2025/09/19 Fri 海が見える中庭で、ベンチに腰かけた兄は夕空を見上げていた。 温い風がほんのりと潮の香りを運んでくる。普段は嗅ぎ慣れないそれに、酷く遠い世界へ迷い込んでしまったような、そんな不安に胸が締め付けられるような気がした。 ボクは彼が腰かけるベンチに一歩一歩、確かめるように近づくと、肘掛に手をかけた。兄はボクと同じ、だけどどこか垢抜けない無邪気さを残した顔を上げる。 彼の膝の上には、幼い頃よりもずっとボロボロに朽ち果てた『黒わん』が行儀よく座っていた。 「お兄さん、だぁれ?」 兄は目を丸くして、瞬きを繰り返しながら小首を傾げた。 無理もない。離れ離れになってからおよそ10年。その間、ボクらは一度も顔を合わせていない。 何も言えずにいるボクに、兄はもう一度「だぁれ?」と問いかけてくる。 まるで幼い子供のような口調に戸惑うボクに、兄は不安そうに表情を曇らせた。 「ファイ」 ボクは震える声で兄の名を呼んだ。兄は自分の名前にピクリと反応して、うん、と頷いた。 「ボクが分かる?」 兄は一言「知らない」と言って首を振った。 ボクは一度強く拳を握りしめてから、彼の正面に回って膝をつく。黒わんに添えられている白い手をそっと取って、両手で包み込むようにして緩く握った。 「ボクは、ユゥイ。遅くなっちゃったけど……会いに来たよ」 「ユゥイ?」 兄の瞳に、はっきりと不審そうな色が浮かんだ。彼は「うぅん」と赤子がぐずるような声を上げて、先刻よりも強く首を振った。 「違うよ。お兄さんはユゥイじゃない」 「どうして?」 「だって、ユゥイはもっと小さいもん。小さくて、すぐに泣いちゃうの。だからオレが守ってあげなくちゃ」 「……ボクは」 ユゥイは、もう小さくもなければ泣き虫でもない。 兄は分からないのだ。あれから10年もの時が過ぎて、彼もボクも大人になった。髪も伸びたし、背も伸びた。声も変わった。 そうやって、ボクらは一人の大人の男として再会するはずだった。 だけど、兄は今もあの星灯りの部屋に取り残されたままだった。 いや、むしろあの頃よりもずっと……。 やっぱりあの時、彼を残して行くべきではなかった。何もできなかったと分かってはいても、それでも。 ボクにできたのは、せいぜい彼の大事な黒わんを置いていくことだけだった。 あの日、ボクは大人になることを決めた。ファイを思って泣くことをやめた。一人でも生きていけるように、寂しくても泣かないように。 彼は言ったのに。忘れないでと、ボクに言ったのに。ボクは、忘れなければ生きていけなかった。 「ごめんね」 ボクは兄の手を握りしめたまま、その膝に額を預けて涙を流した。 ああ、ボクも同じだ。大人になんかなれなかった。壊れてしまった兄は綺麗なままで、ボクはこんなにも狡く、薄汚れた人間だった。 ボクの中で兄は、いつしか忌むべき過去の象徴になっていた。思い出したくなかった。 ボクは周りの大人たちのせいにして、兄から、逃げたんだ。 「ごめんなさい……ファイ、ごめんなさい……」 肩を震わせて泣くボクに、兄は少しだけ身を屈めるとそっと頭に触れてきた。顔を上げたボクに、彼は優しく微笑んだ。 「やっぱり泣き虫だね。ユゥイは」 「ッ……ぅ……」 涙が止まらなかった。兄と離れてからずっと堪えていたそれが、後から後から溢れて止まらなかった。 ボクは兄の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。兄はそんなボクを抱き留めて、幾度も伸びた金髪を梳かすように撫でる。 「大丈夫。もう泣かなくていいんだよ」 「ッ、ファイ……」 「また会えて嬉しい。ずっと大好きだったよ、ユゥイ」 大好きだから、寂しい。ずっとずっと。 寂しかった。 小さくて泣き虫だったボクを、兄はずっと愛していてくれた。 黒わんだけを側に置いて、他の誰に縋るでもなく、幼い心のまま、一人で。 なら、ボクはもう絶対に離れない。今度はボクが、彼を守る番だった。 「帰ろう、ファイ。また一緒に暮らそう?」 そう言うと、彼は嬉しそうに頷いて、笑った。 *** 暗い店内に、点滅するツリーの電飾だけがぼんやりと浮かび上がっていた。 その微かな光の中で、ファイが長椅子に上半身を横たえて眠っている。手にはしっかりと、木製のオルゴールペンダントを握りしめて。 「驚いたでしょう?」 ファイの身体にコートをかぶせてやりながら、カウンターに腰かける黒鋼にユゥイが微笑みかけた。 黒鋼はブランデー入りの紅茶のカップを傾け、あの不思議な現象について目だけで問いかける。ユゥイはゆっくりとカウンター席に近づくと、一席分のスペースを開けて隣に腰かけた。 「常連さんの中に、自治会長の娘さんがいるんです。ほら、よくそこの席で静かに本を読んでいる……」 「ああ、あの黒髪の」 この店に初めて訪れた時にもいた少女のことだ。名前は知世だったか。 ファイが大親友だと言って手を振っていたのを思い出す。まだ直接話をしたことはないが、お茶とケーキをお供に読書をしているのをよく見かける。 「彼女にちょっとお願いして、ひと肌脱いでもらったんですよ」 「職権乱用じゃねぇのか……?」 「クリスマスですから。言いっこなしです」 そういう問題ではないと思うのだが……。 最終的にファイは大喜びだったし、なんというか、黒鋼もすっかりあの空気に感化され、つい手を出してしまう結果になったわけだが。 真っ直ぐに懐いてくるファイをただただ可愛いと思っていたはず気持ちが、まさかあのような形で姿を現すとは、夢にも思わなかった。未だに少し信じられない。 (ガキに惚れちまったってことになるのか、俺は……) ファイが大人なのは見た目だけだ。しかも歴とした男性でもある。 ただなんとなく、彼は性別という枠にはハマらないような気もした。言い訳かもしれないが、ファイはファイであって男でも女でもない。そんな考えがすんなりと自分の中に浸透するのが不思議だった。 とにかく、勢い余って抱きしめて口づけてしまった自分の大胆さに、今更になって恥ずかしいような、むず痒い気持ちになった。 「少し顔が赤いですけど、ブランデー入れすぎましたか?」 「……かもな」 誤魔化すように目を逸らし、視線を長椅子で眠るファイに向けた。 はしゃぎすぎて疲れた彼は、ここに帰ってきてすぐにあそこで寝入ってしまった。その手に握られるペンダントに、自然と口元が綻ぶ。 「ボクも泣くと思ってました」 ユゥイもまた、眠るファイに目を向けて微笑んでいた。 「きっとお仕事で遅れているんだって、そう言ったら珍しく我慢したんです。少し前の彼だったら、大泣きして自分の部屋に閉じこもって、出てこなかったんじゃないかな」 「意外だな。少し拍子抜けした」 「……ファイは、大人になろうとしているのかもしれません」 その先を続けようとして、ユゥイの唇が微かに震えた。でも、彼は何も言わない。ただ静かに睫毛を伏せるだけだった。 黒鋼はその横顔をじっと見つめ、すっと目を細める。 「言えよ」 「…………」 「ここんとこずっとそうだな。言いたいことがあるんじゃねぇのか?」 ユゥイは鼻から小さく息を漏らすようにクスリと笑った。 微かな電飾の中で、その微笑みはひどく儚いものに見える。イルミネーションの強い光の中で笑っていたファイとは違う、深い翳りの中に、彼はあえて身を置いているような気がした。 「少し、昔話をしてもいいですか?」 黒鋼が無言の肯定をすると、彼はカウンターの上で両手を握りしめ、俯きながらゆっくりと話し始めた。 「……ボクらの父親は、ボクらが生まれてすぐに死んだんです」 「…………」 「母は幼いボクとファイを施設に預けて、そのあと自ら命を絶ちました」 死んじゃうからと、そう言って父親の石を放り投げ、母親の石を遠ざけたファイの姿を思い出す。やはりあれは彼らの両親のことだった。 「酷い環境でした。少しでも聞き分けのない子供や、粗相をする子供には容赦なく暴力がふるわれる。ボクは鈍臭くて、泣き虫で、すぐに食器を割ったり、食べ物を零しては叱られていました。そんなとき、必ずファイが前に出て、ボクを庇ってくれたんです」 ファイが前に出ることによって、暴力の矛先はいつも彼に向けられたという。 時にはユゥイが失敗する前に自分からわざと物を壊したり汚したりして、憎まれ役を買って出ていた。 「ボクを守るために兄は……ファイは、いつも傷だらけだった。身体中痣だらけになって、それでも笑ってボクを抱きしめてくれた」 握られたユゥイの手が、微かに震えている。劣悪な環境に身を置いていた頃を、傷だらけで笑うファイを、思い出して。 そんな生活の中、ファイとユゥイのどちらかを引き取りたいと申し出た老夫婦が現れた。 「父の遠い親戚にあたる人でした。だけどその家庭は決して裕福というわけではなく、一人しか引き取れないと言って、選ばれたのはボクでした」 活発で、前に出るタイプのファイよりも、その夫婦は物静かであまり自己主張をしないユゥイを好んだ。共に生まれ、寄り添って生きてきた双子は、そこで離れ離れになることを余儀なくされた。 『お別れしなきゃいけないの。大好きだから』 あの日、ファイはそう言った。 何かしら事情があったことは察していたが、こうして聞かされた詳細に、黒鋼はやり場のない憤りを覚えた。 背中に庇うべき存在がいなくなったとしても、その後も虐待が続いたであろうことは容易に想像できる。 「聞いてもいいか」 「どうぞ」 「俺が初めてここに来た日、おまえは言ったな。自分の責任だ、と」 「言いました」 「あいつの頭ん中がガキのまんまなのは……」 ユゥイはどこか遠くを見るような目をしながら、ぽつりと零す。 「兄は、壊れてしまった」 ファイは要領のいい子供だったと、ユゥイは続けた。 「そそっかしいボクとは違って手先も器用で、頭のいい子供だった。だからボクさえいなければもう叱られることも、暴力をふるわれることもないだろうと、そう思っていたのに」 ユゥイを庇い続けているうちに、ファイは施設の人間から特に問題のある子供として認識されてしまった。躾と称した理不尽な虐待は、やはりその後も続いた。 一人ぼっちになった淋しさと、自分を傷つける大人しかいない環境に身を置き続けた彼の心は、水の流れが岩を削るように擦り減っていった。 そして壊れた。 「兄と再会したのは二十歳の頃です。ずっと遠い街で暮らしていたボクは、引き取ってくれた老夫婦が他界したのを機に家を出ました。一人になると、いつも思い出すのは兄のことばかりだった。彼がどうしているのか、それだけでも知りたくて、探しました」 真っ先に問い合わせた施設はとっくの昔に解体されていたが、役所や興信所を頼りに探し出したファイは、町はずれの精神障害者施設で生活訓練を受ける日々を送っていた。 「兄は、最初はボクが分からなかったみたいです。彼の中では時間が止まっていて、ボクはまだ小さな姿のままだったから。だけどちゃんと分かってくれた。情けない話ですが、いい歳をして泣いてしまったボクの顔を見て、ユゥイって、呼んでくれたんです」 その後ユゥイはファイを引き取り、二人で細々と暮らし始めた。 元々料理やスイーツを作るのが趣味だったユゥイは、飲食店で働きながら学校を卒業し、この店は育ての親である老夫婦が残した、僅かばかりの遺産でオープンさせたという。ファイの雑貨作りの技能は、訓練施設で身につけてきたものらしい。 そこまで話し終えたユゥイは、胸の痞えが取れたようにホッと息をつく。 「長くなってしまいました。だけど、どうしても聞いてほしかった」 彼は黙って耳を傾けていた黒鋼の目を、探るように真っ直ぐに見つめる。そして、 「同情しますか?」 そう、静かに問いかけてきた。 「そりゃするだろ」 ユゥイの考えていることは分からない。 何を試そうとしているのかも。ただ、彼の機嫌を窺うような答え探しはしたくなかった。 黒鋼が正直に述べると、彼は目を逸らし、下唇を一瞬噛み締めた。 「ファイに付き合ってくれているのは、可哀想だから、ですか」 「何が言いたい?」 「……彼は見た目だけなら立派な大人だ。だけど中身は違う。優しくしてくれる人も沢山いるけれど……一時の同情だけで手を伸ばすなら、やめてほしい」 いつか絶対に、抱えきれなくなる。 ユゥイの言葉を聞いて、そういうことかと、黒鋼は静かに息を漏らした。 どんなに打ち解けた素振りを見せていても、彼はどこかでジャッジを下さなければならない。誰かがファイを傷つける前に。 けれど黒鋼は、その言葉の裏側に彼の苦悩を垣間見たような気がした。 「それは、おまえのことじゃねぇのか?」 「!」 肩を揺らし、目を見開くユゥイに黒鋼は続ける。 「償ってる気でいるのか? ありもしねぇ罪を」 「…………」 「俺はな、この店はおまえら双子が幸せにやってることの象徴だと、そう感じてたんだよ。だが、違ったのかもしれねぇな」 訪れる客をユゥイが笑顔でもてなし、ファイが陽の当たるテラスで雑貨を作る。 時間が空けばサクラや小狼たちと食事をしたり、お茶を飲んだり、ファイが何か悪いことをすれば叱ったりもして。 だけど最後には必ず笑顔で溢れる。ファイと接するユゥイの表情はいつも優しくて、触れる指先に愛情が滲み出ているのを見るだけで、黒鋼もまた温かな気持ちになっていた。 けれど。 「ここは檻だったのか? あれを外に出さねぇように、誰の目にも触れねぇように、ただ囲うための」 ユゥイは何も言わなかった。 彼も分かっていなかったのかもしれない。ファイが暴力を受け続けたのも、壊れてしまったのも、何もかもが自分の責任だと、そうでなければならないのだと、背負い込むことで自分を保とうとしている。 彼はこの可愛らしい雑貨と甘い香りに包まれた箱庭で、死ぬまでずっとファイを囲い続ける気でいるのか。けれど、縛られるのはファイだけではない。守ろうと足掻くユゥイ自身もまた、ここから出て自由を得ることはできないのだから。 「ボクは……」 そのまま口を閉ざしてしまったユゥイに、少し強くつつき過ぎたかと黒鋼もまた口を噤んだ。 黒鋼はファイと出会って、接している中で、誰かを何よりも大切に愛おしむ気持ちを知った。真っ直ぐに慕われる心地よさを知った。 光の道を手を繋いで歩きながら確信した思いは、夢から覚めたようなこの薄暗い空間に身を置いても、変わることなく胸の中に息づいていた。 最初は確かに同情だったかもしれない。大好きな黒わんと離れたくなくて泣いていたファイは、ただ弱くて可哀想な生き物にしか見えなかった。 でも今は違う。黒鋼自身がファイの側にいたいと思っている。いつか彼が黒鋼と黒わんは別のものだと理解する日が来るのだとしたら、そのとき彼の目に映っている自分は、ただの一人の男でありたいと。 それは決して雲を掴むような、途方もない話ではないような気がする。近い将来、きっと。 「あいつは、俺たちが思ってるよりもずっと大人なのかもな」 「え……?」 思いつめたような顔を上げるユゥイに、黒鋼は小さく笑った。 ユゥイは知らない。ファイがもうサンタクロースに夢を見ていないこと。彼は必死でファイを守っているつもりなのだろうが、ファイもまた、彼の夢を守ろうとしている。 ユゥイには内緒。ファイと約束したから、彼にそれを教えてやることはできないけれど。 「おまえたちの過去は悲惨だ。誰だって聞けば同情のひとつくらいするだろうよ」 「…………」 「だけど俺は、羨ましかったのかもしれねぇな」 「羨ましい?」 黒鋼は、再び眠っているファイに目を向けた。 「泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑ってよ。好きも嫌いも寂しいも、思ったときには口にして、身体全部で表すじゃねぇか」 大人になってしまった自分たちは、そう簡単に真っ直ぐ生きることができなくなってしまった。あらゆる感情全てに相応の理由をつけなければ、確信にさえ至れないことだってある。 ファイと出会って、そのむき出しの感情に触れているうちに、黒鋼はいつの間にか不器用にしか生きられなくなっていた自分に気づかされてしまった。 「眩しいな。目が眩んじまいそうだ」 だけど、同じ光の中にいたいと思う。その裏側にある悲しみも、傷も、孤独も、全てひっくるめて、今ここに生きているファイの側に在りたいと。 ユゥイが小さく息を飲む。彼は何かに気づいたように茫然とした表情を浮かべ、それからまるで棘が抜けていくようにゆっくりと、息を吐き出しながら微笑んだ。 そして噛み締めるように、確かめるように言った。 「ボクたちは、幸せなんですね」 *** 黒鋼は眠くてぐずるファイを抱えて二階へ行ってしまった。 今夜はもう遅いから、適当に休んでくれと言うと彼は素直に頷いていた。 一人残されたユゥイは、チカチカと点滅するツリーの電飾をぼんやりと見つめたまま、その場から動く気になれずにいた。 『眩しいな。目が眩んじまいそうだ』 黒鋼の言葉が頭から離れなかった。そして気づかされた。 (眩しかったんだ) 時々、無性にファイから目を逸らしたくて仕方がない瞬間があった。 寂しいと、悲しいと、彼はそれがどこであろうと、誰の前であろうと隠すことなく涙を流しては感情をさらけ出す。そんな真似、大人にはできない。 ファイがこんな風になってしまったのは、全て非力で守られることが当たり前だった自分のせいだと、今までのユゥイはただ自らを責めるばかりだった。 泣いているファイを見ているのは辛くて、彼の嗚咽を聞いていると、まるで「おまえのせいだ」と責められているような気がして。 ユゥイは初めて黒鋼がこの店に来たときのことを思い出した。彼を黒わんだと思い込むファイは、帰り際に泣きながら「一緒に行く」と言った。 あのときの胸の痛みは、きっと生涯忘れられない。 そう思っていた。 幼い日、あの星灯りの部屋でファイは涙を流すことも、ユゥイを責めることも、ましてや「一緒に行きたい」なんて一言も、決して漏らすことはなかった。 けれどきっと悲しかったに違いなかった。一緒に行きたいに違いなかった。 幼かったはずの彼は、自分の感情を全てその小さな身体の中に押し込めて笑っていた。 だから、寂しいと言って黒鋼に泣き縋る姿が辛かった。可哀想で仕方がなかった。 兄はこんな人間じゃなかったと、もっと強かったはずだと、こんな風にしてしまったのは、他でもないボク自身なのだと。 だけど。 (ボクは、喜んでいいんだ) ファイが素直に感情をさらけ出せるようになったことを。 彼はもう何も我慢する必要はない。我慢なら、もう沢山したから。だからあとは、笑って泣いて、ただ生きればいい。 ここに可哀想な子供なんかいない。ファイはただあるがままに、真っ直ぐに生きているに過ぎなかった。 (今、ボクらは幸せなんだ) ずっと暗い場所にいるのだと思っていた。目に飛び込んでくる光の眩しさに目が眩んで、自分も同じ光の中にいるのだということに、気づけなかった。 もし黒鋼が一時の気まぐれで情をかけているのだとしたら、いつか必ず傷つけることになる。ファイが彼に懐くほどに、微笑ましいと感じるのと同じだけそんな不安も膨らんでいた。 黒鋼はああ見えて優しくて、お人好しだ。信用するに値する人間だと分かってはいても。何か裏があるのではないかと、どこかでは信じきれないでいる自分もいた。 だから彼の真意を真っ向から確かめようとしたはずなのに、逆に思い知らされるなんて。少し情けない気持ちになって、思わず笑ってしまう。 今のユゥイは嘘のように心が軽くなっていた。 だから本当は、いつものようにただ冷たくあしらうつもりだったのだが。 「君はいつから泥棒にでもなったのかな」 呆れたように言うと、カウンターの奥からぬっと姿を現したのは小龍だった。 カーキ色をしたミリタリージャケットのポケットに両手を突っ込んで、彼はいつもの無表情でカウンターを回り込むと、ユゥイのすぐ隣の椅子に浅く腰かけた。 「子供が遊んでていい時間じゃないの、分かってる?」 「やり残した仕事があったので」 「だからって裏口からこっそり入るのはどうなんだろうね」 小狼たちと一緒に帰ったはずなのに、彼は一体いつからいたんだろう。聞いたとしてもこの少年がまともに答えるとは思えなくて、ユゥイはただ横目でチラリと睨んでおくだけにしておいた。 「やり残した仕事ってなに? 掃除はもう済んだし、明日は休みだし」 問いかけるユゥイに、小龍はただ無言でポケットから手を出した。そこには、金色のリボンで飾られた黒い箱がある。 彼はそれをカウンターテーブルに置いて、指先を添えながらユゥイの側まですぅっと滑らせた。 「……ボクに?」 目を丸くすると、小龍は無言で頷きながら「開けろ」と促す。少し戸惑いながら、ユゥイはリボンを解いて包みを開けた。剥き出しになった白く分厚い包装箱をそっと開けると、丸みのあるフォルムのケースが姿を現した。 灰色の上質な手触りに指先を這わせ、ゆっくりと蓋を開ける。 「ブレスレット?」 それはロールチェーンのシルバーブレスレットだった。細身のシルエットに小さな十字架のアクセントが、頼りない電飾の灯りをキラリと弾く。 視線を小龍に向けると、彼は小さく口元だけで笑った。その大人びた微笑が、丸い瞳に残る幼さと比例してなんだか憎たらしい。 「日付が変わる前に渡したかったんですが。なかなかお話が終わらないようだったので」 「……随分と前から潜んでたんだね」 「過ごしたいじゃないですか。好きな相手と、クリスマスの夜」 「困った子だな……」 気持ちは決して嬉しくないわけではない。 だけどまさか自分が男子高校生に求愛されるなんて夢にも思っていなかったし、なかなか受け入れがたい事実でもある。 それに、今までのユゥイは自分のことにかまけていられる心の余裕がなかった。 小龍はいい子だ。助けられることも多いし、正直、誰よりもあてにしている。 けれど雇い主としての信用と、一個人としての感情は別物だった。というより、考えたこともなかった。でも。 (少しくらいは、自分のことを考えてもいいんだろうか) 死ぬまでファイのために生きるつもりでいた。それしか償うことはできないと。 けれど黒鋼はユゥイが抱えるものを『ありもしない罪』と言った。 ユゥイは償いのためにここにいたわけではなかった。ただファイを愛していたから、彼の放つ光の中に、共に在りたかった。 「ねぇ、貴方は今、幸せなんでしょう?」 おそらくほぼ最初から最後まで立ち聞きをしていたのであろう小龍が、いつになく熱っぽい眼差しを向けてくる。 「おれに守らせてくれませんか。貴方と、貴方の幸せを」 普段は何を考えているのか分かりにくい顔をしているくせに。今の彼はやけに真摯で、やけに必死だ。肌から伝わる張り詰めたような空気に、ユゥイは思わず吹き出してしまった。 「……どうして笑うんですか」 「ごめん。だって、生意気だから」 小龍はあからさまに不貞腐れたように眉間にきゅうっと皺を寄せる。なんだ、結構可愛いじゃないかと、絆されかけている自分に気づいてさらに可笑しくなった。 どうしてか、嫌じゃない。こんな風に笑える自分が。 ユゥイはケースの中からブレスレットを摘まみだすと、それを小龍に差し出した。 「つけて」 「はい?」 「普段こういうのつける習慣がないんだ。上手くつけられないから、つけて」 そう言って左腕を差し出すと、小龍は丸い目で瞬きを繰り返し、笑った。 「なんで笑うの」 「いや、なんだかんだで弟気質だなと」 「しょうがないよ。ボクは甘やかされて育ったんだ」 「いいですよ」 ブレスレットを手の平に受け取った小龍は、苦笑しながらそれをユゥイの腕にかけ、薄闇の中でも器用に留めた。点滅する電飾を弾いて輝く、銀色のそれを目線の高さまで持ち上げて、じっくり眺めてからユゥイは頷く。悪くない。 「ありがと」 短く礼を言うと、「どういたしまして」と笑う小龍に向かって身を屈めた。そして、目を見開く彼の頬に一瞬だけ、唇を押し付ける。 ちゅ、という微かな音が、妙に恥ずかしい。一体何をしているんだろう。 「ッ、ぁ、あの」 「……お返し、これでよかったかな」 「……できればもっと別の場所の方が」 「調子に乗るな」 真剣な表情で両手を伸ばしてくる小龍の額を、手の平でペシッと叩く。ユゥイは立ち上がると、逃れるようにカウンターの向こうに回り込んだ。眉間に皺を刻む少年は、お預けを食らった子犬のようにむっと唇を尖らせる。 「この先は、そうだな……高校を卒業するまでに、ボクの身長に追いついたら考えてあげなくもないよ」 「……追い越します。必ず」 「そこまでは言ってないけど……まぁ、頑張って」 薄明りの中で瞳を燃え上がらせる小龍に、ユゥイは大きく息をつきながら情けなく眉尻を下げて笑った。 ←戻る ・ 次へ→
温い風がほんのりと潮の香りを運んでくる。普段は嗅ぎ慣れないそれに、酷く遠い世界へ迷い込んでしまったような、そんな不安に胸が締め付けられるような気がした。
ボクは彼が腰かけるベンチに一歩一歩、確かめるように近づくと、肘掛に手をかけた。兄はボクと同じ、だけどどこか垢抜けない無邪気さを残した顔を上げる。
彼の膝の上には、幼い頃よりもずっとボロボロに朽ち果てた『黒わん』が行儀よく座っていた。
「お兄さん、だぁれ?」
兄は目を丸くして、瞬きを繰り返しながら小首を傾げた。
無理もない。離れ離れになってからおよそ10年。その間、ボクらは一度も顔を合わせていない。
何も言えずにいるボクに、兄はもう一度「だぁれ?」と問いかけてくる。
まるで幼い子供のような口調に戸惑うボクに、兄は不安そうに表情を曇らせた。
「ファイ」
ボクは震える声で兄の名を呼んだ。兄は自分の名前にピクリと反応して、うん、と頷いた。
「ボクが分かる?」
兄は一言「知らない」と言って首を振った。
ボクは一度強く拳を握りしめてから、彼の正面に回って膝をつく。黒わんに添えられている白い手をそっと取って、両手で包み込むようにして緩く握った。
「ボクは、ユゥイ。遅くなっちゃったけど……会いに来たよ」
「ユゥイ?」
兄の瞳に、はっきりと不審そうな色が浮かんだ。彼は「うぅん」と赤子がぐずるような声を上げて、先刻よりも強く首を振った。
「違うよ。お兄さんはユゥイじゃない」
「どうして?」
「だって、ユゥイはもっと小さいもん。小さくて、すぐに泣いちゃうの。だからオレが守ってあげなくちゃ」
「……ボクは」
ユゥイは、もう小さくもなければ泣き虫でもない。
兄は分からないのだ。あれから10年もの時が過ぎて、彼もボクも大人になった。髪も伸びたし、背も伸びた。声も変わった。
そうやって、ボクらは一人の大人の男として再会するはずだった。
だけど、兄は今もあの星灯りの部屋に取り残されたままだった。
いや、むしろあの頃よりもずっと……。
やっぱりあの時、彼を残して行くべきではなかった。何もできなかったと分かってはいても、それでも。
ボクにできたのは、せいぜい彼の大事な黒わんを置いていくことだけだった。
あの日、ボクは大人になることを決めた。ファイを思って泣くことをやめた。一人でも生きていけるように、寂しくても泣かないように。
彼は言ったのに。忘れないでと、ボクに言ったのに。ボクは、忘れなければ生きていけなかった。
「ごめんね」
ボクは兄の手を握りしめたまま、その膝に額を預けて涙を流した。
ああ、ボクも同じだ。大人になんかなれなかった。壊れてしまった兄は綺麗なままで、ボクはこんなにも狡く、薄汚れた人間だった。
ボクの中で兄は、いつしか忌むべき過去の象徴になっていた。思い出したくなかった。
ボクは周りの大人たちのせいにして、兄から、逃げたんだ。
「ごめんなさい……ファイ、ごめんなさい……」
肩を震わせて泣くボクに、兄は少しだけ身を屈めるとそっと頭に触れてきた。顔を上げたボクに、彼は優しく微笑んだ。
「やっぱり泣き虫だね。ユゥイは」
「ッ……ぅ……」
涙が止まらなかった。兄と離れてからずっと堪えていたそれが、後から後から溢れて止まらなかった。
ボクは兄の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。兄はそんなボクを抱き留めて、幾度も伸びた金髪を梳かすように撫でる。
「大丈夫。もう泣かなくていいんだよ」
「ッ、ファイ……」
「また会えて嬉しい。ずっと大好きだったよ、ユゥイ」
大好きだから、寂しい。ずっとずっと。
寂しかった。
小さくて泣き虫だったボクを、兄はずっと愛していてくれた。
黒わんだけを側に置いて、他の誰に縋るでもなく、幼い心のまま、一人で。
なら、ボクはもう絶対に離れない。今度はボクが、彼を守る番だった。
「帰ろう、ファイ。また一緒に暮らそう?」
そう言うと、彼は嬉しそうに頷いて、笑った。
***
暗い店内に、点滅するツリーの電飾だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
その微かな光の中で、ファイが長椅子に上半身を横たえて眠っている。手にはしっかりと、木製のオルゴールペンダントを握りしめて。
「驚いたでしょう?」
ファイの身体にコートをかぶせてやりながら、カウンターに腰かける黒鋼にユゥイが微笑みかけた。
黒鋼はブランデー入りの紅茶のカップを傾け、あの不思議な現象について目だけで問いかける。ユゥイはゆっくりとカウンター席に近づくと、一席分のスペースを開けて隣に腰かけた。
「常連さんの中に、自治会長の娘さんがいるんです。ほら、よくそこの席で静かに本を読んでいる……」
「ああ、あの黒髪の」
この店に初めて訪れた時にもいた少女のことだ。名前は知世だったか。
ファイが大親友だと言って手を振っていたのを思い出す。まだ直接話をしたことはないが、お茶とケーキをお供に読書をしているのをよく見かける。
「彼女にちょっとお願いして、ひと肌脱いでもらったんですよ」
「職権乱用じゃねぇのか……?」
「クリスマスですから。言いっこなしです」
そういう問題ではないと思うのだが……。
最終的にファイは大喜びだったし、なんというか、黒鋼もすっかりあの空気に感化され、つい手を出してしまう結果になったわけだが。
真っ直ぐに懐いてくるファイをただただ可愛いと思っていたはず気持ちが、まさかあのような形で姿を現すとは、夢にも思わなかった。未だに少し信じられない。
(ガキに惚れちまったってことになるのか、俺は……)
ファイが大人なのは見た目だけだ。しかも歴とした男性でもある。
ただなんとなく、彼は性別という枠にはハマらないような気もした。言い訳かもしれないが、ファイはファイであって男でも女でもない。そんな考えがすんなりと自分の中に浸透するのが不思議だった。
とにかく、勢い余って抱きしめて口づけてしまった自分の大胆さに、今更になって恥ずかしいような、むず痒い気持ちになった。
「少し顔が赤いですけど、ブランデー入れすぎましたか?」
「……かもな」
誤魔化すように目を逸らし、視線を長椅子で眠るファイに向けた。
はしゃぎすぎて疲れた彼は、ここに帰ってきてすぐにあそこで寝入ってしまった。その手に握られるペンダントに、自然と口元が綻ぶ。
「ボクも泣くと思ってました」
ユゥイもまた、眠るファイに目を向けて微笑んでいた。
「きっとお仕事で遅れているんだって、そう言ったら珍しく我慢したんです。少し前の彼だったら、大泣きして自分の部屋に閉じこもって、出てこなかったんじゃないかな」
「意外だな。少し拍子抜けした」
「……ファイは、大人になろうとしているのかもしれません」
その先を続けようとして、ユゥイの唇が微かに震えた。でも、彼は何も言わない。ただ静かに睫毛を伏せるだけだった。
黒鋼はその横顔をじっと見つめ、すっと目を細める。
「言えよ」
「…………」
「ここんとこずっとそうだな。言いたいことがあるんじゃねぇのか?」
ユゥイは鼻から小さく息を漏らすようにクスリと笑った。
微かな電飾の中で、その微笑みはひどく儚いものに見える。イルミネーションの強い光の中で笑っていたファイとは違う、深い翳りの中に、彼はあえて身を置いているような気がした。
「少し、昔話をしてもいいですか?」
黒鋼が無言の肯定をすると、彼はカウンターの上で両手を握りしめ、俯きながらゆっくりと話し始めた。
「……ボクらの父親は、ボクらが生まれてすぐに死んだんです」
「…………」
「母は幼いボクとファイを施設に預けて、そのあと自ら命を絶ちました」
死んじゃうからと、そう言って父親の石を放り投げ、母親の石を遠ざけたファイの姿を思い出す。やはりあれは彼らの両親のことだった。
「酷い環境でした。少しでも聞き分けのない子供や、粗相をする子供には容赦なく暴力がふるわれる。ボクは鈍臭くて、泣き虫で、すぐに食器を割ったり、食べ物を零しては叱られていました。そんなとき、必ずファイが前に出て、ボクを庇ってくれたんです」
ファイが前に出ることによって、暴力の矛先はいつも彼に向けられたという。
時にはユゥイが失敗する前に自分からわざと物を壊したり汚したりして、憎まれ役を買って出ていた。
「ボクを守るために兄は……ファイは、いつも傷だらけだった。身体中痣だらけになって、それでも笑ってボクを抱きしめてくれた」
握られたユゥイの手が、微かに震えている。劣悪な環境に身を置いていた頃を、傷だらけで笑うファイを、思い出して。
そんな生活の中、ファイとユゥイのどちらかを引き取りたいと申し出た老夫婦が現れた。
「父の遠い親戚にあたる人でした。だけどその家庭は決して裕福というわけではなく、一人しか引き取れないと言って、選ばれたのはボクでした」
活発で、前に出るタイプのファイよりも、その夫婦は物静かであまり自己主張をしないユゥイを好んだ。共に生まれ、寄り添って生きてきた双子は、そこで離れ離れになることを余儀なくされた。
『お別れしなきゃいけないの。大好きだから』
あの日、ファイはそう言った。
何かしら事情があったことは察していたが、こうして聞かされた詳細に、黒鋼はやり場のない憤りを覚えた。
背中に庇うべき存在がいなくなったとしても、その後も虐待が続いたであろうことは容易に想像できる。
「聞いてもいいか」
「どうぞ」
「俺が初めてここに来た日、おまえは言ったな。自分の責任だ、と」
「言いました」
「あいつの頭ん中がガキのまんまなのは……」
ユゥイはどこか遠くを見るような目をしながら、ぽつりと零す。
「兄は、壊れてしまった」
ファイは要領のいい子供だったと、ユゥイは続けた。
「そそっかしいボクとは違って手先も器用で、頭のいい子供だった。だからボクさえいなければもう叱られることも、暴力をふるわれることもないだろうと、そう思っていたのに」
ユゥイを庇い続けているうちに、ファイは施設の人間から特に問題のある子供として認識されてしまった。躾と称した理不尽な虐待は、やはりその後も続いた。
一人ぼっちになった淋しさと、自分を傷つける大人しかいない環境に身を置き続けた彼の心は、水の流れが岩を削るように擦り減っていった。
そして壊れた。
「兄と再会したのは二十歳の頃です。ずっと遠い街で暮らしていたボクは、引き取ってくれた老夫婦が他界したのを機に家を出ました。一人になると、いつも思い出すのは兄のことばかりだった。彼がどうしているのか、それだけでも知りたくて、探しました」
真っ先に問い合わせた施設はとっくの昔に解体されていたが、役所や興信所を頼りに探し出したファイは、町はずれの精神障害者施設で生活訓練を受ける日々を送っていた。
「兄は、最初はボクが分からなかったみたいです。彼の中では時間が止まっていて、ボクはまだ小さな姿のままだったから。だけどちゃんと分かってくれた。情けない話ですが、いい歳をして泣いてしまったボクの顔を見て、ユゥイって、呼んでくれたんです」
その後ユゥイはファイを引き取り、二人で細々と暮らし始めた。
元々料理やスイーツを作るのが趣味だったユゥイは、飲食店で働きながら学校を卒業し、この店は育ての親である老夫婦が残した、僅かばかりの遺産でオープンさせたという。ファイの雑貨作りの技能は、訓練施設で身につけてきたものらしい。
そこまで話し終えたユゥイは、胸の痞えが取れたようにホッと息をつく。
「長くなってしまいました。だけど、どうしても聞いてほしかった」
彼は黙って耳を傾けていた黒鋼の目を、探るように真っ直ぐに見つめる。そして、
「同情しますか?」
そう、静かに問いかけてきた。
「そりゃするだろ」
ユゥイの考えていることは分からない。
何を試そうとしているのかも。ただ、彼の機嫌を窺うような答え探しはしたくなかった。
黒鋼が正直に述べると、彼は目を逸らし、下唇を一瞬噛み締めた。
「ファイに付き合ってくれているのは、可哀想だから、ですか」
「何が言いたい?」
「……彼は見た目だけなら立派な大人だ。だけど中身は違う。優しくしてくれる人も沢山いるけれど……一時の同情だけで手を伸ばすなら、やめてほしい」
いつか絶対に、抱えきれなくなる。
ユゥイの言葉を聞いて、そういうことかと、黒鋼は静かに息を漏らした。
どんなに打ち解けた素振りを見せていても、彼はどこかでジャッジを下さなければならない。誰かがファイを傷つける前に。
けれど黒鋼は、その言葉の裏側に彼の苦悩を垣間見たような気がした。
「それは、おまえのことじゃねぇのか?」
「!」
肩を揺らし、目を見開くユゥイに黒鋼は続ける。
「償ってる気でいるのか? ありもしねぇ罪を」
「…………」
「俺はな、この店はおまえら双子が幸せにやってることの象徴だと、そう感じてたんだよ。だが、違ったのかもしれねぇな」
訪れる客をユゥイが笑顔でもてなし、ファイが陽の当たるテラスで雑貨を作る。
時間が空けばサクラや小狼たちと食事をしたり、お茶を飲んだり、ファイが何か悪いことをすれば叱ったりもして。
だけど最後には必ず笑顔で溢れる。ファイと接するユゥイの表情はいつも優しくて、触れる指先に愛情が滲み出ているのを見るだけで、黒鋼もまた温かな気持ちになっていた。
けれど。
「ここは檻だったのか? あれを外に出さねぇように、誰の目にも触れねぇように、ただ囲うための」
ユゥイは何も言わなかった。
彼も分かっていなかったのかもしれない。ファイが暴力を受け続けたのも、壊れてしまったのも、何もかもが自分の責任だと、そうでなければならないのだと、背負い込むことで自分を保とうとしている。
彼はこの可愛らしい雑貨と甘い香りに包まれた箱庭で、死ぬまでずっとファイを囲い続ける気でいるのか。けれど、縛られるのはファイだけではない。守ろうと足掻くユゥイ自身もまた、ここから出て自由を得ることはできないのだから。
「ボクは……」
そのまま口を閉ざしてしまったユゥイに、少し強くつつき過ぎたかと黒鋼もまた口を噤んだ。
黒鋼はファイと出会って、接している中で、誰かを何よりも大切に愛おしむ気持ちを知った。真っ直ぐに慕われる心地よさを知った。
光の道を手を繋いで歩きながら確信した思いは、夢から覚めたようなこの薄暗い空間に身を置いても、変わることなく胸の中に息づいていた。
最初は確かに同情だったかもしれない。大好きな黒わんと離れたくなくて泣いていたファイは、ただ弱くて可哀想な生き物にしか見えなかった。
でも今は違う。黒鋼自身がファイの側にいたいと思っている。いつか彼が黒鋼と黒わんは別のものだと理解する日が来るのだとしたら、そのとき彼の目に映っている自分は、ただの一人の男でありたいと。
それは決して雲を掴むような、途方もない話ではないような気がする。近い将来、きっと。
「あいつは、俺たちが思ってるよりもずっと大人なのかもな」
「え……?」
思いつめたような顔を上げるユゥイに、黒鋼は小さく笑った。
ユゥイは知らない。ファイがもうサンタクロースに夢を見ていないこと。彼は必死でファイを守っているつもりなのだろうが、ファイもまた、彼の夢を守ろうとしている。
ユゥイには内緒。ファイと約束したから、彼にそれを教えてやることはできないけれど。
「おまえたちの過去は悲惨だ。誰だって聞けば同情のひとつくらいするだろうよ」
「…………」
「だけど俺は、羨ましかったのかもしれねぇな」
「羨ましい?」
黒鋼は、再び眠っているファイに目を向けた。
「泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑ってよ。好きも嫌いも寂しいも、思ったときには口にして、身体全部で表すじゃねぇか」
大人になってしまった自分たちは、そう簡単に真っ直ぐ生きることができなくなってしまった。あらゆる感情全てに相応の理由をつけなければ、確信にさえ至れないことだってある。
ファイと出会って、そのむき出しの感情に触れているうちに、黒鋼はいつの間にか不器用にしか生きられなくなっていた自分に気づかされてしまった。
「眩しいな。目が眩んじまいそうだ」
だけど、同じ光の中にいたいと思う。その裏側にある悲しみも、傷も、孤独も、全てひっくるめて、今ここに生きているファイの側に在りたいと。
ユゥイが小さく息を飲む。彼は何かに気づいたように茫然とした表情を浮かべ、それからまるで棘が抜けていくようにゆっくりと、息を吐き出しながら微笑んだ。
そして噛み締めるように、確かめるように言った。
「ボクたちは、幸せなんですね」
***
黒鋼は眠くてぐずるファイを抱えて二階へ行ってしまった。
今夜はもう遅いから、適当に休んでくれと言うと彼は素直に頷いていた。
一人残されたユゥイは、チカチカと点滅するツリーの電飾をぼんやりと見つめたまま、その場から動く気になれずにいた。
『眩しいな。目が眩んじまいそうだ』
黒鋼の言葉が頭から離れなかった。そして気づかされた。
(眩しかったんだ)
時々、無性にファイから目を逸らしたくて仕方がない瞬間があった。
寂しいと、悲しいと、彼はそれがどこであろうと、誰の前であろうと隠すことなく涙を流しては感情をさらけ出す。そんな真似、大人にはできない。
ファイがこんな風になってしまったのは、全て非力で守られることが当たり前だった自分のせいだと、今までのユゥイはただ自らを責めるばかりだった。
泣いているファイを見ているのは辛くて、彼の嗚咽を聞いていると、まるで「おまえのせいだ」と責められているような気がして。
ユゥイは初めて黒鋼がこの店に来たときのことを思い出した。彼を黒わんだと思い込むファイは、帰り際に泣きながら「一緒に行く」と言った。
あのときの胸の痛みは、きっと生涯忘れられない。
そう思っていた。
幼い日、あの星灯りの部屋でファイは涙を流すことも、ユゥイを責めることも、ましてや「一緒に行きたい」なんて一言も、決して漏らすことはなかった。
けれどきっと悲しかったに違いなかった。一緒に行きたいに違いなかった。
幼かったはずの彼は、自分の感情を全てその小さな身体の中に押し込めて笑っていた。
だから、寂しいと言って黒鋼に泣き縋る姿が辛かった。可哀想で仕方がなかった。
兄はこんな人間じゃなかったと、もっと強かったはずだと、こんな風にしてしまったのは、他でもないボク自身なのだと。
だけど。
(ボクは、喜んでいいんだ)
ファイが素直に感情をさらけ出せるようになったことを。
彼はもう何も我慢する必要はない。我慢なら、もう沢山したから。だからあとは、笑って泣いて、ただ生きればいい。
ここに可哀想な子供なんかいない。ファイはただあるがままに、真っ直ぐに生きているに過ぎなかった。
(今、ボクらは幸せなんだ)
ずっと暗い場所にいるのだと思っていた。目に飛び込んでくる光の眩しさに目が眩んで、自分も同じ光の中にいるのだということに、気づけなかった。
もし黒鋼が一時の気まぐれで情をかけているのだとしたら、いつか必ず傷つけることになる。ファイが彼に懐くほどに、微笑ましいと感じるのと同じだけそんな不安も膨らんでいた。
黒鋼はああ見えて優しくて、お人好しだ。信用するに値する人間だと分かってはいても。何か裏があるのではないかと、どこかでは信じきれないでいる自分もいた。
だから彼の真意を真っ向から確かめようとしたはずなのに、逆に思い知らされるなんて。少し情けない気持ちになって、思わず笑ってしまう。
今のユゥイは嘘のように心が軽くなっていた。
だから本当は、いつものようにただ冷たくあしらうつもりだったのだが。
「君はいつから泥棒にでもなったのかな」
呆れたように言うと、カウンターの奥からぬっと姿を現したのは小龍だった。
カーキ色をしたミリタリージャケットのポケットに両手を突っ込んで、彼はいつもの無表情でカウンターを回り込むと、ユゥイのすぐ隣の椅子に浅く腰かけた。
「子供が遊んでていい時間じゃないの、分かってる?」
「やり残した仕事があったので」
「だからって裏口からこっそり入るのはどうなんだろうね」
小狼たちと一緒に帰ったはずなのに、彼は一体いつからいたんだろう。聞いたとしてもこの少年がまともに答えるとは思えなくて、ユゥイはただ横目でチラリと睨んでおくだけにしておいた。
「やり残した仕事ってなに? 掃除はもう済んだし、明日は休みだし」
問いかけるユゥイに、小龍はただ無言でポケットから手を出した。そこには、金色のリボンで飾られた黒い箱がある。
彼はそれをカウンターテーブルに置いて、指先を添えながらユゥイの側まですぅっと滑らせた。
「……ボクに?」
目を丸くすると、小龍は無言で頷きながら「開けろ」と促す。少し戸惑いながら、ユゥイはリボンを解いて包みを開けた。剥き出しになった白く分厚い包装箱をそっと開けると、丸みのあるフォルムのケースが姿を現した。
灰色の上質な手触りに指先を這わせ、ゆっくりと蓋を開ける。
「ブレスレット?」
それはロールチェーンのシルバーブレスレットだった。細身のシルエットに小さな十字架のアクセントが、頼りない電飾の灯りをキラリと弾く。
視線を小龍に向けると、彼は小さく口元だけで笑った。その大人びた微笑が、丸い瞳に残る幼さと比例してなんだか憎たらしい。
「日付が変わる前に渡したかったんですが。なかなかお話が終わらないようだったので」
「……随分と前から潜んでたんだね」
「過ごしたいじゃないですか。好きな相手と、クリスマスの夜」
「困った子だな……」
気持ちは決して嬉しくないわけではない。
だけどまさか自分が男子高校生に求愛されるなんて夢にも思っていなかったし、なかなか受け入れがたい事実でもある。
それに、今までのユゥイは自分のことにかまけていられる心の余裕がなかった。
小龍はいい子だ。助けられることも多いし、正直、誰よりもあてにしている。
けれど雇い主としての信用と、一個人としての感情は別物だった。というより、考えたこともなかった。でも。
(少しくらいは、自分のことを考えてもいいんだろうか)
死ぬまでファイのために生きるつもりでいた。それしか償うことはできないと。
けれど黒鋼はユゥイが抱えるものを『ありもしない罪』と言った。
ユゥイは償いのためにここにいたわけではなかった。ただファイを愛していたから、彼の放つ光の中に、共に在りたかった。
「ねぇ、貴方は今、幸せなんでしょう?」
おそらくほぼ最初から最後まで立ち聞きをしていたのであろう小龍が、いつになく熱っぽい眼差しを向けてくる。
「おれに守らせてくれませんか。貴方と、貴方の幸せを」
普段は何を考えているのか分かりにくい顔をしているくせに。今の彼はやけに真摯で、やけに必死だ。肌から伝わる張り詰めたような空気に、ユゥイは思わず吹き出してしまった。
「……どうして笑うんですか」
「ごめん。だって、生意気だから」
小龍はあからさまに不貞腐れたように眉間にきゅうっと皺を寄せる。なんだ、結構可愛いじゃないかと、絆されかけている自分に気づいてさらに可笑しくなった。
どうしてか、嫌じゃない。こんな風に笑える自分が。
ユゥイはケースの中からブレスレットを摘まみだすと、それを小龍に差し出した。
「つけて」
「はい?」
「普段こういうのつける習慣がないんだ。上手くつけられないから、つけて」
そう言って左腕を差し出すと、小龍は丸い目で瞬きを繰り返し、笑った。
「なんで笑うの」
「いや、なんだかんだで弟気質だなと」
「しょうがないよ。ボクは甘やかされて育ったんだ」
「いいですよ」
ブレスレットを手の平に受け取った小龍は、苦笑しながらそれをユゥイの腕にかけ、薄闇の中でも器用に留めた。点滅する電飾を弾いて輝く、銀色のそれを目線の高さまで持ち上げて、じっくり眺めてからユゥイは頷く。悪くない。
「ありがと」
短く礼を言うと、「どういたしまして」と笑う小龍に向かって身を屈めた。そして、目を見開く彼の頬に一瞬だけ、唇を押し付ける。
ちゅ、という微かな音が、妙に恥ずかしい。一体何をしているんだろう。
「ッ、ぁ、あの」
「……お返し、これでよかったかな」
「……できればもっと別の場所の方が」
「調子に乗るな」
真剣な表情で両手を伸ばしてくる小龍の額を、手の平でペシッと叩く。ユゥイは立ち上がると、逃れるようにカウンターの向こうに回り込んだ。眉間に皺を刻む少年は、お預けを食らった子犬のようにむっと唇を尖らせる。
「この先は、そうだな……高校を卒業するまでに、ボクの身長に追いついたら考えてあげなくもないよ」
「……追い越します。必ず」
「そこまでは言ってないけど……まぁ、頑張って」
薄明りの中で瞳を燃え上がらせる小龍に、ユゥイは大きく息をつきながら情けなく眉尻を下げて笑った。
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