2025/06/16 Mon 14 「ありがとう。話してくれて」 彼の声が途切れたころ、雨は小雨になっていた。バタバタと叩きつけるようだった音が、サラサラと包み込むようなものに変わっている。 喋りすぎてしまったとばかりに、甲洋は軽くうなだれた。重く息をつく仕草は、自身に嫌気がさしているようにも見える。 だけど操は嬉しかった。彼の口から、ようやく翔子の話を聞けたことが。 その記憶は悲しくて、切ないばかりであるはずなのに、どこかみずみずしくもあった。彼が翔子に向けた想いは、操が甲洋に向けるものと似ているような、そんな気がする。 『クゥン……』 気づけば甲洋の足元に、ショコラが姿を現していた。行儀よくお座りをして、今の主人を気遣わしげに見上げている。 ふと、操はもたげた疑問に首をかしげた。 「ねぇ、ショコラはどうしてショコラなの? お姉ちゃんはプクって名前をつけたんでしょ?」 操の問いかけに、甲洋はそっけなく「さぁ」と言って目を背けるだけだった。 「勝手に名前変えちゃったの? なんで?」 その複雑な心境などつゆ知らず、操はさらに問いを重ねた。すると甲洋が小さく咳払いをして、ショコラがすっくと立ち上がる。 「うわっ、待って! 分かった! 多分ぼく聞いちゃダメなこと聞いた! もう聞かないから!」 慌てる操に、ショコラはフンッと鼻息を漏らした。その一連のやり取りがよほど可笑しかったのか、甲洋が思わずといった様子でふっと笑みを漏らし、ショコラの頭を両手でくしゃくしゃと撫でている。 それを見て、操は思いきり頬を膨らませた。甲洋の頬を両手で挟み、無理やり顔をこちらに向かせる。 「な、なに?」 「ねぇっ、ぼくにも笑ってよ! ショコラばっかりズルいよ!」 「ズルいって……」 「だっていっつもショコラばっかりなんだもん!」 急に癇癪を起こしたようになっている操に、甲洋がきょとんとした顔をした。何度もパチパチとまばたきをしたあと、糸が切れたようにふっと噴きだす。 「ほんと、変なタヌキだな」 肩を揺らして笑う姿に、操は目を丸くした。その笑顔はどこかあどけなさがあり、まるで少年に返ったかのようだった。一騎と野山を駆け回っていたころ、彼はきっとこんなふうに笑っていたのだ。 「嬉しい。やっとぼくに笑ってくれた!」 「わかったから、もういいだろ」 困ったように眉をハの字にした甲洋が、頬にかかっている手を外そうとする。けれど操はイタズラっ子のように「へへ」と笑って、ぐっと顔を近づけた。 「ッ、……!」 一瞬だけ唇同士が触れ合ったあと、彼は石のように固まった。唖然とした顔がちょっと間抜けにも見えて、こういう表情もいいなと思う。 「忘れないからね」 瞳を細めてささやくと、みるみる赤くなっていく頬を開放した。そして心の中にとめどなく溢れるものを、そのままの形で言葉に乗せる。 「ぼく、甲洋のことが好き!」 いちばん伝えたかったのはこれだったのだと、このときやっと気がついた。甲洋が翔子を想ったように、操は彼のことが大好きだ。里から逃げだすことなく、世界を知らないままだったなら、きっとこの感情には出会えなかった。 (やっぱりここに来てよかった!) 軽やかにベンチから腰を上げ、泣き止んだばかりの空の下へ飛びだした。雨に濡れた夏草が、むせ返るほど濃く青々とした香りを立ち上らせている。空を覆う雲は白く輝き、陽の光の気配を感じさせていた。 澄んだ空気に深呼吸をすると、操は両手を後ろへやりながら振り返る。 「甲洋。ぼく、山に帰るよ」 「ぇ……?」 「友達が心配して迎えに来てくれたんだ。だから、一緒に帰ることにした」 呆然としていた甲洋が、なにかを言いかけたように少しだけ唇を震わせた。 「帰ったら、たぶんもうここには二度と来られない。だけどその前に、みんなの記憶を封印することになってるんだ。だからぼくはここにいなかったことになる。君もお母さんも、誰も痛くならないようにして行くから……安心して」 もう思い残すことはないはずなのに、込み上げる寂しさに目頭が熱くなるのを感じた。きっとこれから、何度でも思いだしてはこんな気持ちになるんだろう。 それでもぜんぶ持っていくと決めたから、泣くのをこらえて笑顔を浮かべた。 「君に会えてよかった。今までありがとう……元気でね!」 言うだけ言うと、くるりと背を向けて歩きだす。けれどすぐに「来主!」という声に呼び止められて、右の手首が掴まれる。驚いて振り返ると、そこにはひどく追いつめられたような表情があった。 「……俺は、」 「甲洋?」 「俺はたぶん、忘れないよ」 「え?」 「来主のことを、ずっと覚えてる」 あまりにも切実な眼差しに、操は目をパチクリさせたあと小さく笑った。 「君なら、本当に覚えててくれそうな気がするよ」 いくら操が未熟な化け狸でも、普通の人間くらいは簡単に化かせていたはずだ。けれど甲洋が相手だとそうはいかなかった。だからもしかしたら、彼なら真矢の術だって跳ね返してしまうかもしれない。 「でも、忘れないと痛いままだよ。君はよく知ってるはずでしょ?」 甲洋はうつむくと、空いているほうの手で自分の胸を強く押さえた。握った拳を震わせて、まつ毛を伏せながら下唇を噛み締めている。 「そこ、痛いの?」 操が思わず問いかけると、彼は「うん」とうなずいて弱々しい笑みを浮かべた。 「とっくに痛いよ。心を動かすのは、やっぱり怖いな」 言うやいなや、甲洋は操の手を引いて抱き寄せた。その勢いで脱げてしまった麦わら帽子が、ふわりと漂いながら濡れた地面に落ちていく。 「あっ……!」 帽子に気を取られる操の身体を、甲洋がさらに強く抱きしめた。身動きひとつ取れないまま、密着する体温に頬がカァッと熱を持つ。 目を白黒させる操のふかふかな耳元で、彼は「だから嫌だったんだ」と絞り出すような声で言った。 「誰かを好きになるのも、期待するのも」 「甲洋……」 「俺が欲しいと思った人たちは、みんな俺を置いていなくなる。俺の気持ちなんか、知りもしないで」 声はひどく掠れて、その身体は怯えたように震えている。 出会った頃、彼はただ息をするだけの人形のようだった。心を殺して、誰にも動かされないように。そうやって生きてきたはずの甲洋が、今は不器用に感情を発露させている。もどかしさにも似た胸の苦しさに、操は息ができなくなった。 「……行くな」 低く紡がれた言葉に、皮膚が痺れたようになる。 「行くなよ来主。俺を置いて、どこにも行くな」 それはあの日、少年だった甲洋が言えなかったこと。臆病なまま大人になった彼は、巡り巡ってようやくその言葉を口にした。 操は呆然としながらも、胸が激しく震えるような感覚を味わった。彼と仲直りをしたら、本当はそれ以上なにも言わずに去るつもりだった。だけど操は彼との時間を共有し、最後にわざわざ別れを告げた。それはきっと引き止めてほしかったからなのだと、今さらになって気がついた。 「でもっ、でもぼく……こんなだし。こんな、中途半端な姿で……」 人にもなれず、ましてやタヌキにも戻れない。こんな宙ぶらりんな状態で、理由もなくいつまでも人里にとどまるべきではない。総士と真矢の言い分を頭の中で反芻し、操のなかに迷いが生じる。 甲洋の言葉が嬉しくてしかたないのに、どうしたらいいか分からなくなってしまった。 「来主はどうしたい?」 「ぼ、ぼくは……」 すると甲洋がわずかに身体を離し、操の瞳を覗き込みながら言い放った。 「俺は来主と一緒にいたい。だから、帰したくないと思ってる」 心をあらわにした甲洋には、もはや一切の躊躇がなかった。彼は実に単純で、なおかつ明確な理由を口にしたのだ。一緒にいたいから──たったそれだけのことでいいのなら、操のなかにだってとっくの昔に答えは出ている。 走りだした気持ちを止めることなく、操は「ぼくも!」と声をあげていた。 「君と一緒にいたいから、だから、帰りたくない!」 甲洋は一瞬だけ目を見開き、それからじわりと滲むように顔をほころばせた。操の身体を再び抱きしめ、「俺も来主が好きだよ」と、語尾を震わせながら言う。 操は舞い上がるような思いで「うん」とうなずき、その背中を強く抱き返した。 そのときふと、遠くの方でなにかがふわりと揺れた気がした。甲洋の肩越し。雲間からさす光の柱に照らされて、写真でしか見たことがない少女がたたずんでいる。風に揺れるワンピース。白い手で麦わら帽子を押さえながら、彼女は花が咲いたように微笑んで、やがてゆっくりと姿を消した。 「──甲洋」 溢れてきた涙に頬を濡らして、その名を呼ぶと腕の力がわずかに緩む。甲洋の指先が、そっと涙をぬぐってくれた。操はくすぐったさに肩をすくめて、笑いながら「なんでもない」と首を振った。 「君がここにいてくれてよかったって、そう思っただけ」 限りなく夏に近い秋の日差しが、二人の上に降り注ぐ。雨上がりの風に髪をなびかせ、甲洋がどこか懐かしそうに瞳を細めて微笑んだ。 ここに来てよかった。そして、彼と出会えてよかった。家に帰ったら翔子に会えたことを、大好きな母に報告しよう。それから、真矢とちゃんと話をしないと。 これからのことを思いながら、操はぐんと伸びをして甲洋に口づけた。 * その夜、操は美羽たちに里に帰らない意思を伝えた。 場所は甲洋の店で、あらかじめ総士にも事の成り行きを話した上で、立ち会ってもらうことにした。彼の理解を得られたのはとても心強かった。総士が人里にとどまる理由も、操と似たり寄ったりだったからだろう。 話し合いは思いのほかすんなり終わった。 勘がいい真矢は、薄々こうなることを予見していたのかもしれない。「皆城くんがいるなら」と、渋々ではあるが最大の譲歩をしてくれた。当の総士は勝手に操のお目付け役に任命されて、「どうして僕が」とこめかみを押さえていた。 帰り際、「もう会えないの?」と涙ぐむ美羽に、操も少し泣きそうになった。 少なくとも元の姿に戻れるようになるまでは、里帰りすらままならない。だけどいつか必ずまた会おうと約束すると、美羽は笑顔で操の頬にキスをしてくれた。 そして二匹は里に帰っていった。 ──それから数日後のこと。 「あれ? お母さん、なにしてるの?」 庭でクーと日向ぼっこをして戻ってくると、自室で容子が翔子のタンスを開け、取りだした中身を床に積み重ねているところだった。 「翔子の服を整理してるのよ。着ないものはよそに寄付しようかと思って」 「寄付? あげちゃうってこと?」 「そうよ。ずっと入れっぱなしじゃ、お洋服だって可哀想でしょう?」 「でもそれ、ぜんぶ翔子お姉ちゃんの形見でしょ?」 操は腰を下ろしている容子の隣に自分も座り、並んでいる衣服を見やる。すると容子はいちど目を閉じ、「いいのよ」と言って晴れやかな笑顔を浮かべた。 「そろそろ前を向いて歩かないとね」 「お母さん……」 「あなたも、着たいものがあったら選んで分けておいてちょうだい」 「……うん。わかった!」 先日、操は翔子と会ったことを容子に話した。笑ってたよと伝えたら、彼女は嬉しそうに涙を滲ませていた。忘れずにいることと、縛られ続けることはまるで違っていて、容子のなかでそれが一つの区切りになったのかもしれない。 その笑顔は出会った頃よりもずっと明るくて、とても綺麗だと操は思った。 「ところで、今夜も甲洋くんのところへ行くの?」 床に積まれた服の中から、しっぽが隠せそうなものを物色しながら「うん」とうなずく。ここ数日は毎晩のように甲洋のところへ遊びに行っているのだが、こっそり家を抜け出そうとしていたところを、容子に見つかってしまった。だからそれ以来、出かけるときはあらかじめ言っておくようになった。 「あまり遅くなってはダメよ」 容子が心配そうに眉根を寄せている。 「大丈夫だよ。いつも日付が変わる前には──あ、」 そこでふと気がついた。日付が変わるまでには帰るように心がけているが、今夜は物の怪喫茶の営業日だ。操は今日からバイトとして手伝うことになっている。丑三つ時を過ぎるまで営業するため、余裕で0時は超えてしまう。 どうしようかなと思ったが、すぐにまぁいいやと思い直した。 「これから遅くなる日は、甲洋んとこに泊めてもらうよ!」 「勝手に決めたらご迷惑になるわよ」 「へーきへーき! たぶんダメって言わないし!」 「この子ったら……」 翔子の衣類を膝の上でたたみ直しながら、容子が「あとで甲洋くんに電話しておかないと」と独り言を漏らしている。もしかしてこういうのを過保護というのかもしれないと、操はつい思ってしまった。 * 「コーヒーとジュース、それからケーキお待ちどうさま!」 夜、操は初めてのバイトに勤しんでいた。 物の怪喫茶ではしっぽも耳も隠さなくていい。いつも通りの服装に、支給された黒いエプロンをするだけだ。接客はいつも甲洋がしているのを観察していたこともあり、特に苦労するということはなかった。 二人がけの席には女性の幽霊が向かい合って座っていた。会話をしているわけではなさそうだが、どことなく楽しそうに身体を揺らしている。 片方は顔が隠れるほど長い黒髪をしており、白いワンピースを着ていた。もう片方は血に染まったワンピースを着ていて、その足元に小学生くらいの男の子が、パンツ一丁で体育座りしている。三人ともこの店の常連だ。 なにかの映画でVSしてそうだなぁ、なんて思いつつカウンター席の方に戻ると、別の席に品物を運び終えた甲洋が戻ってきて、「お疲れ」と言ってくれた。 「甲洋もお疲れ様!」 操はニッコリ笑うと、背伸びをしてそのほっぺたにキスをした。すると甲洋に「こら」と言われて、顔を手で押さえられてしまう。 「なんでぇ?」 「営業中はダメだ」 「ちぇー」 美羽にしてもらったのが嬉しかったから、同じことをしただけなのに。ぶぅと唇を尖らせたが、気を取り直して「じゃあ終わったらいいの?」と聞いてみた。 「……いいよ」 甲洋は短く答えると目を泳がせた。厨房に立つウサ耳男はこちらに背を向け、今夜も訪れるであろう化け狐のために、お稲荷さんを作っている。席をいっぱいに埋めている物の怪たちは、ドリンクとフードに夢中でこちらをいっさい気にしていない。足元にいる犬神は明後日の方を見て、くぁ、と大きな欠伸をしている。 それらを確認した甲洋に、肩をグイッと抱き寄せられた。あっ、と目を丸くする操のタヌキ耳に、甘ったるいささやき声が吹き込まれる。 「そのときは、俺からするから」 彼はそれだけ言うと、すぐに身体を離して厨房へ手伝いに行ってしまった。髪の隙間からのぞく耳たぶが、ほんのり赤くなっているのが見える。 吐息の感触が残る耳を手で押さえ、操はポカンとしながら顔を赤らめた。心臓がものすごい速さでドキドキしている。最近ではすっかり慣れたと思っていたお香の匂いで、頭が少しクラクラしてきた。 「……うん、待ってるね」 操はしっぽをゆらゆらと左右に揺らし、へにゃんと笑ってうなずいた。 物ノ怪喫茶子狸譚 / 了 ←戻る ・ Wavebox👏
「ありがとう。話してくれて」
彼の声が途切れたころ、雨は小雨になっていた。バタバタと叩きつけるようだった音が、サラサラと包み込むようなものに変わっている。
喋りすぎてしまったとばかりに、甲洋は軽くうなだれた。重く息をつく仕草は、自身に嫌気がさしているようにも見える。
だけど操は嬉しかった。彼の口から、ようやく翔子の話を聞けたことが。
その記憶は悲しくて、切ないばかりであるはずなのに、どこかみずみずしくもあった。彼が翔子に向けた想いは、操が甲洋に向けるものと似ているような、そんな気がする。
『クゥン……』
気づけば甲洋の足元に、ショコラが姿を現していた。行儀よくお座りをして、今の主人を気遣わしげに見上げている。
ふと、操はもたげた疑問に首をかしげた。
「ねぇ、ショコラはどうしてショコラなの? お姉ちゃんはプクって名前をつけたんでしょ?」
操の問いかけに、甲洋はそっけなく「さぁ」と言って目を背けるだけだった。
「勝手に名前変えちゃったの? なんで?」
その複雑な心境などつゆ知らず、操はさらに問いを重ねた。すると甲洋が小さく咳払いをして、ショコラがすっくと立ち上がる。
「うわっ、待って! 分かった! 多分ぼく聞いちゃダメなこと聞いた! もう聞かないから!」
慌てる操に、ショコラはフンッと鼻息を漏らした。その一連のやり取りがよほど可笑しかったのか、甲洋が思わずといった様子でふっと笑みを漏らし、ショコラの頭を両手でくしゃくしゃと撫でている。
それを見て、操は思いきり頬を膨らませた。甲洋の頬を両手で挟み、無理やり顔をこちらに向かせる。
「な、なに?」
「ねぇっ、ぼくにも笑ってよ! ショコラばっかりズルいよ!」
「ズルいって……」
「だっていっつもショコラばっかりなんだもん!」
急に癇癪を起こしたようになっている操に、甲洋がきょとんとした顔をした。何度もパチパチとまばたきをしたあと、糸が切れたようにふっと噴きだす。
「ほんと、変なタヌキだな」
肩を揺らして笑う姿に、操は目を丸くした。その笑顔はどこかあどけなさがあり、まるで少年に返ったかのようだった。一騎と野山を駆け回っていたころ、彼はきっとこんなふうに笑っていたのだ。
「嬉しい。やっとぼくに笑ってくれた!」
「わかったから、もういいだろ」
困ったように眉をハの字にした甲洋が、頬にかかっている手を外そうとする。けれど操はイタズラっ子のように「へへ」と笑って、ぐっと顔を近づけた。
「ッ、……!」
一瞬だけ唇同士が触れ合ったあと、彼は石のように固まった。唖然とした顔がちょっと間抜けにも見えて、こういう表情もいいなと思う。
「忘れないからね」
瞳を細めてささやくと、みるみる赤くなっていく頬を開放した。そして心の中にとめどなく溢れるものを、そのままの形で言葉に乗せる。
「ぼく、甲洋のことが好き!」
いちばん伝えたかったのはこれだったのだと、このときやっと気がついた。甲洋が翔子を想ったように、操は彼のことが大好きだ。里から逃げだすことなく、世界を知らないままだったなら、きっとこの感情には出会えなかった。
(やっぱりここに来てよかった!)
軽やかにベンチから腰を上げ、泣き止んだばかりの空の下へ飛びだした。雨に濡れた夏草が、むせ返るほど濃く青々とした香りを立ち上らせている。空を覆う雲は白く輝き、陽の光の気配を感じさせていた。
澄んだ空気に深呼吸をすると、操は両手を後ろへやりながら振り返る。
「甲洋。ぼく、山に帰るよ」
「ぇ……?」
「友達が心配して迎えに来てくれたんだ。だから、一緒に帰ることにした」
呆然としていた甲洋が、なにかを言いかけたように少しだけ唇を震わせた。
「帰ったら、たぶんもうここには二度と来られない。だけどその前に、みんなの記憶を封印することになってるんだ。だからぼくはここにいなかったことになる。君もお母さんも、誰も痛くならないようにして行くから……安心して」
もう思い残すことはないはずなのに、込み上げる寂しさに目頭が熱くなるのを感じた。きっとこれから、何度でも思いだしてはこんな気持ちになるんだろう。
それでもぜんぶ持っていくと決めたから、泣くのをこらえて笑顔を浮かべた。
「君に会えてよかった。今までありがとう……元気でね!」
言うだけ言うと、くるりと背を向けて歩きだす。けれどすぐに「来主!」という声に呼び止められて、右の手首が掴まれる。驚いて振り返ると、そこにはひどく追いつめられたような表情があった。
「……俺は、」
「甲洋?」
「俺はたぶん、忘れないよ」
「え?」
「来主のことを、ずっと覚えてる」
あまりにも切実な眼差しに、操は目をパチクリさせたあと小さく笑った。
「君なら、本当に覚えててくれそうな気がするよ」
いくら操が未熟な化け狸でも、普通の人間くらいは簡単に化かせていたはずだ。けれど甲洋が相手だとそうはいかなかった。だからもしかしたら、彼なら真矢の術だって跳ね返してしまうかもしれない。
「でも、忘れないと痛いままだよ。君はよく知ってるはずでしょ?」
甲洋はうつむくと、空いているほうの手で自分の胸を強く押さえた。握った拳を震わせて、まつ毛を伏せながら下唇を噛み締めている。
「そこ、痛いの?」
操が思わず問いかけると、彼は「うん」とうなずいて弱々しい笑みを浮かべた。
「とっくに痛いよ。心を動かすのは、やっぱり怖いな」
言うやいなや、甲洋は操の手を引いて抱き寄せた。その勢いで脱げてしまった麦わら帽子が、ふわりと漂いながら濡れた地面に落ちていく。
「あっ……!」
帽子に気を取られる操の身体を、甲洋がさらに強く抱きしめた。身動きひとつ取れないまま、密着する体温に頬がカァッと熱を持つ。
目を白黒させる操のふかふかな耳元で、彼は「だから嫌だったんだ」と絞り出すような声で言った。
「誰かを好きになるのも、期待するのも」
「甲洋……」
「俺が欲しいと思った人たちは、みんな俺を置いていなくなる。俺の気持ちなんか、知りもしないで」
声はひどく掠れて、その身体は怯えたように震えている。
出会った頃、彼はただ息をするだけの人形のようだった。心を殺して、誰にも動かされないように。そうやって生きてきたはずの甲洋が、今は不器用に感情を発露させている。もどかしさにも似た胸の苦しさに、操は息ができなくなった。
「……行くな」
低く紡がれた言葉に、皮膚が痺れたようになる。
「行くなよ来主。俺を置いて、どこにも行くな」
それはあの日、少年だった甲洋が言えなかったこと。臆病なまま大人になった彼は、巡り巡ってようやくその言葉を口にした。
操は呆然としながらも、胸が激しく震えるような感覚を味わった。彼と仲直りをしたら、本当はそれ以上なにも言わずに去るつもりだった。だけど操は彼との時間を共有し、最後にわざわざ別れを告げた。それはきっと引き止めてほしかったからなのだと、今さらになって気がついた。
「でもっ、でもぼく……こんなだし。こんな、中途半端な姿で……」
人にもなれず、ましてやタヌキにも戻れない。こんな宙ぶらりんな状態で、理由もなくいつまでも人里にとどまるべきではない。総士と真矢の言い分を頭の中で反芻し、操のなかに迷いが生じる。
甲洋の言葉が嬉しくてしかたないのに、どうしたらいいか分からなくなってしまった。
「来主はどうしたい?」
「ぼ、ぼくは……」
すると甲洋がわずかに身体を離し、操の瞳を覗き込みながら言い放った。
「俺は来主と一緒にいたい。だから、帰したくないと思ってる」
心をあらわにした甲洋には、もはや一切の躊躇がなかった。彼は実に単純で、なおかつ明確な理由を口にしたのだ。一緒にいたいから──たったそれだけのことでいいのなら、操のなかにだってとっくの昔に答えは出ている。
走りだした気持ちを止めることなく、操は「ぼくも!」と声をあげていた。
「君と一緒にいたいから、だから、帰りたくない!」
甲洋は一瞬だけ目を見開き、それからじわりと滲むように顔をほころばせた。操の身体を再び抱きしめ、「俺も来主が好きだよ」と、語尾を震わせながら言う。
操は舞い上がるような思いで「うん」とうなずき、その背中を強く抱き返した。
そのときふと、遠くの方でなにかがふわりと揺れた気がした。甲洋の肩越し。雲間からさす光の柱に照らされて、写真でしか見たことがない少女がたたずんでいる。風に揺れるワンピース。白い手で麦わら帽子を押さえながら、彼女は花が咲いたように微笑んで、やがてゆっくりと姿を消した。
「──甲洋」
溢れてきた涙に頬を濡らして、その名を呼ぶと腕の力がわずかに緩む。甲洋の指先が、そっと涙をぬぐってくれた。操はくすぐったさに肩をすくめて、笑いながら「なんでもない」と首を振った。
「君がここにいてくれてよかったって、そう思っただけ」
限りなく夏に近い秋の日差しが、二人の上に降り注ぐ。雨上がりの風に髪をなびかせ、甲洋がどこか懐かしそうに瞳を細めて微笑んだ。
ここに来てよかった。そして、彼と出会えてよかった。家に帰ったら翔子に会えたことを、大好きな母に報告しよう。それから、真矢とちゃんと話をしないと。
これからのことを思いながら、操はぐんと伸びをして甲洋に口づけた。
*
その夜、操は美羽たちに里に帰らない意思を伝えた。
場所は甲洋の店で、あらかじめ総士にも事の成り行きを話した上で、立ち会ってもらうことにした。彼の理解を得られたのはとても心強かった。総士が人里にとどまる理由も、操と似たり寄ったりだったからだろう。
話し合いは思いのほかすんなり終わった。
勘がいい真矢は、薄々こうなることを予見していたのかもしれない。「皆城くんがいるなら」と、渋々ではあるが最大の譲歩をしてくれた。当の総士は勝手に操のお目付け役に任命されて、「どうして僕が」とこめかみを押さえていた。
帰り際、「もう会えないの?」と涙ぐむ美羽に、操も少し泣きそうになった。
少なくとも元の姿に戻れるようになるまでは、里帰りすらままならない。だけどいつか必ずまた会おうと約束すると、美羽は笑顔で操の頬にキスをしてくれた。
そして二匹は里に帰っていった。
──それから数日後のこと。
「あれ? お母さん、なにしてるの?」
庭でクーと日向ぼっこをして戻ってくると、自室で容子が翔子のタンスを開け、取りだした中身を床に積み重ねているところだった。
「翔子の服を整理してるのよ。着ないものはよそに寄付しようかと思って」
「寄付? あげちゃうってこと?」
「そうよ。ずっと入れっぱなしじゃ、お洋服だって可哀想でしょう?」
「でもそれ、ぜんぶ翔子お姉ちゃんの形見でしょ?」
操は腰を下ろしている容子の隣に自分も座り、並んでいる衣服を見やる。すると容子はいちど目を閉じ、「いいのよ」と言って晴れやかな笑顔を浮かべた。
「そろそろ前を向いて歩かないとね」
「お母さん……」
「あなたも、着たいものがあったら選んで分けておいてちょうだい」
「……うん。わかった!」
先日、操は翔子と会ったことを容子に話した。笑ってたよと伝えたら、彼女は嬉しそうに涙を滲ませていた。忘れずにいることと、縛られ続けることはまるで違っていて、容子のなかでそれが一つの区切りになったのかもしれない。
その笑顔は出会った頃よりもずっと明るくて、とても綺麗だと操は思った。
「ところで、今夜も甲洋くんのところへ行くの?」
床に積まれた服の中から、しっぽが隠せそうなものを物色しながら「うん」とうなずく。ここ数日は毎晩のように甲洋のところへ遊びに行っているのだが、こっそり家を抜け出そうとしていたところを、容子に見つかってしまった。だからそれ以来、出かけるときはあらかじめ言っておくようになった。
「あまり遅くなってはダメよ」
容子が心配そうに眉根を寄せている。
「大丈夫だよ。いつも日付が変わる前には──あ、」
そこでふと気がついた。日付が変わるまでには帰るように心がけているが、今夜は物の怪喫茶の営業日だ。操は今日からバイトとして手伝うことになっている。丑三つ時を過ぎるまで営業するため、余裕で0時は超えてしまう。
どうしようかなと思ったが、すぐにまぁいいやと思い直した。
「これから遅くなる日は、甲洋んとこに泊めてもらうよ!」
「勝手に決めたらご迷惑になるわよ」
「へーきへーき! たぶんダメって言わないし!」
「この子ったら……」
翔子の衣類を膝の上でたたみ直しながら、容子が「あとで甲洋くんに電話しておかないと」と独り言を漏らしている。もしかしてこういうのを過保護というのかもしれないと、操はつい思ってしまった。
*
「コーヒーとジュース、それからケーキお待ちどうさま!」
夜、操は初めてのバイトに勤しんでいた。
物の怪喫茶ではしっぽも耳も隠さなくていい。いつも通りの服装に、支給された黒いエプロンをするだけだ。接客はいつも甲洋がしているのを観察していたこともあり、特に苦労するということはなかった。
二人がけの席には女性の幽霊が向かい合って座っていた。会話をしているわけではなさそうだが、どことなく楽しそうに身体を揺らしている。
片方は顔が隠れるほど長い黒髪をしており、白いワンピースを着ていた。もう片方は血に染まったワンピースを着ていて、その足元に小学生くらいの男の子が、パンツ一丁で体育座りしている。三人ともこの店の常連だ。
なにかの映画でVSしてそうだなぁ、なんて思いつつカウンター席の方に戻ると、別の席に品物を運び終えた甲洋が戻ってきて、「お疲れ」と言ってくれた。
「甲洋もお疲れ様!」
操はニッコリ笑うと、背伸びをしてそのほっぺたにキスをした。すると甲洋に「こら」と言われて、顔を手で押さえられてしまう。
「なんでぇ?」
「営業中はダメだ」
「ちぇー」
美羽にしてもらったのが嬉しかったから、同じことをしただけなのに。ぶぅと唇を尖らせたが、気を取り直して「じゃあ終わったらいいの?」と聞いてみた。
「……いいよ」
甲洋は短く答えると目を泳がせた。厨房に立つウサ耳男はこちらに背を向け、今夜も訪れるであろう化け狐のために、お稲荷さんを作っている。席をいっぱいに埋めている物の怪たちは、ドリンクとフードに夢中でこちらをいっさい気にしていない。足元にいる犬神は明後日の方を見て、くぁ、と大きな欠伸をしている。
それらを確認した甲洋に、肩をグイッと抱き寄せられた。あっ、と目を丸くする操のタヌキ耳に、甘ったるいささやき声が吹き込まれる。
「そのときは、俺からするから」
彼はそれだけ言うと、すぐに身体を離して厨房へ手伝いに行ってしまった。髪の隙間からのぞく耳たぶが、ほんのり赤くなっているのが見える。
吐息の感触が残る耳を手で押さえ、操はポカンとしながら顔を赤らめた。心臓がものすごい速さでドキドキしている。最近ではすっかり慣れたと思っていたお香の匂いで、頭が少しクラクラしてきた。
「……うん、待ってるね」
操はしっぽをゆらゆらと左右に揺らし、へにゃんと笑ってうなずいた。
物ノ怪喫茶子狸譚 / 了
←戻る ・ Wavebox👏