2025/06/16 Mon 12 翌日。 次の金曜まで待てない操は甲洋に会いに行くため、耳としっぽを隠すのによさそうな服を探していた。 「あっ、これいい! 帽子がついてるし!」 部屋の中央にペタリと座って、収納ボックスから薄手の長袖パーカーを取りだす。衣料品が詰まった大きなケースは容子が用意してくれたもので、中に入っている衣類や下着も彼女が買い与えてくれたものだ。 「でも下はどうしよう?」 操が持っているのはズボンばかりで、容子がわざわざしっぽを通すために穴を作ってくれている。ふかふかの大きなしっぽを隠すには、どれもゆとりがないものばかりだ。 「……あっ、そうだ!」 ふと閃いて、勢いよく立ち上がると洋服タンスに近づいた。ここには翔子の衣類が入っているため、今まで一度も触れたことはない。しかしお目当てのものを探すため、少し迷ったが開けてみることにした。 「あった!」 すると真っ先に探しものが見つかった。それはリビングにある写真立ての中で、翔子が着用していたのと同じ水色のワンピースだった。これだけ丈が長くてヒラヒラしてれば、難なくしっぽを隠せるだろう。 操はワンピースを取りだすと、部屋を飛びだして一階に向かった。 「お母さんお母さん! ぼくこれ着てもいい!?」 リビングでは窓際の床に腰をおろした容子が、陽の光を浴びながら洗濯物を畳んでいた。彼女は忙しなくやってきた操に目を丸くして、さらにその手にワンピースがあるのを見ると、いっそう驚いた様子で瞬きをした。 「あなたそれ、ワンピースよ? 女の子のお洋服なのだけど……」 「ダメ? ぼくがこれ着たら変かな?」 隣にちょこんと座った操が上目遣いを向けると、容子は「ふふっ」と肩を揺らして小さく笑った。 「あなたが着たいなら、いいと思うわ」 「ほんと? やったー!」 万歳をした操だったが、すぐにハッと気がついた。これはあくまでも翔子のワンピースなのだ。容子が許しても、はたして彼女はどうだろう。さんざん部屋を好き勝手に使っておいて、今さらのような気もするけれど。 「どうかしたの?」 急に黙り込んでうつむいた操の顔を、容子が首を傾げて覗き込んでくる。 「あのねお母さん。ぼくがこれ着て、翔子お姉ちゃんはどう思うかな?」 「お姉ちゃん……?」 操はこくりと頷いた。 「あなたはぼくのお母さんになってくれた人だから。お母さんは翔子のお母さんでもあるでしょ? だから翔子はぼくのお姉ちゃんだよ」 見開かれた容子の瞳が、じわりと濡れて揺れた気がした。彼女はどこか切なそうに微笑むと、操の膝にあるワンピースへと視線を落とす。懐かしそうに目を細め、やがて静かに息をつくと口を開いた。 「翔子はね、私と血の繋がりがあるわけではないの」 「そうなの?」 ええ、と容子が頷いた。 「実の娘のように思っていたわ。その気持ちは今でも変わらない。だけど──」 容子はいったん言葉を切ると、悲しげにその瞳を伏せてしまう。 「私はそんな大切な娘の心に、寄り添うことができなかった」 ──お母さんあのね、私のそばには、いつも黒くて可愛いわんちゃんがいるの。私の大切なお友達なのよ! ──どうしてお母さんには視えないの? どうして私だけ、みんなと違うの? ──私があなたの、本当の子供じゃないから? まつ毛を震わせる彼女は、どこか遠くに想いを馳せている様子だった。大切に胸の奥にしまい込んでいた痛みの欠片に、ひとつひとつ触れては確かめるように。 「私の中にはずっと負い目があったのよ。同じものを視て、感じて、喜びや悲しみを共有できたならどんなにいいか。いつからか、あの子がどんどん遠くなっていくような気さえして……母親として、私はそんな自分が許せなかった」 容子は顔をあげると操を見つめた。ふわふわの耳がある頭を優しく撫でて、瞳を細めながら微笑んだ。 「でもね、操」 「うん。なぁに? お母さん」 「あなたを見つけたとき、とても嬉しかった。翔子が視ていた世界に、ようやく触れることができた気がして。私が離してしまったあの子の手を、あなたがもういちど繋いでくれたように思えるの。本当に感謝しているわ」 容子の指先はポカポカしていてくすぐったい。操は肩をすくめて笑いながら、耳をピクンと跳ねさせた。 (ぼく、ここに来てよかった) 動機はとても不純なものだった。人を化かすことで自分に自信をつけたくて。バカにしてくる奴らを、どうにかして見返してやりたくて。化け狸のくせにまともに術が使えない操は、里でもどこか身の置き所がないような気がしていた。だから本当は、ただ逃げだしただけだったのかもしれない。 だけど容子はそんな操に居場所をくれた。たくさんのことを教えてくれた。助けられてばかりいた自分が、彼女の救いになれていたことを誇らしく思う。 「お母さん」 「なぁに?」 「ぼくのお母さんになってくれてありがとう。ぼく、すごく幸せだった」 「私こそ」 容子が両腕を伸ばし、そっと操を抱き寄せる。 「あなたに会えてよかった」 容子の髪からは柔らかな花の香りがする。そのぬくもりに泣きたくなって、ぎゅっと下唇を噛み締めた。操はもうすぐ里に帰らなくてはならない。だけどどうしても、彼女にそれを打ち明けることができないでいる。 記憶を封じられてしまったら、操の存在によって救われたはずの容子の心は、再び翔子との絆を求めてさ迷うことになるのだろうか。それを思うと操の気持ちは大きく揺れたが、二度も子供と別れる悲しみを背負わせるよりはずっといい。つらくても、そう自分に言い聞かせるしかなかった。 (お母さんの中から、ぼくの思い出は消えるから。だから痛くないよ。今度こそ本当に大丈夫だからね、お母さん) 操にできるのは、せめて容子の中に自分という存在を残さないことだった。忘れられてしまったら、操はここに存在しなかったことになってしまう。それはとても悲しいことだけど。 (ぼくがぜんぶ持ってくよ。お母さんとの思い出、どんなに痛くてもずっと忘れないからね) こんなにも愛情深い人だからこそ、自分のことで痛みを増やしてほしくない。 「やぁね、しんみりしちゃって。なんだかお別れみたいじゃない」 おどけたようにクスクスと笑う容子に、操も精一杯の笑顔を返した。 「きっと翔子も許してくれるわ。可愛い弟がおめかしするんだもの」 「ほんと? 嬉しいな」 「さ、いらっしゃい。お着替えしましょう」 床に手をついて立ち上がる容子に、操は「うん!」と元気よく返事をした。 * 容子にワンピースを着せてもらった操は、さらに翔子の形見の麦わら帽子もかぶせてもらい、サンダルを引っかけて昼間の外に飛びだした。 「んー! 久しぶりのお外だ! あっつーい!」 ぐーんと背伸びをして、思いきり昼間の空気を吸い込んだ。 秋の訪れを阻むかのように、残暑の陽光がカンカンに照りつけている。長袖のパーカーなんか着てきたら、あっという間に汗だくでバテていただろう。 ワンピースでも暑いことに代わりはないが、せいぜい夜中にしか外を歩けなかったことに比べれば、このくらいへっちゃらだ。 ──と、思っていたのだが。 「やっぱ無理……ぼくって体力なさすぎ……?」 快適なエアコン生活ですっかり身体がなまっているのか、操は例の坂道を目前にヘバってしまった。電柱の影に身を寄せて、そのまましゃがみ込んでしまう。 こんなことで、山深い里までの道を越えることができるのだろうか。猛烈に自信がなくなってくる。 操は重たい息をつきながら坂を見上げた。喫茶・楽園は、ここを登ったずっと先にある。この長い傾斜を、甲洋は操を背負って登ったのだ。あの頃は今よりもっと暑かったのに。悪いことをしたなと、今さら思う。彼はケロリとしていたけれど。 (……甲洋、許してくれるかな) 先日の夜を思いだし、操は膝を抱えてうつむいた。 無感情に徹する彼を、あれほど怒らせてしまったのだ。普段から感情を抑え込んでいる人だからこそ、より恐ろしく感じられたのかもしれない。いっそ激しく怒鳴られたほうがマシと思えるくらい、沸々と静かに怒りを滲ませる甲洋には迫力があった。 「はぁ……」 「君、大丈夫?」 「ッ、? ぇっ、うわ!?」 突然ヌッと腰を屈めて覗き込んできた人物に、驚いた操は悲鳴をあげながら尻もちをついてしまった。 「来主……?」 そこには珍しく目を丸くした甲洋の姿があった。暑いなかうずくまっている人物が、まさか操だとは思いもしなかったのだろう。麦わら帽子のツバで顔は隠れていたし、なにせワンピースという格好だ。 「び、ビックリしたぁ! 心臓が飛び出すかと思ったよ!」 動悸する胸を押さえ、操は大きく息をついた。今まさに彼のことを考えていたのだ。おかげで坂道を登る手間は省けたが、二重の意味で驚いてしまった。 ワンピース姿でいることも忘れ、両足を開いて太ももを剥きだしにする操に、甲洋が軽く咳払いをした。目をそらしつつも、さりげなく右手を差しだしてくる。 「ありがとう」 手を取って立ち上がり、ワンピースの裾を叩いて汚れを払う。そんな操の仕草を、甲洋はただ物言いたげに見つめるだけだった。 「この格好? えへへー、似合う? お母さんが着せてくれたの!」 自慢げにワンピースの裾を翻し、クルンと回った。すると彼はどこか怪訝そうに目をそらし、わずかな沈黙のあと「似合わないよ」と吐き捨てた。 否定されるなんてつゆほども思わず、面食らった操はムッと眉を吊り上げる。 「なんでそんな意地悪言うの!? お母さんは似合うって言ってくれたもん!」 「……翔子のだろ、それ」 「そうだよ! お姉ちゃんのお下がり、いいでしょー?」 今度は誇らしい気持ちになって、白い歯を見せながらはつらつと笑った。太陽が燦々と照りつけるなか、甲洋はどこか眩しそうに目を眇めている。なにを思っているのか、その表情からは読み取れない。 操はついはしゃいでしまったことに軽く肩をすくめると、かしこまってうつむいた。そしてワンピースの裾を押さえるように両手を前で重ねて、ペコリと深く頭をさげる。 「甲洋、こないだはごめんなさい!」 脱げそうになった麦わら帽子を手で押さえ、顔をあげると彼を見上げた。 「ぼく、君に酷いこと言った。お母さんにも、お姉ちゃんにも……ショコラにも」 姿は現さないが、ショコラも傍にいるはずだ。彼女は基本的に、甲洋の危機を察知したときにだけ姿を見せる。それがないということは、今は警戒されていないということだ。そのことに少しホッとする。 「ぼくね、翔子お姉ちゃんが羨ましかったんだ。君やお母さんのこと、お姉ちゃんに独り占めされてるみたいで……ぼくだって、もっと君と仲良くなりたいのに」 「……どうして俺なんかと」 理解しえないといった様子の甲洋に、操はちょっぴり頬を染めながら「わかんない」と言って、情けない笑顔を向けた。 「いっぱい考えたけど、見つからなかった。明確な理由ってやつ。でもきっと……」 「きっと?」 操はモジモジと肩を揺らしながら、サンダルの爪先で地面を引っ掻いた。 「君が笑ったから、だと思う」 あのとき。この場所で、彼が笑ったから。 よく知りもしないくせに、操はショコラに嫉妬した。謎めいた青年の笑顔を、独り占めする犬神に。多分、あのときからこの気持ちは始まっていたのだと思う。人を化かすだけならば、厄介な犬神憑きなんかさっさと諦めればよかったはずなのに。 だけど操は甲洋に執着した。彼に振り向いてほしかったから。 「最初はね、ただ困らせてやるつもりで近づいたんだ。でも、気づいたらそんなことどうでもよくなってた。ただ君のことが知りたくて……ぼくを見て笑ってほしいって、そう思うようになったんだ」 「……」 「きっと君は、最初からぼくの特別だった」 甲洋は答えに窮したように押し黙っているだけだった。視線をわずかにうつむけて、身体の中からなにかを逃がすようにふぅっと長めの息をつく。それから静かに「俺も」と言った。 「言い過ぎた。ごめん」 軽く頭をさげた甲洋に、操は一瞬ポカンとしてしまった。彼はなにも悪くないのに。変なの、と思ったけれど、すぐに晴れやかな気持ちがこみ上げてきて笑顔を浮かべた。 「仲直りだね」 甲洋は少しだけ目元を和らげ、「そうだね」と言った。そして続けざまに、 「次の金曜は……?」 と、問いかけてきた。操はまた少しポカンとしてしまう。 あんなことがあって、先週は物の怪喫茶に行くことができなかった。どんな顔をして会いに行けばいいか分からなかったからだ。それでも彼は、操が来るのを待っていてくれたのだろうか。 嬉しいと思う反面、なにも答えることができなかった。やるべきことを終えた今、これ以上美羽たちを待たせておく理由がない。 今の操は夜目がきかないため、出発するなら明日の早朝になるだろう。次の金曜が訪れるころ、彼らの中から自分の存在はとっくに消えているのだ。 「来主?」 「……あ、うぅん。なんでもないよ!」 しおれかけていた顔をあげ、操は無理やり笑顔を作った。 「あのさ、ぼく、君にお願いがあるんだけど」 「……なに?」 「せっかく明るい時間に外に出たんだし、このあたりを少し歩いてみたいんだ。よかったら案内してよ」 だいぶ下手な誤魔化し方をしてしまったが、彼が深く追及してくることはなかった。少し引っかかっている様子は見せつつも、「いいけど」と了承してくれる。 「ありがとう! じゃあよろしくね!」 操は大喜びで甲洋の手をぎゅうっと握った。すると彼は一瞬ピクリと唇を動かし、目だけで何事かと問いかけてくる。 「はぐれたら困るもん。こうしてたら迷子にならないでしょ?」 「都会じゃあるまいし。迷子になるほど複雑じゃないよ」 「いいからいいから!」 満面の笑顔を見せる操に、甲洋はただむっつりと黙り込むだけだった。 ←戻る ・ 次へ→
翌日。
次の金曜まで待てない操は甲洋に会いに行くため、耳としっぽを隠すのによさそうな服を探していた。
「あっ、これいい! 帽子がついてるし!」
部屋の中央にペタリと座って、収納ボックスから薄手の長袖パーカーを取りだす。衣料品が詰まった大きなケースは容子が用意してくれたもので、中に入っている衣類や下着も彼女が買い与えてくれたものだ。
「でも下はどうしよう?」
操が持っているのはズボンばかりで、容子がわざわざしっぽを通すために穴を作ってくれている。ふかふかの大きなしっぽを隠すには、どれもゆとりがないものばかりだ。
「……あっ、そうだ!」
ふと閃いて、勢いよく立ち上がると洋服タンスに近づいた。ここには翔子の衣類が入っているため、今まで一度も触れたことはない。しかしお目当てのものを探すため、少し迷ったが開けてみることにした。
「あった!」
すると真っ先に探しものが見つかった。それはリビングにある写真立ての中で、翔子が着用していたのと同じ水色のワンピースだった。これだけ丈が長くてヒラヒラしてれば、難なくしっぽを隠せるだろう。
操はワンピースを取りだすと、部屋を飛びだして一階に向かった。
「お母さんお母さん! ぼくこれ着てもいい!?」
リビングでは窓際の床に腰をおろした容子が、陽の光を浴びながら洗濯物を畳んでいた。彼女は忙しなくやってきた操に目を丸くして、さらにその手にワンピースがあるのを見ると、いっそう驚いた様子で瞬きをした。
「あなたそれ、ワンピースよ? 女の子のお洋服なのだけど……」
「ダメ? ぼくがこれ着たら変かな?」
隣にちょこんと座った操が上目遣いを向けると、容子は「ふふっ」と肩を揺らして小さく笑った。
「あなたが着たいなら、いいと思うわ」
「ほんと? やったー!」
万歳をした操だったが、すぐにハッと気がついた。これはあくまでも翔子のワンピースなのだ。容子が許しても、はたして彼女はどうだろう。さんざん部屋を好き勝手に使っておいて、今さらのような気もするけれど。
「どうかしたの?」
急に黙り込んでうつむいた操の顔を、容子が首を傾げて覗き込んでくる。
「あのねお母さん。ぼくがこれ着て、翔子お姉ちゃんはどう思うかな?」
「お姉ちゃん……?」
操はこくりと頷いた。
「あなたはぼくのお母さんになってくれた人だから。お母さんは翔子のお母さんでもあるでしょ? だから翔子はぼくのお姉ちゃんだよ」
見開かれた容子の瞳が、じわりと濡れて揺れた気がした。彼女はどこか切なそうに微笑むと、操の膝にあるワンピースへと視線を落とす。懐かしそうに目を細め、やがて静かに息をつくと口を開いた。
「翔子はね、私と血の繋がりがあるわけではないの」
「そうなの?」
ええ、と容子が頷いた。
「実の娘のように思っていたわ。その気持ちは今でも変わらない。だけど──」
容子はいったん言葉を切ると、悲しげにその瞳を伏せてしまう。
「私はそんな大切な娘の心に、寄り添うことができなかった」
──お母さんあのね、私のそばには、いつも黒くて可愛いわんちゃんがいるの。私の大切なお友達なのよ!
──どうしてお母さんには視えないの? どうして私だけ、みんなと違うの?
──私があなたの、本当の子供じゃないから?
まつ毛を震わせる彼女は、どこか遠くに想いを馳せている様子だった。大切に胸の奥にしまい込んでいた痛みの欠片に、ひとつひとつ触れては確かめるように。
「私の中にはずっと負い目があったのよ。同じものを視て、感じて、喜びや悲しみを共有できたならどんなにいいか。いつからか、あの子がどんどん遠くなっていくような気さえして……母親として、私はそんな自分が許せなかった」
容子は顔をあげると操を見つめた。ふわふわの耳がある頭を優しく撫でて、瞳を細めながら微笑んだ。
「でもね、操」
「うん。なぁに? お母さん」
「あなたを見つけたとき、とても嬉しかった。翔子が視ていた世界に、ようやく触れることができた気がして。私が離してしまったあの子の手を、あなたがもういちど繋いでくれたように思えるの。本当に感謝しているわ」
容子の指先はポカポカしていてくすぐったい。操は肩をすくめて笑いながら、耳をピクンと跳ねさせた。
(ぼく、ここに来てよかった)
動機はとても不純なものだった。人を化かすことで自分に自信をつけたくて。バカにしてくる奴らを、どうにかして見返してやりたくて。化け狸のくせにまともに術が使えない操は、里でもどこか身の置き所がないような気がしていた。だから本当は、ただ逃げだしただけだったのかもしれない。
だけど容子はそんな操に居場所をくれた。たくさんのことを教えてくれた。助けられてばかりいた自分が、彼女の救いになれていたことを誇らしく思う。
「お母さん」
「なぁに?」
「ぼくのお母さんになってくれてありがとう。ぼく、すごく幸せだった」
「私こそ」
容子が両腕を伸ばし、そっと操を抱き寄せる。
「あなたに会えてよかった」
容子の髪からは柔らかな花の香りがする。そのぬくもりに泣きたくなって、ぎゅっと下唇を噛み締めた。操はもうすぐ里に帰らなくてはならない。だけどどうしても、彼女にそれを打ち明けることができないでいる。
記憶を封じられてしまったら、操の存在によって救われたはずの容子の心は、再び翔子との絆を求めてさ迷うことになるのだろうか。それを思うと操の気持ちは大きく揺れたが、二度も子供と別れる悲しみを背負わせるよりはずっといい。つらくても、そう自分に言い聞かせるしかなかった。
(お母さんの中から、ぼくの思い出は消えるから。だから痛くないよ。今度こそ本当に大丈夫だからね、お母さん)
操にできるのは、せめて容子の中に自分という存在を残さないことだった。忘れられてしまったら、操はここに存在しなかったことになってしまう。それはとても悲しいことだけど。
(ぼくがぜんぶ持ってくよ。お母さんとの思い出、どんなに痛くてもずっと忘れないからね)
こんなにも愛情深い人だからこそ、自分のことで痛みを増やしてほしくない。
「やぁね、しんみりしちゃって。なんだかお別れみたいじゃない」
おどけたようにクスクスと笑う容子に、操も精一杯の笑顔を返した。
「きっと翔子も許してくれるわ。可愛い弟がおめかしするんだもの」
「ほんと? 嬉しいな」
「さ、いらっしゃい。お着替えしましょう」
床に手をついて立ち上がる容子に、操は「うん!」と元気よく返事をした。
*
容子にワンピースを着せてもらった操は、さらに翔子の形見の麦わら帽子もかぶせてもらい、サンダルを引っかけて昼間の外に飛びだした。
「んー! 久しぶりのお外だ! あっつーい!」
ぐーんと背伸びをして、思いきり昼間の空気を吸い込んだ。
秋の訪れを阻むかのように、残暑の陽光がカンカンに照りつけている。長袖のパーカーなんか着てきたら、あっという間に汗だくでバテていただろう。
ワンピースでも暑いことに代わりはないが、せいぜい夜中にしか外を歩けなかったことに比べれば、このくらいへっちゃらだ。
──と、思っていたのだが。
「やっぱ無理……ぼくって体力なさすぎ……?」
快適なエアコン生活ですっかり身体がなまっているのか、操は例の坂道を目前にヘバってしまった。電柱の影に身を寄せて、そのまましゃがみ込んでしまう。
こんなことで、山深い里までの道を越えることができるのだろうか。猛烈に自信がなくなってくる。
操は重たい息をつきながら坂を見上げた。喫茶・楽園は、ここを登ったずっと先にある。この長い傾斜を、甲洋は操を背負って登ったのだ。あの頃は今よりもっと暑かったのに。悪いことをしたなと、今さら思う。彼はケロリとしていたけれど。
(……甲洋、許してくれるかな)
先日の夜を思いだし、操は膝を抱えてうつむいた。
無感情に徹する彼を、あれほど怒らせてしまったのだ。普段から感情を抑え込んでいる人だからこそ、より恐ろしく感じられたのかもしれない。いっそ激しく怒鳴られたほうがマシと思えるくらい、沸々と静かに怒りを滲ませる甲洋には迫力があった。
「はぁ……」
「君、大丈夫?」
「ッ、? ぇっ、うわ!?」
突然ヌッと腰を屈めて覗き込んできた人物に、驚いた操は悲鳴をあげながら尻もちをついてしまった。
「来主……?」
そこには珍しく目を丸くした甲洋の姿があった。暑いなかうずくまっている人物が、まさか操だとは思いもしなかったのだろう。麦わら帽子のツバで顔は隠れていたし、なにせワンピースという格好だ。
「び、ビックリしたぁ! 心臓が飛び出すかと思ったよ!」
動悸する胸を押さえ、操は大きく息をついた。今まさに彼のことを考えていたのだ。おかげで坂道を登る手間は省けたが、二重の意味で驚いてしまった。
ワンピース姿でいることも忘れ、両足を開いて太ももを剥きだしにする操に、甲洋が軽く咳払いをした。目をそらしつつも、さりげなく右手を差しだしてくる。
「ありがとう」
手を取って立ち上がり、ワンピースの裾を叩いて汚れを払う。そんな操の仕草を、甲洋はただ物言いたげに見つめるだけだった。
「この格好? えへへー、似合う? お母さんが着せてくれたの!」
自慢げにワンピースの裾を翻し、クルンと回った。すると彼はどこか怪訝そうに目をそらし、わずかな沈黙のあと「似合わないよ」と吐き捨てた。
否定されるなんてつゆほども思わず、面食らった操はムッと眉を吊り上げる。
「なんでそんな意地悪言うの!? お母さんは似合うって言ってくれたもん!」
「……翔子のだろ、それ」
「そうだよ! お姉ちゃんのお下がり、いいでしょー?」
今度は誇らしい気持ちになって、白い歯を見せながらはつらつと笑った。太陽が燦々と照りつけるなか、甲洋はどこか眩しそうに目を眇めている。なにを思っているのか、その表情からは読み取れない。
操はついはしゃいでしまったことに軽く肩をすくめると、かしこまってうつむいた。そしてワンピースの裾を押さえるように両手を前で重ねて、ペコリと深く頭をさげる。
「甲洋、こないだはごめんなさい!」
脱げそうになった麦わら帽子を手で押さえ、顔をあげると彼を見上げた。
「ぼく、君に酷いこと言った。お母さんにも、お姉ちゃんにも……ショコラにも」
姿は現さないが、ショコラも傍にいるはずだ。彼女は基本的に、甲洋の危機を察知したときにだけ姿を見せる。それがないということは、今は警戒されていないということだ。そのことに少しホッとする。
「ぼくね、翔子お姉ちゃんが羨ましかったんだ。君やお母さんのこと、お姉ちゃんに独り占めされてるみたいで……ぼくだって、もっと君と仲良くなりたいのに」
「……どうして俺なんかと」
理解しえないといった様子の甲洋に、操はちょっぴり頬を染めながら「わかんない」と言って、情けない笑顔を向けた。
「いっぱい考えたけど、見つからなかった。明確な理由ってやつ。でもきっと……」
「きっと?」
操はモジモジと肩を揺らしながら、サンダルの爪先で地面を引っ掻いた。
「君が笑ったから、だと思う」
あのとき。この場所で、彼が笑ったから。
よく知りもしないくせに、操はショコラに嫉妬した。謎めいた青年の笑顔を、独り占めする犬神に。多分、あのときからこの気持ちは始まっていたのだと思う。人を化かすだけならば、厄介な犬神憑きなんかさっさと諦めればよかったはずなのに。
だけど操は甲洋に執着した。彼に振り向いてほしかったから。
「最初はね、ただ困らせてやるつもりで近づいたんだ。でも、気づいたらそんなことどうでもよくなってた。ただ君のことが知りたくて……ぼくを見て笑ってほしいって、そう思うようになったんだ」
「……」
「きっと君は、最初からぼくの特別だった」
甲洋は答えに窮したように押し黙っているだけだった。視線をわずかにうつむけて、身体の中からなにかを逃がすようにふぅっと長めの息をつく。それから静かに「俺も」と言った。
「言い過ぎた。ごめん」
軽く頭をさげた甲洋に、操は一瞬ポカンとしてしまった。彼はなにも悪くないのに。変なの、と思ったけれど、すぐに晴れやかな気持ちがこみ上げてきて笑顔を浮かべた。
「仲直りだね」
甲洋は少しだけ目元を和らげ、「そうだね」と言った。そして続けざまに、
「次の金曜は……?」
と、問いかけてきた。操はまた少しポカンとしてしまう。
あんなことがあって、先週は物の怪喫茶に行くことができなかった。どんな顔をして会いに行けばいいか分からなかったからだ。それでも彼は、操が来るのを待っていてくれたのだろうか。
嬉しいと思う反面、なにも答えることができなかった。やるべきことを終えた今、これ以上美羽たちを待たせておく理由がない。
今の操は夜目がきかないため、出発するなら明日の早朝になるだろう。次の金曜が訪れるころ、彼らの中から自分の存在はとっくに消えているのだ。
「来主?」
「……あ、うぅん。なんでもないよ!」
しおれかけていた顔をあげ、操は無理やり笑顔を作った。
「あのさ、ぼく、君にお願いがあるんだけど」
「……なに?」
「せっかく明るい時間に外に出たんだし、このあたりを少し歩いてみたいんだ。よかったら案内してよ」
だいぶ下手な誤魔化し方をしてしまったが、彼が深く追及してくることはなかった。少し引っかかっている様子は見せつつも、「いいけど」と了承してくれる。
「ありがとう! じゃあよろしくね!」
操は大喜びで甲洋の手をぎゅうっと握った。すると彼は一瞬ピクリと唇を動かし、目だけで何事かと問いかけてくる。
「はぐれたら困るもん。こうしてたら迷子にならないでしょ?」
「都会じゃあるまいし。迷子になるほど複雑じゃないよ」
「いいからいいから!」
満面の笑顔を見せる操に、甲洋はただむっつりと黙り込むだけだった。
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