2025/09/19 Fri 「黒わん、キラキラする木、知ってる?」 仕事の合間を縫って、いつものように猫の目に訪れた時のことだった。 十二月に入って寒さもいよいよ本格的に厳しくなってきたが、その日は天気もよく、テラスに出て温かなお茶を飲んでいると、いっそ少し汗ばむほどの気候だった。 「キラキラする木?」 「そうだよー。キラキラでピカピカの木だよー。黒わん、知らないのー?」 「絵本かなんかに出てくる木か?」 「ブー! 違いまーす!」 なぜかクイズの出題者気取りになっているファイは、黒鋼が正解を言い当てられないことに喜んでパチパチと両手を叩く。 「黒わんハズレたからバツゲームだねー。何がいいかなー?」 「そんなんあんのかよ……」 ファイがうーんうーんと罰ゲームとやらの内容を考えている間に、黒鋼もふとひらめく。そういえば今月はいよいよクリスマスシーズンの到来だ。 彼が言っているキラキラでピカピカの木というのは、お馴染みのあの木のことを言っているのではないか。 「ツリーのことか? クリスマスの」 「おしい」 そう言ったのはファイではなく、ケーキの乗った皿を運んできたユゥイだった。 彼が目の前にズラリを並べ始めたスイーツの数々を見て、黒鋼は思わず胸を押さえる。チョコレートケーキなどの定番品はもちろん、カボチャのタルトにミルクレープ、果物たっぷりのロールケーキにティラミスなどなど……。 見ているだけで胸焼けがして、うえ、と潰れたカエルのように低く呻く黒鋼を見て、ユゥイはなぜか楽しそうだった。 「駅前の通りに銀杏並木があるでしょう。毎年クリスマスの二日間だけ、ライトアップされるんですよ」 「イルミネーションか」 「ピンポンピンポーン!」 正解したらしたで、ファイはまた手を叩いて喜んだ。 思えばクリスマスに向けてのケーキ屋特集で地獄を見たのは、つい先月のことだ。ハッキリ言って黒鋼は、ことスイーツ関係では全く戦力にならない。 まず目の前のケーキの数々に嫌気がさしていることからも分かるように、生まれてこのかた甘いものが好きだった時期など一秒たりともないのだった。 嫌々ケーキを食べまくり、苦し紛れに書いた記事に何度ダメ出しされたか知れない。上司の壱原侑子は黒鋼が甘味嫌いであることを知っていながら、あえて反応を楽しむドSの女王である。 「思い出すだけで気分が悪くなるぜ……」 ついに表情まで青くしはじめる黒鋼にぴったりとくっついていたファイが、フォークをぎゅっと握りしめて目を輝かせる。 「ユゥイー、これ食べてもいいー?」 「もちろんだよ。黒鋼さんもよければどうぞ」 「遠慮しとく……」 「黒たんは甘いのダメなんだよねー。ユゥイのケーキ美味しいのにカワウソー」 「可哀想、だよ。ファイ」 「んー、おいしー!」 嬉しそうにタルトを頬張るファイを横目でじっとりと見つめつつ、甘いのはこの笑顔だけで充分だと感じる。 よく料理人が、作っているだけで腹がいっぱいになる、なんて言うのを聞くが、これはそれに似た感覚だろうか。甘いものは嫌いだが、甘いものを満面の笑顔で食べているファイという図は癒し効果抜群だった。 「で、そのイルミネーションがなんだって?」 黒鋼がテーブルに片肘をついて顎を乗せながら聞くと、さらにチーズケーキやモンブランを追加で運んできたユゥイが「ああ」と思い出したように頷いた。 「毎年見に行くんです。ファイと。だけど、今年はちょっと事情があって」 「……待て、その前にこのケーキは全部こいつに食わすのか?」 「まさか。ボクも食べます」 「ならいいけどよ……」 すでにタルトを完食したファイは、ロールケーキに手をつけている。テーブルいっぱいに所狭しと並べられたこれら全てを一人で食わせれば、一瞬で糖尿になりそうだ。いや、二人で食うにしてもかなりの量ではあるのだが。 ファイは華奢だが、胃袋は結構でかい。いつも一緒に食事をするときは、黒鋼と同じだけの量をペロリと平らげる。 食ったものが身にならないのは体質だろうか。 「事情ってのはなんだ? あの双子の兄貴の方とデートでもすんのか」 ファイの口元についていたクリームを優雅に指先で拭い、椅子に腰かけながら舌で舐めとるユゥイが冷やかな視線を送って寄越す。地雷と知って踏んだのは自分だが、なかなか迫力がある。 ユゥイはわざとらしく咳払いをして、自らもフォークに手を伸ばしながら話を続けた。 「今年のイヴは町内会のクリスマスパーティーに参加することになっているんです。奥様方にどうしてもと誘われているので」 「また熟女か。モテる男は辛いな」 「……クリスマス当日はここで、常連さんだけを呼んでケーキバイキングをする予定になっているので、今年はどうしてもファイを連れて行けないんです」 「すぐそこだろ。ちょっと歩けば見に行ける距離じゃねぇのか」 「あのねあのね」 ロールケーキに夢中になっていた視線をこちらに向けて、ファイが黒鋼のジャケットの袖をクイクイと引っ張った。 「いっぱい人がいるところには、一人で行っちゃダメなのー。ぶつかったり転んだりするし、悪い人もいるかもだからユゥイがダメーって」 「過保護だな」 なんて思いつつ、ファイを人ごみに放り出すのは確かに不安だ。この純粋培養がおかしな輩に引っかかろうものなら、すぐに騙されて何をされるか分かったもんじゃない。一直線であるはずの銀杏並木で迷子にもなりかねない気がした。 「それにねー、オレ黒わんと一緒がいいのー。キラキラの木、黒わんと見るんだー」 「……クリスマスか」 二日間のうち、いずれかなら時間を作ることはできるかもしれない。 ファイの中では黒わんとイルミネーションを見に行くのがすでに決定事項になっているようだし、渋ればまた泣き出すに違いなかった。 ユゥイが少しだけ申し訳なさそうに肩を竦めながら視線を送ってくる。黒鋼はポンと膝を叩いて「わかった」と了承する。 「ほんとー? わぁい!」 「いいんですか?」 「その辺ブラつくぐれぇの時間はなんとでもなる。ただし、ケーキ以外にも食えるもん作っとけよ」 「それはもちろん」 頷いたユゥイはホッと息をつきながら申し訳なさそうに苦笑していた。ファイは嬉しそうにニコニコしながら、フォークでモンブランの上に乗っている栗を刺し、油断していた黒鋼の口にスポッと入れる。 「むが!? て、てめ! なにしやがる!!」 一瞬で口の中にあま~い砂糖と栗の味が広がった。思いっきり顔を顰めて睨み付けても、ファイは嬉しそうにまた手を叩く。 「バツゲームだよー! だって黒わん一回で正解できなかったもーん」 「こ、このやろう……」 「楽しみだねー! サンタさんも、キラキラ見に来るかなー?」 そう言ってゆらゆらと身体を左右に揺らす姿と、口の中がうんざりするほど甘ったるい。黒鋼は軽い頭痛を覚えながらお茶で無理やり流し込んでみたが、視線の先はいつまでも甘ったるいままだった。 「…………」 そんな二人の様子を見て、ユゥイが何か言いたげに唇を震わせたが、彼は結局無言のまま、ただ寂しげに笑っていた。 *** クリスマス当日が近づくにつれ、黒鋼はふとした瞬間、街中で足を止めるようになった。 それは決まっておもちゃ屋や雑貨屋のディスプレイの前で、一度見入ってしまうとつい時間を忘れて唸ってしまう。おかげで他の通行人に不審そうな目で見られたり、酷いときは店の人間が怯えた表情で様子を見に来る始末だった。 おのれ、どいつもこいつも人を顔だけでヤクザと判断しやがって……と、多少イラッとしつつ、ここ最近の黒鋼はずっと子供受けするアイテムについて考えているのだった。 その日は真冬らしく、冷え込みの厳しい朝だった。 いつものように目覚めてすぐに暖房のスイッチを入れ、お茶を淹れるための湯を火にかけながらあれこれ準備を整える。 黒鋼がトースターに厚切りの食パンを二枚突っ込んでから台所を出ると、朝の情報番組ではクリスマスの話題が取り上げられていた。 ファッションやコスメ、グルメはもちろんデートスポットなどなど。 時期的にこの手の話がひっきりなしだが、次の話題はおもちゃ屋の売れ筋調査だった。 美人リポーターが大手百貨店の玩具売場へ行き、男性店員に直接話を聞いている光景が映し出される。 『これからクリスマスに向けて、一番の人気商品はどれしょう?』 『そうですね、男の子向けならこちらの特撮ヒーローの変身グッズが、やはり一番の売れ筋商品となっております』 『わー! まるで本物みたいにクオリティが高いですねー!』 店員から変身ベルトを受け取ったリポーターが、わざとらしくはしゃいだ声をあげる姿に、黒鋼は思わず身を乗り出して見入ってしまった。 男性店員は次から次へと人気の商品を持ち出し、宣伝に余念がない。 『女の子に最近人気なのは、こちらのオモチャのスマートフォンです』 『きゃー可愛い! 本物みたい!』 『カードを入れると音楽アプリやカメラアプリが起動して、お友達とスタンプメールのやりとりを楽しむこともできるんです。娘さんのためにと、こちらを購入されるお父さんが多いですね』 『クリスマスプレゼントに最適ですねー!』 「なるほどな……」 いつの間にか、黒鋼は腕を組んでうんうんと深く頷いていた。 確かに、こないだ足を止めたおもちゃ屋のディスプレイにも同じような商品がズラリと並んでいた気がする。ただ眺めているだけでは分からなかったが、オモチャといえども侮れない機能の多さだ。 やはり店先で眺めているだけでなく、直接中に乗り込んで色々と店員の意見を聞いてみる方がいいということか。 そこまで真剣に考えてから。 黒鋼はハッとした。 いくらなんでも女児向けのスマホやら変身ベルトというのはいかがなものだろう。ファイの中身は確かに子供だが、流石にバカにしていると思われても仕方がないような気がする。 喜びはすると思うが、もっと気の利いたものはないものか。 最近ずっとこの調子だ。もうじきクリスマスということもあって、黒鋼は何かファイが貰って喜ぶようなものはないだろうかと、頭を悩ませている。 ぬいぐるみなどの雑貨品は普段から本人が作っているし、洋服、という手もあるが、ハッキリ言ってファッションセンスには自信がない。 慣れないことをしている自覚はある。 かつてこれほどまでに誰かにプレゼントする品について頭を悩ませたことなどなかった。 母の日ならハンカチを、父の日ならネクタイを、友人が相手なら単刀直入に聞いた方が手っ取り早かったし、恋人なら聞くまでもなく強請られることが多かった。 いっそファイにも直接聞いた方が早いのかもしれない。黒鋼には彼が何を欲しがり、何をすれば喜ぶのかがさっぱり分からなかった。彼が話すのは大抵大好きな黒わんのことや雑貨作りに関してで、あとは仲のいい常連客やユゥイのことに絞られている。彼自身の話というのは滅多に聞かない。 黒鋼はふと、部屋の中央にある木製のテーブルに目をやった。仕事用の資料が積まれているその横に、裸の黒わんが座っている。 思わず、ふっと笑ってしまう。いまだにマフラーを巻いた黒わんは貰えていない。もうそんな脅しなどかけなくても、おそらく黒鋼はあの店に通う。純粋に、ファイの笑顔が見たいから。 「らしくねぇってのは、分かってんだがな」 ファイはいつだって黒鋼が店に顔を出せば大喜びでしがみついてくる。 砂糖菓子のような笑顔を浮かべて、幼い口調で一生懸命喋って、黒わんにマフラーを縫い付けて。帰り際には泣きながら、裸の黒わんを手渡してくる。 黒鋼はただそこにいるだけなのに。あんなにも喜び、泣き、真っ直ぐに好意をぶつけてくる存在が、特別なものにならないわけがない。 だからだろうか。黒鋼はファイに何かしてやりたくて仕方がなかった。 サプライズなんて柄じゃない。だけど。 これはいわゆる子を持つ親の感覚に近いのだろうか。 子供どころか結婚すら遠い黒鋼には予想もできないが、もし仮に自分が子供をもつ父親だった場合、こういう気持ちに……。 「……それは流石にねぇな」 黒鋼が自分に突っ込みを入れたところで、ヤカンが蒸気を噴出す甲高い音が聞こえて思考が途切れる。 とりあえずクリスマスは来週に迫っているのだから、その間に何かしら考えて用意しようと決めて、台所へ向かった。 *** クリスマス当日、黒鋼は焦っていた。 編集会議が予想以上に長引いて、職場ビルを飛び出したとき、時刻はすでに22時をとうに過ぎていた。 イルミネーションの点灯時間は17時から23時。 ここから駅まで走って電車に乗ったとしても、おそらく店につく頃には何もかも終わっている。 もう一時間もないのだから、何をどうしようが絶望的と知りつつも、運よく路肩に停車していたタクシーを拾う。が、流石はクリスマス当日ということもあり、もうじき目的地の駅周辺という辺りで渋滞に巻き込まれた。 黒鋼はここでいいと運転手に告げ、財布から現金を取り出すとそれを渡し、釣り銭も受け取らずに人の多く行き交う街の中を全力で駆け抜けた。 分かってはいたが、駅前の通りはすっかり光が消えていた。 時刻はもはや23時を過ぎている。かろうじて人通りと車通りの多さが光り輝くイルミネーションの名残を残しているだけで、あとは何の変哲もない、夜の街並みが広がるばかりだった。 黒鋼は白い息を吐き出しながら、それでも駅裏に向かって走った。 すっかりシャッターの下りた寂しい商店街を突っ切り、通い慣れた脇道に入る。closeの看板がかかった猫の目は、灯りこそついてはいるがしんと静まり返っている。 「悪い、すっかり遅くなった」 黒鋼は勢いよく店の扉を開いた。 外は冷たい空気に満ちていたが、店内は暖房がきいていて温かい。ここまでの距離を走ってやって来た黒鋼には、少し暑いくらいだった。 「黒鋼さん」 カウンター越しに、食器の片付けをしていたユゥイが驚いた様子で顔を上げる。 彼はいつまで経っても現れない黒鋼の事情をちゃんと察していたようだった。焦って飛び込んできた黒鋼に少しだけ眉尻を下げて、緩く微笑んだ。 「お疲れ様です。走っていらしたんですか?」 「まぁな……」 店内を見回すと、ついさっきまで人がいた名残が充分に残っている。 床に散らばるクラッカーの中身と、カウンター脇で色とりどりの電飾で飾られたツリーが祭の後を物語っているようで、いやに物悲しい。 ファイは室内の片隅の、窓際の席に座って両腕に顔を伏せていた。ピクリとも動かないその姿に、咄嗟にユゥイを見ると彼は苦笑して肩を竦める。 「いつもこの時間は寝ているので……さっきまで起きて待ってたんですけどね」 「……やっちまったな。泣いたか?」 「いえ……」 ユゥイは言葉を濁すように睫毛を伏せて、何かを言いかけた。が、すぐにいつもの笑顔を張り付ける。 「サクラちゃんたちも待ってたんですよ。でも、もう時間が時間なので帰しました。お料理はちゃんと残してますから、すぐに食べますか?」 「いや、いい」 黒鋼は足音を立てないように窓際の席に歩み寄った。 ファイはテーブルに伏せているが、その両腕の下には赤い紙の包みが敷かれている。 てっきり泣きはらした表情で不貞腐れているとばかり思っていたため、ユゥイの否定は少し意外だった。 起こしてしまわないように手を伸ばして、ふわふわの金髪に指を通す。冬の冷気に冷え切っていた指先にじわりと火が灯るような温かさを感じる。 「うー……」 ファイは身じろいで、ゆっくりと身体を起こした。眠っているのを起こさないようにと配慮していたつもりだが、どこかでは顔が見たいと思っていたのかもしれない。ぼんやりとしながら幾度か瞬きを繰り返す間抜けな表情に、少しだけ笑ってしまう。 「黒わん……?」 「おう。悪かったな……間に合わなかった」 「うぅん」 ファイは椅子から立ち上がり、首を振りながら黒鋼に両腕を伸ばし、ぽふっと音を立てて肩に顔を埋めてくる。 「黒わん、ちゃんと来てくれたからいいの。嬉しいよー」 「本当に悪かった」 「いいの。ユゥイがね、黒わんはお仕事がんばってるんだから、ワガママ言ったらダメって言ったの。だから黒わん、謝っちゃダメ」 黒鋼の腰に腕を回してしがみついてくるファイは顔を上げて、ふにゃりと笑う。 その聞き分けの良さがなぜか切ない。臍を曲げて泣いているファイの機嫌を、どうやって取るかばかり考えて走ってきた黒鋼は、少しだけ寂しいような、拍子抜けしたような気分になった。 それでも彼が楽しみにしていた銀杏並木のイルミネーションが終わってしまったことに変わりはない。ファイの笑顔を見ても、黒鋼の中の罪悪感は消えなかった。 すると、そこにカウンターから出てきたユゥイが白いコートと青いマフラーを手にやって来た 「銀杏並木、まだ間に合いますよ」 「間に合うって……もう終わってたぞ」 ユゥイは小さく笑いながら不思議そうに首を傾げるファイにコートを着せて、前の合わせを止めながら黒鋼を見た。 「間に合うんです」 「ユゥイー、もうキラキラ終わってるよー?」 「終わらないよ。だってまだサンタさんが来てない」 「サンタさん?」 「そう。サンタさんもね、時間に間に合わなかったんだって。だから今行けば会えるかもしれないよ」 「ほんと!?」 「うん」 マフラーを巻いてもらいながら、ファイはパッと表情を明るくした。その頬が少し赤くなっている。 一体どういうことだろかと、黒鋼は戸惑いの視線をユゥイに向けるが、彼はただ静かに笑っているだけだった。 *** ユゥイの意図はまるで分からなかったが、黒鋼ははしゃぐファイを連れて夜の街に出た。 ファイは黒鋼と手を繋ぎながら、もう片方の腕にはあの赤い包みをしっかりと抱きしめている。 「それどうした?」 「んー?」 「その赤いの」 「えへへー、サンタさんのプレゼントなんだー」 ファイはその包みをいっそう強く、大事そうに抱きしめる。 サンタさんに渡すという意味なのか、それとも貰った、という意味なのか。 彼の口振りからはハッキリとは分からなかったが、今日は店に常連客が集まると言っていたから、そのうちの誰かに貰ったのかもしれない。 どっちにしろ、白くけぶるような息を吐き出すファイの手を握る力を強くして、身長の割に狭い歩幅に合わせながら歩いていると、すぐに駅前通りが見えてきた。 そこはさっき通りがかった時のまま、街灯やコンビニの灯りしかない暗い街並みだった。人や車の往来が減り、名残すらどこにも見当たらなくなっている。 「何があるってんだろうな」 駅の正面まで出て、黒鋼は不審そうに眉間の皺を深くした。ファイもキョロキョロと辺りを見回すと、「まっくらだねぇ」と間延びした口調で言う。 気分だけでも味わって来いという意味だったのだろうか。ただ立ち尽くしているのも時間の無駄に思えて、黒鋼はファイの手を引くと元来た道を引き返そうとした。 そのときだった。 「!」 プッ、という音がして、手前から一つ一つドミノ倒しのように次々と銀杏並木に光が灯る。 それはずっと向こう側に至るまで続き、やがて眩い光の道が出来上がった。 「わあぁ……!」 その美しく幻想的な光景に賛嘆の声を上げるファイの隣で、黒鋼も驚きに目を見開いた。 何がどうなっているのかは分からないが、ユゥイの言っていた「サンタさん」とは、このことを指していたのか。 「黒わん行こー!」 「あ、ああ」 黒鋼の手を強く引っ張るファイの瞳も、イルミネーションの光を受けて負けじと輝いている。暗く寂しい街並みから、一瞬にして夢の世界に連れてこられたような気持ちになった。 「すごいすごーい! とってもキレイー!」 「そうだな」 光り輝く道を、二人はのんびりと木々を見上げながら歩いた。 ファイがしきりにはしゃいだ声を上げて、黒鋼はただ言葉少なに同意しながら、いつしか視線はファイの金色の髪や、星が瞬いたように輝く青い瞳にばかり向けられていた。綺麗だった。 どんな力が働いての奇跡なのか、今はそんなことどうでもよかった。なぜなら黒鋼は今、とてつもなく重要なことに気が付いてしまったからだ。 (なにが親心だよ……こりゃ全く違うもんじゃねぇか……) 光を一身に纏うファイの笑顔を、愛しいと、感じた。 今まで見てきたどんなものより、彼は美しく光り輝いていた。 まるで宝石のようだ。少しばかりロマンチックな光景に感化されてしまっている自分を、恥ずかしく感じる。 黒鋼の大きな手によく馴染む、ファイの華奢な手はほんのりと汗ばんでいた。それほど強く握り合っていたことに気が付いて、多分きっと、一生この手を離さずに生きていくような、そんな予感がする。 「黒わんと見れて、すごく嬉しい」 銀杏の木々を見上げていた瞳が、今度は真っ直ぐに黒鋼に向けられた。 一瞬にして予感が確信に変わったとき、黒鋼はその白いコートに包まれた華奢な身体を引き寄せ、衝動的に抱きしめていた。どうしてだろう。柄にもなく、少し泣きたいような気持ちだった。 それほどに、強く強く胸を打たれていた。 「ひゃー、どうしたの黒わん? 寒いのー?」 ファイの片腕が黒鋼の背に回り、「よしよし」と言いながらしきりに摩る。それから、何かを思い出したように小さく声を上げて、ずっと抱え込んでいた赤い包みを胸に押し付けてきた。 「あのね、これあげる」 「……俺にか? だがこれは」 「黒わんのだよ。開けて」 黒鋼は少し戸惑いながら、ファイから僅かに身を離す。そして赤い包みを受け取って、破れないように慎重にテープを剥がした。 すると、中から現れたのは真っ赤な手編みのマフラーだった。 目を見開いてファイを見ると、彼は花が咲いたように柔らかく笑っていた。 「おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー」 言葉が出なかった。小さなぬいぐるみを編むのとは訳が違う。これだけのものを仕上げるのに、どれほど時間がかかったのだろうか。 黒鋼はぐっと息を呑みながら、包みを全て取り去ると脇に抱え、マフラーを首に巻いた。ふわりと、砂糖のような甘い香りがする。温かかった。 黒のジャケットに赤いマフラー。これでは本当に黒わんだなと思いつつ、ファイが「似合う似合う」と言って手を叩くから、どうでもよくなってしまう。 「あのね、オレ知ってるんだ。ほんとはサンタさんなんかいないの」 「……どうしてそう思った?」 「ユゥイがね、毎年こっそりオレが寝てるところにプレゼントを置くの。だからオレ、ちゃんと寝たふりするんだー」 ああ、黒鋼にも覚えがある。 サンタクロースを信じていた子供の頃、枕元にそっとプレゼントを置いてくれるのは父と母だった。 眠気眼でそれを見たとき、黒鋼の夢は終わった。だけど、悲しくはなかった。今みたいに、温かな気持ちで夢から覚めた。守ろうとしてくれる両親の、愛情だけを感じて。 「ユゥイには内緒。言っちゃダメねー」 「……わかった」 夢を見ているのは子供だけではないのだと黒鋼は思った。 夢見る彼らに、大人もまた、夢を見ている。 だから気づかない。いつの間にか遠くへ行こうとする子供の成長を。 「だからね、オレがサンタさんになろうって決めたの。ちゃんとなれたかなぁ?」 黒鋼は答える代りに小さく笑って、金色の髪を優しく撫でた。 「よかったぁ」 誰かをこんなに大切だと感じたのは、これが初めてかもしれない。 なのに、これ以上愛しくさせてどうする気だろう。もう一度、強く抱きしめたい衝動をぐっと堪えて、黒鋼はジャケットのポケットに手を忍ばせる。 そして取り出したものを、ファイの首にかけた。 「なぁに?」 「俺からだ」 ファイは自分の首にかけられた、黒の革紐に指先を這わせ、その先端についている楕円形のものに触れると手の平に乗せた。 それは、木製のペンダントだった。 「後ろにネジがついてんのわかるか?」 「えと……あ、これ?」 「巻いてみろ」 不思議そうに頷いたファイが、言われた通り指先で小さなネジを巻く。すると、可愛らしい音色が優しく辺りに響き渡った。 曲は、星に願いを。 「わぁ……! オルゴールだー!」 凄い凄いと、ファイは何度も繰り返して両手でぎゅっとペンダントを握りしめる。喜んでいる姿に心底安堵した。 悩むにいいだけ悩んでいた最中、黒鋼は取材先で行った街で見かけたアンティークショップに、ふらりと足を向けた。 そこにあったのがこのペンダントだった。決め手はやはり、このオルゴールが奏でる曲だった。ファイと初めて会ったとき、彼が口ずさんでいたのがこれだったからだ。 「ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!」 「おう」 嬉しそうに再びネジを巻くファイの頬に、堪らず手を伸ばす。ファイは光をいっぱいに吸い込んだ瞳で見上げてくる。 こちらまで吸い込まれそうになって、黒鋼はその錯覚に抗うことなく顔を寄せる。一瞬だけ触れた唇の柔らかさに、眩暈がしそうだった。 オルゴールが再び柔らかなメロディを奏でる。夢を見ているような、ふわふわとした気分だった。 ファイは目を丸くして、不思議そうに瞬きを繰り返した。 「黒わん、チュウした」 「誰にも言うなよ」 ファイは黒鋼の顔をじっと見つめた後、頬を赤らめてこくりと頷いた。 それから、ちょっと苦しそうに胸元をぎゅうっと握り閉めながら、小さく首を傾げる。 「二人だけの、秘密だねぇ」 そう言って、ファイは眉をハの字にしてふにゃっと笑った。 ←戻る ・ 次へ→
仕事の合間を縫って、いつものように猫の目に訪れた時のことだった。
十二月に入って寒さもいよいよ本格的に厳しくなってきたが、その日は天気もよく、テラスに出て温かなお茶を飲んでいると、いっそ少し汗ばむほどの気候だった。
「キラキラする木?」
「そうだよー。キラキラでピカピカの木だよー。黒わん、知らないのー?」
「絵本かなんかに出てくる木か?」
「ブー! 違いまーす!」
なぜかクイズの出題者気取りになっているファイは、黒鋼が正解を言い当てられないことに喜んでパチパチと両手を叩く。
「黒わんハズレたからバツゲームだねー。何がいいかなー?」
「そんなんあんのかよ……」
ファイがうーんうーんと罰ゲームとやらの内容を考えている間に、黒鋼もふとひらめく。そういえば今月はいよいよクリスマスシーズンの到来だ。
彼が言っているキラキラでピカピカの木というのは、お馴染みのあの木のことを言っているのではないか。
「ツリーのことか? クリスマスの」
「おしい」
そう言ったのはファイではなく、ケーキの乗った皿を運んできたユゥイだった。
彼が目の前にズラリを並べ始めたスイーツの数々を見て、黒鋼は思わず胸を押さえる。チョコレートケーキなどの定番品はもちろん、カボチャのタルトにミルクレープ、果物たっぷりのロールケーキにティラミスなどなど……。
見ているだけで胸焼けがして、うえ、と潰れたカエルのように低く呻く黒鋼を見て、ユゥイはなぜか楽しそうだった。
「駅前の通りに銀杏並木があるでしょう。毎年クリスマスの二日間だけ、ライトアップされるんですよ」
「イルミネーションか」
「ピンポンピンポーン!」
正解したらしたで、ファイはまた手を叩いて喜んだ。
思えばクリスマスに向けてのケーキ屋特集で地獄を見たのは、つい先月のことだ。ハッキリ言って黒鋼は、ことスイーツ関係では全く戦力にならない。
まず目の前のケーキの数々に嫌気がさしていることからも分かるように、生まれてこのかた甘いものが好きだった時期など一秒たりともないのだった。
嫌々ケーキを食べまくり、苦し紛れに書いた記事に何度ダメ出しされたか知れない。上司の壱原侑子は黒鋼が甘味嫌いであることを知っていながら、あえて反応を楽しむドSの女王である。
「思い出すだけで気分が悪くなるぜ……」
ついに表情まで青くしはじめる黒鋼にぴったりとくっついていたファイが、フォークをぎゅっと握りしめて目を輝かせる。
「ユゥイー、これ食べてもいいー?」
「もちろんだよ。黒鋼さんもよければどうぞ」
「遠慮しとく……」
「黒たんは甘いのダメなんだよねー。ユゥイのケーキ美味しいのにカワウソー」
「可哀想、だよ。ファイ」
「んー、おいしー!」
嬉しそうにタルトを頬張るファイを横目でじっとりと見つめつつ、甘いのはこの笑顔だけで充分だと感じる。
よく料理人が、作っているだけで腹がいっぱいになる、なんて言うのを聞くが、これはそれに似た感覚だろうか。甘いものは嫌いだが、甘いものを満面の笑顔で食べているファイという図は癒し効果抜群だった。
「で、そのイルミネーションがなんだって?」
黒鋼がテーブルに片肘をついて顎を乗せながら聞くと、さらにチーズケーキやモンブランを追加で運んできたユゥイが「ああ」と思い出したように頷いた。
「毎年見に行くんです。ファイと。だけど、今年はちょっと事情があって」
「……待て、その前にこのケーキは全部こいつに食わすのか?」
「まさか。ボクも食べます」
「ならいいけどよ……」
すでにタルトを完食したファイは、ロールケーキに手をつけている。テーブルいっぱいに所狭しと並べられたこれら全てを一人で食わせれば、一瞬で糖尿になりそうだ。いや、二人で食うにしてもかなりの量ではあるのだが。
ファイは華奢だが、胃袋は結構でかい。いつも一緒に食事をするときは、黒鋼と同じだけの量をペロリと平らげる。
食ったものが身にならないのは体質だろうか。
「事情ってのはなんだ? あの双子の兄貴の方とデートでもすんのか」
ファイの口元についていたクリームを優雅に指先で拭い、椅子に腰かけながら舌で舐めとるユゥイが冷やかな視線を送って寄越す。地雷と知って踏んだのは自分だが、なかなか迫力がある。
ユゥイはわざとらしく咳払いをして、自らもフォークに手を伸ばしながら話を続けた。
「今年のイヴは町内会のクリスマスパーティーに参加することになっているんです。奥様方にどうしてもと誘われているので」
「また熟女か。モテる男は辛いな」
「……クリスマス当日はここで、常連さんだけを呼んでケーキバイキングをする予定になっているので、今年はどうしてもファイを連れて行けないんです」
「すぐそこだろ。ちょっと歩けば見に行ける距離じゃねぇのか」
「あのねあのね」
ロールケーキに夢中になっていた視線をこちらに向けて、ファイが黒鋼のジャケットの袖をクイクイと引っ張った。
「いっぱい人がいるところには、一人で行っちゃダメなのー。ぶつかったり転んだりするし、悪い人もいるかもだからユゥイがダメーって」
「過保護だな」
なんて思いつつ、ファイを人ごみに放り出すのは確かに不安だ。この純粋培養がおかしな輩に引っかかろうものなら、すぐに騙されて何をされるか分かったもんじゃない。一直線であるはずの銀杏並木で迷子にもなりかねない気がした。
「それにねー、オレ黒わんと一緒がいいのー。キラキラの木、黒わんと見るんだー」
「……クリスマスか」
二日間のうち、いずれかなら時間を作ることはできるかもしれない。
ファイの中では黒わんとイルミネーションを見に行くのがすでに決定事項になっているようだし、渋ればまた泣き出すに違いなかった。
ユゥイが少しだけ申し訳なさそうに肩を竦めながら視線を送ってくる。黒鋼はポンと膝を叩いて「わかった」と了承する。
「ほんとー? わぁい!」
「いいんですか?」
「その辺ブラつくぐれぇの時間はなんとでもなる。ただし、ケーキ以外にも食えるもん作っとけよ」
「それはもちろん」
頷いたユゥイはホッと息をつきながら申し訳なさそうに苦笑していた。ファイは嬉しそうにニコニコしながら、フォークでモンブランの上に乗っている栗を刺し、油断していた黒鋼の口にスポッと入れる。
「むが!? て、てめ! なにしやがる!!」
一瞬で口の中にあま~い砂糖と栗の味が広がった。思いっきり顔を顰めて睨み付けても、ファイは嬉しそうにまた手を叩く。
「バツゲームだよー! だって黒わん一回で正解できなかったもーん」
「こ、このやろう……」
「楽しみだねー! サンタさんも、キラキラ見に来るかなー?」
そう言ってゆらゆらと身体を左右に揺らす姿と、口の中がうんざりするほど甘ったるい。黒鋼は軽い頭痛を覚えながらお茶で無理やり流し込んでみたが、視線の先はいつまでも甘ったるいままだった。
「…………」
そんな二人の様子を見て、ユゥイが何か言いたげに唇を震わせたが、彼は結局無言のまま、ただ寂しげに笑っていた。
***
クリスマス当日が近づくにつれ、黒鋼はふとした瞬間、街中で足を止めるようになった。
それは決まっておもちゃ屋や雑貨屋のディスプレイの前で、一度見入ってしまうとつい時間を忘れて唸ってしまう。おかげで他の通行人に不審そうな目で見られたり、酷いときは店の人間が怯えた表情で様子を見に来る始末だった。
おのれ、どいつもこいつも人を顔だけでヤクザと判断しやがって……と、多少イラッとしつつ、ここ最近の黒鋼はずっと子供受けするアイテムについて考えているのだった。
その日は真冬らしく、冷え込みの厳しい朝だった。
いつものように目覚めてすぐに暖房のスイッチを入れ、お茶を淹れるための湯を火にかけながらあれこれ準備を整える。
黒鋼がトースターに厚切りの食パンを二枚突っ込んでから台所を出ると、朝の情報番組ではクリスマスの話題が取り上げられていた。
ファッションやコスメ、グルメはもちろんデートスポットなどなど。
時期的にこの手の話がひっきりなしだが、次の話題はおもちゃ屋の売れ筋調査だった。
美人リポーターが大手百貨店の玩具売場へ行き、男性店員に直接話を聞いている光景が映し出される。
『これからクリスマスに向けて、一番の人気商品はどれしょう?』
『そうですね、男の子向けならこちらの特撮ヒーローの変身グッズが、やはり一番の売れ筋商品となっております』
『わー! まるで本物みたいにクオリティが高いですねー!』
店員から変身ベルトを受け取ったリポーターが、わざとらしくはしゃいだ声をあげる姿に、黒鋼は思わず身を乗り出して見入ってしまった。
男性店員は次から次へと人気の商品を持ち出し、宣伝に余念がない。
『女の子に最近人気なのは、こちらのオモチャのスマートフォンです』
『きゃー可愛い! 本物みたい!』
『カードを入れると音楽アプリやカメラアプリが起動して、お友達とスタンプメールのやりとりを楽しむこともできるんです。娘さんのためにと、こちらを購入されるお父さんが多いですね』
『クリスマスプレゼントに最適ですねー!』
「なるほどな……」
いつの間にか、黒鋼は腕を組んでうんうんと深く頷いていた。
確かに、こないだ足を止めたおもちゃ屋のディスプレイにも同じような商品がズラリと並んでいた気がする。ただ眺めているだけでは分からなかったが、オモチャといえども侮れない機能の多さだ。
やはり店先で眺めているだけでなく、直接中に乗り込んで色々と店員の意見を聞いてみる方がいいということか。
そこまで真剣に考えてから。
黒鋼はハッとした。
いくらなんでも女児向けのスマホやら変身ベルトというのはいかがなものだろう。ファイの中身は確かに子供だが、流石にバカにしていると思われても仕方がないような気がする。
喜びはすると思うが、もっと気の利いたものはないものか。
最近ずっとこの調子だ。もうじきクリスマスということもあって、黒鋼は何かファイが貰って喜ぶようなものはないだろうかと、頭を悩ませている。
ぬいぐるみなどの雑貨品は普段から本人が作っているし、洋服、という手もあるが、ハッキリ言ってファッションセンスには自信がない。
慣れないことをしている自覚はある。
かつてこれほどまでに誰かにプレゼントする品について頭を悩ませたことなどなかった。
母の日ならハンカチを、父の日ならネクタイを、友人が相手なら単刀直入に聞いた方が手っ取り早かったし、恋人なら聞くまでもなく強請られることが多かった。
いっそファイにも直接聞いた方が早いのかもしれない。黒鋼には彼が何を欲しがり、何をすれば喜ぶのかがさっぱり分からなかった。彼が話すのは大抵大好きな黒わんのことや雑貨作りに関してで、あとは仲のいい常連客やユゥイのことに絞られている。彼自身の話というのは滅多に聞かない。
黒鋼はふと、部屋の中央にある木製のテーブルに目をやった。仕事用の資料が積まれているその横に、裸の黒わんが座っている。
思わず、ふっと笑ってしまう。いまだにマフラーを巻いた黒わんは貰えていない。もうそんな脅しなどかけなくても、おそらく黒鋼はあの店に通う。純粋に、ファイの笑顔が見たいから。
「らしくねぇってのは、分かってんだがな」
ファイはいつだって黒鋼が店に顔を出せば大喜びでしがみついてくる。
砂糖菓子のような笑顔を浮かべて、幼い口調で一生懸命喋って、黒わんにマフラーを縫い付けて。帰り際には泣きながら、裸の黒わんを手渡してくる。
黒鋼はただそこにいるだけなのに。あんなにも喜び、泣き、真っ直ぐに好意をぶつけてくる存在が、特別なものにならないわけがない。
だからだろうか。黒鋼はファイに何かしてやりたくて仕方がなかった。
サプライズなんて柄じゃない。だけど。
これはいわゆる子を持つ親の感覚に近いのだろうか。
子供どころか結婚すら遠い黒鋼には予想もできないが、もし仮に自分が子供をもつ父親だった場合、こういう気持ちに……。
「……それは流石にねぇな」
黒鋼が自分に突っ込みを入れたところで、ヤカンが蒸気を噴出す甲高い音が聞こえて思考が途切れる。
とりあえずクリスマスは来週に迫っているのだから、その間に何かしら考えて用意しようと決めて、台所へ向かった。
***
クリスマス当日、黒鋼は焦っていた。
編集会議が予想以上に長引いて、職場ビルを飛び出したとき、時刻はすでに22時をとうに過ぎていた。
イルミネーションの点灯時間は17時から23時。
ここから駅まで走って電車に乗ったとしても、おそらく店につく頃には何もかも終わっている。
もう一時間もないのだから、何をどうしようが絶望的と知りつつも、運よく路肩に停車していたタクシーを拾う。が、流石はクリスマス当日ということもあり、もうじき目的地の駅周辺という辺りで渋滞に巻き込まれた。
黒鋼はここでいいと運転手に告げ、財布から現金を取り出すとそれを渡し、釣り銭も受け取らずに人の多く行き交う街の中を全力で駆け抜けた。
分かってはいたが、駅前の通りはすっかり光が消えていた。
時刻はもはや23時を過ぎている。かろうじて人通りと車通りの多さが光り輝くイルミネーションの名残を残しているだけで、あとは何の変哲もない、夜の街並みが広がるばかりだった。
黒鋼は白い息を吐き出しながら、それでも駅裏に向かって走った。
すっかりシャッターの下りた寂しい商店街を突っ切り、通い慣れた脇道に入る。closeの看板がかかった猫の目は、灯りこそついてはいるがしんと静まり返っている。
「悪い、すっかり遅くなった」
黒鋼は勢いよく店の扉を開いた。
外は冷たい空気に満ちていたが、店内は暖房がきいていて温かい。ここまでの距離を走ってやって来た黒鋼には、少し暑いくらいだった。
「黒鋼さん」
カウンター越しに、食器の片付けをしていたユゥイが驚いた様子で顔を上げる。
彼はいつまで経っても現れない黒鋼の事情をちゃんと察していたようだった。焦って飛び込んできた黒鋼に少しだけ眉尻を下げて、緩く微笑んだ。
「お疲れ様です。走っていらしたんですか?」
「まぁな……」
店内を見回すと、ついさっきまで人がいた名残が充分に残っている。
床に散らばるクラッカーの中身と、カウンター脇で色とりどりの電飾で飾られたツリーが祭の後を物語っているようで、いやに物悲しい。
ファイは室内の片隅の、窓際の席に座って両腕に顔を伏せていた。ピクリとも動かないその姿に、咄嗟にユゥイを見ると彼は苦笑して肩を竦める。
「いつもこの時間は寝ているので……さっきまで起きて待ってたんですけどね」
「……やっちまったな。泣いたか?」
「いえ……」
ユゥイは言葉を濁すように睫毛を伏せて、何かを言いかけた。が、すぐにいつもの笑顔を張り付ける。
「サクラちゃんたちも待ってたんですよ。でも、もう時間が時間なので帰しました。お料理はちゃんと残してますから、すぐに食べますか?」
「いや、いい」
黒鋼は足音を立てないように窓際の席に歩み寄った。
ファイはテーブルに伏せているが、その両腕の下には赤い紙の包みが敷かれている。
てっきり泣きはらした表情で不貞腐れているとばかり思っていたため、ユゥイの否定は少し意外だった。
起こしてしまわないように手を伸ばして、ふわふわの金髪に指を通す。冬の冷気に冷え切っていた指先にじわりと火が灯るような温かさを感じる。
「うー……」
ファイは身じろいで、ゆっくりと身体を起こした。眠っているのを起こさないようにと配慮していたつもりだが、どこかでは顔が見たいと思っていたのかもしれない。ぼんやりとしながら幾度か瞬きを繰り返す間抜けな表情に、少しだけ笑ってしまう。
「黒わん……?」
「おう。悪かったな……間に合わなかった」
「うぅん」
ファイは椅子から立ち上がり、首を振りながら黒鋼に両腕を伸ばし、ぽふっと音を立てて肩に顔を埋めてくる。
「黒わん、ちゃんと来てくれたからいいの。嬉しいよー」
「本当に悪かった」
「いいの。ユゥイがね、黒わんはお仕事がんばってるんだから、ワガママ言ったらダメって言ったの。だから黒わん、謝っちゃダメ」
黒鋼の腰に腕を回してしがみついてくるファイは顔を上げて、ふにゃりと笑う。
その聞き分けの良さがなぜか切ない。臍を曲げて泣いているファイの機嫌を、どうやって取るかばかり考えて走ってきた黒鋼は、少しだけ寂しいような、拍子抜けしたような気分になった。
それでも彼が楽しみにしていた銀杏並木のイルミネーションが終わってしまったことに変わりはない。ファイの笑顔を見ても、黒鋼の中の罪悪感は消えなかった。
すると、そこにカウンターから出てきたユゥイが白いコートと青いマフラーを手にやって来た
「銀杏並木、まだ間に合いますよ」
「間に合うって……もう終わってたぞ」
ユゥイは小さく笑いながら不思議そうに首を傾げるファイにコートを着せて、前の合わせを止めながら黒鋼を見た。
「間に合うんです」
「ユゥイー、もうキラキラ終わってるよー?」
「終わらないよ。だってまだサンタさんが来てない」
「サンタさん?」
「そう。サンタさんもね、時間に間に合わなかったんだって。だから今行けば会えるかもしれないよ」
「ほんと!?」
「うん」
マフラーを巻いてもらいながら、ファイはパッと表情を明るくした。その頬が少し赤くなっている。
一体どういうことだろかと、黒鋼は戸惑いの視線をユゥイに向けるが、彼はただ静かに笑っているだけだった。
***
ユゥイの意図はまるで分からなかったが、黒鋼ははしゃぐファイを連れて夜の街に出た。
ファイは黒鋼と手を繋ぎながら、もう片方の腕にはあの赤い包みをしっかりと抱きしめている。
「それどうした?」
「んー?」
「その赤いの」
「えへへー、サンタさんのプレゼントなんだー」
ファイはその包みをいっそう強く、大事そうに抱きしめる。
サンタさんに渡すという意味なのか、それとも貰った、という意味なのか。
彼の口振りからはハッキリとは分からなかったが、今日は店に常連客が集まると言っていたから、そのうちの誰かに貰ったのかもしれない。
どっちにしろ、白くけぶるような息を吐き出すファイの手を握る力を強くして、身長の割に狭い歩幅に合わせながら歩いていると、すぐに駅前通りが見えてきた。
そこはさっき通りがかった時のまま、街灯やコンビニの灯りしかない暗い街並みだった。人や車の往来が減り、名残すらどこにも見当たらなくなっている。
「何があるってんだろうな」
駅の正面まで出て、黒鋼は不審そうに眉間の皺を深くした。ファイもキョロキョロと辺りを見回すと、「まっくらだねぇ」と間延びした口調で言う。
気分だけでも味わって来いという意味だったのだろうか。ただ立ち尽くしているのも時間の無駄に思えて、黒鋼はファイの手を引くと元来た道を引き返そうとした。
そのときだった。
「!」
プッ、という音がして、手前から一つ一つドミノ倒しのように次々と銀杏並木に光が灯る。
それはずっと向こう側に至るまで続き、やがて眩い光の道が出来上がった。
「わあぁ……!」
その美しく幻想的な光景に賛嘆の声を上げるファイの隣で、黒鋼も驚きに目を見開いた。
何がどうなっているのかは分からないが、ユゥイの言っていた「サンタさん」とは、このことを指していたのか。
「黒わん行こー!」
「あ、ああ」
黒鋼の手を強く引っ張るファイの瞳も、イルミネーションの光を受けて負けじと輝いている。暗く寂しい街並みから、一瞬にして夢の世界に連れてこられたような気持ちになった。
「すごいすごーい! とってもキレイー!」
「そうだな」
光り輝く道を、二人はのんびりと木々を見上げながら歩いた。
ファイがしきりにはしゃいだ声を上げて、黒鋼はただ言葉少なに同意しながら、いつしか視線はファイの金色の髪や、星が瞬いたように輝く青い瞳にばかり向けられていた。綺麗だった。
どんな力が働いての奇跡なのか、今はそんなことどうでもよかった。なぜなら黒鋼は今、とてつもなく重要なことに気が付いてしまったからだ。
(なにが親心だよ……こりゃ全く違うもんじゃねぇか……)
光を一身に纏うファイの笑顔を、愛しいと、感じた。
今まで見てきたどんなものより、彼は美しく光り輝いていた。
まるで宝石のようだ。少しばかりロマンチックな光景に感化されてしまっている自分を、恥ずかしく感じる。
黒鋼の大きな手によく馴染む、ファイの華奢な手はほんのりと汗ばんでいた。それほど強く握り合っていたことに気が付いて、多分きっと、一生この手を離さずに生きていくような、そんな予感がする。
「黒わんと見れて、すごく嬉しい」
銀杏の木々を見上げていた瞳が、今度は真っ直ぐに黒鋼に向けられた。
一瞬にして予感が確信に変わったとき、黒鋼はその白いコートに包まれた華奢な身体を引き寄せ、衝動的に抱きしめていた。どうしてだろう。柄にもなく、少し泣きたいような気持ちだった。
それほどに、強く強く胸を打たれていた。
「ひゃー、どうしたの黒わん? 寒いのー?」
ファイの片腕が黒鋼の背に回り、「よしよし」と言いながらしきりに摩る。それから、何かを思い出したように小さく声を上げて、ずっと抱え込んでいた赤い包みを胸に押し付けてきた。
「あのね、これあげる」
「……俺にか? だがこれは」
「黒わんのだよ。開けて」
黒鋼は少し戸惑いながら、ファイから僅かに身を離す。そして赤い包みを受け取って、破れないように慎重にテープを剥がした。
すると、中から現れたのは真っ赤な手編みのマフラーだった。
目を見開いてファイを見ると、彼は花が咲いたように柔らかく笑っていた。
「おっきい黒わんのマフラーだよー。一生懸命作ったのー」
言葉が出なかった。小さなぬいぐるみを編むのとは訳が違う。これだけのものを仕上げるのに、どれほど時間がかかったのだろうか。
黒鋼はぐっと息を呑みながら、包みを全て取り去ると脇に抱え、マフラーを首に巻いた。ふわりと、砂糖のような甘い香りがする。温かかった。
黒のジャケットに赤いマフラー。これでは本当に黒わんだなと思いつつ、ファイが「似合う似合う」と言って手を叩くから、どうでもよくなってしまう。
「あのね、オレ知ってるんだ。ほんとはサンタさんなんかいないの」
「……どうしてそう思った?」
「ユゥイがね、毎年こっそりオレが寝てるところにプレゼントを置くの。だからオレ、ちゃんと寝たふりするんだー」
ああ、黒鋼にも覚えがある。
サンタクロースを信じていた子供の頃、枕元にそっとプレゼントを置いてくれるのは父と母だった。
眠気眼でそれを見たとき、黒鋼の夢は終わった。だけど、悲しくはなかった。今みたいに、温かな気持ちで夢から覚めた。守ろうとしてくれる両親の、愛情だけを感じて。
「ユゥイには内緒。言っちゃダメねー」
「……わかった」
夢を見ているのは子供だけではないのだと黒鋼は思った。
夢見る彼らに、大人もまた、夢を見ている。
だから気づかない。いつの間にか遠くへ行こうとする子供の成長を。
「だからね、オレがサンタさんになろうって決めたの。ちゃんとなれたかなぁ?」
黒鋼は答える代りに小さく笑って、金色の髪を優しく撫でた。
「よかったぁ」
誰かをこんなに大切だと感じたのは、これが初めてかもしれない。
なのに、これ以上愛しくさせてどうする気だろう。もう一度、強く抱きしめたい衝動をぐっと堪えて、黒鋼はジャケットのポケットに手を忍ばせる。
そして取り出したものを、ファイの首にかけた。
「なぁに?」
「俺からだ」
ファイは自分の首にかけられた、黒の革紐に指先を這わせ、その先端についている楕円形のものに触れると手の平に乗せた。
それは、木製のペンダントだった。
「後ろにネジがついてんのわかるか?」
「えと……あ、これ?」
「巻いてみろ」
不思議そうに頷いたファイが、言われた通り指先で小さなネジを巻く。すると、可愛らしい音色が優しく辺りに響き渡った。
曲は、星に願いを。
「わぁ……! オルゴールだー!」
凄い凄いと、ファイは何度も繰り返して両手でぎゅっとペンダントを握りしめる。喜んでいる姿に心底安堵した。
悩むにいいだけ悩んでいた最中、黒鋼は取材先で行った街で見かけたアンティークショップに、ふらりと足を向けた。
そこにあったのがこのペンダントだった。決め手はやはり、このオルゴールが奏でる曲だった。ファイと初めて会ったとき、彼が口ずさんでいたのがこれだったからだ。
「ありがとー黒わん! オレ、ずっと大切にするからねー!」
「おう」
嬉しそうに再びネジを巻くファイの頬に、堪らず手を伸ばす。ファイは光をいっぱいに吸い込んだ瞳で見上げてくる。
こちらまで吸い込まれそうになって、黒鋼はその錯覚に抗うことなく顔を寄せる。一瞬だけ触れた唇の柔らかさに、眩暈がしそうだった。
オルゴールが再び柔らかなメロディを奏でる。夢を見ているような、ふわふわとした気分だった。
ファイは目を丸くして、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「黒わん、チュウした」
「誰にも言うなよ」
ファイは黒鋼の顔をじっと見つめた後、頬を赤らめてこくりと頷いた。
それから、ちょっと苦しそうに胸元をぎゅうっと握り閉めながら、小さく首を傾げる。
「二人だけの、秘密だねぇ」
そう言って、ファイは眉をハの字にしてふにゃっと笑った。
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