2025/07/11 Fri 「う、嘘でしょー!?」 朝の光が差し込む化学準備室に、ファイの悲鳴じみた声が響き渡った。 「嘘じゃねぇ」 無愛想を心なしかさらにムッツリとさせた黒鋼が、ファイの机の椅子にどっかりと腰を下ろし、腕を組みながらそれに返す。 「やだやだやだー! そんなの絶対やだー!! クリスマスだよ!? 二人でしっぽりロマン溢れた一夜を過ごす絶好のイベントなんだよ!?」 青褪めながらダダをこねるファイが、そんな黒鋼の両肩を掴んでガクガクと揺さぶった。が、それくらいで彼がガックンガックンするはずもなく、いとも容易く両手を払われてしまう。 「決まっちまったもんはしょうがねぇだろ。てかロマンてなんだロマンて」 「そんな……そんな……」 「どうでもいいが、いい加減そこどけ」 「そんなぁ……」 現在、絶望に打ちひしがれるファイが腰かけているのは、黒鋼の膝の上だった。 まるでしがみつくようにみっちりと彼と向き合っていたファイは、ほんの数分前までは上機嫌で黒いツンツン頭をワシャワシャしたり、引き締まっているようでいて実は案外よく伸びる頬をむにゅんと引っ張ったりして、無邪気にはしゃいでいた。 なんといっても黒鋼がこの化学準備室へわざわざ訪れること(怒って怒鳴り込んでくることはあっても)は珍しかった。それだけでも嬉しいのに、さらに撫でたり抓ったり突いたりしてもただ黙って受け入れる黒鋼に、ファイの機嫌は鰻上りだった。躁状態と言ってもいいほどに。 それが今や月とすっぽん……いや、太陽とミジンコくらいの勢いで落ち込まされていた。 いよいよ目前へと迫った今年のクリスマス、なんと黒鋼は急な出張が入ったというのだ。 「じゃあオレも行く……」 「馬鹿言うな」 上目使いで訴えてみるも、黒鋼は取り付く島もないほどにピシャリとそれを却下する。 「黒たぁん……」 どけ、と言われて素直にどくほど聞き分けのよくないファイが、唇を尖らせながら再び黒鋼の肩にしがみついた。 だが彼は眉間の皺を濃くしながら、面倒臭そうにため息を零すだけだった。 「あのなぁ……ガキじゃねぇんだからごねるんじゃねぇよ。幾つだてめぇは。だいたい俺だって」 「どうせオレは身体は大人で中身は子供だよー!! 黒たん先生にはどうでもいいイベントかもしれないけど、オレにとってはすっごい特別だったんだからぁ!! それをめんどくさそーにあしらうとか、そんなの酷いよぉー!!」 黒鋼の言葉を遮るように大声で不満をぶちまけながら、両肩を拳でガンガン叩いた。 「いてっ! こら! いてぇって言ってんだよこのアホ落ち着け!!」 「ハッ!? まさか、実は他に女が出来たんじゃないでしょうね!?」 「あぁ!?」 「誰よ!? 一体どこの泥棒猫なのよ!? 地方妻なんか作っちゃってこの浮気モノ!!」 なぜかオネェ言葉になりながらバタバタと暴れるファイだったが、次の瞬間チャイムの音が鳴り響いた。怒鳴り出す一歩手前だった黒鋼が顔を上げる。 「あ、やべぇ」 そして、膝でファイが暴れているのもお構いなしにすっくと立ち上がった。 「ぴぎゃあ!?」 ベターンと音を立てて床に放り出されたファイは、冷え切った床にその臀部を思いっきり打ち付けるはめになった。 「いったぁーいぃぃ!! お尻割れたぁーっ!!」 「てめぇ授業入ってんだろうが。遊んでねぇでとっとと行け!」 「うっうっ……」 床にペタンと女の子座りをしながらシクシクと泣き出したファイに、黒鋼は頭をガリガリと掻きながらしゃがみ込むと、ジャージのポケットの中から取り出したものをファイの膝にポンと置いた。 そういえば先刻から彼のポケット部分が不自然に盛り上がり、ガサガサしていたことはファイも気がついていた。 「……なにこれ」 「これやるから機嫌直せ」 それは校内の売店に売っている飴の袋だった。イチゴやバナナやメロンなど、何種類かの味が入った赤とピンクの大きな袋には、これまた可愛い白いウサギのキャラクターが描かれていた。 黒鋼なりの精一杯のご機嫌取りなのだとは思う。これも踏まえて、どうりで好き勝手いたずらしても黙って耐えていたわけだ。 いつものファイならこれで全てを水に流すことが出来ただろう。けれど、今はどうしてもこれだけでは納まらなかった。 子供っぽいキャラクターの書かれた飴の袋が、むしろ腹立たしくて仕方が無い。 「バカにして!! もう黒たん先生なんか大嫌いだよっ!!」 さっさと扉の向こうへ消えてしまった黒鋼に向けて、ファイは癇癪を起こした子供のように飴の袋を投げつけていた。 * 「黒たん先生のバカ……糖尿になって死んでやる……」 ファイの口の中では、五つ目の飴が転がされていた。 イチゴ、バナナ、メロンの他にモモとオレンジの飴が入っていて、ファイはそれをしらみつぶしに口の中に放り込んでいた。現在、口の中はオレンジで満たされている。 結局、今日はあれ以来黒鋼とは口を利いていない。いつもは必ず昼食は一緒だし、ヒマさえあれば顔を合わせているはずが、今日はそれをしなかった。 今は夕飯時だが、ファイは自室に閉じこもっている。 普段であればユゥイが作った夕飯を三人で食べている頃だったが、弟は少し早めの休暇を取り、実家へ戻っている。 いっそのこと自分も休みに入ったら一度国へ帰ろうか。 出来もしないことをふと考えて、ファイは重苦しい息を吐き出した。 冬休みだろうが夏休みだろうが、教師に遊ぶための時間などほとんどない。やることはそれなりに山積みなのだ。 「分かってるよ……そんなこと……」 ファイは口の中で溶けて小さくなっていた飴を、奥歯で噛み砕いた。そして、テーブルの中央に置かれた飴の群を眺める。 扉にぶち当たった飴の袋は、無残に破れて中身が散乱してしまった。 可愛い白いウサギは半分にざっくり破けてしまったけれど、あれほど怒っていたはずのファイは、それでも袋を捨てることが出来なかった。飴も、申し分なく甘くて美味しい。 学生だった頃のように、ある程度時間を好きに使うことが出来ない立場であることは、分かっている。 だから自分がどんなに理不尽で我侭であるかを、ファイはちゃんと知っていた。 「でも……悲しかったんだもん……」 口の中にはまだオレンジの味が残っていた。けれど粉々に砕けた飴は、もう消えてしまった。 * イヴは毎年のように理事長室でどんちゃん騒ぎだった。今年はユゥイのケーキも彼自身も不在で、そして午前中には旅立ってしまった黒鋼も当然いなかったが、それでも盛大な盛り上がりを見せた。 あれから数日の間もファイが黒鋼とまともに口を利くことは無く、出張へと赴く彼を見送ることもしなかった。 出掛けに彼は一つ扉を叩いて「飲みすぎるなよ」と声をかけてくれた。 素直にドアを開けて謝ってしまえばそこで済んだ話なのに、意地を張り続けたせいで顔を合わせにくくなっていた。バカだなぁと、心底自分が嫌になる。 別に本気で浮気を疑っているわけではない。惚れた贔屓目を抜きにしても、黒鋼に限ってそんな真似をするはずがないことくらい、十分理解しているつもりだった。 それ以前に、職員室にあるボードにはちゃんと行き先が書かれていた。 出張なんて彼も自分も含めてこれまでだってあったことで、今回はそれがたまたま運悪くクリスマスというイベントに重なっただけだ。 けれど、ファイにとっては重要なことだった。特に今年は。 「キャンセル料……地味に痛い……」 携帯を閉じながらガックリと項垂れ、ファイが顔を埋めたのは自室のベッドではなく、なぜか黒鋼の部屋のベッドの枕だった。 酒に強いとはいっても相当量を摂取し、さすがに足もとのふらつく中でどうしても無人の自室へ戻る気になれなかったファイは、黒鋼の部屋のドアを合鍵を使って開けた。 せめて彼の生活空間の中で彼を感じながら過ごしたいなんて、オレってなんて健気なんだろう、などと思ったのも束の間、黒鋼の匂いを吸い込むほどに、もやもやとした苛立ちやら後悔が波のように押し寄せてくる。 「こんなことなら……」 呟きは黒鋼の愛用のふかふか枕の中へと吸い込まれてゆく。 ――こんなことなら、サプライズなんて考えなきゃよかった。 黒鋼はイベント事にはどうにも疎い。クリスマスだろうがなんだろうが、酒を飲むための無礼講行事くらいにしか思っていないのだ。 ファイだってアルコールの類いは大好きだった。ハメを外すのも同じくらい好きだし、大勢でわいわいやるのだってとても楽しい。 けれど、たまには食い気やアルコールよりも色気を優先させたっていいと思う。 だがそんなことを黒鋼に訴えたところで、そっけなく気のない返事しかもらえないことは分かっていた。 そこで、ファイは今年のクリスマスにちょっとした計画を立てたのだった。 夜景の見える高級レストランを、思い切って。 実のところもう随分と以前からこのレストランは目をつけていた。黒鋼に連れて行ってほしいと強請ったこともあるが、当たり前のように面倒臭そうな返答しか得られなかったのだ。 だったら自分が強引にでも引っ張って行こうと決めたファイは、半年以上も前から予約して、様々な演出プランを練っていた。 酒さえ飲めればなんでもいいような男であったとしても、いっそあからさまなムードの中でくらいは、甘い台詞の一つでも囁いてくれるかもしれない……そのあと二人はしっぽりホテルで……なんてやましいことを考えては、ワクワクドキドキうふふあははと顔をにやつかせていた。 それが完璧に実行不可能になったファイは、黒鋼とケンカ(一方的にだが)したばかりか、それなりに痛々しい額のキャンセル料を支払う羽目になってしまった。 なので、本来なら黒鋼の知らぬところで勝手に計画を立てていたに過ぎないファイは、実に自分勝手で理不尽な怒りを彼にぶつけてしまったことになる。 「黒たん……ちゃんとご飯食べたかな……お腹壊したりしてないかな……」 電話でもしてみようかと身を起こして、携帯を開いた。けれどふと目に留まった画面の時刻が、もう随分と遅い時間であるのを見て、溜息を零す。 イヴはもう終わっていた。今日は、クリスマス。 連絡をするのは朝が来てから、メールくらいなら忙しくても合間を縫って返事をくれるかもしれない。一言でも謝罪しなければ気がすまなかった。 「うん。寝てたら悪いもんね。我慢しとこ……」 そう呟いて再び携帯を閉じようとした、そのときだった。携帯が着信を告げるメロディを奏ではじめる。ドキリとして画面を見れば、そこに表示されていたのは今ファイが一番話したいと思っていた人間の名前だった。 慌てて受話ボタンを押して、耳に当てる。 「もももっ、もひもひ!?」 『何だもひもひってのは。酔っ払ってんのか』 「ちが、酔ってないし!」 『だろうな。起きてたか?」 「うん、うん、うん!」 相手は受話器の向こうだというのに、ファイは幾度も首を振って頷いた。今朝、扉ごしに声は聞いているはずなのに、随分と久しぶりに彼の声を聞くような気がしてドキドキする。 そして、今の今まで謝罪したいと考えていたはずが、いざとなると胸がいっぱいになって言葉が出てこない。 「あ、あの、あのさ、黒たん先生、お、オレ、オレさ……」 『あ? ついにまともに人語も喋れなくなったのかよてめぇは』 「ちょ、違うよー! ちゃんと喋れるってば! せっかく人が素直にさー……」 受話器の向こうで、黒鋼が少しだけ笑った気配がした。 多分、彼はファイが自分の我侭を悔いていることも、顔を合わせにくかったことも、全てお見通しなのだと思う。 そう思うと、もう言葉はいらない気がした。胸の奥がすっと柔らかく解けていくような気がして、肩からも力が抜けてゆく。 彼はムードもへったくれもないし、意地悪なことばかり言うし、すぐに怒るけれど、甘くて美味しい飴をくれたりもする。この鬼のように目つきの悪いデカイ男が、一体どんな顔をしてあんな可愛らしいパッケージの飴なんぞを購入したのだろう。 分かっている。どれだけ大切に思われているか。愛されているか。痛いほど。 「黒たん……飴、ありがと」 そう思えばこそ、ファイは謝罪するよりも先に礼を述べていた。破けてしまったパッケージの白いウサギは、セロハンテープで補強して大事に仕舞ってある。 『美味かったか?』 「うん……もう一個しか残ってないよ」 『糖尿になるな』 「なったら黒たんのせいじゃんかー」 『それもそうだな』 彼がまた笑った気がした。顔が見たい。あからさまに笑顔を見せることのない黒鋼は、顔を合わせた途端にはすぐにむっつりと顔を顰めてしまうかもしれない。それでもよかった。あの眉間に寄った皺や、鋭いくせに優しい瞳を見たかった。 (なんだ……そういうことか……) ふとファイは、クリスマスなんて別に特別なことでもなんでもないのかもしれないと思った。いつも一緒だから時々忘れてしまうけれど、こうして少しでも離れてみれば痛いほど分かる。 一緒だから、毎日が特別なのだと。 『もう寝ろ。どうせ俺の部屋にいるんだろ』 「うん。すぐバレちゃうんだねぇ」 『当たり前だ』 「そういえば、どうして電話くれたの? 何か用事あった?」 『ああ……』 黒鋼は、短い返事のあとに少し間を置いた。何か言い難いことでもあるのかと小首を傾げていると、小さな咳払いが聞こえた。 「なに?」 『明日……もう今日だな。日付が変わる前にはギリギリ帰る』 「え? でも、戻るのは26日の予定だったんじゃ……?」 確かボードにはそう書いてあった。そしてふと、黒鋼が日付が変わることを気にかけていることにピンときた。 「黒たん……」 『うるせぇな。それ以上文句は言わせねぇぞ』 「うん……うん……。ケーキ用意して待ってる」 『そんなもんいるか。酒だ酒。いいの隠してんだろ、どうせ』 「ほーんと、どうしてすぐにバレちゃうのかなぁ~」 半ば呆れたように口にすると、黒鋼は再び『当たり前だ』と言った。 ファイは結局、いつもと同じだなぁと思った。 最初から美しい夜景も、頬を蕩かすような絶品の料理もいらなかった。だってクリスマスは特別なんかじゃないから。二人でいればそれでいい。 ポケットの中に最後に残っている飴はイチゴ味だった。 ケーキの上に乗っている本物のそれよりも、こっちの方がずっと甘いことをファイは知っている。 最後の苺は、明日の夜までとっておこう。 彼が戻る少し前に口に放り込んで、舌の上でそれを転がしながらゆっくりと溶かしているうちに。 「待ってる。とっておきのお酒と一緒にね」 きっと黒鋼は帰ってきてくれるだろう。 ←戻る ・ Wavebox👏
朝の光が差し込む化学準備室に、ファイの悲鳴じみた声が響き渡った。
「嘘じゃねぇ」
無愛想を心なしかさらにムッツリとさせた黒鋼が、ファイの机の椅子にどっかりと腰を下ろし、腕を組みながらそれに返す。
「やだやだやだー! そんなの絶対やだー!! クリスマスだよ!? 二人でしっぽりロマン溢れた一夜を過ごす絶好のイベントなんだよ!?」
青褪めながらダダをこねるファイが、そんな黒鋼の両肩を掴んでガクガクと揺さぶった。が、それくらいで彼がガックンガックンするはずもなく、いとも容易く両手を払われてしまう。
「決まっちまったもんはしょうがねぇだろ。てかロマンてなんだロマンて」
「そんな……そんな……」
「どうでもいいが、いい加減そこどけ」
「そんなぁ……」
現在、絶望に打ちひしがれるファイが腰かけているのは、黒鋼の膝の上だった。
まるでしがみつくようにみっちりと彼と向き合っていたファイは、ほんの数分前までは上機嫌で黒いツンツン頭をワシャワシャしたり、引き締まっているようでいて実は案外よく伸びる頬をむにゅんと引っ張ったりして、無邪気にはしゃいでいた。
なんといっても黒鋼がこの化学準備室へわざわざ訪れること(怒って怒鳴り込んでくることはあっても)は珍しかった。それだけでも嬉しいのに、さらに撫でたり抓ったり突いたりしてもただ黙って受け入れる黒鋼に、ファイの機嫌は鰻上りだった。躁状態と言ってもいいほどに。
それが今や月とすっぽん……いや、太陽とミジンコくらいの勢いで落ち込まされていた。
いよいよ目前へと迫った今年のクリスマス、なんと黒鋼は急な出張が入ったというのだ。
「じゃあオレも行く……」
「馬鹿言うな」
上目使いで訴えてみるも、黒鋼は取り付く島もないほどにピシャリとそれを却下する。
「黒たぁん……」
どけ、と言われて素直にどくほど聞き分けのよくないファイが、唇を尖らせながら再び黒鋼の肩にしがみついた。
だが彼は眉間の皺を濃くしながら、面倒臭そうにため息を零すだけだった。
「あのなぁ……ガキじゃねぇんだからごねるんじゃねぇよ。幾つだてめぇは。だいたい俺だって」
「どうせオレは身体は大人で中身は子供だよー!! 黒たん先生にはどうでもいいイベントかもしれないけど、オレにとってはすっごい特別だったんだからぁ!! それをめんどくさそーにあしらうとか、そんなの酷いよぉー!!」
黒鋼の言葉を遮るように大声で不満をぶちまけながら、両肩を拳でガンガン叩いた。
「いてっ! こら! いてぇって言ってんだよこのアホ落ち着け!!」
「ハッ!? まさか、実は他に女が出来たんじゃないでしょうね!?」
「あぁ!?」
「誰よ!? 一体どこの泥棒猫なのよ!? 地方妻なんか作っちゃってこの浮気モノ!!」
なぜかオネェ言葉になりながらバタバタと暴れるファイだったが、次の瞬間チャイムの音が鳴り響いた。怒鳴り出す一歩手前だった黒鋼が顔を上げる。
「あ、やべぇ」
そして、膝でファイが暴れているのもお構いなしにすっくと立ち上がった。
「ぴぎゃあ!?」
ベターンと音を立てて床に放り出されたファイは、冷え切った床にその臀部を思いっきり打ち付けるはめになった。
「いったぁーいぃぃ!! お尻割れたぁーっ!!」
「てめぇ授業入ってんだろうが。遊んでねぇでとっとと行け!」
「うっうっ……」
床にペタンと女の子座りをしながらシクシクと泣き出したファイに、黒鋼は頭をガリガリと掻きながらしゃがみ込むと、ジャージのポケットの中から取り出したものをファイの膝にポンと置いた。
そういえば先刻から彼のポケット部分が不自然に盛り上がり、ガサガサしていたことはファイも気がついていた。
「……なにこれ」
「これやるから機嫌直せ」
それは校内の売店に売っている飴の袋だった。イチゴやバナナやメロンなど、何種類かの味が入った赤とピンクの大きな袋には、これまた可愛い白いウサギのキャラクターが描かれていた。
黒鋼なりの精一杯のご機嫌取りなのだとは思う。これも踏まえて、どうりで好き勝手いたずらしても黙って耐えていたわけだ。
いつものファイならこれで全てを水に流すことが出来ただろう。けれど、今はどうしてもこれだけでは納まらなかった。
子供っぽいキャラクターの書かれた飴の袋が、むしろ腹立たしくて仕方が無い。
「バカにして!! もう黒たん先生なんか大嫌いだよっ!!」
さっさと扉の向こうへ消えてしまった黒鋼に向けて、ファイは癇癪を起こした子供のように飴の袋を投げつけていた。
*
「黒たん先生のバカ……糖尿になって死んでやる……」
ファイの口の中では、五つ目の飴が転がされていた。
イチゴ、バナナ、メロンの他にモモとオレンジの飴が入っていて、ファイはそれをしらみつぶしに口の中に放り込んでいた。現在、口の中はオレンジで満たされている。
結局、今日はあれ以来黒鋼とは口を利いていない。いつもは必ず昼食は一緒だし、ヒマさえあれば顔を合わせているはずが、今日はそれをしなかった。
今は夕飯時だが、ファイは自室に閉じこもっている。
普段であればユゥイが作った夕飯を三人で食べている頃だったが、弟は少し早めの休暇を取り、実家へ戻っている。
いっそのこと自分も休みに入ったら一度国へ帰ろうか。
出来もしないことをふと考えて、ファイは重苦しい息を吐き出した。
冬休みだろうが夏休みだろうが、教師に遊ぶための時間などほとんどない。やることはそれなりに山積みなのだ。
「分かってるよ……そんなこと……」
ファイは口の中で溶けて小さくなっていた飴を、奥歯で噛み砕いた。そして、テーブルの中央に置かれた飴の群を眺める。
扉にぶち当たった飴の袋は、無残に破れて中身が散乱してしまった。
可愛い白いウサギは半分にざっくり破けてしまったけれど、あれほど怒っていたはずのファイは、それでも袋を捨てることが出来なかった。飴も、申し分なく甘くて美味しい。
学生だった頃のように、ある程度時間を好きに使うことが出来ない立場であることは、分かっている。
だから自分がどんなに理不尽で我侭であるかを、ファイはちゃんと知っていた。
「でも……悲しかったんだもん……」
口の中にはまだオレンジの味が残っていた。けれど粉々に砕けた飴は、もう消えてしまった。
*
イヴは毎年のように理事長室でどんちゃん騒ぎだった。今年はユゥイのケーキも彼自身も不在で、そして午前中には旅立ってしまった黒鋼も当然いなかったが、それでも盛大な盛り上がりを見せた。
あれから数日の間もファイが黒鋼とまともに口を利くことは無く、出張へと赴く彼を見送ることもしなかった。
出掛けに彼は一つ扉を叩いて「飲みすぎるなよ」と声をかけてくれた。
素直にドアを開けて謝ってしまえばそこで済んだ話なのに、意地を張り続けたせいで顔を合わせにくくなっていた。バカだなぁと、心底自分が嫌になる。
別に本気で浮気を疑っているわけではない。惚れた贔屓目を抜きにしても、黒鋼に限ってそんな真似をするはずがないことくらい、十分理解しているつもりだった。
それ以前に、職員室にあるボードにはちゃんと行き先が書かれていた。
出張なんて彼も自分も含めてこれまでだってあったことで、今回はそれがたまたま運悪くクリスマスというイベントに重なっただけだ。
けれど、ファイにとっては重要なことだった。特に今年は。
「キャンセル料……地味に痛い……」
携帯を閉じながらガックリと項垂れ、ファイが顔を埋めたのは自室のベッドではなく、なぜか黒鋼の部屋のベッドの枕だった。
酒に強いとはいっても相当量を摂取し、さすがに足もとのふらつく中でどうしても無人の自室へ戻る気になれなかったファイは、黒鋼の部屋のドアを合鍵を使って開けた。
せめて彼の生活空間の中で彼を感じながら過ごしたいなんて、オレってなんて健気なんだろう、などと思ったのも束の間、黒鋼の匂いを吸い込むほどに、もやもやとした苛立ちやら後悔が波のように押し寄せてくる。
「こんなことなら……」
呟きは黒鋼の愛用のふかふか枕の中へと吸い込まれてゆく。
――こんなことなら、サプライズなんて考えなきゃよかった。
黒鋼はイベント事にはどうにも疎い。クリスマスだろうがなんだろうが、酒を飲むための無礼講行事くらいにしか思っていないのだ。
ファイだってアルコールの類いは大好きだった。ハメを外すのも同じくらい好きだし、大勢でわいわいやるのだってとても楽しい。
けれど、たまには食い気やアルコールよりも色気を優先させたっていいと思う。
だがそんなことを黒鋼に訴えたところで、そっけなく気のない返事しかもらえないことは分かっていた。
そこで、ファイは今年のクリスマスにちょっとした計画を立てたのだった。
夜景の見える高級レストランを、思い切って。
実のところもう随分と以前からこのレストランは目をつけていた。黒鋼に連れて行ってほしいと強請ったこともあるが、当たり前のように面倒臭そうな返答しか得られなかったのだ。
だったら自分が強引にでも引っ張って行こうと決めたファイは、半年以上も前から予約して、様々な演出プランを練っていた。
酒さえ飲めればなんでもいいような男であったとしても、いっそあからさまなムードの中でくらいは、甘い台詞の一つでも囁いてくれるかもしれない……そのあと二人はしっぽりホテルで……なんてやましいことを考えては、ワクワクドキドキうふふあははと顔をにやつかせていた。
それが完璧に実行不可能になったファイは、黒鋼とケンカ(一方的にだが)したばかりか、それなりに痛々しい額のキャンセル料を支払う羽目になってしまった。
なので、本来なら黒鋼の知らぬところで勝手に計画を立てていたに過ぎないファイは、実に自分勝手で理不尽な怒りを彼にぶつけてしまったことになる。
「黒たん……ちゃんとご飯食べたかな……お腹壊したりしてないかな……」
電話でもしてみようかと身を起こして、携帯を開いた。けれどふと目に留まった画面の時刻が、もう随分と遅い時間であるのを見て、溜息を零す。
イヴはもう終わっていた。今日は、クリスマス。
連絡をするのは朝が来てから、メールくらいなら忙しくても合間を縫って返事をくれるかもしれない。一言でも謝罪しなければ気がすまなかった。
「うん。寝てたら悪いもんね。我慢しとこ……」
そう呟いて再び携帯を閉じようとした、そのときだった。携帯が着信を告げるメロディを奏ではじめる。ドキリとして画面を見れば、そこに表示されていたのは今ファイが一番話したいと思っていた人間の名前だった。
慌てて受話ボタンを押して、耳に当てる。
「もももっ、もひもひ!?」
『何だもひもひってのは。酔っ払ってんのか』
「ちが、酔ってないし!」
『だろうな。起きてたか?」
「うん、うん、うん!」
相手は受話器の向こうだというのに、ファイは幾度も首を振って頷いた。今朝、扉ごしに声は聞いているはずなのに、随分と久しぶりに彼の声を聞くような気がしてドキドキする。
そして、今の今まで謝罪したいと考えていたはずが、いざとなると胸がいっぱいになって言葉が出てこない。
「あ、あの、あのさ、黒たん先生、お、オレ、オレさ……」
『あ? ついにまともに人語も喋れなくなったのかよてめぇは』
「ちょ、違うよー! ちゃんと喋れるってば! せっかく人が素直にさー……」
受話器の向こうで、黒鋼が少しだけ笑った気配がした。
多分、彼はファイが自分の我侭を悔いていることも、顔を合わせにくかったことも、全てお見通しなのだと思う。
そう思うと、もう言葉はいらない気がした。胸の奥がすっと柔らかく解けていくような気がして、肩からも力が抜けてゆく。
彼はムードもへったくれもないし、意地悪なことばかり言うし、すぐに怒るけれど、甘くて美味しい飴をくれたりもする。この鬼のように目つきの悪いデカイ男が、一体どんな顔をしてあんな可愛らしいパッケージの飴なんぞを購入したのだろう。
分かっている。どれだけ大切に思われているか。愛されているか。痛いほど。
「黒たん……飴、ありがと」
そう思えばこそ、ファイは謝罪するよりも先に礼を述べていた。破けてしまったパッケージの白いウサギは、セロハンテープで補強して大事に仕舞ってある。
『美味かったか?』
「うん……もう一個しか残ってないよ」
『糖尿になるな』
「なったら黒たんのせいじゃんかー」
『それもそうだな』
彼がまた笑った気がした。顔が見たい。あからさまに笑顔を見せることのない黒鋼は、顔を合わせた途端にはすぐにむっつりと顔を顰めてしまうかもしれない。それでもよかった。あの眉間に寄った皺や、鋭いくせに優しい瞳を見たかった。
(なんだ……そういうことか……)
ふとファイは、クリスマスなんて別に特別なことでもなんでもないのかもしれないと思った。いつも一緒だから時々忘れてしまうけれど、こうして少しでも離れてみれば痛いほど分かる。
一緒だから、毎日が特別なのだと。
『もう寝ろ。どうせ俺の部屋にいるんだろ』
「うん。すぐバレちゃうんだねぇ」
『当たり前だ』
「そういえば、どうして電話くれたの? 何か用事あった?」
『ああ……』
黒鋼は、短い返事のあとに少し間を置いた。何か言い難いことでもあるのかと小首を傾げていると、小さな咳払いが聞こえた。
「なに?」
『明日……もう今日だな。日付が変わる前にはギリギリ帰る』
「え? でも、戻るのは26日の予定だったんじゃ……?」
確かボードにはそう書いてあった。そしてふと、黒鋼が日付が変わることを気にかけていることにピンときた。
「黒たん……」
『うるせぇな。それ以上文句は言わせねぇぞ』
「うん……うん……。ケーキ用意して待ってる」
『そんなもんいるか。酒だ酒。いいの隠してんだろ、どうせ』
「ほーんと、どうしてすぐにバレちゃうのかなぁ~」
半ば呆れたように口にすると、黒鋼は再び『当たり前だ』と言った。
ファイは結局、いつもと同じだなぁと思った。
最初から美しい夜景も、頬を蕩かすような絶品の料理もいらなかった。だってクリスマスは特別なんかじゃないから。二人でいればそれでいい。
ポケットの中に最後に残っている飴はイチゴ味だった。
ケーキの上に乗っている本物のそれよりも、こっちの方がずっと甘いことをファイは知っている。
最後の苺は、明日の夜までとっておこう。
彼が戻る少し前に口に放り込んで、舌の上でそれを転がしながらゆっくりと溶かしているうちに。
「待ってる。とっておきのお酒と一緒にね」
きっと黒鋼は帰ってきてくれるだろう。
←戻る ・ Wavebox👏