゴって明日?」
「違ぇよ、あほ」
そわそわしながら顔を覗き込んでくるファイの頭をポンと軽く叩いて、黒鋼は苦笑した。
***
「この石なんてどうですか? 丸くて大きいです」
「ん……ダメ。それだとお父さんよりおっきい」
「じゃあ、これは?」
「それはね、お兄さん石だよ。これ、このちょっと尖がってるのがお母さん」
「むぅー……けっこう難しいです……」
「何してんだおまえら……」
黒鋼が少し呆れた表情で声をかけると、店先にしゃがみ込んでいたサクラと小狼、そしてファイが顔を上げた。
「あ……黒わん……」
すかさず立ち上がったファイが、駆け寄ってきて胸に顔を埋める。それを受け止めてやりつつ、黒鋼はペコリと頭を下げる他の二人に向かって首を傾げた。
「石拾いか?」
彼らは黒鋼が声をかけるまで、なぜかしゃがみ込んで道路脇の砂利スペースに手を伸ばしていた。
主に石を拾っては何やら吟味していたのはファイとサクラだったが、遠目からもそこはかとなく、沈んだ様子に見えたのは気のせいだろうか。
証拠に、小狼とサクラが顔を見合わせてからしょんぼりと俯き、いつもなら黒鋼と顔を合わせた途端に休みなく喋りだすファイも、力なく項垂れている。
「おい、一体どうした」
それが……と言いにくそうに小狼が切り出すと、そこでカフェの扉が鐘を鳴らしながら開かれる。
「ユゥイさんを怒らせたんですよ」
出てきたのは小狼と同じ顔をした少年だった。
だが、雰囲気はどこか大人びていて、冷えた印象を受ける。これは兄の方だ。
「怒らせた……ってのはどういう」
「カレー鍋をぶちまけたんです。あの人、大概は笑ってやり過ごすような人ですけど、キッチンを汚されるのだけは我慢ならないから。それに」
小龍は扉に背を預け、不遜な態度で腕を組むと小さく顎をしゃくった。
ふと胸にしがみついているファイの指先を見ると、血の滲んだ絆創膏が幾つも巻かれていた。しかも、彼だけじゃない。胸元で小石をもじもじといじくるサクラの手も、似たような有様だった。
「……まさかとは思うが、おまえらだけで作ろうとしたのか?」
今日は日曜日だ。
前回ここを訪れたとき、ファイはカレーを作ると言って張り切っていた。
あのあとすぐに戻って来たユゥイ(やっぱりおばちゃんの立ち話に付き合わされていた)に了承を得て、黒鋼はちょうど昼時に腹を空かせてくるようにと言い渡された。
「なんだってそんなことに……あの弟はどうした? 側にいたんじゃねぇのか?」
「いなかったんです……」
小狼が見ているこちらが可哀想になるほど肩を落として言った。
「ユゥイさん、午前中は兄と店の買い出しに出ていたんです。それがなかなか戻らなくて……」
「仕方ないだろう。青果店の熟女に捕まったんだ」
辟易とした様子で吐き捨てる小龍の様子から察するに、話好きかつイケメン好きのおばちゃんとやらの正体は青果店の女主人ということか。
店先で声を張る姿を幾度か見かけたことがあるが、肝っ玉母さん風のなかなか迫力ある熟女だった。
つまりユゥイの帰りを待ちきれずに勝手に作業を開始して、散々な結果になったというわけだ。
その結果、しばらく外で反省していろとでも言われたのだろうか。
黒鋼は項垂れるファイの手を取り、傷ついた指先を見つめて顔を顰めた。
「おまえな、危ねぇだろ……こんな怪我までしやがって、なんで待ってらんなかった?」
「だって……黒わんお腹ペコペコだと思ったんだもん……」
「だからってな……」
そんなことを言われてしまったら、黒鋼としては彼らを叱りつけることが出来なくなってしまう。
彼の優しさは嬉しいし、一生懸命さくらいは評価してやりたかった。だが、下手をすれば指先の怪我だけでは済まなかったかもしれないのだから、ユゥイの怒りは無理もない。
ここで黒鋼が無責任に甘やかすわけにはいかなかった。
「すみません……おれが側にいたのに止められなくて……」
「小狼君は悪くないよ! カレーのお鍋を引っくり返しちゃったのはわたしだし……」
「違うよー。オレの足がサクラちゃんの足に引っかかっちゃったから……」
張り切ってカレーを作りだす二人と、それをどうにか止めようとしつつ流されて、結局は一緒に作業をしだす小狼の姿が目に浮かぶ。
大方、狭いスペースで揉みくちゃになりながら体勢を崩して、カレー鍋にタックルでもかましたのだろう……。
「悪気がねぇのが一番性質が悪ぃからな……」
胸に顔を埋めてしくしくと泣きだしてしまったファイの頭を優しく撫でる黒鋼に、小龍が冷めた口調で「同感です」と呟いた。
***
悪気がないのも性質が悪いが、笑っているのに実は激怒しているというのもなかなか厄介だと、黒鋼はカウンター越しにユゥイの整った笑顔を見ながらひしひしと感じていた。
「あんまり怒るなよ。ガキがやったことだろ」
「ガキがやったから怒ってるんですよ。ガキはガキらしく外で小石と戯れていればいい。違いますか?」
「まぁ言い分はもっともだが……」
ファイは見た目だけなら成人した大人だが、その言動ばかりでなく仕草もどこかたどたどしい、小さな子供だ。
サクラはあの通りそそっかしいし、小狼は小狼で、礼儀を重んじる彼はどうしてもファイを子供と同等に扱うことに遠慮があるのかもしれない。
とはいえ、サクラの手に傷が残っては両親に申し訳がたたないし、ファイの手は商売道具でもある。それ以前に、彼のあの白くて綺麗な手に巻かれた絆創膏はあまりにも痛々しくて、やはり四日前のあのとき、もっとしっかり止めておくべきだったと反省した。
「俺も悪かった。だからそろそろ」
「黒鋼さんは悪くないでしょう。あのガキ共の浅はかさをボクが舐めきっていた、その結果なんですから」
「おまえ、せめて感情と表情くらいは一致させたらどうだ……」
笑っているのに笑っていないというのは、なんとも気味が悪い。店内にも心なしか凍えるような空気が漂っている気がした。あと、凄くカレー臭い。
浅はかなガキとキッパリ言いきられてしまった三人は、まだ外で反省している。この調子では、彼らも恐ろしくてなかなか店に戻ることはできないだろう。
とりあえずフォローするつもりで入って来たが、黒鋼にも自信がなくなってくる。どうしたものか……。
「ユゥイさん、あまり怒るとハゲますよ」
そこに、ユゥイの隣でグラスを磨いていた小龍が助け舟になっているのかいないのか、よくわからない横やりを入れた。
よしいいぞ、もういっそなんでもいいからうまくやれ小僧(兄)、と内心で応援する黒鋼。
ユゥイは小龍の「ハゲ」という単語に、にこやかな表情をピクリと動かす。
「生憎、うちの家系にハゲはいないよ」
「分かりませんよ。遥か遠い親戚が実はハゲ揃いで、それがうっかり隔世遺伝なんてこともあります」
「うっかりでハゲがうつっちゃ敵わないな。そういう冗談はよそでやってくれない?」
「おれは冗談は嫌いです」
「…………」
(もっと空気凍らせてどうするんだこの野郎……!)
お願いやめて、大人の男はみんなハゲという単語に敏感なの。ちょっとのキッカケで毛根を気にし始めるデリケートな生き物なの……と、恐れ知らずのうら若き男子高校生を黙らせたくて仕方がなくなってきた頃、小龍がさらなる爆弾を投下した。
「おれはハゲててもあなたを愛する自信はありますけどね」
「なんの話だ」
なぜかすかさず反応してしまったのは黒鋼だった。
冗談は嫌いだと言った口が、笑っていいのか悪いのかよく分からない冗談を吐いている。
「おいなんだ……まさかおまえらそういう関係か」
「違うに決まってるでしょ……」
「これからそうなる予定です」
「君、明日からうちの店来なくていいよ」
ようやくユゥイの笑顔の仮面が剥がれた。彼は見たこともないようなゲッソリとした表情でクビ宣告をしている。
小龍は何を考えているのか分からない無表情のまま、ユゥイを見上げた。
「おかしいな。おれの人生という名のシナリオにはそう書いてあるんですが」
「君の人生設計に勝手にボクとハゲを組み込まないでくれるかな……」
「メタボも気にしません。物件としては悪くないかと」
「……最悪だ」
ユゥイの心底疲れきった表情を見るに、どうやらいつもこうして口説かれているらしいことが分かった。
気の毒なような応援したいような、微妙な気分だったが、最終的には付き合ってられないという結論に至った黒鋼は席を立ち、ファイたちの様子を見に行くことにした。
***
「またやってんのか」
黒鋼が三人の様子を見に行くと、サクラとファイがまた石拾いをしていた。
絆創膏を貼ってはいるが、傷口にばい菌でも入ったらどうするのか。
ハッとして立ち上がった小狼が、黒鋼に縋るような目を向ける。
「ユゥイさん……どうでしたか?」
「どうもこうも……おい、おまえの兄貴が暴走してんぞ。とっとと助けてやれ」
「またですか……」
小狼は力なく項垂れると、凍えてるんだか熱いんだか分からない謎の空気に包まれた店内に入っていく。それを追って、サクラも一緒に扉の向こうに消えていった。
残されたファイだけが、しゃがみ込んだまま俯いている。
彼の視線の先には、大きい順から石がきっちりと並べられていた。
「おまえは石集めが趣味なのか?」
仕方なく、黒鋼もその隣にしゃがみ込む。ファイは小さく首を振って「うぅん」と唸った。そして、一番左端の大きな石をちょこんと指さす。
「これね、お父さんの石」
「お父さん?」
「ん。でね、これがお母さんの石。隣がお兄さんで、これが弟」
ああ、石を家族に見立てているのか。
そういえば黒鋼も小さな頃に、なんだかんだとこじつけて石を集めて遊んでいた記憶がある。どうしてそんな遊びをしようと思ったのか、今では全く思い出せないが、あの頃はとにかく夢中になっていた。
「でもね、お父さん石はすぐになくなるの」
「なくなる? 仕事か?」
「うぅん。しんじゃうの」
「…………」
「でね、お母さん石もなくなるの」
しんじゃうからと、ファイは言った。
「それは……」
おまえの家族の話かと、黒鋼は聞くことができなかった。
ファイは左端のお父さん石を掴むと、ポイッと放り投げた。石は狭い道の反対側に転がって、石塀にぶつかると動きを止める。
それからファイは、さらにお母さん石を掴むと今度は投げずに、少し離れた場所に転がした。残されたのは、小さな二つの兄弟石だった。
黒鋼は、そのぽつりと寂しげに取り残された二つの石を見つめた。
どちらも丸みと微かな光沢があり、色もサイズも同じだった。
まるで双子のように。
きっとこの石はファイとユゥイだ。彼がそう断言したわけではないが、間違いない。だとしたら、二人の両親は。
「……この兄弟はこの後どうなるんだ?」
寄り添うように並ぶ二つの石が、あまりにも物悲しく見えた。
今、彼らはこの駅裏の商店街の片隅で同じように身を寄せて暮らしている。ファイはいつも楽しそうだし、それを見守るユゥイの目は優しい。
だからきっと、ファイの口からは黒鋼が求める『救い』が吐き出されるはずだった。そうでなければならなかった。だけど、違った。
「一緒にはいられないの」
「…………」
「お別れしなきゃいけないの。大好きだから」
いっしょには、いけないの。
膝頭にちょこんと置かれていたファイの、傷だらけの指をした手の甲に、透明な雫が落ちた。それは次から次へと降ってきて、幾つもの筋を作って流れていく。
「ユゥイ、オレのこと、嫌いに、なったかなぁ……?」
自らに問いかけるような言葉だった。
彼は石をじっと見下ろしたまま、何度も鼻をすすって肩を震わせる。時折大きくしゃくり上げるせいで、その声は途切れ途切れになっていた。
「オレ、もう、いっしょに、いちゃダメに、なったかなぁ……?」
もう見ていられなくなって、黒鋼は堪らず彼に腕を伸ばした。頭を鷲掴んで、思いっきり引き寄せると首筋に額を押し付けさせる。
「嫌いになるわけねぇだろ」
「でも、ユゥイ……すごく、怒ってた……」
「心配させちまったんだ。勝手に危ねぇ真似したから」
「ユゥイ、遠く、行っちゃう? オレ、また……ひとりぼっち……?」
「…………」
彼らは過去に、離れ離れにならなくてはいけない事情があったのだろうか。何があったのか、黒鋼には知る由もない。
幼い子供はただ無力だ。望む望まないに関わらず周りに依存しなければ生きていけない。でも、彼らはもう大人だ。ファイの心だけはまだ遠い過去に置き去りにされているのかもしれないが、今はこうして自らの意志で穏やかな日々を過ごすことができているではないか。
まだ断片に触れた程度の自分にだって分かる。この店がその象徴だ。
黒鋼はファイが少しずつ落ち着いてきたころ、ようやく身を離した。そして立ち上がると道路を横断し、投げ捨てられた石を拾った。
「黒わん……?」
大きな石を手に戻って来た黒鋼は、またファイの隣にしゃがむと元あった位置にそれを置く。
「これはな、お父さん石じゃねぇよ」
「?」
「黒わんの石がねぇじゃねぇか。大事なんだろ?」
「あ……」
ファイは泣き濡れた赤い目元で、小さな声を上げる。潤んだ碧眼が丸く見開かれ、花びらが踊るように瞬きを繰り返した。
「で、こっちはおまえでいいだろ」
黒鋼は手を伸ばすと、ファイが転がしたお母さん石を取り、黒わんの隣に置いた。それから、足元を見回して似たような大きさの石を探り当て、さらに隣に並べる。
「これが弟だ」
「ユゥイ……?」
「そうだ。そのちっこい二つは……そうだな、あの小僧どもでいいか」
「じゃあ、じゃあ……これ」
少しだけ明るさを取り戻したファイは、すぐその辺りを探ると指先で小さな石を摘み上げ、兄弟石の隣に追加する。
「これ、サクラちゃん。女の子だから、一番ちっちゃくて可愛いの」
「揃ったな」
「うん!」
ああ、やっと笑った。
初めて出会った日、別れ際に泣いていたファイが笑顔を取り戻したときも、こんな風に安堵した。彼の笑顔には黒鋼の心を癒す力がある。柔らかくて、無邪気で、真っ直ぐで、可愛い。
どんな悲しい過去があったとしても、こうして今を笑って生きられるならそれでいいのではないか。ファイにはずっと、いつまでもこうしていて欲しいと心から思う。
「そろそろいいんじゃねぇか?」
黒鋼が背後を振り仰ぎ、声をかけると店の扉を開けてユゥイが姿を現した。
すかさず立ちあがったファイが黒鋼の腕に縋りつき、隠れるように肩に顔を埋めるけれど、その頭をポンポンと叩いて勇気づけてやると、おずおずと顔をあげる。
そしてユゥイの正面までのろのろとした足取りで向い、俯いた。
「…………」
ユゥイは何も言わない。ただ切なげに眉根を寄せて、ファイの言葉を待っている。
「……ユゥイ、ごめんなさい」
「…………」
「もうしない……しないから、だから」
「ッ」
息をのみながら両腕を伸ばしたユゥイが、ファイを力いっぱい抱きしめる。
何度も何度も頭を撫でて、彼は絞り出すような声で「なれるわけない」と言った。
「嫌いになんかなれるわけないよ。ボクはファイのことが大好きなんだ。だからずっと一緒。もうひとりぼっちになんかしないよ」
「うん……」
「約束して。これからは絶対に危ない真似はしないって。見てごらん、こんなに傷がついて」
ユゥイはファイの左手を取ると、そっと握りしめて自分の胸に押し当てる。人差し指と親指の先、さらに中指の中腹に巻かれた絆創膏はやっぱり血が滲んでいて、痛々しかった。
ユゥイが怒っているのはファイが勝手に危ない真似をして、こうして傷を作ったからだ。ファイにもやっとそれが分かったのだろうか。再び涙を浮かべて、声にならない声で「ごめんなさい」と謝罪しながら鼻をぐずらせた。
「もう泣かないで。ちゃんとごめんなさいできたね。だからこの話は終わり。ね、中に戻ってお昼ご飯にしよう?」
「ん……」
「カレーは指が治ったら、一緒に作ろ。ナイフの持ち方も、ボクがちゃんと教えてあげる」
「いいの……?」
「もちろん。黒わんも、今日はカレーはないですけど、延期でいいですか?」
「おまえまで黒わん呼びすんな……」
苦々しい表情で頭をガリガリと掻きながら立ち上がる黒鋼にユゥイが笑って、ファイもつられて笑顔を浮かべる。彼らが揃って笑うと、辺りにふわりとした甘い空気が立ち込めるような気がして力が抜けた。
二人は手を繋いで、仲良く店に戻っていく。そんな双子の背を見つめたあと、一人残された黒鋼は足元に行儀よく並んだ六つの石を見下ろした。
石遊び自体はやめさせた方がいいだろうが、これからはファイが孤独な過去ではなく、今の幸せだけを考えながら過ごせればいい。
いなくなってしまった人たちを思って石を集めては捨てるのではなく、側にいる誰かを思って、笑っていられれば。
「黒わーん、どうしたのー? 早く来てくれなきゃやだよー」
なかなか戻らない黒鋼に、ファイが少しだけ開けた扉から心配そうな顔を出す。それに手を上げて「おう」と返事をすると、彼は安心したようにふにゃっと笑ってまた消えた。
「黒わん、な」
成り行きとはいえ、これではいつになったら黒わんの役目を卒業できるのか、分かったもんじゃない。
それでもまるで嫌な気持ちがないどころか、緩んでいる口元に気が付いて、黒鋼は両手で頬を幾度か叩く。
そういえば言いつけ通り腹ぺこで来るために、今日は朝から何も口にしていないことを思い出した途端、ぐぅっと腹が鳴った。
なんだかんだで自分もファイが作ったカレーを楽しみにしていたということか。別に大好物というわけではないのだが。
誰に見られていたわけでもないのに咳払いをして、黒鋼も店に戻って行った。
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流石に毎日とはいかないが、仕事の合間やたまの休みに時間を作り、最低でも週に一度は必ず顔を出すようにした。
帰り際は必ず、泣きながらマフラーのない黒わんを手渡される。風邪をひくからという文句はすっかり定番となって、これが夏だったらどんな言い訳をしていたのだろうかと、渡される度に笑ってしまう。
その日も、少し早目に仕事を上がった黒鋼はファイの待つ猫の目を訪れていた。
「はい、できたー! これでもう寒くないねー」
暗くなるとテラス席は締め切られてしまうため、黒鋼とファイは店内の窓際の席についていた。四人掛けで向かい合う形のテーブルだが、ファイはわざわざ黒鋼の隣に座って身を寄せる。がら空きの向いの二席は鞄とコートと、スーツのジャケットを置くだけのスペースになっていた。
彼は黒鋼が持ち帰ってきた黒わんに赤いマフラーを縫い付けると、満足げにニッコリと笑った。だが、それを再び黒鋼に返しては寄越さない。
「今日も完成品はもらえねぇのか?」
あえて聞くと、ファイは俯いて顔を赤らめ、もじもじと膝を擦り合わせる。
「こ、この黒わんは、もういいの。新しい黒わん作ったから、帰りにあげる」
「マフラーは?」
「う……あの、えとね、間に合わなかったの。だから今日のも裸なの」
「そうか、ならしょうがねぇな」
「うん、しょうがねぇの」
黒鋼の口調を真似てはにかむファイは、純粋に可愛いと思う。
初対面で懐かれたときは戸惑うばかりだったが、ここのところ黒鋼は無邪気でいじらしいファイの姿に癒しを見出していた。
子供にしろ何にしろ、ここまで懐かれた経験は今までなかった。どちらかと言うとこの野蛮そうな面構えのせいか、子供に好かれた記憶がない。
だからこうして真っ直ぐに好意を寄せてくるファイが、新鮮に感じられるのかもしれない。それに、懐かれればやっぱり可愛い。どんなに顔が凶悪でも、黒鋼にだって人間らしい情くらいあるのだから。
「また黒わんのお話ですか?」
そこに、カレーの乗った盆を持った一人の少年がやって来た。
鷲色の髪と瞳をした彼は、この近くの高校の制服を身につけているが、ジャケットは脱いで猫のシルエットが描かれたエプロンをしている。
「おまえは小狼の方だな」
「そうです。凄いですね、一度見ただけなのに間違わないなんて」
「兄貴の方とは目つきが違うからな」
小狼は黒鋼の前にカレー皿を置くと、少し困ったような笑みを浮かべる。この店のオーナーも双子なら、雇っているバイトも双子というのはなかなか面白い。
兄の方は小龍という名前で、どちらも意志が強そうな瞳を持っていることに変わりはないのだが、弟に比べると少し生意気そうな、食えない印象を受ける。
弟の方はどちからといえば目つきが柔らかく、少年らしい純朴さが滲み出ていた。
この双子が揃うのは週に一度だけ。黒鋼が二度目に訪れた日が偶然それに当たり、揃って紹介された。
そしてもう一人。
「さ、さくら……大丈夫か?」
「う、う、うん、だい、じょ、ぶぅ……」
カウンター裏から出てきたのは小狼と同じ高校の制服にエプロンをした少女だった。彼女はカレーの乗った盆をプルプルと震える手つきで運び、表情を硬くしながらこちらに近づいてくる。
新緑を思わせる爽やかな瞳が、盆の上のカレーにのみ真剣に注がれていた。細心の注意を払っているように見えて、足元には全く意識が向いていないのが激しく不安を煽る。
「おい小僧。おまえが一度に運んできた方が早ぇんじゃねぇのか」
「はぁ……おれもそう思うんですが……」
黒鋼が来店したときには、店内には数人の客がいた。だが閉店間近になってくると皆、会計を済ませて帰って行った。
特にやることがなくなったせいか、サクラは二人分のカレーを運ぶという、たったそれだけの作業を分担すると言ってきかなかった。
「ふぅ……! お待たせしました! カレーは無事です、どうぞ!」
サクラはファイの前にカレー皿を置いて、やり遂げたような表情で額の汗を拭った。
確かに無事といえば無事だが、皿の縁がルーで思いっきり汚れている。小狼がすかさず取り出したナプキンで縁を綺麗に拭き取った。フォローの仕方がすっかり手馴れているような気がする。
「わーいありがとー! 黒わん早く食べよー!」
万歳をしたファイが、スプーンでカレーを食べ始める。手つきがどこかぎこちないせいで、零すのではないかとハラハラしながら黒鋼もスプーンを手にした。
飯時に来ると、いつもこのシーフードカレーを頼む。そしてファイも同じものを一緒に食べるというのも、最近ではすっかりお馴染みになっていた。
じっくりと煮込まれた魚介とスパイスの香りが、空腹の胃袋を刺激する。
「黒鋼さんってカレーが大好きなんですね」
盆を胸に抱いたサクラが、美味しそうにカレーを口に運ぶファイを見てニッコリ笑いながら問いかけてきた。黒鋼は一度口に入れたものをきちんと飲み込んでから、小さく唸る。
「好きっちゃ好きだが。手っ取り早ぇからな、カレーは」
「わたし知ってます。カレーって飲み物なんですよね」
「そこまで極端な食い方はしねぇけどな……」
小狼が半分ほどに減っていたグラスに水を注ぎ足しながら、黒鋼とサクラの会話に苦笑した。
「記者の仕事って、やっぱりお忙しいんですね。お昼もカレーで済ますことが多いんですか?」
「いや、割と色々食う。仕事柄な」
「そういえばグルメ雑誌の担当をされているんですよね」
「美味しいものをお仕事で食べられるなんて……羨ましいです」
サクラがうっとりと目を閉じて呟くが、実際はそんなに甘くはない。
中には驚くほど不味い飯を出す店もあるし、最近ではデカ盛りなんて品のないブームが起こっているせいで、それなりにタフな胃袋がなければ勤まらない仕事だ。
美味いと評判の店があればどこであろうが飛んで行き、記事を書くからには実際に食わなければ話が進まない。
だからだろうか。プライベートでの食事は地味になってしまった。自宅ではカップ麺で済ませてしまうし、外で食べなければならない時はカレーか、適当に立ち食い蕎麦屋にでも入ってしまうことが多かった。
「黒わん……」
なんやかんやと三人で会話をしている最中、大人しくカレーを食べていたファイが手を止めて、じっとこちらを見上げてきた。
どうしたのかと目で問えば、彼は視線を食べかけのカレー皿に落としてから、また黒鋼を見上げた。
「黒わん、カレー大好きなんだ」
「いや、まぁ好きだが……聞いてたか? 人の話」
「黒鋼さん! ファイさんはイカが噛み切れなくて、ずっと一生懸命口をモゴモゴさせてたんです! 叱らないであげてください!」
サクラがすかさずファイの肩にしがみついて、必死に庇う。流石『しんゆー』だ。決して叱っているわけではないのだが……。
とりあえずイカが噛み切れなかったのなら仕方がない、悪いのはイカだ。(この間、小狼がファイからサクラをペリッと剥がしていた)
「黒わん、オレがカレー作ったら嬉しい?」
「おまえ料理なんかできんのか?」
「やったことないけどね、あのね、ユゥイがいっつも言ってるの。ファイはテサキがキヨーだから、何をやってもジョーズだよーって」
「ジョーズ……? 鮫? ああ、上手な」
「そう、ジョーズ」
明らかにイントネーションがおかしいが、ファイは何やら瞳の奥に炎を宿しているようだった。
作る気だろうか。だが、子供にナイフや火を使わせるわけにはいかない。いくら手先が器用でも、彼が普段扱っているのは毛糸や綿で、刃物なんてせいぜいハサミくらいのものだ。料理をするのとは全く訳が違う。
それでも彼の気持ちは充分に嬉しくて、黒鋼は小さく笑うと金色の頭を優しく撫でた。
「無理すんな」
「ムリしてないよー! オレ黒わんにカレー作る! 黒わん、今度いつ来る? 明日?」
「明日って、おまえはいつもせっかちだな」
思わず小狼の方を見ると、彼は困った顔をしながらも小さく笑った。
「ファイさん、結構頑固なのでこうなったら聞かないかもしれません」
「つってもな……」
「ユゥイさんがいれば大丈夫だとは思いますが……」
確かに、あのしっかり者の弟がいれば大丈夫だろうが、そもそも許すだろうか。
そういえば、彼は最後の客が帰るのに続いて看板を下げるために外へ出たまま、まだ戻っていなかった。話好きかつイケメン好きのおばちゃんにでも捕まっているのかもしれない。
「そうだな……次の日曜あたりにまた来るつもりではいたが」
「四日後ですね。じゃあ、ユゥイさんが戻ったらお話してみましょう」
「ねぇ、ヨッカゴって明日?」
「違ぇよ、あほ」
そわそわしながら顔を覗き込んでくるファイの頭をポンと軽く叩いて、黒鋼は苦笑した。
***
「この石なんてどうですか? 丸くて大きいです」
「ん……ダメ。それだとお父さんよりおっきい」
「じゃあ、これは?」
「それはね、お兄さん石だよ。これ、このちょっと尖がってるのがお母さん」
「むぅー……けっこう難しいです……」
「何してんだおまえら……」
黒鋼が少し呆れた表情で声をかけると、店先にしゃがみ込んでいたサクラと小狼、そしてファイが顔を上げた。
「あ……黒わん……」
すかさず立ち上がったファイが、駆け寄ってきて胸に顔を埋める。それを受け止めてやりつつ、黒鋼はペコリと頭を下げる他の二人に向かって首を傾げた。
「石拾いか?」
彼らは黒鋼が声をかけるまで、なぜかしゃがみ込んで道路脇の砂利スペースに手を伸ばしていた。
主に石を拾っては何やら吟味していたのはファイとサクラだったが、遠目からもそこはかとなく、沈んだ様子に見えたのは気のせいだろうか。
証拠に、小狼とサクラが顔を見合わせてからしょんぼりと俯き、いつもなら黒鋼と顔を合わせた途端に休みなく喋りだすファイも、力なく項垂れている。
「おい、一体どうした」
それが……と言いにくそうに小狼が切り出すと、そこでカフェの扉が鐘を鳴らしながら開かれる。
「ユゥイさんを怒らせたんですよ」
出てきたのは小狼と同じ顔をした少年だった。
だが、雰囲気はどこか大人びていて、冷えた印象を受ける。これは兄の方だ。
「怒らせた……ってのはどういう」
「カレー鍋をぶちまけたんです。あの人、大概は笑ってやり過ごすような人ですけど、キッチンを汚されるのだけは我慢ならないから。それに」
小龍は扉に背を預け、不遜な態度で腕を組むと小さく顎をしゃくった。
ふと胸にしがみついているファイの指先を見ると、血の滲んだ絆創膏が幾つも巻かれていた。しかも、彼だけじゃない。胸元で小石をもじもじといじくるサクラの手も、似たような有様だった。
「……まさかとは思うが、おまえらだけで作ろうとしたのか?」
今日は日曜日だ。
前回ここを訪れたとき、ファイはカレーを作ると言って張り切っていた。
あのあとすぐに戻って来たユゥイ(やっぱりおばちゃんの立ち話に付き合わされていた)に了承を得て、黒鋼はちょうど昼時に腹を空かせてくるようにと言い渡された。
「なんだってそんなことに……あの弟はどうした? 側にいたんじゃねぇのか?」
「いなかったんです……」
小狼が見ているこちらが可哀想になるほど肩を落として言った。
「ユゥイさん、午前中は兄と店の買い出しに出ていたんです。それがなかなか戻らなくて……」
「仕方ないだろう。青果店の熟女に捕まったんだ」
辟易とした様子で吐き捨てる小龍の様子から察するに、話好きかつイケメン好きのおばちゃんとやらの正体は青果店の女主人ということか。
店先で声を張る姿を幾度か見かけたことがあるが、肝っ玉母さん風のなかなか迫力ある熟女だった。
つまりユゥイの帰りを待ちきれずに勝手に作業を開始して、散々な結果になったというわけだ。
その結果、しばらく外で反省していろとでも言われたのだろうか。
黒鋼は項垂れるファイの手を取り、傷ついた指先を見つめて顔を顰めた。
「おまえな、危ねぇだろ……こんな怪我までしやがって、なんで待ってらんなかった?」
「だって……黒わんお腹ペコペコだと思ったんだもん……」
「だからってな……」
そんなことを言われてしまったら、黒鋼としては彼らを叱りつけることが出来なくなってしまう。
彼の優しさは嬉しいし、一生懸命さくらいは評価してやりたかった。だが、下手をすれば指先の怪我だけでは済まなかったかもしれないのだから、ユゥイの怒りは無理もない。
ここで黒鋼が無責任に甘やかすわけにはいかなかった。
「すみません……おれが側にいたのに止められなくて……」
「小狼君は悪くないよ! カレーのお鍋を引っくり返しちゃったのはわたしだし……」
「違うよー。オレの足がサクラちゃんの足に引っかかっちゃったから……」
張り切ってカレーを作りだす二人と、それをどうにか止めようとしつつ流されて、結局は一緒に作業をしだす小狼の姿が目に浮かぶ。
大方、狭いスペースで揉みくちゃになりながら体勢を崩して、カレー鍋にタックルでもかましたのだろう……。
「悪気がねぇのが一番性質が悪ぃからな……」
胸に顔を埋めてしくしくと泣きだしてしまったファイの頭を優しく撫でる黒鋼に、小龍が冷めた口調で「同感です」と呟いた。
***
悪気がないのも性質が悪いが、笑っているのに実は激怒しているというのもなかなか厄介だと、黒鋼はカウンター越しにユゥイの整った笑顔を見ながらひしひしと感じていた。
「あんまり怒るなよ。ガキがやったことだろ」
「ガキがやったから怒ってるんですよ。ガキはガキらしく外で小石と戯れていればいい。違いますか?」
「まぁ言い分はもっともだが……」
ファイは見た目だけなら成人した大人だが、その言動ばかりでなく仕草もどこかたどたどしい、小さな子供だ。
サクラはあの通りそそっかしいし、小狼は小狼で、礼儀を重んじる彼はどうしてもファイを子供と同等に扱うことに遠慮があるのかもしれない。
とはいえ、サクラの手に傷が残っては両親に申し訳がたたないし、ファイの手は商売道具でもある。それ以前に、彼のあの白くて綺麗な手に巻かれた絆創膏はあまりにも痛々しくて、やはり四日前のあのとき、もっとしっかり止めておくべきだったと反省した。
「俺も悪かった。だからそろそろ」
「黒鋼さんは悪くないでしょう。あのガキ共の浅はかさをボクが舐めきっていた、その結果なんですから」
「おまえ、せめて感情と表情くらいは一致させたらどうだ……」
笑っているのに笑っていないというのは、なんとも気味が悪い。店内にも心なしか凍えるような空気が漂っている気がした。あと、凄くカレー臭い。
浅はかなガキとキッパリ言いきられてしまった三人は、まだ外で反省している。この調子では、彼らも恐ろしくてなかなか店に戻ることはできないだろう。
とりあえずフォローするつもりで入って来たが、黒鋼にも自信がなくなってくる。どうしたものか……。
「ユゥイさん、あまり怒るとハゲますよ」
そこに、ユゥイの隣でグラスを磨いていた小龍が助け舟になっているのかいないのか、よくわからない横やりを入れた。
よしいいぞ、もういっそなんでもいいからうまくやれ小僧(兄)、と内心で応援する黒鋼。
ユゥイは小龍の「ハゲ」という単語に、にこやかな表情をピクリと動かす。
「生憎、うちの家系にハゲはいないよ」
「分かりませんよ。遥か遠い親戚が実はハゲ揃いで、それがうっかり隔世遺伝なんてこともあります」
「うっかりでハゲがうつっちゃ敵わないな。そういう冗談はよそでやってくれない?」
「おれは冗談は嫌いです」
「…………」
(もっと空気凍らせてどうするんだこの野郎……!)
お願いやめて、大人の男はみんなハゲという単語に敏感なの。ちょっとのキッカケで毛根を気にし始めるデリケートな生き物なの……と、恐れ知らずのうら若き男子高校生を黙らせたくて仕方がなくなってきた頃、小龍がさらなる爆弾を投下した。
「おれはハゲててもあなたを愛する自信はありますけどね」
「なんの話だ」
なぜかすかさず反応してしまったのは黒鋼だった。
冗談は嫌いだと言った口が、笑っていいのか悪いのかよく分からない冗談を吐いている。
「おいなんだ……まさかおまえらそういう関係か」
「違うに決まってるでしょ……」
「これからそうなる予定です」
「君、明日からうちの店来なくていいよ」
ようやくユゥイの笑顔の仮面が剥がれた。彼は見たこともないようなゲッソリとした表情でクビ宣告をしている。
小龍は何を考えているのか分からない無表情のまま、ユゥイを見上げた。
「おかしいな。おれの人生という名のシナリオにはそう書いてあるんですが」
「君の人生設計に勝手にボクとハゲを組み込まないでくれるかな……」
「メタボも気にしません。物件としては悪くないかと」
「……最悪だ」
ユゥイの心底疲れきった表情を見るに、どうやらいつもこうして口説かれているらしいことが分かった。
気の毒なような応援したいような、微妙な気分だったが、最終的には付き合ってられないという結論に至った黒鋼は席を立ち、ファイたちの様子を見に行くことにした。
***
「またやってんのか」
黒鋼が三人の様子を見に行くと、サクラとファイがまた石拾いをしていた。
絆創膏を貼ってはいるが、傷口にばい菌でも入ったらどうするのか。
ハッとして立ち上がった小狼が、黒鋼に縋るような目を向ける。
「ユゥイさん……どうでしたか?」
「どうもこうも……おい、おまえの兄貴が暴走してんぞ。とっとと助けてやれ」
「またですか……」
小狼は力なく項垂れると、凍えてるんだか熱いんだか分からない謎の空気に包まれた店内に入っていく。それを追って、サクラも一緒に扉の向こうに消えていった。
残されたファイだけが、しゃがみ込んだまま俯いている。
彼の視線の先には、大きい順から石がきっちりと並べられていた。
「おまえは石集めが趣味なのか?」
仕方なく、黒鋼もその隣にしゃがみ込む。ファイは小さく首を振って「うぅん」と唸った。そして、一番左端の大きな石をちょこんと指さす。
「これね、お父さんの石」
「お父さん?」
「ん。でね、これがお母さんの石。隣がお兄さんで、これが弟」
ああ、石を家族に見立てているのか。
そういえば黒鋼も小さな頃に、なんだかんだとこじつけて石を集めて遊んでいた記憶がある。どうしてそんな遊びをしようと思ったのか、今では全く思い出せないが、あの頃はとにかく夢中になっていた。
「でもね、お父さん石はすぐになくなるの」
「なくなる? 仕事か?」
「うぅん。しんじゃうの」
「…………」
「でね、お母さん石もなくなるの」
しんじゃうからと、ファイは言った。
「それは……」
おまえの家族の話かと、黒鋼は聞くことができなかった。
ファイは左端のお父さん石を掴むと、ポイッと放り投げた。石は狭い道の反対側に転がって、石塀にぶつかると動きを止める。
それからファイは、さらにお母さん石を掴むと今度は投げずに、少し離れた場所に転がした。残されたのは、小さな二つの兄弟石だった。
黒鋼は、そのぽつりと寂しげに取り残された二つの石を見つめた。
どちらも丸みと微かな光沢があり、色もサイズも同じだった。
まるで双子のように。
きっとこの石はファイとユゥイだ。彼がそう断言したわけではないが、間違いない。だとしたら、二人の両親は。
「……この兄弟はこの後どうなるんだ?」
寄り添うように並ぶ二つの石が、あまりにも物悲しく見えた。
今、彼らはこの駅裏の商店街の片隅で同じように身を寄せて暮らしている。ファイはいつも楽しそうだし、それを見守るユゥイの目は優しい。
だからきっと、ファイの口からは黒鋼が求める『救い』が吐き出されるはずだった。そうでなければならなかった。だけど、違った。
「一緒にはいられないの」
「…………」
「お別れしなきゃいけないの。大好きだから」
いっしょには、いけないの。
膝頭にちょこんと置かれていたファイの、傷だらけの指をした手の甲に、透明な雫が落ちた。それは次から次へと降ってきて、幾つもの筋を作って流れていく。
「ユゥイ、オレのこと、嫌いに、なったかなぁ……?」
自らに問いかけるような言葉だった。
彼は石をじっと見下ろしたまま、何度も鼻をすすって肩を震わせる。時折大きくしゃくり上げるせいで、その声は途切れ途切れになっていた。
「オレ、もう、いっしょに、いちゃダメに、なったかなぁ……?」
もう見ていられなくなって、黒鋼は堪らず彼に腕を伸ばした。頭を鷲掴んで、思いっきり引き寄せると首筋に額を押し付けさせる。
「嫌いになるわけねぇだろ」
「でも、ユゥイ……すごく、怒ってた……」
「心配させちまったんだ。勝手に危ねぇ真似したから」
「ユゥイ、遠く、行っちゃう? オレ、また……ひとりぼっち……?」
「…………」
彼らは過去に、離れ離れにならなくてはいけない事情があったのだろうか。何があったのか、黒鋼には知る由もない。
幼い子供はただ無力だ。望む望まないに関わらず周りに依存しなければ生きていけない。でも、彼らはもう大人だ。ファイの心だけはまだ遠い過去に置き去りにされているのかもしれないが、今はこうして自らの意志で穏やかな日々を過ごすことができているではないか。
まだ断片に触れた程度の自分にだって分かる。この店がその象徴だ。
黒鋼はファイが少しずつ落ち着いてきたころ、ようやく身を離した。そして立ち上がると道路を横断し、投げ捨てられた石を拾った。
「黒わん……?」
大きな石を手に戻って来た黒鋼は、またファイの隣にしゃがむと元あった位置にそれを置く。
「これはな、お父さん石じゃねぇよ」
「?」
「黒わんの石がねぇじゃねぇか。大事なんだろ?」
「あ……」
ファイは泣き濡れた赤い目元で、小さな声を上げる。潤んだ碧眼が丸く見開かれ、花びらが踊るように瞬きを繰り返した。
「で、こっちはおまえでいいだろ」
黒鋼は手を伸ばすと、ファイが転がしたお母さん石を取り、黒わんの隣に置いた。それから、足元を見回して似たような大きさの石を探り当て、さらに隣に並べる。
「これが弟だ」
「ユゥイ……?」
「そうだ。そのちっこい二つは……そうだな、あの小僧どもでいいか」
「じゃあ、じゃあ……これ」
少しだけ明るさを取り戻したファイは、すぐその辺りを探ると指先で小さな石を摘み上げ、兄弟石の隣に追加する。
「これ、サクラちゃん。女の子だから、一番ちっちゃくて可愛いの」
「揃ったな」
「うん!」
ああ、やっと笑った。
初めて出会った日、別れ際に泣いていたファイが笑顔を取り戻したときも、こんな風に安堵した。彼の笑顔には黒鋼の心を癒す力がある。柔らかくて、無邪気で、真っ直ぐで、可愛い。
どんな悲しい過去があったとしても、こうして今を笑って生きられるならそれでいいのではないか。ファイにはずっと、いつまでもこうしていて欲しいと心から思う。
「そろそろいいんじゃねぇか?」
黒鋼が背後を振り仰ぎ、声をかけると店の扉を開けてユゥイが姿を現した。
すかさず立ちあがったファイが黒鋼の腕に縋りつき、隠れるように肩に顔を埋めるけれど、その頭をポンポンと叩いて勇気づけてやると、おずおずと顔をあげる。
そしてユゥイの正面までのろのろとした足取りで向い、俯いた。
「…………」
ユゥイは何も言わない。ただ切なげに眉根を寄せて、ファイの言葉を待っている。
「……ユゥイ、ごめんなさい」
「…………」
「もうしない……しないから、だから」
「ッ」
息をのみながら両腕を伸ばしたユゥイが、ファイを力いっぱい抱きしめる。
何度も何度も頭を撫でて、彼は絞り出すような声で「なれるわけない」と言った。
「嫌いになんかなれるわけないよ。ボクはファイのことが大好きなんだ。だからずっと一緒。もうひとりぼっちになんかしないよ」
「うん……」
「約束して。これからは絶対に危ない真似はしないって。見てごらん、こんなに傷がついて」
ユゥイはファイの左手を取ると、そっと握りしめて自分の胸に押し当てる。人差し指と親指の先、さらに中指の中腹に巻かれた絆創膏はやっぱり血が滲んでいて、痛々しかった。
ユゥイが怒っているのはファイが勝手に危ない真似をして、こうして傷を作ったからだ。ファイにもやっとそれが分かったのだろうか。再び涙を浮かべて、声にならない声で「ごめんなさい」と謝罪しながら鼻をぐずらせた。
「もう泣かないで。ちゃんとごめんなさいできたね。だからこの話は終わり。ね、中に戻ってお昼ご飯にしよう?」
「ん……」
「カレーは指が治ったら、一緒に作ろ。ナイフの持ち方も、ボクがちゃんと教えてあげる」
「いいの……?」
「もちろん。黒わんも、今日はカレーはないですけど、延期でいいですか?」
「おまえまで黒わん呼びすんな……」
苦々しい表情で頭をガリガリと掻きながら立ち上がる黒鋼にユゥイが笑って、ファイもつられて笑顔を浮かべる。彼らが揃って笑うと、辺りにふわりとした甘い空気が立ち込めるような気がして力が抜けた。
二人は手を繋いで、仲良く店に戻っていく。そんな双子の背を見つめたあと、一人残された黒鋼は足元に行儀よく並んだ六つの石を見下ろした。
石遊び自体はやめさせた方がいいだろうが、これからはファイが孤独な過去ではなく、今の幸せだけを考えながら過ごせればいい。
いなくなってしまった人たちを思って石を集めては捨てるのではなく、側にいる誰かを思って、笑っていられれば。
「黒わーん、どうしたのー? 早く来てくれなきゃやだよー」
なかなか戻らない黒鋼に、ファイが少しだけ開けた扉から心配そうな顔を出す。それに手を上げて「おう」と返事をすると、彼は安心したようにふにゃっと笑ってまた消えた。
「黒わん、な」
成り行きとはいえ、これではいつになったら黒わんの役目を卒業できるのか、分かったもんじゃない。
それでもまるで嫌な気持ちがないどころか、緩んでいる口元に気が付いて、黒鋼は両手で頬を幾度か叩く。
そういえば言いつけ通り腹ぺこで来るために、今日は朝から何も口にしていないことを思い出した途端、ぐぅっと腹が鳴った。
なんだかんだで自分もファイが作ったカレーを楽しみにしていたということか。別に大好物というわけではないのだが。
誰に見られていたわけでもないのに咳払いをして、黒鋼も店に戻って行った。
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狭い部屋の中に、ささやかな星の光が射していた。
あれは秋の頃だったろうか。
窓から流れ込んでくる風が冷たくて、だけど満点の星空があまりにも綺麗で。
まだ幼いボクらはずっと身を寄せ合って、膝を抱えながら空を見上げていた。
この夜がいつまでも続けばいいのにと願いながら。
「ユゥイ」
兄はボクの肩を抱き寄せて、濡れた頬に指先で触れた。
秋風にカーテンが揺れる。ボクらを取り巻く世界はこんなにも冷たいのに、兄の手はとても温かかった。
いつも守ってくれた。兄だけがボクの世界だった。それでよかった。
「お別れじゃないよ。また会える。だってオレたちは家族だもの」
「……でも……さみしい……いっしょがいい……」
ボクはずっと堪えていた嗚咽をついに漏らしてしまった。
ヒィヒィと声を上げて泣きながら、兄に縋りついた。ずっと一緒だったのに。これからもずっとそうだと思っていたのに。
寂しい。寂しい。だけど兄は笑ってボクを抱きしめた。温かい。
「寂しいのは大好きだからだよ。オレだって寂しいけど、ユゥイのことが大好きだから我慢する。ユゥイも、ずっと忘れないでいて」
ボクが涙でぐしゃぐしゃになっている顔を上げると、兄は手の平でしきりにボクの頬を拭った。
泣かないでと繰り返しながら笑う彼の頬に、涙はなかった。
代わりに、大きな痣があった。頬にも、目元にも、顔だけじゃない。兄の身体中には沢山の痣や傷があって、それは全てボクを守るためのものだった。
そう、ボクのせい。
ボクはずっと兄と一緒にいたいと思っていた。
兄がいなければ何もできない。兄がいなければ不安で、怖くて、一人ではどうしたらいいか分からない。
だけどこの時、ボクは初めて兄から離れなければと強く感じた。
本当はずっと分かっていた。ボクがいるから兄は傷つく。ボクが弱いから、兄は強くならなければいけなかった。
ボクが受けなければいけない傷を、全て背負い込むために。
「だいじょうぶ。離れてても、ずっとユゥイのことを守ってあげる」
そうだ、と言って、兄はボクから離れると暗い部屋の中でもぞもぞと動いた。何かを手探りで見つけ出して、それをそっとボクに差し出す。
「これ、あげる」
それは兄がずっと大切にしていた、大きな黒い犬のぬいぐるみだった。
寝る時もいつも側に置いて、片時も離すことがなかったそのぬいぐるみは、もう随分と古くてボロボロだった。
尖っていた耳は片方がすっかりひしゃげて、目も鼻も尻尾も取れかかっている。
彼はこれを『黒わん』と呼んで可愛がっていた。
「でも……これは……」
兄の宝物だ。今まではずっと、ボクにすら触らせてくれなかった。
いいの、と兄はやんわりと笑って首を振った。
「これを持ってて、寂しいときはぎゅってして。ね」
ボクは兄からぬいぐるみを受け取ると、彼が言う通りぎゅうっと強く抱きしめた。兄の匂いがした。
ぬいぐるみに顔を埋めて、また泣き出してしまったボクを、兄が抱きしめる。
大好きだから寂しい。大好きだからお別れする。
強くならなければいけなかった兄と同じように、ボクは大人にならなければいけない。
だってボクがこんな風に弱くて泣き虫だから、兄は泣くことも、一緒に行きたいという一言すらも、言うことができなかったのだから。
***
自宅から徒歩十数分の駅から電車に乗って、揺られることおよそ30分。
職場ビルがある市街地の北側に位置する区域は、真昼間から人通りもまばらで、どこか色褪せた埃臭い街並みが広がっていた。
背の低いビル群はどれも見るからに老朽化が進み、申し訳程度にあるコンビニだけがやけに真新しい。
駅を出てすぐの広い通りは銀杏並木になっていた。黄金に色づいた葉が秋風にささめき、燦々と降り注ぐ陽の光を浴びてさらに輝いている。その光景だけが鮮やかで、あとはこれといって何もない、古臭い街という印象しか持てなかった。
黒鋼は、もう何年も着古した黒のダウンジャケットに両手を突っ込み、色鮮やかな銀杏並木へは向かわずに駅裏の商店街へと足を向けた。
古めかしい店構えの割には看板がやけに真新しい青果店、シャッターの降りた豆腐屋、香ばしい揚げ物の香りを漂わせる精肉店、薄汚れた居酒屋。
一車線程度の狭い道幅の商店街は、行き交う人の年齢層も比較的高いようだった。
腰の曲がった老夫婦が仲睦まじくシルバーカーを引いて買い物をする姿や、旦那の愚痴を肴に立ち話に夢中になる中年の奥様方が豪快な笑い声を上げている。
どこか懐かしような、昭和臭い通りを真っ直ぐ進んでいくと、ふと前方の道端に看板が立てられているのが見えた。
ダークブラウンのカフェ看板には、白いチョークで『猫の目』と書かれている。
「ここか……」
足を止めた黒鋼は、重い息を漏らした。
休みの日にわざわざこんな場所まで足を運ばなくてはならないなんて。仕事の都合とはいえ、どうにも解せない。
狭い脇道に渋々入り込んだ黒鋼は、一応はジャケットから両手を引き抜き、姿勢を正した。古臭い民家に挟まれるようにして姿を現したのは、どこかレトロな外装の喫茶店だ。格子状の白い木製ドアの前にもカフェ看板が立てられている。
黒鋼は看板脇に置かれている、小さな子供用のウッドチェアに目を向ける。そこには、黒いオオカミのような編みぐるみが、造花の花束を持って行儀よく座っていた。
***
「いらっしゃい」
内心躊躇いながら扉を開けた黒鋼を、カウンター越しに出迎えたのは黒のギャルソン服に身を包んだ、華奢な優男だった。
長い金髪を緩く一纏めにした彼は、素でいても怒っているように見られる黒鋼の面構えに一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「ああ」と頷いて笑った。
「堀鐔の記者さん?」
「……邪魔するぞ」
「どうぞ。お好きな席へ」
黒鋼は仏頂面のまま足を踏み入れると、男の向いのカウンター席に腰かけた。
チラリと横目で見た店内には、片隅に若い女性が一人いるだけだ。緩くウェーブのかかった長い黒髪の女は、黒鋼の視線に気づくと開いていた本を閉じ、顔を上げてにっこりと笑う。まだ少女といっていいあどけなさから、黒鋼はすぐに目を逸らした。
「コーヒー? 紅茶?」
「水でいい」
「そうおっしゃらず」
「……紅茶」
正直なんでもよかったが、とりあえずメニュー表の紅茶の欄から、一番上のダージリンを指先で幾度か突くと、男はニッコリ笑って「少々お待ちください」と言った。
待っている間、落ち着かない気分で微かにジャズが流れる店内をじっくりと見回す。
清潔感溢れる白壁に、椅子やテーブル、床までもがどこか使い古されたようなアンティーク調のもので統一されている。
古い壁掛けの時計や、ドライフラワーのリース、窓辺に並ぶ小さな観葉植物など。いかにも女性受けしそうな装飾の横には、小人や動物の編みぐるみが必ずといっていいほど寄り添っていた。
店の奥にはテラスへの入り口もあり、その脇に雑貨品が並ぶスペースがある。僅かに身体を傾けて覗いただけでも、ぬいぐるみなどのインテリア雑貨は勿論、キャスケットやバッグなどのファッション小物も所狭しと並べられているのが分かる。
正直、げんなりした。
「可愛いでしょう? 全部ハンドメイドなんですよ」
金髪の青年が、黒鋼に紅茶を差し出しながら目を細めて笑った。立ち上る湯気と共に、マスカットフレーバーが鼻先を掠める。
「悪いが……プライベートじゃぜってぇ来ねぇよ」
カップに口をつけ、口の中に紅茶を含ませたあと、黒鋼は率直に述べた。何を飲んでいるのかも、いっそよく分からない。
男は肩を竦めて笑い、「でしょうね」と言った。
渋い表情のままの黒鋼は、男を見上げるとふっと息をつき、本題に入る。
「で? あんたの言う通り来てはみたが……俺はただ茶をしばきに来たのか?」
ここはいわゆる雑貨カフェというものだ。ドリンクやフード、スイーツを出す以外にも、手作りの雑貨品を売っている。
ただ一息つくだけなら、黒鋼はこんな小洒落た喫茶店など絶対に選ばない。中年の親父が道楽でやっているような、雑然とした店で充分だ。美味いカレーが一瞬で出てきさえすれば文句はない。
それがなぜわざわざこんな店に、しかも休日に足を運ぶことになったのか。
事は数日前。雑誌記者である黒鋼が初めて、目の前の店主にコンタクトを取ったことがキッカケだった。
彼は取材の了承を得るために連絡をした黒鋼にこう言った。
『まずはプライベートで、お一人でいらしてください。それから決めます』と。
黒鋼が堀鐔出版に入社してそろそろ二年。グルメ雑誌担当の部署に配属され、記者としてはまだ駆け出しといっていい。
気難しい店主はどこにでもいる。事前連絡で拒否されることは少なくないが、手始めにプライベートで来いという申し出は今回が初めての経験だった。
「驚かれました?」
男は柔和な笑みを決して崩さない。客を相手にしているのだから当たり前ともいえるが、どこか冷えた印象を受けるのは顔の造りが整いすぎているせいだ。
いかにも体育会系で厳つい黒鋼が居心地悪さを感じて仕方ないのは、この人形のような美貌を持つ男の雰囲気にも馴染めないから、かもしれない。
「まぁな。俺はそう場数を踏んでる方でもねぇしな」
「貫禄たっぷりですけどね。駆け出し記者というよりは、叩き上げ刑事って感じかな」
「褒め言葉と取っとくぜ」
「……今日お呼びしたのは」
男は、一瞬だけ笑顔の仮面を崩し、切なげな表情で店の奥の方を向いた。
つられて視線をやれば、そこはテラスだ。男が一人、背を向けてテーブルに腰かけている。陽光を浴びて、金色の髪が光を放っていた。
「双子、だったな。あれが片割れか?」
「ええ。取材をお受けするかどうかを決めるのは、ボクだけの判断ではできません」
「なるほど」
気難しいのはこの男ではなく、あのテラスにいる方の男というわけだ。
事前の下調べでこの店が双子による共同経営ということは知っていた。弟がカフェを、兄が雑貨を。おそらくカウンターにいる方が弟のユゥイだ。
兄の名は、ファイ、だったか。
「気に入られりゃいいわけだ」
「端的に言うと、そうですね」
まだ何かもの言いたげなユゥイを残し、黒鋼は椅子から立ち上がるとテラスへと足を向けた。
先客の少女がふと顔を上げたが、目もくれずに一歩一歩、入り口へ近づく。一体どんな堅物なのだろうかと想像を巡らせながら。
すると、近づくにつれて柔らかな声が聞こえることに気が付いた。
それは鼻歌だった。
どこかで聞いたことがあるようなその曲は、テラスで背を向けている男が発する声だった。勝手に抱いていた鼻持ちならない印象と、その歌声があまりにもかけ離れていて、少し戸惑う。
多少調子はずれだが、この曲は確か。
「星に願いを、か?」
金髪の男は、ファイは、黒鋼がすぐ側まで近づいていたことに全く気付いていないようだった。
彼はかぎ針を使って、黒く細い毛糸を編み込んでいた手を止め、青い目を丸くしながら顔を上げる。優しげな声でメロディを紡いでいたはずの唇も、ポカンと開かれていた。
なんて間の抜けた顔をする男だろうと思った。弟よりも幾らか髪が短いせいか、印象が幼い。長い睫毛に縁どられた碧眼は目尻が少し垂れていて、どこか小動物めいた愛嬌がある。同じ顔の作りでも、随分と違う印象を受けることに驚いた。
弟がキッチリとギャルソン服を身に着けていたのとは対照的に、彼は白い七分袖のシャツに黒のパンツ姿というラフな装いだった。
「聞いてねぇか? 俺は堀鐔出版の」
「黒わん……?」
「あ?」
黒鋼が名乗るのを遮って、彼は毛糸を絡ませたままの指先をこちらに向けた。そして、どこか茫然としたような声でもう一度「黒わん」と言った。
「黒わんじゃねぇ。俺は」
「黒わんだぁ」
何も言えなくなってしまった黒鋼に向かって、彼はふにゃりと、綿飴のような笑顔を浮かべて見せた。
***
そこは小さな箱庭のようなテラスだった。
きめ細かな芝生に覆われた空間は、秋薔薇の生垣で切り取られたようになっていて、シマトネリコの木々が青々とした実をつけている。
決して広々としているわけではないが、澄んだ秋空の下で食べるランチというのはなかなかよさそうだ。愛らしい雑貨に囲まれた店内よりは、だいぶ居心地がいいかもしれない。
そんなテラスには白いパラソルが立てられた木製テーブルと、ガーデンチェアのセットが三つ。その一席で、黒鋼はなぜか初対面であるはずの男に懐かれていた。
「黒わん黒わん、今ね、オレね、黒わん作ってたよー」
ファイはせっせと雑貨作りに精を出していたようだが、今はもう目の前の黒鋼に夢中で、手にしていた毛糸やかぎ針をはじめとする諸々のアイテムが、テーブルの上に投げ出されている。
わざわざ椅子ごと移動して、べったりとくっついてきた彼は黒鋼の腕にぎゅうぎゅうとしがみついていた。
一体これはどういう現象なのか。黒鋼はただ困惑するばかりで、何をどう切り出せばいいか分からないでいた。
「あのね、オレね、毎日いっぱい黒わん作ってるのー。黒わんのお友達もたくさんいるよー」
「…………そうか」
「でもね、帽子とか、鞄とか、髪につけるのも作るよー。可愛いお花もつけると、サクラちゃんが褒めてくれるんだー。黒わんわんもお花好きー?」
「どうだろうな……」
「オレねー、サクラちゃんと『しんゆー』なんだー。でも知世ちゃんもだいしんゆーなんだよー」
そう言って、ファイは店の中にいる黒髪の少女に手を振った。彼女は顔を上げると優しく微笑み、同じように手を振り返している。
あのずっと本を読んでいた先客の女は知世という名前なのか。黒鋼にしてみれば物凄くどうでもいい情報だが、ファイは一生懸命お喋りに夢中になっている。
黒わんの存在がよほど嬉しいのか、さっきから顔を赤くして興奮している様子だった。ぴったりと密着させている身体が、どんどん熱を持ってくるのが分かる。
これでは仕事の話どころの騒ぎではない。何が悲しくて野郎に密着されて、くだらない話を聞かされなくてはいけないのだろう。
だが、なぜか振り払う気になれない。乱暴に扱ってはいけないような気がする。それは黒鋼が記者で、相手が取材を申し込みたいカフェの人間である事実とは、まるで違った次元にあるような気がした。
姿形ばかりは立派な大人だが、彼は……。
「ファイ、お会計できる?」
黒鋼が戸惑いながらも答えを導き出したのと同じとき、ユゥイがテラスに姿を現した。
そしてファイの側でしゃがみ込み、その膝の上に手を置いた。
「こないだ教えた通りにできるかな? 知世ちゃんがお帰りだよ」
「知世ちゃんもう帰っちゃう?」
「そう。ボクはこのお兄さんとお話があるから、ファイにお願いするね」
「わかったー。オカイケーがんばるー!」
「いい子だね。ありがとう」
ファイは黒鋼から離れ、椅子から立ち上がると駆け出した。店内では伝票を持った知世がこちらに会釈している。
品のいいワンピースをまとった、見るからに育ちのよさそうな少女だと、改めて思った。
「気に入られましたね」
二人が楽しそうに会話をしながら会計スペースに向かう背中を見つめたあと、ユゥイが黒鋼の向いに腰かけた。
彼は小さく鼻から息を漏らす黒鋼の正面に、ポケットから取り出した黒いぬいぐるみをちょこんと置いた。
「これは……?」
「黒わんです。ファイが特にお気に入りで、毎日作ってるんですよ」
手の平サイズのそれは、尖った耳と大きな尻尾をしたオオカミのような犬の編みぐるみだった。
赤いマフラーをして、吊り上がった目がなんとも憎たらしい。
思わず手に取って「似てねぇだろ」と吐き捨てると、ユゥイはどこか悲しそうに苦笑する。
「あの子は……兄は、子供です」
「……みてぇだな」
「驚かれたでしょう。ごめんなさい」
「……いや」
ユゥイは黒鋼がテーブルに戻した黒わんを手に取り、指先でその頭を撫でながら一度ゆっくりと瞬きをした。
「この店のことは、ネットの口コミサイトを見て知ったとおっしゃいましたね」
「そうだ」
「凄いですね。それほど目立った内容でもなかったでしょうに」
「……まぁ、確かにな」
今はその情報の多くをインターネットを通じて仕入れることも少なくはない。
黒鋼がこの店に訪れることになったのも、ネットの口コミを元に幾つかの店がピックアップされて、編集会議にかけられたことがキッカケだった。
今回の企画内容が『隠れ家グルメ』だということもあり、数多ある情報の中でレビュー数こそ少ないものの、評価は上々な幾つかにこの店も入っていたというわけだ。
彼の言う通り、ここの情報はどちらかといえばあまり目立たず、埋もれていたといってもいい。
「お店を取り上げてもらうことは、ボク個人としては嬉しいです。だけど、それによってファイが嫌な思いをしないかばかりが気になって」
「だからまずは記者の人となりを見ようとしたわけか?」
「そうなりますね。お手を煩わせてしまってすみません」
でも、とユゥイはその表情に翳りを覗かせる。
「前にも一度あったんです。別の記者さんがいらしたことが」
「うちのか?」
「いえ……違います。男の人と女の人で、最初は普通のお客さんだとばかり思っていたんですが、どうやら違ったみたいで」
まだカフェをオープンして間もない頃だったと、ユゥイは言った。
ただの客だと思い持て成したら、実は女の方が記者で、男の方がカメラマンだったらしい。彼らはユゥイが注文された品をテーブルに運んだところで、初めて名刺と共に存在を明かした。いわゆる飛び込みというやつだ。
咄嗟のことに戸惑ったが、半ば押し切られる形で取材を了承することになったという。
二人は席を立ち、店内を物色しはじめた。そして、ファイと接触した。
「あの日も彼はここで雑貨作りをしていました」
まだ常連と呼べるような客すらついていなかった頃。ファイは急に近づいてきた二人の男女に驚き、すかさずユゥイの背後に隠れてぐずり出した。その仕草や言動を見て、彼らはすぐに気が付いた。
ファイの見た目とは異なる内面の幼さ、未熟さに。
そして面白がった。精神遅滞の若者が健気に雑貨を作る店。これは売れると言って、大きく特集しようなどと騒ぎだした。
ただのカフェや雑貨屋ならまだしも、オーナーである双子は見目も麗しく、駅裏の片隅で寄り添う姿はさぞかし読者の興味と同情を誘うだろうと。
興奮する彼らはしきりにファイに向かってシャッターを切り、矢継ぎ早にデリカシーのない質問を浴びせかけた。ユゥイはそれについて詳しく話そうとはしなかったが、大体の予想はつく。
「可哀想に……ファイは酷く泣きじゃくって……」
ユゥイはどこか諦めたような面持ちでそっと睫毛を伏せた。手の中の黒わんをぎゅっと握りしめる指先が震えている。
結局その記者たちはユゥイが強引に追い出し、取材の話はそのまま流れた。だが、その心には傷跡が残ってしまった。
「全部ボクの責任なんです……彼が小さな子供のままでいるのは、ボクの」
「……?」
「ああ、いえ……」
ユゥイは押し黙り、緩く首を左右に振ってから「なんでもありません」と言った。
「ユゥイー! オレちゃんとオカイケーできたよー!」
そこに、知世を送り出したらしいファイが、嬉しそうにテラスに戻って来た。
ユゥイはにっこり笑って立ち上がると、飛び込んできたファイを抱き留めてその頭を撫でた。
「ありがとう、助かったよ」
「お話終わった? もう黒わんと遊んでもいい?」
「いいよ」
「いいよってなんだ、いいよって……」
「わーい!」
すぐに駆け寄って来たファイが、背後から身を屈めて思い切り抱き付いてくる。
「黒わーん。おっきくてあったかいねー。何して遊ぶー?」
「あのな、俺は黒わんじゃねぇんだよ」
「黒わんが来てくれて、オレ嬉しいよー」
「……そりゃよかったな」
見た目が大人でも中身が幼い子供とあらば無下にもできず、黒鋼はただ渋い表情で溜息をつくことしかできなかった。
なぜあんな目つきの悪いぬいぐるみと一緒にされなくてはいけないのだろう。まさかとは思うが、この男の目には黒い犬の着ぐるみを着た大男でも映っているんだろうか。
すりすりと頬ずりをされていると、なんだか本当に犬にでもなってしまったような、腑抜けた気分になる。
ふんわりと立ち上る、ミルクに砂糖を溶かしたような甘い香りが、なおのこと彼を幼く印象付けていた。
顔を顰めつつも身動きが取れないでいる黒鋼に、申し訳なさそうに苦笑しながらユゥイが肩を竦める。
「少し遅いですけど、そろそろお昼にしましょうか。ついさっきヴィエノワが焼き上がったばかりなんです。ファイもそれでいい?」
「うんいいよー! あのね、エビのやつと、ハムのやつとー」
「はいはい、ちゃんと全部用意してくるよ」
そう言って中に戻って行こうとするユゥイを、黒鋼は一瞬迷ってから「おい」と呼び止めた。
彼はすぐに振り返り、小さく首を傾げて見せる。
「……ひとついいか」
「なんでしょう?」
「最初から取材の申し出を断らなかったのはなぜだ?」
それは素朴な疑問だった。
記者に対して最悪な印象しか持っていないはずの彼なら、最初の時点で素気無く断っていてもおかしくない。自身が身を置く業界をあまり悪くは言いたくないが、実際のところ彼らを傷つけた例の記者たちのような人間が少なくないことは否定できなかった。
ユゥイは腰に手を当てると、「そうですね」と少し考える素振りを見せてから、微笑んだ。
「単純に、堀鐔出版さんのグルメ情報誌が好きなんです。ここをオープンするときも色々とお店を食べて回ったんですけど、参考にさせてもらいました。だから記者さんがどんな人なのか、興味もあったというか」
「そうか」
自分が関わる雑誌を褒められるのは悪い気がしない。それだけ読者に信用と好感を抱かれているということだからだ。
西へ東へと駆けずりまわり、苦労して記事を書いている努力が報われるような気がする。
「ちょっとでも嫌な感じだったら、すぐに塩を撒いて蹴り出してやろうと思っていたんですが」
だが、どうやら決め手は違ったらしい。
「ボクも思ったんです。黒わんに似てるなーって、ね」
ユゥイはほんの少しだけ、意地の悪そうな笑顔を浮かべて見せると店の中へ戻って行った。
「……だから俺は黒わんじゃねぇって何度言えば」
「黒わん!」
「あ!?」
黒鋼に抱き付きながら退屈そうに話を聞いていたファイが、素早い動作で膝に乗って来る。横座りの形だ。上背はあるが華奢なせいか、いやに軽い。
「な、なんだてめぇいい加減に」
「お膝のってもいいー?」
「もう乗ってんじゃねぇか!」
「ひゃー! ブランコみたいー!」
「落ちるだろ暴れんな!!」
黒鋼の首に捕まって思いっきり足をブラブラとさせるファイの腰を、慌てて抱き込んでやると彼はさらにはしゃいだ声を上げて笑った。
その笑顔を見ていると、なぜかすっかり毒気を抜かれたような気にさせられて、黒鋼はただ彼の好きにさせてやることしか、できなくなってしまった。
***
「黒わんやだよ……帰っちゃ嫌……」
帰り際、ファイは黒鋼の胸に縋りついて泣いていた。
肩を震わせ、ひくひくとしゃくり上げる姿はまさに幼子そのものだ。
「ここにいて……ずっとここにいて……」
「ファイ、困らせちゃダメだよ。記者さんはちゃんとおうちがあるんだよ」
「じゃあ……じゃあ、オレも一緒に行く……」
ファイの言葉を聞いて、一瞬だけユゥイの表情が悲しげに歪んだ気がした。
それでもすぐに両肩を掴んで引き剥がそうとするが、ファイは頑として譲らない。黒鋼のダウンジャケットを強く握って、いっそう身を寄せてきた。
黒鋼は、参ったなと思った。それはユゥイも同じだったようで、目を見合わせて同時に溜息を漏らす。
その間も、ファイはずっと泣き続けていた。こんなにも泣かせてしまうくらいなら、いっそもう少しここにいてもいいかと考えるが、根本的な解決にはならない。まずはどうにかして、黒鋼が『黒わん』ではないことを理解させる必要がありそうだ。
「あのな、何度も言うが、俺はおまえの黒わんじゃ」
「黒わん……オレのこと嫌い? オレが悪い子だから、黒わん怒ってどっか行っちゃう……?」
「…………」
「すみません……」
「いいけどよ……」
とにかく困った。小さな子供の相手なんてしたことがない。だからどうやって扱えばいいのか分からなかった。
胸に縋りついたまま見上げてくる瞳があまりにも無垢で、赤くなった頬に大粒の涙が幾つも流れてゆくのを見ていると、心が痛んで仕方がない。
黒鋼はどうすればいいのか分からないながらも、彼の目元に指先で触れて、その涙を拭った。
「怒ってねぇよ」
「ほんと……? 嫌いじゃない……?」
「嫌いじゃねぇし、怒ってねぇし、おまえは何も悪いことなんかしてねぇだろ?」
「でも……黒わん帰っちゃう……」
拭っても拭っても止まらない涙に、こうなったら意地でも泣き止ませなければ帰れないという気持ちになった。
「また来る」
「……いつ? 明日?」
「明日は急だな……とにかく、時間作ってまたすぐに来る」
ぽんぽんと頭の天辺を軽く叩いてやると、ファイは真っ赤な鼻をすんと鳴らしながら渋々黒鋼から離れた。何かを堪えるように唇を噛み締めたあと、ポケットから黒わんの編みぐるみを取り出し、そっと差し出してくる。
「あげる……」
「いいのか?」
「ん……あのね、この黒わん、まだ途中なの。マフラーがないの」
「ああ、本当だな」
黒鋼はファイから黒わんを受け取ると、生意気そうなその顔をじっと眺めた。
さっきユゥイに見せられたものは、首に赤いマフラーを巻いていた。だが、これにはそれがない。
「黒わん、マフラーがないと風邪ひいちゃう。だから、オレちゃんと作るから……」
「ああ」
だから早く来いと、そういうことか。
黒鋼は思わず笑ってしまった。彼は子供なりに知恵を絞っている。早く会いに来てほしくて、ささやかな脅しをかけているのだ。
なんとも言えないいじらしさを感じて、黒鋼はもう一度ファイの頭に手を伸ばすとそっと撫でた。
「すぐに来る。こいつが風邪ひいちまわねぇようにな」
「……うん!」
ファイはまだ瞳にいっぱい涙を溜めこんではいたけれど、元気に笑って頷いた。ようやく見ることができたその笑顔に心の底から安堵する。
そしてその瞬間、黒鋼の胸に不思議な思いが浮かび上がった。
「本当にすみません。こんなに懐いてしまうなんて」
「いや、別に悪い気はしねぇよ。飯も美味かった。また邪魔するぜ」
「ええ、是非」
「それと取材の件なんだが、ひとまず保留ってことでいいか」
「え?」
驚いていたのは黒鋼も同じだった。
今の今まで、あくまで仕事に繋げるためという思いしかなかったのだから。
それがなぜか、ファイと次の『約束』を交わした瞬間、不思議とそんな気が失せてしまった。
黒鋼は視線を巡らせると店内をざっと見回した。今は客の姿が一人もないが、時間帯によっては顔なじみの常連がのんびりと過ごすであろう、憩いの空間。
テラスではファイが鼻歌を口ずさみながら雑貨を作って、『しんゆー』とやらがそんなファイの作ったものを見て笑顔になる。
想像を巡らせるだけで穏やかな気持ちになって、ここに仕事では訪れたくないという気持ちにさせられた。
「本当にいいもんってのは、誰にも教えたくねぇよな」
その記者らしからぬ言葉にユゥイは小さく吹き出し、礼を言いながら頭を下げた。
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あれは秋の頃だったろうか。
窓から流れ込んでくる風が冷たくて、だけど満点の星空があまりにも綺麗で。
まだ幼いボクらはずっと身を寄せ合って、膝を抱えながら空を見上げていた。
この夜がいつまでも続けばいいのにと願いながら。
「ユゥイ」
兄はボクの肩を抱き寄せて、濡れた頬に指先で触れた。
秋風にカーテンが揺れる。ボクらを取り巻く世界はこんなにも冷たいのに、兄の手はとても温かかった。
いつも守ってくれた。兄だけがボクの世界だった。それでよかった。
「お別れじゃないよ。また会える。だってオレたちは家族だもの」
「……でも……さみしい……いっしょがいい……」
ボクはずっと堪えていた嗚咽をついに漏らしてしまった。
ヒィヒィと声を上げて泣きながら、兄に縋りついた。ずっと一緒だったのに。これからもずっとそうだと思っていたのに。
寂しい。寂しい。だけど兄は笑ってボクを抱きしめた。温かい。
「寂しいのは大好きだからだよ。オレだって寂しいけど、ユゥイのことが大好きだから我慢する。ユゥイも、ずっと忘れないでいて」
ボクが涙でぐしゃぐしゃになっている顔を上げると、兄は手の平でしきりにボクの頬を拭った。
泣かないでと繰り返しながら笑う彼の頬に、涙はなかった。
代わりに、大きな痣があった。頬にも、目元にも、顔だけじゃない。兄の身体中には沢山の痣や傷があって、それは全てボクを守るためのものだった。
そう、ボクのせい。
ボクはずっと兄と一緒にいたいと思っていた。
兄がいなければ何もできない。兄がいなければ不安で、怖くて、一人ではどうしたらいいか分からない。
だけどこの時、ボクは初めて兄から離れなければと強く感じた。
本当はずっと分かっていた。ボクがいるから兄は傷つく。ボクが弱いから、兄は強くならなければいけなかった。
ボクが受けなければいけない傷を、全て背負い込むために。
「だいじょうぶ。離れてても、ずっとユゥイのことを守ってあげる」
そうだ、と言って、兄はボクから離れると暗い部屋の中でもぞもぞと動いた。何かを手探りで見つけ出して、それをそっとボクに差し出す。
「これ、あげる」
それは兄がずっと大切にしていた、大きな黒い犬のぬいぐるみだった。
寝る時もいつも側に置いて、片時も離すことがなかったそのぬいぐるみは、もう随分と古くてボロボロだった。
尖っていた耳は片方がすっかりひしゃげて、目も鼻も尻尾も取れかかっている。
彼はこれを『黒わん』と呼んで可愛がっていた。
「でも……これは……」
兄の宝物だ。今まではずっと、ボクにすら触らせてくれなかった。
いいの、と兄はやんわりと笑って首を振った。
「これを持ってて、寂しいときはぎゅってして。ね」
ボクは兄からぬいぐるみを受け取ると、彼が言う通りぎゅうっと強く抱きしめた。兄の匂いがした。
ぬいぐるみに顔を埋めて、また泣き出してしまったボクを、兄が抱きしめる。
大好きだから寂しい。大好きだからお別れする。
強くならなければいけなかった兄と同じように、ボクは大人にならなければいけない。
だってボクがこんな風に弱くて泣き虫だから、兄は泣くことも、一緒に行きたいという一言すらも、言うことができなかったのだから。
***
自宅から徒歩十数分の駅から電車に乗って、揺られることおよそ30分。
職場ビルがある市街地の北側に位置する区域は、真昼間から人通りもまばらで、どこか色褪せた埃臭い街並みが広がっていた。
背の低いビル群はどれも見るからに老朽化が進み、申し訳程度にあるコンビニだけがやけに真新しい。
駅を出てすぐの広い通りは銀杏並木になっていた。黄金に色づいた葉が秋風にささめき、燦々と降り注ぐ陽の光を浴びてさらに輝いている。その光景だけが鮮やかで、あとはこれといって何もない、古臭い街という印象しか持てなかった。
黒鋼は、もう何年も着古した黒のダウンジャケットに両手を突っ込み、色鮮やかな銀杏並木へは向かわずに駅裏の商店街へと足を向けた。
古めかしい店構えの割には看板がやけに真新しい青果店、シャッターの降りた豆腐屋、香ばしい揚げ物の香りを漂わせる精肉店、薄汚れた居酒屋。
一車線程度の狭い道幅の商店街は、行き交う人の年齢層も比較的高いようだった。
腰の曲がった老夫婦が仲睦まじくシルバーカーを引いて買い物をする姿や、旦那の愚痴を肴に立ち話に夢中になる中年の奥様方が豪快な笑い声を上げている。
どこか懐かしような、昭和臭い通りを真っ直ぐ進んでいくと、ふと前方の道端に看板が立てられているのが見えた。
ダークブラウンのカフェ看板には、白いチョークで『猫の目』と書かれている。
「ここか……」
足を止めた黒鋼は、重い息を漏らした。
休みの日にわざわざこんな場所まで足を運ばなくてはならないなんて。仕事の都合とはいえ、どうにも解せない。
狭い脇道に渋々入り込んだ黒鋼は、一応はジャケットから両手を引き抜き、姿勢を正した。古臭い民家に挟まれるようにして姿を現したのは、どこかレトロな外装の喫茶店だ。格子状の白い木製ドアの前にもカフェ看板が立てられている。
黒鋼は看板脇に置かれている、小さな子供用のウッドチェアに目を向ける。そこには、黒いオオカミのような編みぐるみが、造花の花束を持って行儀よく座っていた。
***
「いらっしゃい」
内心躊躇いながら扉を開けた黒鋼を、カウンター越しに出迎えたのは黒のギャルソン服に身を包んだ、華奢な優男だった。
長い金髪を緩く一纏めにした彼は、素でいても怒っているように見られる黒鋼の面構えに一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「ああ」と頷いて笑った。
「堀鐔の記者さん?」
「……邪魔するぞ」
「どうぞ。お好きな席へ」
黒鋼は仏頂面のまま足を踏み入れると、男の向いのカウンター席に腰かけた。
チラリと横目で見た店内には、片隅に若い女性が一人いるだけだ。緩くウェーブのかかった長い黒髪の女は、黒鋼の視線に気づくと開いていた本を閉じ、顔を上げてにっこりと笑う。まだ少女といっていいあどけなさから、黒鋼はすぐに目を逸らした。
「コーヒー? 紅茶?」
「水でいい」
「そうおっしゃらず」
「……紅茶」
正直なんでもよかったが、とりあえずメニュー表の紅茶の欄から、一番上のダージリンを指先で幾度か突くと、男はニッコリ笑って「少々お待ちください」と言った。
待っている間、落ち着かない気分で微かにジャズが流れる店内をじっくりと見回す。
清潔感溢れる白壁に、椅子やテーブル、床までもがどこか使い古されたようなアンティーク調のもので統一されている。
古い壁掛けの時計や、ドライフラワーのリース、窓辺に並ぶ小さな観葉植物など。いかにも女性受けしそうな装飾の横には、小人や動物の編みぐるみが必ずといっていいほど寄り添っていた。
店の奥にはテラスへの入り口もあり、その脇に雑貨品が並ぶスペースがある。僅かに身体を傾けて覗いただけでも、ぬいぐるみなどのインテリア雑貨は勿論、キャスケットやバッグなどのファッション小物も所狭しと並べられているのが分かる。
正直、げんなりした。
「可愛いでしょう? 全部ハンドメイドなんですよ」
金髪の青年が、黒鋼に紅茶を差し出しながら目を細めて笑った。立ち上る湯気と共に、マスカットフレーバーが鼻先を掠める。
「悪いが……プライベートじゃぜってぇ来ねぇよ」
カップに口をつけ、口の中に紅茶を含ませたあと、黒鋼は率直に述べた。何を飲んでいるのかも、いっそよく分からない。
男は肩を竦めて笑い、「でしょうね」と言った。
渋い表情のままの黒鋼は、男を見上げるとふっと息をつき、本題に入る。
「で? あんたの言う通り来てはみたが……俺はただ茶をしばきに来たのか?」
ここはいわゆる雑貨カフェというものだ。ドリンクやフード、スイーツを出す以外にも、手作りの雑貨品を売っている。
ただ一息つくだけなら、黒鋼はこんな小洒落た喫茶店など絶対に選ばない。中年の親父が道楽でやっているような、雑然とした店で充分だ。美味いカレーが一瞬で出てきさえすれば文句はない。
それがなぜわざわざこんな店に、しかも休日に足を運ぶことになったのか。
事は数日前。雑誌記者である黒鋼が初めて、目の前の店主にコンタクトを取ったことがキッカケだった。
彼は取材の了承を得るために連絡をした黒鋼にこう言った。
『まずはプライベートで、お一人でいらしてください。それから決めます』と。
黒鋼が堀鐔出版に入社してそろそろ二年。グルメ雑誌担当の部署に配属され、記者としてはまだ駆け出しといっていい。
気難しい店主はどこにでもいる。事前連絡で拒否されることは少なくないが、手始めにプライベートで来いという申し出は今回が初めての経験だった。
「驚かれました?」
男は柔和な笑みを決して崩さない。客を相手にしているのだから当たり前ともいえるが、どこか冷えた印象を受けるのは顔の造りが整いすぎているせいだ。
いかにも体育会系で厳つい黒鋼が居心地悪さを感じて仕方ないのは、この人形のような美貌を持つ男の雰囲気にも馴染めないから、かもしれない。
「まぁな。俺はそう場数を踏んでる方でもねぇしな」
「貫禄たっぷりですけどね。駆け出し記者というよりは、叩き上げ刑事って感じかな」
「褒め言葉と取っとくぜ」
「……今日お呼びしたのは」
男は、一瞬だけ笑顔の仮面を崩し、切なげな表情で店の奥の方を向いた。
つられて視線をやれば、そこはテラスだ。男が一人、背を向けてテーブルに腰かけている。陽光を浴びて、金色の髪が光を放っていた。
「双子、だったな。あれが片割れか?」
「ええ。取材をお受けするかどうかを決めるのは、ボクだけの判断ではできません」
「なるほど」
気難しいのはこの男ではなく、あのテラスにいる方の男というわけだ。
事前の下調べでこの店が双子による共同経営ということは知っていた。弟がカフェを、兄が雑貨を。おそらくカウンターにいる方が弟のユゥイだ。
兄の名は、ファイ、だったか。
「気に入られりゃいいわけだ」
「端的に言うと、そうですね」
まだ何かもの言いたげなユゥイを残し、黒鋼は椅子から立ち上がるとテラスへと足を向けた。
先客の少女がふと顔を上げたが、目もくれずに一歩一歩、入り口へ近づく。一体どんな堅物なのだろうかと想像を巡らせながら。
すると、近づくにつれて柔らかな声が聞こえることに気が付いた。
それは鼻歌だった。
どこかで聞いたことがあるようなその曲は、テラスで背を向けている男が発する声だった。勝手に抱いていた鼻持ちならない印象と、その歌声があまりにもかけ離れていて、少し戸惑う。
多少調子はずれだが、この曲は確か。
「星に願いを、か?」
金髪の男は、ファイは、黒鋼がすぐ側まで近づいていたことに全く気付いていないようだった。
彼はかぎ針を使って、黒く細い毛糸を編み込んでいた手を止め、青い目を丸くしながら顔を上げる。優しげな声でメロディを紡いでいたはずの唇も、ポカンと開かれていた。
なんて間の抜けた顔をする男だろうと思った。弟よりも幾らか髪が短いせいか、印象が幼い。長い睫毛に縁どられた碧眼は目尻が少し垂れていて、どこか小動物めいた愛嬌がある。同じ顔の作りでも、随分と違う印象を受けることに驚いた。
弟がキッチリとギャルソン服を身に着けていたのとは対照的に、彼は白い七分袖のシャツに黒のパンツ姿というラフな装いだった。
「聞いてねぇか? 俺は堀鐔出版の」
「黒わん……?」
「あ?」
黒鋼が名乗るのを遮って、彼は毛糸を絡ませたままの指先をこちらに向けた。そして、どこか茫然としたような声でもう一度「黒わん」と言った。
「黒わんじゃねぇ。俺は」
「黒わんだぁ」
何も言えなくなってしまった黒鋼に向かって、彼はふにゃりと、綿飴のような笑顔を浮かべて見せた。
***
そこは小さな箱庭のようなテラスだった。
きめ細かな芝生に覆われた空間は、秋薔薇の生垣で切り取られたようになっていて、シマトネリコの木々が青々とした実をつけている。
決して広々としているわけではないが、澄んだ秋空の下で食べるランチというのはなかなかよさそうだ。愛らしい雑貨に囲まれた店内よりは、だいぶ居心地がいいかもしれない。
そんなテラスには白いパラソルが立てられた木製テーブルと、ガーデンチェアのセットが三つ。その一席で、黒鋼はなぜか初対面であるはずの男に懐かれていた。
「黒わん黒わん、今ね、オレね、黒わん作ってたよー」
ファイはせっせと雑貨作りに精を出していたようだが、今はもう目の前の黒鋼に夢中で、手にしていた毛糸やかぎ針をはじめとする諸々のアイテムが、テーブルの上に投げ出されている。
わざわざ椅子ごと移動して、べったりとくっついてきた彼は黒鋼の腕にぎゅうぎゅうとしがみついていた。
一体これはどういう現象なのか。黒鋼はただ困惑するばかりで、何をどう切り出せばいいか分からないでいた。
「あのね、オレね、毎日いっぱい黒わん作ってるのー。黒わんのお友達もたくさんいるよー」
「…………そうか」
「でもね、帽子とか、鞄とか、髪につけるのも作るよー。可愛いお花もつけると、サクラちゃんが褒めてくれるんだー。黒わんわんもお花好きー?」
「どうだろうな……」
「オレねー、サクラちゃんと『しんゆー』なんだー。でも知世ちゃんもだいしんゆーなんだよー」
そう言って、ファイは店の中にいる黒髪の少女に手を振った。彼女は顔を上げると優しく微笑み、同じように手を振り返している。
あのずっと本を読んでいた先客の女は知世という名前なのか。黒鋼にしてみれば物凄くどうでもいい情報だが、ファイは一生懸命お喋りに夢中になっている。
黒わんの存在がよほど嬉しいのか、さっきから顔を赤くして興奮している様子だった。ぴったりと密着させている身体が、どんどん熱を持ってくるのが分かる。
これでは仕事の話どころの騒ぎではない。何が悲しくて野郎に密着されて、くだらない話を聞かされなくてはいけないのだろう。
だが、なぜか振り払う気になれない。乱暴に扱ってはいけないような気がする。それは黒鋼が記者で、相手が取材を申し込みたいカフェの人間である事実とは、まるで違った次元にあるような気がした。
姿形ばかりは立派な大人だが、彼は……。
「ファイ、お会計できる?」
黒鋼が戸惑いながらも答えを導き出したのと同じとき、ユゥイがテラスに姿を現した。
そしてファイの側でしゃがみ込み、その膝の上に手を置いた。
「こないだ教えた通りにできるかな? 知世ちゃんがお帰りだよ」
「知世ちゃんもう帰っちゃう?」
「そう。ボクはこのお兄さんとお話があるから、ファイにお願いするね」
「わかったー。オカイケーがんばるー!」
「いい子だね。ありがとう」
ファイは黒鋼から離れ、椅子から立ち上がると駆け出した。店内では伝票を持った知世がこちらに会釈している。
品のいいワンピースをまとった、見るからに育ちのよさそうな少女だと、改めて思った。
「気に入られましたね」
二人が楽しそうに会話をしながら会計スペースに向かう背中を見つめたあと、ユゥイが黒鋼の向いに腰かけた。
彼は小さく鼻から息を漏らす黒鋼の正面に、ポケットから取り出した黒いぬいぐるみをちょこんと置いた。
「これは……?」
「黒わんです。ファイが特にお気に入りで、毎日作ってるんですよ」
手の平サイズのそれは、尖った耳と大きな尻尾をしたオオカミのような犬の編みぐるみだった。
赤いマフラーをして、吊り上がった目がなんとも憎たらしい。
思わず手に取って「似てねぇだろ」と吐き捨てると、ユゥイはどこか悲しそうに苦笑する。
「あの子は……兄は、子供です」
「……みてぇだな」
「驚かれたでしょう。ごめんなさい」
「……いや」
ユゥイは黒鋼がテーブルに戻した黒わんを手に取り、指先でその頭を撫でながら一度ゆっくりと瞬きをした。
「この店のことは、ネットの口コミサイトを見て知ったとおっしゃいましたね」
「そうだ」
「凄いですね。それほど目立った内容でもなかったでしょうに」
「……まぁ、確かにな」
今はその情報の多くをインターネットを通じて仕入れることも少なくはない。
黒鋼がこの店に訪れることになったのも、ネットの口コミを元に幾つかの店がピックアップされて、編集会議にかけられたことがキッカケだった。
今回の企画内容が『隠れ家グルメ』だということもあり、数多ある情報の中でレビュー数こそ少ないものの、評価は上々な幾つかにこの店も入っていたというわけだ。
彼の言う通り、ここの情報はどちらかといえばあまり目立たず、埋もれていたといってもいい。
「お店を取り上げてもらうことは、ボク個人としては嬉しいです。だけど、それによってファイが嫌な思いをしないかばかりが気になって」
「だからまずは記者の人となりを見ようとしたわけか?」
「そうなりますね。お手を煩わせてしまってすみません」
でも、とユゥイはその表情に翳りを覗かせる。
「前にも一度あったんです。別の記者さんがいらしたことが」
「うちのか?」
「いえ……違います。男の人と女の人で、最初は普通のお客さんだとばかり思っていたんですが、どうやら違ったみたいで」
まだカフェをオープンして間もない頃だったと、ユゥイは言った。
ただの客だと思い持て成したら、実は女の方が記者で、男の方がカメラマンだったらしい。彼らはユゥイが注文された品をテーブルに運んだところで、初めて名刺と共に存在を明かした。いわゆる飛び込みというやつだ。
咄嗟のことに戸惑ったが、半ば押し切られる形で取材を了承することになったという。
二人は席を立ち、店内を物色しはじめた。そして、ファイと接触した。
「あの日も彼はここで雑貨作りをしていました」
まだ常連と呼べるような客すらついていなかった頃。ファイは急に近づいてきた二人の男女に驚き、すかさずユゥイの背後に隠れてぐずり出した。その仕草や言動を見て、彼らはすぐに気が付いた。
ファイの見た目とは異なる内面の幼さ、未熟さに。
そして面白がった。精神遅滞の若者が健気に雑貨を作る店。これは売れると言って、大きく特集しようなどと騒ぎだした。
ただのカフェや雑貨屋ならまだしも、オーナーである双子は見目も麗しく、駅裏の片隅で寄り添う姿はさぞかし読者の興味と同情を誘うだろうと。
興奮する彼らはしきりにファイに向かってシャッターを切り、矢継ぎ早にデリカシーのない質問を浴びせかけた。ユゥイはそれについて詳しく話そうとはしなかったが、大体の予想はつく。
「可哀想に……ファイは酷く泣きじゃくって……」
ユゥイはどこか諦めたような面持ちでそっと睫毛を伏せた。手の中の黒わんをぎゅっと握りしめる指先が震えている。
結局その記者たちはユゥイが強引に追い出し、取材の話はそのまま流れた。だが、その心には傷跡が残ってしまった。
「全部ボクの責任なんです……彼が小さな子供のままでいるのは、ボクの」
「……?」
「ああ、いえ……」
ユゥイは押し黙り、緩く首を左右に振ってから「なんでもありません」と言った。
「ユゥイー! オレちゃんとオカイケーできたよー!」
そこに、知世を送り出したらしいファイが、嬉しそうにテラスに戻って来た。
ユゥイはにっこり笑って立ち上がると、飛び込んできたファイを抱き留めてその頭を撫でた。
「ありがとう、助かったよ」
「お話終わった? もう黒わんと遊んでもいい?」
「いいよ」
「いいよってなんだ、いいよって……」
「わーい!」
すぐに駆け寄って来たファイが、背後から身を屈めて思い切り抱き付いてくる。
「黒わーん。おっきくてあったかいねー。何して遊ぶー?」
「あのな、俺は黒わんじゃねぇんだよ」
「黒わんが来てくれて、オレ嬉しいよー」
「……そりゃよかったな」
見た目が大人でも中身が幼い子供とあらば無下にもできず、黒鋼はただ渋い表情で溜息をつくことしかできなかった。
なぜあんな目つきの悪いぬいぐるみと一緒にされなくてはいけないのだろう。まさかとは思うが、この男の目には黒い犬の着ぐるみを着た大男でも映っているんだろうか。
すりすりと頬ずりをされていると、なんだか本当に犬にでもなってしまったような、腑抜けた気分になる。
ふんわりと立ち上る、ミルクに砂糖を溶かしたような甘い香りが、なおのこと彼を幼く印象付けていた。
顔を顰めつつも身動きが取れないでいる黒鋼に、申し訳なさそうに苦笑しながらユゥイが肩を竦める。
「少し遅いですけど、そろそろお昼にしましょうか。ついさっきヴィエノワが焼き上がったばかりなんです。ファイもそれでいい?」
「うんいいよー! あのね、エビのやつと、ハムのやつとー」
「はいはい、ちゃんと全部用意してくるよ」
そう言って中に戻って行こうとするユゥイを、黒鋼は一瞬迷ってから「おい」と呼び止めた。
彼はすぐに振り返り、小さく首を傾げて見せる。
「……ひとついいか」
「なんでしょう?」
「最初から取材の申し出を断らなかったのはなぜだ?」
それは素朴な疑問だった。
記者に対して最悪な印象しか持っていないはずの彼なら、最初の時点で素気無く断っていてもおかしくない。自身が身を置く業界をあまり悪くは言いたくないが、実際のところ彼らを傷つけた例の記者たちのような人間が少なくないことは否定できなかった。
ユゥイは腰に手を当てると、「そうですね」と少し考える素振りを見せてから、微笑んだ。
「単純に、堀鐔出版さんのグルメ情報誌が好きなんです。ここをオープンするときも色々とお店を食べて回ったんですけど、参考にさせてもらいました。だから記者さんがどんな人なのか、興味もあったというか」
「そうか」
自分が関わる雑誌を褒められるのは悪い気がしない。それだけ読者に信用と好感を抱かれているということだからだ。
西へ東へと駆けずりまわり、苦労して記事を書いている努力が報われるような気がする。
「ちょっとでも嫌な感じだったら、すぐに塩を撒いて蹴り出してやろうと思っていたんですが」
だが、どうやら決め手は違ったらしい。
「ボクも思ったんです。黒わんに似てるなーって、ね」
ユゥイはほんの少しだけ、意地の悪そうな笑顔を浮かべて見せると店の中へ戻って行った。
「……だから俺は黒わんじゃねぇって何度言えば」
「黒わん!」
「あ!?」
黒鋼に抱き付きながら退屈そうに話を聞いていたファイが、素早い動作で膝に乗って来る。横座りの形だ。上背はあるが華奢なせいか、いやに軽い。
「な、なんだてめぇいい加減に」
「お膝のってもいいー?」
「もう乗ってんじゃねぇか!」
「ひゃー! ブランコみたいー!」
「落ちるだろ暴れんな!!」
黒鋼の首に捕まって思いっきり足をブラブラとさせるファイの腰を、慌てて抱き込んでやると彼はさらにはしゃいだ声を上げて笑った。
その笑顔を見ていると、なぜかすっかり毒気を抜かれたような気にさせられて、黒鋼はただ彼の好きにさせてやることしか、できなくなってしまった。
***
「黒わんやだよ……帰っちゃ嫌……」
帰り際、ファイは黒鋼の胸に縋りついて泣いていた。
肩を震わせ、ひくひくとしゃくり上げる姿はまさに幼子そのものだ。
「ここにいて……ずっとここにいて……」
「ファイ、困らせちゃダメだよ。記者さんはちゃんとおうちがあるんだよ」
「じゃあ……じゃあ、オレも一緒に行く……」
ファイの言葉を聞いて、一瞬だけユゥイの表情が悲しげに歪んだ気がした。
それでもすぐに両肩を掴んで引き剥がそうとするが、ファイは頑として譲らない。黒鋼のダウンジャケットを強く握って、いっそう身を寄せてきた。
黒鋼は、参ったなと思った。それはユゥイも同じだったようで、目を見合わせて同時に溜息を漏らす。
その間も、ファイはずっと泣き続けていた。こんなにも泣かせてしまうくらいなら、いっそもう少しここにいてもいいかと考えるが、根本的な解決にはならない。まずはどうにかして、黒鋼が『黒わん』ではないことを理解させる必要がありそうだ。
「あのな、何度も言うが、俺はおまえの黒わんじゃ」
「黒わん……オレのこと嫌い? オレが悪い子だから、黒わん怒ってどっか行っちゃう……?」
「…………」
「すみません……」
「いいけどよ……」
とにかく困った。小さな子供の相手なんてしたことがない。だからどうやって扱えばいいのか分からなかった。
胸に縋りついたまま見上げてくる瞳があまりにも無垢で、赤くなった頬に大粒の涙が幾つも流れてゆくのを見ていると、心が痛んで仕方がない。
黒鋼はどうすればいいのか分からないながらも、彼の目元に指先で触れて、その涙を拭った。
「怒ってねぇよ」
「ほんと……? 嫌いじゃない……?」
「嫌いじゃねぇし、怒ってねぇし、おまえは何も悪いことなんかしてねぇだろ?」
「でも……黒わん帰っちゃう……」
拭っても拭っても止まらない涙に、こうなったら意地でも泣き止ませなければ帰れないという気持ちになった。
「また来る」
「……いつ? 明日?」
「明日は急だな……とにかく、時間作ってまたすぐに来る」
ぽんぽんと頭の天辺を軽く叩いてやると、ファイは真っ赤な鼻をすんと鳴らしながら渋々黒鋼から離れた。何かを堪えるように唇を噛み締めたあと、ポケットから黒わんの編みぐるみを取り出し、そっと差し出してくる。
「あげる……」
「いいのか?」
「ん……あのね、この黒わん、まだ途中なの。マフラーがないの」
「ああ、本当だな」
黒鋼はファイから黒わんを受け取ると、生意気そうなその顔をじっと眺めた。
さっきユゥイに見せられたものは、首に赤いマフラーを巻いていた。だが、これにはそれがない。
「黒わん、マフラーがないと風邪ひいちゃう。だから、オレちゃんと作るから……」
「ああ」
だから早く来いと、そういうことか。
黒鋼は思わず笑ってしまった。彼は子供なりに知恵を絞っている。早く会いに来てほしくて、ささやかな脅しをかけているのだ。
なんとも言えないいじらしさを感じて、黒鋼はもう一度ファイの頭に手を伸ばすとそっと撫でた。
「すぐに来る。こいつが風邪ひいちまわねぇようにな」
「……うん!」
ファイはまだ瞳にいっぱい涙を溜めこんではいたけれど、元気に笑って頷いた。ようやく見ることができたその笑顔に心の底から安堵する。
そしてその瞬間、黒鋼の胸に不思議な思いが浮かび上がった。
「本当にすみません。こんなに懐いてしまうなんて」
「いや、別に悪い気はしねぇよ。飯も美味かった。また邪魔するぜ」
「ええ、是非」
「それと取材の件なんだが、ひとまず保留ってことでいいか」
「え?」
驚いていたのは黒鋼も同じだった。
今の今まで、あくまで仕事に繋げるためという思いしかなかったのだから。
それがなぜか、ファイと次の『約束』を交わした瞬間、不思議とそんな気が失せてしまった。
黒鋼は視線を巡らせると店内をざっと見回した。今は客の姿が一人もないが、時間帯によっては顔なじみの常連がのんびりと過ごすであろう、憩いの空間。
テラスではファイが鼻歌を口ずさみながら雑貨を作って、『しんゆー』とやらがそんなファイの作ったものを見て笑顔になる。
想像を巡らせるだけで穏やかな気持ちになって、ここに仕事では訪れたくないという気持ちにさせられた。
「本当にいいもんってのは、誰にも教えたくねぇよな」
その記者らしからぬ言葉にユゥイは小さく吹き出し、礼を言いながら頭を下げた。
←戻る ・ 次へ→
そのあとは、すっかり腰がダメになって立ち上がれないファイの代わりに、黒鋼が汚れてしまった床を綺麗にしてくれた。
ついでに机の中身や棚の整理も手伝ってもらったりして、申し訳ないなと思いつつも、その姿を見つめていたら寂しさが込み上げた。
ここでこうしていられるのは、今日が最後なんだなと。
*
ほとんど黒鋼の手を借りて準備室がピカピカになる頃には、すっかり夜になっていた。
なんとか立ち上がれるくらいには感覚を取り戻したファイは、それでもまだ足どりが覚束ないことを理由に、黒鋼とそっと手を繋いで宿舎までの道を歩いていた。
普通に行けば10分とかからないような近い距離を、のんびりと、あえて時間をかけて歩く。自然と訪れる沈黙の中に、綺麗に揃った二つの足音だけが響き渡った。
懐かしいな、と思う。
昔は嫌がる黒鋼の手を引いて、毎日こんな風に一緒に学校へ行っていた。あの頃は歩幅を合わせるのは自分の役目だったし、小さな手を一方的に強く握りしめるのもファイの方だったのに。
隣同士で暮らしていた頃のことを思い出すと、不思議な気持ちになる。
ファイはもともと、身長や足の長さに比べて歩幅が狭い。いつしかそれに合わせるのは黒鋼の方になっていて、守ってあげたいと思っていたはずの手に、今は守られている。
「不思議だねー」
繋いでいた手をぶらぶらとブランコのように揺らしながら、肩を竦めて笑ってしまった。
「あんなに小さい手だったのに、もうすっかり男の人の手だー」
黒鋼は真っ直ぐ前を向いたまま、微かに笑うだけだった。もしかしたら、彼も昔のことを思い出していたのかもしれない。
ファイがすっかり大人びた黒鋼に戸惑ったのと同じように。彼もまた、あの頃よりも小さく見えるファイに戸惑うことはあったのだろうか。
「なんか、変な感じだよね」
そう言うと、黒鋼はしみじみと「そうだな」と返して寄こした。
横顔をチラリと見やりながら、本当に今夜で最後なんだという思いが改めて押し寄せる。
別にもう会えなくなるわけじゃないし、むしろ二人はやっと足並みを揃えて歩き出したばかりなのだから、感傷に浸ることはないのだけれど。あまりにも密度の濃い三週間を過ごしたがために、明日から戻って来るであろう日常への実感がわかない。
例えば一ヶ月前の自分に、今の自分に起こった出来事や変化を予想しろと言っても、絶対に無理な話だと思う。いっそ地球が滅亡すると言われた方が、すんなり信じてしまうかもしれない。
ファイは黒鋼のことがずっと大好きだったけれど、好きの形はこの三週間で大きく変わった。
生意気で無愛想で、子犬みたいにすぐ吠える、だけど優しい男の子。懐かしい思い出の中にしかいなかったはずの少年が、青年となって姿を現した時、まさかこんなにも身を焦がすような恋に落ちることになるなんて、思ってもみなかった。
「ねぇ黒たん」
大きな手を握り返す力を強めながら、ファイはずっと不思議に思っていたことを聞いてみることにした。
「黒たんってさ、いつから……」
「ん」
「……いつからなのかなーって。オレのことさ」
いつから、黒鋼はこんな自分を好いてくれていたのだろう。
ファイは黒鋼が嫌がることを率先してやっていた自覚があるし、あの引っ越し前夜の「おまえが俺の嫁になれ」発言だって、深く考えたことはなかった。
けれど再会した黒鋼は、その宣言をさも当然のように強要してきた。
今でこそ異存はないのだが、一体どこをどうひっくり返せば『意地悪な隣のお兄さん』に恋心を抱くのか、ファイにはさっぱり分らない。
「だからね、オレはずっと黒たんに意地悪ばっかしてたし、嫌われてるって思ってたから」
「別に意地悪ってほどでもなかったけどな」
「そうかなぁ? だって黒たんが嫌がって怒ったり泣いたりするの、大好きだったよ」
素直に当時の気持ちを言えば、黒鋼は小さく噴き出した。普通こんなことを言われれば怒って当然のように思うのだが、ファイの目に彼はどことなく嬉しそうに映る。
黒鋼は横目でちらりとこちらに視線を寄こすと、口の端を持ち上げながら「簡単なことだ」と言った。
「おまえにも身に覚えがあるんじゃねぇか?」
「?」
「嫌よ嫌よもってやつ」
一瞬だけ間を置いて、ファイは赤い顔で「あー」と納得の声を上げる。
いいように押さえつけられ、身体を弄ばれることに抵抗を示しながら、いつの間にか受け入れて求めるようにまで変わってしまった自分と、あの頃の黒鋼は似たようなものということか。
だんだん癖になってきて、気付けばそれがなければ物足りなくなってしまう感じ。今のファイには、とても分かりやすい表現だった。
「俺だって自覚すんのには結構な時間がかかったが」
「……うん」
「しょうがねぇよな。ハマっちまったもんは」
「……だね」
黒鋼はなんでもないことのように言うけれど。きっとファイが思うよりずっと大きな苦悩や、葛藤があったに違いない。
ただふざけていただけの当時の自分は、身も心も未熟でいたいけな少年を、手の平で転がして弄んでいただけだ。
結果的にいい方向に転がったにしろ、その罪悪感からファイは一途に思い続けてくれていた黒鋼の気持ちを歪めて捉えてしまったし、苦しませたことに変わりはないわけで。
そう考えはじめるとなんだか申し訳なくなって、俯いてしまったファイに黒鋼は「だが」という接続詞と共に足を止めた。
必然的に一緒に立ち止まったファイは瞬きを繰り返しながらその顔を見上げる。
「多分、最初からだ」
「……最初?」
「おまえが初めて声をかけてきた、あの朝から」
緩い風が一度だけ、目を見開くファイの頬を撫でた。
切れかけていた街灯は電球が交換されていて、真っ直ぐに見下ろしてくる黒鋼の瞳の赤がよく分かる。
――ガッコ、一緒に行こう?
そう言って手を差し出した瞬間を、今でもよく覚えている。
大きな瞳も、小さな手も、高く幼い怒鳴り声も。
何もかもが可愛くて、その反応全てがファイの胸を一瞬にして掴んだ。
(ああ、そうか。あの時から、きっとオレも)
「理屈じゃねぇよ。あんときから、俺にはおまえが特別だった」
呆けたような顔をしているファイの頬に、黒鋼の指先が触れる。その熱にハッとして、思い出したように息を飲んだ。こんなにも真っ直ぐに答えをくれるなんて、思ってもみなかったから。
ファイの記憶の中の黒鋼は怒りっぽくて、すぐに瞳に涙を溜める、とても照れ屋な少年だったのに。
「なんか……恥ずかしいよ、黒たん……」
未だにギャップに戸惑いながらも、どんな顔をすればいいのか分からないくらいの羞恥に駆られて、つい可愛げのないことを口走る。
それでも黒鋼はまるで気を悪くする様子はなく、口元だけ笑いながら目を細めて見せた。その視線があまりにも愛しげで温かいものだから、ファイの中の照れ臭ささはどんどん加速した。
「も、もう! わかったよ! 教えてくれてありがと!」
一応は質問への回答に礼を言いつつ、ファイはそっぽを向きながら繋いだままだった黒鋼の手を離すと、ふらつく足で先に歩き出した。
宿舎はもう目の前で、部屋に戻ったらシャワーを浴びて、ご飯を食べて、それから。今度はゆっくり、ベッドの上でするんだろうな、と思う。
きっと今の比じゃないくらい臭いことを平然と囁かれて、同じくらい恥ずかしいことをたくさん言わされるに違いない。
想像するだけで全身から火を噴いて燃え尽きてしまいそうなのに、早く早くと気が急いて仕方ない。嫌なのに嫌じゃなくて、でもやっぱり嫌で、なのに死にそうなくらい嬉しくて、幸せで。
(ああもう! なんかグチャグチャ!)
一番恥ずかしいのは、きっと照れまくって無駄にジタバタしている、自分の方だった。
ファイの乱暴な足取りから少しテンポを外して、左腕のビーズと黒鋼の足音が重なる。そっと右手をビーズに押し当てると、強く手首を握りしめ、ぴたりと足を止めた。
同じく立ち止まった黒鋼の視線を背中に感じながら、ファイは火照った息を落ち着かせるように大きく一度、深呼吸した。
グチャグチャだけど、恥ずかしいけど。今じゃなきゃ、きっと言えない。そんな気がして。
「あのさ」
「おう」
「オレ、責任とるから」
少年だった君へ。
たくさん意地悪を言ってからかったし、怒らせたし、泣かせた。
苦しませて、悩ませて、傷つけてしまったけど。
でも、好きになってくれた君へ。
ファイは振り向くと、赤い瞳から視線を逸らすことなく言った。
「だから、オレのことお嫁さんにしてね」
一生ずっと、傍にいさせて。
黒鋼が目を見開いたのは一瞬だった。
彼はすぐにあのすっかり大人びた笑みを浮かべて、ただ両手を大きく広げて見せる。それを合図に、ファイはよれたスーツの腕の中に向かって、強く地面を蹴った。
両腕を勢いよく首に絡めて、胸と胸がぶつかり合うようにして飛び込めば、抱き合ったふたりは反動で幾度かクルクルと回ってしまった。
そのあまりにも臭い演出が可笑しくて、ファイは声を上げて笑った。街灯だけが照らす夜道で、光沢を失っていたはずの古いオモチャのビーズがキラキラと輝く。
それは嫌というほど回り道をしながら、ようやくここまでやって来たふたりの行く末に、さらなる道を示しているようだった。
End
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ついでに机の中身や棚の整理も手伝ってもらったりして、申し訳ないなと思いつつも、その姿を見つめていたら寂しさが込み上げた。
ここでこうしていられるのは、今日が最後なんだなと。
*
ほとんど黒鋼の手を借りて準備室がピカピカになる頃には、すっかり夜になっていた。
なんとか立ち上がれるくらいには感覚を取り戻したファイは、それでもまだ足どりが覚束ないことを理由に、黒鋼とそっと手を繋いで宿舎までの道を歩いていた。
普通に行けば10分とかからないような近い距離を、のんびりと、あえて時間をかけて歩く。自然と訪れる沈黙の中に、綺麗に揃った二つの足音だけが響き渡った。
懐かしいな、と思う。
昔は嫌がる黒鋼の手を引いて、毎日こんな風に一緒に学校へ行っていた。あの頃は歩幅を合わせるのは自分の役目だったし、小さな手を一方的に強く握りしめるのもファイの方だったのに。
隣同士で暮らしていた頃のことを思い出すと、不思議な気持ちになる。
ファイはもともと、身長や足の長さに比べて歩幅が狭い。いつしかそれに合わせるのは黒鋼の方になっていて、守ってあげたいと思っていたはずの手に、今は守られている。
「不思議だねー」
繋いでいた手をぶらぶらとブランコのように揺らしながら、肩を竦めて笑ってしまった。
「あんなに小さい手だったのに、もうすっかり男の人の手だー」
黒鋼は真っ直ぐ前を向いたまま、微かに笑うだけだった。もしかしたら、彼も昔のことを思い出していたのかもしれない。
ファイがすっかり大人びた黒鋼に戸惑ったのと同じように。彼もまた、あの頃よりも小さく見えるファイに戸惑うことはあったのだろうか。
「なんか、変な感じだよね」
そう言うと、黒鋼はしみじみと「そうだな」と返して寄こした。
横顔をチラリと見やりながら、本当に今夜で最後なんだという思いが改めて押し寄せる。
別にもう会えなくなるわけじゃないし、むしろ二人はやっと足並みを揃えて歩き出したばかりなのだから、感傷に浸ることはないのだけれど。あまりにも密度の濃い三週間を過ごしたがために、明日から戻って来るであろう日常への実感がわかない。
例えば一ヶ月前の自分に、今の自分に起こった出来事や変化を予想しろと言っても、絶対に無理な話だと思う。いっそ地球が滅亡すると言われた方が、すんなり信じてしまうかもしれない。
ファイは黒鋼のことがずっと大好きだったけれど、好きの形はこの三週間で大きく変わった。
生意気で無愛想で、子犬みたいにすぐ吠える、だけど優しい男の子。懐かしい思い出の中にしかいなかったはずの少年が、青年となって姿を現した時、まさかこんなにも身を焦がすような恋に落ちることになるなんて、思ってもみなかった。
「ねぇ黒たん」
大きな手を握り返す力を強めながら、ファイはずっと不思議に思っていたことを聞いてみることにした。
「黒たんってさ、いつから……」
「ん」
「……いつからなのかなーって。オレのことさ」
いつから、黒鋼はこんな自分を好いてくれていたのだろう。
ファイは黒鋼が嫌がることを率先してやっていた自覚があるし、あの引っ越し前夜の「おまえが俺の嫁になれ」発言だって、深く考えたことはなかった。
けれど再会した黒鋼は、その宣言をさも当然のように強要してきた。
今でこそ異存はないのだが、一体どこをどうひっくり返せば『意地悪な隣のお兄さん』に恋心を抱くのか、ファイにはさっぱり分らない。
「だからね、オレはずっと黒たんに意地悪ばっかしてたし、嫌われてるって思ってたから」
「別に意地悪ってほどでもなかったけどな」
「そうかなぁ? だって黒たんが嫌がって怒ったり泣いたりするの、大好きだったよ」
素直に当時の気持ちを言えば、黒鋼は小さく噴き出した。普通こんなことを言われれば怒って当然のように思うのだが、ファイの目に彼はどことなく嬉しそうに映る。
黒鋼は横目でちらりとこちらに視線を寄こすと、口の端を持ち上げながら「簡単なことだ」と言った。
「おまえにも身に覚えがあるんじゃねぇか?」
「?」
「嫌よ嫌よもってやつ」
一瞬だけ間を置いて、ファイは赤い顔で「あー」と納得の声を上げる。
いいように押さえつけられ、身体を弄ばれることに抵抗を示しながら、いつの間にか受け入れて求めるようにまで変わってしまった自分と、あの頃の黒鋼は似たようなものということか。
だんだん癖になってきて、気付けばそれがなければ物足りなくなってしまう感じ。今のファイには、とても分かりやすい表現だった。
「俺だって自覚すんのには結構な時間がかかったが」
「……うん」
「しょうがねぇよな。ハマっちまったもんは」
「……だね」
黒鋼はなんでもないことのように言うけれど。きっとファイが思うよりずっと大きな苦悩や、葛藤があったに違いない。
ただふざけていただけの当時の自分は、身も心も未熟でいたいけな少年を、手の平で転がして弄んでいただけだ。
結果的にいい方向に転がったにしろ、その罪悪感からファイは一途に思い続けてくれていた黒鋼の気持ちを歪めて捉えてしまったし、苦しませたことに変わりはないわけで。
そう考えはじめるとなんだか申し訳なくなって、俯いてしまったファイに黒鋼は「だが」という接続詞と共に足を止めた。
必然的に一緒に立ち止まったファイは瞬きを繰り返しながらその顔を見上げる。
「多分、最初からだ」
「……最初?」
「おまえが初めて声をかけてきた、あの朝から」
緩い風が一度だけ、目を見開くファイの頬を撫でた。
切れかけていた街灯は電球が交換されていて、真っ直ぐに見下ろしてくる黒鋼の瞳の赤がよく分かる。
――ガッコ、一緒に行こう?
そう言って手を差し出した瞬間を、今でもよく覚えている。
大きな瞳も、小さな手も、高く幼い怒鳴り声も。
何もかもが可愛くて、その反応全てがファイの胸を一瞬にして掴んだ。
(ああ、そうか。あの時から、きっとオレも)
「理屈じゃねぇよ。あんときから、俺にはおまえが特別だった」
呆けたような顔をしているファイの頬に、黒鋼の指先が触れる。その熱にハッとして、思い出したように息を飲んだ。こんなにも真っ直ぐに答えをくれるなんて、思ってもみなかったから。
ファイの記憶の中の黒鋼は怒りっぽくて、すぐに瞳に涙を溜める、とても照れ屋な少年だったのに。
「なんか……恥ずかしいよ、黒たん……」
未だにギャップに戸惑いながらも、どんな顔をすればいいのか分からないくらいの羞恥に駆られて、つい可愛げのないことを口走る。
それでも黒鋼はまるで気を悪くする様子はなく、口元だけ笑いながら目を細めて見せた。その視線があまりにも愛しげで温かいものだから、ファイの中の照れ臭ささはどんどん加速した。
「も、もう! わかったよ! 教えてくれてありがと!」
一応は質問への回答に礼を言いつつ、ファイはそっぽを向きながら繋いだままだった黒鋼の手を離すと、ふらつく足で先に歩き出した。
宿舎はもう目の前で、部屋に戻ったらシャワーを浴びて、ご飯を食べて、それから。今度はゆっくり、ベッドの上でするんだろうな、と思う。
きっと今の比じゃないくらい臭いことを平然と囁かれて、同じくらい恥ずかしいことをたくさん言わされるに違いない。
想像するだけで全身から火を噴いて燃え尽きてしまいそうなのに、早く早くと気が急いて仕方ない。嫌なのに嫌じゃなくて、でもやっぱり嫌で、なのに死にそうなくらい嬉しくて、幸せで。
(ああもう! なんかグチャグチャ!)
一番恥ずかしいのは、きっと照れまくって無駄にジタバタしている、自分の方だった。
ファイの乱暴な足取りから少しテンポを外して、左腕のビーズと黒鋼の足音が重なる。そっと右手をビーズに押し当てると、強く手首を握りしめ、ぴたりと足を止めた。
同じく立ち止まった黒鋼の視線を背中に感じながら、ファイは火照った息を落ち着かせるように大きく一度、深呼吸した。
グチャグチャだけど、恥ずかしいけど。今じゃなきゃ、きっと言えない。そんな気がして。
「あのさ」
「おう」
「オレ、責任とるから」
少年だった君へ。
たくさん意地悪を言ってからかったし、怒らせたし、泣かせた。
苦しませて、悩ませて、傷つけてしまったけど。
でも、好きになってくれた君へ。
ファイは振り向くと、赤い瞳から視線を逸らすことなく言った。
「だから、オレのことお嫁さんにしてね」
一生ずっと、傍にいさせて。
黒鋼が目を見開いたのは一瞬だった。
彼はすぐにあのすっかり大人びた笑みを浮かべて、ただ両手を大きく広げて見せる。それを合図に、ファイはよれたスーツの腕の中に向かって、強く地面を蹴った。
両腕を勢いよく首に絡めて、胸と胸がぶつかり合うようにして飛び込めば、抱き合ったふたりは反動で幾度かクルクルと回ってしまった。
そのあまりにも臭い演出が可笑しくて、ファイは声を上げて笑った。街灯だけが照らす夜道で、光沢を失っていたはずの古いオモチャのビーズがキラキラと輝く。
それは嫌というほど回り道をしながら、ようやくここまでやって来たふたりの行く末に、さらなる道を示しているようだった。
End
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「それじゃあ行ってきまーす!」
白いコートに青いマフラー、さらにベージュの耳当てと手袋までして完全防備のファイが、買い物籠を腕に引っ掛けて元気よく店を飛び出して行った。
ユゥイはカウンターの奥から手を振って、扉が完全に閉まりきってから携帯電話を取り出し、電話をかけはじめる。
「……ボクです。目標、出発しました。よろしくお願いします」
『了解。目標を確認した。追跡する』
双方が手短に会話を切り上げて、場面は寒空の下。
黒鋼はいつもの黒ジャケットに赤マフラー、そしてマスクとサングラスを装備し、あからさまに不審者丸出しで電柱の陰に佇んでいた。
通話を終えた携帯をポケットにねじ込み、商店街の通りへ入ってゆくファイの背を、一定の間隔を保ちながら尾行する。
(なにやってんだ俺は……)
もちろん黒鋼は正気である。
だからこそこれが正気の沙汰じゃないことは理解していた。
だが、一度走り出してしまった運命の歯車は止まらない……そう、これは決して失敗の許されない、命がけのミッションなのである。
……というのはかなり大袈裟だが、今日はファイの晴れの舞台だ。
見た目は大人、頭脳は子供の彼は今日、人生初のお使いに挑戦している。
保護者であるユゥイは言った。
『今まではあまりにも過保護に接し過ぎていた。だからあの子には少し冒険させて、この広い世界を知ってほしい』
遅くね?
と思いはしたが、最近すっかり笑顔も明るくなって、ほんのちょっとだけバイトで入っている男子高校生(双子・兄)に対して優しくなったユゥイは、彼なりに兄離れしようと前向きになることが出来たようだった。
黒鋼にその壮絶な過去を語り、儚く笑う姿は見るからに長生きしなさそうな幸薄オーラを纏っていたが、そんな彼がこうしてファイを一人前として扱おうとする姿は、友人として感慨深いものがある。
今日はその第一歩。こうして逐一連絡を取り合える体勢で、鞄にカメラを仕込むスタッフよろしく監視をつけようというのだから、まだまだ十分すぎるほど過保護なのだが……。
もちろん、それに全面的に協力している黒鋼も大概だ。
しかもただそこにいるだけでも目立つ自分に、こっそり隠れて様子を窺うなんて真似が、果たしてできるのか。不安と疑問ばかりが膨らむ中、とにかく黒鋼は店でヤキモキしながら待つユゥイに変わり、隠密行動を余儀なくてされている。
そうこうしているうちに、まずは最初のミッションである豆腐屋に到着した。
ここで買うものは豆腐二丁。今夜はみんなで鍋をしようという口実のもと、ユゥイがウッカリ(わざと)買い漏らしてしまったものを補填するというのがファイの使命だ。
ちなみに買い物メモは以下である。
『かいものリスト
・おとうふ二丁(とうふ屋)
・はくさい1/2(青果店)
・ポテトチップス(スーパー)』
最後のポテトチップスはもちろん鍋の具材ではなく、ファイのおやつである。
ルート的にはまずは近場の商店街で豆腐と白菜を購入し、そのあと駅前の銀杏並木の並びにあるスーパーで目当てのものを買ってから帰宅、ということになるだろう。
黒鋼は魚屋の真横に立ててある『不審者を見かけたら110番』という看板にしゃがんで身を隠し、順調に豆腐屋に到着したファイの姿を確認すると、報告のために携帯を取り出した。
が、なぜかファイは豆腐屋を素通りした。
(おい、どうした? 豆腐だ、まずは豆腐を買え!)
必死でココロ通信を試みるが、もちろんファイには届いていない。
彼は豆腐屋を通り過ぎ、白菜を買うはずの青果店すらスルーすると、商店街を出て駅前の通りに出た。
ヒヨコのような金髪頭を追いかけて、黒鋼も広い通りへ足を向ける。彼は裸の銀杏の枝を見上げ、「キラキラしてないねー」と呟きながらスーパーの手前の喫茶店に入った。
(喫茶店!? なんでだ!? おまえんち喫茶店だろ!! なんでわざわざ入るんだ!? しかもこんな近場に!! もう疲れたのか!?)
訳が分からないながらも、ファイが窓際の席につくのを確認してから黒鋼も店内に入る。ファイがメニュー表に夢中になっている隙をついて、植物が並ぶ仕切りを挟んだ隣の通路に席を陣取ると、念のため仕込んであった新聞紙を開いて顔を隠しながら(すでにマスクとグラサンはしているが)横目でファイを窺った。
「お客様、メニューはお決まりですか?」
ファイの元に、ユゥイと似たようなギャルソン服の男がやって来る。なかなかイケメンだ。なぜか黒鋼の眉間の皺が深くなった。
「うーんと、この、バナナにチョコとクリームいっぱいのやつは」
「ショコラバナナのフレンチトーストでございますね」
「ちょこらばななの」
「ショコラバナナでございます」
「はれんちとーすと」
「フレンチトーストでございます、お客様」
(ああくそ! 別にいいだろ! ちょっと噛んじまったぐれぇでゴチャゴチャ言うな! 可愛いじゃねぇか!!)
「あの、お客様」
(だいたいチョコラでもいいだろうが! チョコかかってんだからチョコラでも別にいいだろ細けぇな!)
「お客様、メニューはお決まりでしょうか……?」
(まぁでもはれんちってのは不味かったな、そいつは仕方ねぇな)
「お客様ー!」
「うるせぇ!! 黙って水持ってこい!!」
一瞬、店内が静まり返った。
しまった、と思ったが、ファイは何度かキョロキョロと視線を彷徨わせ、「なんかおっきい声がしたー」と言うだけですぐにまたメニュー表に夢中になった。
危なかった……。
黒鋼は震えあがっているウエイトレスの女に、声を潜めて「なんでもいいから茶ぁ持ってこい」とだけ言って下がらせる。(水はすでに置いてあったので)
その間もファイとイケメンの攻防、いや、口防は続いていた。
「ちょこ……ショコラバナナのやつの、かろりーはなんキロですかー?」
「620キロカロリーとなっております」
「うーむむ……じゃあこっちの赤いシロップのは」
「フランボワーズソースのフレンチトーストでございますね。そちらは588キロカロリーでございます」
「うーん……かろりーが高いですねー」
(なんだ……? あいつダイエットでもしてんのか? 必要ねぇだろ)
ファイはやたらとカロリーを気にして、次から次へとスイーツを指さしては店員に尋ねている。
「お客様、カロリーが気になるようでしたら、こちらのモンブランはいかがでしょう? 当店のスイーツでは最もカロリーの低い、235キロカロリーとなっておりますが」
「んー……うん、じゃあそれにしようかなー」
「かしこまりました」
ようやく解放された店員は、少しゲッソリした面持ちで店の奥へ引っ込んで行った。
やがて運ばれてきたモンブランを食べて、ファイは「ユゥイのが美味しいー」と失礼なことを言っている。
黒鋼は彼が食べるのをある程度見届けたあと、まったく口をつけずに冷め切ってしまった紅茶と、店員に言ってファイのテーブルの分の会計を済ませて店を出た。(どんな人間が支払ったかは絶対に言うなと口止めしといた)
そしてまた電柱の陰に身を寄せて、ファイが店から出てくるのを確認する。
「このお店ってタダなんだー凄いなー」
ファイは呑気に言うと、また通りを歩きはじめる。ちょうどスーパーがあるのはこの先だ。もしかしたら重量的に軽いものから先に済ませる作戦なのかもしれない。
どうせ同じだけ距離を歩くなら、白菜や豆腐を持って移動するより確かに効率がいい。意外と考えてるんだな……と感心する黒鋼だったが、なぜかスーパーをスルーしてのこのこと歩いて行くファイに衝撃を受けた。
(お、おい! スーパー通り過ぎてんぞ! おまえの好きなポテトチップスはそこだ! そこだぞ!!)
彼は一体どこへ向かおうとしているのか、黒鋼はそれを追いかけながらポケットから携帯を取り出し、ユゥイの番号にかける。
『ちょっと、いつまで待たせるんですか。あんまり遅いから豆腐屋まで見に行っちゃったじゃないですか』
「うるせぇ! おまえの兄貴は一体なにを考えてやがるんだ!」
どういうことかと不審そうなオーラを出すユゥイに、黒鋼はたった今起こった喫茶店での出来事を簡潔に伝えた。
するとユゥイは「あぁ~」と納得したような声を上げる。
「なんだ? どういうことだ?」
『サクラちゃんが最近カロリーを気にし始めたんですよ。女の子ですよねぇ。で、うちのメニューは全体的にカロリーが高いから、少しレシピを見直そうってことになって』
女性のお客さんが圧倒的ですからね、と言うユゥイに黒鋼も納得する。
つまりあれはちょっとした敵情視察だったというわけだ。
そんなことを話しているうちに、ファイがコンビニに入るのを見て、黒鋼はひとまず通話を切った。
流石にコンビニは店内が狭すぎて中に入れないでいると、すぐに出てきたファイはなぜか手に巨大なコッペパンを手にしていた。
「これこれー! このおっきいパンはここじゃないとないんだよねー!」
一体なんのつもりだろうか。さきほど喫茶店でモンブランを食べていたはずだが、腹でも減っているのか。
再び歩き出したファイの後をつけながら首を傾げていると、彼はひょいっと横道にそれて姿を消した。
少し小走りで追いかければ、そこは大きな公園だった。
公園で優雅にコッペパンを食うつもりなのか、とにかく茂みや太い木が多くある空間はまぁまぁ身を隠しやすい。
曲がりくねった道を鼻歌を歌いながら歩くファイから僅かに距離を取り、茂みの向こうを腰を屈めて移動する。
平日の昼間、公園内はあまり人がいなかった。季節的にこの寒さではOLやサラリーマンも外で弁当をつつく気にはなれないのかもしれない。
「ふー、けっこう歩いたなー」
やがてファイと尾行中の黒鋼がたどり着いたのは公園の中央だった。開けた空間の真ん中に噴水があり、その周りを丸く縁取るように等間隔に設置されたベンチにファイが腰かける。
黒鋼はそのベンチから3メートルほど離れた背後の木に身を隠した。思いっきりはみ出ているが、とりあえず気合いで気配を殺す。
今からコッペパンタイムが始まるのだろうか。ひとまずユゥイに状況メールでもするかと携帯を取り出しかけたところで、ファイの足元に一匹の鳩がやってくる。
「あ、いたいたー! 鳩先輩、パン買ってきましたー!」
おまえはヤンキーのパシリか……。
目を見張る黒鋼の視界の先で、ファイは千切ったパンを鳩に与える。気配を察知した他の鳩たちがどんどん集まり、彼の周りに群がり始めた。
「うふふ、慌てなくてもいっぱいあるからねー」
ポッポポッポと忙しない鳩たちにパンを撒きながら、ファイが楽しそうに笑っている。あれは鳩用のパンだったということか。
全てのパンを千切り終えても、鳩たちはファイの側を離れなかった。腕にしがみついたり、肩に乗ったり、膝の上でくつろぎだす鳩も現れだして、すっかり手懐けている。
「鳩先輩も寒いんだねー。くっついてるとあったかいー? あ、そうだ」
ファイは首に巻いているマフラーの中に手を突っ込むと、そこからズルリと何かを取り出す。それは黒鋼がクリスマスの夜に贈った、木製のオルゴールペンダントだった。
「いいもの見せてあげるー。これね、可愛い音が鳴るんだよー」
黒わんにもらったの、と言って笑いながらネジを巻く姿に、黒鋼はジン……とした。ああやっていつも身に着けているのか。ゆったりとした公園の風景に、オルゴールの可憐なメロディが溶けるように馴染む。鳩たちは首を傾げ、ファイはのんびりと身体を左右に揺らして曲に聞き入っていた。
(ほっといても大丈夫なのかもしれねぇな……)
もしかしたら、普段ほとんど一人で外に出してもらえなかったファイは、散歩気分で初めてのお使いを満喫しているのかもしれない。
黒鋼は肩から力が抜けるのを感じて小さく笑った。
晴れ舞台だなんだと、黒鋼やユゥイがこうして気を張らずとも、彼は自分の思う通り、気ままに一人の時間を過ごしている。
黒鋼がそっとこの場を去ったとしても、ファイはちゃんとメモの通りに必要なものを購入して、無事に帰って来るに違いない。
ならば先に店に戻って、ファイを驚かせよう。彼は黒鋼が来るのは晩飯時だと思っているはずだ。だからこんな早い時間に来ている姿を見たら、きっと喜んでくれるに違いない。
そうと決まればとっとと帰ろうと、黒鋼が身を隠していた木から離れかけたとき、遠くから数人の男がファイに向かって歩いてくるのが見えた。
(なんだ……?)
彼らは鳩まみれのファイを見ると、「オー」とか「イエー」なんて浮かれた声を上げて笑顔を浮かべる。全員外人だ。
旅行者と思しきその外人たちは、大きなリュックを背負って地図を手にファイに話しかけた。驚いた鳩が一斉に飛び去ってゆく。
「Excuse me, I want to go to the station, where should I go?」
※すんません、駅に行きたいんですけど、どっちに行ったらいいですかね?
「わぁ……! が、ガイジンさんだぁ……どうしよー!」
明らかに驚いているファイは、咄嗟に立ち上がると不安そうな表情を浮かべる。
いや、おまえも見た目は外人だぞ、と思いはしたがファイもユゥイも日本育ちのはずだ。日本語すら拙いファイが外人を相手にできるはずもなく、しかもその中の一人が思い切りファイの肩を抱き寄せるので、黒鋼は額に青筋を立てると木陰からベンチに向かって一歩踏み出した。そのとき。
「In order to go to a station, please come out of this park and turn to the left immediately!」
※駅に行くためには、この公園を出てすぐに左へ行けばいいですよー!
ズサァッと音を立てて黒鋼は派手にこけた。その拍子にサングラスとマスクが思いっきりズレる。
「喋れんのかよ!! しかも流暢だなおい!!」
「あれー? 黒わんどうしてこんなところにー?」
突然ツッコミと共に姿を現した(しかも地面に膝をついている)黒鋼に、ファイは青い瞳を丸く見開いて驚いた。
駅の方向を教えられた外人は、またしても「オー、イエー」と声を上げるとファイに向かって手の平を翳す。
「イエーイ!」
ファイは笑顔で彼らとハイタッチして、去ってゆく姿に手を振ったあと、改めて黒鋼の方を向いて瞬きを繰り返した。
「黒わん、そんなとこにお膝ついたら汚いよー」
「くそ……」
「転んじゃったのー?」
黒鋼の苦労など知りもしない彼は、ベンチを迂回して側までやってくると、「はい」と手を差し出してくる。
一瞬叩き落としたいような気もしたが、素直に手を取り立ち上がる。
「きぐうだねー! オレもね、いまお買い物のついでにお散歩してたのー! 黒わんは? お仕事お休みだったのー?」
ずっとおまえをストーキングしていたんだとは、口が裂けても言えなかった。
こうなったらもう変装(?)も意味がない。ズレているサングラスとぶら下がっているだけになってしまったマスクを取り去り、ポケットに押し込めた。
「お、おう……俺も散歩だ。おまえんとこに行くついでにな」
「あれー? でも今日は夜じゃないと来れないって……」
「……急に時間が開いた」
「そうだったんだー!」
ファイは嬉しそうに黒鋼の胸に飛び込むと、ぎゅうっとしがみついてきた。
結局、作戦は失敗に終わってしまったが、彼が一人でも十分やって行けるくらいには逞しいということが分かっただけでも、きっとユゥイも安心するだろう。
それにしても、やっぱり自分には隠密行動は無理だったなと、黒鋼は苦笑しながらファイの頭をグリグリと撫でた。
「立派だな、おまえは」
「りっぱー? えらいってことー?」
「そうだ。おまえはえらい」
「えへへー」
ファイは一体なにを褒められているのか分からない様子だったが、頬を赤らめて照れ笑いを浮かべた。
そしてその後、黒鋼とファイは一緒に買い物をしながら、結局揃って店に帰ることになったのだった。
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